映画「グラディエーター」小説編沼の伝説

沼の伝説

すばらしい男二人に愛されて、どちらを選ぶこともできずに苦しんで、娘は沼に身を投げた。この伝説が伝えようとした真実とはいったい何か。本当の意味とは何なのか?

若く有能なローマ軍の士官は、かつて山賊だった恋人の娘を連れて、休暇をとって故郷に帰って来ていた。親切な兄夫婦の家で、娘と愛し合うだけののどかな日々を楽しんでいた彼は、ふと聞いた、近くの沼にまつわる伝説がなぜか気になってしかたがない。…若い士官は必ずしもマキシマスでなくていいけれど、彼が故郷ですごす日々を、休養宣言して恋人と結婚の準備をしているマキシマスを演じた俳優ラッセル・クロウの現在とあえて重ねる必要はないけれど、そうした方が楽しめる方はどうぞそれでもかまいません。

私は、自分の人生でできる限りの多くの日々を、彼女とともに朝を迎えたいと、切実に深く願っているのです。

(ラッセル・クロウ 2002.11.18.)

──(1)──

来る日も来る日も、あの二人ったら、納屋でくすくす笑っていてね。
幸せそうを通りこして、何だか、とけちゃいそうだったよ。

霧が流れてゆく。草の上を。
牛たちのひずめが、それを踏んで行き、彼らの首の鈴が鳴る。
私はそれを見ていない。
窓がかすかに白むから、その情景を思い浮かべる。
幼いころから、いくたびも目にした朝の風景だから。
目を閉じて寝返りをうち、乾し草の中に顔をうずめる。
日に焼けてひきしまった、長いしなやかな彼女の腕が、運命のように自分の肩に回されているのを感じながら。

二人っていうのは、あたしの義弟…うちの人の末の弟と、その子が連れて帰ってきた娘のことさ。
義弟は…めんどうだから弟と呼ぼう…ローマ軍の兵士だった、いえ、士官だった。いえ、もっとえらかったのかな。帰ってくるたび、どんどん出世してるので、覚えるのが追いつかないって、うちの人言ってたから。
とても、有能だったんだろうね。
でも、うちにくる時は、そんな風に全然見えなかった。ひょろっとして、ぼうっとした、のんきそうないい若いもんだった。

起き上がると、高い窓から落ちてくる朝の光の中に、半身起こして座っている彼女の小麦色の細いきれいな背中が見える。
その肩に頭をもたせかけて彼女の身体に腕を回すと、彼女の髪が私の腕をあたたかく包む。
傷ついて、傷つけられた思い出のすべてが今は、かえって焼けるような欲望となって私に彼女を求めさせる。
彼女に浴びせられた言葉の数々。私に向けられた視線の数々。
さげすまれ、汚されて、守りきれなかったもの。
なぜ、それがそんなにも愛しいか、人々に私が説明できなかったもの。
それに向かってほとばしって行く、身体の底からのこの熱い思いは、罪の意識か、自分への怒りか。口惜しさか、寂しさか。
その価値がないと言われるほどに、私の中で貴重になるもの。
今、私は彼女を両手につつみこみ、決して手放したくない。
彼女を攻撃する世の中のすべてに背を向けて、彼女を抱きしめ、誰にも見せないでかくしておきたい。

あの子、山賊だったんだ。帰ってきて何日か後に弟は、何でもないように、そう言った。台所で、料理しているあたしの後ろで、リンゴをかじりながら、かたっぽの足を曲げて壁にくっつけて、よりかかりながら。
山賊?あたしが驚いて、ふきんを持ったまま、振り向くと、弟はまるで平気で、リンゴをかじりつづけながら、床を見たまま、うなずいた。
「どういうこと?」
「休暇で、こっちに帰る途中で、軍の知り合いに頼まれて、山賊のとりでの討伐に行ったんだ」弟は言った。「彼らを皆とらえて、とりでは破壊して、その捕虜の中に彼女がいた」
「それで、恋に落ちた?」あたしは思わず首をふった。「まあ、あんた…よりによって…何も、そんな子でなくても」
弟は黙って、とっくにしんだけになってるリンゴをかじってた。
「どこがそんなに、よかったの?」
「いろいろ」
でしょうよね。朝から晩まで納屋に閉じこもってるんだから。そう思って、あたしは吐息をついた。

気がつくと、乾し草の上に彼女が私を押し倒して、上からのぞきこんでいる。
なぜか、ほっとする。彼女に乱暴に扱われると安心する。苦しみを、怒りを、彼女が私にぶつけていると思うと。
いつか、夢を見た。かりかり、かりかり、と音がしていた。鋭い牙を持つ何かが、私の手をかんでいた。それは顔も、姿もない動物だった。それでも私は、それが彼女なのだとわかった。傷つけても大丈夫なものを傷つけたくて、彼女が私の手をかんで、かんで、かじりとってしまっていると。相手の痛みなんか考えない、絶対に考えない、と必死で自分に言い聞かせながら。
私の胸に、彼女の悲しみが伝わってくる。絶望の大きさが。何かにまだ期待するなら、絶望しないでいようとするなら、彼女はそうして、怒りを何かにぶつけるしかないのだとわかる。
夢の中より、現実の彼女はずっとやさしい。やわらかく笑いながら、私の上におおいかぶさって、少しだけかみつくように、そっと私にくちづけする。彼女にはちゃんと手足も顔もある。大きな黒い目が笑い、白い歯が唇からこぼれる。私の手首を押さえていた指がゆっくりすべって行って、私の指にからみあう。ゆっくり私をひきおこし、私はゆっくりひきおこされて、今度は私が上になる。

彼女と弟は、今日もまた昼ごろ起きてきた。
眠そうに、かわるがわるあくびをしてるとこ見ると、ろくに眠ってないみたい。それで、互いによりかかりあって、女の子の髪が弟の顔にかかると、二人でかわるがわる手ではらいのけたり、口で吹きのけたりしちゃ、何がおかしいのかくすくす笑ってる。
どっちも背が高いし、そこそこ大柄だから、それがそうやって、うちの狭い台所のすみで、いちゃいちゃべたべたじゃれてるのは、あんまり暑っ苦しいんで、あたしは女の子の方に「何かお料理できる?」と声をかけてみた。
女の子は、とろんとした目で、ようやく彼から目を離してあたしを見、ぼんやりあいまいに首をふった。
「教えてあげるから、いらっしゃい」あたしは調理台の前をあけるように身体をずらして、彼女を呼んだ。
女の子はけだるそうに、それでも素直に彼から離れてあたしのそばに来て、調理台のはしをつかむようにして、桶の中に入ってるじゃがいもや玉ねぎをのぞきこんだ。
「皮をむいてね」と言ってナイフを渡すと、長い髪をかきあげながら受け取って、指の腹にちょっと刃をあてて切れ味を試すようにした。
「気をつけて」と言いながら、あたしは彼女の髪をなでた。「たばねてあげるね。お料理に入るといけないから」
とても豊かな髪だった。ひとすじひとすじも太くて真っ黒で、いくつかに分けて編むしかなさそうだった。あたしは彼女の後ろに回り、何とか髪をたばねにかかった。
弟はひとり残されて、つまらなそうにしていたが、やがて近寄ってきて、彼女の手元をのぞきこんだ。彼女はじゃがいもをむきながら彼の顔を見て、二人でまたうれしそうに笑ってる。
「じゃましないで、あっちに行ってらっしゃい」あたしは彼に向かって言った。「うちの人は畑にいるよ」
彼はあたしの顔を見て、それで?という顔をした。行って手伝えという、あたしの気持ちはまるで伝わってない。悪気で無視してるんじゃなくて、彼女のそばをいっときだって離れるなんてこと、思いもつかないのらしかった。
「結婚したら、おいしいものを作ってもらわないと困るでしょ?」あたしは彼女の肩越しに弟に向かって言った。
「そんなの、いいんだ」弟は女の子の肩を指でそっとなでながら言った。「料理女をやとうから」
「あきれたね。そんなお金があるんなら、うちに送ってちょうだいな」
すると彼は彼女から手を離し、心配そうなまじめな顔であたしを見て「もっと送った方がいい?」と聞いた。「困ってる?」
「冗談よ」あたしは、あわてて打ち消した。むろん、暮らしは楽じゃない。でも、弟は軍の給料を、うちにも、他の兄弟のとこにも送ってて、うちの人はいつも、「ありがたいが、これ以上、あいつにもらっちゃ絶対いかん」と言ってる。
弟はまだ気にかかるようにあたしを見つめてた。そして、ひょいと気がつくと、女の子は鍋いっぱいのじゃがいもの皮をきれいにむいてしまってた。あんまりすごい早業なんで信じられなくて、あたしは思わず、あんぐり口を開けてしまった。
「山賊だったから、ナイフの使い方うまいんだよ」弟が女の子を抱き寄せながら、うれしそうに説明した。「敵ののど、かっ切ったり、心臓えぐったりとかもね」

こうしていると、時が何とゆるやかに、私たちふたりの上を流れることか。私たちが眠っては目覚める納屋の中は、一面の乾し草で、朝の日光に、夜の月光に、それが金色に輝き、銀色に輝くと、まるで海の中に二人でただよっているようだ。 身体を動かし、寝返りをうつたびに、太陽と草の香りが鋭くゆれて、私たちを包む。二人の身体や髪の匂いとそれがまじりあって行く。雨がふれば雨の音が私たちを包み、落ちて行くしずくの影が壁にふしぎな模様を描く。風が吹くと風の音が私たちに向かっておしよせ、小さい動物のように私たちは身体をひしとくっつけて抱き合う。風の音の高まりに合わせて彼女が呼吸するのがわかって、私もそれに知らないうちに合わせて息をしている。
考えなければならないことが山ほどあるのは知っている。どうやって、いつから、二人の暮らしを始めよう?どこに家を建てよう?休暇はあとどれだけ残っていただろう?
けれど私は考えない。まだ今は。まだ、もう少しは。彼女のそばに、ただ、いたい。抱き合って何も考えずに。
さまざまのことが、私たちにはありすぎた。私の部下を、仲間を、彼女の仲間たちが殺した。彼女の仲間を広場で処刑する時に命令を下したのは私だった。
互いの仲間に私たちは憎まれている。二人が結びついた理由について、あらゆる取りざたがささやかれている。たまたま耳に入ったそのいくつかを聞いただけでも笑ってしまいそうなほど、途方もない噂ばかりが。平気よ、と彼女は言う。何があっても、何と言われても平気。慣れてるわ。
でも、そのことが一番私を傷つける。彼女はそんなことに平気でいてはいけないのだ。私がそれで不機嫌になると、彼女は不思議そうにする。人間ってそんなもんだよ、と小さい声で私に言い聞かせるようにつぶやく。隊長さん、あんた何にも知らないの。
あの方だったら、どうだろう。ふっとそう思う。そんなことがあってはならない。そんなことをおまえは許しておくの。きっとそうおっしゃるだろう。わたくしは認めない。そんなことは認めない。きっぱり言い切る涼しいお声が、ふっと今でも耳に聞こえる。

二人は今朝は台所の階段の上に座って、くっつきあってた。もう見慣れたから、あたしもそう気にはならなかった。けども、後ろから見てると、二人とも毎日こんなにぐだぐだしてるにしちゃ、ちっとも太りもしないで、むしろちょっとやせてきたようなのを見て、水を捨てに行った時、戸口の柱に手をかけて身をのり出し、「二人とも、顔色が悪いんじゃないの?」と声をかけた。「目の下にくまができてない?」
二人は手と手をからめあわせたまま、小鳥のようにそろっていっしょにあたしを見上げた。
「いつも家ん中ばっかりいないで、たまにはどっか出かけたら」あたしは言った。
弟は彼女を見て、小声で聞いた。「行きたいとこ、ある?」
女の子は考え込んだ。それから小声で「別に」と答えた。「あなたは?」
弟は首をかしげた。「君のそば」
「ばかみたい」女の子は弟のほおを手のひらでなでた。
「沼でも見て来たら?」あたしは原っぱの向こうを指さした。「きれいよ。森と丘のそばで」
二人はそろって、そちらを見た。
「行く?」弟が女の子に聞いた。
「とてもきれいよ」あたしはくり返した。

10

結局二人は、沼に行った。
後ろから見てると、最初はあいかわらず、べたっとからみついたまま、くちづけしたりして、のろのろ歩いて行ってたけど、やがて、何かのはずみにぱっと両側に離れたと思うと、追っかけごっこを始めたようで、みるみる内に全力で走って、あとになり先になりしながら、原っぱの向こうへ消えて行った。
あれだけ、でれでれしていても、いざとなるとやっぱり若くて元気があるのね、と思いながら、あたしは食事のあとかたづけをした。
しばらくするとうちの人が帰ってきてね、その話をしたら、「沼に行かせたのか?」って、何だか苦い顔したの。
「いけなかった?」
「あの沼には、ちょっと不吉な伝説がある」うちの人はぽっつり言った。「土地の者しか知らんがな」

──(2)──

沼は、なめらかな茶色がかった面に、静かな日の光をうけとめていた。あるかなきかの風が吹くと、その上に細かいさざ波が輝いた。
岸にはやわらかな草が一面に広がっていた。私たちの背後には暗い森が、向こうにはなだらかな丘があった。木の葉と水の香りがただよって来る。後になり先になりして走ってきた私たちの肌は、どちらも汗ばんでいた。立ちどまった彼女の腕を私がつかまえ、彼女はその腕を私の身体に回して、私たちはくちづけした。誰も見ている者はない。腕を放して、あらためて肩に手をかけあって、強く、長く、唇をよせあっていると、身体の汗が冷えて行くのとあいまって、ぞくぞくと肌がおののいた。
「誰も…」くちづけをくり返しながら、彼女が髪をふりのけて頭をそらしてささやいた。「誰もいないのね」
「うん」私は笑った。「だったらどうする?」
彼女は答えず、私の顔をひきよせた。荒っぽく、むさぼるように。私も彼女のチュニカのえりに手をさし入れて、ひき下ろしかけた。

その時、何かを感じた。
誰もいないはずの沼の方に。
害意や敵意は感じなかった。だが何か、不思議な異様な感覚があった。彼女をふり放して、私はさっと振り向いた。
沼の上に人がいた。
と見えたのは一瞬だった。見わたす限り鏡のようにおだやかな、とろりと明るい茶色の水が広がって、日光がその上にきらめいていた。
だが、たしかに人を見た。
いるはずのない場所に。水の上に。
髪の長い、若い女に見えた。両手をたらしてそこに立ち、じっとこちらを見つめていた。
振り向いて、彼女の血の気の失せた顔を見た時に、彼女も同じものを見たことを知った。

私たちはあたりを見回し、それから並んで寄り添った。沼を見つめるようにして。
「見た?」彼女が低い声で聞いた。
「ああ。誰かいた」
「でもあそこ、沼の上なのに」彼女は私にぴったり身体をくっつけていた。「女の人だったわね?」
「うん。まだ若い…」
言いかけて、何かがすっと背すじにふれたような気がして、私は後ろを見た。彼女も振り向いた。
すぐ目の前、手をのばしたらさわれる近くに、さっきの女が立っていた。大きく目を見張るようにして、じっと私たちを見つめている。

一瞬でまた、幻は消えた。
あとには草がそよぐだけ。

気がつくと私は息をはずませていた。はっきりと聞こえるほどにあえいでいた。
彼女も青ざめ、しっかりと私の腕をつかんで、あたりを見回している。
帰る?とどちらも言わなかったのは、互いに意地をはったからだ。私たちはこういうところで、とっさに恋人どうしというよりも、男の友人どうしのようにふるまってしまうのだった。
「今の、何?」彼女がつぶやくように言った。
ふるえが私に伝わってくる。いや、私の方がふるえていたのかもしれない。
私は首を振って、前に歩み出した。さっきの女が立っていた方に。だが、そのとたんに何かにつまづき、前のめりにばったりと草の中に倒れてしまった。冷たい、固い、何かの上に。

反射的にはねおきようとした私は、助けおこそうとしてかがみこんでいた彼女とぶつかり、二人いっしょにまたそこに倒れた。今度こそ二人とも悲鳴をあげた。互いの身体にとりすがりながら。
だが、すぐに、私たちがぶつかったのは、なかば草の中に埋もれて建ってた小さい石の碑だとわかった。
石は、やわらかに苔むしていた。丸みを帯びた表面にかすかな穴やくぼみがあった。
「何か書いてある」彼女が手でふれながら言った。
「うん。でもすりへってるし、こんなにあちこち欠けていちゃ読めないな」私は答えた。
彼女は少し身体を起こし、私の肩に手をかけておおいかぶさるようにして、あたりを見回し、何かから私を守ろうと警戒する姿勢になっている。私はその手をつかんで引き寄せながら、なるべく何でもなさそうに「もう帰ろうか」と言った。
「うん」彼女はすぐに賛成し、ぴったり私にくっついて来た。

沼から遠ざかるまで私たちは何度か後ろを振り返った。
沼の面はここから見ると、さっきより少し灰色がかっている。日に照らされて明るく静かで美しかった。何か大きな悲しみがただよっているようだったが、無気味なものは感じなかった。邪悪なものも感じなかった。あの、突然現れて消えた娘の姿もだ。どことなくあたたかい、なつかしいような気さえした。
「きれいな人だったね」何度めかに振り向いた時、彼女が言った。
「そうだった?」
彼女は私の顔を見た。「覚えてないの?」
「びっくりしたから…」
だが目を閉じると思い出せそうな気がした。健康そうで、素朴な、しっかりした表情をしていた気がする。彼女のような激しい、くっきりした顔ではなかった。あの方のように高貴で冒しがたい気品をたたえているのでもなく…と思っていると、いきなり彼女に足払いをかけられて、私は道にすとんと倒れた。
彼女は笑って私を見下ろすと、飛ぶようにして走り出し、いっさんに道の向こうへ遠ざかって行った。
私もはねおきて、その後を追った。

息をきらして二人は沼からかけ戻ってきた。うちの人からあんなこと聞いてたもんだから、何かあったのかってあたしは思わずどっきりして、「どうかしたの?」って大声で聞いた。
だけど、そんなことじゃなかったみたい。ただふざけてただけみたいだった。あたしがお昼のしたくをしてた台所の入り口の柱に手をかけて、まず、女の子の方がころがりこんできて、床板のささくれにけつまずいて、床に倒れた。そこに弟が飛び込んできて、その上に飛びつこうとしたら、女の子が足でけって、弟をこぶしでたたいた。弟はその手をつかんで押さえつけようとし、二人は足をばたばたさせながら、上になり下になりして床の上をころがり回った。まるで子犬のけんかだよ。
「よさないか」テーブルについてナイフで、くさびにする木を削ってたうちの人が、むっつり顔で注意した。
「こいつがおれのこと、ぶつんだよ!」弟は、小さい子どものような金切り声でそう叫んだ。
「近寄らないでって言ってるだけよ!」女の子も負けずにきんきん声をはりあげた。
「おれが何した、何怒ってるんだ!?」
「自分で考えてみなさいよ!」
「けんかなら外でやれ」うちの人がテーブルを平手でたたいた。「めしのしたくをしてるんだぞ。台所中、ほこりだらけだ」
二人はつかみあったまま、床の上でおとなしくなった。顔を見合わせ、きまり悪そうにちょっと笑って、起き上がりながら、すばやく相手をひきよせあって、くちづけしてるのが見えた。「テーブルにつきなさい、ごはんにするから」と言うと、二人とも急いで椅子に座った。そして、腕をテーブルにのせ、目を見つめあって、もう、うれしそうに笑ってる。女の子が手をのばして弟の髪についてたわらくずをとると、弟の方は指の背で彼女のほおの汚れをぬぐった。そうしながらも互いの顔をうっとり見て、そこにいるのをたしかめあっているようだった。

「何でそんなにけんかになったの?」あたしは皿を配りながら聞いてみた。
女の子は皿をうけとりながら、訴えるようにあたしを見上げた。「他の女の子のことばかり考えてるんだもん、この人!」
「考えてないよ!」弟は受け取った皿を軽くふりあげながら抗議した。
「器をそんな風に扱うんじゃない」うちの人が叱った。
弟は皿をテーブルにきちんとおいて、じっとその上を見つめた。「君以外の人のことなんか考えたこともない」彼はお皿に向かって言った。
「嘘ばっかり」娘はそっぽを向いて、ひじをついた手の指であごの下を支えた。
吹き出しそうになりながら、あたしは話をそらしてやった。「それで、沼はどうだった?」
二人はまたちょっと顔を見合わせた。
「うーん」ためらいながら弟が言った。「とても、きれいなとこですね」
「静かで、ちょっと不思議なとこ」女の子も口の中で言った。「碑があったわ。石の、小さな。すっかり苔むして、草に埋まってた」
「何か書いてあったけど、古すぎて読めなかった」弟はうちの人を見た。「あそこで何かあったのかい?昔」
「女が一人、身を投げたのさ」うちの人は面白くもなさそうに言った。「大昔にな。えらい美人だったそうだが」
二人はまた、ちらとお互いを見て、身体を少し寄せ合わせたようだった。
「ふうん」弟が用心深くあいづちをうった。「何でだ?男に捨てられて?」
「逆だ」うちの人はあたしが置いた料理の鉢を引き寄せた。「男二人に言い寄られてな、どっちもすばらしい男だったもんだから決められなくて、それで苦しんで、自殺した」

10

弟は目をぱちぱちさせた。長いまつ毛が動くのを、女の子がそばからうっとり見てた。
「あまり昔のことだから、その女の名も誰も覚えていない」うちの人は、パンを裂きながら首をふった。「川のほとりに住んでいたから、川の娘と皆が呼んでた。ともかく大変美しい娘で、身なりもかまわず、髪もろくにくしけずらず、粗末な衣ではだしで歩いて働いていて、それでも皆が夢中になった。言い寄る男は多かったが娘は相手にしなかった。しかし、中でもすぐれた男二人が、彼女をめぐって対決した。一人は森から出てきた。もう一人は丘を下りてきた。娘の愛を得るために、どちらの愛が深いかを示そうとして、二人は自分たちの力を試した。最初は弓で沼の水鳥を射た。次は馬で沼の回りを競走した。最後は剣で戦った。だがいつも互角で勝負はつかない。娘もどちらも選べなかった。そしてとうとう、沼に身を投げて死んだ」

──(3)──

「いい話って、村のやつらは言ってるが」うちの人はつぶやいた。「おれは、この話は好かんね」
二人は顔を見合わせて笑った。テーブルの上で手を重ねあい、指をからめあってた。テーブルの下ではきっと足をくっつけあってるんだろう。そうしてくっついていられるのが、もう、うれしそうで楽しそうで、どんな不吉な話でも、何でもこいって感じだった。
「おまえたち…」うちの人がうなるように言った。「あんまり、でれでれするんじゃない」
二人はきょとんと目を見張った。
「あんまりそうやって、幸せそうにしていると、すっぱだかで足ひらいて寝てる娘っ子とおんなじだ」うちの人ったら、そんな風に言った。「悪い霊が目をつけて、襲いかかってくる。神々も嫉妬して、助けてはくださらん」
「放っときなさいよ、あんた」あたしは、まばたきしてる二人の前に、湯気のたつスープの鉢をおいた。「自分たちがどんな風に見えるのか、この人たち気づいてないんだから」そして二人に「気にしちゃだめよ」と声をかけた。「うちの人って、こんな風なんだから」
二人は顔を見あわせ、何かしてたかなあ、これがいけなかったのかなあというように、ためらいがちにそうっとテーブルの上の手をはなした。でも、そうしながら見つめあった目から、唇から、おさえきれない笑いがこぼれてる。相手が自分の目に入るのがうれしくてたまらなくて、その唇に自分の唇をくっつけていきたくてしかたがなくて、ひとりでに相手の方にかたむいて行きそうな頭を、一生けんめいまっすぐ立てて、我慢しているのがありありわかる。
「スープがさめるよ」あたしは言った。「早く飲んで納屋に帰ったら、たっぷりしたいことできるじゃない」
二人は顔を赤くもしなかった。ほんとにそうだと思ったように、同時にそろって、いそいそとスプーンを握った。
スカートをさばいて座り直したあたしのとなりで、うちの人がやってられないといったように、またうなったのがはっきり聞こえた。

月の光は暗がりに慣れた目には、昼の光のように容赦ない。明るすぎるほど明るく、それが窓から流れ込み、二人の上に落ちてくる。私のそばに横たわる彼女のなめらかな長い背中が銀色に光る。しぶきにぬれているようだ。
私はそっとその上に手をかざし、銀色の光を手に受ける。自分の手の影が、彼女の肌の上に落ちているのをながめながら、それをゆっくり動かしてみる。だんだんそれを近づけて行くと、何か感じたのか、彼女が身体を動かして、私の上に乗ってくる。
今日の昼見た、あの沼の面にさざ波がわたるのが見える気がする。岸辺の草がそよぐのが。昼の暑さがまだ残る空気の中を野生の馬がかけて行くのが。
抱き合って、私たちは足をからめあう。彼女が低い声で聞く。
「神さまたちが、嫉妬するかしら?」
ふざけているのではない。まじめな声だ。私は笑う。
「神さまたちは忙しくって」彼女を抱き寄せながら私は言う。「こんなことなど、気にしちゃいない」
私たちはしばらく黙って、愛し合うのに熱中する。やがて身体をはなして、並んであおむけになった時、彼女が小さい声で言う。
「あの沼のこと、思い出してる?」
「少し気になる」正直に私は答える。「君は?」
彼女は黙って首をふり、私の胸に頭をのせる。私の肩の上においた、曲げた腕の手の先の指で、私の髪や耳をぼんやりもてあそんでいる。それがとても気持ちがよくて、そのまま眠ってしまいそうだ。
私はまた、沼を思い出している。森と、丘と、輝く水の面とを。それは目を閉じた私のまぶたの奥にひとりでに広がってくる。

今日の夕食の時、弟はまた、あの沼の話を持ち出した。
「何て言ったんだっけ、あの身を投げた娘は。名前は伝わってないんだな?」
「ああ。川の娘と呼ばれてる」うちの人は食べ終えた料理の皿を押しやった。
「二人の男に言い寄られたんだったね」弟は考えこんでた。「森の男と…」
「丘の男」うちの人が答えた。「そうさ。二人は誰よりも熱心に川の娘を追った。娘の愛を求めた」
「そして娘は決められなかった」弟はつぶやいた。「どっちも甲乙つけがたくて、どっちもすばらしくて、どっちの愛も同じぐらい深くて、強くて」
「だもんで、沼に身を投げた」うちの人がしめくくった。「そういうことだ」
こうして、かわるがわるにしゃべっていると、二人の声がほとんど区別がつかないほど似ていることにあたしは気づいた。顔はそんなに似てないけど兄弟なんだなあと、あらためてよくわかった。
「…ねえ」弟はあたしのおいたワインのコップをひねくり回した。「何かそれ、納得いかないな」
「納得いかない?どこがだ?」
「どこもかしこも」弟は言った。「第一、何で身を投げるんだ?どっちか決められなかったぐらいで。絶対変だよ、その話」

「こんな風だったんだよ」うちの人は首をすくめて、娘とあたしの方を見た。「昔から、こいつはな。いつもぼんやりしているくせに、妙に聞きたがりやで、知りたがりやで。気にしだしたら絶対やめん。何で?何で?って、しつこくおれたちにつきまとって、もう、うるさかったことったら」
娘は笑って、考えこんでる弟を、何てりっぱなんだろうというように、ほれぼれと見てた。さわりたくってしかたがないけど、弟の考えのじゃましちゃいけないからと思って、じっとがまんしてるみたいだった。
「その娘…」弟はひじをついて宙にうかせた手のこぶしをにぎりしめて、唇を結んだ。「ものごとを決められない性格だったのか?どんな娘だったんだろう?」
「大昔のことだ」うちの人が眉を上げた。「誰が知るか」
「そんなに大昔?」弟は夢からさめたように、ぶるっと小さく首をふった。「そうなのか?」
「七、八十年も前のことだ」
「何だ、そんなに昔じゃないじゃないか」弟は唇をとがらせた。「それじゃまだ、生きてる人もいるだろう、彼女や、彼らを知ってる人で」
「だからって、どうする…おいおい」うちの人はあきれて両手を上げた。「さがして、話を聞く気かね?」
「うん」弟はうなずいた。「何かまずい?」
「まずくはないが…」うちの人は顔をしかめた。「だいたい、そんなやつがいるなんて、聞いたこともないぞ」
「それだって変じゃないか」弟は言った。「その頃の人が皆、死んじまったってわけはなし」
「そうだなあ。言われてみるとな。だが、知らんな、そういうやつは」
「ますます変だよ。話だけはしっかり伝わっているんだろ?ふつう、そういう時には、おれはその場にいたとか言うやつが、絶対に出てくるものじゃないか」
「言われてみると、そうだがなあ」うちの人は、くり返した。
「本当にそんなことがあったのかい?」弟はつっこんだ。「皆で話していく内に、話が大げさになったとか、ありもしないことが本当のことになっちまったとか、そんなんじゃないの?」
「さあ、どうだかね」うちの人は、そろそろ弟の熱心さをもてあましてる風だった。「おれはもともと、この話、そんなに好きでもなかったから。村に行って聞いてみろ。何か知ってるやつがいるかもしれん」

暗闇の中で、目を開けても、目を閉じても、沼で見たあの娘の姿は浮かんでは来ない。 かわりに、沼が目に浮かぶ。輝く水面、その上に浮かぶ白い水鳥、岸辺を疾駆する白い馬。ちぎれて飛ぶ草、舞い上がる砂。
もしかして、私はあの娘の目で、娘の見たものを見ているのだろうか?
恐れは何も感じない。ただ、静かなあたたかさに包まれて、限りない悲しみだけが心に広がって行く。不快ではない。苦痛でもない。ただ、はてしない悲しみを感じる。
私は彼女に身体をすりよせる。彼女が夢うつつの中で、腕をのばして私の腰に回すのを感じて、私は深く息をつく。彼女の豊かな胸に、腰にふれていると、悲しみも痛みもやすらいで溶けていくようだ。指先から、手のひらから、あたたかく優しい命が流れ込んできて、身体中をゆっくりとほぐしてくれる。抱きしめあって、私たちは、互いの身体の上をたゆたう。互いの中に流れ込む。隊長さん、と夢の中で彼女がつぶやく。お水がほしい?飲ませてほしい?
よからぬ夢を見てるだろ。そうつぶやいて私は、ぴくぴくとふるえている彼女のまぶたに唇をそっと押しあてる。

弟と女の子は、今日はほんとに珍しく、二人で馬に乗って、どこかに出かけてった。まあその方が身体にもいいんじゃないかって、あたしはほっと安心して、家の掃除やなんかしたあと、二人がいつもいる納屋をちょっとのぞいてみた。
二人はそこを、きちんと居心地よく片づけていた。二人の荷物はすみっこに並べてあり、コップや水さしやワインのびんが、古い小さいテーブルの上に、きれいに洗っておいてあった。服やマントは、はしごの横木にかけてあった。ちょっと乱雑に。何となくあたしは、そういう風に服や品物を整理してるのは弟じゃないかって気がした。女の子には手を出させないで、自分で気に入ったように片づけてるんじゃないかって。そして、花とかもかざってないし、服もだらしなく床に投げ出してはないけど、ちょっと乱暴に横木に放り投げるようにしてかけてあるのが、弟なりの照れっていうのか、ここはまだ自分たちの家じゃないんだっていう、気のひきしめ方っていうのか、何かそんなものがあるような気がした。
日の光がさしこんでくる窓の下に椅子がおいてあって、その上に弟のよろいが大切そうにのせてあった。銀色に光る胸板には、翼を広げたワシの模様が入っていた。よくみがかれて、ぴかぴか光っている。そばには剣がたてかけてあった。白と金の柄の、美しい剣だった。
床一面につみあげられた乾し草が、さわやかな、いい匂いをさせている。弟と娘がどこで寝ているにしろ、それは見た目ではわからなかった。毎日、ベッドをととのえるみたいに、二人は自分たちの寝たあとの乾し草を、きちんとまた、かきみだして、跡をつけないようにしているのかもしれなかった。
ち、ち、ち、と小鳥の声がする。
見上げると、梁の上に巣を作っているらしい鳥のしっぽが、棟木のかげから、ひょこひょこのぞいて動いていた。

兄の家は、村の中心部からは少しはずれたところにあった。だが、村の中心と言っても特ににぎやかなわけでも、家が多いわけでもない。小さな酒場と広場があって、そこに老人たちがたむろしていた。
川の娘の話は、そこにいた皆が知っていた。大抵の者は、その話を祖父母や父母に聞いていた。「悲しい話と思ったな」老人の一人は、双六遊びの盤から目を上げて、そう言った。「最初にそう思ったよ。子どものころに、聞いた時にな」
「それで?」私はうながした。
「それでって?それだけだよ」
「どんな女だと思った?その、身を投げた女のことだが?」
老人は首をかしげた。「あまり考えなかったよ」彼は言った。「まあ、気の弱い、一人で思いつめやすい…やさしい子だったんだろうな、ぐらいのことだ」
「身なりにかまわず、はだしで、髪も乱したまま、生き生き働いてたっていうのに?」
「ううん、そうだったかな」老人は頭をかいた。「でも、それとはまた、別なのじゃないかな。女ってのは、迷っちまうと、くよくよ一人で悩むもんさ」老人は、双六遊びの相手に聞いた。「おまえは、どうだい?どう思ったか、覚えてるかね?」
「うむむ」相手の老人はうなった。「もったいないことだ、とまず思ったよ。そんな美人だったら、死ぬ前に誰かを楽しませてくれればよかったのに。そんなことを感じたな。おれがその頃、村にいたら、むざむざ死なせはせんのに、とか。だがもう、何しろ昔のことだ」
広場のはしの陽だまりで、編み物をしていた老婆たちは、「よくわからないねえ」と首をふった。「美しすぎると不幸になる。そういう話と思ったけどねえ」

畑のわきで、馬を休ませてすきの手入れをしていた、もう少し若い男に聞いてみた。「その話なら、じいさんから聞いたよ。じいさんはその時、まだほんの子どもで、何があったかよくわからなかったらしい」と男は答えた。「あとで、皆からいろいろ聞いたと言っていた」
「あんたは聞いてどう思った?じいさんから、この話を」
「そうさなあ」男は、あごをなで、考えこんだ。「まあ、いやなやつに言いよられるってのは、男でも女でもつらいもんさ。おれは男だからどっかに逃げちまえばすむが、女だとそうはいかなくて、追いつめられちまったのかな。そんな気がした」
「女が言いよった男たちをきらってたって話はないわ」彼女がそばから口をはさんだ。「特に最後に残って彼女の愛をきそった二人は、すばらしすぎて、どっちとも決められなくって困ったって」
「女の望みは、ひょっとしたら、もっと高かったのかもしれん。つまらんやつらに言いよられて、バカにされたと思ったのかもな」
「だったら、いやな女じゃない?」
「そうは思わんよ」男は首を振って笑った。「誰の手にも入らなかった女というのは、すばらしく思える。死んでしまって、誰のものにもならなかった。そこがいいんじゃないのかな」

とった野菜をかごに入れて、川の水で泥に汚れた足を洗っていた夫婦にも聞いてみた。「よく知ってるよ、その話なら。あたしは、その娘を、とてもきれいな人と思って、小さいころはいろんな人に話を聞いて回ってた」妻は話した。「はだしの足の足首に、小さい鈴をつけていたとか、かがみこんで、ほほえみかけてくる顔が太陽のようにあたたかで優しかったとか、そんな話を聞くのが好きだった。死ななくってもよかったのにね。その最後のとこは何だかよくわからなかったわ」
「おれは、よそものだから」夫は言った。「その話は結婚してまもなく、こいつから聞いたよ。ちょっと、やりきれん話だと思った。その言いよった男の一人がおれだったら、きっと悲しい。おれのものにならなくていいから、死ぬのだけはやめてほしいよな。相手の男といっしょになってくれていいから、身投げなんぞはしないでほしい」

10

すきの手入れをしていた男が話を聞いたじいさんというのは、まだ生きているというので、直接、話を聞きに行った。じいさんは水車小屋で居眠りをしていた。少し耳は遠かったが、頭はしっかりしていて、とても話好きだった。
「川の娘ははだしで歩いていても、その足は白くなめらかで、つめは小さな花びらのようだったそうだ」彼は話した。「森の男と、丘の男はそんな娘の愛を得ようと、激しく腕をきそいあった。馬を走らせるとまったく同時にめざした地点におどりこみ、地面に刺されていた、勝利の印の槍を二人が同時につかんでもぎとった。泥の中に深く突き刺さっていた槍の穂先が右に左にひきずられて、じぐざぐの傷あとを大地に刻んだ。そうやって、二人の馬はぶつかり合い、互いの馬の胸にかかっていた赤と緑の飾りの房が、こすれあって、ちぎれて、ぼろぼろ落ちて行った」
そんな話が延々とつづくので、最後は彼女も退屈して、私の手をこっそりにぎってもてあそんだり、私の髪にさわったりしていた。ときどき私のわき腹をくすぐって笑わせようといたずらするので、私は身体をよじって逃げたり、彼女の手をつかんで、ひざに押さえつけたりしていた。
「どんな風に感じた?」私は聞いた。「その話を」
「どんな風にとは?」
「恐ろしいとか、悲しいとか」
老人は首を振った。「そういうことは考えたことがないよ」
「今、考えてみてくれ」
少し不愉快そうに老人は私たちを見つめていた。
「その娘は、どんな娘だったと思う?」私は重ねて聞いた。「強かったとか、弱かったとか、愚かだったとか、誇り高かったとか、何でもいいが」
「これはな、お若いの」老人は静かに言った。「そういうことを考える話とはちがうと、わしは思う」
「じゃ、どんな話なんだ?」
「まあ、しいて言うならだ」老人は言った。「娘は何も悪くない。まちがったこともしてはいない。けれど、死なねばならなかった。そういう風にわしは感じる」
「なるほど。でも、それは、なぜなんだろう?」
「誰かの身代わりになったのだ。あるいは、皆の、すべての人の身代わりになって、彼女は死なねばならなかった。そういう話のような気がする」
「その皆とは、誰のことだい?」
老人は首をふって、答えなかった。

──(4)──

納屋に戻ってくると、テーブルの上に大きなオレンジとパンがおいてあった。義姉が持ってきてくれたのらしい。
私と彼女は乾し草の中に抱き合うようにくっついて座って、それをかじりながら、今日、村人に聞いてきたことをいろいろ話し合った。
「おかしいわ」彼女が言った。「こんなに有名な話なのに、細かいいきさつは誰もちっとも知らないのね」
「骨組みだけが伝わっている。それとどうでもいいような、やたら詳しいことだけが」私も言った。「それぞれに、皆がそれに自分の考えをくっつけてる。でも変だなあ。まだ百年もたってないんだよ。細かいことを知っていた、見てたはずだよ、村人は皆。それがどうして、こうなっちゃうんだ?いろんなことを知っていた年よりがいっぱい、いたはずなのに」
「あんまりすてきな話だから」彼女はあくびをした。「細かいことはどうでもよくなっちゃったのかしら?」
「すてきな話と、君思うかい?」私は思いきって聞いた。
「うーん、どうかな」彼女は私に頭をすりつけた。「あなたはどうなの?この話、好き?」
私はオレンジの種を口に入れたまま、ちょっと工夫しながら彼女とくちづけした。「よくわからないや。好きとか何とか言う前に」
「そうよね。あたしも」
まだ何か考えたり、話したりしたいことはあったのだが、互いの身体をさわり出したので、だんだんそれに気をとられて、話はどうでもよくなってしまった。彼女の服を肩から下ろして上半身をあらわにすると、きれいな大きな白い胸と金色の乳首が出てきて、私が喜んでそれにさわっていると、彼女も私の肌着を押し上げ、腰帯をほどきはじめた。
「夕食に間にあう?」私は気にした。
「あなた次第よ」彼女は言った。

本当のところ、彼女の身体を私はいつでも、いくらでも抱きたい。
彼女の身体は美しい。彼女の身体と思うから美しいのかもしれないが。しなやかに、たくましく、私の腕の中ではじけつづける。まるで砲弾をうちこむと、ひとつの建物が爆発して、衝撃が地面を伝わり、空気をふるわせてくるような、そんな激しい手ごたえが次から次へと、続いて起こる。
けれども、いつもというわけではない。むしろ、そんなことはめったにない。
彼女とうまくいった時に起こる快さと楽しさをよく知っているので、私の身体も腕も、ついあせって、もどかしく、一気に彼女を求めてしまう。すると突然、彼女の身体が、むしろ心が、凍りつくように警戒し、よそよそしくなるのがわかるのだ。ぎょっとして動きをとめても、ゆるめても、その時はもう遅く、私は彼女がどこかに行ってしまったのを知る。身体は私に抱かれていても。私の身体をうけいれていても。

彼女は男に抱かれるのには、むしろ、とても慣れていると思う。
何人の男と寝たかわからない、と何度も笑って私に言った。
そうだろうと思うときもある。だがそれよりも、何度抱いても、彼女は私と抱き合うとき、まるで処女のように、私が何をするか、何をされるかと身がまえて、いつでも逃げ出そう、無感覚になろうと、腰を浮かせて身体をこわばらせていると思うことの方が多い。
処女のように?だが、あの方はそうではなかった。
それを言うなら、私も最初に、基地の近くの売春宿で、年上の娼婦に抱かれたときには、緊張はあっても恐怖や警戒はなかった。
年上の兵士たちの馬の番をするためだけに連れて行かれて待っている間に、風邪で仕事を休んでいた、その娼婦が誰にも言わずに、金も持たない私を抱いてくれたのだ。
はちみつ色の髪と白い肌の、ほっそりと美しい、絹糸の優しさと鋼鉄の強さを感じさせる人だった。深い悲しみと大きな怒りを沈ませて、水のように静かにほほえんでいる、りんとした表情が、女神のように見える人だった。

男と女はちがうのかもしれないが、少なくとも、私より年下だったあの方は、私と同じに、いや、私以上に、初めてのときも、それ以後も、私と抱き合うときは、いつもくつろいでおられた。
お育ちもあっただろうが、それだけではない。多分。
ふだんはまだ、時にはいらだったり、不きげんそうに眉をしかめておられたりしても、私と抱き合う段になるといつも、さあ、楽しいことの始まりよ、というように、目をきらきらさせ、全身でうきうきなさっていた。
そして、いざ抱き合うとなると、何もかも私にまかせて、いかにものんびりとしておられた。されるままになりながら、いつも、おもしろがっておられた。
不愉快だったり痛かったりすると、びっくりするほど露骨な言い方で、こちらの顔が赤くなるほどあっけらかんと、そのことを私に告げた。まるで、そこの水たまりの上に敷物をしきなさいとか、馬の鞍がずれているからつけ直しなさいと言うのとまったく同じ口調で。
そして、私が気に入ったようにしてさしあげると、そう、これでいいわ、と、ひなたの猫のようにのびのびと満足げに身体をのばして、うめき声のように深く甘いため息をつかれていた。

彼女はそうではない。あるいは、彼女の身体はそうではない、と言うべきなのか。
少しでも、ほんのわずかでも、私が、私の身体が、彼女を征服しよう、攻撃しようというような動きをするたびに、彼女の身体と心とが凍りつくのがはっきりわかる。何かが次々閉ざされて、一気に彼女がよそよそしくなり、みるみる私の身体の中で、彼女が見知らぬ女になって行くのがはっきりわかる。
その瞬間が過ぎると彼女は再び力を抜いて、私にすべてをあずけるのだが、その時に彼女の目はただの黒い木の実のように生気を失い、何の表情も浮かべてはいない。私の動きに反応しても、身体はただそこにあるだけだ。誰もいない家の中を歩いているようだ。なまあたたかく、やわらかい死体を抱いているようだ。
私はとても傷つけられて、とても悲しくなる。ひどいことをしているような気がして、そういう気持ちにさせられるというのが、とてもひどいことをされているような気がして、くやしくてたまらない。
それで、何もかもやめてしまうと、やがて彼女がそろそろと、自分の身体に戻ってくるのが感じられる。たとえて言えば、誰もいないへやのすみで、怒って背を向けて腕ぐみしている私の後ろから、足音が近づいてきて、そっと肩に手がかかり、「どうかしたの?」と聞かれるような。私はふり向き、彼女を見、身体をよせて、そして私たちはおそるおそる、はじめからまた、やりなおす。

彼女が少しでも生き生きし、のびのびとしているのは、私を攻撃し、傷つけようとしている時だけだ。むさぼるように私をもてあそび、私をいためつけようとする。それは愛撫と紙一重で、ほとんど、どっちつかずである。けれども、はっきりそこには、憎しみと怒りがまじっている。
自分がどんな暮らしをし、どんな風に育ってきたのか、彼女は決して語らない。どんな目にあってきたか、どんなことをされてきたかも。だが彼女が私をかんだり、ひっかいたり、もの珍しげに私の身体を調べたりしている時、私は彼女がされてきた、いろんなことがわかる気がする。自分にそういうことをした人たちの気持ちをわかろうとして、そういうことを彼女がしているような気さえする。それと、彼女は自分のものと言えるものをほとんど持っていなかったのかもしれないと思う。自分がどんなにしてもいい、自分だけのものを。だから今、そうなった私のことを、ためつすがめつ確かめて、身体を、心を、すみずみまで、指でなぞってみるのかもしれない。

私はされるままになって、彼女がすることのすべてをうけいれている。それで彼女が安心するなら、それでもいいと思って。
だが、時々、おかしなことに、そうすればするほど、彼女を支配してしまうような気がする。あたたかく、大らかに、優しく彼女をつつみこめばつつみこむほど、私は彼女に勝ってしまい、彼女は私から逃れられなくなりそうな気がする。
彼女もそれに気づいているのか。時々彼女の執拗な愛撫に耐えられなくなって、私が逃げたり、反抗して彼女を押し返したりすると、ぎょっとした顔をしながら、どこかほっとしているようだ。

「遅いんだね、あの二人」あたしは納屋の方をふり返った。「スープがさめちまうよ」
うちの人は、うす暗くなってきた外と納屋の黒い影を見てうなった。
「今日は珍しく遠出したから、疲れて眠ってるのかねえ」あたしは窓に近寄って外を見た。「行って、起こしてきた方がいいかもしれない」
「ほっとけ。夕食前に一発やってるのかもしれん」うちの人はぶっきらぼうに言った。「あの年ごろは、そんなもんだ」
あたしは首をふって、なべをかき回した。「そんなもんですかねえ」
「種馬みたいなやつだからな」うちの人は鼻を鳴らした。「いくらでも女を満足させられる」
「そんな風に言っちゃかわいそうですよ」あたしは言った。「おとなしくてまじめな、いい子なのに」
うちの人は何か言いたそうに、せきばらいして、足をふみかえた。弟のことを自慢したいような、悪口言いたいような、その両方みたいな顔してた。
「もう今は別れたらしいが、前はあいつ、皇女とも寝てたらしいぞ。自分でそう言ってたからな」
「皇女さま?」あたしは思わず、なべをかき回す手をとめて、ふり向いた。「皇帝の娘さんってことですか?そんなお方とあの人が、いったいどこで会えるんです?」
「あいつは皇帝にかわいがられててな。少年兵で、ローマの近くの基地にいるとき」うちの人は首をふった。「ときどき、そこに、皇女も遊びに来たんだそうだ。あいつが、おもてなしをしてる内、お気に入られて、とうとうそっちの方のおもてなしまでさせていただくようになったんだとよ」
「あんたそんな、かんたんに言うけど」あたしは声をひそめた。「そのまんま、お気に召されて、まかりまちがってひょっと結婚までしちまったら、あの人今ごろローマの皇帝…」
「ふふん」うちの人は黙って鼻で笑った。そんなこと考えるのもばかばかしいって思ってるのがよくわかった。あのガキがか、っていう思いがはっきり顔にあらわれてた。
「それで、別れちゃったんですか?皇女さまとは」あたしは聞いた。「それで今度は山賊の娘ですか?何だかもう、ほどほどってことのない人なんですねえ」
「あんまり上つ方の方とおつきあいしてると逆に、身分なんてのはどうでもよくなるもんらしいな」
「どうして別れちゃったんでしょう?」
「どっちみち、いっしょになる気はなかったんだろう。ささいなけんかが原因だって本人は言ってたが」
その時、ぱたぱた足音がして、納屋の方から二人が走って来るのが見えた。

夕食には何とか間にあった。
二人とも腹ぺこになってたので、うまそうなシチューの匂いをかいだだけで、頭がくらくらしそうだった。二人で並んで椅子に座って、思わず目を細めて鼻をひくひくさせていると、義姉がおかしそうに笑って、「すぐにあげるから」と言った。
「遠くまで行ったのか」兄がテーブルの向こうから聞いた。
「村をあちこち回っただけだ」私はスープの皿をつかんで引き寄せて、パンをちぎってひたしてかじりながら答えた。「あの話のことは皆知っていたよ」
「そうだろうさ」兄は言った。「それでおまえの知りたいことはわかったのか?」
私は料理をほおばったまま、首をふった。
「そうだろうな」兄は言った。「おい、おれのシチューはまだか」
「今ついでます」義姉は笑った。「この人たち、あんまりひもじそうにしてるから、つい先にしちまったわ」
「そりゃ、腹もすくわな」兄は平手で顔をなでてひとり言のように言った。
彼女も無言で、私以上にむしゃむしゃとパンや肉のかたまりにかぶりついていた。気持ちがいいほどの食べっぷりで、私は思わず、自分の食べる手をとめてうっとり見とれた。
兄はシチューをうけとって、黙々とすくっては口に運んでいる。私はふと思いついて聞いてみた。「兄さんはこの話が、不愉快だって言ってたな?なぜなんだ?」
兄は首をふった。「考えたこともないな」
「考えてくれよ」
兄はうなって、新しいパンをとった。
「おまえなぜ、こんな話にそうこだわる?」
「なぜって、そうだな」私は口ごもった。「何か、すっきりしないんだよ」
「すっきりしないことだったら、この世のなかにはわんさとあるさ」兄は横目で私を見た。生きてる中では一番若い兄なのだが、こういう時のちょっと意地悪そうな目つきは、私の記憶におぼろに残る、幼いころに死んだ父に一番よく似ている気がする。それで、なつかしい気がして私が笑いかけると、兄は吐息をついて、「やれやれ」と言った。そして、しばらく考えていてから答えた。
「この女が何だか何もかもわかった上で、そうしてるような気がするんだな。そこがどうも、気にくわない」
「たとえば何がわかってるというんだ?」
「そうさな。自分の美しさ。言い寄ってくる男たちの気持ち。断ったら何が起こるか。選んだらどうなるか。回りは自分をどう見てるか。死んだら何と噂されるか。そういうことの何もかもをよくわかった上で、そうした感じがする」
「計算してるってことか。どうしたら自分が一番よく見えるか。人に語り伝えられるか」
「そういうことかな」
「それだって、死んじまったら何にもならないんじゃないのかい?」
「だから知らんよ。おれに聞くなよ。ちゃんと考えて言ってるんじゃないから」兄は義姉の方を見た。「おい、おかわりをくれ。この飢えたオオカミみたいな連中が、なべをさらって、空にしちまわない前にな」

10

白い水鳥が沼の面を泳いでいる。
音もなく矢が飛んできて、鳥をつらぬき、白い羽根がぱっと沼の上に散る。
鳥は首をあげてもがき、断末魔のあがきをくりかえしながら、次第に沈んで行った。
私は、うめいて目をさました。
冷たい泥の中にひきこまれて行くように、身体が重くしびれている。
大きく息をついて起き上がり、立って行って、納屋のすみの木箱の上にある水さしをとって、コップに水をついで、飲んだ。
彼女がかさこそ乾し草を鳴らして起き直る気配がした。低い声で彼女は聞いた。「眠れないの?」
「うん」ふり向いて私は笑った。
彼女は起き上がってきて、後ろから私の背に身体を押しつけ、私の胸に腕を回して抱きしめた。彼女の胸の弾力と柔らかさとを背中に感じて私はぶるっと身ぶるいした。頭をそらして彼女の顔にもたせると、彼女の息が耳にかかった。
「川の娘に」深い吐息を彼女はついた。「あなた、とりこになっちゃったのね?」
「生きてる皇女より、いいんじゃないか?」私は笑って冗談を言った。
我ながら大胆な冗談だった。それを感じたのか、彼女も笑った。「どんな人だと思っているの?」
「川の娘か?」私はにぎりしめた手の中の空のコップを見つめた。「それがわからないからこんなに気になるんだろうな」コップをそっとテーブルに戻し、後ろに手を回して彼女の腰を抱いた。「どうしてもわからない。彼女の心も、表情も、少しも思い浮かばない」
彼女は黙っていた。私はふと気づいて、身体の向きを変えて彼女と向き合った。「あなたは、わかるか?」
彼女はちょっと身体を引くようにした。それは私や、私の身体が彼女を征服し、侵略しようとしていると感じた時に、とっさにいつも彼女が見せる警戒や怒りとはちがっていた。むしろ、どう言ったらいいのだろう…彼女が私を、おどかすまい、傷つけまいと用心しているように見えた。
「わかるって、何が?」かすかに固い声で彼女は聞いた。
「川の娘が、死のうと決心した気持ち」
彼女が息をひそめた気配がした。やがて静かに彼女は答えた。「ううん。わからないわ」

──(5)──

今朝、弟は珍しく台所に一人で座っていた。
「あら、けんかでもしたの?」
思わず聞くと、先に食事に行ってて、と言うから来たら、いつまでたっても来ないんだ、と、ふっくらとしたくちびるを、子どものようにとがらせた。
「今日もまた、村に行く?」
弟は考えこんだ。「わからない。もう大抵の人には聞いたし、行ったって無駄かもなあ」
そして、テーブルの上に腕をのばして、ひらめのように顔を伏せた。彼女は来ないし、調べごとはうまくいかないし、すっかりくさっているようだった。私はかわいそうなような、おかしいような気持ちになって、「沼なんかに行かせて悪かったね」とあやまった。「あんたがそんなに、あの話に夢中になるなんて、思っても見なかったんだよ」
「いいんだ」彼はあきらめたように、つっぷしたまま、むっつり言った。それから、ふと顔を起こして「姉さんは?」と聞いた。「あの話…川の娘のこと、どう思う?」
「まあやだ、あたしにまで聞くのかい?」あたしは両手を上げた。「そんなの、何も考えてないよ。あたしも初めて聞いたんだよ、あんたたちといっしょに」
彼はテーブルの上に両手を伸ばし、ほっぺたをテーブルにつけて顔を横向きにのせたまま、じっとあたしを見ている。あたしは何か役にたってやりたくなって、苦笑しながら、ほつれた髪をかきあげた。
「どうなんだろうねえ」あたしは言った。「そんなにきれいな娘さんだったら、残された親はきっと悲しかっただろう」何年か前に病気で死んだ小さい娘のことを思い出してあたしはそう言った。「親だけじゃない、残された者は皆」
彼は黙っていた。
「その気持ちを、考えなかったんだろうかね。皆があんまり好きじゃなかった…好かれて、重荷だったのかねえ」
弟はテーブルの上に横向きに目を落として、考えこんでいた。
「あの子とは、話さないの?」あたしは聞いてみた。「あの子は、何て言ってるの?」
彼は身体を起こし、椅子に背をもたせて、「何にも」とすねたように言った。「何か考えてるのかもしれないけど…教えてくれない」
あたしは何だか笑ってしまった。
「あんなに仲よくしていても」思わず言った。「ちゃんと秘密はあるんだね」
「おれたち、秘密ばっかりだよ」彼はあいかわらず、すねたように言った。「あの子のことなんて、おれ何にも知らないし、わからないよ」

あたしは、しぼりたてのあたたかいミルクを、コップについで弟の前に出してやった。弟は「ありがとう」と言って、ひとくち飲んで、おいしかったのかにっこりした。そして、肩の力を抜くようにほっと一息ついてから、「最初に会って…初めて寝たとき」と言い出した。「彼女、おれに言ったんだ。あなたを誰より憎んでる、って。おれがローマの軍人だから。おれが男だから」
「無理やり、いうこと聞かせられると、女は誰でもちょっとそんな気になるのよ」あたしはほほえんだ。「気にしなくても」
弟は首を振った。「ちがうよ。むしろ彼女の方が…」彼はちょっとためらった。彼女を傷つけない言い方を考えているのがわかった。「とても…積極的だった」
「それで、そんなこと言ったの?とてもあなたを憎んでるって?」
「おれが男で、ローマの軍人で」彼は、かみしめるようにくり返した。「それがどういうことなのか、おれが気づいてないってところが、一番許せないんだって言った」
彼は目を伏せ、唇を固く結んだ。
「そう言いながら、彼女、ぶるぶるふるえてた…愛の告白をしてるみたいに。それだからなのか、おれは、その時に、とても大切なものを渡された気がした」

「彼女はきっと」弟は言った。「そういうこと、これまで誰にも言えなかったんだ。言ったら、自分が殺されるか…相手が逃げて行ってしまうから」
「あなたにはなぜ言ったんだろう?」
彼は淋しそうにちょっと笑って、ミルクを飲んだ。「逃げないと思ったのかな」
「逃げなかったもんね」あたしは元気づけるように言った。
彼は外の方に目をそらした。「だけど今は逃げてる。川の娘の、この話…彼女がほんとはどう考えてるか、おれはわかる気がするんだよ」
「どう考えてるの?」
「川の娘が女だから」弟は小さい声で言った。「死ななきゃならなかったんじゃないかって」

「兄貴があの話をして聞かせた時、おれは何だかどきっとしたんだ」つぶやくように弟は言った。「彼女が何と思うかと思って。もし、川の娘が男なら、二人の女に言いよられて、そんなに苦しんだんだろうか。あっさり好きな方えらぶとか、選べなかったら、どっちも自分のものにして三人で幸せに暮らしたんじゃないだろうか。女だから彼女は選ばなきゃならなかったし、女だから、選ぶわけにはいかなかった。そう思うんじゃないかって思って。もしかしたら…」
弟は口をとざし、何かをふりはらうような手つきをした。
「もしかしたら、何なの?」
「姉さんは、こう考えたことはなかった?あの話は丸っきりの嘘で…皆に好かれたっていう川の娘は、本当は、皆に犯されて、殺されて、沼に投げ込まれたのじゃないかって」
「何を言うの?」あたしはぞっとして眉をひそめた。「何て恐いこと考えるの?」
「前線では、そんなことがあるんだよ」弟はつらそうに言った。「直接に見たことはないけど、話に聞いたことは何度かある。美しい娘って、そうなんだ。皆に好かれるってことは、そういうことになりやすい。女にとって、人に愛されるってことは、そういうことでしかない。あの話の本当の意味は、そういうことじゃなかったんだろうか。それを彼女は言いたくて、でもおれに遠慮して、黙ってるんじゃないのかなあ」
「あなたを憎いと、あなたに向かってはっきり言う人じゃなかった?」
「でも、それ、前のことだから…まだその時は、おれが逃げるなら逃げてもいいって彼女思ってたんだろうけど」弟は自信なさげに口ごもった。「今はもう言えないかも。おれのこと、すごく好きになってて…何だかあの…」
そしてあきれたことに弟ったら赤くなった。ふだん、あんなに大っぴらにべたべたしてても顔色ひとつ変えないくせに。

そのあとすぐ、女の子が息せき切ってかけこんで来た。納屋の裏の川で顔を洗っていたら、近くのやぶで山猫が子どもを生むところなのを見つけて、動いたら逃げそうだし、あなたを呼びたくても呼べなかったのと早口にまくしたて、もう落ち着いてるみたいだから、いっしょに見に行こうと言って、弟の手をひっぱって連れて行った。弟もうれしそうに、ひっぱられてった。

ろうそくの淡い明かりの中で、彼女は昼間見た山猫の話をしたがる。お母さん猫は子猫をこうやってなめていたわ、と言って、私の顔や背中をなめ、こうやってころがしていたわ、と言って、片手で私の頭を押さえては右に左に向きを変える。子どもを運ぶ時にはこうするんだよ、と言って、私は彼女の首すじの後ろに軽く歯をたてる。愛し合う時も。そして彼女を後ろから抱く。
猫の恋人どうしのまねにもその内にあきて、私たちは笑いながらまた向かい合って抱き合う。乾し草の中で丸くなりながら彼女は言う。そのうちにあたしも子どもを生もうかな。
一人じゃ生めないんだよ、とほおづえをついて彼女を見ながら私は注意する。
誰かにたのむわ、と彼女は天井を見上げて言う。
私が傷ついたふりをして、背中を向けて身体を丸めると、彼女が笑って後ろから、肩にしがみついて、引き起こして、向きを変えさせようとする。私が抵抗していると、私の上にかぶさって、私の前にころがり落ちてくる。私が声を殺して笑っているのに気がついて、彼女も声を上げて笑いながら、私の首に手を回して抱きしめる。
あなたしかいない。彼女は言う。百人子どもを生んだって、その父親は皆あなたよ。

あたしは別に、二人の仲をとりもとうとしたわけじゃない。ただ何となく気になったもんだから、弟と二人で話をした何日か後、台所でいつものようにいちゃいちゃしてた二人に向かって、弟には畑にいるうちの人のとこに香草を取りに行かせ、娘には野菜を切るのを手伝わせて、ちょっとの間、二人をひきはなした。二人はなごりおしそうに、ほほえみかわし、指の先がはなれるまで腕を伸ばして手をふれあいながら、やっと離れた。
女の子に野菜の切り方を教えながらあたしは「ほんとに仲がいいんだねえ」と感心した。「ちょっとも離れてられないんだね」
女の子は、くしゃっと鼻にしわをよせて笑った。「そのうちに、あきると思ってたんだけど」と彼女は自分でもふしぎそうに、困ったようにしぶしぶ言った。「どっちかが。こんなことしてたら」
あたしは笑った。「でも、あきないの?」
女の子は、こくんとうなずいた。「幸せって、退屈すると思ってた」彼女は考え考え、ことばをさがしているようだった。「きっとすごく、つまらないって。でも、そうじゃなかった」
自分でもとまどって、どこか途方にくれてるような声だった。
「終わるんならもう、早く終わった方がいいと思って。あの人のいやなとこを見るなら早く見てしまいたくて。それで、どんどん、好きになるようにしたの」彼女は、まるで老人のように重々しく、深いため息をついた。「あたしって、バカだなあ」
「いやなとこ、見つからないの?」
「そういうのが見つかるよりも」女の子は首をふった。「あの人といっしょにいると、あたしのいやなとこまでが、どこかに行ってしまうんです。あの人といっしょにいると、自分のことがとても好きになるの。嘘みたい。とても変。何か、だまされてるみたい」
「恋をしたら女はきれいになるっていうものねえ」あたしは言った。「あんたもきっと、それなのよ」
女の子はちょっと沈んだ悲しそうな目になって、何か言いたそうにじっとあたしを見つめた。
「どうかした?」あたしは聞いた。
女の子は首をふった。「ううん、いいんです」彼女は言った。「何でもない」
「何か心配なことあるの?」
女の子はあいまいに首をふった。
「弟と話した?」あたしは聞いてみた。「川の娘のこと、何か」

女の子は深呼吸して、首をふった。
「ううん。話せないわ。だって…」彼女は口ごもった。「何か恐い」
「どうして?」
「あの話は恐いわ」女の子はくり返した。「すごく恐い」
長いこと黙って、彼女は考えこんでいた。野菜を切ったり、よせたりする手もときどきとまった。
「あたし、あの人のこと…」とうとうナイフをおいてしまい、小さい声で彼女は言った。「何か、いつまでもいる気がしないんです。朝、目がさめて、そばにあの人がいなくても、何だかちっとも驚かないわ」
あたしは黙ってた。
「どうしていてくれるのか、その方がふしぎ」彼女は言った。「どうしていつも、あたしのそばなんかに、ずっといてくれるのかが」
女の子はまた、今度はほっと小さく吐息をついた。
「別れはきっとくる。だったらもういっそ、早く来てほしい。そう思っちゃって。もう、今さえいいならいいと思って。そうしたらかえって何だか、腹がすわるの」
その言い方がおかしくて、あたしは思わず笑った。女の子も笑った。そしてナイフをまた持ち上げて野菜を切ろうとしたが、すぐまたそれをおいてしまい、「でも、そうは言っても」とつぶやいた。「そうは言っても、やっぱり…」
そしてまた、長いこと黙っていた。

「彼はあんなにあんたが好きで、いつもいっしょにいたがってるのに」あたしは言った。「あんなに優しいのに。それでも不安?」
女の子は、にぎりしめたこぶしをかんだ。「ええ、あの人は優しいわ」彼女は言った。「とても優しいんだけど、でも、どうしてか、あの人はいつだって、どこかに行こう、いなくなろう、そうしてるみたいに見えるんです」わかってもらえるのだろうかとあやぶむようなまなざしで、彼女はじっとあたしを見た。「あの人、皆にとても好かれてるの。自分ではあまり気づいてないのよ」
あたしはうなずいた。
「上官も部下も、あたしの仲間の女たちも、皆、あの人がとても好きなんです。だから、あの人を一人じめしたあたしは、男からも女からも憎まれてます。でも、それは平気なの。あたし何とも思わない。あたしだって、あの人をあたしから奪うものは皆憎いから、おあいこよ。皇女さまとの思い出も。ローマへの忠誠も」
あたしはぎょっとして思わず目をむいた。
「そんなこと言うもんじゃないよ」と注意した。
彼女はあたしの臆病ぶりをバカにしたように、ちょっと冷たく笑った。「あの人はなぜあたしが、そんなに皆に憎まれるのか、わからなくって、いらいらしてる」彼女は言った。「放っとけと言っても、だめなの。あたしが憎まれるのが自分のせいだって感じてるけど、そのわけがよくわかってなくて、どうしていいのかわからないの。自分が好かれてるから、こうなるんだってことが。だって、あの人の、人の愛し方はそんなんじゃないの。もっとのんきで、大らかで、憎しみも嫉妬もまじらない。だから人を好きになったら、何かを、誰かを愛したら、その分だけ憎しみも、汚いものも冷たいものも生まれるんだってことが、あの人にはわからない」
あえぐように大きく、女の子は息をした。
「わからないなりに耐えてるけど、その内にいやになってしまうんじゃないかと思う。あの人、何もかもが。あたしのことも。皆のことも。愛されることが。そのことで皆が憎みあうのが。何もかも、生きているのさえも」
突然あたしは気がついた。気づいてしまうと、なぜそれが、今まで自分の頭の中で結びつかなかったのか、ふしぎなくらいだった。「あんた…」
彼女はうなずいた。「川の娘のあの話を聞いたとき、ぞっとしたわ」彼女は言った。「あの人はあれからずっと、あの話のこと、気にかけてる。どうして自分があの話を気にするのか、そのことさえも気づかずに。でも、あたしにはわかってる。だから、恐いんです。どうして自分があの話にひかれるのか、あの人がわかってしまうのが。川の娘は、あの人に似てる。なりふりかまわず、少しも人をひきつけようとせず生きているのに、皆に好かれて、愛されて、それに疲れて、皆の前からいなくなってしまう。誰の手にも入らないまま、永遠にどこかへ消えてしまう」

10

あたしは思わず手をのばし、あたしより背の高い、女の子の髪をなでた。
「そんなことを考えてたんだね」あたしは言った。「それで心配していたの?あんたたち二人ったら、もうまったく…」
何と言っていいのかわからなかった。本当に。「あんたたち二人みたいに、かわいいおばかさんたちは見たこともないよ」とうとう、あたしはそう言った。「相手のことばっかり考えて。相手の気持ちになって苦しんで」
女の子はふしぎそうにあたしを見返していたが、ふと何かを感じたように外を見て、ぱっと顔を輝かせた。
弟が楽しそうに、口笛を吹きながら、陽射しの中を香草の束を持って小走りに走ってくるのが見えた。女の子のためにつんだのか、白や黄色の花ももうかたっぽの手に持って大切そうにながめてる。すらりとつりあいのとれたきれいな手足が、日光の中に若い獣のように生き生きとまぶしかった。

──(6)──

沼の上を水鳥が進んで行く。もうすぐ岸から矢が飛んでくるだろう。それが鳥に刺さり、白い羽根が雪のように散るだろう。
それは、私のまぶたの裏にもう何度もくり返し、浮かび上がった情景だ。払っても払っても、消えないでまたよみがえる。
ため息をついて、私は彼女のあたたかい身体を手さぐりした。さっきまで私を眠らせまいとして、私をくすぐって乾し草の中を転げまわらせていたのだが、そんないたずらをするだけして満足したあとは、彼女は私に見つけられないように意地悪をして、乾し草の中にもぐりこんで隠れていることがよくあるので、すぐに彼女のうつぶせに寝ている肩が手にさわったのに、私はむしろびっくりした。
彼女はよく眠っているようだった。安心して小さくうめきながら、私は舟が砂州に乗り上げるように、彼女の肩の上に自分の肩と頭とをはいあがらせ、彼女の肌に顔をくっつけて目を閉じた。
そのままじっとしていると、ふとあることに思いあたって、私はぱっと目を開けた。
まさか、と思ってまた目をつぶり、でも、と思ってまた開けていると、彼女が身動きし、眠そうに「ちょっと」と文句を言った。「そこで目をぱちぱちさせないで。あなたのまつ毛がくすぐったいわ」
私は黙って、わざと激しくまばたきした。彼女は怒って「もう!」と言いながら、肩の筋肉をぴくぴく上下させて私に対抗した。
「ねえ」私は彼女の背中においた手を動かした。「川の娘の話だけど、何だか変と思わないか」
「どこもかしこも変だわよ」夢うつつの声で彼女は言った。「あなたずっとそう言ってるじゃない」
「ときどき、妙に詳しいだろ。槍の穂先が地面をひきずったとか、馬の胸かざりがどうだとか」
「うん」彼女はあいかわらず眠そうに言った。「きっとそこだけちゃんと見てた人がいて、熱心に話して伝えたのよ」
「だろうな。どんな人だったと思う?」
「わかるわけないでしょ。百年近くも昔のことよ」
「少なくとも…」私は考えていた。「その見ていた人ってのは、いつも、下ばっかり見てる人だ」
「…え?」
「子どもかな?」
「何?」
「子どもの目線だ、いつも、この話。川の娘がかがみこんで何か言ったって話もあったろ?笑いかけたんだったっけ?どっちにしろ、大人相手だったらそんなことしない」
彼女はどうやら、もうぱっちりと目を開けているようだった。声もはっきりしてきていた。「この伝説を伝えたのは、子どもたちだったって言うの?大人じゃなくて?」
「いや、そうとは限らない。大人も話したんだと思う。でも細かいとこはいつも子どもが話してる。その当時、子どもの目で見てた誰かが。そんな気がする」
彼女は私を片手で支えながら半身起こして、考えこんだ。「川の娘の身近には、誰か子どもがいたのかしら?妹とか…友だちの子とか」
「聞いてみなくちゃ」私は乾し草の中にあおむけになった。「あの水車小屋のじいさんかな。一番くわしい話をしてくれた人だ」
「そうね」
二人は手をにぎりあった。
「夜が明けたらすぐ行こう」私は彼女の手にくちづけして、深く息を吸った。「それまでに忘れてしまわないといいけどなあ」
彼女は半身起こしたまま、私のまぶたを優しく指でなでて閉ざした。「眠りなさいよ」甘やかすような声で彼女は言った。「あたしが覚えていてあげる」
そして私が目を開けようとすると、指でまぶたをおさえてじゃまをした。
私はしばらく彼女の手のひらをかもうとしたり、首を左右にふったりして、彼女の手をどかそうとしていたが、だんだんめんどうくさくなって、その内ひとりでに眠ってしまった。

それでも興奮していたのか、まだ暗い内に目がさめた。朝食もそこそこに、私たちは馬に相乗りし、はりきって走らせて、あの水車小屋へと向かった。
「おじいさん、死んでないよね?」彼女がつまらないことを心配した。
じいさんはいたって元気にしていた。私たちが持っていった、みやげの野菜を喜んでうけとり、川の娘のそばに小さい子どもがいたかどうか覚えていないかと聞くと、しばらく考えていてからすぐ、勢いよくひざをたたいた。
「いた、いた。そう言えばたしかに、あんたの言ったとおりのそんな女の子がたしかにいた」じいさんは声をあげた。「川の娘の死体が引き上げられた時、その子は泣きわめいていた。小さい女の子だ。わしらより少し年かさだった。川の娘にかわいがられて、よくいっしょに遊んでいた。そうだ、そう言えばあの子はいったいどうしたんだろう。あれからふっつり、姿を見ない」
「村を出たのかな?」
「死んだという話は聞かない。だから、そうなのかもしれんのう」老人は考えこんだ。「たしかあれから少しして、洪水があった。それで畑がつぶされて、村人の半数近くが、山の向こうに移住した。ひょっとしたらあの子の家族も、その中に入っていたのかもしれんな」
「山の向こうか」
「そう遠くはない。馬だったら半日で行ける。今もたしか、そこには大きな村がある。ここよりずっと人が多くなって栄えてるっていう話だ」老人は言った。「そうは言っても、町ってほどじゃないはずだ。行って、一日もかけてさがせば、その女の子がどうなったかぐらいはわかるじゃろ。もし、そこに行ったのだったらな。生きていれば、わしら以上のいい年のばあさんになってるはずじゃよ」

──(7)──

乾かされたひょうたんがいくつも軒にかけてあって、風に吹かれてぶつかりあって、小さい音をたてていた。テラスの椅子に腰を下ろした、まっ白い髪を小さいまげにまとめた小柄な老婆は、鋭く光る黒い目で、私たちをじっと見ていた。一日さがして私たちはようやく彼女をさがしあてた。私たちの背後では、疲れた馬がもぐもぐと草をはんでいた。歩き回って、たずね回って、からからに乾いたのどに、この家の主人がさっき運んできてくれた、冷たいワインが快かった。
「いつかは、このあたしのところに」しわがれた、小さな声で老婆は言った。「誰かが聞きにくるはずと思ってたよ、コッセニアのことをね」

「そんな名前だったのか」私は聞いた。「川の娘は」
「そうともさ」老婆は微笑した。「何十年ぶりだろう?私がその名を口にするのは」
「二人の男の人たちの名は?」彼女が聞いた。「それもわかっているのですか?それとも忘れてしまわれた?」
「忘れるものかね」老婆は言った。「心の壁にきざみつけられて、死ぬまで消えまい。森の男と呼ばれていたのはテレフォス、丘の男と呼ばれたのはプリスクスだった」
老婆は私たち二人をじっと見つめた。それで私たちはいつの間にか、いつものように、互いの腰に腕を回し、お互いの肩とわき腹を相手にぴったり押しつけるようにひきよせあって座っていたのに気がついた。
何かを思い出したように老婆は笑い、「そんな風だった」と言った。
「何が?」
「コッセニアとテレフォスは幼なじみだった」老婆は言った。「命をかけて、運命のように、二人は深く、激しく愛し合っていた」

「プリスクスはそれを知っていたのか」私は聞いた。
「もちろんだよ」老婆はうなずいた。「だが、丘の男は、自分の手になど入らないものはないと思っていた。あの男はそうやってすべてを手に入れてきた。金も、地位も、丘の上に広がる宮殿のような屋敷も。そんな自分と、その屋敷にふさわしい妻を今度は彼はほしがった。美しさ、賢さ、優しさ、すべての点で、それにふさわしかったのは、コッセニアしかいなかった。プリスクスは旅をして、広い世界を知っていた。それでも、彼の目にかなったのは、あの娘しかいなかった」
「ただ彼女には」私は言った。「愛し合った男がいた」
「そんなことはプリスクスには問題にならなかった」老婆は答えた。

「プリスクスが金と力にまかせてコッセニアを奪おうとせず、あくまでもテレフォスと対決し、彼女の心をとらえようとしたのはなぜ?」私は聞いた。
「彼女の心をとらえようなどとしたのではない」老婆は首をふった。「どんなことをしようとも彼女の心はテレフォスのもので、そこからはひきはなせないことは誰もが知っていた。テレフォスは美しく、賢く、優しく、りりしい男だった。プリスクスもそうだった。だが、かりに、テレフォスが、愚かなみにくい男でも、コッセニアはやはり彼を愛したろう。プリスクスに弓で、組みうちで、すべて負けたとしても、卑怯に泣きわめいて許しを乞うたにしても、テレフォスを愛する彼女の心に変化があったとは思えない。あれはそういう愛だった。生まれた時から結ばれていたように、二人はひとつだったんだよ」

「では、村の者たちが…皆が許さなかったのか?」私は聞いた。「力づくで彼女を奪うことを。それでプリスクスはああやって、皆に納得してもらうかたちをとって、彼女を得ようとしなければならなかったのか?」
「それもちがう」老婆はまた首をふった。「当時、プリスクスに逆らえる者は誰もなかった。村の者たちは知っていた。コッセニアとテレファスの家族も知っていた。プリスクスには逆らえない。従わなければ身の破滅だった。彼には大きな財産があり、たくさんの土地があり、武装した家来たちがいた。言うことを聞かなければ、村も、家族も生きてはゆけない。誰もがそれをよく知っていた。だから、コッセニアとテレフォスの恋を守ってやろうとする者は誰もなかった。家族も。村人も。友人たちも。皆、自分がかわいかった。だからあとになって誰も」老婆は笑った。「そのことを思い出したくなかったのさ」

私は彼女と手をとりあったまま、身じろぎし、座り直した。
「どうも、わからないんだが」私は言った。「プリスクスの気持ちが。じゃ何で彼はわざわざ…」
「手続きを、ふみたかったのだよ」老婆は笑った。「正々堂々が好きな男だった。金と力にまかせて女を奪ったと言われたくなかったのだ」
「言われたくなかったですって?」彼女が突然、叫ぶように言い、その身体が怒りにふるえているのが、私の身体に伝わってきた。「でも事実はそうだったんじゃないの」
「そうだとも」老婆は笑った。「だが、それが彼だった。文句を言われたくない、が口ぐせだった。悪者になりたがらなかった。土地をとるのも、金をとるのも、命をとるのも、いつも、まっとうな手つづきをふんだ。やむをえないなりゆきとして、被害者はむしろ自分という顔で、相手のためを思ってという理由で。こう言ってもいいだろう。名誉、尊敬、人望も、彼は金と力で得ようとしたと。英雄や聖人に人々がよせる賞賛を、屋敷や土地や、宝石や美女を得た、最後の最高のぜいたくとして、あの男は求めていたと」
「だからテレフォスに挑戦しつづけた?」
「絶対に勝つ方法で」冷たい、おごそかな声で老婆は言った。「テレフォスには羽根の曲がって飛ばない矢、切れない刃の剣、言うことを聞かない馬を渡し、彼の苦手な競技を選んだ。それでももしテレフォスが勝ったら、彼はその場ですぐ殺されるはずだった」

「なぜテレフォスはそんな戦いに応じたんだ?」私は聞いた。「娘を連れて、さっさと逃げずに」
「二人とも見張られていた。二人とも家族があった」老婆は首をかしげて地面を見たまま、低く歌うように言った。「二人が逃げたら、残った家族は殺されたろう。彼は戦うしかなかった。負ければ彼女を永遠に失う。勝ったらその場で殺される。それでも彼は戦った。おそらく彼は、勝って、殺されようと思っていたのだ。だが、いつも、勝つにはいたらなかった。三度、それがくり返され、三度目に、コッセニアは決意した。愛する男を救おうと。そして沼に身を投げた。どのみち、彼が殺されても、負けても、彼女は死ぬ気でいた。プリスクスのものになるくらいなら。戦いを見ている内にますます、その気持ちが強くなった。テレフォスへの愛がつのった。そして彼女は決意した。自分が早く死んだ方がまだ、テレフォスの命だけは救えるのだと」

「川の娘は、選べなかったのでも、選ばなかったのでもない」私はつぶやいた。「初めから決まっていたのだ。選ばなくてはならない相手が」
老婆は黙って、おだやかに笑った。
「テレフォスとプリスクスは」私は互いのひざの上にたがいちがいにのせて、にぎりしめていた彼女と自分の手をひとつに重ねた。「コッセニアの死んだあと、どうなった?」
「プリスクスは旅に出て、それきり帰って来なかった。テレフォスは沼のほとりに小屋を建て、年とって死ぬまでそこで暮らした」
私はふと思い出して聞いた。「小屋はどこにあった?」
「平たい大きな石のある、よどみのそば、コッセニアが身を投げた近くだ」老婆は答えた。「小さい石の塚が建ってる」
やはり、あそこか。意外ではなかった。
「あたしたち」私の手をにぎりしめながら彼女が低く言った。「この前、あそこで、あの人に会ったわ…コッセニアに」
驚いた様子もなく老婆はうなずいた。「天気のいい日はああしてときどき、出て来るんだよ」

──(8)──

今でも覚えてるけど、弟とあの娘とが、山の向こうの村から帰ってきた、その日の夕方、最後にあたしが家に入る前に見た時、二人は納屋の入り口の石段の上に並んで座ってた。
ぴったりくっついて、肩を抱き合って。
弟の髪は夕日を浴びて、赤みがかった金色に見えた。こっちに来てからのばしっぱなしにしてるその髪が、首すじまでのびて、ゆるやかに波うって、女の子の長い髪とからまりあってた。
女の子の指は弟のほおをなで、弟の手は、その指をおおってた。
まるで、何かから互いを守るように。
見えない敵から。運命から。

「いつか、あなたも」彼女は低い声で言った。「そんな戦いに、ひき出されそうな気がする」
「どんな戦い?」
「テレフォスがひき出されたと同じような戦いに」彼女の声はふるえていた。
「あなたを倒すところを皆に見せる…その手つづきだけを求める、残酷で、大きな力を持ち、しかも臆病で、卑怯で、自信がない…そんな相手との戦いに。絶対に勝てないようにされた上で。勝ってもその場で殺されるようにされて」
私は笑った。
「戦いなんて、皆いんちきだ。この世に正々堂々の公平な戦いなんて、ほんとはひとつもありはしない」私は彼女に言って聞かせた。「君だって、そのことはよく言うじゃないか」
彼女は何も言わないで、黙って私の身体に腕を回し、強く自分に引き寄せた。
「それでも、おれは勝ってきた」私は彼女のその腕をとり、もう一方の腕を彼女の首に回して、耳もとでささやいた。「そんな戦いにひき出されても、おれはきっと勝ってみせるよ。勝って、君のところに戻るよ」
彼女は何も言わなかった。私の身体に回した腕に力をこめて、もう一方の手で私の顔を支えて、自分にそっと押しつけた。

今も目をつぶると、その時の二人の姿がうかぶ。
世界中に、二人以外の何もないように、肩と肩、ほおとほおをあわせて。
夕日の中、二人の背後には草原が輝いていた。
金色に、まぶしく。
二人はときどき、小さく動いて、腕をからめ直し、額やほおをまた寄せあった。
ひざに手をかけ、胸に顔を埋め、いつまでも、いつまでも、はなれようとしなかった。

あんなに美しいものを、あの時までも、それからも、あたしはもう二度と見たことがない。

(沼の伝説・・・・・終  2003.2.15.17:07 )

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