映画「グラディエーター」小説編双子がいた!

目次

双子がいた! -マキシマスの兄ー

物語とは、どうやって、生まれ、育って行くのだろう?それを作り出し、伝える者たちの陥る危険とは、苦しむ迷いとは、そして味わう喜びとは、何だろう?

赤ん坊の時、養子にもらわれた先の金持ちの両親に、おかいこぐるみで大事にされ、働くことも戦うことも苦手だし大嫌いで、おしゃべりで女好きで、ぐうたらで弱虫の「おれ」には、無口で勇ましくまじめな軍人の、うり二つの弟がいた。将軍にまでなったその弟が、奴隷に身を落とし、剣闘士としてコロセウムで死んだあと、ひょんなことから、彼の伝説を「おれ」は人々に語り始めるはめになる。さて、その結果…「語り」とは何なのか、ファンフィクションとは何なのか、私なりにあれこれ考えてみたお話でもあります。

第一編 おれと弟の関係について

その一 おれが今のうちにもらわれるまでのこと

口から先に生まれたって、皆がおれのこと言うんだよな、でもおれはそれ聞くたびに、じゃー、ふつー、何から先に生まれるんだよって思うんだよな。まさかナニからじゃないだろ?鼻かい?手かい?目からかい?そんなの、気味わりいじゃねーか、なあ。

おれって、スペインで生まれたんだよ。すっげえ、きれいなとこだったって。金もちの家で男ばっかりごろごろ子どもがいたってさ。最後に生まれたのがおれで、それもさ、何と双子だったんで親もさすがにもーいーって気になったんだな、ローマの田舎町に住んでた取引先の金もちで、子どもがいなくてアポロンやジュノーや、いろんな神さまに片っぱしから祈ってた夫婦に双子の片っぽをやることにしたんだって。

おれの母親が今でもそんときのことよく話すんだけど、どっちの子でもよかったんだって。だって、二人の赤ん坊は、髪の色も、目の色も、つめのかたちも、耳も鼻も、手足も肌も、けつの穴まで、もうまるっきりおんなじで、どうひっくりかえしても、区別なんかつかなかったって。だよなー、そりゃ、双子だもんなー。
でもな、もうかたっぽのやつ、おれの双子の片われはよ、おむつつけて肌着にくるまって、すっごくひとりできげんよく黙ってにこにこして、そのへんの布とか棒とかひねくり回して遊んでて、ウッウッとかアッアッとかうれしそうに言ってっけど、ことばとかしゃべらんかったって。もの言えないんじゃないかって、おれの(今の)おやじとおふくろとしちゃ、不安になっちまったらしいな、ちょっと。

ひきかえ、おれは、どんどん二人のそばにはってって、おふくろのひざに上がって、おやじのひげつかんで、じいじいとかばあばあとか、あちあちとかうまうまとか何だかやたらにしゃべったらしい。おやじはすっかり感心して、こんだけものおじしないで、ことばもはやばやしゃべれるんじゃ何の仕事させてもうまくいくって思ったらしく、こっちのをもらうって言ったらしいや。牛の子じゃあるめーしって思うけど、まあ、そんな気分だったんだろな。
それと、おふくろはおやじには言わなかったんだけど、おれのこと見て、これはこれでやばいんじゃねーのって実はちょっと思ってたらしいわ。つーか、もっと実は、おふくろは、もう一方のおれの片われの方がほしかったんじゃないかな。「あの子、どうしたかしらねえ」って、ときどきおやじに言ってたもの。
ってのが、おれの生まれた家は、それからまもなく、何か商売にしくじって、一気に没落してビンボーになっちまったらしいのな。その土地にもいられなくなって、どっかに移ってったらしくて、消息不明になっちまったんだよ。「あの子、まだ小さかったのに」って、それで心配すんだよ、おふくろは。「何かこう、損しそうな、苦労しそうな子に見えたわあ」って。
「まさか、おまえ」って、おやじは笑ってたけど、あとでおれに言ったっけよ。「かあさんの言うとおりかもしれん。女のカンはあたるからなあ」って。

その二 おれは元気に問題なく成長していったこと

おれはすくすく育ってった。自分で言うのも何だけど、そりゃもういい子に、いい若者に。そうでなきゃ罰があたるっていうぐらい、おやじもおふくろも、おれを大切にしてくれた。使用人たちも皆おれをかわいがった。
おれは、おしゃべりだった。今でもだけどな。そのころからもう、すでにそうで、使用人だのおふくろだのを相手に、その気になったら一日中でもしゃべってた。「まあ、もう、おまえの話は何ておもしろいんだろ」と、おかし涙をふきながら、おふくろはよく言った。「でもねえおまえ、そんなにぺらぺら、あることないことしゃべってちゃ、そのうち自分で、ほんとのことと、そうでないことの区別がつかなくなってしまいはしないかい?」
そして、おれが困って首をかしげて黙っていると、おやじが頭をなでて言った。「何、なに、かまうことはない。嘘のひとつもうまくつけなきゃ、商売人はやって行けんさ」
そうやって二人でおれを甘やかした。少し大きくなってからは、おれが怠け者でぐうたらしているのが三度のめしより好きで、女とでれでれ遊ぶのは三度のめしと同じくらい好きってことに、二人ともだんだん気づいてきたようだが、親ってのは恐ろしいもんで、二人とも別にちっともめげなかった。おやじはあるとき真剣な顔しておれに言った。「なあ、おまえ。わしも母さんも死んじまったら、おまえ、自分で何とか考えるんだぞ。残すだけのもんは残してやるが、財産なんてもんは何しろ、あっという間になくなっちまうもんだからなあ」
そしておれがうーんとうなって深刻になっているとおやじは、「ま、今は別にいい」と言った。「そんなこと考えんでも。わしも母さんも丈夫だし、おまえ一人を遊ばせとくぐらいの金には当分、困らんからな」

その三 客の話を聞いておふくろが考えたであろうさまざまのこと

おれが自分の双子の片われの噂を聞いたのは、はたちをすぎた頃のことだ。おやじの得意先の客の一人を家に招いて食事したとき、そいつがおれの顔をまじまじと見て言った。「息子さんは軍隊に行ったことがありなさるんかね?」
おやじが否定すると客は、「ふうん、そうかね、でも、似てなさるなあ」とつぶやいた。
「どなたか、ご存じよりの人に?」おふくろがたずねる。
「北方軍団の若手の士官で、えらいとんとん拍子に出世していってるやつがいるんだが」客は言った。「皇帝陛下のおん覚えもめでたく、部下からも抜群に人気があるらしい。一度、宴会のときにひきあわされたんだが、なかなかいい若者だった。にこにこして皆の話を聞いてるだけで、あんまりしゃべらんかったがね」
「それじゃ、絶対うちのやつじゃないな」おやじは大笑いして言った。
「でも光栄です。そんな立派な方と似てるなんて」おれはすかさずそう言った。「あやかりたいな。どんな人です?」
「スペインなまりがあったなあ」客は思い出したように言った。「それで恥ずかしくってあんまりしゃべらんかったのかもしらんなあ」
「スペインですって…あら」とおふくろは言って、おやじの顔を見た。おやじはうーんとうなって、ウナギの蒸し焼きにかけるソースの味見に熱中してるふりをした。
「こうして見ると」客はおれをながめて言った。「あの男は男らしくて顔だちがいいだけじゃなく、品があったんだな。同じ顔のあんたがそうやって立派な服着て、宝石つけて、こんなお屋敷で山海の珍味くってて、何の違和感もないんだもの。あの男もあんたが今してるような金ぴかづくめのかっこうしても、きっとしっくり似合ったこったろうよ」
「ということは、あれですね」おれは笑った。「おれが血まみれ泥まみれになって戦場で走り回ってても、それなりにさまになるんですね、きっと。蛮族たちをばったばったとやっつけて、部下にあがめられ、皇帝のおほめにあずかって」
「とんでもないわ」おふくろが眉をひそめて、おれの腕に手をかけた。「手柄なんかたてなくても出世なんかしなくてもいいの。弱虫でもバカでもそばにいてさえくれたなら母親はそれでいいの」
「女親ってやつはなあ」とおやじはため息をついた。
だけど、おやじも同じこと思ってるのが、おれにはようくわかってた。

客が帰ったあと、おれとおやじに向かっておふくろが、「きっとあの子だわ」と言った。「かわいそうに」
「うちにつれてきて、いっしょに育てるかい?」とおやじが冗談を言うと、おふくろはまじめな顔で「そんなことできるのかしら」と言った。
育てるって、もうおれと同じく、そいつだってそれなりに立派に育ちあがっちまってるわけだから、今さらつれて来られたって、そいつだって困るよなあと内心おれは思った。でもおふくろは何となく、話の勢いしだいでは、前線に行ってそいつさがして、ひっぱってきて、戦うのなんかやめさせて、おれと同じに、おかいこぐるみにして、二人並べてごちそうくわせて、にこにこ見守ってそうな気がした。できることならおふくろは本当に、きっとそうしたかったんだと思う。
おふくろはちっこい、色白の、見た目かわいい女だったが、おれが自分よりずっとでかくなっても、その事態にちっとも気づいてないで、おれがすっぽんぽんの丸裸になってても、平気でそばに来るし、眠ってると、ベッドのそばにきて、うれしそうにおれの顔をのぞきこんだりしてた。おれの考えでは、ああいうときおふくろはまちがいなく、こんな子がもう一人いたって、あたしはちっとも困らないわあと思ってたに決まってる。

おふくろは、決して欲深なとこはなかったけど、おやじが思いっきりぜいたくさせてたし、やっぱり商売やってて金もちだから、好きなものはいくつでもほしがった。「おまえのかあさんは変わっとる」とおやじがよくこっそり笑っておれに言ったが、指輪でも髪かざりでも、おふくろは、似たようなものをいくつもほしがるのはまだわかるとして、まったく同じものを見つけるとそれをまたほしがった。「せっかくなら、ちがうのを買え、ほら、こっちの腕輪がいいぞ」とおやじがすすめても、おふくろは「そうねえ」と言いながら、結局、今持ってるのと同じ色やかたちの腕輪をとりあげて、はめちまう。「その色のはもう持ってるじゃないか」とおやじが言っても、「ええ」とうなずいちゃ、思いきったように、「ねえ、こっちにしていい?」と、その同じのをえらんじまう。
「おまえの好きなのにしていいさ。だが、ちがうのも買ってやろうか?」とおやじが言っても「ううん、いりません」とおふくろは少女のように首をふり、めざした腕輪をはめた腕をかかげて見ては、うっとりしていた。

だから、そういうところはおふくろは、ものほしがりじゃない。出入りの商人は、残念さをおしかくして荷物をかたづけながら「こちらの奥さまはご自分にお似合いのものをよくご存じで」なんて言ってたが、おふくろは別にそういうんでもなかった。似合おうと似合うまいと好きなもんにゃ目がないって感じかな。
そうはいっても、どっかちゃんとした、つつましい人でもあったから、さすがに腕輪でも指輪でも同じものをいっぺんにつけたりはしない(あたりまえよな)。そもそも、あんまりじゃらじゃら飾りをつける人じゃなかったもんな。むしろ、ただ、へやで、おれといっしょにいるときなんか、うれしそうに、机の上に同じものを二つならべてうっとり見ちゃ、「いいものはいくつ持っていてもいいわねえ」なんて言ってた。「ちがうのがあった方が、いろんなときにつけられていいのに」とおれが言うと、「いいのよ、好きなものはいくつでも持ってるだけで楽しいんだから」と笑うんだ。
それといっしょにしちゃ悪いが、おれはきっとおふくろは、おれにキスしたり抱きしめたり、「髪がのびたんじゃないの?」と言って頭にさわったりしながら、こういうのがもう一人いても楽しいだろうなあとか、もう一人いたらもっといいのにとか、どっかにもう一人いるんならそれもほしいわあとか、けっこうまじめに考えてたんじゃないかと思うんだよな。

その四 おれの仕事はそこそこちゃんとはかどってたこと

で、いくらおれだって、それなりの年になったら、それなりに商売のまねごとぐらいはしなきゃならないから、最初はおやじのおともして、次はだんだん自分一人で、品物の買いつけとか取引とかに出かけてって旅をするようになってった。
今は、言ってみりゃおれは、身をもちくずしてるみたいなもんだから、人はおれのこと、仕事ができなかったって思うんだろうが、これがそうじゃないんだなあ。
おれは仕事がうまかった。交渉ごとだって、おやじが長いこと手こずってた取引をあっさりすんなりまとめちまって、おやじから「おまえ、どういう手を使ったんだ」って感心されたりさ、自分でもどうしてかわかんないけど、するするうまく行くんだよ。「やっぱ、口がうまいからじゃないの?」と自分で言って、おやじも「そうかな」と納得したり、時には「若くて、顔がいいと得だ」とぶつぶつ言ってたりして、おれは、おやじい、とか思ったりもしてたけど。
でも、結局おれは商売人にはなれなかった。何でか、今になって考えてみると、そこそこ、ちゃんちゃん、うまくいっちまうから苦労がなくて、退屈しちまうんだよ。ふりかえった時、ああ、あの頃に比べれば成長したなあって実感が持てない。
それは、おやじも同じでさ。できの悪い新米の働き手の息子の面倒みたり、尻たたいたり、はげますの、なぐさめるの、忠告するの、説教するのって楽しみが何もなかったのな。これはこれで、かわいそうっちゃあ、かわいそうなんだわ、やっぱし。

それと、これも今になってつくづく気づくんだけど、おれって、あきっぽいとこがないのな。苦労がなくて退屈したなんてゆーと、天才だから何でもすぐマスターしてあきちまうから移り気で、ひとつ仕事にじっくりうちこめなかったんだなって言うんだろ?ちがうって。そんなんじゃない。
第一おれは、下手なこともわんさとある。おやじはおれに、金にあかせて立派な家庭教師をいっぱいつけてくれたけど、おれは剣だの弓だの格闘だのってのは全然だめだった。身体動かすのはきらいなわけじゃないけど、疲れたり苦しかったり痛かったり、何かに耐えたりがまんしたりっていうのが、おれはまるでだめだ。笛やたて琴や歌や踊りって音楽関係もだめだった。聞くのは好きなんだよ。見るのもな。だけど、自分が退屈な思いして練習してまでやろうとは思わない。笛なんて最初、音も出ないじゃないか。やっとこさ出たら、アヒルのしめ殺されてそうな音でさ。おれはもう、あれでいやになるのよな。
だってそんなの、上手なやつがちゃんといんだろ。そいつにやらせて、聞いたり見たりしてる方がずっと楽しいし、そいつらも楽しそうだしよ。剣だの格闘だのだって、おれが自分でやらなくたって、ちゃんとそのために雇われてる使用人が何人もいて、おれのこと守ってくれてるんだのに、何でわざわざ、おれが、なあ?

物語読んだり詩を読んだりするのは、それに比べりゃ好きだったけど、それだって、文法とか勉強するよか、自分で話っつくってしゃべる方がずっと楽しかったしなあ。
要するに、あれだよ、おれは、でれっとしてるのが好きなんだ。日なたにねころがってアリの行列見てるだけでも一日ちっとも退屈しない。
友だちや使用人や、おやじやおふくろも、おれといると何だかつられて、でれでれしちまうみたいだった。「おまえといると一日がすぐたつなあ」とおやじが感心したように言ってたのを思い出す。「何をしてるってわけでもないのになあ」

それで、そういうのは怠け者以外の何でもないわけなんだけど、そうなのかもしれないとおれも思うんだけど、おやじとでも一人ででも、いや、家にいて帳簿とかつけてるときでもそうだったけど、働きだすと、それはそれで、おれは熱心なんだ。どんな仕事でも何かしら面白いとこは見つかるもんで、はまってしまって、やめられなくなる。「もう寝なさい」とおふくろにいくら言われても、「ちょっと待って、もう少しだけ」なんて言って、明け方まで品物の検査をしたりなんか、よくしてた。おふくろはそれで、おれの身体を心配し、おやじが「働きもんなのは、けっこうなことだ」と言うと、「あの子、働き者なんじゃないわよ」と言い返してた。「何かやり出すと、やめられないだけよ」って。
そうなんだなあ。朝いつまでもベッドの中でごろごろしてるのも、徹夜で商品を帳簿とひきあわせるのも、おれにとっちゃ同じだった。楽しくて、他のことをしたくなくなるだけなんだ。
女たちとのつきあいもそうで、どんな女とでも、いっしょにいると楽しかった。どんな女だって、どっかきれいだし、それぞれ面白いとこあるし、おれにはよくしてくれるから、いつまでいても、あきない。でも、しぶしぶ別れて別の女のとこに行くと、これもまた楽しくて、いつまでいてもすることはなくならないし、話もつきない。
「あんた、いやになる、ってことがないの?」と、そんな女の一人があるとき、つくづくあきれておれに言ったんだけどな。
だから、商売してても、「おやじ、ちょっと、この先の村まで行って、この前の話まとめてくるわ」と言って別れると、それきりいつまでも家に戻らなかったり、ってことになりがちなのな。取引はまとまるんだが、その村にいるのが楽しくなって、はなれられなくなって、気がつくと前払いでもらった金を皆使いはたして、何日もそこの酒場で皆としゃべったり、女と寝たり、子どもたちと遊んだりしてるってわけ。
店の金の使い込みしてるわけで、使用人なら即クビだが、おやじもおふくろも、おれが無事だってわかると安心して、別に文句も言わなかった。そして、だんだん、おれがそうやってほっつき歩いて、めったに家に帰らなくなっても心配しなくなってった。

その五 ひょんなことから妹までもできてしまったこと

ここだけの話、おやじはおれがそうやって身をもちくずすっていうか、できそこないになることを、ちょっと喜んでたふしがある。このまま、おれがバリバリ仕事して、おやじのあとをついで立派に店をもりたててっても、それはそれでうれしかったとは思うけど、できの悪い息子を持ってるばっかりに自分はまだまだ引退できないで、仕事をしてなきゃならんのだっていうのも、それはそれでうれしかったんじゃないんかなあ。ひょっとしたら、その方がうれしかったんじゃないかとさえ思う。だって、おれが好き勝手してるのに、ちっとも文句言わなかったもんな。おふくろにも、おれはちゃんと仕事をしてて忙しいから、家にはめったに帰らないんだと言ってたみたいで、おふくろもそれを信じてるのか、満足してたみたいだった。もっとも、おふくろは、おれが仕事なんか何もしてなくて、ただぶらぶらしてるって本当のことがわかったところで、ちっともおどろきはしなかったし、苦にもしなかったと思うけど。

そんなおれでも、さすがにびっくりこいたのは、ある時家に帰ったら、おふくろが赤ん坊を抱いてたことだ。ぱっちりした目の、くるくる巻毛の、おもちゃみたいにかわいい子だった。思わず抱きとって「どうしたんだい?」と聞くと、おふくろは黙っておやじを見、おやじはそわそわした。
使用人の中でも一番はきはきして、おふくろのお気に入りだった娘の姿が消えてるのに気づいて、ははあと思いながら「まさか…」と言うと、おふくろはため息をついて赤ん坊をおれの腕からとりながら「ねえ?」とだけ言った。
「男の子?」と聞くと、おやじが急いで「女の子だ」と言った。「おまえ、将来、結婚してもいいんだぞ」
おれは笑い出した。「妹だろ?」
「血はつながっとらんのだから」おやじは弁解がましい口調のわりには出たとこ勝負のことを言った。
おれは、にこにこしている赤ん坊のほっぺたをつっついて「こいつの好きなやつといっしょにさせて、店をつがせりゃいいんだよ」と言った。「おれは居候になって金をせびるからさ」
「ばかねえ」とおふくろが言った。それきりだった。
赤ん坊はおれが何か月おきかに帰るたび、どんどん大きくなってった。おれが言ったとおり、今では立派な男と結婚して、おやじのあとをついで店のきりもりし、子どもも一人いる。おれのことは兄さんと呼んでくれて、帰るたびに正式にだんながくれる金とは別に、こそっとおれに小づかいをくれる。

その六 双子の兄弟の噂を再び耳にすること

おれの双子の片われがどうなったかを教えてくれたのも、この妹だった。その時はもう、今にも娘っ子になりかけのおしゃまな女の子だったが、おれが久しぶりに帰って、おふくろの作ったごちそうをたらふく食って満足して飼い猫をからかってると、おれの手をひっぱって廊下のはしまでつれてって、「兄さんたらもう、のんきな顔して」と言い出した。「このごろ、人にじろじろ顔見られたりしない?何か変なこと聞かれない?」
「別に」おれは言った。「何でだよ?」
「なら、いいけども」妹は言った。「ローマの近くには行かないでね」
「あんな遠くまで何しにはるばる行くんだよ?」おれは聞き返した。「でも、何でだよ、どうかしたのか?」
妹はため息をついた。「そっくりの弟がいたんでしょ?」
「弟?双子だよ」
「でも母さんが言ってたわ。もらう時、こっちが兄ですって言われたって」
聞いたことなかったな。そんなの、どうやってわかったんだろう。まあ、そういうことはどうでもいい。
「会ったことはないんだよ。軍人で、優秀なやつで、どんどん出世してるってさ」
「そうなのよね」妹はまたため息をついた。「将軍にまでなったって」
「本当か。そりゃすごい。ほんとにすごいやつだったんだな」おれは感心した。「ワインの樽でも送っておくか、お祝いに」
「兄さんたら!」妹は切なげな目をした。「その人、死んだの。ローマのコロセウムで」

「コロセウム?」おれはすっかりとまどっちまった。「あんなとこで死ぬのなんて、剣闘士か罪人かキリスト教徒しかいないぞ」
「剣闘士になってたのよ」
「将軍になったやつがか?冗談だろ」
「奴隷市場で興行師に買われて、剣闘士にされてたんだって」
「だから、将軍がか?」
「そうなんじゃないの?」
おれは腕をくんで壁にもたれた。「何がいったいあったんだ?軍団の金庫の金でも使いこんで脱走兵になったとか?」
「そんな、兄さんじゃあるまいし」妹は言った。
「そうだよな」おれは賛成した。「だけど、無口なやつという話だったからな。そういうやつは思いつめやすい。思いつめると何するかわからん」
「覚えときます」妹は言った。「とにかく、どういう事情でか、その人、そうなってたんだって。それで、すっごくもう強くって、戦車でもトラでも相手に戦って、負けるってことがなかったらしいの」
「だろうな。将軍にまでなったやつだ」
「兄さんが胸をはることないのよ」妹は固めたこぶしでおれの胸をこづいた。小さなこぶしだから痛くも何ともない。「男らしくてたくましくて、しかもそんなに強いから、それは人気があったって。ローマ中の男も女も皆、その人に恋してたって」
「で?死んだのか?」
「うん」妹はちらと、食堂へ通じる扉の方を見た。「母さんはまだ知らないの。教えるなって父さんが言うんだもの。いずれ耳には入るだろうけど」
「よっぽど強いやつと戦ったんだろうな」
「皇帝陛下」妹は声をひそめた。
「皇帝?よせやい、もう白髪のじいさんだろうに」
「それは前の陛下よ。もう、何にも知らないのね!その方が前線をご視察中にご病気で亡くなって、若い息子があとをついだの。聞いてない?」
「おれは田舎の方ばっかり歩いてるもの。ローマの噂なんて、よっぽどのことがなきゃ伝わってなんか来ないよ」
「それにしたって皇帝陛下のお名前ぐらい!」妹はおれをにらんだ。「まあいいわ。その皇帝が…」
「若い方だな?」
「ええ。剣闘士競技が大好きで、その、兄さんの双子の弟と一対一の試合をしたらしいの。コロセウムで、皆の前で」
「それで勝ったのか?」
「皇帝も死んだの。その直後にその剣闘士も」
おれが今度はため息をついた。「やれやれ。何をなさっているんだかなあ。おえら方ときた日にはまったくもう」
「ほんとだわ」妹はしかつめらしく、あいづちをうった。
「それにしても強かったんだな、皇帝は。一応そいつを倒したんだろ?」
妹は首をふった。「ちがうの。よくあることだけど、その剣闘士は殺され役だったのよ。皇帝をめだたせるための。だから、コロセウムにつれ出される前、わき腹を剣で刺されて半死半生だったの。その上から傷が見えないようによろいを着せられて…だから、絶対勝つはずだったのよ、本当は、皇帝が」
おれは思わず声を上げた。「へーえ、何てこった。じゃあ、ものすごく強かったんだな、そいつ」
「うん。だからもう、死んだあとでそのことわかったから、ますます人気が上がっちゃって、今はもう、すごいんだって。軍神マルスみたいにあがめられてるって…ねえ、わかって聞いてんの?兄さんたら」妹はおれの顔を下からのぞきこんだ。「その人、兄さんにうり二つなんでしょう?」

おれは目をぱちぱちさせた。「だから何なんだ?」
「だから何なんだ?」妹はあきれたようにくりかえした。「ねえ、キリスト教徒の言い伝え知ってるよね?彼らが信じてる神さまの話」
「十字架にかけられて死んだ、ガリラヤの大工か?」
「大工のせがれよ。いいけども。信者たちの信じてるのでは、十字架にかけられて死んだあと、弟子たちが何日かしてお墓にお参りに行ったら、墓が開いてて、傷ひとつないその人がにっこり笑って立っていて、皆が涙流して喜ぶ中を、金色の光に包まれて天に昇って行ったんだって」
「何でわざわざよみがえったのに、天に昇っちまうんだろう。もったいないとは思わんか?」
「そんなこと言ってる時?人が心配してんのに!」妹は怒った。
「安心しろって」おれはうなった。「おれは光に包まれたり、天に昇ったりしやしない。おれを見て、そいつが…弟がよみがえったって喜ぶやつがいたとしたって、勘違いだとすぐに気づくさ」
「そう?そうだとしても」妹は眉をひそめた。「やっかいなことになるのは、なるべくさけた方がいいわ」

おれはその時、いつもより長く、一か月ほど家にいた。それからまた旅に出た。町の人の噂などからおふくろは、その間に、おれの弟の運命を知っちまった。おふくろは泣きそうで泣かない、意外としんの強い人なんだが、その時はよっぽどこたえたらしく、おれをさがしに来て、見つけると、つくづくおれを見つめていたが、やがておれを抱きしめて長いこと泣いた。
「おまえが死んだらどうしよう」とおふくろは言った。「そんなことになったら私はどうしよう」

妹の言ったとおり、おれはそれ以後、むろん、ローマには近づかないし、なるべくへんぴな地方を旅して回ってる。
ときどき、家に帰る前に金のたくわえがつきちまって、ひもじい思いをすることもあるが、何とかやってる。
おれは酒場や広場で、よく村人にいろんな話を聞かせてやる。恋人に捨てられて悲しんで魚になった娘の話や、盗賊をだまして財産をとり戻した老夫婦の話や、キツネをやっつけた子ウサギの話や。そんな話の中にこのごろおれは、将軍にまでなったのに、奴隷にされてコロセウムで剣闘士として戦い、皇帝のお相手に選ばれて殺されそうになって、逆に皇帝を倒して自由になってスペインの妻子のもとに帰った勇ましい男の話も加えることがある。村人たちは目を輝かせて聞いて、そのあとでおれに食べ物や酒や、わらの寝床の一夜の宿を恵んでくれるんだ。
気軽で、のんきな暮らしだ。いい匂いのするわらの上に寝ころがって、破れた屋根ごしに星を見ながら、おれはふと弟のことを思ったりする。もし、おれの今のおやじとおふくろが、弟をえらんでたら、どうなってたのかなあ?コロセウムで死ぬのはやっぱり弟だったんだろうか、それとも、このおれだったんだろうか?

第二編 物語を語る姿勢について

その一 だんだん人気者になったこと

そうやって村をめぐっている間にゃ、いろんなことがあった。何てたってひやひやしたのは、弟の噂がだんだん田舎の方にまで広まってきて、まーさー、そのころ、おひざもとのローマじゃきっと皆もう弟のことなんて忘れて、次の何だかわからんはやりものに熱あげてたんじゃないかとおれは思うんだけど、そーゆーころになって田舎の方じゃやっとこさ、ぼちぼちそれがはやり出すのな。それはわかってたんだけど、やばいのは、弟を見たとか知ってるとかいうやつらに、ばったり出くわしちまうことがだんだん増えてきたってこった。

おれもだいたい、旅して回るそのへん一帯じゃ、そこそこ人気者になってた。面白い話に村の連中は飢えてる。退屈な暮らしだもんな。
長い年月の間…っつったって、たとえば五、六年の間でもだよ、おれのお化けや神さまたちの話をキャーキャー騒いで喜んで聞いてたガキが若者や娘になる、おれの恋物語に涙ふきふき聞きとれてた娘っ子が母親になって、だんなといっしょに勇ましい話やこっけいな色っぽい話を聞きにくる、そうやって村中が酒場に集まっておれの話聞いたり、広場でおれをとりまいて聞いたりする。窓の外では雨がざあざあ降ってて、雷の音がおれの話すいくさの話のクライマックスにぴったりあてはまる時もある。月が雲からすべり出て、夜空の下でかたずをのんで聞く男や女の表情をくっきり映し出すこともある。おれの一言ひとことに皆がどよめく、大笑いもする。話が終わったそのあとでよ、かわいい娘がおれにしなだれかかってきたら、即もう、そのへんの馬小屋かどっかで寝ちまう。もちろん食い物や飲み物は、その娘が持ってきてくれるしな。

それで、そういう時に弟の話って、一番皆に喜ばれるんだよ。じいさんから若者たちからガキにまで。それでついつい、おれもその話することが多くなってった。
それと、おれが話さなくたって、弟の話は商人や兵隊たちや売春婦たち、みたいな旅して回るいろんな連中の口の端にのって、そりゃもういろいろ、どんどん広まって行ってたんだ。たまに家に帰ったときでも、おやじやおふくろや妹が、いつも弟にまつわる新しい話をしいれたと言っちゃ聞かせてくれた。弟は先代の老皇帝にものすごくかわいがられて、次の皇帝になるはずだったんだが、老皇帝のバカ息子が腹たてて、ひそかに老皇帝をしめ殺して、自分が皇帝になったとか、弟はそれで、そいつに殺されそうになって軍を脱走したんだが、必死で故郷に帰ってみたら家は焼かれて、妻と幼い息子とはむごたらしく殺されてたとか(「母さんに言うなよ」とおやじは念を押して聞かせてくれたが、誰から聞いたか、おふくろはとっくに知ってた)、剣闘士や奴隷たちが弟のもとに結集し、皇女や元老院とも協力してバカ息子の皇帝を倒して新しいローマを作ろうとしてたんだが、計画が事前にばれて、それで弟はとらえられ、最後の試合に引き出されることになったんだとか。あんまりとんでもない話ばっかで、とても本当とは思えなかったから、逆に案外ほんとかもしれんなんて、おれはちょっと思った。
でもま、そんなことはどうでもいい。おれは、そういう話を聞くたび、そいつをせっせと自分の話にとりいれて、行く先々で語ってきかせた。そのころになるともう、ちがう話をしようとしても皆が許してくれないんだ。「あの、剣闘士の話をしてくれ」とどこの村でも口をそろえて皆が言う。「もう新しい話がないんだ」と言うと、「前と同じ話でもいいから」って言やがんの。

おれもさー、これでもちょっとは、まじめなとこあんのなー。話聞かせて、めしやら酒やらもらうのに、前と同じ話じゃいくら何でもそりゃ手抜きだろーよって、最初はびびった。皆もつまんねえだろうし、おれだって気がとがめるし。
ところが、これが意外とそうじゃねえのな。すぐ気づいたけど、どこの村でも、聞いてる連中、前とおんなじ話をけっこう喜ぶのよ。どうかすっと、おんなじ話の方を喜びやがんの。
「そこで将軍が馬からころがり落ちたところへ、髪ふり乱したゲルマン人の大男が…」とか言ってると、最前列に座ったじいさんが、うんうん、そうだったとうれしそうにうなずいてる。「いきなりコロセウムの地面が二つに割れて、そこから飛び出してきたのは…」というくだりにさしかかっと、子どもも、いい年のおやじも、がまんできないで身体をゆすって、小さな声で「トラ!」「トラ!」と言ってやがんの。声を出すのははばかってても、口のかたちが皆そうなってんのがな、前から見ててわかるのよ。あそこでおれがひょっと、「クマ!」とでも言おうもんなら、皆によってたかってぶんなぐられたのかもなあ。
実際そういうことがあった。将軍が故郷に何とかたどりついたら、妻と子二人の焼けこげた死体が門柱にぶらさがってたって悲しい話をしてるとき、おれがうっかり「よろよろと坂道を上がって行くと、召使たちの死体がころがってて、ガチョウだけが何ごともなかったように倒れた素焼きの、花を植えてた瓶のそばで、エサをついばんで」と言ったら、ヴェールに顔埋めておいおい泣いてた女たちの何人かが「え?」というように泣きやめて、顔あげて、きっ!とおれをにらむんだ。何だよ?ととまどったおれに一人が小声で「ニワトリでしょ!?」と注意した。「そう、ニワトリがコッコッと低くのどかに鳴きながら歩き回って」とおれが急いで言い直すと、皆また安心したようにヴェールにつっぷして声をあげて泣き出した。「雪が横から吹きつけてたんだろ、その時?」とか、「え、敵の女戦士が輪切りになったのは、戦車の二台めがひっくり返る前じゃなかったですか」とか、おれよりよっぽどよく覚えてて、ちょっとでも抜かしたり、ちがうこと言ったりしたら不満がる。
あんまり細かくいちいち言ってくるばあさんがいたから一度「そこまで詳しく覚えておられるんなら、もう何もわざわざおれの話を聞かなくたって」と言ってみたら、ばあさん、しんからむかっとした顔して、「あんたでなきゃだめなのよ。だからこうして毎晩遠い山道を息子に馬車で送ってもらって聞きにくるんじゃないの。ほら、炒り豆ほしくないかい?」って、手にした袋をばさばさ鳴らしやがんの。馬かよ、おれは。とはいえ、ばあさんの持ってくる豆はそりゃうまかったから、おれはすぐ降参して、たっぷり話を聞かせてやったんだけどな。

その二 気づかないまま危ない橋を渡っていたこと

だから、それはまあ、いいんだけどよ。
あるとき、おれはある村で、例によって弟の話してた。そん時は弟が、かわいがられた老皇帝にテントの中で故郷の話をする場面やってた。皇帝のじいさんが弟をわが子のようにかわいがる様子が、おれのおやじに似てる気がして、ついしみじみと話しちまった。聞いてる方も感動してるのが、よくわかった。話が終わっても満足して皆ぼうっと座ったままで、ちょっと立ち上がるのが遅れてたのな。そん時、一人の男の子がおずおずおれに聞いてきた。
「ねえ、あんたはそのとき、どこにいたの?」
はあ?おれはとっさに聞かれてる意味がわかんなかった。ん?としゃがみこんでその子の方に顔をよせてやると、そいつはちょっと勇気が出たのか、前より大きい声で聞いた。
「そんなに詳しく話せるんだから、あんたどこかで見てたんだよね?」
「あはは」おれはやっとわかって、声をあげて笑った。「これはお話だからなあ」
他の皆も笑うもんと思ってたのに、誰も笑わなかった。まだ夢からさめてないような顔して、じいっとおれを見つめてる。男の子はおれの返事に何だか傷ついたような顔しておれを見てたが、やがて強く首をふって、「そんなはずないだろ」と言った。「誰も見てないのに、どうしてその二人がそんな風だったってわかるのさ?」
おー、こいつ、おれにけんかを売る気だな。「そういう風に伝わってる話なんだ」おれは言ってきかせた。「誰も見てなくてもいいんだ。そこに二人しかいなくても、そう伝わってるんだから、そうなんだ」
「でも、おかしいよ。そんなの変だ」がんこなガキはこだわった。「誰も見てなくて、二人とも死んだんなら、誰がそのこと、伝えたのさ?」
「だからな、これはお話で」
「あんた、そこにいたんじゃないの?」男の子は熱心に聞いた。「だからそんなに詳しく何でも知ってるんじゃないの?」
「いや、あのな、そういうことじゃなくて」
「あんた、その人なんじゃないの?」男の子は小さい声になって聞いた。「そうなんだよね、きっと。自分のこと話してんじゃないの。でなきゃそんな風に話せないよ」
「そっか。そうかもしれないよなあ」おれはめんどうくさくなって、そいつを抱き上げ、ねじりあめを一本口におしこんでやった。「お母さんがあっちで待ってっから、もう帰んな。いい子だな」
その時はそれですんだ。全然すんでなかったのかもしれないが、おれとしちゃ、すんだ気でいた。皆もそのまま、ざわざわ立って帰ってったし、なんか大したことになるなんて、思ってみてもなかった。

まあ、たしかに何かがあったってわけではない。
だけど、それから時々、おれが話しおわると何べんに一回かはきっと、ひかえめにもじもじしながら、「あのなあ、あんたひょっとして、そこにいたんじゃないのか?」みたいなことを聞くやつがいた。「いや、まあ、そういうわけでもないんですけれど」って、おれも適当に返事してた。
今こうやって、あらためて話してると、話しながらでも思うんだが、自分がつくづくバカだったって。そんなことぐらい前もって何でわかんなかったもんだろうかなあなんてことも。でも、おれは本当に自分がどういう水たまり(と見えて実は底なし沼)に足つっこみかけてるか、そん時は全然気づかなかったんだって。

つーのが、ひとつは、ほら、おれは、弟がおれに似てる似てる、うり二つだって人にさんざん言われても、自分で実物見たこたねーのな、弟の。そーこーするうち、すでに死んじまったんだから、今となっちゃーもー、見ようたって見らんなくなっちまってるわけなんだけどよー。とにかく、この目で見たことはない。それって、やっぱ、恐いもんだぜ。あることないこと想像するのっておれの得意中の得意わざだっちゅーのに、それがどういうことなんだか、しかと想像できなかった。まー、頭ん中で知らず知らずよけて歩いてたっちゃあ、それはそれまでなんだけどもなあ。
ともかくそうやって弟のこと話してると、おれが皆の前に出て行ったとたん、「あっ…」とかいう感じで息のんで、かたまっちまうやつがいるのな、ときどき。そして、おれが話し出すと、もう、幽霊でも見てっかのように、じーっとおれのこと見ていてよ、何かこう、様子がふつーじゃねえのよ。おれと目があうと、ほほえみやがんの。わかってますぜって言わんばかりに。こっちもほほえみかえすわ、そりゃ。お客さんなんだもんなあ。するとそいつは時々まだ、話が全然クライマックスでも何でもないとき、腕まげて目におしあてて、一人でおいおい泣いたりすんだ。おいおい、早すぎるだろうがと思ったってそう言ってやるわけにもいかず、やりにくかったぜ、まったくん所がよ。

その三 ある町でかなりまずい相手と会ってしまったこと

今思うと、そーゆーやつらは、軍だか、コロセウムか、まあ多分軍だと思うが、おれの弟といっしょにいたことあったんだろうな。でもおれは自分がそういう危ない橋わたってんだってことを充分自覚しないまま、旅から旅をつづけてた。
したらさ、ある日、国境近い田舎の町で、兵士の一団と宿がぶつかっちまった。と言ったって、おれはそれはちっとも苦になんなかった。それまでもそんなことは、ちょくちょくあったし、兵士たちっていうのはいいお得意さまで、弟の活躍する勇ましい話をいつも酒をかっくらいながら、わあわあ喜んで聞いてくれるんだ。それだけじゃない。「待て待て、大将。ゲルマニアのやつらは、そんなかぶとはかぶっとらん」とか、「何だと、川をとびこえた?よろいを着てちゃそりゃ無理だべよ。そこはやっぱり舟だべよ」とか、「投石器の発射ってなあ、こつがあんのよ。見てろ、まあざっと、こんな風にかまえてだな」とか、細かいつっこみをいろいろ入れたり教えたりしてくれっから、こっちはえらく助かんの。それをどんどんとり入れてくと、話がリアルになんのよなあ。時には、おれの話なんざ中途でそっちのけにしちまって、皆でわいわい、「だからよー、そいつはこう攻めたんだよ、きっと」「ちがうぜえ、そりゃ敵だって、そげんまでバカじゃあんめえ」「両翼からゆさぶりかけたんだったら、そりゃつじつまあうけんど」「こうして見ちゃどうだ、馬を使って一気に森をつっ切んのよ」「あやー、そんなこた、無理だべ」「しろうとにゃわかっか。その方が面白くなる」「優秀な指揮官なら、やれんこたねえべよ」とか勝手に話を作ってくれて、「ほれ、にーちゃん、今言ったので、も一回話してみな」って、おれに作り直した話をしゃべらせてみて、「おー、いーじゃねーか、いーじゃねーか」「ぐっとよくなったぜ。聞かせるなあ」なんて、てめーらであらためて感激してたもんなあ。

だからおれはまた、そういう、ためになる話も聞かせてもらえるもんと思って、そーとー実は楽しみにしながら、宿のあるじに、いつものように頼んで、「退屈しのぎに、いくさの話なんかどうですか?」とか、酒場にいた連中に声かけてもらった。したらば、荒くれ兵士たちが、おー、そりゃよかろうって感じで、酒のコップ持ってぞろぞろ集まってきたが、すみの椅子に腰かけてたおれが立ち上がって、そばの壁のろうそくの灯を明るくして、そいつらの方にふり向いたとたん、そいつらのほとんどが、ぎょっと凍りついちまったのよ。一人はほんとにコップを落として、がらんがらんとそいつが床をころがってった。
何?何?どーしたんだ?って感じで見回してるやつも何人かいたが、そうなるとさすがにおれも気づいたね。弟を知ってるやつがものすごく多い一団と、おれはぶつかっちまったんだって。

だけどまあ、もうこうなりゃ、白を切りとおすっかねえだろ。第一、白をきりとおすってのも何かおかしな話だよなあ。別におれ、何も悪いことはしてねえし、嘘ついてるってわけでもなしよ。
何にも知らない宿のあるじは、自分もおれの話を楽しみにしてるもんだから仕事は雇いの娘っ子にまかせちまって、自分もどっかり椅子に座って「皆さん、こいつは若いけど話がうまいんですぜえ」とか自慢して、おれに向かって「なあ、将軍が死刑になりかけて、処刑役の士官をたたっ斬って、故郷に馬でつっ走っていくとこやってくれ。おれはあそこが一番好きでなあ」だと。
おまえ、雰囲気ってもん察しろやとか思ったけど、見ると、兵士たちも何か夢でも見てるような顔でぼうっと黙ったまま、がたごと椅子を動かして座りはじめてるじゃないか。こうなりゃしょうがないからしゃべったよ、ああ、しゃべったさ。将軍が、おれの弟が、雪の舞う森の中で、新しく皇帝になったやつの命令で首をはねられかけて、すきをついて逆に三人の士官を一気に倒して、肩に負った深手から血を流しながら、それでも馬をかって一路故郷へ走り出すまでを、それこそ一気にしゃべってやった。
「よっ、絶好調!何べん聞いても最高!」と亭主は大喜びで一人で拍手し、回りの兵士たちに「いいでしょう、ねえ?」と念押してやがんの。うわー、やめれーと思いながら見てっと、亭主のとなりにいた大男の兵士がうなずいて拍手しながら、おれの方見て、重低音のすごみのある声で「コロセウムに初めて出た時のことを話してくれますか」と言った。
「よっ!くろうと!あそこは名場面ですぜ!さすが!」と亭主はまた大喜びした。
人の気も知らないで。

しゃあないだろ、でも、もうこうなったら。おれは弟が奴隷として剣闘士として初めてコロセウムで戦ったときのことを話したよ。そこで妻子の仇の憎い新皇帝と対面し、復讐を宣言したときのこともな。トラと戦ったときのことも。元老院と手をくんで、新皇帝を倒す計画をたてたことも。新皇帝の姉の皇女が、弟の昔の恋人で、こっそり会いに来たことも。
兵士たちは気味悪いほどしーんと聞いてた。「今夜はもう遅いから、また明日つづきを」と言って、おれがろうそくを消したとき、誰かが質問してきた。「明日の夜、話してくれますか?あなたがどうやって生きのびて、今、ここにいるのか?」
そうそう、というようなざわめきがただよった。でも、こうはっきり聞いてくれたら、いっそ楽だ。「あ…」とおれは、明かりの方へ歩み出しながら、笑って手を上げ、皆を軽く制した。「よくそういう風にまちがえる人がいるんですが、私はただの語り手です。実は将軍と血縁の者で、だから似てるんでしょうけど、将軍本人ではありません」
そして、さっさとへやにひき上げた。途中までついてきた宿の主が金を払ってくれながら、「いやー、今日の客は皆、真剣だったなあ。どうしたんだろうなあ」と、のんきなことを言っていた。

その四 二人の男に寝込みを襲われたこと

息ができなくなって、目がさめた。
クッションみたいにばかでかい手が、おれの口をおさえつけてる。同じ手だか、ちがう手だかわからんが、はがねみたいに太い指が、ぐわっしっという感じで両腕をおさえつけてて、骨が折れそうだった。
殺される、と思って恐怖で気が遠くなりかけた。小便ちびらなかったのが今でもふしぎでなんないよ。金ならいくらでも持ってけと言いたかったが、口が開けられない。
かちこちと火打ち石の鳴る音がして、ぼうっと小さな火がついた。そうか、死ぬ前に殺すやつの顔ぐらい見られるんかなあと思ったら、何だか情けなくなって涙が出てきた。
相手は一人じゃない。二人は確実にいる。でも、ものすごく落ちついてるっつうか、おれをおさえつけてる腕もふるえちゃいないし、息も全然はずませてない。そりゃそうだよなー、おれが全然抵抗してないんだもん。
灯の中に男の顔がうかび上がった。あの大男だ。ぎりぎりいっぱい目玉を横にずらして見ると、もう一人が見えた。茶っぽいぼさぼさ髪の鋭い目をした小男で、大男の部下なのか、ずっととなりに座ってたやつだ。
二人は無言で、着たまま寝てたおれのチュニカをがばっと脱がせて上半身を裸にした。この際、金と同じように身体だってもう、上でも下でもぬがせちまって好きなようにしてくれていいから、命だけは助けてくれないかなあと思って、おれはひたすらじっとしてた。

したらば、二人は灯をさしつけて、まじまじっとおれの左肩をながめてる。それから人を死体かなんぞみてーに扱って、腕をつかんでひっぱりあげて、左の脇腹をとっくりと見た。そして、おれの顔をじいっと二人で見て、口おさえてた手をはなし、「なぜなんだ?」と聞きやがんだ。
「なななななな何が?」
「なぜ傷がない?処刑の時には右肩に、皇帝と戦う前には脇腹にあんたは深手を負ったはず…」
待てーっ!ようやくのみこめた。そーゆーことかよっ!!!人を死ぬほどおどかしやがってからにもう、てめーらはっ!!!

「だから言ってるだろうが、もう!」おれは叫んだ。「傷あとなんかないったら!」
「そんなはずはない」大男は呆然としていた。「あんたは、あいつだ。だのに、どういうことだ。傷がないとは」
「おれはあいつじゃないからさ」おれは言ってやった。「放せよ!!うすらとんかち!」
だが二人はおれをおさえつけたまま、まだ顔を見あわせていた。
「皆に、何と言う?」小男がささやいた。「傷がなかったって言うのか?」
「言えない」大男は重々しく首をふった。「皆の希望の灯は消せない」
「あのな…」おれは言いかけた。
「こうしよう」まるっきり、おれの言うことを聞いてないように大男は小男に向かって言った。「我々でこいつに傷をつけて…」
ちょっと待て、と言いたかったが、のどがからからで声が出なかった。この大男の様子を見てると、さっきから何かそういうようなことになりそうな悪い予感はしていたのだ。小男が首をふった。
「新しい傷だってわかりますぜ」
そうそう。おれはうなずいた。「不自然だぜ」やっと声が出せた。「誰でも見ぬく」
「おまえは黙ってろ」不きげんそうに大男は言った。
冗談ぬかせ。どうこうしようとしてるのは、おれの身体なんじゃないか。おれが黙ってたら、誰がしゃべってくれるよ。
「傷を見ようとしたら抵抗したからうっかり傷つけたってことにしますか」小男がおれを見下ろして、しかつめらしい顔で考え考え言った。
「それでもいいし」大男があごをさすっている。「無理に調べようとしたら、自分で傷あとに切りつけて、古傷があったかどうかわからなくした、というのはどうだ」
「ああ、そのほうが、あのかたらしい」
ちがうだろ、おまえら、何かもう、言ってることが決定的に。
「そうですね」小男が納得している。「抵抗してうっかり傷つけたっていうんじゃ、そこだけ傷があるというのは、おかしいですからね」
「何、それは、他にもあちこち傷を負わせておけばすむことなのだが」
待て待て待て。人のことだと思ってからに、おれを何だと思っているんだ。何が皆の希望の灯だ。
「許せよ」大男はおれをくみしいたまま、じゃきんと血の凍るような音をたてて剣を抜いた。「似すぎているのがいかん」
「ちょっともう、いいかげんにしろ」おれは息もたえだえに言った。「たのむからもう少し頭を働かせたらどうだ?」
あんまり弱々しい声だったから、逆に場違いに静かに聞こえて説得力があったんだろう。「何か名案があるのか?」と大男が手をとめて聞いた。
何もあるわきゃない。が、そう言っちまったらおしまいだ。おれはうなずいた。
「ないわけでもない。とにかくちょっと手を放せ」
すると、おれもちょっと驚いたんだが、男たちは思いきり悪くしぶしぶだったが、おれの身体から手を放したんだ。

その五 ここが腕の見せ所とおれが必死で交渉したこと

何とはなし、おれは気づいた。この二人、おれが弟じゃないことはむろんもうわかってる。だが、心のどこかでまだ、おれと弟をごっちゃにしてる。せずにいられないんだろう。だから、おれがきっぱりはっきり、あたりまえみたいに命令すれば、つい言うことを聞いちまうってわけ。
便利だな、と思ったぜ。弟に感謝もした。そしてすぐ、思い直した。とんだこった。弟さえいなきゃ、おれはそもそも、こんな羽目にはなってないって。
大男はまだ剣を抜いたままだ。剣をおさめて回れ右して、とっととここから出て行って、おれのことなど忘れろと皆に言え、と命令したら、どの程度まで聞くだろうとちょっと思ってすぐやめた。そんな危ない実験できっか。
「あのな、いいか、こうしよう」おれはまぶたを指でおさえて、頭痛を何とかしようとした。「おれはこの傷あとを、ちがった、傷あとのないのを誰にも見せないようにして、かくす。そしておれは…あいつになる」
「あいつとは?」
「あの方だよ、おまえらのいうところの。おれはあいつになりきる。きっぱりと、完全に。誰の前でもあいつでいる。一人でへやで屁をこくときでもな。絶対に誰にも疑われないように。それなら話は解決だろうが」
「ごまかすな。ちっとも解決しとらんぞ」大男が言った。「いくらおまえが見たとこあいつにそっくりでも、自分でその気になっただけでは皆が信用するとは限らん。もうちょっと、やる気を見せろ」
「どうやってだ?剣をしまえよ」おれは大男の剣の刃の平たい方に手をあてて、押し返した。「言っとくが、傷をつけるって話は忘れろや。んなことしたって、疑うやつは疑うさ。にせ者が自分で自分に傷つけて大あたりをねらってるってな」

「まあ、その通りなんだからな」小男がつぶやき、目顔で合図して大男に剣をおさめさせた。「わかる、おまえの言うことも」
「よかった」
おれが笑うと小男は顔をそむけて「その笑顔だ」と毒づいた。「まったくあの方にそっくりだ。あれか、双子ってのは顔かたちや身体つきだけでなく、しぐさや表情も似るもんなのか?一度も会ったことがなくても」
「そんなことはない」おれが答える前に大男が首をふった。「おれのいとこに双子がいたが、見たとこはそっくりでも、動くとすぐ区別がついたもんだ。こいつは特別だよ。まるで…」おれを横目で見て大男はせきばらいした。「ほんとにあの人がよみがえってきてるとしか思えん」
「その意気だ」おれはうれしくなって、思わずなれなれしく大男の肩をたたいた。あきれたことにそいつはびくっとした。恐れ多いことしてもらったように。かわいいとこ、あるじゃんかよ。
「その勢いで皆に説明しちまえ。おれがたしかに、本人だったと」
「待てや」大男は手のひらで顔をぬぐった。「それでおまえ、明日の夜、また話をするな?」
「ああ、それで、この村を出る。でもって、すべて丸くおさまる。おまえの仲間たちは、おれが生きてて、ひっそりと村から村を旅してるって思う。人助けをしたり、ローマを見守ったりしながらな。めでたしめでたし。何か文句があるんかい?」
大男は眉をよせて考えていた。「何の話をする?」
考えてなかった。「何でもいいさ」とおれは気前のいいところを見せてやった。「そっちにまかせる。もう何でもいい。ゲルマニアの戦いでも、コロセウムの戦いでも、かみさんとの濡れ場でも、何でも注文があったら言ってくれ」

二人は顔を見あわせていた。それから小男がため息をついて、「じゃこうしろ」と言った。「おまえ、あの方のことは、もうよく調べて知ってるな?どんな死に方をなさったかも?」
「うん」
「その、死ぬ前の夜のことも?」
「脱走して、自分の軍の連中をひきつれて戻って皇帝を倒すために、従僕と待ち合わせしてた場所に行って、そこで待ち伏せにあって、とらえられたんだろ?従僕は彼に警告しようとして、目の前で殺された」
「そうだ」小男はごくりとのどを動かして、目を伏せたまま言った。「そのあとで、おれた…近衛兵たちは、あいつをとらえて、よろいをはいで、地下牢の天井から鎖でつるした」
「そこに皇帝が来て、けんかをふっかけ、あいつが全然おびえた風もないんで、短剣でわき腹を刺し、傷が見えないよう、よろいでかくして、コロセウムにひき出して皆の前で決闘したんだろ」おれは言った。「それでも負けちまったんだから、しょうがねえよなあ、皇帝も」
「あいつは皇帝が来るまで…夜中から朝まで、何時間かそこにいた」大男が言った。「一人で、鎖につるされて。抵抗もしなかったし、おびえている風も、悲しんでいる風もなく、とても静かだったそうだ」
いやな予感がしてきた。「ふうん、それで?」
何を考えていたんだろうな、なんてヤバいことを言う気はなかった。でも、どっちみち、相手が言った。
「何を考えておられたのか、見ていてもまったくわからなかった。すべての望みはついえさり、やがて自分も殺される。その時、どんな気持ちでいたのか」
「そういうことは知ろうとしてもしかたがないし」おれは重々しい口調で言おうとした。「考えたってしかたがない。そっとしておく方がいい」
例によって二人は、おれの言ってることなど気にしてもなかった。おれがいることも忘れてるように、それでも、おれに向かって話すという器用なまねを、またしてくれた。
「その時のことを話せ」と小男が静かに言った。「どんなことを考えていたのか、皆の前で、明日の夜」

第三編 弟の死ぬ直前の心境について

その一 おれがベッドで色恋とは何の関係もなく悶々とすること

その日一日、おれはへやから出なかった。ベッドの上にころがって、天井見たり、壁見たり、時には枕につっぷして床見たりしながら、ただもう必死で一生けんめい考えた。男たちが言っていた、死ぬ前の何時間かの地下牢で一人でいた時の弟の気持ちを。どんな気持ちになるものなんだろう?
だが、見当もつかなかった。
というよりも、考えるのもいやだった。
人間が、そんな目にあっていいもんじゃない。
そんな目にあって耐えられるなんて、すでにして人間じゃない。
弟は頭がよかったって誰もが口をそろえて言うんだが、おれに言わせりゃ、そんならなぜ、そうなるまでにもっと何とかしなかったんだ。
逃げるとか。自殺するとか。
何かどっかどうしようもなくまちがってしまったのだ、弟は。
そうとしか思えなかった。
おれは頭をかかえた。
ずっと思ってたんだが、弟のやつはどっかおかしい。
それとも待てよ、おかしいのはおれなんだろうか。
おれがあんまり、ちゃらんぽらんすぎるんだろうか。
おれはいやだ、絶対にいやだ、死ぬのも痛いのも苦しいのも。
愛する者が殺されるのも。
弟が味わった運命のどこをとっても、考えただけで気が狂いそうになる。
それで、最後に、すべての望みをたたれて、地下牢の天井からつるされて、それで、どんな目にこれからあわされるかわからない時の気持ちなんて、思っただけでももう恐ろしくて息がはずんでくる。
考えたくない。わかりたくもない。
だが、今夜はそれを話さなくては、こっちがどんな目にあわされるかわからない。
「思い出したくありません」と、うなだれてつぶやく手はある。いっそ、そうしようかと思った。それが一番いいような気がする。
だが、何となく、弟が生きてたら、そうするようには思えなかった。
「あのときはですね」と一生けんめい考えて、ほんとのことを答えそうな気がする。
やっかいなやつだ。ベッドの上に座り直して、おれはうなった。
弟と同じことをおれがしなくちゃいかん義理は毛頭ない。だがこの場合、まずいのは、聞いてる連中も何せ、あんだけ弟に思い入れしてるやつらのことだ、弟が何を言うかはわからなくても、何を言いそうか言いそうにないかは気づきそうなことだ。やつらしくないことを、ちょこっとでもおれがしたなら、きっとすぐ、にせものだって見ぬかれる。
そして、全然似てないやつのすることなら、まだご愛嬌で笑えるけど、おれみたいになまじそっくりなやつの話を、すっかりその気になって聞いてて、どっかで、ぎりっとそれがくいちがうのがわかったら、皆は絶対、許しちゃくれない。袋だたきならまだしものこと、八つ裂きにだってされかねない。
逃げ出そうかなあ、と、いつものくせで、とっさに思った。
でも、あんな連中のことだ。きっと見張りをたててるんだろう。
おれは、横倒しに倒れて枕にすがりついた。だめだ。他に道はない。どうしてもあの夜の弟の気持ちを知らねばならない。
しかし、やっぱりおれはそんな、恐ろしい、苦しい、悲しいことを考えようとはしたくなかった。

そのニ 考えても考えても答えは出そうになかったこと

おれの気持ちはふらふらゆれた。
弟の気分にならんけりゃ、って意識が心のどっかにあるもんだから、このことに、今夜の仕事に、まじめにまっとうにとりくもうって気持ちも一方にはある。
だが、その一方で生来のおれの気分もちょろちょろ首を出してやまない。何とかならんかなあ、どうかしてごまかす方法はないもんかなあ、という気分だ。
荷物まとめて逃げ出そうってのもそれだし、「思い出したくありません」とつぶやくのはどうだろう、と思ったりするのも、そっちの気分のなせるわざだ。
その、ずるい方向でというか、本来のおれの気分で次に考えたのは、もう要するに、弟がどんな気分だったかなどは考えないで、聞くやつらが何を聞きたがってるかを考えて、それに合ったことを話してやりゃいいんじゃないのか、ってことだった。
その方がぐっとかんたんそうに思えた。
だいたい、話を聞かせろという時、人は自分の聞きたいことがあるもんなんだ。それを聞かせりゃ満足して、うまい話の、本当の話のって、ほめてくれるもんなんだ。

弟の最後の一夜を、死にいたる絶望のどん底の話を、なぜ、やつらは知りたがる?どういうことを聞きたいのだろう?
弟が何かしゃべっていりゃ、こんなことにはなるまいに、とおれは思った。泣くか、どなるか、あばれるか、とにかく人目にわかりやすいことを何でもしてくれていりゃ。
それが弟の本心だろうとなかろうと、何かそういう、はっきりしたことをするなり言うなりしていてくれれば、それでわかった気になって人は満足したはずだ。

だが弟は、静かだった、と言う。黙って、落ちついてみえたという。
それじゃ、他人は落ちつかんだろう。よくわかる。誰だって気になるぜ。何を考えていたんだよ?
殺された妻や子のこと?自分が死んだあとの皇女や、その息子の運命のこと?目の前でさっき死んだばかりの部下のこと?どうやって殺されるか?殺された老皇帝のこと?自分を殺そうとしている新皇帝のこと?自分の死をかたずをのんで見守る群衆のこと?
まだ逃げ出せる、と思ってたろうか、ひょっとして。また生きのびられるかもしれない、絶対、最後まであきらめはしないと。
憎むのか?恐れるのか?悲しみだけがあるのだろうか?そうなった人間には?
それとも、疲れと、あきらめか?

もう、そっとしといてやれ。気がつくと、そう思っていた。
もう、そっとしといてくれ。枕に顔を押しあてて、おれ自身がうめいていた。
おれの戦うのを見たくせに。生きのびるのも見たくせに。死ぬのだって見たくせに。心の中まで見たいのか。考えて見ろよ。わかるだろう。自分の心をのぞいて見ろよ。そうしたらわかるだろう。おれの感じていたことぐらい。
それが恐いから皆、おまえの心を見たがるんだよ。おれはそう思った。自分を見るのが恐いから、だから、おまえを見ようとするんだ。

その時、おれは弟を見た気がした。
よろい姿だった。前かがみに身体を倒し、開いて座った両足のひざの間で両手を重ねあわせるようにして、上目づかいの、すねたような目で、じっとおれを見ていた。
おれはその時、突然初めて弟を身近に感じ、やもたてもなく、いとおしかった。
かけよって、抱きしめてやりたかった。一人じゃないぞって言ってやりたかった。

何も考えられないまま、夜は来た。
もうこれ以上、考えられない、と思うたび、やつらの気に入る話をしてやれ、というささやきは、しつこく、くり返し、おれをおそった。
おれは、コロセウムを見たことがない。それに似たものも。ローマでも、どこでも。ありがたいことに。
でも、そこへ行くやつらは、自分と同じ人間が、ときには自分より勇ましい男や、美しい女が、苦しむのを見るのが楽しいんだ。そのことは、行ったやつの話を聞いてるだけで、よくわかる。
のたうって、おびえて、苦しんで、悲鳴を上げて、絶叫して、泣いて、あえいで、助けを求めて。
耐えようとしてゆがむ顔。動かすまいとしていてもひきつる手足。くいしばられる歯。かみしめられる唇。おびえて青ざめるほお。恥ずかしさにふるえて上下する胸。早くなる動悸。かすむ目。乱れる心。遠ざかる意識。
そういうものを見たいんだ。知りたいんだ。
おれに求められているのはそういうことだ。そういうことを話せばきっと満足するんだ。弟がそういうことを感じたと言えば、多分、きっと。
だが、そうであったとしても、弟が皆に見せなかったものを、このおれが、口がさけても言ってやるもんか。
いや、口がさけるぐらいなら言うけども。
冗談はともかく、やっぱり、そんなことは考えちゃいけない、そういうことは考えるもんじゃない、と、おれの考えは結局はそこに戻る。
そんなやつのことは。そんな時のことは。
生きているおれが。まだ死んでない、安全で、幸福なこのおれが。
そんなやつのことを、ああかこうかなんて考えたりする権利なんかない。

その三 仮病を使いそこなったこと

荒々しくとびらをたたく音がして、おれは自分がいつの間にかぐっすり眠ってしまってたことを知った。これが、おれのくせなんだよな。どーしようもないことがあると、もうだめだと思ったその時点で、ばたっと死んだように眠っちまう。起きたとき問題が解決してなかったら、またばたっと寝てしまう。身体がもう、そうなってるんだ。そして、何度めかに目がさめたら、問題はもう片づいてる。うまいようにか、まずいようにか、そんなこた、どっちでもいい。のそのそ起き出し、こそこそ食堂に入ってって、おふくろに、「ごはんは?」と言われて、「うん、食う」と言う。
ああ、今度のこれも、そんな風にできたらなあ。
「おいおい、起きてんのか」亭主の声だ。「もう皆、待ってるぜ」
人はこんなときに仮病を使うんだろうな。熱があるとか、のどが痛いとか。でもおれは、これまで、それはしたことがない。そんなことしなくたって、さしあたり、いやだと言えば、家族も、友だちも、女たちも、皆、見のがしてくれてたもの。
だから何となく、仮病を使う自信がなかった。と言うよりも、どんな風にしたらいいのか、いまいち、わからなかった。人間は誰でも、新しいワザに挑戦するには思いきりと勇気がいる。おれはぐったり疲れはててて、今そんなもん、どこにもなかった。
だから、のろのろ起き上がった。
「何だ何だ」おれを見て亭主はのけぞった。「ひどい顔だぜ。気分でも悪いのか?」
そんなに病気っぽく見えるなら、見のがしてもらえるかもしれんと、おれがはかない望みを持ったのも知らないで、亭主は、「早く来いよ。皆、じれて、あばれ出しそうだ」と言いすてて、どさどさ階段を下りて行っちまった。

おれは、ざわめきが聞こえてくる酒場の方へ向かって階段を下りて行く間に、二度ほど足に力が入らなくなって、手すりにすがって階段に座りこんだ。
弟は、コロセウムなんかによく出て行けたもんだと思う。五万人からの人間が自分の死ぬのを見たがって、ひしめいている目の前なんかに。たかだか三十人か多くたって五十人そこらの酔っぱらいが、話聞きたくて待ってる酒場に入ってくだけで、おれはもう、足が動かないっていうのに。
いや、いっそ、コロセウムだったら、それはそれなりに、あきらめがつくのかも。
そうやって、みじめな思いで、しゃべることの何も思いつかないままで座っていると、おれの心には、おれを待ってるやつらへの、まじりけなしの、まぎれもない、憎しみがどっとこみあげてきた。
しゃべることなんかない。たとえあっても、しゃべってなんかやるもんか。

おれはめったに怒らない。だから珍しく怒ったら、少しだけだが元気が出て、足をひきずりながら、階段を下りた。
酒場は、ろうそくやたいまつがところせましとつけられて、ばりばりとろとろ炎を上げ、その熱と人いきれで、むっとむしあつく、息がつまった。どのテーブルにも酒のコップがたちならび、兵士たちはもういいかげん酔っていて、たしかにもうちょっとほっといたら自分たちだけで勝手にけんかをおっぱじめそうだった。
おれが入って行くと、やれやれ、やっと来たかというような、どよめきとざわめきが起こり、そこここから、投げやりな、ひやかすような拍手がおこった。
おれはテーブルの間を進んで行って、いつもそうするように、椅子をひとつひきよせ、それに座らず、よりかかるようにして立った。まだ、ざわめきは静まってないので、目を閉じて、最後にもう一度、何か頭にうかばないか、やってみた。
たいまつの燃える匂いがした。ざわめきが少しづつ静まって行く。皆が、一人また一人と、おれの方に向き直り、首をねじって、おれを見守りはじめてるのが、何となくわかる。
それでもおれには話すことなど何も浮かんでこなかった。
あきらめておれは目を開けた。
いいんだ。おれは弟じゃないから。
それどころか、多分、ここにいる誰よりも、弟からは一番かけはなれた、似ても似つかない人間だよ。
もう、ほぼ皆がおれの方に顔を向けてて、おれは力なく、意味もなく笑った。こんだけ何も話すことが見つからないってのは、いっそもう何か、サワヤカな気持ちだった。話すことなんかありません、何も思いつきません、と言おうとしておれは口を開けた。
「走っていたが」と自分が言うのを、おれは聞いた。「何も、考えてなかった」

その四 なぜだかもう勝手に話が始まってしまったこと

走っていたが、何も考えてなかった。
することは決まっていた。それがありがたかった。
さまざまな可能性がひとつひとつ閉ざされて、じょうごの先のように、行く先がせばまってくる。まるで、目に見えるようだった。行く手が、ひきしぼられて行くのが。せまい、ただ一つの出口が更にどんどん、細くなるのが。
だが、それだけに、おれの力も拡散しない。
その一点に向かって集中して行く。余分なことは考えずに。
おれが走っていくのはせまい通路だ。両側にそびえる石の壁におれの足音と、よろいの鳴る音がにぶいこだまをかえしつづけ、まるで誰かがすぐあとから、ぴったりついてきているようだ。おれのかかげたたいまつの炎の先から火花がこぼれ、赤い光が石の壁に反射して、ぬれてしめった表面にまだらに広がる白い苔や、光に驚き、するすると四方に走るとかげや虫を一瞬照らしてはまた過ぎる。見えるはずもないのに、そのとかげの目が見える気がする。
よろいをつけてたった一人で、こんなに長いことおれは走ったことがない。珍しい土地に向かって、初めての旅をしているようだ。

兵士たちの目がおれを見つめていた。宿の亭主がうんうんと一人だけ、わかったようにうなずいている。
しゃべっているのは、おれなんだろうか?

草と木の香り。夜の香り。それが突然ぱっと流れこみ、淡い光がたいまつの炎をこころもち薄くしたような気がする。足もとの石だたみが、やわらかくふかふかとした土にかわって、目の前に空き地が広がる。たいまつを壁に押しつけて消してすて、よどんだ通路の空気の中から、おれは涼しい夜気の中にそっと歩み出す。自分が森や町の中をさまよい歩く、一ぴきのけものになったような気がする。
空き地の広さはわからない。向こうに黒い壁が見えるが、左右は広がっていて、見きわめられない。草むらがある。高い木がある。見上げると夜空に宙をよこぎって大きな橋が見えている。
すべてが作りもののようだ。おれの胸のどこかが苦しくひきしまる。この風景の何もかもが、わざとらしい。木も、草むらも、暗い空の星さえも。息をひそめて、胸をおどらせて、何もかもが何かを待っているようだ。

針の落ちる音も聞こえそうなほど静かだった。兵士たちの前のテーブルの上で、おかれたままのコップの中に落ちた羽虫がもがいていた。宿のあるじも、もう、うなずくのをやめている。
困ったことは、話の先がどうなるのか、話してるおれにも、まったくわからないことだ。

だが、ローマにはどこにでもよくこんな風景がある。そのことはおれも知っていた。町の角、建物の位置、コロセウムの階段。何もかもが何か舞台のようにわざとらしくしつらえられて、そこに登場してくる誰かを黙って待っている。何でもない通りや空き地の片すみでさえ、まるで切りとったような「絵になる風景」がある。これもそうなら、気にしてはならない。おれは空き地に歩み出す。だが草むらにとけこむように動く。目をこらすと、最初に目についた高い木の下に馬がひっそり立っていて、その上に人影が見える。背かっこうと髪のかたちは私の従僕だが何かがおかしい。ふと、彼はもう死んでいるのではないかという思いが心をよぎる。それほどに馬も人も、ひっそりと動かない。

私はそっと口笛を吹く。鳥の声に似せて。
従僕が動く。私の方を見る。次の瞬間、彼は声を限りに私の名を呼ぶ。
失敗したのだ!その一言が稲妻のように脳を焼く。彼は逃げろと警告している。
そう判断する間もなく、彼の身体が宙に浮く。木の上から下がって彼の首にかかっていた縄が一気に引き上げられて彼は宙づりになり、馬はかけ去る。
気がつくと、飛び出して彼の足をかかえていた。身体を支えて持ち上げる私を彼が見下ろし、すみませんと言った気がする。ささやいたのか叫んだのか、どちらだったかわからない。彼はとても行き届いた従僕だった。私の身の回りのことでまちがいなどはしたことがなく、すみませんとわびることばを耳にしたのは珍しい。そう思う間もなく空を切る矢の音がして、彼の身体に矢が幾本も激しい音とともにくいこみ、その衝撃が私の腕にそのまま伝わる。まるで自分の身体が射とおされたように。

話しているのは、おれじゃない。おれは、こんなこと知らない。
それとも、やっぱりおれなのか?見たこともないものを、おれが作ってしゃべってるのか?

おれはふり向く。木がゆれて、枝から木の葉が何枚も落ちて、ほおに、腕にあたるのが、とび上がるほど痛いと思う。自分の身体がガラスのようにもろく、感じやすくなったのを感じる。とぎすまされた感覚が、空き地に、あたり一面に広がる敵の存在をおれに知らせる。矢の来た方向は上だ。見上げると、橋の上にずらりと射手が並んでいる。橋そのものが、蛇かむかでのように、うねって動くと思うほど、人の姿でびっしりと埋まっている。
空き地の周囲から銀色のよろいが押しよせてくる。なつかしいほどなじんで覚えのある、革と金属の匂いがかげるような気さえする。剣に手をかけ、目を配ったが、逃げ出せそうなすき間はない。
どこかで夜が明けて行くのか。橋の上の空がほのかに赤い気がするのは月の光だろうか。
同じ歩調で四方から兵士たちは歩いてくる。ゆっくりと、とり囲んだ剣の輪がせばまってくる。一人も殺させないつもりだなと、とっさに私は思う。
すぐ目の前に彼らが来て、よろいの肩がぶつかりあって、重い、鈍い音をたてる。もう兵士たちひとりひとりの顔が見える。無表情だが緊張しておびえて、目が落ち着いていない。とらえようと手をのばしてきた時に彼らの間にすき間ができれば何人かは倒せると確信して私は剣をかまえる。だが彼らはひるんで動揺しているが、列を乱す気配はない。そうならもはや、勝ち目はない。この体勢も、この動きも、私自身が熟知している。つけいるすきはない。望みはない。
どこかで激しく犬がほえているのが聞こえる。昔、ゲルマニアの森で私になついて飼っていた狼の声によく似ている。

のどがからからだ。それなのに目の前の酒が飲めなかった。一瞬でも口を閉じたら、もう二度と話しつづけられない、そんな気がしていた。

その五 おれはとにかく話しつづけたこと

腕をつかまれ、後ろ手にしばられ、よろいをはぎとられた時、ずっと前、前線で、老皇帝が殺された夜、同じように捕縛され、縄をうたれたことを思い出した。その時に比べて自分の身体がずっとやわらかに、しなやかになっているのに驚いた。あの時は、ねじあげられた腕も、全身も、心も、すべてが納得しないで、荒々しく抵抗するのが自分でわかった。それが今は何をされてもすんなりとうけいれられ、身体も心も透明になっているように苦痛が薄い。自分が何かになれてきているのがわかった。昔とは比べものにならないくらい心も身体もしたたかに、きめこまやかになっているのを実感した。
草の上に投げすてられたよろいを、上官がまだ使うからひろうようにと命令しているのが聞こえた。戦わせるつもりか、処刑する時着せておくつもりかととっさに思った。
馬にのせられて、その場をはなれるまで、あっという間のことだった。重い音がしたのでふり向くと、誰かが縄を切って従僕の死体を草の上に落としたのだった。野犬が始末をつけてくれるさ、と何人かが笑っていた。
橋の上から兵士たちが下りてきて合流した。大部隊だった。彼らにとらえられ、彼らが配置につくのを見ていて、従僕はさぞ無念だったろうと思って、馬の上からではもう闇にとけてほとんど見えない、草の上の従僕の死体に向かって私は目で礼を言い、彼の献身を声に出さずにねぎらった。
夜があけてきたと思ったのは私の気のせいだったようだ。あたりはまだまだ暗く、馬が疾駆して行くローマの市街は、びろうどのように厚く重くなめらかな闇につつまれていた。

私はここまで戻ってきた。馬から下ろされ、コロセウムの地下の監房までの長い廊下を歩かされながら、そんな思いが心をよぎった。
なぜそんなことを思ったのだったか。どこに戻ってきたと思ったのだったか。
逃げ出して、遠ざかろうと思っていたコロセウムに、つれ戻されてしまった。そういう思いもあったろう。
だが、それだけとも言えなかった。

私を護衛する近衛兵たちの態度はちぐはぐだった。ことさらに私をあざける表情をする者もいたし、うやうやしいと言いたいぐらいていねいに扱おうとする様子がうかがえる者もいた。
廊下を進んで行くとき、いつもは空の監房が人でひしめいていて、目をこらすと、私が逃げる間、近衛兵と戦って時間をかせいでくれようとした剣闘士仲間の顔が何人も闇の中から浮かび上がっていた。思わず足をゆるめると、近衛兵たちがそれとなく足をとめた。鉄格子をつかんで歩みよってきた、いくつもの顔が私にこわばった表情で笑いかけ、反乱計画に参画していた元老院議員の一人が少しはなれた所から静かに私に目礼した。

私は仲間たちの誰がそこにいないのか、しかとたしかめなかった。誰が死んで、生きのこったかも聞かなかった。彼らも私にそのことを告げなかった。そんなことは意味がないと、互いに知っていた。今、こうして生きている者も死んだ者も同じなのだ。我々はすぐにまた、皆いっしょになる。

逃げのびられなくてすまなかった、と私は彼らに言わなかった。残念だった、と彼らも私に言わなかった。
口には出さなかったし、多分、はっきり思いもしなかったが、それでも私たちはお互いに心の底でお互いが感じていることを知っていた。
また会えて、よかった。
戻ってきてくれて、よかった。
これで皆、いっしょに死ねるな。
そんな思いがどこかにあった。

四方の壁のたいまつが、テーブルの上のろうそくが、じいじいと低い音をたてて燃えている。
その音までがはっきりと聞こえるほど、酒場をぎっしりと埋めつくした兵士たちの中からは、ため息も泣き声もせきばらいも聞こえなかった。
吸いこまれるようにすべての目がおれを見つめ、一人ひとりの心の糸をしっかりとおれは手につかんでいる感じがした。その糸が時にたわみ、ゆるみ、波うってはまたはりつめて、おれの呼吸と、おれの鼓動とひとつになるのを。

近衛兵たちは、おれをどうするか言い争ってたみたいだった。皇帝の命令だからとか、そこまでしなくていいだろうとか、そうでもしておかないとどうやってまた逃げ出すやらとか、ひそひそ言い合っていたあげく、結局おれのチュニカをはぎとって、天井からたらした鎖を手首につけて両手を広げてつるすかたちにつり下げて放って行った。
この姿勢をとらされると、手がしびれるし、息がしづらくて体力の消耗が大きい。疲れないように重心のかけ方を工夫しながら、おれは立っていた。
アリーナに引き出されるのは、夜が明けてから、下手をすれば昼過ぎになる。恐ろしく長い時間に思えた。その間こうしているかと思うと、正直気が遠くなりそうだった。
とにもかくにも体力を温存しながら時間をやりすごすしかない。
しめっぽい、四角な石の独房に、気まぎらしに見るようなものはほとんど何もない。天井の小さい窓から落ちてくる光が次第に白く強くなってきて、夜が明けてきたのがわかったが、それからが長かった。物売りの声、えさを求める不きげんなけもののほえ声、町のざわめき、がらがらとどこかでとびらが開く音、コロセウムの客席が次第にいっぱいになって行く気配。そんなものにおれはじっと耳をかたむけていた。
これがおれにとって、この世ですごす最後の時間になるというのに、それが少しでも早くすぎてゆくようにと願っているのは、何とも奇妙なものだった。

皇太子が…おれはあの男を一度も皇帝とは呼ばなかったし、これからもそういうことはないだろう…おれをどういうやり方で殺そうと思っているのかはわからなかった。
キリスト教徒や罪人や、時には剣闘士に対してさえも行われる、残酷な処刑の数々を、いやというほど見せられてきた。
それをいうなら戦場でも、女子どもに対しても凄惨きわまりないしうちは日常だった。
私の家族でさえ、それをまぬがれることはできなかった。
そんなものを今さら私が恐れたらこっけいだし、恐れねばならない理由もなかった。
それにしても、死ぬのが今でよかった、と思う。
なぜか少し、ほっとしている。
戻って来れた、とまた思った。

気がつくと、手首とひじに激しい痛みが走る。
身体の重みをそこにかけて、私は何と眠りかけていたらしい。
頭をふりあげるようにして身体をあらためて起こしながら、そんなに安心してしまっていいのか、と私は自分に問いかける。
もう、何の望みもないと思うこと。
くだされる運命に身をまかせてただ待つこと。
それはひとつの安らぎだ。
この何年間、いや、自分でも忘れてしまうほど遠い昔からずっと、自分には許されていなかった、それはぜいたくだと思う。

そうか、いや、そうでもない。
家族を殺され、奴隷商人にとらえられ、剣闘士として売られた最初の頃がそうだった。何の望みもないと思い、投げやりになって、生きる気力を失っていたあの頃。
思い出しても身震いするほど、自分が自分でなかった時期。なのに、どうかすると、その思い出はひどく甘美でなつかしく、とても許されないようなぜいたくをし、何かを惜しげなく浪費していた爽快ささえ感じられるのはなぜだろう。
今の気分はあれとはちがって、だがどこか、あれに似ている。
もう何の望みもない。何の努力も洞察も展望も必要ではない。
ただ、待てばいい。
そう思う安らぎ。
兵士でいた間も、剣闘士になってからも、一度も、一瞬たりとも、それを自分に許すことはできなかった。もっといい方法がありはしないか。望みを捨ててしまってはならない。いつも自分にそう問いかけて、心のゆるむひまはなかった。誰もが絶対考えつかない、思いがけない解決の方法がきっとどこかにあるはずだ。見逃したら自分の怠惰だ。そう言い聞かせて自分をいましめ、あきらめることを自分に禁じた。
もう、それをしなくて、本当にいいのだろうか?ただ、待って、耐えるだけで?どんな残酷な運命が訪れるとしても、それをうけとめる力と覚悟を自分の中にただ準備するだけで、本当にたったそれだけでいいのなら。
本当にそうなら、それはどんなに気楽だろう。

もう一度だけ、私は考えてみようとする。時間はたっぷりあるのだし、誰も私の邪魔をしには来ない。
本当に望みはないのか。逃げ出せないか。手首を鎖から抜けないか。すきを見て近衛兵の武器をとりあげられないか。皇太子と交渉する余地はないか。取り引きに使える材料を何か私は持ってはいないか。
何かできることがあるのに、考えてみる可能性があるのに、それを忘れていたと、あとで気づきたくない。努力する時間があったのに、それをぼんやり過ごしていたとわかったら、それこそがきっと最大の苦痛になる。
ありとあらゆる試みはした。それでもこれしか、あり得なかった。そう確信していればこそ、どんな苦しい最後にも耐えられる。だから私は考える。砂粒ひとつほどでも何か、残された希望はないかと。もし、それが見つかった時にとるべき行動に必要な時間も考えて、できる限りの迅速さで、あらゆる可能性を検討しては消してゆく。
そして最後に、私は知る。何ひとつ残る望みはないことを。まぎれない満足と、安堵とともに。あとはもう、待つだけ。そして、死ぬだけだ。
この安らぎとしか言いようのない気持ちは、何だろう。戻ってきている、と私はまた実感する。

第四編 弟が戻ってきたという場所について

その一 弟が街道の風景を思い出すこと

私は宙づりになっている手首を動かし、肩を動かしてみた。
昨夜、とらえられたとき、自分の身体が昔に比べてしなやかになっていると思ったのだが、その印象が今も変わっていない。
前線で、処刑されそうになった時、私は怒りに全身がふるえて、燃えていた。
許せない、許せない、とすべてのことに対して思った。
絶対にそんなことは許せない。
だが、その許せないことは事実起こり、まっとうで、ゆらがないはずだった私の世界は次々に崩壊した。
信じていた戦友に裏切られ、最愛の家族は殺され、ローマと軍団は、ありうべからざる者を支配者とした。
信じていたもののすべてが消え、これ以上はないほどに私は孤独だった。
私の心も身体もあのころは、強かったが同時にはりつめて、かたくなで、それだけにがらがらとそれがくずれてしまったら、子どもよりまだ始末が悪いほど、私にはもう何もなく、生き方はもとより、死に方さえもわからなかった。

あの時に、死を迎えていたら、どんなにみじめだったろう。
どんなに何ひとつないままで、何もわからないままで、この世から消えて行かなければならなかったろう。
けれど今、私はここまで戻って来れている。
戻った?いや、以前以上に私は、かしこく、強くなっている。
いたらないなりに、愚かななりに、それでも、ゲルマニアで戦っていた、あのころの自分よりは、ずっと。

目をこらせば、鉄格子の向こうに廊下が見え、その両側の監房に、ぎっしりとつまった人間たちの気配がある。
あそこに、私の仲間たちがいる。
死んだ者も、生きた者もかわりはない。
かつての部下たちと同じように、空き地で死んだ従僕と同じように、私を信じ、私を愛し、ともに最後まで戦ってくれる仲間たちが。
その向こうに、アリーナがある。
私の戦場が。仕事場が。

自分が今味わっている安らかさが何なのか、ようやく私ははっきりと気づきはじめていた。

スペインが遠ざかる。妻のいる家が。息子の声が。
赤みがかった土の街道を馬を走らせ、雪のまだらに残る山々を越えて、ゲルマニアの前線へと戻ってゆく。馬を休ませて立ちどまる宿屋がかわるたびに、スペインのことばが、なまりがうすらいで行き、穀物の色も、馬車のかたちも、水さしの模様も、次第にローマ風になり、まもなくまた、ゲルマニアならではの風景に変わる。そして、やがてついに、見慣れたテントが目に入り、馬は基地にと乗り入れる。兵士たちが整列し、声高に号令がかかる。旅装をとき、留守の間の報告を聞き、書類に目を通し、使いなれた椅子に座って従僕のさし出すワインのコップを手にとりながら、私の全身はゆったりとくつろぐ。スペインの家より椅子の座り心地は悪くても、ワインの味は劣っても、それでも手足に力がみなぎり、腹の底から自信と闘志がわきあがる。ああ、帰ってきた。さあ、ひと仕事だ。

こんな地下牢で、半裸で鎖につるされていて、今、その時と同じ充実感を持たずにはいられない私もまったく私だが、だが、そう思ってどこが悪い。
すべてを失ったその場所から、私が自分でかちとり、築き上げてきた、あらゆるものはここにあるのだ。
ひとつひとつの戦いを、ここで私は勝ち抜いてきた。
工夫をこらし、力をつくして。
そして、観衆の支持をかちえた。元老院の支援、皇女の協力も。
またと得がたい仲間たちも。
すべて私が、この手でつかんだ。
私がどんな悲惨な殺され方をしようとも、彼らがそれを見届けてくれる。観客席の群集が、貴賓席の皇女が、最後まで目をそらさずに必ず私を見守ってくれる。
その結果、どのような苦しみを味わおうとも、悲しみにうちのめされようとも、彼らは、必ず、立ち直って、その記憶をそれぞれの中で豊かな未来をきりひらく力に変えてくれる。どんな激しい絶望の中からも、彼らはきっとよみがえり、どのようにつらくても、また新しく、正しく強く生きはじめる。私との思い出を失わず、私の記憶を抱いたまま。
彼らのその力を私は信じる。私はそれを、知っている。

暗い廊下を私は見つめる。その彼方にあるコロセウムを。私には自分の目が輝いているのがわかる。
ここは、私の王国だ。
そこにいるのは、私の民だ。
すみません!と、あの従僕の声がまたしたような気がして、私は小さく首をふる。
謝ることなど、何もない。
たとえ私を裏切っても、失敗しても、私を見殺しにするしかなくても、彼らは私の民なのだから。
私は彼らのためにあり、彼らのために生きたのだから。
私のことを彼らが忘れてしまっても、私は淋しくはない。
それで彼らが幸せなら。
けれど、彼らが私を忘れず、私を思い出すことで、生きていけるのなら、喜んでいつまでも、私は存在しつづけよう。
彼らの生き方の中に、記憶の中に。
皇帝と自称するあの若者に、それはできない。
彼らのために消えることも、存在しつづけることも。
それは、私にしかできない、私に与えられた仕事だ。
私は深く息を吐く。
そして、生きている私にできる仕事は、あともうわずかで終わる。
力を惜しまず、思う存分戦って、するべき仕事に最後までいそしめば、力つき、戦いが終わり、仕事がすんだそのあとで、心おきない安らぎの中で、私は家路につけるだろう。
雪の山を越え、春の川を渡り、来た時と逆の道をたどって。
一つの安らかさから、また別の安らかさへと。

その二 皇太子が自分の計画を弟に話すこと

それにしても、時の流れるのは本当に遅かった。
じわじわと、手首が、腕がしびれてきた。何度か私はいらだち、そして不安になった。最後まで、ちゃんと戦うだけの力が残っているのだろうか?
そのたびに思った。戦いはもうはじまっており、こうしていることもその一部なのだと。力が次第に減っていくことにあせったりせず、残っているだけの力を出しつくせばそれでいいのだと。
また、こうも思った。いらだつのも、これが最後だろう。不安を感じるのも、これでおしまいになる。だから、ゆっくり味わおう。この世で感じる、この最後の、こんな気持ちのひとつひとつを。

最後までしゃべる力が、おれにははたしてあるんだろうか?頭はどこかで冴えかえっているのだが、どこかで鉛のように重い。少しづつ、何かが死んで、こわれていっているようで、もう、見つめている兵士たちの顔のひとつひとつに注意を集中することができない。気配だけが伝わってくる。すさまじいまでにはりつめた彼らの思いが、もうひとりひとりの区別などなく、うずまいて溶け合うただひとつの巨大な塊となって、おれに向かって呑み込むように押しよせてくる。

ようやくのことで皇太子が通路の向こうにあらわれる。白い鎧を着て、白いマントをつけて、それとわかるほどめかしこんでいる。私は自分がみるみる不機嫌になって行くのに気づいて驚く。彼を待ちくたびれていたのに気づいて驚く。恋人を待つように、女に対するように、彼に対していらだって、怒っているのに私は驚く。いつも、こうだった、と思い出す。この男はいつも私をいらだたせ、思いがけない残酷さを私の内に呼びさます。
あの時もそうだった。老皇帝が死んだ夜。自分が殺した、そのなきがらの枕もとで、ぬけぬけ私に忠誠の誓いを求めてきた彼。完璧に無視してテントを出た時、彼をどんなに傷つけるか、どんなに危険かよく知っていて、それでもそうせずいられなかった。
私は心をひきしめる。怒りに我を忘れるのは絶対にやめようと思う。そんなぜいたくは今は許されてはいないと、私は自分に言い聞かせる。

コロセウムからは何も知らずに私の出場を求めて名を連呼する観衆の声が汐鳴りのように届いてくる。皇太子はそれにうっとり耳をかたむける。彼は言う。おまえのように劇的な人生をたどった人気者には、それなりの輝かしい最期が必要だろう、それは私との決闘をおいて他にあろうはずがない、と。
そう言いながら片手をのばして彼は私のあごをつかんで持ち上げたが、そのことも気にならないほど、彼のことばが信じられずに一瞬私は目をみはる。だがすぐに、それはつまり私を必ず負けるようにするということなのだなと理解する。私には刃どめをほどこした切れない剣を渡すか、前もって指の骨を全部折っておくとか、何かそういうことをして。
私の心がかすかにおののく。どんな運命も覚悟はしていても、それがまた、ひとつひとつと可能性がせばまって、具体的なかたちをとって現れてくるのはやはり恐ろしい。私が恐れるとでも思うか、と皇太子が聞き、私は思わず言い返す。恐れてばかりの人生ではなかったのですかと。そう言いながら私は認める、彼を傷つけることで自分が、恐怖に勝とうとしているのだと。

彼は唇をわななかせる。怒りを放つ黒い目はすでに正気のそれではない。おまえは恐れを知らないのだろう、と彼は乾いた声で言う。私の気持ちを察した上で言っているのではないだろう。いつも彼は、私の気持ちを理解せず、その結果、強さを過大評価する。
私は笑って言い返す。万人にひとしく微笑みかける死には、微笑みかえす以外にできることはないと、ある人が私に言いました、と。彼は、余裕を見せようとして、あざ笑いを目に浮かべ、そう言った人間は死ぬ時に笑ったであろうかと聞く。ご存じではないのですか、お父上ですのに、と言い返しながら私は、自分はもうどれだけでも、この男には残酷になれるのを知る。私はそれを嘆かない。恥じようとも思わない。泥の中に落ちて行くような快感がある。そこから強さをひき出せるなら私はそうする。彼に弱みを見せないで、勝つためになら、今の私は何でもする。
彼は私を見つめ返し、そして突然、私を抱擁する。父上を愛したのはお互い同じで我々二人は兄弟のようなものだ、と言いながら。私は首すじに湿って熱い皇太子の唇を感じてたじろぐ。その時、彼の右手がのびた左の脇腹に火のような熱い打撃を感じる。

激痛はすぐには訪れない。むしろ私はとっさに彼が、この程度の傷で私に勝てると思ったことに当惑する。よほど腕を上げたのだろうかと不安になる。それとも単に狂っているだけ?
「傷が見えないように鎧を上から着せろ」と、私から離れながら近衛兵に彼は命じる。鎖をはずされて、思わずよろめいて近衛兵の肩につかまった私を、支え返した近衛兵が、スカーフをはずして傷をしばろうとしてくれた時、放っておけと鋭く制する。すべては狂って我を忘れている者のそれとは見えにくい。だがこの男は、昔から冷静なように見える時ほど常軌を失っていることがよくあったから、わからない。

「出血がひどすぎたら、上に行くまでに死にます。それではお心にそいますまい」と近衛兵の一人が押し殺した声で皇太子にくってかかるのが聞こえる。感謝するより私はむしろ、こんな反抗をさせるほど、近衛隊の軍規を皇太子はゆるませてしまっているのかと思う。彼があいまいなにやにや笑いをうかべただけで、その兵士をとがめようともせず放置した時も、その兵士のためにほっとすると同時に暗澹とした思いにかられる。だが、その間に別の兵士が私に鎧を着せる前にチュニカを着せて、帯で傷口の上をきつく縛って出血をくいとめてくれたのに気づく。彼の顔は見えない。かぶとの頭だけが見える。すばやく身体を起こして彼は離れて行く。彼が私にしてくれたことに、皇太子は気づかない。
とはいえ、何をしようとも、私が死ぬのはすでに時間の問題だ。痛みが波うつように襲うたび、血は確実に流れ出て、肌着に帯にどっぷりとしみわたって行くのがわかる。その内に手足がしびれて、目がかすむだろう。敵は皇太子ではない、と私は思う。敵は時間だ。

廊下を歩き、昇降機に乗る。時間が刻々、過ぎて行く。
傷の痛みは絶え間なくおそいかかる。ずっと感じつづけているので、それを感じていなかった時のことをもう思い出せない。だが、痛みには耐えればいい。失血で意識が薄れはじめるのが、いつになるかが気にかかる。
早く、早く、とまた思う。自分がこの世に生きられる最後の時間をこうまでも粗末にし、無駄なものと感じることに皮肉と恐れを感じながら、それでもそう願わずにいられない。死を前にして、生きてきたどんな時より、しなければならない仕事が多い。考えなければならないことも。一刻も早く勝負をつけなければならず、長びけばそれだけ絶対的に不利になる。ということは、皇太子の戦い方の癖を思い出しておかなければならないのに、このところずっと私は、彼の訓練を見ていない。ずっと昔、子どもの頃、相手をしてやった時以来、ほとんど見ていないといっていい。
彼の弱点は昔のままか。欠点は克服されているか。力と速さは昔より増しているだろう。実戦の経験はないが、すぐれた教師についている。そして何より彼が有利なのは、このところずっと私の戦い方を、コロセウムで見ていることだ。
あせるまい。動揺しまい。そう自分に言い聞かせても、傷の痛みと血がとまらずに流れ出しているのを感じる不安とで、思うように私は意識を集中できない。

テーブルの上のろうそくが、次々に短くなって消えはじめている。それでも人々の顔がぼんやりと白く見えているのに、おれは気づいた。あたりが明るくなっていってる。夜が明けかけているんだ。

その三 弟が最後の仕事を片づけること

アリーナに昇降機が上がりつく。予測はしていて、息を止め身体を固くしていても、それが止まる時の衝撃が傷の痛みを倍加させ、一瞬目の前が暗くなる。私と皇太子をとり囲んでいた近衛兵たちが周囲に広がって散開すると、あたりがぱっと明るくなる。砂の匂い、血の匂い。それを抑えようとしてまき散らされた花びらの甘い香り。群衆の匂い。それが空気にただよってくる。すべてが見慣れた風景で、それが私を落ち着かせる。
皇太子がうれしそうに両手を上げて客席にあいさつしている。
身体をかがめて、いつものように砂をすくって、手にまぶして、汗ですべらないようにしていると、近衛隊長がじっと私を見ているのに気づいた。彼とは前線で戦友だった。冷静そうに見えるのだが繊細な男で、自分でどうしようもない状況になると逆上してしまうところがあった。私と目が合った時、彼がうかべた表情から、私は自分がひどい顔色をしている、多分ほとんどもうすでに、死人の顔になっているのだろうと思った。それでも私が戦おうとしているのを、見ていられなかったように、もうあきらめろと言いたげに、彼は私に渡す剣を砂の上に放り投げた。
私はことさらにゆっくり足をひきずって、それを取りに行ってやった。生きのこるおまえが、そうやけになってどうするんだ、と思いながら。

皇太子と向き合った時、私はほっと安心する。もう待たなくていい。何も考えなくていい。あとはもう、倒れるまでただ戦えばいいだけだ。その方法なら、よくわかっている。たったそれだけでいいのか。そう思ったら、ほとんど楽しい気分になる。傷の痛みを増さないように注意しながら、私は深く息を吸い込む。
皇太子が剣を振り下ろして来る。私はそれをうけとめる。力はまだ、私の腕から去ってない。身体をかわしてすれちがいながら、足の動きもまだいつもと同じだと知る。
私たちは数回長い剣の撃ち合いをくり返す。すぐに私は、皇太子の動きが昔と変わっていないことを知る。流れが悪かった。ひとつひとつの動きは鋭くても、全体的にちぐはぐだ。これは教える方も注意がしにくく、何と言ってわからせたらいいのかと自分も苦労したのを思い出す。歴代の教師たちもそれが直せていなかった。
これなら、勝てる。そう思った時、剣が重くなっているのに気がついた。

剣だけではない。前線でつけていた大きな鎧に比べると、服を着ているのと変わらないほどだった簡単な胴だけの鎧が重い。のしかかるように身体の動きを制限し、妨害する。私の一撃をうけそこなった皇太子が足をもつらせてよろめいて倒れた上に、力まかせに振り下ろしたつもりの剣が嘘のようにゆっくりと動いて空を切った時、私は自分がもう、いつもの戦い方はできなくなっているのを知る。
来たか、と思った。皇太子よりはるかに恐ろしい、もう一人の敵が。
疲れが激しい。徹夜をつづけて長いこと戦場で戦った時でも、こうではなかったと思うほど。身体はまだまだ動くのだが、手足が重く、指の先が冷たい。
もう戻れない。突然、それがわかる。これまで何度も、何十度も、泥のように疲れて、ぐっすり眠って回復した。ものを食べ、入浴して、身体に力がよみがえった。歯をくいしばるほどの痛みをともなう傷も、身体が焼けるような熱に意識がうすれる病気も、手当てをすれば、薬を飲めば、耐えて時間をかけさえすれば、傷口はふさがり、骨はつながり、熱は下がってもとに戻った。
だが、今私が感じているこの疲れと痛みはもう消えることはない。これより軽くなることはない。私の身体は修復せず、流れ出る血はとまらない。身体も、手足も、刻々と衰えながら未知の世界へ私を運んで行くだけだ。今まで私が体験したどんな場所にも、どんな時にも、私はもう戻れない。これから先の時間はすべて、それらのものにひとつひとつ永遠の別れを告げながら、身体の中で何かがひとつまたひとつとこわれ、とまりつづけるのを確かめながら、一度も体験したことのない道を歩いて行く時間だ。
死は黒い闇か。まぶしく白い灼熱の輝きか。まだわからない。いずれにせよ、それに向かって私は今、休みなく歩きつづけている。

身体全体が寒く、無感覚になっていっているようなのだが、そのことさえも感じとれない。激しい傷の痛みだけが、どくどくと重く熱く、前と変わらず残っている。ただそこだけが、あざやかにうごめいて、息づいて、私とは関係なく空に残って宙に浮いて、ひとつの意志を持つ生き物として生きつづけているようだ。それが私と一体化する。痛みが私か、私が痛みか、もうわからない。巨大な盲目の獣のように、それが私をおおいつくして、私とともに動きながら、声にならない咆哮を絶え間なくあげつづけている。
相手は私の変化に気づいているようには見えない。むしろ気づこうとしていないかのように、彼もまた勝ちを急いでいるようなのが、私には不審だった。やみくもなまでに激しい攻撃を私にしかけてきて、動きが遅くなっている分、対応が遅れた私の足のふくらはぎに、彼の剣先が薄手を負わせ、いっそ快いほどの小さい鋭い、新しい痛みが走って、もう私自身と区別がつかなくなっていた以前からの絶え間ない鈍い痛みを切り裂いた。

もうろうとしてきた意識の中で、突然私の頭の中に、その新しい傷のような鋭く激しい痛みが走った。私は、気がついた。皇太子が私の変化を無視しているのは、彼が私に傷を負わせたことを、自分で忘れていることに。父親を、皇帝陛下を殺したことを、忘れていると同じように。私を傷つけたことを忘れて、正々堂々の戦いをしているつもりになっているのと同様に、彼はずっと、父を殺したことを忘れて、手を汚すこともなく皇位についたと思い込み、よき支配者たろうと真剣に努力していたことに。
私の頭の中に走った一条のその亀裂は、たちまち私の全身をまっぷたつに引き裂いた。私は自分のその判断が正しいことを確信し、それは私の身体と心を怒りと悲しみでばらばらにした。

野獣のように理屈抜きの、ほとばしる力で私は彼に襲いかかった。技術ではなく力づくで彼を押し戻して切りつけ、つきとばしながら肩先に深手を負わせ、彼の剣をたたき落とした。彼は剣を拾おうとしかけたが、私が近づかせないと見て、近衛兵たちに剣を渡せと再三叫んだ。だが、誰も動こうとせず、近衛隊長も渡すなと制した。
だが、その時に、激しい動きをしたつけが来た。人の身体がこれほどにあっという間に弱って行き、意識が一度に遠ざかるとは私の予想を越えていた。皇太子の声も近衛隊長の声も変に遠くに聞こえ、代わりにまるで幻のように、故郷の家の石垣がポプラの梢が目にうかんだ。すべてそれらが焼き払われていたのを私はこの目で見たのだったが、にもかかわらず、またありありと、それがそこにあるのが見えた。おそらくは何千回も押し開けた古びたとびらも、目の前に。それをまた押し開けたなら見慣れた庭も屋敷も戻っているのだろうか。幻でもいい、そこに行けたらいいと思った。剣を落として、とびらを手のひらで押そうとした時、誰かが前にいるのに気づいた。短剣を抜いておそいかかって来ようとしている皇太子だった。

客席から私への警告と皇太子への非難の叫びがいっせいにあがっているのをぼんやり聞きながら、私は皇太子をなぐりつけた。憎しみもなく、恨みもなく。あのとびらに行き着くための障害となるものをただ取り除くために、最後にしなければならないこととして。こぶしが相手の身体を撃つ鈍い音がひびきつづけ、皇太子は目に見えて弱った。よろめきながら私にしがみつき、短剣を持った手をやみくもに振り回す。おびえて、とまどい、私以上に疲れはてて。その腕をつかんでねじ曲げて行くと、思ったよりはるかにずっと、その腕に抵抗はない。
短剣を手から放して落とす機会を彼は逸する。だから私が、その手をつかんで刃の先を彼ののど、耳のすぐ下のやわらかい部分に向けて行き、刃先が肌にひっかかったのを互いに感じ、力を更にかけて私がそれを彼の皮膚に気管に動脈に埋め込んで貫いて行く間じゅう、彼はまだどこか驚いたような、納得いかない表情だ。
彼の身体から力が抜けて重くなり、私の身体を伝うようにして私の前の足もとにくずれおちて地面に横たわる。私の手に残った彼の短剣が、指の間からすべり落ちて、彼の身体のどこかにあたってたてる小さな音を私は聞いた。

自分はまだ立っている。しがみついていた皇太子がいなくなって、何も支えがなくなっても。
風が涼しい。スペインの草原にいるようだ。私の目は再びあの、見慣れた石垣ととびらをさがす。どこか近くに、あるはずと思って。

近衛隊長が私を呼ぶ声がした。昔、前線で何度も私の指示をあおいで、声をかけてきた時と同じように。いや、それよりもひかえめに、そっと私を呼び戻すように。
仕事がまだ少し残っていたのに私は気づき、それを思い出させてくれた彼に感謝する。生真面目で、いつも上官の命令に、皇帝と帝国に忠実でありつづけようとした彼に。私は彼の名を呼ぶ。信頼をこめて。仲間を釈放し、元老院に全権をゆずれと命じる。それが亡き老皇帝のご意志だ、と。
彼も余分なことは言わない。いつもそうだった。私を処刑しようとした弁解もせず、あらためて友情を誓うこともせず、ただそれらのすべてにかえて自分の意志を私に伝えるかのように、力をこめて即座にそして的確に私の命令を復唱する。兵士たちがそれにしたがってかけ去る靴の音がする。
だが、もうそのすべてが、私にはよく見えない。

おれの目の中でも、何かがかすんで行く。
ずっと近くに感じつづけていた、弟の気配が、遠くなる。

おれは椅子の背をつかんで、頭をたれる。どのテーブルの上でも、ろうそくはもう、ほとんど消えた。残り少なくなった灯皿の中の、油の匂いがつんとただよう。おれの声がとだえると、深い長い沈黙だけが、いつまでも続く。おれはゆっくり、また顔を上げる。兵士たちは動かずに、何も言わずに、黙っておれを見守っている。
「空が…」と、おれは言う。

嘘と思われるかもしれないが、最後にもう一度、一面の青い空が見えた。
どこまでも、どこまでも、高くて、澄んで、きれいだった。
自分の身体がその場に倒れて行くのを感じた。大地からのびてきた力強い手に後ろからやさしく肩をつかまれて、そのままゆっくり、ひきおとされて行くように。激しく地面に倒れたはずだが、まるでその手に抱きとめられたように、何の衝撃も感じなかった。
皇女の声が聞こえた。おれの上にかがみこんで、何か話しかけている。泣いているのに顔をゆがめて、一生けんめい笑おうとしていた。彼女はいつもそうだった。悲しい時ほどりんとして、決して泣き顔を見せまいとする。あなたの子どもはもう大丈夫だ。そう言ってやると彼女はうなずき、帰るのね、と言った。いや、帰ってあげて、と言ったのだったか。その時におれはわかった。戻れないのは、この世に今もまだある場所にだけ。もうこの地上から消えてなくなってしまった場所なら、それは、おれがこれから行く、まだ知らない世界のどこかにあって、おれを待っているのかもしれないと。そこにならきっと、帰れるのだと。

そしておれは、帰って行った。麦畑と光と風の中へ。穀物と家族のもとへ。

その四 おれの発言がまたしても完璧に無視されたこと

おれの身体の中にはりつめて、みなぎっていた何かがゆっくりとぬけ落ちて、溶けて、消えて行った。力をこめて話をした時はいくぶんかはいつもそうなのだが、それでも、いつもとは比較にならないほど激しい疲労と無力感とがおれにおそいかかってきた。自分が突然、小さな普通のつまらない弱い人間に、ただの男に、つまりおれ自身になってしまったような、悲しみと安らぎ。もう、見られたくない。人々の前にいたくない。休みたい、一人になりたい。もう解放してくれ。そう思っておれは皆をじっと見た。ぼんやりとした、力のない目で。
だが、誰ひとり、動かなかった。まだ何か、おれが言わなくちゃいけないのだろうか?
「話は終わりだ」おれは投げ出すように言った。「もう、これでおしまいだ」
答える者はない。拍手もない。泣いている者さえなかった。皆がただ黙って、おれを見つめつづけている。
おれは死ぬほど腹がたった。どうしろと言うんだろう?おれに、これ以上何をしろって言うのだろう。おれの力はもうふりしぼった。もういやだ。そっとしといてくれ。できるだけのことはした。求められたものを与えようと全力をつくした。おれの中にはもう何も残ってなんかない。何が不満なんだ。まだおれを見ていたいのか。話は終わった。おれはもう、おまえたちのものなんかじゃない。とっとと消えてしまってくれよ。
「おれを見るな」ぐったりと、おれはつぶやいた。「おれは、話をしただけだ。あいつじゃないって。別人なんだよ。そして、話はもう終わった」
しびれて、ふるえている指で、マントをはずして、そのまま放すと、マントはおれの足もとに落ちてたまった。自分が何をしてるのかよくわからないままに、おれはチュニカもひっぱって脱いで、前の床の上に投げ出した。こぶしを握った左手を前に回して胸にあて、身体を横に向けて光にさらし、皆に肩とわき腹がはっきり見える姿勢をとった。「よく見ろよ」と言ってやった。「傷あとなんて、どこにもないだろ?」
あの大男も小男も、前の方に座ってた。だが、ぴくりとも動かず、おれのすることをとめなかった。まるで、それから起こることを知ってたように。いや、起こらないことを知ってたように。

そうなんだ。
何も起こらなかった。
兵士たちは、おれの肩も、わき腹も、てんで見ようとしなかった。そちらに身体を曲げたり、首をのばしたりする者も誰もなかった。前の、すぐ近くの何人かだけが、つられたようにちらと目を動かしたが、すぐまた視線をおれの顔へと戻しちまった。そうやって、皆がおれを見つづけていた。冷たい白い朝の空気の中で、びっしりと押し合って座って、沈黙していた。おれはぞっとし、途方にくれ、泣きたいほどにただ腹がたち、どうしていいのかわからなかった。
「ただの、話だ。嘘っぱちだよ」必死になって、そう言った。さっきまでとはうってかわって、弱々しい、しゃがれたかすれ声になっているのが、自分でもよくわかって、そのことにまた、自分でびっくりした。「おれが、あいつに似てるのは、双子だからで、でも、生まれてすぐに別れて、会ったことも話したこともないんだよ。あんたたちより、おれはもっと、あいつのことなんか何も知らない。だから、自分で作って話した。自分とは似ても似つかない男の話を。おれなりに一生けんめい考えた。そこのところは、わかってくれ。ちょっとでも、そこんところをわかってくれて、よくやったって思うんなら、もうおれのことは放っといてくれ。おれにかまうな。忘れてくれよ。おれは、あいつじゃないんだよ」
すると、何人かがおれをじっと見つめたまま、小さく首をふったのが見えた。別の何人かは微笑した。何てことだ。もう、何てことだ。こいつら、おれの話の中身を聞いちゃないんだ。おれの顔に姿に見とれ、おれが動くのに見とれ、しゃべる声に、口調にただ聞きとれているんだ。どうしたらいいんだ。どうやって、こいつらの目をさましてやったらいいっていうんだ?
「もうやめろ!」おれは声を限りにどなった。「目をさませよ!あいつは死んだ!いいか、どこにもいないんだ!あいつのことも、おれのことも忘れっちまえ!いいか、わかってるはずだ。おれは他人だ!あいつと何の関係もない!おまえたちなんか大嫌いだし、見たくもないし、あんな話はもう二度としたくもない!おれは、おまえたちと同じだ。どこにでもいる、ただの男だ。つまらなくって、弱虫で、みっともなくって、ちっぽけで、だらしなくて、卑怯で、うすぎたない、ろくでなしだよ!だから見るなよ、放っておけよ!」
これでまだ、わからないのか?どうしてくれよう。あたりを見回し、壁に突進し、燃え残ってたたいまつをもぎとって、おれは火の粉が肌を焼くのもかまわず自分の身体にさしつけた。「そら!」と叫んだ。「よく見るんだ!傷あとなんかどこにもないだろ!?」
「傷あとなんて、くそくらえだよ」後ろの方で突然誰かがおだやかな、よくとおる声で静かに言ったのが聞こえた。そこから初めて、かすかな笑い声がさざ波のように広がっていった。
どういうことかよくのみこめず、おれがたいまつをつかんだまま、呆然として声のした方を見ていて、ふと気がつくと、前の方にいた一人が立ち上がってきていた。そいつがゆっくりとおれの手からたいまつをとりあげ、大きな片方の手をずしりとおれの肩にのせたので、おれは危なくよろめきそうになった。
「よく話してくれた。ありがたかった」彼はまっすぐおれの目を見てそう言った。「本当でも嘘でも、そんなことはいい。あんたが誰でも、問題じゃない」
別の一人が近づいてきて、おれの足もとのマントを拾って着せてくれた。青白いほおに大きな傷のある、どことなく意地悪そうな男だった。「会えてうれしかったぜ、将軍」と、顔に似合わぬ落ち着いたおだやかな声でそいつは言った。「あんたがどんな人だったのか、おれは今夜、やっと、よくわかったよ」

もうここにこれ以上いたって、どうせおれの言うことなんか誰も聞いちゃくれまいと思ったから、おれはもう、そのまま黙って彼らに背を向け、酒場を出た。へやに戻って荷物をとって、調理場に行ってねぼけまなこの料理女からパンと肉をわけてもらって、大急ぎで馬に乗って出発した。
寝不足どころか、全然寝てない頭に、太陽があたって、くらくらした。
かなり村から離れたと思ったところで、きれいな小川があったんで馬をとめて、パンをかじって一休みした。何だか身体がすうすうするなあと思ったら、チュニカをおいてきちまったんだ。
とり戻しに帰る勇気なんか絶対なかった。今ごろ誰かがとり上げて大喜びで自分のものにしてんだろうし、ああ、それどころじゃない、ひょっとしたら、あそこにいたやつ全員で細かく切って、切れっぱしを将軍さまのお形見だとか何とか言って、お守りに…
ぶるぶるぶる。陽射しはすごくあったかいんだが、真剣にふるえが来ちまった。
弟よ、まったくおまえってやつは、と文句だか何だかを言おうとした気もするんだが、そこでもう体力の限界で、おれはそのまま草の中で、食べかけのパンをにぎりしめたまま、ばったり、ぐっすり、眠りこんじまった。

第五編 黒ひげの男の見解について

その一 自分みたいなのは一人じゃないとおれがわかったこと

目がさめたとき、まだ日は高かった。草と水の匂いがした。川の音がつづいていた。
おれのそばに誰かがいる。ほとんど、顔をのぞきこむようにして。ぎょっとしてがばとはね起きると、そいつは身体をのけぞらせて、「おどかすんじゃねえよ」と言った。「将軍さま」
その口調から、おれはすぐ気がついた。こいつがおれを本物じゃないとわかってることが。いや、そんなことは、あの酒場にいた兵士たちだって、わかってたっちゃあわかってただろうが、こいつはそのことにこだわってる、つーか、そのことでおれをバカにしてた、はっきりと。
そしてまた、たったこれだけのことばでもうそれを、ありありおれに伝えてしまうとこなんざ、こいつもけっこう、そーとーなやつじゃないかよ。

おれは草の中に座り直しながら横目でそいつを見た。黒いひげを生やした、大柄な男だ。オリーブ色に日焼けして、赤っぽい、ちょっと汚れたチュニカを着てた。
「いい話だったぜ」男は言った。
「さっき、いたのか?」おれは片手で顔をこすった。
「ああ、ずっとあとをつけてきた」男は笑った。「気づく様子もなかったな。おれがそばに座っても。あの男は、どんなに熟睡していても、人が近づくとすぐに起きたそうだが」
「気の毒だよな」わざとらしくおれは、あくびをしてやった。「寝てて途中で起こされるぐらいなら、そのまま刺し殺されちまった方がなんぼかいいって、おれはいつも思ってる」
小川に小便しに行くと、男もついて来て並んで用を足しながら、「それにしても似てるよな」と話しかけた。まさか一物を見比べてたんでもあるまいけどよ。「双子だって?」
「うん。あいつは弟なんだ」
「そんな話は聞かんかったな」
「知ってるのか?」おれはまた草の中に座り、そのへんに落ちてたパンをさがした。
「誰を?」
「弟さ」
「将軍か?」
男は草の中からパンを見つけて、ひろってさし出してくれた。おれはパンにくっついてたアリを払いおとして、かぶりついた。口がふさがってるから、うなずくと、男は笑った。
「コロセウムで、よく見た。死ぬ時もだ」
「会って、話したことは?」
「それはない」
おれはうなずいたが、ちょっとがっかりした。弟が妙になつかしい気分になってて、何かしゃべってたことが聞けるんじゃないかって期待してたんだと思う。
「おれも話してるんだ」男は川の方に目をそらしながら、ぽっつり言った。
「ふ?」おれはパンをくわえてたんで、間のぬけた声を出した。
「あの男のことをな。村々をめぐって」
「何だ、そりゃ悪かった」おれはパンくずを胸から払いおとしながら笑った。「商売敵だったのか」
「おれに限ったことじゃない。そういうやつらは多いんだ」男は言った。「あの男の話をして聞かせると、手っとり早くめしや酒にはありつけるからな。ローマからの流れ者の中には特に、そういうやつらが多い」
あー、そーか、誰でもおんなじようなことを考えつくってわけだ、と、おれは少し感心した。

その二 思いこむと女は恐いと教えてもらうこと

「このごろじゃ女もいるぜ」男は面白くもなさそうに言った。
「ほう?」
「あいつと寝たとか、コロセウムで戦ったとか、そういうことを話して回ってる。直接あいつを見たことのあるやつも、中にはいるのかしれないが、どうも、おれの感じじゃ、あいつの話を聞いてる間に、ぼうっとなっちまって、自分も将軍に会ったことがあるの寝たのと言い出すのが多いみたいだな。そうこうするうち、自分で新しく話を作って、村から村をしゃべって歩くのも出てくるって寸法だ…おい、気をつけろよ」
「何にだ?」
「そういう女たちっていうのは、皆じゃないが、嘘とほんとの区別がな、自分でもつかなくなっちまってる。おれも一ぺんからまれたがよ、自分が作って信じこんでる話とちがう話を聞くと、あんたは嘘をついてると言って、泣くわわめくわつかみかかるわ」
「おー」おれは何だかわかるような気がして、ため息をついた。「それは恐かろう」
「こんな仕事をしてるやつでも、男の仲間はまだそうおかしなのはいない。嘘ついてしゃべってても、自分で嘘と自覚してる。だがよ、女ってやつはなあ。マジで自分がその話の中の人物と思いこんじまうから、まあ、それで話にも迫力が出るんだが、それだけに、それとちがった話を聞くと、半狂乱になるんだよ」
こんな仕事って、これもう「仕事」になってるのか?まあ、なあ。それで食いもんや寝るとこもらってりゃ、そりゃ仕事かもしれんよなあ。おれ自身がさっきうっかり「商売敵」なんて言っちまったし。それにしても、男の話を聞いてっと、おれがあの兵士たちにされかけたことなんて、まだ大したことでもなかったのかなって気がしてきた。
「おれはまだそういうのには会ったことない」おずおずと聞いてみた。「そんなに多くはないんだろ?だよな?」
「びびってやがる」男は笑った。「おまえほんとに、あの男のしそうにないこと皆するなあ。そして、しかも、あの男がそういうことしたら、たしかに絶対こうだろうって顔つきやしぐさするから、まいったもんだ」

何となく男がおれをきらってないようなのがわかって、おれはちょっと気がゆるんだ。
「おまえは、どんな話してるんだ?」と、両手でひざをかかえながら聞いてみた。「こっちの方にはよく来るのか?」
男は首をふった。「ここまで足をのばしたのは、おまえの噂を聞いたからだよ。おれの話は、あとで聞かせてやってもいいが、基本的には地味で、渋いんだ。そこを売りにしてる。この目で見た、たしかなことしか絶対話さんようにしてる。でないと何だか、あの男を侮辱しそうな気がしてな。あの男を見てると、そんな気になった。あいつの戦い方や死に方を見てると、嘘いつわりをまじえないで正確に世間に広めて、孫や子に伝えて行かなきゃいけんと思った。だからおれは絶対に、まちがったことは話さないんだ。そういう風に努力してる」

その三 語り手といってもさまざまなのだと知ること

おれはこういう、四角四面な野郎は何人も知ってる。だからそのことに別にびびったりしやしない。だけども、そのとき、おれにもあるまじいことに、ちょっと黙っちまったのは、こいつの声や口調にこもる、おさえよう、かくそうとしてもにじんでくる、弟への深い敬意と愛だった。ただのコロセウムの観客にすぎなかった、口きいたこともない男を、そんな思いにさせる弟って、どんなやつだったんだろうと思った。
「気にするな」おれの気持ちを察したのか、男はうっすら笑った。「ゆうべのあの話、なかなかよかったぜ」
「でも、おれが作った話なんだよ」おれはつぶやいた。「弟が言ったんじゃない」
男はうなずいた。「聞いたよ。おまえがそう言うのも。珍しいやつだな。この話は本当だ、と言うやつは、おれもそうだが何人もいる。だが、嘘なんだ、信じるな、と言いながら、それでも皆から信じられてしまうってのは…」男は突然笑い出した。「まるで、あの男と同じだな」
「え?」
「あの男もそうだった。戦うのをいやがってたのに強かった。いつも皆に注目されまい、人気者になるまいとしてて…それで皆に狂ったように愛された。おれを見るな、おれはそんな人間じゃない、やつがそんな態度を見せるほど、皆が夢中になったのさ。ゆうべの話だが、気にするな。おれは怒ってない。あれはあれでいい」
「うん」
気がつくと、おれの方が無口になってた。いやー、これはただならんことである。この男もさすがだ。口数が少ないようでいて、実はけっこうおしゃべりだ。聞かせるすべを心得てる。まあ、考えてみりゃ、そりゃそうだよな。これで食ってるんだからな、こいつだって。おれの大先輩で、兄弟子といっていいのかもしれんよな。まだまだ勉強しなきゃなーと思って、おれはそいつをじいっと見てた。

「第一、おれは、あの男に関してのいんちきな話なら、これまでにだって山ほど聞いてる」男は静かにそう言った。「あの男との、くんずほぐれつの一夜の話をことこまかに話して聞かせる女だの、あの男に剣の奥義を指南したの、傷の手当てをして生き返らせただのと言って、怪しげな武器だの薬だのを売りつけるやつだのを、どれだけ見たことか。いちいち怒ってちゃ身体がもたん。あの男だってそうだろう。聞いたらあきれて笑うだろうが、本気で怒ったりはしないだろう」
「汚されたとは思わないのか、おまえにとって大事なものが?まあ…おれがこんなこと言うのもあれなんだが」
男は首をふった。「おれが、もちっと若ければな。十四、五歳のガキだったら、そういうこともひょっとしたらな、あったかもしれん。だが、もう、この年になると、そこまでカッカしたりはせんよ。それに、ここだけの話、おれはもしかしたら、ちょっといい気味と思ってるのかもしらんよ、あの男がそんな風に、あることないこと話のたねにされてるのを見て」
「どういうことだ?」
「少し嫉妬してるのか、あまり早く死にすぎるからこういうことになる、ざまみろと思っているというか」
「あんた、本当に」思わずおれはそう言った。「その人が好きなんだな。おれの…」
弟が、と言いかけて口ごもっちまった。何だか悪いような気がして。男は大声で笑い、ぴしゃっとひざを打って立ち上がった。
「腹がへったな。おまえもだろう?この先に、おれが来るとき泊まった宿がある。食い物もワインもまあまあだった。いっしょに泊まって、めしでも食わんか?」
「そこで今夜、あんたが皆にしてる話ってのを聞かせてくれるか?」
「いいとも。そっちの話もだ。もっと聞かせろ。何でもおまえの話だと、あの男は生き返るんだって?」
「うん…まあな」おれは、ことばを濁した。
「どうやってだ?脱走するのか?コロセウムで、勝つのか?」
「死んだと思ってコロセウムの地下に運ばれる途中で、息を吹き返す」おれは、しぶしぶそう言った。「あのな、その方が皆が喜ぶんだ。特に娘たちや子どもがな。死んじまって生き返らないのと最初は両方話してたんだが、小さな坊主やきれいな娘が泣きながら帰ってくのを見るのがつらくて、最後にゃ、ぱあっと笑ってほしくて」
男は笑いをかみ殺してるようだった。「気持ちはわかる。おまえらしいな」
「そりゃどうも」おれは、むっつりそう言った。
何かこいつの前だとどうも、おれはだんだん弟に似てくるような気がするぜ。

その四 黒ひげの男はかなり融通がきく性格らしいこと

宿屋のめしは、おれがおごった。そしたらそいつが酒をおごった。
「おまえ一人が広めてるのじゃないかもしらんが」男は言った。「生きのびるって話はかなり広まっているんだよ。おれはそら、絶対に見たことしか話さんだろ。だから、あの男が死んだって言うと、この数年来だんだんと、皆、それでは納得せんのだ。『あんたが見たのはそこまででしょうが、そのあと、かつがれて行くときに、まだ息がかすかにあることに、仲間の一人が気づいて、その場で手当をしたはずですよ』なんて、まことしやかに言い出すやつが、いつも必ず一人か二人いる。そして、このごろじゃそれに加えて、『生きのびたあの方と現に会った』『あの方の口から直接、意識をとり戻したときのお話を聞いた』などと断言するやつが、あとをたたん。『目を開けたら、皇女がのぞきこんでたそうだ』だの『元老院議員の屋敷の一室にいて、アヒルの鳴く声が聞こえたそうだ』だのと」
「す、すまん」とりあえず、おれはあやまった。
「おれは、はじめ相手にもしてなかったが」男は気にしてないというように片手をふってみせて、つづけた。「そういうこと言うやつらの目が、どれもこれも、まっとうで、ふつうで、それで自信をもってそう言うから、ちょっと、ほっとけなくなった。自分の見たこと、知ってることを疑うわけじゃないが、現に、よみがえった将軍が、自分で話して回ってると言うんじゃな。幽霊も、復活も、おれは信じていやしないが、それでも、この目でたしかめたかった。で、おまえの噂をたどって、ここまで来たっていうわけだ」

「それで、これからはどうするんだ?」おれは恐る恐る聞いた。
「どうするかな。まあ、飲めや」男はおれの杯に酒を注いだ。「こうやって、事実かどうかたしかめたら、もうあとはどうにでもなる」
「そんなもんかい?」
「おれが見たのはそこまでだ、そのあと、ひょっとして息を吹き返して助かったのか、それはおれは知らない。本人が生きて、そう言って回ってるんならそれはそうかもしれませんが、私がこの目でたしかめたわけじゃないから、そこは何とも言えません…そういう風に言っといてもいい」
「たしかめたんじゃないか、その目で。おれがにせものだったってことを」
男はくっくっと、のどで笑った。「にせものだって自分で言いきり、その証拠まで皆に見せて、それでもにせものと皆に認めてもらえないにせものは、果してにせものと言えるんだろうか?むずかしい問題だ」

その五 新しい地方を開拓してみたこと

ゆうべはまったく寝てないってゆーのに、おれの目は変にさえて、(まあ、考えてみりゃ、昼間から夜中にかけて、けっこうたっぷり寝てたようなもんだが)その夜はまた明け方まで、男といろいろ話し、互いに情報を交換した。男のいつもしている話も聞かせてもらった。嘘はひとつもまじえていないというだけあって、格調高くて、圧倒された。おれなんかまだまだだと、心から思った。
「おまえには絶対の強みがあるよ」男はおれをはげまして言った。「とにかくそれだけ似てるんだ。ゆうべ、火の粉を浴びながら立ってた時の金色の肌の輝きまで、まったくあいつとうり二つだった。かんしゃくおこしてどなった時もな。あいつそっくりの声だった」
「そういうことを聞くたびに、気がとがめるんだよなあ」おれはぼやいた。「だっておれ、何の苦労もしてないし、身体だって全然、きたえたこともないのに」
「そりゃ、あいつだってそうだろう」男は笑った。「苦労しましたって顔はしてなかったし、きたえましたって身体もしてなかった。どうかした時には、まるっきり子どものように無邪気な顔に見えたし、おまえもそうだが、大きな強い獣みたいにしなやかで自然で、おとなしそうな様子をしてて、おれは、そこが好きだった。苦悩してるって感じじゃなくて、変におっとりのんびり見えるのがな。これ見よがしのところがちっともなかったんだ」

おれたちは次の日、別れて、それぞれちがう方向へ旅だった。それきり、そいつには会ってない。もうこりたので、その地方にはおれが近づかないようにしてるせいもあるかもしれない。
このごろは、おれはもっぱら海岸ぞいを旅してる。海べの掘っ建て小屋で、流木を燃やして虹色の炎を見てると、いい気分になる。漁師たちの、おれなんか顔負けのほら話を聞いてると、おれも彼らのように船にのって、遠い国へと行ってみたくなる。おまえはいい身体をしてるし、船の仕事の手伝いしてくれるならいっしょに連れて行ってやるぜ、って言ってくれるやつもいるんだが、力仕事はきらいだしなあ。それに、あんまり遠くに行っちまって、家に帰れなくなったら、おふくろにだって悪い。なんてことを考えながら、おれは今夜も一人でカキなべ作って、ただよってくるいい匂いに、鼻をぴくぴくさせている。

第六編 おれにつきまとう女について

その一 おれが逃げ出す決心がつかずうじうじしていたこと

あれ、やばいかもしれない、とおれは思った。
ひょっとして、これがそうかな。

海辺の村々でも、弟の話はやっぱり一番うけがよかった。
特に、聞き手に女たちが多いせいか、奥さんや皇女との恋愛談が好まれた。異国情緒もたまには盛り込まなくてはと思っておれは、ゲルマニア娘との恋の話や、生きのびたあと、仲間のアフリカ出身の男と、そいつの故郷に行って、そいつの娘と結婚する話をでっちあげて、これもなかなか好評だった。

ところがそんな夏のある夜、砂浜で、女たちを前に、弟がまだ幼い皇女と会って、初めて寝た時の話をして皆を笑わせたりうっとりさせたりしてる時、一人だけ笑わない女がいるのに気がついたんだ。
そして、そう思ってみると、その女、このへんでは見ない顔で、しかも毎晩来てる気がする。

このあたりの村は街道が近くを通ってて、港にもそこそこの船が入るから、女の旅人もそれなりに多い。その中にはおれの話を聞きにくる者もむろん、いる。
だが、何日も滞在して聞いてるとなると、こいつはちょっと尋常じゃない。
第一、どう見ても楽しんで聞いてない。
どころか、ひじょーに不愉快そうだ。

前に、ある男から聞いたことがある。
弟の話をして、金をもらって生きているやつってのは多いが、その中には女もずいぶんいる、と。
そして、そういう女たちの中には、明らかに何かかんちがいしていて、弟に愛されただの、寝たことがあるだのと勝手に思いこんでいる者も多いんだそうな。
「嘘とわかってついてりゃ、まだ始末がいいんだけどなあ」と、話してくれた男は苦笑してた。「自分でも本当にその気になって、固く信じこんでいるのが一番やっかいなんだ。ま、その方が話に迫力が出るから、聞いてて面白いっていうやつもいるが、おれはそうは思わん、ただただ、気味が悪いだけだ」
それもまあいい、同業者として困るのは、と男は眉をひそめた。
「こっちのしてる話と、自分の勝手な妄想とが、くいちがってると、半狂乱になるんだ。自分の世界と自分自身が否定されたと感じるらしくて、きいきい怒って、かみついてくる。理屈でわかる相手じゃないし、あしらってすむもんでもない。困ったもんだよ」
どうすりゃいいんだ、そういう時は、と聞くと、ひたすら、相手にせんことだ、できたらすぐに、その土地からはなれてしまえ、と男は言った。

で、ひょっとして、これがそうかな。
おれはまだ、そんな女にこれまで会ったことはないんだが。

おれは女は皆、好きだし、恐いと思ったこともない。
でも、何ごとにも初めってことはあるし、そういう女だったら、わからない。
この土地を早いとこ離れた方がいいのかなあ、と思ったり、でもこの季節とれるボラはうまいしなあ、と思ったりして、おれはついつい、とどまっていた。

その二 弟と皇女についてはさまざまな話があったこと

おれはそのころ、弟と皇女の話をやたら話してたわけなんだけど、この二人のカンケーについちゃー、それこそもー、ありとあらゆるやつが、ありとあらゆる話してて何でもありって世界だった。本当に何があったんだか知ってるもんは誰もなくって、それだけにもー、皆が言いたいほーだい何でも言ってた。
皇女はすんげえ、美人だったそーだ。これはもー、誰の話も一致してた。それも、かわいいとか、ハカナイとかって感じではなく、とにかくもう、堂々としてて、優雅で高貴でゴージャスで、っていう感じだったらしい。おれの好みだ。弟も好みだったんかなあ。
でもって、すんごく、頭もよかった。気も強かった。これも誰もがそう言ってた。いいじゃん。それもおれの好みだ。(つーか、おれってめんどうくさがりだから、相手がとっとと決めてくれて、好きなように鼻面つかんでひっぱり回してくれる方が楽なのなー。そんなの、がまんできないってやつもいるけど、がまんできなくなったら、やだって言って動かなきゃいいんだし。)
でもって、弟とは昔、恋仲だったらしい。昔ったって皇女はそこそこ若くて結婚してる(むろん、弟とじゃない)から、弟とつきあってたのって、ほとんど十代なかばのころになる。二人ともやるじゃんか、なあ。
老皇帝が、つまり皇女の父親が弟を気に入ってつれ回してる間にどっかで皇女と出会ってくっついたんだろうってのが、大方の話だ。キスどまりだの、手をにぎっただけだのって話もないわけじゃなかったが、大抵は二人はもうしっかりと行くとこまで行ってたし、やるこた全部やってたって話になってた。
そのあと何かあって、まー、そんなガキが二人でいちゃいちゃやってたわけだしするからして、どーせ、しょーもないことでけんかでもしたんだろーが、二人は別れて、その内それぞれ、別の相手と結婚して、どっちも同じころ男の子が生まれてる。何かやっぱり、気が合うってのか、波長が同じ二人だったんだろーなー。

そのあとすぐ、皇女のだんなは病気で死んじまう。そのあと、弟と皇女は公式の席とかで何度か会ったらしいが、焼けぼっくいに火のつくとこまでは行かんかったらしい。皇女が弟を追っかけ回して、弟は逃げまくってたって話もある。本当なら、やるもんだぜ。弟も。
まーなー、弟の嫁さんて人も、もとスペインの山賊だったって話もあって、弟を手ごめにしてむりやり結婚したんだって、ものすげー話も一部じゃあるからな。どーせ嘘とは思うけど、でも相手が山賊の美女ならなー、恐いけどそーゆーこと、ちょっとされても見たいよなー。
こー考えてっと、おれは弟のことがわかんなくなる。まじめだったかもしれねーが、決しておもしろくねーやつじゃないよな。人気者で、どんな噂もたっちまうってこと割り引いても、そーとーに変なやつだったんじゃねーかなーって思っちまう。そーゆーとこが女にはきっと、こたえられなかったんじゃねーのかしらん。
だってよー、弟はその奥さんととってもうまくいってて、子どももかわいがってたって、そこはまた誰の話も一致すんだぜ。だから皇女と浮気なんてとんでもなかったって風につながるんだけど、だけど、手ごめにされたって話とこれが、何気に両立してっとこがすごいよなー。そんなことされた女と、ふつーに仲よくくらしてたのみならず、ちゃんと家長として奥さんにそれなりの敬意をはらわせてたわけなんだろう?やっぱり変なやつだよなあ。すごいっつーか、まあ、その噂が本当だったとしてのこったけど。

で、その奥さんと子どもが残酷に殺されちまったわけだ。これについても、実は危機一髪のとこで、山賊の時の仲間で、近くに住んでたやつらがかけつけて、二人を助けたって話もあったけど、ほとんどそれは信じられてなかった。スペインの村の、狂ったばあさんが、その話をしてるってもっぱらの噂だった。ばあさんは何でも夫に死なれたあと、娘と二人で宿屋を経営してたんだが、その娘が客に手ごめにされて殺されて、その一年後かなんかに、泊り客がして聞かせた弟の話を聞いている内、自分が弟の家に昔、乳母で仕えていたと思いこんじまったらしい。それだけならまだどうってことはなかったんだが、ばあさんときたら、その男が弟の妻子を殺した一人だと錯覚した。
って、ひょっとしたら、その男が、ばあさんを恐がらせようとしてつーか、臨場感てのを出そうとして、わざとそういう話し方をしたのかもな。この商売じゃ、よくあるこったもんな。だけどなあ、相手を見ろっつーのよな。自業自得と言いたいけど、なんか、ひとごとじゃない気もして寒けがしてくる話でもあるんだよな。ばあさんはそれで何と、奥さまと坊やの仇をとろうと思いつめて、翌朝、その男がめし食ってる時、包丁で刺し殺しちまった。当然、逮捕されて牢屋行きだが、今でもその牢獄の中で、奥さまと坊やが実は生きてて、自分を助けに来てくれて、死んだ娘とその坊やが結婚して孫がいっぱいできて幸せになってるつもりで、そういう話を暗い独房の中で、来る日も来る日も、ぼそぼそしゃべってるんだそうだ。
おれはもう、この話聞いた時には、いろんな意味でとゆーよりか、あらゆる意味で、もうめいっぱい、めいっちまった。二度と聞きたくなかったし、こうやってきちんと話せるほど覚えてるのが自分でも腹たつぐらい、すっきり忘れてしまいたかった。でも、弟の話をして回ってる連中の中では、この話はそれはそれで人気があった。救いのない、恐い話としてな。やると、それなりに人が集まるし、手っとり早く金も入るのよ。おれはやる勇気なかったけど、この話するやつとぶつかると、そっちの方に人が大勢行っちまうこともあったぐらいだ。おれも時々、聞いてみたけど、話はそーとー詳しくなってて、宿屋の様子とか、殺す場面とか、やたら細かくなっていた。聞いてる連中、恐がりながらも皆けっこう喜んでたがよー、にしても、何べん聞いたって、めいるっきゃない話だぜ。弟の奥さんと子どもが助かったって話は、いっつも、そのばあさんの話とセットになってて、だからつまり、それは結局、なかった話ってことになってたのよな。

んで、そのあと、コロセウムで奴隷になった弟と皇女はあいまみえるわけなんだが、そのあとすぐに皇女は、自分の弟であるところの新皇帝を裏切って、元老院やおれの弟と手をくんで、クーデターを計画してる。
このクーデターが、どたん場でばれちまって、脱走しようとした弟が待ち伏せにあってとらえられ、地下牢につるされるはめになったのは、皇女が裏切ったからって話がもっぱらだった。新皇帝が幼い息子を殺すぞと皇女をおどして、白状させたらしい。
そのことで皇女を悪く言うもんも多いが、しょーがないよなー、母親だもんなーって言うやつもいて、おれも、そう思っちまうくちだ。弟もそうだったんだろ、死ぬ時に皇女に、新皇帝が死んだから、あんたの子どもはもう大丈夫、心配しなくていいよ、って言ってやったらしい。そういうとこは、やっぱ、もう、いいやつだよな。女に好かれるのもわかるよなー。でもま、おれだって言うけどな、そこまでそうなっちまったら、それはやっぱり。

弟の死んだあと、その、皇女の幼い息子ってのが皇帝になったんだが、一応。でも、元老院が正式に認めなかったり何やかやで、あっとゆー間に失脚して皇位を追われた。それで皇女はそのまま息子といっしょにローマをはなれて、今は地中海のどっかの島に行っちまって、そこでひっそり暮らしてるらしい。
それでおれは、時々ちょっと、まさかとは思うがそれでもちょっと、おそれ多くも皇女さまがよ、島をぬけ出し、おれの話をこそっと聞きにきて、なかみが何かと気にくわねーもんだから、にらんでるんじゃあるめーななんて、まー、まずはあり得ないことを、ちょろっと考えてみたりしてた。

その三 おれの決断はちょっと遅すぎたかもしれないこと

女は、あいかわらず毎晩やってくる。皆に顔を見られたくないのか、後ろのはしっこに座ってて、にこりともせず黙っておれをにらみつづけてる。ずうっと、泣きも笑いもしない。最高にやりにくい客だ。気になるから話にはずみがつかなくて、いまいち、できが悪くなる。営業妨害だぜまったく。
黒いマントをすっぽり着てることが多い。この暑いのによ。おれと同じくらいの中年だ。姿はなかなかよく、マントの上からでよくわからんが、つくべきとこには肉がつき、しまるところはしまってる。顔のつくりも悪かないが、ゴージャスっていう感じじゃない。しっかりしてて、利口そうだが、どっちかというと、めだたん顔だ。だが、ものすごく身分の高い方ってのは、案外こんな一見地味な感じなんだと、おやじが話してたような気がする。そう思ったら落ちつかなくて、けつのあたりがむずむずしてくる。

どんな話をしてたって、女はきげんが悪いんだが、中でも、おー、怒ってる怒ってる、これはもう絶対怒ってると見ててはっきりわかるのは、弟がコロセウムで死んで皆にかつがれてアリーナから去ったあと、実はよみがえるって話をしてる時だ。その時の皆の喜びや、少し回復したあとの、でも世間じゃ誰も弟が生きてるってことは知らないから、ひっそりと元老院議員の屋敷の一室にかくまわれてる時の、皇女との静かな幸福な語り合い、なんてとこをやってる時に、この女、一番きげんが悪い。
最初はただ単に、ひょっとして議員の屋敷の典雅さが不足してんだろうか(だっておれ、自分の育った家のこと思い出してしゃべってたもんな、他に参考になるもんないし、ローマのえらいさんのおうちってのは多分もっと洗練されてんじゃないかなあなんて、実はびくびくもんで)とか思ってたけど、やっぱ、そーゆー問題じゃないみたいだ。弟がよみがえったことそのものが気に入らないみたいだった。
でも、だからよー、それだったら聞きに来るなよー、おれなんか見限って、行っちまえばいーじゃんかよー。
だけど女は毎晩来る。
おれは昔から持久戦てのに勝ったためしがない。飼い犬にだって、猫にだって負けた。おふくろは、そんなおれを、あきらめがいいとかやさしいとか欲がなくてかわいそうなぐらいだとか、さんざんほめたくって抱きしめてくれたけど、ただただ根性がないだけって話もあるのよなあ。気持ちのいいクッションに座って本よんでて、飼い猫がのそのそやってきて、そのクッションのはしに座って、まんまるくなって眠ったまま、じーりじりじーりじり押してくると、いつも結局クッションあけわたしてたもんなあ。鳴いてもほっとかなきゃだめです、言うこと聞いたあとでないと骨はやっちゃだめですと下男がいくら教えてくれても、犬が悲しそうな顔するといつも負けちまって言うなりになって、だからおれが飼った犬は皆バカ犬になったしよ。

ま、そんなこた、いいんだって。とにかくおれは、早々に降参して逃げ出すことにしたんだよ。荷物とも言えないほどの荷物まとめて、別れ惜しんで泣いてくれる漁師の奥さんたちにキスしてもらって、食うもんちゃんと食うんだよって、魚や貝の干物とか持たせてもらって出発し、一日歩いて、山に入った。岩だらけの土地で、山羊がきょとんとこっちを見てる小さな村に入って、宿をとった。
空が何だか嵐もようで、稲妻もぴかぴかしてたから、今夜は話をするつもりじゃなかったんだが、泊まってる客の中に、おれの話を聞いたことのあるやつがいて、どーせ嵐で足どめくって、夜は長くてすることないから、何かしゃべってくれってんで、宿の食堂に泊まり客や、聞きつけてやってきた村の連中やらが十人ばっか集まってきた。そのくらいの人数相手に話すのも、そりゃそれなりに味があっていいもんだ。おれはもちろんすぐ承知して、果物やらチーズやら皆がテーブルにおくから、おれも魚の干物とか出したら、女たちが、あれま、珍しいものをと大喜びした。おれはおれで、新鮮なチーズがとろけそうにうまく、それかじってワイン飲んで、幸福な気持ちになってしゃべろうとしたら、稲光がときどき照らし出す、うす暗いへやの向こうのすみっこに、あの女が座ってるじゃないか。

一瞬、目の迷いかと思った。だがすぐに宿のかみさんが、「あら、お客さん、そんなとこにいなさらなくっても、もっとこっちへ」と声かけたんで、ここに泊まってるんだってわかった。おれのあとで来たんだ。てことは、おれをつけてきたのか?
女は首をふって動かなかった。わけありと見たのか、人に近づけない病気にかかってるとでも思ったか、皆はそのまま女のことは放っといて、そっちに背を向け、おれの方を見た。
おれだって長年やってる仕事だよ。こんなことで動揺はしないさ。だけど、弟が生きのびて、アフリカに渡って、そこでヌミディア人の友だちに狩りのしかたとか教えてもらったり、ヘビやワニと格闘したりしている話で村人たちの目を輝かせながら、稲光にうかび上がるたびごと、黙ってじっとおれを見ている壁ぎわの女の、白い顔の中にぽっかり開いた底しれない穴みたいな黒い二つの目を忘れられなかった。
話が終わると皆満足してため息つきながら立ち上がり、口々にこんな面白い話は聞いたこともないと言ってくれた。乳房の大きい、チーズのいい匂いをさせた娘が一人寄ってきて、疲れたでしょと言っておれの後ろに回って肩をもんでくれた。だんだんそれに力が入ってきて、おれが後ろに首を回して娘のえりもとの紐を歯でくわえてひっぱってほどき、ぷるぷるはりきった胸の谷間に顔を押しつけ出すころには、もう食堂には誰もいなくなってて、あの女も消えていた。

でもおれは、いつもに比べりゃ何となくそそくさと、その娘とことをすませた。そして、疲れちゃいたけれど、夜あけにその宿を出発して、歩いた、歩いた、もうひたすら歩いたね。何度も何度もふり返っちゃ、誰もついて来てないかたしかめながら。
ようやく小さな町について、宿をとって、もう、泥のように夜まで眠った。
そしたら、顔見知りの女が、さっきちらと見てあんたじゃないかと思ったらやっぱりそうだったのと言って、へやを訪ねてきた。女といっても白髪まじりで前歯もぬけたおばさんだが、元気な人で、やっぱり弟の話をして回ってる一人だった。ときどき客の入りが悪くて金に困ると、弟の母親だって嘘をついて思い出話を語るってのが、ここ一番の伝家の宝刀で、あたしもあれは実はあんまり使いたくはないんだけどさ、とよく言っていた。
今日はそう金に困ってはないらしく、だからきちんとコロセウムの話をしようと思ってるんだけど、よかったら、その前かあとに、あんたも自分の話をしないかい、と言うのだった。このおばさんはトラのまねがものすごくうまいので、コロセウムの話はそれなりに圧巻だった。
おれはじゃー、弟と皇女の若い頃のけんか別れの話でもしよっかなーと言うと、おばさんはたのむよと言って大いに喜んだ。

で、このあとの話はもー、見当がつくんじゃねーの?
おれが、その宿屋の広間に入ってって、気どった上品なお客さんらが、上品にワインとか飲みながら、それでも、そこだけは田舎のガキとちっともかわらない、話を聞きたい楽しさで、目をらんらんと輝かせながら待ってる前に出て行って、「あの人は、ローマのようでした。美しく、気高く、貪欲で、力強くて、残酷でした。初めて私と彼女とが会ったのは、いちょうの葉が金の雨のようにふりそそいでくる晴れわたった秋の日のこと」と話し出して、あっという間に皆が、身体は気どって椅子にもたせかけ、指はワインの杯をものうげにもてあそんで、首とかも後ろにひいてるんだが、それでもぐうんと身をのり出して、ひきつけられてくるのがはっきりわかって、やったー、今日もいただき、と思って、ひょっと見ると、はしっこのテーブルにあの女が座って、静かにこっちを見てやがんのよ。

おれはもう、頭ん中がまっしろになって、しどろもどろになりかけたけど、幸いちょうど弟も皇女と会って、その美しさにぼーっとしてるってとこだったから、何とかボロを出さずにすんだ。
そのままとにかく話はつづけ、まあまあの線でまとめて、何とかかんとか切り上げて、早々におばさん(トラを連想させる金と黒の衣をまとって、堂々、しずしずと登場して来なすったのを、手をとっておれが椅子にみちびいた)に話をひきわたして、おれはへやに引き上げ、また出発のしたくをした。いられないよー、いられるもんかよー、こんなとこに。

その四 何とか女をふりきっておれがまた海べに出たこと

おれってさ、鈍感なぐらい恐がりじゃなくて、今でも夜道を知らない土地でも平気で一人で歩いちまったりして、よくそれで今日まで無事に手足も目鼻も全部くっつけて生きてるよなーと感心されたりもするんだけど、そのくせ、何かひとつふっと恐くなると、もーどーしよ-もなく次から次へと恐くなってとまんないのな。どーして今までこんなことにあんなに平気でいられたんだろうって、もー、自分でもふしぎなくらいに、とめどなく、はてしなく、どこどこまでも恐くなんのな。昔、子どものころ、召使の一人が水さしが化けて人の首をしめに来るって、今思うとバカみたいな恐い話をしてくれたあと、家中の水さしが恐くて恐くて、よけようとして、ものすごい回り道して廊下歩いてたり、最後はちょっとでも形の似てるもんは皆恐くて、家で飼ってた猿のしっぽやクジャクの首まで恐かったもん。
そのときと同じ気分で、今度ももう、恐くて恐くて、子どものようにべそかいてしまいそうだった。
とにかく逃げ出した。この町には、おやじの知り合いがいたんで、訪ねてって、向こうがびっくりして喜んで、まあ泊まってけの食事してけの言うのをことわって、馬借りて一日飛ばした。
冷静に考えたら、あの女が、女の足で、あの町までおれを追っかけて来られるはずがない。よっぽど人脈と金があったら別だけど、ふつーの女にまー、それはない。
ふつーの女でなかったら、っていう、ぞっとするような可能性はさしあたり考えないことにした。皇女その人だとか、この世のもんじゃない化けものだってことも含めて。
だとしたら、あの町にいたのも、その前の宿屋にいたのも、偶然ってことはあり得る。無理がひじょーにありすぎる、ごーいんな考え方ではあるけれど、まったく絶対、ないって言いきれることじゃない。
そう思うことにした。偶然だ。

だったらこれで、ふりきれるはずだ。
おれはまた、海べに出た。今度は街道ぞいでも何でもない、淋しい小さい漁村だった。宿屋ってものもなかったから、仏頂面の村長にかけあって、人が住んでないおんぼろ小屋を一つ借りた。朝の舟が着くころ浜べに行って、仕事が一段落した漁師たちや女たち相手に、弟の話を聞かせてやって、皆大喜びした。はたして、女はいなかった。
おれはもう、ほっとして、やったーと思って、天にも上る気持ちで、昼過ぎにまた、朝の話を聞き逃した連中が集まってきて、聞かせてくれとせがむので、調子にのって、弟のアフリカへの船旅の途中、サメと戦った話とかをたっぷりして聞かせ、魚やパンをどっさりもらって、幸せーな気持ちで小屋に帰った。
あたりは紫色の夕もやにつつまれて、砂浜が銀色に見えた。うす水色の空にいくつも明るい金色の星が光りはじめている。見渡す限り誰もいなかった。いいながめだ。
鼻歌歌いながら小屋の入り口をたしかめた。誰か入ったらわかるようにはさんでおいた小枝も動いてなくて、人が入った形跡はない。もう大丈夫と思いながら戸をあけて中に入った。夜中に襲われちゃかなわんから、ひときわ念を入れて、中からしっかりかけがねをかけた。
そして、ふり向いたら、寝台の上に女が座ってた。

第七編 おれが女と協力して作った物語について

その一 女がおれに対する意見をきわめてはっきりと述べたこと

わっと叫んでおれは思わず、どさっとその場にしりもちをついてしまった。女はそんなおれを、さげすみきった目でじっと見て、「何をそうあわてているのです?」と、万年雪も顔負けの冷たい声で聞いた。
「ど、どこから入った?」おれは魚やパンの散らばってる中に手をついたまま、思わず窓や裏口の戸の方を見た。
「そんなことはどうでもよいことです」女は鼻で笑った。「おまえと話をしたくて来ました」
おれはまだ、あたりを見回していた。
「椅子に座ったらどうですか」女は、さもいやそうに眉をひそめて、おれを見ていた。「そこでは話ができません」
ようやくおれは、おんぼろ小屋の羽目板が一枚こわれて、ぶらぶらしかけてたのに気づいた。それが、はずれて、たてかけてある。てえことは、この女、壁をこわして入ったのかよ。早い話がどろぼーじゃねーか。そのわりには態度がでかすぎねーか?
「あんたなあ」おれは、せいぜいすごみをきかした声で言った。
女は軽べつをこめた目でおれを見返した。「何ですか?」
だ、だめだ。格調と迫力がありすぎて、完璧におれが位負けする。それでも、やるだけやろうとしてみた。
「人んちに黙って入りこんでだなあ」
「人の思い出に黙ってふみこんで泥足でふみにじっていくおまえのような人間に」女はゆっくり、楽しんでいるかのように一言、一言、ていねいに言った。「そんなことを言う資格はないわ」

やっぱり、要するに話はそれかよ。おれは立ち上がって、椅子に座りに行った。
「あの男を知ってるのかい?」
女はおれのしぐさをじっと見守っていた。そして、おれの問いには答えず、椅子に座ったおれに、低い静かな声で言いわたした。
「見た目がどんなに同じでも、おまえには、あの人のような気高さも力強さも、かけらもないわ」
嫌悪をこめて、女はつづけた。
「おまえのしている生き方のいやしさが、その顔に、語ることばの一つ一つににじみ出ている」
何か言ったらやばいと思って、おれはひたすら黙って聞いてた。
「おまえが語るあの人の話は」女はつづけた。「決して、あの人の話などではないわ。おまえのことばの一つ一つが、あの人を汚し、傷つけ、あの人の名前を思い出を、泥にまみれさせている」
「そんなにいやなら、聞かなきゃいいのに」おれはおずおず言ってみた。
「なぜそう話したいのです?」女は冷たく、鋭く聞いた。「金がほしいの?女と寝たいの?」
おれは黙ってた。そんなこと聞かれても、おれにだってよくわからないのに。」
「皆にうっとり見つめられるのがうれしいの?虫けらのような、くずのようなおまえでも、生きているという実感のようなものが持てるからですか?」女はたたみかけた。「あの人のことを話していると、あの人になったような気がするの?似ても似つかない、おまえのような人間が?あの人のことを、こっけいにし、笑いものにし、おまえや、おまえの話を聞く者たちと同じ程度の、ちっぽけな、いやしい人間だと思いこんでいると、安心して、幸せになれるのですか?偉大なもの、美しいもの、自分たちには手のとどかないものを、そうやって、ことばで汚してはずかしめ、破壊するのは快感ですか?美しい女を手ごめにし、強い男をなぶりものにして殺したように、すっきりとして気分がよくなるの?コロセウムの観客たちと同じように」

おれはやっぱり黙ってた。言うだけ言ったら気がすんで出て行ってくれるんじゃないかなあと期待してたからなのだが、それだけでなく、こうまで言われてるのに、おれは何だか、この女が嫌いになれなかった。なぜなんだろう?
「ずいぶん無口なのですね」女はあざけるように言った。「ふだんあんなによく回る舌はどうしたのです。何か言ったらどうですか?」
「おれに、どうしてほしいんだ?」おれは聞いた。「弟の話をやめてほしいのか?」
「やめられるの?」女はせせら笑った。「おまえの唯一の生きがいのくせに」
「でも、おれ…」おれは上目づかいに女を見た。「あんたが、どうしてもそうしろってたのむんなら、そりゃ…」
「そして、他の女から、いえ、男でも子どもでも年よりでもから、そう言わずにどうしても話してと頼まれたら、すぐにまた話しはじめるのでしょう、ことわりきれなくて」
うわー。見ぬかれてる。
女は目をそらしながら、かすかに深いため息をついた。おれは女が、おれのことでため息をつくのって、だいたいがそう嫌いじゃない。しょーがないわねーって、あきらめて、おれのこと甘やかしてくれる時が多いから。でも、この女のため息はそうじゃなくて、本当に自分が救いようのない、だめな人間になった気が、腹の底までずんとした。
「おまえはそういう人間だわ」女は言った。「その根性は直りません」
そう言われたら本当にもう、そうにちがいないという気にさせられて、おれはますます小さくなった。
「金をやって、話さないと約束させても同じこと。それを使いはたしてしまったら、いえ、まだ使いはたしてなくっても、話したくなったらおまえは話すわ。そういうことでも、他のことでも、おまえはしたくなったことをがまんすることなんてできない」
図星だなあ。
何でこんなにおれのことがよくわかるのかってふしぎで、おれは思わず、思ったことをそのまま口にしちまった。
「あの男にも、そんなとこがあったのか?」
女はきっとおれを見た。もう、あんまりすさまじい目だったもんで、言ったことをとりつくろおうとして、おれはますます、とりかえしのつかないことを口走っちまった。
「だってほら、そうでなきゃ、あんたがそんなにおれのことわかるなんて思えない。おれだけ見てて…」

いきなり女が立ち上がり、おれに向かって近づいてきた。静かに、そして決然として。まっ正面から近よられたので、かえってどうするつもりかわからず、何もできないでいる内に、女は、上品ぶった口調とは似あわない、日やけした、強そうな腕をぬっとつき出して、いきなり、おれの首っ玉をつかんで、しめつけた。
何だかだ言ったって女と思って油断してたら、これがものすごい力だった。おれは、ぎゅうとうなり、目を白黒させ、舌をつき出してあえいだ。
幸い女は、すぐ手をはなした。そして、くるりとふり向いておれに背を向け、「見てられないわ!」とののしった。「もう少し、どうかした顔はできないの!?抵抗ぐらいしたらどうなの?そんな顔して、そんな身体して、どうしてそんなに、みっともなくていられるの?許せない!」
ほとんど一瞬、長くて数秒のことだったと思うのに、女の力はすごかった。怒りにまかせてしめ上げたんだ。おれののどはつぶされそうになってて、「奥さん…」と言った声が、ほんとに今でもつぶれそうな、ひっかすれた声になってた。「ねえ…あんたいったい、誰なんです?」

その二 女の言うことはますます厳しくなること

言ってすぐ、しまったと思った。これじゃ女に、弟と寝たの結婚したのという妄想をしゃべってくれと、こっちから注文してるも同然じゃねーかよ。したらば女はここぞとばかりにしゃべりまくって、自分でますますコーフンしちまう。わー、おれはまったく、何でこうやっていつも、自分から墓穴を掘るようなことするんだろ。せっせと墓穴掘ったっていう点だけじゃ、弟と似てるのかもなあ。やつも奥さんと子どもの死体埋めてやろうとして、疲れはてた身体で穴ほって埋めてやって、力つきてその場に倒れてるところを奴隷商人につかまったってゆーか、つりあげられたってゆーか、そうだったらしいんだけど、おれはもう、それ聞くたび、けがして疲れきってんのに、そんなことすっからだよなあ、ハエがたかったってウジがわいたって、奥さんも子どもももう何も感じやしないんだから、ほっといてゆっくり休みゃよかったのに、きっと自分が間にあわなかったのに気がとがめて、罪ほろぼしにそうせずにはいられなかったんだろーけど、それにしてもなあとか思ってたけど、人のこと言えんわ、こりゃ。
ところが女は、唇を固く結んで、ついとそっぽを向き、「わたくしが誰でも、そんなことはおまえには関係ないわ」と苦々しそうに言った。
こ、この気位の高さはナミじゃない。肌のやけ具合や、手の荒れ具合は絶対身分の高い女とは思えないんだが、まさかっ、まさか、もうマジで、どっかのやんごとない方じゃあるまいなあ。

「おまえの話を聞くたびに、わたくしの心の中で、あの人が苦しみます」女は顔をそむけたまま言った。「自分は決してそんな人間ではなかったのにと、あの人が当惑し、苦しんでいる姿が見える。誇り高く、けんめいに生きたのに、死んでなお、自分はなぜそのように、傷つけられ、さげすまれ、自分がどんなことがあっても決してしようとしなかった生き方をした、なろうとしなかった人間であったかのように、面白おかしく語られなければならないのか、それは自分に何かいたらないところがあったからなのかと、あの人が自分を責めている姿が見える。あの人に連なるすべての人たちも、あの人と同じように、おまえの舌で汚されている。あの人に姿かたちは同じでも、似ても似つかないおまえ、高貴なもののひとかけらもなく、そんなものは永遠に理解することさえもできないおまえによって。人が楽しんでくれるからいい、とおまえは言うのですか。でも、楽しませると言いながら、人々が聞くのは、語られるあの人の気高さではなく、語るおまえのいやしさだわ。あの人の気高さに名前を借りて、おまえのいやしさが、人々の中に、世界に、広がってゆくのです。そのことを、あの人がどんなにくやしく、悲しく思うか、そのこともおまえはきっと、考えてみたこともないのですね」

そうなんだろうか、と、おれは思う。
弟だって本当は、おれみたいに、だらしなく、下品に、ちゃらんぽらんに生きたかったんじゃないんだろうか。
少なくともおれは、そんなに立派に生きて死ぬより、弟につまらない人間でいいから、他人を少々ふみにじってもいいから、ぬくぬくと、幸せに長生きしてほしかった。
それで皆に好かれなくっても、そんなの知ったこっちゃない。軽べつされたって、それが何だ。人間なんて、生きててなんぼのものじゃないか。
おれは、弟を、情けなく、だらしなく語ることで、弟をめちゃくちゃにして、こわして、いい気分になってるんだろうと女は言うが、言われてみれば、そんな気分がないとは言えない。
おれは弟に怒ってるんだ。何でそんなに申し分なく、きれいに生きてしまったのかって。何でもうちょっと気をぬいて、手をぬいて、肩の力もぬいて、他にももう、ぬくもんがあれば皆ぬいちまって、自分勝手にならなかったんだって。
「どうして何も言わないの?」女がじれて、怒る。「言うことがないの?」
「そうかもな」おれはつぶやく。「あんた、おれを殺す気か?」
「できればそうしたい」女は静かに言った。「おまえをこの目で見てからずっと、その方法を考えていました」

「弟の…あの人の話をして回っているのは、おれだけじゃあるまいに」おれは、のどをさする。時間がたつにつれて、痛みがひどくなる気がしちまう。「皆、殺して回るつもりか?」
「頭に血がのぼった欲求不満の女たちの世迷い言や、自分の名を売るのだけが目的で、あの人の名前を利用しようとねらっている連中の得手勝手な作り話はどうでもいいのよ、放っておいても」女は居たけだかに片づけた。「おまえの話は、そうはいかない」
ほ、ほめてくれてるのか、ひょっとして?でも、この際、ほめてくれなくていいから、その欲求不満の世迷い言や、名を売るためのでっち上げと、この女が思ってる話と同様に、さげすんで、切りすてて、無視してくれると、なんぼか、ありがたいんだが。
「安心しなさい。おまえのことは放っておきます」女は言った。「迷いましたが結局は、そうすることに決めました。明日、この地を去って、わたくしは北へ行きます。好きなだけ、おまえの与太話をつづけるといいわ。ただ、言っておきたかったの。おまえの話を聞くたびに、それを皆が喜んでいるのを見るたびに、そのことを思い出すたびに、心もひきさかれそうになるほどに苦しんでいる女がいる、と。それだけは忘れてはならない。それだけは、おまえは覚えておきなさい」

おれは女を見た。女もおれをじっと見つめてる。得体のしれない、強く激しい目の色だ。
「わかっているわ。それでもおまえは話すでしょう」女は言った。「わたくしにそれは、とめられない。とめる権利も多分ない。けれど、覚えておくのです。決して忘れてはなりません。おまえの話に苦しんでいる者、傷ついている者がいることを。それは、わたくしだけではないわ。他にもきっといるはずだわ。その苦しみの深さを、傷の痛みの激しさを、心にぽっかり開くうつろな穴の、底知れぬ深さと暗さを、知りなさい。そして、それでも話したいと思ったら、話しなさい。それでもやっぱり話さなければいられないと思うことだけを。おまえの一言ひとことが、誰かの心に血をほとばしらせていることを知りながら、それでもことばを、口にしなさい。あの人について話すということは、そういうことだと、おまえは知らねばなりません」
おれは頭をかかえた。「無茶いうな」
「何が無茶です」女はおれをじっと見た。「こんなことぐらいでおまえは話をやめはしないわ」ほとんど、はげましてるように聞こえた。「わたくしには、わかっています」

その三 女がおれにたのみごとをすること

女は立ち上がった。話はもう終わりだとでも言うように。そして、入ってきた羽目板の破れたとこから出てくのかなあと思って見ていたら、やっぱりそういうことはしないで、おれの後ろの戸口から出るつもりらしく、おれの方へと歩みよってきた。そうしながら足を次第にゆるめて、とめた。
何だかすごく、ためらっているようだった。まるで、この女らしくなく。おれが目をあげて見ると、女はおれをじっと見ながら、ひるんだ、ものすごく迷っている表情で、ようやく、いやいや言っているように、「ひとつ、おまえにたのみがあるのですが」と言った。
ふーん。おれはもともと、あんまり人の気持ちは先読みしないが、この女の場合は特に、まったく見当がつかないから、何ひとつ推測するのをあきらめてしまってた。だから黙って女を見上げた。
女はちょっと目をそらした。似てない似てないと言いながら、やっぱりおれを見てると弟のことを思い出して、つらいのかもしれない。それっきりまた黙っていた。
「何だい?」おれはうながした。
「おまえに、話をしてほしい」女は、格子ごしに星が輝く空が見える窓の方をじっと見つめたまま言った。
黒いマントにすっぽりおおわれた、そのほどよく肉のついた美しい肩が、かすかに上下しているのがわかる。

「…話?」おれは聞き返した。それはいったい、どういうことだ?おれの話を聞いたら、苦しくなって傷ついて、心の中に暗くて深い底もみえない穴とやらがぽっかりあくんじゃなかったのかよ?(おれだって、言われて傷ついたから、しつこく言葉を覚えてるんだ。)「おれの話を?聞きたいのか?」
「かんちがいしないで」言い出したことを後悔しているように、女の口調はどこか上の空だった。「わたくしが話す話を、おまえが話してほしいのです」
やっぱりわけがわからない。おれは指で頭をかき、あごをかいた。「ええっと…誰に?」
「皆にです」女の声は低かった。
「皆にって?」おれはまだのみこめてない。
「おまえの話を聞きにくる皆に」女はとうとうじれったくなったように、一言、一言、はっきりと、かんでふくめるように言った。「わたくしが、これからおまえに話して聞かせる話を、おまえが、明日から、話してほしいのです」

「そ、それはあの…」おれは、とまどいまくりまくった。「あの、その、何だ、どうなんだ、あんたが自分で、皆に話しちゃまずいのか。弟の話なんだろ?だったらあんたもほら、おれたちと同じように…奥さんならやれるよ。雰囲気あるし、しゃべり方なんてまるで皇女さまそこのけ…」
絶対言っちゃいけないことをまた言ったってすぐにわかった。女はすさまじい目でおれをにらんだ。海蛇の二三匹が、じゅうと蒲焼きになりそうな恐ろしい目で、おれはただちに、すぐに、即座に降参した。女にこんな目でにらまれるのはいやだ。女はにこにこしていてほしい。
「話せよ」おれは言った。
せっかくそう言ってやったのに、女はまだ、めらめら怒りの燃えている目でおれをにらみつけてた。そして、ののしった。「何でそう、ころころころころ、言ってることを変えるのよ!?」
「あんたが変わりそうにないからだ」おれはまた、のどが痛くなってきて、せきこんだ。「どっちかが変わるしかないだろ」
女はおれをにらみつづけ、吐きすてるように言った。「おまえには信念というものがないのですね」
「あるもんかよ」おれは言った。「自慢じゃないが、そんなもん、生まれてこのかた一度も持ったことがない」
「ほんとにもう、神々がのろわしい」女は天をあおいだ。「どうしてもう、おまえのような、とりどころのないできそこないが、こうまであの人に似ているのか」

おれは首とのどが痛くて、それどころではなかった。ぐるぐる頭を回したりかしげたりしていると、女はうとましそうにそんなおれを長いことじっと見ていてから、切り口上で「こういう話です」と言い出した。「命が助かったあと、身体が回復してから、おまえはね…旅に出て、ローマのあちこちをさまようのです。ちょうど今しているように、一人で、ぶらぶら、あてもなく。おまえはコロセウムで死んだことになっていて、だから、おまえは目だたないようひっそりと、街道からはずれた村を旅して歩く。住み込み仕事で食いつなぎながら」
「いいとも。おまえの言うとおりさ。それはおれが今してることだからな…ちょっと待てよ」おれは言った。「おれが皆にしている話じゃ、おれはそのあと剣闘士だった仲間のヌミディア人とアフリカに行って、その男の村で暮らして、そいつの娘と結婚…」
「そんな話は犬にでもくわせておしまい」女はきっぱり言いきった。「アフリカは忘れなさい。おまえはローマをさまようのです」
「いいけど」おれはため息をついた。アフリカの話は気に入ってたんだよな。「で?」
女は目を閉じ、息を吐いた。「ある日、おまえは舟にのって」と女は言った。「地中海のある島に行く。舟が着くのが遅すぎて、おまえは宿がとれません。あてどなく、寝しずまった家々がならぶ海ぞいの小道を歩いて行くと、ひとつの家から小さな明かりがもれています。広い窓は開け放しになっていて、白いカーテンが星の光を映しながら音もなく静かに風にゆれている。もしかしたら、誰かまだ起きていて、泊めてくれるかもしれないと期待して、おまえはそっと中をのぞく。そこは簡素な美しいへや。大きなベッドが窓際にあって、美しい女が一人、やつれた、青白い顔で眠っています。それは、あなたが去ったあと、都で息子が皇位につき、でもすぐに失脚して、その幼い息子とともに、この島に来ていた、皇女です」

「おまえは皇女が、コロセウムで皇帝が死んだ後どうしたか、その先の話を、作らなかったでしょう?」ささやくように女は言った。「おまえが実は生きていたにせよ、死んでしまったのにせよ、どちらにしても。でも皇女は、そのあとも、生きて、苦しんだのよ。おまえへの愛に。それを語る人もない孤独に。息子のためにおまえを裏切った、その記憶に。来る日も来る日も、彼女は一人で浜に出て、黙って沖を見ていたわ。何かを待っているように、何かを探しているように。そうやって、かみしめつづけた淋しさと悲しみが、失った誇りが、次第にその心だけではなく、身体もむしばみ、生きる力を奪ったの」
「おれは悲しい話はきらいなんだよ」おれは口ごもった。「人も聞きたがらない。だから、おれは作らなかった」
「それはちがう。おまえは、まちがっています」女は強く首をふった。「悲しい話も人は聞きたい。そして思いきり泣いて涙を枯れはてるまで流したい。それで救われることもあるの。思いきり心をかきむしられなければ、ほどけて行かない悲しみもあるのよ」
「そのことは、考えてみよう」おれは約束した。「皇女は病気なのか?」
女はうなずいた。「もう今夜にも命は絶えそう」
「それじゃ皆が、つきそっているんだろうに」
女は首をふった。「あの方は、そんな気配を誰にもお見せにならなかった。身近に仕えている者たちにさえ。苦痛も、衰弱も、すべてをかくして、まるで、よろいの下の傷を見せないように、自分の苦しみを自分だけのもののように抱きかかえて、どなたの目にもふれさせず。その日の日暮れまで、力ないお声ではあったけれど、陽気に笑って軽口をたたいておられた。お目の色も軽やかで、涼しげで、だから、誰も気がつかなかった。そんなにまでもう、力つきておられたとは。終わりが近いのはわかっていたわ。回りの皆も覚悟はしていた。でもまだ何日かは大丈夫と思っていた。まさかもう、その夜とは。あの方の息子も、つきそっていた者たちも、だから皆、次のへやにとひき上げていた。一人にしてくれと、あの方がおっしゃったから。そして、ほほえんで目を閉じられて眠ってしまわれたようだったから」
女の声が、かすかにだがふるえているのに、おれは気づいた。聞いている者が胸をかきむしられずにはいられないような、激しい、限りない悲しみと怒りをこめて、女は言った。
「あの方は、一人で亡くなられた」

「そう皆が思っているんだな?」おれは言った。「でも実際は…」
「実際は、おまえがいたのです」女は押し殺した声で言った。「おまえは皇女を見て驚く。カーテンをはらって、そっと中に入ってくる。皇女のベッドのそばに座り、あの方の髪におまえはそっと手をふれる」
女の声も身体もわななき出しているような気がして、おれは立ち、女の肩に後ろから手をかけて身体を支えた。女は抵抗しなかった。だが、おれの腕に身体をあずけようとはしないまま、まっすぐ立って前を見ていた。
「皇女は目を開け、おまえを見ます。そして言う…」
女の声がふるえ、歯をくいしばったので、ことばがとぎれた。おれは、そのあとをつづけた。
「…夢かと思ったわ」
女はうなずいた。「あなたなのね」
「そうしたら、おれが…」
「愛していた」女は急いで、早口に言った。「どんな女を愛するよりも、おまえのことを、いつも、誰よりも、ずっとおれは愛していた」

「それは聞かないでも」おれは言った。「わたくしにはわかっていた」
「だったらなぜ」女は泣いていた。「もっと幸せにならなかったんだ?」

その四 おれたちが話をつづけていったこと

「わたくしは幸せでした」むせび泣く女の身体のふるえをとめようと、おれはその肩を強くつかんで抱いた。「ずっと幸せだったし、今も幸せです」
「だったらなぜ死ぬんだ?」女は言った。「なぜ、こんなに苦しんで、こんなに孤独だったんだ?どうして誰にも本当の苦しみや悲しみを語ろうとせず、いつも、きれいな顔で楽しそうに笑ってた?息子を愛せなかったって?そんなことが何なんだ。世間によくあることなのに」
え、おい、そうだったのかよ?おれはびっくりした。でもすぐに、そういうこともそりゃあるかもなあと思った。だから急いで考えて言った。
「あの子に知られたくなかった。幸せにしてやりたかった。あなたは最後に、わたくしに言った。あの子はもう、心配ないと。そのことばのとおりにしたかったの。あの子を決して、傷つけたくなかった。だから誰にも言えなかった」
「あなたがあの子を愛せないのは、おれを裏切ったからか、もっと前からなのか、それはおれにはわからない。だが、どちらでもいい、あなたは誰かに言うべきだった。そのことでそんなに苦しみ、心を悩ませ、一人で弱って死ぬぐらいなら、あの子を傷つけたってよかったんだ。いや、そんなことをしなくても、誰かが助けてくれたはずだ。島の女も、侍女たちも。どうしていつも、一人で苦しみをひきうけてしまう?あなただって弱いんだ。どうして助けを求めない?自分一人で戦いすぎるよ。そうやってあなたが逝ってしまったあと、助けを求められないまま、何もしてやれなかったまま、残されてしまった者たちの気持ちを、思いやってはくれないのか?」

おれは思わず、吐息のように笑う。その息を首すじにうけて、女がびくっとなかばふり向く。おれは、そのほおに顔をよせる。
「あなたがそれを言うのですか?」とおれは聞く。笑いながらも目に涙がにじんできたのを感じながら。「なぜあなたは、もっと皆に、わがままを言わなかったの?わたくしの父は、あなたのあれほどの献身と愛に、充分にこたえてくれたと言える?あなたの幸せを第一に考えてくれたと言える?父はあなたを本当に愛していたんじゃない。そう疑ったことは?故郷に帰らせてほしい。あなたのそのささやかな望みさえ、父は無視した。皇帝となってローマのためにつくしつづけることを要求した。それがあなたにとって残酷なだけで、負担なだけで、何の喜びも生まないことを知っていながら。父を恨まなかった?憎まなかった?疑わなかった?本当に?あなたを慕い、愛したというあらゆる人に、近よるな、勝手にしろと言いたくなかった?好きな生き方は本当にそれだった?もっと他にしたいことはなかった?」
女がいきなり、荒々しくおれの腕の中で身体の向きを変えてふり向く。涙でぐしょぐしょになった顔の、大きな目が驚きにいっぱいに見開かれて、くいいるようにおれを見つめる。みるみるその顔が、ゆがんで、くずれて、女はいきなり、おれの顔に、自分の顔を押しつける。
「なぜそんなことを」と、歯をくいしばりながら女はうめく。男のようなしわがれ声で。どこか、おれに似た声で。「なぜそんなことを知っている?」
そして、おれの首に手をかける。悲鳴をあげたくなるほど強く、女とは思えぬ力で、おれの首すじに女の指がめりこんで、おれの顔を自分の方にひきよせながら、その手は怒りでわなないている。
「おまえが憎い。殺したい」歯ぎしりしながら女は言う。「どうしてそんなに、おれのことがわかる?」

「許して」とおれはささやく。「傷つけたくはなかったのに」
女はしばらく黙っている。涙を流しながらおれにほほをよせ、かすかに口を開いて息をしている。そしてようやく静かに言う。「おれを何より傷つけるのは、あなたがこうして、死んでいこうとしていることだ」
「許して」おれはまた、ささやく。「わたくしの力がたりなかった。時間もたりなかった。許して。もう少し生きていられたら、きっと何とかできた。あなたへの愛と思い出を、心で整理して、あの子のことも愛せた。信じて。もっと長生きをしたら、わたくしはきっと、幸福な年よりになって、笑いながら孫たちにあなたの話をしてやれた」
「許しをこうな。わびなければならないことを、おまえは何もしていない」女は背伸びし、おれの顔に激しく顔をこすりつける。そして、心をこめて言った。「あなたは、とてもよくやった。本当に、充分に、がんばった。あの子のことも幸せにした。あなたは本当によくやった。あなたのことを誰を愛するよりも愛した人間として、おれはあなたを本当に誇りに思い、尊敬している。おれのことをそんなにまで思って最後まで、自分自身と戦ってくれた、そのけなげさが限りなくいとしい。いつまでもいっしょにいたいよ。どこまでも連れて行きたい」
言いながら女は、一言ごとにむせび泣いた。おれはその女の身体を抱きしめながら、自分が言うべき皇女のことばを考えていた。考えるまでもなかった。そんなの、絶対、もう、ひとつっきゃありえない。
「抱いて下さい」おれは言った。「夜が明けるまで。わたくしの命がつきるまで。わたくしを抱いて。力の限り愛して。あなたの腕の中で、わたくしを死なせて」

そして、激しくすすり泣きつづける女と抱きあって、熱いくちづけをくり返しながら、二人で床の上に倒れて行きながら、おれは思っていた。
こんなのって、ありかよー!?

死にかけてる皇女相手とは、どー考えても無理がありそうな、それこそいつか黒ひげの男が言ってた、くんずほぐれつの一夜とやらを女とすごして、精根つきて、昼近くまで眠って起きたら、とっくに女はいなくなってた。
女のつけてた、かぐわしい香の香りが、おれの身体のあらゆるところに、小屋のあちこちに残ってた。
死んだ皇女の亡霊にしちゃ女は生き生きしすぎてたから、多分、皇女にかわいがられてた侍女か何かだったんだと思う。
何にせよ、おれは女との約束を守った。
それ以後、弟のことを話すときは、どんだけ工夫して、気をつけて話していても、喜んでくれる人だけじゃなく、きっと死ぬほど傷ついて、つらい思いをするやつもいるんだってことを、肝に銘じて忘れなかった。
そういうやつがいないよう、せいいっぱいに考えて、努力して話すけど、でも、どんなに努力したって、やっぱりそういうことはある。
それが話すってことなんだし、生きるってことなんだと思った。
おれのふむ一歩一歩が誰かをきっと踏んでるんだし、吐く息のひとつひとつが誰かをきっと不快にしてる。
それでも、生きてくしかないんだって。おれたちは、誰もかれも、皆。

そうやってまた、時が流れてった。おれの回りを。おれの話を聞く人々と、おれが歩いて行く村々の上を。

第八編 おれの今の状況と今後の展望について

その一 おれが自分の生まれ故郷に足を向けたこと

おれも年をとった。めっきり身体も弱った。長い旅はできない。だが酒は好きだ。女たちも。おしゃべりも。女を抱いてうまく行かず、満足させられないときは、おれは泣いて、そして話を聞かせてやる。昔の恋の話だ。おれを愛して、愛しぬいて、海を毎日見つづけていた女の話だ。死にぎわに、おれに会って、星の光の下でおれたちは抱きあった。その話をする。その女のことを思い出すと他の女を抱けなくなると言って泣くと、女たちも泣いてくれて、かわいそうなおじいちゃんとおれに口づけし、そんな恋をしてみたいと吐息をつく、おれの腕の中で、夜があけるまで。
おれの舌のすべりは年をとるほどに、ますますみがきがかかる。衰えを知らない。聞き手は一人のときも、大勢のときもある。身分の高い奥方、わんぱくな子どもたち、恋人どうしのことも、女たち、男たち、老人だけのこともある。それぞれを見て、それぞれに、そのときにあった話をおれはして聞かせる。聞き手は皆、それで泣いたり、笑ったり、こぶしをにぎって、かたずをのむ。
そうやっていると、おれはほんとに自分が雪の舞う北の森で戦ったような気になる。やつれた顔に至福の笑みをうかべて、おれを抱きしめた女との一夜がほんとにあったような気がしてくる。

嘘とほんとの区別が、いつかおまえはつかなくなっちまわないかい?おふくろはよくそう言って、子どものおれを心配した。
でも、そう言ってたおふくろ自身、おやじをみとったあとは、何だか何もわからなくなっちまったみたいで、夢とうつつの区別がわかってないようだと、甥っ子たちが嘆いていた。
そのおふくろの死んだ年も、おやじの死んだ年もとっくに越えて、もう、いつ死んでもふしぎはない年よりだが、おれはその点、まだ頭の中で嘘とほんとの区別はついてる。まあ、おれなりに整理はできてる。
嘘ばかりついて、作り話ばかりしてると、かえって本当のことはどこまでか、よくわかってくることもあるんだ。

しばらく前からスペインにいる。おれの生まれ故郷だが、来たことはなかった。土が赤く、緑は黒いほど濃い。風が甘く、空気はどっしりと重い。おれと肌のあう土地だ。いつものようにおれは酒場に居候し、人に話を聞かせては酒をめぐんでもらって生きてる。いいくらしだ。こんなくらしがいつまでつづくかなんて、おれは心配はしない。どんなくらしも、いつかはおわる。おれのつきつづける嘘もいつかはおしまいになる。すえた馬小屋のわらの上で、おれの命はおわるのか、凍てついた道の上で酔っぱらって寒さも感じないまま死んだおれの白いひげを、霜がそれ以上にまっ白にかざるのか。どうなってもおれはかまわない。何ごとにもいつかは、おわりが来る。それでいい。

その二 ばあさんは狂っても人を殺してもいなかったこと

ここに来て間もないころ、ある村を通りかかった。街道ぞいの大きな立派な、宿屋と居酒屋をかねた家があった。初めてなのに、おれはその風景をどこかで見た、そんな気がした。なだらかに上がる坂道、家の表にとまった荷馬車、風にはためく洗濯物、家の後ろに広がる森、そういうものの何もかもが。そして間もなく気がついた。これはあの、狂ったばあさまの話の中にあった風景だ。ばあさまが、弟の妻と子どもが実は生きてて、自分を助けに来てくれたと、ありもしない話をでっちあげて話して聞かせるという、その話の中に出てくる、実際にはあるはずのない風景だ。

けれども、それはそこにちゃんとあった。
村の酒場でたずねたら、ああ、あれは、って主人が答えた。昔、ローマの将軍んちの乳母をしていた、ばあさんの家でさ。将軍の息子さんと、ばあさんの娘とが結婚して、今じゃいっしょに住んでまさ。将軍の奥さんと息子さんは仕事で留守が多いけど、娘がきりもり上手のしゃきしゃき者だから、宿屋は繁盛してまさあね。孫が何人も生まれて、子守りで忙しいって、ばあさんはここに来るたびこぼすけど、そこはほれ、昔は乳母だ、見てて手際のいいことったら。
奥さんと子どもは殺されたとか、ばあさんが狂ってあることないこと話してるとかって噂を聞いたぜ、と言ってやると、そこにいた村の連中が大笑いした。それはどっちも、あの奥さまがご自分で広めなさった噂なのさ、と皆が口々に教えてくれた。世間にそう信じさせときゃ、余分なせんさくもないし、追っ手もかからないからな。もと山賊のあの奥さまが、そう簡単にローマの兵士に殺されたりなさるもんかね。将軍は兵士に殺された他の農場の女と子どもの替え玉死体をまちがえて埋葬しちまいなさったのさ。奥さまと仲間たちが、検分に来る上官の目をごまかそうとして、おいといた、それをな。
将軍までがまちがえるとは、奥さまたちは考えてなかったのさね。そうそう、あれはちっと、うかつだ。だけど、将軍があんなに早く、かけつけて来るなんて誰も予想はできなかったろ。まあ、そりゃそうなんだが。
すぐ、気がついた奥さまは、奴隷商人にとらえられただんなを取り返そうとして、馬が倒れるまで追ったそうだ。その後もさがし回ってローマまで行ったが、だんなさまはもう死んでいた。奥さまは酔うと今でも、ローマを呪う。うんうん、だんなの心も命も奪ったローマが憎いんだよ。あんなお年になってもねえ。愛してなさったんだねえ。息子はいつもそのそばで、黙って聞いてやっている。ありゃいいやつだ。あんな息子がほしいもんだ。
あれ、そう言えば、じいさん、あんた、あの息子によく似てるねえ。
他人の空似さ、と言っておれは酒場を逃げ出した。

おれは、その宿屋には近づかなかった。
ばあさんだって、そうそう何人も似た顔が次々あらわれちゃ、びっくりするだろうと思ったからな。だから、森のかげからながめるだけにしておいた。
宿屋はほんとに繁盛してるみたいで、ひっきりなしに人が出入りしてた。元気そうな中年女が、とび回って働いてて、これがばあさんの娘なんだろう。問題のばあさんらしい人は、ちっとも狂った様子なんかなく、庭の椅子にゆったり座って、にこにこしながら小さい子どもがそのへんを、ちょこまかするのを見守ってた。もうちょっと年上らしい子どもたちは、いっちょまえの顔つきで、中年女を手伝って、てきぱきいろんな仕事をしながら、時々ばあさんにしなだれかかっちゃ甘えてる。弟の孫たちなんだなあって、おれは思って見てた。弟の奥さんと息子とは、出かせぎに行ってるんだろう、姿が見えなかった。
のどかな陽射しが、ばあさんを包んでいる。おれの嘘っぱちの話とは反対に、この家も家族も風景も、本当はあったのに、お話の中で消えてたんだと思った。

そのことに、腹はたたなかった。そうびっくりもしなかった。そういうことは、いくらでもある。話されなかったからといって、この世にないとは限らない。皆はおれが嘘つきと言うが、別におれが嘘つかなくっても、世の中に消えてしまうほんとのことは、いくらでもある。本当になってしまう嘘も。嘘のかたちで残る本当のことも。
それでも、皆に忘れられて消えたって、本当のことは本当だ。
そして、嘘もまた、それを語ったやつがいて、信じたやつがいたってことは嘘じゃない。
その数日の間、明るい陽射しと森の香りに包まれて、楽しそうに笑う弟の孫たちの声や、何か言ってきかせているばあさんや娘の声を聞きながら、おれはうつらうつらして、村の連中から聞いた、弟の妻の話をいろいろ考えて、新しい話を頭の中で、あれこれ作り出そうとしていた。

その三 おれが弟の妻に名前は何かと聞いたこと

これは、おれがその間に見た、ただの夢かもしれないってことで聞いてほしい。
二日めの朝だったか、昼近いころ、おれがばあさんと子どもたちをながめていると、すうっと冷たいものが耳もとから首筋にあたって「動くんじゃないよ」と、低い女の声がした。

もちろん、おれは動かなかった。あごの下にくっついてるのは、いやってほど切れ味のいい剣の刃ってのはわかったし、声は落ちついていて、人殺しなんか別にどうとも思ってない人間特有のやさしさがあった。「そう、そのままで返事をおし」と、その声がつづけた。「おまえはいったい誰なんだい?」
「旅の者さ」おれは答えた。
「だろうね。このへんじゃ見ない顔だよ」声は言った。「なぜ昨日から、あの家を見てる?盗みに入る下見かい?」
そう言いながら、女は少しはなれた木蔭に向かって「もういいよ」と声をかけた。
思わずそちらをちらと見ると、そこに立って大きな弓をこちらに向けてかまえていた、たくましい男が一人、静かに身体をひいて、木蔭にとけこむようにすっと消えた。
だが、その一瞬おれは見た。その男が昔のおれに、そっくりなのを。ぎょっとして、そしてすぐ、ああ、そうか、と思った。それじゃ、あいつは。
て、いうことはこの女は。
見上げようとすると女はまた「動くんじゃないよ」と言ったが、どこかあったかい、からかうような調子もこもっていた。おれのすぐそばに立っているひきしまった長い足の、むきだしになったももに、軽く頭をくっつけると、女は平手で軽くおれの頭をはたき、「甘えるのが上手だね、じじいのくせに」と言った。「こんなばばあのおみ足に、何をでれでれしてんのさ」
「弟はまじめだから」おれは言った。「あんたの足にほっぺたをこすりつけたりはしなかったのかい」
「もちろん、したさ」女は大きな声で笑った。「こちらをお向き。ゆっくりとだよ」
おれは言われたとおりにした。すると女と目があった。大きな黒い、鋭い目だった。背が高く、大柄で、男のかっこうがしっくり似合っている。

「双子の話は聞いてたよ」女は言った。「あたしも息子も、遠くまで旅をするからね。だけど、見るのは初めてさ。ふうん」女はおれを見つめて笑った。「あの人が生きてたら、こんなじじいになったのかい」
「それはわからん」おれは答えた。「わしは、わしだよ。弟じゃない」そして、つけ加えてやった。「あんたのだんなが長生きしたって、わしほど魅力的なじじいになったか、そりゃわからん」
女は笑いながら剣をさやにおさめ、すいと身体を沈めるようにして、おれと並んで草の中に座った。
「あんた、名前は?」おれは聞いた。「誰も教えてくれなかったが」
「みんな、忘れているんだろ」さばさばと女は言った。「あたしも忘れた。ばあやは奥さまと呼ぶし、息子は母さんだからね。あんたも好きなように呼ぶといい」それからふと思い出したように言った。「昔の仲間はあたしのことをハヤブサと呼んでたよ。それで行くかい?」
「それで行こう。いい名だ、ハヤブサ」おれは言った。「弟も呼んでたのかい。おれのちっちゃな、かわいいハヤブサちゃん、とかさ」
ハヤブサは吹き出した。「笑わせるんじゃない」そして宿屋の方を見た。「あの人はあたしがそんな名で呼ばれてたことも知らなかったよ」

その四 おれが涙もろい年よりと言われてしまったこと

おれたちのいる森のはしは、夕日で金色に燃えていた。木の間から見える宿の裏庭では、ばあさんが小さな子どもの一人をひざに抱いていた。もう一人の子どもはテーブルの下にもぐって遊んでる。ハヤブサはちぎった草のはしを、よくそろった白い歯でかみながら、黙ってそれをながめている。
「あんたもよく、ここから見るのか」おれは聞いてみた。「あの家を、こんな風にして」
ハヤブサはからかうようにそっけなく「いいながめだろ」と言った。
「最高の風景だ」おれは言った。「なのになぜ、あんたはそれをかくすんだ?」
「危険だから」ハヤブサはぽっつり、そう言った。「突然おそわれるのには、もうこりた」
「弟が死んで、もう長いだろ」おれは言った。「おれは政治にゃとんと興味がないが、何でも噂じゃローマはもう今やしっちゃかめっちゃかで、皇帝の権威も国の威信も地に落ちてるらしいじゃないか。あんたたちが生きて、幸せになってるとわかったところで、誰も殺しに来るひまなんかあるまい」
「そうかもしれないが、用心にこしたことはない」ハヤブサは片膝たてた足の上に片手をかけたくつろいだ姿勢で、前を見たまま、そう言った。
「あんたが、自分の幸せをかくす理由は、本当にそれだけなのか?」おれは聞いた。「最初は用心のためだったにしても、今もまだどうしてそんなに、自分が悲惨に残酷に殺された話だの、乳母が狂った話だのって、救いのない話を広めなきゃならない?」
ハヤブサは黒く鋭く光る目でおれを見ただけで、黙っていた。

「おれはあんたに、いろいろ聞きたいことがあった」おれは草の中に片手をついて身体を支えながら、ハヤブサを見てそう言った。「どうして弟にほれたのかとか、あいつを手ごめにしたのかどうかとか。でも、そんなことはもうどうだって、どっちだっていい気がしてきた。ただひとつだけ、知りたいのは、なぜあんたが、いつもいつも、自分が残酷に殺され、この世からいなくなった話を、自分からばらまいて広めるのかだ。あんたは、いるのに。幸せになってるのに。何でわざわざ、そんな恐ろしい、救いのない、自分についての、ぞっとする話を、自分からあんたは広めるんだい?」
ハヤブサのほとんど白くなっている髪は、まだふさふさと豊かだった。日焼けした顔にはいくつも深いしわがあったが、荒々しい力強い表情はまるで若者のようだった。「そんな風に考えたことはなかった」てらいのない率直な口調だった。「そんなことを気にする人間がいるってことも。あんたはなぜ、そんなことを気にするの?」

「あんたの作る話は、人を絶望させる」考え考え、おれは言った。「幼い息子と二人、はりつけにされて焼かれた話にしても。狂った殺人鬼のばあさまが見た幻って話にしても」
「だから?」ハヤブサはおれを見つめて聞いた。
「聞くやつが、かわいそうとは思わないのか?」おれは言った。「本当のことならまだ、しかたがないぜ。でも、あんたは生きてるんだ、それも、幸せに。絶望もしてない。そのあんたの話を聞いて、絶望するやつはあんたはどう思うんだろう?そんな弱いやつは絶望しちまえと思ってるんだろうか?」
ハヤブサは黙ってる。おれは口ごもった。
「何だかあんたは最初から皆のことを、見限ってるようだ。そうやって、皆をあざ笑ってるみたいだ」
おれは片手でまぶたをこすった。「すまん。うまく言えんよ」
「いいよ」ハヤブサは言った。「こんな話はもう長いことしなかったから、なつかしい」そして指先で草をもてあそんでいた。「あんたの言うとおりだと思う。あたしはいつも思ってる。あたしだって絶望しなかったんだ。誰だって絶望しないでいられるって」
「あんたが絶望しなかったのは、でもやっぱり、誰かが助けてくれたからだろう。あんたが忘れているだけで」おれは言った。「何かを聞いて、何かを見て、絶望しないですんだんだ。きっと何かがあったはずだ。どんなに何もなかったように見えても」

ハヤブサはまた黙っておれを見ている。
「ひどい事実をかくして、きれいな話を聞かせるのも、そりゃ、人をバカにしてるかもしれん」おれは言った。「だが、美しい事実をかくして、ひどい話を広めるっていう、それは、どういう心なんだろう?あんたは、話の中で、自分を苦しめ、はずかしめて、殺す。それを聞いて、うっとり楽しんでるやつがいるっていうことも、多分、きっと、あんたは知ってる。あんたは、お話の中の自分をそいつらに渡していたぶらせといて、自分はどっかからそれを見て笑ってる。おれにはそんな気がしてならない。すごく、冷たい目でさ」
「あんたの話は面白い」ハヤブサは言った。
皮肉や、逃げようとしてるのではなく、ただ本当にそう思っているように。

「あんたは、そういうやつらのことを、きっと憎んでるんだろう」おれは言った。「でも、世の中には、そうじゃないやつも多い。一人の人間の心の中にも、そうじゃない部分もある。そういう人間や、そういう部分は、あんたの話に…おびえて苦しむ」急にのどがつまって、おれは言葉を切った。「おれも、そうだったよ」息をととのえてから言った。「あんたの殺された話が…とても、恐かった。狂ったばあさんの話もだ。とても恐くて、悲しかった。それでいて、どこかでそれを、楽しんでいた」おれは鼻をすすった。「あんたはひどい」
「泣くのはよしな」ハヤブサはあきれたように言った。「涙もろいじじいだね」
「あんたがそうやって、何に勝ちほころうとしているのか、おれにはわからない。でも、そういうことはしちゃいかんと思う。嘘をつくんだって、つきようってもんがある。人間をさげすんで…こんなもんでも与えとけば充分だろうっていう、そんなやり方はいかんだろ。あんたが不幸で、悪いやつなら、それはそれでいいさ。きっといいんだろう。だが、あんたは、そんな人じゃない。ちゃんとしたやさしい人で、幸せに生きてる。それで、それはないだろう」おれは首をふった。「あんたはとても…とても人をバカにしているんじゃないのか。幸福な人間も、不幸なやつもだ。生きのびた者も、死んじまった者も、それぞれに、あんたのやり方は、とても、バカにしている」
「あんた、あの人に似ているね」ハヤブサが突然そう言った。
おれは涙をぬぐって、宿屋の庭の方をながめた。もう、ばあさんも子どもたちもいなくなって、洗濯物と花だけが風にゆれてる。
「泣き顔がか?」と、ぐれてやった。
「外見じゃない」ハヤブサは言った。「考え方がそっくりだ」

中身が弟に似ていると言われたのは、それが最初だった。多分、最後にもなるんだろう。今度はおれが黙っていると、ハヤブサの方が口を開いた。
「あんたが話せばいいじゃないか。絶望しないですむような、あたしの話を、気がすむまでさ」
「いいのか?」
「あんたの言う通り、こんなご時世だ。あたしのことなんか、わざわざかくすほどのことでもなくなった」そして、力強い目でじっとおれを見た。「聞きたいことがあるならお聞き。何でも話すから」
おれたちの上にそそぐ陽射しはあたたかく、羽虫の羽が光のすじの中できらきらしていた。ふと見ると、向こうの方の木の一つによりかかって、あのたくましい男が、木もれ日の中で目を閉じて眠っているのが見えた。
いや、眠っていたのはこのおれだったのかもしれない。これらのすべては、おれがその時森のはずれで眠って見た、ものうい午後の夢かもしれない。
ともあれ、その時生まれた話は、今おれが酒場で旅人たちに聞かせる中で、一番人気のある話の一つになっている。

その五 おれの話はまだ当分おわりそうにないこと

旅人たちに、おれは話す。皇女とは別の、もう一人の、弟を愛した女の物語を。弟が信ずる理想を信じられず、夢みた未来にかけられず、それでも、そんな弟を、心から愛した女の物語だ。自由と放浪を何よりも愛し、束縛と定住を何よりも憎み、それでも一人の男を愛し、地上につなぎとめられたハヤブサのような女の物語。そして、やがて男の夢みた理想が、愛した国が、男を女から奪い、それを奪い返そうと地の果てまで走った女の物語。
この地方に古くから伝わる話じゃ、とおれは言ってきかせる。子どもも大人も皆が知っておる、遠い昔から語り伝えられた話じゃと。
もちろん嘘じゃ。だが、そう言わぬと旅人は真剣に聞かぬじゃろ。そして、今ではこの話は人づてに口から口へとこの地方に伝わって、皆が知っておる。土地の女も、男たちも、旅人にこの話をしてきかせ、この前など、わしは危うく酒場からたたき出されそうになった。よそもののくせに知ったかぶりで、この土地の古い話をするなと言われて。
わしは怒らぬ。怒るどころの話ではない。わしにとっては誇りになる。じゃろ?

わしは今夜もまた酒場で、旅人たちに話しつづける。酒をつげ、若いの。わしの話を信じるなよ。スペイン人は嘘が好きじゃ。じゃから、語って聞かせよう、と。
夜は長い。冬が近い。やがてまた、この村からも、わしは旅だってゆくじゃろう。今宵が最後のこの村での話かもしれぬ。酒をつげ、とわしは言う。じゃが、本当にわしを酔わせるのは酒ではなくて、夢中でわしを見つめながら、わしの一言ひとことに聞きとれておる一人ひとりの目の輝きじゃ。灯はわしひとりを照らしておるが、それをとりまく闇の向こうに、その人たちの姿が見える。わしは語りつづける。酒をつげ。若いの。もっと酒をつげ。
わしの声は闇にとけ、人の心に届く。夜がふけて行くにつれ、時が流れて行くにつれ。星がひとつまたひとつ消え、東の空が青くなり、夜明けの風が吹きはじめれば、わしの話は終わるだろう。夢からさめて人々はまた、つらい日々の暮らしに戻る。それでもその目に星のきらめきが、心に闇のあたたかさが残るなら、人はまた今日一日を笑って生きていけるだろう。涙でほおをぬらしながら、それでも歩いて行けるだろう。それもまた、うつつという名の夢の中を。
じゃから今夜も、わしは話す。山賊だった女の恋を。主人を慕った狼の旅を。自由を求めた奴隷たちの戦いを。一人の皇女の生と死を。皇帝や皇太子、近衛隊長、兵士や侍女や乳母の話を。明日もあさっても、その次の夜も。わしのことばがつづく限り、わしの命がある限り。

双子がいた!・・・・・完(2002.9.2.)



正直に話せば ーあとがきにかえてー

映画「グラディエーター」の続編が作られる、という話は「タイタニック」の時と同様、何年かごとに現れては消えるのですが、その何度めかの時に、「でも主人公が死んでしまっているのに、どうやって続編を作るのだろう」とファンの間でちょっと話題になりました。「実は生きていた」「実は双子がいた」というのが常套手段だが、という話も出ました。
直接には、この話「双子がいた!」は、それがきっかけで生まれました。

しかし、私がこの話を書いた理由は他にもいくつかありました。
ひとつは、映画の主人公が死ぬ直前の、その前夜からの場面を、私は人から書いてくれと言われても、どうしても書けませんでした。想像するのがつらすぎて。そんなことをしたら失礼と思って。
私は、これに限らず、戦争で戦う兵士の話を書くのも、「自分は人を殺したことがないのに」と思ってためらいます。それ以上に売春婦の話などは、決して気軽に書けません。五木寛之の小説「戒厳令の夜」で、娼婦に変装した女子学生が、声色を使って娼婦らしくふざけて見せて、売春をしているゲイの男性にたしなめられる場面があります。その場面が好きというのではないけれど、それをいつも思い出します。
少なくとも、そういう仕事や体験をしたこともない自分が、あれこれ詳しく書くことに、それに喜びを感じて楽しむことに、激しい嫌悪感と罪悪感を感じます。「風と共に去りぬ」の中で、アトランタの町の上流夫人たちが、娼婦を軽蔑しながら、その生活に異常な興味を示す場面(これはほほえましく滑稽に描かれているのですが)も思い浮かべずにはいられません。

だから、彼がとらえられ、死ぬまでの場面は書けないし、書くまいとあきらめていました。でも、それは怠惰で卑怯かもしれないという気持ちもどこかにあり、ずるいけれど、もし、本当のその時の彼の気持ちではなく、双子が推測したということでなら、書けるかもしれない、書いてもいいのかもしれないと思いました。

私は、いわゆるファンフィクションというものを、「グラディエーター」関係のものを書くまで書いたことがなかったし、他の小説を書くときとちがった意識は持ちませんでした。
しかし、もし何か自分で自戒していることがあったとすれば、それは、「映画や、登場人物への愛情よりも、それを題材とした自分の小説への愛情が上回ったら、その時点ですぐ、この題材からは離れ、書くのはやめる」ということでした。
映画や、主人公をはじめとする登場人物への解釈や愛し方はさまざまですから、私と他の人のそれがくいちがうことは当然あるし、そのずれが、映画のファンで、私の作品を読む人を傷つけてしまうこともあるだろうけれど、その人たちと私とが、この映画と登場人物たちを深く愛していたら、それでも何かが許しあえるし、わかりあえると思っていました。
ですが、自分の小説そのものを、映画より愛してしまったら、もうそんなことを求める資格はないと思っていました。
ファンフィクションを書く人たちの姿勢もこれまたさまざまでしょう。映画や漫画やその他のものでうけた刺激をもとにして、自分の内部を表現し、作品世界を作り上げ、それを、もととした作品以上に愛することも、もちろん当然あっていい。それが普通なのかもしれません。私もむろん、そういった姿勢がないわけではなく、むしろ、映画を何より愛する人は、私の小説が常に小説として何かを訴えよう、試みようとしていることに、「映画を利用して自分を語っている」という不快な印象と不信を持たれるかもしれません。
区別がつきにくいのですが、そういう工夫をすることは、一方で私なりにせいいっぱいの努力で、良心でもあるのです。こういう題材で書く時の。自分の考えた限りの哲学や思想、知るかぎりの知識、持っているかぎりの技術を使って、映画の世界や登場人物を自分なりにせいいっぱいに、飾ってあげてみたいという。
しかし、いえ、だからこそ、それはあくまで、すべて額縁で飾りなのであり、題材とした作品への愛情がまっ先にあるのでなかったら、意味がないと私は思っています。少なくとも、ファンフィクションとして読んでいただく利益を享受すべきではないと。

ある読者の方が、私の小説を「何よりも『グラディエーター』という映画の登場人物への愛情の深さに圧倒された」と言って下さったのは、その意味では本当にうれしく、安心できました。
ほとんど「営業許可証」として、店の壁にはっておきたいほどです(笑)。

しかし、それはそれとして、気をゆるめてはいけないと思っていますし、小説への愛情が、映画への愛情を上回ったら即、書くのはやめるという決意に変わりはありません。そこを忘れた小説には、少なくとも私の場合は確実に、あるいやしさがつきまとってくるだろうという気がします。

そう言いつつも白状しますと、この話は実は、「平家物語」や小町伝説(最近では「浮遊する小野小町」という名著があります)などにすべて共通する、「語り」の世界、伝承文学が生まれる過程というものを、私なりに具体的に描いてみたかったということもあります。
虫のいい、幸福な結末が生み出されるというのも、日本では近松の「心中天網島」、外国ではシェイクスピアの「リア王」が、文学的には全く価値の低い、ハッピーエンドの脚本で長く上演されてきた、などという事実があり、一方で悲劇的結末が守られて消えなかったのも、文学的な価値(そもそも、それは何なのでしょう。聞く人たちの喜び以外に、そんなもん、存在するのでしょうか)だけではなく、「悲しい話も人は聞きたい」民衆の要求が生き残らせたのだろうと思います。
「双子がいた!」の主人公が遭遇する事件や状況の数々は、あらゆる国で「物語を語る」人たちが味わってきた、危険であり迷いであり喜びであり生きがいでしょう。
そういう意味では、私はいわゆりファンフィクションというものが、文学の歴史の中で、決して珍しいものとも新しいものとも思いません。むしろきわめて古典的、正統的な伝統を持つ形式だと考えています。

なお、この「双子がいた!」のちゃらんぽらんな主人公は、私の多くの「グラ」小説と同様、お話の中では名前がないのですが、最初に映画のファンの皆さんと冗談を言っていた段階では、彼の名前は「マネシマス」でした。
ひょっと何かどうしても名前をお呼びになる必要にせまられましたら、そう呼んでやって下さいませ(笑)。

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カツジ猫