映画「グラディエーター」小説編晩春

晩春 -マキシマスとスティーヴー

ある夫婦の話です。子どもが生まれて微妙に変わる二人の関係、父親になりきれない若い夫のとまどいと淋しさ、倦怠期とまでは行かないけれど、幸福の中のかすかな翳り。こんなありふれた毎日こそが、その実とてもドラマとスリルにみちているのかも。

「グラディエーター」と「ターニング・ラブ」を微妙に合体させてみました。でも、どちらの映画も見ていなくてもよくわかるお話です。「沼の伝説」に続いて、マキシマス夫婦、ラッセル夫婦を連想したい方はどうぞ(笑)。とても短いお話なので、すぐに読めると思います。

1 妻が語った話

「ねえ」と妻が言った。「あなた、ちゃんと聞いてるの?」
聞いてなかった。私はうつらうつらしていた。
夕食はシギの焼いたのと、ハーブを散らしたじゃがいもと、あと何だったろう。どれもうまくて、ついたっぷりと食べ過ぎた。それにワインも極上だった。去年のブドウはやっぱり出来がよかったのだ。
今日は一日、思い切り畑で働いた。掘りあげた大きな木の根を乾かして薪にするよう割ったのが、今、暖炉で燃えている。まだ湿っているからどうだろうかと思ったが、その心配はなかった。薄青と金のまじった赤い炎をあげて、ぱちぱちとたのもしく燃えている。その前の床の上に妻が膝をついて、洗ったシーツに破れがないか点検している。長い真っ黒い髪が小麦色のむきだしの肩に乱れかかり、見ているとぞくぞくしてくるぐらい美しい。あらわな腕も、光を浴びて浮かび上がった荒々しいほどくっきりとした横顔も。洗いたてのシーツを彼女がばさばさ動かすたびに、ジャスミンとバラの香りがあたりに波のようにたちこめて、私の気持ちを穏やかに鎮める。
さっきまで、私のそばで寝椅子にもたれて私の指が壁に作る影絵に夢中になっていた幼い息子は、少し前に妻に連れられて寝に行った。私もほんとはもう眠い。だが妻は二人きりになってから、これからまだ、いろいろ私と話したいのだ。私は寝椅子の上で身動きし、クッションに顔を半ば埋めて片目で妻を見ながら「起きてるよ」と言った。

妻は手をとめ、私を見て少し憤然とした顔をした。
「聞いてるかって言ったのよ。起きてるかなんて聞きゃしないわ」そして首をふってまた仕事にかかった。「寝てたのね」
「聞いてたさ」私は言った。「村の娘と若い男の話だろ?結婚しそうでなかなかしなくて、くっついたり離れたりしてる」
あら、という目で妻は私を見た。「そうよ」
「ちゃんと聞いてるんだ」私は目を閉じた。「それで?」
「どうなのかしら」妻は話を続けないで、疑わしげな声を出した。「前線でもあなたそうやって、居眠りしながらごまかして、部下の報告聞いてるんじゃ…」
「よせよ」私はうめいた。「それじゃまるで、腹の出てでぶでぶ太った年寄りの将軍みたいじゃないか」
妻は笑った。「ええ、ええ、たしかにあなたはまだ、ほっそりしてるし、顔だって少年みたいよ。だから髭なんか生やしたがるんでしょ、貫禄つけようと思って。若い内からそんなにどんどん出世するから苦労するんだわ。おかげで家にもめったに帰れないんじゃないの。坊やがほんとに、かわいそう」
「君は?」私は寝椅子に座り直す。
妻は仕事を続けながらうなずく。「もちろん、あたしだってかわいそうだわ」そして、そのまま、「それで、その二人ね」とまた話し出す。

私たち二人が、いっしょに暮らすことを決めて、スペインのトルヒヨのこの小さな村に住みついたのは、六年前だ。ばら色がかった石の垣根がぐるりととりまく家の庭には、黒く見えるほど濃い緑のポプラが若い軍人のようにすっくと立ち並び、裏手の丘にはみごとなブドウ畑と果樹園が広がっている。
私はローマ帝国の軍人として、一年の多くの時間を遠く離れたゲルマニアの前線で過ごす。ふとしたことから皇帝陛下にお目をかけていただいて、属州の出身ながらローマの市民権と指揮官としての地位を得た。そのことには感謝し満足しているが、妻の言う通り責任ある地位にはそれなりの犠牲が生じる。辺境の戦況は現在比較的安定していたが、それでもなかなか家に帰るゆとりはなかった。
妻は孤独によく耐えて、息子を育て使用人を管理し、土地と屋敷を守ってくれていた。この村の村人たちの相談役にもなって、皆に慕われているようなのは、私にとってもありがたかった。
その代わり、私が帰ってくると妻はよくこうやって、自分が考えあぐねている村の事件や問題の数々を私に話して聞かせては私の意見を求めるのだった。

「娘さんはしっかりしてるの。問題は男の方よ」妻は同じ男として私にも責任をとらせたがっているように、きっとした目で私をにらんだ。「二人は親も公認の仲で、だってもう何年も前からすぐ結婚するだろうって皆が思っていたんだものね」
「でもしないのか?」
「でもしないの」妻は怒ったように言った。「彼はよく彼女の家に泊まっていったりもするらしいのだけど、まああなた、信じられる?この前なんか二人で寝てたら、その男、夜中に突然起き上がって、不安だから帰るって言うんですって」
「不安?何が?」
「自分の家も畑も家族も仕事も何もかも、なくなってるような気がするんですって。自分が誰かわからなくなりそうなんですって。彼女の家にいて、彼女といっしょに寝ていたら。あんまり彼女がすばらしいから」妻は一息ついて私を見た。「何だかさっぱりわからないでしょう?言ってることが」
「少しわかるような気もするな」
「まあ!そんなこと言ってたら、結婚した女は皆、夜中に起き出して家に帰らなきゃ、おちおち寝てられないことにならない?」
「そうだけど」
「他にもいろいろ、ひどいのよ。彼女の手料理で楽しく食事してたのに、いきなりパンに人参が入ってるのがいやだって文句言い出したり、結婚式をしようと言っていろいろ準備をしていたかと思うと、やっぱりもうやめようと言ったり、いいように彼女をふり回していて」
「それでも彼女は好きなのかい?」
「いいかげん、うんざりはしてるらしいわ」妻は唇をとがらせた。「彼ももう自分たちはだめだって思ってるらしいし」
「何で二人は別れないんだろう?」
妻は目を閉じた。「夜のいとなみの相性がいい。そう言ってるわ」
「なぜそれを早く言わない」私は寝椅子にあおむけになった。「それは別れられんだろう」
妻は私をにらんだようだ。怒った声で彼女は言った。「まじめに考えてよ」
「まじめだよ」私は抗議した。「ほっとけよ、そんなのもう。ばかばかしい」
「あんまりかわいい娘さんだから」妻は言い訳するように言った。「かわいそうなの。いらいらするの。男の方があんまりしゃっきりしないから」そして吐息をついた。「あの子、あんたみたいな男の人とめぐりあったらよかったんだわ」
「君に似てるの、その女の子?」
「似てるかもしれな…」妻ははっとしたように私を見た。「なぜ?気になるの?」
「うん。会ってみたいなあ」
「もうこの話はやめましょう」妻は身体を前にのり出し、妙にてきぱきシーツをたたみにかかった。「あなたの言うとおりだわ。放っておくのが一番ね」

妻をおどかして、うまく話をやめさせることができたので、私は何となくうきうきした。妻にやきもちをやかせたのも楽しかった。めったに成功しないのだ。「あなたって本当に人の心をあやつるのが下手」と笑われてしまう。「よくそれで、人の上に立てるもんだわ」とまで言われたことがある。だからなお、うれしかった。ただし、早く寝られたわけではなかった。妻は本当に気にしていたのか、その夜はいい匂いのする香をたっぷり身体につけ、ふだんにも増して情熱的だったからだ。私の髪、鼻、目、口などを一つ一つさわっては素敵だとほめたたえ、腕、足、背中、首筋などのあらゆるところに口づけしては最高だとくり返した。おかげでほとんど眠れなかったのに、夜明けにはすっきり目がさめた。
ゆうべのことを思い出すと、妻と言葉をかわすのが面映かったので、私は満足そうに眠っている妻をくしゃくしゃのシーツの間におきざりにして、乳母のところに行って息子をうけとり、散歩に連れ出した。

2 息子について

私はこの息子がかわいいのかどうか、正直言ってよくわからない。自分の子どもだからかわいくないことはないと思うが、時々、馬の子の方が面白いなあと感じることがある。
少なくとも妻のような盲目的な愛情は注げない。妻のこの子への入れ込み方は赤ん坊の時から徹底していて、見ていて当惑するほどだ。
妻は私と知り合った時、山賊の一味だった。彼女自身、まだ少女といっていい年でありながら、指導者の一人で、女戦士だった。野生の鳥のような荒々しさと気位の高さは、私の率いるローマ軍に敗北して捕虜となり、やがて私と愛し合って結婚しても少しも変わることはなく、つなぎとめられること、支配されることを異様に嫌った。私のことも激しく求め、愛しながら、どこかそういう自分に腹を立てて、そこまで自分をひきつける私に対して憎しみを感じているのではないかと思うようなことさえあった。
だから、私への愛をほとばしらせるのをいつも自分で抑えて、くいとめているようなところがあった。息子に対してはそうではない。赤ん坊の時から惜しみない愛情を湯水のように注ぎ、気を許しきって愛しぬいていた。

それを見ていて私の方は、どこやら釈然としなかった。それほどまでに闇雲に何かを愛してしまえることが、不思議だったし恐かった。何につけても妻のすることは激しい。私への愛もしばしば憎悪と紙一重だ。この息子への愛も、その深さは時々狂気じみているのではないかと思えた。もし息子が死んでしまいでもしたら、実際狂ってしまいはせぬかと不安になることもあった。

そんな私のこだわりの中には、いろんな要素がまじりあっていたと思う。
子どもを身ごもり、次第に大きくなる腹をかかえている妻は、つややかで美しかったが、私の見たことのない、ふしぎな生き物のような気がして何となくなじめなかった。子どもが生まれて身体の形が元に戻れば、昔の妻にまたなるのかなと、それこそ子どもっぽい期待を私は心のどこかでしていたような気がする。
出産の時の妻の苦しみようも、その後の赤ん坊に顔をすりよせて至福の笑みを浮かべている妻も、私には初めて見る見知らぬ女に見えた。そう、あの孤独で不安で、私だけを見つめていた激しい目のやせっぽちの女の子は、二度と戻って来なかったのだ。

だからというのでもないが、赤ん坊と妻に初めて会って、赤ん坊を抱かされた時、私は何だか勝手がちがって当惑していた。はっきり言って、こんな赤ん坊はそのへんに放り出して、妻のそばに行きたかった。
お産の手伝いに来ていた村の女たちは、私のそういう、気ののらない表情を、若い父親ならでの照れととまどいと解釈して笑ってくれたが、ベッドの上で、枕の上に黒い髪を扇のように広げて鋭い目で私を見ていた妻はちがった。たとえどんなに出産でへばっていても、たとえどんなに赤ん坊に夢中になっていても、彼女の私を見抜く目の鋭さにはいささかの曇りもなかったのである。そして私の赤ん坊に対する、やる気のなさをどうやらすぐに気づいてしまった。もっとも、仮に私が少々、いや相当に赤ん坊をかわいいと思い、愛したとしても、彼女を満足させるほどにそうできたとは思えないが。

その後もずっと妻の態度は、自分にとってこんなにもかわいい大切なものを、私がどれだけ大事に思っているのだろうかと点検しているようで、私はいつも緊張していた。とはいえ、そもそも妻には嘘をつけないのがわかっていたし、無理する気もなかったから、あえて赤ん坊に関心を持ったりかわいがったりはいっさい、しなかった。
妻はじっと鋭い目でそんな私を見守っていて、時々「かわいくないの?」と聞いたが、そんな時私は「かわいいよ」ととりあえずはっきり答えた。実際、かわいくないことはなかったし、さしあたりそう答えれば妻は納得はしないながらも、ほっとした顔になったからだ。
それでも妻は私の赤ん坊への関心の低さがいつも不満そうだったし、自分はすべての時間と気遣いを赤ん坊に注いでいた。こんなに愛情ゆたかな優しい性格だと私は妻のことを今まで知らなくて、そのことにもかなり傷つき淋しかった。あんなに心をこめて時間もかけて、かたくなに閉ざされて他人も世の中も信じていなかった妻の心と身体とを、ようよう解きほぐし、ゆるめ、開かせていった自分と思っていたのに、それがこんな生まれたばかりの泣いて乳を飲んで眠るだけの赤ん坊が、それ以上のことをあっさりしてしまうとは。
そんなこんなで私は、この赤ん坊に対してどうも素直になれなかった。少し育って、動いたり、ものを食べたりするようになってからは、それなりに面白かったので、いろんなものを食べさせてみたり、足や手をそっと引っ張ってどこまで伸びるか試してみたり、くすぐったり転がしたりしておもちゃにしていたが、ちょっと意地悪な気持ちがなかったわけではない。いじめるなら今の内だ、どうせまだ何もわからず、何も覚えてないんだから、とか、男の子だってことは、その内にでかくなっていずれこっちがかなわなくなるんだから、その分、今やっつけておこう、とか、とんでもないことさえもちらちら考えていた。とにもかくにも、身ごもってからの妻が出産後もずっと私にとって見知らぬ女になってしまったように、この赤ん坊もまた私にとって、不思議で無気味で得体の知れない、恐れ多い生き物だった。

ところが赤ん坊の方ではどうやら妻のていねいで、なめ回すような扱い方より、私のその荒っぽい扱い方の方が気に入るようだった。それに、まだ何もわからないだろうと私がたかをくくっていたのも甘くて、どうも赤ん坊は何がしか人の区別はつくらしかった。私がつっついたりくすぐったり引っ張ったりすると、くっくっと喉を鳴らして喜び、私が抱いたり、ゆりかごの上にかがみこんだりすると、明らかに区別がついているように、黒い目でじっと見守り、きゃあきゃあ、うれしそうに笑うのだった。
最初はそのことに私は気づかず、妻が相手の時でもそうするのだろうと思っていた。えらく愛想のいい赤ん坊だなと、近所で見るよその子と比べて、ちらと思ったこともある。
だが、よちよち歩きをするようになってからは、それはいっそうはっきりしてきた。

前線で忙しくしていたから、一年以上家を空けていることは珍しくもない。そのたびに息子は見違えるようにずんずん大きくなって行った。久方ぶりに帰った私に妻が「大きくなったでしょ?」と得意げに言うたび、私は「うん、腫れ物みたいだ」とか、「君がよその子ととりかえてたって、これじゃわからない」とか、ものすごく彼女を怒らせ、傷つけるような返事をわざとした。自分でも子どもじみていると思い、情けないと反省しながら、そんな返事をついしてしまうのだ。いたずらなのか、反抗なのか。
妻はそういう時、悲しそうな顔も、怒った顔もしなかった。そしらぬ顔をして、落ちついて笑っていた。初めて彼女がそうした時、私は恐くて心臓が喉まで飛び上がった気がした。妻はそんな女ではなかったからだ。それは私の知っている昔の妻ではなかった。私の子どもっぽい反抗をうけとめるだけの余裕ができたのだといえばそうだが、それよりそれは、ちょっと冷たい優しさに見えて、私をかなり恐がらせた。そんなそぶりは少しも見せはしなかったが。

戦地から帰った私を、子どもは最初忘れているらしく、近づかなかった。妻が無理に抱かせようとすると泣いていやがり、「困ったなあ」とため息をついては、しがみつく子どもを抱きしめながら妻はいつも、ちょっと得意そうで、かすかに幸福そうだった。そうやって勝ちほこっている妻は、私のよく知っている昔の妻で、私は好きで、だから子どもが私に近づかないことは別に気にはならなかった。
だが、数日もたつと、子どもはあっさり私に慣れた。妻を怒らせ、私を困らせたことには、ただ慣れたという以上に私になついた。妻のさし出す手をよけて、私の方に逃げてくる。妻の呼ぶ声を無視して私のあとを追ってくる。
「珍しいんだよ」わりきれない顔で息子をにらんでいる妻に向かって、子どもを抱き上げてあやしながら私は言い訳した。「それだけさ」
だが、それだけでないことは、私にもわかっていた。実を言うと、私が息子でもそうするだろうと思った。妻は、かまいすぎるのだ。世話をやき、抱きしめ、キスし、かたときも離さないので、息子はうんざりしているのだった。その一方で母親はいつもいてくれるものと安心しきって、なめている。実際いつもいるのだから、それもしかたがないだろう。
だから息子は、まとわりついても抱きしめかえさず、じっとしている私の方が好きだった。私が仕事をしたり本を読んだりしていると、どこからともなくやって来て、そっと様子をうかがっている。気づかないふりをして、していることを続けていると、そろそろと用心しながらしのびよって来るが、その目が好奇心と冒険心いっぱいではちきれそうに見開かれて、きらきら輝いているのは、見ないでもわかるのだった。そして、私の身体や、服のはし、ベルトの金具、衣の房、サンダルのかかとなどを、さわったり、つかんでみたりしては、私がふり向くとぱっと逃げる。放っておくと、それをいつまでもくりかえすのだが、私がわざと、おや、気のせいかな、今のは何だったのかなという顔やしぐさを露骨にして見せてあたりを見回したりすると、もう彼はたまらない。足を小さく踏み鳴らしたり、両手をしっかり口に押し当てて、それでもきゅっきゅっというような変な音をたてて笑いを必死でかみ殺している。

もうこうなると、彼は私につかまえてほしくてたまらないのだった。私が前を向いたまま、片手を後ろにのばして、その小さな腕や身体をつかむとばたばた暴れながら大声をあげて喜んだ。そして私にひきよせられるまま、しがみついてきて、背中にはりつき、肩にのぼり、もう私を離さない。もがいて逃げたと思ったらすぐ遠くから走ってきて、どんと私に体当たりする。首にかじりついてぶらさがる。私の目をのぞきこみ、私がため息をつくと、自分もまねして吐息をつく。唇をすぼめてささやくように小さく名前を呼んでやると、きゃっきゃっと声を上げて喜んで、私の膝や腕の間にもぐってくる。そして私の胸に背中をくっつけて座り込み、私の両腕をひっぱって、ふとんでもかけるように自分の胸の上に交叉させ、満足そうに私を見上げる。私があごをその頭の上にのせ、がくがく言わせてゆすぶってやると、彼の興奮は絶頂に達し、大声をあげて手足をばたばたさせるのだった。

それでも私は何となく、「これは妻の大切なもの」と意識していた。自分のものと思ってなかった。だから、気をつけて扱っていたし、多少よそよそしかったかもしれない。忙しい時や一人になりたい時は、はっきりと彼を避けて、逃げて、隠れた。
だが、私の子どもに限ったことではないが、子どもというのは人を見つけるのがうまい。息子もどうかこうかして、必ず私を見つけてしまう。私が隠れて、逃げようとしていたことにもなぜか気づいていて、それがますます彼を喜ばせるようだった。「見つけた!」というような大きな叫び声をあげて、まっしぐらにかけよって来る。
一、二度私はそんな彼を抱き上げ、小さな声でたのむように言った。「いい子だから、私を一人にしておいてくれ」
子どもは首をかしげる。そんなことを言われたことがないので、どういうことかわからないらしい。私の顔に顔をくっつけ、大人のようにまじめな目でじっと私を見つめて、自分も小さな声になってささやく。「どうして?」
私は首をかしげる。「そう言われるとわからないんだが」と、まじめに答えてやる。「でも、そうなんだ」
子どもはますますふしぎそうに私を見る。「わからない」と言う大人も彼は見たことがないらしい。さもあろう、妻はいつでもきっぱりと、なぜそうしたらいけないか、なぜそうしなくてはならないか、彼に何でもきちんと説明している。
しばらく考えていてから子どもは聞く。「お仕事?」
「どうして?」私は聞き返す。
「お母さまがいつもそう言うから」彼は指をくわえて考えこんでいる。「お父さまはお仕事、って」
私はうなずく。「うん」
「何のお仕事?」子どもは聞く。
人を殺すんだよ、などと言ってはいかんだろうな、でもどんな顔するか見たいな、などと私がよからぬことを考えていると彼は尋ねる。「いつ終わる?」そして私がどう嘘をつこうかと考えていると、熱心に言う。「僕、ここで待っててもいい?」
私がまた対策を考えていると、彼は急いでつけ加える。「じゃましないよ」

子どもの言うことなど絶対に信用してはいけない。少なくとも私の息子の言うことなどは。
じゃましないと言っていながら、彼は私が本を読んだり手紙を書いたり、畑仕事をしたり剣や鎧や馬の手入れをしているそばにいると、めいっぱい私のじゃまをした。
もっとも本人はじゃましているつもりはないのだろう。近づいてきて、私の手もとや視線の先を見つめ、それから私の顔を見つめる。それから回りをぐるぐる回る。私が座っている敷物のはしを少しづつ折り曲げてみる。私の着ている衣のすその糸のほつれをひっぱってほどいて、そのへんの何かに結びつける。彼がそばにいて立ち上がる前には、自分の身体が何かにつながれていて、椅子やテーブルや水差しをひっくりかえさないかどうか、用心深くたしかめてからでないと危ない。
いなくなったなと思っていると、そのへんの水がめに落ちる。しかも声ひとつあげないで、ばしゃばしゃいう音に私がふり向いてぬれねずみの彼をひき上げると、べそをかきながらじゃましなかったよねと言うから返事に困ってしまう。
本人は面白いと思っているらしい草や木の実をとってきては、ひとつづつ、ていねいに、私から少し離れた床の上に並べてみせる。私が見ないでいると、気がつかないと思っているのか、一人でそれらの草や木の実や小石に向かって、「これは…石!これは…草!お花は…咲いてない」などと勝手に語りかけている。最初は私の気をひこうとしてやっているのだが、その内に自分で夢中になってしまって、私がちょっと仕事の区切りがついたので相手してやろうかと思って黙って見ていても気づかず、「おい」と声をかけるとびっくりしてぎょっと飛び上がるのもこっけいだ。
そんな風で、見ているとたしかに飽きないし面白いが、時間をとられて仕事が進まず、その一方で調子に乗っていじめていたり、あまりなつかれたりすると妻ににらまれるので、結局のところ私はいつも、こころもち彼をさけ、彼の方ではそんな私を追い回し、妻はまたそんな彼を追いかける、という図式がだんだんできていくのだった。

そんなある夜、目をさましたら妻が泣いていた。
どうしたんだ、といくら聞いても答えないで枕につっぷし、手首のあたりを歯でかみしめて声を殺して泣きつづけている。
「何だよ?」私は心配になってきて、ちょっといらいらした声を出した。
「坊やが…」妻は言った。
「あの子がどうした?」
「あなたの方が好きだわ、あたしより」
私はあおむけに枕の上にひっくりかえりたいのを我慢して、妻の髪をなでた。
「そんなことないだろう」とりあえず言った。
妻は怒った。何も言わず何のしぐさもしなかったが、ふれている手のひらに私はそれを感じた。
「そうだわよ」彼女は言った。「知ってるくせに」
私は困って、黙っていた。
「あなたはいつもそうなのよ」妻は涙にくれて言った。「どうしてなの、どうしてそうなの。私には坊やしかいないのに、それまでもそうやって、あなたは奪ってしまうんだから。自分はお腹を痛めもせず、何の苦労もしないままで」
いくら何でもこれは理不尽だ。だが妙に妻が真剣なので迫力があって私は反論できず、「だって…」ととにかく言いかけた。
「いつもそうなのよ」妻はしゃくり上げた。「私のものを皆とり上げる。私には何もなくなる。坊やの心。私の心。私にとって大切なものを何もかもあっさりと、あなたは自分のものにしてしまって。ひどいわ。ひどい」
「君には…」私は口ごもった。「君には私がいるじゃないか」
妻はしばらく考えていた。子どものようにひくひくと泣きじゃくりながら。それから恐いことを言い出した。「だってあなたは、私だけのものじゃないもの。一度もそうじゃなかったし、これからもそうなるなんて思えない。絶対に思えない」
「いったい私にどうしろと…」私は言った。「どうしろと言うんだい?」
「知らない」妻は泣きつづけた。「私にもわからない。でもあなたはいつもいつも…すべてを私にくれないくせに、私のすべてをとりあげるのよ」
これは何だか痛かった。妻の言っていることを正しいと思ったのではない。だが、その声にこもる悲痛さと、その言葉とは、私にこれは真剣にならなければいけないとわからせて、横になったまま私は思わず姿勢を正した。
「やっと…やっと安心して愛していいものができたと思ったのに」妻は言った。「私だけのものが。どんなに愛してもいいものが」

「あの子だって、その内に大きくなって、いつかは私たちから離れて行くよ」私は妻に言って聞かせた。「いつまでも君だけのものってわけじゃない」
「わかっているわよ。そんなことわかってる」妻はもう泣きやめていたが、切なそうに大きく胸を上下させ、ため息をついた。「でもまだ今は…それなのに…」
「あの子が私に甘えるのは、君がいつも絶対にそばにいてくれるって安心してるからなんだ」私は言った。「君がいなくなって、あの子と二人で残されたら私はどうしていいかわからない。あの子だってきっとそうだ。そんな時のあの子には、私なんか何の慰めにもなりゃしない」
熱心に話していたので、私は声を低くしていた。妻は黙ってじっと耳をかたむけていたが、やがてそっとまた、ため息をついて、「あなたの声って素敵ねえ」とつぶやいたので、私は拍子抜けして、少し怒って黙ってしまった。「そんな声で話されたら、もう中身なんかどうでもよくなってしまうわ」と妻が続けたので、私はますます腹が立って貝のように口を閉ざした。妻は低く笑ったようだ。そして、息子がすると同じように、身体をそらして背中を私の胸に押しつけ、私の両腕をひっぱって自分の胸の前に交叉させ、そのままとても満足そうに眠ってしまった。

あとで思ったことなのだが、妻が息子を絶対に愛して守るとわかって安心していたのは、息子というより私の方であったのかもしれない。
妻の、息子に対する愛は、やや度が過ぎて、そんなに幼い息子をもう生意気ざかりの青年のように迷惑させていたにしても、その愛はまじりけも、ごまかしもない本物だった。あれほどいちずで、ひたむきな愛は、たしかに私や、一人前の大人には恐くて決して向けられるものではなかった。見ていて私は何の疑いもなく信じられた。息子にとって、どうすることが正しいか、どんなに難しいことでも、その愛の力で妻は必ず正しい答えを出すだろうと。そして、その答えが、どんなに苦しい悲しみを彼女に強いるものであっても、その愛の力で彼女は必ず、それをやってのけるだろうと。堅固な砦が持ちこたえることや、優秀な指揮官が囲みを切り開いてやってくること、優れた馬が広い川を飛び越えること、それらを確実に信じられるのと同じに、いや、それ以上に、ずっとそれ以上に、私は妻の、そのような賢さと勇気を、それを生み出す息子への愛を信じた。父親として夫として、それに勝る幸福がいったいあっただろうか。
そこには、たしかに淋しさはあった。その愛を妻は自分に向けてはくれなかったのだという。そして、そんな時私は自分の母を思い出した。自分は母からどんな風に愛されていたのかと、ずっと忘れていたことを思い出しているのに気がつくのだった。私の母は無口でぶっきらぼうな人だった。激しい労働で身体は曲がり、年よりずっと老けて見えた。兄弟が多かったから特別に私をかわいがってくれたのでもない。
だが、妻を見ていると、ふと、兄弟の手前や毎日の忙しさの中で、それと目に見えるかたちで示すことはできなかったけれど、母は私をとても愛していてくれたのかもしれないと、なぜかそう思えるのだった。そして、そのことに私が今まで気づかないでいたように息子もまた、妻の愛がどれほど深いかは知らないままに大人になって、年老いてゆくのかもしれないと、そんなことも思ったりした。

3 朝の散歩

麦が、青々とよく茂っていた。風はさわやかで、私と息子が並んで下りて行くなだらかな丘の坂道の黒い土は、二人のサンダルの下でぽくぽくと白い土ぼこりをあげた。息子はまじめくさって私の横を歩いていて、時々、私を見上げては自分が私と同じようにちゃんと歩けているか、たしかめるような顔をした。
彼は私と手をつなごうとはしなかった。家にいる時のように私に飛びついたり、まつわったりもして来ない。外だと恐くて緊張しているからなのかと思ったが、私にしがみつくのでもなく、むしろ少し離れて、よそよそしい顔で歩こうとしているのを見ると、そういうことでもないようだ。私は息子のそんな様子をけげんに思いながら、彼を先に立てて、彼の行く方へと歩いて行った。

そうやって彼は私と歩きながら、回りに麦と、白い雲を浮かべた空と、柵の向こうからこちらを見ている牛たちしかいないのがつまらないようで、道のあちこちに目をやりながら、自分でも気づかないまま、ひとりでにそうなるように、自然と、家があったり、畑で人声がしたりしている方へと私を誘うように歩いて行った。そうすると時々、村人と行き会った。あいさつされて私が答えているのを彼は少し離れた所にしかつめらしく、きちんと立って、黙って見守っていた。家の前や、畑の向こうから、人がこちらを見ていると、こころもち胸をはって歩き方に気をつけていた。
その内やっと私は気づいた。彼は私と歩くのを村人たちに見せたいのだった。父親と歩いているのを、そうやって皆に見せるのが、彼にとってはとても大切なことなのだった。もっといいチュニカを着て、髪や髭の手入れもしてくればよかったと、私はとっさに思った。

だが彼は、そんなことは気にしておらず、今の私でも充分に満足しているようだった。同じぐらいの年ごろの子どもたちの前では、特にうれしそうで得意そうで、私はふと、父親がいないからと、ふだんいじめられることはないのかと、彼に聞いてみたくなった。だが、そういうことはなさそうだった。子どもたちはむしろ、息子と遊びたがっているようで、何人かが近づいてきて私をちらちら見ながら息子に何かささやくと、息子はもったいぶった静かな声で「今日は用事があるからだめ」というような返事をしていて、私は見ていておかしかった。

突然、息子が立ちどまり、妙に途方にくれた顔で私を見上げた。
「どうかした?」私は聞いた。
息子は首をふった。だが困ったようにあたりを見回している。
ここはどこ?と聞いて困らせるのはやめた。私を皆に見せびらかそうとして、村の中の、人のいそうな方へと歩いて行っている内に、ふだんは来ない所まで来てしまって、彼が道に迷ったらしいことが何となくわかったからだ。
そっとふり返ると、丘の上にポプラが見えた。畑の中の道は高く茂った麦にかくれて見えないが、たどって行けば、家まではそう遠くはない。息子は肩車でもしてやればいい。そう思ったから、私は見上げる息子に、とぼけて首をかしげて見せた。
息子は、自分が道案内をしなくてはいけないと、あらためて思ったらしく、真剣にあたりを見回している。
よく見ると、私たちがいる草地は、低い木の柵に囲まれていた。雑草が伸びているから、ただの空き地と思っていたが、どうやら草の向こうに見える小さい小屋の前庭らしい。イチジクの古い木があって、太って汚れたニワトリが何羽かえさをついばんでいた。
小屋の向こう側から、白っぽいチュニカを着た若い男が一人出てきて、ニワトリにえさをやりはじめた。こちらに歩いて来て私たちを見ると、えさ箱をおいて、手をはたきながら軽く頭を下げた。

「やあ」私は男に声をかけた。「すまないな。気づかずに君の畑に入ってしまっていたようだ」
「ちっともかまいません」男は気さくな、ちょっとものうい調子で言って、手をたたいて足元のニワトリたちを追い払った。「草むらに玉子があるから、ふまないようにさえしてもらえれば」
そして、身体をかがめてごそごそそのあたりの地べたをさぐっていたが、やがて、わらくずのくっついた新しい玉子をとり上げ、息子の方にさし出した。「ほら、持ってごらんよ。気をつけて」
息子は手をさし出しかけて私を見上げた。「もらってもいいですか?」と彼は小さな兵士のように、しゃっちょこばって私に聞いた。
「いただきなさい、お礼を言って」私もまじめくさって答えてやって、男に向かい「私を知っているのか?」と聞いた。
「丘の上のお屋敷のだんなさんでしょう?」男はにっこり笑った。「奥さまからいつもお話を聞いてます。おれの…友だちが」
私がうなずくと、彼は息子に玉子を渡した。息子は「ありがとうございます」と言いながら、目を輝かせて両手を伸ばして玉子をうけとり、私を見上げて興奮してささやいた。「まだ、あたたかい!」
「割っちゃだめだぞ。そっと持ってないと」私は注意した。
「今度、ひなが生まれたら奥さまにお届けします」男は言った。「あいつ…友だちに持って行かせます」
「それはありがとう」私はふと気がついて「君か?」と聞いた。「妻が話していた、元気のいい娘さんの恋人は?」
男はちょっと困ったように目をそらし、眉を八の字にひそめた。「ああ…ええ、そうなんです…そうだと思います。すっかりご心配かけちまって。あいつが、おしゃべりなもんだから」

私は男をつくづくと見た。私より少し若いのだろうか。すらりとたくましい身体と、明るい、人のよさそうな顔立ちをしているが、ちょっと落ち着きがなくそわそわしている。つまらないことにくよくよしそうな気の弱そうな表情だ。
それでも彼が好きになった。どことなく、がんこそうなところもあったからだ。くよくよものにこだわりそうな感じとそれは一致していた。
「ここは君の畑かい?」見回しながら聞いてみた。
「ええ」男はゆううつそうに雑草のかなり混じった、小麦のうねを見渡した。「畑仕事は、でもおれ、あんまり好きじゃなくて。絵を描く方がいいんです」
「絵?」私は首をかしげた。
「絵?」私の横で、息子も私のまねをして首をかしげて、同じことばをくり返した。
「どこかにあるのか?」私は言った。「見たいな」
「見たいな」息子も小さい声でまねした。
「ああ…小屋の中においてます」と言って、男は顔をそちらに向けた。

4 若者との会話

小屋は狭かったが、思ったよりもずっと、きちんと片づけられていた。木の板に描いた絵を大きいのや小さいのや何枚も彼は私と息子に見せた。ほとんどが野菜の絵で、息子が息を呑むようにしてうっとり見とれたのでもわかるように、なかなかよく描けていた。ローマに行って、しかるべき人について勉強したらいいのではないか、と私が勧めると彼は首をふって、この村が好きだから離れる気はないと言った。
「それはそうだろうな」私は納得した。「結婚しようとしてる娘さんがいるのだったね」
「ああ」彼は絵を床において、吐息をついた。「それが悩みの種でして」
「どうして?」私はつい興味がわいて聞いてしまった。「妻の話だと、君とその…相性がいいんだろう?」
「そんなことまであいつ言ってるんですか」若者は片手をふった。「たしかにそれは…でもそれは、ある程度二人の仲がだめになってるからなんですよ。最初みたいに好かれなきゃとか好かれようとかいう緊張感が今はもうないから、だから気軽に楽しくやれる。これがこの先どうなるのか、結婚してずっとうまく行くのか」
私は息子が絵に見とれているのをたしかめてから、「いっしょになりたくないのか?」と聞いた。「彼女とは」
「今もいっしょにいるわけだし」彼は言った。「彼女がそばにいてくれて、時々一人にしてくれて、けんかをしてはまた会って、さしあたりそういうのでいいような気がしてしまうんです。でも、それでは彼女はいやなのらしいから」
「あたりまえだ」私は思わずそう言った。「家族や回りの手前だってある」
「そんなこと、気にしそうなやつじゃないんだけど」彼はつぶやいた。「でも、やっぱりこのままじゃ彼女はいやなのかなと思って、そばにいてもらうには結婚するしかないのかなと思って、しようとして見たんだけど、何かこう、ちがう気がして」
「何が、何と?」
「二人が望んでることと、結婚するってことと」
私は彼を見つめた。「まじめなんだな」と思わず言った。「いろいろ考えるんだね」
「他の女が相手なら、もっとうまくやれる」彼は言った。「でも彼女が相手だと、ごまかせないし、ごまかしたくないと思う。そうすると、ぶつかっちまう、いろいろと」彼は突然、私に聞いた。「奥さまの作った料理がまずかったら、黙って食べますか?」
「彼女は料理をしないんでね。料理女が作るんだ」
「それが、おいしくなかったら?」
「黙って残すよ」
「それでも効果がなかったら?」
「多分、自分で作るんじゃないかな。どうしようもないと思ったら」
「作れるんですか?」
「小さいころ、兄たちの食事を作ってた」
「何て人なんだ」若者はさじを投げたような顔をした。「じゃあ、これはどうです?奥さまが出かけるのを楽しみにして服とか選んでるけど、あなたは家でゆっくりしたい。そういう時はどうします?」
「そう言うよ。そうしたら多分彼女は一人で出かける」
「あなたといっしょでないといやだと言ったら?」
「それならもう選択の余地はないな。出かけるよ」
「あなたは家にいたいのに?二人で家にいた方がきっと楽しいと思っても?」
私は笑った。「彼女にしたいことをさせなかったら、それ以上に楽しいことを見つけてやれる自信は私にはない」

「だけど、あなたが楽しくなかったら、彼女を楽しませてもやれないんじゃないかとは思いません?」彼はくい下がった。「いつもいつもそうやって、がまんしてたら疲れがたまって無気力になりませんか?彼女への愛が負担になったり、生きてることがいやにならない?おれは、それが恐いんです。自分の中の何かがへたばって、死ぬのがね。だから彼女に何でも言うし、わがままをするんです」
「そこは、力技だな」自分でも気づかずに私はそう言っていた。
「力技ですって?」
「うん」私はうなずき、何をしゃべろうとしているのか自分でもわからず不安になりながら、続けた。「自分を信じるんだ。自分がすごく強くて、それができると思いこむ。疲れなどたまらないし、身体も心も死にはしないと。いつまでも元気で生きていて、彼女のために戦えると、とにかく信じる。ただもう信じる」
若者は吹き出した。「なるほど、それは力技だ」
息子が私の口真似をしようとして、若者に先をこされたのでつまらなさそうに私を見上げた。そろそろ私たちの話に聞き耳をたてているのがわかったので、私は用心しないといけないと思った。
「もしも、それで思ってたより自分が弱くて、力つきてしまったら、あなたはどうするんです?」若者はじっと私を見つめている。「思ったよりも心が弱くて愛が消えたら?疲れて身体がもたなくなったら?」
「できるところまではやってみて、それでだめなら、しかたがないな」
「それはどういう…?つまり…いなくなるってことですか?死ぬとか、去るとか…姿を消すってことですよね?」
「…うん」
気がつくと私は目を伏せていて、だから若者の声だけを聞いた。
「それって、すごく冷たくない?」

「かもしれない」私は目を上げた。「だから君が…そうしたくないというのはわかる」
彼は座り直して、考えをまとめようとするように、小屋の天井のあちこちに目を走らせた。「こういうことって、どっちかなんだ」ひとり言のように彼はつぶやいた。「おれが疲れなきゃ、あっちが疲れる。おれが無理しないでいるとあっちが無理して、それでいやになって、あっちが先に消えそうで」
「それはあるだろう」私は笑った。
「あなただったら、どうやってとめます?」彼は聞いた。「奥さまが去って行こうとされたら」そしてすぐ首を振った。「何言ってるんだおれは。すみません。そんなわけないですよね。あなたはどんなに無理しても疲れないし、奥さまの幸せだけを考えてあげてるんだから…去ったりなさるわけがないや」
「それはどうだかわからんよ」私は言った。「妻は縛られるのが嫌いだ。本当は私の愛にさえも。とび立とうとしてあがいている、翼の音がいつも聞こえる気がする。飛び立たれたらしかたがないな。私にはきっととめられない」
「力づくでも?」
私は首をふった。「あの人にそれはできない」
「奥さまはそれを望んではいませんか?あなたに力づくでひきとめられ、縛りつけられることを」
私は肩で息をつき、遠くを見た。「ある意味ではね」と私は言った。「彼女はずっと、それを私に求めていた。私が彼女を裏切って、傷つけ、絶望させることを。期待と信頼を裏切って、失望させることを。そうしたら自由になれるから。何も信じないで、愛さないで、心を閉ざして強く孤独に空に舞い上がって行けるから。だからいつも、私を試した。私の愛を、私の強さを」私はそっと子どもをひきよせ、ひざにのせ、頭をなでるふりをして、その耳を両手でふさいだ。「彼女は私を誘惑した。自分を苦しめ、傷つけろと。私を傷つけ、おびえさせ、怒らせては、その後で、自分はこんなにひどいことをしたのだから、どんなにでもひどいことをし返せと私に挑んだ。そうやって、あの人は私に…人間に、世界に、絶望しようとねらっていた。そうする口実をずっとさがしていた。私はそれを彼女に与えたくなかった。その方が彼女にとってはきっと楽なんだろうとわかっていても、そんな口実に私を使ってほしくなかった。彼女のそういうところが私はとても嫌いで、腹が立った」
「ずっと『何々した』って話すんですね」若者は静かに言った。「今はちがうんですか?」
「この子が生まれて、ちがってきたような気がする。本当のところはまだよくわからないが。それで私は何だか妻にもこの子にもバカにされてるような気がするんだろうな。あんなに苦労して私はいったい何をしてきたんだろう。この子が生まれただけであんなにあっさり変わるもののために、私はあんなに苦しんだんだろうか。でも、どのみち」私は笑った。「彼女が去ろうと決めたなら、私にそれは、ひきとめられない」
若者は黙って私を見つめていた。

「お子さんが生まれて、そんなに変わられたのは、やっぱりあなたがいらしたからだと思います」やがて若者は、低くそうつぶやいた。そしてちょっと笑った。「お話をうかがってると、何だかおれたちは、お二人のずっと手前でばたばた騒いでるようですね」
「そうは思わない」私は彼を見た。「君たちは、私や妻が死ぬまでかかっても行き着けないところにもう行っているんだ。だからそう簡単にはきっと答えが出ないんだ」
子どもが疲れて退屈したのか、私のひざの上で私の手で頭をはさまれたまま、眠りはじめていて、ゆるんだ指の間から玉子が落ちそうになっている。私は息子の手を支えて、おおった。「長いことじゃましてしまった。もう帰らないと」

小屋の外は昼の光がまぶしい。こっちから行くと近道です、と私に道を教えてくれた若者が、ふとふりかえって、「あっ、いけない」と口の中で叫んだ。「会う約束してたのに、忘れてた。待ちくたびれて、怒ってら」
見ると、小屋の向こう側の大きなりんごの木が枝を広げている下に、幹によりかかって、肩に茶色の肩掛けをまきつけた、黒い髪のやせた少女が、不機嫌そうに立っていた。

こちらを見ていない。オリーブ色に日焼けした肌。黒い濃い眉、大きな目。もともときつい顔だちが、怒っているため、更にきびしくなっている。ふりかかる金色の粉のような木漏れ日の中、その怒りが炎となって燃えているようだ。金の雨になって処女ダナエの部屋にしのびこみ、彼女を犯した大神ジュピターの話をふっと思い出した。

心が騒いだ。
少女は美しかった。そして確かに妻に似ていた。一瞬そこに妻が立っているような気がした。昔の妻、もう永遠に私のもとには戻らない妻が。そして私が一度も見たことのない妻、幼い時から幸福で戦いも飢えも知らず、山賊にもならず、怒りと言えばたよりない恋人に向けるそれしか知らなかったら、きっとこうなっていたはずの、もう一人の妻が。
「呼びますか?」私が黙って立ちつくしたまま、じっといつまでも少女を見ているのに気づいた若者が、笑いながらそう聞いた。
我にかえって私は首をふった。「いや。早く行ってやれ」
男はぺこりと一礼し、もう一度、こっちの道ですよ、と指さして教えてから、草をふみわけて、かけ去って行った。
私は彼に背を向けて、歩き出した。ふり返らずに。

息子が後から追いついて来て、息をきらして報告した。「あの二人、木の下で、ながーいこと、キスしてた!」
「そうか?」私は前を見たまま笑った。
息子は私にくっついて来て、玉子を持っていない方の手で私の手をにぎった。麦の列がとだえて丘の上のポプラが彼にも見えたので、帰れるとわかって、すっかり安心したらしい。
「ニワトリ、くれるよね?」私を見上げて熱心に彼は聞いた。
「そうだな」私は答えた。

草と麦が私たちの身体の回りでゆれた。土の香りがずっしりと重たく、空気は甘くあたたかく、季節は晩春から初夏へと移りつつあった。

晩春・・・・・終  (2003.5.5.)

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