映画「トロイ」船はもう着いているのに

― 船はもう着いているのに ―

霧の中、私は丘に登った。
息子が、若い従弟とよく遊んでいた場所だ。
二人が戦いに出かけた頃に咲いていた夏の花々はもう終わりかけていたが、それでもなお、甘い香りがただよっていた。
その花々も草の葉も、しっとりと霧にぬれていた。

ここからは、海が沖まで一望のもとに見渡せる。
だが、今はすべてが霧につつまれていた。
身体をかがめ、花の一つをつむ。柔かい茎がぽきりと折れて、花は私の手の中で甘えるようにうなだれる。

息子を愛した。こよなく愛した。
けれど、戦いに行くと決めた彼をひきとめはしなかった。

ふと、霧の中、目の前の入り江の上に大きな影が浮かび上がる。音もなく近づいてきていた船が、もうすぐそばまで迫っている。それでも、その影はなおも霧の中に霞み、甲板で呼び交わす男たちの声さえも、どこか遠い。
静かに近づきつづける船の大きく張られた黒い帆に見覚えがある。私は息をのんで立ちつくす。
息子の船だ。
戻ってきたのだ。
けれども、と霧の中に私は目をこらす。彼が乗っているとは限らない。

もう、櫓が水をわける音が聞こえる。そして思いがけないほどはっきりとした声が甲板でする。
「何も見えないな。一面の霧だ」
あれは彼が連れて行った若い従弟の声ではないか?続いて知らない声がする。若々しいが、落ち着いた声。
「でも今、そこに木々の影が見えなかったか?」
「残念だ。おまえに見せたかったのに。このちょうど前に美しい丘があってな」
甘美な音楽のように、その声を目を閉じて私は聞く。息子の声だ。忘れもしない。どこにいても聞きまちがえることなどはない。

「小舟を下ろせ」息子の声が命令している。「おまえたちは、後で来い。おれの館で会うことにしよう」
勢いよく答えて笑う声が重なる。それらの声にも聞き覚えがある。息子の部下たちだ。
私はそっと息を吸い、そして吐く。霧の中、丘の小道を下り始める。思わず足が速足になる。
息子が帰ってきた。息子が戻ってきた。

霧にぬれて、船着場に立つ。まもなく小舟が漕ぎ寄せてくる。息子が一番前に座って、数人の男が舟をこいでいる。
「母上」と彼が腰を浮かせながら言う。抑えた声で、でもうれしそうに。
「あなたが帰るのを知っていたわ」私は言う。「だから、ここで待っていた」
息子は笑う。船着場に軽やかにとび上がって、うやうやしく静かに彼は私を抱きしめる。そして身体を開いて、後ろから上がってきた二人の男に私を見せる。二人にも私に見せる。どことなく、少し得意そうに。
「彼も無事だ」と従弟の方に手をさしのべて息子は言う。
息子と同じ金髪の、彼より少しきゃしゃな若者は、飛びつくように私の手をとる。出発した時より陽に焼けて、顔もいくぶん大人びている。
「叔母さま」と彼は言う。「僕は結局最後まで戦わせてもらえなかった」
息子は腕を組んで笑う。「戦わせてもよかったが、その前に和平がまとまった」

「よかったこと」と私はつぶやく。息子はもう一人の、私の知らない背の高い若者の方に目をやる。「母だ」と彼は微笑んで言う。
若者は一礼する。息子と同じか、やや年上かの年令で、息子とよく似たたくましくひきしまった身体だが、髪も目も黒い。
「敵の王子だ」息子は言ってから頭をかく。「もう敵じゃないけど」
私はその若者を見つめる。年の割には落ち着いた威厳と気品をたたえながらも、私を見つめる目にかすかな淋しさがあるのを見て、早く母を亡くしたのではないかとふと思う。「よく、ここへ」と私は手をさしのべる。
「私こそ」彼は礼儀正しく言う。「お招きいただいて光栄です」
「和平の話し合いの時にはすっかり世話になった」息子は、ちょっとえらそうに言う。「彼は仕事をしすぎるんだ。息抜きが必要だと思ったから、連れてきた」
小舟から上がった彼の部下たちは、荷物をかついで丘を上がって行って、その姿は霧の中に消えた。「とりあえず」と私は言った。「私の屋敷で、くつろぎなさい。ここにいては、霧でぬれてしまうわ」
「牛乳とパンがほしい」従弟がはずんだ声で言う。
「ありますとも。蜂蜜と果物、それにワインも」
「ああ、まるで」従弟は大きくのびをして言う。「ずっとここにいたみたいだね。出かけていたのが、嘘みたい」
息子は手で従弟の長いまっすぐな金髪をかきみだす。「帰れなかったやつもいる」と、彼は部下たちの去った方を見てつぶやく。「遠い浜辺で、死んで、焼かれた」
私はうなずく。「行きましょう。霧はまだ晴れないから」

三人に囲まれるようにして、丘を登って行く間に、霧は次第に晴れて行く。私の心にゆっくりと喜びがこみあげて、あふれる。
「お父さまを知っていますよ」息子と従弟がふざけながら少し先を行くので、私は私の少し後をついてきていた王子に話しかける。
ひかえめに、人なつこげに彼はうなずく。「父もあなたを存じ上げていると申しておりました」
「息子とは、戦場で会ったの?」
彼は少し困ったように目を笑わせる。聞いていたのか息子が戻ってきて、私に向かって「彼の国の浜に上陸して、神殿を占領した時」と楽しそうに説明する。「でも、その時は戦わなかった」
私が問いかけるように向けた目に、王子の方がほほえみかえした。
「彼はきっと」と王子は言う。「楽しみを先にとっておきたかったのでしょう」
「雑魚をいっぱいかたづけて、いやになっていたんだ」息子は言う。「彼とはもっとちゃんと戦いたかった。もっとゆっくり、大切に。相手のこと以外、何も考えずに」
王子は苦笑する。「君の話を聞いていると、戦いは遊びか、愛の行為のようだ」
息子はふしぎそうに王子を見る。怒った風ではない。注意深く耳をかたむけている。こんな彼を見るのは久しぶりな気がする。でも前にいつ見たろう?
従弟が走って戻ってくる。「叔母さま、叔母さま」息せききって彼は言う。「あのまだら牛は仔を生んだの?」
「ええ、そうよ。あなたがたが出かけて行ってからすぐ」
「わあ!」従弟は歓声をあげる。「最高!」

古い神殿の廃墟に私たちはさしかかる。崩れ残った白い円柱が陽にさらされ、ひびわれて草の生えた石だたみがぬくもりをたたえている。従弟と息子は何かを思い出したように突然ふざけ出す。「ここで僕たち、いつも剣の稽古をしたんだよ」と従弟は王子の腰に手を回しながらぐるりと、まつわって回って教える。息子は柱に手をかけて、あちこちのぞきこんでいて、すぐに石のかげにかくしてあった木剣を見つけ、ひとふりを王子に投げる。王子はそれをうけとめる。二人は軽く、踊りでも踊るように剣を打ち合わせながら、ゆっくりと動いて柱の間を移動する。
彼らの向こうに入り江が広がる。さっき着いた彼らの船がゆっくりと動いている。甲板にうごめく兵士たちの影を私は見るともなく見る。息子の部下たちは皆強く、めったに倒れることはない。だから、もう長いこと同じ顔ぶれをいつも見ている。遠くてはっきりしないのだが、甲板の上を行き来する人影の中に、どことなく見なれた髪や顔、身体つきを私は見る。ああ、あの男は生きていたのか。あの男も無事だったのか。
その一方で見なれた顔がいくつも見えない。
気がつくと従弟が私のそばにいる。私の見ていると同じ、船の上の兵士たちを見つづけている。
「とてもたくさん、人が死んだ」彼は低く言う。「僕たちの方も、敵も」
「それが戦いなのよ」私は答える。「あなたは無事に帰ってよかった」
「うん」従弟はちょっと身震いする。「うん、僕もそう思う」
気がつくと彼のほおは青ざめている。唇にも血の気がない。「寒いの?」と聞くと首をふる。戦場で見た何かを思い出しているのだろう。私は彼の肩を抱く。「すぐに温かいものが食べられるわ。やわらかい寝台で眠れるわ」
「ああ、叔母さま」私の肩に頭をもたせて、満足そうに彼は笑う。「帰ってきたんだね、僕たちは」

その間も息子と王子は、なかば遊びのようにゆったりと剣をまじえていた。どちらからともなく時々声を上げて笑い、その笑い声が陽の光の中に溶けた。
剣の技に詳しくもない私にも、息子の動きが風変わりで目まぐるしいのがわかる。手堅い落ち着いた身のこなしで、王子はそれを巧みに受け流していた。そうやって受けとめられるたびに、息子はうれしそうに目を輝かせるのだった。王子の攻撃に後ずさりながら、楽しくてしかたがなさそうだった。
従弟は両手の指を握りしめたりのばしたりしながら、夢中でそれに見入っていた。
とうとう息子が木剣を横にして王子の打ち込みをとめ、「さあ、もういい」と言った。
「もうやめるのか?」王子は言った。まじめで落ち着いて見えても、彼もまだ若く、充分に子どもっぽいと気づかせる口調だった。
「だって、腹がすいたろ?」息子は王子の手の木剣をとりあげて、石の下に片づけながら言った。「母上のパンと蜂蜜は最高なんだ」
育ちのよさを感じさせる素直さで王子はうなずいて、乱れた藍色の衣を直していた。息子が私のことを「母上」と呼ぶたびに王子の表情はそれとわからないほど、かすかにゆれ、黒とも濃い茶色ともつかない澄んだ目に愁いのようなかげりが生まれた。満ち足りて、落ち着いて、穏やかなのに、そうやってかすかな悲しみのただようその顔は、完全無欠の美しい平和な風景がたたえる淋しさによく似ていた。

侍女たちは森に薬草を摘みに行っているらしく、誰もいなかった。私は自分で三人に簡単な食事を用意した。従弟はうれしそうに私につきまとい、息子と王子はワインのつぼを運んでくれた。
霧はもう、あとかたもなかった。丘も入江も、そこにとまっている船も、透きとおるような澄んだ空気の中に、開け放された窓からよく見渡せた。息子は窓によりかかって船を見ていた。私が姿の見えない部下たちの名をあげて聞くと、重々しい遠い目をして、もう会えない、と短く言った。
「悲しまないでいい」吐息をついて彼は自分に言い聞かせるように言った。「彼らは満足しているさ。戦いの庭で死んだことを」
「そう思いたいわ」私は言った。
息子は明るい、もの問いたげな目で私をじっと見た。「帰ってこないと思っていた?この戦いに出かけたら」
「そうね。多分ね」
「なぜ、とめなかった?」
私は息子を見つめる。「戦いの中でしか見つからないものもあるわ。そこでしか得られないものも」
息子は軽い吐息をまたつく。「そうだな」と彼はつぶやく。「そうかもしれない」
「ひきとめれば、あなたは私を恨むでしょう。そして私も、とどまるあなたを愛せないかもしれない」
「戦いの中で」彼は真剣に私を見る。「何かを失うとは、考えなかった?」
私は首をふる。「あなたは、まちがった戦いはしない。まちがった命令には従わない」私はそっと彼のほおに手をふれながら、テーブルのそばに立っている異国の王子をふり返る。「まちがった敵とは戦わない」
息子と王子の視線が合う。「ああ」と息子は静かに言う。「そうだな。おれたちは、決して敵を見まちがえない」
突然、身体をかがめて息子は私に口づけする。ひとすじの涙が、そのほおに流れる。「だから」と彼はささやく。「だからこうして、また会えた」
「食事にしようよ」大きな皿に果物を山盛りにして、あぶなっかしくつりあいをとりながら入ってきた従弟が、はずんだ声で呼ぶ。

ちょっと恥ずかしそうに乱暴に手で涙をぬぐって、「ああ、そうだな」と言いながら息子は食卓につく。私たちはワインで乾杯をする。それからてんでに食べはじめる。
従弟は勢いよく食べている。息子は昔から案外少食で食べるのが遅い。今もそうで、ときどき、私や従弟や王子の顔にぼんやり見とれて考えこむ。
王子も食べるのが遅い。これはむしろ、自分で何かを注いだり切ったり取ったりするのに慣れてないのだと、その内に私は気づく。そのくせ彼は、従弟が食べたがっているものをさりげなくそちらに渡したりする。弟妹か、幼い子どもがいるのかもしれない。
「おまえ、それ、嫌いなのか?」息子がいきなり王子に聞く。
「いや」王子は悪びれずに答える。「食べ方がわからなくて」
息子はあきれたように王子を見、それから身を乗り出していきなり果物のからを割り始める。

大人しく息子が食べ物を作ってくれるのを見ている王子をながめていて、ふと彼が誰に似ているのか、息子の彼に向けるまなざしが、誰に対するのと同じだったかを思い出す。
幼い時に亡くなった彼の父、私の夫だ。
外見はまったく似ていない。夫は小柄な目立たない人だった。だが、何事につけても自然で静かで、穏やかな温かい人だった。よく、大人に対するように息子に話しかけ、息子は首をかしげて熱心に聞いていた。何かを作ったりする時に、「これをどうしたらいいかな」などと夫が考えこんでいると、息子は一生懸命に自分も知恵をしぼって手伝おう、父を助けようとしていた。

「おまえ、ここにずっといろよ」息子は王子に言っている。まんざら冗談でもなさそうに。
「そうはいかない」王子は笑う。「私にだって家族も国民もある」
「そういうものに、おまえは尽くしすぎるんだ」息子はほおづえをついて王子をながめる。「だから戦争なんかになる」
「無茶苦茶な論理だな」王子は息子にむいてもらった果物をかじりながら首をふる。
息子は椅子の背によりかかる。「おれは自分のことしか考えない」彼は宣言する。「それが絶対、平和の秘訣だ」
王子は目を伏せ、ほほえんで聞こえないふりをしている。
「ちがうか?」息子は念を押す。
「そんな理屈、今とっさに考えたんだろ」王子は言い返す。「何も考えてなんかなかったくせに」
従弟が喜んで手を打って笑う。息子はすねた顔をするが、少しうれしそうでもある。

「ご家族も今度はお連れすればいいのよ」私は言ってみる。「ここに、皆さんごいっしょに」
「そうですね」王子はうなずく。「父もきっと来たがるでしょう」
「外見は美しいけれど、とても勇ましい方でしたわ」私は思い出して言う。「あなたのお父さまはね」
「今は戦いを忘れて、神々に祈ってばかり」王子は笑う。
「父親がいるって、いいな」息子がぽつんと言う。「おまえのこと、とても大切にしてるんだろうな。王位継承者だし、長男だし、国の護り手だし」
「でも、政治のこととなると、少しも私の意見をいれてくれない」王子は大っぴらに愚痴る。「まだすっかり自分が王のつもりだ…王だけれど」
息子は吹き出す。従弟も。王子は「君の方がうらやましいよ」と、さらりと言う。「母上が家の中にいるのは素晴らしい」
「君の母上はどこにいるんだ?」
「とっくにもう、土の下に。私の幼い時死んだ」
息子はうなずき、なぐさめる気かあわてたのか、「でも、おれの母上は女神だから」といきなり言い出す。「世間の母親とはちょっとちがうから」
私はあきれて首をふる。「人がそう言っているだけよ。母親は皆それぞれにちがうわ」
「でもあなたはやっぱり、どんな母親ともちょっとちがっていると、おれは思う」息子はテーブルの上を見ながらぶつぶつ言った。
「あら、どこが?たとえばどんな?」
王子と従弟が笑いそうな顔で、私たちの言い争いを聞いていた。

息子は少し恨めしげに、怒ったように私を見る。初めて私は、出かける前の彼は、こんな目で私を見たことはなかったのに気がつく。そのことになぜさっきから気がつかなかったか、不思議でならない。
息子は私のすぐそばにいる。テーブルにのせた腕が驚くほど太い。けれども私を見ている顔は、小さい子どもの時よりさえ、どこか幼く無防備である。
私たちは落ち着いた、礼儀正しい親子だったかもしれない。よそ目には冷たく見えたのかもしれない。ふと、初めてそう思う。息子は私に泣き言を言わなかった。私も息子をやかましく叱らなかった。
「おれが神ならよかったと思ったことある?」息子は突然そう聞いた。テーブルの向こうの二人を忘れたように。
「そうね」私はうなずく。「思ったわ」
彼は目を伏せる。私は言う。「でも、あなたでなければだめよ。あなたでない神や、あなたでない人間なんかいらない」
「でも」息子はこだわる。「神でないおれと、神であるおれなら、神である方がいいんだろ?」

私は何だか笑い出してしまう。息子は私をじっと見て「笑いごとじゃない」と怒ったように言う。
「あなたが、いつまでも死なないで私のそばにいてくれたらいいとは思った」私は答える。「でも、短い時間でも、あなたが思う存分に楽しく生きてくれたのだったら、それはそれでいい。あなたには幸せでいてほしいわ。この世の幸せをすべて与えたい。終わりのある命なら、なおのこと」
彼はしばらく考えていて、それから子どものように聞く。「この世の幸せって、どんなの?」
「あなたが私に望みなさい。そうしたら、それを与えてあげる。何でも」私は首をふる。「でも、それを見つけることは私にはできない」
彼はまたしばらく考えている。「あなたをもっと愛したかった」と、やがて彼はつぶやく。「いろんなものを、もっとたくさん愛したかった。もっと叱ってほしかったし、もっと抱きしめてほしかった」
そう言いながら、彼は私から微妙に目をそらしており、私に抱きついてこようとはしない。どこか遠慮していて、恥ずかしがっているようだ。そして私も、そうしたいのに彼を抱きしめられずにいる。かわりにそっと、彼の肩にふれる。「あなたはいい子だったから、叱る必要がなかったの。たくさん抱きしめたつもりだったけど、もっと抱きしめておけばよかった。いつも一人で楽しそうに遊んでいたから、そんなあなたを見ているのが楽しくてたまらなかった」私はちょっと気になって聞く。「でも、淋しかったの?ああいう時に、あなたは?」

彼は首をふる。「よくわからない。多分、淋しくはなかった。でも、母上が抱いてくれても、いやじゃなかった」彼は目を上げる。「おれがいなくなって、母上は淋しい?おれが死んで何百年、何千年たってもずっと、おれの名を皆が噂していたら、おれが生きてるような気になれる?」
私はうなずく。「多分ね」
「おれのこと、忘れない?顔とか、声とか、性格とか」
「忘れた方が楽だと思っても、忘れられはしないわ」
彼はまだ何か聞きたそうにしている。やっと見つけたごちそうの前で何から食べようかとあっちこっちに目をやるように、知りたいことやたしかめたいことが多そうだ。「おれが誰かに生け捕りにされたら、助けに来る?どんなに高い身代金でも」
「あなたを誰が生け捕りにできるの?」私はあきれて、思わず言う。「そんなに強いのに」
彼は困って、考える。「もし殺されて、死体を持って行かれたら、取り戻しに来る?」
「殺した死体を持って行くなんて」私はますますあきれて言う。「そんな馬鹿なこと、誰が?するなら、あなたぐらいのものだわ。小さい時に野原でつかまえたトカゲや虫の死骸をいちいち持って帰って見せて、侍女たちに思いっきりいやがられてたの忘れたの?どうして皆が叫ぶのかさえ、あなたはわかっていなかったようだけど」
テーブルの向こうで従弟が笑いをこらえて小さく足踏みしている。王子も微笑んでいるが、むしろ気がかりそうに息子を見ている。涙をうかべているのではないかと思うほど、切ない、いとおしむような目で。あたたかく、抱きしめるように。

そんな二人に気づかないまま、息子はしょげて黙りこむ。それを見ていてふと私は、この子が小さい時よく一人で遊んでいたのは、強すぎて同じ年ごろの子どもたちにいっしょに遊んでもらえなかったからではなかったのかと思いつく。夕日の野原で、一人で木の剣を振りまわしたり、鳥や虫めがけてとび上がったりしていた、それなりに楽しそうだった姿が急にせつなく思い出される。
かけっこでも組み打ちでも、何をしてもずばぬけていて、誰も相手にならなかった。子どもだし、力のかげんを知らないから、いつも相手をけがさせたり泣かせたりして、ぽかんとしていた。本人に悪気はなくても、周囲に嫌われてはいなくても、いつからかいっしょに遊ぶ子どもたちはいなくなってしまっていた。
この子は甘えたがりで、わがままで、自分より弱い者の気持ちがわからないのに、大人になっても導いたり叱ったり甘やかしたりしてくれる人がいなかった。人の上にたつのは好きでも得意でもないのに、人は皆、彼をあがめ忠誠を誓い、従うばかりだった。女たちはその美しい容姿とたくましい身体を、王たちはその強さと名声を、自分のためにほしがり、利用したがるだけだった。
どんなに困りながらとまどいながら、一人でがんばってきたのだろう。回りと自分の力の差がどれだけあるか、いつもはかりかねながら、彼なりに必死に周囲に合わせて、皆の望みに応えようとして。

もしかしたら、と私は思う。幼い日、殺した虫や動物の死骸を家に持ってきていた彼は、それが死んだことがよくわからなかったのではないのだろうか。私や侍女たちが何とかしてくれると、生き返らせてくれるとでも期待していたのではないのかしら。遊んでいる内に動かなくなってしまったそれらが、ふしぎで、困って。
両手をのばして彼をひきよせ、驚いているその青い目に口づける。「あなたが好きよ。愛しているわ。難しいのに、大変なのに、本当によくがんばって生きてきたのね」あっけにとられて、かすかに開いた唇にも口づけする。「とても誇りに思っている。あなたのような子を持てて」
彼はうれしそうな、本当にうれしそうな顔をする。笑うというより、うっとりと、その顔中が幸せにやわらかに溶けていくようだ。彼の頭をひきよせて、髪をなでてやりながら、私はテーブルの向こうの王子の顔を見る。そして、先ほどから私を見るたびに彼のひとみにたゆたっていた淋しさがなくなり、生き生きと楽しそうになっているのに気がついて、はっとする。この王子は私を見て、自分の母親を思い出して淋しがっていたのではない。息子の感じる淋しさをともに感じていただけなのだ。

そんなところも夫に似ていると、また思い、その一方で彼は息子にもどこか似て見え、息子の肩を抱いて少し身体を後に引き、彼と見比べながら私はそれを思わず口に出してしまう。「兄弟みたいね」
二人は顔を見合わせる。
「似てるよね」従弟がうなずく。「ちっとも似てないようだけど」
誰からともなく私たちは笑い出し、そしてまたしばらく、とりとめのない話をする。明日は海に行こう、と息子が王子を誘う。馬で遠乗りがいい、と従弟が言う。どっちがいい、と二人からせまられて、王子は困った顔をして真剣に迷っている。
港の方で人声が騒がしくなった。
船が着いたぞ、と誰かが叫んでいる。
どういうことだろう?船はもう、着いているのに。
息子たちは上陸して、今ここにいるのに。

テーブルの回りで三人はとても悲しそうな顔をしていた。
「もう行かないと」と目をそらしながら息子が言った。
「そうね」と私はぼんやり言った。「あなたの家に泊まっていただく?」
王子はちょっと息子を見る。
「片づいていたかしら」私は笑う。「あなたが出て行った時のままだから」
「部下たちが掃除してくれてるはずさ」息子は王子を見て軽く笑う。「宮殿よりずっと狭いが」
「私は別にかまわない」王子は言って、何か言わなくてはならないと言うように私を見る。
従弟は王子をつっついて言う。「僕のへやを貸すよ。窓から海が見える」

私たちはいっしょに家を出た。
従弟は大人ぶった落ち着いた様子で、すらりとした身体の後ろで手を組みながら、楽しそうにゆっくり歩いている。
「出かけた時よりまた少し、背が伸びたのじゃない?」私が手をのばして彼の頭にかざしながらそう言うと、彼はくすぐったそうに笑った。背が伸びるなんて、まだ子どもの証拠だと、きっと思っているのだろう。
「乾草の寝床に寝たことあるか?」息子が王子に聞いている。
「いや、ない」
「すごく、いい匂いがして気持ちがいいんだが、おまえには粗末すぎるかなあ」息子は気にした。「おれはとても好きなへやなんだが。やっぱり従弟のへやにするか?」
「乾草の寝床にするよ」王子が笑っている。
「もうちょっとすると、ぶどうが実る」息子は楽しそうに言った。「その頃がここは一番面白いぞ。祭りなんかもあるし。それまで、いろよ」

その声が少し遠くなったと思ってふり向くと、もう三人の姿は見えない。
若い男たちの足は速い。息子の家へとつづいている丘の反対側の小道を下りて行ったのだろう。
私は港へ下りる坂道を、一人でゆっくりと下ってゆく。
霧は晴れ、雲ひとつない青空の下、息子の船が浮かんでいるのがよく見える。黒い帆の船。だが甲板にいる部下たちは、さっきとちがう顔ぶれのような気がする。最初の攻撃の時、浜辺で死んだと息子が言った何人かの顔を甲板の上の人々の中に見たような気がする。
なぜこんなに胸がつまり、なぜこんなに苦しいのか。
私にはわかっている。初めから知っていたこと。
けれどもそれを、頭のどこかで認めたくない。
へさきに立つ肩幅の広い人影は、息子の最も信頼していた部下だ。遠くから私を認めて彼は悲しげにうやうやしげに頭を下げる。
船は、たった今着いたように見える。そんなはずはないのに。船はさっきもう着いていたのに。

私はふり返る。
ここからは見えない、丘の向こうの息子の館。ひかえめに小さく、適当に乱雑にいつも散らかっていて、私が片づけると彼はいつも文句を言った。
あそこに行けば、今でも息子はいるだろうか。仲のいい従弟の若者と、新しく友となった異国の王子とともに。いつまでも楽しく三人で笑っているだろうか。
住む人の失われた屋敷はすぐに荒れ果てる。まもなくそこが廃墟になり、屋根が落ち、壁が崩れて草にすべてがおおわれても、そこに行けば、私は息子たちの姿を見るだろうか。幻の中で館はもとのように建ち、暖炉には火が燃え、食べ物を焼く煙が上がり、ワインの杯をかわしながら、彼らのまなざしが輝くのを私は見るだろうか。

目を戻せば、光を浴びて入り江の中に船は静かに泊まっている。

(船はもう着いているのに・・終   2004.11.20.)

― あとがき ―

ええっと、本文を読んでおられない方、こちらを先に読むと、ネタばれになるかも。ご注意下さいね。

(それにしても、自分で書いていて言うのも何ですが、こんなにきらいな話はありません(泣)。ほんとに、こんなことあってはならないことです…あっちゃってますが。)
…と、最初、冒頭の※印のとこに書いてました。ネタばれになると思って、こっちに移しましたが、そんなことしなくても、雰囲気でばればれかも(笑)。

映画「トロイ」のアキレスとヘクトルが仲良く暮らしている、という話は、いわゆる同人誌文学では(大変色っぽいものも含めて)よく書かれています。それには死後の世界を舞台にしたもの、そもそも戦いが起こらなかったという設定のもの、戦争の途中で和平が成立したという設定のもの、などがあって、私はどれもとても好きですが、特に最後の設定のものは妙に好きでたまらなくて、むさぼるように(笑)読んでいます。
それで自分もそういう設定の話を書いてみたのですが、私が書くとこんなものになってしまいました。
わがまま勝手を申しますが、二人が幸せに暮らしている話を書いておられる方は、どうか、どうか、これを読まれて落ちこんだりなさらないで下さい。逆に、これを読んだ怒りや悲しみや空しさをばねに、もっともっと限りなく幸せな二人の現実のお話を書いて、私のこの話の結末を消してしまっていただきたいです。
「トロイ」の映画もそうですが、同じ映画を何十回も見ていると、「今度こそはひょっとしたらハッピーエンドで終わらないかしら」と思うことがあります。そんなことはないと思っても、夢みつづけることをやめられません。
夢を見つづけて、書きつづければ、きっと現実は変わると思います。この話の結末も。たくさんの方がそうして下さることを、心から祈ります。
言うまでもないことですが、この世界で人類が戦争を続けるかぎり、この話はあらゆる国で数限りなく生まれつづけると思います。そのことも含めての、私の願いです。

これは、初めてアキレスを私なりに解釈した話で、今のところ、この人についてはこういう解釈しか私はできません。ちがう!とお怒りになる方はもちろんいらっしゃるでしょうが、お見逃しください(笑)。まあそういったことも含めて、ご感想は例によって掲示板へどうぞ。(11/20)

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