映画「グラディエーター」小説編マキシマス日和

目次

マキシマス日和 ーマキシマスのファンたちー

コロセウムで無理やり戦わせられるのが悲劇なら、客席でそれを見守るしかないのも悲劇でなくて何だろう?昔も今も、どんな時代も、遠くから見つめることしかできない相手を必死に応援するファンたちがいた。

マキシマスというたぐいまれな剣闘士にあこがれ、愛したローマの女性は多かった。彼女たちはどのように、彼を愛し、守り、対立し、和解したのか。その一人ユニアの思い出を通して描くそんな女性ファンたちの世界。ちなみにユニアは「狼と将軍」のオオカミ君の飼い主で、このお話は、オオカミ君も活躍する「狼と将軍」の後日談でもあります。

―彼女はきっと円形劇場に座を占めていた古代ローマの貴婦人のような人であろう。これらの貴婦人たちの多くは、その私的生活においては、明るくて優雅で、育ちがよく、情操の豊かな人たちであったにちがいない。芸術や文学のことも話をしたし、レスビアのスズメの死を悼んで一掬(いっきく)の涙を流したろう。それと同時に、裂かれた喉笛や、砕かれた脊柱や、ずたずたの内臓にかけても玄人(くろうと)はだしの審美眼をもっていたろう。

ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」 岩波文庫ワイド版55ページ

第一章 トラヤヌス広場の朝の風

(1)特別な日

ユニアはトラヤヌス広場でパンを買った。いつもの太鼓腹のシチリア人が売っている、とうもろこし入りのねじった大きな長いパンで、マキシマスはこれが好物だったからだ。他にも、小ぶりだが活きのよさそうなスズキと、香草とじゃがいも、この前マキシマスが太いしっぽではたき落として割った水差しのかわりの水差し、それに青と黄色の淡いきれいな色の花束を買って、ユニアは家に帰って行った。
途中の通りの角までマキシマスが迎えに出ていた。ユニアを見ると、木の下に立ったまま、うれしそうにしっぽをふった。マキシマスはめったに鳴かない。落ちついた金色がかった目でひとにらみするだけで、周囲の犬たちは、はいつくばるようにして沈黙する。
マキシマスを大きめの犬だとユニアはずっと思っていたが、回りの人々は彼の足先を見たり、頭や牙のかたちを調べたりしては、こりゃオオカミだぜと言った。しかし、もとコロセウムで働いていて、競技のためにつれこまれるオオカミや山犬をたくさん見ていたフラウィウスという老人は首をかしげて、オオカミのようだが、犬の血が混じっているかもしれないとつぶやいた。どちらでもユニアには気にするほどのことではなかった。もう十年近くまえ、ユニアがまだ二十代だった頃、ユニアのアパートに住みついてからずっと、マキシマスはユニアのたった一人の家族で、最高の友人だった。

ユニアはろうそくを買い忘れたことを思い出したが、あとでまた買いに行けばいいわ、と思った。
明日はユニアにとって特別な日だった。マキシマスと初めて会った日だったが、それだけではなかった。もう一人のマキシマス…今のマキシマスがその名をもらった男が死んだ日でもあったのだ。悲嘆にくれて泣いているユニアの目の前に、今のマキシマスはふいと現れた。人間のマキシマスと同じように、身体につけた鎖をひきずり、わき腹の傷から血を流して。けげんそうに首をかしげてユニアをじっと見つめていた金色の目は、力強かったが悲しみに沈んで、疲れて、絶望し、死を求めているようだった。あの人と同じだ、とあの時、ユニアは思った。あたしとも同じだ。

(2)初めてのコロセウム

あの頃ユニアは、今と同じアパートに住んで、一階にあるフォルティナの店で働いていた。フォルティナは陽気な中年女の解放奴隷で、その六階だてのアパートの家主だった。一階を自分の住まいと店にしていたが、気まぐれなところがあって、特に商売が行き詰まっているわけでもないのに、何年かおきにくるくると売るものを変え、そのたびにユニアをやとった。
最初、夫に死なれたユニアが、まだはたちそこそこでこのアパートに越してきた時、フォルティナは洗濯屋をしていてユニアに下働きを頼んだ。その翌年にはいきなり宝石屋に鞍替えして、ユニアにまた手伝いを頼んだ。宝石のことなんて何も知らないとユニアが尻込みするとフォルティナは大笑いして、その方がいいのさと言った。
そのあとも、本屋、小鳥屋、パン屋、などと目まぐるしく変えたあげく、ユニアがマキシマスに会ったあの頃は、ブリキの水差しと陶器の鉢を売っていた。ユニアのことはかわいがってくれて、お古の服や寝台をくれたり、近くの温泉や海岸に旅行に連れて行ってくれたりした。

「ローマにいるんだったら、コロセウムに行かなきゃ」とユニアを初めてそこに連れて行ってくれたのもフォルティナだった。仕事仲間の男たちといっしょに行く時、誘ってくれたのである。ユニアは最初、そんなに面白いとも思わなかった。だが、もらった切符で何度か行っている内に、よく会う友だちも何人かできた。カリギュラ帝の時代以来、男女の席の区別はなくなって、皆がごっちゃに座っていたが、それでも最上段の席は女性専用になっていたので、くつろげて、そこで仲良しの友だちどうし、干した果物や菓子パンやケーキを交換したりわけあってかじりながら、おしゃべりをして競技を見るのが、ユニアにもだんだん楽しくなってきた。
珍しい野獣を見るのは特に面白かったが、いつも最後には殺されてしまうので、動物好きのユニアは悲しかった。時々、ただ動物たちを見せてくれるだけの催しがあって、その方がずっといいと思った。
だがやはり一番心おきなく楽しめるのは、コロセウムの花とも言うべき剣闘士たちの試合だった。集団戦、個人戦、野獣を相手の戦いなど、いずれも彼らは獣たちとはちがって、自分たちの役割をよく知っていたし、楽しんで、生き生きしていた。観客たちを喜ばせようと思い思いに工夫をして、全力でサービスしてくれるのが見ていてうれしい。

(3)ささやかな願い

だんだん、コロセウムに慣れてくるにつれ、ユニアは剣闘士たちをもっと近くで見たい、できたらちょっと口をきいたり、さわったりしてみたいと思いはじめた。
特に誰かというわけではない。それまでに何人か、好きだなと思った剣闘士はいた。だが死んでしまった者もいたし、何度か見ている内に、戦い方が卑怯だったり、殺し方が残酷だったりして、何となくいやになってしまった者もあった。
いつもいっしょに試合を見る娘たちの中には、ひいきの剣闘士が死んだら悲しいからと、絶対に負けそうにない強い男を好きになることに決めているイリスという娘もいたし、負けるとわかっていても、いつも弱い方に肩入れしてしまうガラという娘もいた。だが、どっちみち、彼女たちにしてもユニアにしても、コロセウムに来るようになってからまだ日が浅く、金も地位もない娘たちは、かりにひいきの剣闘士がいても、そのそばに簡単に近づくことはできなかった。
試合の前には剣闘士たちは、格子つきのへやに入れられていて、むらがる観客は少し離れた所から、彼らがたくましい身体を壁にもたせかけてじっとしていたり、気持ちを鎮めるようにゆっくりと行ったり来たりしているのをながめることができた。だが、格子の前には兵士が番をしていて、すぐそばまでは行くことができない。身分の高い貴族や貴婦人が、時々格子の前を行き来して、目あての剣闘士にことばをかけていることはあったが、ユニアたちにはそんなことはもちろん、かなわぬ望みである。

コロセウムにやってくる時、試合が終わって戻る時も、兵士たちが彼らを護送していた。それでもそんな時、ひいきの女たちは兵士たちの間をぬって彼らに近づき、抱いたり、手をにぎったり、軽くくちづけしたりする。
ユニアも、一度ぐらいはそういうことをしてみたかった。
だが、そうやって近づけるのは、もうコロセウムに長いこと通っている身分の高い婦人や令嬢、売れっ子の娼婦たちだった。身分がちがっても、彼女らは皆それぞれ、堂々としていて、大胆で、歩いていると男たちも道を空ける。彼女たちがどの剣闘士に歩みよるかが注目されていて、剣闘士たちも彼女たちに近づかれるのは名誉に思っている。それも、見ていてよくわかった。
彼女たちは、お互い口をきかなくても、互いの存在は認めあっており、無視しあっているかに見えて、一目おきあっているようでもある。そんな女たちの群にユニアたちが近づけそうな雰囲気はまったくなく、仲間に入れてもらえる方法もわからない。
剣闘士たちが歩いて行くのに、色とりどりのストラをひるがえし、腕輪や耳飾りや首飾りをしゃらしゃらと鳴らしながら歩みより、よりそい、我が物顔に彼らの髪をなでたり、腕に触れたりしている、そんな女たちを、ユニアたちはいつも遠くから見ているだけだった。

(4)チャンスに賭ける

何とか方法はないかしら、とユニアは考えてみた。
彼女は昔から、いろんなことをあれこれと考えて、工夫してみるのが好きだった。「この子は、よく考える子だよ」と、祖母が目を細めてほめてくれていたのを思い出す。「きっと、幸せをつかむだろうよ」
その祖母も父母ももう死んだ。祖母にやさしくしてくれた気のいい夫も、仕事場の事故であっけなく死んでしまった。彼らの残した財産でつましい暮らしをしながら、幸せというほどのものはつかめなかったかな、と思うけれど、それでもユニアは考えるくせをやめていない。やめられない。

有名な剣闘士じゃなくて、たとえば田舎から出て来たばかりの誰も知らない人たちだったら、とユニアは考えた。コロセウムのいい席とるのを犠牲にしてまで外で待ってて、わざわざ触りに行くなんて、女の人たちもしないんじゃないかしら。

その日からユニアは、コロセウムのすぐ近くにある剣闘士の訓練所兼宿舎を時々のぞいて見るようにした。その近くの道を通ってコロセウムに入るようにした。
ある日、そこを通りかかると、人だかりがしていた。
「何かあるんですか?」ユニアはそばの老人に聞いた。
「アフリカから来た連中が、今日初めてコロセウムに出るんじゃ」老人は訓練所の方に軽くあごをしゃくって言った。「黒い肌の男たちが珍しいもんじゃからの、皆、こうして見に来とるのさ」
ユニアはさっとあたりを見回した。思った通り、いつもの娼婦や貴婦人たちの姿はない。ユニアはどきどきしながら、「どんな人たちなのかしら?」と上の空でつぶやいた。
「黒い肌の男はせいぜい、一人か二人じゃろうな」老人は首をふった。「アフリカから来たと言うても、どうせ、あっちこっちの捕虜たちのよせ集めさ」
ユニアはうなずき、訓練所からの道がよく見えるように、道の反対側へ移動した。

「ユニア、何してるの?」誰かが声をかけた。「早く行かなきゃ、席がとれなくなっちゃうよ!」
ふり向くと、ユニアたちの仲間のアエミリアという娘だった。気の弱い子で、いつも父親の目を盗んで抜け出して来るのに苦労するらしく、試合に遅れて来ることが多い。今日も息を切らして、丸っこい鼻の頭に汗をかいている。
「席なんかとれなくていいよ」ユニアはアエミリアの腕輪をはめた手をとって引き寄せ、「ほら!」と指さして教えた。「もうすぐ剣闘士たちが来るのよ、あっちから!そうしたら二人で寄って行って、触ろう」
「えーっ!あたしたちが!?」アエミリアはたじろいで、どぎまぎした。「だってユニア…怒られちゃうよ!」
「誰に?あたしたち以外、誰もいないよ、コロセウムに来てる女は」
アエミリアはこわごわ、あたりを見回した。「そ、そりゃそうだけど…でも…いいのかなあ?」
道の向こうでざわめきが起こる。はっとユニアはそちらを見た。馬にひかせた一人乗りの小さい戦車がゆっくりと、こちらに向かって進んで来る。興行師らしい白髪頭の男が茶色の革のよろいとマントを着て、得意げにそれに乗っている。その後ろから十数人の男たちが並んで歩いて来るのが見えた。

(5)つかの間の手ざわり

こんなこと何でもないんだ、という顔でユニアは男たちの方へ歩いて行った。いつものことで慣れていて、どうということはないのよね、という様子で。けれども胸は早鐘を打っていた。アエミリアがすぐ後ろからついてきているのがわかった。他にもどこからか数人の女たちが現れて、ついてきた。
あたしが一番なれてると思われてるのかしら。あたしについてくればいいと皆、思ってるんだ。そう思うと、ますます頭がぼうっとしてきた。
周囲の見物人が歓声をあげている。剣闘士にふれようとして近づく女たちは、その美しさや衣装の華やかさで、それ自体が見る人の楽しみなのだ。興行師や剣闘士たちのほまれにもなる。だから兵士たちもある程度までは制止しないし、見物人もじゃまはしない。それは知っていて、それでもユニアは本当にうまく行くかどうか、今になって一番自信がなかった。

花形の剣闘士たちとちがって、男たちの服装は粗末だ。いかにも奴隷といった感じの色あせてすりきれた青いチュニックを皆が着て、それも同じようなはば広の革帯をきつく腰にしめている。鎖はつけられていなかった。美しい手足がのびのびと動いていた。誰の身体もつりあいがとれて、たくましく、一流の剣闘士なみだ。かなり粒ぞろいの連中なのかもしれなかった。
砂ぼこりをけたてるようにして、彼らはずんずん近づいてきた。先頭の右はしにいる男が、ついてくる仲間たちの方をちらとふり返って目でたしかめ、その様子と、その位置とから、とっさにユニアは、この人が皆のリーダーかもしれないと思い、せっかくなら、この人にしようと決心した。まっすぐ彼に歩みより、貴婦人たちがしていたのを思い出しながら、彼の横によりそい、腕をすっとその身体に回した。アエミリアは、一人後ろのたくましい褐色の肌の男にしがみついている。

ユニアが予想したよりも男は、驚いた風はなかった。多分、目のはしでユニアたちが近づいてくるのを見ていたのだろう。むきだしの腕はユニアが思っていたよりもずっと、なめらかでやわらかく、しっとりとした弾力があって、暑い街路の空気の中では、少しひんやりとさえ感じられた。入浴してきたばかりらしい、湯と香料の匂いがして、それが彼の新しい汗の香りと入りまじっていた。

男は歩きつづけたが、ユニアを押しのけはしなかった。むしろ、ユニアをひきずってけがをさせたりしまいとして、ほんの少し足どりをゆるめたような気さえした。
それなのになぜかユニアは、完璧に無視されたような気がした。空気を抱いているような、自分が空気になったような、ふしぎな感じで、身体がふわっと宙に浮いてしまったようだった。
抵抗されないのに安心して大胆になったのか、その、わけもわからない、とらえどころのない心もとなさにやっきになったのか、自分でもわからない。ユニアは両手で男の首にかじりつき、ひきよせて男のほお、耳の近くに口をよせ、かじるようにそのほおをなめた。死んだ夫にも、どんな男にも、したことがないほど大胆に。

男の短い髪とひげから、陽射しと草原のような男の香りがし、彼の耳が熱いのをユニアは感じた。兵士がなれた手つきでユニアを押しのけにかかる前に、男はちょっと笑っているようにも見える困った顔つきをしながら、上手に身体をくねらせてユニアの腕からぬけ出した。はなれぎわにユニアの指が男の腕の上をすべり、のばしていた爪が彼の腕を傷つけなかったかしらと一瞬ユニアははっとした。
兵士たちが、ユニアたちを押しもどし、剣闘士たちはまたたく間に大またに人垣の向こうへ遠ざかって行った。

「さわっちゃった!ユニア、あたし、あの黒い肌の人、抱いちゃった!」アエミリアは喜んで、子どものようにぴょんぴょんはねていた。「でも、ユニアったら大胆!キスしてたじゃない、あの人に、ばっちり!」
ユニアはまだぼうっとして道のまん中に立っていた。
「めちゃ、いい男だったね、あんたが抱きついてた人」見知らぬ女の一人がやはり興奮して笑いながら、ユニアに向かってそう言った。
「うん…」ユニアはあいまいにうなずいた。本当は彼の顔をよく覚えていない。ただ最初に腕にからみついた時、ちょっとひるんだように、何?誰?というようにユニアに向けてきた、少年のような青い目を覚えていた。それを思い出すと、いきなり胸がきゅうんとした。
あの目でほほえんでくれたら、どんなにいいだろう。
じっとやさしく見つめてくれたら。
気がつくとアエミリアが手をひっぱっていた。
「行こうよ、ユニア!早くしないと、ほんとに席がなくなっちゃうよ!」
ユニアも我にかえって笑った。「そうなったら大変だ。絶対あの人たちの試合見なきゃ」
「そうだよう!ガラたちもきっと待ちくたびれてるよ」
二人はまだ興奮して、とりとめもないことをしゃべりあいながら、人々の間をぬうようにして、コロセウムの入り口へと向かった。

(6)あたしの彼はどこ?

「二人とも何してたのよ?」退屈していたらしいロムラが、身体をよせて二人に席をあけながら言った。
「いーいこと」アエミリアが笑った。「ユニアがすごーいこと考えてね」
「何?何?」イリスとガラも顔をよせてくる。
ユニアが話すと三人は笑った。
「頭いーい!」ロムラがすなおに感心した。
「でも、田舎から出てきたばっかの人たちみたいだったから」ユニアはガラのくれたイチジクのケーキをかじりながら、ちょっと冷静になって、悲しくなって言った。「すぐ殺されちゃうよね、きっとね」
「そうかなあ?」アエミリアもちょっとがっかりしたように言った。「あたしが抱きついた黒い肌の人、強そうだったけどな。筋肉なんて、はがねみたいだった」
「はがねを抱いたことなんてあるの?」イリスがまぜ返し、皆が笑った。
「たとえばよ、たとえ!」アエミリアはむきになった。

「わからないよ、田舎から出てきた人だって強い人、このごろよくいるし」ガラがなぐさめた。「案外ずっと勝ち残るかも」
「今日のだし物次第よね」ロムラが言った。「プログラムある?」
ユニアたちももらってなかったが、となりの女が貸してくれた。四人がしげしげのぞきこんで、「この『ハンニバル』ってのかしら」と言いあっていると、前の方に座っていた学者らしい中年男が聞きつけて上がってきて、解説してくれた。
「カルタゴの英雄ハンニバルがローマに戦いをいどんで苦しめるんですが、とうとうスキピオの軍勢にほろぼされる、その戦闘の再現でしょう」彼はユニアたちの顔を見回しながら説明した。「戦車が八台出るそうです。家内が戦車競技が好きなので、いつもは大競技場の方に行くんですが、今日はこれがあるもんで、夫婦でこっちに来たんです」
「戦車が勝つのね?」ユニアが聞いた。
「そうそう。ハンニバルたちに扮した剣闘士を戦車が押しつぶすんでしょう」
「あらー」ロムラが声を上げた。
妻らしい女が下の方からふり向いて呼んだので、男は戻って行った。妻はころころ太った陽気な顔の女で、別に怒っている風ではなく、席がつまってきたので心配になったらしい。夫を呼びながらユニアたちにもあいそよく笑って一礼し、すみませんねというように、金粉でふちどりした目をちょっとつぶって見せた。
アエミリアがユニアを見た。「さっきのあの男の人たち、戦車に乗る方かしら」
「だと、いいんだけど」ユニアは答えた。

「あーあ」アエミリアが、がっかりしたような声をあげた。「だめみたい、ユニア」
「そうよねえ」ユニアもうなずいた。
皇帝も席につき、観衆の歓呼に手を上げてこたえている。ラッパが高く鳴っている。コロセウムの支配人の金ぴかの服の男が声をはりあげて、「ザマの戦い」の解説をしている。これがハンニバル軍です、とさし示す彼の指の先に、槍と楯を持った二十名ぐらいの男たちが並んでいた。
「あの人たちなの?」ガラが聞く。
「あの黒人の人が前列にいるもの」アエミリアはため息をついた。「ねえ、ユニア、そのとなりの人、あんたがキスした人だよね?」
そんな気もするけど、とユニアは思うが、よくわからない。かぶとをかぶってしまっているため、これほど遠くからでは彼らの顔が見わけにくい。相手がはっきりわかる黒い肌の人だったアエミリアがちょっとうらやましかった。
アエミリアの言う前列中央の男はたしかに、ユニアが抱きついた彼に似ている。よろいの色も模様もあんなのだった気がする。リーダーっぽかったから、ああいう位置に立ちそうでもある。だが、今ひとつ確信がなかった。あの中にいてほしくない、という気持ちがそうさせるのかもしれなかった。
「戦車かあ」イリスが座席の背にもたれかかるようにした。「それじゃちょっと、だめよねえ」
「負けるってわかってる側にひいきするのって、きついな」ロムラがつぶやいた。
「誰だってそうよ」ガラが回りを見回した。「だからほら、皆もう、彼らのこと、敵にしてるもん」
本当だった。大観衆はめいめいに、アリーナに立つ男たちめがけて憎々しげにこぶしをふり回し、ハンニバルのくそったれとか、とっとと死ねなどとわめいている。やっちまえ、スキピオとか、早く戦車を出せという声も聞こえる。

どんな気持ちなんだろう。ユニアはふっとそう思った。
あのアリーナのまん中で、日に照らされて死を待つのって。
砂がじりじり照り返す熱を受けて、大観衆にののしられながら。
そんなことを考えたのは、それが初めてだった。
あの人もあそこに、あの中にいるのだろうか。
ユニアの抱きしめた腕の中で、たくましいのに空気のように、よそよそしくはかなく思えたあの男の身体。ひんやりとなめらかな肌、火のように熱かった耳。少年のようだった青い目。
あそこで今、何を考えているのだろう。
ユニアのことを思い出しているだろうか。
そんなことないわね。ユニアは思った。あるはずがないよね。残された、こんなわずかな時間なんだもの。
家族のことか。故郷のことか。
ユニアは突然、鼻の奥がつんと痛くなり、今日のこの試合を見たら、コロセウムに来るのは当分やめようかしら、と思った。

まもなく、がらがらと音をたてて、コロセウムの四方のとびらがいっせいに開いた。白馬に引かれた金色の戦車が次から次へとなだれこんできた。観客の興奮は絶頂に達した。殺せ、殺せ、と叫びながら皆がこぶしをふり回す。
戦車の上の射手たちが金色の弓をひきしぼった。別の乗り手は槍をかまえた。剣闘士たちの群に向かってそれが飛び、何人かがどっと倒れて砂にまみれてころがった。観衆たちの拍手かっさいと歓声の中、戦車は右往左往する剣闘士たちの間をぬって縦横無尽にアリーナ中をかけめぐった。
誰かが倒れるたびにユニアはそちらを見た。あわただしく目でたしかめていた。あの人じゃない、背が低すぎる。今の人はちがう、髪が長すぎる。そしてほんの数秒もたったろうか、観客たちの歓声が不満そうなうなり声に変化したのにユニアは気づいた。

あの、さっきの、前の方に座っていた夫婦の、妻の方が夫に何か言って首をふり、アリーナの方を指さした。感心しないわ、というように小さく首をふったのが見えた。彼女の指の先を目で追ったユニアは、アリーナの中央に剣闘士たちがひとかたまりにかたまって、楯のかげに身をかくしているのを見た。
あの人たち、何をしているの?そう思った時、一台の戦車がそこに正面からつっかけて行って、高くかかげられた巨大な楯にぶつかって、すさまじい音響とともに横転した。

戦車が倒れた!ユニアは呆然とした。観客たちの歓声に亀裂が走ってばらばらになり、かん高い悲鳴があちこちで起こった。
また別の戦車が倒れた。その残骸にぶつかってもうひとつ別の戦車が進路をそれてコロセウムの壁に激突し、観客席をゆるがせた。
こぶしをふり回して怒る男たち。悲鳴をあげて顔をおおう女たち。その観客席の向こうで剣闘士たちが走り出すのがユニアに見えた。止まった戦車の馬にかけより、切り離す者。槍を拾って投げる者。あの背の高い黒人が走る戦車の一台に、追いすがってかけ上がり、射手をひきずり下ろしている。むしりとるように脱いだ自分のかぶとのとがった先を武器にして、たたき下ろして相手にとどめをさしている。
「見た!?見た!?ユニア、ちゃんと見た!?」アエミリアがおどりあがってユニアの肩を両手でつかみ、顔はアリーナに向けたまま、声を限りに叫んで教えた。「ほら、あの人よ!あの人よ!」
うん、うん、とあわただしくうなずきながら、アリーナのあちらからこちらにと忙しくユニアは目を走らせつづけていた。あの人はどこ?あたしのあの人はどこ?あの中のどこにいるの?まだ生きているの?

だが、そんなことを見定めることなどできるわけもないほどに、アリーナは混沌のるつぼだった。横倒しに倒れた戦車が乗り手ごと馬にひきずられて行く。もう一台が馬もろともまっさかさまに、アリーナの入り口の階段につっこんで勢いあまってころげ落ちて行く。轟音。絶叫。こんな情景をアリーナでユニアは見たことがなかった。似たものさえも、これまでに。
気がつくと、女たちが騒ぎ出していた。
「誰、あの人、誰?」
そんな声があちこちでしている。ユニアもそちらに目をやった。
白馬が一頭、走っていた。剣闘士が乗っている。長いしなやかな腕も足もまぶしいほどにむきだしにして、軽々と馬を走らせている。まるで宙を舞うようにあざやかに、迷走する戦車を右に左に翻弄して。
ケンタウロスのようにまっすぐ優美に起こした彼の上半身がまったくゆれもしないまま、片手が上がり、槍が前方に飛んで、あやまたず前を行く戦車の射手を射落とした。そのまま走って軽々と白馬がおどりこえた戦車の残骸に、彼を後ろから追っていた戦車が激突して砕け散る。それを見ていた観客がいっせいにあげた声は、もはや彼のその妙技への感嘆のどよめきだった。
いたるところで人々が、彼の動きにあわせてこぶしを振りはじめたのをユニアは見た。染物桶につけた布の色が、染料の入った水を吸ってみるみる変わっていくように、たった今まで剣闘士たちへの怒号にあふれていた観客席が、その白馬の男に、そして剣闘士たちへの喝采と声援に、あっという間に埋めつくされて行くのを見た。それもまた、ユニアが初めて目にした情景だった。

「あの人、誰?」
「名前、何?誰か知らないの?」
回りの女たちの声がますます大きくなっている。落ちていたプログラムを拾ってのぞきこみ、名前をさがしている者も何人もいた。ユニアもまた魅入られたように、その白馬の男から目がはなせない。その、すっぽりと顔をおおった奇妙なかぶとのかたちに覚えがある。あの最前列にいた男も同じようなかぶとをかぶっていた。
でも、まさか、まさか、ちがうよね。こぶしを握りしめるようにして、必死で自分にそう言い聞かせた。あの人のはずないよ。それじゃ話ができすぎだもの。
それでも白馬から目がはなせない。
残る戦車はあと二台。コロセウム全体が剣闘士たちとともに勝利の予感に酔っている。うねるような興奮が、熱狂が客席をつつみこんでいる。またとない見ものを見る場所にいあわせたという満足感。それがまだまだ、もう少し続いて、最高の終わりを迎えそうだという期待感。それらが巨大な炎のようなひとつに集まって押しよせる、その熱気を一身に集めて、白馬は二台の戦車の間を走り抜けた。男の腕が高く上がり、手にした剣があやまたず大きく回って左右の射手を切り倒した。血しぶきとどよめきの中、仲間たちがいっせいに走る戦車におどりかかって御者をひきずり下ろして、とどめをさしている間に、白馬の男は勢い余って走る馬をなだめるように、アリーナのはるかかなたまで駆けさせた。そこでいったん馬をとめ、巧みな手綱さばきで小刻みに回して向きを変えさせて、こちらに向き直ると、勝利を宣言する指揮官のように、高く手にした剣をあげた。
ユニアの回りの女たちがいっせいにため息をついた。深く大きい、その吐息はまるで心臓をその剣でつらぬかれた悲鳴のようにさえ聞こえた。
男はすぐに腰をうかせて前かがみになり、走り出す体勢をとった。そして次第に速力を速めながら白馬をこちらに走らせてきた。観客席の最前列に鈴なりになってひしめく観客たちが、手すりからせいいっぱいに身体をのり出し、早く来い早く来いと彼をさし招いている方向へ。

彼が近づいてくるにつれ、歓声も高まってきた。観客席の人々は一人残らず彼に向かって手をふり回し、女たちは口々に叫んだ。
「素敵よー!」
「最高よー!アキレウスー!」
「ヘクトール、あたしを抱いてー!」
「マルスの生まれ変わりー!」
「女殺しー!」
名前がわからないものだから、皆が適当な名を呼んでいた。
「こっち向いてー、きゃー、ヘラクレスー!」
「あんたの子どもがほしーい!」
「早くかぶと脱いで、顔見せてー!」
「名前教えて、かわいい人ー!」
男はまだ戦いたそうに、馬上で槍をかまえてみたりしていたが、すぐに馬からとび下りて、仲間とともに入り口の方へとひき上げはじめた。
「えーっ、帰っちゃうの?」アエミリアががっかりしたようにつぶやく。
ああ、なれてないんだなあ、とユニアは思った。これだけのことしたんだから、かぶとを脱いで、アリーナ中を歩き回って、皆にあいさつして、あとまだ他にもいろいろ、することあるのに。
ひき上げようとする彼らの前に、近衛兵の一団が入り口からあらわれて行く手をふさいだ時、ユニアはむしろ、ほっとした。若い皇帝がそのあとから現れて、観衆のかっさいの中、彼らに歩みよって声をかけた時も。あの白馬の男は皇帝と向かい合って立ち、剣闘士好きで有名な皇帝と、男とのやりとりを一語ももらさず聞こうとして、コロセウムは真昼の光の中でしんとしずまり返った。

だがユニアは、その二人を見る一方で、忙しくちらちら目を動かしては、男の後ろに広がるように立っている仲間の剣闘士たちの一人ひとりの背かっこう、肩のかたち、よろいの模様をたしかめていた。
あの人かしら?ちがうかしら?
やはり、あの、今、皇帝の前に立っている彼が一番似ている気がする。ユニアがキスした、あの男に。
でも、確信が持てない。まもなく男はきっとかぶとを脱ぐだろう。その下から、そりあげた頭、長い髪、金髪や赤毛、まったくちがう顔だちがあらわれることだって、ないとは言えない。ユニアの胸はどきどきと自分でも聞こえそうなほど、大きく動悸をうちはじめている。
突然、男は皇帝に背を向けた。そして、ユニアたちの方に向かって歩き出したので、ユニアはびっくりした。
「何してるの、あの人?」ロムラがあえぐように言った。「殺されちゃうよ!」
鋭くとがめる皇帝の声がして、男はその場に足をとめた。背を向けたまま、わずかにうなだれ、ほんの数秒じっとしていた。その時ユニアはわかった。もう、まちがいないと思った。あの人だ。あんなことをするのは、あの人だけだ。あんな風だった。とても、あの人らしい。あの人しか、あんなことはしない。
男はゆっくり両手を上げて、かぶとに手をかけてはずした。
短く刈った黒い髪が、かぶとでおさえられていたためか、くせがついて、あちこち、はねていた。ととのって静かな、どこか子どものように不きげんな、すねた顔。ユニアがちらと見た、あの少年のような青い瞳を、かたくなに彼は伏せたままだった。

(7)鳥ならば

男はゆっくりとふり向き、皇帝に何か答えた。ユニアが初めて耳にする彼の、低く、やわらかく、それでいてよくとおる声が、空気を伝って楽々とユニアのところまで届いてきた。
マキシマス・デシマス・メレディウス。
男が名乗ったその名前が、たちまちさざ波のように人々の口から口へと伝わって広がる。回りの女たちがしているのと同じように、気がつくとユニアも何度もたしかめるように口の中でその名をくりかえしていた。マキシマス?マキシマス?
男はことばをつづけて、自分の肩書きを名乗っていた。北方軍団の将軍。アウレリウス皇帝の忠臣。妻と子を殺されて復讐を誓う男だと。
若い皇帝がまっ青になって、顔も身体もこわばらせたのをユニアは見た。そして理解した。あの人の妻と子を殺したのは皇帝だ。いや、ひょっとしたら、先の皇帝である父親のアウレリウスも、この皇帝は殺したのかもしれない。
帝位をめぐる家族どうしの殺人は、噂としては珍しくなかった。父親殺し、母親殺しとささやかれた皇帝が過去に何人もいたことは、ユニアだって知っている。この若い皇帝についても、自分が皇帝になるために父を殺したという噂はあった。だが、まことしやかに語られるそんな話の多くが眉つばものであることもまた、ユニアはよく知っていた。
しかし、マキシマスの声を聞いた時、ユニアは皇帝にまつわるその噂が真実であると思った。なぜか、そう信じた。マキシマスの言っていることに嘘はない。彼が復讐を誓うからには、皇帝はきっとそれにあたいすることをしたのだ。まっすぐにユニアは、そう信じた。

動けず、口もきけないでいるらしい皇帝に代わって、かたわらの近衛隊長が黒いマントをひるがえして、兵士たちの方に向き直った。
「剣を!」
銀色に光るはば広の剣がいっせいに抜かれるのを、息をとめてユニアは見守った。あの男をかばうように、他の剣闘士たちが歩み出たのも。だが、彼らの誰の手にも、もう武器はない。さっき、皇帝が歩みよった時に兵士たちに命令されて、彼らは皆、それを地上に落してしまっている。
勝ち目のあるはずはなかった。マキシマスにも、仲間たちにも。
あの人の言ったことは本当に皇帝を怒らせてしまったのだ、とユニアは絶望してふるえながら思った。怒らせて、おびえさせたのだ。それで、近衛隊長は殺す気なのだ。マキシマス・デシマス・メレディウスを。北方軍団の将軍を。
でも、そんな肩書きが何なの。ユニアはとっさにそう思った。あの人が何をした人で、皇帝との間に何があったって、そんなことが何なの。あの人はただの剣闘士。そんなことがどうして、ここで問題になるの。そんなのっておかしい。絶対に変だ。
前にどんな人で、何をしたにしろ、そんなに高い身分から、あの人は、こんなとこまで落ちてきているんじゃないか。
罰なら充分、もううけている。
殺されるはずの自分と仲間の命とを、この人は自分の手でまもった。かちとった。
だったら、生きる権利がある。
それがコロセウムのおきてだ。

皇帝と、近衛隊長は、そのおきてを破ろうとしている。
ひどい。そんなのってない。
ちゃんと戦って、生き残ったのに。
あんなに立派に戦って。
それなのに、殺すなんて。
ユニアの身体はふるえつづけていた。いつのまにか、今はもう、それは怒りのためだった。それまで一度も知らなかった、激しい燃えるような怒りに、身体がつき動かされていた。あたしじゃない、コロセウムが怒っている。何だかそんな気さえした。ここの土地が、建物が、座席の木と石を通して小刻みにゆらいで巨大な怒りをユニアの身体に注ぎ込み、伝えてきているようだった。
「おかしいよ!」思わず口に出して言った。「そんなのって、変だよ!」
アエミリアたちが、ぎょっとユニアの方を見た。回りの女たちも。思いがけなくその中の、見知らぬ一人の女が大きくユニアに向かってうなずいた。
「そうだよ!」
それでユニアは力づけられ、また、もっと大きな声で、「おかしいわよ、殺すなんて」と言った。「勝ったのに、どうして殺すの?」
「そうそう!」アエミリアがしぼり出すように言った。「そうそう!」
でも、ここからじゃ聞こえない。ユニアは夢中で、そう思った。皇帝にも、あの人にも。
気がつくと、立っていた。誰も、こちらを見ていない。全部の人が前を、下を見下ろしている。あの人のいる方を。
コロセウムの上の空が青い。青く、青く、どこまでも広がって、鳥になった気がユニアはした。鳥ならば、と思った。まい下りる、あの人の上に。いっぱいに、つばさを広げて。守ってあげる、命をかけても。
「殺さないで!」ユニアは声を限りに叫んだ。
「殺さないで、殺さないで」アエミリアも隣で泣きながら叫んでいた。
前の方で、あの中年の夫婦が立ち上がるのが見えた。夫がこぶしをふり上げて叫んだ。「殺すな!」
妻も大きな声で叫んだ。こういうことに慣れているらしい、はりのある、よくとおる声だった。「殺すな!殺すな!」
あちこちで、次々に人々が立ち上がりはじめた。こぶしを上げ、叫ぶ声が多くなった。殺すな、殺すな、という声だ。ある声は臆病で、ふたしかだった。ある声は堂々と高かった。その中でも、あの中年婦人の声はひときわ大きく自信にみちて、一同をリードしていた。彼女はくりかえし、くりかえし、一定のリズムを保って、殺すな、殺すな、と回りに呼びかけるように叫びつづけ、まもなくあたりの人々の声はそれに唱和し、ひとつにまとまり、大きなうねりとなって空にひびいて、立ちのぼった。
ユニアたちの回りでは、もう座っている者はない。叫んでいない者もない。のろまのロムラも、臆病なガラも、冷静なイリスも、皆、立っている。高くこぶしをふり回し、声を限りに叫んでいる。殺すな!殺すな!殺すな!殺すな!ユニアにはもう、自分の声が聞こえない。のどが枯れるほど叫んでいるのに、回りの人々の叫び声の中にそれはかき消されてしまっている。

皇帝が動揺した。
なだめるように笑いながら、彼は客席を見回し、両手を上げ、そして片手を下ろした。残った片手を上げたまま、その親指を下に向けて処刑の合図を今にもくだそうとするように。
ユニアは必死で叫びつづけた。彼女は知っていた。皇帝の手を下ろさせないでいるのはただ、自分たちの叫び声だけなのだ。こぶしを固くにぎりしめ、身体を折って全身から彼女は声という声をしぼりつづけた。ただ、殺すな、殺すな、殺すな、と。
その時、かなり前列の方で、今までひっそり動かなかった白い数十人の一団が、まるで雲のわき起こるように、いっせいに、ゆらいで、立った。
ヴェスタ神殿の巫女たち。
彼女たちに感情があろうなどとは、今の今までユニアは考えたこともなかった。どんな血なまぐさい場面でも、息づまる戦闘でも、コロセウムの一角で特別に前の方に設けられている彼女たちの席だけは、いつもひっそりとそこだけ動かず、水のように静かだった。かまどの女神に仕え、神殿のかまどに聖なる火をたやさず、厳しい修行と戒律にあけくれ、皇帝を含めたあらゆる人々から絶対の尊敬と信頼をうけている、少女から老女までの処女たち。一瞬、ほんの一瞬ユニアは、彼女たちが、この事態をしずめようとして立ち上がったのかと思ってひるんだ。
しかし、すぐに気がついた。殺すな、殺すな、という叫び声が、その白い集団の中からも起こっているということに。

祈りと朗誦できたえた女たちの声は、澄んで美しい歌のようだった。こぶしのかわりに女たちは、ゆっくりと次第に高く両手を上げた。清らかな水のような声は、人々の声を圧して朗々とコロセウムにひびきわたり、その冷たく甘い水のような声は、逆に人々の絶叫に油を注いで、更に激しく燃え上がらせるようだった。
「神の声だ!」と誰かが叫んだ。
歌うような、祈るような、叫ぶというにはあまりにも美しい声。感情にかられているのだとしても、そうは聞こえず、まるで彼女たち自身にもどうしようもない、何か大きな力が、彼女たちの声をかりて歌わせているようだった。殺すな、殺すな、殺すな…と。
ユニアたちも叫んでいた。すべての人が叫んでいた。叫びつづけるあの中年婦人の妻の頭からはとっくにヴェールが落ちている。
だが、皇帝の宙に上げた手はまだ動かない。
その皇帝と向き合って立った、あの男も動かない。
静かに皇帝を見返して、片方の腕には脱いだかぶとをかかえたままで。

(8)征服者のように

ようやく、皇帝の手がためらいながら、ねじれるようにゆっくり動いて、その指が上を向くのをユニアは見た。
助命の合図だ。
人々の叫び声がやんだ。吐息にも似た歓声と、激しい拍手がそれにかわった。
男を見たまま皇帝はあとずさり、近衛隊長とともに身をひるがえしてアリーナの出口に消えた。兵士たちもそれに続き、剣闘士たちだけが残された。
男は初めて顔を上げ、目がさめたように観衆を、ユニアたちを見回した。
この人たちが助けてくれたのか、と言いたげに。
できるなら、一人ひとりの顔を覚えたいと思っているかのように。
それでいて、それは、剣闘士たちが命を救われた時に皇帝や観客に対して見せる、へりくだった感謝の表情ではない。
支配者や征服者が、自分のものになった土地や人々を、たしかめて、見回しているのと似た、鋭くきびしい表情だった。

だがそれは、ユニアたちも同じだった。観衆の皆が感じていた。この剣闘士たちは、自分たちのものだと。皇帝の手から奪い返した、自分たちの財産なのだと。
全観衆が立ち上がっていた。口々に何か叫び、力いっぱい手をたたいていた。男はひとわたり、そんな皆を見わたしていたあとで、まるで何かを約束する王者のように、かぶとをつかんだままの左手を力をこめて、空に向かってつき上げた。
びりびりとしびれるような満足と愛がユニアを満たした。
この人は、あたしのもの。全身でそう思った。
コロセウムの全観衆が、ヴェスタの巫女も元老院議員も、ロムラもガラもイリスもアエミリアも、一人のこらず、そう思っていることはわかっていた。そのこともまた、うれしかった。
あたしたちは皆、この人のもの。
剣闘士たちが落ち着いた足どりでひき上げて行く後から、誰からともなく、手拍子と歓声が起こりはじめていた。男が名乗ったあの名前を、声をそろえて皆が呼びはじめていた。

「マキシマス、マキシマス、マキシマス…」
その時と同じようにユニアはくり返してみる。ただし小声で、口の中で。
かたわらを歩いているマキシマスが、けげんそうにユニアを見上げて、太いしっぽをぱたぱたとふる。

第二章 ティベレ河畔の夏の空

(1)掃除とおめかし

アパートの、まん中がすりへってくぼんだ狭い階段を、マキシマスを後ろにしたがえてユニアは上がった。へやに入って、れんが作りのかまどに火をたいて、香草とスズキを料理しながら、素焼きのつぼにかめから水をくんで入れ、花をさした。淡い水色と黄色の花びらが、テラスから吹き込む夏の風におだやかにゆれた。
料理は夜にとっておくことにして、朝食は簡単なパンだけにした。マキシマスにも肉屋からわけてもらった、こまぎれ肉で作ったかゆをたっぷり食べさせ、あとかたづけをすませると、ユニアはへやの掃除にかかった。ベッドのマットレスをテラスにひき出し、棒でほこりをはたきながら見下ろすと、ティベレ川が白くかがやいて光りながら流れる中を、ゆっくりと船が下って行くのが見えた。
へやに戻って床をはこうと、ほうきをさがしたが見当たらない。気がつくとマキシマスが前足で押さえて腹ばっていた。ユニアがどうするのか興味しんしんといった顔でじっと見上げている。「ちょうだい」とまじめに言ってユニアは手をさしのべた。「お掃除するんだからね」
マキシマスは首をかしげてみせた。ふざけているのだ。ユニアがしゃがんでほうきの柄をつかんでひっぱると、おどかすように低くうなって、かまわずユニアがひっぱって取ると、ぱっと躍るように後ろに飛びすさり、身体をかがめて右に左にねらいをつけて飛びかかるまねをした。ユニアはほうきで、マキシマスのしっぽを軽くはたいた。
「ふざけてもいいけど、しっぽをあまりふり回しちゃだめ。それで水さし、割ったんでしょ?」
ユニアのことばにじっと耳をかたむけていたマキシマスは、照れ隠しのように突然、自分のしっぽを追いかけはじめ、くるくる回転したあげく、どさっと転がるように座って、床をはくユニアの手足が動くのを子犬のような生き生きした目で熱心にながめはじめた。
「また何かいたずらを考えているんでしょう」ユニアはぶつぶつ言った。「大きな身体で、いい年をして、まるっきり子どもなんだから」
マキシマスは口をあけて、笑っているように白い牙をのぞかせた。

床をはき、マットレスをもとに戻し、テーブルや椅子もふきおわると、ユニアは床の敷物の上にひざをたてて座り、使い古して犬用におろしたブラシをとってマキシマスを呼んだ。彼はわざとのようにちょっと用心深い足どりで、斜めにユニアを見つめながらやってきて、腹ばいになった。ユニアがその足をつかんで身体の向きを変えながら首すじから背中へと力をこめてブラシをかけてやると、気持ちよさそうに低い声でうなって、前足を片方のばし、ユニアのひざをひっかいた。
「気持ちいい?」ユニアは彼のぴんと立った、ぶあつく、やわらかい耳をつまんでひっくり返し、虫などいないか調べた後、ふさふさした毛皮の中に鼻をつっこんで、くんくんかいだ。「おまえをきれいにしておかなくちゃ」とひとり言を言った。「男の人が来なくなっちゃう」
この十年近くの間、何人かの男がこのへやを訪れた。一夜をともにした者もいた。けものの匂いがして動物園みたいじゃないか、と文句を言った男もいれば、この方が何だか燃えるぜ、と喜んだ者もいる。その一方でまるで気にしない者もいたし、一人二人はよっぽど犬好きだったのか、マキシマスを見るなり声をあげて喜び、なで回すやら話しかけるやら、すっかり夢中になってしまって、ユニアのことなどそっちのけになってしまったものである。そんな時は、マキシマスもそれほどいやそうではなかった。どちらかというと楽しそうにしていて、大きな男のたくましい腕や低い声が気に入っているようで、心なしか目を細めてさえいるようだった。

そうやって男とベッドに入る時、マキシマスはいつもユニアといっしょに自分が寝ている場所に見知らぬ男が寝ているのを、別に気にする様子はなかった。横目で見ながらすたすたと部屋のすみに行ってしまって、戸棚のかげから前足や鼻面がちらと見えるので、そこに腹ばっているなとわかる時もあったし、どこにも姿が見えないと思っていたら、男が帰ってしまったあとで、あくびをしながらベッドの下から、のっそりはい出してきて、ユニアをぎょっとさせながら笑わせたりもした。照れかくしのようにユニアが「いやな犬ね」と頭を荒っぽくなでると、そしらぬ顔で自分の食器のところへ行き、いつもより高い音をたてて(と、ユニアには思えるのだ)ぺちゃぺちゃ水を飲んだりする。
あたしがもしも、ベッドの上で男ともめて、けんかになって、ひょっと殺されそうにでもなったら、この犬助けてくれるんだろうか、と床にしゃがんで、ほおづえついて、そんなマキシマスを見守りながらユニアはいつも思うのだった。まさか、自分には関係ないですなんて、知らん顔してるんじゃないわよね。

(2)町の人気者

ここに来てからこれまでに、マキシマスは泥棒を三度つかまえ、二度、火事になりかけていたのを発見し、ユニアに暴力をふるおうとした男を数人やっつけている。
だから、アパートや、このへん一帯ではなかなか人気者だった。
家具屋をやっていた時に泥棒をつかまえてもらった女家主のフォルティナなどは、いつも骨や肉をわけてくれて、それはいいがそのたびに、「あの剣闘士よりよっぽど役にたつじゃないか」とまじめな顔でくり返しては、ユニアをむっとさせている。
この地区の治安を守る警備隊長も代々、皆、マキシマスとは仲よしだった。匂いをかがせて犯人を追わせたり、なくなった品物をさがさせたりするのに大層役にたったからで、「こういうのが一匹いるといいんだがなあ。おれもほしいなあ」と、ことあるごとに言っていたプブリウスという隊長などは、皆から、あの人その内ひょっとして自分が泥棒になってユニアの犬を盗むんじゃないかね、そしたら誰が捜査するっていうのさ、とひそかに心配されていたものだ。

とりわけ人々を大笑いさせたのは、前線帰りらしい生意気な若い兵士が酔っぱらって通りすがりのユニアにからんで困らせていて、どこからともなくのそっと現れたマキシマスに驚いて、逃げ出した時のことである。
夕やみのせまる町の通りに、うす青いもやを身体にまつわらせて金色の目を光らせながら巨大な影のように登場したマキシマスには、彼自身にはそんなつもりもないのだろうが何ともいえないすごみがあって、それが、吠えもうなりもしないまま、すたすたまっすぐ近づいて来るのを見たら、その兵士でなくても逃げ出すのは当然だった。
だが、見ていた人々があきれて語り草にしたのは、むしろその後のことだった。兵士は逃げる時あわてて、持っていた槍を放り出して行った。するとマキシマスはあわてる様子もなく、その槍に近よってくわえ、兵士を追っかけて通りを走って行った。そして恐怖にかられた兵士が足をもつらせて倒れた上にのしかかり、あおむけになって悲鳴をあげている胸の上に槍を落すと、そのまま後も見ないでさっさと引き返したのである。
「まるで、装備を忘れちゃいかんだろうが、と説教している上官そのものだったぜ」見ていた男たちは笑いにむせながら、何度もそうくり返して皆に話した。
「何かと思ったわよ」女たちも言い合った。「長い槍を横向きにくわえてさ、皆に道をよけさせながら、そりゃあもううれしそうに通りを走って行ったんだから」

(3)人間だろうか?

それはいいのだが、そうやってユニアにからんだり困らせたりする酔っぱらいやならず者をやっつけてくれる時、マキシマスはすぐには飛びかかろうとしない。しばらくたしかめるようにユニアの顔を見て様子をうかがっているようだ。
きっとあたしがベッドで男とたわむれてるのと、ちょっと見には区別がつかないんだろうなとユニアは思った。それにしても気配ってものがあるだろうに、わからないものかしら、と不満だったり、そこがやっぱり犬の限界なのかなと思ったりもした。
だが、何度かそういうことがあるたびに、だんだんそれだけではないような気もしてきた。
ユニアが「来て!」とか「助けて!」とか、はっきり命令すればマキシマスは文字通り即座に行動するのだった。どんな時でも、絶対に。
それも、ユニアがうわずった声で悲鳴のように助けを求めても、あんまり気が進まないようで、どこかしぶしぶやって来る。
その反対にユニアが落ちついてはっきりと、自信を持って指示すると、嬉々として一番ちゃんとすることをした。
変な犬、と最初の内ユニアはそれも解せなかった。
飼い主が動転して悲鳴を上げている時の方が危険がせまっていると思って、むしろ必死にならないものだろうか。
愚かなのかなとも思ったし、自分のことをあまり好きではないのかしらと思ったりもした。

そんな時、ふと思い出すことがあった。
マキシマスがアパートに来た次の日、ユニアは死んだ、人間のマキシマスをしのぼうとコロセウムまでまた行ってみた。
犬のマキシマスはついて来たが、コロセウムの近くに来ると、通りのはしに座り込んで動かなくなった。それからも彼はユニアと出かけてもコロセウムには決して近づこうとしなかったのだが、その時はユニアはまだそれに気づかず、ひょっとしたらこのへんの誰かが飼っている犬だったのかもしれない、と思ってそのまま一人でコロセウムに行った。そして戻ってくると、マキシマスはもといた場所にじっとそのまま座って待っていて、ユニアを見るとすぐ立ち上がって、かけよって来た。喜んだユニアがしゃがみこんで首を抱くと、マキシマスもうれしそうに、遠慮がちに大きな頭をユニアのわきの下あたりにくっつけてきて、ぐいと押したのでユニアは街路にしりもちをついた。
通りすぎる人たちが笑って行く。
マキシマスは少し驚いたようにユニアを見ていた。こんなことぐらいでひっくり返るんだろうか、何をしてるんだろう?と言いたげに。
ユニアはすぐに起きて、ストラのすそをはたきながら、何でもないのよ、大丈夫よ、と言ってきかせた。マキシマスはしっぽをふって答えたが、まだ何となく、これは本当に人間だろうか、と疑っているようなまなざしをしていた。

(4)ご主人さまらしく

それからもマキシマスはユニアをときどき、そんな目で見ることがあった。
これは人間だろうか?人間というのは、たしかもっと…
何となく、そう言っている感じがしたことがある。
前の飼い主と比べているのかもしれない、とユニアは思った。
だがマキシマスはユニアをバカにする気配はなかった。
犬は、こちらがなめられたらおしまいだよ。好き勝手をさせとくと、自分が主人と思いこんで決していうことを聞かなくなる。さからう様子が見えたらすぐ、ぶって、叱らないとだめ。
フォルティナをはじめ、近所の女たちは口々にユニアに忠告した。
だがマキシマスはユニアにとても忠実だし、決してないがしろにはしない。
その様子は少しかたくなに、がんこに、こっけいにも見えることがあった。

ユニアはもともと、あまりきちんとした性格というわけではない。
毎日の暮らしぶりだって、かなりいいかげんな方である。
マキシマスが許しがない限りいつまでも食事をしないで待っていたり、上がれと手でたたいて合図するまでは決してベッドに上がらないのが、実はちょっと気づまりだった。
「もっと気軽にしていいのよ」
「気楽に行こうよ、マキシマス」
最初のころ、よくそう言った。
マキシマスはしっぽをふって、ユニアのほおに顔をくっつけてなめたが、何となくそういう時ユニアは、彼がすまして聞こえないふりをしているような気がしたのだった。
そして時々、食べていいと言うのをうっかり忘れてベッドで眠ってしまい、目がさめたら肉が冷えたままの皿の前でマキシマスも眠っていたりする。
掃除の間、テラスに出しておいて、お入りと言わなかったら、寒い中、長い毛を風になびかせながら夕陽をながめていつまでもじっと座っていたりする。
あわてて、謝って、食事をさせたり中に入れてやったりしながらユニアはつい、まじまじとマキシマスの顔を見てしまう。
そういう時、犬ってとても哀れっぽい、情けない顔して待ってるでしょう!?と、ユニアにその話を聞いた人たちは笑うのだが、実のところマキシマスは全然そんな風ではない。
何だかもう、落ちつきはらっている。
不きげんにユニアを責めているのでもないし、あきらめて耐えているのでもない。
しいて言うなら、まあ、どうせこんなもんだろうな、という顔で、ひとつまちがえばバカにしていると思われてもしかたがないのだが、きわどいところでそうなっていない、ゆうゆうとした表情だ。
それでもユニアは、ものすごく反省する。
二度ともう、こんな失敗はしまい、と自分に誓うが、その内にまたしてしまう。
そのたびに自分がつくづく、いやになる。
動物を飼うのって、こんなに疲れるものかしら。
「ねえ、マキシマス。あたしの言うことなんか、そんなにまじめに聞いたり、待ったりしていたらだめ」
マキシマスをひきよせて、頭を首すじにもたせかけながら、なかば愚痴のようにユニアはそう、弱音を吐いた。
「あたしってだらしないし、忘れっぽくて、ほらね、こんな風だから」
マキシマスは金色がかった目で、じっとユニアを見る。
動物のあの信じきった目で見られたら、とても裏切れないよねえ、という人たちもいるのだが、マキシマスの目の色は何だかそれともちがっている。
「いい飼い主じゃないんだし」ユニアは口ごもる。「おまえも、あてにしたらだめ。あたしのことなんか、そんなに信じたらだめ」言っていて、自分で変に悲しくなる。「あたしはおまえが、そんなに信じていいような、そんな立派な人間じゃないのよ」
マキシマスの目はあたたかく、それでいてどこか冷たく、笑っているようだ。
そんなことはわかっとるわい、とうの昔に、と言いたげだ。
ふと、ちょっとかっとして、マキシマスのふさふさと深いのどもとの毛皮に手をさしこんで、つかんで、ゆさぶりながら、ユニアは彼の目をのぞきこむ。
「それをあたしに知らせたい?自分がどんなにつまらない人間か。それでこんなこと、してるわけ?」

そんなことをしたあとで、ユニアはいつも、自分で自分にげんなりした。
もう、動物相手に何やってんだか。
それでも時々どうしても、ユニアはたとえばマキシマスはユニアがどの程度危険な状態か、見ていてちゃんとわかっていて、まだ大丈夫だな、と自分で判断している気がした。
その上で、ユニアがちゃんと命令したら飛びかかろうと決めていると。
生まれてこのかたユニアは人の上に立ったことなんか一度もない。子どももいない。だから人に命令なんてしたことがない。とっさに、はっきり大きな声で他人に指示するのなんて、苦手どころじゃない。やり方がわからない。
だが、それをしなければ、マキシマスは言うことを聞いてくれない。

「何だか、この犬に、自分がしつけられてる気がするの」
一度、フォルティナと町に出て、街路の日除けの下の店でテーブルに座ってお茶を飲んでいる時、そう言ってユニアはこぼした。
マキシマスは二人の足もとで寝そべって眠っていた。
「ああ、動物ってのは皆そんなもんさ」あわてもせずにフォルティナは応じた。「あたしが以前飼ってたカメもそうだったよ。やつらはね、飼い主を作りかえるんだ、皆。自分の好きなようにね」
「こいつね」ユニアはサンダルの先でマキシマスを押した。力をこめている時は鉄のように固くひきしまっているそのわき腹は、気を許している今はやわらかくユニアのつま先をうけとめて、ぐにゃりとへこみ、ユニアがもっと強く押すと、くうんと抗議するような低い眠たげな声がした。
「あたしが申し分のない立派なご主人だってふりして見せてるの。そうじゃないこと、自分が一番よく知っているくせに」
「そのことに気づくだけでも、あんたは立派な主人だよ」フォルティナは保障した。

(5)傷つけられない

ユニアはマキシマスをぶったことは一度もない。ぶとうと思ったこともなかった。
ときどき、ふざけてかなり強くたたくことはあっても、ユニアの手でたたくのなどマキシマスには痛くも何ともないらしく、何かの遊びをしているように目をかがやかせ、はっはっと息をはずませてはしゃいでいた。お返しのように彼も大きなあごをぱっくり開けて、鋭い長い牙の間にユニアの手首や足先をはさんで軽くくわえたりする。それでもユニアの肌には傷ひとつつかず、かまれているというかすかな圧迫さえも感じないのだった。
ユニアがほうきや棒をちょっとかまえて見せても、まったく警戒しないのはもちろん、他の近所の男や女が棒を手にしておどかすしぐさをしたりしても、あわてる様子もおびえて緊張する風もまるでなく、ちらと確認するように目をそちらに向けるだけだった。
「こいつは、よくよく強いんだな」コロセウムで働いていた老人フラウィウスは、それを見ていてつぶやいた。「恐いもの知らずなんじゃない。恐いものはよく知ってるが、逃げ方も戦い方も学んでいるからあわてないんだ。それに、とてもかわいがられて育てられたんだな、子犬の時に、いい主人から。だから、人間が好きだし、信じている」
「あたしがぶったら、悲しむかしら?」ユニアは聞いた。「ひどい目にあわせたり、とても裏切ったりしたら?」
そんなことは絶対しないと思いたい。だが、そう言い切れる自信がユニアにはなかった。自分はとても弱い。この犬を守り抜く力なんてあるのだろうか。そう思うと悲しかった。
だがフラウィウスは、マキシマスの大きな頭を、傷だらけのしわのよった手でなでてやりながら、「こいつを傷つけることは、きっと誰にも、もうできんだろうな」と、謎のようなことを言った。
「なぜなの?」ユニアは聞いた。
「こいつはもう、何かとても大きい悲しみを味わってしまってる」老人は言った。「何が起こっても、それ以上の悲しみはもうこいつにはないだろう」
ユニアはマキシマスと初めて会った時のことを思い出した。
鎖を引きずり、血に汚れて、自分の前に立っていた犬の目の、深い、暗い、底知れぬ絶望。
「前の飼い主は、死んだのかしら?」ユニアはつぶやいた。
「多分な」フラウィウスは言った。
「どんな人だったのかしら?」
「いい飼い主だったんだろうな」フラウィウスは首をふった。「その人にこいつは心を捧げちまったんだよ」
「あたしのことは好きじゃないのか」ユニアは笑いながらも淋しい気がした。
「何、好いてるさ」フラウィウスは笑った。「だが、動物は人間とちがう。同じ心を別の相手にもう二度と与えることはできないんだ」

マキシマスが鼻面をユニアの手に押しつけてきた。ブラシを動かす手がとまっていたのに気づいたユニアは笑ってマキシマスをあおむけに転がし、胸や腹の毛をすきはじめた。手を動かしながら、パラティヌス丘の近くの通りの角に、たしかいろんなろうそくを売っているお店があったわね、と思い出した。あそこに行ってみようか、マキシマスも連れて、と思いかけてふと、あ、上の階のニギディアがマキシマスを赤ちゃんのお守りに今日貸してくれと言ってたんだっけ、と気がついた。マキシマスは小さい子どもに人気があり、アパートの母親たちに番犬と子守りをかねて、よく雇われていた。
思い出してよかったわ、と考えながら、ブラシをかけおわって、全身つやつやになったマキシマスをニギディアのへやに連れて行った。子どもたちが歓声をあげてかけよってきて、マキシマスにしがみついた。いつ見てもきれいな毛並みねえ、油かなんかすりこんでやってるの、何か特別なもの食べさせてるの、とほれぼれ見ながら聞くニギディアに、ブラシかけて、皆からもらったもの適当に食べさせてるだけよ、と答えながらユニアは内心得意だった。
かごをさげて、一人でアパートの階段を下りる。さわやかに晴れたいい天気だった。通りを歩いて行くと、すれちがった若い男たちの集団が「マキシマス日和だなあ」と言っているのが耳に入った。
ユニアは思わずちょっとふりかえった。にぎやかに笑いあい、ふざけて軽くつきとばしあったりしながら歩いて行く青年たちは皆まだ少年といっていいほど若かった。きっと、そのことばを口にしていても、なぜそう言うかの意味は知らないのだろう。ユニアはほほえみ、また前を向いて歩きだしながら、スズカケの並木の上に広がる、雲ひとつない青い空を見上げた。

(6)はなやかな世界

あの、戦車を倒した戦いのあと、マキシマスの人気はとどまるところを知らなかった。
彼についてのさまざまな噂も広まった。アフリカの王だったとか、本当は皇帝になるはずだったとか、皇女の恋人だったとか。
何が本当かわからない、そんな噂のすべてにユニアは夢中で、必死に耳をかたむけた。たとえ嘘でも本当でも、彼についてのことなら何でも知りたかった。
コロセウムへの往復も、試合の前も、マキシマスに近づくことはもうできなかった。ユニアも、他の誰も。あまりの彼の人気に不安を感じたらしい、持ち主の興行師やコロセウムの支配人は、彼を特別扱いして、いつも護衛の兵士をつけ、試合の前にも人目にさらさず、女でも男でも彼には決して近づけないようにして、いつも観衆からへだてていた。

それがまた、ますます彼の人気をあおった。彼の人形、彼の名を染めぬいた旗が飛ぶように売れ、彼の髪だの、服の切れはしだのと称するものが、ひそかに高値で取り引きされた。彼が出場すると聞いた日は、人々は仕事を放り出してでもコロセウムへと押し寄せた。
そうすると興行師や支配人は、ますます彼を出し惜しみした。絶対にコロセウムが満員になるとわかっているような、気持ちのいい晴れわたった日でなければ、なかなか彼を出場させない。
「今日はマキシマスは出場するのかなあ?」空を見ながら人々はよく言い合った。
そして誰からともなく、今日こそはまちがいなく彼が出場するだろうというような、快晴の雲ひとつないさわやかな日のことを、人々はマキシマス日和というようになった。

戦車競技のファンという、あの中年婦人とも、そのあと何度か会った。彼女もすっかりマキシマスのファンになっているらしく、戦車競技など放りっぱなしてコロセウムにばかり来ているようだった。何度目かに彼女はユニアに話しかけ、いっしょにいたアエミリアと二人を、自分の席に来いと誘った。
婦人はポリアという名だった。夫は哲学者で学校で教えるのが忙しく、めったに家にはいないのだそうだ。
アエミリアが、ユニアが最初の日にマキシマスにキスしたことを話すと、ポリアは目を丸くして手を打ち、それは自分一人で聞くのはもったいないから、友だちにも聞かせてやってくれと言った。
そうしてアエミリアとユニアとは、小じんまりとはしているが、さっぱりとして快適なポリアの屋敷に招かれて、上品な鉢植えやつぼがおかれたアトリウムで、やはりマキシマスのファンだというポリアの友人の婦人たち数人に、マキシマスにさわった時の話をした。
ユニアたちより年上の婦人が多く、服装や化粧からして身分も高い女性ばかりだったようなのに、彼女たちは皆、少女のように目を輝かせて話を聞いた。一人は、「その手で彼にさわったのよね。さわらせてくれる?」と言って、ユニアの手をおしいただくように両手ではさんだり、その上にほおをのせたりしたし、もう一人は、「どんな風に彼は歩いて来て、どんな風にあなた抱きついたの、実演して」と、アトリウムの中を歩いて、あの時マキシマスにしたと同じようにユニアを自分に抱きつかせ、くちづけさせて、深々とため息をついていた。

マキシマスの人気は高まりつづけていた。
彼の強さは、はかりしれなかった。名うての網剣闘士も、連勝中のトラキア剣闘士も、あっという間に彼は倒した。
ユニアだけではなかったろうが、見ていて彼があっさり勝つのはうれしいのだが、出てきたと思ったらすぐひっこんでしまうので、それはほんとにものたらなかった。
剣闘士はふつう、楽に勝てる相手でも、観客を楽しませ、自分の力を見せつけようと、ぎりぎりまで試合をひきのばし、苦戦しているふりをする。
マキシマスは、まるで意地になっているように、それをまったくしなかった。
何しろ一度などは、あまりに早く敵を倒したものだから、兵士たちがとびらを開けにくるのが間にあわなかったらしく、アリーナの出口の格子のとびらが閉まったままで、さっさと帰ろうとまっすぐそちらに行った彼が、そこでしばらく立ち往生していたことがある。
何となくものたりない思いで彼を見送っていた観客たちは、彼がむっとしたように立ちどまって格子を見つめているのを見て、くすくす笑い、やがてそれは、どよめきになった。
照れ笑いひとつするでなく、マキシマスは観客に背を向けたまま、むっつりと格子の前に立っていたが、それを見ていてユニアは、あ、恥ずかしがってる、となぜかよくわかった。
そんな彼がとてもいとおしかった。
間もなく、ようやく格子が開いて、彼は急いで入って行ったが、何をいったいそんなに急いで帰るんだろう、とユニアは見ていて悲しく思った。

彼がそんな風なので、試合はいつも早く終わって、時間が余ってしまう。
しかたがないので、ポリアを中心としたファンの婦人たちは、いっしょにカフェで冷たいあんずやりんごのジュースを飲んだり、ポリアの屋敷に立ちよって夕方までマキシマスのことを、あれこれしゃべったりしていた。
何となく、ユニアとアエミリアもその仲間に入っていた。
人好きのする、わけへだてをしないポリアらしく、さまざまな女たちが集まっていた。詩人のパオラ、女優のゼナ、女剣闘士になりたいと言っては皆を笑わせる、たくましいスペンドゥサ、情報通でさまざまなニュースを持ちこんでくるセルウィリア、小柄で優雅なメッサリナ、占い好きのアプラ。他にも何人もの女性がいたし、日をおってその数はふえた。

第三章 パラティヌス丘の秋の霧

(1)猫を抱く婦人

思い出にふけって歩いていたユニアは、目当ての店を危うく通りすぎかけてしまい、あわててあたりを見回した。
しばらくこの通りには来ていないので、ちょっと心配していたのだが、ろうそくの店はまだあって、繁盛しているようだった。店主が先に来ていた客たちの応対をしている間、ユニアは色とりどりの香りのいい、ろうそくを選んでいた。マキシマスをしのぶのにふさわしい香りはどんなのだろう?
ふと涙ぐみそうになって目を上げて、通りの向こうを見たユニアは目ばたきした。
白くつづく石の塀の上に緑色のつたがゆれていて、その影がふと、淡いオレンジ色に見えた。
幻のように、そこにとめられている、うす紫の覆いをつけた美しい輿がうかぶ。
そこから歩み出てきた灰色の髪の婦人も。

ユニアはそっと、あたりを見回す。
あれは、人間のマキシマスが死んで、二年か三年たった頃だ。
犬のマキシマスを連れて、ユニアはここに来ていた。
このろうそくの店はまだなくて、かわりにケーキを売る屋台があって、おいしいと評判だった。
それでユニアも、マキシマスとの散歩の足をふとのばして、立ちよったのだ。
秋のはじめの静かな日だった。塀のそばに紫の覆いをかけた上等の輿がとまっていて、ユニアとマキシマスがその前にさしかかった時、マキシマスが何かを気にして足をとめた。ほとんど同時にオレンジ色の光のような何かが、輿の中からとび出して、ユニアとマキシマスの前を横切った。まばたきする間もなく、そのかたまりは、向かいの店の前に立っていた、空色のストラの女の胸にとびこんだ。女の腕に抱えられて安心したのか、ほうきのようにふさふさのしっぽをはためかせながら、くるりと身体にまきつけて居ずまいをただしてユニアたちの方を見たのは、小犬かと思うほど大きなふわふわした毛の猫だった。金色がかった緑色の大きな目を細めて、しんからバカにしたようにこちらをじっと見ている、その自信満々の様子がおかしくて、ユニアは思わず吹き出した。

マキシマスも同感だというようにユニアを見上げて、首をかしげるようにして、じっとその金色と白のかたまりを見つめた。
猫は、おもむろに口を開け、ふううともシャアアとも言いようのないような音をたててユニアたちを威嚇した。それ以上近づくなとも、何がおかしいとも言っているようだ。
「いいのよ、マキシマス」抱いている女が、猫の平めた耳の上を、紅玉とめのうの指輪をはめた手でなでつけてやりながら、甘ったるい声で言った。
猫が女に頭をすりつけ、甘えたようにみゃおうと鳴く。
マキシマスがめったにしない困った顔でユニアを見た。
「いいのよ、マキシマス」ユニアも負けずに身体をかがめて、犬の頭をなでながら言った。
猫がまた、きっとこちらを見て、ふうと言いたそうに口をかすかに開けている。
「ユニアじゃないの!?」と、抱いている女が言った。

それでユニアも、ようやくその、猫を抱いている堂々として威厳のある灰色の髪の婦人が誰だったかを思い出した。オクタウィアという名で、ポリアたちとはまた別に、マキシマスを応援していた一団の中心になっていた一人だ。人数はポリアのグループより少なかったが、金持ちの婦人が多く、高級娼婦も数人まじった、みるからにきらびやかな集団だった。
目に見えて対立があったわけではないが、そこはかとない対抗意識は互いにあったし、ちがうグループどうしで口をきく機会はめったになかった。ユニアも、オクタウィアと一度だけ少し話をしたことはあるが、それきりもうつきあいはない。
しかしこうしてマキシマスの死後、数年を経て会ってみると、そこはさすがになつかしい。オクタウィアも気持ちは同じらしかった。不きげんの極致で、腕の中で毛をふくらませて大きな毛玉のようになっている猫をなだめながら、ユニアの方にやってきた。
「元気そうねえ!」やや鼻にかかった、ゆったりとした声で彼女は言った。「あなたちっとも変わってないのね。すぐわかったわ。コロセウムにはまだ行ってるの?」
ユニアは首をふった。
「私もだわ」オクタウィアは腕の中でもぞもぞもがく猫をかかえ直した。「こらこら、おとなしくしてなさい、マキシマス」
猫は子どものようにオクタウィアのあごの下に一瞬頭をつっこんでもぐらせ、すぐまた不きげんそうにひき出して、横目でユニアをじっとにらんだ。
「あなただって変わらない」ユニアは小声でそう言ってみた。
オクタウィアは深い豊かな声で笑った。「私はあなた、もう、だめ、だめ。髪だってほらもう、こんな色でしょ?主人は染め粉を使えというけど、肌がかぶれそうでいやだしね。第一あなた、このマキシマスが許しちゃくれないわ。この子ったら、私の髪をよくなめるの。変な匂いがちょっとでもしたら、むくれてしまって、もう大変。一日たっぷり、きげんが悪いの。あなたのお家、この近く?」
「いえ…」
「私のうちは、もうすぐそこよ。ほらそこの、角の、木が見えている家。ここのお店のケーキがおいしいと聞いて、帰り道にちょっと輿から下りたとこ。ねえあなた、うちにお寄りにならない?二人で歩いて行けるわよ。もうほんとにすぐ、そこだから」
そして、ユニアがついてくるものと決めつけているように、召使たちにケーキの包みを渡して、輿とともに先に帰して、オクタウィアは猫をかかえて歩き出した。

(2)時は流れて

目の前の、あの猫の毛色と同じオレンジ色の丸いろうそくにそっと手をふれながら、ユニアはあらためて道の向こうをふり返る。
あれからもう、七、八年になる。オクタウィアがユニアを連れて行った石づくりの大きな屋敷は今もまだあって、角の向こうに見えている。だが、持ち主は代わっている。オクタウィアも、その夫も、あの猫ももう死んだ。息子が一人いたが、今はコンスタンティノープルで何か商売をしているらしい。
陽射しは今日はあたたかい。あの時はたしか秋で、うっすらと霧があたりにただよっていた。それでもオクタウィアがユニアを案内した、ポリアの屋敷よりずっと広い豪華なアトリウムには明るい光がいっぱいにさしこみ、へやの中央の青銅の水盤からは、さらさらと水がわき出す音がしていた。オクタウィアが召使に食物の用意を言いつけに行った間、ユニアは猫をながめていた。

猫はユニアを客と認めることにしたのか、敵意をあらわにするのはやめていた。しかし、可能な限り無視してやろうと心を決めているようだった。アトリウムの日当たりのいい一隅におかれた椅子の上の、自分用らしいクッションの上にどっかり座って身体をのばし、これ見よがしに落ちつきはらって、まっ白い前足の先を一本一本ていねいに、桃色の舌の先でなめつけてみせている。ユニアはあまり猫を見たことがなく、特にこんなに大きくてきれいなのは見たことがなかった。それでつい見とれていると、マキシマスは猫よりも、そんなユニアが気になるようで、黙ってユニアを見つめていた。
「お利口ね」召使が運んできた皿をうけとってテーブルに並べながら、オクタウィアがマキシマスを見て言った。「それはオオカミなの?犬なの?」
「犬だと思うんだけど」ユニアは自信なげに言った。
「おとなしくて、強そう」オクタウィアは皿の上の肉をひときれ取り上げて、マキシマスの前にさし出した。「これ、食べる?」
マキシマスはしっぽをぱたぱたさせたが、ユニアを見上げて、じっとしていた。
「かしこいのねえ」オクタウィアは肉きれをユニアに渡しながら感心した。「ちゃんとしつけてあるんだわ」
「うちに来た時からこうだったの」ユニアは肉をマキシマスに食べさせた。マキシマスは呑みこんだが、あまりうれしそうでもなかった。
「緊張してるのね」オクタウィアが見ていて言った。「お水をあげよう」
「犬のことが、よくわかるのね」陶器の器に水をたたえて持ってきたオクタウィアに、ユニアはそう言った。
「前は五ひきも飼ってたのよ」オクタウィアは笑った。「でも、このマキシマスが来てから、犬は皆、人にあげてしまった。猫はもともとほしかったけど、こんなにかわいいものだとはね。この子は特別なのかしら。夫にも息子にも笑われてるの。私があまりかわいがるもんだから」
「マキシマスっていうの?」
「あなたの犬も?」答えを聞かずにオクタウィアは笑った。「つけた名前のせいもあるかな。こんなに夢中になっちゃったのは。この、愛想の悪いとこがそっくりと思ってつけた名前なんだけど」

猫はマキシマスが肉を食べているのをバカにしたようにじっとながめていた。それからどさりと床に飛び下り、しっぽを宙に持ち上げながら、ゆうゆうと歩いて来て、テーブルの上にひらりと飛び上がった。ひとかかえもありそうなほど大きいのに、何ひとつ身構えもせず、ひょいと跳躍したそのしぐさにユニアは思わず目を見張った。猫ってこういうものなのかしら。そんなユニアを見向きもせずに、猫はゆっくり料理の皿に近づいて、鼻先をくっつけて点検しようとしている。
「おいで、マキシマス」オクタウィアは両手をのばし、いやがる猫を抱きかかえて寝椅子に座った。「どうしたの、お行儀が悪いわよ。さっき、いやになるほど食べたばかりでしょ。人間さまでも召し上がれないような新鮮なマグロと豚肉を。ユニア、座って食べてちょうだいな。その人にもどうぞ何でもあげてちょうだいね」
猫はオクタウィアのひざの上が気に入ったのか動かなくなり、大きな丸い頭を下げて、じっとテーブルの下をのぞきこんでいた。ユニアの足によりそうようにして床に腹ばっているマキシマスが、いたく気になるのらしい。恐がっているというよりは、興味しんしんで、ちょっかいを出したがっているように見えた。
「ねえ、とてもきれいな方がいらしたわよね」オクタウィアが、たらしたヴェールのはしで猫をからかいながら言った。
「え?」
「あなた方のグループよ」オクタウィアは思い出そうとするように天井を見て首をかしげた。「カナリウス議員のお嬢さまだったかしら?マキシマスとキスしたあなたと、あの方とが一番よく、私たちの間では話題になっていたのよね。あなたたちのグループの人たちの中では」

(3)美貌の令嬢

オクタウィアが言ったカナリウス議員の令嬢というのは、リディアのことである。ポリアのところに出入りしていた女性たちの中では、彼女は並はずれて若かった。十九歳ということで、だが見た目は更に若く、十五、六歳ぐらいにしか見えないことがあった。すきとおるように白い肌、なめらかな黒い髪、澄んで大きな黒いひとみが清らかでどこか淋しげな、ほっそりとした美少女だった。
元老院で、巨大な黒幕として絶大な権力を持ち、皇帝でさえ、その意向にはさからえないとまで噂されるカナリウス議員は一人娘の彼女を溺愛しているらしかった。その若さでリディアは一度結婚していた。相思相愛の夫と結ばれ、幸福な暮らしを送っていたのに、屋敷の火事で夫が焼死し、彼女は父の家に戻ってきていたのだ。そんな不幸ないきさつが、父の議員の愛情をいっそう深めているらしかった。
ユニアは同じグループなのに、リディアとほとんど口をきいたことはない。地位や家柄という点では比べ物にならなくても、若くして夫を失った、自分と少し似た境遇の彼女に、かすかな、ひそかな親しみは感じていた。だが、そのまばゆく危うい美しさが近よりがたい気もしていた。そうこうする内にリディアはポリアのグループからはなれてしまい、次にユニアが彼女に会ったのはマキシマスが死んでから十年近くたった頃、オクタウィアも彼女の猫も死んでしまった、更にあとのことだった。

どこかリディアを思わせる真紅の細いろうそくを、ユニアはそっと手にとった。
はかないようでリディアには、どこか激しい、はっとするような華やかさがあったような気がする。
彼女がポリアのグループから離れることになったきっかけも、その最初は、ささいと言えばとてもささいなことだった。
あの日もまた、ユニアたちいつものメンバーは、マキシマスの試合を見たあと、ポリアの家のトリクリニウムで、果物やケーキをつまみながらおしゃべりをしていた。
ものごいの女がまいっております、と召使が告げに来た時、ポリアはちょっと眉をよせて、「どういうものごいなの?」と聞いた。「また、アフロディテの帯の切れはしを売りつけようというの?フォルムに新しいマルスの像でも建てるというので寄付をつのっているのかしら?」
「ああ、そういうのではございませんので」召使は笑った。「マキシマスを自由にするためにお金を集めているというのです。それで、もしかしたらお会いになるかと存じまして」
「呼びなさい!」数人の女が同時に叫んで、一同は思わず笑いくずれた。

間もなく召使に連れられて、二人の女が入って来た。くすんだ金髪の、のっぽの一人は一同にもの珍しそうに見つめられておどおどしていたが、もう一人の浅黒い肌のやせた女は、熱っぽく激しい目で傲然と肩をそびやかしていた。むしろ高びしゃな調子で彼女は、マキシマスを買いとって自由にするため、皆さんからお金を集めておりますとそっけなく述べた。いったい、いくらぐらいかかるのとゼナが聞くと、持ち主との交渉次第でございますねと、またそっけなく女は答えた。どこか狂気めいた、いちずな目の色だった。ポリアをはじめ婦人たちは肩をすくめながら、少しづつの小銭を手持ちの袋や財布から出して女のさし出す木皿に入れ、何かのたしになると本当にいいわねとはげました。

(4)素敵なお買い物

「まあ驚いた。これは新手のものごいね」うやうやしく一礼してアトリウムの向こうへ消えて行った女たちを見送って、面白そうにパオラが言った。「書きとめておきましょう。何かに使えるかもしれないわ」
「マキシマスの人気があればこその商売よ」イチジクのジュースをすすりながら、ポリアが満足そうに眉を上げた。
「あの女の人たち、本気だったみたい」リディアがあどけないしぐさで、首をかしげた。「本当にそんなことができるの?」
「マキシマスを買う?まず無理でしょうね」パオラが答えた。「今の人気じゃ持ち主が手放すわけない。コロセウムを買う方がきっと、まだかんたんよ」
「噂では彼は皇帝に憎まれているということだし」ポリアが言った。「自由にするのはとてもだめ。いっそ、皆で盗んでしまう?」

「いいわねえ、それ!」
女たちは笑いころげた。
「お金を皆で出しあえば」スペンドゥサが声をひそめて言った。「あの人を一晩ぐらいは買えるかもしれないことよ」
「え、まさか!」ワインでとろりとなった目で笑いながらフィオナが身体をのり出した。「まさかまさか、まあそんな、どうしよう?」
「ちょっと待って。あなた一人のものじゃないのよ」マルキアがフィオナのひざをたたいてたしなめた。「その一晩は彼はあたしたち皆のものよ」
「あの人、身体がもつかしら?」パオラがクッションにあごをのせて、くすくす笑った。
「コロセウムより大変じゃない?」メッサリナが、ことさらまじめそうに言って、皆がきゃあっと笑い声をあげた。
「本当にそんなことできるの?」ユニアは何だかぽうっとしながら、半信半疑でそう聞いた。
「それはできるわ」ゼナが言った。「あの人、奴隷よ。主人が言えば、逆らえないわよ」
「ちょっと、計算してみましょう」ポリアが腕をのばして書字板をひきよせた。「ええと、一晩というと…でもあれは昔のことだし」
「何がなの、ポリア?」
「母が昔、剣闘士奴隷を買った時。父がガリアに遠征中にね」
「まあ!まあ!まあ!」
「あなたその時、いくつでいらしたの?」
「七歳よ。母と私の秘密なの」ポリアは片目をつぶってみせた。
「どっちにしても、それってかなり大昔なんじゃない?」マルキアが疑わしげに言った。「相場がちがうと思うわよ」
「あたしが買ったときは千七百セステルティウスだった」カリナがグラスを見ながら言った。
「それじゃあの人、きかないでしょう」ポリアは首をふった。「きっとその倍…あら、ということはちょっとカリナ…」
「銀色みたいなすてきな金髪の青年でね」カリナは言った。
「え、剣闘士だったの、その人?」
「そーよー」カリナはとぼけた顔をしてみせた。

「ちょっとくわしく話してよ!いやだ、私、初めてだわ」アプラが興奮した。「剣闘士を本当に買ったって人に会ったの。話だけはよく聞くけど」
「そう?どってことないわよ」カリナは細いきれいな眉を上げて、ものうげに笑ってみせた。「かわいい子でね、自由になった時のために、せっせとお金をためてたの。だから、試合のない時は、あたしみたいないやらしいおばさんの相手して、いっしょうけんめいかせいでたわけね」
「あら、けなげー」
「かわいー」
「自由になったの?」アエミリアが気にした。
「それが、もうちょっとのとこで、ライオンに食べられて」カリナは何人かが口に手を当てたのを見て、はじけるように笑った。「嘘よ、嘘。ちゃんと三年間勝ちつづけて、陛下に自由のしるしの木剣のルディスいただいて自由になったわ。息せききって、それを抱えて、あたしに見せに来た時の、かわいいことったらなかった。今ごろきっと故郷に帰って、お尻の大きな人のいい田舎娘と所帯を持ってるんじゃない?」

「と、いうことはよ」召使がワインに入れる香料の皿を持ってきたのを見ながら、ポリアはカリナに指をふってみせた。「あなた、ちょくちょく呼んでたのね、その子を。一回きりじゃなく」
「ばれたか」カリナは舌を出した。「でもやっぱり、最初の時が一番かわいかったなあ。まだ初めてだったらしくて、がちがちに固くなってて、あら、身体全体がよ」
「わかってるわよ」
「あたしのガウンをぬがせながら、指がぶるぶるふるえてた。まっ赤になりながらあたしを見て、『マ、マダム』なんて言うの。『ベ、ベッドにはあのう、あなたから先にお入りになりますか』って」
皆、クッションにつっぷして、こぶしで椅子をたたいて笑った。
「そのかわいい彼が」ポリアが話を元に戻した。「千七百セステルティウスだったの?」
「なら、どうなるの?」マルキアがてきぱき話を進めた。「これってどうなの、若い方が高いの?マキシマスって三十ちょっと?」
「これは年には関係ないわ」ポリアが言った。「相場はやっぱり人気で決まる。だったら彼は今、最高ね。まさかとは思うけど下手すりゃ五けたはいくのかも」
「それと、本人の希望と、持ち主の意向にもよるわよ」セルウィリアが顔をしかめた。「話によると…」
「おお、情報通!」ゼナが拍手した。
「ふふふ」セルウィリアはまんざらでもなさそうに笑った。「私の知人が何人か手を回して、マキシマスを一晩買おうと画策したのよ、あれこれと」

「まあ、セルウィリア、交遊関係が広いことね」パオラがひやかす。「ここにいる以外にも、そんなお友だちが、あなたたくさんおいでなの?」
「もちろん、あたしたち以外にも」アエミリアが言う。「そんな女はきっといっぱいいるわよね」
「その人たちは皆、男よ」セルウィリアは言った。「でも、誰もが失敗したって。お金が折りあわなかったんじゃなくて、本人もかもしれないけど、持ち主ががんとして、金の問題じゃありません、うちの連中はコロセウム以外のとこには出しませんって言いはってるって」
「持ち主って、あの白髪のじいさんね?」
「自分も元剣闘士だったって。それこそルディスいただいて自由の身になった人なのよ。それでじゃないの?やっぱり、昔を思い出すと、そういうの、いやだったよなあとか思うんじゃない?」
「そうかな、ただ単に、もったいぶって出しおしみして、値をつり上げてるんじゃない?」カリナが言った。「田舎から来た興行師が手っとり早くハクつけるのに一番よくやる方法だわ」
「何はともあれ、彼を買うのはむずかしい」マルキアが言った。「不可能に近いかもね。それでも、ひょっとうまく行って、皆で彼を買ったとするわ。さあ、どうやって彼をわけあう?」

(5)夢はとめどなく

「その言い方は露骨だわ」ポリアが笑いながら、ちょっと眉をひそめてたしなめた。「私たち皆で、どうやって一晩彼を歓待するの、と言い直しましょう」
皆、興奮して、少女のように寝椅子の上に座り直した。
「私は詩を読むわ」パオラが言った。
「私はたて琴をひく」メッサリナが言った。
「入浴のお手伝いを」カリナが笑う。
ずるーい、と皆が声をあげた。
「ワインのお給仕を」ゼナが言った。「そして彼のひざにもたれる」
「くじでもひいて、きちんと仕事を分担しないと」ポリアが笑いながら言った。「これではけんかが起こるわね」
「くじではなくて、出したお金によるんじゃない?」フィオナが目をくるくるさせた。「結局、一万で買ったことにするとして、皆、めいめい、いくら出せる?」
百は出せない、いや、五十かなあ、と皆口々に言いあった。
「それではとても足りないわよ」ポリアが書字板をめくって書きつけながら言った。「しかたないわね。私も夫の目を盗んで、まあ、二百は出せるかな」
「あたしは千五百にしておくわ」カリナが言った。
「あら、銀の髪の坊やより下?」
「だって、一人じめできないんでしょ?」カリナは情けない声を出した。「それともちょっとぐらいは、どこかの小部屋で、彼と二人きりにしてくれる?」

「それは千五百も出したらね」メッサリナが笑った。「寝椅子もつけてあげるわよ」
「三千出したら寝台と毛布も」アプラが笑う。
「枕も」とマルキア。
「媚薬も」とゼナ。
「二人で彼を使ってしまう気?」フィオナが陽気に両手を上げて抗議した。「あたしはせいぜい、がんばって六百。でもキスぐらいはさせてよね」
「彼が入ってきたとしましょう」ポリアが言った。「あそこの玄関からアトリウムへ。堂々とした足どりで入ってきて、あの鋭い目で皆を見回す。さあ、最初に歩みよって、マントを脱がしてあげるのは誰?スペンドゥサ、あなたかしら?」
「遠慮しとくわ」スペンドゥサは手をふった。「もっと他のものを脱がしたい」
「それじゃあなたは、アエミリア?」
「え、いいの!?」アエミリアは声をうわずらせた。「さっきからずっと考えてたんだけど、あたし、七十セステルティウスがやっとだわ」
「かまいませんて」ポリアがおうようなところを見せた。「さ、これでマントをとる役は決まった。彼に近づき、手をとって、アトリウムにみちびくのは誰?」
「二人いるわね、手が二本ある」スペンドゥサが言った。
「右手は私が。でもヴェールをかぶって行くわ」フィオナが言った。「その方がかえって気にしてもらえそう」
「私もヴェールを」ゼナが言った。「そして、腕も肩も思いきりあらわにしたストラを着て、身体には香をたきしめて、彼の左手をとる」
「彼はもう、それでふらふらよ」パオラが保障した。
「アトリウムはわざと暗くしておきましょう。小さなろうそくだけを、そこここにつけて」ポリアが言った。「そしてアプラとユニア、あなたたちがそこの…」
その時だった、リディアがすっと立って「帰るわ」と言ったのは。

皆、びっくりしてリディアを見上げた。「気分でも悪いの?」とパオラが心配した。
「ええ」リディアはていねいな口調で、だがきっぱり言った。「とても」
「寝室で少し休んでいかない?」ポリアがあわてて立ちながら言った。「そうすればきっと…」
「ありがとう。でも帰らせていただきます」堅苦しい声でリディアは言った。「輿は外に待たせてあるから」
「それはそうだけど、でも…」ポリアはとまどっていた。「大丈夫?」
「ええ」氷のように冷ややかな調子でリディアは答え、テーブルから離れた。
「帰る前に、いくら出せるかだけ言っていらしてよ」カリナが声をかけた。「そうしたら、あたしたちであなたの役割を考えておいてさしあげるわ」
何人かが笑った。
リディアは銀色のサンダルをはいた、きゃしゃな足をとめてふり向いた。顔がかすかにこわばっていた。「あなたたちって最低」と彼女は澄んだ低い声ではっきり言った。「汚らわしい。恥を知りなさい」
そして、身体をひるがえすと、そのまま早足でトリクリニウムを出て行った。
「ちょっと待ってね」ポリアは呆然としている皆に向かって言うと、すぐさま、そのあとを追って出て行った。
皆が何となく黙っていると、ポリアが戻ってきた。「輿にのって帰ったわ」と、ものなれた様子で彼女は言った。「どうかしてました、失礼をお許し下さいって」
「疲れていたのかしらね」カリナが言った。「気がつかないで悪かったわ」
「心配ないわ」パオラが言った。「生理か何かだったのよ」
「果物を運ばせましょう」ポリアがそう言って召使を呼んだ。「皆さん、いっそ、入浴なさる?その間にここを片づけさせるから。そして、奴隷たちに音楽をかなでさせるから、パオラ、あなたの新しい詩を朗読なさってよ」

「お待たせしてしまいましたねえ、奥さん。どれにします?」
店の主の声にユニアは我にかえった。気がつくともう客はユニア一人になっていた。
「そのオレンジ色のろうそく、ちょっと変わったいい匂いでしょう?あたしはいいと思うんだが、くせがありすぎるのかなあ、なかなか皆さん買わないんです」
「そうね、これと…」ユニアはマキシマスがいつも着ていたチュニカと同じ空色のろうそくをとった。彼の目の色もこうだった、と思いながら。「こちらもいただくわ」
「その白とばら色のろうそくはどうでしょうね?」商売上手らしい店の主は、ユニアのさし出すろうそくを、ていねいな手つきでうけとりながら、ひかえめに微笑してすすめた。「清々しい、いい匂いがします」
ユニアはそれをとり上げて、そっと顔をよせた。気のせいかもしれなかったが、マキシマスに抱きついた時、彼の身体からただよってきた香りに似ているような気がして、結局それも買った。「おまけしておきますよ」と言って、主は小さい緑色のろうそくも一本包みにすべりこませてくれた。
「マキシマス日和ですなあ」大きな蓮の葉っぱでくるんだ、ろうそくの包みをユニアの買い物袋に入れてくれながら、主は明るく晴れわたった空を見上げて、楽しげにそう言った。

第四章 中央広場の午後の雨

(1)浴場でのひととき

ユニアがアパートに戻った時、マキシマスはまだニギディアのへやにいて、二人の子どもたちのおもちゃにされていた。小さい男の子に背中にまたがられ、女の子に首にリボンを巻きつけられて、殉教者のような顔をして腹ばっていたが、その深刻な顔つきをユニアは信用しなかった。マキシマスは小さい子どもたちから手荒に扱われたり、もみくちゃにされたりするのが大好きなのだと知っていた。赤ん坊の扱いも堂にいったもので、「歯でくわえて運んでも、赤ちゃんの肌に傷ひとつつけないんだよ」とアパートの女たちは感動して話し合っていた。「ユニア、あんたいいね。あたしも、こんな亭主がほしいやね」
夕方まではまだ間がある。マキシマスはそのままにしておいて、ユニアは同じアウェンティヌス地区にある行きつけの小さな浴場に行くことにした。
男性用ほどではないが、女性用の浴槽も広くて明るく、運動もできるし、お茶も飲めるようになっている。みがきあげられた石の浴槽からふんだんな湯があふれて流れ落ち、もうもうとあたりは湯気で煙っていた。身体を洗ったあとでユニアは、浴場専属の髪結い女のメテにマッサージしてもらって、髪も結ってもらった。長い髪をていねいにくしけずってもらっていると、ブラシをかけられている時のマキシマスのうっとりした顔が思い出される。きっとこんな風に気持ちがいいのだろうと思ってユニアはおかしかった。
「おめかしをなさるんですか?」目を閉じたまま小さく唇をほころばせているユニアに、メテが話しかけてきた。「明日は、あの剣闘士が亡くなった日ですものねえ」

ユニアは目を開け、「あら」と言った。「あなた、あの人…知ってるの?」
「大ファンでしたもの」メテはピンを口にくわえていたので、もごもごと返事をした。「あのころのローマでは、男も女も皆そうでしたけどね」
「ほんとよねえ」ユニアはうれしくなって笑った。
「けっこう、いらっしゃるんですよね」メテは言った。「明日は、あの人のために一日、客をとらないことにしてる娼婦とか、皆で集まってあの人をしのぶという奥さま方とか、今でもお客さまの中に」
「あたしもファンだって、なぜわかったの?」ユニアは聞いてみた。
「まあ」おかしそうにメテは笑った。「いつも浴場の前で待ってる大きな立派なわんちゃんに、マキシマスって名前つけてらっしゃるじゃないですか?」
「あ、そうか。そうよねえ」ユニアは笑った。
「あのわんちゃんは、今日はお留守番なんですか?姿が見えないようだけど」
「近所のおうちの子守りをしてるの」
「まあ、何てやさしい」メテは声を上げた。「あの剣闘士も結婚してたら、そんなことしてくれそうでしたねえ。あんなに勇ましいのに、とても優しそうで。うらやましいですよ。あの人にキスしたことがおありなんでしょう?」
「えっ、どうして知ってるの?」
「時々、こちらに来る奥さまの中に教えて下さる方がいらっしゃって。あの人はマキシマスに抱きついてキスしたことがあるのよ、って」
「いやだ、本当?」ユニアは肩をすくめた。実際、そんな気分だった。「何ていう方?どんな方?」
「さあ、何人かがおっしゃったんですよ。皆さん、どなたも、ご立派な奥さま風で、お身体の線もとてもおきれいな方ばかり」
あのころのグループの誰かかしら。ユニアは思った。ここの浴場では、あの頃の友だちとは会ったことがない気がしていたけれど。
でも、わからない。十年もたつのだから、こちらが見忘れているのかも。

メテは慣れた手つきでユニアの髪をひと房づつ、ひっぱっては丸めて、まとめようとしはじめている。ユニアはぼんやり、ポリアの屋敷に集まった婦人たちのことを思い出していた。
マキシマスの死後、コロセウムに行くのがつらくて、つい足が遠のき、そのまま、あの頃つきあっていた婦人たちとも疎遠になった。
時々、通りや広場で会うと、あいさつはかわしたが、もともと身分の高い婦人が多く、輿を待たせていたり、奴隷たちを連れていたりで、ゆっくり話はできなかった。
ポリアはまた戦車競技のファンに戻っているらしいし、女剣闘士になりたがっていたスペンドゥサは結婚して、子どもがいるらしい。ゼナは女優をやめて、どこか田舎にひっこんだと聞いた。
夢中だったなあ、あの頃は。
軽い吐息をユニアはつく。
そして、かすかな悲しみとともにリディアのことを思い出す。
マキシマスのことで冗談を言って笑っていた皆に、静かなきびしい、さげすみのまなざしを向けて、アトリウムから花の香りのする夜の闇の中へと消えて行った、彼女の小さな白い顔を。

(2)思いがけない噂

あの時に限らない。
リディアはいつも美しかった。
真珠色のなめらかな肌も、さんごのように赤い小さな唇も。
そして、凛としているようなのに、はりつめてふるえているようなまなざしは、マキシマスを見る時に感じるのとはまったくちがっているのに、どこか似た不安をいつも、ユニアの胸にかきたてた。
その完璧と言いたいほどの美しさが逆にとても空虚に見え、彼女がそこにいるだけで何かとても不幸なことが起こりそうな息苦しさを感じてしまう。彼女のことを抱きしめたいのか、傷つけたかったのか、今でもよくわからない。
そんな彼女が、父親の威光でマキシマスを買い、一夜をともにすごしたと聞いたのは、彼女がポリアの屋敷を出て行ったあの日から、ひと月ほどたった時のことだった。

「本当なの、それ?」とパオラが言っていた。
「もちろん、たしかな情報よ」セルウィリアがきっぱり言った。
「あなたの話を疑うわけじゃないけどね」マルキアが首をふった。「でも、そんなのってないわよ。それはないでしょ。あんまりだわ。いくら何でも。そう思わない?」
「あ、そうかな?あの人だったら、やりかねないわよ」カリナが吐き捨てるように言って笑った。
ユニアは何も言わなかった。何と言っていいのかわからなかった。何も考えられなかった。
ただ黙って座って、皆の話を聞いていた。

「たしかなことはまだわからないから」ポリアがそう言って皆をなだめた。
「たしかなんですったら」セルウィリアが両手を上げた。「朝、二人の寝室に入って行った兵士がね、いかがでしたと聞いたんだそうよ。そしたら彼女にっこり笑って、最高でしたと答えたらしいわ。そこまでわかってるんだから」
「言いそー。いかにも」カリナが唇をゆがめた。「ま、ものたりませんでしたと言うよりましか」
「だけどマキシマスって、絶対買えないんじゃなかったの?」フィオナがほおを赤くして、誰にともなくそう尋ねた。
「カナリウス議員に不可能はないわ」スペンドゥサが舌うちした。「かわいい娘におねだりされたら、そりゃもうあなた、いちころだわよ」
「お父さま、あれほしい、あれ買ってえ、ってわけ?」ゼナがため息をついて額に手をあてた。「まあ、彼女ほどきれいなら、マキシマスもまんざらでもなかったりして」
「案外、夢中でサービスしたかな」カリナがヴェールの端を宙に投げてもてあそびながら、小さい声で言って笑った。
「ふう、そうね」スペンドゥサが腕組みした。「リディアみたいなタイプって、意外とベッドじゃすごいかもしれない」
「もういや、やめてよ」パオラが顔をしかめた。
「そんなことでも言ってなきゃ、やってらんないでしょうが」ゼナがぶつぶつ言う。
「何とか言ったら、ねえ、ユニア?」アプラが声をかけてきた。「こうなったらもう、あなたがマキシマスにキスしたのなんてどうってことなくなっちゃうよね」
ユニアはぼんやり、元気なく笑って「そうね」とだけ言った。
「彼女ったら何でそんなことしたのよ?」メッサリナがいらだった声を出した。「ひょっとして、あたしたちのせい?そういうことになるのかしら?」
「それも彼女、計算の内なんじゃないの?」パオラがしらけた声で言い返した。
ユニアは顔を上げていようと思っても、ひとりでにうなだれてしまう。
何が起こったのか、どう考えていいのかわからない。
あのリディアが、あのマキシマスと抱き合った。
ひと晩いっしょに過ごして、すべてを与えあった。
その事実がいっぱいに頭の中に広がって、今にも爆発しそうだった。

それから何日かして、リディアがポリアのアトリウムに何事もなかったかのようにやって来た時、皆は無言になり、ぴりぴりとはりつめた空気だけが流れた。
ユニアはその息苦しさに耐えられず、黙ってただ目を伏せていた。
誰かがからかうように言っていた。「あなた、マキシマスを買ったんですって?」
「ええ」腰を下ろしながらリディアは静かにきっぱりと言った。その話はもうそれ以上、する気などないと言うように。彼女の方を見る勇気はなかったが、ユニアはなぜか、ほっとした。
けれども、それで緊張がゆるんだのか、別の何人かが笑って「で、どうだったの?」「教えてよ」とせまった。

リディアは黙っていた。そして息づまるような沈黙が続いた後で、彼女が少女らしい細く澄んで落ち着いた声で「どうして私がそんなこと」と言うのが聞こえて、ユニアは思わず背筋をこわばらせた。「あなた方にお話しなくちゃならないの」
今度こそしんとなった。それからまた誰かが、少しどもりながら言った。「それじゃなぜ、ここにいらしてるの、あなたは?」
リディアはちょっとまた黙っていてから、静かに「そうね」と言って立ち上がり、帰って行ってしまったのだ。
今でも、その時のことを思い出すとユニアは夢を見ていたような気がする。それほどすべてがあっけなかった。
他の婦人たちも皆、そう感じていたのではないだろうか。何がいったい起こったのか、誰もがよくわからないでいる内に、すべてが終わってしまったと。

(3)きしむ人の輪

あのことが、皆の動揺を生んだのだろうか?
それで、あんなことがひきつづいて起こったのだろうか?
ユニアには今でもわからない。
それがユニア自身をめぐって起こったことであっただけに、なおのこと、いっそう。

リディアの姿は、それからもコロセウムでよく見かけた。ユニアたちをしいて無視するのでもなく、さけるのではなく、だが、さりげない静かな顔で、家族らしい人たちと前の方に座っている。マキシマスが勝った時に、かたわらの人に向いてほほえみながら何か言っている横顔は、落ちついて、堂々としていて、美しかった。
「彼女少し太ったんじゃない?」ゼナがそんなリディアをじっと見つめて、皆にささやいた。
「マキシマスの赤ちゃんができたっていうの?」やけっぱちな調子でカリナが言って、皆ひそめた声で大笑いした。
「そんなあ、たった一回で?一晩で?」フィオナが叫ぶように言って、皆にしいっと制される。
「一晩だかわかるものですか」スペンドゥサが言った。
「それに一回ってことも絶対ない」マルキアが断言した。「朝まで何回愛を交わしたことか」
「最高でした、だもんね」メッサリナが吐息とともにくり返した。
「あらら、一回だけかもよ」セルウィリアが首をふった。「熱烈な一回の方が、子どもができる可能性が高いっていうわ」
「だけど、避妊はしたはずよ。いくら何でも」パオラが言う。「その方法も知らないぐらい二人とも子どもじゃないでしょう」
「激しい愛を交わしたら、海綿なんて破れるから」ゼナがささやき、また皆、声をひそめて笑いあった。
「マキシマスが子どもを残したいって言ったのかもね」メッサリナがつぶやいた。「故郷の子どもは殺されたんでしょ?だからほら、自分の生きたあかしに、忘れ形見をこの世に残しときたいって」
「そうなったら、どうなるんだろうね、その赤ちゃん」アエミリアが気にした。「カナリウス議員の家で育って、あとをつぐの?」
「まさか。マキシマスは皇帝と憎みあってるのよ」マルキアが言った。「きっとすぐ、赤ちゃんとり上げられて、殺されるわ」
皆はちょっと黙って、前の方にいるリディアの細い、白いうなじを見つめ、ユニアはそんな自分たちが何だかとても、みにくく思えた。

そのころ何となく、ユニアは皆からよそよそしくされているような気がしていた。
なぜそうなのか、自分でもわからなかった。
気のせいかしら、と思っていたが、ある時、皆でしゃべっていてポリアが「結局私たちの誰もマキシマスに直接さわったことってないのよね」と言ったので、え?と思った。
「そうそう」カリナがすぐ、あいづちをうった。
変なの、とユニアは思った。あたしがマキシマスに抱きついてキスしたこと、皆、忘れているのかしら。
だが、何か言う機会をユニアは逃した。話題はすぐまた別のことに移った。それもまるで、ユニアに口をはさませないかのように。
数日後、今度はフィオナが言った。「これまでに一番マキシマスの近くまで行った人って誰だろ、やっぱりポリアかなあ」
「ちょっと肩にさわっただけよ、最初の頃、どさくさまぎれにね」
「私は腕を一度たたいたの」
「え、それってすごくない?」
「あら、あたしはね…」
ユニアは黙っていた。もうはっきりわかった。皆は忘れているんじゃない。あたしがマキシマスを抱いてキスしたことを、なかったことにしようとしている。
でも、なぜなんだろう?
それが、わからなかった。

そういうことが何度かあって、とうとうある日、パオラが言った。「ユニア、マキシマスにさわったって言ってなかったっけ、最初?」
「ええ」ユニアはほっとして、そう答えた。その一方でなぜか胸が苦しくなり、なぜだろうと自分で思った。
「そういうかんちがいって、あるわよね」アプラが笑いながら、さらりと言った。「あたしもよくやる。そういうまちがい」
回りで皆が笑いさざめいていた。ポリアの家の小じんまりしたトリクリニウムは、ジュースや花やケーキの匂いで居心地よく満たされていた。それでもユニアはすうっと広い空間にひとりぼっちでいるような、うそ寒さを感じた。何も言えなかった。
「マキシマスじゃなかったんでしょ?」セルウィリアが、ケーキをとりながら、何でもなさそうに明るく笑う。
どう答えたらいいんだろう?ユニアはまったくわからなかった。息がつまりそうだった。
「わからないわ」やっとのことで、そう答えた。
「あら、でも」まるで待っていたように、メッサリナがすぐに言った。「アエミリアは見てたんでしょう?」

そうだ、アエミリアは見てたんだ。
そう思ってふり向くと、アエミリアは目をそらして、「ええ」と言った。「マキシマスじゃなかった」
「何を言うの!?」ユニアは思わず大きな声を出した。
それで逆に勇気が出たのか、アエミリアはしっかりユニアを見返し、「マキシマスはあの時、先に歩いて行ったわ」と言った。「あなたが抱いていたのは、彼のとなりにいた人だった」
「よくあることよう」スペンドゥサが大声で笑った。「このケーキおいしい!ポリア、どうやって作ったの?」
「ハチミツとね、ゴマをすりつぶして、ケシの実も入れて…」ポリアはおっとりと答えた。「あとはさあ、何だったかしら…」
「何か、こつがあるのよね」パオラはケーキを割って、つくづくと見ていた。必要以上に熱心に見ているようだった。

(4)その方がいいのなら

ユニアはわけがわからなかった。
どうしたというのだろう?
皆、どうしてしまったのか。
それからも何度も、さりげなく、その話題は出て、皆はそのたび、ユニアの顔を見た。ユニア自身がはっきりと言うのを待っているようだった。あたしってバカねえ、とか、ほんとにさ、まちがえちゃって、とか。
だがユニアは言わなかった。
それだけは、言えない気がした。
アエミリアはあれからというもの、ずっとユニアをさけている。
追い回して問いつめる気もユニアはしなかった。
ある日の午後、中央広場で雨にあい、近くの屋台で雨宿りしている時にイリスに会い、久々にいっしょにおしゃべりした。ユニアがその話をするとイリスは「ふうん」と言った。「無理もないわよね。マキシマスにさわったりキスするなんて、今じゃ誰にもできないもの。その人たち、これまでずっとユニアのことが、すごくうらやましかったんじゃないの?」
「うらやましい?」ユニアは目を見はった。「だってあの人たちは皆、何でも持ってるわ。お金も、才能も、地位も、何もかも。あたしなんか死ぬまで絶対に持てないものばかり」
「だからじゃないの?」イリスは首をふった。「何でも持ってる人たちって、何が欠けてもいやなのよ」
「あたしがマキシマスにキスしたことを、なかったことにして、それであの人たちが何かを手に入れられるの?」
「さあ。マキシマスは誰の手にも入らないことにしておきたいんじゃないの?」イリスは言った。「あんな奥さんたちの気持ちはわからないけどさ」
「皆、とてもいい人たちよ」ユニアは言った。
「そうかもしれないけどさ」イリスは新しいお茶を注文しながら、つまらなさそうに、ひざのケーキのくずをはらった。「あんた、あんまりかんたんに折れて、思いちがいでしたなんて、言わない方がいいんじゃない?」
「そう思う?」
「わかんないけどさ。それ認めたらすぐ、あの人たちの仲間からあんた追い出されそうな気がする」イリスは言った。「マキシマスにキスしなかったあんたなんて、もう何の価値もないもんね」

皆といっしょの時の空気が、次第にはりつめて、ぎごちなくなって行くようなのが、ユニアはつらかった。
それは自分のせいだと思った。
自分が嘘をついてしまえばいいのだろうか。そうしたら皆また、楽しく気がねもこだわりもなく、おしゃべりできるようになるのだろうか。
それなら嘘をついたっていいわ、という気持ちにユニアは、だんだんなりはじめていた。
あたしがマキシマスを抱きしめてキスしたのは、絶対にほんとなんだもの。
嘘ついたって、そのことがかわるわけじゃない。
それで皆がまたもとどおりになれるなら、それでいいんじゃないだろうか。
そんな気がするのだった。

そんなあの頃、ユニアは二人の女にたてつづけに会った。
一人はあの夜、金をめぐんでもらいに来た、浅黒い肌のやせた女だ。もう一人はオクタウィアだった。

(5)風の強い日

ティベレ川の上に夕焼けが美しかった。
ユニアはへやをきれいにかたづけ、テーブルの上にろうそくをおいた。
ニギディアのところから戻ってきたマキシマスが、さも一仕事すませてきたといったように、満足げなあくびをしている。

もっと楽しいことを思い出したい。
静かに開かれた、ゆるやかな心で、この夜をすごし、マキシマスが死んだ明日という日を迎えたい。
そう思うのに、ひとりでにユニアの心は、こわばってひきしまり、固く閉ざされて、押しよせてくるさまざまな痛みを感じまいと身構えている。
あれからもう、こんなにも時はたったというのに。
いや、時がたったからこそ、ようやく、少しづつでも、あの頃おこったいろんなことを、聞いたことばの数々を、考えられるようになってきたのだろうか。

ユニアは、ろうそくに火をつける。
マキシマスを借りたお礼にと、ニギディアがくれた貝のスープの鍋が、かまどの上でいい匂いをさせている。
ユニアは目を閉じる。
あれは、どういうことだったのか。
本当は何があったのか。
いまだによくわからない。

「あたしがマキシマスを救いたいのは、あなた方からなのよ」
やせて浅黒い肌の、あの女は、ユニアをきっと見つめてそう言った。

あの日は風が強かった。
あちこちの家の窓やとびらが、がたがたと鳴っていた。
コロセウムのそばの細い街路。女は腕を組んで壁にもたれていた。
そもそもなぜ、あんな通りに行ったのだったか。
あの女が手招きしたのだ。コロセウム帰りのユニアを。マキシマスのものよ、と言って、細いすりきれた革ひもを売りつけようとした。これを手首にまいて彼、戦っていたの。見てたでしょう?すりきれたから、古いのを捨てて、新しいのにかえて、それで、ひろった人が私にくれたの。まちがいなく本物よ。彼が身につけていた品。
半信半疑で、でも断るのも悪い気がして、ユニアはそれを買った。女がその金を財布にしまうのを見ていて、つい聞いた。マキシマスはいつ買えそう?
その内にね。きっといつか。女は鋭い目でまっすぐユニアを見て答えた。みじんのゆらぎもない、強い声だった。あの人を救わなきゃ。
皇帝から?ユニアがそう聞くと、女はあのことばを言ったのだ。あたしがマキシマスを救いたいのは、あなた方からなのよ。

「彼のことなんか誰も考えてないでしょう、あなた方は、皆」女は言った。「彼の幸福なんか、何も。大切なのは自分たちだけ。自分たちの集まり、自分たちの書く詩、自分たちの生きている実感。大切なのはそれだけでしょう」
石だたみの道に、風がほこりをまきあげる。吹きつける風に髪を乱して、昂然と女は顔を上げている。
「それではどうしていけないの?」ユニアは聞く。「彼は、剣闘士なのよ」
切りさくような音をたてて、風がうなる。

オクタウィアとは、コロセウムの通路で会った。
そのころは彼女もまだ若く、髪にも白髪はまったくなかった。
重苦しい気持ちをかかえて、ポリアたちのいる席に急いでいたユニアをひきとめて、私たちの席においでにならない?とオクタウィアはさそった。ちょうど急に来られない人が何人か出て、とてもいい席が空いてしまっているのよ。
せっかくですけど。ほほえんでユニアは断った。
そうね、こんなにぎりぎりになってからすすめたのでは、かえってお困りよね。ごめんなさい。オクタウィアはあまりこだわる風もなく、そう言って離れて行った。

そしてポリアたちの席に行くと、風向きが変わっていたのだ。

(6)ゆれる光の中に

ふと気がつくと、マキシマスが腹ばいになって前足の上にあごをのせ、へやの片すみからじっとユニアを見ていた。
「マキシマス?」
低く声をかけてみると、しっぽをちょっと動かしてこたえながらも、目の方は眠っているふりをして、とぼけてすうっと閉じる。
「何よ?」ユニアは小声で言って、笑った。
マキシマスがユニアのことをどう思っているか、ユニアはいまひとつ、いつもつかめない。
かなりバカにしているような気のする時もあるし、自分がいなくなってもちっとも悲しまないんじゃないかと思うくらい、冷たくさめて見える時もある。
けれど、時々、ユニアがマキシマスのことを忘れてしまって熱心に、糸が切れた首飾りの修理をしたり、無心に髪をすいていたりしていると、ふと視線を感じることがあって、見回すと、へやの向こうのはしや、通りの反対側や、思いがけない遠くからマキシマスが金色の目で、じいっとユニアを見つめていることがある。

そんな時なぜかユニアはとても、よくわかるのだった。
ああ、この犬はあたしのことがとても好きなんだ、と。
うれしくなって思わず呼ぶと、マキシマスはいつもすっと目をそらしたり、まぶたを閉じて寝たふりをする。
ユニアが近づいて行って頭をなでて、「今、見てたでしょ」と話しかけても、頑固に目を閉じて眠ったふりをしている。その顔も姿勢もいかにもわざとらしくて、起きているのがはっきりわかるのでユニアはいつも吹き出すのだった。
「変な犬」と耳をつまんでささやいてみる。「あたしのこと、好きなんでしょ?」
マキシマスは、ものすごくそしらぬ顔をしてみせる。
「前の飼い主に悪いと思ってるわけ?あたしのこと好きになったら?」
マキシマスはやっぱり知らん顔をしている。だが、ぴくりとも動かずに聞き耳をたてているようでもある。

「自分でも気づかずに、ずっと、いつも、歯をかみしめているのよ。気がつくと、あごが疲れて、だるくて、痛い」
オクタウィアの声が思い出された。明るく笑ってそう言いながら、彼女は胸に抱いた猫をなでていた。
猫は病気で死にかけていた。それでも何をしに来たと言うようにユニアをじろりとにらみ、えらそうな顔でオクタウィアのふっくらとした腕に、白い前足をかけて抱かれていた。

夕焼けも色あせ、あたりは暗くなり、アパートのへやの中にろうそくの光が美しい。
「マキシマス」なぜかせっぱつまった気持ちになって、ユニアは強く呼びかけた。
何かを感じたのか、珍しくマキシマスは目を開けてすぐ立ち上がり、ユニアのそばへとやって来た。
身体をかがめて、その太い首にユニアはそっと腕を回した。
「おまえもいつか死ぬの、マキシマス?あたしを残していなくなるの?あの、オクタウィアの猫のように?」

マキシマスは黙ってユニアに大きな頭をくっつけている。
ふさふさと深い首すじの毛がユニアのほおにあたたかく押しつけられている。
心がやわらかく溶けていくようで、ユニアはじっとその太い首に顔を押しあて、抱きしめる。
そうやって自分を力づけながら、あの時のことを思い出そうとする。
ポリアたちの席にユニアが行くと、皆がにぎやかに笑って迎えた。奇妙にはしゃいだ表情で、カリナがユニアの肩を抱きよせた。
「マキシマスを抱いた人が来なくちゃ、試合がはじまらないわ」とアプラがはずんだ声で言った。

それからすぐに試合が始まり、あまり強くない剣闘士たちが激しく戦って、殺しあった。

「私って女は、どこかおかしいのかしらねえ」
オクタウィアの声が、また聞こえた。
「マキシマスはただの猫。それをこんなに愛してしまって」
猫は静かにオクタウィアに抱かれたまま、ユニアを見返している。あいかわらず美しいつやのある金色の毛をして、緑がかった目の光も堂々と強い。ユニアが見ていると、猫はもぞもぞもがき出し、オクタウィアがそっと床に下ろすと、そばの低い木のベンチに飛び上がって、大きな尻を高く持ち上げ、ばりばりとつめをといで見せた。
「ふだんとそんなに変わらないんじゃない?」ユニアは聞いた。
オクタウィアは首をふった。「あなたがいらしてるもんだから、いいかっこうして見せているのよ、この子。毛がふわふわでわからないと思うけど、もう以前の半分ぐらいにやせちゃってるの。何も食べられなくて、水も飲めなくて、それでたいそう、きげんが悪いの。私が食べ物も飲み物も、わざとまずいもの出してると思ってるらしくて、不満たらたら。どこかにおいしい水をかくしてるんだろうって顔でね、家から庭から探しまわって、いろんなとこの水を飲んでみようとしてはどこもだめなもんだから、結局私の不行き届きだと言わんばかりの顔してね、ますますきげんが悪くなる。何てことでしょ、この子が飲めるおいしい水が世界のどこかにあるもんなら、どんなことしても私は手に入れて、飲ませてやらないはずないじゃないのよねえ?」
オクタウィアは苦笑していた。
「本当は声をあげて泣きたいわよ。毎日、涙のかれるまで。でもそうしたら、この子がね、何か変だと気づくでしょう?私の態度や声が変わるとすぐに何かを察するんだもの。だから、歯をくいしばって、いつものようにしてるのよ。ゆったり笑って、落ちついて、何でもないようにこの子に話しかける。でもそうやってて気がつくと、ずっとあごに力を入れて、泣くまい、無理に笑おうとしてるから、耳から首まであごのあたりが全体こわばってしまって、もうあなた、大変なんだから」

猫はつめとぎをやめ、窓の方へと歩いて行っておもむろに上を見上げた。「はいはい」と言いながらオクタウィアが立って行って、抱いて窓べにのせてやると、ニ三度ゆっくり回ってから、そこにひっそり寝そべった。
「いつからそんなに悪くなったの?」ユニアはそのままそこに立って、猫をなでているオクタウィアを見ながらたずねた。
「ほんの三か月も前のことよ。実際、急に悪くなったの」オクタウィアは首をかしげて思い出しながら答えた。「この子は毎晩、私といっしょに寝ているの。人間みたいによりそって。それで、ある夜、この子のしっぽが、変に上の方に、私の顔に近い方にある気がして、おや?と思ったのが始まりね。やせて、肉が落ちてきて、小さくなってきていたので、身体がちぢんで、しっぽが頭に近づいてきていたんだわ」
ユニアはうなずく。
オクタウィアの屋敷にくるのは、これが二度めだった。遊びに来て、と使いが来た。でも猫が病気なので悪いけど今日はあなた一人でいらしてね。何かせっぱつまった感じがあった。それにしても、それほどつきあいもない自分をなぜ呼ぶのだろうとユニアはけげんに思いながら出かけてきたのだった。

オクタウィアになでられながら、猫は静かに息をしている。そのたびに、脇腹の白い毛がかすかに動いてゆれている。
消えて行く前の、それでもたしかに息づいている命。
なぜか、人間のマキシマスのことを思い出し、ちょうどその時オクタウィアがまた、「私はどこか、おかしいのかしら」とひとり言のように言った。「人間のマキシマスにも、あんなに夢中になって。その人のことなど何も知らない剣闘士を、親しい友人より家族より愛してしまって。そして今度はこの猫だもの…ねえ、ユニア」オクタウィアは首をすくめる。「愛するものがあるってことは、ちっとも幸せなんかじゃないわね」

マキシマス!マキシマス!コロセウムにいつもの歓声がこだまする。ポリアたちも叫んでいる。ふとユニアはその中に、アエミリアの姿がないことに気がついた。
メッサリナが身体をよせてきて、そっとささやく。ごめんね、ユニア。疑って。あの人が変なこと言うもんだから。
誰が?と聞き返したユニアの声は、あたりの歓声にかき消されてしまう。

それ以後もう二度と、アエミリアがポリアたちのグループに近づいてくることはなかった。

(7)私は涙を流さない

オクタウィアの手がそっとやさしく猫をなでる。ふっくらとした丸っこい彼女の指に今日は指輪ははまっていない。
「さわるともう、少し冷たいの」と彼女はつぶやくように言う。「前はベッドで抱いていると、暑いぐらいにあたたかだったのだけどね。それでも生きていてくれるのが、毎日ほんとにありがたくて。いろんなことを思い出すのよ。私が出かける時に化粧をして、衣装をととのえてふりむくと、この子が批評家のような目つきでベッドの上からじっと見ていて、『マキ、お母さんはきれいでしょ?』と私が言うと、答えるようにみゃあと鳴いたり。夜に私が本を読んでいると、ベッドの上に長くなったこの子が寝ようよ寝ようよとささやくように、にゃっ、にゃっと、やっと聞こえるような小さい声で何度も呼んだり。朝、起きようとする私を甘えた声で鳴きながら太い前足を首にからめてひきとめたり。何もかもが、とろけるように幸せで、でもそのたびに、いつも思った。こんな幸せがいつまで続くのだろう。これもいつかは終わるのだ、きっと終わってしまうんだって。それでもかまわない、そんなことなど恐くない、心のどこかでそうくりかえしながら、いつもこの子を抱きしめていた」

数日後、猫は死んだ。
知らせをうけて、なぐさめに訪れたユニアをオクタウィアはにこやかに出迎えた。「あの子の前で無理してたのがもうくせになってしまって、悲しい顔ができなくなって」と笑っていた。
猫は夜明けに、彼女の胸に抱かれたままで死んだのだった。「あの子の心臓の音が消えていって、二度と聞こえなくなったのを指の先で感じて、そのまま黙っていつまでも抱きしめていたら、そのかたちのまま丸くかたまってしまったのよ」とオクタウィアは言った。「ちょうど眠っているように見えたから、そのまま花をつめた箱に入れて、庭のリラの木の下に埋めてやったわ。しっぽだけはね、生きている時と同じように自由にゆれて動くから、それをあの子が、きげんのいい時いつも気どって、きちょうめんにくるっと身体にまきつけていたのと同じように、きれいにきちんと、まきつけてやって」

「あの子が死んだ日の朝は、それこそマキシマス日和で」オクタウィアは思い出すように話した。「一晩中、あの子は苦しそうにあえいでいて、あけ方まではもたないと思っていたの。それでも何とか夜は明けた。静かに晴れた朝で、小鳥が庭の木で鳴いていた。そんなになっていても、あの子はまだそれに興味があるようで、耳を動かし、顔をそちらに向けていた。いつかまた、木に登って鳥をとってやるんだと思っているように。そう思いながら、あの子が聞く最後の鳥の声なのねと思った。最後に迎える朝なのねと。それまでの何か月かずっと、季節の花が咲くたびに、雪がふるたびに、あの子が見る最後の花、最後の雪だと思いながら、あの子といっしょに見ていたのよ」
もう猫の姿のない窓べの上をオクタウィアはそっとなでていた。
「あの子はその朝、ここにいたの。最初はベッドに寝ていたのだけど、少し気分がよくなったようで、ここに上がりたそうにするから、クッションをおいて、のせてやったの。身体はもう板のようにやせこけて、顔もすっかり変わってしまっていたけれど、それでも気持ちよさそうに寝ていた。私は召使たちに家のことを指図して、夫を送り出して、へやに飾る花を選んで、あの子のえさをいつものように自分で作った。もう食べないとわかっていても、ひょっとしてひと口でも食べてくれないかと思って、毎朝そうして作っていたのね。それで、そうやって、あの明るい静かな朝、窓べで寝ているあの子を見ながら、お皿にえさを入れていると、まるで何ごとも起こっていない、あの子の元気な幸福な頃の、いつもの朝のようだったわ」

「それはずっともう、そうだったの」微笑みながらオクタウィアは言った。「あの子の具合がどんどん悪くなって行って、やせて、今まで食べられてたものが、ひとつひとつ食べられなくなる、長く歩けなくなる、テーブルに上がれなくなる、椅子に上がれなくなる。そういうことが一つ一つ起こるたびに、あの子は不きげんになるし、私はあわてた。でも、その内に私たちは、どちらもその状態になじんだ。ずっと前からそうだったように、このままずっとまたこの状態が続くように落ちついて、その生活に慣れるの。何ごともなかったようにしばらく暮らして、でもまたすぐに確実に一段階あの子の具合が悪くなる。水が飲めなくなる、歩くのがつらそうになる。そしてまた二人で動揺し、やがてまた落ちつく。先に待っているものがわかっていても、それなりに幸せな状態が少しあれば、もうそれでいい、永遠にそれが続くような気持ちになる。またすぐそれは終わるのに、その間隔はだんだん短くなって行くのに、いつも訪れるたびに性懲りもなく安らぐ自分がふしぎだった。強いなあと思い、愚かだなあと思いながら、そんな自分を許していたし、そんな自分にすがっていたわ」
かすかな吐息をオクタウィアはつき、そこにいる猫の頭をなでるように手を宙に浮かせたまま、窓の外にそよぐ木々の梢を見た。
「あの日の朝、思ったわ。きっと、これが最後の安らぎ、最後の小休止になるのだろう。彼にとっても、私にとっても、二人で過ごす、最後の、あともうたった一度の」オクタウィアはうなずいた。「そして、ほんとにそうなった」

「コロセウムであの人が皇帝に殺されたあと、そのことで決して泣いたりしないように私は気をつけていた。剣闘士に熱を上げる愚かな上流婦人たちを世間はもの笑いの種にしたがる。諷刺詩人もえじきにする。自分がそんなことになったら、あの人までが笑い話の一部にされることになる。それが私は耐えられなかった」
別れしなにオクタウィアは、猫を埋めた木の下で、ユニアが持って行った金色とピンクの花束を、墓のしるしらしい小さい丸いクリーム色の石の上においてやりながら、静かな声でそう話した。
「この子だってそう。他の人の目から見たらただの猫だわ。私がどんなに愛していても、世間の目では、たかが一匹の猫にすぎない。そんなもののために、私が泣き悲しむのがこっけいだと人が見ていて思ったら、私だけでなくこの子までがこっけいになってしまう。だからねえ、ユニア。この子が死んでも私は決して泣かないし、涙も流さないつもり」
そう言っていたオクタウィアも、それから二年もたたぬ内、ローマに大流行した熱病にかかって死んだ。

(8)長い夜

ユニアはマキシマスを抱きしめる。
強く、強く抱きしめて、その鼻先に顔を押しつける。
「いつか、おまえも行ってしまうの?少しづつ遠ざかって、最後はどこかに消えてしまうの?」
テラスから涼しい風が吹き込んでくる。戸外はもうとっぷりと暗く、空には星がまたたきはじめた。ろうそくの炎がちらちらと心もとなくゆらぎ、通りを走る馬車の音ががらがらとここまで上がってくる。

自分にはわかっていた、とユニアは思う。
ずっと、ずっと、わかっていた。
嘘をついたのはアエミリアじゃない。
いいえ、アエミリアが嘘をついたのは、彼女自身の考えじゃない。
誰かが彼女に言わせたんだ。
一人か、何人か、皆か、それはわからないけれど。
何のためかもわからない。
そんなことをした当人にもわかってはいなかったのかも。

あの日、コロセウムでオクタウィアと自分が話をかわした後、皆の態度はなぜ変わったのか。
それも、考えまいとしてもユニアにはわかった。
オクタウィアと話すユニア、何かを誘われているユニアを誰かが見たのだ。
そして、マキシマスとキスをした女が、他の女たちのグループに入ってしまって、そのグループの売りものになるのが恐かったのだ、あの人たちは。
ばかげている。
考えすぎだ。
そう思っても、だめだった。
アエミリア一人を追い出すことで、彼女一人に罪を着せ、皆はユニアをひきとめた。
そうとしか考えられない。

けれどユニアは、その考えをつきつめて行くのが恐かった。
皆といるのは楽しかった。一人ひとりが好きだった。
問いただして皆をバラバラにしたって、何になるだろう。
アエミリアはかわいそうかもしれないが、彼女だって嘘はたしかについたのだ。
ユニアを切りすてて自分だけが皆の気に入られようとしたのだ。
そう思ったら、むしろアエミリアのことがユニアは一番許せなかった。

「彼のことなんかどうでもいいのでしょう。あなたたちの頭にあるのは、自分たちの集まりが楽しく長く盛んに続けばいいということだけ。その中で自分がどれだけ注目され、はばをきかせられるかということだけ。そのために彼を利用しているだけ。あなたたちにとって彼は、そのためにだけ必要なのよ」
「じゃあなたはどうなの?お金をためて、彼を買って、あたしたちから救って、そのあと彼をどうするの?」
「どこへでも行きなさい、と言うわ。あなたは自由だ、と言って」
「そうやって彼を失うの?まさかそうやって、そう言って、彼があなたのもとにとどまるとか、戻ってくるとか思ってるんじゃないでしょう?」
「そうなったらいいけれど、まずそうはならないわね。それでもいいの。あの人を自由にし、あの人のことは忘れる」
「それじゃ何にもならないわ。それが何になるの?」
風がうなる。乾いた悲鳴のように。

女はユニアを見、そして自信にみちた声で一言、静かに吐きすてた。
「かわいそうな人だこと」

第五章 フラミニア街道の冬の夢

(1)前線から来た男

ユニアはろうそくを消して、ベッドに横になった。いつものようにマキシマスが、そのかたわらに腹ばいになった。寝がえりをうって見上げると、マキシマスが頭を起こしたまま、窓の外の方をながめている。その黒い頭の影が、うすやみの中にひときわ黒くうかび上がっている。
それを見ていると気持ちが落ちついて、ユニアはそっと目を閉じた。

夢の中でユニアは街道を歩いていた。
犬のマキシマスもいっしょについてきていた。
なぜか、オクタウィアの猫も前を歩いていた。以前と同じようにふくふくと太って元気そうで、しっぽをゆらゆらさせながら、えらそうに先にたっていた。
「納屋にはネズミがいっぱいいるから、おまえもきっと楽しいね」
ユニアが声をかけると、猫はちょっとふり向いたがまた白い前足をとっとっと動かして、どんどん先へと歩いて行く。
雪がちらついていたが、ふしぎに少しも寒くはない。しばらく歩きつづけると、街道の向こうに、手入れの行きとどいた農場が見えてきた。がっしりとたくましい男が一人、右足をひきずって歩きながら、畑の手入れをしている。
「あれがペトロよ」ユニアは猫に教えた。
猫は立ちどまってユニアを見上げ、かわりにマキシマスがうれしそうに走り出して、男の方へとかけよって行った。

ああ、これは夢だ、と心のどこかでユニアは知っていた。
オクタウィアの猫はもう死んだのだし、マキシマスはかけよって行くほどにペトロになついたことはない。
礼儀正しい親しみは見せていたが。
初めて会った時から、いつも。

母が死んで、さしあげたいものがありますから、とオクタウィアの息子から使いが来て、ユニアが三度めにあのパランティヌス丘の近くの屋敷を訪ねた時、季節は春で、庭のリラの花がいっぱいにかぐわしい匂いをあたりに放っていた。
母がこれをあなたにと言っていました。そう言って、まじめそうな、少しもう頭の薄くなっている、やせぎすの青年は、ユニアに美しい耳かざりと、剣闘士の模様が彫刻された金の腕輪を手渡した。
墓参りをしたいとユニアが言うと、それはかまいませんが、母の墓は私どもの家の墓地にはないのですと青年は口ごもった。亡くなる半年ほど前に父と争って、母は離婚してしまって。

え、とびっくりして目を見張ったユニアに青年は苦笑しながら、それもまことにお恥ずかしいような他愛もないことで、とつけ加えた。
「父が、母に、おまえがあんまりあの猫をかわいがりすぎるから、猫も疲れて早死にしたんだよ、と冗談を言ったんです。母はにこにこ笑っていましたが、次の日、家を出て行って年とった叔母の家に身をよせて、それっきりここには帰りませんでした。迎えに行った父と私にきっぱりと言いました。あの猫についておっしゃったことが許せないのです、と」青年は自分で自分を納得させようとするかのように首をふり、何度か小さくうなずいた。「私も父も、親戚一同も、初めは冗談と思っていましたよ。今でもそう思ってる者もいます。でも、父と私はもう知っている。あれは本気だったってね。死ぬ時も、父のことはよせつけませんでした。私だけが母をみとったんです」
「何と申し上げたらいいのか」ユニアは口ごもった。「でもあの猫のこと、本当にかわいがっていらしたから」

「おどろきました、正直言って」青年は笑った。「母は、見た目が堂々として見えるから強そうに思われるんですが、気の弱い人だったんです。父にさからったのなんて、見たことがなかった。今にして思えば、あの剣闘士に熱を上げたのが始まりだった、あの剣闘士が狂わせたのだな、と父はよく嘆いていましたが」
「私たちは皆そうだったのです」ユニアは言った。
「でも私は、そんな母が好きでしたね」青年は思い出すような目をした。「悪くなかったですよ」
「そう言っていただけるとうれしいわ」ユニアは言った。「お母さまのためにも」
「死ぬまぎわに私の手をとって言ったのですよ。何も後悔していないわ。すばらしい一生だった。死ぬのなんか恐くない。マキシマスが待っていてくれるもの。彼といっしょに楽しくすごして待っているから、おまえはゆっくり後からおいで。そう言って、笑って息をひきとった。私に口もはさませずにね。おかげで私はいまだにわからないのです。母がその時言ったのは、あの不きげんな顔の剣闘士のことなのか、あの生意気な太った猫のことなのか」
ユニアは思わず笑い出し、「私も気をつけよう」と言った。
「何か?」
「この犬の名もマキシマスなんです」
青年も笑い出した。「それでさっきから私がその名を口にするたびに、薄目を開けて見るんですね」彼はほれぼれとマキシマスを見つめた。「いい犬だなあ。オオカミの血が混じってるのかな」
「そうかもしれない。よくわかりませんの」
青年はうなずいて、マキシマスを見ていたが、急に何か思い出したように、「ああ、そうだ」と大きな声を出した。

「何か?」
「マキシマス将軍のことを聞きたいと言って、母を訪ねてきた男がいるんです。前線で、同じ軍団にいたそうで。思い出話を聞きたいんだと思うんですよ。何か話してやっていただけませんか?」
「あたしが?」ユニアはしりごみした。「だってあたしなんか、何も知りません、あの人のこと。ただ、ファンだっただけ…戦うのを見ただけだわ」
「母だってそうですよ」青年は笑って手をふった。「あの頃のコロセウムでの母のお友だちを、私は誰も知らないんです。紹介しようにも心あたりがなし、困っていたところでした。まじめな、気だてのよさそうな男でしたよ。将軍のことをとても慕っているようで」
「ローマにまだいらっしゃるの?」
ユニアの心はゆれていた。少しでもマキシマスのことを聞きたいという気持ちが、今もまだこんなに強くこみあげてくるのに驚いていた。その一方で不安もあった。その人の話を聞いて失望しないだろうか?自分の話もその人を失望させないだろうか?
「たしか、ローマの郊外のフラミニア街道沿いのどこかに農園を買って、今はそこに住んでると思うんですが」青年は言った。「ちょっと待って。住所をどこかに書いていたはずだ。調べてきましょう」

そして、ユニアとマキシマスは、ペトロに会ったのだった。

(2)将軍の犬

ペトロの家の台所の大きなかまどに赤々と火が燃えている。マキシマスを抱きよせて、ユニアは床に座っている。ペトロは大きな手で焼き串をつかんでは火の上でひっくり返し、ソーセージや野菜を焼いている。オクタウィアの猫…もう一ぴきのマキシマスは、前足を白いふかふかの胸の下にたくしこみ、火の前に座って、生きていた時よりずっときげんよさそうに目を細めて、じっと炎を見ている。
「なあ、ここで暮らさないか」ペトロがちょっとおずおず言う。「その犬も、この猫もいっしょに、皆で、ここで」
これは夢じゃない、とほほえんでユニアは思う。ペトロは何度もこのことをあたしに言った。あ、でももちろん猫のことは言わなかったから、これはやっぱり夢なのだ。
ユニアは首をゆっくりとふる。
「だめよ。あたし、町育ちだし」
「ここの仕事はおれがする。町にはいつだって、行きたい時には行けばいいのさ」
「もう結婚はいやなのよ」
「十八の時に一度したきりじゃないか」
「一度で充分、あんなもの」
ペトロはため息をついて猫の頭をなで、猫は喜んでごろごろとのどを鳴らした。

「なあ、おれはひょっとしたら」ペトロはマキシマスをじっと見て言う。「この犬のこと知ってるかもしれない…前に見てるかもしれない」
「本当?」ユニアは思わず身をのり出す。「どこで?」
ペトロはちょっとためらって首をかしげる。「ひょっとしたらってことだがな…将軍が飼ってた犬かもしれない。ゲルマニアの前線で」
猫が緑色の目を開いて、じろりとペトロをにらむ。そして、バカにしたようにあくびをし、前足をなめて、せっせと化粧をしはじめる。

猫はともかく、とユニアは夢の中で思う。ペトロの言っていることは、現実にあった通りだわ。
会って何度めかにペトロはそれを言った。
それまでは話をするのは主としてユニアの方だった。マキシマスがコロセウムでどんな風に戦ったか、ユニアが話してきかせるたびに、ペトロはかまどにくべる粗朶を、ぽきぽきと太い指の間で折りながら、沈痛なおももちで黙って耳をかたむけ、時にはさりげなく顔をそむけて、こぶしでこっそり涙をふいたり、思い出したように「飲みませんか」とユニアにお茶をすすめたりした。
ペトロは大きな男だった。マキシマスより少し背が高かったかもしれない。兵士たちの中に立っていると、皆より頭が高くなるので遠くまで見えて、敵の様子がよくわかるから恐いんだ。彼は真顔でそう話した。向こうもおれが目につくらしくて、よくおれをめがけて槍が飛んできたりするから、それも恐かった。回りのやつにもいやがられてな。「ペトロ、かがんどけ!」とよくどなられたもんさ。
だが一人きりの時にはなれて見ると、それほど背が高くは見えない。肩はばの広い、がっしりとした身体つきで、よくつりあいのとれたたくましい手足をしているからだ。ただ、戦場で負傷して、右足をいつもひきずって歩いていた。男らしい率直な顔をしていて、湖のように静かだったマキシマスに比べると、もっと陽気でまっすぐな、くったくのない表情をいつもしていた。

何となく、これまでの経験から、こういう感じの男は、犬のマキシマスを見るとすごく喜ぶような気がユニアはしていた。それなのにペトロが最初会った時、ちらとマキシマスに目をくれたきりで、大して気にもしていないようなのを、少しけげんに思っていた。犬、好きじゃないのかしら?とも思った。
だがその内にペトロがそれと気づかれないようにして、そっと注意深く、犬のマキシマスを観察しているのにユニアは気づいた。たしかめるようにながめては何か考えているようで、そしてある日とうとう言い出したのだ…この犬のこと、知ってるかもしれない、と。

「あの人の飼っていた犬?」ユニアはぽかんと口を開けた。
思いがけなさすぎて、とても信じられない。とっさに笑い出しそうになった。
「たしかってわけじゃない」ペトロは自信なさそうだった。「あそこじゃ有名な犬だった。森で拾われたオオカミって話で…基地で飼ってた犬たちの血が混じってるって話もあったが」
「名前は何だったの、その犬?」
ペトロは首をふった。「知らないな。おれはいつも遠くから見てただけだ。影の形にそうように、将軍の馬の下にぴったりくっついて、将軍を見上げながら、かけていたっけ。将軍は、そいつをあんまりかわいがってないふりをしようとしてた。だが、基地中の皆が知ってた。あの方は、その犬にめろめろだったし、犬の方も将軍にぞっこんだった」
「将軍のあとを追って、このローマまで来たっていうの?ゲルマニアから?」
「さあ」ペトロは首をふった。「こいつのこと、小さい時から知ってるんじゃないのかい、あんた?」

ユニアは自分のひざに頭をのせて目を閉じているマキシマスを見下ろす。「いいえ。人間の…マキシマスが死んだあと、コロセウムの入り口の階段に座ってあたしが泣いてると、この犬が前に立ってたの。つながれたのをひきちぎってきたみたいで、重い鎖をひきずっていた。脇腹にけがをして、毛皮が血でごわごわになってた。そして、あたしについてきたの」
思い出して、ユニアはのどをつまらせた。
「鎖をはずしたら、うれしそうに首をぶるぶるふって…傷の手当てをしてやったら怒ってうなって…そのたびに、泣きそうになった、あたし。あの人の鎖もこうしてはずしてあげられたら。傷の手当てをしてあげたかった。そう思ったら、たまらなくて」
「どこから逃げてきたんだろうな?コロセウムにつれて来られた競技用のけものだろうか?」
「そうかもしれないと思ったから、誰にもあたし、どこで会ったか話さなかったの。つれ戻しに来られたら、いやだから。あそこのコロセウムの地下じゃ、動物たちは、あと戻りできないほどの狭い通路に押しこまれ、アリーナにとび出させられるんだって聞いたわ。そこで、なぶり殺しにあうために」
「あの方だって、そうだったんだ」ペトロはうめいた。「前に進んで、アリーナに出て行くしかなかった。いつか死ぬ、その最後の戦いが終わるまで、殺しつづけるしかなかった。殺すためだけの戦いは、お嫌いだったのに。殺さずにすむ方法を、いつも工夫しておられたのに。あそこでは、コロセウムでは、そんな工夫は不要だった。殺すことが目的の戦い。そんなものは戦いでも何でもないさ。あの方はそれを、よくわかっておいでだった」ペトロはまた悲しげにうめく。「それなのになあ」

進んで行くしかない。
いつか来る死に向かって。
あの人の行く先には死しかなく、それを皆が見たがっていた。
アエミリアがいなくなったあと、ポリアたちに前にもましてちやほやされながらも、ユニアはそれがなぜかうっとうしく、彼女たちをそこそこにあしらって、いつもコロセウムのアリーナだけを見つめているようになっていった。
そして、あまりにも強く、常に勝ちつづけるマキシマスに、やがてコロセウムの観客たちが「いつ死ぬか」を期待しはじめているのに、ユニアは気がついた。彼を倒すのは誰だ、彼が負けるのはいつだ、それがともすれば人々の話題となっていることに。
それでも彼は、戦いつづけた。
彼がもし死ぬのなら、その試合だけは絶対に見逃せない、とコロセウムにかけつけて来る観客たちの目の前で、戦いつづけて、勝ちつづけた。

(3)殺人事件

「戦場ではどんな風に見えたの?」ユニアは聞いてみる。「どんな方だったの?」
「いつも力にあふれておられた」ペトロはすぐに、そう言った。「ぎらぎらと燃えるような目をしておられた」
そんな風じゃなかったなあ、とユニアは思う。風のように軽やかで、水のようにひっそりと落ちついてみえた。
「あまりしゃべられる方じゃなかったが、その目で鋭く見つめられると、誰でも身体に稲妻が走った」
「お話はよくしたの?」
「まさか。おれはただの兵士、あっちは将軍だ」ペトロは笑った。「ちゃんと話したのは一度だけさ。それも、ほんのふた言か三言」そしてペトロは満足げな、幸福そうな顔になる。「なあ、ユニア、おれはその犬の命を救ってやったことがあるんだぞ…その犬がもし、あの犬としたらだが」
「本当?」ユニアはちょっと疑わしげにペトロとマキシマスを見比べた。退屈したらしいオクタウィアの猫が、マキシマスの鼻先に来て、前足をもちあげてマキシマスの耳を軽く押さえてみている。マキシマスはそれを上目づかいに見ながら、じっとしている。「だってこの犬、あんたのことを覚えてるようじゃないわよ」
「こいつは何も知らないんだって」ペトロはマキシマスから猫の注意をそらしてやろうとして、ふさふさの猫のしっぽを後ろからもてあそぶ。「自分が殺されそうになってたってことは」

「近所の村でたてつづけに、生まれたばかりの子豚が殺された」ペトロは話した。「最後は見張りに立った少年までが殺され、豚の身体にも少年ののどにも鋭い歯でかみさいたような、ぎざぎざの傷あとがあったんだ。それで、オオカミのしわざってことになったのさ。柵をぬけてしのびこんでくるような頭のいいオオカミはこいつしかいないってことになって、村の者たちはこいつを引き渡せと要求した」
「引き渡したら、どうなるの?」
「ああいった村の連中は動物も裁判にかけたあと、罪にふさわしい処刑を決める。人を殺した豚が死刑にされるのを見たことがあるんだが、ひどいもんだった。見てられなかった」ペトロは首をふった。「こいつだってきっと、耳や鼻を切り落とされたり、さんざんひどいめにあって殺されたはずだ」
ユニアは身ぶるいしてマキシマスを抱きしめながら「それで?」とうながした。
「兵士たちはもちろん皆、激怒して、村人たちをののしった。だが、食料調達の関係なんかもあって、村との関係を悪くするわけにはいかなかった。将軍は兵士たちを叱りつけて、こいつを村にひきわたすことを検討しはじめた」
「そんな!かわいがってたんでしょう?」
「ああ。でもそれで村を敵に回すわけには行かなかったからな。あの方は氷のように冷たい声で落ちついて、動物のために人間は犠牲にできんと部下たちに言いなさったそうだ。何て冷たい方だって、兵士たちがののしったの何のって」
ユニアはマキシマスを抱きしめた。「きっと、自分で殺すつもりだったのよ」彼女はささやいた。「あたしにはわかる。あたしだってそうする」
「かもな」ペトロはうなずいた。「あの方は、ふだんとちっとも変わらない様子で仕事を次々、片づけておられた。だが、どこか変だった。はりつめて、誰も近づかせないようで」
いつも笑っていようとして、泣くまいとして力を入れていて、気がつくと、あごが痛いの。無意識にそこに力を入れているのよ。
「おれはそれで、一か八か、やってみることにした」ペトロは言った。「仲良くしてた村の娘と、仲間の兵士でステパヌスってやつと三人でこっそり相談して、三日三晩、豚小屋のわらん中にもぐってた。そして、本当の犯人がやってきたのをつかまえた。豚の飼い主に恨みを持ってた、うすぎたないおやじさ。豚を殺して、オオカミのしわざに見せかけようとしてる内、人殺しまでしちまったんだ。おれたちはそいつをつかまえ、村の長に引き渡した。娘も証言したし、話のすじが通ってたから、そいつも白状するしかなくて、村のやつらも納得したよ」

マキシマスが前足をのばして、ユニアのひざをひっかいた。ユニアが首に手を回してひきよせると、ユニアといっしょにあおむけに倒れて足をばたばたさせた。ペトロが笑った。
「あんたをほんとに好いてるんだなあ」
「バカにしてるの」ユニアは言った。「わかるんだから」
「こいつは誰だって、バカにしてるんだろうよ。あの方と比べりゃな」
「それで、どうなったの?」ユニアはうながした。

「一段落してから、ステパヌスを将軍のとこに走らせた」ペトロは続けた。「ちょうど大事な何かの式典の前で、皇帝陛下もお見えになるとかで、あの方は緊張して礼装してテントにおられたが、オオカミのことで来たと聞いたら、すぐにステパヌスをテントに呼び入れたそうだ。やつはもちろん、おれといっしょに何日もずっと豚小屋の泥ん中にいたんだから、どんな匂いで、どんな風だったか想像つくだろ?回りの皆はげんなりしてたが、将軍だけは気にもしてないようで、熱心にやつの話を聞いた。そして、いくつか質問をして、オオカミが絶対にもう大丈夫とわかったとたん、喜びの声をあげて両手を広げ、ステパヌスに抱きつこうとなさったそうだ」
「礼装しておられたって…」
「言ったさ。そうとも、そのかっこうでだ。すんでのところで従僕と副官があの方のベルトを後ろからひっつかんで、ベッドの上にひき倒したとさ。何時間もかかった正装を何とこころえてるんですって二人が将軍を叱りとばしている間に、兵士たちがステパヌスをテントから追い出した」
ユニアはマキシマスを抱きしめて笑った。
「でもよくわかる、その気持ち」
あの人がそんな顔して笑うのって、どんな風だったんだろう。そう思った。皆にかしづかれて。命令を下して。

「何日かして、おれが報告に行った時はもう落ちついておられたな」ペトロは言った。「恥ずかしがっておられたのか、ことさら何でもない顔で、そっけなく礼を言われただけだった」
「がっかりした?」
「でもないよ。喜んでおられるのはわかってた。かくそうとしておられても、みえみえだった。犬ごときで騒いだのではしめしがつかんと思っておられたんだろうが、おれたちは皆、あの方のお気持ちはわかってた」
話しながらペトロは、マキシマスの方に行きたがる猫のしっぽをつかまえてひきよせるという暴挙に出た。猫は怒って鳴いたが、ペトロが太い腕の中にかかえこんであごの下を指でくすぐってやると、だまされてやろうかと言いたげに目を細めて首をのばした。
「おれをろくに見ておられなかったのに」猫ののどを親指でかきつづけながらペトロは言った。「しっかり覚えていなさったんだよ。ゲルマニアでの戦いの直前に、おれたちが整列してる前をあの方は通って行かれた。オオカミの顔の模様が胸の中央についた銀色のよろいを着て、オオカミの毛皮を背中にうちかけていなさった。おれたち同様、戦場のほこりにまみれて、だが疲れも恐れも知らぬまなざしで、どんどん歩いて行かれたが…兵士たちがひとりでに笑いかけ、『将軍』『将軍』と声をかけちまうんだよ。あの人に自分たちの敬意と愛情と身をささげる決意とをそうやって投げかけたいって気持ちと、あの人の持つ力の放射をそうやってうけとめたいって気持ちとがないまぜになってな。あの方は、その中を歩いて来られた。笑っちゃいないし、返事もされない、だけど、皆の思いをわかってる、うけとめてるのがちゃんとわかる、力強い顔だった。ふしぎだ…いつもそうなんだ。重々しい、暗い、淋しげにさえ見えそうな表情なのに、あの方の顔はとても明るくて、あたたかい。満足して、幸福そうだった」
ユニアはそっと目をつぶる。だが、その顔は想像できない。自分のいつも見ていたマキシマスの顔…静かで堂々として穏やかなのに、ひっそりと一人でたたずんでいて誰も見ていないようなあの美しい哀しい顔も、それと同じように、ペトロには決してわからないのだろう。
「あの人はそうやって歩いてきて、おれと目が合うと立ちどまった。そしてやっぱりにこりともしないまま、手をあげて、こぶしでおれのよろいの胸を一度だけこづかれた。頼りにしてる友だちにするみたいに。また今日もたのむぞと言うように。お目にかかった、それが最後になったんだが」
ペトロは思い出しているように、自分も大きなこぶしをかためて、猫の顔の前に軽くねじりながら近づけた。猫は首を少しひいてそれを見つめ、それからいきなり大喜びで両手でこぶしをかかえこみ、かじりついて歯をたてるまねをした。

マキシマスをなでながら、ユニアはぼんやりそれを見ていた。
「あんたはいいのね」思わず、そうつぶやいた。
ペトロは猫の胸にこぶしを押しこんでからかいながら、目を上げた。「何が?」
「あの人のために、そうやって何かができて」ユニアは小さくため息をついた。「それで、覚えていてもらえて。立ちどまって、こぶしで胸をたたいてもらえて」
「たった一回だけだった」ペトロは首をふった。「それが最初で、最後だった」
「それだって!」ユニアは笑った。「あたしには一度もそんなことなかった。毎日、毎日、あの人のことを考え、あの人を追っかけ回し、でもあの人は一ぺんだって、あたしのために足をとめてくれなかった。あたしを見てもくれなかった。いつも迷惑そうで…抱かれたり、さわられたりするたびに、知らん顔でまっすぐ前を見て、つらそうに、いやそうに、あたしの腕をすりぬけて逃げて行った」
声の調子が変だったのか、ペトロが黙ってこちらを見た。
「いやがられてるのはわかってた。手をふってもかっさいしても、あの人が少しもうれしがってなんかいないのも知ってた。あの人が好きでしてるんじゃないことを、あたしたちが喜んで見てるのを、あの人がどう思って、どう感じているのかも。それでも追っかけずにはいられなかったし、拍手もかっさいもやめられなかった。だって、できることといったら、それしかなかったんだもの」
ユニアは笑って顔をそむける。にじんだ涙をかくそうとして。
「あの人のことを何か知ろうとすればするほど、あの人のことを皆と話せば話すほど、あの人はなぜかどんどん、遠くにはなれて行くようだった」
長いこと二人は黙っている。それからペトロがふっと「なあ」と、火の方に目をそらしながら声をかける。「今晩、泊まっていかないか?」

ペトロの腕がユニアの胸を抱いている。ユニアの肩に埋めた彼の頭の髪の毛が、ユニアのあごをくすぐっている。
そう思いながら目を開けると、ペトロと思ったのは、犬のマキシマスだった。ユニアの胸に前足とあごをのせ、目を閉じてよく眠っている。アパートのテラスからは朝の光が流れこんできている。
ユニアはぼんやり、犬の頭をなでながら、マキシマスの死んだ日の朝がまた来た、と思った。

第六章 アウェンティヌス地区の夜の影

(1)火吹き男の正体は

なかなか、起き上がる気になれない。
鉛のように身体が重い。
毎年、忘れていても、その日になると思い出す。
一年前の今日も、こんな気持ちだったことを。
あの人が死んだ日。
その日を境に、あの人がこの世のどこにもいなくなった日。
目に見えるものも日々の暮らしも何ひとつ変わらなくても、その日の前と後とでは、世界はまったくちがってしまう日。
あの頃はあの人がいた、と言える日がそこで終わった。そうでない、もうそうでない日々がその日から限りなく続いて重なり、一年がまた加わった。
これからもそれは続く。そう思うとたまらない。
何かにすがりつかずにはいられなくなって、犬のマキシマスを抱きしめる。

そしてふと、ユニアは気がつく。自分が目をさます前にマキシマスはいつも起きて、目を開けていたことに。
眠りにつく時もそうだった。いつも頭を持ち上げて、ユニアのかたわらで彼はじっと闇を見つめていた。見えない何かからユニアを守っているように。
ねえ、おまえって、いつ眠るの。よく、彼のぶあつい、やわらかく、すべすべした耳をひっぱって、ユニアはそうささやいては笑った。
そのマキシマスが今、眠っている。
年をとってきたのだろうか。
…しっぽが変に近くにあるような気がして、それが始まりだったわ。
もしも、おまえがいなくなったら。
夫や父母や祖母を亡くした時はまだ、呆然とするばかりでよくわからなかった悲しみを、剣闘士のマキシマスの死がユニアに教えたような気がする。
何かを亡くした、そのことだけを、ただひたむきに悲しむ心を。
自分がとても無防備な気がしてユニアはおののいていた。
悲しみを入れる心の門が開かれて、しかも閉じ方がまだわからない。

ペトロに会いたい。ふっとそう思った。
彼も思い出しているのだろうか。マキシマス将軍のことを?
ポリアもアエミリアも、そしてリディアも?
皆、それぞれどんな気持ちで、この日の朝を迎えたのか。
あの浅黒い肌の、きびしい目をした、やせた女は?
そして、あの密偵は?
眉をひそめて、ユニアは思わず身ぶるいした。

ケリアリス、と男は名のった。職業は密偵だ。
密偵がそんなに気軽に名のるのかしらと、ユニアは思わずまじまじと男を見つめたものだった。
金髪の、明るい利口そうな顔の男だ。密偵という職業で連想する暗さや鋭さはどこにもない。アパートの女たちが、愛人よりは息子に欲しいと騒ぎそうなタイプである。日焼けしたブロンズ色の肌がすりきれた赤いチュニカからのぞき、そのチュニカにはあちこちに小さい焼け焦げや、火の粉であいた穴があった。
おれは、ふだんはコロセウム前の広場で火を吹いて見せる芸人なんだ。ケリアリスはそう言って笑った。見たことあるだろう?
そして顔をそむけて、うっすらと笑った。だが本職は密偵なのさ。そして今は、マキシマス将軍のことを調査している。

(2)死を待つ心

あのころのあたしたちは、いったい皆、何をしていたろう?何を思って、あの人を見つめていたのだろう?
パオラはせっせと詩を書いていた。女流詩人には珍しく、ローマへの愛や若い皇帝への賞賛を力強くうたい上げる彼女は、マキシマスをもまた、ローマのために戦う一人の英雄として描き、悲壮な美しいことばで飾るのだった。マキシマスと皇帝の対立を、ともにローマを愛するすぐれた英雄どうしの対立として気高く力強く描き上げ、その詩は人々の間でも次第に評判になりはじめていた。
セルウィリアはあいかわらず情報通だったが、メッサリナの新しい愛人もコロセウムの関係者で、そちらからの情報も豊富になり、二人は競い合うようにして、さまざまな裏話を皆に教えるのだった。
マキシマスは必ず勝つ、という信頼と安心は彼のファンの中にはもうしっかりと根を下ろしていて、どうかすると安心のあまり、マキシマスが戦っているのをそっちのけにして、彼の噂話や相手の剣闘士の品定め、全然彼とは関係ない自分たちの衣装や化粧や使用人の話などをしていることさえ、よくあった。
ユニアはマキシマスを見ていた。彼だけを目で追っていた。

思いこみかもしれなかったが、そうしてマキシマスを見つめつづけていると、彼の気持ちや体調が、見ていて自分にわかるようになってきている気がユニアにはしてしかたがなかった。
今、よろめいたのは大丈夫。ちょっとふざけてみせただけ。もう、あんなこともあの人、できるようになったんだわ。
今日の足の運びは何だかおかしい。いつもより重い気がする。熱でもあるんじゃないかしら。
そして、何だか次第に彼が、疲れて、悲しんで、いらだってきているような気がした。もともと、いやいや戦っている気配はいつもあって、それも魅力のひとつだったのだが、このごろはそれだけではなく、何かとてつもなく大きなものが、彼を押しつぶそうとしているように、ユニアには思えてならなかった。
ユニアの目にさえはっきりとわかるほどの、あらわなすきをわざと作って、彼が相手をさそうことがある。時々、それが大胆すぎて、相手に自分を殺させようとしているとしか見えない時があるのだった。ほんの一瞬、ぎりぎりのきわどさで身体を開き腕を上げて相手の剣をはねかえす時、ユニアは彼が、その腕を上げないでおこうとしたのではないかという疑いに、いつもさいなまれたのである。
大したもんだなあ。決して人を飽きさせない。
あんなにいつも勝ちつづけて、それでこれだけ皆を夢中にさせるやつなんて、初めてだ。
それだけ工夫もしてるんだな。いつもはらはらどきどきさせて。
競技にくわしい男たちが、感心したようにそんな批評をしているのを聞くたびに、ちがう、ちがう、とユニアは叫びたいのをおさえていた。
そうじゃない。あの人は死にたいのよ。何よりもその誘惑と必死で戦っているのが、わからないの。
何もかも投げ出したいのよ。
何かから逃げたいのよ。
目を閉じて、何もかも忘れて、眠ってしまいたいんだわ。
だけどいったい、何からそんなに逃げたいんだろう?
あたしたちだろうか?
「私が彼を救いたいのは、あなた方からなのよ」
あの女の声が思い出された。

そうかと言って、と戦うマキシマスを見つめながらユニアは思う。
あたしたちに何ができるの?
ここにこうして、座って見つめている以外に。
声を限りに声援を送る以上に。
それにしても、マキシマスの人気が衰えないのは、彼がそうやって観衆をはらはらさせて、おどかすからだけではなかった。
ユニアだって、マキシマスがしばらく出場しない時、若い華やかな剣闘士が勝ちつづけてきたり、巨大な、怪物か野獣のような剣闘士が豪快な戦い方をしたりすると、やはり目も心も奪われる。
そんな剣闘士が今度はマキシマスと対戦するらしい、とセルウィリアやメッサリナから聞かされると、ちょっとがっかりし、もったいない、と思い、そしてマキシマスに悪いと思ってあわてた。
だが、実際に彼らがアリーナでマキシマスと向きあうと、そんな思いは一瞬で消えてしまった。
ユニアだけではない。観客席の全観衆がすぐに気づかせられるのだ。
若い剣闘士の華やかさは軽薄で、巨大な剣闘士の豪快さは粗暴さにすぎないことに。
マキシマスの何ひとつ作りかざりのない、素朴で素直な、使いこまれた機械のような、無駄のない自然な正確さで、歩いてきたり、ふり向いたりする何でもないしぐさや、ただ静かに立っているだけでも、ひとりでにあたりにただよいあふれてくる風格と品格、しっかりと伝わってくる精神の深さの前では。
いったい、どういう人なのだろう?見れば見るほどユニアはふしぎでならなかった。
それがユニアたちなのか、それとも他の何なのかはともかく、何かに追いつめられ、押しひしがれそうになっていてなお、その姿には、せっぱつまった悲壮感やみじめさは少しもない。
ただ、まるで、生きていくことそのもののような、淡い悲しみがただよっているだけで、それがユニアを限りなく切ない思いにさせた。
それは彼が明るく見える時に、かえって強く感じられた。
敵をひきはなそうとして、アリーナの向こうまで、いっさんに走って行く時…彼は人々が息をのむほど走るのが速かった…の、少年のように軽やかな足の動き。倒した相手を殺させないでくれというように、首をかしげて甘えたように観衆を見上げる時の、ちらっだけ見せる笑顔…そうやって彼は結局、あの華やかな若者も、巨大な戦士も殺さなかったのだが、もう彼らが助かったことなどどうでもいいほど、人々は彼の笑顔にうっとりとなった…の、女よりもやさしい清々しさ。
いつかはこれが終わるのか。あの人は死んで、それとも生きのびて、いずれはここから消えるのか。そう思うだけでユニアの胸はちぢみ上がった。

(3)トラとの対決

困った、困った、とその日の朝、セルウィリアは頭をかかえてコロセウムの座席で皆に笑われていた。
その日のマキシマスの相手は、タイグリスという剣闘士だと、セルウィリア自身が聞きこんできていたのだ。
「だってそんなのある?ひどいわよ」彼女は皆に訴えた。「あの人はとっくに引退したのよ。どうして今ごろマキシマスの相手なんか!困るわよ、困ってしまうわよ。私は彼の大ファンだったのに」
「そのことはさっきからもう何度も聞いたわよ」マルキアが言った。「だって彼だって勝つ自信があったから出てきたんでしょう?今はもう自由なんだから断ろうと思えばできたはずだわ」
「よりによってマキシマスなんかと!」セルウィリアは手をもみしぼった。「私、どっちを応援すればいいのよ?」
「かわいそうなタイグリスにしたら?」ゼナが笑った。「私たちは皆マキシマスを応援するから」
「ひどいわ!」
「第一、タイグリスが相手かどうかわからないわ」メッサリナがなぐさめた。「私が聞いたのじゃ、マキシマスの今日の相手は人間じゃなくて、トラだって。それがどこかでタイグリスと聞きまちがえられたんじゃないの?虎戦士って言われてたんでしょ、現役のころ、あの人は」
「あら、まさか」セルウィリアはむきになった。「私の情報にまちがいはないわ」
「でも私も絶対にトラって聞いたわ」メッサリナもゆずらない。

皆でわいわい言っている内に、試合が始まった。
仰々しい音楽とともに、戦車に乗って華々しく登場したのは、やはり、かつてのコロセウムの大スター、タイグリスだった。「あら、太ったのね、老けたのね、でもやっぱりいい男!」とセルウィリアは、ため息をついていた。
「我ら死に行く者、陛下に忠誠を」とタイグリスがいかにも慣れたしぐさで、ぴしっと手を上げてお定まりの誓いをとなえている間、マキシマスはその後ろでつまらなそうに、砂をすくって手にこすりつけていて、いつものように何も言おうとしなかった。そのどこか意地っぱりでかたくなにすねているような様子が変に子どもっぽくいじらしく見えて、ユニアは大好きだったのだが。

二人の力は伯仲していた。手に汗にぎる戦いだった。火花をあげて、がっきと剣がかみあった。力も技も互角と見えた。どちらが勝ってもふしぎはない、と、ぞっとしながらユニアは思った。
マキシマスは力をふりしぼっているようだった。全力で戦っており、いつもの投げやりさや無気力さはなかった。もしかして彼は喜んでいるのではないかしら、とユニアは胸がつぶれる思いで考えた。こういう時にこの人は、絶対に実力のすべてをふりしぼる。それ以上の力をさえひょっとしたら出すかもしれない。その点では少しの心配もいらない。そのことに感謝している自分にも気づいた。
突然、何か大きな黄色と黒のかたまりがアリーナの上、戦う男二人の間に出現した。それが巨大なトラで、地下の通路のかくし戸からかけ上がってきたのだとユニアが理解したのと、「ほら、やっぱり!」と悲鳴のような声をメッサリナがあげるのとは、同時だった。
二頭、三頭、ついに四頭のトラがあらわれ、最後の一頭がマキシマスをくみしいた時、観客席の皆が一人のこらず絶叫した。「やれ!やれ!」と口々に皆が叫んだ。マキシマスがトラを剣でつきさしたのが見えると、また人々は声を限りに「やれ!やれ!」と叫んだ。
タイグリスが近づいた。
トラの下敷きになっているマキシマスの腕がねじれるようにのびて、なかば手さぐりのように必死で砂の上の武器をとろうとしている。彼はもう、武器は何でもいいのだった。ただ、何か武器になりそうなものがつかめればいいというように、指があわただしく土の上をはい回り、かきむしるようにのびちぢみするのを、魅入られたようにユニアは見ていた。
彼がつかんだのは、さっき自分で切りとばしたタイグリスの斧の先だ。その柄を彼の指がにぎりしめた。何でもいいからつかもうとしていたのはユニアの目にそう見えただけで、あおむけのまま首をねじって彼は必死に一番役にたつ武器を目でさがしていたのかもしれない。いや、そうにちがいなかった。ぎりぎりの一瞬タイグリスの先を制して、たたき下ろしたその斧の刃がタイグリスの足の甲をつらぬき、「ああ!」とセルウィリアが悲鳴をあげた時、タイグリスの顔をおおった銀色のかぶとの下からは、口からほとばしったらしい鮮血があふれ、彼はどっと地面に倒れた。

マキシマスはまた勝った。
それをたしかめた時、女たちの何人もが席をはなれた。退場するマキシマスをコロセウムの入り口で待ちうけて、少しでも近づいて声をかけよう、すぐそばで彼を見よう、あわよくば身体をさわろうと、大勢が通路をかけ下りて行った。
ユニアもそれに加わった。
いつもはそうしないで、客席からアリーナを去る彼を見送ることも多いのだが、なぜか今日はそうしたかった。

(4)聞こえたことば

コロセウムにはいくつもの出口があって、マキシマスが今日はどこから帰るのかわからない。
行きあたりばったりにユニアは一つの通路を選び、人波に押し出されるまま外に出た。そこで、大きな柱の一つにしがみついて、押し流されないようにし、人波の動きを利用しながら、じりじりと最前列に出た。
兵士たちが人々を押しのけて通路を作りはじめているのを見て、今日はここから出るのだと予想した人々が、喜びの歓声をあげはじめている。
その声がいちだんと高まって、マキシマスが出てきた。
両側を兵士につきそわれているが、鎖はつけられておらず、けがもしていないようで、しっかりした足どりで歩いてくる。
よろいの肩から胸にかけて、トラのかタイグリスのかわからない血が、うすい紅色の影のように広がってついていた。
声を限りに呼びかける人たちにまじって、ユニアもせいいっぱいに、声も枯れるほどに彼の名を呼んだ。こっちに来て、こっちを向いてと呼びかけた。
マキシマスは歩いてくる。
ふと、人垣の中に誰かを見つけたのか、彼は足どりをゆるめて、ちょっと目をこらした。
そちらに軽く手をのばすようにして何かを言ったようだったが、この騒ぎの中では、ここからは何も聞こえない。
彼はまた前を向き、ますます高まる歓声の中を、何か考えこんでいるような顔のまま、こちらに向かって近づいてきた。
そして突然、更に向きをかえて、ユニアの立っている方へと歩いてきた。

「マキシマス!マキシマス!」有頂天になってユニアは叫んだ。
彼はもうすぐ近くにいた。ユニアの声が聞こえるほどに。手をのばしたらさわれるほどに。そして、信じられないことに彼は更に近づいてきた。ユニアの前に。もう手をのばせば彼にさわれる。さわれた!
「勝ったのね!勝ったのね!」ユニアは夢中でマキシマスの腕と、肩のあたりを力まかせにたたいて、つかんで、ゆさぶった。「最高よ!あんたって最高!」
彼の身体の熱さを感じた。汗と、血の匂いも。よろいの固い感触も。ユニアの後ろの誰かがユニアの腕をつかんで身体をのり出していて、マキシマスの声が、ユニアがふらふら身体から力がぬけて、その場に座りこみたくなったほど、すぐ耳もとではっきりと聞こえた。
「将軍は生きてると言え!」
ユニアの耳はその声とともにマキシマスの息さえ感じたようだった。だがすぐに彼はユニアからはなれ、人垣からはなれた。人々の手がのびて彼をつかもう、さわろうとするのから、なかば後ずさりのようにして遠ざかって行きながら、彼がふり返って叫ぶのをユニアは聞いた。
「私を見つけろ!見つけるんだ!」

深いため息をついて、ユニアはベッドから身体を起こした。
犬のマキシマスも薄目を開けて、ユニアをながめた。
「おねぼうさん」とからかって、ユニアは犬の頭をなでた。

今日も空は晴れている。
テラスの向こうに広がる澄んだ青い色を見ていると、そのかなたから、ふっと声が聞こえてくるような気がした。
私を見つけろ!見つけるんだ!
ユニアは両手で顔をおおう。
死んだくせに。
死んでしまったくせに。

(5)その時は近い

「やつはあの時」ケリアリスはユニアに言った。「人ごみの中に誰かを見つけた。その相手は移動してきて、おまえの後ろに立った。だからやつは、おまえに近寄り、おまえにこたえるふりをして、後ろにいたその誰かに話しかけた。何と言ったか、おまえには聞こえたはずだ。やつが何と言ったか、それをおれは知りたい」

あの密偵は、このアパートに訪ねてきた。
ユニアがマキシマスに二度めにさわった、あの、ほんの数日後に。
ユニアは夏かぜをひいて、熱があって寝ていた。
せきこんで、鼻をかみながら、あの男の相手をした。
「何も知らない」そう言った。「聞いてないわ」
「そんなはずはない」ケリアリスは言った。「嘘をついたり、やつをかばったりしたら、おまえにとって、とてもよくないことになる」

ユニアは熱で頭がぐらぐらして、よくものが考えられなかった。
「あら、そうなの」と変にむしゃくしゃして投げやりに言った。「おあいにくさま。かばおうにも何も、どう言ったらあの人に不利になるのか有利になるのか、あたしにはちっともわからないわよ」
「やつの唇は動いてた。何人もがそれを見てる。何か言ってた。おまえの顔のすぐそばだ。聞こえなかったわけはない」
「あそこにいたの?なら、わかるでしょ?大変なさわぎだったのよ。自分の声だって聞きとれないぐらいの」
ケリアリスは舌うちした。
「なぜあの人のことなんか、そんなに追っかけて調べるの」ユニアは鼻をかみながら聞いた。「ただの剣闘士じゃないの」
「もとは北方軍団をまかされていた大将軍だ」ケリアリスは、いらだたしそうにつめをかんだ。「有能で、人望もあった。先の皇帝から皇位をつぐよう言われてたって噂まである」
ユニアは肩をすくめた。「ええ。だけどそれ、ほんとなの?」
「今も、ローマをひっくりかえそうというとんでもない計画があって、あいつがその首謀者だって話もあるんだ」
「ばかばかしい。やめてよ」ユニアはくしゃみをした。「あたし、ベッドに入っていい?それとも、風邪をうつされたい?死ぬほど気分が悪いのに、あんたの夢物語につきあってなんかいられない」
ケリアリスは低く笑った。「とぼけるのが上手だな」
「あたしはあの人が大好き。それをかくすつもりなんかないわよ」ユニアは言い返した。「だけど、ただの剣闘士よ。自分の身体さえ、自由にできないのよ。ローマなんか何ともできるわけないじゃない?」

「百年前にスパルタカスって剣闘士奴隷の起こした反乱を知ってるか」ケリアリスはひとり言のように言った。「おれの祖父は、あの反乱に加わった生き残りで、よく話を聞かされた。ローマののど元にあいくちをつきつけた反乱と言われてる。それがまた、起こるかもしれん」
「あの人が指揮して?」ユニアは笑った。「そんなことしなくても、三年戦って生きのびたら、自由になれるんじゃないの」
「皇帝にあれだけ憎まれ、自分も大っぴらに対決の姿勢を見せていたのじゃ、やつにはその望みは絶対にない」ケリアリスは言いきった。「皇帝がやつを殺さないでいるのは、民衆にやつが人気がありすぎるからだ。何年、彼が勝ちつづけても皇帝は彼に自由を与えはしない。彼にだけは、絶対に。いつかは彼の人気も落ちる。その時、皇帝は彼を殺す。言いかえりゃ、それまでに彼は何かをしなけりゃならない」
「あの人は、そうまでして生きたがっているようには見えないわ」ユニアは思ったとおりを言った。「たくさんの人をまきぞえにしてまで」

ケリアリスはユニアをじっと見た。
「そう思うか?」真剣な声で彼は言った。「おれもそう思う。だからわからん。あいつが何を考えているのか。あいつは妻子を愛していて、いつも故郷に帰りたがっていたそうだ。その妻子が殺された今、彼にもう生きる望みはないはずだ。なのに、あれだけ戦いつづけ、生きのびる力をどこから彼は得ている?」
「皇帝への復讐?」ユニアは相手が密偵ということも忘れ、ついまた思ったとおりを言った。
「それしか考えられないのだが、やつを見てると、そう見えない」ケリアリスは首をふった。「やつは決して、ただ皇帝を殺すだけの復讐をめざしているのじゃないって気がする。あれは、復讐に狂って、こりかたまった人間の顔じゃない」
「殺すだけの復讐をめざしているのじゃない?」ユニアはぼんやり、相手のことばをくり返した。「じゃ、あの人がめざしてるのは…殺す以上の復讐?殺さないかもしれない復讐?」

「そうさ。もうすでに幾分かは、やつは、それをやっている」ケリアリスは薄く笑った。「何でも皇帝陛下は、彼の人気に嫉妬して、狂わんばかりだそうだから」
「そうなの?」ユニアは驚いたはずみにまた、せきこんだ。
ケリアリスはうなずいた。「コロセウムでは、やつはもう、陛下に勝ってる。復讐はもう、とげている。陛下は民衆のかっさいが、何よりお好きだ。人々が自分より彼に注目し、かっさいを送るこの状況は、陛下にとってはきっと、殺される以上につらい」
「剣闘士と人気をはりあうの?だとしたら陛下はバカだわ」ユニアはあきれた。「そういう問題じゃないでしょうに。皇帝というご身分は」
「だが、あの方はそういう方さ」ケリアリスは冷やかに言った。「とはいえ、コロセウムの中の勝利では、長つづきしない。だからマキシマスは、それ以上のことをねらうはずだ。皇帝を殺すにせよ、殺さないにせよ、その地位からひきずり下ろすことを。だが、さっきおまえも言ったとおり、それは、あいつ一人ではできない。そしてあいつは、自分の願いをかなえるためだけに、人をまきこみ、利用することは決してしない、できない男だ。だったら、まきこんだ人間すべての役にたつ、ためになる戦いをあいつはきっとするはずだ。いいや、敵に対しても、ほろぼす相手に対しても、結局はそれが幸福をもたらすと信じてなけりゃ、あいつは絶対、戦えない男だよ」

あっけにとられてユニアはケリアリスを見つめる。「マキシマスを、知ってるの?」
ケリアリスは首をふる。「一度も会ったことはない。口をきいたこともな。コロセウムで見て、あとは情報を集めただけだ」
「それでそんなに、あの人のことがわかってしまうの?」
「だから密偵なのさ」
それにしたって度がすぎている。ひょっとしてこの人もまた、マキシマスの魅力につかまってしまった一人なのだろうか。
「あいつはどこにいても、どんなどん底にいても」ケリアリスは、つかれたようにしゃべりつづけた。「必ず、一番上に立つ人間の目で世界を見る。そういう立場でものを考え、行動する。自分は皆を正しい方向へ、幸せな未来へ、みちびいているのか。行きつける力が自分にあるか。その確信をつかめずに悩む。ローマに来てずっと、戦っている時だけは生き生きしてたが、それ以外の時はあいつはずっと迷っていたし、沈んでた。最近は特に、それがひどくなっていた。だが、このごろはもう、そうじゃない。静かな安らかな顔をして、落ちついている。何かがふっきれたんだ、やつの中で。ということは、何かが起ころうとしてるんだ。その時が、迫ってきている」

ケリアリスはなおも手をかえ品をかえ、ユニアにあの時マキシマスが言ったことを聞き出そうとしたが、ユニアも知らぬ存ぜぬ、聞いていない、とつっぱねた。とうとうケリアリスもあきらめて、「後悔するぞ」と捨てぜりふを残して出て行った。
本当に後悔するかもしれない、とユニアは思った。
「将軍は生きていると言え!」
あたしの後ろにいた誰か、あたしの腕をきつくつかんで身をのり出していた誰かにマキシマスが言った、あのことばには、どんな意味があったのだろう?
ローマをほろぼす計画と何か関係があるのだろうか。
ユニアはローマを愛していた。この都で生まれて育った。白く輝く建物、緑したたる庭園。ゆるやかな勾配を描いて丘を上り下りする石だたみの道。これを傷つける計画をたてているのなら、たとえマキシマスでも許せないと思った。

(6)選ばれた者

そんな、ある夜のことである。
ドアの外に誰かがいるような気がして、ユニアは夜中に目をさました。
ベッドの中で耳をすませていると、低い話し声がして、ドアを誰かががたがたと動かした。
飛び起きて、ユニアは壁際に身をよせた。
通りを走る荷車の音にまぎれて、よく聞きとれないが、話し声はつづいていて、やがて数人が階段を下りて行く音が聞こえたようだった。
それきりもうドアの外では人の気配はしなくなった。ユニアはふるえる手で、かけがねがかかっているのを確かめてから、そっとテラスに歩みよって、壁に身体をよせながら外を見下ろしてみた。
今夜は月が明るくて、その青白い光の中に、通りの角に何人かの黒い人影が立って、じっとこちらを見上げているのがわかった。

見はられているのだ。
あたしが何かしないかと。
どこかに行かないかと。
なぜだろう?
何かが今夜、起こるのか?
ローマに?マキシマスの身の上に?
小きざみにふるえながら、ユニアはそのまま床に座りこみ、両手で自分の腕をかかえた。
そのまま、眠らず夜をあかした。
何度か立ち上がって外をのぞくと、あの、いくつもの黒い影は、やはり通りの角に立ったまま、じっとこちらをうかがっていた。

ようやく夜が明けて、太陽が上った。うつらうつらしていたユニアが起き上がって、おそるおそるテラスに出て外を見ると、女家主のフォルティナが鉢植えの花に水をやりながら、向かいの家の主婦に大声で水道の水のことで何かこぼしていた。
あの黒い影は、夜つゆが朝の光にとけてなくなるようにもう一つも見えなくなっていて、通りの様子はいつもと変わらず、店の前には主人たちが品物を並べはじめて、ローマはふだんのままの朝の顔で動きはじめていた。
ユニアはほっと息をついた。
ゆうべのあれは、何もかもが夢だったのだろうか。
暑くなりそうだったが、空は曇っていて、マキシマス日和というには今ひとつだ。今日は彼は出場しないだろう、と思いながら、それでも何となく気になってユニアはコロセウムまで行ってみることにした。

入り口を入って通路にふみこんだとたん、回廊の一角にかたまって呆然としているポリアたちにぶつかった。誰の顔も青ざめて、目が大きく見開かれていた。
「何かあったの?」歩みよりながらユニアは聞いた。
カリナがユニアの腕をつかんだ。何かにすがらないではいられないといったように。
「マキシマスが皇帝と戦うの」彼女は自分でも信じられないような声で低くつぶやいた。「コモドゥスさまと」
本能的にユニアはセルウィリアとメッサリナを見る。二人はどちらも、やはりまだ自分たちもよくのみこめていないようなうつろな表情で、それでも黙ってうなずいた。
「それって…」ユニアは口ごもった。誰も返事をしなかったが、答えは聞かなくてもわかっていた。
皇帝の相手に選ばれた。
それは彼が死ぬということだ。
皇帝は負けないのだから。相手がどんな人間でも、動物でも。
きっと、マキシマスは…
その先をユニアは考えられなかった。
そのままでは強すぎて危険だからと、前もって傷つけられ、充分に戦えなくされた上でコロセウムにひき出され、それでも血をまきちらし、砂まみれになって、絶望的な恐ろしい咆哮で相手を威嚇しながら、すさまじい形相で命つきるまでたけり狂っていたライオンやトラやゾウたちの姿が、いくつも、いくつも、幻のように目の前を横切って行った。

(7)神殿にぬかづいて

まだ大半の観衆は何も知らされてないらしい。「今日は特別のだし物があるらしいぞ」と楽しげにしゃべりながら、ユニアたちの立ちつくしているそばを人々は通りすぎて行った。
「皇帝陛下がご出場になるそうだ」「相手は何だ、またダチョウか?」と笑っている者も中にはいた。
「何だってまた彼が」ゼナが唇をかみしめている。
「強すぎたのよ」マルキアがうめくように言った。「目だちすぎたんだわ」
ていねにちぢらした前髪がたれ下がるのもかまわず深くうつむいていたパオラが、きっと顔を上げた。「そう、彼は、すぐれていたから、選ばれたのよ」かすれた声で彼女は言った。「名誉なことだと思わなくては」
皆がパオラをまじまじと見た。
パオラは皆を見回した。「ローマの栄光のために」と彼女はふるえる声でつづけた。「彼は死ぬのよ。皇帝の栄誉をいやが上にも高め、ローマの人々の心をひとつにするために。彼はそのためのいけにえ、尊い犠牲なの。戦場の兵士たちと同じ、気高く、偉大な。彼だって、きっと満足しているわ。だから、皆さん」彼女は両側にいたスペンドゥサとフィオナの腕をとった。「私たちも、耐えなくちゃ。見苦しいところを見せちゃだめ」

魅入られたように皆がパオラを見つめていた。詩を朗読する時と同じ、美しい力強いパオラの声は次第に熱っぽいふるえを帯びて高まった。「ローマのためよ」と彼女はくり返した。「私たちの住む、この美しい都のため、私たちの祖先が築きあげてきたこの世界のために、彼は死ぬの。皇帝と、この都と、そして私たちの守り神となって永遠に彼は生きるわ。だから皆さん、嘆いてはだめ。泣いてはだめ。笑って彼を、見送りましょう」
「そうね」ポリアが小さくうなずいた。「彼にとっても、私たちにとっても、これは名誉なことなのだから」
「そう、ローマのため」パオラは目を閉じ、すぐまた開けて、そのすみれ色がかった大きな美しい目で一人ひとりをじっと見た。「いいわね、皆?女々しいふるまいはしますまい。私たちは、ローマの女よ。耐えるのよ。ほほえんで、彼の最期を見届けましょう。私たち皆で、堂々と。ローマ市民として恥ずかしくないように、皆で彼を見送るのよ」
「そうね」ゼナが泣き笑いのように言って、指先でそっと涙をぬぐった。「今日は私たち皆、彼に劣らず皆から注目されているわね、きっと。見苦しくとり乱したりしたら、マキシマスのファンとして恥ずかしい。わかったわ。そうするわ。マキシマスのファンとして恥ずかしくないようにふるまってみせる。きっと、約束する」
「皆も、いい?」ポリアが言って、見回した。
「ええ」スペンドゥサがうなずき、頭をきっと高く上げた。
「がんばるわ」アプラもかすれた声で言い、両手を固くにぎりしめた。
「さあ、これは私たちにとっても最後の戦い」ポリアが強い声で宣言するように言った。「彼と同じに、私たちの姿もまた、人々の目に今日はきざみつけられる。彼が苦しみに耐えて最後までがんばるように、私たちも彼をはげまして、くじけないでいましょう、最後まで。行きましょう、皆で。観客席へ。私たちのコロセウムは、そこなのよ」
皆が顔を見あわせた。金やめのうや黒水晶の指輪をはめた手と手とが、誰からともなく持ち上がり、ひとつに重ねあわされた。涙を浮かべた目と目とが酔ったような悲しい緊張をたたえて、それでも晴ればれと笑いあった。

ユニア一人が手をふりはらい、激しく首をふって、後に下がった。
「ユニア?」パオラとポリアが目を上げた。
何か言おうとしてユニアは口を開いたが、何もことばは出てこなかった。
気がつくと、彼女は自分の絶叫を聞いた。
あたりの人が皆立ちどまり、遠くの人々までがこちらをふりかえったほどの、長い、声を限りの、いつまでも続く絶叫だった。
そのままふり向き、走り出して、コロセウムの外に出た。
ぞろぞろとコロセウムに入って行く人々の波にさからって、どんな相手かもうわからない人の身体を片はしから押しのけ、つきのけつづけながら、ユニアは必死にただ走った。
あの人が死ぬ。あの人が殺される。
マキシマスがこの世からいなくなる。

遠く、ティベレ川が日の光に光る。
アパートのテラスに立ち、髪を後ろになびかせたまま、ユニアは町をながめている。
犬のマキシマスは何かからユニアを守ろうとするかのように、ぴったりと彼女の足によりそって座っていた。
いつから、何年前のこの日から、あの瞬間のことを思い出しても、立っていられるようになったのだろう。
はじめの何年かは、この日の朝、思い出すたびにベッドの中で枕に顔を埋めて、なかば死んだように、たえだえに息をしていた。
そのあとの何年かは、へやのすみにうずくまって座り、両方の手で身体を固く抱きしめて、ふるえつづけながら耐えた。
あの時自分は、何から逃げようとしたのだったか。
何に向かって走ったのか。
その答えはまだ見つかっていない、とユニアは思う。

人波にさからいつづけるのに疲れて、とうとうユニアは足をとめた。
「ユニア!ユニア!」
誰かが叫んでいる。肩に誰かの手がかかって、けんめいにユニアをふり向かせようとしている。ふらつきながら向きを変えると、フィオナの青ざめて涙に汚れた小さな顔が、すぐ目の前にあった。
「ユニア、行こう」いつものおとなしさに似あわない強い声で彼女は言った。「戻らなきゃ。あの人の最後の試合よ。絶対に見なきゃだめ」
ユニアはもう走る力がなくなっていた。動く力もなくなっていた。黙ってフィオナをただ見ていた。
「あの人のこと、もう見られなくなるのよ」フィオナはユニアの肩をゆすった。「今日、見ておかないと、もう、二度と」
ユニアはぼんやり首をふった。
この人は何を言っているのだろう?
「最後の試合を見ておかないと」フィオナは一生けんめいにユニアを説得しようとしていた。そのことがユニアにはよくわかった。「何言われるかわからないよ。そんなの、くやしいじゃない。あの人のこと、これだけひいきしたのに、最後の試合も見てないんじゃ皆にあわせる顔がないよ。この先ずっと、その話が出るたびに、くやしい思いをすることになるよ」
呆然とユニアはフィオナを見た。
この人、何なの。この人たち、皆、いったい、何なの。この人たちといっしょに私はいったい何をしていたの。ちがう。ちがう。何かがどうしようもなく。
「あの人のファンなら」フィオナは悲しげに、だが決然として言った。「これだけは絶対、見なくちゃ。死んだらきっとまた、どんどん人気が出るんだから、見てなかったら、話にも加われない」
フィオナの手をふりはらってユニアは背を向け、また走り出した。
どこへ行くというあてもない。そのままそこで向かいあっていたら、フィオナに自分が何を言うか、何をするかが恐ろしかった。
人通りの絶えた、がらんとした道のわきに小さな神殿があった。何の神をまつってあるかも見ないまま、建物の中にほとんど身を投げるようにして入りこんだ。祭壇の前にくずれおち、両手を壇のはしにかけた。

「あの人を助けて」ユニアは声に出して祈った。「あたしを殺してもいいから、あの人を死なせないで。どうか助けて。お願いです。お願いです」
祭壇に額をつけて祈っていたユニアのほおに何かがふれた。あの、暗い目のやせた女がユニアに売りつけた、マキシマスが手首に巻いていたという革ひもだ。半信半疑で、それでもユニアは大切にしていた。あちこち破れて、ちぎれていたから、自分で細く切ってきれいに編み直し、飾りひもにして首や腰に巻いたり、髪をゆわえたりしていた。もどかしげにそれを髪からはずし、心をこめて口づけしてから、ユニアはそれをふるえる手で祭壇においた。
「あたしのとても大切なものです。今はこれしか持っていないの。もし彼を助けてくれたら、あたしが家に持っているものを全部あげます。一生、一日も欠かさないで、この神殿に通います。お願いよ。彼を助けて。殺させないで。死なせないで。どんな姿になってもいいから、命だけはとらないで」
ユニアは泣いては祈り、祈っては泣いた。
「苦しませないで。苦しまないように死なせてあげて」
気がつくと、そうも言っていた。そう自分が言っているのに気づいた時、ユニアは声をあげて泣いた。
「あの人を助けて。あの人を守って。あの人のそばにいてあげて。あの人を一人にしないで」
泣き声とことばとは、とぎれとぎれに入りまじって、とめどなく、ひとりでに、ユニアの唇からこぼれつづけた。何を自分が言っているのか祈っているのか、もう自分でもわからなかった。

(8)「皇帝崩御!」

気を失っていたのではないかと思えるほどに長い時間がすぎたあと、通りからひとつの声が突然ユニアの耳にとびこんできた。
「皇帝崩御!」
はじかれたようにユニアは顔を上げた。
今あたし、何を聞いたの?
神託のように声はひびいて、そのあとはまたしんとして何も聞こえない。
ユニアは祭壇に手をかけたまま、顔を上げ、頭を起こして、おそるおそるあたりを見回した。
ざわめきがやがて次第にかすかに聞こえはじめた。通りに活気がよみがえりはじめている。
「皇帝が崩御されたぞ!」
またたしかに、そう言う声が聞こえた。
ユニアの身体がふるえはじめた。
祈りが、聞きとどけられたのだろうか。
そんなことが、本当にあるの?
よろよろとユニアは立ち、柱や壁に手をあてて身体を支えながら外に出た。
通りいっぱいに人々が算を乱して、かけていた。
「皇帝が死んだ!」
「コモドゥス殿下が亡くなられた!」
口々に皆がそう叫んでいる。
「皇帝が殺されたぞ!」
「剣闘士が勝った!」
ユニアは目を閉じ、空をあおいで息をとめた。
「暴君が倒れた!」
「共和政の復活だ!」
「マキシマスが勝った!」
「皇帝崩御!」
「皇帝崩御!」
ユニアは足をもつらせながら走り出した。
来た方へ、コロセウムへ向かって。
そこから流れ出してくる人の波がまたしてもユニアを押し戻そうとするのを、かきわけながら前へと進んだ。
どこか、幻か夢の中か、死後の世界にいるようだった。
コロセウムの入り口で、ごったがえす人々のうずにまきこまれて、それ以上ユニアは前へ進めなくなった。叫んでいる人に混じって、涙を流して泣いている者もいて、その中の一人の老人の袖をつかんでユニアはひきとめた。
「皇帝は死んだのね?」ユニアはたしかめた。
相手はうなずき、ユニアを見た。
「それでマキシマスは?」ユニアの声はふるえた。
老人は首をふった。
「皇帝を倒した、そのすぐあとで」低い声で彼は答えた。「元老院にローマの支配を命じてから、その場に倒れて、彼は死んだ。アリーナにひき出される前に、わき腹を深く刺されていて、戦っている間中、チュニックが血で染まって行くのが見えていた。どうしてあそこまで戦えたのか、まったく人間の力とは信じられないほどの深い傷だった」

そのあと自分がどうなったのか、ユニアは覚えていない。
気がつくと、コロセウムの階段に腰を下ろして、声をあげて泣きつづけていた。
そして、何かが目の前に立った気がして、目を上げると、大きな犬がそこにいた。
重々しい、悲しみに満ちた金色の目で、じっとユニアを見つめて。

静かに腰をかがめてしゃがみこみ、ユニアは犬のマキシマスの首に手を回してひきよせて、頭を彼の顔にもたせかける。
テラスにあふれる光の中で、マキシマスの毛皮からは太陽の香りがした。
あの日の夜、この犬を連れて帰って、抱きしめて眠って、それ以来自分はもう二度と泣かなかったとユニアは思う。
そう、ただ一度、一年ほど前のあの日、リディアと会ったあの時を除いたら。

第七章 オスティア港の海の青

(1)砂の手ざわり

マキシマスは死ぬ前に、オスティアに行こうとしていたらしい、とユニアに教えてくれたのは、例によってセルウィリアとメッサリナで、市場で会って三人で食事をした時、その話をしてくれた。
その港町にかつて彼がゲルマニアで指揮した軍団が駐屯していて、彼は脱走してそこに行き、軍団をひきいて戻ってローマを制圧、皇帝を殺すつもりだったと言う。
「そのあとは元老院に都をまかせて自分は去るつもりだったんですってよ」セルウィリアが言った。「あの人らしいと思わない?」
「去るってどこへ?」ユニアが聞いた。
「わかんない。あーあ、どこであれ、あたしもいっしょに行きたかった」
セルウィリアが言い、三人は笑った。もうその時は、マキシマスが死んだ数年後だったので、三人とも笑って彼の思い出を話せるようになっていたのだ。
「そこへ行こうとしている時に、計画がばれてしまって、つかまって地下牢につれて行かれたのよ」メッサリナがため息をついた。「どんなにくやしかったかしらねえ」
「裏切ったのは皇女さまだって聞いた時にはがっくりしたわ」セルウィリアが言った。「私、あの方、大好きだったの。おきれいで、明るくて」
「でも、お子さまを殺すとコモドゥスさまに脅かされたのでは無理ないわ」メッサリナが首をふった。「お気の毒よね、あの方も。今はどうしておいでなのかしら」
噂話にしばらく花が咲いたあとでセルウィリアが「ユニア、オスティアに行ったことある?」と聞いた。
「それがまだなの」
「まあ、ローマから近いのに」メッサリナがあきれた。「一度行ってごらんなさいよ。海がきれいで、いいとこよ」

その時ユニアは二人に言いそびれたのだが、オクタウィアもオスティアの話をしたことがある。彼女の猫が死んでしばらくした頃のことだ。オスティアに自分の別荘があって、そこの浜べで、マキシマスがコロセウムでいつもしていたまねをして、砂をすくってさらさら指からこぼしたら、そのきめこまかで、なめらかな手ざわりが猫のマキシマスとそっくりだったの、と言って笑った。目を閉じて、砂をすくって指の間をくぐらせていると、まるで、あの子の頭や背中の毛をなでているようで。あら、あの子の手ざわりを忘れそうになったら、いつでもこの浜べに来て、砂をすくえばいいんだわ。そう思ったのよ。マキシマスが教えてくれたみたいでね。何だかとってもうれしかった。
あれは、どっちのマキシマスが教えてくれたと言うつもりだったのかしら。彼女が死んだ今になって、彼女の息子と同じように、ユニアもときどきそう思って迷った。

(2)馬車にゆられて

実際にユニアがオスティアに行ったのは、今からちょうど一年ほど前だ。女家主のフォルティナから、店の品物を客の一人に届けるよう頼まれて、マキシマスといっしょに出かけた。ちょうど知り合いを訪ねる用事があったペトロが馬車で送ってくれた。
マキシマスの首をかかえてひきよせて、いっしょにがたごとゆれながら運ばれて行く旅の間に、ユニアは密偵のケリアリスのこと、彼に結局教えなかったマキシマスのことばのことを話して聞かせた。
ペトロはいつものように黙って耳をかたむけながら馬の手綱をとっていたが、聞きおわると首をふって、「なんか、ふしぎな気がするな」と言った。「あの方がそんな風におっしゃったのか」
「何か変?」ユニアは首をかしげた。
「ユニアの話す、ローマでのあの方の話を聞いてると、いつもまるで目で見るように生き生きと、あの方のお姿がよみがえる。だが、それでいて」ペトロは口ごもった。「時々、何だかまるっきり別の人の話を聞いてるような気のすることがある。何でなのかよくわからないんだが、何かその、おまえが密偵に言わなかったことばってのは、もう決定的って感じだなあ」
「どこがなの?」
「いろんな公式の場所やなんかで、当然そう言ってもいいような時でも、あの方はご自分のことを『将軍』なんておっしゃったことはなかったよ」ペトロは思い出しているように、考え考え、ゆっくりと言った。「そんなことを言っておられるあの人というのが、おれには何だか、予想がつかない」

「多分、変わられたんだなあ」しばらく黙って海沿いの道を馬車を走らせたあとで、ペトロがぽっつり、そう言った。
「あの人が?」
「何ていうかなあ。偉大な将軍だったんだが、けっこう子どもっぽい、わがままな感じのする人だったんだよ」ペトロはほほえんでいた。「こうしたい、ああしたい、って人をこき使うわがままじゃないが、一人で勝手に好きなことしちまったり、いやなことはしたがらないって感じのな。戦い方は戦略にしても実戦にしても抜群だった…それはユニアも知ってるよな。でも、いつも、ちょっといやいやで、仕事だからしょうがないって風で…そのくせ、いったん始めたら熱心で、でも、それも子どもが遊んでるようなところがどこかにあったしな」
ユニアは笑った。「そうね、わかる気がする」
「とにかく故郷のスペインの家に帰りたがっておられたのはもう有名だったし、儀式の時なんかは露骨に退屈そうでいらしたもんな。宴会でも、気のあう相手を見つけるとそれはもう、こぼれるような笑顔で全身はずんでおられたが、つまらない相手につかまると遠くから見てても気の毒になるぐらい情けない顔をしておられたよ。要所要所はびしっとしめて失敗なんかはなさらなかったが、退屈なさると、ぐれたり、すねたり、気まぐれをされたりして皆をあわてさせたりもなさってた。そういう、困ったもんだがかわいらしい、というところが、ユニアの話を聞いてるとひとつもないんだよ。こんなこと言っちゃ失礼だが、何だかかわいそうなぐらい、大人になられたなあって気がする」
しばらくまた黙ったまま、二人は馬車にゆられていた。
「将軍は生きていると伝えろ、か…」ペトロはやがて、ため息をついた。「きっとあの方は、ローマのために、皆のために、その反乱を起こそうと決意され、ひょっとしたら、生まれて初めて、自分から、自分の意志で戦おうとされたんだ。命令でも、仕事でもなく」
そしてペトロはユニアが赤くなったぐらい率直なうらやましそうな目を、無邪気にまっすぐユニアに向けた。
「いいなあ、おまえ。そうやって、そんな時のあの方のそばにいられたなんてなあ」
「そんな目で見ないでよ」ユニアは文句を言った。「変な気持ちになっちゃうわ」
「何だよ」ペトロは声を上げた。「おまえだっていつもおれのこと、うらやましがって、おれを困らせるくせに」

ペトロとは、夕方に町はずれで落ち合おうと約束して、届け物をすませたあと、マキシマスを連れてユニアは一人で海に行ってみた。
家族連れらしい人たちが渚で笑ってはしゃいでいるのを見ながら、浜べに座り、オクタウィアが言っていたように、ほのかにあたたかくなめらかな砂をすくって指の間からさらさらとこぼしてみると、本当に絹のような毛皮をなでている感じがした。
一度もさわらせてくれなかったオクタウィアの猫の手ざわりは、こんなのだったのかしら。波の音がふと、オクタウィアが猫をなでていた明るいアトリウムの噴水の音を思い出させた。
マキシマスは黙ってユニアのそばに座って、やかましく鳴きさわぐカモメの群れをながめていた。
「海を見るのは初めて?」その顔をのぞきこんで、ユニアはそっと聞いてみた。
マキシマスは答えなかった。いつものようにしっぽや耳を動かして答えることもしないまま、じっと海を見つめつづけていた。

(3)新婚家庭

夕方までまだ間があったので、ユニアはマキシマスを連れて、町を歩いた。
夏のオスティアは光と風につつまれていた。活気あふれる中にも、どこかに優雅さのただよう古い港町の白い石段をあちこち昇り降りしている時に、ユニアはリディアに会った。
この町に父の別荘の一つがあって、そこに滞在しているのだとリディアは言い、ためらうユニアを、その屋敷に招いた。青い海を正面に見下ろす白い大理石のテラスで、マキシマスは二人の女の足もとに腹ばいになり、のばした前足の上にあごをのせて、心地よさそうにまどろんでいた。
リディアは少しも変わっていなかった。金粉をあちこちに散らして編み上げた黒い髪も、はかなくやさしい顔だちも、白とばら色の衣装につつまれたほっそりとした手足も、あいかわらず、どこか痛々しいほどの、まばゆい美しさだった。マキシマスの名を聞いて、ユニアがしぶしぶ答えると、喜んで声を上げて笑い、自分もまだマキシマスの人形を寝室にかざっていると打ち明けた。
「こんなに大きな立派な犬は、見たことがないわ」マキシマスをつくづくと見ながらリディアは言った。「父が見たら、きっとほしがって死にそうになるわ」
「でも、もう年よりなのよ」
「そう?ちっともそんな風には見えない。毛がぴかぴか光っているし」リディアは優雅に足を組みなおした。「ねえ、オスティアにはよく来るの?」
「ううん。実は今日が初めて」
リディアはうなずき、目を海の方にそらした。「私も実は久しぶりなの。子どもの頃は毎年、夏には来てたけど。死んだ夫が浜べでね、いっしょに魚をとってくれたわ。私はきれいな貝がらを拾って彼にあげたりしてた」
「まあ」
ユニアの目に光と波のきらめく中にたわむれている幼い少女と少年の美しい姿が、おぼろな幻のようにうかんだ。リディアの白い細い指が今そっとなでている、見事な細工のカップのように、それはユニアの手のとどかない、見ているだけで幸福になる遠い世界だった。
「幼なじみでいらしたのね?」
ひとりでにリディアには敬語になる。尊敬というよりも、大切に大事にしてあげなければという思いがそうさせる。リディアはひっそりうなずいた。
「小さい時から、家どうしのつきあいで、子どもの頃から両方の家族の前で、私たち結婚するって、二人で言っては皆を笑わせていたの。そして、そのとおりになったわ。私たちは成長し、祝福されて、結婚した」
「素敵だわ」
でもたしか、リディアの夫は何かの事故で、そう、火事で死んだはずだった。それに思いあたってユニアはあわてはじめていた。どうしてこんな話になってしまったのかしら。何とか話題をそらせなくちゃ。けれどリディアは笑って、「小さい時から私はずっと、夫以外に愛した人はいなかったの」と言った。「他の人なんて誰も目に入らなかった。私の夫は美しくて…少女のようにほっそりしていて、性格もやさしくて、もろくて、でも感情は激しくて、とても傷つきやすかった。マキシマスを見た時に、なぜか、夫を思い出したの。彼はあんなにたくましいのに。でも、とても似て見えたのよ」
「何かがきっと、似ていたんだわ」ユニアは言った。
「そうよね」リディアはうなずいた。「私もそう思ったわ。夫は、こわれそうに繊細だったけど、でも、まじめで一生懸命に生きる人だった。華やかに見えるから、いいかげんに見られてしまうこともあったけど、本当は不器用なくらいに誠実だった。私のこともとても大事にしてくれて、私は何の不安も感じてなかった」
このリディアが美しく繊細な人という夫とは、どんなにか美しかったのだろう。そんなことをユニアが思っているとリディアがつぶやくように低く「…でも」と言った。
ユニアは目を上げた。陶器のようになめらかに白いリディアのほおに、うす青い影が落ちているようだった。
二人があまりに静かなので、床に腹ばっていたマキシマスがそっと薄目を開けている。ユニアがその頭に手をおいてやると黙ってまた目を閉じた。
「結婚した日の夜」それを見ながらリディアは低い声で続けた。「二人で住まう屋敷に行くと、あたたかい目とやさしい笑顔の若い女が待っていた。彼は私に彼女をひきあわせて言った。君を愛しているけれど、彼女のこともとても好きで、どうしてもはなれられない。君たちのどちらも失いたくない。必ず二人を幸せにするから、同じように愛するから、三人でいっしょにここで暮らせないだろうか。彼はとても緊張しているって私にはわかった。緊張すると美しくなる人だったの。その時の彼はそれまで私が一度も見たことのないくらい、きれいだったわ。ぬれたような黒い目が強く輝いて、かすかにほおが染まって、声も唇もふるえていて」

ユニアはリディアを見つめた。「どうしたの?」と聞くしかなかった。
「いっしょに暮らしたわ」リディアは言った。どこか、ふしぎな異国の物語でも語っているような、ゆるやかな抑揚のある細い声だった。「夫の言った通りにして。私たち三人の関係は誰も知らなかった。召使たちは察していたと思うけど、彼らは秘密を守ったわ。ひとつには彼女がとても、いい人だったからでしょうね。やさしくて、よく気がついて、私にも本当によくしてくれて、召使たちにも好かれていた」
「それはあの…あなたはつらくなかったの?」
リディアは首をふった。「そんな風には思わなかった。私たちは三人で食事をし、彼は私たちを屋敷のあちこちで、かわるがわる抱いたわ。あの頃の思い出のすべての場面に、私たち三人がいて、いつもいっしょに笑っているの。私と彼女は肩を並べてあの人を出迎え、一方づつの手をとって笑いさざめきながら階段を上がった。彼女は私の髪をすきながら、故郷のことを話してくれた。静かな森と湖のこと、珍しい鳥のこと。庭のハンモックでゆられながら、私が彼との思い出を話すのを、いつまでも聞いてくれた。二人がキスしているのを見ながら、私は本を読んでいた。彼女がたて琴をひいているのを聞きながら彼に抱かれた。毎日はとても平和でのどかで美しく、私たちは三人とも、とても愛しあっていて、おたがいのことが好きだった」
ユニアはうなずく。そういうこともあるのかと思った。心の清らかな、やさしい人たちどうしなら。そんな風変わりでふしぎな関係も。
「三年ほどがそうして過ぎて、幸せな日々が流れて、ある日私は二人を殺した」
ユニアは思わずリディアを見た。聞きちがったと思ったからだ。それほど静かな声だった。
「何ですって?」
「飲み物に、毒を入れたの」リディアの細いやさしい声は、とぎれることなく歌のように続いていた。「二人は、すぐには死ななかった。薬が足りなかったのね。売りつけた商人がちゃんと説明しなかったものだから、分量がよくわからなかったの。でも、その方がいいと思った。二人は長いことベッドの上で、のたうちまわって苦しんでいた。みにくく顔をゆがめて、たがいの吐いたものに汚れて。私は入り口の柱につかまってそれを見ていた。いつまでも見ていたかったわ。二人のうめき声もいつまでも聞いていたかった。とても、とても、気持ちがよかった」

「それは…罪には…ならなかったの?」わななきながらユニアは聞いた。「誰にもわからなかったの?」
「父が、もみ消したんだと思う」リディアは答えた。海の方をながめたまま、澄んだ目を何も見ていないかのように大きく見開いて唇だけを動かしているその姿は、白いふしぎな彫像のようだった。「彼女が夫に一方的に恋をして、無理心中したことにして。とり調べはあったけれど、かたちだけのものだったし、父の力を恐れたのか、誰も私を疑わなかった」
「心の底で」ユニアは声をふるわせまいと気をつけながら、おそるおそる聞いた。「あなたは二人を、憎んでいたのね?」
「わからない」リディアは首をふった。「今でも、その声を聞く夜がある。二人のゆがんだ顔が闇の中にうかぶわ。でも、恐くない。苦しくもない。とても、気持ちがいいだけよ。思い出すのが楽しいの」
ユニアは何も言えなかった。ただ呆然と座っていた。
「二人は本当に、いつまでも、なかなか死ななかったの」リディアは細い、やわらかな声で続けていた。「人間ってなかなか死なないのだなあと、びっくりしながら見ていたわ。でもあまりうめき声が大きくなるから、召使たちに聞きつけられないか、だんだん心配になってきたの。それで、ろうそくを持って行って、二人のベッドに火をつけた。炎はすぐに広がって、その中で二人は苦しみ、焼け死んで、屋敷はその夜、すべて燃えて灰になったわ」
リディアはほのかに息をついたようだった。
「二人を憎いと思ったことなんて、私、一度もなかったの。二人のどちらかを憎んだ瞬間なんて、思い出そうとしても、一つも思い出せないの」

(4)湖畔の別荘

ユニアはまだ思ったように息ができない。手や足の先がしびれたようで動かせない。リディアの声がどこか遠くで聞こえていた。
「私は彼が、本当に本当に好きだった。マキシマスを見た時にひと目で夢中になった気持ちと、同じだった。あの、どこか人をよせつけない、遠くから来て、また遠くへ行ってしまいそうな淋しさ。どうしても、あの人の心の奥に行きつけないもどかしさと悲しみ。私の夫もそうだった。見つめても、抱きしめても、そこにいる気がしなかった。他の人には見えない幻を自分は愛しているのではないかといつも思った。その彼を、そんなにたしかに愛していてくれる彼女がそばにいるのは、どんなに心強かったでしょう。彼女がいっしょにいてくれるから、安心して夫を愛せるのだと何度思ったことでしょう」
「ポリアの家で、あたしたちがマキシマスを皆でわけあう話をした時」ユニアは思わずそう言った。「そのことを、あなたは思い出していたのね。だからなの…だからマキシマスを買ったの?」
「わからない」リディアはそっと首をふった。「あの時の自分の気持ちなんて、私はひとつもわからない」
でも、わかるような気がする、とユニアは思った。
「マキシマスとすごして、それで…あなたは落ちついた?」

リディアは黙っていた。話したくないと言ったら、もうそれ以上聞くまいとユニアは思った。そう言ってほしいと思っている自分にユニアは気づいた。リディアとマキシマスの間に何があったか、聞く勇気が自分にあるとは思えなかった。もうあれから何年もたった今になってさえも。自分たちのは、ただのお話だったが、リディアは実際にマキシマスを買って、一夜をともにすごしたのだ。その事実とは、向きあいたくない。忘れてしまっていたかった。
「父はあの人を、田舎の別荘に呼んだ」ユニアの気持ちに気づいているのかどうか、リディアは静かな声で言い出した。「兵士たちが、あの人をそこに連れてきた。長いこと馬車にゆられて私は気分が悪くなり、緊張のせいもあったと思うけど、ずっと吐きつづけて召使たちを心配させた。だから、あの人のいるへやに行った時は、もう夜中をすぎていたでしょう。建物の南のはしの、湖と森に面した小さいへやだった。緑と金の柱とカーテン。ベッドも淡い青と緑。ぶどう畑の画が壁一面に描かれていた。私は厚いヴェールをかけて、へやに入って行った。ヴェールってふしぎね。男の人たちはわかっていても、忘れてしまうらしいのね。私の方からは彼らの顔がよく見えることを。自分たちが私の顔が見えないので。マキシマスを見はって廊下に立ってた兵士たちは、私を見て、皆、いやらしい笑い方をしたわ。あけ放しになっていたとびらから一人が中に入って行って、ベッドのはしに座っていたあの人の肩にかけていたマントを音をたててひったくり、それを腕にかけて出て来ながら、たっぷりかわいがってもらえと彼に言ったわ。もう一人が入り口の柱に手をかけて中をのぞき、お嬢さまに逆らったり失礼なことがあったりしたら、どうなるかわかっているだろうなと冷やかに言ったわ。兵士たちは、あの人を買った私を憎んでいた。私に買われたあの人を憎んでいた」
リディアはふっと息を吐いて笑った。
「別にそのせいでもないけれど、私は少しも楽しくなかった。心は少しもときめいてなかった。私はへやに入って行き、背後で兵士がとびらを閉めた。あちこちにおかれた灯が、明るすぎるくらい明るくへやを照らしていた。あの人の着ているいつもと同じ青いチュニカの糸のひとすじも見えるほどに。あの人はベッドのはしに座っていて、私が入って行くと、目を上げて、こちらを見たわ」

私はふるえていた。今にも倒れそうだった。だから、ベッドの頭の方の柱をつかんで立っていた。
あの人の方は落ちついていたわ。水のように静かだった。敵意も見せず、警戒もせず、恥ずかしがる様子もなく、ただじっとこちらを見ていた。
「待たせてごめんなさい」私はそう言ったわ。「待ちくたびれた?」
あの人は黙って首をふった。
奴隷のようではなかった。買われてきた男にも見えなかった。まるで自分の屋敷にいるように、あの人は自然にそこにとけこんでいた。
「そうね」私は椅子に腰を下ろしながら言った。「いやな仕事をしに来たのだもの」
あの人は何も言わず、何のしぐさもしなかった。黙って私を見ていたわ。ふしぎなことにあの人は、とてもみちたりて幸福そうに見えた。私に比べたら、ずっと。

(5)ぶどう園の話

のどがかわいたから、そばのテーブルにあったワインを飲んだわ。「飲む?」と聞いたらあの人は、黙って首をふった。
「何かしゃべってみてくれる?」私は言った。「何でもいいから」
彼は話題をさがそうとするかのように、ゆっくりへやの中を見て、やわらかな低い声で言ったわ。「この絵を描いた人は、ぶどう畑を知らないな」
私は壁をながめた。「そう?本当のぶどう畑は、こうではないの?」
「こんな風には、実はならない。つるの巻き方もちがいます」
「ぶどう畑があったのね?奥さまとくらした家には?」
彼は笑ってうなずいた。
「その奥さまは亡くなったのね?」
彼はまたうなずいた。でも、まだ微笑はのこっていた。
「奥さま以外の方を、あなたは愛したことがある?」私は聞いたわ。「結婚したあとも?」

彼は私をじっと見て、それからぶどうの絵の方を見た。
「なかったと思いますが」彼はやがて、まじめに答えた。「自分のことは、よくわからない」
「一度に二人以上の人を、同じぐらいに愛したことは?」
彼は首をふった。
「本当にないの?」
「私を愛した女は皆、全力ささげて愛さないと満足しない人ばかりだった」
「たとえ心のひとかけらでも、くれればそれで満足と言った女はいなかったの?」
彼は小さく笑ったようだった。
「私のひとかけらなど、豚のえさにでもくれてやると、私を愛した女たちは皆言ったにちがいありません」彼は言った。「そんなものは私でも何でもない、と」
「なぜ、どうして、その方々は、そんなに自信が持てるのでしょう」私は思わずそう叫んだ。「あなたのような人を前にして、そんなことをどうして言えるの?」
「あなたは言えなかったのですか?」彼は静かに聞き返した。

ユニアは、のどに手をあてた。思わず、さっきリディアが言ったと同じことばをくり返していた。
「奴隷の…買われた男のようじゃないのね」
「そう思うでしょう?」リディアは笑った。「あの人は。まるで弱みを見せなかった。楽々と、堂々と、私を見ぬいて、支配した。赤子の手をねじるよりもっと、かんたんに」
「あなたはそれで話したの?自分のことを?」
「ええ」リディアは言った。「彼の方を向き直り、私はヴェールをはずしたわ」

「私を美しいと思う?」と私は聞いた。「よく見て、答えて」
彼はうなずいた。「そう思います」
「他には?」
「とてもお若い」
「そう思う?でももう結婚して、夫と、その恋人を殺した女よ」
彼の表情は変わらなかった。「そうですか。それはわかりませんでした」
「きっと、後悔していないからだわ。まだ、二人を憎んでいるもの」
彼は初めて目を伏せた。「そうですか」
「私を見て下さる?見つづけていて下さる?」
彼は目を上げ、「すみません」と言った。
「夫は、その恋人を家においたの」私は言った。「二人とも愛していると言ったの。ひとつ屋根の下で、かわるがわるに私と彼女は夫に抱かれた。私と彼女は笑いあい、夫のことを話しあい、二人で料理を作り、夫の服をぬった。私は二人を愛していると思った。私たちは三人で幸せだった。そしてある日、気づいたら私は、二人の飲み物に毒を入れていた」

(6)残酷なひと

「あなたは拒絶できなかったのですか」彼はそう聞いたわ。「そんな暮らしはいやだと言って」
私は首をふった。「あの人の愛を失うまいとすれば、それしかなかった。私には、選択の余地なんてなかったの」
長いこと、いいえ、そうでもなかったのかしら、私にそう思えただけで…黙っていてから彼は聞いた。
「彼には選べたのですか」
その時はとっさに、どういう意味かわからなかった。
「そんな暮らしを選んだのは、私ではなくて彼なのよ」私は言った。「彼の望みで、私も彼女も、それに従うしかなかった。二人とも愛している、どちらか一方は選べない、と彼が言うのですもの」
「彼は…」
言いかけて、マキシマスはためらったようだった。「本当に選べたのですか」
「選べないと言ったと、言っているじゃないの?あなたの言っているのは、それとはちがった意味なの、何か?」
すると彼は目を上げて、とても悲しい、本当にとてもつらそうな目で言った。
「彼は、あなたを選べないでいることができたのですか?その、もう一人の人を選ぶことが彼にはできたのですか?」って。

「その意味がわかる?ユニア」リディアは笑った。
ユニアは考えていた。ようやくわかったと思った時、思わず息をのんだ。「そんな…」
リディアはテラスの向こうを見ていた。広がる青い海の色。よせてくる白い波の色。その手前の庭いっぱいに咲き乱れて陽射しの中にゆれている、とりどりのバラの花の色。
「あの人は残酷な人」静かな、うつろな声でリディアは言った。「コロセウムで戦っているときよりずっと、残酷で、恐ろしい人」

あの人は、そうやって私に教えた。思いつかせた。私の夫は、貴族の長男だった。家の名誉も、家族の将来も、すべて彼の肩にかかっていた。出世のためには、私の父のきげんをそこねることは絶対にできなかった。周囲も私自身もすべて、彼は私と結婚するものと決めていた。断れば彼は破滅だったわ。
彼は、私を選ぶしかなかったの。私と結婚するしかなかった。
それでも別れられない、それでも愛さずにはいられない相手がいたのに。

そして、その相手の彼女も、私と彼をわけあう屈辱に耐えた。誇りをすてて、彼も彼女も、みだらで狂った暮らしを選んだ。
それほどに、愛しあっていたから。
じゃま者は、私だった。
誰よりも、ふみにじられていたと思っていた、この私。自分の美しさに、家柄に、自分でも気づかないほど絶対の自信を持ち、それを得ることが幸福以外のことであるはずがないと信じきって、疑ってもいなかった、この私。
でも、本当は、私さえいなければ、皆が幸福だった。
そうやって二人をふみつけにして手に入れていたもので、自分さえ幸せにすることが私はできなかった。
二人から誇りを奪い、幸せを奪い、そして最後に命まで奪い、それでまだ、一番不幸で、ふみにじられたのは自分なんだと思いこんでいたの。

たとえあの人の目の前で裸にされて兵士たちから犯されたとしても、あれほど恥ずかしくはなかった。みじめではなかった。
私はまっ青になって立ちつくし、それから耳までまっ赤になったわ。
マキシマスは私を見ていた。本当につらそうに。今にも目をそらしてしまいたそうに。
「私の救いは」とうとう、あえぐように私は言った。「どこにあるの?それではどこにあるの?」
「わかりません」ささやくように彼は答えた。
「救う方法もわからずに」私は寝台に腰を落とした。「真実だけを教えたの?」
「真実はいつも人を救う。真実しか人は救えません」低くまた彼は言った。「そう教わりました。そう思っています」

気がつくとユニアは泣いていた。
両手で顔をおおって、泣きつづけていた。
ぼんやりと思っていた。
あの人は、何ときびしい人だったのだろう。
近づきがたい人だったのだろう。
マキシマスが気がかりそうに前足をたてて立ち上がり、ユニアのひざに強く頭を押しつけてきた。

朝まで私はあの人に、指一本ふれなかった。
そんなことができるはずがないわ。
選ぶことのできない人間の恐ろしさを知らされたばかりなのに。
私の言うことに逆らえない相手がどんなに残酷か、わかったばかりなのに。
ユニア。恵まれた家に生まれて、ほしいものが手に入る権力を持ったのは、何も私のせいじゃない。
拒絶してくれる相手がいない強い立場にいつもいるのも、私が選んだことじゃない。
それなのに。
あの人はそこにいた。あんなにあこがれたあの人が。指の一本、髪の一すじにでもふれられたら、死んでもいいと、皆で言いあったあの人が。手をのばして、身体を横に二つ分もずらしたら、もうあの人にふれられる。身を投げて泣けば、抱きしめてくれるかもしれない。くちづけも、それ以上のこともできるかもしれない。
でも、私はそれが恐かった。
あの人は、もしかしたら、私を押しのけて拒絶してくれるかもしれない。それならばまだいい。
でも、もしかしたら、鞭うたれるのがいやで、仲間を殺されるのがいやで、私にはわからないもっと他の何か恐ろしい罰がいやで、拒絶できずに私を抱くなら。
そう思うと、恐ろしくて。
思っただけでも、たまらなかったの。

ユニアは泣きつづけていた。涙がとまらなかった。
マキシマスは今やもう本気で心配していた。くうんくうんと子犬のように低く鼻を鳴らしながら、ユニアのひざに前足をかけてのび上がり、ほおに鼻面を押しつけてくる。ユニアはその頭に顔を伏せ、彼の毛皮に涙をしみこませながら、泣いた。

兵士たちが彼を連れに来た時、私たちは寝台のはしとはしとに座ったままだった。彼らはとても変な顔をして私たちを見て、一人が私に、「彼はお気に召しませんでしたか」と聞いたわ。
彼が困るといけないと思って私は前を見たまま「とても気に入りました。最高でした」と答えたの。
立ち上がって出て行く時、彼はちらと私を見たわ。まじめな静かな顔だった。哀れみもなかった。さげすみも、感謝もなかった。それが私には本当に、本当にありがたかった。どうしてこの人は、と思った。こんなにも私のほしいものがわかるのだろう。こんなに私がこうであってほしいと思う人でいてくれるのだろう。
あの人が出て行って、へやに一人になったとき、あの人の座っていたあとのシーツにふれたかった。顔を埋めて、泣きたかった。でも、それさえもできなかった。あの人を汚してしまうような気がして、そのそばにさえ近よれなかった。結局私はそのまま立って、ヴェールをつけ直して、へやを出て…それきり二度と、その別荘には行かなかった。

(7)白い町の中を

「それでもユニア」
長い沈黙のあとでリディアは言った。
「私の気持ちは変わらないの」
「え?」
「死んで行く二人を思い出した時」リディアは静かな声で言った。「私の気持ちは前と同じ。恐くもないし、悲しくもない。生きながら皮をはがれていくような、じりじりとした苦痛がとても、快い」
遠くほのかな海の匂いと、むせかえるように甘い花の香りが、突然強くなった気がした。
「そうなの?」力なくユニアは言った。
「ええ」リディアの返事は小さかったが、はっきりしていた。
「二人を許せないってこと?」
「許せない?」リディアはかすかに目を見はった。「私に許す権利などない。許されるのは私だわ。そして二人はとっくに私を許していてよ。だから私は、前よりもっと、あの二人が憎いのに、憎むことさえできないでいる。あの屋敷は燃えてしまったけれど、私の心は今もまだ、あの時と同じくらしを続けている。きっと死ぬまで、そこから逃れることなんてできない。死ぬまで、もしかしたら死んでからもずっと、あの三人で暮らした屋敷の中を私はさまよいつづけるのでしょう。二人と、笑いさざめきつづけて。憎むことさえも許されないままで」

リディア。リディア。
彼女に別れを告げて別荘を出て、マキシマスといっしょに、あてもなくいつまでも歩きつづけた坂道が、家々の間からのぞく海のまっ青な色が、今もユニアの目に浮かぶ。泣くことさえももうできず、一歩、また一歩とふみしめて、砂の散る石だたみの道を歩いて行きながら、真実しか人を救えない、と言ったマキシマスのことばをユニアは思い出し、そのことばにすがるように、いどむように、気がつくと何度も心にくり返しつづけていた。それならば、リディアはきっと、きっといつか救われる。真実を、彼女は見つけたのだもの。

あれからもう、一年近くたつ。
マキシマスがリディアに言ったという、そのことばと、ふり返り、ふり返り、ユニアの方を向いて叫んでいたあのことばとが、ユニアの中ではともすれば入りまじってひとつになる。
…私を見つけろ。見つけるんだ。
真実をさがしつづけることをやめないでいれば。
どんなに苦しくても、それと向き合うことを恐れないでいれば。
その向こうに彼の姿が見えるのだろうか。
その中で、また彼に会えるのだろうか。

最終章 コロセウム裏の町明かり

(1)ポセイドンの神殿

もう昼をかなり過ぎていた。
マキシマスは退屈しはじめているらしい。へやの中をうろうろ歩き回ったり、テラスから外を見下ろしたり、あけはなしの戸口から出たり入ったりしたあげく、ユニアの買い物かごをくわえてきて、髪をゆっているユニアの足もとにおき、期待をこめた目で見上げるのでユニアは吹き出してしまった。
「お出かけしたい?こんなにお天気いいもんね」
毎年この日は夕方までユニアは家にとじこもっていることが多かった。だが今日はふと、あのコロセウム近くの通りの小さい神殿に行ってみようと思った。
あの神殿は結局、海神ポセイドンの神殿だったとあとでわかったが、祭壇の奥のそう言えば三叉のほこらしいものを持って立っている、すすけた小さい神像はあまりありがたそうにも見えず、拝みに来ている人といってもほとんどいないようだった。
それでもマキシマスを勝たせてはくれたのだからと、ユニアは時々出かけて行っては季節の果物などを供えた。命を助けてはくれなかったのだから毎日行く必要はないわ、と自分なりにユニアは判断していた。あの時供えた飾りひもは次の日行ったらなくなっていて、皇帝に勝たせてやっただけで、あれをおさめてしまうなんて、しっかりした神さまだなあと、少しむっとしたせいもある。
何日かあとで、山羊ひげを生やしたしょぼくれた神官がいたので、他のお供物ととりかえてもいいから飾りひもを返してもらえないだろうかと聞いてみると、神官はもったいぶって「女よ」と言った。「私はそのようなものは知らない。あとから来た誰かが持って行ったのではないかな。いずれにもせよ、それが消えたということは、そなたの供物が納受されたのであり、そなたの願いが聞きとどけられるであろうしるし。喜ぶがよい」
もう、できるだけのことはしてもらったみたい、とユニアが口ごもると神官は得たりとばかりにほほえんで、では供物をとり戻そうとするような恐れ多いことはしてはいかん、と言った。
あなたがあれを持って行って、奥さんか娘にあげたんじゃないの。そう言いたい気がしたが、ユニアは結局あきらめた。
あれから十年、神殿はいっこうに栄えたり大きくなったりする気配はなく、かといってなくなりもせず、あの日のままの姿で時間がとまったようにひっそりと、通りのすみに建っている。

(2)思いがけない行動

コロセウムの近くには行きたがらないマキシマスを、いつものように少しはなれた通りの角に残しておいて、ユニアは一人で神殿に行った。途中で買った果物のかごと新しいパンを供えて、何を祈るでもなく目を閉じていると、ふっと誰かに見られているような気がした。
あたりを見回したが、うすぐらい神殿の中には誰もいない。
もしや、と思って、明るい戸外に目をこらして見て、いた、いた、とユニアは思わず笑ってしまった。街路の向こうの大きな彫刻と屋台のかげに、マキシマスが、そうしていれば見つからないかと思っているように、ぴくりとも動かず腹ばって、まじろぎもせず、じっとこちらを見ている。そして、ユニアと目があうと、いきなり立ち上がって、すたすた道を横ぎって神殿の中まで入って来た。

ユニアはびっくりし、うれしかったが、あの神官に見つかって、犬を入れるとはと怒られでもしたら大変なので、マキシマスの首のあたりを手で支えるようにして急いで外につれ出した。通りの角まで歩いてから街路樹の下にしゃがみこみ、彼の顔を両手ではさんで、「いったいどうしたの?」と笑った。「いつもは、こんなことしないんじゃないの」
マキシマスはそっぽを向いて、わざとらしいあくびをしてみせた。
「ねえ、ひょっとしてペトロに何か言われたの?」ユニアはマキシマスの顔をのぞきこんだ。「あんたたち、このごろ少し変だものね。何かいっしょに悪だくみしてない?」
マキシマスは思いきり身体をひねって、いかにもただの犬ですという風情で、しっぽのつけ根を歯でかしかしとかみはじめた。
「とぼけて」ユニアは吐息をついた。

それというのが、このごろペトロは、いっしょに暮らそうとユニアに直接頼んでも効果がないと判断したらしくて、マキシマスの顔を両手ではさんでは、「おい、おまえもここに来ないか」だの、「おまえ、ここが好きだよなあ」だのと、ユニアの目の前で話しかける。高等戦術ね、と見ていてユニアはおかしくてしょうがない。マキシマスはそうやって話しかけられるのが気持ちがいいのか、目を細め、笑うように歯をむき出して小さく舌を出している。
ユニアに聞かせるためだけに言っているのかと思っていたら、ペトロはどうやらマキシマスと二人だけの時も、そうやっていろいろ彼に話しかけたりぼやいたりしているのらしい。犬が皆そうなのか、マキシマスが特別なのかユニアにはわからないのだが、金色の目でじっとこちらを見返して、ときどき、あいづちをうったり反論したりするように低くうなったりされると、つい真剣に会話してしまう気分になるのは、ユニアも覚えがあるからわかる。
一度、納屋の中でペトロがそうしてマキシマスに話しかけているのを盗み聞きしてしまった時、ユニアは心をうたれながらも、笑いをこらえるのに一苦労した。

(3)夕焼けにつつまれて

「なあ、おまえ」とペトロは言っていた。「おまえのがんこな、冷たい心の女主人にようく言っとけ。おれはあの人が好きなんだぞ。マキシマスの話ができるからじゃないぞ。そうじゃなくって…しっぽをふるな。マキシマスったって、おまえじゃない。えらい将軍さまだ。おまえだって知ってるだろう?おまえ、あの方の犬なんだろう?」
ペトロがため息をつくのが聞こえた。
「おまえに口がきけたらなあ。あの方のことが話せたらなあ。話すことがおまえには、きっといっぱいあるんだろうにな。こらこら、それをかんじゃいかん。ブラシをかけてほしいのか?よしよし、ちょっと待っていろ」
マキシマスの低いうれしそうなうなり声が聞こえてきた。
「ユニアは、言うんだ」ブラシをかけているらしい動きにあわせて、とぎれとぎれに短く切れるペトロの声がした。「おれも、ユニアも、あの方が好き。だから、いっしょに、くらすのは恐い。同じ何かを、愛してしまった、人たちと、いっしょにいるのは、もう疲れた。そんなどうしが、いっしょにいたら、恐ろしいことが、おこるって。だったら、おまえは、何なんだ?おまえとは、何でいっしょに、くらせるんだ?お前は、ずるい。おまえは、いいなあ」
ユニアは笑いをかみ殺した。
「あの人はな、マキシマス、ひどいことを言うんだぞ」ペトロは傷ついたように声をひそめた。「知ってるか、こう言うんだぞ。マキシマスを…ちょっ、お前じゃないんだったら。じっとしてろよ。そっちにひっくりかえってくれ、足をこっちにやって、そうそう、それでいい。何でここの毛に草の実をおまえこんなにくっつけたんだ?…あの人はな、こう言うんだ。あの方を愛したようには、おれのこと絶対愛せない。そんな相手をそばにおいていたって、一人でいるよか、あんたはもっと淋しいわよ、って。大体、あんただってそうでしょう、あたしよりあの方のことが好きなんじゃないの、って。ひっどいこと、言うよなあ。そんなこと言われちまったらもう、どう言ったらいいんだかなあ」
ユニアはほほえんで、吐息をついた。
また、ちょっとだけ静かだった。それからペトロの声がした。
「だが、何か方法があるはずだよ。そう思わんか、マキシマス?」
マキシマスが低くうなっている。考えこんでいるように。何か返事をするように。

「そうだろう?」ペトロの口調が熱心になった。「おまえにはわかるよな?おまえのご主人はいつもそう言っていたろう?おまえにもきっと、しょっちゅう言ってたはずだ。覚えてるだろう、そのことばを?」
マキシマスがまたうなった。分別くさくペトロを見上げて小さく首をかしげているその顔がユニアには目に見えるようだった。
「おれはただの兵士だから」ペトロは言った。「あの方とはお目にかかったこともほとんどない。それでも一度、上官たちと会議を終えて出てくる時、あの方がそう言っておられるのを聞いた。何か方法があるはずだ。よく考えてみれば、きっと何か、きっとうまく行くやり方があるはずだ。それは、あの方の口ぐせだった。絶対にあきらめず、『何かきっといい方法がある。考えてみないと』といつもおっしゃるんだと、皆がよく言ってた。そして実際、そういう方法を考えつかれるんだって。おお、これがそうなんだなあ、本当にそう言っておられるよ、とすれちがいながら、おれは思ったもんだった」
マキシマスは大きな声で満足そうにうなった。ほんとに返事をしているようだ。ペトロは笑った。
「口がきけるみたいだなあ、そうしていると、おまえってやつは」
そして、思い出すような口調になってペトロは言った。
「あの方のまねをして、そう言うやつも多かった。おれも、その一人だったさ。口には出さないが、気がつくと一人でよく考えてた。あきらめるな。やけになるなよ。何か方法があるはずだ。きっと、何もかもうまく行く方法が。それを考えるんだ。見つけ出すんだ。そうやって、負傷した時も、もう二度とちゃんと歩けないってわかった時も、おれは何とかのりきった。今度だって、なあ…ユニアとおれとおまえとで、何とかいい方法をきっと考えられるんじゃないかな。皆がうまくやっていける、ちゃんといっしょに暮らしていけるやり方ってのが、きっとある。それを考えて見なくちゃな。どうしたって、何とかしてな。きっと見つかる。おれたち皆でもっとよく、考えてみれば、いいやり方がきっと見つかる」
そしてペトロはため息をつき、うちあけ話をするように、いちだんと声を低めた。
「おまえだから言うけどな。おれは一人で淋しいんだ。あの人がいなけりゃ、ちっとも淋しくなんかないさ、このまま、ここで一人で生きて、死んだって。でも、あの人がどっかにいるのがわかってるのに、そばにいてくれないってのはなあ、たまらんよ。途方もなく一人ぼっちの気がするよ。そろそろ豆もまかなくちゃな。おまえ手伝うか、ん、マキシマス?」
最後の方は、立っているのにそろそろ足が疲れてきたユニアが納屋に入って行ったので、ペトロは話を変えてしまったのだった。マキシマスは、あおむけに転がって、腹のあたりのこぐらかった毛をペトロにすいてもらいながら、怒ってぱくぱくブラシにかみつくふりをしていた。

夕暮れがあたりにせまってきていた。通りのあちこちの家の奥では黄色いあたたかい明かりがともりはじめている。だが、コロセウムの上に広がる空はまだ淡くやさしい水色だ。ユニアはそれを見上げながら、マキシマスに言った。
「ねえ、明日もまたこんなにお天気よかったら、ペトロんとこに行ってみようか?」
マキシマスは目を輝かせて、しっぽをふった。ペトロの名前を覚えているのだ。もう、うっすらと白くなった鼻面は、人間なら彼が老境に入ったことを示しているが、その灰色の毛並みはまだふさふさと深くつややかで、生き生きとした目の色も昔と少しも変わらない。朝寝坊するようになったのも、年とったからではなく、あたしのことを主人として信頼してくれるようになったからなんじゃないかしら。ふっとユニアはそう思った。あたしたちには、まだまだ残された時間はある。いろんなことを考えたり話しあったりする時間だって、まだたっぷり…
「そら、あの夕焼けをごらんなさい」通りの向こうで誰かが言っているのが聞こえた。「明日もきっとまた、マキシマス日和だ」
マキシマスの首を抱いたまま、彼が顔を向けているのと同じ方に目をやると、本当に藍色にかげる坂の向こうに一面の夕焼けが広がっていて、そよそよと吹く夕風にマキシマスの背中の毛がかすかにふわりとふくらんだ。

マキシマス日和・・・・・終(2002.12.31.21:40)

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