映画「グラディエーター」小説編日没まで

日没まで -マキシマスとアウレリウスー

なぜ私は、他の誰でもなく、あの男に皇帝の位をゆずろうとするのか?老皇帝は、幼い子どもだった、その男との出会いと、その後を追想する。

兄たち二人に連れられて軍に入った幼い少年は、利口ではしっこい一方で、ぬけめなく、ずるく、したたかで、嘘つきだった。その健康な生きる力と、かしこさと素直さを深く理解し、愛した若い皇帝は、その子どもに学問だけでなく、人としての生き方を与え、子どもは太陽に向かう草花のように、ひたむきに皇帝を愛し、慕った。今はあらゆる人に敬愛される偉大な将軍となった彼の、昔を知る老兵たちは「あれは、陛下の生んだ子ですな」と笑う…この幸福なラストから、映画につながるのがつらすぎるという方は、「マルクス君の夏休み日記」の世界につなげてしまって下さいね。

──(1)──

大胆な結論ではあるが、私の心はもう決まっている。
彼に、この国を、支配者としての私の権利を、すべて譲ろうと思う。
後の時代の人々が、このことについて、疑問や不審を抱いた時のために、彼と初めて会った時から今にいたるまでのことを、少しづつ書き留めていきたい。
私は自分の息子と娘を深く愛しており、また、大勢の尊敬できる友人、知人を持っている。
それらのすべてをさしおいて、人望ある有能な将軍とはいえ、部下の軍人の一人にすぎぬ、まだ若い彼に、この強大な権力を譲り渡そうと決意したのはなぜか。
公式の記録にはおそらく決して残ることはない、彼の人となり、私との関わりを、後の時代の人に伝え、私の彼に対する信頼と愛情を理解してもらうために、私はこれを書き残しておく。

──(2)──

私がまだ五十代の初めで、たまたま兵の訓練や、何人かの気の合った士官や将軍との交流もかねて、都から少し離れた村の近くにあった軍の駐屯地を、折々訪ねていた頃のことである。
夏の初めの、もう日が長くなった夕方、部下たちと森のそばの道を、馬を走らせていて、向こうの丘の中腹で、少年兵らしい二人が、ふざけて何かを放り上げたり、うけとめたりしているのを見た。
濃い緑の草を背景に、少年とは言え、たくましい二人の腕に、投げ上げられては宙に舞っている小さい白い物体が、どうやら人間らしいと気がついて、部下たちを制して、私は馬をとめて見つめた。
笑い声が風にのって流れてきた。それは、走り回っている二人の声だけではなく、宙に投げ上げられつづけている人影のものでもあるらしいとわかって、私はやや安心して肩の力を抜いた。
夕暮れに近い、少し弱くなった光の中で、二人の間を行ったり来たりして受け止められている、その人影は幼い子どもらしく、丸まって小さくなったり、弓のようにしなって伸びたりしながら、少年兵たちの腕から腕へと放り投げられつづけている。
奇妙な夢のような、不思議な光景だった。

──(3)──

それからまた何日かして、いくつかの村々を巡った帰り、今度は駐屯地からかなり離れた荒野を通った。大きな石があちこちに転がり、草もまばらで荒涼とした淋しい風景の地だ。腕ききの部下を数名連れていたのだが、その一人が何かを見つけて手を上げて制したので、私たちは皆、馬から下りて岩かげに身を隠した。
荒野の中にぽつんと立っているのは、まだ十にもなっていないような小さな男の子で、最初は近くの村から来た迷子かと思った。が、よく見ると、古びた兵士の服を着て、短い剣を腰に下げており…そこで私はふと気づいた。これはこの前、二人の少年兵がおもちゃにして遊んでいた子ども…おそらくは、彼らの弟ではないかと。
ちょうどその時、また部下の一人が私に注意をうながした。彼の指さす前方を見ると、少し向こうの岩のかげに、あの二人の少年兵が、こちらに背を向けて座って、男の子の方を見つめていた。時々、顔を見合わせて、声も出さずに肩をふるわせているのは、どうやら笑っているらしい。
男の子をおきざりにして、隠れて、どうするかを見ているのだろう。あきれたいたずら者たちだ、と思いながら、私もつい息を殺して、彼らの様子をながめていた。
男の子は、明らかに兄たちをさがしていた。あたりを見回し、いくつかの石のかげをのぞき、どちらに行こうかと迷うように、一方の方向に少し歩きかけては、また戻った。何回か、空を見上げたが、今日は曇り空で、午後を少し過ぎたばかりだから、太陽も星もなく、方角を決める目印になるものはない。
こちらを向いたので、男の子の顔がよく見えた。子どもらしい、あどけなさの残る顔だが、ひとりぼっちにされた不安で、目が大きく見開かれている。落ち着こうとするかのように、深呼吸して、また、あたりを見た。
しっかりしているな、と思った。声をあげて兄たちを呼ばないのは、危険を招いてはいけないと判断しているからだろう。負けず嫌いな少し怒ったようなまなざしは、子どもらしからぬ冷たい厳しい光を帯びて強い決意にみちていたが、それだけ必死で動揺を押し殺しているようで、けなげでもあった。
だが、彼がうろたえも泣きもしないのにつまらなくなったのか、岩かげの少年兵二人は顔を見合わせて首をすくめると、一人が息を吸い込んで、オオカミそっくりの鳴き声を長く尾をひいて、吠えた。
男の子はびくっと振り向いた。腰を落として身構える姿勢になって、あたりに目を配っている。そして、もう一度、空を見上げた。考えていることが手にとるようにわかる。こんな昼間からオオカミが出るかしら?でも今日は、こんなに曇って薄暗いから、ひょっとして…?
岩かげの二人はつっつきあって、声を殺して笑っている。ひどい奴らだ、と思いながら、何となく私も笑いをかみ殺していた。彼らの気持ちがわかる気もした。この男の子はなかなか、へこたれそうにない。兄たちとしては、こうやって、時々いじめて、強さを試してみたくなるのだろう。
男の子がまた、こちらを向いた。気持ちがくじけてきたのだろうか、さっきより困った、心細そうな表情になっている。一生懸命、唇をひきしめて、べそをかくまいとしているが、まっすぐに起こした小さな肩に、明らかに力が入っていた。
士官の一人が石を拾って、もてあそびながら私の方を見たので、私はうなずいた。彼はそっと身構えると、男の子から少し離れた草むらめがけて、その石を投げた。がさっと音がして、石が落ち、草が鳴る。男の子が飛び上がって、飛びすさると同時に、二人の少年兵がまるで稲妻のように岩のかげから飛び出した。一人は剣を抜いて音のした方に突進し、一人は男の子のそばに飛んで行き、抱き寄せてあたりに目を配った。
私は思わず、微笑んだ。
草むらに突進した一人は、あたりの草をけちらし、切り払って、何もいないのを何度もたしかめると、二人の方にかけ戻った。そして、少年兵たちは男の子をつかまえて、くるくる向きを変えさせて自分の方に向かせながら、まじめくさって叱りとばしていた。「勝手にふらふら行っちまうんじゃない!」とか、「おれたちを見失うなってあれほど言ったろ!?」とか言っているのが聞こえてきた。
男の子は、安心と当惑と不満の入りまじった顔で、かわるがわるに二人の顔を見上げている。口を開いて何か言ったのが聞こえた。何を言ったかまではわからなかったが、やわらかい、けんめいな、甘くかわいい声だった。兄の一人が「ばか」と言った。もう一人が男の子を抱き上げて、肩車にした。そして三人は曇り空の下を、駐屯地の方へと戻って行った。

──(4)──

私は、それからも何度か、三人を駐屯地で見かけた。いつも、いっしょにいることが多く、どうやら兄弟らしかった。少年兵たちの一番幼い連中よりも、男の子は更に小さかったが、年かさの少年たちに混じって、戦闘訓練とも遊びともつかない、組み打ちや競走をしたりして、なかなか元気がよさそうだった。
ある時私は、男の子が、他の子たちと遊んでいるのを見ながら、士官の一人に、あの三人は兄弟なのかと聞いてみた。やはり、その通りだった。「本当は、あんな子どもがここにいちゃいかんのですが、使い走りなどさせると便利な、よく気がつく子なので、皆がつい見逃してしまって」と士官は困ったように言った。
「兄たちはどうなのだね?」私は聞いた。「兵士として?」
士官は首を振った。「だめですな、二人とも。規則は守らないし、いいかげんです。あの子のことはかわいがってるようですが、それでもよく放ったらかしてますし、気まぐれで無責任です。案外、戦場では手柄をたてるかもしれませんが…士官にはなれんでしょう」
「あの子自身は?よい兵士になれそうか?」
「どうですか。兄たちの弟ですからな。やっぱりいいかげんなところがありますよ。頭はよくてはしっこいようだが、その分、ぬけめもない。ごらんのように」少年たちにとりまかれている彼の方に、士官はあごをしゃくってみせた。「人の心を読み取って、とらえるすべは知っているようですが、どこかちゃっかりしていまして、ちょっかいを出して一夜の相手にしようとした兵士から食べ物だけくすねて、待ちぼうけをくわせたという話も…」
私は声をあげて笑った。その声に、少年たちがこちらを見た。彼も、こちらを見ている。
「よく見ると、かわいい顔をしていますからな」士官が笑った。
よく見なくてもかわいい顔ではないか、と私は思った。

──(5)──

更にまた、それから何日かして、私が数人の士官たちと、戸外のテーブルでワインを飲みながら四方山話をしていると、少し離れた柵のところに、他の少年たちと彼が、よじのぼったり、よりかかったりしているのが見えた。兄たちの姿は今日は見えない。
何度かそちらに目をやるたびに、彼がこちらを見ているのに気がついた。何だかうずうずしたように、じれったそうにこちらを見ていた。そして、とうとう、何かを決心したように、柵からすべり下りて、遠慮がちの早足で私たちの方に近づいてきた。足さばきと身のこなしが軽やかなので、何やら宙を飛んで走り寄ってきたようにさえ見えたが。そして、はたはたはためいて、私の膝をたたいていたテーブルクロスの端を、すばやくつかんで地面に引き下ろし、石の重しで押さえると、ちらと私に笑いかけ、すぐ身をひるがえして引き下がって行った。
士官が苦笑した。
「やれやれ。ぬけめがないですな。ああやって、人のきげんをとるのが、実に上手なんです」
…ちがう。私は少し離れた斜面で柵に寄りかかって、どことなく満足そうな幸せそうな顔で、こちらを見ている彼をながめながら、心の中で首をふった。たしかに、よく気のつく、はしっこい子だ。人の気に入られることをすぐ気づいてやってのけ、ほうびをもらうこともあるだろう。それが目当てでやっていると、あの子自身も思っているかもしれない。
…だが、ちがう。あの子は根本的に人を喜ばせることが好きなのだ。ここちよく幸せにしてやることがうれしいのだ。テーブルクロスが風にはためき、テーブルの上の皿やコップをひっくり返すのではないかと心配になると、行動しないではいられない子なのだ。
私に笑いかけた、あの笑みに、ためらいがちに、でも飛ぶように近づいてきた軽やかな足どりに、ものほしさやいやしさは、かけらもなかった。人のために何かをする喜びに、生きている楽しさにあふれていた。それは、私の血縁の者たち…愛する子どもたちにさえ…に、ともすれば私が感じとる、よどんだ、ものうい血とは異なる、躍動する野生の血だった。ものごとをすばやく見てとる目、どうしたらよいかを判断する頭、それに応じて的確に動く手足を、あの子は持っている。
…このままにしておいてはいけないな。
柵にまたがって、他の少年たちとふざけてつかみあいをしはじめている彼をながめながら、私は思った。
…このままでは、本当にあの子は、士官たちの言うとおり、ぬけめない、要領のいい、いいかげんなだけの兵士になってしまうだろう。
…もったいない。
少年たちは皆、彼に突き落とされて、笑いながら柵の下に寝ころがったり、あたりを走り回ったりしている。彼は皆の上で柵の横木に座ったまま、一人で草笛を吹いていた。
…何とかしなければ。
声に出していたのかもしれない。士官の一人が「何か?」と聞いた。
「あの子をあとで、私のテントに来させてくれ」
私はそう命令した。
士官たちは顔を見合わせ、一人が振り向いて彼を見た。彼は草笛を口から離して、すぐこっちを見返した。
「かしこまりました」
士官の一人が答えた。あの子とは誰ですか、と誰も聞かなかったのはおかしかったが、また当然のようにも思えた。

──(6)──

その日の夕方、彼が私のテントに来た。見るからに緊張して不安げだったので、私は椅子に座らせて、食べ物と飲み物を出してやった。彼は遠慮がちに手をつけたが、何で呼ばれたのかわからないので、落ち着かずにいた。おそらく、軍にいるには小さすぎるので、家に帰れと言われるとでも思っていたのだろう。ああ言われたらこう答えろと、兄たちから教えられて来ていたのかもしれない。さまざまなことで頭がいっぱいになっているのか、子どもらしい顔が曇っているのがかわいそうで、早く安心させたかった。
「どうだね、ここは楽しいかね?」私は聞いてみた。
彼はうなずいた…ちょっと用心深く。
「兄たちは、よくしてくれるかね?」
今度は、ひとりでに、といった感じで唇が小さく幸せそうにほころんだ。彼はまた、うなずいた。何のかのと言っても、兄たちはこの子をかわいがってはいるのだろう。
「もっと食べなさい」私は皿をおしやった。
前よりはっきり笑って、彼はうなずいた。そうやって、うなずくたびに笑いがこぼれるのは、いかにも愛らしかったが、私は一応注意した。「目上の者と話すのに、うなずくだけではいけないよ。ちゃんと返事をしてごらん」
そうなんだ、というように彼はまばたきし、素直にうなずいた。「はい」
「陛下、とつけて」
うれしそうに彼はうなずき、大切なことを言うようにゆっくりと言った。「はい、陛下」
そうやって注意されて言うことを聞くのが、物珍しくて楽しくてたまらないらしいので、私はつい笑いそうになった。
「それで、ここにいて、将来、何になりたいのだね?」私は聞いた。
彼は、とまどったように私を見つめた。あまりそういったことは考えていなかったらしい。
「兄たちのように、この国を守る兵士になりたいのかな?」
兄たちが、どのように答えろと教えこんでいたにせよ、彼はそういう答えを言う気はないようだった。焼き菓子を持った手を宙にとめたまま、考え込んでいる。難しい問いだったかな、と思った。そんな先のことを考える年ではあるまい。遊び半分、戦闘訓練のまねごとをしたりして、兄たちといっしょに毎日を気軽に過ごしているだけの子なのだ。
その時、彼の言うのが聞こえた。
「僕は、陛下のようになりたいです」
その発言の思いがけなさと大胆さは、私をたいそう楽しませた。
「この国の支配者にかね?それはまた、大きな望みだ」
すると彼は、ちょっとけげんそうに私を見返した。
「僕…そうじゃありません…僕、陛下のような人になりたいんです」
一瞬、意味がわからなかった。わかった時はやや愕然とした。この国の支配者ではない私?そんなものがあるのか?それが、この子には見えたのか?とっさに自分が裸にされる感じがして、そんな幼い子どもの前で、思わず身構える気分になった。
「おまえは、私を、どのような人間だと思っているのかね?」しいて冷静な口調で私は尋ねた。「私のようになりたいとおまえが思うのは、どういうところなのだろう?」
「陛下は、いつも楽しそうだから」彼はすぐ言い、それからちょっと考えた。「それで、誰にも親切だし。いろんなことを知っていて、誰かが質問したら、すぐ答えるし。それであの」彼はまた、言葉をさがす風だった。「馬の乗り方とか、弓の射方とか、皆がほめても、そんなに気にされないみたいな…平気な顔をしておられて。あと、皆が次々にいろんなことをお願いしても、ちっともうるさそうにされないで、いつまでもていねいに返事してるし。見てると、ほんとにすごいなあって。ああなれたらいいなあって…いつも思います」
「それは私が…」
何を言いかけたのか、自分でもわからなかった。それは私が小心者だからだ。傲慢だからだ。疑り深いからなのだ。そんなことを口走ろうとしかけた自分に驚いて、口を閉じて私は立ち上がった。棚の前まで歩いて行き、本を持って戻って来た。
「おまえは字を読めるのかね?」
彼はうなずいた。「はい、陛下」
「書く方は?」
「少しだったら、できます」
「私のようになりたかったら」私は言った。「まずは勉強することだね。たくさん、本を読むことだよ」
私は本を広げて、彼の前に押しやった。「一番上から、読んでごらん。声を出して」
彼はいったん私を見つめ、それから緊張した顔になって身体を乗り出した。そして私が指で押さえるままに、たどたどしい口調で一生懸命読みはじめた。しばらく読ませてから私はうなずき「まあまあだね」と言った。「でも、もっと読めるようになりたいかな?」
彼は私を見つめて、黙ってうなずき、それからあわてて「はい、陛下」と言った。
「それなら毎日、ここに来なさい」私は言った。「読んだり、書いたりするだけではないよ。いろんなことを教えてあげよう」
彼は、信じられないというように、しばらく私の顔を見たまま、呆然として座っていた。そして、次第に全身が幸福にあふれて来て、じっとしていられないように、そわそわ身じろぎしはじめた。
「僕…あの…本当に…?あの…?」
「私のようになりたいのだろう?」
彼は勢いよくうなずいた。何度も、小さく。そのしぐさと表情があまりに真剣だったので、私ももう、返事のないのをとがめなかった。結局、彼のこの癖だけは大人になっても直らなかった。私が何かを言ったり、聞いたりするたびに、私を見つめて無言のままで、夢中でうなずく、その癖は。

──(7)──

今思えば、あれは私の気まぐれだったかもしれない。動揺を隠すための目くらましであったかもしれない。仮に次の日から彼が来なかったとしても、私はそれほどがっかりはしなかったろう。心の奥のどこかでは、ほっとさえした可能性もある。私は彼を、恐れていたかもしれないのだ。あの幼さで、そして、あれほどのわずかな時間で、私の中に他の誰もしたことがなかったほど、楽々と踏み込んで来た彼を。その魅力が、私をどこに連れて行くかを。彼には近寄らない方がいい、と私の中の何かが確かに告げていた。魅力あるものは、しばしば人の人生を変化させ、破滅に導く。そのようなもののすべてを、私は常に警戒していた。
だが、次の日の夕方、同じ時間に彼はテントにやって来た。それも本当にうれしそうに、いそいそと。私はまた、食べ物とワインを出してやり、本を読ませ、文字を書く練習をさせた。
何日もそれが続いた。その夏、私は駐屯地のテントですごした日々が多かった。彼がテントにやって来て、私が今日は来ないとわかって、しおしお引き上げて行く姿を想像すると、ついかわいそうになって、元老院の誰それと話をしていることにしておくよう、側近たちに言いつけておいて、夕方からこっそりと出かけて行ったりしたものだ。
彼は熱心で、優秀だった。だが、こちらが油断すると、時々上手に手を抜いたり、ごまかしたりすることもあった。今でも覚えているのだが、半月ほどして、私が暗記しておくように言った単語を書き取らせている時、私はふと、彼が机の少し離れた所におかれた広げっぱなしの私の本を、こっそりと盗み見て、綴りをまちがえないようにそのまま写しているのに気づいた。それも、いかにも自然に身体をわずかに斜めにして写しているのが、なかなかやり方がうまい。
しばらく見ていた後で、さりげなく手をのばして本をとりあげると、彼はびくっとして、ちらと私に目をやった。そして私が何も言わずに本を読んでいるのを見ると、黙ってしばらくじっとしていた。私は何でもない顔をして読みつづけ、彼がそのまま字を書きつづけるかと思っていたが、彼の手はいつまでもとまったままで、やがて「ごめんなさい…」と小さな声がした。
私は彼の方を見た。彼は耳まで赤くなり、みじめな、とまどった顔をしていた。私から怒られなかったので、なお、おびえているようだった。
「何だね?」私は穏やかに聞いた。「どうした?」
彼は一生懸命に私を見ていた。私の気持ちをはかりかねていた。見抜かれていたのはもうわかっている。当座のところは怒られないのも。でも、それで?
「続けて」私は言った。
こくりと唾をのみこんで、彼は肩から力を抜いた。言われたままにうつむいて、また熱心に書きはじめた。かすかに息をはずませて手も震えているようだったが、自分でそれに気がついて、抑えようと努力していた。
私も彼も、それきり何も言わなかった。しかし、その日の勉強が終わって、彼が写した紙を私が点検している時、彼は私の指がある行まで進むと、「あの、そこまでは…」と、どもりながらもはっきり言った。「僕、写しました。陛下のおいてあったご本を見て…」
私が見上げると、彼はまた赤くなった。「僕あの…」
「目がいいのだね」私は笑った。
彼は鳩が豆鉄砲をくらったように、激しく何度もまばたきをした。
「こんなに小さい文字を、そんなに遠くから、よく写せたな」
「もう絶対しません」彼はつぶやいた。
「ああ」私は笑って、紙を彼に返した。「線を引いておいたところを、明日までに直しておいで」
彼はうけとったが、しばらく立ったままでいた。
「行っていいよ」私は言った。
「明日…」彼は小さい声で言った。「明日、来ていいんですか?」
「いいとも。なぜだね?」
彼の顔を見て私は、彼が一番心配していたことが何なのかわかった…もう来なくていい、と言われることだったのだ。
「もちろん来ていいとも」私は繰り返した。「毎日来なさいと言ったろう?」
「はい。あのでも僕…」彼は言いかけてやめた。「はい。来ます」
そして、紙を大切そうに服の胸にしまって、急いで帰って行った。まるで私の気が変わりはしないかと心配しているようだった。

──(8)──

それからはまたしばらく、穏やかな日々が流れた。ちょっとした事件が起こったのは夏の終わりである。医務所の担当士官が、彼が薬を盗み出したと言って、ひきずってきて私の前に突き出したのだ。
「咳がひどくてとまらない友だちにやろうとしたらしくて、それはわからんでもないですが、私が陛下に報告すると言うと、自分がとったのじゃないと言い張るんですよ」士官は言った。「その友だちがとったのだとか、それが嘘だとばれると今度は、その友だちから脅かされたとか。いったい、こいつを脅かせるようなやつがいたら、お目にかかりたいもんですな。そう言ってやったら今度は、そいつが泣いて頼むから断れなかっただの、母親から頼まれただの、支離滅裂の口から出まかせを言うんでして」
もともと彼をかわいがっていた士官だった。私が彼を手元において教育しはじめたことを、しんから喜んでくれていた。「あのままではあの子はだめになると、ずっと心配でした。人として生きる道を教えてやっていただけるというのは本当にありがたいことです」と、私と会うたび、繰り返し言っていた男である。
「私が何より腹が立つのは」と、そばに立たせた彼をにらみながら、士官は言った。「第一に、これまではこの子は、ものをちょろまかしても、見つかったらいつもいさぎよく謝って罰をうけていました。人に罪など着せようとしたことはない。それも自分より弱い者に。第二に、嘘もごまかしもしょっちゅうでしたが、こんな、見え透いた、ばれるとわかりきった嘘をついたことはなかった。要するに…要するに、陛下にいろいろありがたい教えをさずけていただきながら、こいつの性格も頭も、前より悪くなってるのです。自分はそれが情けなくて、陛下にも申し訳なくて」
士官の怒りはもっともだ。だが、彼はまちがっていると思った。士官の横にうつむいたまま立っている彼を見ながら、この子は混乱しはじめたのだ、と私は感じていた。士官の言う通り、これまでだったら、盗みがばれた瞬間に、あっさり、すなおに認めたろう。その方が相手の気に入られるとわかっているし、さっさと早くかたもつくから。だが、私に報告すると言われた時、この子はおそらく生まれて初めて自分のしたことを恥ずかしい、と思ったのだ。
単に私に知られたくなくて、隠そうとしたのではあるまい。それだったら、これも士官の言うように、この子の頭ならもっとうまい嘘もつける。この子は多分、とっさに、自分がしたことを消してしまいたかったのだ。そんなことはしなかったことにしてしまいたかったのだ。だから必死になり夢中になって、そうだったらいいととっさに思ったことを次々口走った。自分でもそうだと思い込みたかったことを。そんなへまをした自分にますますあわてて、最後には何を言っているのか自分でもわからなくなってしまったのにちがいない。
そして今、きっと自分でも呆然としている。盗みなどする子だと、私にだけは思われたくないと思ったはずが、盗みどころか人に罪をなすりつける子だとまで言われて、私の前に立たされたことに。何よりも悪いことには、それは皆、事実なのだ。何もかもが滑稽で哀れで、いとおしくて、私は彼を見つめながら「私の考えは少しちがうがね」と士官に言った。「二人だけで少し話をさせてもらっていいだろうか」
「もちろんです」士官は言った。「私はもう、たっぷり叱りましたから、あとは陛下のお気のすむままに」
士官が出て行った後、私は彼に目をやったが、彼はそれにも気がつかないように、石のような固いうつろな無表情で、何の感覚も失ったように床を見つめて立っていた。
私は何も言う気はなかった。こんなに傷ついて絶望している子どもに、いったい何を言うことがあろう?
「どうしてほしいね?」思わず、そう聞いていた。
どこか遠くから聞こえてくる音を聞くように、彼はぼんやり私を見た。
「おまえは私に、どうしてほしい?」私はゆっくり、くりかえした。「おまえがもしも私なら、おまえは自分をどうするね?」
彼は私を見つめたまま、何も言おうとしなかった。
「おまえが支配者で、指揮官だったら?おまえのとった行動を、今のおまえのような気持ちでいる子どもを、おまえはどのように処分するだろう?」
意地悪をしようとしたのではない。だが、またしても私は、彼が子どもであることをどこかで忘れていたかもしれない。しかも私のこのような問いかけを理解して、真剣に考える力を持った子どもであることを。いや、ちがう、その力のあることはわかっていた。だから、どういう返事が返るのか、まるで友人の哲学者たちと議論をしているような興味を抱いて、彼の答えを待っていた。突然、彼の姿が視界から消え、身体が床にくずおれる音がするまでは、何が起こったのかまったく気づかなかった。
驚いて見下ろすと、彼が床に倒れていた。かがみこんで抱き起こすと、緊張からか疲れからか、目を閉じて完全に気を失っている。自分の子どもたちでさえ、抱いて運んだことは私はないのだが、人を呼ぶまでのことではなかったから、いかにも子どものまだ軽い身体を寝台まで運んで毛布をかけてやって、そのまま自分の仕事を続けた。一度彼が目を開けたので、ワインを飲ませてやって、もう少し眠れと言うと、うなずきもせず、返事もせずに、ただ黙って目を閉じた。
その後も私は、テントの中でずっと書き物や調べ物をして夜遅くまで起きていた。彼は眠っていたが、その内に、子どもらしくあっちこっちに寝返りをうって身体の向きを変えはじめた。
若いのだな、と思いながらながめていて、ふと気づいた。彼は私が本をさがしたり、明かりを調節したりして席を移すたび、いつも寝返りを打って私のいる方に顔と身体を向けている。
起きているのかと思って、何度か近づき、頭や肩にふれてみたが、そうではなくて本当によく眠っていた。
だが、そうやって眠りながら、耳で、気配で、何となく私の動きと居場所を察して、確かめては、そちらに向きを変えているのだ。いつも私の方に顔を向け、身体を向けていようとしている。植物が陽射しの方に 葉をのばし、動物の子が母の乳房を求めるように。
それにはっきり気がついた時、私は思わず立ちすくんだ。
民衆や兵士たちから、父母だとか太陽だとか讃えられることはしばしばある。だが、大げさな例えだと、いつも腹の中で笑っていた。そのような型通りの、気まぐれな讃辞に慣れてはならぬという自戒もこめて。
なのに、ここに本当に、しかも深い眠りの中で、何の意識もないままに、私をそのような存在と思ってくれている者がいるとは。
無理もないかもしれないと思った。この子の生き方のよりどころとなっていたものを、変えたのは私だ。新しい生き方のめやすを手さぐりしながら暗闇を歩いている状態のようなこの子としては、私にすがるしかどうしようがあろう。
だが、そのような存在となることが許されるのだろうか。神々の一人でもない、ただの人間に過ぎぬ、この私に。
再び私は、あどけない顔と細い手足の、眠りつづけているこの子を恐ろしいと思った。この子が私を連れて行くかもしれない、運命の行末を恐ろしいと思った。

──(9)──

彼は夜明けに目をさました。どこにいるのか、とっさに思い出せなかったらしく、眠そうに目をこすりながら寝台の上に起き直って、私をながめていた。「気分がよくなったのなら、帰っていいよ」と私は机についたまま、声をかけた。「歩けそうかね?」
彼は黙ってうなずいた。だが私が書類をめくっていると、「あの」と、おずおず呼びかける声がした。「僕がもし陛下でしたら」
今度は私が、彼が何を言っているのかわからず、夢からさめたばかりのように、しばし記憶をさぐっていた。ああ、そうか、と思い当たった。倒れる前に私がした質問の答えのことを、この子は言っているのだと。
私はうなずいた。
「少し、がっかりすると思います」小さな声で彼は言った。
「少し?」
彼はまじめにうなずいた。「陛下はいろいろ、他にもたくさん、お仕事があって、僕のことばかりをそんなに気にしていてはいけないから」
「なるほど」私もまじめに、うなずいてやった。「それで?」
「だから、何もしないで、しばらくそのままにしておくと思います」
私は、机の上に手を組んで、彼の方を見た。「その子がおかした罪はどうする?まったく罰を与えないかね?」
「罰したら安心するから…」彼は小さく息を吸った。「そのままの方がいいと思います」
「君は罰されると安心するのか?」私は聞いた。「いつも?」
彼は首を振った。「ちがいます。でも、これは、そうなんです」
「なぜだろう?」
長いこと黙っていてから、彼は言った。「僕は陛下を傷つけました」
またしばらく黙っていてから、彼は続けた。
「陛下が何とも思っておられなくても、そういうこととは関係なく」
せわしなく何度も彼は、まばたきした。
「お気持ちを、汚しました」
これが子どもの言うことか。私はまじまじ彼を見た。
「つぐなえるなんて、思いません。だから…このまま、生きていくしか」
私は思わず吹き出した。「君はときどき、本当に、大人のようなことを言うのだね」
彼はひどく傷ついた目で私を見た。笑われるとは思っていなかったらしい。しかしすぐ、怒る権利など自分にないと思ったように、また目を伏せてうつむいた。
私は立ち上がって、彼の前に行き、肩に手をかけ、「よく考えたね」とほめてやった。「だが、私は、少しも君にがっかりなどはしていないのだよ」
彼はぽかんと私を見つめた。
「また明日、来なさい」私は言った。
彼は私を見つめたまま、口の中で小さく言い直した。「…今日?」
テントの外が白々と明るくなっているのを見て私は笑った。「そう。今日だね」
来たくてたまらないのだと、よくわかった。だから、のどから手が出るように私の言葉に飛びついてくる、そのけんめいさが、いじらしかった。

──(10)──

この事件以後、彼はますますよく勉強するようになったが、決して必死とか悲壮とかいった感じではなかった。むしろ、いつものびのびと楽しそうで、私のそばにいるのがうれしくてたまらないといった様子だった。実際、わけもなく…と私には思えるのだったが、ひとりでにといった感じで笑い出すことがあり、私はよく「何がそんなにうれしいのだね?」と聞いてみたものだ。むろん、答えは返らなかった。男の子の笑い声の形容としてはおかしいかもしれないが、鈴をふるような明るい無邪気な笑い声だけが戻って来ることもあった。
時々、昼の戦闘訓練があまり激しかった後などは、夜の勉強はやはりつらいらしく、うつらうつらしていることもあった。私がちょっと目を離していると、座った椅子の背にもたれたまま、眠り込んでしまっていることもよくあった。そんな時、私は起こさずにおいた。毛布をかけてやって、自分だけの仕事をした。
その合間に目をやると、いつかの夜に寝台に横たわっていた時と同じように、彼はいつも、こころもち、上半身と顔を私の方に向けていた。どうしてわかるのか本当にふしぎだったが、眠っていても私のいる方向が、彼には何となくわかるらしかった。
冬になった。国境の方で蛮族の侵入があり、私は軍を率いて遠征することになった。彼を連れて行く気は毛頭なかった。何と言ってもまだ子どもだ。本来なら軍にいる年でさえない。だが彼はついて行くと言い張り、だだをこね、ほとんど私を脅迫せんばかりだった。
「心配しないで、待っていなさい」私は彼に言い聞かせた。「私のいない間でも、私のテントには入ってもいいよ。本も、そのままにしておこう。食べ物も、飲み物も出すように言っておくし、夜は火をたいて、私の 毛皮も寝台も使っていい…」
すると彼は激しく首を振った。
「陛下のテントなんかに行きたくありません…お留守の間に行ったりなんかしません」
彼はわなわな震えていた。それが、恐怖でも緊張でもなく、怒りのためだとわかって私は驚いた。それも明らかに、誇りを傷つけられた怒りの表情だった。
「食べ物や、飲み物がほしくて…暖かいところにいたくて…行っていたんじゃありません」とぎれとぎれに、どもりながら彼は言った。「陛下の…陛下がおられたから…陛下のおそばに、いたかったんです」
「最初からかね?」私はつい、そう聞いてしまった。
「最初は…」彼は口ごもった。「最初…」
唇がかみしめられ、目が伏せられた。
「いや、いいんだよ」私は言った。「それはどうでもよいことだ。私も、覚えていない」
「最初、行った時は、何が起こるのかとても不安でした」彼は視線を落としたまま、低い声で言った。「今でも覚えています。とても恐かった。でも、陛下のおそばにいると、すぐに安心しました。どこにいるよりも、誰といるよりも、ずっと安心できました。食べ物とか、ワインとか、毛皮とか、そんなのじゃありません。そんなもの、一度だって…そんなものがあったから安心したことなんか、僕はありません」
私はつぶやいた。「おまえには、兄や家族もいたろうに」
彼はうつむいたまま、首を振った。「かわいがってはもらいました。…でも、陛下のように…陛下みたいな気持ちに僕をさせてくれた人は、これまでいません」彼は目を上げ、言いたいことがわかってもらえているのだろうかというような、じれた、怒ったまなざしを私に向けた。「僕はいつも、安心したことなんかなかった。いつも、人の顔色を見て、回りの雰囲気を察して、うまくやろうと必死でした。そんなこと考えなくても、自分が正しいと思うことを守っていればそれでいいんだって、何も心配することはないんだって、陛下は教えて下さった…陛下の顔色は、見ないでよかった。正しいことさえしていれば、それでいいって、わかっていたから」
「おまえはもともと、そんな子だった」私は、ほとんどひとりでに、そう言っていた。「私がおまえを、そのようにしたのではない」
彼は幼い子どものように、小さく足踏みした。「連れて行って下さい」
私は首を振った。「だめだと言ったろう?戦場に行くには、おまえは子どもすぎる」
「ちゃんと戦えます」
「まだそんなことはしなくていい」私は彼の肩に手をかけた。「そんなききわけのない、わがままを言うようでは、まだ大人とは言えないぞ」
彼は肩をゆすった。「子どもだと納得したらおいて行くし、納得しなかったら大人とは言えないと言うし、ずるいです、陛下は」
この子と、いつまで話しても飽きない。うっすらと、くやし涙をにじませている灰色の目を見ながら、つくづく思った。いちずなくせに、ぬけめがない。こちらの詭弁も即座に見抜く。恐れも知らずに、かみついて来る。猛獣の荒々しさと、小鳥の利発さ。いつまでも、しゃべらせていたい。いつまでも、見ていたかった。
だが、もう時間がたちすぎていた。出発の時刻がせまっていた。
「残るのだ」私は命令した。「私の帰りを待っていなさい」
幸いその戦いでは、さほどの死傷者も出さずに国境の戦況は小康状態を得て、数か月後、私は都へ戻って来られた。駐屯地に着いた時、ひとりでに私の目は彼をさがしたのだが、見つからなかった。歓声をあげて我々を迎える兵士たちの笑顔の中に、彼の姿をさがしつづけていて、ふと目を落とすと、いつの間にか、彼がすまして私の馬の手綱をとって、私のすぐ前を歩いていた。彼は私を振り仰がず、私も声をかけなかった。ただ、小春日和のやわらかな陽射しの中を、兵士たちの上げる歓声に包まれて、私たちはゆっくりと歩いて行った。

──(11)──

実際に彼が私について戦場に来たのは、その数年後のことになる。その間に二人の兄たちは戦死し、彼はまだ幼さを残しながらも、たくましい少年に成長していた。敵の勢いは強く、苛酷な戦いだったが、彼は終始楽しそうで、落ち着いて生き生きしていた。血と泥にまみれた戦場で、ずっと年上の兵士たちが疲れてすさみ、酒や女に溺れがちの時でも、まるで歴戦の勇士のように、静かな澄んだ表情で、てきぱきと自分の仕事をこなしていた。
戦いぶりはみごとだった。初めて彼が敵を倒したところをたまたま目撃していた上官は、ライオンかオオカミの子どもが最初の獲物に襲いかかってかみ殺す時そっくりだったと、あとで私に語って聞かせた。血に染まり、昂然と冷たい輝きを目にたたえて「いや、もう、ほんとに、ほれぼれするほど美しかった」と、ふだん美しいなどということばを何に対しても使ったことなどないその士官が、興奮気味に何度もそう繰り返した。
その後何度か、私も彼の戦いぶりは見た。それほどまだ場数を踏んでいるはずはないのに、手慣れた仕事を誇りをもってこなしているような自信が、その動きにも表情にもみなぎっていて、文字通り、水を得た魚のようだった。
戦場がこれほど彼に似合うとは、私は思ってもいなかった。ここに来て初めて私は、彼にある種の冷たさがあるのに気づいた。幼い少年らしからぬ、獲物を見据えるタカの目や、前足で一打ちに敵をたたきつぶすトラの目と共通する、王者や強者の超然とした冷たさが、彼のまなざしの底にあることに。
彼は味方の兵たちには、いつも優しい気づかいを見せた。それを言うなら敵の蛮族に対しても、特別な憎しみなどは見せなかった。だが、そのどちらの死に対しても、無感覚なぐらい平然としていた。押し殺しているのとも、麻痺しているのともちがう。まったくおかしな話だが、その無感動さは逆に一種の暖かささえ感じさせるものだった。疫病が広がらないため、死体を埋めたり焼いたりする時、ばらばらになった死体の手足を彼はひるむ風もなく、一番運びやすいかたちにせっせとまとめていたし、蛮族の死体も上官の死体もまったくためらいなく、いっしょに穴に放り込んでいた。積み上げた死体のそばで、自分も血に汚れた身体のまま、平気で食事をしているのも見たことがある。彼の周囲や背後に重なる、目のない顔、頭のない身体の兵士たちが、まるで彼にかしづいているように見え、片足投げ出し、剣を肩にもたせて一人黙々と食事を続けている彼の姿は、死者たちの王か地獄の神のように堂々としていた。
戦場で過ごしていた間に、彼が悲しそうな表情をしたのは、むしろ、死にかけてもがいている馬を見た時だった。その時だけは、いっしょに歩いていた私の方に、彼は訴えるような、問いかけるような視線を投げ、私が片手をのばして引き寄せてやると、小さい子どものように、私の肩に自分の頭をくっつけて来た。

──(12)──

奇妙なことだが、彼が負傷したり死んだりするかもしれないという心配を、戦場にいる間中、私は感じたことさえなかった。彼の戦いぶりには、まったくといっていいほど、不安定なところがなかった。強さがずばぬけているだけではない、危ないと感じたら即座に退く判断力も抜群だったし、何より神々に守られているのではないかと思うような、不思議な輝きが彼にはあった。「あいつといると本当に、死ぬ気も負ける気もしませんなあ」と笑って言った上官もいたから、そう感じたのは私だけではなかったのだ。
もちろん、何度か負傷はしていたようである。比較的ひどい方の怪我で、腕を負傷して軍医に包帯を巻いてもらっているところに出くわしたことがあるが、その時彼は、ひと口に言うと不機嫌だった。傷の痛みとか、また、自分を傷つけた敵や、手当てをした医者や、傷つけられた自分自身への怒りとかいう以上に、とにかく不愉快そうでむくれていて、近づいて行った私が声をかけると、それまで私には一度も見せたことのない、意地悪そうな上目づかいで私をにらんだ。
それは、怪我をして気がたっている動物が、のどの奥で威嚇する低いうなり声をあげながら誰も近づけようとしない時の表情に、あまりにそっくりだったので、私は思わず笑い出しそうになりながら、歩み寄って、そういう動物に対する時と同じように、彼の頭に手をのせて、声をかけてしまった。「私だよ」
彼は、それも初めてのことだったが、頭を振って私の手からはずした。そして、顔をしかめて言った。「わかっています」
私は笑って、その場を離れた。強い鳥や動物と同様、彼は自分が傷ついて弱っている時は本能的に他者を近づけないのだと思った。無理にさわれば、かみつくのだろう。本当に弱り切って、威嚇したりかみついたりする元気もなくなってしまっていれば別だが。
その日はたまたま、もう一度彼に会った。包帯を巻いたままだったが、もうてきぱきと上官たちの命令に従って走り回っていて、私を見ると遠くからぺこりと頭を下げて一礼した。私が笑いかけると、笑い返した。そして、何か言いたそうに、こちらにかけよって来たそうに、一瞬じっと立ち止まったが、すぐ後からかけられた上官の声に、はじかれたように飛び上がって振り向いて、そのまま、いっさんに、何か言いつけられた仕事をしに、かけ去って行った。

──(13)──

こうして思い出してみると、私は彼の個人的なことをほとんど聞いたこともなく、知ろうと思ったこともない。私自身のこともほとんど話したことがない。私たちがいつも話したのは、世界のこと、過去と未来のこと、歴史のこと、国のしくみのこと、哲人たちのことば、読んだ本のことだった。上官や部下のことも家族のことも話さなかった。別に避けていたのではないが、時間が出来て二人で向かい合って座ると、まるであらゆる現実は遠ざかって私たちだけが共有する広大な世界が開けて来るようで、少なくとも私の方は身近なことなど忘れてしまった。彼が結婚したことさえも、指輪をはめているのを見て、ああそうなのかと思ったぐらいだ。私の二人の子どもたちも、しばしば駐屯地を訪れて、彼と遊んでいたようだったが、その話さえもめったにしなかった。
質問されれば答えたが、どちらかと言うと、彼は黙って私の話を聞いているのが好きだった。都の排水設備のことでも、流行している詩のことでも、議員たちの勢力争いのことでも、蛮族の歴史でも、私が話すことなら何でも、目を輝かせて聞いていた。あまり夢中でうっとり聞くので、私は時々不安になり、いたずら心も手伝って、ありもしない作り話や、心にもない乱暴な意見を言って聞かせたりした。まだ幼い時には彼は、そんな話を私がすると、不思議そうな心配そうな、ありありと困った顔で私を見つめて聞いていた。がまんできなくなって私が、目や唇のはしを笑いでわずかにでも震わせると、彼は目ざとくそれを見てとり、ああよかったと、まるで世界が元に戻ったのを見たような、心からほっとした表情になり、やわらかく目をなごませて身体の力を抜くのだった。少し大きくなってからは、自分も負けずに大まじめな顔でじっと耳をかたむけて見せていたが、時々、笑いをこらえきれなくなるのか、顔をそらしたり、下を向いたりする。「何がおかしいのかね?」と私が聞くと、何でもないように目を戻してすましていることもあったが、耐えられなくて声を出さずにうつむいて、細かく肩を震わせていることもあった。
私の話に対する彼の反応で、彼の個人的な体験や関心が少しうかがえることもあった。まだ若い十五、六の頃、女の肉体について話した時、彼が赤くなったので、もうそんな経験があるのだろうなとぼんやり感じたことがある。また、何の話をした時のことだったかは忘れたが、彼は、私の言ったことにひどく気を取られて、あとの話に上の空になった。そして、私が静かに話をやめると、訴えるように私を見て、つぶやくように「でも、悪い人たちが不幸になるのではありませんよね?」と聞いた。
「そうだな。悪い人たちではないな」私は言った。「むしろ、愚かな人たちだろう」
「でも」彼は口ごもった。「愚かだったら、自分が不幸だということにも気がつかないから、幸福なんじゃないでしょうか。本当に不幸なのは、自分の不幸に気がついて、それは自分が悪いのではないことにも気がついて、それでも、それを何ともできないということに、気がつくことじゃないんでしょうか」
私は、彼を見つめた。「そうだ。それは不幸だろうね」
「僕は、陛下にいろんなことを教えていただいて、とても幸福になりました」彼は言った。「まるで、闇から光の中に出たように、いろんなことが皆、見えるようになりました。だから、ものを知って、わかるようになることは、とても幸せなんだと思ってました。誰もがそうなったらいいし、皆をそうしてあげたいと。でも、そうじゃないことも、世の中にはあるんでしょうか。わからない方がいいこととか、見ない方がいいこと、知ってしまったらつらいことが」
「おまえは、どう思うのだね?」私は聞いた。「見たくないことには目をつぶるか?その方が幸せと思うか?」
「いいえ」即座に彼は首を振り、小声できっぱり答えた。
「私も、そうだ」私は答えた。「そのために、どう不幸になっても、真実からは目をそらしたくない。そのためにたとえどんなに不幸になっても、それを私は不幸とは思わないだろう」

──(14)──

その話をしてから、また何かひと回り、彼が大きくなったような印象を私は受けた。何かの迷いをふりきったかのように、あるいはふりきろうとするかのように、武芸にも学問にも熱心に打ち込み、その一方で私との政治的な仕事にも、軍関係の仕事にも、恐ろしいほど献身的に精力的に取り組んだ。
駐屯地にしばしば遊びに来る私の二人の子どもたちとは、時々いざこざがあったようである。姉弟ともに彼が好きだったらしく、食事の時に私が彼の名を話の中に出すと、二人でこっそり目配せをしてしのび笑いをしたりしていた。家来たちの話では、彼は見ていて冷や冷やするほど、厳しい態度や発言を二人に向かってするらしく、対立することもあるようだった。おかしなことだが、それが二人にとっては、彼の魅力の一つでもあったようである。しかし、姉は私に甘やかされて驕慢だったし、弟は神経質で癇が強く、どちらも家臣を手こずらせていたから、この二人に好かれるということは、ありがたいこととばかりは決して言えないはずだった。「わがままだから苦労するだろう?」と聞くと、彼はいつでも黙って笑った。
案外、苦になっていなかったのかもしれない。彼には時々、私の子どもたちなどとは比べものにもならぬほどの、飼い馴らすことなど誰にもできない野性の荒馬のような、激しさや頑固さがあったから。私の娘や息子たちの誇り高さや気難しさなど、彼の目には、その気になればいとも簡単にねじふせて吹き飛ばせる、児戯にも等しい程度のものに映っていた可能性がある。
彼が駐屯地を離れ、前線で暮らすようになってからは、会う機会は前よりも減った。しかし、重要な会議で顔を合わせるようになることも多くなり、彼が着実に頭角を現しつつあることを、ひしひしと感じさせられた。そのような会議での彼の発言は、的確で無駄がなく、全体をよく見通して柔軟だった。誠実で控えめで、のんびりしているように見えて、ここぞという時には一歩も引かず、容赦ない攻撃で反対意見をたたきつぶすこともあって、戦場での戦いぶりを彷彿とさせた。いや、口にだしての攻撃ならまだいい。先にも言った彼の激しさ、むしろ意地悪さを痛感させられたのは、ある会議の席でもったいぶった将軍の一人が軍の風紀について説教めいた演説をし、売春婦の基地への出入りについて、何か複雑な規則を作ることを提案した時のことだった。彼はその将軍がしゃべっている間中、だらしなく椅子にもたれて、持っていた紙で顔をあおぎ、将軍が怒ってそちらを見るたびに、氷のように冷やかなあざけり笑いを露骨に浮かべて見返すので、将軍の方が次第に伏し目になりはじめ、ついに提案を取り下げてしまった。つまり彼は、一言の発言もしないままで、相手の意見を葬ってしまったのである。
感心もし、おかしくもあった。その一方で大先輩の将軍に対してのその態度には、一言言っておく必要も感じた。だが、会議の後何人かで酒を飲んでいる時も、彼はまだ機嫌が悪く、どことなく私に対しても、注意するならして見ろと身構えている気配があったので、私は黙っていた。その内に誰かが彼に、先ほどの彼の態度について何かお世辞を言った。彼はそれも気に食わなかったらしい。「あの男がかげでしていることを知っていたら誰でも私と同じことをします」と、そっけなく答えたのが聞こえた。「あなたはそれをなぜご存じで?」と、別の一人がおもねるように尋ねると、彼は声を低めもせず、言ってのけた。「ええ、行きつけの店のなじみの売春婦が、寝物語に私に聞かせてくれましたので」
一同はさしあたり冗談にすることにして、大笑いして話題を変えたが、彼はにこりともしないで黙って酒を飲んでいた。さすがにその後、私と目が合うと恥ずかしそうに目を伏せたので、やりすぎたと反省しているなとわかったが。その夜、私に報告を持って来た時も目をそらしがちでそわそわしていて、「私も気が短い方だが、君もけっこうかんしゃく持ちだな」と笑いながら言うと、困ったように目ばたきした。「それとも、私に似たのかな」
「気をつけます」彼は低い声で言った。低く太い大人の男の声なのに、その時私の耳には、細く優しい少年の声が重なって聞こえた。ごめんなさい。絶対にもうしません。私は笑って彼の腕をたたき、銀色の鎧を着た広い背中と、重くしっかりした足音が、廊下を遠ざかって行くのを見送った。

──(15)──

一つの部隊、軍団が彼の指揮下に入ってくるようになると、彼の能力はますます発揮された。掌握しなければならない範囲が広くなるほど、彼の目はよく全体を把握し、的確に問題点をとらえるのだった。それは彼の、大ざっぱなようで、細やかな性格に起因するものだったかもしれない。
実際、彼は、変なところに几帳面だった。身なりなどにはむとんちゃくで、髪や髭などもどうかするとのばしっぱなしにしていたりするくせに、身の回りのものはきちんと片づけて、決まった場所においておくのが好きだった。その方が何か変化があった時、すぐ見てとれるからだったろう。さまざまな異変や危険をいちはやく読みとって対処するので、彼はしばしば周囲を驚嘆させたものだが、それは、部下たちの動向、軍団全体の雰囲気、戦場の状況などの、何かがいびつだ、どこかつりあいがとれていない、ということに本能的に気づいて反応する感覚が発達しているせいだった。
そういった几帳面さという点では、私の方は、むしろ彼とは逆だった。身だしなみには神経質で、髪や髭の手入れは欠かさなかったし、衣のひだなどもきちんとついているのが好きだったが、回りのものは散らかしておきがちだった。彼もそれは気づいていて、長く来なかったあとで私のへやに入ったりすると、乱雑に散らかされた本や衣服を、感心したように、なつかしそうに、しみじみながめていたりした。
そのような私たちの性格の違いをよく表わす話がある。
ある時、彼と仕事をしながら、そばの皿に盛ったブドウを食べていた。私は知っていたが、彼はブドウがそれほど好きではない。それが、その日は随分と熱心に食べているのが、まもなく気になりはじめた。あまり不思議で次第に私は仕事よりそちらに興味を奪われて、彼の指が実をちぎっては口に運ぶのを、ひそかに観察しはじめていた。突然、好みが変わったのか、今日のブドウはどこか味がちがうのであろうか?
どちらでもないようだった。それどころか彼は、何度めかに私がブドウをもぎった後で、皿の上の房に目をやり、何とはなしにため息をついた。自分では気づいていないようだったが、何がなし、気の重い仕事がまた増えてしまったという感じにそれは見えた。
私はわけがわからなかったが、その内にふとあることに気がついて、房のはしの方の、まだ二人とも手をつけていないあたりの粒を一つちぎって食べてみた。ついで、まったく反対側の粒をちぎった。彼はせっせと食べ続けた。私がつまんだところまで、実がなくなるように。つまり彼は、はしの方からきちんと順序よく粒をちぎってなくしていくように食べて行きたかったので、私が不規則に飛び飛びにつまんで食べて、ぽつりぽつりと歯が抜けたような状態になった部分の間の実を早く食べてしまって、実のなくなった枝だけの部分を少しでも点から線にし、面にしようと空しい努力を続けていたのだ。
しかも自分ではそのことを、まったく意識してないらしい。私の方は、その事実に気がついた快感もあって、おかしくてたまらず、仕事の打ち合わせを続けながら、ますます飛び飛びに房のあちこち離れたところから、粒をちぎりとって食べた。彼も私に返事をしながら、忙しくちぎっては食べ、ちぎっては食べて、私が房の表面に作った不規則な空間を修整しようとし続けた。
とうとう彼が手をとめた。私の意地悪というかいたずらに、ようやく気がついたらしい。じっと私を見つめた気配がしたので、私はそしらぬ顔をしたまま、うつむいて地図を広げ、仔細らしく点検するふりをし続けながら「うん?」と聞いた。「何だね、どうかしたのかね?」
「陛下…」彼の抑えた声がした。
「何だね?」目を上げると吹き出しそうだったので、私は下を向いたままだった。
彼は黙っている。
「何だね?」私はまた聞いたが、今度はもう我慢できず、おかしさで声が震えた。
「何でもありません」彼の声も、笑い出すのをこらえて、震えているのがわかった。
私たちはそのまま仕事の話に戻ったが、どちらもブドウはもう見るのもいやなほど食べていたので、それきり手をつけなかった。

──(16)──

今、現在、軍の中では彼の人気は非常なもので、皆が彼を愛している。しかし、彼の部下たち…百戦錬磨の士官たちが、しばしば、彼のことを、正直で子どものように素直で、こちらが心配になって守ってさしあげたくなるほど無邪気な方だとか、高貴な聖人のようなたたずまいを感じさせる威厳や品位に満ちておいでだなどと話すのを聞くたびに、私は微笑せずにはいられなかった。彼がどれだけ、したたかに抜け目なく、人の心を目ざとく見抜き、その気になれば利用もできる人間だったか知っている士官たちは、もはや退役したり戦死したりして、軍には少ない。その一人の年とった士官が何かの折りに、私に言ったことがある。
「彼は、あなたの子ですよ、陛下。あの要領のいい、ずるがしこい、盗みも嘘も平気だったちびすけを、今のような人間にしたのは陛下です。ご自分の腹を痛めて、お産みになったも同然です」
「それはちがう」私は答えた。「もともと、今のような子だったのだよ。あの子はいつも、はじめから」
もうとっくに私より背が高く、肩幅も広く、士官たちの誰よりも太くたくましい手足と、がっしりと厚い胸板を持っている壮年の男を、「あの子」などと呼ぶこと自体が滑稽だったが。それはまた、私自身が老いて、身体の動きが鈍くなり、手足の力が弱って来ているということなのでもあったが。
明日、私は彼を自分のテントに呼んで、私の決断を話そうと思う。この国と、私のすべての権限を彼に譲るということを。彼はおそらく、即座に断る。驚愕し、当惑して。だからこそ、私は彼を選ぶのだ。
そして、最終的には彼は承諾するだろう。不機嫌そうに、悲しそうに、いやいやと、のろのろと。恨めしそうなため息をかみ殺して、横目で私をにらみながら。想像すると笑えて来る。自分のいたずら心を私は抑えねばなるまい。「初めて、私のテントに来た時のことを覚えているかね?」などと、からかわないようにしなければ。「陛下のようになりたい、とおまえは言ったのだよ。忘れたのかな?」
時の流れは、あの時のおびえた小さな少年と私とを、ついにここまで連れて来た。そして、私に残された時間はあとどれだけあるのだろう?
太陽がいつかは地平に消えるように、私の命もまもなく終わる。だが、一日の終わり、日没までのひとときは昔から私が一番愛した時間だった。めまぐるしく働きつづけた疲れと、何事もなく無事に終わった安心とで、つかのまの眠りと休息を待ちながら、さまざまなことを思い返す、この時間。それはまた、あの夏の丘で二人の兄とたわむれる彼を初めて見た時間でもあり、彼が毎日おずおずと、けれどはずんだ足どりで私のテントに入って来ていた時間でもある。
そう言えば、と突然私はまた、こみあげる笑いを抑える。
日没を自分が愛すること、このひとときの美しさについて、私は一度ならず彼に話した。オレンジの色に変わっていく光線、着慣れて古びた衣服のようにやわらかくやさしくなってくる空気、あるかなきかに吹く風に乗ってくる夕げの匂い、染まる雲、落ちる夕日について。例によって彼は目を輝かせ、熱心に聞き入っていた。
その後、奇妙なことに気づいた。日没までに宿題を持っておいでとか、日没に会おうとか言っておくと、彼が守れたためしがない。しかも次に会った時、まったく後ろめたそうな顔もしない。とうとう私は聞いてみた。三日前に、この宿題を日没まで持ってくるよう、私は君に言わなかったか?と。
彼は私をまっすぐ見上げ、さわやかな、何のためらいもない声で答えた。「はい、おとといは曇っていたし、ゆうべは雨が降っていましたから」
彼が、太陽が沈むのがはっきり見えなければ日没ではないと思い込んでいたことを私が知り、夕日が見えようと見えまいと雨でも嵐でも、一日の終わりは日没というのだということを彼が知った時…私たちは呆然として見つめ合い、私は笑い出し、彼はとり乱した。「だって…だって陛下は…」と珍しく抗議する口調になって彼は言った。「あんなに、日没が美しくてすばらしいからお好きだと…だから、雨なんか降ってたら…」
「日没ではないと思ったのだね。悪かった。それは私が悪かった」私は笑いの合間に言った。「たしかに理屈に合っている。おまえの言うのは、もっともだよ」
そして、恥ずかしさと衝撃で口もきけなくなっている彼の、小さな肩を抱くようにして、私はテントの外に出て、土手の上に上り、夏の風の中、彼が、これだけを日没と呼ぶのだと信じ込んでいた本当の日没を、二人でながめた。青い空の色が薄まり、真紅の太陽がまっすぐに落ちて行き、煙のように広がる光に、灰色の雲が金色に、紫に、紅に彩られて行くのを。茜色の輝きに包まれて私たちは立ち、その輝きが、私の隣に立った小さい彼の、まだ少しほてっている頬を更に濃く染めていた。「私とおまえの間では、日没はこれだけだということにしておこう」と、私は空を見ながら言った。「約束しよう」
あの時、二人で夕日を見ていた、長いようで短い時間。それと同様、命の終わりに残された時間も、数年になるか一週間か、私は知らない。その時間をまた、彼と語り合おう。肩を並べて、この国の、そして世界の未来をながめよう。それがどのように短かろうと、突然に終わろうと、私には悔いはない。彼と会ったこと、彼と話したこと、彼に与えた、そして与えようとしている数々のもの、すべてについて、それがたとえ 最終的にはどんな結果をもたらそうとも、今の私には何の後悔もない。

(「日没まで」終・・・・・2001.1.26.)

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