映画「グラディエーター」小説編狼と将軍

狼と将軍 -動物が見たマキシマスー

その人の姿が消えてから、皆の心はばらばらになり、世界はこわれた。
何が正しいのか、まちがっているのかも、わからなくなった。

森で生まれ、ローマ軍の兵士に拾われて基地で育った狼は、かわいがってくれた将軍がいなくなった時以来、ずっとそう感じていた。

新しい指揮官にごちそうをもらい、ぜいたくをさせてもらっても、彼の心は晴れなかった。
将軍に仕えていた若者とともに、狼は将軍をさがして旅に出る。
これは、混迷と不信の時代、爛熟し、崩壊を待つ世界の中、信じられるもの、そのために命をささげて戦えるものをさがして走りつづけた、一ぴきのけものの物語である。

第一部 洪水の森

(1)落葉に埋もれて

母狼がどこに行ってしまったのか、子狼にはわからなかった。
多分、数日前からふりつづいていた激しい雨と、とどろく川の水音と何か関係があったかもしれない。
彼は、ひと腹子の兄弟五ひきの中の一ぴきだった。森の奥にある岩かげのほら穴の中で、他の四ひきのあたたかい体温を感じながら、もつれあってうとうとしては母狼の乳房にかじりつく毎日だった。
あたたかい甘い乳が飲めなくなって、どのくらいたったかわからない。飢えがつのるとともに寒さも身にしみて、彼らは鼻を鳴らして母を呼んだが返事はなかった。
かわりに雨の音ばかりがますます激しく続いた。とうとう、彼らのいた穴の中まで冷たい泥水が流れこんできて、仰天した彼らは、まだよちよち歩きしかできない足で、もがきながら泥と水を押しわけて、ようやく穴の外に出た。
あたりも一面水びたしになり、森の斜面を水が流れ下っている。
ぬれた木の葉をふみしめて、ころころところがりながら乾いた場所をさがしている内、子狼は他の四ひきとはぐれてしまった。
そのことにさえ気づかぬほど、彼は必死で水の流れから逃げて、安全らしい場所を求めた。
雨がやんで、明るいまぶしい陽がさしてきたのがわかったが、その光も、木々のざわめきも、鳥の声も、何もかもが子狼には恐ろしかった。
つもった落葉に鼻をつっこんで中にもぐろうとしたり、大きな木の根の間に入りこもうとしたり、空しい努力を重ねたあげく、彼は泥だらけのぬれた身体を丸くちぢめたまま、枯葉の吹きだまりの中で目を閉じた。

重い足音がいくつも入り乱れて近づいてきた。足音が止まり、声がして、大きな手が子狼を用心深くつかんで持ち上げた。
子狼が目を開けると男たちの大きな笑い声がした。
彼はまだ人間を見たことがなかった。男たちは皆、陽の光にきらきらと光る銀色のかぶとをかぶり、革のよろいと長靴をつけて、腰には剣を下げていた。数本の手が荒っぽく子狼の泥をぬぐい、一人の脱いだかぶとの中に彼らは子狼を入れて運んで行った。
やがて、一行は森から出た。大勢の男たちが声高に呼びかわす声や、騒々しい足音、馬のいななきなどが耳に入ってきた。母狼に似たような匂いがした気がして、子狼がかぶとから顔を出すと、誰かの手がまた彼の頭をおさえて中に押しこんだ。
男たちは一人の男のところに行って、何かを報告し、陽気に声をかけあって解散した。そして、子狼を入れたかぶとをかかえた男が、後の二人の仲間とともに、何か話しながら足早に広場を横切って行った。

子狼は緊張と好奇心のため、飢えも寒さも忘れて、かぶとの中で息を殺していた。
男たちの足どりがゆっくりになり、やがてとまった。ずらりと並んだテントの中の、他よりやや大きな一つの前に彼らは来ていた。ささやきかわす男たちの声には、尊敬している人とことばをかわす前の緊張感と、子どものようなわくわくした調子があった。間もなくテントから出て来た人影に男たちは声をかけ、かぶとごと子狼をさし出した。
声をかけられた男は、かぶとの中をのぞきこみ、子狼を見て驚いたように何か言った。男たちはいっせいに笑い、その声に驚いた子狼は本能的に歯をむいて低いうなり声をたてた。
やさしく低い笑い声がして、大きな手が子狼の頭をそっとなで、耳のうしろをくすぐった。子狼のさかだっていた毛が元に戻り、うなり声が小さくなって、やんでしまうまで。それからゆっくり、もう一方の手がのびて来て、子狼をかぶとの中から抱きとった。太い暖かい腕の中に抱えこまれて子狼は、あいかわらず緊張しながらもじっとしていた。
男たちがまた笑い、何か言った。子狼を抱いている男は、彼らと楽しそうに何か話し、顔をうつむけて腕の中の子狼にも何か話しかけた。子狼は耳をすませた。やわらかい、あたたかい声。明るく楽しそうで、若々しく、しかも威厳にみちている。それなのに、静かな悲しみのようなものがどこかにただよっていて、その声は子狼の心を強くとらえた。

ひとしきり話をかわしたあとで、男たちは去って行った。男は子狼を抱いたままテントの中に入り、落ちついた低い声で誰かに何か言いつけていた。男の腕の中はあたたかく、そっと軽くゆすってくれるのも心地よく、子狼はあやうく眠りそうになっていた。
テントの中にはさまざまな、これまでにかいだことのない匂いがひしめいていた。やがてその中にうまそうな乳の匂いがただよってきて、子狼は耳をたて、鼻をひくひくさせた。男は静かに子狼の頭をなで、やがて、あたたかい指先を子狼の口もとにくっつけた。指にはミルクがついていて、子狼は母狼の乳房にかぶりつくように、それをくわえて、しゃぶった。指についたミルクがなくなると男は何度もつけ直してしゃぶらせてくれたが、子狼がじれて指をかむと、くすぐったそうに笑って、今度は陽ざしの匂いのするきれいな布のはしにミルクをたっぷりしみこませてしゃぶらせてくれた。
この方が母狼の乳房に似ている。子狼は夢中になって、小さなうめき声をあげながら、しゃにむにミルクを吸いつづけた。

次第に腹がくちくなった子狼の口の動きがのろくなったのを見た男は、丸くふくれてぱんぱんになった子狼の腹をそっとさわって満腹しているのをたしかめてから、ミルクの布を口からひっぱって取った。子狼は鼻を男の胸にくっつけてもぐりこもうとした。男は今度はお湯でぬらした布で、泥にまみれてごわごわになっている子狼の全身をふいた。少しづつ、ていねいに毛皮の上をぬぐって行くその動きは母狼の舌の動きとそっくりで、子狼は思わずうっとりと目をつぶった。男が鼻歌を歌ったり、小さく口笛を吹いたりしながら、絹のようにやわらかな耳や、ふさふさのしっぽの先まできれいにふきあげてくれる頃には、子狼はすっかりくつろいで、だらりと四肢をのばしてしまい、ぬらした布で刺激されて心地よく排泄もして、うつらうつらと眠りはじめた。
男の大きな手はいつまでも子狼をなでていた。何かを思い出しているように、かすかなため息をつきながら。

子狼が目をさました時、あたりは静かで暗かった。古い肌着をしいた木の箱の中に彼は入れられていた。さっきと同じテントの中だということは匂いでわかった。
肌着は清潔だったが、子狼の鋭い鼻は、さっきの男と同じ匂いがしているのをかぎとった。彼の鼻はもうあの男の匂いを覚えていた。その匂いは近くでもしていて、テントの中の他の匂い…ワインや、ミルクや、木や、紙や、灯皿の油や、革や金属、その他のさまざまな匂いの中から子狼はそれをかぎわけた。かすかな寝息と人の気配とともに、男が近くで寝ているのがわかった。
母狼の匂いはしない。
匂いがしないだけではなく、ふしぎな野生の本能が子狼に、母狼はもはやどこにもいないこと、どこに行っても二度と会えないことを告げた。なぜわかったのか、はっきりと子狼はそれを知った。
すると、たまらない淋しさがこみあげてきた。
腹はへっていなかったし、寒くもなかったが、彼は思わずくんくんと鼻を鳴らして、おぼつかない、哀れっぽい声で鳴いた。しばらく鳴いていると、そばの寝台の上で、男が身動きし、起き上がる気配がした。
子狼は警戒して、いったん鳴きやめた。男が箱の上にかがみこみ、何か低い声で話しかけながら身体にさわってきた時もじっとして黙っていた。だが男が手を離して寝台に戻ろうとすると、思わず前よりも高い声で鳴いた。もっと哀れっぽく、もっと情けなさそうに。
男は戻ってきて、また箱の上にかがみこんだ。眠そうに目をこすったり、困ったように頭をかいたりしてしばらく考えこんでいたが、とうとう決心したように、小声で何かささやきながら、子狼を箱から出して抱きかかえた。そして、寝台の足元の毛布の上に子狼をそっとおくと、自分も毛布にもぐりこみ、ここなら安心だろ、と言いたげに毛布の下から子狼の身体を足で軽くつっついた。

子狼は少し満足して、毛布ごしの男の足先に身体をすりよせた。男はすぐに眠ったらしく、再び寝息が聞こえはじめた。
しばらくその姿勢でうつらうつらしていた子狼は、しかし、やがて、自分でも無意識に毛布のすそを鼻でつっつき、もぐりこもうとしはじめた。それにはたやすく成功して、彼は男のはだしの足にくっついた。多分、毛布といっしょにかけていた毛皮と区別がつかなかったのだろう、男が気にした風はなかった。
しばらくまたじっとしていてから子狼は、男の息をしている方へ近づこうとして、身体にそってゆっくりと毛布の中を進みはじめた。一度、男の寝間着のすそにもぐりこんで、狭すぎて前進できなくなってひき返し、いったん考えてから、また出直して、今度は寝間着の外側を少しづつ首の方に向かって上がって行った。男のひきしまって固い脇腹や、ゆっくりと上下している厚くたくましい胸板のそばを通りすぎ、肩のところから鼻先を出すと、男の顔がすぐ前にあった。
目を閉じて気持ちよさそうに寝息をたてている。顔の下半分は黒っぽくやわらかな毛につつまれていて、子狼はそこに自分の顔をくっつけ、舌の先で男の顔の毛のない部分を軽くなめた。
男はぴくりとして寝息をとめたが、目はさまさなかった。夢の中で何かをつぶやき、腕を曲げて子狼を抱きよせ、顔に押し当てた。幼い子どもにするように。
子狼は安心し、男の腕に抱きしめられたまま、目を閉じた。

再び子狼が目をさました時は、夜あけの光がほのかにあたりを明るくしていた。
鳥の声がしていた。遠くで何か号令をかけているような声も聞こえる。
子狼を抱いた男は、もう目をさまして子狼をながめていた。すぐ近くから見る人間の顔は、母狼よりずっと大きく、子狼はしばらくきょとんと見返していた。それが顔だと、すぐにはわからなかったのだ。
けれど、ほどなく、自分をじっと見つめている、やさしい目に子狼は気がついた。灰色がかった青い目にうかんでいるその表情は奇妙なほどに母狼に似ていた。力強くて、あたたかいのに、もの哀しく、そして、とても静かだった。
子狼は思わずまた舌でその目をなめようとした。
男は笑って目をつぶったので、子狼の舌は男の金色のまつ毛をなめた。それはあたたかくぬれていて、塩からい涙の味がした。

(2)あたたかな声

こうして子狼は、男のテントで暮らすことになった。
古い肌着を入れた木の箱が彼の巣になった。昼間はそこで眠ったが、夜は男の寝台で、男の首にくっついて寝た。男が寝返りをうつたびに、うなじに頭をすりつけたり、あごの下に鼻をつっこんだりしながら。
男は昼間はテントにいないことが多かった。毎日、大抵、重い大きなよろいをつけて、外に出て行っていた。帰ってくるとよろいも脱がずに汗とほこりの匂いをさせたまま、まっすぐ木箱のところに来てのぞきこみ、子狼を抱き上げる。そして頭をなでながら、何かしきりに話しかける。

男がいない間は、テントの中にいるもう一人の人間が子狼の世話をしてくれた。ミルクを飲ませ、布で大小便をとってくれる。男より若いようで手や指も小さく、あまりしゃべらなかった。
行きとどいた親切な世話ぶりだったが、子狼は、この若い人間にはあまり興味を感じなかった。彼に流れる狼の血は、群の支配者と力関係を判断した。ごく最初から、この二人の人間の間では、男が命令し、若者がそれに従っていることが子狼にはわかった。してみれば、この若者も男の下にいるのだから、自分と同等の存在にすぎない。男に守られている限り、この若者のことは気にしなくていい。彼はそうひとりでに判断していた。
だから子狼は、注意力のすべてを男に向けた。彼の匂いは最初の日からとっくに覚えていたが、声や足音、息づかい、手やひげの感触、笑い声、顔つき、目の色、せきばらいや口笛の音、ただよう気配までもを、全身でしみとるように記憶していった。男が帰って来て、馬がテントに近づいて来ると、子狼のしっぽはおさえようとしておさえられず、ひとりでにゆれた。男が近づいてきて手が頭にふれると、のどもとから甘えたくぐもった声がこぼれる。すると男はいつも小さく笑った。

ミルクはやがて甘く煮た肉入りのかゆに変わり、子狼はテントの外につれ出されて用を足すように教えられた。彼の身体は少しずつだが日ましに大きくなって行き、四本の足はむっくりと太くなってきた。しょっちゅう木箱からはい出して、テントの中をちょこちょこと転げるように走り回った。
彼が床においてある敷物やサンダルを何でもかじって遊ぶので、若者はせっせとそれらを片づけていた。若者は子狼を叱ろうとはしなかった。それでも時々、くわえているものをひっぱって取ろうとしたりされると、子狼は怒って鼻にしわをよせ、獲物をくわえたまま、うなった。若者は結局、いつもあきらめた。
男が叱ったら、子狼は多分、言うことをきいただろう。恐れて耳を伏せ、しっぽをまいてうずくまっただろう。
けれど男は、若者以上に、子狼が何をしても決して叱るということがなかった。ミルクの皿をひっくり返しても、敷物の上に小便をしても、若者がそばにいなければ自分でさっさと片づけて後始末をした。そして、何かまずいことをしたと感じてしょげている子狼を、そっと抱きよせて、ひざにのせ、耳のうしろをかきながら、やさしく話しかけてくれるので、子狼はたちまち、とても幸福になってしまうのだった。前足を男の方にのばして、夢中でのび上がり、男の顔をなめようとすると、男は身体をかがめてほおをさし出してくれる。子狼はそのひげをなめ、口をかじる。男は笑って子狼を抱きよせて、口をつかみ、耳をひっぱる。子狼の目はつり上げられて細くなり、時々、耳のつけ根が少し痛い。他の人間にされたならいやだったろう。でも、この男にされると、それがまた、子狼は大好きだった。

男は子狼がいつまでもはなれないと、抱き上げてテントの中を歩き回ったり、ひざの上に座らせたまま、机に向かって仕事をした。子狼が温かく大きな男の太股の上でぬくぬくと眠っていると、男の手が背中をなでたり、しっぽをもてあそんだりするのがわかった。そうやって考えをまとめているらしかった。子狼の方は目をさますと、その手の指をなめたり、くわえて軽くかんだりして遊んだ。
男の左手には飾り気のない銀色の指輪がはまっていて、子狼の歯がそれにあたってかちかち鳴ると、男はそっとそれをはずした。つまらないので子狼はその後いつも、少しきつく指をかんで、怒っているということを教えた。すると男はお返しのように、大きな手のひらですっぽりと子狼の鼻と口をつかんでしまったりする。子狼が降参のしるしにくんくん甘ったれて鳴くと、男はすぐに笑って手をはなした。
時々、子狼は机のはしに前足をかけてのび上がって上をのぞき、男が広げて読んでいる巻物や紙をじっと見つめた。男は何も言わなかったが、子狼が鼻先をのばして触れてみようとするといつも、前足のつけ根を両手で抱えるようにして、机からそっとはずして、離した。不満がって子狼が見上げると、自分に向き合うように抱きなおし、何か楽しそうに話しかけてくれる。
子狼はじっと耳をすませる。男の声が好きだった。やわらかで低く、温かい。だが、その声にも、灰青色の静かな目にも、男自身も多分気がついていない、かすかな悲しみのようなものがいつもこもっていて、それもまた子狼を強くひきつけたのだった。
テントの隅に、たれ幕でしきられた台があって、下から見上げると、その上には何かきらきら光る面白そうなものがいくつもおいてあるようだった。たれ下がっているかけ布のはしをくわえて子狼がひっぱろうとしていると、若者があわててとめて、布のはしをたくしこんだ。不満を感じた子狼が低くうなっていると、男が笑って子狼を抱き上げ、台の上をのぞかせてくれた。人間のかたちをした小さいものがいくつもおいてある中から、男は小さな男の子のかたちをした木の像をとり上げ、そっと口づけしてから、ちょっと子狼の鼻先にくっつけ、見比べながら何か言った。それから像を台に戻し、子狼を抱きしめて、小さい子どもにするように軽くゆすって抱きしめて、指をさしこむようにして、頭をなで、首筋をなでおろした。その気持ちのいいことといったらなく、子狼はたちまち快さにうっとりして、男の腕の中であおむけになって宙にさしあげた足をふり回し、満足のあまり甘えた低いうめき声をもらして鳴いて、木像のことはそれきり忘れてしまった。


テントを訪れる男たちの様子から子狼は、このテントの男が、テントの中だけではなく外でも、群のリーダーであることを感じとっていた。訪れる人々が男に声をかける時に決まって使う「将軍」ということばを子狼は覚え、そのことばを聞くと耳をたて、首をかしげて男の顔を見るようになった。
その名で呼ばれて人々と話をかわす時、男はいかめしい、きびしい顔になった。子どものように無邪気な笑顔で子狼と遊んでいることを、忘れるか、かくそうとしているかのように、床の上で骨をかじっている子狼の方を見ようともしなかった。訪れる男たちの方は皆、子狼に興味があるらしく、話の合間にこちらを見たり、何か話題にしたりもするようだったが、「将軍」はそんな時、ああそんなものもいたっけというような気のない様子で子狼をふり返り、さほど興味もなさそうに笑うのである。
だが、テントに訪れてくる男たちは皆、将軍の本心を見抜いているらしく、時々うっかり子狼に話しかけたり、抱き上げたりする時の将軍の声音や手つきに、笑いをこらえてそっと目くばせしあっているようだった。

(3)孤独な日々

ある朝、将軍はそっとため息をつきながら、食事をすませていいきげんで、寝台の上でころころころがっている子狼を抱き上げて、しばらく顔をなめさせたり口をかじらせたりした後、そのまま抱いてテントの外につれ出した。
子狼はそれまでテントの入口に座って外をながめたことはよくあったが、誰かが近づいて来たら全速力でテントの中に逃げ込んでいて、遠くまで出かけたことはなかった。
だが、将軍に抱かれていたら平気だった。何もちっとも恐くなかった。彼の大きなあたたかい肩に前足をかけ、あごをのせて、子狼は熱心に肩ごしに見える景色を見つめていた。行き交う兵士たちや、かごを抱えた女たち、たき火の煙、馬や車を。
森に近い一角に来た時、気になる匂いが強くしてきて子狼は振り向いた。ひとりでに歯がむき出され、毛がぞわぞわと逆だった。
母狼と似ているが、ちがった生き物たちの匂いだ。そして荒々しい吠え声もする。
将軍のほおに鼻先をすりよせながら、子狼は振り返って前を見つめた。小さな小屋と低い柵の囲いがあって、母狼に似た生き物たちが、その中で走り回ったり寝そべったりしている。
やせた小柄な男が近づいてきて、将軍から子狼をうけとった。彼の骨ばったしわだらけの手はたいそう巧みに子狼を抱きとったので、子狼は一瞬ぼんやりしていて、抵抗もせず渡されてしまった。しかし、将軍があとずさって自分からはなれたのを見ると、不安になって、くんくん鼻を鳴らして鳴いた。
将軍は近づいてきて、子狼の頭を両手ではさんで顔をよせ、何か話しかけた。静かな中にも、きっぱりとした口調で、その目にも声にも、子狼がよく知っているあの悲しみが、いつもより強くこもっていた。子狼が見つめていると将軍は、子狼の頭を力をこめてもう一度なで、そして離れて、背を向けて、立ち去って行った。
子狼は小さい不安げな声をのどの奥でたてながら、それを見送った。急に自分がちっぽけで無力になったような気がして、うなって怒る気になれなかった。身体の中から何か大きなしんが一本、すっと引き抜かれてなくなったような気がしたのだ。遠ざかって行く将軍の後ろ姿を子狼はいつまでも見ていた。何が起こったのか、まだよくわからないままで。

それから数日、子狼はぼんやりしていた。小柄な男はよく世話をしてくれたし、肉のたくさん入ったうまいかゆをたっぷり食べさせてくれたが、子狼は食事ものどを通らなかった。
彼は、将軍と呼ばれていたあの男を待ちこがれた。あの男のことばかり考えていた。最初は、日がくれたら戻ってくるだろうと思い、次は夜が明けたら連れに来てくれるだろうと思った。それから先は、時間がもうわからなくなった。ただ悲しくて、淋しくて、腹ばいになって前足の上に顔をのせると、ひとりでに、うめくような鳴き声がのどからもれた。
どこか近くにいることはわかっていた。柵のそばに時々匂いが残っていたし、遠くで何か命令している声も聞こえてきたからだ。そんな時、子狼は頭を起こし、耳をぴんとたてて、熱心に声を聞こうとした。けれどいつでも、しばらくするとまた声は消えてしまい、子狼は鼻面を前足の上に落として、しょんぼり吐息をつくのだった。
夜は特に悲しかった。小柄な男は子狼を小屋のすみに積んだわらの上で眠らせてくれた。自分はとなりの部屋で寝た。だが、たとえ同じ部屋で寝ていたとしても、子狼は彼のそばには行かなかっただろう。彼がわらの中で思い出しているのは、あの男のことだけだった。太い腕に抱かれて、鼻先をあの男の顔にくっつけて、あたたかい寝息を感じながら眠った夜のことだけだった。

小柄な男は子狼をそっとしていた。子狼を囲いの中に入れても、他の犬たちとは柵でへだてたところにおいていた。彼が柵の向こうで犬たちにまつわりつかれながら、彼らに命令して座らせたり立たせたり餌を与えたりするのを、子狼はいつも目を丸くして見つめていた。
男は貧弱な身体で、顔も弱々しそうに見えた。しかし、犬たちは皆、彼を尊敬していた。そう思って見ると、彼には一種の威厳があった。低い小さい声でしか話さず、しぐさも静かで目立たなかったが、することにまったくむだがなく、犬たちを扱うやり方はいつも的確だった。
仲間とけんかをしたり命令に従わなかった犬を、男が手にした短い棒で、さほど力をこめた風でもなく打った時、犬が悲鳴を上げてひとたまりもなく地面にころがり、哀れっぽくすりよって許しをこうのを、子狼は見ていて思わず身体をちぢめた。恐くて息ができなかった。そのあと小柄な男が近づいて来た時には身体がふるえた。だが男は何もせず、いつものように餌をくれたので子狼は安心した。

間もなく子狼は他の犬たちといっしょにされた。最初は小柄な男がいつもいっしょにいてくれた。犬たちは子狼の匂いをかぎ、何びきかは歯をむいてうなったが、小柄な男にたしなめられると、ひとたまりもなく静かになった。やがて、犬たちは子狼を気にしなくなり、柵の中に作られた寝床の中で子狼がくっついて眠ってもかまわなくなった。
犬たちの中には子狼に意地悪をする者もいれば、かわいがってくれる者も、まったく無視する者もいた。それらの中でもみくちゃになっている間に、子狼は、大好きなあの男のことを恋しがったり思い出したりしているひまが次第になくなって行った。
小柄な男は、子狼にも、他の犬たちと同じように、命令に従って立ったり、座ったり、じっと待っていたりすることを教えた。子狼は従った。他の犬が打たれたのを見ていたから、男に逆らっては恐いという考えがしみついていたのだ。
それでも一度、食べていいと言われるまでは食べてはいけなかった肉をくわえて、とり上げられようとした時、子狼は腹を立てて思わず肉をふりはなして小柄な男の手にかみついた。
鋭い牙は男の手の親指のつけ根の近くに深くくいこみ、血がふき出した。だが男は声もあげず、手をひこうともせず、子狼にくわえさせたまま、黙ってじっと子狼を見下ろしていた。
それが子狼を冷静にさせた。上目づかいに見上げると静かに自分を見つめている男の顔が目に入り、その何も言わないし、身動きひとつしない様子が逆に恐くてたまらなくなった。子狼はそっと口を開けて男の手をはなした。すると男はあいかわらず黙ったまま、血のしたたり落ちている手を子狼の鼻先にさしつけて来た。
自分の犯した罪を思い知らされているようで、子狼はちぢみ上がり、地面にはいつくばって目をそらし、ぶるぶるふるえながら、きゅんきゅんと許しを乞うように鳴いた。
男は何も言わないまま、肉をひろい上げて行ってしまった。
打たれなかったのが信じられなかったが、でも、なでたり抱いたり、やさしい声をかけてくれたのではないから、許されなかったのは子狼にはわかっていた。罪の意識にさいなまれ、罰される予感におびえて、鉛のように心が重かった。男はその日の夕方、いつものように餌をくれ、今度こそ合図があるまで子狼は食べなかった。そのあとで、男は軽く頭をなでてくれ、子狼はやっと安心して、男に頭をすりつけた。

子狼はこの時のことを忘れなかった。そして何か反抗しそうになった時、男が黙って傷あとのある手をさし出してくると、顔をそむけてしっぽをまきこみ、身体をちぢめてきゅんきゅん鳴いた。そして男の言うなりに、何でも言うことを聞いたのである。
かわいがってくれたあの男…将軍のようにではなかったが、子狼はこの小柄な男のことも、信頼し、尊敬するようになっていた。
一方で彼の身体はめきめき大きくなっていた。身体をおおっている毛は灰色がかってきて、ふさふさとぶあつくなり、胴体も四肢も太くたくましくなってきていた。仲間の犬たちとふざけてけんかをしても、力の強さやすばしこさでは自分より大きな犬たちにもひけをとらなかった。
一人前というにはまだやや心もとなかったが、もはや子狼とは言えないほど彼は大人になっていた。

(4)戻ってきた将軍

ある日のこと、狼が柵の中で他の犬たちとふざけてかみつきあったりとっくみあったりしていて、ふと何かを感じて顔を上げると、柵の外にあの男が、将軍が立って、横木にもたれかかってこちらを見下ろして笑っていた。
狼は信じられないでしばらくぽかんと見つめていた。それから、つきあげるような喜びが身体の中で爆発して、甘えたうめき声とも吠え声ともつかぬ声を出しながら、彼は将軍にとびかかった。大きくなった彼の体重で横木はゆれたが、将軍は身体をひこうともせず柵ごしに腕をのばして狼を抱き、首すじの毛皮をつかんでひきよせて自分のほおをすりよせた。
なつかしい匂いがした。汗とほこりと革と男の肌の匂い。狼は夢中になって喜びに我を忘れ、ひっきりなしにうなりながら、将軍の顔をなめ、口元をかみ、頭をぐいぐい押しつけた。
荒々しい狼のその攻撃の合間を見つけて、将軍はすばやく柵を押しあけて中に入ってきた。他の犬たちも将軍が好きらしく争いあってかけよって来てなでてもらおうとしたが、たまたま若い犬たちしかいなかったこともあって、狼はうなって彼らを押しのけて将軍を独占した。かがみこんで狼をなでながら将軍は笑って何か言い、狼の耳をつかんでひっぱりながら、その中に吹き込むように小声で何かささやいた。そのなつかしい声のひびきに狼はまた心もとろける思いがして、くうくうと幼い甘え声でささやき返した。
小柄な男が近づいてきて笑いながら何か言った。将軍は立ち上がり、他の犬たちを軽くなでてやりながら、狼をつれて小柄な男とともに、囲いでしきられた向こうへ行った。小柄な男がいつもの静かな声で、腰を下ろすよう命令したので、はやる心を抑えて狼は座ったが、目は将軍からはなさなかった。
小柄な男は将軍に何か言い、将軍はうなずいて、いつも小柄な男が命じているように、狼に立てと命じた。狼はすぐに従い、そのあと将軍の言うままに、座ったり、伏せたり、歩いたりした。小柄な男に命令されて、いつもやっていたように。
将軍は感心したように低く口笛を吹き、かがみこんで狼の首を抱いてほおずりした。
狼は顔をよじって、またそっと将軍のほおをなめた。荒々しい喜びの気持ちはしずまって、落ちついた幸せな気分が心をひたしはじめていた。彼はまた何か命令してもらったら従ってみせるのにと思って、将軍をじっと見た。だが将軍はもう何も言わず、狼がよく覚えている、やさしい満足そうな目でただじっと狼を見つめてくれているだけだった。

間もなく将軍は帰って行った。狼は少し淋しかったが、鳴かないで、きちんと座って見送っていた。将軍は次の日も来た。それからほとんど毎日来て、短い時間だが、いっしょに遊んでくれた。
その頃から狼は、夜、他の犬たちとともに囲いの外に出されるようになった。彼らはテントの並んでいる一帯を走り回って、夜明けまで怪しい者がいないか、不審な動きがないか見張るのだった。狼は一二度、昔、自分のいたテントを見つけに行こうとしたが、群のリーダーの犬から怒ってかまれたので断念した。
だが将軍は時々、ごくたまにだが、夕方から自分のテントに狼をつれて行ってくれた。そして食事をいっしょにとり、夜は昔と同じように寝台に寝せてくれた。
寝台はなぜか、昔ほど寝心地がよくなかった。前より小さくなったようで、将軍の身体によりそって狼が横たわると、もうどれほども幅の余裕がなく、寝返りをうつのさえままならない。狼がけげんに思って何度も腹ばったり起きたりして何とか都合よく身体の位置を整えようとしているのを見て、将軍は笑って狼の首に手を回してひきよせて、おかしそうに長いこと何かをささやくのだった。
ふしぎなことは他にもあった。将軍が椅子に座って仕事をしているのを見た狼は、昔のことを思い出して、前と同じように膝にはいあがろうとしたのだが、彼の頭と上半身だけで将軍の膝の上はいっぱいになり、後ろ足はのせられないのだった。それでも無理して狼がはいあがろうとするので、将軍は大笑いした。そして両手を狼の尻に回して何とか抱き上げ、抱きかかえて、椅子ごと倒れないように身体に力を入れていた。二人の重さで椅子はぎいぎいきしんで鳴り、狼も何度かそれをためしてからは、もうあきらめて、そのかわり、将軍の足もとに腹ばって、頭やしっぽを将軍の足にのせたり、くっつけたりしていることで我慢した。
昔とちがって彼がおとなしく、静かにテントの中を歩き、いたずらはまったくしなくなっているのに、あの若者は驚いているようだった。肉や骨をくれながら、いいと言われるまではきちんと座って待っている狼の頭をなでて、感心したような、少し淋しそうな顔をしていた。
狭くなった寝台にも狼はその内に慣れた。将軍とぴったりくっつきあって、腹も胸も重なり合うようにしていると、将軍の胸の鼓動が聞こえ、狼より少し遅い息づかいに筋肉がゆったり上下するのもわかった。夢うつつで狼の鼻面にすりよせてくる将軍の顔の、まぶたや唇がかすかに動いて狼の口のそばをこするのも感じた。その何もかもが幸福で、狼は満足だった。だが、外の広場を仲間の犬たちが見回りをして走っている足音がひたひたと聞こえてくると、狼は落ちつかない気持ちになって、ぴんと耳をたて、身体を起こした。そして、結局、迷ったあげくに眠っている将軍の顔をそっとなめてから、寝台を飛び下り、テントの入口のすそをくぐり抜けて、夜の寒い空気の中、仲間の犬たちのあとを追って行くのだった。それが自分に与えられた、しなければならない仕事だと彼はもう自覚していた。そうやって、将軍や、小柄な男や、ここのテントにいる人々を守ることが自分の役目ともう知っていた。

(5)最初の戦い

ある日、狼は広場のはしで、将軍とふざけていた。身構えて相手を見つめながら、すきをうかがってぐるぐる回ったり、斜めに飛びついて肩をぶつけて押し倒したり、上から相手を押さえつけて、もがかせないようにしながら、のどをねらってかみつこうとしたりするのだ。遊びなのだが、二人はどちらも真剣で、そうやっていると将軍の動きはまるで人間というより、狼の仲間の獣のようだった。狼は熱中して時々、歯をむいてうなっておどかし、身体を横向きにして将軍の回りをゆっくり回りながら、冷やかなぎらぎらした目で将軍をにらんだ。将軍も油断なく身体を低く固くして、まりのように丸くちぢめて、狼のすきをうかがうのだった。ぱっと飛びかかっては離れ、組みついて転がっては、足で激しくけって、はねのけあう。時々、どちらかが身体の力を抜いて、笑い出したり、くうくう鳴きだしたりしたら、それが降参の合図で戦いは一段落し、二人は顔をくっつけあって、口のあたりをふざけてかじりあうのだった。
その日も二人がそうやって思う存分楽しんでいると、兵士の一人が息せききって走って来て、早口に何か報告しはじめた。
足もとにひきよせた狼の頭をなでながら黙って耳をかたむけていた将軍の顔はみるみるきびしくなり、彼はうなずいて何か答えると、一目散に走って行った兵士を見て、狼をそっと押しやり、囲いのある方を指さして、帰れというしぐさをしてから、自分も兵士のあとを追って走り去って行った。
狼はしばらくとまどって、そこに座っていた。遊びが中断された不満さより、ある不安がじりじりとわきあがって来た。将軍に危険がせまっているような気がして、自分が守らなくてはいけないと思った。
だが、どうやってだろう?
囲いに帰れという命令はうけたが、あまりはっきりしたものではなかったと、狼は判断した。それでも少しうしろめたい気はしたので、広場のはしの草むらにかくれて、人々の様子をうかがっていた。
荒々しく騒然とした中にも、どこか整然と手なれた動きで人々は行動していた。兵士たちが次々に馬にまたがり、やがて大きな一群となって野原の方へとかけ出して行った。
銀色のよろいとかぶとに身を包んだ将軍が、その先頭にたっていた。
狼は草むらからぬけ出すと、地面を低くはうようにして、一目散にそのあとを追った。

石だたみの街道を兵士たちは進んで行った。狼がしばらくそのあとを追って行くと、野原の向こうに黒い煙が上がっているのが見えはじめた。激しい叫び声や女たちの悲鳴が聞こえる。村が襲われているらしかった。狼が到着した時には、もう村に入った兵士たちは、侵入者たちと戦っていた。毛皮をまとって、もじゃもじゃの髪をふり乱した大柄なたくましい男たちだ。あちこちで火の手が上がり、女や子どもや老人たちが逃げまどっている。
村の犬たちが狂ったように吠えて走り回っているのには目もくれず、狼はまっすぐに兵士たちの間をかけぬけて行った。
村の穀物倉らしい建物のそばで、将軍は馬を下りて数人の敵と激しく戦っていた。運び出されかけて投げ出されて破れた袋から金色の麦がこぼれて地面に広がり、男たちの足にふみにじられて泥にまみれている。
将軍は落ちついて余裕を持って剣をふるっているようだったが、彼に危害を加えようとしている人間を初めて目のあたりにした狼はかっとなって頭に血が上り、何も考えずに地面をけって、将軍の背後からせまっていた男の肩にとびついた。
不意をうたれて男はよろめき、わめきながら泥の中にひっくりかえった。それを見たもう一人の敵が狼めがけて剣をふり下ろしてきた。ますます怒った狼はうなり声をあげながら、その男の剣を持った腕にとびかかってかみさき、ついで、のど笛をねらっておどりかかった。
男は悲鳴を上げながら腕でのどをかばったので、狼はその腕にかみついてぶら下がった。もう少し体重が重ければ、そのまま男を押し倒せたろう。だが何とか一人前になってはいても、彼の身体はまだ若くて軽かった。大きな男から必死で全力で腕をふるってふりとばされると、狼の身体は宙に飛んで、小屋の壁にたたきつけられ、ぎゃうんと悲鳴をあげながら、どさっと泥の中に落ちた。
ちょうどその時、倒れながら敵の攻撃を転がってよけて、手をついてはね起きようとした将軍と狼の目が合った。将軍の目は心配そうに狼を見ていた。だがその一方、明らかにおかしがって笑いをこらえているようだった。たたきつけられて転がり落ちた狼のかっこうは、それほど情けなかったのだろう。それに気づいた狼は恥ずかしさにまたかっとなって、将軍の後ろにいた敵にとびついて行った。
その時、兵士たちがかけつけて来た。狼に足をくわえられて倒れた敵はあっという間に殺され、他の敵も倒された。戦いは終わりかけており、侵入者たちは逃走して行ったようだった。
狼は起き上がって立ったが、その時初めて腰のあたりがずきずきして、びっこをひかないと歩けないのに気がついて、思わずとまどって鋭い鳴き声をあげた。兵士の一人が抱いていてくれ、村の様子を見回ってひきあげる時には将軍がマントで包んで馬の前にのせて行ってくれた。帰ると将軍はまっ先に狼を囲いのところに持って行って、心配そうに待っていた小柄な男に手渡して、兵士たちと広場の方へ去って行った。
小柄な男は狼の身体の泥をていねいにふき、骨をさわって調べてくれて、安心したように何か言って狼の頭をなで、腰に薬をすりこんでくれた。間もなく将軍が急ぎ足でやってきた。他にも数人、兵士たちが心配そうについてきた。小柄な男の話を聞いて彼らもほっとしたような笑い声をあげ、かわるがわる狼の頭をなでた。
だが狼はふさいでいた。自分があまり役にたてなかったこと、みっともない戦い方をしたことが何となくわかっていたのだ。それで、前足の間に鼻面をかくして伏せていると、兵士たちは皆おかしがって大笑いし、それで狼はますます落ちこんだ。
小柄な男と将軍の二人だけは笑わずに、やさしく狼をなでてくれていた。だが、この二人が一番笑いをこらえているような気が狼は何となくして、それにまたいっそう、傷ついて、しょげていた。

打ち傷の痛みは何日かするとほぼ消えた。だが、心の傷は消えなかった。狼はくやしくてたまらなかった。将軍は次の日も何ごともなかったようにやって来て、他の犬にかくしてこっそり骨までくれたのだが、狼の誇りはもとに戻らなかった。それでも骨はうまそうだったから、うけとって前足でおさえて将軍の顔を見ないまま、むっつりとかじっていた。
将軍は狼の気持ちがわかっているようだった。決して笑わず、まじめな顔でやさしく話しかけつづけた。だが、その声はちょっとやさしすぎ、時々笑いをこらえるように小さくふるえるのを狼の耳は聞きのがさなかった。
自分を認めてもらうためには、もう一度ちゃんとやってみせるしかない、と狼は考えつめていた。それで、その機会を逃すまいとして、将軍が兵士たちをひきいて出かける時をねらって待っていた。
あいにく、小柄な男も将軍も、そのことに気づいているようだった。それからも何度か将軍が兵士たちをひきいて出かけることはあったのだが、毎回、狼は前もって用心深くつながれた。一度皮ひもをかみ切ろうとしているのを見つけられてからは、鎖でつながれるようになった。
もうこうなっては手も足も出ない。兵士たちの先頭に立って馬をすすめながら囲いの前を通る時、将軍はすまなそうな、おかしそうな目で、じっと狼を見て行った。他の犬たちが囲いの中から見送って元気にほえている中、狼は不きげんに黙りこくって、そんな将軍を見返していた。

何度かそんなことが続いている間に、狼は更にたくましく育っていた。若い犬たちの中ではリーダー格になっており、牙も強く、身体も大きくなっていた。
彼は一計を案じた。将軍が軍をひきいて出かけて行く時、無視してみせることにしたのだ。騎馬の群がひずめの音をとどろかせて囲いの横を通りすぎても、つまらなそうに横目でちらと見るだけで、まったく反応しなかった。あくびをしながらながめていたり、眠っていることもあった。それでも小柄な男は油断せず、毎回きちんと狼を鎖につないで将軍の出発を見送った。
だがとうとう、ある日の朝、騎馬の兵士と歩兵からなる、ひときわ大勢の一団をひきいて将軍が出発し、まい上がるほこりととどろく足音が囲いのすぐ外を通過して行っても、狼が何の興味もなさそうに小屋のそばで眠っていて、小柄な男が鎖につなごうとすると、足をいためているように軽くびっこをひいて起き上がってきたので、小柄な男はいくら何でも大丈夫と判断したらしい。小屋の入口近い柱に皮ひもでていねいにつないだだけで、他の犬たちの世話をしに行った。
狼はなおしばらく、薄目を開けて眠ったふりをしつづけていた。そして、小柄な男が柵の向こうの遠くに行ったのを見定めてから、おもむろに皮ひもに牙をあてた。鋭いナイフで切ったように、ひもはたちまちすっぱりと切れ、あっという間に狼は自由になった。
小屋の回りでは柵の高さは低くなっている。ほとんど助走もしないまま、楽々とそれをとびこえた狼は、将軍たちの一団のたてる土ぼこりがまだ消えていない地平線の方に向かって、灰色の矢のように疾走した。

(6)名誉回復

大乱戦の中に狼は走ってきた勢いのまま、まっしぐらに突入した。
前回とは比べものにならない大規模な戦闘だということは、とびこんで行く前から狼にもわかっていた。低い丘の向こうから、髪の長い毛皮の服の男たちが剣をふりかざし盾をかまえて、怒涛のようにかけ下ってくる。狼が見なれた銀色のかぶととよろいの兵士たちは丘のふもとに広がって、幾重にも列を作って迎えうっていたが、今やあちこちでそれは分断されはじめ、荒々しい死闘がそここで展開されはじめていた。
狼は、将軍をさがしてかけ回る時間を無駄にはしなかった。目の前の敵におどりかかって、のど笛を一気にかみさいて、とびはなれた。何が起こったかわからずとまどって立ちどまった敵の男たちの間をかけ抜けて、味方の兵士を組み伏せている敵の背後からおそいかかって肩先にかみついた。そばの敵がまさかりを振り下ろしてきたのを目のはしにとらえて、すぐにとびのいた。まさかりはそのまま狼がかみついていた男の背中にくいこんで、血しぶきと悲鳴が同時にあがる。
混乱と怒号を周囲にまきおこしながら狼は右に左に走った。小麦色の髪を振り乱して戦っている、ひときわ大きな男の胸元に狼がとびかかった時、あたり一面に絶叫がうずまいた。血のほとばしる傷口をおさえながら男が何とか狼をふりはなした時、丘をかけ下ってくる敵の勢いは鈍くなり、とまりはじめた。男がよろめきながら何か叫んで後ずさりはじめ、敵もじりじり退きはじめた。
その時、狼は激しい物音や叫び声の中に将軍の声を聞いて、耳をぴんと立てた。声を限りに叫んで何か号令している。だが、その声はまだ遠くだった。それでも将軍がいることに勇気百倍した狼は、ますます勢いづいて、丘をかけ下って敵を追いかけた。
いったん退却しはじめると敵のひくのは速かった。みるみる丘の反対側に退いて、野原の向こうに散りはじめた。それを更に追いかけて行こうとしていた狼は、自分を呼ぶ将軍の声に気がついて立ちどまった。振り向くと、丘の上に、血に汚れたよろいを着た将軍が、元気そうに立って、こちらを見ている。
狼はくるりと振り向き、全身の筋肉を波うたせ、しっぽを後ろになびかせながら一目散に走り戻った。
だが、丘のふもとまで戻ったとき、狼は足をゆるめた。そして、頭を高く上げ、ゆっくりとした足どりで威風堂々、斜面を上がった。将軍の回りの兵士たちが顔を見合わせて笑う。将軍もほほえんで立っていて、狼が近づくと、いつものようにかがみこんで抱きしめるのではなく、手にした剣を左手に持ち替え、右手でそっと、だが力をこめて、自分を見上げた狼の頭をおさえた。
狼が腰を落として座ると、将軍も向き直って、狼と肩を並べる方向で、丘のふもとを見下ろした。そこには味方の兵士たちの銀色のよろいかぶとがひしめいていて、将軍が手にした剣を高くかかげると、喜びの歓声がそれにこたえて空にこだまし、草原の空気をふるわせて広がって行った。
狼も思わず頭を後ろにそらし、せいいっぱいの声をはりあげて、勇ましく長く、いつまでも吠えた。

今度こそ、自分がちゃんとやってのけたことが狼にはわかっていた。将軍の馬のわきをゆったりと走って、兵士たちのほめそやす声を聞きながら、彼は堂々とテントの並ぶ広場に帰った。囲いのところに小柄な男が立ってこちらを見ていたので、狼はとっさに知らぬふりをして頭を高く上げたまま、すまして前を通りすぎた。小柄な男は苦笑していたようだが、何も言わなかった。
兵士たちにちやほやされ、ごちそうをもらったりなでられたりした後、狼は将軍のところに行った。将軍は狼を見ると目をなごませて、見ていた書類を押しやって狼を抱き寄せ、何か話しかけてくれた後で、いっしょに囲いまで連れて行って、待っていた小柄な男に渡しながら何か話していた。小柄な男は狼がかみちぎった皮ひもを手に持っていて、それを狼に見せたので、狼はしっぽと頭をたれて、将軍の足のかげにかくれた。
二人の男は笑わなかった。この二人は狼がきまり悪い思いをしている時は決して狼のことを笑おうとはしなかった。だが、おかしそうな声で何か言いあっていた。そして、小柄な男はひもを片づけ、狼を囲いの中に入れて、えさと水を出してくれた。

その日から狼は、囲いの中にあまりいなくてもよくなった。小柄な男が自由に出入りできるよう、柵を開けておいてくれるようになったのだ。彼は、夜は他の犬たちと見回りをしたが、昼間は基地の中を自由に歩いていた。
それでも、将軍が戦いに出る前は、小柄な男は狼をやはり鎖でつなごうとした。しかし狼はもう、よほどのことがない限りは、戦いが起こる前の気配を察することができるようになっていた。馬の動きがあわただしくなり、兵士たちがよろいに身を固め、槍や大きな機械を積んだ馬車ががらがらひき出されはじめると、狼はとっとと囲いをぬけ出して広場のすみやテントのかげにかくれていて、誰が呼んでも出て行かなかった。そして、皆が出発すると、まっしぐらに後を追って行って、将軍の馬のそばにぴたりとついて、将軍の顔を見上げながら、かけた。
一二度、将軍は馬をとめ、全軍を停止させておいて、狼に囲いに戻るよう指さして命令した。兵士の一人に狼をつかまえさせようともした。けれど、狼は、命令されても、将軍の前に腰を落として座ったまま、将軍の顔をじっと見つめて、高く、低く、ものを言うようにうなりつづけて、連れて行ってほしいのだ、ついて行きたいのだと訴えつづけた。つかまえられそうになると、おもむろに立ってすたこら逃げ出し、手のとどかない所まで行って、立ちどまって皆を見て、いつまでも待っていた。
テントの方を指さして仁王立ちになって、きびしく命令する将軍と、その前に向かい合ってきちんと座り、てこでも動かないがんこさで、しゃべるようにうなり返す狼は、回りの馬上で見ている兵士たちをひどく面白がらせ、ひっきりなしに笑い声がおこった。そして狼がとことこ逃げては、ずるそうにこちらを見ているのを見物しようとして、後ろの方の兵士たちまで列をくずしてかけ出してきた。
困ったようにため息をついたり、頭をかいたりした後で、将軍は結局、あきらめて、兵士たちの笑い声の中をまた馬に戻って乗り、狼がついてくるにまかせた。そんな時、将軍を見つめてうなっている狼をながめる将軍の目には、ふと、何かを思い出しているような表情があった。ついてきてはいけないと言われた戦いに、つれて行ってくれと必死でたのんでいる若い、幼い少年の気持ちを将軍はよく知っているようだった。
その内に狼がついてきても、将軍も誰もとめなくなった。一度、燃えている建物の中にとびこんで狼が横腹にひどいやけどをしてからは、あの小柄な男も馬に乗って、ついて来て、戦いが終わると狼の身体を調べて手当てをしてくれるようになった。
狼は楽しかった。自分はこの群の一員で、将軍や皆の役にたっているという実感にみちあふれて、生き生きしていた。

そんな狼の喜びに、かすかに影を落とすできごともあった。
何度目かの戦いの後で、狼はとらえられた大勢の敵の男たちが、皮ひもや鎖で手足をしばられ、ひとつながりにつながれて、ぞろぞろと追いたてられて街道の向こうへ消えて行くのを見た。
血に汚れ、傷だらけの男たちの中には、狼を見覚えていた者もいるらしく、憎しみをこめた目をこちらに向け、一人の男は近づいてきた狼に向かって力いっぱい、つばを吐きかけた。
狼は、とびのいてよけた。だが、攻撃をかけられたのと、男たちのまなざしにこもるさげすみと憎しみにかっとなって、頭を下げて低くうなりながら、襲いかかる姿勢をとった。
その時、狼の背後に来た将軍が、厳しい声でそれを制した。そして狼を呼び寄せ、自分のわきに座らせて頭に手をのせたまま、連れられて行く男たちをじっと見守っていた。
将軍の声がいつになく厳しかったので、自分がよほど大きなまちがいをしたのかと思ってしょげた狼は、そっと将軍を見上げた。だが将軍は狼に怒っているのではないようだった。重々しく暗い、厳しい表情で、ひかれて行く男たちの一人一人を彼はじっと見送っていた。男たちは将軍にも怒りと憎しみのこもった目を向けており、吹きつけてくる敵意に狼は思わずぞくりと毛をさかだてたが、将軍の目は平静で、ただ、あの深い悲しみが宿っていた。いつか自分もこうなるのかもしれないことを、予感して、覚悟しているまなざしのようにも見えた。

第二部 海の色

(1)雪の舞う向こうに

狼が生まれて三年目の冬が近づいていた。灰色の雲が重たく空をおおう日々が続き、風は日増しに冷たくなった。だが狼のぶあつい毛皮は寒さなどよせつけなかった。毎朝、真っ赤な朝焼けが東の空を染める頃、彼は白い息を吐きながら基地の回りを歩いては、何ごともないかたしかめた。それが自分の義務だと彼は思っていた。
将軍も寒さは平気らしかった。他の男たちが首に布をまきつけ、身体をちぢめて歩いているのに、首も手首もむきだしのまま、簡素な革のよろい姿で何か考えこみながら、森の近くを歩いたりしていた。狼はそれを見つけるとかけよって行って、少しはなれてついて行った。将軍は、狼が追いついてきたのに気づくと、ふりむいて、見下ろして、黙って目で笑った。すると狼はまるで手でさわってもらったと同じようにぞくぞくとうれしくて、子狼だった時そのままに、ひとりでにしっぽがゆさゆさ動くのだった。
二人はそうして、黙って長いこと、川のほとりや森のはずれを散歩した。時々、将軍が草の上に腰を下ろすと狼はそのそばに座って、子細らしい表情で、将軍の見ているのと同じ方向をじっと見た。すると将軍は笑って狼の首に腕を回して抱き寄せた。二人の頭はくっついて、将軍の短く刈った黒い髪が、狼のぶあつくやわらかい大きな耳を心地よくちくちくとくすぐるのだった。

森の木の葉がすっかり金色に染まったある日、狼は森の中で灰色がかった毛並みの、自分と同じ狼に会った。
二ひきは互いに歯をむいて低くうなりあったが、やがて用心深く近づいて、互いの匂いをかぎあった。
相手は、狼と同じぐらいの年齢のようだった。あるいは幼い時にはぐれた兄弟たちの一ぴきであったのかもしれない。
それからというもの、来る日も来る日も二ひきは森で会うようになり、時には肩を並べて長いこと、森の奥までかけて行くこともあった。
狼はまだ基地の見回りをつづけていたし、将軍と散歩もしていた。囲いの中ではもうすでにリーダー格で、若い犬たちや子犬たちに群のおきてを教えこんでもいた。
だが、ともすれば彼は新しい仲間の、自分と同じ狼と森を走っていることが多くなり、基地にいる時間が少なくなっていった。
そんなある日だった、将軍の姿が突然、基地から消えたのは。

数日前に大規模な戦闘があった。これまでにないほど大きな戦いで、一つの森がそっくりそのまま、人と馬とにふみにじられ、炎にのまれて姿を消した。ふりはじめた雪の中に、敵の男たちの死体が重なり合っていた。
狼ももちろん大活躍した。将軍の馬のそばを片時もはなれず、炎をかいくぐって敵に突進し、泥の中でもみあう両軍の兵士にとびついては、あやまたず敵ののどをかみさき、剣を持つ手をかみくだいたのだ。
その夜は基地全体が勝利を祝う宴に酔いしれていた。犬たちもごちそうの余りをたらふく腹におさめて、なお骨を争いあっていた。
狼は森の仲間のあの狼に持って行こうと、肉の大きなきれはしをかくしておいた。いくら誘っても森の狼は警戒して基地には決して近づいて来なかったからだ。
翌朝になって、それを持って森に行こうと思った狼が、柵から抜け出して小走りに基地を横切って行くと、羊の群の飼われている囲いの向こうに将軍がいるのが見えた。例によって、寒さも感じないかのように首も腕もあらわにして、まるで兵士の一人のような、つくろわぬ、かざりない姿で、ちらつく雪の中をゆっくり歩いて、兵士たちと声をかけあっていた。
狼はしばらくその姿をながめていてから、肉を埋めていた方へと広場を横切って行ったのだが、それが将軍を見た最後になった。

(2)残された者たち

森の狼は、狼が持って行った肉を喜んで食べた。二ひきはそれから何日か、森の中で遊んでいた。狼は基地のことは心配しなかった。大きな戦いがあった後はしばらくの間、基地は静かに平和になる。放っておいても何も心配することはないと狼は知っていた。
二ひきは雪のちらつく中、ウサギを追い、リスをつかまえ、狩りを楽しみ、ともに眠った。だが二日めの夜、狼はそろそろ将軍の顔を見たくなった。自分のために骨をとっておいて、待っているかもしれないと思った。テントの入口を腹ばいになってくぐりぬけて狼が入ってくるのを見た時の、灯のほのかな光の中で子どものようにうれしそうに笑う将軍の笑顔を思い出し、今夜はきゅうくつでも、あの狭くなった寝台の上で、将軍にくっついて眠ろうかと思った。洗いざらしの白い寝間着ごしでも固くひきしまった筋肉のひとつひとつがはっきりわかる、あたたかい身体によりそって。
森の狼の鼻面に自分の鼻をくっつけて別れのあいさつをすると狼は、とっとと走って基地に戻った。
だが、何か様子がおかしかった。
基地に一歩ふみこんだとたん、狼はそのことに気づいた。仲間の犬たちは皆、妙に落ちつかぬ様子でしっぽをたれてうろうろしていたし、兵士たちも変にざわざわと行ったり来たりしている。ざわついているのに、活気はないし、まとまりもない。たががゆるんだようにとりとめがなく、皆が不安そうにしている。
狼は速足で将軍のテントに行ったが、そこには誰もいなかった。灯皿は冷たく冷えきっていて、ずっと灯がともされていないのがわかった。将軍の寝台は乱れていた。あわただしく起きて、出て行ったままのように。
これまでも将軍は長いこと基地を留守にしたことはある。だがその時もテントの中はいつもと同じようにきちんとしていたし、炉には火が燃えてあたたかく、あの若者が仕事をしていた。これは、それとは明らかにちがう。
見えない敵を警戒するように、狼の歯がむき出され、低いうなり声がのどからもれたが、敵の姿は見えなかった。

狼は急ぎ足でテントを出ると、基地の中を歩き回って将軍をさがした。馬つなぎ場にも羊の囲いにも病院にも食堂にも将軍の姿はなく、新しい匂いもしなかった。馬つなぎ場には将軍の馬が立っていて、どこか不安そうに狼を見た。途中で何人かの兵士が狼に気づいて声をかけてきたが狼は無視した。基地の中をかけ回る彼の足は次第に速くなり、いつの間にか口を開いて舌をたらしていた。
不安がこみあげてきていた。それは刻々強くなった。将軍の身に何かが起こったにちがいないのだが、それが何かはわからなかった。
結局、どこにも将軍の姿も気配もなく、再び雪がちらつきはじめた薄暗い夕暮れの中に、途方にくれて狼は立ちどまった。雪は狼の毛皮の上にとまってはとけて消えた。
もう一度、狼は将軍のテントに行ってみたが、人の気配はなく、火の気もなかった。灯の光も見えず、次第に暗くなる中に、テントは黒々と大きく、ひっそりとしていた。
狼はきびすを返し、しっぽをたれて、とぼとぼとひき返した。森に戻る気にはなれなかった。将軍はひょっとしたら、ふいに戻ってくるかもしれない。
狼はテントの見える広場のはしの茂みの中にもぐりこみ、うずくまって、前足の上にあごをのせ、じっとテントに目をこらしていたが、そのまま、いつの間にか眠ってしまった。

目がさめた時はもう朝で、雪はやんでいた。狼は起き上がり、もしやと思って、またテントに近づいて行った。入口から中をのぞいて見たが、静かで暗く、冷たかった。人の気配はしなかった。
狼はゆうべから何も食べてはいなかった。それでも空腹は感じなかった。ただ、むしょうにのどがかわいた。テントをふり返りながら彼は水飲み場の方にゆっくりと歩いて行った。
彼は薄く氷の張っている池の水を用心深く飲んだ。いくら飲んでもかわきがおさまらない気がした。それでも飲みおえて、口から水をたらしながらふり向いた時、彼は朝の光の中に、いつも将軍のテントにいた、あの若者が立って、こちらを見ているのに気がついた。
たった数日の間に若者は、げっそりやつれたようだった。目の下にくまができて、髪はくしゃくしゃに乱れていた。彼は熱っぽいぼんやりした目でじっと狼を見ていたが、よろめく足をふみしめるような、どこかおぼつかない足どりで、近づいてきた。そして、狼の少し前まで来ると、ひざまずいて、ひざに手をついて前かがみになるようにして、じっと狼の顔を見つめた。
狼も若者を見返した。
やがて若者は大きくのどを動かしてつばをのみこむと、立ち上がった。そして、狼をふり返りながら歩き出した。狼はためらったが、少しはなれて、その後について行った。

広場のはしの小さいテントに若者は入って行った。入口から顔を出して狼を呼んだので、狼も続いて入って行った。
中には数人の兵士がいた。寝台に座って不安そうな低い声で何か話し合っていた。狼が入って来たのを見ると彼らの目は少しなごんで、若者ともう一人の兵士が狼に食物と水を出してくれる間、黙って狼をながめていた。
それからまた話しはじめたが、何かを相談しているといった風ではなかった。ただ、ぼそぼそとことばをかわしているだけだ。何人かはしきりに涙をぬぐっていた。「将軍」ということばが何度か口にされ、そのたびに狼は耳をすませた。
ふだんなら、もう兵士たちは外に出て、それぞれの仕事や訓練にはげみはじめる時間である。
だが、テントの外では狼が聞きなれた勇ましい号令の声や、足並みをそろえて兵士たちが走って行く足音もしない。ざわついた朝の気配はするのだが、それはいつまでもざわついているだけで、ひとつにまとまって行かない。
狼は不安そうに身じろぎした。
将軍がいなくなっても、他のことが皆きちんとしていれば、誰かが将軍をまた見つけてきてくれるかもしれない。だが、将軍が消えたとともに、この基地全体が何か、風に吹き飛ばされてばらばらになってしまったようだった。

その状態のまま、数日が過ぎた。
狼は毎日、若者の寝台のそばの床の上で目をさますと、朝の食事をもらう前に、まず将軍のテントに走って行った。そこに誰もいないのをたしかめると、基地全体をまた見て回った。
だが将軍はいつも、どこにもいなかった。
そしてある日、沈んだ顔をした士官たちが、ゆううつそうに将軍のテントに入って行き、中のものをすっかり片づけた。狼の見覚えのある品々が、剣や、ワインのびんの棚や、よろいが次々に運び出されてどこかへ持って行かれてしまった。
若者と狼は広場のはしから、それを見ていた。
片づけが終わった後、もう入口のたれ幕もはずされて、風が吹き通しになっているテントの中に、若者と狼はそっと入って行った。中はがらんとして何もなく、古い紙の束が入った箱や、がらくたが散らばっているだけだった。
若者が箱の中から紙の束をとり出している間に、狼は、いつか将軍が抱き上げてのぞかせてくれた、テントのすみの台を見に行った。いつもその上に並べてあった、きらきら光る人間のかたちをしたものは全部なくなっていた。将軍が狼の顔にくっつけて見比べるようにして笑った、粗末な小さな男の子のかたちの木像だけが台の上にころがっていた。それとよく似た、女のかたちの、やはり小さな木像が床の上に落ちていた。
若者は近づいてきて、その木像を二つともひろって大切に服の胸にしまった。そして彼らはそのまま黙ってテントの外に出、二度とそこには行かなかった。

間もなく朝の訓練も再開され、基地の中の生活はふつうに戻ったようだった。
だが、兵士たちの動作には、どこか以前のようなしまりがなく、明るさもなかった。よどんだだらしなさが広がっていて、時たま起こる笑い声は妙にすさんでうつろだった。
狼は落ちつかない思いで若者にくっついて歩いていた。若者が持っているあの木像と紙の束には将軍の匂いがして、そのそばにいると気持ちが落ちついた。
そしてまたしばらくたって、ある日基地全体が騒然となった。テントの中から次々に荷物が運び出され、馬にはすべて鞍がつけられた。狼が少しはなれた岩の上に腹ばいになって注意深くながめていると、地平線の方から土煙を上げて、大勢の兵士たちが銀色のかぶとや盾をきらめかせ、色とりどりの旗をなびかせて近づいてきた。人と馬と車とでごったがえしてひしめきあう中、今までいた兵士たちが今度はどこかへ出発するため、街道の方に向かって隊伍をととのえはじめた。
人波の中に狼は若者が自分を呼んでいる声を聞いた。岩を下り、のろのろと彼はそちらに向かって歩いた。
この基地を離れたくなかった。囲いの中には仲間の犬たちがいたし、森には友だちの狼がいた。
だが、将軍と呼ばれたあの男はもういない。そして、あの若者は将軍の匂いのするものを持っている。彼はいつも将軍とともにいた。いっしょにいたら、将軍にまた会えるかもしれない。もしかしたら、これから行く先のどこかで、将軍は待っているのかもしれなかった。そうしたら兵士たちもまた昔のようになって、前と同じ皆がきびきびとした楽しい日々が戻ってくるのかもしれなかった。
若者は狼が自分の方にやってきたのに、ほっとしたようだった。彼は人の間をぬって、あわただしく狼を、犬たちの囲いのある所に連れて行った。小柄な男が柵の前に立っていて、狼を見ると、身体をかがめて抱き寄せてほおずりをした。彼は犬たちと、ここに残るのらしかった。狼は小柄な男の手をなめ、頭を軽く押しつけた。そして振り向き、犬たちの吠える声を耳にしながら、若者のあとを追って行った。
森のそばを通る時、狼は木の間からあの灰色の狼がこちらをじっと見ているのに気がついた。一瞬、狼は足をとめた。しかし、そのまま行き過ぎた。自分が生まれ育った森に彼はこうして別れを告げた。

(3)将軍ちがい

長い旅のあとで、狼たちは海辺の大きな町に着いた。寒さは次第にゆるんできていて、冬の海はもう明るい春の緑がかった青い色をただよわせはじめていた。
ここにはテントはなく、兵士たちは海の近くの兵舎に住んだ。狼は、若者が他の何人かの兵士といっしょに寝起きする建物の中で暮らした。
到着して数日後のことだ。
わずかな荷物を寝台のそばで広げて片づけている若者を床に寝そべってながめていた狼の耳に、兵士たちが口々に「将軍」と誰かに呼びかけているのが聞こえてきた。
狼はびくっとし、すぐ前足をたてて起き上がった。聞きちがいかと思ったのだが、同じことばをちがう声が何度も呼ぶのがたしかに聞こえ、もうまちがいはなかった。狼のしっぽがぱたぱたと床をたたいた。気づかないのかと思って彼は若者をじっと見た。だが若者は何ごともなかったように荷物を片づけつづけている。
とがめるようにもう一度若者を見てから狼は扉をそっと鼻で押して開け、声のした中庭の方へ走って行った。

狼は暗い廊下をとことこと走って行った。将軍と出かけた散歩、途中で身体をかがめるようにして頭や背中をなでてくれた大きな手。次々にそれらを思い出しては足が次第に速くなり、明るい陽光にみたされた戸外に文字どおり狼は飛び出して行った。
遠くに青い海がかがやき、カモメが鋭く鳴いていた。
向こうの建物の前に兵士たちが集まっていたので狼は用心深く近づいて行った。
「将軍」と言っている声はあいかわらず聞こえている。だが、将軍らしい声もせず、匂いもなく、気配もないのが狼には解せなかった。彼は更にゆっくりと、はやる心をおさえながら近づいて行った。狼に気づいた兵士たちの何人かが道をあけてくれたので、狼は皆の立っている間をぬけて前に出て行った。
建物の前に立って腰に手をあて、何やら上機嫌で話しているのは色白で小肥りの青いよろいを着た男だった。狼が人々の間から出てきたのを見ると、おどろいたように少し後ずさりした。
回りの男たちが何か言った。また「将軍」と言っている。この男に呼びかけているのだ。狼はそれに気づいて、わけがわからなくなった。この男は将軍ではないのに。
狼は黙って首をかしげて青いよろいの男を見まもった。

兵士たちの何人かが笑った。だが、その笑いも途中でやんだ。彼らが皆、どこかおびえたように、誰かを思い出しているように狼を見ているのに、狼は気がついた。
青いよろいの男は、そばの士官の説明をうなずいて聞いていた。あたりに広がる奇妙な沈黙には気づかないように、彼は歩み出してきて、少し身体をかがめ、甘ったるい声で呼びかけながら、狼の方に手をさしのべた。
狼は身体をひかなかった。耳も伏せなかったし、うなり声も上げなかった。この男を警戒する気にはなれなかった。それほどの者にも思えなかったのだ。回りの兵士たちが自分に向けている、どこか畏怖にも似たまなざしが狼をそんな気持ちにさせたのかもしれないが。彼は静かにきびすを返し、青いよろいの男のさし出す手を無視したまま、頭を高く上げてその場を去った。
背後で兵士の数人がくすくす笑った。ことの次第を面白がっているような、偉大な何かを恐れているような、かすかな笑い声で、それもすぐやんだ。狼はゆっくりと歩きつづけた。太陽の方へ、海の方へ向かって。足の下がいつか砂になり、気がつくと、狼は、誰もいない海岸に来ていた。
やかましく鳴きかわす海鳥たちには目もくれず、狼は岩のかげのひんやりと冷たい砂の上に腹ばいになった。胸をかむようにおそいかかってきた淋しさと空しさに、じっと耐えながら。

(4)ごちそう攻め

青いよろいを着た男は、この軍団の新しい指揮官らしかった。彼が将軍のしていたと同じ、訓練をしたり命令を下したりするので狼にもそれはわかった。だが、この男が将軍のように皆に慕われても恐れられてもおらず、以前の活気と緊張が兵士たちの間に戻っていないことも、狼にはわかっていた。
新しい指揮官は悪い男ではなさそうだった。狼と行きあうと指を鳴らしたり手をたたいたりして声をかけて呼びよせようとした。士官たちに食物を持って来させて、狼にさし出したりもした。
狼はうなったりはしなかったが近づかず、静かに指揮官を見守っていた。
一度若者といっしょに歩いていた時に指揮官が声をかけて肉を出してきたので、狼が黙って見ていると、若者が低く声をかけて、もらって食べてもいいと言った。狼が歩みよって指揮官の手から肉をくわえて取ると、指揮官は感心したように声を上げた。

それからは指揮官が食物をくれるたびに狼は近よって食べた。時には頭をなでられることもあった。狼は知らん顔をしていた。大した男ではないと思っていたから、気にならなかったのだ。
一度、指揮官が呼んだので狼はついて行って建物の中に入った。指揮官の男は広い立派なへやに狼を入れた。どっしりとした寝台に絹のふとんがかけられ、あちこちに大きな彫刻がおいてあって、男はそれを得意そうにながめながら、狼に何か話しかけていた。ふかふかの敷物が気持ちよかったので狼がその上に寝そべると、指揮官は満足そうだった。声をあげて兵士を呼び、どことなく狼を見せびらかすようにしながら、ぴかぴか光る銀色の食器にうまそうな肉やその他の食物を山盛りにして持って来させて狼の鼻先においた。狼がのっそり立ってそれを食べるのを、指揮官はいとも快さそうにながめていた。

それから毎日、指揮官は狼をへやに呼び入れては銀の食器でごちそうをくれた。狼は好き勝手に指揮官のへやに出入りするようになり、夜も時々、そこで眠った。
若者は最初笑っていたが、次第に淋しそうな顔をして、そんな狼を見るようになった。時には狼がなでてほしくて、ひざに頭をくっつけても、あからさまに顔をそむけて相手にしなかったりした。
狼は傷ついた。将軍の姿が見えなくなってから、狼にとって若者は将軍の分身だったのだ。将軍の肌着につつんだあの小さな木像や紙の束を若者は今も大切に保管して、時々とり出してながめており、それらの品物にも若者の身体にもまだ将軍の匂いが残っていた。若者がそれらの品物を見ている時、くっついて匂いをかいでいるのが狼は好きだったのだ。
だが若者がよそよそしいので、狼はますますひんぱんに指揮官のへやに行くようになり、ほとんどそこで暮らすようになった。
若者ほどではないまでも、兵士や士官たちもまた、そんな狼をどことなく複雑な目で見ていた。ある者は指揮官の前では無表情にしていても、狼と二人だけになると、はっきりとうとましげな目をしたし、明らかに悲しそうな、とがめるような表情で狼を見つめる者もいた。顔を見合わせては荒々しく笑い合う者たちもいたが、その声には、昔、将軍がいた時のような明るさもあたたかさもなく、とげとげしくて自暴自棄な空しさがこもっていた。
この群の混乱はまだおさまっていない。
将軍がいなくなって以来、たががはずれたままだ。
狼はそう判断していた。
それにしても将軍は、どこに行ってしまったのだろう?
何かがこの群に起こり、将軍がひきはなされてしまったのは狼にはわかっていた。
その理由はわからなかった。だが、兵士たちも将軍自身も、それを望んではいなかったことはわかっていた。
将軍は今、どこで何をしているのだろうと狼は思った。
何となく、死んでしまったとは思えなかった。
それは、若者や兵士たちが、将軍のことを忘れておらず、その帰りを待っているように見えたからかもしれない。
狼の本能では、死んで消えてしまった者は忘れられるはずだった。
そうしなければ群は衰退していって、ついには滅亡するはずだった。

(5)きらめく首輪

その間にも指揮官はますます狼にぜいたくをさせるようになった。自分と同じような食事を狼のために毎日作らせているようだったし、狼が食べ残すと兵士たちを叱りつけた。何人かの兵士はそれでもうはっきりと狼に憎しみをこめた目を向けるようにさえなったが、指揮官はそんなことには無頓着だったし、狼も気にしなかった。何となく、この群に愛情を感じられなくなっていたのだ。
指揮官は毎日、くしで狼の毛皮をていねいにすいて、みがいた。将軍のように、兵士たちを見回ってしゃべったり笑ったり、正式の訓練以外に士官たちと剣や弓や馬術の練習をしたり、泥だらけになってとっくみあったり、いっしょに酒を飲んだりパンをかじったり、ふざけあったりすることは、まったくしないで、むしろ部下たちをさけているようだった。そして、ひまさえあれば狼の毛皮をすいていた。そのために狼の毛皮はつやつやと美しくなり、身体もぶくぶく太ってきたが、指揮官はむしろそれが得意そうで、狼の首を抱きよせては甘ったるい声で何かをささやくのだった。
指揮官の身体からは、将軍のような汗やほこりの匂いは全然しなかった。いつも清潔で、いい香りがした。狼はそれがまったくつまらなかった。抱き寄せられても何か話しかけられても、少しも心はときめかなかった。

若者のところにはもうまったく帰らなくなっていたが、それでも狼は毎日、注意深く若者を見守っていた。戦いもなく、指揮官のそばにいることもあまりなかったので、狼はひまだったから、こうやって若者に気づかれないようにして若者をこっそり見張っているのは、面白くて、楽しかった。狩りをしている気分で狼は若者のあとをつけ、いつでも倒せる獲物を見るように、ものかげに寝そべっては遠くから若者をじっと見ていた。
将軍にも前によく、同じことをしたことがある。広場のはしに座って足もとの砂を手にすくってさらさらこぼしていたり、川のほとりに寝ころんで草をちぎってかんでいたりする将軍を、はなれたところからじっと見ているのが狼はとても好きだった。そういう時の将軍は、いつも、ぼうっと楽しそうに明るい目をしているくせに、どことなく悲しそうで淋しそうにも見えた。だが、ある程度時間がたつと、どうしてかいつも必ず将軍は狼のいることに気づいた。見られていると感じるらしく、居心地悪そうに身じろぎし、気になるようにあたりを見回しはじめるのだ。そして、木々や草むらのそこここに動いていた目が、次第に範囲をせばめてきて、とうとう、見つけたぞ、そこにいるんだろう、というように、ぴたりと狼のいる場所に向けられてくるまでの短い間、狼は全身がぞくぞくし、わくわくして、動き出したいのを必死でおさえて、ぴくりともしないでいるのが楽しくて楽しくてしかたがなかった。

だが、若者は、狼にそうやって毎日見られていることに、まったく気づいていないようだった。それは、彼が勘が悪いというよりも、気持ちがめいって、ふさいでいたからだったかもしれないが。おかげで毎日、狼は心ゆくまで若者の様子をながめていることができた。
若者は今は他の士官に仕えているようだった。だが、仕事の合間には一人でよく海に行って、岩の上に座っていた。黒っぽい服と、ゆるく波うつ髪を風に動かせながら、ひざをかかえて、黙っていつまでも海を見ているその姿は、かたくなで、淋しそうで、とても悲しそうだった。彼は将軍のことを思い出しているのだと何となく狼はわかり、そうやって悲しんでいる若者を見ていると、自分自身の悲しみが少しうすらいでくるようだった。
狼は、そうやって若者を見守りながら、自分でも気づかずに何かを期待し、待っていた。
もし、将軍がまだこの世から消えてしまってないのなら。
この若者はきっといつか、将軍をさがしに旅だつだろう。
だから、目をはなしてはならない。
その出発を見のがしてしまったら。
自分はもう二度と、将軍には会えない。

ある日、士官の一人が立派な箱を指揮官のへやに持ってきた。指揮官はそれを開けて、中から大きな美しい革の首輪をとり出した。赤みがかったなめし革の一面に、さまざまな宝玉がいくつもはめこんでちりばめられていて、緑や紅や白色に、きらきらとまばゆく輝いている。
狼の前にひざまずいて、どこやらうやうやしい手つきで、指揮官は狼の、このところめっきり太くなった首に、何とかそれを回して、つけた。
士官はゆううつそうな目でそれを見ていて、指揮官が自慢げに狼の頭をなでて何か言うと、沈んだ声であいづちをうって、すぐ引き下がって行った。
狼がその首輪をつけて歩いていると、兵士たちも士官たちも、あきれたようにながめていた。笑って首をふる者も、はっきりと顔をそむける者もいた。当惑やあざけりの表情が誰の顔にも浮かんでいた。
狼は気にしなかった。彼はこの指揮官を特にきらいではなかった。何と言ってもうまいものを食わせてくれるし、よく世話もしてくれる。だが将軍とは比べてみたことさえなかった。尊敬などは少しもしていなかった。この男を「将軍」と呼んで従っている、この群の全体にも不信感を抱いていた。
そういう点では幸福ではなかった。信頼して従える主人もなく、仲間もないということは、不安で、不快なものだった。

(6)旅だち

指揮官のへやにある大きな寝台と、やわらかそうなふとんはいかにも気持ちよさそうだと狼ははじめから思っていた。しかし、指揮官が、ぜいたくな寝間着で寝台に横たわり、そばに来るよう呼びかけても狼は知らぬ顔をしていた。風の音を聞きながら身体のはみ出しそうな狭い寝台で、洗いざらして灰色になった寝間着を着た将軍のがっしり厚い肩にあごをのせ、ひきしまって固いのに、力を抜いている時にはやわらかい弾力のある太い腕にしっかり抱かれて眠った夜を思い出すと、この甘くまのびした声を出す、ごつごつした手足とぽちゃぽちゃした身体の男によりそって眠る気にはなれなかった。
だが、ある夜、指揮官がどこか自分と似た顔の、大きな彫像をうっとりとながめながらワインをすすっている間に、狼はふと自分が一人で寝ればいいのだと思いついて、寝台に飛び上がり、ふとんの上に長々と寝そべった。
彼の身体の重さで寝台がぎしぎし音をたてたので指揮官は気づいて振り向き、狼が寝台の上にいるのを見て、うれしそうにした。そして近づいてきたが、狼は物騒な声で低くうなって近づかないよう警告した。
指揮官は驚いて不安そうに立ちどまった。それから、何ごともなかったように、あたりを少し歩き回ってから、さりげなくまた近づいて来ようとした。狼はさっきよりなお陰険な表情と声でうなって、指揮官を再び追い返した。
何度かそれをくり返してから、指揮官はとうとうあきらめた。そして恨めしそうに横目で狼をながめながら、大きな机の前の椅子にきゅうくつそうに身体をまるめて、そこで寝ることにしたようだった。
その夜、指揮官はしきりにうなったり、ぶつぶつ言ったりしたが狼は気にもしないでよく眠った。夜あけ、兵士の足音が廊下に聞こえてくると、指揮官は目をさまし、妙にあわてて、机の上の書類をわざとらしく、あっちこっちにひきちらかした。そして、兵士が入ってくると、大げさにあくびをして目をこすりながら、いかにも夜どおし仕事をしていたかのような顔をした。兵士は寝台の上の狼と指揮官をけげんそうに見たが、そのまま黙って灯を消して出て行った。指揮官はうまくごまかせたとほっとしたように、狼の方を見た。
狼は、つくづくいやになった。前にのばした足の上にあごをのせ、軽蔑をこめて彼は指揮官を見返した。それから寝台を飛び下りて、へやの外へと出て行った。

毎日たらふくごちそうを食べていたにもかかわらず、狼は身体のしんに、いつも激しい空しい飢えのようなものを感じていた。将軍の威厳にみちた声や、やさしい笑顔が、食べ物や水のようにほしくてほしくてたまらなかった。何かを恐れて従う喜び。何かを守って戦う喜び。それをもう一度味わいたかった。将軍の足音。将軍の匂い。雪の散る中をゆっくりと歩いていた、最後に見た、あの姿。その何もかもがやもたてもなく、なつかしくよみがえってくる。狼は空を見上げ、ここには雪もないと思って不機嫌になった。とぼとぼと歩いて行くと、兵舎の向こうの荷車のかげで、若者が見なれない男と声をひそめるようにして何か熱心に話している。
狼は首輪の宝玉が光らないよう気をつけて日陰を歩いて二人に近づいて行った。
見なれない男は頭に布を巻き、両手に指輪をはめていて、遠くから来た商人らしい。
二人は低い声で話していた。特に若者は、狼がこれまで見たこともない酔ったような光を目にたたえ、緊張して顔をこわばらせていた。狼の耳がぴんと立った。二人のひそめた会話の中に、はっきりと「将軍」ということばが聞こえたのだ。
二人は間もなく別れ、若者はさりげなくあたりを見回して誰も聞いていなかったのをたしかめながら、遠ざかって行った。
狼は、その日からずっと、朝晩、指揮官のところに行って、そそくさと食事をすませると、すぐ若者をさがしに行って、一日中、彼から目をはなさなかった。
若者は将軍について何かを知り、将軍をさがしに出発しようとしている。狼はそう感じていた。

そして数日後の夜のこと。日が落ちて、まだ見張りの兵士が基地の見回りを始めない頃、狼は若者が小さな荷物を持っただけで、そっと基地から出て行くのを見た。
腹ばっていた兵舎のかげから身を起こして、狼は音もなく、影のように静かに若者を追って走り出した。
星明りに、狼の首輪の宝玉がかすかに光った。背後の兵舎ではまだ兵士たちのざわめきや笑い声がしていたが、狼はここにはもう何の未練もなく、ふりかえろうともしなかった。数歩も走ると完全に基地のことなど頭になかった。若者の歩いて行く先にはきっと将軍の笑顔がある。そう思うと、涼しい夜風のせいだけではなく、狼の身体の毛はぞわぞわとなびいて、逆立った。
夜どおし狼は見えがくれに若者の後をつけて行った。そして夜明け近く、誰もいない山道の少し開けた峠にさしかかったところで、足を速めて若者に近づいて行った。
ふり向いて、夜明けの薄明かりの中を、大きな狼がこちらに向かってかけよってくるのを見たとき、若者はぎくりとしたようで、腰の剣に手をかけて身がまえた。だが、すぐに、きらきらと光る宝玉の首輪を見て、狼が誰か気がついたらしい。剣から手を離し、なかば口を開けたまま、信じられないものを見たように、呆然と目を見はった。
狼は、立ちすくんでいる若者の前に、足どりをゆるめて静かに歩みよった。そして、その前にきちんと座ると、まっすぐに力をこめた目で若者を見上げた。
若者の唇がふるえてゆがんだ。かがみこんで狼の頭にそっと手をのせた時、その手も大きくふるえていた。何度もことばをのみこむように大きくのどを動かしてから、彼はかすれた小さな声で一言二言、狼に何かを言った。狼は首をのばし、前に将軍によくしたように、鼻面を軽く若者の口もとに押しつけて、やわらかくそっとかんだ。

峠を並んで彼らが下りて行く途中、海を見下ろす場所があった。若者は立ちどまって狼の首輪をはずし、一瞬のためらいもなく、大きく腕をふって、それを海へと投げこんだ。朝日にまばゆくきらめきながら、大きな弧を描いて、それが波の間に落ちて行くのを見た時、若者は久方ぶりに晴れ晴れと明るく声を上げて笑った。狼も、そのそばに座ったまま、つき上げてくる喜びに我を忘れて、のどをのけぞらせて、うおううおうと力強くほえた。

第三部 夜の狼

(1)鞭の音

それは、緊張と不安をたたえながらも、奇妙に楽しい旅だった。どこに向かっているにせよ、将軍のもとをめざしているという思いが、若者と狼の心を明るいものにしており、それを互いが感じていた。
農家の納屋や馬小屋に泊めてもらうこともあったが、若者はよく野宿もした。狼は鳥やリスやウサギをとってきては若者がそれをたき火で焼き、こうばしい香りの肉をわけあってかじりながら二人は黙って炎を見つめた。
そうやっていっしょに火のそばにいると、燃える火の向こうの暗がりに、将軍も座ってこちらを見て笑っているようだった。狼が腹ばいになってじっと、その、将軍が見えるような気がする、誰もいない闇を見つめていると、若者もそれに気づいて、狼の視線を追うようにして、自分もじっと同じあたりを見つめるのだった。
二人はやがて、火のそばで眠る。まもなく朝が来て、さえざえとした冷たい光の中、燃えつきた木々の白い灰を足でくずしながら、若者は大きなあくびをしている狼を見て、かすかに笑う。
雨がふってくると、二人は身体をよせあって、木かげで雨やどりした。若者は時々そっと、遠慮がちに狼の首に腕を回し、二人は何も言わずに木の葉をたたく雨の音を聞いていた。若者は服の胸にいつも将軍のテントから持ち出したあの木像を入れていて、そのせいか、そんなしめっぽい日には特に、彼には将軍の匂いがした。狼はそれをかぐのがうれしくてたまらず、若者の胸に知らず知らず顔や頭をくっつけていた。そうしていると、将軍のあたたかく重い手のひらが頭の上にそっとのせられている気がした。低くやわらかいやさしい声が、雨の音にまじって話しかけてくるようだった。

時々、二人はにぎやかな街道に出た。人でごったがえす町に入った。狼は大きな声を出す人間たちにはなれていて、それほど恐くはなかったが、それでも用心して若者にぴったりとくっついて歩いた。
そんな町で若者は、いつも何かをさがすように、一番にぎやかな広場に向かった。そして、人々が悲鳴や歓声をあげて何かを見物している場所に、いつも近づいて行っては、そのあたりを見回っていた。
狼は、将軍や、あの小柄な飼育係の男と比べると、この若者を軽く見ており、せいぜい自分と同等の者とみなしていた。だが、それでも、自分に宝石の首輪をつけて自慢していた、あの指揮官の男よりはずっと、比べものにならないくらい信頼していた。だから、若者のそうした行動のすべてにはちゃんとわけがあるのだと思っていたし、それが将軍の所に行くことと、何か関係があるのだろうというのも察していた。だから若者に従って歩き、時々、表情をたしかめようと顔を見上げた。
若者は、そんな人ごみに近づく前、時々すばやく身をかがめては、ふところから将軍の肌着に包んだあの木像をとり出して狼に匂いをかがせた。将軍の匂いなど忘れるはずもなかったが、狼は若者がその匂いのするものをさがせと言っているのがわかった。だが、押しよせてくるさまざまな人間の匂いの中に、狼がよく知っている、なつかしい将軍の香りは、いつもなかった。

また、若者の顔が緊張し、目がきらきらと輝くのは、以前に基地で狼が将軍といっしょによく見送ったような、鎖につながれ、兵士たちに守られながら歩いて行く、たくましい男たちの群を見るときだということに狼は気づいた。どこの町でもそうだった。人ごみの最前列に出て、そのようにして連れて行かれる男たちの一団を見る時、若者の目は何かを、誰かをさがすように、せわしなく、右に左に、その男たちの上を動き回った。そして最後に足もとの狼を見下ろし、狼がけげんそうに見上げているのに気がつくと、若者は目に見えて、がっかりした表情になり、しおしおと悲しそうだった。
鎖につながれた男たちは、やがて人垣の向こうに消える。そして間もなく激しい歓声や叫び声が上がりはじめる。若者は、それを黙って聞いていて、そのままひき返すのだった。

そうやって連れて行かれる鎖でつながれた男たちの回りには、よく女たちが群がっていた。兵士たちのすきをうかがっては、つながれた男たちにかけより、抱きついたり、唇をよせたりしては兵士に押しのけられている。
ある時、訪れた町でいつものように若者と狼が人々にまじって、そんな男たちの一行を見ていると、そうやってつきまとう女たちを静かに身をかわしてよけながら歩いて行く、たくましい男がいた。
他の男たちと同じように彼も鎖につながれていた。ひきしまって、つりあいのとれた美しい身体つきで、しがみついてくる女たちを決して荒々しく押しのけるのではないが、彼女たちも、回りの人ごみも、兵士も、仲間も、まるで存在しないかのように、まっすぐ前を見つめて、遠いまなざしをしていた。心が、そこにないかのように。そうすることで、何かに耐えているように。
狼は、ふと歩き出した。
その男が将軍でないことはわかっていた。匂いもちがっていた。それなのに、彼にはどこか、将軍を思わせるところがあった。自然に、静かに歩いているのに堂々としたその風情。強い悲しみをひっそりと押しかくしているようなその表情。
狼が彼のそばに近づいて並んで数歩進んだとき、道の向こうがごった返して、男たちの列が一瞬とまった。ここぞと進んで彼に近づこうとした女たちは、大きな狼がいるのに気づき、口々に小さな悲鳴を上げて後ずさった。それで男も、何があったのかと、我に返ったようにあたりを見、自分の足もとに立って顔を見上げている狼を見つけた。
男はじっと狼と目を見かわした。将軍そっくりの、やさしい、威厳にあふれた微笑が、ふるえるような深い悲しみをこめて口もとにふと浮かんだ。手首につながれた鎖をかすかに鳴らしながら、彼はわずかに身体をかがめて、そっと狼にふれようとした。
空気をつんざいて、皮の鞭が鳴った。そばに来た兵士がふり下ろしたのだ。
鞭は男をねらったのではない。狼に向かってふり下ろされた。しかし男は瞬時の動きで鞭と狼の間にかがめた身体をわりこませ、全部の打撃を自分に受けた。簡単なよろいを男は身につけていたが、それでもむき出しの腕と首を鞭はしたたかに打って、腕からしたたり落ちた血のしずくが狼の毛皮を小さく汚した。
狼が怒りのうなり声を上げる前に、男の強い指ががっしりと狼の首をつかんだ。それも将軍そっくりの、否応言わせぬ強い力で、すばやく狼は向きを変えさせられ、平手で尻をたたかれて、もと来た方へ、つきとばされた。心配そうに走りよってきていた若者が、さしのべた腕の方へ狼は走らされ、若者に抱きとめられた。いつにない強い力で、まるでしがみつくように若者は狼をつかまえて動かさず、狼が若者の腕の中でもがいて向きを変えた時にはもう、男たちの列は動き出していた。
人ごみが崩れた。興奮したざわめきが前方から伝わって来る。今日は若者はまっすぐ宿に帰ろうとせず、狼を連れて、その人垣の方へ進んだ。

ぎっしりと立って重なり合う人々の間をくぐりぬけて、長いことかかって二人がようやく前に出た時、そこには大きな柵に囲まれた広場があって、その中でさっき見たあの男たちが剣や槍をふり回して、激しく戦っていた。見物人たちが声を限りに声援を送る中、男たちのある者は相手を倒し、またある者は倒れて二度と起き上がらなかった。
追ったり追われたりしながら目まぐるしく前を行き交う男たちの中に、狼はさっきのあの、将軍に似た男を何度か見て、そのたびに何度も低いうなり声をあげた。起こっていることがよくのみこめなかった。基地で、将軍もこんな風に、兵士たちにとり囲まれて歓声を浴びながら士官たちと剣をまじえていたことがよくある。それは、毎日行なわれる訓練の一部で、心配しないで放っておいていいのだと狼はわかっていた。まだ、やっと大人になったばかりの時、将軍を守ろうと思って飛び込んで行って相手の士官を地面に押さえつけたら、皆が大笑いし、押さえつけられている士官だけが恐怖に顔をひきつらせて何か大声で叫びつづけ、それでまた皆がころげ回って笑い、何かおかしいと気づいた狼が、しっぽをまいてすごすごと引き下がると、剣を引いて立っていて、どうやら狼が振り向く直前にあわてて笑いを消したらしい将軍が頭をなでて、まじめくさったやさしい声で何か話しかけながら、狼を回りで見ていた兵士たちの方に押し戻したことがある。
狼は、そうやって将軍に面白がられているらしいとわかった時、いつも腹立たしいような悲しいような、恥ずかしいようなうれしいような混乱した気持ちになったのだったが、今またそれを思い出すと、苦々しさとなつかしさが苦しいほどに胸にあふれてきた。でも、今、目の前に見ているこれは、あれとは何か絶対にちがう、とも狼は思いつづけていた。と言って、敵との戦いともどこかちがう。不安と、不快と、いらだちがこみ上げてきて、狼のうなり声は今やひっきりなしの低いものに変わっていたが、回りの人々の上げる叫び声に、それはまったくかき消されていた。
そうこうする間に、いつか、土ぼこりと血の匂いの中に、あの男の姿も見えなくなった。死んでしまったのか、まだ生きているのか、狼にはわからなかった。押しよせる人々にもみくちゃにされて、いつの間にか再び、若者と狼は後ろの方に押しやられてしまい、若者はやがて沈んだ表情のまま、いつものようにきびすを返して、狼を連れて、その場から去った。

彼らは次の日、その町を出た。にわか雨がふって、まもなく上がり、野末の灰色の空に淡く大きな虹がかかった。
狼は問いかけるように若者を見上げた。若者は狼の前にかがみこみ、首をかきいだくようにして、苦しげに何か長いこと、ささやきかけた。
狼には、そのことばの意味はわからなかった。それでも、何となく彼にはわかった。
あの、将軍に似た男と同じように、将軍も今は鎖につながれて、鞭で打たれながら、あの無気味で意味のない殺し合いを、皆の前でさせられているのかもしれない、と。

それなら、早く行かなければ、と狼は思った。
とにかく、早く行かなければ。
そうしたら、将軍が、何をしたらいいかを教えてくれる。
きっと、何をすればいいのかが、もっとはっきりわかる。

(2)死を運ぶ車

村から村へ、町から町へと若者と狼は歩いた。そうやって旅をし、狩りをつづけている間に、狼の太っていた身体は再び固くひきしまり、ぷよぷよとやわらかくなっていた足の裏もがさがさと石のように強くなってきた。
街道が次第に広くなり、馬車や人の行き来もたえまなくなってきたのがわかった。そしてある夕暮れ、地平線のかなたに夕陽に赤く照らされた巨大な長い壁や高い建物のようなものが見えてきた。
若者と狼は、その夜、街道のかたわらの草地で、同じ方向に向かう旅人たちと野宿した。たき火のそばで、さまざまな遠い国から来たらしい人々は、長旅の疲れと、どこか酔ったような夢みるような表情で、あの薄赤く夕陽に輝いていた長い壁の方を見やるのだった。夜の闇の中でも、その壁のあるあたりには、狼が森で見た蛍や、海で見た夜光虫のように、いくつもの光がまたたいていた。狼は時々、夜の浜辺でただ一人、その不思議な光を追って、打ち寄せる波に足をぬらして、海の中を走ったことがあったのだった。
人々は見知らぬどうし、酒をくみかわしながら夜おそくまで話をし、熱にうかされたように何度も「ローマ」ということばがかわされていた。狼は耳をそばだてた。将軍もよく、そのことばを口にしていたような気がしたからだ。彼がそのことばを聞くたびに、口にした人の方に顔を向けてたき火の煙をすかすようにして、じっとその顔をたしかめていると、若者がそれに気づいたのか、なだめるようにそっと頭をなでてくれた。
人々は狼を珍しがって、若者に話しかけてはこわごわ狼の頭や身体をなで、パンや菓子や肉のきれはしをくれた。狼は若者のひざにもたれるように座って、それをかみながら、将軍のことを思い出していた。

次の日の昼近くに、狼は若者に連れられて、近くで見るといちだんと巨大な、あの壁の門をくぐって、中に入った。
そこは、これまで狼が見てきたどの町よりも人が多く、さまざまな音と匂いがあふれていた。馬に引かれた車や、人間にかつがれた輿がひっきりなしに行き交い、広い道の両側にはさまざまな食物や品物を並べた台が所せましとおかれていて、人々がその回りで声を限りに何か叫びかわしている。
若者は狼を連れて、慣れた様子で通りを抜け、人ごみの間を進んで行った。これまで村や町を訪れた時と同じように、人々が一番多く集まってひしめいている方に向かって彼は歩いているようだった。彼らが進む向こうに、やがて小さい、おかしな形の山が見えてきた。いや、山にしては形が妙で、建物なのかもしれなかったが、それは恐ろしく大きくて、とても人間の手が作ったものとは見えなかった。鳥の群が何に驚いたか羽ばたいて、いっせいにその上から飛び立つのが見えた。
大きな、蜂の群がうなっているようなどよめきが、その巨大なふしぎな山の方から伝わってくる。もう、それは、通りのすぐ向こうに見えていて、ふもとのあたりにたくさん開いたほら穴を、ぞろぞろと人が出入りしているのがわかった。中に何かがあるのだろうか。そう思って若者の顔を見上げた時、狼はごったがえす人の群の、限りなく入りまじって押しよせてくる匂いの中に、かすかにだがまちがいなく、将軍の匂いをかいだ気がした。

狼の目が輝いた。全身の毛が生き生きと波うち、しっぽがぴんと持ち上げられた。
この都には、将軍がいる。
たしかに、この道を通っている。
若者の先にたって歩み出そうとした時に、狼の足がとまった。何か不吉な、恐ろしい、いまわしい匂いが、ずっと近くで、はっきりとしたのだ。
正面の、あの大きな建物の、ふもとのほら穴の一つから、馬に引かれた大きな馬車が、ゆっくりと進み出して、こちらへと向かってくる。
死の匂い。血の匂い。
立ちすくむ狼の前に馬車は近づいてきた。車の上に山積みに重なって、積み上げられているのが何なのか、最初狼にはわからなかった。血にまみれ、ひきさかれた毛皮の間に、しっぽや肢がからまりあっていた。積まれていたのは、たくさんの動物たちの死体だったのだ。狼がまだ見たこともない、奇妙なかたちの大きなけものも、たくさんいた。恨めしそうにかっと目を開け、歯をむき出したままの顔がいくつも見えている。
狼と同じ種族もいた。山犬もいた。馬車のゆれにつられて、はずむだけではない。何頭かはまだ生きて、ひくひくと動いていた。矢のつきささった牝狼が、頭を砕かれた若い山犬が、死にかけながらも必死でもがいて、他の動物たちの死体の中から、何とかはい出そうとしている。
狼はじりじりと後ずさった。
将軍の匂いなど、もはやどうでもよかった。こみあげてきた恐怖と嫌悪は、それほどに大きかった。この建物は邪悪だ。中では恐ろしい、いまわしいことが行なわれている。狼の本能が、全身のすみずみまで、その警報を発し、一刻も早く、一足でも遠く、この場所から遠ざかれと、声を限りに告げていた。
狼は、その命令に従った。従わないわけにはいかなかった。それは血肉にしみこんだ彼の本能だったからだ。狼は更に数歩後ずさり、それからくるりと振り向いて、若者が呼びとめる声も聞かず、一目散に通りの向こうへかけ出した。

大声で狼を呼びながら若者は行き交う人々をつきのけて、必死であとを追ってきた。狼はわけのわからない恐怖にかられて走っていたが、まもなく若者の声が聞こえなくなってしまうと、かえって不安になって立ちどまった。そして、そこに立っていた、人間の足のかたちをした大きな柱のかげに、もぐりこむようにして、ぶるぶる震えていると、間もなく若者が向こうからやってくるのが見えた。逃げ出そうかどうしようかと迷いながら狼がじっとしていると、若者は狼に気づいて、ゆっくり近づいて来た。そして、少し離れた所にしゃがんで、静かに狼に話しかけた。
何を言われているのかわからなかったが、狼はそれを聞いている内に少し落ち着き、そろそろとかくれ場所からはい出して、若者の方に歩いて行った。
若者は手をのばして狼にふれ、身体をくっつけてきた狼がふるえているのを見て、痛ましそうな表情になり、何度もそっと狼をなでてくれた。そして、狼が少し落ち着いたのを見ると、もうあの建物の方には行かず、狭い静かな通りに入って行って、小さな家の戸をたたき、出て来た男と何か話していたが、やがて狼を呼んで、その家の中の狭いへやに入った。粗末なベッドがあるだけのへやだったが、静かで安全そうだったから狼はようやくほっとして、床の上に腹ばいになり、若者が持ってきてくれた水を飲み、少しだけ餌も食べて、まだ警戒しながらも、うつらうつらと眠りについた。

(3)再会の予感

翌朝、若者は狼の頭をなでて、一人で出かけて行った。荷物はおいて行ったので、狼は、そのそばに座って番をした。若者に頼まれているらしく、この家の主人が水と食物を持ってきてくれた。
若者は夜になって疲れた様子で戻ってきた。二日ほどそんなことがつづいた、ある日の夕方のことだ。帰ってきた若者を出迎えた狼の全身がぴりっと緊張した。彼は若者に身体をのばしてのしかかり、両方の前足で肩をしっかりおさえつけておいて、くまなく全身の匂いをかいだ。
若者には、将軍の匂いがした。はっきりとした、新しい、今日ついたばかりの匂いである。
狼の体重の重さを支えきれなくて、若者は身体をのけぞらせながら、ひざを折って床に座り、両手を後ろに支えていたが、やがてそのままあおむけに倒れた。
狼はものも言わず、若者をおさえつけたまま、髪やほおや手や肩の匂いをていねいに、けんめいにかぎつづけた。
まちがいない。若者は将軍に会ったのだ。さがしあて、手を握り、抱き合うことができたのだ。
将軍は生きている。元気でいる。近くにいる。
狼の鼻で首や胸のあたりをつつかれるのがくすぐったいのか、若者は身体をふるわせながら、泣き笑いのように小さく笑い、なかば無意識のように狼の脇腹や背中の毛の中に、指をさしこんではなでつづけていた。

その夜、狼は、寝台の下から時々首をのばして若者の匂いをかいでいたが、とうとう我慢できなくなって、前足を寝台にかけ、若者のそばにはい上がった。
若者はびっくりしたように暗がりの中で狼を手さぐりした。しかし狼が頭をあごの下に押しこんで若者を寝台のはしに押しやると、笑って身体をずらして場所をあけ、狼の身体に手を回した。
将軍に比べると、細くて軽い腕だった。それに若者のしぐさは、どこか遠慮がちで、ひかえめでもあった。それでも彼の髪に、手に、まだ強く残る将軍の匂いが狼を喜ばせた。狼は若者のなめらかなほおに鼻をよせ、彼のあたたかい息を耳もとに感じながら眠りについた。
子狼だったころ、机について仕事をしている将軍のひざの上にいて、将軍にしっぽや耳をもてあそばれていると、いつかそのまま眠ってしまい、気がつくと寝台に運ばれて、将軍の肩先で毛布にくるまって寝ていることが時々あった。今と同じような暗がりの中で、将軍はとっくに眠りに落ちていて、そのおだやかな力強い寝息が子狼の耳や鼻に感じられるのが、心強くて安心だった。狼はその時のことを思い出していた。風にテントがぎしぎしと鳴り、遠くで森の木々がざわめき、仲間の犬や狼が吠えている。将軍がそばにいる。もうすぐにまた、きっとそうなるのだ。抱いて、なでて、耳の後ろをこすってもらえる。いっしょに眠ってもらえる。もうすぐに、また。

若者は次の日も狼をおいて出かけた。帰ってきた時、彼にはまた、新しい将軍の匂いがしていた。狼はうれしくて、若者の回りをぐるぐる回り、足をふまれそうになるぐらい、ぴったりとついて歩いた。
何日か、それが続いた。若者が出て行ったあと、狼は外に出て、近くの街路を歩き回り、人通りの多いあたりにも行ってみた。あの大きな山のような建物は、どこか無気味な不吉さをたたえて、道の向こうにそびえたっていた。将軍の匂いがしたと思った方に狼は何度か行ってみた。しかし、あの建物にあまり近づくのはやはり恐かった。
一度、大きなけものが檻に入れられ、運ばれて行くのを見たことがある。黄色がかった、すきとおるようなそのけものの目は、むらがって見物する人間たちに向けられていた。超然とした、自分の運命をすでに悟っているような目で、けものは人々のざわめきの中を、あの建物のほら穴のような入口の中へと運びこまれて行った。
馬車に積まれて運び出されていた、たくさんの動物たちの死体を狼は思い出し、はっきりしない、底知れぬ恐怖を感じて、速足に宿に戻った。
その日、若者はいつもより遅く帰ってきた。興奮をおしかくすように目がきらきらと輝いていた。自分を落ち着かせようとするかのように、彼は何度も狼をなでた。

若者の興奮が伝わってきて、狼もじりじりと緊張した。あの基地で、戦いが始まる前に感じたと同じ胸騒ぎがした。何かが起ころうとしている。それが何かはわからなかったが。
翌日の昼頃、顔をすっぽりヴェールでかくした若い女が訪ねてきた。ひそめた声で早口に彼女は若者に何かを告げ、またすぐにそそくさと出て行った。女が出て行った後で若者は深い吐息をつくと、手早く荷物をまとめて家の主に金を払い、狼を連れて出発した。
若者は通りを歩いて行ったが、人気の少ない裏道を選んで歩いているようだった。細い路地を抜け、塀と塀との間の狭い空き地を通って行くと、ものかげに、あのヴェールの女が二頭の馬を連れて待っていた。
若者は黙って馬の手綱をとった。狼を見た馬たちは恐がって足踏みし、若者と女が小声でなだめてもなかなか静まろうとしない。とうとう女がどこかへ立ち去ったかと思うと、まもなく短い鎖を持って戻って来た。若者はそれで注意深く狼をかたわらの木につないだ。
そして女はヴェールをかけ直して去って行き、若者は狼の頭をなでて、ここで待っておくように命令すると、馬たちを連れて、女の行ったのと反対側の方向へと去った。
そうやって待たされるのには狼は慣れていた。よくある命令をうけたことにむしろ落ち着いて、つながれた木の下の草の中に腹ばいになり、若者が戻ってくるのを待って、彼はじっと目を閉じた。

(4)遠い歓声

長い時間がたち、あたりは暗くなった。
狼は、夢を見ていた。
森のそば、川のほとりだ。雪がちらちら舞っている。なのに、陽射しはあたたかい。それが何だか無気味で悲しい。
将軍が少し向こうの川っぷちの草の上に座っている。狼がいるのに気づいたらしい。どこかから自分を見ているのに感づいたのだ。黙って、あたりを見回している。
その目がだんだん、狼の方に近づいてくる。とうとう、ぴったり狼に向けられる。そして、あのかすかな淋しさをたたえたやさしい暖かい目が、明るく笑いかける。そこだな?そこにいるんだろう?
狼は立ち上がって歩き出す。将軍の方へ。次第に足が速くなる。将軍が片手をこちらにさしだすのが見える。笑っている。狼は走り出す。一目散に、その腕を目がけて。その胸に飛び込んで、身体を草の上に押し倒して、笑いながらそむける顔を無理やりになめて…
狼はびくっとして、ぱっと目を開けた。
将軍の声がしたのだ。夢の中でなく。たしかにした。遠くで、何かを叫んだ。
狼は立ち上がった。
夜の静けさの中に、何か物音がしたろうか?
将軍の声は、もう二度と聞こえなかった。
だが、記憶に残るその声は、恐ろしい絶望にみちて若者の名を呼んでいたような気がする。

あの基地での経験から狼は、皮ひもとちがって、鎖は決して切れないことを知っていた。
それでも彼は、闇の中、若者の行った方向に向かって跳躍しようとし、ぴんと張った鎖にひきとめられた。
狼はあきらめなかった。荒々しく身体をよじって、右に、左に、激しく何度も鎖を引いた。つながれた木が大きくゆれて、木の葉が狼の上に舞った。
大きな怒りに狼はつき動かされていた。将軍はたしかに、近くにいるのだ。叫べば聞こえるほどの近くに。
狂ったようにもがきながら、彼は声を限りに吠えて将軍を呼んだ。
何度も何度も、闇に向かって躍りかかり、前足で空をかきむしった。
返事をする者はなかった。鎖はその都度、狼の首にくいこみ、彼を引き戻しては地面にたたきつけた。
狼は怒り狂った。
何があろうと自分は将軍のところへ行かなければならない。
誰にも、じゃまをさせなどしない。
ふさふさとした毛皮の下で、鉄のようにひきしまった狼の筋肉が、波うち、ざわめき、全力をこめて張り切った時、鎖のどこかがぶっつりと切れて、狼は前のめりに前方へと飛び出した。
立ちどまりもせず、体勢をたて直して、全速力で狼は将軍の声のした方へと、ちぎれて首からぶら下がる鎖を、宙になびかせんばかりの勢いで突進して行った。

血の匂いが狼の鼻をうった。
そして、覚えのあるけものの匂いも。
荒々しいうなり声が重なりあって前方から聞こえてきて、狼の首筋の毛が逆立った。
草が踏み荒らされた小さな空き地に出た。大勢の人間がそこで争いあったような。
今、そこには人影はない。かわりに、いくつもの黒い影が、目を光らせ、歯をむいていがみあいながら何かをひきずり回している。
それが、胸に何本もの長い矢をくいこませた、あの若者の身体だと気がついた時、狼は、警告の吠え声ひとつ上げず、若者にむらがっている野犬の群のまっただ中におどりこんだ。
がっしりとたくましい狼の身体に体当たりされて、数ひきの野犬がひとたまりもなくはじき飛ばされ、もんどりうって草の中に転がった。まだしぶとく若者の腕や肩先に歯をたてている残りの野犬に、鋭い牙でかみついて、ひきずりのけた狼は、若者の身体の上に立ちはだかって、恐ろしいうなり声を、のどの奥からほとばしらせて警告した。
仰天してひるんだ野犬たちは、しかし、たちまち反撃に転じた。彼らも皆飢えていた。せっかくありついた餌を、そう簡単に新参者にひきわたすわけには行かなかったのだ。
前後左右からぶつかりあうようにして、彼らは狼に襲いかかってきた。
狼は、びくともしなかった。怒りに燃えながらも氷のように冷静だった。たちまち野犬の二ひきが前足をかみ折られ、残りの内の一ぴきがのどをかみさかれて倒れた。更に二ひきが悲鳴をあげながら致命傷をうけて地面に転がると、残りの犬たちはさすがにぱっと四方に引いた。

大きく息をはずませながら狼は若者の身体の上に立ちはだかって、回りを見回した。
野犬たちはあきらめてはいない。目をぎらぎらと光らせながら、遠巻きにして見守っている。
狼もわき腹を大きくかみさかれ、血がしたたり落ちはじめていた。
だが、ひさびさに戦った興奮が狼の身体を熱くし、痛みも疲労も感じさせなかった。
野犬たちはやせこけていて、身体も貧弱だった。狼の、牙も通さないような深い毛皮と、はちきれそうにひきしまった筋肉に、勝ち目はないことを感じたのだろうか、一二度近づいて追い返されると、それ以上攻撃しては来なかった。
そのかわり、持久戦に持ち込むつもりか、木蔭や草むらに腹ばって、じっとこちらを見つめている。
狼は、油断なくそれを見回しながら、身体をかがめて若者の顔に鼻をよせ、低い声で鳴いてみた。
返事はなかった。若者の顔は野犬にはまだ傷つけられてはいなかったが、青ざめて、こわばって、冷たく、ぴくりとも動かない。
狼は何度もその顔に鼻をくっつけ、ほおをなめて起こそうとしたが、若者の肌は冷えきって、呼吸も感じられなかった。口もとを軽くかんでみても、何の反応もない。
狼はまもなくあきらめた。若者はもう起きて、いっしょに戦ってくれたり、どうすればいいか教えてくれたりすることはないのだと何となくわかった。だが、彼のそばを離れたくなかった。若者の胸の上に前足をのせ、野犬たちにじっと目を注いだまま、狼は朝を迎えた。

日が高くのぼっても、あたりは静かで、通りかかる人もなかった。かわりに、ここからも、その高い巨大な屋根の一部が見える、あの狼が大きらいな、不吉な建物のある方から、音楽や人々の歓声がかすかに聞こえてきた。ここまで届いてくるほどだから、よほど大きな音なのだろう。もしかしたら、あたりのすべての人々がそこに行ってしまっているのかもしれない。
将軍も、そこにいるのだろうか。皆の前で、戦わされているのだろうか。狼は身じろぎした。風向きが変わったせいか、少し離れた木の下や石壁のあたりに将軍の匂いがかすかに残っているような気がした。ゆうべ、たしかに将軍の声がした。このあたりにいたのだ。注意深くあたりの匂いをかいで回れば、きっと足跡を見つけられるという自信が狼にはあった。
だが、野犬の群はまだ、狼と若者をとりまいていた。あたりに人の気配がないからか、彼らが去って行く気配はなかった。狼が疲れて、弱っていると見てか、じわじわと、不規則な動きであるが、とりまいた輪をせばめて来つつある。
自分が疲れているのか、弱っているのか、狼にはわからない。
首からたれ下がっている鎖が重かった。空腹は感じなかったが、のどが渇いて、焼けるようだ。わき腹の傷あとから流れつづける血を狼は何度もなめた。ずきずきと鋭い痛みが全身にその傷口から波のように伝わってきたが、おかげで何とか眠らずにいられた。
それでも何度か狼はうとうとし、はっとして目をさますたびに野犬の群がじりじりと近づいてきているのを見た。
遠い歓声がまた聞こえる。誰かの名を呼んでいるようだ。狼の耳になつかしいひびきのする、昔どこかで聞いたような抑揚と音だ。基地で、将軍に向かって兵士たちが声を限りに槍や剣をかかげながら呼びかけていたのと似ているような。
大胆な一ぴきの野犬が襲いかかってきた。狼はふりむきざまに肩をぶつけて相手を転がし、ぐさりとそののどもとに牙をたてた。血がほとばしり、悲鳴が上がる。半死の相手が身体をひきずって逃げるのには見向きもせず、狼は再び若者の肩の上にあごをのせて、静かに目を閉じた。
野犬たちは再びしりぞいて、狼を遠巻きにし、もう誰も襲いかかっては来なかった。

狼は流れ出る血と、疲れと、渇きでもうろうとしていた。自分がいったい生きているのか、死んでいるのか、眠っているのかもわからなかった。
ばりばりと何かをかじる音がした時、狼は何の苦痛も感じなかったが、自分の身体のどこかがかじられているのかもしれないと思って、不愉快そうに目を開けた。
だが、それは、野犬たちが、狼に倒された仲間の死骸をむさぼり食っている音だった。骨ひとつ残さずに食べ上げると、彼らは狼を横目で見ながら、どこかへ立ち去って行った。
狼は注意深く立ち上がると、そばの水たまりに行って水を飲み、また若者のそばに戻った。
狼にはもう時間がよくわからなくなっていた。太陽は雲に隠れていたが、昼を過ぎているようだ。遠い歓声はいつかやんでいる。空き地はとても静かだった。
大勢の足音が近づいてくるのに気づいて、彼はそちらに顔を向けた。
それは聞き覚えのある、よろいや剣のふれあう音で、間もなく狼の見慣れた、銀色のよろいとかぶと姿の兵士たちが石の壁の間の狭い道から現れた。

若者の身体に前足をかけて腹ばっている大きな狼を見て兵士たちは、ぎくりとしたように立ち止まった。
狼が鎖を鳴らして、ゆっくりと立ち上がると、兵士たちの動揺は大きくなった。顔を見合わせ、ひそめた声で何かをささやきかわしている。
その、どことなくうやうやしげな様子から、狼は、この兵士たちは将軍の命をうけて、若者を迎えにきたのだろうと判断した。
だから、鎖をひきずりながら、静かにわきにどいた。
兵士たちは、ますます何かにおびえたように、狼を見つめながら近づいて来た。そして、ちらちらと狼を見ながら、若者の身体をていねいに持ち上げ、かつぎ上げた。
そして、もと来た方へ戻りはじめた。狼が黙ってあとをついて行くと、兵士たちは不安そうにふり返った。数人が何か言いかけて、他の者から制された。彼らは明らかに、ついて来る狼を気にしながら、しいて知らぬ顔をして、石の壁の向こうへ消えて行った。

(5)夢

狼は、それ以上あとを追わなかった。
激しい疲労感と奇妙な虚脱感に包まれながら、誰もいなくなった空き地に彼は立っていた。
それから、少しよろめく足をふみしめて、将軍の匂いをさがしはじめた。
思った通り、それはすぐ見つかって、狼はそのあとをたどりはじめた。
将軍は、馬にも乗らず歩いて来たらしい。石壁の間の狭い通路に、はっきりと新しい匂いが残っていた。

将軍に近づいている。とても近づいている。
そのことが狼にははっきりわかった。
それなのに、そう思っても、激しい喜びがなぜかわいて来なかった。
むしろ、恐れと悲しみがこみ上げて来た。

あの若者がもういっしょにいないという心細さだったろうか。
彼を守りぬけなかったという罪の意識だろうか。
将軍は、自分に失望するだろうか。
罰を与えるのだろうか。
そう思うと、不安で、恐くて、心が重い。
それでも、将軍に会いたかった。
失望されても、罰されてもかまわない。
たとえ、罰を与えても、そのあとで将軍はきっと抱きしめてくれる。
自分のしたことがよかったか悪かったか、不充分だかよくやったのか、将軍に会えばきっとわかる。
狼はやはり将軍にとても会いたいのだった。
罰をうけても、殺されても、ほめられても、抱きしめられても、将軍がそうするのなら満足だった。
それで、自分のしてきたことが、どんなことだったかわかるのだ。
将軍が消えてしまってずっと感じつづけていた、あの不安。
何が正しいのか、まちがっているのか。
何を守ったらいいのか、何と戦えばいいのか。
誰が敵で、味方なのか。
そんな不安も皆、将軍に会えば消える。
激しい期待と喜びと、奇妙なあせりといらだちにかられながら、暗く、細い、曲がりくねった道を、狼は黙ってただ一心に、速足で歩きつづけた。

砂の散らばる狭い階段を上がって、狼は明るい陽射しのふりそそぐ広い中庭に出た。
石づくりの建物が回りに並んでいて、見上げるとすぐ近くに狼のきらいな、あのいやな巨大な建物がそびえている。
だが、それを気にしているひまはなかった。
中庭のあちこちに、はっきりと将軍の匂いが残っている。まるで、ついさっきまでここにいたように、いたるところ、どこにも。
狼は興奮し、傷の痛みも疲れも忘れて、思わずしっぽを強く振り、低い声で何度か吠えてみた。

答える者は誰もない。あたりに人気はまったくなかった。そばの建物の階段を用心しながら狼は上ってみた。さまざまな品物や布が散乱し、美しい器が割れて転がっている。狼は鼻にしわをよせて、床にしみこんだ血の匂いをかいだが、将軍の匂いがまったくしなかったので、すぐ下に下りた。
中庭や廊下にも血の匂いが残り、剣や槍や矢が転がっていた。激しい戦いが行なわれたあとだと狼には何となくわかった。
がらんとした建物の、さまざまなへやを狼はそっとのぞいて回った。広い浴室にも、長い木の椅子と机がいくつも並んだ大きなへやにも人の姿はまったくなく、ただ、将軍の匂いはそこここにした。
狼は次第にじりじりしはじめて、あちこちを速足で見て回った。小さなへやがずらりと並び、入口の鉄格子の扉は皆、こわれたり、はずれたりして、開け放しになっているあたりを見て回っている内に、ふと狼はぞくぞくするほど興奮し、大きな声で吠えながら、そのへやの中の一つに飛びこみ、壁ぎわにある向かい合った寝台の一つの上に飛び上がった。
これまでとは比べものにならぬほど強く、将軍の匂いがした。まるであの基地のテントにいるようだった。狼は寝台の上でぐるぐる回り、鼻で枕をつっついて、押しとばしてしまった。
狼にはわかった。これは将軍のへやだ。将軍の寝台だ。
将軍はずっと、ここで暮らしていた。ここで寝ていたのだ。
けれど、将軍の姿はなかった。
それでも、狼は満足して、ぺたりと寝台に腹ばいになった。
ここで待っていれば、将軍はきっと帰ってくる。
絶対に、自分を迎えに来てくれる。

血はとまり、傷の痛みはうすらいできていた。
疲れはてて、安心して、将軍の匂いのする寝台の上で狼はうつらうつらしていた。
子狼に戻って、基地のテントの寝台の上で、将軍に抱かれて眠っているような気がした。
将軍はきっと、昔と同じように、ここでまた皆を指揮して敵と戦って、勝ったのだ。
そして、若者に会いに行き、そこでも敵と戦って、若者は殺されたのだ。
でも、将軍は生き残り、あの恐ろしい建物の中で、戦って、それにも勝ったにちがいない。
だから、兵士たちが若者を迎えにきたのだ。
何もかもがまたちゃんと、きちんと元に戻る。
狼は何となく、そう感じていた。

将軍のやさしい声が聞こえた。
若々しい、低く、やわらかな、威厳にみちたその声を、狼はかたときも忘れたことがなかった。
大きな、重い手のひらが、狼の頭をなで、力強い指がのどをくすぐった。
狼は目を開けた。
高い緑の木々が風にそよぐ美しい庭のかたすみだった。少し離れた薄紅色の石垣によりかかって、若者がたて琴をひきながら、楽しそうに歌を歌っている。どこか遠くで小さい男の子の声が、甘えたように、じれったそうに、将軍を呼んでいる。
狼は、将軍を見た。
将軍の目に狼を、とがめたり、責めたりする色はまったくなかった。ただうれしそうに、心から幸福そうに、狼の首に腕を回して、力いっぱい抱きよせて、抱きしめた。狼はうれしくてたまらず、身体もとろけそうになって、のどの奥から低いうめき声をもらした。顔をねじって将軍の鼻をなめ、まつ毛をなめ、口もとを軽くかじって、かみつくと、将軍が声をたてて笑い、何か話しかけ、狼はうっとりと耳をそばだててそれを聞きながら、ふと、将軍の目からも、声からも、いつもかすかにただよって、こもっていた、あの淋しさと悲しみが、まったく消えていることに気がついた。

狼は目をさました。
そして、自分でも気づかずに、聞く者の胸をかきむしるような長く悲痛な吠え声を、一度だけ激しく上げた。
将軍が、もうこの世のどこにもいないということが、彼にはわかったのだった。

(6)雑踏の中を

狼は、自分がどうやって、寝台をとび下り、小べやの外に出て、建物の外の街路まで歩いてきたのか、よく覚えていなかった。
ただ、その寝台の上でいつまで待っていても、将軍は決して迎えには来ないとわかった。
今、ただよっている将軍の匂いもやがてうすれて消えて行き、やがて世界のどこからも将軍の匂いはなくなってしまうだろう。
そのような人が生きて、存在していたという痕跡さえも。
雪の中のウサギの足跡のように。
枯葉の上の花の香りのように。

半開きになったままの小べやの鉄格子の扉のすきまを狼は抜けた。
さっき、あんなに胸をおどらせてこのへやに飛びこんだのが、遠い昔のようだった。
中庭にころがっている、たくさんのこわれた家具や折れた剣や槍の間を歩いて、狼は高い鉄格子が引き倒されて大きく開かれたままの門を出て行った。

夕暮れにはまだ間があるはずだが、どこかもう赤みがかった陽射しが、外の広い通りを染めていた。
ひしめいて人々が行き来し、物売りの声が重なり合うようにして陽気に客を呼びとめ、それに言い返す声、笑う声が上がりつづける。
狼は、その中を歩いて行った。
彼のひきずる鎖のはしが石だたみにこすれて鳴る音は、雑音にまぎれて、行き交う人の誰の耳にも入らなかった。

あの車が走って来た。死んだけものたちを山積みにして、血の匂いをまきちらしながら。
車をよけながら、人々は押しのけられたことに腹をたてて、つばを吐き、こぶしをふり回し、荷台の上に積み重なったけものたちの、死にきれずにうめいているものに石を投げつけた。
狼は黙ってそれをながめていた。あっという間に車は通りすぎ、通りはまた何ごともなかったような陽気なざわめきに満ちた。
狼はまた歩きはじめた。
傷あとは痛み、やけつくようにのどが渇いた。だが、自分が感じている本当の痛みは、もっと身体の奥深くにあり、どれだけ水を飲んでも、この渇きは本当にはいやされないことを狼は知っていた。
どこまで歩いても、いつまで待っても、将軍にはもう会えない。

狼があれほど嫌い、恐れた建物の正面の入口は、もう目の前に迫っている。
たとえ、その中に入って行っても、将軍に会うことはもうないのだとわかっていて、それでも狼は近づいて行った。
建物のどこかにとじこめられているらしいけものたちの怒りに満ちた吠え声が、警告するように誘うように大地を伝って響いて来たが、狼は足をとめようとしなかった。

(7)新しい名前
狼がそうやって建物に近づいた時、中で何か大きな催しが行なわれていて終わったのか、たくさんの人がぞろぞろと出て来た。
彼らは皆、悲しそうで、中には涙をふいている者もいた。
そして、彼らの間をぬって建物に更に近づいた時、狼はばら色の服を着た一人の女が、入口に通ずる階段の一番下の段にべったり座り込み、濃い化粧がとけて流れ落ちるのもかまわず、声をあげて、手放しで、しゃくりあげて泣いているのを見た。

狼は、女のそばに近づいて行った。
あの、ヴェールをかけて訪れてきた女と同じかと思ったが、すぐちがうとわかった。
あたりを歩いていた人たちが狼を見て驚いてちょっとざわめいたので、女も涙にかすんだ目をしばたたきながら前を見て、大きな狼が立っているのに気がついたようだった。
狼はじっと女を見た。すると女は悲しみのあまり恐がるのも忘れたように、何かにすがりつかなければいられないといったように、自暴自棄な荒々しいしぐさで、狼の首にいきなり自分の腕を投げかけて、すすり泣きながら力いっぱい抱きしめた。
本能的に身体をひこうとして、狼はやめた。
女の身体には、きつい香料や化粧の香りにまじって、かすかに将軍の匂いがした。

若者と旅した村や町でよく見た風景を狼は思い出した。
鎖につながれて連れられて行く男たちにつきまとって抱きついては追い払われていた女たちの姿が、ちらちらと浮かんでは消えた。
戦って、殺されて運び出された男たちの死体にとりすがって、そんな女たちが泣いていたことも。
この女もそうやって、将軍にふれたのだろうか。
将軍の死んだのを悲しんで、こんなに泣いているのだろうか。

人々は、ぞろぞろと狼と女のそばを通りすぎて行った。
そして、人影がまばらになった頃、女はようやく我にかえったように、まだひくひくとこみあげるしゃくり泣きをおさえながら、石段に手をついてよろめきながら立ち上がり、階段のそばの小さな噴水で顔を洗って、髪をたばねた。
狼もそのそばで長いこと、いつまでも水を飲みつづけた。
まもなく女は、まだ時々しゃくり上げては平手で涙をぬぐいながら、広場の方へと歩き出した。狼がついて来るのに気づくと、身体をかがめて抱きよせてほおずりしたが、やがてそろそろと狼の首に手を回し、指で長いことさぐっていてから、ついていた鎖をはずして落とした。
石だたみの上に落ちた鎖が重い音をたて、急に首が軽くなったのに喜んだ狼が頭をぶるぶると振ると、女は突然、また両手で顔をおおって、声を上げて激しくむせび泣いた。
狼がわけがわからず女を見つめてしんぼう強く待っていると、女は気をとり直したように狼に声をかけて広場の方へと連れて行った。

日が暮れはじめていた。あちこちの台におかれた小さいかまどの上で焼かれたり、あぶられたりしているうまそうな食物の匂いがただよってくる。
狼がそれを気にしているのに気づいた女は立ちどまり、狼に何か話しかけながら、物売りから肉のあぶったのを買って、狼にくれた。
狼が鼻にしわをよせて夢中でそれをかじっているのを見て、女は泣きながら笑った。

その後また、肉まんじゅうや焼き菓子を女に買って食べさせてもらった狼が、とうとう小さなげっぷをしたのを見ると、女は涙をぬぐいながら笑って、歩き出しながら小声で狼の名を呼んだ。
それは、これまでに狼が呼ばれてきた名前とはちがったが、狼は、その名を知っていた。
将軍のことを皆が時々、そう呼んでいたからだ。
なぜ自分がその名で呼ばれるようになったのかわからなくて狼はしばらく考えていたが、女がまたふり返って、ちょっとためらいながら、ささやくような声で、それでもはっきりその名を呼んだので、自分が呼ばれているのだと納得して、女を追っかけて行った。
背後の、あの建物から、けものたちの吠える声がまた空気をゆるがせて届いてきたが、狼はふり向かず、まっすぐ前を向いて、女のあとを追った。

女が狼を連れて行ったのは、ざわざわと人が行き交う裏通りの一角にある小さな家の中の、小さなへやだった。小ざっぱりとして、床には草を編んだ敷物が敷かれ、さわやかで甘い、いい香りがしていた。
女が灯をつけると黄色みがかった暖かい光がへやにあふれた。すみの方においてある、丸い小さな台の上に、将軍のテントにあったのとよく似た、小さな人間のかたちをしたものがいくつもおいてあって、どうやら剣を持った人間のかたちのようだった。狼が近づいて行って、それを調べていると、服を着替えて、腕まくりして、隣のへやの小さなかまどで湯をわかしていた女が戻ってきて、笑いながら、その一つをとり、狼の鼻先にくっつけて何か言った。
これと似たようなことが、ずっと昔にもあったような気がする、と女の顔を見ながら狼は思った。

なべに湯がいっぱいにわくと、女はそれをたらいに注ぎ、やわらかい布をひたして、狼の血に汚れた身体をきれいにふいてくれた。血ががりがりに固まった横腹の傷も長いことかけて、ていねいにふいて、薬を塗ってくれた。傷口にさわられて、狼が耳をぴくぴく動かしたり怒ってうなると、女は声をかけてなだめたが、その声は何度も涙でつまりかけた。けれど女は歯をくいしばって、もう泣こうとはしなかった。
何度も湯をとりかえて、狼の身体をふいてしまうと、女はあたりまえのように寝台をたたいて、狼に上がるように言い、狼がとび上がって腹ばいになると、灯を消して、自分もそのわきに横たわった。
狼は、女の髪や肩先に鼻をつっこんで、将軍の匂いがほのかにまだ残っているのをたしかめてから、目を閉じて、眠りについた。

夜ふけに一度、狼は目をさました。
外の通りはまだにぎやかで、ざわざわと人が行き交う気配がする。
何か悲しい夢でも見ているのか、女は夢の中ですすり泣いていた。
狼はそっと女のほおに鼻面をくっつけて、女の目をさまさせようとした。
夢うつつで女はまた将軍の名を呼び、狼を抱きしめて泣いた。
狼が鼻先を押しつけて低く鳴いてやると、女の泣き声はおさまって、やんだ。

いつかは、将軍と若者のいた、あの庭に行こう。
狼は、そう思った。
けれども今はまだ、ここにいよう。

夜の都のざわめきの中で、狼は金色の目を大きく見ひらいて、じっと闇を見つめつづけていた。

(狼と将軍・終)・・・・・2001.11.19.

狼は眠らない -あとがきにかえてー

子狼だった頃、主人公の狼は、将軍に抱かれて眠っていました。成長してからも、基本的にはそうでした。その人を信じて戦うこと、その人と喜びも悲しみもともにすることが、彼の生きがいでした。
これは、動物(多分、特にイヌ科)ではそんなに珍しいことではないでしょう。そして、人間にとっても、人であれ、国であれ、思想であれ、宗教であれ、そういうものに近い存在を持てることは幸福だろう、と思います。子どもの時や、若い時に、そういう存在を持てることは比較的あるのだろうと思います。

けれど、年をとるにつれて、それをなくすことが人には多い。また、少なくとも、現代の日本では、そういう存在を持つことは難しくなっていると思います。ないものをしいて求めると、まやかしものをつかませられるのがおちだったりする。
私にも、個人や、特定の思想をそれなりに信じた時期がありました。今もかたちはちがうけれど、何かを誰かを信ずることはあります。けれども、全面的にではありません。時代も、私の状況も、それを許してはいないと思います。

信じていた将軍が消えた時から、狼は生きるよりどころを失い、命令を信じて受け取ることのできる相手を失いました。
お話の作り方としては、狼がそこで不幸になり、いじめられて、将軍をひたすら恋い慕う、でもよいのですが、私が書きたかったのは、食べ物、飲み物、寝床に手入れ、たとえすべてが満ち足りていても、それでも、信じられるもの、自分を捧げるものだけがない、という時代と世界の虚しさでした。
だから、狼は、新しい基地で、将軍以外のすべてを手に入れて、なお旅立たなければならなかったのです。

そして、結局、狼は将軍に再会することができません。理想も、価値観も、秩序も戻っては来ず、繁栄をきわめる残酷で荒涼とした都に、彼は一人で残されるしかありません。
その中で、彼がめぐりあう人物は、将軍の代わりではなく、彼と同じように、将軍を失って嘆くことしかできない人間でした。

私は、映画を初めて見た時から、この人物が気になっていました。どこか私に似ていたからです。あこがれる人物を助けるすべもなく、つながるすべもなく、いやがられてもつきまとうことでしか、自分の存在を、愛する気持ちを表現できない、観客というもの、ファンというもの、傍観者でしかない人生。
闘技場に引き出されることが悲劇なら、観客席で永遠に見守り続けるしかない人生も、悲劇でなくて何でしょう。

愛した剣闘士が死んだ時、この人はどうしたのだろうと、よく考えました。何日ぐらい泣いたのだろう。次のひいきの剣闘士をすぐに見つけたのだろうか。それとも、もう闘技場に行くのをやめてしまったのだろうか。そんなことを、いろいろと。
狼がめぐりあうのは、そしてその後の人生をともにするのは、この人以外に私は考えられませんでした。
自分が深く愛した相手に、その愛を示すすべがなく、その人と語り合ったこともない、ともに戦ったこともない、憎みあったことも愛しあったこともない、二人だけの思い出もない、だから、相手が死んでしまったら、何ひとつ手元に残らない、この人に私はせめて、彼女が愛した相手と心を通わせあったことのある、この狼を与えたいと思いました。

彼女は、将軍と同じように狼の世話をしてくれます。でも、彼女は将軍ではありません。狼にとって将軍の代わりになる人は、誰ももう、いないのです。
そのことを狼は多分、よく知っています。
この先、生きて行こうと思うなら、もう将軍を求めるのではなく、自分自身が将軍にならなければならないことを。
それがどんなに滑稽でも、それがどんなに無茶なことでも。
だからラストで狼は、闇を見つめ続けています。
将軍が消え、二度とよみがえらない、この世界の闇を。
将軍の代わりには誰もなれません。
彼が、将軍の代わりをするしかないのです。
そのように彼を必要とする相手がいるから、彼には生きのびる理由があるのです。
彼と新しい飼い主との暮らしは、将軍との暮らしと似たところもあるけれど、ちがうところも多いでしょう。
新しい時代の、新しい関係を、新しい相手と、狼は、築いて行くと思います。

この話は筋としては、とても単調です。どうということのない話です。
そして、一応、ぎりぎりのところ、動物の視点として無理のないように私は書いたつもりです。
けれど、否応なしに重なってくるのは、今の私や、今の世界の現状でした。
そういう意味では、「狼と将軍」は、ひとつの寓話なのかもしれません。

私の小説を、これまでほめて下さった方は、よく「会話がうまい」と言って下さいました。
しかし、意識したわけではありませんが、この小説にはその会話がいっさいありません。
動物の感覚で書こうとすると、そうなってしまいました。
当然、説明不足や理由不明の部分が出て来ます。
でも、それも面白いと思いました。
自分が小さい子どもだった頃、周囲の世界はともすれば不可解でした。
今でも、人々の多くは、政治や社会がどういうしくみで動いているのか、何がこれから起こるのか、理解できないまま、薄闇の中を歩いているような感覚がありはしないでしょうか。
動物の視点をつらぬくことで、そのような感覚も表現できるのでは、と思いました。

この小説のもとにした映画「グラディエーター」を見ていなくても、知らなくても、この小説は読めます。
そもそも、映画を見た人ならおわかりのように、狼にしても、彼の最後の飼い主にしても、画面に映るのは十秒前後と言ってもいいほどです。
それでも、書いている間ずっと掲示板でも、それ以外でも、映画を愛したたくさんの皆さんから、心配や共感や羨望のお便りをいただきました。
狼ともども、深く深く感謝いたします。
ほれっ、オオカミ、最後のごあいさつだよっ!

うおーーんうおーーんうおんうおんうおんうおーーーんうおんうおんうおんうおんうおーーーん(←皆さん、長い間、かわいがってくださって本当にありがとうございました。皆さんのあたたかいおことばは、どれも絶対に忘れません。これでお別れです。ありがとうございました。じゅうばこさんが、後日談を書いてくれるかもしれないと言っているので、ひょっとしたらまたお会いできるかもしれません。でも、当分は、お目にかかれないと思います。僕もがんばるので、皆さんもどうか元気でいて下さいね。…だそうです。)

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