守りつづけて1-守りつづけて

幼いころ、僕は森で育った。
本当は海のそばの城で王子として生まれたのに。
生まれた時に母が不吉な夢を見た。
都が炎につつまれるという。
神官たちは一時期僕を森に捨てたかたちにすれば、その災いは避けられると予言した。

森の暮らしは楽しかった。
僕が預けられた羊飼いの小屋には、王子にふさわしい美しい寝台があったが、僕はそんなものには一度も寝なかった。
逃げ出して、森の中で羊たちと眠った。
やわらかな草の上に手足をのばし、目を開けると空には満天の星。
オレンジの花の香りがただよってくる。一面にひびく虫の声がやむと、夜があけて鳥が鳴き出す。

昼は羊や犬や馬ととっくみあって遊んだ。
犬や馬はかしこくて、僕にけがをさせなかったが、怒ると羊が一番恐かった。
猛牛のように向かってくる。必死で逃げた。
草の斜面をころがりおちて、小川の中にずっぷりつかり、岩で頭を打ってけがをした。流れた血が冷たく透きとおる水がきらきら輝く中に、赤く広がってみるみる消えて行くのを、きれいだなと思って、水の中に座りこんだままながめていた。

僕がけがをしても病気になっても、羊飼いの夫婦は気にしなかった。
ありあわせの草の葉の薬をつけたり、水で冷やしてくれるだけ。その内治るさという顔をしていた。
ひょっとしたら、いや多分、僕は死んでもかまわないと言われていたのだろう。
それでも、かわいがってくれた。ミルクや蜂蜜をふんだんにくれた。僕はむくむく子熊のように太った。
何をしても叱られなかった。これといった仕事も勉強も教えられなかった。毎日が楽しく、輝いていた。太陽に照らされても雨がふっても、森はいつも美しかった。

羊飼いのところに訪れてくる猟師の一人が、小さい弓を作ってくれた。
それが大好きな遊び道具になった。僕はそれで、木の幹を射て、枝のりんごや梨を射て、リスやウサギや鳥や鹿を射た。
大きなけものは倒せなかった。鹿は尻に僕の小さな矢をつったてたまま、ばかにしたように逃げて行った。リスやウサギや鳥を持って帰ると、羊飼いの夫婦は料理して食べさせてくれた。僕は羽のむしり方や皮のはぎ方、料理のしかたも覚えた。
まだ多分、五つか六つの頃だった。

***

そんな日は突然終わった。神官たちが僕の呪いはもう消えたと判断したのか、僕は城に戻された。
母が重い病にかかり、死ぬ前に一度僕に会いたいと言ったのもあったらしい。
けれど、僕が寝台のそばに連れて行かれた時、母に意識はもうなくて、やせてやつれた青白い顔を枕の上に見ただけだった。
たくさんの人を初めて見てぼうっとしていた僕は、そのときのことをほとんど覚えていない。

母の葬儀が終わったあとで父が僕に、これからはここで暮らすのだよと告げた。
父はやさしい美しい人だった。羊飼いたちとちがった長い白い衣を着て、あまりきれいな手や肌をしているので、女の人かと最初迷った。その声にもまなざしにもうっとりして僕が見とれていると、父は少し悲しそうに笑って、僕を抱き寄せ、抱きしめた。

兄にもその時初めて会った。本当は母の死の床にも葬儀の時もいたのだろうが、僕は気がつかなかった。小柄でやせていて、僕とそんなに年がちがわなく見えるほど幼く見えたが、父と同じやさしい目をしていた。あまり元気がなく見えたのは、母の死を悲しんでいたからなのだろう。

白い建物の立ち並ぶ美しい都は高い城壁でとりまかれ、そのかなたには、ばら色の砂浜とうす紫色の海が見えた。母の葬儀のあと、初めて一人で宮殿で寝て、目がさめて、朝のテラスに出て海を見たとき驚いて、あれはいったい何だろうと僕はしばらく見つめていた。
兄が朝食に呼びにきて、僕がテラスにいるのを見ると、やってきて、手すりに並んだ。そうすると僕たちは背の高さは同じで、腕や脚は兄の方がずっと細かった。兄は僕を見、僕の視線の先を追って、「海だよ」とひとり言のように言った。
僕はうなずき「ぶどうみたいな色だ」とつぶやいた。
兄はちょっと驚いたように、もう一度海を見てから「うん」とうなずいた。「朝だから。もうちょっとしたら、こんな色になる」
そして自分の着ている藍色の服の袖をひっぱってみせた。

***

僕は森がなつかしかったけれど、宮殿はどこもきれいで、珍しいものやおいしいものや面白いものばかりで、誰もがやさしく、毎日楽しいことばかりだったから、それほど淋しくはなかった。父はいつも僕をそばに呼んで抱きしめてくれ、大きな馬に乗せて、都の中や、城壁の回りを歩いてくれた。海にもつれて行ってくれた。
近くで見ると、海は何色でもなかった。ただ透きとおって、大きかった。白くあわ立つ波が寄せてくるのを僕は息をのんで見つめ、父の胸にかじりついた。父は笑って僕を海へと押しやって、そのくせ波に慣れた僕が少し沖の方へ行こうとすると、あわててかけよってきて、衣を腰までぬらしながら僕を抱き上げ、そんなに深いところに行ってはいけないと、笑いながらも真剣にくり返した。

宮殿が広いせいもあるけれど、兄にはあまり会わなかった。兄は無口でおとなしかった。会うといつもほほえみかけてくれ、近くに来ると手をのばして、髪をくしゃくしゃにして頭をなでてくれたが、ほとんど話をしなかった。身体が弱いのか、いつも少し疲れているように、屋上庭園のベンチにぼんやり座って空を見上げていたり、テラスの手すりにもたれて町をながめていたりした。
父は僕と歩いていて、そんな兄を見つけると、唇に指をあてて僕に静かにするように言っていてから、そっとしのび足で近づいて行って、いきなり兄を抱き上げたり、荒っぽくくすぐったり、目かくししたりした。そんな時でも兄は悲鳴は上げなかったが、ばたばたもがきながら、それはうれしそうに声をたてて笑い、父にしがみついていた。父は兄の髪をなで、口づけし、兄は父の腕の中であばれるだけあばれたあと、幸せそうにぐったり目を閉じて、父の首に細い両腕を回してまきつけ、大きな肩に顔を伏せてしまう。そんな兄を片手で抱き、片手で僕の手をひいて、父は宮殿の階段をゆっくり上って行くのだった。

僕は兄を笑わせたかった。兄の笑顔や笑い声はきれいだった。父のまねをして、兄が寝台の上に寝そべってぼんやり考えごとをしている時に、いきなり飛びかかって組みついたりもよくした。兄は笑うよりびっくりして怒って、僕をはねのけようとしたが、僕の方が重いので、なかなか押しのけられなかった。すると兄はため息をついて目を閉じて身体の力を抜き、僕に言わせると「死んだふり」をした。僕がしつこく、耳をひっぱったり鼻をつまんだりしても強情に目を閉じていたが、時々本当に怒って、渾身の力で僕をはねのけ、逆に組み伏せ返してきた。そして、子どもながらすごみのきいた声で「いいかげんにしろよな」と言うのだった。僕はそんな兄の声も好きだった。今度は僕が目を閉じて、観念したような顔で、じっと兄のその怒ってかすれた声と荒い息づかいを聞いているのが好きだった。

***

怒っても笑っても、ふざけていても、兄はどこか羽目をはずさなかった。羽目のはずし方がわからない感じだった。だらしなくしていても、結局は行儀がいい。それで僕が何気なくすることに、いつもびっくりして目を見張っていた。
宮殿に来て間もないころ、つるつるの大理石の床が涼しくて気持ちがいいので、直接そこに寝たことがある。何日かそうした後で、朝、僕のへやに入ってきた兄はそれを見て、「何をしてるんだ?」と本当に仰天した声をあげた。
「だって気持ちいいから」と僕が寝ころんだまま下から言うと、兄は「でもそこ床だぞ」と泣きそうな声で言った。「人が歩くところ…」
そのくせ僕が気持ちいいよと、ごろごろしてみせると、兄はこわごわ僕のそばにひざまずき、入口の方を気にしながら、結局そろそろと僕のそばに腹ばいになった。「ね、気持ちいいでしょ?」と僕が首をのばして念を押すと、何だか情けなさそうな泣き笑いの顔で目を閉じて、「うん」と小さな声で言いながら、手足をいっぱいにのばしていた。
「森じゃいつも、草の上に寝てたんだ」僕は言った。「上を見たら星がいっぱいでさ」
「虫とかに刺されない?」兄が聞いた。
「そりゃ少しは刺されるけど」僕は言った。「虫のきらいな草があって、それをちぎって手足にすりこんでおくといいんだよ」
「いろんなことを知ってるんだなあ」兄は感心したように言った。それから少し黙っていてから、「ここ、つまらなくないか?」と気がかりそうに聞いた。
「ここって?」
「この宮殿。都も」
「何で?」僕は目を丸くした。「すっごく、面白いよ、ここ!」
兄は安心したように笑った。「ならいいけど。退屈してないかと思って」
「するわけないよ!」
「ならいいけど」兄はふしぎそうに僕を見ていた。それから思いきったように、「僕にも?」と聞いた。
「え?」
「僕ってあんまり…」兄はためらった。「面白くないだろ?」
「何で?」僕はまたまたびっくりした。「兄上ってすごく面白いよ!」
兄は困ったように笑った。「ふうん」
「兄上が一番面白いよ」僕は思ったままを言った。「最高だよ」
兄は小さく声をたてて笑った。安心したように、あきらめたように。

大人になって時々、子どものころのことを話すと、唖然とするほど、僕と兄の話はくいちがう。
僕の覚えていることを兄は思い出せない。兄が覚えていることを僕は忘れている。同じ子ども時代かとときどき疑いたくなるほどだ。
だが、この時の会話は兄は覚えていた。ちょっとはにかんだように笑って、「そういうこともたしか言ったな」と認めた。
「自分は面白くないだろう、って聞いたんだよ?」
「言ったな、たしかに」兄はうなずいた。「多分、おまえが来てからというもの、侍女たちがしょっちゅう言ってたからだ。おまえのことが面白い、面白いって、ひまさえあれば笑ってた」
「そうなんだ?」
「だから、ああ、それじゃきっと私はおまえを退屈させてるんだろうなあと思ったんじゃないかな、そんなところだろうよ」

***

もう一つ、兄と僕どちらもが覚えているのは、宮殿の神像のことだ。
僕たちの住む大きな建物の一角には神殿があって、御前会議やいろんな儀式もそこで催されていた。へやの周囲には巨大な神々の像が男女合わせて十いくつも並んでいた。父や兄は神官たちとおごそかにそれに祈りを捧げ、僕にもひざまずき方や祈り方を教えてくれた。
ところが、そんなことはわかっていると誰もが思っていたのか、その神像の神々の名前を誰も教えてくれなかった。それでも供物を捧げる順序とかをまちがえてはいけないので、僕は勝手に自分でそれぞれの像に、ひげがあるから山羊のおじさんとか、顔が四角だからかにのおばさんとか、輪っかのようなのを胴にいっぱいはめてるからみみずさんとか、牛の糞に似た髪型だから牛さんとか、蜂にさされたように片手で顔を押さえているから蜂さんとか、適当に名をつけて覚えていた。

むろん誰にも言いはしなかったけれど、ある時うっかり兄に何か言われて、ああ蜂さんのところに置くんだねとか答えてしまった。兄はおっとりのんびりしているようで、こういうことは聞きのがさない。ん?それ何?と聞き返し、僕がしまったと口に手をあてると、これもいつものことですぐに何かあると気づき、ものすごく上手にしんぼう強く、あの手この手で聞き出しにかかった。
結局僕は言わされてしまったが、山羊だのみみずだのという名前を神像につけていたと聞いた時には兄は目をまん丸くして口をぽかんとあけてしまい、本当に衝撃をかくそうともせず呆然と、「あれはね、アルテミスだよ」「だってあれ、アテネ…」とか弱々しくつぶやいていた。僕はその兄の反応からも大変なことをしたらしいとしょげて黙りこんだが、兄は少し立ち直ると、「どうして牛さんなの?」「何でかにさんなわけ?」と、僕がそんな名をつけた理由をいちいち聞きたがりはじめた。

その頃には僕はもう、何かすごくとんでもないことをしていたのに気づいていたから、言うのをしぶった。だが兄はまじめなくせに、いや、まじめだからなのかもしれないが、こういう、自分では見当もつかないばかなことを、すごく知りたくなるらしくて、なかなかあきらめようとしなかった。僕は怒られるとかはそんなに思わなかったけど、笑われそうで恥ずかしくて黙っていた。
兄は最初のうちは「怒らないから聞かせて」と猫なで声を出していたが、僕がいつまでも言わずにいると、とうとう「お願いだから教えて」と言い出した。本当に聞きたくてたまらないらしくて、目が切なくうるんできらきら輝いていた。僕が根負けしてしぶしぶ教えてやると、兄は「ふうん」「はああ」と、いちいちあいづちをうちながら聞いていて、笑いをこらえようとして身体を小刻みに震わせ、こぶしをぎゅっと握っていた。

「それで全部?」「もうない?」と何度も確認してから兄は大きくため息をついた。全部聞き出したとわかってから大笑いするつもりだったらしいのだが、もはや、その力さえもなくなったみたいに。そして誰かに話したくてうずうずしているのが一目でわかったから僕は心配になって注意した。「父上に言っちゃだめだよ」
「言うもんか、ばかだな」兄は言った。「きっと卒倒しちゃう」そしてつくづく僕を見て、「おまえってすごいなあ」とまた吐息をついた。「どうしてそういうこと思いつけるんだ?」
それからしばらくというもの、僕たち二人は食事の時や儀式の時など、一方がもう一人の耳にこっそり、「山羊」とか「牛」とかひと言だけ言っては二人でぶるぶる笑いをこらえる、という変な遊びをくり返していた。大人になってからも、会議の後などにむずかしい顔で何か考えこんでいる兄のそばに行って、鎧の肩に手をかけて耳もとで「かに」と小さくささやくと、兄はくすっと肩を動かして笑っていた。

***

僕がこの宮殿に来て一年ほどすぎた頃、従妹の一人が両親を疫病で亡くして、宮殿にひきとられてきて、僕たちといっしょに暮らすことになった。
他にも従兄弟や従姉妹は何人かいたが、それぞれの館で暮らしていて、めったに会うことはなかったし、皆、何だか退屈でつまらなかった。
兄にそう言うと、ふしぎそうな顔をした。
皆、きれいでやさしい子どもたちだった。素直で、それぞれの親が作ってくれたきれいなおもちゃや人形を大切そうに持ってきて、おとなしく遊んでは、夕方になると、「ああ、面白かった」と本当に楽しそうに言っては帰って行く。
僕は退屈で死にそうだった。

そういう子どもたちの持っているおもちゃや人形を見ると、僕は、こわしたり汚したり、地面に埋めたり水につけたり、ばらばらにしたりしてみたくてたまらなくなるのだった。きれいなものほど。面白そうなものほど。
何度か実際にそうしてしまった。
でも、育ちのいい彼らは、僕が人形の頭をもぎったり、馬の足をはずしたりしても、何が起こったのかわからないように、びっくりして僕を見つめるだけで、泣きも怒りもしなかった。
何人かは、訴えるように、僕じゃなくて、兄を見た。そして兄がものすごく困ったように目であやまると、それきり何も言わずにあきらめた。

兄がそうやって彼らの中で、何だかけたちがいに大切にされているらしいのは、僕にはわりとすぐのみこめたけど、それが王家の第一王子という地位のせいか、兄その人のせいか、その両方か、それはよくわからなかった。
兄はそのことで、あとで僕を叱るのでもなく、何か言いきかせるでもなかった。
ただ僕が彼らが退屈だと言うと、なぜだろうというように僕をじっと見た。本当にふしぎそうに。
そして、しばらくしてから、かすかに笑って「そうかもな」と言った。

***

ひきとられてきた従妹は、その子どもたちの中にいたのだろうが、僕は覚えていなかった。
黒い髪と黒い目は僕や兄と同じだったが、気のせいか、僕らより髪も目も黒く見えた。多すぎてまとまらない髪をむりやりにきゅっとしばって編んで、何だか怒ったような顔で侍女に手をひかれてやってきた。
仲よくしようと思って、とんで行って抱きしめてキスしたら思いっきりけとばされた。僕は床の上にころがって、かけよった兄に抱きおこされた。
「さあ、仲よくするのだよ」と見ていた父が笑って言った。
無理な話だ、と思って兄を見上げると、兄は僕以上に怒った顔で従妹を見上げていたし、従妹もにらみ返していた。
僕たちの初対面は、そんな風でさんざんだった。

三人で遊ぶようにと、へやに残されたあとでも、兄と彼女が何となくにらみあっているので、僕は何とかしなきゃと思って従妹に「何して遊ぶ?」と聞いた。
彼女は僕をにらみ返し、ついでに兄もにらんだ。でも兄のことを気にしているようだった。兄は知らん顔で外を見ていた。
「僕のこと知ってる?」と聞いてみた。
「前に会ったわ」彼女はつっかかるように言った。「私のお船をこわしたでしょ」
「あの黄色い船?」
「ほら、覚えてるのに」彼女はますます不機嫌になった。
その船のおもちゃは覚えていたけれど、持ち主は覚えていなかった。
「あの船どうしたの?」僕は聞いてみた。「持ってこなかったの?」
「お父さまといっしょに焼いたわ。お父さまがちゃんと直して下さったから。あの船に乗っていつか迎えに来て下さいってお願いしたから」そう言って彼女は涙をぽろぽろこぼして泣き出した。
抱いてなぐさめたかったけど、またけっとばされそうで僕が黙って見ていると、兄がごろんとあおむけに寝ころがって手をのばし、へやのすみの棚においてあったまりを取って、僕の方にころがしてよこした。
僕はそれを彼女の方にころがした。
「何よ」と言いながら彼女はそれを僕の方に足でけり返した。
僕は途中でそれを兄の方にけった。兄はそれを彼女の方に。彼女は兄にけり返した。
兄はそれを足でとめ、僕と彼女のどっちにころがそうかと、僕たち二人を見比べた。
僕と彼女が思わず身構えていると、まりは彼女の方にころげた。
彼女は兄にけり返すと見せて、いきなり僕の方にけってよこした。僕がきわどく防いで戻したまりは、はずれてあらぬ方向に飛び、テラスの方へ行きかけたのを、兄が身体を投げ出してとめた。

重臣たちとの会議が終わって父が戻ってきた時、僕たちは三人とも、折り重なるようにして床の上に眠りこけていて、父は一瞬、誰かにまとめて毒殺されたかとぎょっとしたそうだ。そばにころがっていたまりをひろい上げて、とりあえず兄の頭に手をあてると、汗ばんだ額のまま、寝顔がにっこりほほえんだ。ほっとした父が僕と従妹を抱きおこすと、二人は何か口の中で言いながら両方から父にかじりついた。おつきの者を呼んで、それぞれを寝床に運ばせながら父は、これからは両の腕では足りなくなるなと、とっさに思ったそうである。

***

僕と兄は従妹が来る少し前から、父や将軍や神官や学者たちに、武芸や学問を少しづつ習っていた。彼女もそれに加わった。他に女のする仕事…糸つむぎとか機織りとかも女官たちから習わなくてはならなかったから大変だったはずなのに、彼女は音を上げなかった。
父や教師たちがそれを許したのは、怠けたがりの僕と、のんびり屋の兄が、彼女がいると負けたくないという気持ちから、めざましく勉強に励むのに、きっと気づいたからだろう。「これはまた」と彼らはことさら眉を上げて彼女の答えに大げさに感心してみせた。「すばらしい!」そして、僕らの方をふり返り、「さて、それで王子さま方?」と言うのだった。「どんなお答えで、あっと言わせて下さいますかな?」

ほめて、おだてて育てるのと、いじめて、きびしく育てるのと、どちらでがんばる気になるかは人によってちがうと思う。僕と従妹は前者で、兄は後者だった。ほめられて、彼女は有頂天になり、演技ではなく本心から教師たちが舌をまくほど何でもみごとに上達した…何と武芸まで。剣をとっても三度に二度は僕たちを負かした。計算でも、語学でも、地理でも、その他の何でも。
兄はそれをくやしがる様子は見せなかった。あまり平気そうにしているので、僕には兄が平気じゃないことがわかった。兄はどうかするととても意地っぱりで負けずぎらいだ。のんびりしているくせに、変なところにすごくこだわる。

兄は頭はよかったし、すばしこくて勘もよかった。けれど、その頃から少しづつ身体の大きさは僕を追い抜きはじめてたけれど、年のわりには小柄でその分力もなかったし、宮殿で大切に育てられてきた人だから、僕のように長いこと走ったり泳いだり、木から木へ飛び移ったりしてたわけじゃなく、弓でも剣でも、僕の方がずっとすぐれていた。
兄は僕や従妹に嫉妬する風はなかった。それは隠してるのじゃなくて、本心からそうだった。というよりか、女もまじった三人の中で二人にできることが自分にできないのだから、二人が普通で自分がすごく劣ってるんだと思っていたのかもしれない。死に物狂いで努力しているのがよくわかったし、それでも思うように勝てなかったり、答えが見つからなかったりすると、僕たちにどうこうじゃなくてそういう自分自身に対して本当にくやしそうで、情けなさそうだった。何べんも何べんも的に向かって槍を投げてみたり、夜遅くまで計算をしなおしたりしては、「どうしてできないんだろう!」とため息をついて頭をかかえていた。

僕の方は、とにかく弓だけは誰にも負けないって自信があったし、第一、父や教師たちが従妹を持ち上げては僕たちにがんばらせようとするテクニックを早い段階で何だかさっさと見抜いてしまって、なあんだと馬鹿にしていた。いやな子どもだったけど、それだけ大人たちのすることが見えすいていたのである。あんなのに気がつかないなんて本当に兄ぐらいのものだったろう。
大人になってから老臣たちがしてきかせる思い出話の中で兄がことさらいやがっていたのは、「嘘をついたら額に『うそ』という文字が浮き上がって見えます」と父と母から言ってきかされていた兄が幼い時いつも、ちょっとでも嘘をつくときは額を小さい手のひらで一生けんめい押さえてかくして話すので、一目で嘘とばればれだった、という話で、あまりにも充分すぎるくらい思いうかべられるだけに、かわいそうなのかかわいいのか、聞くたびに僕も顔が笑ってしまうのをどうすることもできなかった。そんな兄だから、気づかないでもふしぎはないが、僕はもう馬鹿馬鹿しくって、神妙にうなだれて聞いてはいても、従妹とはりあう気になんかなれなかった。だからすべてを適当にやってごまかしていた。早い話が怠けまくっていた。

で、気がついたらみごとに僕だけ落ちこぼれてたみたい。
でも、そんな僕を、誰も責めなかった。
僕が「わからない」と言ってにっこり笑い、「できません」と言ってしょげて目を伏せると、父も教師たちも、ため息をついて「そうかねえ」「困りましたなあ」と首をふりながら結局答えを教えてくれた。従妹に負けちゃった、と言って木剣で打たれた痕のふくらはぎの青あざを見せると侍女たちは笑ってそれに口づけし、よろしいですとも強くなんかなくても私たちが守ってさしあげますと、口々に約束した。
ある程度、父は見ぬいていたらしい。「おまえは、やればできるんだがねえ」と首をふりふり、よく言った。「どうも欲がなさすぎるなあ」
あんまりいつもそう言われるので、僕もそう思うようになった。そうそう僕ってやればできるんだって。兄だって従妹だって、その気になって本気出したらすぐに追いこせるんだって。
そうかもしれないし、そうでなかったかもしれない。自分の本当の実力なんて、今だって僕にはよくわからない。心のどこかで、その気になれば僕は兄以上に勇敢な戦士に、有能な指揮官に、冷徹な政治家に、老獪な君主になれるだろうって自信がある。でも、なりたくない。なる必要もない。兄という人がいる以上。兄がそれをやってる以上。
いざとなれば僕は兄のかわりができる。いくらでも、いつでも。
でも兄には絶対に、僕のかわりはできないと思う。僕のようには生きられないと思う。
だから僕が兄のようになっちゃいけない。兄以上にうまくできることを僕がやっちゃいけない。兄のすることがなくなる。兄は生きていけなくなる。
こんなことを言ったら、この国の者は一人のこらず笑い出し、そのあとで僕をしめ殺すかもしれないけど。
僕のただの負けおしみ、まったくの思いこみかもしれないのだけれど。

***

そんな風にして時は流れ、僕も兄も、子どもから少年になった。
子ぐまのようにころころ太っていた僕は手足が伸びて、ほっそりしてきた。もともと骨格がしっかりしていた兄は、その僕以上に手足が伸びてたくましくなり、落ち着いたまじめな表情がとても大人びて見えていた。
従妹もふっくらきれいになった。僕は十二、三歳の頃から、もう宮殿の侍女たちと、いつそうなったか自分でもはっきり思い出せないぐらい、それがどういうことなのかもよくわからないままで、抱き合って交わって一夜をともにするようになっていて、町の娘たちともそういうつきあいを広げて行っていた。
僕は本当にそれがどういうことなのかわかっていなかったので、人前で平気で父に、この前あの侍女とこういうことしてああいうことしてと細かにしゃべり、父がまた面白がって、ほうほうそれでといつまでもしゃべらせ、見かねた兄がとうとうつっついてとめるなどという状態だった。あとで、何でしゃべっちゃいけないのと兄に聞くと、兄は何でもそういうことは人前で言っちゃだめ!と真剣に僕をにらみ、兄上はしゃべらないの?と聞くと、そんなことしたこともない!と、きっぱり言い切られてしまったものだ。
でもなぜか、従妹のことはまったくそういう対象として見なかった。手を出したって、きっとひっぱたかれておしまいだっただろうけれど。

その頃起こったある戦いに、父は初めて兄を連れて行った。
勝つとわかっている戦いだったせいもあって、都に悲壮な雰囲気はなく、お祭り騒ぎの中を兄たちは送り出されて行った。
そしてその通り大勝利をおさめ、敵の捕虜やたくさんの分捕り品を山のように、それも奪った馬に積んで堂々と軍勢は引き上げてきた。
先頭に父と兄が並んで馬に乗って、人々の歓呼をあびていた。
出発してからほんの十数日しかたっていないのに、そうやって父の隣りで落ち着いてほほえみながら手を上げて皆にこたえている兄は、父に比べるとひと回り小さい少年なのに、気高いほどの威厳と気品にあふれていて、ちがった人を見るようだった。僕と従妹はテラスからテラスへとかけ回って、兄の姿を見つけては、聞こえるかどうかもかまわず、せいいっぱいに兄の名を呼んだ。

祝宴は夜遅くまでつづいた。兄は人々にとりかこまれて、次々に杯に酒を注がれていた。兄は落ち着いてそれを飲みほし、ほほえんで皆の言葉に答えていた。
鎧の細かい一片一片が炎の光にきらきらしていた。兄がそんなに背が高くたくましくなっていたことに僕はそれまで気づいてなかった。少し淋しいような、でも誇らしくてうれしくて、従妹と顔を見合わせながら僕は宴会の人の渦の中をうろうろしていた。僕たちは広間のはしの暗がりの方にいたので、兄には僕たちのことが見えなかったようだった。
いくさの手柄話があちこちで声高に交わされていた。兄が初陣とは思えないほど落ち着いて冷静に戦ったこと、立派な敵の戦士をみごとに一人で倒したことを指揮官たちは興奮して語りあっていた。父もうれしそうにその話の輪に入っては、兄をさしまねいて抱き寄せていた。そうされて父を見上げる兄の顔も、父の子どもというよりは尊敬する上官を見上げる部下のような、うやうやしさとつつましさにあふれていた。
「これじゃ話は聞けないわね」従妹はあきらめたように言った。「私、もう寝に行かなきゃ」
「いいことがある」僕は言った。「僕が兄上のへやで待ってて、話を聞いてきて明日話してあげる」
「明日になったら、直接聞くわ」彼女は言い返した。
「わからないよ。この分じゃ明日だってきっと皆にひっぱりだこだ」
結局彼女も僕の言うことに賛成して、僕たちはまだまだ大盛況で、大きな声をはりあげるか相手の耳もとでしゃべらないと言ってることが聞きとれないほどの叫び声や笑い声が入り乱れる中から、二人でそっと脱け出した。

従妹をへやに送ってから僕は兄のへやに行った。
兄の飼っていた白い犬が腹ばいになっていた顔をあげたが、留守の間世話をしていた僕と気づいて、しっぽを振りながらまた顔を前足の上にのせた。
へやの中は静かだった。月の光が流れこんでいた。
中庭や回廊や広間の方で、まだにぎやかな歓声や歌声がしている。
犬の頭をなでながら待っていると、静かな足音がして兄が戻ってきた。
鎧を着たままで、持っていた剣をへやのすみにおくと、走りよってきた犬を身体をかがめて抱き、ほおずりしながら僕の方を見て笑った。
「早かったんだね」僕は兄のそばに行って、床にひざをつきながら言った。「もっとずっと待たなくっちゃと思ってたよ」
「もう、僕がいてもいなくても誰もわかりゃしないよ」兄は笑った。「大騒ぎになっちゃってるから。グラウコス将軍は噴水に飛び込むしさ」
そういう兄にも酒の香りがした。僕は顔をくっつけて匂いをかいだ。
「ずいぶん飲んだ?」
兄はふざけて口を開け、僕に軽く息を吐きかけた。僕は顔をそむけて「ねえ」と言った。「いくさの話をきかせてよ」
「忘れちゃった」兄は眠そうに言った。変に子どもっぽい声だった。

僕は兄の腕をつかんでゆすぶった。「そんなのだめだよ。すごい活躍したんでしょ?」
「そんなの全部嘘だって」兄は半分目を閉じて、ちょっともつれた口調で言った。酒の酔いが回ってきているのかもしれない。
犬を押しのけて、僕は兄の両腕をつかんで軽くゆさぶった。「敵の勇士を倒したんだろ?どんなやつ?どんな風に攻撃したの?最初は槍?弓で射たの?」
突然、火のような熱さが顔に走った。兄の手が僕のほおを打つ音を聞いたはずだが記憶にない。ふりはなされて、つきとばされて、僕は寝台にぶつかった。犬が驚いて飛んで逃げた。
僕はしばらくぼんやりしていた。何があったのかまったくわからないでいた。兄に打たれたことはそれまで一度もなかった。この宮殿に来て誰かにそんなことをされたことも。人であれ動物であれ、兄がそんなことをしたのも見たことがなかった。
まだ何があったのかよくわからないまま、座り込んで投げ出していた足を曲げて立てた時、兄は我にかえったように僕を見て立ち上がり、よろめくように身を投げるように、僕の前に来て膝をついた。「ごめん」と僕をひきよせて震える指でほおにふれながら、兄は動転しきったかすれた声でつぶやいた。「悪かった。ごめん」
僕は黙ってうなずいたが、どういうことかまだ全然わかっていなかった。
兄は心配そうによりそってきた犬の頭を、いつものようにやさしくなでると、僕を引き上げ、寝台に座らせ、自分もその隣りに座った。「大丈夫か?」
僕はぼんやりまたうなずいた。
「ごめん」兄はまた言った。言いながら顔をそむけた。僕は突然気がついた。そして思わず言っていた。
「さっき、宴会の時、僕らがいるの知ってた?」
兄は僕を見ないままうなずいた。
「僕たちがいるの見えてた?」
兄はまたうなずいた。
じゃ、見ないふりしてたんだと僕は思った。

兄は僕の方に向き直った。鎧が小さく音をたてた。僕は兄を見返した。どこかが何かがちがっているような気もしたが、それでもやはり、いつものやさしい兄の目だった。
「あんなもの」兄ははっきり低い声で言った。「あんなところ、おまえは絶対行っちゃいけない」
僕は唇をとがらせた気がする。「でも兄上は行くんだろ?」と何を言いたいのかよくわからないまま僕は言った。
兄は僕を抱きしめた。苦しくなるほど強く。鎧を通してもその胸が大きく激しく不規則に上下しているのがわかり、胸の鼓動が伝わってくるようだった。
兄の全身が細かく震えているのがわかった。熱にうかされているようにうわずった声で「僕は行く。行かなくちゃいけないから」と兄は言った。「でも、おまえは行くな。絶対に行っちゃいけない」
兄は僕の耳もとでささやいていたと思うのだが、まるで絶叫しているように聞こえた。僕のほおによせられた兄のほおも耳も燃えるように熱かった。僕を抱きしめているというより、助けを求めてすがりついているようだった。「あんなところ」と言ったその声も何かを必死で訴えている幼い子どものようだった。「行かないでくれ。おまえだけは。お願いだから、行かないで」
どんなところ、と聞き返せなかった。何を見たの、とも言えなかった。僕はただ黙って兄を力いっぱい抱きしめただけだった。腕が疲れてしまうぐらいに、いつまでも、ずっと。
気がつくと兄は僕にそうやって身体を預けたまま、口を小さく開いて眠っていた。苦しそうな短い呼吸で、ずいぶん酔ってたのかもしれないとあらためて思った。兄を寝台の上に倒して、僕ははずしかたのよくわからない鎧や手甲や脛当てを長いことかかって苦労して兄の身体からはずした。それをへやのすみに運んできちんと置いて並べながら、泣きたいのに泣けなかった。途方にくれたように見上げている犬の前にひざをついて顔をよせた時、犬がまぶたをなめてくれて初めて涙を流してたことに自分で気がついた。

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カツジ猫