映画「グラディエーター」論文編汽車に乗るために-「3時10分、決断のとき」覚え書き

汽車に乗るために  ―「3時10分、決断のとき」覚え書き―

この映画を絶賛やら溺愛やらしている人はとても多いようだ。その人たちに比べると、私はきっとまだわかっていないところや、まちがっているところが多いと思う。ただ、いろんな感想や批評を見る限り、誰も書いていないようなことだけを、備忘録のように書きとめておきたい。

1 聖書を読む少年

ベン・ウェイドの母親は、彼が八歳の時、読んでいろと聖書を渡したまま、駅に彼を置き去りにした。結局汽車に乗らなかったウェイドは、何十年かが過ぎて悪名高い強盗団のボスになった彼を何が何でも汽車に乗せようとする男と旅をすることになる。
「3時10分、決断のとき」という映画をこんな風にまとめていいのかどうかわからないが、冒頭と最後に牛の群の暴走が登場するような対比を思いつく監督なら、こんなこともあるいは意識しているのではないかと、ふと思う。

幼いウェイドは言われるままに駅で母を待ちつづけ、三日かかって聖書を読んだ。今、強盗団のボスとして悪事を働き人を殺すたびに彼はその聖書を引用する。それは自分を置き去りにした母への反抗か、皮肉か。だが、数多い批評の中で私の見る限りでは誰一人そのように指摘した人がいないように、ウェイドが聖書を引用する態度には暗さも屈折もなく、どこか堂々と大まじめな敬虔ささえうかがえて、見ている者に強盗や殺人の際に聖書の章句を使うことがいかに異様で冒涜かということさえも意識させない。

もしかしたらウェイドは妙に素直で馬鹿正直なのではあるまいか。母にせよ神にせよ、幼い自分を駅に放置し苛酷な世間に投げ出した存在に対して、彼は怨みを抱くのでもなく、自分に原因があったと卑屈になるのでもなく、母なり神なりには何かきっとそうするだけの理由があったにちがいないし、聖書を読んでいればいつかその答えがわかると愚直に信じているように見えてくる。悪人と世間が決めつけている自分の人生も、それなりに真剣に考えて選びとってきたらそうなるしかなかった結果であり、そのことで自分が母や神の期待を裏切ったとも課題に答えなかったとも感じていないのではないだろうか。

偽善者と軽蔑する賞金稼ぎの老ガンマンに、母を娼婦呼ばわりされると彼は激怒し過激な攻撃で相手を葬る。ありがちのありふれた反応だから見ていて不思議には見えないが、彼の怒りは放埒な無法者が自堕落な母を侮辱されて、それが真実であるだけに激しく傷ついて怒るという類のそれとは微妙にちがうようでもある。図星をさされて怒るというより、ウェイドはそもそも自分を駅に置き去りにした母のことを親として欠陥があると考えていないのではあるまいか。自分は、母の資格のない女に虐待された被害者だと認めればそれはそれでいっそ楽だが、ウェイドはそうしていない気がする。 それはウェイドの誇りではなく、母への愛情でさえもなく、ただ聡明で強靱な彼の精神が「資料不足のまま、母に対して何らかの評価を下すべきではない」と冷静に判断しているのだろう。母を理解しようとか評価しようとか考える前に、ともかくも母や神が幼い彼に与えた試練に正しく解答しようとして一心に努力して彼は生きてきたのだろう。

実際、彼自身が指摘しているように、彼が犯す法や道徳は多くの欠点と欺瞞を有しており、古今東西の革命家や反体制側の論理を用いるなら、彼のしていることの大半は悪でも何でもありはしない。彼の行動に狂気めいた部分はなく、自分でも「手間を省きたい」と言うように、理性的で合理的だし、彼自身そのことはよく知っているだろう。ダンの息子に「絶対の悪人でなければ強盗団のリーダーになれない」と言い放つのは、相手が自分を美化しないための教育的配慮であり、むしろ彼の善なる面を証明している。

彼の善悪の基準は先住民を人間扱いするなど、当時の常識に左右されておらず、むしろ現代の私たちに近い。そのような基準に彼は敏感だし厳格だ。「何が悪で何が善かわからない」という、この映画や彼自身へ対してしばしば口にされる感想は、おそらくウェイド自身がこの世を生き抜いていく上で、誰よりも鮮烈に体験してきた実感だろう。
彼が偽善者を嫌悪し、また鋭く見破るのは、おそらくそれだけ善なるもの、正義を体現する存在を彼が探し求め、一見そのように見える相手が醜い本性を暴露することで何度も裏切られてきたからである。

母と神が、彼に与えた運命、彼に対してしたことの理由を聞くこと、その意図を理解すること、そしてまた、課題も目的も見えぬままともかくも懸命に生き抜いてきた自分を正しく評価して賞罰を与えてもらうこと、それをひたすら願い、待ちつづけていたのがウェイドの人生ではなかったか。
腹を撃たれても活躍する老ガンマン、義足で屋根から屋根へ跳躍する主人公など、殊更に非現実的な設定を織り交ぜて、この映画があくまで開拓時代の西部で語られる伝説もどきの楽しい虚構で、決してリアリズムにこだわる世界ではないことを監督は強調する。だからこれもまたやや誇張された表現であるにしても、母に言われるまま駅に座って三日も聖書を読みつづけた幼い少年の性格とはどのようなものだろう。「なぜ」「どうして」と問い返すことなく、ひたすらに我慢強く弱音を吐かずに言われたことに従い、明るく元気に馬鹿正直に艱難に耐える。ウェイドの性格の根本をなすのは、そうした要素だったのではないか。
ウェイドに限らず、程度の差こそあれ、人はみな理不尽で不合理な人生に耐える。そのことについて誰かが、まっとうに納得のゆく答えをしてくれることなど、大抵の人はいつかどこかであきらめるのだし、事実、そんな答えは決して誰からも返りはしない。 ウェイドにはそれを期待し、待ちつづける真面目さがあり、それを支える強さもあった。基本的には素直な優等生だが、頑丈で、有能で、敏捷で、狡猾でもあった。

2 もう一人の自分

ダンに会った時、これまで誰に対してもそうしたように、例によってウェイドは彼が何者なのか熱心に確かめにかかる。無口で控えめではあっても、ダンはそれほどわかりにくい相手ではない。貧困にあえぎ、家族を守るために金が喉から手が出るほどほしいことは最初から一目瞭然だし、愛する息子が真面目で冴えない父よりも危険な無法者として有名な自分の方にずっと魅力を感じており、そのことでダンがやきもきしているのも簡単にウェイドは見抜く。そんな男も、そんな家族も、これまで彼は何度か見てきているはずだ。
自分にとって障害や危険にならなければ、そんな男も家族も、強者の余裕で好もしさを感じながらウェイドは見逃す。彼らのつましい生活に羨望や嫉妬など、おそらくウェイドは感じていない。幸せな家族のもろさも危うさもウェイドはよく知っていて、幻想などは抱いてない。貧困が彼らを疲れ果てさせている中、息子はもちろんダンが生きる拠り所にしている最愛の妻さえも悪の魅力に逆らえないことを、楽々とウェイドは夕食時の会話の小手調べ感覚で確かめてしまう。人妻を誘惑したり、息子を悪の道にひきずりこんだりして、善良で平凡な家庭を崩壊させた体験など、きっとウェイドには腐るほどある。だからこそ、この家族もまたその程度のものとわかれば、あえてまたそれを崩壊させるような罪作りで大人げない真似をする気はさらさらあるまい。そんなけちな遊びをするには、既にウェイドは大物になりすぎている。

だが、すぐれた人間観察の才能を武器として生き抜いてきたウェイドは、厳しい状況の中で壊れかけている家族は平凡でも、それを死守しようとしているダンの態度には、どこか平凡ではないものを感じとる。言葉や行動以上に、たたずまいや雰囲気からそれを表現してのけたのは、ダンを演じたクリスチャン・ベールの演技力の高さだろう。
ダンのように苛酷な運命の中でもがいている男も、多分ウェイドは何人も見ている。だが、決して文句や泣き言を言わず、自分の守る生き方を貫こうとするダンの姿に、ウェイドは自分と同じように神の意図をはかりかね、ひそかに答えを求めている者の苦しみを感じとる。一見正反対のダンの中に、ウェイドはもう一人の自分を発見し、だから、羨望や嫉妬ではないが、もしかしたら自分がちがう人生を歩めばこういう家族を持っていたかもしれないし、こういう苦労をしていたかもしれないし、もっとうまくやれたかもしれないなどと、ついシミュレーションしてはダンを怒らせてしまうのだ。
多くの人が指摘するように、この映画ではウェイドは時にダンと二人で父親として彼の息子に向かい合うし、その逆にダンに自らの父親を重ねて、自分ももう一人の息子として接しているように見える時もある。
だが、あえて言うなら、それはこの映画の表向きの顔であり、おまけの副産物だろう。この映画が描く最大のテーマは、「アメリカン・ギャングスター」とも共通する、まったく異なる人生を歩いた同じ二つの魂の遭遇と衝突、融合と燃焼なのだ。

3 最後の告白

ウェイドはダンが自分と同種の人間であり、同じ戦いを戦っていると理解して行くにつれ、彼も息子も自分と離して、平和でまともな世界に戻してやりたいと願い始める。忠実な部下が護送の一行を追ってきて、自分を奪還することをウェイドは少しも疑っていない。だが、その際にダンと息子が殺されることは何とか回避したい。だからウェイドはダンに交渉をもちかけるのだが、ダンは金の提供に応じない。彼のそのかたくなさは息子の目を恐れているからだと判断したウェイドは、ことさらに卑劣で冷酷な発言と態度で息子の自分への夢を壊し、そんな自分をホテルから連れ出して護送する父親の姿もちゃんと見せてやって、ダンに協力し、父親としての顔をたててやる。
望むものはこれで皆与えたから、もう自分たち二人は別れて、それぞれの世界に戻ってもいいだろうとウェイドは考える。二度ともう会うことはなくても、自分と同じ生き方を守る男がもう一人いるとわかったのは幸運だったし、たがいの世界でまたこれまでのように自分の信ずる生き方を守りつつ、神の答えを待てばいいと思う。だから、駅の途中の小屋で、部下に「撃つな、出て行く」と声をかけ、ダンに「もう息子はいないから、ここで別れよう」と提案する。
だがダンは離れようとせず、文字通りウェイドにしがみつく。ここに至って初めてウェイドはダンに対し、いらだって激昂する。ダンがなぜ、あえて破滅にいたる絶望的な道を選ぼうとするのか、ウェイドにはもう理解できない。怒りにみちた短い殴り合いの後、力尽きたダンが、ついに最後の本音を口にする。誇りにするべきものが自分には何もない。南北戦争での名誉の負傷も味方から誤射されたものにすぎない。そんな事実を息子たちに知られて、これ以上みじめになりたくない。
サイトの批評や感想を見る限り、ほとんどすべての観客が、このダンの自分をさらけ出した捨て身の告白に涙しているし、その意気に感じて協力したウェイドに更に心をゆさぶられている。ごく少数の人が「それでは単に相手のあまりのみじめさに対する同情にすぎないのでは」といった類の違和感を抱く。実は私もその一人で、この告白の何にそれほどウェイドが心を動かされたのかが、ずっとよく理解できなかった。

この告白を聞いた直後のウェイドは、明らかに大きな衝撃をうけている。そして「わかったよ(OK,ダン)」と一言口にした後は、もうダンの望むまま、むしろ自分が先に立って、奪い返しに来た部下たちの銃弾の嵐の中を二人で駅まで突っ走る。
くりかえすが、公式にはこれは「みじめな負け犬の最後の誇りを守ろうとする姿に、ギャングのボスが共感し、その目的のために一肌脱いだ」ということになっているようで、観客はそれに大きな感動を受け、男女を問わず号泣している。
西部劇というものは日本の歌舞伎と同様に、少々納得できなくても感動した方が勝ちで、理屈にこだわると味わいそこなう。第一たしかに、この映画は観客にそう感激させるよう計算して作られてもいる。だからもう余計なことは言わない方がいいのだろうが、私のような少数の観客のために、いわば隠し味のように以下のような解釈もあり得ると指摘しておく。感動し号泣する人たちの中にも、無意識にこのような解釈を含めてうけとめている人がかなりいそうでならない。

4 男の死に場所

意地悪な見方をするなら、この映画の初めの方でダンがしきりに気にしている家族の自分への軽蔑は、妻の視線にしても息子の反抗にしても、見ていてそれほど深刻な程度のものではなく、ダンの被害妄想のように見えなくもない。しかし大方の人が自分の家族との関係を思い出して実感するように、これはやはり被害妄想ではあるまい。あからさまな攻撃や無視以上に、本人が必死に抑えてもにじみ出る不信や不満は、善良で誠実な家族にとってはむしろ一番つらいものだ。
元来実力はあり能力も高く、それに見合った高い誇りを持つダンには、家族のこの雰囲気はもはや耐えられない基準値に達している。男女を問わず家族のためにつくす立場にいる人には、この心境はおそらく痛切に理解できるはずで、それがこの映画が現代の人々に強く生々しい共感と感動を呼ぶ理由でもある。

そのような自分の体験から生まれる実感もこめて手っ取り早く結論を言ってしまうと、私は終始この映画は、家族への献身と生活の苦闘に疲れ切った男が、家庭から逃亡し、蒸発し、自殺行をする話にしか見えなかった。あらためて見直すと、この映画にそれを否定する要素は皆無である(笑)。
息子の登場はダンにとって誤算だが、彼がいなければダンが取引に応じてウェイドを見逃したとは思えない。息子がいてもいなくても、彼はウェイドを最後まで護送してウェイドの部下に殺されることをめざしたろう。現に最後の殴り合いの直前にウェイドを怒らせた状況はそうで、あの時息子はまだ来ておらず来るとわかってもいないのに、ダンは帰ろうとしなかった。自分の仕事への報酬(当初の契約のおよそ五倍の千ドル)を家族に渡し、悪徳業者たちから家族を守ることを鉄道会社に約束させ、妻子の将来の安全と幸福を保障した上でのあの行動は、多額の保険金を自分にかけて事故に見せかけて自殺する夫と同じで、妻がもし彼を深く愛していたならば、どんなに悲しみ怒るだろう。
だが、それほどに彼は疲れ果て、あの家に帰るのはいやだったのだろう。家族が嫌いなわけではない。深く愛しているからなおのこと、絶え間ない金策と不毛の労働の中で日々静かに着実にすりへって失われていく妻への愛と自分への誇りを、もうこれ以上続けて、守っていけるという自信が彼には持てなかったのだ。

たとえ無意識にであれ、彼が求めつづけたのは、冒険と華々しい死に場所だった。こんな私の解釈も、そしてもしこれが正しいとしたらそういう風に作られた映画も、西部劇としては異色でも何でもない。西部劇に限らず冒険映画や活劇のすべては、家庭から逃亡してつかの間の輝きに満ちた危険な日々に身を投じる男女の物語なのだから。
とばっちりで巻きこまれてウェイドを護送する一行に加わり、途中で撃たれて死ぬ愛すべき獣医にだって、誰か家族がいたかもしれない。だが彼はそんなことを忘れたように、敵とのかけひきや撃ち合いに夢中になり、ささやかな戦いの勝利を確認した後、少年のように満足げな笑みを浮かべて死ぬ。あれは穏やかに平凡に生きているすべての男や女が、一生ひそかに心の奥底にかくまっている夢だ。これまでの数知れぬ西部劇の名作の主人公たちにも、映画に登場しなかっただけで、きっと背後に残してきた家があり家族がいた。そこに別れを告げて孤独な冒険の旅に出発するまでの長い鬱屈した毎日があった。
ウェイドが体現する危険で荒々しい生活に憧れて惹きつけられていったのは、息子以上に父だった。最後に一瞬ウェイドに銃をつきつけたダンの息子の表情も、私には「おまえの部下が父を殺した」という怒りより、「お前が父を誘惑して危険な旅に連れ出した」という怒りに満ちているように見えてしかたがない。

5 放棄したもの

ここまではともかく、これ以下は相当に妄想の域に達するので、片目をつぶって読んでいただきたい(笑)。
ダンの生き方に、自分自身と共通する苦しみと努力を見てとり、もう一人の自分を見るように深く理解したと感じていたウェイドが、唯一どうしても理解できなかったのは、自分なら絶対にしない無謀で無駄な挑戦、生きのびようとする努力の放棄を、なぜダンがあえてするのかということだった。こんなに自分と似ている男が、こんなバカなことにこだわる理由はいったい何なのか。息子への教訓でもないとしたら、ウェイドとしてはもうお手上げで、これまできっとさんざん裏切られてきたように、この男もまた何か隠している卑劣さや醜さがあって、それを最後に見せられるのかとうんざりしかけていたはずだ。
だが、そこで聞かされたダンの告白は、ダン自身の意識とは裏腹に、決して醜く愚かなものではないし、不快感を招くものでもなかった。腐女子的に言ってしまえば、自分の美点にちっとも気づかず、何てつまらないことにこだわり、どうでもいいことを恥ずかしがっている、繊細で清らかでかわいいやつだろうと、いじらしさに息が詰まってダンを抱きしめたいというのが、心情的にはウェイドの気持ちに一番近いのではないかとさえ思う。 だが、それ以上にウェイドがあの瞬間にようやく見た真実のダンの姿、ここまで執拗に任務を果たそうとした本当の理由は、「ああ、こいつは死にたかったんだな」であり「そんなにも疲れきっていたんだな」であり、「おれを汽車にのせるっていうのは、こいつにとって、世間や家族に言い訳できる死ぬための理由としてどうしても必要だったんだな」であり、そう考えたとたんに今までわからなかったことのすべてが腑に落ち、更になだれをうつように実感したのは、「ああ、自分だってそう言えば本当はとても疲れている」であり(酒場女に逃げようと誘ったり、何だか無気力に逮捕されてしまうのもそれをうかがわせる。ウェイド自身はその時点ではまだ意識していなくても)、「誇りにするものなんか自分だって何もない」「今持っているすべてを捨てたい、何もかもから逃げたい」であり、そして、その最終地点にウェイドが見たのは「ママも疲れてたんだ、理由なんかなく、ただもう逃げてしまいたかったんだ」であり、「神だってそうなんだ、この世におこる不幸や不合理に理由なんてなく、解答も見つからないんだ」という、平凡な弱者には見出すことが簡単でも、彼やダンのような強い人間には認めて理解することがとても困難な、単純な事実だったのではないだろうか。
「神もまた、苦しみ迷い疲れ果てている」という思いは、しばしばこの世の不幸と絶望にあえぐ人々の救いともなる。ウェイドがあの場で疲労困憊したダンの姿を通して目にしたのは、自分と同様、永遠に苦しみ続ける神の姿ではなかったか。その時に、駅に置き去りにされて以来初めてウェイドは、自分が与えられた運命に対する説明を誰かに求め、理由を探すのをやめたのだ。

天才であり怪物であるウェイドの心に、その時、人間らしい弱さが宿る。あきらめと許しを知って、矛盾だらけで理不尽なこの世の中と妥協できる、それまでなかった別の強さを彼は得る。使い慣れない珍しい武器を握り、不思議な力を手にしたように、生まれたばかりの赤ん坊のように、まったく新しい世界を彼は目にし、肌で感じたことだろう。
汽車に乗ろうと駅に向かって走ることは、二人のどちらにとっても死への旅にひとしい。それでも嬉々として彼らがともに疾走し、そのことが多くの人をこれほど感動させるのは、それが彼らを束縛していたものからの解放であり、新しい何かに向けての出発であるからだ。幼い日に乗れなかった汽車に乗ることが、ユマの監獄と絞首台へと続く道であったとしても、それはウェイドにとって社会や正義と和解する新しい生き方の選択であり、母に駅に残されて以来、近づけなかったすべてのものへ、再び帰る第一歩だった。

6 ゲームの終わり

それは、一度死をくぐりぬけ、死をうけいれることによって、よみがえり再生するための、命をかけた儀式であり、ゲームだった。二人はどちらも本能的にそのことを知っていた。おそらく、駅までの死の旅をすることで、ダンは新しい力を見出し、過去の自分を葬って生まれ変わって故郷に戻れるはずだった。ウェイドもまた、法による死を受け入れるために汽車に乗るものの、脱走してそれまでにはなかった豊かさや深さを備え、今まで以上の力にあふれた男となって部下たちのもとに帰れるはずだった。それぞれの過去と現実に疲れ、自分の内なる神を失いかけていた二人は、ともに重すぎる現実から逃走し死に向かって走ることで再び若々しくよみがえり、現実を生きる力をとりもどすはずだった。
西部劇の男たちがしばしばそうであるように、二人の最後の疾走はどこか愛し合った男女の心中に似ている。しかしまた、幸せな家庭を持つ者どうしがひととき激しく愛し合って、その昂揚と情熱を力に再びたがいの家庭生活に戻ってゆく一夜もしくは数日にも似ている。あるいは親や教師に隠れた、無邪気な子どもたちの短い遊び時間にも似ている。
いずれにしても、そこには現実から逃避する甘美な陶酔があり、手に入れたばかりの力を使う危うさもあり、やむを得ないこととはいえ、その結果生まれた油断と気のゆるみが彼らの命取りになる。
うまくやったといたずらが成功した子どものように笑いあった瞬間、ウェイドの部下の銃弾がダンを倒す。死をかけながらの真剣な遊びは結局遊びでは終わらず、オリジナルの「決断の3時10分」にあったという、のどかなゲーム感覚はリメイク版でこのようなかたちで絶妙に生かされるものの、それは最後までは通用せず、ダンは故郷へ戻れない。
ウェイドが部下たちに向ける怒りは、現実に苦しめられ疲れ切った二人が、もう一度現実に向き合うために必要だった、短い現実逃避を許してくれなかった、現実そのものへの怒りである。しかもそれは自分がこれまでの年月育て上げ築き上げてきた彼自身の人生が生み出したものであったことに対する、自分自身への怒りでもある。
ダンが家族を愛していたと同様に、ウェイドも部下を愛していたろう。おそらく部下のどの一人もウェイドによって命を救われたことが一度ならずあるだろうし、彼らの命はそういう点ではウェイドに預けられていたという面があったとしても、わが手で彼らを殺すのがウェイドにとって苦痛でなかったとは思えない。だがダンが故郷に帰れなくなった時ゲームは終わり、ウェイドもまた自分が帰っていくべき場所を自らの手で閉ざすのだ。

彼が再び汽車に乗るのは、自分に拳銃をつきつけながらも父親の常の教えに従って撃とうとしなかった息子と同様、ダンに対する敬意であり、そのような自分を息子に見せることでダンへの責任も彼は果たす。だがダンがどこにも帰れなくなったように、もはやウェイドにも戻るべき住みなれた世界は存在しない。やっと見つけたおそらく唯一のもう一人の自分であるダンも失って、ウェイドは孤独に新しい未来に踏み出して行くしかない。
口笛を鳴らして愛馬を呼ぶのでもわかるように、彼が向かう新しい世界は牢獄でも絞首台でも、おとなしく法に従う人生でもないだろう。だが、これまでと同じ生き方でもないだろう。あの駅で部下たちとともに彼はかつての自分を殺した。昔ひとりで駅に置き去りにされて以来、閉ざされていた見知らぬ世界に向かって彼は旅だって行く。既成の法や道徳に支配されない、だが、それまでの自分とはちがう新しい生き方を探して、かつて母に置き去りにされた時にも似た不安とときめきを抱えながら。
これは単なる感傷だが、そのようなウェイドを乗せて彼にとっては未知の未来に向かって進む汽車をぴたりと併走して追っていく馬は、さまざまな苦しみから解き放たれ、晴れて自由になったダンの化身のようにも見えた。
(2009.10.17.)

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