映画「グラディエーター」論文編しゃべる作者(「晩春」裏話)

(1)

三年近くも「グラディエーター」のファンフィクションを書いていると、さすがに息切れ、ネタ切れしてきそうなのですが、実際にはそうでもなく、むしろ、びくびく「こんなこと書いていいのか?」とびびりながら書いていた緊張感がなくなって、書いてる世界となれあいになるのが恐いです。それをさけようと思って緊張感を持続させようとして、過激なことを書くようになってしまうのもまた恐いです。

最近になってファンになったという方もいて、「もっとどんどん書いて」と要求されると、そうそうは続かんだろうと思うのですが、しかしまあ、モンゴメリが「アン」の続編書いたのも、コナン・ドイルがホームズもの書いたのも本人いやいやだったそうで、作者が「もう書きたくないー、マンネリだー」と思いはじめる頃あたりからがいろんな意味で本番なのかもしれないですからねー。

とはいえ、本職の仕事も忙しくなるし、ちょっと肩の力抜こうかなと思って、短編をいくつか書いてみることにしました。
これ、他の皆さんが、すてきな短編をいろいろ書いておられるのを見て「あんなのいいなー、まねしたいなー」と思ったからでもあります。

あ、そう言えばこれも少しまねなのですが、ラッセル・クロウの出演した他の映画もとりいれて、「グラ」の世界と合体させてみようかなという、お遊びもしてみました。第一回のこの「晩春」は「ターニング・ラブ」の世界と合体させてあります。

もうひとつ。私はこの小説の最初に「叔父へ」という献辞を入れようかどうか、最後まで迷いました。
結局入れなかったのですが、気持ちとしては、それはあります。
叔父はこの三月にガンで亡くなりました。八十歳すぎていて現役の医者でした。穏やかな人で、私とそういつもおしゃべりをしていたわけではないので、お互いにものすごくよく互いを知っていたわけでもないと思いますが、信頼しあっていたと思うし、妻である私の叔母をとても愛して大事にしていたことは、誰が見てもわかる人でした。

叔母も八十すぎて現役の医者ですが、女らしいかわいい人で、服装も派手なものですから、叔父と二人で花火大会か何かに行った時、出会った叔父の知り合いのお医者さんが叔母を叔父の若い愛人とまちがえ、こそっと「これかね」と小指を立てて聞かれて、叔父が憤然として「妻です」と紹介したという話は、二人が七十代の時だったでしょう。

二人とも叔父は叔母よりあとに死ぬものと確信していて、叔父も最後まで死ぬ気がなかったと見えて、遺言もまったく残しませんでした。叔母も何だかだ言って私の一族ですからどこかタフで、回りが心配したよりはしっかり毎日すごしています。

この叔父に限らず、男女にも関わりなく、大切な人を守ってつくして生きることがあたりまえと思う人はあちこちにいる気がします。そういう人の中には、部分的にマキシマスがいるなあと思うこともあります。
でも、そういう人でも疲れるってことあるよね、というお話です、これは。
もちろん、それだけではないですが。

私は、小説の中に、どんなかたちででもこういう自分の実体験、実際の感覚をどこかに入れないと書けません。どんなに小さいことでも、それがないとまったく架空のことだけでは話が作れない気がします。

映画のマキシマスより四五年ぐらい前、彼が二十代半ばの頃からこの話は始まります。話の中で時間がもう少しさかのぼるので、その時は七八年前で二十代前半ということになります。マキシマスの若い頃って、必ずしもイースト君やラクラン君やジェフ君と同じではなさそうなのですが、まあ、年齢的にはそのあたりのイメージでお考え下さい。

(2)

一応これ、ファンフィクションなわけだけど、かと言って映画を見てる人を前提にしてるのでもなくて、そうするとですよ、「私」って一人称で話してる場合、早いとこ、この人がどういう人か、特に外見は言っとかないと、読者が頭にすっとイメージ描いてしまうと、もう消えないのよねえ。

「春、爛漫」で、映画を見ないで読んだ人が、この人あとで映画見てコモドゥスとホアキン君の相当なファンになったというのに、小説でのイメージは最初「王宮でぶらぶらしてる、でくのぼう」っていうだけで、「叔父さま=コモドゥス」のこと、シェイクスピアの「十二夜」に登場する、でぶで飲んだくれの中年貴族トービー叔父さまみたいな人かと想像してたってんですからあなた(笑)。

「美人」とか「美少年」とかだけでも言っておけば、皆それぞれ好みでちがう人連想しても、それはかまわないんでしょうけど、ともかく基本的なことは早いとこ言っておかないとヤバい。だけど、語り手が主人公の場合、「私は美しいと皆が言う」なんて言わせたら、それ自体もうやなやつになっちゃうわけで、これは言わせられない。

で、この場合は妻が言います。「ええ、ええ、あなたって、ほっそりしてて、まだ少年みたいよ」(笑)。

この小説は最後まで、それこそ晩春みたように、どこかけだるく、でも幸福でのんびり読めると思うんですけど、そういうように疲れたときに何度でも読み返して、ぼうっとできる短編を書いてみたいなあ、という気があったものですから。

(3)

たしか、ローマでは軍にいる間は結婚できなかったんですよね。それで「いっしょに暮らすことを決めて」なんて適当にごまかしてます(笑)。

時代考証とか資料調査とか、時間とお金があれば、いえ、かたっぽだけでもあれば、じっくりやりたいんですけど、嫌いじゃないし楽しいんですけど、あいにくどっちもないもんで、この点、私はすごく手抜きしてると思います。

ただ、自分で空想しようとすると、ものすごく細かいところまで思い描いてしまうんです。「このコップをこう持って、机の上にこうおいて、こういうように身体をよじって」とか。その時、「どんなコップ?どんな机?どんな床の敷物?どんな窓枠?」とかいちいち気にしてたら、思い描けない。調べたりしてたら、その画面が消えてしまう。

だから、ありあわせの知識で、適当にとにかく想像しておいて、あとで資料ざっと見て、あまりひどいまちがいは修正する、わからなかったらごまかしておく。だから、実際には書いてなくても、登場人物の服装や家の調度や風景のイメージはかなり細かく具体的にまぶたにあるんです。まちがってそうだから、いや、絶対まちがってるから書いてはいないだけで(笑)。

むしろその、「ありあわせの知識」で漠然と「何だかローマ風」とか「何だか中世風」とかの雰囲気持った世界を空想できるかどうかが、私の勝負のしどころかもしれません。
その「ありあわせの知識」ってのは、「さあ調べるぞ」では身につかないものと思っています。何しろ、ありあわせなんですから(笑)。

そのもとは、小さい時に読んだ児童文学が一番中心になってるかなあ。あとは青春時代に見まくった映画ですかね。あ、画集を見るのも好きだったから、それで覚えてるのも多い。
だから、実際に見たものは皆無にひとしく、取材や調査で得たものも何もない。

これはもう、私の生き方、知識の獲得のしかたの好みとしかいいようがないなあ。
私は短期間の精力的な取材や調査を信用しないんですよ。日常でも。研究でも。何の目的もなく、ぼやっと長いことひとつのことにたずさわっていて、ひとりでにわかってくることしか、ほんとのことはないと思ってる。
ただしこれ、よしあしで、たとえば仕事である部署に回されても、私、必死でその分野の資料を読んで学ぼうとか意地でもしないので、こういうのは効率的じゃないし、ちょっと改善した方がいいんでしょうね。

それでも、たとえば人を理解するのに、時間限った短期間のカウンセリングで何がわかる、と思っているし、「そのこと」とめざして、みつめて勉強したら、ものでも人でも真実の姿は決して見せてくれないだろう、という意固地な信念みたいなものがあります。
言っておきますが、多分これ、正しくないですよ(笑)。

まあその、私が勝手にローマ風だのロシア風だのと思ってる雰囲気だって、ただ私がそう思ってるだけの錯覚かもしれないですけど。
でも私はそれでいいと思っていて、それは、たとえ錯覚であれ、私がそうして作り上げた雰囲気は何かの雰囲気ではあるわけであり、それを人が受けとめて、自分のイメージを(私とはまたちょっとずれていても)作ってくれるぐらいの力は持つだろうとふんでるのです。

その雰囲気をかもしだす一つは、文体かなあと思います。それと、いきなり飛躍があるみたいですけど、その世界をかたちづくるものの考え方、感じ方、みたいなもの。特に後者が、他の方の作品を読む時でも私はわりと気になります。

たとえば、ものすごく調査されて細かく描写されていても、その時代の持つ荒々しさや雄大さ、猥雑なエネルギー、静謐な落ち着き、爛熟した頽廃感、また、登場人物の偉大さとか高貴さとか、逆に卑小さとか異常さとかが伝わって来なかったら、それはやっぱりリアルじゃない。

言うまでもなく自分のことは完璧に棚にあげて書いてますからね(笑)。
でも、恐いのは、どんなにがんばっても作者は自分以上に偉大な人も高潔な人も、狂った人も残酷な人も、基本的には書けないってことだと思います。
笑われるかもしれないけど、だから、小説を書く以上、私は限りなく立派な人間でいたいし、また身の毛のよだつような悪人でもいたい。

ええと、さっき「文体」と書いたとき、連想してたのは、実は辻邦生の「背教者ユリアヌス」でした。
私はこれを初めて就職した頃に読んで、同僚に読ませて、その方心理学の先生でしたけど、この本が大好きになられました。また、後に入学試験の問題に、同じ作者の文章を使ったら、試験監督をしていた先生方が「あんなに美しい文章があるものだろうかと思った」と話されていました。

私自身、この作家の文章は好き、内容も好きです。でも、「ユリアヌス」を大好きになった同僚に私、「悪くはないけど、どこか日本の時代小説のようではありませんか」と言ったのを今でも覚えています。

実は「グラディエーター」小説を書き始めた時、まちがいチェックの資料として、この本や「クオ・ヴァディス」や、ロバート・グレイブスの「この私、クラウディウス」とかいくつか本を見たのですが、「ユリアヌス」はなるべく見ないようにしていました。前と同じ印象で、非常に日本風の端正さがあるように思えて、この作品はもちろんそれでいいのですが、私がうっかり影響されると、ローマ風の肉料理の味がしなくなって、お刺身中心の懐石料理になりそうと感じたからです。

しかし、今思うと、これは文体だけの問題ではないのかもしれない。辻さんはもちろん、外国の空気を半分吸って生きておられる方だし、人間の暗さや醜さ、おぞましさもよく知っておられる方と思います。それでも、全体から受ける印象は常に端正で品格があります。ひよわではないけど、図太くはありません。それはやはり、お人柄なのかなとも思う。

そうだとしたら、それは私が勝手に「グラディエーター」の世界と思っているものとはちがうのです。私が勝手に思っているローマでもない。私はすでに読者としてそれが幾分ものたりなかったのだと思うけれど、資料としては絶対に影響を受けてはいけないと判断しました。

そういうのが、まあ、時代背景についての私なりの配慮、かなあ。

(4)

何でもマーガレット・ミッチェルは「風と共に去りぬ」を書く時、ラストシーンを一番最初に書いたと言うけれど。

私は昔からそうで、だいたい、クライマックスシーンかラストシーンを最初に書いて、次にそのもう一方を書いて、それから最初の場面を書いて、そのあと、ぼちぼち間を気の向くままに埋めて行く、って方法をずっと使ってました。
だから、最初から順に書くなんて想像もつかなかったし、登場人物が思うように動いてくれない、と悩む作者の気持ちもまったくわかりませんでした。
それだけ思いのままに反抗も許さず、こき使ってたってことですね、登場人物を(笑)。相当強力な統制下においてたんだと、自分で思います。それのいいところも、悪いところもあって、いちがいには言えませんけれど。

二十年ほど前から、だから三十代後半ぐらいから、初めていくつか、最初から書いて行く長編とかを書き出して、その面白さもわかりました。そうやって書き出したら、それはもう、ラストに行くまでラストシーンは絶対に書けないもんなんだなということも。

ただ、この「グラ」小説の各作品は、ほとんどが最初からではなく、あっちこっちから書き始めてます。
それも、クライマックスやラストシーンとかでさえなく、ほんとに何でもない一場面や、会話から、ひょいと書き出すことが多いです。

それをノートに書きつけておいて、あとで前後の順にそろえるのですが、もうどこからどこにつながるのだっけと、わけわからなくなるぐらい、入り乱れた状態になります、最後の、完成近い頃は。

このシリーズ、人間関係、時間関係、マキシマスの人間的成長とか、混乱しませんか、矛盾したこと書きそうになりませんかと時々聞かれるのですが、考えてみれば、もともとどこからでも書くやり方してたわけなので、慣れてるっちゃあ、慣れてるのですね、私、こういうの(笑)。

あ、それで何でこんな話になったかとゆーと、この「晩春」は今日書き込んだ、ここのところが、最初に書いた部分なんですよ(笑)。「何で二人は別れないんだろう?」から「ほっとけよ、そんなのもう。ばかばかしい」まで。それをノートにメモして、読んで一人で笑っていたのがはじまりでした。しょうもないと言えばしょうもないんですけど、なんかもう、一番幸福な作られ方かもしれないですね、小説としては。

(5)

私はどうも、照れなのか逃げなのか、何かの歯止めなのかよくわからないけど、こと小説を書く時は、そう簡単に世に出ないように、自分からハンディをつける傾向がある。

もう、そんな心配しなくっても、大丈夫、そう簡単に世に出たりなんかしないんだからさ、と言っていただけることはじゅうじゅう承知ですが(笑)。

まあ、最初は、自分の書きたいものが受け入れてもらえそうな枠がどこ見わたしてもないもんだから(純文学じゃなさそうだし、少女小説でもないし、何だろなあ…って感じ。当時はファンタジー小説というジャンルはまるでなかったんです)、とりあえず、ここじゃないだろなあ、と思いながら応募したり書かせてもらってたり、だったのが、だんだん変な意味で癖になったのかなあと思うんですが。

編集部にであれ、読者にであれ、何であれ、何か「とても受け入れられそうにない」条件を自分で設定してしまうようで(ものすごい長編とか、敬遠されそうなテーマとか、とっつきにくい形式とか)、これはちょっと人格的、深層心理的に問題があるのかもしれない(笑)。いや、笑っている場合ではないかもしれない。

というような冗談はともかく(結局真剣になっとらんな)、この数年、これだけ「グラ」小説に全力投球して、どう見ても自分がこれまで書いた中では一番いいものを書いているのに、これって、モデル問題だか著作権問題だかがあるから、まず絶対に出版されて陽の目を見ることはないと思うのですね。それでも書いてる、もしかしたら、それだからこそ書いてる、この心境、むしろ、この神経って何なんだろうかと自分でも思います。

そういうものだからこそ手を抜きたくない、そういうものだからこそ心おきなく全力投球できる、この安心感は何なんだろうなあ。ひょっとしたら「何が何でも注目されたい、世に出たい」ということの裏返しなんじゃなかろか。

まあ、いいや(おいおい)。
それで、この一群の小説が将来どういうことになるのか、どうやって読まれていくのか、私にもほとんどまったく見当はつかないのですが、ちょっと時々気になるのは、こういう書き方してるからには、全部まとめて一つの話、世界として読んでいただけるのもそりゃありだけど、多分、今でももうすでに、ばらばらに読んだり、いくつかだけつまみ食いして下さってる方はいらっしゃると思うのですね。その方が多いかもしれない。

それはこちらも、そのつもりで書いているので全然かまわないのですが、そういう時にちょっと気になるのは「妻子が実は生きていた」って、このとんでもない設定をはずして読める、つまり映画の通り、妻子は殺されたということで読める作品もあるのですね。「双子がいた!」も「その一夜」も「狼と将軍」も「マキシマス日和」も「雨の歌」も「夜の歌」も「日没まで」も「美しい日々」も「呪文」も「冬空」も「海の歌」も…って、あれ、妻子が生きのびたのを前提にしてる話の方が少ないのか。

今あげたのは、どっちでもいいようにして私は書いていますから、当然、映画の設定で妻子が死んだことにして読んでいただいてもいいわけです。けど…

何でそんなこと、ここで気にするかっていうと、この「晩春」も次の「大切な友だち」も、マキシマスの家族の話なのですが、私はこれ、妻子が死なないという世界の話として書いてるのですね。あんな殺され方をする未来に、これがつながると思ったら、つらすぎて絶対、まず私自身が書けなかった。こんな小説は。

でも、もちろん、映画と同じ未来につなげても、この小説は読めるのです。それはマキシマスが奪われたものの大きさをいやが上にもはっきりさせるし、コモドゥスの罪の深さも読者に痛感させるでしょう。
何よりも、この幸福な日々を、失った後で追想しなければならない「私」の悲劇はとてもよく浮かび上がるでしょう。

でも、そう思ったらくりかえしますが絶対に、この話、私は書けませんでした。「妻子は実は生きている」という未来につなげなければ、とても書くのは無理でした。読者にも実はそのように読んでほしいと…この話の未来は、あの映画の結末とは限らない、と思って読んでいただきたいのです。この小説の場合、私は読者を悲しみで汚したくないのです。

でも、「妻子は実は死んでいない」という切り札でおのれを安らがせて、ここまで彼らの幸福な日々を自分は書いてしまったけれど、実は映画の設定でも私の設定でも、マキシマスにとっては同じなのです。

「妻子は実は生きていた」という私の作った世界でも、マキシマスはそれを知りません。彼ひとりにそんな大きな苦しみを背負わせておいて、おまえは逃げてこんな話まで作って、作者としてそれでいいのか?と私は自分を責めるのです。

せめて、いつか、マキシマスの心によりそい、彼の再生につきあうことでしか、このつぐないは、できないのでしょう。
私の彼との旅は、まだまだ続きそうです。

(6)

マキシマスを演じた俳優ラッセル・クロウの最近の「子どもができた!」といおうか「妻がみごもった!」といおうか、それを夢中で人に語ってる姿が私は大好きで、見ていてひとりでに口元がほころんできます。別に特にそういうことやそういう人が好きなのではない…そもそもそういう人って、いそうであまりいないのではありません?この俳優にはいろんな意味でいつも予想を裏切られ、まあそれ以前に予想がつかないので私は何も予想はしないことにしているのですが、それにしても私の予想の埒外のことをいつもしてくれるという点で、実に私の予想を裏切らない人ですね。
普通、男性がこういうことをしたり言ったりしたら、世間はほほえましいと歓迎し好感を持つような気がするのですが、彼のあまりのあけすけぶりに、何だか皆ぼうっとして「あなたも人の親になる喜びがわかったのね」などという感じにほとんどなってないのもすごい。やれ結婚、出産、手術、葬式(いっしょにすなよー)などのたびに「こういうことは皆同じよね」と、普通人になりたがる、したがる人にからめとられそうになるのが何より恐怖だったのですが、この手があったか、と私は笑いをかみ殺してます。

いやまあ、そんなことはとにかく、演じた俳優がそれならば、私の作ったマキシマスの方も、それに匹敵するだけの「読者への裏切り」をしなくちゃなあ、と思ったわけでもないのですが、私は彼は子どもをそんなにかわいく思ってるというよりは、奥さんとの絆でまだ手いっぱいで、そこに新たな要素が加わったことにむしろ混乱してしまう、という設定にしました。くしくもラッセルと対極の図式です(笑)。

それが男の心理として父親の心理としてあり得るか、どうなのか、という話にはあまり関心はありません。あり得るとは思うけど、自分自身や自分と母親、友人たちとの関係が「女にそういうことはない」と世間でいつも言われてきたものばかりで、私自身も含めて私の周囲の人たちで現に見ている人たちは皆、そういうものが確かに存在するとわかっていても、世間(ったって、せいぜいマスコミ、マスメディア程度ですけど)はまったくそれを認めてくれてなくて、不自然、異常というレッテルをはる、という体験をあまりに日常的にしてきたので、もういい、知らんという心境です。
すごく乱雑な言い方かもしれないけど、読んでいただければわかるように、私のマキシマスはこうなのです。それはもう、そうなのだと私にはわかっているのです。嘘っぽく見えたり納得できなかったら、それは私の描写力、筆力の未熟さで、あるいはもっと乱暴に言うなら、読んだ方の(それをもとに文章から想像を構築するところの)体験が私のそれとちがっているので、それはもう、しかたがありません。

それじゃ彼は「海の歌」のルッシラもどきにいつまでもわが子を愛せなくて苦しむのか、というと、私のマキシマスはそんな繊細な男ではありません。役にたたないことはくよくよ悩まない動物的賢さがあるので、そもそもわが子を愛せないということをそんなに悪いことだって彼は感じたりしないのです。あ、ネタばれになる(笑)。ともかく、そういうことですから、彼が子どもを愛せないからと言って、この話、決して暗くはなりません。そこが、この話のすごいところなのです。私のすごいところでもあります。
うーん、酔っぱらっていると思われてもしかたがないのかもなあ(笑)。

(7)

たまたま今まで読みそびれていた萩尾望都の名作「イグアナの娘」をゆうべ読んだのですが、これはもう、聞きしにまさる名作ですね。主張がどうだの思想がどうだの描写がどうだの絵がどうだの、そんなことがすべてどうでもいいぐらい、そんなことのすべてがぴったり見事にかみあって、間然するところがない。完璧な完成度、しかも適度にゆるみがあって、完璧な作品にありがちな息苦しさがない。

重苦しい、おっそろしいテーマをとりあげるのは、この作者のいつものことですから、それは驚くにあたらない。むしろ、それをどれだけ明るく、まっとうに、軽々と、健康にしあげるかが、それがどこまでできるかが気になるところで、この作品はその完成度がとても高いと思います。いろんな普遍的な要素がきわめて巧みに入り混じり、しかもすごく独特の世界を作る。随所で妙に笑ってしまう暖かいユーモアさえも豊かにただよって、快さに思わず何度も読み直してしまいます。

きっと、これを書いた時、精神状態も体調も、作者は安定していて絶好調だったのでしょうねえ。つくづくと、そう思う。そうでなければ、こんな作品は書けません。

と、いうことは、私の今の疲れや腹立ち、その他もろもろも絶対に何かのかたちで作品に反映するなこりゃ、と、あらためて思って恐くなる。

「イグアナの娘」みたいな作品が書けたらいいなあ、と思いますけれど、むろん今の私では(いつかどうかなるかも怪しいけど、まあ希望だけは捨てないでおこう)それは及びもつきません。この作品(「晩春」)、実はあちこちで、かわいく破綻していまして、まあでもそれはそれでいいや、あっちこっちよく書けたとこもあるから、と作者は甘やかしています。

ただ、こういう作品は、どこか幸せな気持ちで書きたいのですね、絶対に。そういう点では「いい作品にしよう」と、こういうものを書く時は特に絶対思っちゃいけないんだろうなあ、と感じます。登場人物をひとり残らず突き放して笑いながら、でもあたたかく見守る目。「イグアナの娘」に確立されている、そのまなざしを不充分でも、少しでも、かけらでも、この作品も持てていたらいいのですが。

(8)

この「妻」にモデルは別にないのですが、ここのとこだけは私の母がまじるかも。というよりか、妻を見ている「私」の気持ちが、母を見た時の私の心境かも。

母は相当を通り越してクールな人で、娘の私にもまるでべたべたしないし、甘ったるい声なんか死んでも出さない人なんですが、たとえば子猫に話しかけてる時など、えっと驚くほど聖母マリアもそこのけの慈愛にあふれたまなざしや声音になっていることがあります。そばで見ていて、おおっとのけぞりたくなるぐらいです(笑)。

おそらく、私が幼い頃、母はそういう風にして私に話しかけてたのだろうなあ、と何となくわかります。「そういや、こんな人だったな」と記憶はないけど、どこか確実にわかるところがあるのです。

しかし、それはそれとして、「そうかあ、こういう人だったんだな」と思うと、いつもそういう顔をさせておけないのはやはり私がそれだけ苦労させ、いらつかせ、疲れさせてるわけなのだよなあとも思い、くそ、たかが猫に負けたかと感じたりします。私が引き出せない表情をこんなびいびい鳴く毛糸玉のようなのが引き出してしまうのかと。

それを思い出して、この場面を書いたのではありません。書いたあとで思い出しました。ということは、でも、無意識に頭のどこかにあったのかな(笑)。そのへんは、もうどうなのか自分でもわからないのですが。

ただ、この「私」は、荒ぶる、すさんだ妻の心を、私なんぞとはそもそも比較にならない犠牲を払ってなごませてきて、そのことに男として保護者としての、いじらしい、けなげな自負も一応何がしか持ってるはずですから、これまた私と比較にならないほど、「何でだよー」という気分はあるんじゃないかと思います。

私のこのお話は一応独立してはいますけれど、そのへんの事情について、セットで楽しみたいとお思いの方は、リンクしてあるdaifukuさんのサイトの私のコーナーに収録していただいてる「騒がしい朝食」もあわせてお読み下さい。

(9)

たしか向田邦子さんが、恋愛なんて体験がなくても飼い猫見てりゃわかる、とか言われてませんでしたっけ?

結婚もしたことない、子どももいたことなくて、親と子の話書く時、何をモデルにするのと言われそうですが、そういうことって、逆にそういう体験のある人に悪いんじゃないのかなあ。仮に私に夫や子どもがいたからって、それをモデルにしてるだけでは小説にはならないと思うし、特にこんな昔の異国の話だったら。

もしそういうことをもとにして書こうと思うなら、たとえば私が自分の職場や実際の体験をもとに書くとしたら、一回だけ、一つだけのお話になるかなって気がします。
言いかえれば、それは誰でも一生に一つは、自分の住む世界を徹底的に生かして描けば、名作は書けるのじゃないかとも思います。
ただ、そうすると今度はモデル問題がひっかかってくるわけですよね。

私自身、二十年かもう少し前から、体験してる現実の方がどう転んでも空想より面白くてダイナミックで、何とかこれを書けないかなあ、と思いつづけている内に、どんどん時がすぎてしまいました。
今も、この現実を書いておきたいなあ、とあせってはいるのですけど。

面白い体験をしている、たとえば企業戦士や水商売の方とかでもですけど、多分そういう方たちは忙しくって書くひまがなく、プロの作家は逆にネタがないとさがす、これって何とかならないかなあといつも思ってしまいます。

小説なんて誰でも書けるのだから、そういう時間があるように、すべての職場に余裕を持たせたら、文化は発展するのになあ、とか。
林芙美子とかコナン・ドイルとか、ちゃんと職業があって小説書いてた人たちがいたけど、今そんな人いないですよねえ。

今日書いた部分は、人から聞いた話、自分の幼時体験もありますが、向田さんもどきに猫のモデルもちょっと入ってます。奥さんが世話やきすぎて、子どもにいやがられてるってところ。
私が高校生の頃、我が家に白黒のまじめな雌猫がいて、一匹だけ生んだ子猫をせっせとかわいがるのだけど、いつも心配してくわえて安全なとこに連れて行こうとして世話やくので、やんちゃな子猫はうるさがってました。

その白黒猫の母親は我が家の猫の歴史の中でも名を残す、豪傑の名猫で、白の多い三毛猫で金色の大きな目をして、ふんわり太って名前もマダムと言いました。
彼女は孫にあたる子猫をやかましく世話するでもなく、ただひなたに寝そべってしっぽをくるりくるりと回して遊ばせていました。子猫は夢中でそれにじゃれ、結局安全な場所からはなれないでいるのです。
白黒お母さんはそのそばで、何だかやきもきしていました。

このマダムとコミー(白黒猫)の親子は絶妙のコンビで、結束してよその猫や大きな犬を追っ払っていました。コミーはマダムを尊敬していて絶対に忠実でした。不器用でいちずだった、見た目は平凡なこの猫が今もなぜか印象に残っています。彼女がどうしてだったかやがていなくなり、その数年後マダムは庭に侵入してきた大きな犬と一人で戦い、かみ殺されて死にました。

ついでに言うと、「呪文」でマキシマスが息子が自分を見送っているのが最後、小さな白い点になって見える、というのは大学に戻る時私が駅に行く道でふり返るといつも、塀の上のつつじの植え込みの緑の中から私を見送ってくれていたマダムの白い輝くような毛並みの思い出です。彼女が犬にかみ殺される前、最後に見たのも、その緑の中の白い点になって私を送ってくれている姿でした。
彼女の死は理不尽でした。でも、たかが猫だったから、誰に抗議もできなかったし怒りもぶつけられませんでした。

私が母も含めて、どんな親しい愛する人の理不尽な死にも、多分文句も言わないし、どこか冷やかだろうと予感するのは、マダムの死だってそうだったじゃないかという思いがどこかにあるのだと思います。

それはさておき、だからほら、作家が何をどうモデルにしていろんな場面を書いてるかなんて、ほとんど想像を絶するんですよ(笑)。

(10)

「グラ」小説では、私しばしば「未収録場面」というのを末尾にくっつけてたんですが、あれは結局、ここ数回のような時に暴走しちゃったとこなんですね。ここでのこの三人の親子関係、家族関係のように、次から次へと連想が働き、どんどん書けてしまって、とまらなくなり、気がついたら全体のバランスが悪くなるほど大量になってたり、雰囲気こわれるほどわるのりしてたりする(笑)。この小説の場合は、ほどほどで自制しました。あ、実は他のこれから書く小説に使うことにしました。

しかし、つくづく、この奥さんを天涯孤独にしておいてよかったわあって思いました。こんな気分の時には両方の実家の家族関係や親族関係までどんどん連想してしまいそうになるのです。ほっといたら「渡る世間は鬼ばかり」みたいになっちゃいそうで、それはとっても恐い(笑)。

人間関係もですけど、こういう時は場面もはっきり目に浮かぶんです。よく予言者や占い者や教祖みたいな方が何かの映像を見るとかおっしゃって、私そういうの丸っきり信じないんですが、よく考えたら、自分もちゃんと見てるのかもしれない。

この「グラ」小説に関しては、私はほとんど苦労しないですらすら書いているんですが、そういう状態に気分を持っていくという点では苦労してるかもしれません。

これまでにも、苦しみながら書いた作品はあるし、それにはそれなりのよさがあり愛着もあります。だから、そういう書き方だって決して悪くないと思います。

ただ、私の体験だと、そういう時「うまく書けない」「これはだめだ」と思って苦しむのは、それはそう大した苦しみじゃないんですね。
一番苦しくて死にたくなるのは、「うまく書けてない」のか「だめ」なのか、よくできているのかいないのか、今こうやって苦しんで書いてるものが、よい出来か悪い出来か自分でちっともわからないこと。自分でわからないのだから、人に聞いても多分ほんとのことはわからない。何だかだ言ってもそれは、書いてる本人がやっぱり一番よくわかるんです。それが、自分でわからない時って、もうどうしようもない。あきらめるべきか、続けるべきか、出直すべきか、突き進むべきか、ほんとにまったく判断できない。

今回の「グラ」小説の場合、楽なのは、うまく行ってる時の感じってのがわかってますから、だめな時は「あ、これはだめ。やり直し。ちょっとやめておこう」とすぐわかるんですね。だからすぐ、中止したり変更したりできる。これはほんとにありがたい。

こういう勘って、一度手放したらもう戻りません。だから今、死ぬほど忙しくても私がこれ書くのやめないのは、「ひまになってから書こう」と思っても、絶対だめなのがわかってるからです。書けると思った時に書いておかないと、絶対、二度と書けないんですよ。これまでの経験でそれがわかっています。

だから、この世界が書けなくなるまでは、書けている限りは書き続けようと思っています。幸運の女神と同じで、好きなこと好きなように書かせてくれる神さまも、前髪しかないようですから。
いったん書けなくなったら、もうあんなに書けてたのが「他人じゃないか?」ってぐらい書けなくなってしまうんですよ。

(11)

これこそ自分の経験から言うのですが、(私の)マキシマスって、こんな風に子どもにわきからのぞきこまれたり、「遊ぼ?」みたいに見つめられたり、「まだ?」って感じでうろつかれたりしたら、実は気が散って仕事に何も集中できてなくて、ほんとは自分も遊びたくてたまらなくて、でも意地でも知らん顔でじいっと机の上の本とか何も頭に入ってないのに見つめていると思うんですね(笑)。
それで子どもがあきらめてそのへんに座り込んで姿が見えなくなったりすると、またどこに行ったのかとちょっと心配になって、そうっと目だけ動かして横目で行方をたしかめたりしている。子どもが足元で黙って石を並べたりしてるのが目のはしに見えるとほっとして唇のはしで笑ってまた本に戻る…なんて。

(12)

ファンフィクションの(私が勝手に決めてる)ルールその一は、「何が何でも対象となってる題材の人物を、ほめてほめてほめまくる」ということだと思っています。ひとさまのものをお借りしているのだから、それがとーぜんの礼儀だし仁義だと思う。
ついでに、そう誰も見ないだろうと思って(そうか?)こそっと書くと、これは特定の映画や俳優のファンサイトに書く時の(これまた勝手に私が自分で決めてる=だから他人が守らなくても気にはなりません。気にする資格もありません)ルールでもあって、そういうところに書く以上は絶対にその対象を支持し肯定し賞賛しなければと思っています。恨み言も悪口もクールな批評も基本的には全部どこかほめことばになるのでないと、その場所に書かせてもらうショバ代にならない、みたいな。

てなわけで、このシリーズを書き出してからはとにかく主人公を美化する飾るほめまくるに徹しています。こういう一つの枠があるとかえって書きやすいところもある。馬琴が「勧善懲悪」にこだわった気持ちがわかる(笑)。

「晩春」のように本人が書く形式でこれをやるのは、一見むずかしそうですが、もちろんやれるわけで、今回のように奥さんがご主人を恨んでののしって、ご主人が困ってるのも、要するに「このご主人は何もしなくても、めっちゃ誰にも好かれてしまう人です」ということを言ってるわけで。結局はご主人をほめてる描写です。
ほめるのだって、一見悪口だったりとかいろいろあるわけで、そうやって手をかえ品をかえほめるのでなければ退屈されるし反発かうし。

でも、こういうのあまり身につくと、それはそれでヤバい気がする。よくわからないけど、気をつけなくてはいけないぞって漠然と感じます。

(13)

実はこの場面(「晩春」の13回)、最初に考えていた会話をメモするひまがなくて忘れてしまったんです。他愛もないやりとりで、だから今書いてるのの方がもしかしたらいい出来なのかもしれないけど、でも、それにしても残念です。
どってことないから、このくらいのせりふ、覚えてるだろうよ、とたかくくってると、これがもうみごとに忘れる。

昔はこんなことなかった気がします。でもそれは記憶力が減退したからだけではなくて、以前の小説はもっとドラマティックで立派なやりとりが多かったのに、最近のはさりげない雰囲気の会話が多く、だからなおこうなるのだろうと思います。

ともかく思い浮かんだら速攻ですぐメモとらないとヤバい。消えたら絶対もう思い出せない。

なので、夜中にむくっと起き上がって紙とボールペンさがすのはしょっちゅう。先日は電車の中で書いていて、駅についてまだ続きが頭の中に生まれつづけていて、改札とおった駅の階段で立ちどまってスーツケース下ろして、その場でしばらくメモとっていました。
だから急ぎの予定が間近にある時などは絶対に小説のことなどは考えないようにしています。

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昨日だったかおとといだったか、「街道風景」という、この子どもの成長したあとの話を書き上げて、卵を産んだウミガメか、脱皮したての蛇みたいに今ぐたっとしています。ふわあ、何にも考えたくないよう。

私よくこういう時は本屋さんに行って、あまり有名ではない小説を何冊か買って読んで、「皆うまいなあ。私のなんか世に出ないはずだわ、これじゃ」と確認してどたっとへこむ、というマゾヒスティックな快感にひたる趣味があります(笑)。
で、そのあと数日してまた自分の読み返して「まあ、これはこれでいいか」と思い直す。そして次第に「いやー、最高だ、どんな名作と比べてもひけはとらない」と思うところまで立ち直る。
まあ、思うだけはただですから(笑)。

でも、昔の小説読んでみるとやっぱり、ああ、下手だなあと思います。そして、ということはあと五十年もして読んだら今書いてるのもすごく欠点がよくわかるんだろうなって。それまで生きていられないのが、しかたないけど残念です。

ただ五十年待たなくても、この「晩年」の場合には欠点はわかっていて、この先がちょっと未完成っぽいんですよ、見るからに。最後はまたちょっと持ち直しますけど。

でもまあ、もうそれはそれでいいやって思ってます。水ももらさぬ完成された短編っていうのも、思えば何だかかわいげないっていうか品がない気もするし(おーいおい)。
この間からすごいものとばっかり比べてますけど、西鶴の短編とかめちゃくちゃ強引だしまとまりがないし、でもどことなくぴちぴちしてるんですよね。この作品がそうだとはさすがの私もよう言いませんが、変に整頓しようとすると何かが死んじゃうかもなあとは思います。

それにしてもこんなことまで書くかなあ普通。まあ、産後のウミガメで目がぼうっとかすんでて何書いてんだかよくわからないってことにしておいて下さいね。

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映画「グラディエーター」でマキシマスを演じたラッセル・クロウは来年の春まで映画が日本でずっと公開されず、撮影予定も彼が新婚の奥さんの出産が間近なので、そういう時に仕事はしたくないと撮影を延期したとかで、ファンサイトでは何だそりゃとかよいことだとかいろんな意見が出ています。
私はまあ怒る人の気持ちもわかるが、そういうやつではあるよなあ、程度の反応だったのですが、

さっき夕食を食べに行った店で新聞を読んでたら、赤ちゃん生まれた早々に夫が浮気したとかでショック受けてる若い母親に、何だかしかるべき地位と職業にある女性がアドバイスしたこととして堂々社会面にぶちぬきで紹介されてたのが(もっちろん別に全然批判とかではなくて、立派なアドバイスとして)、「男は精液がたまったら、排泄しないともたない。自分でするだけではだめで相手が必要になる。あなたがお乳がはってそれを赤ちゃんに飲ませたらすっきりして気持ちがよくなると同じ。赤ちゃんに夢中になってると往々にしてそうして浮気をされることになる。三回に一回は笑って許してあげないと」だって。

あ、人が来そうなのであとでまた続けますけど、さしあたり一言だけ。

ばっっっっっかじゃないのーーーーーーーーっっっ!!!!

ふ、2時間人と別のことしゃべったあとでも怒りはおさまってないわ。

多分あれ、今日の新聞だったと思うのね。どうぞ確認なさって下さい。何でもその後、その奥さんは夫と仲直りして幸せそうにしてました、って何の疑問もないハッピーエンド風に話はまとめてありました。
授乳と性交をひとつにまとめる斬新さも、「男はそれを我慢できない」とひとくくりにする陳腐さも、いずれも雑駁さとしては甲乙つけがたいというのが、このお話のやりきれなさかしら。
それを一応大新聞が冗談でもなく堂々と紹介して恥とも思ってないところに、私は政府の高官が「レイプ犯は元気がいい」と公言してまだ職にとどまっていられるこの国の文化と品性の程度をまた見せられたって気がして食べた冷やしそうめんをマジでお腹こわしてそのあとすぐ、全部出してしまいました。快感でした、ええ。

それで突然、子どもが生まれる時に仕事なんかしてられないって言ってる、ラッセルという、乱暴者で知られた俳優がやけにいとしくなりました。やっぱり私がこの俳優を好きなのはこういう人だからかもしれない。いえ、こういう世の中、こういう国に私が住んでいるからなのかもしれない。

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昨日の話ですけどね…。
まあ、新聞がまとめる段階で勝手に話を要約して変にしてしまうってことはあるかもしれない。また、自分の魅力や性格に問題があるのではとかって、それでなくてもマタニティブルーかなんかで落ち込んでいる奥さんに、「あんたの責任じゃない、男なんてそんなものよ」っていう、そういう一般論化した荒っぽい言い方はそれなりに当座救いになるのかもしれない。更に私は世間の教育者、医者、カウンセラー、その他そういうことに携わる方々の相当めちゃくちゃな言い方考え方はよく見てますから今更特にショックを受けてるわけでもない。

でもやっぱり、配慮が足りない発言だと思います。私はだいたい性欲や性行為を「たまったら出したくなる」というように排泄と連想させて説明するのは、そういう面があるにせよ、慎重であるべきだと思ってます。そしてせっかく結びつけるならついでに言ってほしいけど、今ここでドバッとうんこしたら気持ちいいだろうなと思っても普通人はしないでしょ。したくてたまらなくても油汗かいて我慢してトイレさがすでしょ。それは、そこでうんこをドバッとしたら皆に相手にされなくなるし好きな人に嫌われるからだろうじゃないの。その背後には「そういう人は相手にしなくていい」「嫌うのが当然」という常識が認められているからでしょ。「たまったら出したくなる」「出したら気持ちがいいだろうと思う」と実際にそうすることの間には大きな違いがあるんですよ。「そうしてもいい」と認め、「そうさせてあげなさい」とすすめることの間にも。

浮気や不倫、三角関係といったことには、多分その数だけの理由と状況がある。心理があり雰囲気がある。いいとも悪いとも許せとも許すなとも簡単に言えることじゃないと思う。

ちょっと横道にそれますが、映画の中で男が特にスパイとかそういう職業の男が女と浮気をせず「貞操」を守るようになったのもわりと最近のことのような気がします。ウィレム・デフォーが「ホワイト・サンズ」で、そういう役を演じた時、あれ?と思って「さすが」と思った記憶があるもの。これもやっぱりフェミニズムの影響ではあるんでしょうね。でも、昔からそういう男性はいたと思うんです。描かれなかっただけで。私の周囲にもたくさんいたし。でも、そういう時は相手して女とやっちゃうのが男としては当然で、そうしない男をどうカッコよく描いていいのかわからない、って「文化」はたしかにあったと思います。

でもそれは変わってきた。だからこそ、ここで夫でも妻でもない相手とどこまで行くか何をするかはマニュアルなしのそれぞれの美学で考えなくてはならないことで、ある人にはそれってとても楽になったってことだろうけど、またある人(自分の生き方や美学より、世間のそれをよりどころにしたがる人)には、やりにくい世の中になったってことだろうと思います。

いずれにしてもそれは、「男は皆たまったら女のあそこにそれを入れて出さないともてないの」と、自分(あ、でも言った方は女性じゃない)や、自分の知ってる人たちがそうだからって一般化するのは安易すぎるし危険すぎる。この言い方で、レイプや従軍慰安婦や妻妾同居やその他もろもろの犯罪や悲劇がすべて免罪されてきた、今もされそうな状況を思ったら、そんなに簡単にこんなこと言えないはず、紹介もできないはず。こういうアドバイスを受けた奥さん、こういう記事を読んだ人、そういう人たちの中にこのような考え方がしみこんで広がっていくのかと思うと私は気分が悪くなります。

私は「晩春」で、マキシマスが奥さんが子どもにかまけてしまうのにしらけてつまらながっているのを書くのに相当迷いました。私の彼はそんなイメージでしかなかったのだけど、でもこれが「奥さんが子どもにかまける→だんなが浮気に走る」という図式を肯定し、「あのじゅうばこにしてやっぱり男女の仲を書くと自然にそうなるか。やはりそれが男女の本質なのだ」と言われるかもしれないと思うと耐えがたかった。

別の方のファンフィクションに描かれたように、子どもと妻の両方にべたべたの理想的な夫としての彼を書きたいとどんなに思ったことでしょう。でもやはり、私の彼はこうでしかないと思いました。私の望む男女関係、夫婦関係、現代の理想や常識に(うれしいことに)なりつつあるそういう関係を、現実の(!?)この夫婦に押しつけるわけにはいかない、私は二人のすること、感じることをそのままに書くしかないと思いました。

架空の話でさえも(だからこそ、じゃないの、と言われそうだけど、それはちがう)これだけ配慮して、鈍感になるまい、無神経になるまいと、もだえていた自分が、あの新聞記事を思うと、つくづくアホに見えてきます。

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今日のところは、もろマキシマスとスティーブの対話です。こんなものもなかなか見られないのでは…とアピールしておこう(笑)。

先日、掲示板の方で「連載という形式についてちょっと考えている」と書きましたので、それについて。

最初は私、この「グラ」小説、恐れ多くも人さまのサイトの掲示板で連載させていただいてました。更に恐ろしいことには、ほんとに連載で、毎回、下書きもせず、この小窓に直接打ち込んでいました。おまけに削除キーを知らなかったのでまちがったらそれっきり、というわけで、ストレスはものすごかったけど、それだけまあ必殺のかまえで書いてたのですね。「マルクス君の夏休み日記」ぐらいまでかな。

それから次第に下書きするようになって、またここの掲示板を使うようになって、かなり余裕も出てきました。
それでも、下書きをもとにして書き込んでいてもつい補充訂正はするので、半分やっぱりここに書き込む時に創作してたと思います。

「沼の伝説」「晩春」から(「マキシマス日和」「その一夜」はもっと前にできてたので)パソコンのファイルに入れておくようになって、書き込みはコピーするだけ、がはじまりました。
「その一夜」まではまだ書き込みの時に手直ししてたのですが、忙しくなったこともあって、今はもうファイルに入れた時をもって完成とわりきり、手直しはしないことにしています。今後またどうなるかわかりませんが。

もともと、「ノートに走り書きする」「それをレポート用紙に清書する」「それをワープロに打ち込む」「プリントしたものを掲示板に書き込む」ということをしていたので、微妙にちがった原稿が最低毎回三種類残っていました。
そのどれも捨てられず、しかし後世になって(笑)(笑)、完成原稿が失われ、不充分不満足な下書きだけが発見されて私の作品として残ったらそれはそれでハラタツよなあ、処分しちゃろかなあ、などと今もうずたかい下書き原稿見つめてはもんもんとしています。

ついでに言うと、完成近くなると、「ここまでの原稿がひょっとなくなったらもう自殺した方がまし」みたいな脅迫観念に毎回とらわれ、自分で異常と知りつつも狂ったように三つぐらいコピーを作ってしまいます。そして、「あー、一日も早く完成させないと」と半狂乱になります。この時期が他の仕事とぶつかると地獄です。しかし私の周囲の人にとってはもっと地獄かもしれないわねえ。

そのちょっと前の、使えそうな原稿がぼそぼそたまって行く時期が一番楽しいといえば楽しいのですが、これもあまり長くかかってると何のためにどんなつもりで書いたかがわからなくなって忘れてしまったりするから恐い。
今そういうのが三つほどあって、ひやひやしてます。

あ、連載の話がどっかに行ってしまったけど、これはこの次に書きますね。

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れれ、何のかの言ってたらもうあと二回ぐらいで、この小説終わりだわ。

連載のことですけど、そうやって初めの頃から今にいたるまで、皆さまが書いて下さった感想やご意見はとてもうれしかったし、勉強にもなったのです。
私は下書きを完成させてから書き込むようになって以後は、いただいた感想で直接内容を変更したということはないのですが、むしろ次の作品を書く時にすごく参考になりました。「そうか、こういう風にとられてしまうか」とか「あ、たしかにここは、わかりにくい」とか気がつくことがいっぱいありました。

これは感想ではないのですが、daifukuさんが載せて下さっている「楽園」という小説サイトの投票では、私の作品の中では「夜の歌」がダントツのトップで、どうしてこれがそんなに好評なのかはまだ謎なんですが(笑)、そういうところも予想ができないのがほんとに面白いです。

もうたとえ一言でもまったくこちらの意図とはちがった解釈でも、読者の反応はものすごく大きな影響を持つと実感しました。たとえば「平家物語」などが、語る琵琶法師とそれに反応した聞き手の合作だなということが、肌で確信できた気がします。

ただ、その間、いくつかの問題点にも気づきました。
一番実感したのは、連載といってもネットの掲示板での連載は、新聞や雑誌のそれとはまったくちがうということで、どこがかと言うと、読者の反応にこちらがチェックをかけられないのです。たとえば新聞や雑誌だったら、編集部が投書を読んで紹介するかどうかを決められる。でも、こういう掲示板の場合だと、仮に悪意ある人がすごい悪口を書き込んだ時、一定の時間人目にふれることはもう避けられない。

この掲示板でも、私が知っている他の掲示板でもそういうことは起こっていません。いつも思うのだけどインターネットの世界というのは、これだけの人が匿名で加わっているにしては実にマナーが守られていると思います。性善説に傾きたくなる(笑)。

ただ、すごく熱っぽい書き込みの場合、それに近いことを感じたことがあって、むしろ読んでおられる方がどう感じられるかが気になって、何度か「感想は書かないで」と作者にも管理人にもあるまじきお願いをしたことがありました。

これは私の作品に限ったことではないけれど、あまりに感情的な悪口に近い書き込みがあった時、ずっと後まで下手したら永遠に読む人は小説のその部分を読む時、その書き込みとその時感じた感情までよみがえらせてしまう。どう洗っても落ちないしみをべっとりつけられたようなことになってしまう。それはやはり避けたいと思いました。そのために、好意や励ましに満ちたご感想もいただけなくなるのは非常に残念なのですが、これはやむを得ないと判断しました。「前もってこちらが、いただく反応のチェックができない」という点で、新聞雑誌の連載の場合とネットのそれとはまったく似て非なるものだと、この時ほど実感したことはありません。

今はもうよかれあしかれ、その当時の熱気はありませんから、いただく感想もおだやかで、そういう心配はないのですが、このごろ気になっているのは、私の小説そのものが時間の交錯を激しく行うものが最近とみに多くなって来ていて、これは連載に向かない形式だなあと感じることが多いことです。まとめて読む方がいい、と感じておられる方が増えているような気もします。

まあこれは、連載をやめるという解決法とともに、連載に向いた形式と内容を備えた小説を書くようにする、という解決法もあるわけなので、手持ちの作品の連載が終わるまではゆっくりいろいろ考えてみたいと思っています。

いずれにしても小説は発表する環境にとことん左右されるものだ、とこれも感心して、実感しています(笑)。

(19)

この小説(晩春)の「私」の最後の妻に関する述懐「彼女は私を試す」云々は、「騒がしい朝食」の「だんなさま」が「奥さま」にとった行動について、「理解できない」と以前言われた方がいらして、むろんそれでもいいのですかど(笑)、また別の理由を考えられてもいいのですけど、一応私なりのその答えです。もちろん、別にそれとは関係なく、この小説だけで読んでいただいてもちっともかまわないのですが。

前の回で書いた「連載の危険性」について少し補充しますと、私これが個人的なメールとか日常の会話で自分の小説がおちょくられてもけなされても、それはそれで面白がって笑って楽しめると思います。だめかな?(笑)でも、少なくとも掲示板での場合ほど慎重かつ敏感にはならない気がする。

これは多分、「読んで下さっている他の読者が不愉快に、不幸にならないか」ということを気にするからだと思います。その点ではどこの掲示板でもやはりそこは「公的な」空間だと私が感じていることと関係するかもしれません。屋台でくだまきながらの話だと私も相当なことを言ってますが、やはりそれとはちがうぞ、という。

これはきっと、他の方の書かれたものを連載しているのだったら、もっとはっきりすると思うので、自分の作品だとちょっと混乱しそうになるのですが、でも、あえて言うと、書いたのは自分でも管理人として掲載するからには、それを一番いい状態で読者に読んでいただく責任があるのじゃないかなあ、という感じです。言いかえれば、発表してそれを愛して下さる方が生まれたならば、もう作者本人にもそれを傷つけたり粗末に扱う権利はないのだというような。送り出してしまったからにはもうその作品も登場人物もなかば私のものではないというような。

だから私は自分の作品に時々変によそよそしくなります。ほめていただいてもあまり喜ばなかったり、その作品についてあまりお話しなかったり。
ほんとは死ぬほどうれしいし、いつまでもお話したいのです。でも、そうすると結局私が楽しむために、あるいはその小説を介在して私が誰かと深い関係を結ぶために小説を書いているような気がして、実際いつでもそうなる可能性は高くて、それがとても恐いのです。

自分の小説を正確に批評してくれる人、信頼して全面的に意見を聞ける人がいたら最高の幸福だろうなとよく思います。それは俳優でも画家でも音楽家でも皆同じでしょう。けれど私はそういうことを一人の相手に求めるのはあまりにも過重な期待だと今は思っています。だから、いろんな方のご意見はとてもうれしいし参考になるし貴重だけれど、最終的には自分を評価できるのは自分しかいないだろうなと思っています。むろん、その結果の責任も自分がとるしかないのだと。

さて、次回はもう最終回。少し長いけれど、一気に書き込ませていただきます。

(20)

いうまでもなく、このお話、「ターニング・ラブ」って映画との合体で遊んでますから、このラストの女の子はサルマ・ハエック演じるモニカさんですね(笑)。
彼女は現在公開中の映画「フリーダ」でとてもいい演技をしてるようで、映画「デブラ・ウィンガーをさがして」でも、その生き生きした現在がうかがわれましたが、「ターニング・ラブ」のモニカもリアルで命にあふれていて大好きでした。

ここではっきり「私」は、女の子によろめいています。でもこういう人ですから、こうするのです。当然ですね(笑)。

自分でいうのも何ですが、このラストはけっこう好きです。しょうがないと言えばしょうがないですけど、それでも。

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