映画「グラディエーター」小説編海の歌

目次

海の歌-マキシマスとルッシラー

母が本当に愛したのは誰だったのだろう?のんきで人がよかった夫か?名君とほまれ高かった父の老皇帝か?暴君とそしられて殺された弟か?早世した母親か?昔の恋人か?息子の自分か?ローマの国と民衆か?それとも結局は自分自身であったのか?19歳の青年ルシアスは、母が病死した一年後、それを確かめるためにローマに向かう。

母は幼い少女の頃から、父の友人で政敵でもあった元老院議員のグラックスに、折にふれて手紙を書いていた。
不思議な美しさをたたえる広大な屋敷に住む老議員グラックスは、ルシアスに快く、それらの手紙を読ませてくれる。幼い母が、少女となり、若い兵士と恋をし、別れ、成長して父や夫や弟の背後でローマの政治を動かして行く、聡明で勇気ある女性となって行く姿を、ありありと目に浮かべながら、それでもなおルシアスは、本当の母の心がつかめないような気がしてならない。
人は、何を書き、何を書かないのだろう。ことばによって描かれる世界も、目で見、耳で聞く現実の世界も、いったいどれだけ本当のことを私たちに伝えてくれるのだろう?

第一章 島からの客

(1)朝の都

空がせまい。
馬を進めながらルシアスはそう思った。
通りはこんなに広いのに、それでも見上げる空がせまい。
両側に高くそびえる建物と、その間に思い思いの向きで立っているさまざまな彫像。古びて見えるものは巨大で、新しいものは小さい。それはこの都が、ローマが、かつての威勢を失いつつあることを暗に示しているのだろうか。
しかしまた、それをあざ笑うかのように、新しい建物が巨大な古い彫像にぺったりと隣接して建てられて、まるで彫像が身をよじらせているように見えるものもあった。

角を曲がるたびに次々と思いもかけない風景が開けてくる。巨大な丸屋根。壮麗な神殿。流れているのかいないのかわからないほどおだやかな水面の、はば広い川にかかる、彫刻だらけの石づくりの橋。細かい模様のモザイクが色あせて、淡い虹のようにうずまいている長く広い階段。広場には朝の市を開くためだろう、商人たちの叫び声とともに、色とりどりのテントや日除けが乾いた鋭い音をたてて、そこここにはりめぐらされはじめている。屋台の場所を争って、声高に言い合う男たち。まだ開かれない包みのはしをひっぱって、色つやのよい果物を物色しようとする女たち。これは島でも同じことだった。ふしぎよね、とルシアスの母は、それを見ながらよく笑った。毎朝、同じことをするのだから手順は決まっているはずなのに、どうしてあんなに騒がしいのでしょう。
きっとあれが楽しいのでしょう、お母さま。幼いルシアスがしかつめらしくそう言うと、母は笑いころげてルシアスの肩を抱いたのだった。そうね。きっとそうなのよね。わたくしは何てバカなのでしょう。きっと、あれが楽しいのね。あの人たちは。

母とルシアスがそうやって見ていた島の市場は、港の突堤に近い、細い小さな、広場などとは呼べもしないような空地だった。
すぐそばは海で、つながれた小舟がぎいぎいと波にゆれてきしみ、強い陽射しに照らされた道のわきで男たちが魚の箱にばしゃばしゃと海水をかけていた。
空地の周囲には短い雑草がまばらに茂り、犬たちが昼寝をしていた。あたりの小屋の屋根の上からは、猫たちと海鳥が魚の箱をにらんでいた。
さえぎるものもない青い空がどこまでも続いて、沖のかなたで海とひとつに溶けあっていた。

母は都に暮らしていた間、このような風景を見たことがあったろうか、とルシアスは、馬上の彼らになど目もくれず、馬の方がよけると信じきって避ける気配もなく大胆に、すぐ前を横切って行く、さまざまな衣装の人波の中を注意深く進みながら思った。そもそもこうして町に出ることなどがあったのだろうか。
母は皇女だった。今となってはあれがローマのよき時代の最後の皇帝だった、と人が噂しているという、マルクス・アウレリウスの娘だった。

(2)うずまく人波

人々にへだてられていたタキトゥスが、ようやく馬をよせて来た。少し息を切らせている。ルシアスより二つ年上の十七歳で、島で育った漁師の息子だ。
日焼けしていて、たくましくても、ルシアスには、そのさらさらとなびく金髪や上品にととのった目鼻だちだけでなく、どこかに町育ちや高貴な身分をしのばせる線の細さが残っている。だが、赤銅色の肌が光るがっちりと肩幅の広いタキトゥスの、陽気で元気いっぱいの顔には、小舟を一人で楽々あやつり荒れた海も乗りきってしまう腕の持ち主にふさわしい、くったくのない力強さがあふれていた。
もっとも、この人波には手こずっているらしい。「ルシアスさまあ!」彼は情けない声をはりあげた。「大丈夫ですかあ!?」
「おまえこそ、大丈夫なのかよ」馬上でふり向きながら、ルシアスは笑って聞いた。
「大丈夫なわけないでしょうが?まったく何てとこですか!人間ばっかだ!建物ばっかだ!それに、この空気の悪さ!この変な匂い!息がつまっちまいますよう」
たしかに魚や鳥や食べ物の匂いにまじって、何ともいえない不思議な香りがたちこめている。それは一つの香りではない。清々しい花のような、ねっとりとした香料のような、さまざまな匂いが入り混じっている。母の衣装や髪からただよっていた甘くやさしい香りも、その中にかぎわけられそうな気がした。

ますます増えてくる人の波は、生き物のように二人の馬の回りでうずまき、波うち、思い思いの方向へと流れて行く。タキトゥスが舌打ちした。
「毎日、こんなんですかねえ!?一日中、ずうっとこうなんですかねえ?よく、目が回っちまわないなあ!昔っから、こうだったんで?」
「昔って?ああ、僕がいたころか…覚えてないんだ、まだ小さかったからね」
「だって、皇帝だったんでしょ?」
「おいおい、大きな声を出すなよ」ルシアスは首をすくめて、たしなめた。「皇帝ったって、正式じゃないよ。僕の名なんて記録にはまったく残っていない。戴冠式みたいなものはあったらしいけどね。あの時はそれが必要だった…母はそう言ってたな。ひとつの時代が終わったっていう、何かけじめになるものが」
「前の皇帝がろくでもないバカ野郎で、死んで皆がほっとしたんでしょ?コロセウムでダチョウの首切って遊んでたって、その人ですか?」
「知らないな。そんなこともあったかもしれないが、僕にはやさしい叔父だった…って、母が言ってる。最後は僕を殺そうとしたらしいけどね」
「どこが優しいんですよう!?」
「だから、それは、叔父は心配だったのさ。母が、弟である自分を裏切って、クーデターを起こして自分を殺そうとしてるんじゃないかと。だから、僕を殺させたくないなら、その計画を話せって、母を脅迫したんだね」
「ひでえやつじゃないですか!そんな計画、なかったんでしょ?」
「あったんだな、これが」
「何ですう?」タキトゥスは思わず馬を止めそうにした。
「あれえ、話したことないかい?」ルシアスは笑った。「母は、叔父のすることがあんまり無茶苦茶なもんだから、元老院や軍と手を組んで、叔父を倒そうとしてたのさ。叔父と対立して当時は奴隷に身を落としていた、元将軍をリーダーにしてね」

「へええっ、あのお優しそうなお母さまが」タキトゥスは信じられないようだった。「世の中わからんもんですなあ。だってさ、実の弟なんでしょ?そんなややこしいことしなくたって、直接言ってやりゃいいのに。おれの伯母さんなんか、いつか親父が船を買い替えようかどうしようかとくよくよ迷って、ばくちで決めようってしかけた時、親父をはったおして言いましたっけよ。うじうじすんじゃないよ!何が正しいか自分でもちゃんとわかっているくせに!って」
「おまえの伯母さん、豪傑だからな。で、母にもそうしろってか?」
タキトゥスは首を振った。「無理でしょうなあ。無理だよなあ。でも、ルシアスさま、島ではそんなお話はちっともして下さいませんでしたねえ」
「あたりまえだろ」ルシアスは言った。「あんな静かな島で、こんな話してみろよ。どっかで誰かが聞いていて、あっという間に噂になっちまう。港のメルセデスのばあさんが男遊びがすごかったって話、今でも有名じゃないか。ばあさんは八十だぜ。いったん、噂になっちまったらおしまいだもんな、あの島じゃ。めったに口もきけないよ」
「そうですなあ」タキトゥスはひざを打った。「おれが六つの時、卵を盗んだって話、今でも皆が覚えてて、おれのこと言う時は、ああ、あの元皇帝の坊やにお仕えしてる卵どろぼうねって、こうですもん」
「その点、見ろよ」ルシアスは手にした鞭で軽くあたりを指してみせた。「この都じゃ、この人ごみの中じゃ、おまえと僕が何話したって聞いてる者なんかいやしない」
「そうですなあ」タキトゥスはあらためて感心したように、めいめい大声でしゃべったり笑ったり、忙しそうに走ったりしながら、馬の回りを通り抜けて行く人々の、赤いチュニカや空色のヴェール、黄色や灰色、緑色のトーガの上に、目を左右に走らせた。「そういうとこは、なるほどなあ、ここは島よか気楽かもしれない」

(3)老議員の庭

流れる雲が、朝の真珠色の空を横切って行く。
間もなくその空の色は次第に濃くなり、夏の終わりらしい澄みわたった深い青へと変わるのだろう。
ローマの市街の一角にありながら、この広壮な邸宅は都の喧騒とはまるで別世界のようなひっそりとした静かさを保っていた。ゆるやかに広がって空の光をいったんさえぎり、金の砂のような陽光を音もなくこぼしている、巨大な古木の枝枝。重なり合うように不規則に入り組みながら、どこまでも続いて行くずっしりとした石づくりの建物。空気はほのかに緑がかってひんやりと沈み、まるで深い海の底にでもいるような気持ちになってくる。
この館の老主人で元老院議員のグラックスは、白いトーガに身を包んで、ゆったりとした足どりで庭をそぞろ歩いていた。
彼は花を、特に色あざやかな花を好まかった。めったに飾ることはなく、庭にも植えさせようとしない。しおれるし、枯れるから、というのがその理由である。
身の回りの世話をする奴隷たちも皆、男性だった。館の中にいる女性は、がっしりたくましい門番の女や、太って醜いアヒルの世話係の女などほんの数名で、若い女奴隷はいない。そこから彼の性癖を云々する者もいたが、彼は相手にしなかった。

それでも、館の中が決して殺風景に見えず、重厚でありながら華やかな繊細さをさえたたえているかに見えるのは、建物の内外に配慮をこめて配置された、手のこんだ調度品や選び抜かれた美術品の数々のせいもあったろうが、ひとつには、この館に住む奴隷や解放奴隷たちが、年輩であると若いのとを問わず、いずれも皆、女のようになまめかしい美しさをたたえているからでもあった。
別段、そういう男たちを好んで集めたわけではない、とグラックスは笑う。しらじらしいではないか、と彼の政敵たちは舌打ちしてあざ笑う。一方、彼の友人たちは彼を弁護して、あの館はひとりでにそういう男たちを呼び寄せるのだ、とも言った。あるいは、あの館にいて、みごとな美術品の管理や手入れをしている間に、ひとりでに男たちは優雅になり、一種奇妙な美しさを身につけてゆくのだ、と。

セイアヌスは、そんな男たちの中で特にめだった外見なのではない。だが、淡い紅色のトーガをほっそりと背の高い身体にまつわるようになびかせて歩いてくる姿には、独特のやさしい気品と繊細さがあった。女のそれとはまたちがう、しゃきしゃきと歯ごたえのある果物のようなみずみずしいしなやかさが全身にただよう。年は二十歳をやや過ぎたくらいなのに時々、三十近くに見えるほど大人びて落ちついた雰囲気を感じさせるのは、栗色がかった蜂蜜色のゆるやかに波うつ髪にふちどられた色白で静かな顔のせいだろう。その、あどけなさと生真面目さの混ざり合う表情は、後代の人が見たらキリスト教の宗教画から抜け出した天使のようなとでも形容したのかもしれない。
グラックスは足をとめ、美術品でもながめるような冷静なまなざしで、近づくセイアヌスを見守った。
「まだ、おいでではないのかな?」彼は聞いた。「ルシアスさまは?」
セイアヌスは首を振った。「遅れておいでのご様子です。広場の朝の人ごみにぶつかってしまわれたのかもしれないと思って、今、迎えの者をつかわしました」
「それはよかった。おっつけお見えになろうから、おまえもお迎えの準備をするように」
「かしこまりました」
「例の箱も出しておいたな?」
「はい。『蜜蜂の間』にお持ちして、今はキャシオさまがつきそっておいでです」
うやうやしくセイアヌスは答えた。

(4)裏切った女

何とか広場を横切ったタキトゥスとルシアスは、やや道のせまい静かな通りへと馬を踏み込ませて行っていた。このあたりでは、新しく植えられたばかりらしい並木がまだ短い枝枝を思い思いの方向にのばして、朝の風にうす緑の葉をそよがせ、行きかう人々の足どりも、どことなくゆったりしていた。戸口から通りに出てきた白いひげの老人が、気持ちよさそうに思いきり両手をのばして、のびをしている。はやばやと市場から買ってきたらしいパンと野菜を抱えた中年女が、まるで狼のように大きな、灰色の毛がふさふさと長い犬をそばに座らせて、指に力を入れてごしごし頭をなでてやりながら、顔見知りらしい人々とにぎやかに何か笑ってしゃべっている。犬は快げに舌をたらして目を細め、信頼をこめて女の顔を見上げていた。
「皆、幸せそうだな」ルシアスはほほえんで低く言った。
「うまそうなパンで」タキトゥスはつぶやいた。「グラックスって人の家はまだ遠いんですか?」
「もう少しあるな。川沿いの通りだって行ってたから。何だい、腹がすいたのか?」
「ルシアスさま」タキトゥスはまじめな顔になった。「何だって今ごろ、わざわざ、そんなやつのところに行くんです?そのじいさんなんでしょう?お母さまとあなたを、都から追い出したのは?」
「とも言えないな。追い出したのは元老院だ。グラックスはその代表だった。するべきことをしたまでさ。彼の考えはたとえ別にあったとしても、彼にはそうするしかなかったんだと思うよ」
「ですけどね…」
「彼は、母がまだ幼い少女の時から、ずっとかわいがってくれていたんだ。まるで、もう一人の父親のように。そう母が言ってた。おまえだって知ってるじゃないか。寝ついてからずっと、死ぬまで母はよく笑って、『あの生真面目な、かわいそうな、わたくしのグラックスおじさま』なんて言ってただろう、忘れたのかよ?」
「覚えてますさ」タキトゥスは吐息をついた。「お母さまはご立派でしたなあ。ご病気になられて弱られてからも、ぐち一つおっしゃらず、毎日何か、ちょっとした面白いことを見つけちゃ、いつも楽しそうに笑っておられて。死ぬまであんなにきれいで華やかだった方は、おれは見たこともないですよ」
「ちょうど去年の今ごろだった」ルシアスは空を見上げた。「空の色も、雲のかたちも、あの頃と似てる。もう一年にもなるんだな」

セイアヌスはいつもゆるやかに、ものしずかに水が流れるように動く。激しいしぐさをまったくしない。だが、そのなめらかな足どりは、たまたまいっしょに歩く者は驚くほどに意外と速い。今もそうで、もっとも今は一人だったが、彼はすべるように、黒っぽく光る大理石の、広い階段を上がって、金色がかった白い石の柱に囲まれた「蜜蜂の間」の入口を入った。
どっしりと重い木の扉は開け放しになっていた。濃い緑の木々がそよぐ庭が、テラスの向こうに広がっている。明るく広いへやの中では解放奴隷のキャシオが、白いチュニック姿でせっせと壁の前にある、ペンを片手に書き物をしている男の大きな胸像をみがいていた。
「やあ、来たね」彼はセイアヌスをちらと見て、すぐ彫刻に目を戻しながら言った。「グラックスはどうしてる?まだ庭かい?」
キャシオは、この屋敷の使用人の中では一番の古株だった。あらゆる仕事に精通しており、書記や秘書や税の管理など、もっと重要で高級な仕事についている者たちまでが彼には一目おいていた。小柄だが力が強く、性格も厳しくて気難しい。グラックスのことを呼び捨てにしたり、乱暴な言葉づかいで話すのだが、だからと言って他の使用人が同じ言葉づかいをすると眉をひそめて見限って、以後は相手にもしなくなる。そうなると、ほとんど、この屋敷では暮らして行けず、つてをさがして他の家の使用人として移って行くしかなくなるのだった。

セイアヌスもむろん、そのことは知っている。「はい、お庭にいらっしゃいます」と穏やかに彼は答えた。「箱はもう持って来てあるかと、お尋ねでした」
「持って来てると言っただろうね」
「はい」
キャシオはうなずき、緑がかった白い大理石のテーブルの上に置かれた、純白の雪花石膏の美しい箱に、ちらといまいましげな視線を投げた。「まったく、今になって何でこんなものを」と彼は言った。「だんなさまもだんなさまだよ。さっさと処分してしまえばよかったのさ。あの女が死んだ時に、こんなものは皆」
「ルシアスさまはなぜ」セイアヌスは軽く首をかしげるようにしながら言った。「お母さまのお手紙がこちらにあることを、ご存じだったのでしょう?」
キャシオは小さく鼻を鳴らした。「あの女がしゃべったんじゃないのかい?何でもしゃべってしまう女だからね」
「そうなんですか?」
「そうだとも。あの裏切り者の女めが」苦々しげにキャシオは言った。「セイアヌス、その箱のふたに気をつけろ。模様が入り組んでいるからな。馬のしっぽの筋目のところに、ほこりがたまっていないかい?よく見ておきなさい。ルッシラの息子などに、手が汚れたよなどと文句をつけられたくはないからね」

箱はもう充分きれいなように見えたが、セイアヌスはそばにたたんでおいてあった、古い絹の布をとりあげて、ていねいにもう一度、そのまっ白く美しい箱のふたをふきにかかった。馬が二頭向きあって、何かの木を間にはさんで前足を上げている、手の込んだ彫刻がほどこされている。
「それ、古い鎧の模様だよ」キャシオは身体を曲げて彫像の下に入り込み、宙にかざされた手の先の長い指や握られた羽ペンを注意深く磨きながら教えた。「あの男が死んだ時に着ていた鎧の模様だということで、一時期、大流行したものだ。箱にでも、扉にでも、皆がその模様をつけた。ご婦人方はハンカチや胴着の胸に刺繍したものさ。その頃のものだよ、その箱も。いい細工だろう?この頃のものとは、まるで品がちがうね」
セイアヌスはうなずいてから、わずかにふり向いた。「あの男って…?」
「皇女の恋人だった人さ。元軍人で、高い身分にいたんだが、バカ皇帝に憎まれて剣闘士奴隷にまで身を落としていた。グラックスさまは皇女と手を組み、元老院をまとめて、その男を指導者にして反乱を起こし、バカ皇帝を追放して、その男と協力して、皇帝ではなく元老院が治める、民主制のローマを築こうとしておられた。そして、皇女が裏切らなけりゃ、それは成功していたんだよ。そのグラス、汚れてはいないか。何だか曇っているように見えるよ。その右から二つめのやつ」
「これですか?」
「あ、もういい。動かしたら、消えた。きっと庭の木の葉の影が映っていたんだな。さてと」キャシオは、一歩下がってすっかり磨きあげられた、ペンを持つ男の像が重々しい輝きを放っているのをたしかめ、それからさっとへや全体を見わたした。「軽い食事をおとりになるかもしれないが、さしあたりはワインと果物でいいだろう。クッションはおいた、と。よかろう、これで万全だ」

「皇女は、自分の子どもを殺すと脅迫されていたのでしょう?」セイアヌスは箱を机のまん中にそっと押しやり、まっすぐに置かれているかどうか両手で動かしてたしかめながら、キャシオに尋ねた。「それで裏切ったのでしょう?」
「知るものか。そう本人は言ってたらしいが」吐き捨てるようにキャシオは言った。
「実際、今でもその時のことを思い出すと私は、腹がたってたまらないよ。あの女がすべての計画をバカ皇帝にぶちまけてしまったおかげで、グラックスさまもとらえられ、手首を切って自殺する死刑を宣告されていたし、その男はコロセウムでバカ皇帝に殺された」
「皇帝も死んだのでしょう?そう聞いていますけれど」
「そうだよ。その男が死ぬ直前に、文字通り死力をつくして、バカ皇帝を殺してくれたんだ。それにしても惜しい人だった」キャシオは吐息をついて、ペンを持つ男の彫刻がもう片方の腕にかけている長い衣のひだを軽くまた磨いた。
「皇帝はコロセウム好きの剣闘士おたくだった。強いと評判のあの男相手に試合をしたがって、勝てるはずないとわかっているから、アリーナに出る前に、あの男の身体をずたずたに切り刻んだ上に鎧を着せて、その傷が見えないようにして、皆の前に引き出したんだよ。まったく、人間のすることではないね。それでも、その男はバカ皇帝を倒して、その直後に自分も死んだ。彼の葬儀につどう人々はコロセウムを埋めつくし、次の日、またその次の日も、彼を悼む人たちの列はひきもきらなかったよ。皇帝の死体はその間、ひっそりと葬られ、墓のありかも今じゃ誰も知らないありさまだ。どうも、この鉢の色は気になるねえ。果物がしなびたように見えるんだよ。ペルシャから来た、あの青と白の大皿にした方がよかったろうか。ずっと迷ったんだがなあ、どっちにしようかと」
「とりかえますか?」
「いい、いい。もう間に合わないし、これだってそう悪くはないんだから。どこまで話したんだっけ?」
「皇帝が葬られたところです」
「そうだね。それでその後、あの女の息子が…」
「ルシアスさまが?」
「そうさ、今日来るお客だよ。まだ八つかそこらだったが、彼が皇帝に即位した。だが間もなく人々の間から、あの女は裏切り者だという声が上がってね。もともと新しい皇帝などいらないと言って即位式を認めないでいた元老院も、そんな人々の声に後押しされるかたちで、あの女と息子を都から追放した。あの頃のことなら、そう、何もかも私はよく覚えているよ」キャシオは顔をしかめた。「そしてまるで昨日のことのように、あの女にはしんそこ、腹が立ってならないんだ」

(5)対面する四人

「これって…」タキトゥスはひそひそ声になっていた。また、それでも充分に聞こえるぐらい、広い石だたみの通りは静かで人通りがなくなっていたのだ。「一人の人間の屋敷?何か公共の建物じゃないんですか?」
「ううん、どうなんだろう、たしかにやけに大きいが」ルシアスは、ゆるやかな坂道の右半分にずっと続いている黄白色の石と土の高い壁と、その上からこぼれるようにはみ出して、のぞき出している、黄色い花をちらほらつけた、こんもりとした緑の木々をあらためて見やった。「でもさっき道を聞いたあの男も、とにかく大きな屋敷だとくり返していたしなあ」
「元老院議員って、もうかるんですか?」
「金のいる仕事だと聞いたことはある。ってことは金があるんだろうな」ルシアスはあたりを見回した。「なあ、もしかしたらタキトゥス、ここはもう屋敷の中なのじゃないか。さっき渡った石の橋の両側に門番小屋がなかったか?」
「ええ?考えもしなかったから、ちゃんと見ませんでしたよ」タキトゥスはあわてて後ろをふり向いた。
「とにかく進むか」ルシアスは言った。「あそこに何か屋根が見えてる」

「すげえなあ」タキトゥスは首を振った。「都って本当に何もかんも、けたちがいだよ。惜しいことしましたね、ルシアスさま」
「何が?」
「ここの皇帝に、ずっとなってられなくて」
「あはは」ルシアスは笑った。「だんだん、そんな気になって来たよ」
「その男が何とかしてくれなかったんですか?お母さまたちがリーダーにしてたっていう、その、剣闘士の」
「たしか彼、死んだんだよな。コロセウムで皇帝を…コモドゥス叔父を殺して、すぐ」ルシアスは答えた。「それに生きてたって、僕が皇帝になることに協力なんかしたかなあ?共和制を復活させようとしてたらしいからね。第一、もし彼が生きてたら、元老院も民衆もきっとその男を皇帝にしたんじゃないのか。僕が出る幕なんてなかったさ」
「何ていう名の男です?」
「マキシマス・デシマス・メレディウス…だったかな」

「マキシマス?ちょっと待って下さいな」タキトゥスはまた馬をとめそうにした。「それって、岬のバルトロメオんとこの悪ガキの名じゃないですか。船大工のマテオんとこの老いぼれネコも、そんな名でしたね」
「片目のしま模様のドラ猫な。島中にあいつのガキがいっぱいいて、どれがどれだか区別がつかない。ほんとは何びきいるんだろうって、母がよく笑ってた。朝、目がさめたら窓わくに座ってたのと、昼間に道のまん中で寝てたのと、夜、魚をくわえて走ってたのと、同じのかちがうのか、どうしてもわからないって言って」
「あのう、セバスティアンとこのおんぼろ船の名前もたしかマキシマス号じゃなかったですか?だからおれは、あの名前って、神さまの名前かなんかなんだろうと、ずうっと思ってたんですよ」
「うん、十年前には、その男の名前って実際神さまみたいに有名で、あんな島でも知らない者はなかったらしい。縁起のいい名だってことで、皆が子どもやいろんなものに、やたらとつけたんだってさ」
「縁起がいいんですかね?殺されちまったんでしょう?」
「よみがえってスペインに帰ったって話もあるんだよ。アフリカに渡って大金持ちになったって話も」
「もう、何なんですかねえ!」
「若い頃、母の恋人だったらしいんだ」
「その男がですか?」
「ああ、侍女のカルミオンが言っていた。父上と結婚するずっと前のことだったそうだが」
「じゃ、その男も家族がいたんでしょう?」
「いたけどね。叔父が殺してしまったらしい。妻と、僕ぐらいの男の子…女の子だったかな、よく覚えてないが」
「やっぱり、あんまり運のいい男じゃなさそうだな」タキトゥスはつぶやいた。

「キャシオさま!」
入口から呼ぶ声がして、セイアヌスとキャシオはふり向いた。
若い解放奴隷のアウルスが、走って来たのか、赤いチュニックの胸を汗で濡らし、息をかすかにはずませながら立っている。
「どうした?」キャシオは眉をひそめた。
「ルシアスさまがもうお着きです。さっき門番小屋から知らせが入りました」
「迎えに行った者はどうしたのですか?」セイアヌスが聞いた。
「どうも、行きちがってしまったようですね」
キャシオは首をふりながら、身体をかがめて、ペンを持つ男の彫像の腕の下をくぐり抜けた。「いつもこうだよね。予定どおりの時間に予定どおりに着く客なんて、いたためしがないんだよ。グラックスはどうしてる?」
「入浴をすませられて、お着がえ中です」
「客人方も入浴されるかもしれない。その支度もしておいてくれ」
アウルスはうなずきかけて、ふとふり向き、うやうやしく頭をたれながら後ずさった。紫のふちどりをした純白のトーガ姿のグラックスが、若者のようなさっそうとした足どりで入って来た。入浴の後は、いつもひときわ元気になるのだ。血色のいいほおがいちだんと桜色になり、白い髪がぬれて輝いていた。
「お着きになったそうだな」落ちついた声で彼は言った。
「思いがけないほど早く」キャシオが一礼した。
「待たれない客ほど、そんなものだ」グラックスは皮肉っぽく笑った。「死神のようにな」
彼はセイアヌスとキャシオを見た。「二人で迎えに出てくれ。私はここで待つとしよう」

「グラックスさまは、ルシアスさまのおいでを喜んでおられないのでしょうか」大きなまっ白い貝殻を使って、白い花をいくつも壁に描いている、長い、広い階段を並んで下りて行きながら、セイアヌスが気にした。
「あんなの、言ってみてるだけ」キャシオはすばやく肩をすくめた。「皮肉を言うチャンスがあったら、グラックスは絶対見逃さないんだからね」
「ルシアスさまは…」セイアヌスは口ごもった。「どういうお方なんですか?」
「どういうお方?」キャシオは立ちどまり、手すりに軽く身体を預けてセイアヌスをふり向き、笑った。「何言ってるの?今から会う相手だよ。自分の目ですぐに見られるさ」そしてセイアヌスが恥ずかしそうに目を伏せたのを見て、答えた。「そうだな…そばかすだらけの、そのへんに普通にいるような子だったな。だけど、ものおじしない、元気なしっかりした感じで、悪くなかったよ…でも私が見たのは、まだ小さい子どもの時だからね。戴冠式の紫と金の衣装の中になかば埋もれてしまってたっけ。あの女が得意満面で、そばにつきそっていたっけが」
二人は広い階段を下り、金色の斑紋のある黒い大理石の床の玄関へと出て行った。明るい庭は、銀色の噴水のしぶきと、金色の陽射しとが入り乱れて、まぶしい輝きに包まれていた。その中に馬から下りようとしている二つの人影がゆらめくように見えていた。
「ほら…ほら、あれだよ」キャシオが眉を上げて、前を見たままセイアヌスの方に首を寄せて教えた。「ルッシラの息子だ」

「入口は多分、あそこだな」馬から下りながらルシアスが言った。「何となく覚えがあるよ。あの大きなブロンズのライオンの像だとか。たてがみを振り回してるのが、まるで本物みたいだろ。雨の日は、あのたてがみの細いひとすじごとの先から、きらきら光る水のしずくがぶらさがってたっけ」
タキトゥスは吐息をついた。「何だか変なつくりの家ですね。どこが入口なんだかよくわからない」
「わざとこうしてあるんだと思うぞ。暗殺者を警戒してな」
「あ、誰か迎えに出て来ます」タキトゥスが目を細めた。「よかった。この屋敷、人がいないのかと思いかけてました」
ルシアスは笑って、暗い屋内から光の中に歩み出て来た二つの人影を見た。一人は小柄でひきしまった身体つきの白いチュニック姿の中年男。とろりと黒い燃えるような目と、女のように赤い唇がどことなく謎めいて見える。もう一人は、背の高いほっそりとした青年で、落ちついた優しい目で、じっとこちらを見ていた。明るい、しっかりした表情なのに、どこか傷つきやすそうに見えるのはなぜだろうかとルシアスは思った。

ひんやりとした玄関から光の中に歩み出ると、陽射しはまだ熱く肌を刺した。馬のそばの二人の若者は、それを気にした風もなく、こちらを向いて立っている。
セイアヌスがまず目にしたのは、日焼けしてたくましい、茶色と赤のチュニックを着て、ちょっと不安そうにいらいらしている若者だった。それは、この屋敷に来た者たちがしばしば見せる表情だったから、セイアヌスには珍しくなかった。その隣の、空色のチュニックの上に短い白いマントを重ねた若者は、しなやかでやや細身な身体つきで、さらさらとまっすぐな金髪を肩までたらしていた。率直そうな、かしこそうな顔だ。あたたかく力強い光をたたえた、だが鋭い目がまっすぐにセイアヌスを見ていた。

(6)過ぎ去った時代

「おくつろぎになれましたかな?」
グラックスはゆったりとクッションにもたれかかりながら聞いた。
「もう、すっかり」ルシアスは笑って答えた。「すばらしい浴室をお持ちなのですね。入浴係の奴隷たちも。旅の疲れが一度にとれました」
「食事はいかがでしたか?コックが老人用の料理になれてしまっておりますのでな、若い方には足りなかったのではありませんか?」
「ああ、タキトゥスがぺろりと平らげてしまったから、そんな心配をなさっているんですね?」ルシアスは声を上げて笑った。「充分でしたよ。なあ、タキトゥス?」
タキトゥスは何かぶつぶつ言い、机の向こうのセイアヌスが、ルシアスを見てかすかに目を笑わせたような気がした。ものしずかだが、どこかとても人なつっこい表情をする青年だな、とルシアスは思った。それとも、僕に対してだけかな?あるいは、自分の方がそんな気がするだけなのか?何だかなつかしい、何だか昔からの知り合いのような。

ルシアスはその思いをふりはらい、心をひきしめた。そんな印象にこだわっている時ではない。ここに来た目的を忘れないようにしなければ。この屋敷には、どこか不思議な魔力がある。うっかりすると何もかも忘れてしまって、島の漁師たちがほろ酔い機嫌のほら話でよく話していたように、お茶を一杯飲んで外に出たら十年もたっていたという、ふしぎな洞穴のように、時が流れてしまいそうだ。
「ところで、さっそくなのですが、僕がここに来たのは」彼は言いかけた。
グラックスはうなずいた。「お母さまの古い手紙をごらんになりたいのだとか」
「ええ。母は一年前に死んで」ルシアスはグラックスをじっと見た。「あなた方といろいろあったのは知っています。しかし、僕には母は優しい、すばらしい母親でした」
グラックスはうなずいた。「最高の女性でした。あなたのお母さまは」
どこか上の空のようだったし、万感の思いをこめて言っているようでもあった。そのどちらともみごとにとれる言い方を、この老議員は心得ているとルシアスは思った。
「母はあなたを、たぬきおやじと言っていました」思わずルシアスはそう言ってしまった。
キャシオとセイアヌスは同時に顔を上げ、ついで目を見合わせたが、グラックスは驚く気配もなく、「ほほう」とむしろ快さそうに低く笑った。「むろん、ほめことばでしょうな」
「ええ、そう思います」ルシアスはうなずいた。「どういう意味か、なぜそう思うか、もっと詳しく聞いておけばよかったのですが、何しろ母は都のことをほとんど話さなかったものですから。思い出したくないのだろうと思って、僕も聞きませんでした」彼はちょっと言葉を切った。「母は、島では、いつも、とても、幸せそうだったものですから」
グラックスはうなずいた。「そうであったのだろうと思います」

風が吹いてきて、テラスの向こうの緑の梢が白く光を照り返して、波のように大きくうねった。
「僕は、侍女たちから、かつて母が僕のために大きな犠牲を払ったと聞いたことがあります」ルシアスは続けた。「それがどういうものであったか、僕は詳しく知りたいのです」
「何のためにですかな?」静かな、歯切れのいい口調でグラックスは聞き返した。「お母さまがお話にならなかったのに?」
「母は自分を実際より悪い、いやな、愚かな人間に見せようとするくせがありました」ルシアスは首を振った。「病気になってからもいつも、他愛もないいたずらをしては人をからかうのが好きでしたが、それもその一つだったのでしょう。僕にはそれはわかっていたつもりです。けれど、母が死んで日がたつにつれて、他の人と同じように自分もやっぱり母にだまされていたような気がしてきた」
グラックスはルシアスを見つめつづけ、ルシアスもまた目をそらさなかった。
「夜、寝台の中で目を開けて、闇の中で天井を見つめる」ルシアスは言った。「天井がそこにあるのはわかっている。そこに浮かび上がったしみのかたちも、木目の模様も。だが、それは見えない。いつまでもそうしていると、本当にあったのかどうかも、たしかではなくなってくる。それと同じように、僕には母が見えていなかった気がしてならなくなるのです。自分は母を本当に知っていたのかと。もっともっと感謝しなければならなかったことを、見落としてしまっているのではないかと。その思いは日々強くなる一方で、時とともに薄らぐどころか、次第に耐えられぬほどのものとなって行った。それで、失礼を省みず、お手紙をさしあげて、ぶしつけなお願いをいたしました」
「侍女たちにはお聞きにならなかったのですか?」
「母は、昔の侍女たちを少しづつ都へ帰してしまいました。自分が都にいたころに使っていた品々を、思い出にと言って、その都度持たせてやっていた。死ぬ時にそばで世話をしていたのは皆、島でやとった女たちばかりでしたし、昔をしのぶ品物を母はひとつも残さなかったのです」ルシアスはまた、かすかに首を振った。「一人だけ、カルミオンという侍女が最後まで母につきそっていましたが、彼女は母が死んで間もなく、島からいなくなりました。海に身を投げたという人もいます、母のあとを追って」

「何とも美しい話ですな」グラックスは薄く笑って目を細めた。「みにくい心の者たちがいかにも好みそうな」
「僕はそれは信じてはいません。彼女はただ船に乗って島を離れただけでしょう」ルシアスは笑った。「ですがとにかく、もう今は、母の昔を聞ける者は僕の回りにはおりません」
「それで私にお聞きになりたいと?」
「せめて母の手紙だけでも見せていただけたらと」ルシアスはほほえんだ。「さしつかえのあるものは、もちろん、とりのけておいていただいてかまいません」
グラックスもほほえんだ。
「何もかももう昔です」ゆっくりと彼は言った。「ローマもあれから大きく変わりました。皇帝の椅子は金で売り買いされ、そうやって皇位についた者たちが次々に殺された。セウェルス帝が即位して、ようやく秩序が戻りつつあるが」彼は吐息をついた。「お母さまの生きた時代はもう遠い過去です。かくさなければ困ることなど何ひとつないほどに、すべては過ぎ去ってしまいました。手紙は皆、ここの、その箱の中にございます。どうぞ、お読みになって下さい。ただ、これは私にとっても思い出深い、貴重な品でございましてな。このへやでお読みいただき、私ども三人の誰かがいつもおそばにおりますが、それでもよろしゅうございますかな?」
「もちろんですとも」ルシアスはうなずいた。「手紙は、たくさんあるのですか?」
「数はそれほどでもありませんが、長い期間にわたっております。中には、たいそう古いものも」グラックスはつぶやくようにそう言って、箱の方へと目をやった。「順を追って、お見せすることといたしましょう」

第二章 私のグラックスおじさま

(1)るるの冒険

書字板もあれば、パピルスもあった。四つ折のものも、巻物も。そのどれにも、覚えのある、なつかしい母の香りがした。箱の中からグラックスが取り上げてルシアスに渡した最初の手紙は、茶色の二つ折の小さな紙切れだった。

ぐらっくすおじさま
るるは、おんせんにきています。
おとうさまも、おかあさまも、おとうともいっしょです。
おゆが、じめんからわいています。
とても、たのしいです。

大きな、しっかりした字だった。インクの色は薄れていても、はっきりと伝わって来る力強さと活気があった。
ルシアスは目を上げた。
「るるって、母のことですか?」
「それは、五つの時のお手紙だ。その頃、ご自分のことをそう言っておられた」グラックスはうなずいた。「お父上…あなたのお祖父さまもまだ皇帝ではなかった。私は親しく、おつきあいしていた。ご一家で、シチリアに遊びに行かれた時のものでしょう。今でも覚えている。手紙を持って来た使いの奴隷が、温泉の中にあったという白い小石をいっしょに持ってきた。煮えたぎる熱い湯の中から、あの方が拾われて、私に持って行くようにおっしゃったのだとか」
グラックスはほほえんだ。
「お母さまは冒険がお好きでした」

輝く太陽。ふつふつとたぎる湯。硫黄の臭い。岩の上に小さなサンダルの足をふんばった女の子がいる。恐れを知らぬ美しい、愛らしい顔。たちのぼる白い湯気を油断なく見つめ、かすかに顔をしかめながら、澄んだ熱湯の中のまっ白い小石をどうやったらとれるかと考えているその横顔は、ほんのりと紅潮している。彼女が邪魔にして小さい膝が見えるほどにたくしあげている華やかな衣の色も、うるさがってひじでしきりにかきあげる髪の色も、まぶしい光の中でよくわからない。彼女は光に包まれている。彼女が光を放っている。

ありありと浮かんできた、その幻のまぶしさにぼんやりと見とれていたルシアスの前に、グラックスが黙って次の手紙を、すべらせるようにしておいた。緑がかった厚手の紙が、テーブルの表面にこすれてかすかな音をたてた。

グラックスおじさま
きのう、おとうさまがとてもこわいおはなしを、るるにきかせました。
とおい、くらいもりのなかで、わるい人たちにみなごろしになった、へいしたちのはなしです。
おとうさまはかなしそうにはなしてくださいましたが、るるは、もっとききたかったです。
どきどきして、わすれないように、おとうとにもはなしてきかせました。
わたしもいっぱいつけくわえて、もっとこわいはなしにしました。
そうしたら、おとうとは、こわがってないたので、お母さまに、るるはしかられました。
るるが、おわびをすると、お母さまは、わらってるるにきすをして、しんじゅのゆびわをくださいました。
とてもきれいなゆびわなので、うれしくてたまらないけれど、もう、おとうとにはなすのはやめます。
おじさまは、こわいはなしはおきらいですか。
るるが、こんどはなしてあげます。

「お母さまがお父上に聞いたのは、ずっと昔、ゲルマニアの森で全滅した軍団の話だったようですな」グラックスは眉を上げた。「私に話して下さった時には、とてもそうは思えない、途方もない話になっておりましたが」
「母の母…僕の祖母とはどういう人だったのでしょう?」ルシアスはほほえんで尋ねた。「そう言えば母は、島に来てからよく、小さい真珠の指輪をひとつだけ、小指にはめていることが多かった。でも、祖母の話はしたことがありませんから、どういう人だったのか、母からはまったく僕は聞いていなくて」
「さよう」グラックスはゆっくりと考えるように、指で手紙のはしにふれた。「めだたない、ものしずかな方でしたな。あなたのよりもっと色の薄い、白く見えるほどの、まっすぐな金髪の、色白な。声はささやくように低く、おとなしい、淋しげな方だった。早くに、亡くなられたのです。お母さまがまだ小さい時に」
「それは変だな」ルシアスは首をかしげた。「僕は島でもよく祖母の噂を聞いたのですが、面白おかしい伝説のように。祖父をないがしろにして若い男たちと遊び歩いてばかりいた、奔放な妻だったと」
グラックスは苦笑した。どこか、いたずらっぽく、人の悪そうな目のきらめきが、ふと少年のようだった。彼は黙って立ち上がって、箱の上にかがみこみ、少し下の方から、うす緑色の紐で結んだ巻物を出して、さらさらとほどいて広げた。
「十七、八の頃のお手紙ですかな」彼はさりげない調子で言った。

(2)浮気な女

大好きな、魅力あふれる、わたくしのグラックスおじさま
ご存じですこと?このごろローマの郊外で広まっているという、それは楽しいお話を。
わたくしがいつもいつも、お父さまのおそばにいますでしょ?どこにでもご一緒して、むつまじげにしているものですから、田舎者の中にはわたくしを亡くなったお母さまとまちがえている愚か者が多いのですって。
それもね、ほら、このごろ、わたくしがヴァレスさまやらファルコさまやら、いろんな方と元気いっぱいおつきあいしているものですから、皇帝の妻は大変な浮気者という話になっているらしいのです。
何だかすてき。笑えてしまう。
もう、それを聞いてからというもの、侍女たちに聞いたり、お年をめした伯母さま方にうかがったりして、わたくし、せいぜい老けてみえる化粧やら、地味な衣装の着こなしやらに挑戦してみておりますのよ。ちょっと古めかしいかたちに眉を引いたり、昔風に目の回りを細く色で塗ったりすると、それはもうすごい効果で、鏡を見ても自分で思わず吹き出してしまいそうになるほど。
声も、工夫してみておりますの。ねえ、おじさま、すごみのある低くて太い中年女のしわがれ声をわたくしが出すの、お聞きになりたくなくて?もう、完璧に出せますの、そういう声を、わたくし、いつでも。あんまりやっておられると、お声がもとに戻らなくなりますわ、とカルミオンはじめ侍女たちは心配して、この頃毎晩わたくしにせっせとハチミツや甘草入りのお茶を飲ませてくれています。
お父さまったらねえ、ちっとも何もお気づきでないの。人前でわたくしが、ことさららしく肩によりそって汗をふいてさしあげたりすると、楽しそうにただ、にこにこしておいでだわ。
属州から来た総督などに、わたくしがすまして「妻といたしましては」とか言っていても、お父さまったら、「ん?何か言ったかね?」とおっしゃったりして。
きっと、お母さまにもこんな風で、おそばで何かおっしゃっても、耳にも入れてらっしゃらなかったのね。それで、お母さまもだんだんあんなにひっそりと黙ってほほえんでだけいらっしゃるようになったのよ、きっと。
「後世に、お母さまの悪いお噂がたちますよ」って、ファルコやヴァレスが心配するふりをいたしますから、わたくし言ってやりました。お母さまはこうやって、お父さまをないがしろにして、若い男を手玉にとって、遊び回りなさったらよかったのだわ。あんなにひっそり、優しく生きて、つつましく亡くなってしまわれるより、この方がずっとよくはなくて?そんな女だったと後世に伝わる方が、悲しくないわ。お母さまだって、きっとお喜びだわ。
「あなたには、かないませんな」とファルコが言うの。
ファルコもヴァレスも切れ者と評判だし、二人ともわたくしより年上なのですけれど、ふしぎなものねえ、おじさま、中年女のまねをするようになってから、気分までわたくし、何だか余裕が出てきてしまったのか、二人がまるで年下のように思えてしまうのです。おかしゅうございましょう?
他にも何人もの若者と遊んで、じらせて、楽しんでいます。誰とどこまでつきあったのか、いちいち覚えてもいないくらいよ。あのマキシマスのことなんて、もちろん、とっくに忘れてしまいました。おじさま、どうか、ご安心なさってね。
弟は少しあきれているようです。けれども何も言いません。ほっとしているようでもありますし、何だか淋しいようでもあります。つくづく、はっきりしない子ですわ。あれで、皇帝になどなれるものなのでしょうかしら。おじさまはどうお思いになりまして?

「その、そこに書かれているマキシマスと申しますのが」グラックスはゆっくり言った。「例の、その男です。コモドゥス皇帝に逆らって、剣闘士奴隷の身に落とされていた元将軍…」
「あなた方が反乱のリーダーにされようとした」ルシアスはつけ加えた。
「リーダーだったと申せましょうな」グラックスはうなずいた。「その役目を果たして彼は亡くなりました」
皮肉な調子はなかった。グラックスの声には、あるおごそかな響きがあった。不本意ながらも尊敬を払わずにはいられないとでもいうような。ルシアスは、あらためて手紙を見つめ、軽くひざをのり出した。
「この人は母の恋人だったのですか?この時にはもう別れていたのですね?」
「もともとが、ただの属州出身の一兵士にすぎません」つぶやくようにグラックスは言った。「時の皇帝…あなたのお祖父さまのマルクス・アウレリウスは、彼をかわいがってローマの市民権も与えておやりになっていたようだが、しょせん、皇女相手に恋のできる身分の者ではなかった」
「では、母の火遊びだったと?」
グラックスの目が、ふとまっすぐにルシアスを見た。
「なぜ、火遊びと思われる?」
「この手紙だと、そう見えませんか?」
グラックスはしばらく黙っていた。それから、おもむろに、わざとらしくせきばらいした。「長旅でお疲れのことでしょう」おだやかに彼は言った。「夕食の支度もととのったようでございますから、今宵はゆるりと、おくつろぎを」

(3)青い夜の中で

青みがかった夜の空に、白い雲が浮かんでいる。
昼間の雲の白さとはちがうが、それでいて、それはやはり、白としか言いようのない色なのだった。
高く上って小さくなった月は、空全体を強い光で輝かせ、テラスの向こうに黒々と沈む巨大な木々の梢を、そのまたかなたに遠く広がる都の家の屋根屋根を、静かに照らし出している。
「美しいけど、何だか気味が悪いなあ」
長靴を脱ぎ捨てたはだしの足で、なめらかな床の上を行きつ戻りつしていたタキトゥスが、ふと足をとめて、そう言った。
「何だい?」寝台の上に座って、荷物を整理していたルシアスは目を上げてそちらを見た。「どうした?」
「この都ですよ。この家も」タキトゥスは首を縮めるようにして、そっと回りを見回した。「吹く風には亡霊の泣き声がするし、ただよう香の香りにも、血のにおいがまじっている」
ルシアスはあきれたように、若い従者を見つめた。「いつから詩人になったんだ?」
「ルシアスさま、悪いことは言いませんて」タキトゥスはひそひそ声になった。「お母さまのお手紙なんか、あのじいさんにまかせちまって、とっとと島へ帰りましょうや。魚がうまいし、空気はいいし。汐の匂いをかぎたいですよ!それとも、ひょっとして、ルシアスさま、この都がお好きなんですか?この屋敷も?」

「わからない」ルシアスは深々と息を吸い込んで、夜風の伝えてくるざわめきに耳をすませた。「幼い頃は住んでいたはずなのに、何ひとつ覚えていない。何とふしぎな都だろう。ふしぎな屋敷なんだろう。なあ、タキトゥス。母上は、この都で育って、ずっと暮らしていたんだよ。風のきめさえちがうような、あの強い陽射しと汐の匂いのする島で、ここのことを思い出すことが母はどのくらいあったのかしら?一度も口にはしなかったが、なつかしいとは」
吐息をついてタキトゥスは、ルシアスのそばにやって来て、どしんと寝椅子に腰を下ろした。「お母さまは思い出したくもなかったんですよ、こんな都のことなんか。あの島で暮らして、そりゃもう、どんなにお幸せだったか。ご病気になられたのは残念だったけど、島のいい空気だったから、あれだけ長生きなさったんだ。ここだと、そうは行かなかったでしょうよ」
ルシアスは微笑した。「グラックスは長生きしてるじゃないか。ここの館の主は」
「あいつは若い男の精を吸い取って生きてやがるんです」タキトゥスは声をひそめた。「あのセイアヌスとか言ってたやつ…今ごろきっと、あのじいさん、あいつの身体を抱いて」彼は両手で怪しげなしぐさをして見せた。「身体中、なで回して、なめ回してますぜ。あの若者は身もだえして…」
「よさないか、タキトゥス」ルシアスは我慢できずに、声を上げて笑い出した。「何という妄想にふけっているんだ?」
「妄想なんかじゃありませんたら」タキトゥスは言い張った。「ねえ、ここはそういう都なんですよ。甘く見てたらおれたちまで、その内にきっと頭が変になっちまいます、ルシアスさま」

グラックスは書き物をしていた手をとめて、寝台に横たわっているセイアヌスをながめた。
「身体が長くなったな」彼は言った。
セイアヌスは顔だけを横に向けてグラックスを見た。
「初めてここに来た頃は、その寝台の半分もないかと思ったが」
セイアヌスは両手をふとんの上で、胸の上に重ねるようにして、いつもの静かな笑顔を見せた。
「もう十年より前になるか。無理もない」グラックスは壁にかかったどっしりとしたつづれ織りの、水辺で草をはむ馬たちの、やや色あせてきた青い目をじっとながめた。「そのつづれ織りを作らせたばかりの時だったのを、よく覚えている。おまえはその馬が好きで、掃除をしながら、よく見とれていた。特にその左はしの一頭はなれて立っている大きな馬が好きだと言ったな。覚えているか」
「はい」セイアヌスはほほえんだ。
「おまえが好きだからと思ってついそのままにしている内に、織物の色もすっかりさめた」
「あなたはお変わりになりません」
「年よりはなかなか変わらぬものだ。特に皮肉屋で嫌われ者の年よりときてはなおさらな」グラックスは笑った。ペンをとり直しながら彼は言った。「おまえがそこでそうやって寝ていてくれると、なぜか書き物が進む」そして首を振った。「しかし、おまえには迷惑な話であろう。私の気まぐれでいつもいきなり呼び出されてはな」
「いつでもどうぞお呼び下さいますように」セイアヌスはていねいに言った。「夜は仕事はございませんし、お役にたてれば私はうれしゅうございます」
夜風が静かに吹き込んできた。窓の外の木の間でフクロウがやわらかく鳴いた。
グラックスは指の間でペンを回し、宙を見つめて考え込んだ。「あの若者を、どう思うね?」
「ルシアスさまのことですね?」
「そうだ。おまえの率直な目で見た意見を聞かせてほしい」
「さわやかな、よい方です」セイアヌスは天井を見たまま、ゆっくりと言った。「お考えも深くていらっしゃる」
「皇帝にならなかったのを、残念と思うかね?」
「あの方にとっては、今の方がお幸せなのだと思います」
「かもしれぬ」グラックスは低く笑った。「あれの母親を私は、幼い時からよく知っていた」思い出すように彼は言った。「父親もな。これは愚かな男であった。だが、人柄はよかった。何より、自分が愚かだということを知っておったし、それを苦にしてもおらなんだ。それはめったに人が持てる美徳ではない。そう思わぬか、セイアヌス?」
「そう思います」セイアヌスの声は、ほんの少し眠そうだった。

タキトゥスがいびきをかいている。
ルシアスはふと、起き上がって、寝台を下り、テラスに出た。
月の光が木々の茂みの表面を銀色に輝かせているが、その下の方は暖かな黒々と深い闇だ。
ここは二階か、ひょっとしたら三階?階段が入り組んでいたので、ルシアスはよくわからなかった。
ここでもまた、木々の向こうに、高い塔や巨大な丸屋根が月の光を浴びて、どこまでも町が広がっているのがわかった。あちこちに赤く灯がともり、うねって流れて行く川がとぎれとぎれに光って見える。
母の、軽やかな笑い声をルシアスは聞いたような気がした。
その時、目の下の暗い木蔭に、ふと白いものが動くのが見えてどきりとした。まるで、小さい少女が衣をひるがえして庭をかけぬけて行ったようだったからだ。
だが、ぐぇっぐぇっと鳴く低いのどかな声がして、それはどうやら池から迷い出たアヒルの一団らしかった。太って大きな黒い影が、ひそめた声でののしりながら杖をふり回して、よたよたとその後を追って行くのは、アヒルの世話係の女らしい。
この屋敷にも女はいるのか。ルシアスは少しほほえんで、よりかかっていた手すりから離れた。

グラックスはペンを置き、インクが乾いたかどうかたしかめてから、小さいあくびをし、痛む身体のふしぶしを伸ばしながら立ち上がった。
「セイアヌス」彼は低く声をかけた。「眠ったか?」
返事はなかった。
グラックスは寝台に近づき、やわらかく閉じた唇に微笑をうかべて眠っている若者の、栗色がかった金髪をそっと手のひらでなでると、机に戻って灯を吹き消し、月光の降るテラスを静かに、自分の寝室の方へと歩いて行った。

(4)皇帝のお気に入り

「昨夜はよくおやすみになれましたか?」グラックスは濃緑のトーガのすそをゆったりと手でさばいて寝椅子に腰を下ろしながら、落ちついた目でルシアスとタキトゥスを見た。「寝室はお気にめしていただけましたかな?」
「最高のへやでした」ルシアスは思った通りを言った。「壁のイルカと海神の絵も実にみごとだ。すばらしいモザイクですね」
「西風の間と呼んでおります」グラックスは笑った。「お母さまも、あのモザイクがお好きで、お泊りになる時は、いつもあのへやを選ばれていました」
「こちらによくお邪魔したのですか、母は?」
「まだお小さい頃ですが。大人になられてからも、あなたを連れて何度かおいでになりましたが、何しろご多忙でおいででしたからな」
キャシオがワインを運んで来た。うやうやしく一礼して出て行く彼を見送ってルシアスは「あの方が秘書なのですか」と聞いてみた。
「秘書も執事も、別におるのですが」グラックスは軽く上体をよじって、ワインのグラスを置きながら、よく整えた白い眉を動かした。「キャシオとセイアヌスは、いわば私の息子のようなものでしてな」
「マキシマスという、母の恋人だったその男も」ルシアスはグラスを手にしたまま、寝椅子にもたれた。「僕の祖父のアウレリウス皇帝から、息子のようにかわいがられていたとか。侍女にそう聞いたことがあります」
「そのようですな」
「母もそれで、彼にひかれて行ったのでしょうか?敬愛する父が、それほどに評価している男はどんな人間だろうと思って?」
グラックスはほほえんだ。「お母さまがその男と初めてお会いになった時、彼はまだ子どもといっていいほどの少年でした」彼は言った。「むろん、お母さまも幼くていらした」そう言いながら彼は立ち上がって、昨日のままに机の上に置かれていた、なめらかなやわらかい光沢を放っている白い箱のふたを開けた。

「十一、二歳の頃のお母さまの美しさは、まるで輝くようでした」グラックスは注意深く、いくつかの書字板を箱から取り出しながら、ゆっくりと言った。「性格もいちだんと明るく…そして強くもなられた。この手紙は侍女の悪口。こちらのはお父上の批判。亡くなった母上をもっと大切にしてほしかったという不満がおありだったようだ」
「祖母は不幸な死に方を?」
グラックスは静かに首を振った。
「安らかに、穏やかに亡くなられた。あの方らしい最期でした。そのせいでしょうかな、お母さまも、しっかりとそのことをうけとめられて、淋しげなご様子はお見せにはならなかった。むしろ、せいいっぱいに明るくふるまってコモドゥスを…弟君をなぐさめようとしておいでだった。そのせいもあってか、彼はあなたのお母さまを、まるで母親のように慕ったのです」
「叔父も、ここに来たことがあるのですか?」
「よくお見えでしたよ。お二人で、あの階段や、広間の噴水の回りをかけ回って遊んでおられた。コモドゥスは臆病な、癇の強い子でしたな。いつも自分を見せまいとして、妙におどおどと人の顔色をうかがっているようなところがあった。だが、お母さまといる時は、本当に幸せそうでした」
「祖父のアウレリウスは、叔父をうとんじていたのですか?そう聞いたこともあるのですが」

「私の目には、特にそうは見えなかった」グラックスは苦笑した。
「あなたのお母さまは私をたぬきおやじと、のたまわった由ですが、私に言わせれば、お祖父さまのアウレリウスこそ、相当なくわせものですぞ。あれは、したたかな皇帝でした。元老院を敵に回して、のらりくらりと言いぬけて、決してしっぽをつかませなんだ。ふた言目には身体が弱いが口癖でしたが、それも眉つばものだと、友人のガイウス議員とよく言い合っておったものです。ここぞという時、みごとに決まって体調が悪くなられていましたからな。カミソリのように頭が切れた。本の世界にばかりかまけて世事にはうといと見せかけていて、国家予算や税の計算をあれほどとっさにすばやくやってのける皇帝を、私は見たことがありません。繊細そうな外見で得をしておられたが、気性も激しく荒々しかった。残酷さも冷酷さも充分に持ち合わせておいでだった。どちらも支配者たる者には決して欠かすことのできない資質ですな」
グラックスはためすように目ばたきしてルシアスを見つめ、ルシアスはほほえみ返した。
「いたずら好きで、乱暴な冗談を人に言いかけて喜ぶところがおありだった」グラックスは続けた。「あれほど細かい心遣いをされるのに、いったいなぜと思うほど、野人のように無神経で鈍感な部分もおありでした。おだやかな口調と女のような優しい目で、人の肺腑をえぐるような鋭いことをよくおっしゃったものだ。愛する、近しい者にほど、そうなさっていたところがある」
「おまえのお祖父さまは、大きな子どものような方だったわ、と母は一度なつかしそうに僕に向かって言ったことがありますよ」ルシアスはワインをすすった。「そういうことだったのでしょうか」
「そうかもしれませぬな。お母さまはお祖父さまに何を言われても平気で、のびのびと甘えておられたから。だがコモドゥスはそうではなかったのでしょう。傷つきやすいお子でしたから、手きびしい言葉をかけられると、父親にうとんじられていると思ったのかもしれません。お母さまはよく、彼を抱きしめて、なぐさめておられたものだ。母上がいなくても、父上がいなくても、私がいるからいいでしょう、と言いきかせておいでだった」グラックスはかすかな音をたてて、数枚の書字板を机の上においた。「これは、その頃のお手紙です」

(5)わかりきった未来

素敵なグラックスおじさま
毎日、雨が降りつづきます。
昨日も、今日も、やみません。
おへやの窓の外の屋根のはしから、きらきら光るしずくがつながって落ちてくるのを、ながめているのも、もう飽きました。
とても、とても、退屈です。
侍女たちの話は、雨のしずくよりももっとつまらない。宮廷でどなたがお話がお上手だの、お姿がすてきだの、新しい香料をつけておられたの、ヴァレスさまの髪がきれいだの、ファルコさまはとても頭がよいだのと。
「わたくし、ガイウスおじさまのはげ頭の方が好き」と言ったら、侍女たちは皆、大笑いします。「ルッシラさまはまだねんねで、男の方に興味がなくていらっしゃるから、そんなことをおっしゃいますのね」などと、わかったようなことを言って、わたくしを子ども扱いしようとする。
「男は頭の外側より中身の方が肝心と思っているだけ」と答えてやったら、「あらあ!じゃ、ファルコさまの方がお好きなんだあ!」ってまた大騒ぎ。バカじゃないかしら、あの子たちって。
「おまえたちに頭が切れるなんて言われているのでは、おまえたち以下の頭ということになるじゃないの。そんな男に興味はないわ」と言ってやると、皆、またまた大笑いして、ルッシラさまにはかなわない、どうしてそんなに賢くていらっしゃるのでしょ、って。それって、わたくしが自分たち以下だと言っていることになるって、わたくしが言ったばかりなのに、わかってないの。それとも、わかって言っているのかしら?
この女たちって、羊みたいに鈍感で、山羊みたいに強情で、それが群をなしているのだから、たまったものではないわ、おじさま。
恐いのは、こんな者たちの中にいると、いやだいやだと思いながらも、自分も次第に同じようになってしまいそうなこと。

「早くご結婚なさって、おうちの切り盛りをなさいませ」と、ギリシャから来たカルミオンという侍女は申します。
まだ子どもなのだけど、まじめくさって変なことを言うから、この子だけはちょっと面白いの。「でも、ヴァレスさまやファルコさまはだめです。ヴァレスさまは、自分のことしかお話にならないし、ファルコさまはルッシラさまの顔色ばかり見ておいでになるから」なんて、案外鋭いことを言うし。
わたくし、この子はお気に入りなのですけど、それを他の侍女たちには知らせないように気をつけています。だって、おじさま、この侍女たちって、わたくしのことを子ども扱いしてバカにしたがる一方で、わたくしの気に入られようとして、おたがい、殺しあいかねないのよ。
特に、亡くなられたお母さまにお仕えしていた者たちが、わたくしに仕えるようになってから、もとからわたくしに仕えていた者たちとの間で、わたくしの奪い合いがすごいの。朝なんて、うっかり放っておいたら、二つの集団のどちらがわたくしの髪を結うのかで争ったあげく、右半分と左半分とわたくしの頭をちがう髪型にしてしまいかねないほどなのよ。
いっそ、新しい髪型として人々の評判になってやろうかしら、と、わたくし、鏡の中の、わたくしの両側でわたくしの髪をひっぱって、櫛ですいたり、こてをあてたりしながら、たがいに目から火花を散らしあっている侍女たちを見て思っています。
何でもう、こんなにつまらないことにしか、この子たちは生きがいを見いだせないのでしょう?
そう言っているわたくし自身、つい面白くて、一番器量自慢の侍女に「おまえの顔って、まのびして、お父さまの愛馬そっくり」と言って泣かせたり、手際の悪い、のろまな子に「仕事がていねいだし、おまえを見ていると落ちつくわ」と言って天にものぼるほど喜ばせたり、それでつけあがって、へまをして皆にいじめられるのを見て楽しんだり、もう日々どんどん、性格が悪くなっていくのが自分でもよくわかります。
だって、それほど他愛もないのよ。はたち近い子も中にはいるのに、まるでわたくしにあやつられるまま。
もう、たまらないわ。こんな子たちの中にいるのって。
おじさま、気晴らしに今度一度、元老院に連れて行って下さいません?男の子に化けて行ったら、きっと誰にもわかりませんわ。

わたくしの大好きなグラックスおじさま
今日の元老院での、おじさまとガイウス議員のご質問は、とても鋭いと思いました。
お父さまも、とても困っていらしたわね。帰ってからも、「あの二人にはまったく油断ができないよ。よく調査しているし、わいろも脅迫もきかないし」と言っておられたわ。知らない方が見たら、弱々しい世間知らずの皇帝を、おじさまたちがいじめているように見えるわね。父も、そう見せたがっているみたいでしたけど、わたくしは、父も面白がっていることをよく知っておりましたから、同情なんていたしませんでした。
「それで、どっちかやってごらんになった?わいろでも脅迫でも」と、お尋ねしたら、お父さまったら、かよわい支配者のふりをたちまちかなぐり捨てて、大きな声でお笑いになり、「おまえなら、あの二人のどっちにどっちが効果的と思うかね、私のかわいい小鳩は?」って、目を細めて聞き返されたわ。
「そうね、でも、そんなことより、まずは、あのお二人が、お互いの悪口をかげで言い合っているというデマを流して、疑心暗鬼にさせ、お互いに不信を抱かせて仲たがいさせるのが、一番にやってみるべきことだと思うわ」と、思った通りをまっすぐに申し上げたら、お父さまは「これは、おまえの将来は何とも楽しみだねえ」とおっしゃいました。
ご心配なくと言いたいわ。だって、おじさま、わたくしに将来なんてあるのかしら?兵士になって戦えるのでもない、元老院に入れるわけでもない。どなたかの妻になって、今、弟の世話をしているように子育てをして、今、侍女たちをバカにしているように使用人をうまくこき使って、そしてだんだん年をとって、腰が曲がった小さなおばあさんになって、お母さまのようにひっそりと死ぬのだわ。そして一年もたてば、わたくしが何を考えていたかなんて、どなたも知らないし、気にもかけなくなるのです。
お父さまは、死後の評判を気になさる。暴君や愚帝と言われたくないと。でも、悪い評判でも残るならその方がまだましではないかしら。生きていたのかいなかったのかさえも忘れられてしまうより、悪いことでも愚かなことでも人の記憶に残るだけ、まだましというものでは?
そんなことを思っていると、何だかすっかり気持ちがめいってしまいました。
こんな気持ちを、お父さまにお話しても、上手にはぐらかされて、その後、変にけむたがられるだけだってわかっているし。
弟はわたくしのことを強いと思って、たよりきっているから、弱音なんてとても吐けないし。

ルシアスは、ぼんやりと書字板を手でもてあそんだ。
「母はたしかに、子どもだった」彼はつぶやいた。「でも、孤独だったのですね。まるで、大人のように」
「われわれ大人は、忘れがちです。あなたのような若い方でさえも」グラックスは言った。「子どもたちがしばしば、大人よりずっと年老いて孤独な気分になることを。それはさておき、コモドゥスはともかくとして、父親のアウレリウス皇帝も、さよう、お母さまがあなたにおっしゃった通り、どこやら大きな子どものようなところがおありでしたからな。お母さまは、もうその頃にはそのことに、どこかで気づいておられたのかもしれません」
「それで、あなたに打ち明けた?」
グラックスは苦笑した。「私が皮肉屋で冷たくて、何ものにも心を動かされることがないのを、お母さまはきっと安心しておられたのでしょうな。それも、すぐれた支配者の条件だが、そのような私の特徴を逆手にとって、まことに都合のよい使い道を見つけられたとも言えましょうか。壁に向かって話すように、私に向かって語られた。それも、手紙だけでした。お会いした時は決して、こんな話はなさらなんだ。いつも陽気で他愛ない、ざれごとばかりを言っておられた」
「あなたも返事は書かれなかった?」
「短い、さりげない、型どおりのもの以外は」グラックスは笑った。「おそらくは、それだからお母さまは、こうしてずっといつまでも、私に手紙を書いて下さったのでしょうな」

(6)もう一人の母

セイアヌスが入って来て、グラックスに何かささやいた。グラックスはうなずいて、ルシアスとタキトゥスを見た。
「食事はこのへやに運ばせてもよろしいですかな?」
「もちろんです」ルシアスはうなずいた。「お手数をかけて申し訳ありません。タキトゥス、おまえもお手伝いして来い」
退屈していたらしいタキトゥスは、すぐに立ち上がった。ルシアスはちょっととまどっているらしいセイアヌスを見て、「こき使ってやって下さい」と言った。「力仕事では誰にも負けませんから」
セイアヌスは黙っていつもの、やわらかい微笑を浮かべると一礼し、優雅なしぐさで身体を引いてタキトゥスを先に立て、いっしょにへやを出て行った。

「彼は僕を知ってるんですか?」
二人を見送ってルシアスはグラックスに聞いた。
「セイアヌスですか?」グラックスはけげんそうにした。「なぜそんなことを思われました?」
「何だかずいぶん、なつかしそうに僕を見る気がするんです」
グラックスは困ったものだというように首を振った。
「あれの癖でしてな。妙に人恋しげな顔をするものだから、こちらが落ちつかぬ気持ちになることがある。今はああして、まあ幸福に過ごしている方なのですが、不幸な生い立ちの子でしてな。母親が金に困って、私の慰み物にしてくれと、この屋敷に売りつけに来たのです。あれがまだ、十になるかならずの頃でした」
ルシアスは返事に困った。「それはまた。よかったですね…買ってやって…そんな母親から」
「さて。どんなものですかな」グラックスは皮肉な笑みを浮かべた。
「骨と皮ばかりで、垢にまみれて、このままだと死んでしまうと思ったし、そんな母親といるよりはと思ったのですが、母親も結局、ここに住みつきましてな。何か仕事をくれと言って。やむを得ぬから今はアヒルの番をさせております」
「何と」ルシアスは思わず口を開いた。昨夜、アヒルたちを追って、月光の庭をよたよたと横切って行った、太った女のぶかっこうな黒い影が思い出された。どこか奇妙な幻想のような、滑稽な悪夢のような。「普通、そんな女は…子どもを売った母親は、その場にとどまったりはしないと思いますが」
「さよう。よくよくせっぱつまっておったのでしょう」グラックスは金茶色の皿に盛った蜜漬けの木の実を一つつまんで口に運んだ。「まあ、ごらんになればわかりますが、醜い、愚かな女です。仕事を与える人もなく、身体を売ろうにも買おうという相手はいなかったのでしょう。売れるのは、自分より美しく賢い子ども以外にはなかった。あの女としては、頭をしぼって、ない知恵をふるった必死の取り引きだったのでしょう…金はいらぬから、ここで働かせてくれ、食うものをくれればいいと言ったので、その言い分が面白くて、聞き入れてやったのです」

ふとルシアスは、自分でも説明のつかない激しい憎悪をグラックスに対して感じた。
「面白いと思われたのは」押し殺した声で彼は言った。「そんな母子を一つ屋根の下において毎日ながめていることだったのではありませんか?」
彼の鋭い口調は、老議員の涼しい、底知れぬ穏やかさをたたえた目にうけとめられ、吸い込まれてしまったようだった。
「お母さまに似ておいでですな」ゆっくりとグラックスは言った。「そういう時のお言葉の調子は」
ルシアスは黙って目を伏せた。
「セイアヌスは、さほど苦にしてはおりません」グラックスは静かに言った。「特に互いを避けているというわけでもありませんが、あれと母親が顔を合わせることはめったにありません。何しろ、広い屋敷ですしな。あれも、キャシオも、解放奴隷で今は自由の身なのです。その気になれば、この屋敷から去ることもできるし、母親を買うこともできます。だが、おそらくあの女は、ここで、奴隷でいる方が幸せでしょう。自分が売った子どもに買われて、その世話になって生きるより。ここでは、老いて、病気になった奴隷でも、死ぬまで面倒は見ますしな」
「あなたはそれが、二人にとって親切なことと思われているのですか?」ルシアスは机の上の母の手紙に目を落としたまま、低い声で聞いた。「二人はそれで幸福だとお考えなのでしょうか?」
「自由に生きる力のない、愚かで弱い者にとっては、自由ほど残酷なものはないのです。そうお思いになったことは?」グラックスは、つつしんで教えを乞うといった、わざとらしい謙虚な調子を露骨に声ににじませていた。「あなただったら、どうなされた?そんな汚らわしい母親は軽蔑すると説教して、二人を玄関払いなさいますか?そして、あの女が貧民街に行って、あの子が三日で性病にかかって一年たらずで死ぬような売春をさせるにまかせましたかな?少々、金を与えたところで、あのような女の落ちて行く先は早晩そこだと決まっております。それとも、人間の強さと気高さをお信じになって、運を天にまかせてごらんになりますか?ご高説をぜひ、うけたまわりたい。私がまちがっているかもしれませんからな」
「母はあなたが、決して人を愛さない人だとよく言っていました」ルシアスはつぶやいた。「そのわけが少しわかった気がします」
「お母さまはそれに続けて、きっとおっしゃったはずだ」グラックスは落ちついて返した。「だから私は彼が好きだ、だから私は彼を信じる、と。ちがいますかな、ルシアスさま?」
ルシアスは唇をかんで返事をしなかった。
その通りだったからだ。

しばらく沈黙が続いたあとで、グラックスは片手をのばして、箱の中から新しい紙片を取り出した。大きさのちがう、いくつかのぶあつい紙の束が、くるくるとひとつに小さく巻かれて、ばら色の紐で結んである。
「お母さまがその男と…マキシマスと初めて会った頃のお手紙です」気持ちを切りかえるようにグラックスはそう言って、机の上で両手の指を組み合わせた。
ルシアスは黙って手紙をひきよせて、細くやわらかな、紅色の紐をほどいた。

第三章 時を超えて

(1)のっぽの少年兵

大好きなおじさま
今日、父のおともをして、郊外の駐屯地に行った時、そこで実に何とも…これは、あのファルコさまの口ぐせで、おもしろいからわたくしもこのごろよく使うの…変な子に会いました。
名前はマキシマスとか言ったと思うわ。ひょろひょろっと背の高い、手足の長い、何だかのそっとした感じの子。まじめそうだから、からかったらすごくおもしろそうです。
わたくしのことを珍しそうに見てました。きれいな女の子なんて、きっと見たことないのでしょう。
わたくしが笑うと、笑いかえしました。何て大胆なのでしょう。しかめっつらをしてやると、ふしぎそうにしていました。
ちなみに…これもファルコさまの口ぐせ!…お父さまは、このふとどき者のことを、とてもお好きみたい。
「いい子だろ?」なんて目をほそめておっしゃるの。
どこが!と思ったけど、お父さまの趣味ってときどき変なの知ってますから、私もにっこり笑って「本当に」と申し上げたわ。
「優秀な子なのだよ。語学や歴史や哲学を教えてやっているのだが」とお父さまったらそれはもう楽しそうにしておられるの。「とても頭がいいのだ、信じられないくらいにね」
そうは見えなかったけど。全然。
おじさま、わたくし、このごろ、馬にのるのを覚えたの。お父さまが灰色のアフリカ産のおとなしい軍馬を下さったの。遠乗りをしたいから、今度また、駐屯地に行ってみようと思うわ。そして、あの子がどのくらい優秀なのか、テストしてやります。

すてきで最高のグラックスおじさま
マキシマスっておかしい!
今日、わたくし、また侍女たちをつれて、駐屯地に行ったの。とび出して来た士官に「マキシマスを出しなさい」と、のっけから、高びしゃに言ったわ。
「は、彼は今、訓練中で、誰か他の者ではお役にたちませんでしょうか」と士官はなまいきなことを言うの。
「他の者ではだめだから、彼と名ざしているのですよ」と、わたくしがほほえんで申しますと、士官はぴかぴか光るよろいの背中をまるめて、コガネムシのようにかしこまって、ころげて行きました。
まもなく、あの子が連れられてきました。今日も泥だらけで、もそっとして、どこがこんなにうっとうしいのかしらと、つくづく上から下まで見たら、何と、ひげまでのびてました。まだ子どもなのに、なまいきよね。
よく見ると、顔だちはそんなに悪くもないの。きれいに洗って、髪もかたちよく刈って、立派な着物を着せたなら、それなりに見られるようにもなりそうなのに。そう思ってわたくしがじろじろながめていると、彼が口を開いて「私をお呼びでございましょうか、姫君」と言ったわ。
それがもう、ひどいスペインなまりなのよね。わたくし、思わず、吹き出してしまった。
「それはどこのことば?」と聞くと、今度はまわりの侍女たちも一度にどっと笑いました。
あの子は、けげんそうにまばたきしてました。まつ毛もけっこう長いのよ。
「答えなさい。どこから来たの?」とまた言うと、人なつこそうに笑って「スペインです、姫君」って。
「それは聞かなくてもわかるけど」と、わたくしがすまして言ったので、また侍女たちが大笑い。遠くにいた兵士たちまで何ごとだろうかと、こちらを見てたわ。

わたくしは馬からとび下り、手づなを彼に放り投げました。彼はちゃんとそれをうけとめて、ほれぼれと馬を見ながら「いい馬だなあ」とつぶやきました。わたくしが目の前にいるのによ。馬の方に気をとられているの。
「おまえと話をしたくてね」とわたくしは、年よりの伯母たちの口調をまねて、せいいっぱいえらそうに申しました。「どこか静かな場所があるかしら?」
彼はうしろの侍女たちに目をやりました。「皆さまもごいっしょですか?」
あいかわらず、ひどいなまりでしたけれど、何だかもうあまり気にならなかったわ。おもしろくて、かわいらしくさえ聞こえたの。やわらかい、あたたかい声のせいかしら。
「あの者たちはどうでもよろしいの」と、わたくしはちらとふり返りながら申しました。「勝手にどこかさがして時間をつぶすわ。おまえと二人の場所があればよいのです」
彼はうなずき、落ちついて「かしこまりました」と言いました。そして、よくとおる声で、同じぐらいの年ごろの少年兵を呼びよせて手づなを渡し、「こちらへどうぞ」と言って、わたくしを木かげへ案内しました。

そこは、兵士たちのいる広場や兵舎が見わたせて、とてもおもしろい、ながめのいい場所です。人々からもわたくしたちがよく見えます。けれども、声は聞こえません。よい場所をえらぶと感心しました。でも、口に出しては、彼がわたくしに座るようにすすめた石のベンチが固くて冷たいわと文句を言いました。
彼は手を上げて兵士の一人を呼び、すりきれたクッションとマントを持ってこさせました。わたくしはその上にすわりながら、かけ去って行く兵士を見て、「おまえはえらいの?」と聞きました。「ずいぶん気軽に命令するのね。あの者たちは部下ですか?」
「皆、友だちです、姫君」と彼は答えました。「姫君のためですから、私たちは皆、何でもいたします」
「父はおまえが大変優秀だと言っていました」わたくしはベンチのそばに立ったままの彼を見上げて言いました。「すわりなさい。そしてわたくしの質問に答えるのです」
彼はおとなしくすわりました。ベンチのはしに、わたくしから距離をおいて。ヴァレスさまやファルコさまは大胆でものおじしないと評判の方々ですけど、そんな貴族の男の人でも、わたくしの前ではちょっとは態度が変わるのに、彼は何だかちっとも緊張している風がなく、まるで平気で、わたくしが何を聞くのか、何をするのか、とてもおもしろがっているようにさえ見えました。
「父のことが好きですか?」わたくしは彼を見ずに広場の方に顔を向けたまま、ギリシャ語で聞きました。

彼は、わたくしの質問をまちがいなく聞き取ったか自分でたしかめているように、ちょっと間をおいてから、ていねいに、「はい、そうです」と正確な発音のギリシャ語で答えました。
「どのように好きですか?」
彼はしばらく考えていてから、前よりもたどたどしい発音で「風が吹くと、いっせいに、木の葉がゆれます」と言いました。
この子バカかしらと思ってわたくしがじっと見つめますと、彼はまた、あやしげな発音でもどかしそうに、「雲が、ちぎれて飛びます」と言うの。
何だかいっしょうけんめいだし、かわいそうだから、うなずいてやりますと、ほっと安心したように笑いながら、「雨がふってきて、あたりがぬれます」と今度は少しおちついてきたのか、きれいな発音になりました。
「わかりました」わたくしはうなずいてやりました。「おまえは、ギリシャ語のほうがよく聞きとれる。きっと、なまりがないからね」
「そう言ってもらえて、私は非常に喜びます」彼は本当にうれしそうに笑って、ていねいなギリシャ語でそう答えました。
「おまえの年はいくつなのですか」わたくしも、同じことばでつづけました。
「十四歳になりました」彼はちょっと宙を見つめて疑問文の言い方をおさらいしているように小さく唇を動かしてから、思いきったように聞きました。「あなたは何歳になったのですか」
「十二歳になりました」わたくしは答えて、つづけました。「おまえには家族はいるのですか」
「私には死んだ父と、生きている母と、たくさんの兄弟がいます。あなたは兄弟を持っているのですか」
さっきから、言い方がぶしつけすぎるとか、変だから直しなさいとか、言ってやりたいところがあちこちあるのですけれど、わたくしも、それがちゃんと言えるほどにはギリシャ語をよく知らないから、くやしかったです。
「わたくしには、一人の弟がいます」
「彼は、いくつですか」
「彼は七つです」
「あなたは彼が好きですか」
「はい。わたくしは大変彼を好きです」
「どのように好きですか」

わたくしは弟の黒いぱっちりした目や、くるくるうずまく巻き毛を思い出して、思わずにっこり笑いました。
「とても、かわいいのです」わたくしはギリシャ語でつづけました。「わたくしがいなければ、彼は何もできません」
「身体が弱いのですか」
「気も弱いし、ぐずです」わたくしは笑い出しました。
「あなたの言っていることが本当だと信じることは、私には大変困難です」彼は言いました。
「それなら、わたくしは今度彼をつれてきます。そうしたら、あなたは自分でそれを見ることが可能となるでしょう」
こんな風にいつまでも会話がつづきました。どうしてあんなに自分が何度も笑ったのかわかりません。「何をあんなに笑っておられたのですか」と侍女たちが帰りに聞くので、「わたくし、そんなに笑っていた?」と聞くと、「鈴をふるようなお声が何度も、広場のこちら側まで届いてまいりましたわ」だって。
「だってもう、あの子、めちゃくちゃ変なのだもの」わたくしは申しました。

帰ってさっそく弟にも話して聞かせてやりました。「子どものくせにひげなんかのばして、泥だらけで、馬や汗の匂いがして臭いの。スペインなまりがひどくって、ギリシャ語よりも聞き取りにくかったわ」
そしてわたくしが、彼のスペインなまりとか、「雲がちぎれて、飛びます」とか、まねしてしゃべってみせたので、弟は笑って笑って涙を流しました。

読み終わって目を上げたルシアスに向かって、グラックスは静かに首を振った。
「お母さまは気がつかれなかったのだ。マキシマスは、あなたのお祖父さま…アウレリウス皇帝のことをどう思うかと聞かれて、聞きとれなかったのではありません。しゃべり方がわからなくて、知っている限りの文章をとにかく口にしたのともちがう。彼は、表現しようとしたのです。アウレリウス皇帝が自分にとって、どういう存在か。彼といる時、自分がどのように感じるのかを」
ルシアスはあらためて、手紙の文字に目を落とした。
「風が吹くと、いっせいに木の葉がゆれる…」
「雲がちぎれて飛び、雨が大地をぬらす」グラックスは低く続けた。「お会いしていると、そのように心が騒ぎ、迷いが晴れ、魂がうるおってくると、彼はおそらく言いたかったのです」

(2)泣かないで

大好きな、すてきなグラックスおじさま
マキシマスをいじめて遊んでいます。
だって、とてもおもしろいのだもの。
泥だらけでいるところを見はからって、腕輪をはずしてとたのむと、わたくしがさしのばした手をこわごわとって、とめがねをはずそうとするのを、だんだん少しづつわたくしが手をひいて行くと、気がつかないで、だんだんわたくしにくっついてくるの。それで、あの子の身体がわたくしの衣にくっついたところで、きゃっと叫んで、衣が汚れたわとさわぐの。彼があわててわびて泥をおとそうとするのをはねのけて、もういいわ、悲しいわ、これはお母さまからいただいた形見の帯なのに、とか言っている内に、本当に悲しくなって、わたくしは泣き出してしまうの。全然、そんな帯なんかじゃないのに、本当にお母さまにいただいたような気がして、お母さまのことを思い出して。

でも、泣きながらおかしいの。困ってしまっている彼を指の間からこっそり見ていると、わくわくして、どきどきして、泣きながらも笑いたくなってとても困るわ。
あの子はひざまずいてわたくしを見上げているの。どうしたらいいのだろうと一生けんめい考えながら。わたくしも一生けんめい考えているのよ。もっと彼をいじめるにはどうしたらいいのかしらって。
わたくしたちは同時に口を開きました。「ぬらして洗ったって…」とわたくしが言いかけた時、あの子が「乾かしたらひょっとしたら…」って言ったの。もう、おかしくってたまらなくって、わたくし両手で顔をおおってしゃくり上げていました。泣くのと笑うのって、何て似ているのかしら、おじさま。ちっとも区別がつかないわ。
「泣かないで」彼がとてもやさしく言うの。
あんまりやさしい声だから、ふわっとあたたかくて、気持ちがいいから、わたくしはもう一度聞きたくなって、またしくしくと泣いてみせるの。
「泣かないで」彼がまたそっと言うの。「きっと何とかしてあげる」
汚れると思っているから、彼は本当に指先でそっとつまむようにして、わたくしの手首のあたりを支えているだけ。わたくしはそのことに何だかとても腹がたちます。自分にか、この子にか。この子にわたくしを抱きしめさせたいのに、それはとってもむずかしいことになってしまったの。だって、この子は今、わたくしをこれ以上泥で汚すまいとして一生けんめいになっているのだもの。
このやり方は失敗だったわ。そう思うとまた腹がたってくる。この子だって、絶対に、わたくしのことを抱いて、なぐさめたいと思ってるはずなのに、どうしてこうなっちゃったんでしょう。
結局、わたくしはその帯を彼にあずけて帰ったわ。彼はそばの小川の冷たい水で一生けんめい手を洗って泥を落として、まっ赤になった指で大切そうにわたくしの帯をたたんで持って行きました。かわりに、よろいを結ぶひもを貸してくれました。まだ使っていない新しいきれいな、うすもも色のひも。わたくしはそれを、ベッドの上の横木にかけて、指にからめてもてあそびながら、今度はどうやって彼を困らせてやろうかと考えています。

ルシアスは苦笑するしかなかった。
「けっこう、弱いものいじめが好きだったんだなあ」思わずそうつぶやいた。
「お母さまがですか?それはちがう」グラックスはまじめな顔で首を振り、トーガの袖をかきあげて、ゆっくりとワインをすすった。「あの方は…お母さまは侍女にも、奴隷に対しても、決して弱い者や愚かな者をあざけったり傷つけたりはなさらなかった。むしろ、たいそう、お優しかった。皆からバカにされている侍女に優しい言葉をかけてやったのも、ご本心からでしょう。その侍女が自分が気に入られていると思って、今度は他の侍女をさげすみはじめたから、お母さまは深く傷つき、お怒りになって、その侍女が仲間に傷つけられるのを放置した。だが、それを手紙に書いたり、話したりなさる時には、はじめから自分もその侍女をいじめたくて面白半分に優しい言葉をかけたのだと言ってしまわれる…お母さまはそういう方でした。裏切られた、傷つけられた、というお怒りが深いほど、それに見合った悪いことを自分がしたかのように人には見せるのが、お母さまの誇りでした。被害者になるよりは加害者になる方が、愚か者であるよりは悪人である方が、恥ではないと感じておられたのでしょう。常に自分を弱く愚かに見せることで相手を手玉にとってきた、お父上の余裕はまだおありではなかったのです」
「だって、じゃ、これは何です?」ルシアスも首を振って、机の上の手紙を指さした。「自分の立場をいいことに、まじめなかわいそうな兵士をもてあそんで楽しんでいるとしか見えませんよ」
「無理もない」グラックスは言った。「この手紙をお母さまからいただいた時は、私も若くて、あなたと同じようなことを考えました。しかし、すぐに気がついた。これは少なくとも、弱いものいじめではないことに。おわかりになりませんか?この男が、お母さまをまったく恐がってはいないことが」
ルシアスはグラックスを見つめ、ついでもう一度手紙をひきよせて、文字の連なりに目を走らせた。

「そう言われれば、その通りだな」彼はつぶやいた。「服を汚して泣かせたことに心をいためてはいるけれど、皇女のきげんをそこねたことや、罰されるかもしれないことを気にする気配はみじんもない」
「さよう。自分はただの一兵士。お母さまは皇帝の娘。それでもおそらく、この男の目には、お母さまは守ってやらなければならない、ただの小さな女の子でしかなかった」
「母も、それに気がついていたのでしょうね」
「何かちがうということは、はっきり感じておられたはずです」グラックスは答えた。「お父上も、母上も、もちろん弟君も含めて、誰もそのようにお母さまを扱った者はいなかった。お母さまは、まったく初めての体験に、とまどわれ、不安にも不快にもなられる一方、それが珍しくて、楽しくてたまらなかったのでしょう。だから、彼がどんな人間なのか、確かめたくて試したくてしかたがなかった。挑戦?甘え?冒険?何と呼ぶのも可能でしょうが、今まで自分が目にしたこともない人間を目にして、お母さまはその正体を知りたくて、彼のすべてに興味がおありで、その強さや優しさをあれこれとためしておいでになったのではないでしょうか」

「マキシマス…どういう少年だったのだろう」ルシアスはつぶやいた。「あなたはお会いになったのですよね?」
「話をしたのは一度だけ。間近に見たのも、その時だけです」短い白いあごひげを、グラックスはゆっくりさすった。「彼はその時、もう大人でした、むろん。三十にはなっておったでしょう。たくましい、静かな、人を圧する威厳にみちた男でした。古びた紺のマントを羽織って、火のそばに座っていた。その時、彼は奴隷でした。しかし、王者のようでした」
「母はなぜ彼と結婚しなかったのです?」ルシアスは首をかしげた。「兵士とはいえ、祖父のお気に入りだったのでしょう?皇太子や皇女の気まぐれで、身分の低い者がとりたてられて高い身分に上ることは、そう珍しいことではないのに」ルシアスはグラックスを見た。「母と、この人とは結ばれたのでしょう?結婚はしなくても…心と、身体は」
グラックスはうなずいた。「おそらくは。この一年か二年の後に。そして、お母さまが十七、八の頃に二人は別れ、それぞれがまもなく別の相手と結婚した」
「二年か三年、つきあっていた」
「そうなりますな」
「二人はなぜ、その恋を、結婚というかたちで実らせようと努力しなかったのでしょうか」
「それほど珍しい話ではない」グラックスは落ちついた、やや冷やかな声で言った。「若者の心と身体は燃え上がるのも、さめるのも早い。先のことなど考えずに求めあい、そして燃えつき、何もかもが夢のように消え去ってしまう」
「わかります。でも何だか、この二人がそんな愛し方をしたとは、僕には思えないな」ルシアスはひとり言のようにつぶやいた。「お話を聞いているとますます、この二人なら、何とかしたはずだって気がするんです。どんな苦しい中でも二人の愛を育てて、そして…」
「結婚し、ルシアスさま、あなたはこの世にいなかった」グラックスは歯切れいい、涼しい声で、勢いこんで熱っぽくなるルシアスのことばをしめくくった。「そうなることをお望みなので?そうなってほしかったとおっしゃるのですか?」
ルシアスはちょっとむっとし、黙ったまま、次の手紙を引き寄せた。

(3)とまどいとときめき

わたくしの大切なグラックスおじさま
侍女たちが、マキシマスにキスしろってうるさいの。
「きっとびっくりして目を白黒させますわよ」「あら、いつものようにぼうっとしているだけだと思うわ」「感動して固まって動けなくなるんじゃない?」って、めいめい好きなこと言って、やかましいったらありません。
どうしてか、彼は侍女たちにとても人気があるのよね。あんまり話もしたことないのに、皆がよるとさわると彼の話をしては、くすくす笑ってばかりいます。
「いつもほこりや泥まみれで、お風呂に入れてごしごしこすってやりたくなりますわ」と眉をひそめるきれい好きな子もいますし、「細くてひょろひょろしているのに、ルッシラさまを軽々と息も整えずに抱き上げるなんて、貴族の殿方とはまるでちがう。強いんですわねえ」と、ため息まじりに感心する子もいます。
「はずみでまちがったふりをして、一度キスしてごらんなさいませ」とけしかけたのは、セレネという、金髪のいたずら好きな侍女でした。
そうしたら皆もう大喜び!「それはもう、絶対に、一度やってごらんになりませんと」って、誰もかれもが熱に浮かされたように、すっかり乗り気になってしまったわ。
「とてもきれいで、かたちのいい唇ですもの。ルッシラさま、ちゃんとごらんになってますか?」「そのくらいのごほうびを時にはあげないと、あの子あんまりかわいそうですわ。ルッシラさまにあんなにいつも、いいようにおもちゃにされて」なんて。
侍女たちは、わたくしが彼の魅力に全然気がついていないと思っているらしいの。そして、わたくしがわがままで、意地悪で、彼をいじめてばかりいると言って、真剣に彼に同情し、もっと彼を大切にするようにと、わたくしに忠告するのです。
そう見えてもしかたがないけれど。たしかにそうかもしれないけれど。
彼の魅力なんて、わたくしにはわかりませんもの。どこがいいのかなんて、ちっとも。だけど、いじめてなんかいないわ。どうしてそれが、わからないのかしら。説明する気にもなれないけれど。
侍女たちがそうやって騒いでいるのを見ていると、何だかどきどきしてきます。まだずっと小さいころ、お友だちの女の子と、お庭で小鳥や野リスがえさを食べにくるのをこっそり見ていて、その間抜けなお友だちが興奮して身動きしたりささやいたりするたび、あっ、気づいて逃げてしまうじゃないのと、その子を思いきりつねりたくなった、あの時の気持ちを思い出します。

あの子のことがわからないの。やさしいのかバカなのか、強いのか意地悪なのか。そんなことさえも、どうしても。
頑丈で素朴で、たたいてもころがしてもこわれない、ちっとも華やかでもないし、めだたない、どこにでもある品物のようでいて、失ったらもう二度と手に入らない高級品のような、そんな気がして、大切にしていいのか、粗末に扱っていいのかさえわからない。
ヴァレスさまだのファルコさまだの、その他の方だの、ふだんおつきあいしている身分の高い方々などと、比べものにならないくらい高貴な感じさえすることがある。
本当にあの子がバカで間抜けで、いいえ、ただ普通の子であっても、そこそこ賢い、できのよい子であっても、それだったら、わたくしは身分だけでもずっと上の人間ですから、あの子に優しくしてやります。大切にしなければいけないと思います。
でも、あの子と話したり、いっしょにいたりすると、わたくしは自分があの子を思いやる立場にいるような気がしないの。
自分がそれほど、あの子よりえらいのだと、どうしても思えない。
意地悪を言ったりしたりしても、彼はすぐわたくしのねらいや考えを見抜きます。すぐに慣れて、ちっとも困っていないのがわかります。そんなそぶりは見せもしないけれど、わたくしにはわかるの。
ときどき、わたくしを見ている目が笑っているようです。ちっとも笑っていなくって、まじめな顔で静かにわたくしを見ているだけなのに。
大きな木の枝が、光の中でゆっくりと風にゆれているようです。
見抜かれてもちっとも恐くない。笑われてもかまわない。大きな腕で抱きしめられているようで、とても気持ちが安らかになる。
でも、本当に、そんな人がこの世にいるの?

わたくしが時々、あらっ?と思うのは、他の貴族の方々は、自分のかしこさや鋭さをわたくしに見せることができると、得意そうだし、わたくしがそれに気がつくとうれしそうになさるのに、マキシマスはちがうどころか、逆なのです。
あら、この子、気づいてたんだわ、わたくしの本心を、と思うことがあるでしょ。わたくしの嘘なんて、とっくに見破っていたのね、とか。
そのことだけでもびっくりするのに、わたくしがそれに気づいたとわかると、あの子、はっきり、どぎまぎするの。
恥ずかしがるのは、わたくしの方のはずでしょ。でもまるで、わたくしの身代わりのように、あの子がうろたえるのよ。
自分がそんなにぬけめのない、カンのいい人間で、わたくしの心を見ぬいていたことが、とてもみにくいことのように。
それとも、わたくしがそんな意地悪で嘘つきだということを、恥ずかしがっているみたい。
「どうしておまえがそんなにあわてるの?」って、一度聞いてやりました。
あの子はとても情けない顔をして、目を伏せました。
「嘘をついたのはわたくしよ。嘘だってこと、おまえはわかっていたんでしょう?」
彼はもじもじして、あっちこっちに目をそらしていました。
本当に変な子です。
ああ、おじさま。
その時は笑いを必死でこらえていたのに、どうして、こうして書いていたら涙があふれてくるのかしら。
嘘つきで意地悪なわたくしのことを、わたくし以上に恥ずかしがったりするなんて、何てバカな子なんでしょう。
あの子の前にいると、他の人といる時と、世界が裏返しになってしまうよう。人の気持ちを見ぬいたり、他の人の考えの先回りをしたり、ものごとの裏を読んだり、だまされなかったり、損をしなかったりすることが、とてもつまらない、みにくい、恥ずかしいことのように思えてきてしまう。

侍女たちは、こんなわたくしの気持ちにちっとも気がついていません。
それとも、気づいているのかしら。
ときどき、彼女たちの皆ではないまでも何人かは、わざとバカなことをして彼をいやがらせて、わたくしとの仲をさこうとしているのではないかしらと、わたくし考えてしまうことがあるわ。
あの子のそばに侍女たちが行くと、何かつまらないことをして彼にいやがられるのではないかと思って、実際、わたくし、気が気ではないの。
あの子はいつも、とても静かな、やさしい、のんびりした顔で侍女たちと接しています。
何を考えているかわかったものではないわ、と見ていてわたくしはひやひやします。
火のように怒っていても、氷のようにさめきっていても、それをさりげなく包みかくしてしまうことが、あの子にはきっとできるはずなのだもの。
とても誇り高いし、怒らせたらおしまいなのに。
でも、そう思って、もういなくなったかもしれないと思ってふりかえると、いつもいてくれて笑いかけてくれる。心配しなくても、こんなことぐらいでいなくなったりはしませんよ、傷ついたりはしませんよ、と言ってくれているみたいに。
ただ、そこにいるだけで、そう言ってくれているのが聞こえるよう。
でも、それも何もかも、わたくしが勝手に思いこんでいるだけなのかしら?
両手であの子の顔をはさんで、あの目をのぞきこんで、「何を考えているの?」と聞きたいわ。「わたくしのことを本当はどう思っているの?」って。
でも、そんなこと、恐くてできない。
他の人にだったら平気でできると思うけど、あの子にだけはそんなこと、とてもできはしない。

(4)弟の意見

グラックスおじさま
弟が、あのろくでなしのマキシマスのことを、いろいろ聞きたがって、とても困ります。
わたくしが駐屯地から帰ってくるのを待ちかねて、「今日はマキシマスはいた?何したの?」だって。
「まあ、もう少しお待ちなさい。熱いお風呂に入って、ほこりを落として、髪も洗って結いなおしてから」とわたくしが言うと、つまらなそうに「何だよォ」なんて言うの。
そして、お食事がおわって、お父さまがご本をお読みにおへやにひきあげてしまわれると、もうわたくしのストールをひっぱって、「それで?あいつ今日、何したのさ?」って。
「ええ、それがね、もうあんなにバカだとは思わなかったの」と言うと、弟は「ふうん」とうれしそうに目を輝かせます。
「ローマには三階だてや五階だての家もいっぱいあるのよって言ったら、動くんですか?って聞くのよ」
「えっ」と弟はぽかんとし、「どうしてそんなこと考えつくんだろう」とふしぎそうにします。
「何かまちがったって、自分でもわかったんじゃないかな、わたくしがすごく変な顔したから。言いたがらないのを無理に、どうしてそんなこと聞いたのか、言わせてみたら、どうもね、あの子、高い建物っていったら、戦争の時に、敵の城壁によせて行ってくっつける攻撃塔しか知らなかったみたいよ」
「そんなのがあるの?」
「お父さまがいつか絵を描いて説明して下さったでしょ?」
「ああ…ふうん、あいつ、そんなの本当に見たことあるんだ」
「わたくしがあんまり笑ったので、自分でも笑ってたわ。それでその後、ローマの町では大きな鳥にかごをつるして、えらい人は皆、空を飛んでるのよって話した時も、ほんとかなあ?って顔して、じっとわたくしを見ていたわ」
「腹たたないのかな?そんなにからかわれて。恥ずかしくないんだろうか?」
「平気みたい。鈍いのかもね。あっ、でもそうだわ、この前、わたくしの前で着がえなくてはならなくなった時は、ちょっとだけいやそうだった」
「何それ?何だよ?」
弟は身をのり出します。
「わたくしを抱いて柵をのりこえさせてくれていた時、腰布をひっかけて破いたの。わたくしの目の前で巻きなおすから、おまえ向こうを向いたらどうなの、って言ってやったら、姫君から目を離したら、いざという時にお守りできません、あなたが向こうを向かれるのがこんな時はふつうじゃないんですか、って赤くなりながら、むきになって、なまいき言うのよ」
「ふうん、ほんとになまいきなやつ」と言ってから弟は考えこみ、「でもさ、理屈はあってない?」と恐る恐る言うの。
「あら、そうかしら?」と、わたくしが考えるふりすると弟は、「ちがうかなあ?」って言いながら、わたくしの顔色をうかがっているの。
「あの子の味方をするの?」と笑うと、弟は「そいつだって、いつもいつもまちがってばかりいるわけじゃないだろう」って。
「まあ、何よ!?」と怒ったふりをしてるけど、わたくし、何だかうれしいの。
弟もそれがわかるのか、うれしそうに、「もっとまだ、他の話ない?」と、わたくしのことを、せきたてるのよ。

「お母さまはこうおっしゃっておられるが」グラックスは眉を上げて、ルシアスが読み終わって机の上においた手紙を軽く持ち上げながら言った。「真実かどうかわかりませんな」
「と、いうと?」
「と、言いますのは」グラックスは手紙を再び机の上においた。「あの頃、コモドゥスはここに遊びに来た時に、私にこぼしたことがある。このごろの姉上ときたら、毎日寝てもさめても、マキシマス、マキシマスと彼のことばかり。何の話をしていても結局は彼の話題になってしまう、と」
「じゃ、母はこう書いているけれど?」
「弟が聞きたがっていたのではなくて、お母さまが話したかっただけかもしれない。ただ、そのことにご自分では気がついておられなかった」皮肉に目を細めてグラックスはつぶやいた。「恋する者にはありがちなこと」
そしてすぐまた、首を振った。
「とはいえ、それはわからない。実際はやはりコモドゥスが聞きたくてお母さまに話をねだり、自分ではそれに気づかなかったか。あるいは気づいていても、それを認めるのが恥ずかしかったか。マキシマスにそれほどに興味を抱いているということを」
「叔父は母が好きだったから、マキシマスに母を奪われるのではと心配したということはないのでしょうか?」
グラックスは静かに答えた。
「何とも申せませんな。コモドゥスの心は私にはわからない。少年だった時から死ぬまでずっと。闇をのぞくように、何も見えなかった」

(5)生者たちよりも鮮やかに

「おまえはどう思うんだい、タキトゥス?」
夕食は今夜もまた、一見つつましいように見えて、手がこんでいて豪勢だった。しかし、旅で疲れていた昨日とちがって、今日はたしかにグラックスが気にしていたようにやや量が少なめだと感じたルシアスとタキトゥスは、こっそりと食卓から桃や焼き菓子をくすねて来ていた。ひきとった「西風の間」の寝椅子に転がって二人でそれをかじりながら、ルシアスは今日、母の手紙で読んだことやグラックスと話したことのあれこれをタキトゥスに話して聞かせ、その上で尋ねたのだった。「おまえの考えを聞かせろよ」
「その、のぞきこんでもまっ暗やみの叔父さんのことですか?」
「それもあるけど、母とマキシマスのことだよ。どうして結婚しなかったのかなあ?グラックスが言ったように、そうなってたら僕はこの世に生まれてなかった。それは確かに変な気がする。でも、それはそれとしてさ。あの二人、いっしょになりたくはなかったんだろうか?」
「なりたくなかったんじゃないですか?」タキトゥスはあっさり言った。「少なくとも、マキシマスっていう、そいつの方は」
「え、何でだ?」
タキトゥスは桃をかじって、考え込んだ。「何でですかね。時間かな」
「時間?おまえ時々、面白いこと言うな」ルシアスは笑った。「時間とこれと、いったい何の関係がある?」

「だって、そいつはきっと、めちゃくちゃ忙しかったと思うんです」タキトゥスは言った。「かけ出しの兵士なんでしょ?初めて船に乗った水夫見習いみたいなもんじゃないですか。しかも、けっこう皆にも信頼されてて、言うことを聞く仲間もいたっていうことは、それだけ仕事や、考えなくちゃならないことがいっぱいあったって思うんです。お母さまは言っちゃ何だが、帰って、ベッドのわきにたらした紐見て、彼のこと思い出して、ああしようとかこうしようとか思えるってことは、そんだけ、お暇があるんですよ。そいつの方は、きっと毎日、上官にこき使われ、仲間のめんどうを見て、泥だらけで、疲れて、ばったり寝床に倒れこんでたんじゃないすか?お母さまのことをうっとり考えて思い出すような暇が第一、なかったと思うなあ」
「逆かもしれない」ルシアスは言った。「そんな大変な毎日だからこそ、母の美しさとやさしさが、闇の中の光のように思い出されて」言いながらルシアスは自分で笑い出した。「ううん、たしかに無理があるなあ。降参だ、タキトゥス。たしかに母はあんまり彼にやさしくしていたようには見えないし。でもな、母がちょくちょく会いに来ることは彼にはそんなに迷惑だったと思うかい?」
「いや、そんなことはないでしょうさ。息抜きや、気晴らしにはなってたと思うし、んなこと言っちゃ失礼だけど、一人で何する時なんかには思い出してたと思います。だけど、お母さまを手に入れようとか、いっしょになろうとか、そんなこと考えるようなやつじゃない気がする」
「えらくきっぱり言うんだな」ルシアスはあきれた。「なぜだい?」

「だってルシアスさま」タキトゥスは言った。「聞いてると、その男、マキシマスっていうやつ、何かえらく、まともそうな気がするじゃないですか」
「まともそう?」
「すっごく普通の、ちゃんとした…おれのおふくろに言わせたら『船をまかせても赤ん坊をまかせても心配ない』とか、『テーブルのどっち側に座ったらいいか、いつもちゃんとわかってる』とか、そういう感じのやつってんですかね」
「そうかもしれない」ルシアスは言った。「それで?」
「そういう、まともなやつってのは、皇女と結婚しようとか、結婚できるかしれないなんて、ふつう考えませんたら」
「なぜ?」
「なぜって、できるわけないですから。できるわけないこと願って、くよくよ考えこむタイプにゃ見えないな、聞いてると」
「母のことをすごく好きでもか?」
「ほんとにそんなに好きだったんですかね?」タキトゥスは焼き菓子をほおばりながら、疑わしげな顔をした。
「おいおい」ルシアスは笑った。「言ってくれるね」
「そいつがバカじゃなかったら、むしろ、お母さまのことを好きにならないように用心してたはずですよ。どんなにおきれいでも、素敵だと思っても」
「そうかなあ?」ルシアスは考えこんだ。「母の手紙を読んでると、彼もけっこう、楽しんでいるように見えるんだが」
「だから、そこでさ」タキトゥスは床の上から足を引き上げて、寝椅子の上に身体をのばした。
「何がだ?」
「そんなに楽しそうだったってことは、やつが真剣じゃなかった証拠です」
「そうかい?」
「本当にお母さまのことが死ぬほど好きで、でも、手の届く望みなんてまったくないことわかってたら、そんなに楽しそうにしてますかね?漁師のフリオが船主の娘に恋した時なんて、自分みたいな貧乏人の嫁に来てくれるはずないってんで、運よく娘と会ったって二人で泣いたりけんかしたりで、やつはいつでも夜中までやけ酒かっくらってたじゃないすか。あんなもんすよ、本気で好きで、でもいっしょにはなれない相手とは、会うたび、見るたび、苦しいばっかし」
「それはそうかもしれないな」
「だからね、落ちついてたんですって」タキトゥスは言い張った。「仕事と思ってつきあってたんですよ、お母さまとは、ずっと」

「それを母が勝手に好かれてるって思いこんで、のぼせ上がっただけってか?」
「お母さまだって、さきざき、そいつといっしょになるとか、そんなことまでは思ってらっしゃらなかったんじゃ…ただ、そいつのことが珍しくって…なんかこう、気にかかってただけで」
「そうかなあ?」ルシアスは吐息をついた。「そんなことぐらいで、それこそ、寝たりまでするか?母は皇女だったんだぞ。それなりの覚悟はいるだろう、どっちにも」
「だから、あのじいさんが言ったのは、そのことでしょ?」タキトゥスは身をのり出した。「身体が燃えて求めあい、すぐにさめて忘れちまう、それが若さというものだ…とか何とか」
「結局、母の火遊びだったってわけか」
「ルシアスさまだって最初はそうおっしゃってましたよ」タキトゥスは思い出させた。「あのじいさんの前で。でしょ?」
「うん、たしかにな、そう言ったよ」ルシアスはすべすべした絹のクッションに金髪の頭を押しつけた。「だけど、今はなぜかそう思えない。ふしぎだ、タキトゥス、僕にはそのマキシマスという少年が見えるような気がする。その頃の母もだ。二人とも、とても生き生きしてる。とっくに死んでいるはずなのに、二人とも、生きている僕らより、ずっと力強く、あざやかだよ」

タキトゥスは舌打ちして、見えない敵をにらむように、テラスの方へと目をやった。
「この都のせいでさ」彼はぶつぶつ言った。「はなっから、おれが言ってるじゃないですか。ここじゃ、亡霊の方が生き生きしてら。生きている連中の方が幻みたいで、変にもう、影が薄い。あのじいさんにしても、セイアヌスだの、キャシオだのって、あの連中も…いいや、おれたちまでが、何だかだんだん、自分が誰だか、何してるんだか、わからなくなっちまいそうじゃありませんか、ここに長くいればいるほど」
「そうだな」ルシアスはつぶやいた。「おまえは知ってるかい、タキトゥス。この都は島にいた時の母みたいだ。僕の知ってる母上のようだ。美しくて、やさしかった。でも、その前にいると、いつも自分が誰なのか、何をしようとしているのか、わからなくなっていく気が僕はした。それが幸せなのかそうでないのか、悲しいのか楽しいのか、いつもわからなかったが、母は人をそんな気持ちにさせる人なのだと、ずっと僕は思っていたんだ。賢くて、静かで、気まぐれで、明るくて。苦しみも、怒りも、洗い流してしまったような、穏やかで軽やかな顔と、澄んだ涼しい目をいつもしていた。手紙の中の母は、全然、そうじゃない。赤い熱い血が手足のすみずみにまで流れ、目は荒々しい喜びや憎しみに輝いている。淋しさも、不安も、怒りも、びっくりするほど、あざやかでまぶしい。まるで、別の人間だ。それでいて、母そのものなんだよ」

第四章 皇女ルッシラの悲しみ

(1)女神と言われて

わたくしの大切なグラックスおじさま
マキシマスといっしょにいると、いろんなものが、これまでとはちがって見えてくることがあります。
お父さまのことも、ローマの国や都のことも。
ずいぶん前のことになります。二人で野原を歩いている時、「おまえは好きな人がいるの?」と聞いたら、うっとり澄んだ、恥ずかしそうな目になって「はい」とはっきり言いました。
「どんな子?わたくしよりきれい?」と申しましたら、びっくりしたように目を見はってわたくしを見ていましたが、すぐ笑い出して、前よりもはっきり、ちょっといたずらっぽく「いいえ」と答えました。
「そう。わたくしの知ってる子?」
彼はうなずきました。目がおかしそうに笑っています。
「セレネかしら?カルミオン?」わたくしは多分ちがうと思っていましたから、気軽に侍女たちの名を並べました。
「おつきの方々ではありません」彼は言い、それからちょっと間をおいて「女の方ではありません」と言いました。
「父ね!?」ようやく気づいて、拍子抜けしてわたくしは笑いころげてしまいました。「まあ、おまえったら、何てもうバカなんでしょう!?」
「いけませんか?」彼はちょっと怒ったようにわたくしを見ました。「そんなにおかしいことではないと思います。全然、ふつうですよ」
「そうよね」わたくしは歩きつづけながら彼の腕をとって、ひきよせてやりました。彼はされるままになっていましたが、大切なことを笑われて、少しきげんが悪そうでした。
「父のどこが、そんなにいいの?ただのおかしな、おじさんよ」
彼はわたくしを横目で見ましたが、もう落ちついて、わたくしが怒らせようとしていることに気づいていて、それ以上腹はたてませんでした。
「どこが好きなのか教えて」わたくしはまた言いました。
「おそばにいると、気持ちが安らかになって」彼はしぶしぶ、小さな声で言いました。大事にかわいがっている子猫を、乱暴な友だちに見せなくてはならなくなった、気の弱い女の子のようでした。「いろんなことが、きちんと見えてくるんです。何もかも、全部わかって下さっているから、安心して生きられるんです」
「それでは答えになっていないわ」わたくしは申しました。「父はどんな人なの?どこがいいと思うの?」
彼は困ったようにわたくしを見つめました。「でも、そんなこと、ご存じではないのですか?」
わたくしはちょっとむっとして、「聞き返さないで、答えなさい」と言いました。
すると彼は長いこと黙っていてから、「今度よく考えておきます」と言いました。「きっとお返事いたしますから、お許しを」
「もう、いいのよ」わたくしは変に悲しい、やさしい気持ちになって申しました。「聞いて悪かったわ。忘れてね」
彼は、ほっとしたように、うれしそうにわたくしを見ました。
どうしてあの時、わたくしは、あんなに悲しかったのでしょう?
「おまえは、幸せね」わたくしは言いました。「とても幸せなのですね」

今思うと、あの時が、二人の初めてのキスでした。
気がつくと、彼の頭がわたくしの頭に近づいていて、唇がそっとやさしく、わたくしの右側の耳の、少し上の髪にふれたのです。
わたくしが顔を回すと、彼の唇がわたくしのこめかみからほおにかけて軽く押しあてられました。そして最後に唇にふれて、すぐ離れました。
まるで、自分が幸せであるおわびをしたようでした。

それ以後二度と、父のことをわたくしは彼に聞いていません。
ローマのことはもっとうまく話せました。
父のことを話した時とちがって、ローマを彼がとても大切に思っていることを、わたくしが前もって気づいていたからかもしれません。

むろん、誰だってそれには気づくわ。
ローマという名を聞くたびに、彼の目は輝いたから。
わたくしがローマの都のことをしゃべるのを聞くのが、彼はとても好きでした。
わたくしは時々調子にのって、嘘をしゃべりました。飼いならされたトラやライオンが通りをぞろぞろ歩いているとか、大きな病院があって、びんの中の薬につけた手や足が売ってあって、けがで手足をなくしても、それを買ってつけられるとか。
彼は目をきらきらさせて聞いていて、わたくしが途中で「おまえ、嘘だってわかって聞いてるでしょ?」と言うと、夢からさめたように目ばたきして、それから笑って首を振ります。
「とぼけるのはおやめなさい」と問いつめると、「でも、きっといつかそうなると思って」と真剣な声で言うのです。「このままローマが栄えて行って、どんどん文化が広がって行って、世界の人が皆、もっと豊かに幸福になったら、そうしたら…」
「ローマにだって不幸はあるわ」わたくしは小さい声で言います。「話さなかっただけよ、わたくしが。みにくいところだって、ほんとは、たくさん」
「知ってます」彼はうなずきました。「でも、それはいつか、なくせます。きっと、私たちは、そういうものを、なくせます」
「お父さまが、そう言ったの?」
わたくしは笑いながら聞きます。父の口調とそっくりのしゃべり方を彼がしたので、すぐわかったのです。
彼はうなずきます。「それに…」
「それに?」
「あなたみたいに美しくて幸福そうで、賢い人がいるんだもの」まじめな声で彼は言います。「そんな人を生み出せるんだもの。それだけでもすばらしい都だってことがわかります。ローマが…」
わたくしは目を見はります。
そんな風に考えたことはありませんでした。
わたくしの美しさや賢さは、わたくしのものとばかり思っていました。
「まあ」と言って、わたくしは思わず両手でたしかめるように、自分の腕や胸をなでおろしました。
「それではこれは皆、ローマが生み出したもの?あの都がつくり出したもの?そう思って見ていたのですか?」
「ローマが作った女神がいたら」彼は小声で言いました。「きっと、あなたのようでしょう」
「ずっとそう思っていたの?初めてわたくしを見た時から?」
彼はまぶしそうにわたくしを見て、はっきり、「はい」と言いました。

わたくしはそう言われて、とてもふしぎな気持ちがしたの。
何と言っていいのかわからなかったし、どう感じたかもうまく言えません。
とてもうれしいような気もしたし、何だかバカにされたようでもあって、笑いたいか怒りたいか、泣きたいのか、よくわからなかった。
帰って、宮殿の鏡で、自分の姿を初めて見るような気持ちで見つめました。
侍女たちが手をかけて結い上げてくれた髪に光っている金粉と髪かざり。
虹のように腰にまとわる、すきとおった絹のストール。
そして、わたくし自身の姿。
このすべてに、あの子がローマを見たのだと思うと、ふしぎなおののきが走り、身体がひきしまるような気がしました。
わたくしは、それにふさわしい人間でしょうか。

人々は我々を通してローマを見る。ローマの偉大さや気高さを我々は身をもって示さなければならない。我々のひとりひとりがローマなのだ。ローマは我々の外にあるのではなく、我々自身の中にある。
お父さまが兵士たちにそう演説しておられるのを聞いたことがあります。
これはローマの恥辱であり、すなわち我々の恥辱である、とおじさまも元老院でよくおっしゃる。
そういうことばの本当の意味があの時、初めてわかった気がしました。
鏡の前でわたくしはいつまでも、夢中で自分を見つめていました。
こんなに熱心に、心をこめて、自分のことを見つめたことはありませんでした。

それなのに、おじさま。
会うとやっぱり、わたくしは、あの子をいじめてしまいます。
ローマの名を辱めないような生き方をしよう、ローマの名にふさわしい自分であろうとして、他の人たちの前で正しく立派にふるまおうとすればするほど、あの子の前では、嘘をついたりからかったり、自分でもびっくりするほど、突然悪い子になってしまいます。
ときどき、あの子の胸にしがみつき、肩に顔を押しつけて、わたくしは申します。
「ごめんなさい。あなたの言ったことを忘れているわけではないのよ。でも、とても、むずかしくて、できそうもないからいやになるのよ」
何のことだろ?というように、きょとんとして、あの子はわたくしを見ています。
つねってやろうかしらと思うぐらい、無邪気でのんきな、かわいい顔で。

(2)花に埋まる舟

大好きなグラックスおじさま
昨日は、とても、とても、楽しい一日でした。
弟とマキシマスと三人で、こっそり基地をぬけ出して、小舟に乗って川をさかのぼりました。木々が水の上までしだれかかっている所が何ケ所もあって、うすぐらいトンネルのようになっているのを、身体をかがめて舟をこぎながら抜けて行くと、光と影がわたくしたちの上に砕けるように落ちてきて、目まぐるしく輝きました。
途中、ふしぎな石の像のようなものが見えて、わたくしたちは岸に小舟をつけて、こけむした碑の面を剣の柄やナイフの鞘でこすって落として、書かれていた文字を読みました。
それは大昔の名もない兵士の墓で、父親が建てたもののようでした。わたくしたちはそれをながめてため息をつき、こんな人たちがたくさんいて、そしてローマは今のように栄えているのだと言いあいました。
少しはなれた岩の上が風通しがよくて気持ちがよかったので、そこに座って持ってきたパンとチーズを食べました。
弟がそのへんの草むらの中から、イチゴをたくさんとってきました。ちっぽけなすっぱいイチゴで、わたくしはすぐにおいしくないわと言って食べるのをやめたのですけど、マキシマスは喜んで食べていて、弟はうれしそうに「おいしいよなあ?」と念を押していました。

自分でもおかしいわ。三人でいると、わたくし、昔のように弟を大切にしないで、平気でいじめてしまいます。
また、弟もそれで平気です。
いいもん、マキシマスがかわいがってくれるもんって顔してる。
少しだけ、腹がたちます。

マキシマスと知り合ってから弟は、わたくし以上に彼に夢中になってるみたい。
彼のことばかり話して、けっこう、うるさいです。
「あいつ、姉上に平気で逆らうよねえ」と、時々、感心したように言います。「恐くないんだろうか。姉上は、皇女だぜ」
「あなたは皇太子よ。彼、あなたにも逆らうでしょう?」
「逆らわないよ」弟はそう言って、恐ろしく得意そうな顔をします。「僕の言うことだったら彼、何でも聞いてくれる」
そうかしらと思って見ていますと、本当にそうなの。
彼、ものすごく弟を甘やかしています。
かと言って、子どもあつかいしてるのではないの。
とても、うやうやしい態度をとって、一人前の大人のように扱います。
弟の望みを聞けない時も、とても真剣に、ていねいに、なぜだめなのかを、説明するの。
「そんなむずかしいこと、こんな子どもに言ってもわかるもんですか」とわたくしがそばから笑っても、相手にしないで、くわしく、熱心に話しつづけます。
弟は、わからないのでしょうけど、めんどうくさくなるらしく、その内、「ふうん」とつまらなさそうに言って、「もういいよ、そんなら」とあきらめてしまいます。

ひょっとして、あれは彼、計算してやってるのかしら?
弟がそうやって、あきらめて、ぶらぶら向こうに行ってしまったあと、ちらっと口もとが笑っているような気がしたこともあったのですけど、よくわからないわ。わたくしの気のせいかもしれません。

「本当に弟を甘やかすのね」と一度言うと、彼はまじめにわたくしを見て、「甘やかしているのはあなたでしょう」と言いました。
生意気。
わたくしには、こういうことを平気で彼は言うのよ。
しゃくにさわって、どうやっていじめようかと、じっと彼を見て考えていると、彼も、それに気づいているらしく、どうするんです?と言いたげに、平気でわたくしを見返しているわ。かたちのいいあごをつんとそらして、上からわたくしを見下ろすようにして。
とても腹がたつけれど、とても安心もするの。
弟のことはもう、この人にまかせておいて、わたくしは何も考えないでいいような気がしてくる。
わがままを言って、いじわるをして。

「おまえ、わたくしのことを、とってもバカにしていない?」と聞いてみたことがあるの。
「え」と言って、彼は目をぱちぱちさせました。
まあ、無理もないのですけど。抱きあって、ことがおわった、そのすぐあとでしたもの。そんなときに、そんなこと、聞くわたくしもわたくしよね。でも、そこで、わたくしと身体をからめたまま、「なぜですか」と、まともにたずねる彼も彼だとお思いにならない?
「平気でわたくしを抱くからよ」と言ってやると、心配そうに「おいやなんですか?」と言いました。
「おいやではないことよ」わたくしは思いっきり、ていねいに言い返してやりました。「おいやであったら、こんなこと、はじめからいたしません」
「そうですよね」彼はまじめに、ほっとしたように、あいづちをうちました。
わたくしは彼の胸の上に指でいたずら書きをしながら「わたくしがこういうことを、したがっていると思ったの?」と聞きました。
「喜んでいただけると思っていました」彼はわたくしの耳もとに頭をくっつけながら答えました。
よくもまあ。「おまえだって、いやではなかったのでしょう?」とわたくしは聞いてやりました。
「はい」と彼は、いともすなおにうなずくの。
「そう。わたくしを抱いて、わたくしのことをどう思った?」
彼はちょっとためらいました。
「どう思ったの?」
「申し上げてもよいのですか?」
「かまいません。言ってごらんなさい」
「…思ったよりも、かわいいなあ」
わたくしは吹き出しました。
「髪が、こうやって、くしゃくしゃになったらどうなるかなあって、ずっと思っていたんです」彼はわたくしの髪の中に指をさしこんで、さらさらと指の間をすべらせて、いかにもうれしそうでした。「お顔がずっとやさしく見えます」
「その他は?」
彼は眠そうな声で「気持ちいいし」と言いました。
「どんなところが?」
彼は答えてくれましたけれど、それはここには書けません。

お昼ごはんを食べたあと、わたくしたち三人は、そのあたりを探検しました。弟はリスをつかまえようとしてかまれて、べそをかきました。もちろんリスは逃げてしまったわ。マキシマスは弟の指を口にくわえて血が止まるまで吸っていてくれました。弟はそれでようやく気をとりなおして元気になり、二人で、わたくしのために小舟いっぱいにあふれるほど、花をつんでくれました。
花ですからそんなに舟が重くなっているはずはないのに、あまりにたくさん、舟べりからもこぼれるほどなので、舟が沈みそうとわたくしたちは騒ぎました。そうやってわたくしたちがふざけてもみあっていると、白い花や黄色の花がいくつもこぼれて水に落ち、くるくる回りながら、まるでわたくしたちの水先案内をしているように先の方へと流れて行きます。追っかけろと叫びながらわたくしたちは必死で舟をこいでは花を追い、弟は何度も水に飛びこもうとして、わたくしたちに止められました。弟の帯を片手でつかみ、片手でかいをこぎながらマキシマスは笑いころげ、わたくしはその反対側の舟べりに身を投げ出して舟のつりあいをとりながら、ひじまで水にひたして腕をのばして、流れる花をつかもうとしては、こっちだあっちだと彼に向かって叫びました。基地の岸辺に戻った時は、三人とももう汗びっしょり。兵士たちにも侍女たちにも気どられないようにするのが一苦労だったの。
帰るまでにしおれますよ、とマキシマスは言ったけれど、弟とわたくしは、かごに水ごけをつめさせて、花を入れて、宮殿に持って帰りました。ありふれた野の花ばかりなのに、匂いがとてもかぐわしく、へやいっぱいに今も甘い香りがあふれています。
マキシマスを抱きしめると、こんな香りがすることあるよ、と弟がそっとわたくしに言いました。花の中を歩いて来た時なんだね、きっと。

(3)青春の終わり

「ちょ、ちょっと待って下さい」ルシアスは思わず手紙を持ち上げて、日付をたしかめた。「ということは、もうこの時は、母とマキシマスとはそういう関係だったのですか?」
グラックスはにこりともせずにうなずいた。「そういうことになりますな。実は、そのころのお手紙というのが、その二通だけでして。間もなく二人は別れるのですが、そのころのお手紙もなくて、細かい事情がよくわかりません」
ルシアスは考えこんだ。
「しかし…」
「その後もしばらく、お手紙は下さらなかった。また、お忙しくなられてもいた。お母さまは、お父上のかわりに元老院に顔を出し、我々の話を聞き、皇帝の代弁者としての立場から見解を述べ、応対されることも多かった。はたちそこそこのお若さで、まことにご立派なものでした。我々とは対立することも多かったのですが、それでも尊敬を集めておられた。その間、弟のコモドゥスは民衆の心を知ると称しては、町の酒場を飲み歩き、剣闘士競技にうつつをぬかしていましたな」
「母はそれを放っておいたのですか?」
「気にされていたとしても、何かできるお暇はなかったでしょう。あの頃、お母さまは、お父上の片腕以上の存在でした。皇帝にとって不都合な政敵や貴族は情け容赦なく失脚させた。優美にほほえみながら、我々もかなわぬほどの腹黒い計画をめぐらせて、それを次々、実行された」
ルシアスは思わず口を開けていた。
「あの母がですか?」
「聡明で、非情で、大胆…そして危険を恐れなかった」グラックスは苦笑した。「あえて危険を求めておられるようにさえ、見えることがあった。他ならぬご自身の失脚と破滅を。しかし結局いつも勝利をおさめられた。元老院はさながら、あの方のコロセウム。太刀うちできる敵はいなかった」

「母はそれで…」ルシアスは目を閉じた。自分が何を聞きたいのかわからない気がした。
「母はそれで、幸福だったのでしょうか」ようやく彼は言った。それが本当に聞きたいことではないような気がしながら。
グラックスは静かに首を振った。
「わかりません。幸福でいらっしゃったのかもしれません。水を得た魚のように終始、生き生きとしておられたから。間もなく、ルシアス・ヴァレスと結婚された。あなたのお父上ですな。陽気で、憎めぬ男でしたが、お祖父さまのアウレリウス皇帝が彼を共同統治帝にして、ともにローマを治めることにされたのは、ひとえに彼が、お母さまの夫であったからでしょう。人もそのように噂した。あなたのお父さまは、それを気にはされなかった。そういうところはご立派でしたな」グラックスはいたずらっぽく笑った。「ご自分をよく知っておられた」
灰色がかった巻紙の数本を、グラックスはルシアスに手渡した。
「そのころのお手紙です。こちらはご結婚前のもの、こちらはあなたがお生まれになって間もないころのもの。最後のこれは、あなたのお父さまがお亡くなりになった時分のものであったと思いますな」

わたくしのグラックスおじさま
昨夜の宴会では、久しぶりにお目にかかりましたのに、ゆっくりお話もできず、たいそう残念でございました。
ゲルマニア方面におけるわが国の支配政策についてのおじさまのお考えを、ぜひともおうかがいしておきたかったのに。
とりわけて、あの二人の将軍出身の議員の処断につきましては、前線の兵士たちからも、厳格にすぎると非難の声があるようですわね。わたくしに言わせれば、あれでも甘いと思いますのに。
軍人というものは、どうしてあのように単純にしかものを考えられないのでしょう。そもそも、戦場で少しばかりの手柄をたてたからと言って、ねこもしゃくしも元老院議員になろうとするのは、いかがなものかと思いますわ。現地とこちらの温度差をまったく理解しないまま、勝手な要求ばかり出されたのでは、たまったものではありません。
昨夜、父とこのことを少し話しました。おじさまがおっしゃっておられた税の話も、その時にいたしました。おじさま、この件について、ファルコ議員は信用なさらないがよろしいわよ。あっちこっちに情報を売り込んで、あの分ではきっと、誰を裏切って誰に嘘をつくつもりだったか、自分でも忘れていると思うわ。
ゆうべはお父さまのところに来て、おべっかを使っていました。海の中の電気ウナギがどうとか、変なたとえ話をしてました。

その時にお父さまがちらと言っておいでだったけれど、あのマキシマスが結婚するらしいの。
「相手はどんな娘さん?」と聞きましたら、「知らないよ。指輪をはめていたからね。そうではないかと思っただけだ」ですって。
父ってほんとに、こういうことはどうでもいいのね。それに、どうも見ていると、父ってマキシマスに、どう言ったらいいのかしら、遠慮するというか、はにかむというか、個人的なことをまっすぐ聞けないみたい。
大切なのだなあと思います。彼のことが。
何だか、恋人みたいだわ。

おじさま、ご存じ?お母さまがお亡くなりになる少し前に、わたくしにこっそりとおっしゃったことを。
「ルッシラや、お父さまをあまり愛してはだめよ」
そうおっしゃったの。
「なぜなの?」とびっくりしてお聞きすると、「おまえのお父さまは、人を愛せないお方だから」と、とても淋しそうに笑っておっしゃいました。
「どうしてわかるの?」とおたずねしたら、もっと悲しそうにお笑いになって、「とても愛したから」とお答えになったの。

わたくし、その時、何となく思ったわ。
人を愛するのはやめようって。
まるで、わたくしの気持ちを見抜いたように、お母さまはわたくしの髪をなでながらおっしゃった。
「傷つくのがいやなら、人を愛してはだめよ。愛してしまっても、それを相手に教えてはだめよ。愛させるようにするの。愛してはだめ」って。
そう言いながらお母さまはとても悲しそうだった。
そしてまもなく、ひっそりと亡くなられた。

わたくしは、お母さまの言ったことを、そう、ちゃんと覚えていたわけではないし、守ったわけでもないの。
父のことは、あいかわらず好きでしたし、甘えてもいました。
けれど、時々、お父さまって意地悪だなあ、と思うことがあった。
人の気持ちをためすようなことをひょいとおっしゃる。そして、見抜いてしまわれる。相手の本質を。本心を。
やさしい、いたずらっぽいお顔でそれをおっしゃり、こちらをじっと見ておられるのだけど、そういう時に何となく、ああ、お母さまの言ったのはこういうことなのね、と思ったわ。
どんな人に対しても、父はどこか冷やかでした。
やさしくて、おだやかなのに、決して他人をふみこませないところがあるの。

あの日のことを、忘れもしません。
父に連れられて、ローマ郊外の駐屯地に行き、そこで初めてマキシマスに会った時。
あの子を見る、父のまなざしを見た時に、わたくしは母がまちがっていたことを知りました。
父は、人が愛せたのです。
あの、泥に汚れた、のっぽの、うすらぼんやりした少年が、まっすぐに父に向けるまなざしにこもる、あからさまでひたむきな信頼と愛情を、父は満面の笑顔でうけとめていました。
わたくしにも、母にも、弟にも、決して見せることのなかった笑顔でした。

今となってはもう笑い話だから言うけれど、あの時わたくしは、どんなにあの子をねたましく思い、そして憎んだことでしょう。
おじさまは美しい少年たちをかわいがると、世間では評判です。
言わせておくさ、とおじさまは笑われるけれど。
わたくしは、父がいっそ、そのように、あの人を、あの子を愛しているのだったらまだいいのにと思いましたの。
父があの子の美しさや色香やしなやかな身体に迷い、裸にしてキスしてベッドで泣かせているというなら、その方がわたくし、よっぽど耐えられましたわ。
でも、父があの子を見、あの子が父を見返す目には、そんなものはこれっぽっちもなかった。
いいえ、そんなものなどははるかに超越した、まっすぐな信頼と愛でした。
まるで太陽のような。動物のような。
こんな愛を、人と人とがかわせるものかと思ったわ。
そして、わたくしにはわかりました。
こんな愛を、こんな人とのかかわりを、父は求めていたのだと。
こんな風にしか父は人とかかわって、愛することはできなかったのだと。

まるで何かにつかれたように、あの頃わたくしは毎日、駐屯地に行き、あの子を呼び出しては、わがままを言って、困らせていた。
心のどこかで、思っていたかもしれません。
この子にわたくしを愛させてやろう。
父を愛するよりもっと、わたくしのことを。

それはとても、かんたんなことに思えました。あの子はとても素直で単純で、感じやすそうに見えたもの。他の男の子たちにしたと同じように、女の子のお友だちや侍女たちにしたと同じようにしてやればいいと思った。いじめて、痛いめにあわせる。そして、すぐ、やさしくしてやる。苦痛と、快さとを、かわるがわるにはっきりと、何度もくり返し与えてやれば、ひとりでに、人は苦痛をさけるものだわ。快さを得ようと自分でも気づかずに努力するようになる。それが、こちらを大切にし、きげんをそこねないように気をつけておくことだと悟れば、それを何より大切な基準として行動し、発言するようになるものだわ。
そうなった相手に、こちらが快さを小出しにしつつ、しかも与える時には充分に味あわせてやれば、それをありがたがり、求めつづけて、やがてなくてはすごせなくなる。それを与えてくれるわたくしが、女神のように見えてくる。
あの子も、そうなると思った。かんたんだと思ったの。

第一、わたくしには権力があった。貴族ならまだしも、あの子はただの一介の兵士。わたくしに対して身をまもるものなど何も持たない。わたくしの命令することには何であれ、逆らうことは許されていない。こんな無力で、無防備な相手に、勝負ははじめから決まっていると、子ども心にわたくしは、たかをくくっていました。
何と甘かったのでしょう。
ずっと後になって、年よりの士官から聞きました。あの子は、父と会う以前、まだとても小さい頃、それはずるくてぬけめがなくて、嘘が上手で人をだまして、それでもどこか憎めない、手のつけられない子どもでした、と。「あの子を今のようにしたのは、あなたのお父上の力ですよ」と、ほとほと感じ入ったように、その士官は言いました。
だからなのね。そう聞けばつくづく、納得がいきます。

今思っても、わたくしは、ことごとく、あの子に翻弄されました。
わたくしに対する立場の弱さ、無力さ、無防備さを、あの子はすべて逆手にとって、わたくしにつけいるすきを、まったく与えませんでした。
やっきになって、あの子を見極め、正体をつかもう、本心をさぐろうとしている内に、気がつけば、わたくしの方がすべてをあけわたしてしまって、あの子の腕の中にいました。
それでも、あの子はいつもどこか遠くにいるような気がしてました。どんなに愛しあっても、抱きあっても。
結婚したのは苦になりません。
どんな娘と結婚したって、その娘に彼のことが理解できるなんて思えないもの。
でも、お父さまが彼に対して見せる、まるで少年のようなはにかみを見ると、わたくしの心は昔と同じようにさわぎます。
父とあの子の心とを、それほどに結びあわせているのは、ローマの未来への夢、よりよい世界への希望なのでしょうか?
そのようなものが共有できる相手としか、父は愛をわかちあうことができなかったのかもしれません。
わたくしは今、父の片腕と、皆が申します。
このまま、それが続いていけば、わたくしもいつか、父にとってあの子と同じ存在になることもあるのかしら?
ふっと、期待してしまいそうです。
長いお手紙になりました。本当に失礼しました。
それではまた、元老院でお目にかかりましょう。

「母は、女の身でありながら、そんなにいつも元老院に顔を出していられたのですか?」
聞きたいことは山ほどあったが、どれもこれもが重すぎた。ルシアスは結局そういう比較的単純な質問をした。
「それについては面白い話がある」グラックスは軽く眉をあげた。「ある法案について、記録を調べてもそんな前例はないと言って、古参議員の一人が猛反対し、いくら我々が説得しても納得しなかった。するとお母さまが立って涼しい顔で、記録を見たからといって前例がなかったかどうかはわかりますまいとおっしゃった。議員は怒ってかみついた。そんな例が一つでもあったらお教えいただきたいと。お母さまは、にっこり笑ってお答えになった。女は元老院に入れないことになっているのに、私はこうしてここにいて、皆さま方と政策立案に関わっているではありませんか。けれどもこれは公式には認められていませんから、後世の記録には残らず、あなたのような方はきっと、世間の言い伝えや、私がここにいたとしか思えない事実が残っていても、正式の記録にはないからと言って否定してしまわれるのでしょうね」
その時のことを思い出しているかのように、グラックスは低い笑い声をたてた。
「何も言えなくなった議員にお母さまは穏やかに、とどめをさされた。議員、記録や資料を大切にするのはよいことです。けれどもそれにすべてが残っていると信じて、そうでない可能性をすべて否定するのは、愚かだし、危険なこと。過去ばかりか現在や未来をも、不毛なものにしてしまいます。満場は大喝采で、法案は即座に承認されました」

(4)皇帝の妻として

尊敬するグラックスおじさま
長いこと、お手紙をさしあげませんでした。
結婚から出産と、いろいろとわたくしも忙しくて。
何だか手紙の書き方までも忘れてしまったようで、何から書けばいいのかとまどってしまいます。
ルシアスは五つになりました。
今度、連れて行きますわね、お屋敷に。
とても、かわいい子ですのよ。
いろんなことをおしゃべりしては、わたくしをいつも笑わせてくれます。
神殿の屋根のはしに月がかかっているのを見て、お屋根が重たそう、なんて心配してますの。

子どもが大きくなるのを見ておりますと、時の流れの速さというものがよくわかる気がいたします。
父も、この数年、めっきり弱ってまいりました。
鋭い判断力や、闘争心は変わっていませんけれど、疲れやすくなり、もの思いにふけることが多くなってきたように思います。

父が頭を痛めております一つは、おじさまもご想像がつきますでしょうけれど、弟のことです。
父がローマ市内での剣闘士競技を禁止してからは、遠くの町まで見に行ったり、下町の酒場を飲み歩いたり、安っぽい女たちと遊び回ったりしているのは、おじさまもよくご存じよね。
気さくな皇太子と一部では人気があるのも。
自分が皇帝になったら、人々の心を父上よりずっとよくつかんでみせる、と、かげでいばっているみたい。

愚かな子。
きげんとりと見てくれだけで、民衆がいつまでついてくると思っているのでしょう。
あの子には何もわかっていないのね。
わたくしのところには、このごろあまり、よりつきません。
夫のヴァレスは声ばかり大きい、大ざっぱで陽気な人ですが、案外、人を見る目があります。
理解できないものを無理に理解しようといたしません。ここのところの徹底ぶりは、驚くばかりでございます。
弟のことも、一度か二度会っただけで、何だか暗い、わけのわからないやつと思ったらしく、会っても、ろくに話をしないし、きげんをとろうともいたしません。
弟は、それがつまらないのでしょう。
ひょっとしたら、あのマキシマスがなつかしいのかもしれません。

「何で姉上、あいつと結婚しなかったのさ?」と一度わたくしに聞きました。
「誰と?」と、わかっていたけれど、わたくしは聞き返しました。
弟はむっとした顔になって、何も言いませんでした。
どうせ、考えているのでしょう。わたくしとマキシマスが結婚して、二人で自分をちやほやしてくれたら、どんなに楽しいだろうなあって。
あいにくよね。そううまく行くものですか。
わたくしも彼も、それほどにバカではないわ。

それはいいのですけれど、弟のことは本当に心配。
先日は、ヴァレスの留守にうちに来て、ルシアスを抱いているわたくしの前で、勝手に酒を飲んで、くだをまいて、泣きました。
あの子、ふだんは似ても似つかないのに、泣き顔は何だかお母さまに似て見えることがある。
見ているとわたくしまで何だかすっかりゆううつになってしまいました。
ヴァレスの帰りが待ち遠しかったわ。
何も考えないですむ夫って、本当にすてきよ、おじさま。
「まあ、私には、むずかしいことは何もわからんが」と、ふた言目にはいつも言うのよ。「何とかなるんじゃないのかい?」って。
世間の人は、夫がこう言うと、安心するらしいの。ああおっしゃるからには、きっと何か考えておられるのだろうって。でも、わたくしにはわかっております。本当に何も考えてはいないのよ。
マキシマスと寝たことも全部話してやったのですけど、「ほうほう」と感心して聞いていました。
ここまで行けば、いっそ立派よね。

政治的なことでも、わたくしが教えたことを、そのまま元老院でくり返してます。あとで「あれでよかったろうか」と聞くから、「上々ですわ」と申しますと、「それはよかった。酒をくれ」って。

あらあら、皇帝一家の内情をここまで暴露したのでは、政敵であるおじさまに内通した裏切り者と、父と夫からわたくしはののしられてしまいそう。
でも大丈夫よ。肝心なことはきちんとかくしておりますから。
たとえば、軍の給料をどの程度お父さまが引き上げるおつもりかとか、いったようなことはね。あの治水工事にまつわる業者の件も。
それでは、おじさま。
元老院でまた、お目にかかりましょう。

(5)わりのあわない関係

わたくしのグラックスおじさま
ヴァレスの死は本当に残念でございました。
かしこいとも立派とも一度も感心したことはなかったのですけれど、それでも何か大きな要が、この国からもわたくし自身の中からも、はずれてしまったような気がいたします。
何もしなくてよい、どうでもいい人だったのですけれど、そういう立場で、本当に何もしないで、どうでもよい存在でいてくれる人というのは、なかなかいるものではございませんで、夫はそういう人でした。
病気とはいえ、急な死で、まだ信じられず、淋しい思いがしております。

父も、困っているようです。こうなると、新たに後継者を選ばないわけにはまいりませんものね。
弟は自分が選ばれるのではないかと、すっかり浮足だっています。闘技場や酒場に通うのもやめ、食事の時にはお父さまと政治の話などことさらにして、おかしいったらありゃしません。
さすがにまだ元老院には顔は出そうとしないようでございますけど、それもいつまで続きますかしら?
弟は、基本的には小心者でございますから、あれでも皇帝になったらなったで、元老院にも、わたくしどもにも、そんなに害はないような気がちらっといたしたりもするのですけれど。

そう言えばマキシマスにあれから何度か会いました。
おかしな人で、わたくしを見ると不きげんそうにしています。
そして、決して二人きりになろうとせず、いっしょうけんめい、わたくしを避けています。
別れる時に、わたくしにひどいことを言ったのを気にして、あんな態度をとるのでしょうけど、これではまるで、わたくしの方があの人に、ひどいことをしたみたい。
何て、わりがあわないのでしょう。あの人にかかると、いつもこちらが下手に出ることになってしまうのね。腹がたってなりません。
それでも、軍でのあの人の人気は非常なもののようですから、こんな政情の中では特に、よい関係を保っておかなければならないと思っているのですけれど。

だいたい、おじさま、別れる時にあの人、わたくしに何と言ったとお思いになる?
わたくしが皇女だから、しかたなくつきあっていたのかどうか、本心を言いなさいとつめよったら、それがそんなにあなたにとって大事なことなんですかととぼけ、答えなさいと命令したら、ものすごくバカにした目でわたくしを見て、あなたは私の命です、私の血の最後の一滴までささげつくして悔いのないほど深く愛しておりますと言ったあと、あくびをして、明日は早いので、もう寝に行ってもよろしいですかと聞いたのよ。
こっちの手が痛くなるほど、力いっぱいひっぱたいてやったのですけど、まだ胸が晴れないわ。
さすがはお父さまの弟子よね。何だかつくづく、そう思います。

でもでも、そんな大人げないことを言っていてはだめ。
弟が皇帝になるにしろ、他の誰がなるにしろ、軍とはよい関係を保っておかなければ、元老院も皇帝もおしまいですものね、おじさま。
その内に彼を紹介いたします。弟もいっしょに、一度お食事でもいたしましょう。
彼はきっといやがるでしょうけれど、そんなこと、かまうものですか。

ルシアスは元気です。
本当にかしこい、いい子です。
お母さま!と、はりのある、きりっとした声で呼びかけられると、母親でありながら、何だかうっとりしてしまいます。
父親の亡くなったあと、この子にどれだけわたくしが心なぐさめられていることか、とても口では言えません。
もっといっしょにいてやりたいのだけれど、わたくしも毎日、忙しくて、充分に相手をしてやれず、文句も言わずによくがまんしてくれますだけに、かわいそうでなりません。

第五章 美しい迷宮

(1)姉と弟

さらさらと噴水の水音があたりにひびいている。まだ暑さの残る午後の空気の中に、その音が涼しさと、かすかな眠たさをさそう。木々の向こうを、何か大きな彫像を大切そうに抱えた朽葉色のチュニック姿の少年が横切って行くのが見える。
グラックスに客が来たので、ルシアスとタキトゥスは庭でひと休みすることにして、大理石のテーブルについて、セイアヌスとキャシオが運んできた、ナツメヤシや菓子パンをつまんでいた。
「お疲れではありませんか」ルシアスがほおづえをついて噴水の方をながめながら深いため息をついたので、キャシオが気にしたように聞いた。
「いや、そういうわけではないけれどね」ルシアスは身体を起こして笑った。「あんなに長い間の手紙を一気に読んでいると、時の中を自分ひとりが旅して…というより走りぬけているような気がしてさ。小さい女の子だった母が、もう僕の年齢を追い越してしまっているのが、なんだか変な感じだよ。手紙の中の僕までが、何だか僕じゃない、誰か他人のような気がして困ってしまう」
セイアヌスがちょっと笑った。ルシアスは二人の顔を見た。
「君たちもあの手紙を読んだのか?全部もう、読んでしまった?」
「私は、ほとんど拝見しておりません」キャシオが首を振って言った。「グラックスさまはあの手紙を図書室に保管しておられて、そこの管理はセイアヌスがやっております。ですから、彼はすべて、あのお手紙に目を通しております」
「そうなのか」ルシアスはセイアヌスに目を向けた。「それじゃ君はもう、僕よりも母のことをよく知ってしまったのかもしれないね」
セイアヌスはどこか恥ずかしそうに目もとを笑わせ、「そんなことはないと思いますが」とつぶやいた。

「手紙の中の母は今」ルシアスは、こうばしい香りのするパンをちぎりながら笑った。「僕の父が死んで、祖父は誰を後継者にするつもりだろうかと考えている。結局は叔父のコモドゥスかと予想し、たよりない彼のためにも、昔の恋人のマキシマスと、古いごたごたは忘れて協力し、軍の支持をしっかりととりつけておきたいと思っているようだ」ルシアスは首を振った。「母の思った通りになったのだね?祖父は結局、叔父を次の皇帝に指名して、亡くなったのだろう?」
「公式にはそうなっていますが、そうではないのです」キャシオが落ちついた、きっぱりとした声で応じた。
「と言うと?」
「あなたのお祖父さまは後継者として次期の皇帝に、マキシマス将軍を任命したのです」キャシオはまるで見てきたように、自信にあふれた、ためらいのない口調で言いきった。「それで、逆上したコモドゥスは、そのことを聞かされた前線のテントで父の皇帝をしめ殺し、自らが次の皇帝になると宣言した。そして、その真相を察して新皇帝への忠誠を拒否したマキシマス将軍を処刑、その故郷の妻子までも惨殺するよう命令を下した。あなたのお母さまも、それに協力加担、少なくとも、黙認されたのです」

「しかし…しかし、それは」ルシアスは呆然として、食べかけていた菓子パンをテーブルの上においた。「なぜ君はそんなことを…そんなにはっきり、知っているんだ?」
「その頃のローマ中のもっぱらの噂でしてね」不きげんそうにキャシオは言った。「この手の噂というやつは大抵、根も葉もないものですが、これは珍しく、ほぼ事実といってよい」
「だが、マキシマスというその人は、処刑されなかったのだろう?」
「間一髪、逃げのびて、妻子を助けようと故郷に帰ったのです」キャシオの口調は冷やかだった。「が、間にあわなかった。妻と子は、はりつけにされた上、生きながら焼き殺されていた。息子さんはあなたと同じ年だったとか。将軍はそこで力つきて倒れているところを、奴隷商人にとらえられて剣闘士にされ、各地をひき回された後、ついにこのローマに来て、コモドゥスと…そしてお母さまと再会されたのです」苦々しげにキャシオは吐き捨てた。「コロセウムでね」
ルシアスは言葉を失っていた。
「だが本当に、それはたしかなのか?誰も見た者はいないのだろう?」ようやく彼は、そう聞いた。

「マキシマス将軍がコロセウムでコモドゥスを倒して、ご自分も亡くなられた後、それまでずっとあのお方と行動をともにしていた、ジュバという剣闘士が、しばらくこの屋敷に滞在しました」キャシオは穏やかな口調に戻っていた。「アフリカから連れて来られた男で、解放されて国に帰ったのです。彼の部族は文字を持たない。そのために、聞いたことをすべて暗記する抜群の記憶力を持っていました。マキシマスから聞いた話を逐一、彼はグラックスさまに語り、それは、他の方面から得た情報や事実のさまざまと、ぴったり一致いたしました」
「だが母はなぜ、そんなことを認めたのだ?叔父のしたことに協力などしたのだ?」
キャシオもセイアヌスも黙っていた。
「叔父は…コモドゥスは小心で愚かな男だったのだろう?母が恐れたとは思えない」
「愚かで、小心であるからこそ、彼が皇帝になった方が好都合と、お母さまは思われたのではないでしょうか」キャシオは礼儀正しい、ていねいな調子だったが、容赦なく、そう告げた。「あなたのお父さまのヴァレスを事実上あやつって政治を掌握していたように、コモドゥスが皇帝になれば、姉として、お母さまはまたしても実権を握れたはず。だから、あえて、すべての真相に気づきながら、それを黙殺されて、コモドゥスのするにまかせたのでは?」

「だが、事実はそうならなかった」ルシアスはせきこんで身をのり出した。「母は、一年もたたぬ内に、グラックスたちと手を組んで、叔父を失脚させるためのクーデター計画をねり始めている。それは、どういうことなのだ?母の見込みちがいだったというわけか?」
「その通りでしょう」キャシオは言った。「今でこそコモドゥスは愚かな暴君と伝えられ、皆がそれを信じています。あの頃、彼にかっさいした人々までもが、それを忘れてしまったかのように。だが、コモドゥスが即位してしばらくの間、彼は民衆のヒーローだったのですよ。アウレリウス皇帝の治世が暗く沈滞していたのに比べ、まぶしいほどの活気があり、何か新しいことが起こりそうな期待に皆が心をおどらせていた。コロセウムでの血なまぐさい競技の数々を再開したのが象徴的だが、コモドゥスは民衆にどうやったら気に入られるか、どうしたら彼らのヒーローになれるかを、恐ろしいほどよく知っていた。他のことは何ひとつ知らなかったとしても」
「母は、それを恐れたと?」
「お母さまがコントロールできる相手ではないと気づかれたのでしょうな。だから元老院と手を組まれた。元老院は元老院で、強い危機感を抱いていた。コモドゥスが一言言えば元老院の廃止でも軍の解体でも、もろ手をあげて賛成してしまいそうなほど、民衆はあの愚かで中身のない、頭のからっぽな皇帝に夢中だったのです。たとえ対立することがあっても、お母さまと元老院とは基本的に信頼関係がありました。コモドゥスが退位し、幼いあなたが、かたちだけの次の皇帝になる。そして実権はお母さまが握って事実上の皇帝になる。元老院にとってもお母さまにとっても、それが最上の道だったのです」

ルシアスは眉を寄せた。
「だが、そんな計画を、民衆は支持したろうか?支持すると母たちは思ったのだろうか?」
ルシアスを見るキャシオの目が初めてふっとなごんだようだ。いやいやながらの賞賛とでもいった色が、その鋭い黒い目に浮かんだ。
「よく、お気がつかれます。お血筋は争えない」彼は言った。「その通りです。まさにその点が、決定的でした。コモドゥスには民衆の絶対的な人気があった。浮き草のようにたよりない、移り気な、だが集まれば海をもおおい、巨大な船さえその進路をはばまれて、ついには沈没せざるを得ない。お母さまも元老院も、それには抵抗できないことを知っていた。コモドゥスの人気がいつか衰え、民衆の彼への熱がさめるのを、しんぼう強く待つしかなかった。コモドゥスはコモドゥスで、自らの人気の高まりに乗じて、一気に元老院を解体し、実権を一手に握ろうとしていた。そんな時に、死んだと思われていたあの男が現れたのです。マキシマスがね」
「剣闘士奴隷として?」
「そうです。コロセウムで、殺され役として登場させられながら、仲間を指揮してあざやかに、何台もの戦車を破壊して、みごとな勝利をおさめてしまった。敵から奪った白馬にまたがって、コロセウムをかけめぐった彼の姿に、全観衆は酔いしれて熱狂的な大かっさいを送った。彼をその場で処刑しようとしたコモドゥスに、コロセウム全体が怒りの声をあげてさえぎり、結局、彼は処刑を断念したのです。民衆がコモドゥスを支持しなかったのは、それが初めてでした。コモドゥスにとってかわる新しいヒーローが、その時、誕生したのです」

(2)冷静な分析

キャシオに聞かされた話のあまりの規模の大きさと複雑さに、かすかな目まいと吐き気を感じて、蜜蜂の間に戻ったルシアスは、すすめられたワインを断った。グラックスも少し疲れている様子で、いつもより頬が赤くほてっていた。キャシオから聞いた話をルシアスが伝えると、ややけだるげにうなずいて、おおむね、そんなところでしょうな、と言った。
「あの男が現れる前から、お母さまは、ローマのためには弟を退位させるしかない、必要ならば殺すしかない、とまで決意しておられたのですよ。我々の前ではっきりとそう言われた」
「ただ民衆の支持が得られないのを、あやぶんでいたというわけですか」
「コモドゥスの人気にひかれて、彼におもねる元老院議員もいたほどでしたからな」グラックスは唇を皮肉にゆがめた。
「そこに、あの男が現れたのですね」
「お母さまはすぐに判断されました。あの男をリーダーに立てて、コモドゥスと対決するしか、民衆を味方につけ、我々が勝利する道はない、と」
そして、考えこんだ表情で、グラックスは箱の中から、小さな筒にていねいに丸めて押し込まれた紙片をとり出した。
「危険な企てでしたから、証拠になりそうな書き物はなるべくやりとりしないようにしていたのですが」グラックスは言った。「これは、お母さまがそのころ私におよこしになった書きつけです」

私の考えは先日申し上げた通りです。
ですが、あの男に私たちのリーダーとして立つことを決意させない限り、この戦いに絶対に勝利はありません。

小さい、ふるえるような文字の走り書き。書体も文体も母はいつもと変えようとしているようだ、とルシアスは思った。

あの男を説得して、そのように決意させるのには、いくつかの困難があります。
あの男は、ローマを愛し、そのために戦ってきた男です。
女を抱くのと、ものを食べる以外には、ローマへの愛しか頭にないといっていいほど単純な男です。
ですが、決して愚かではありませんし、その単純さが逆に素朴で無邪気な魅力となって、多くの人をひきつけます。
何よりも、彼は強い。
この愚かな腐りきった都の大衆を熱狂させる、強さを彼は持っています。
私たちが最大に利用できる男です。

非常に難しいのは、彼が今、そのローマへの愛を、どの程度失っているか、残しているかという判断です。
彼の妻子が殺されたことはご存じですわね?皇帝の話では、反逆者の家族として、釘を打ってはりつけにされた上、生きたまま焼かれたとか。
いたましいことにはちがいありませんが、政争の中ではやむを得ない犠牲です。将軍として、敵の蛮族の処刑に多くたずさわってきた彼に、そのくらいの理屈はわかりますでしょう。
彼自身も剣闘士として奴隷として今まで生きてきた以上、肉体的苦痛、精神的苦痛は限りなくなめておりましょうけれど、彼は、自分自身のそういった苦痛に対しては、鈍感な男です。耐えぬけるし、忘れると思います。
やはり、ですから問題は、妻子の死です。それが、ローマ皇帝の名によって、ローマ帝国の名のもとに、ローマ軍の兵士によって行なわれたということを、彼がどうとらえているかです。
あれほどに、自分が身も心も捧げてつくしつづけてきたローマが、そんなかたちで自分にむくいた、ローマに裏切られた、と彼が思うのであれば、ことは非常にやりにくくなります。ほとんど望みがないと言っても過言ではありますまい。

けれども、彼はそのような女々しい考え方はしないのではないかという気もいたします。
これほどに何かをしたのに、むくいてもらえなかった、という考え方を、あの男は決してしません。
ですから、私どもとしましては、あの命令を、皇帝個人に、いえ、むしろ、あの若者個人に帰して、ローマとはあくまでも切りはなして彼に話すことが肝要です。
あなたを苦しめたのはローマではなく、今、皇帝になっているあの若者である。ローマも、ローマの民も、私どもも、あの若者に苦しめられ、危険にさらされている。あなたと同じように私どもも、ローマも、あの若者の被害者なのだ。そう言えば、あの男にそう考えさせることができれば、望みはあります。

あと二つ、用心しておくべき点があるでしょう。
一つは、あの男が、妻や子が死んだのを自分の責任としてとらえ、二人のもとに帰らずに、ローマのために戦いつづけていた自分を責め、そのような自分と一つのものとしてローマを憎むことです。
あの男は、ローマが自分を苦しめたといってローマを恨むことはありますまいが、ローマにつくしていた自分を責めることはあり得るのです。

その場合、私どもは、彼が自分を責める気持ちを、ローマを愛し、つくしていたことにではなく、判断を誤って、むざむざとあの若者を皇帝にしてしまったことに向けさせなければなりません。
その見込みはあると思うのです。何と言っても、彼は先帝を愛していました。その先帝は、あの若者に殺されました。
先帝とローマのイメージが、彼の中で結びついている限り、彼のローマへの愛はまだ消えていないはずです。
現皇帝に殺された先帝、自分が守りぬけなかった先帝を憎むことは、彼には決してできません。
ですから、そのことで、むしろ彼に責任を感じさせ、先帝のためにも現皇帝を倒して、ローマをたて直さなければならないと思わせるように、話をもって行かなければなりません。

私たちは先帝の名前を最大限に利用しなければなりません。けれども、飢えすぎた人間に食物を与えすぎてはならないように、強い薬を与えすぎて弱った病人を死なせないように、気をつける必要があります。彼が耐えてきた苦しみや屈辱を思えば、あまりしつこく、あるいは急に、先帝の名を持ち出しては、彼は自分を責めすぎて絶望して無気力になるか、逆に自暴自棄になって私たちに背を向けるでしょう。
この、さじかげんとタイミングはとても微妙でむずかしいと思います。細心の注意を払わなければなりません。

私が心配しているもう一つの点と言いますのは、現皇帝に対する、あの男の気持ちです。
彼は昔、あの若者をとてもかわいがっていました。
先帝や皇女を愛する以上に、あの若者を愛しているのではないか、と思うこともあったほどです。
まるで自分自身の弟か、年はそれほどはなれていないのに、自分の息子を愛するようないとおしみを、いつも、あの若者に見せていたのを私は知っています。それだけにまた、他の者ではできないような厳しい態度で接することもしばしばでした。先帝を殺したあの若者に忠誠を要求されて、きっぱりと拒絶したのも、その一つの表れではなかったろうかと私は思っているぐらいです。
まさかとは思いますけれど、あの男はこうなってもなお、現皇帝を憎みきれていないのではないかと私は気になっているのです。

少なくとも、あの男は、私たちがあまりに現皇帝をののしって悪者にすれば、それはそれで反発し、憎しみを私どもとローマに向けそうな気がするのです。
彼をあのようにしたのは、あなたたちではないか。ローマではないか。彼もまた、ローマの犠牲者ではなかったか。そのように、あの男は言い出しかねません。
そういう見方も、できないわけではありません。それだけに、あの男にそのように考えさせてはおしまいです。
彼に、あの若者を憎ませること。
あの若者だけを憎ませて、ローマや私たちは憎ませないようにすること。
それができるかどうかに、私たちの今回の計画のすべてがかかっています。
現皇帝の悪口を言いすぎないように。
むしろ、私たちはどこかで、あの若者をかばおうとしているようにさえ感じさせること。
その方が、あの男の、現皇帝への憎しみをきっとつのらせるでしょうから。

(3)暴君の悲劇とは

深いため息をつきながら、ルシアスはそっと紙片を机の上においた。
「信じられません」彼は言った。「母は本当に、氷のように冷静な人だったのですね。かつて愛して抱きあった人のことを、こんなにまで落ちついて語れるものでしょうか」
「鋼鉄の意志をお持ちでした」グラックスの声には深い敬意がこもっていた。「男であれば大皇帝になるであろうと言われていたのは、決して誇張ではありませぬ。あの男のことは知り抜いておられたのです。まったく、何から何までも。もう一人の自分のように。むしろ、お母さまが見まちがえておられたのは、弟君の方でしょうな」
「コモドゥス叔父?」
「さよう。甘く見すぎておられた」グラックスは言った。「民衆に人気があることは充分に承知して警戒しておられたが、ご自分に対する態度があれほどに強気になるとは、予想しておられなかったのだ。何度かご注意申し上げたのですが、その度に笑われていた。あの男はいつも姉上であるお母さまを、愛し、尊敬して、何でも言うことを聞いておられた。だから、お母さまは、その関係が逆転することなどあり得ないと思っておられたのでしょう」
グラックスは首をふった。
「そんなものはありませぬ。変化しない関係などは。あの子は私を愛し、求めている。だからどうにでも、あやつれる。お母さまはよくそう言っておられたが、それは危険な幻想です。愛を求めて得られない人間は、卑屈から凶暴への長い距離を一気に飛び越え、移動する。弱い人間ほどこの狂気には陥りやすく、強い人間ほど、その恐ろしさを予測できない。お母さまもまた、そうでいらした。それに、意地にもなっておられた。途中からは充分に、弟君の態度が甘えから脅迫に変わってきたのを察しておられながら、それに目をつぶって自分に言いきかせておられたようでした。あの子が私に、そんなことはできるわけもない、と」
「叔父が祖父を…自分たちの父を殺したのを、母は知っていたのに?」
「さよう」グラックスは微笑した。
「人間というものは誠に不思議な哀れなものです。先帝のアウレリウスもコモドゥスにそんなことはできないと思っていて、殺された。同じことをそっくりそのままたどりながら、お母さまは、自分はちがう、自分はそうはならないと、心にくりかえしておられたにちがいない。人間とは愚かで、弱いもの。だからこそ、同じあやまちが何度も繰り返されるのでしょう」

「それだけでしょうか。本当に」ルシアスはつぶやいた。「あるいは…」
グラックスは教師が答えを待つように、じっとルシアスを見つめて黙っていた。
「母は、事態をはっきりさせたかったのではないでしょうか。あるいはコモドゥス叔父の正体を」ルシアスは言った。「誰の目にも明らかに」
グラックスは軽く笑った。「どういうことですかな?」
「島の女たちが家族のことで、よく母に相談に来ていた」ルシアスは思い出すようにテラスの向こうの空に目をやった。「その時、母はしばしば、口にしました。思いきり甘やかし、調子にのせてごらんなさい。そう言っていた。その人がそれで用心すれば賢い。遠慮するなら優しい。でも、そのどちらでもなく、つけあがりつづけるようなら、そんな人間にもう価値はない。周囲が見限るまで調子にのせて、愚かさを充分にさらしたところで、切り捨てればよい、と」
「なるほど」グラックスはワインのグラスをとりあげて笑った。「それはたしかに、その通り。だが、時には、そうやっておだてられ、調子にのっている内に、真実の力を身につけてしまうものもいる。甘やかされているのを見た愚かな周囲の者たちが、その相手を偉大だと思いこんでしまうことも多い。お母さまのおっしゃった方法は常に、諸刃の剣なのです」
「マキシマスは…」ルシアスは思わずつぶやいた。「そうではなかったんだ」
グラックスは首をかしげてルシアスを見た。「何です?」
「彼は、決してそんなことをしなかった」ルシアスはせきこんで言った。「人を甘やかしたり、調子にのせたりして、相手を試すようなことは。だから即座に、忠誠を拒否した」
グラックスは何度もゆっくり、うなずいた。「そうです。そして、そういう彼にコモドゥスは残酷な罰を与えた。それがコモドゥスの不幸でした。自分に最も誠実な対応をし、愛してくれる人に対して彼は、そういうことしかできなかった。愚かな人間とは、常にそういうものです。自分を最も愛して、大切に扱ってくれる高潔な人間を、近づけることもうけいれることもできない。そして、自分が支配できる、したがって常に自分以下でしかない、低級で卑劣な人間、あるいは一人の人間のそういう側面だけしか、決して回りに集められない」
グラックスの声にはいつもの皮肉な響きはなかった。むしろ、深い悲しみをルシアスは聞いた気がした。
「彼のような人間は、そうやって滅ぼして行くのです。自分に従わないという理由で。自分に理解できないという理由で。自分のものにできないという理由で。この世のすぐれた人やもの、国や文化の数々を。いや、一人の人間の心の中の、最も美しい、優しい、清らかな部分さえも、そうやって次々に彼は殺して行くのです」

「あの男もそうでした。マキシマスも」グラックスは静かに続けた。「お母さまが、剣闘士の訓練所へ赴かれて、ひそかに彼の説得にあたった夜、彼はお母さまに答えたそうです。ローマを愛し、あなたの父を愛していた昔の私はもういない。あなたの弟が殺した、と」
「では母は彼を説得できなかったのですか」
「疲れ果てて戻って来られた。だが、絶望してはおられなかった。できる限りの努力はしたと言っておられた。自信はない。だが、望みはある、とも。あの男と自分とが生きている限り、まだ望みはある、ときっぱりと言われた。そして、お母さまの言った通りになりました。それから間もなく、あの男はひそかにお母さまに連絡をとってきて、私との面会を承知したのです」
「妻子をローマに殺された恨みを彼は、忘れることにしたのでしょうか?」
「何とも判断できません」グラックスは首をふった。「コロセウムで、コモドゥスとあの男がともに死んだ後、同じ剣闘士仲間だったアフリカ人…ジュバという男でしたが…その男が、ここにしばらく滞在して、いろんな話を聞かせてくれたということを、キャシオはお話しましたかな?」
ルシアスはうなずいた。
「マキシマスは言っていたそうです」グラックスはつぶやくように言った。「小さな妻の木像をいとおしそうに見つめながら、あの黒人に言ったといいます。ジュバ。私はおまえたちと会って、いろんなことを見て知って、話して、前よりずっと、妻のことがよくわかるようになってきた気がする。死んで、あの世で妻に会ったら、話したいこと、聞きたいことが本当にたくさんあって、待ちきれない気がするよ、と。ご存じですかな。あの男の妻は山賊の仲間で、ローマに対して戦っていた女戦士の一人です。彼に敗れて捕らえられ、愛しあって妻となったのですが、彼女がローマへの憎しみや疑いをまったく失っていたとは思えません。彼もそれを察していて、だが理解できずに苦しんでいて…あのような身分になった時、初めて、ローマのみにくさを、妻が抱いていた疑問を、身をもって知ったのではないかと思うのです。生きていた時よりも、妻と理解しあえ、心が通い合った…あの男はそう思っていたのかもしれません」
「けれども彼は、ローマを愛することをやめなかった」ルシアスはひざを乗り出した。「その再建のために、あなた方や母とともに戦おうとしたのでしょう?」

グラックスは謎めいた深い目で、じっとルシアスを見つめた。
「さよう。だが、ぎりぎりのところは、わかりませんな。あの男は静かでした。落ちつきはらって、岩のように、山のように、相手を圧倒していました。闘技場でもそうでしたが、初めて二人で会って間近に見た時も、堂々として、心のゆらぎがまったくうかがわれなかった。私の視線にも怒号にも、たじろぐ気配は少しもなかった。しかし、心は見せなかった。何か、考えていたのかもしれません。私たちには語らぬ何かを」
「けれど、信用されたのですよね?」
「信用しましたとも。口に出してもそう言った。それに値する男でした。しかし…」グラックスは首を振った。「偉大な指導者のすべてがそうであるように、あなたのお母さまやお祖父さまもまたそうであられたように、あの男の中にもまた、私たちにはうかがい知ることのできぬ、大きな計画と、大きなねらいがあったように、私には思えてならないのです。それが、ローマをどうする計画だったのか、私にはわからない」
「それでも、信用されたのですか?」
「人が集まって、何かをなそうとする時に、何から何までめざすものが一つということはあり得ません」グラックスは落ちついた、皮肉な目で笑った。「もしあれば、それこそ、それは愚か者か狂人の集団です。一つの目的に向かって、あくまでもそれぞれの思惑を持ちつつ、人は集まってくるものです。一致できる部分で協力して敵を倒せば、あとはまた、それぞれの道を行けばよい。あの男は、私たちが目ざす目的に協力してくれることはわかっていた。それができる力があることも。それで充分だったのです。私どもにとっては」
「母にとっても?」
「お母さまにはお母さまの思惑がおありでしたろうからな」
「僕を皇帝にするという?」ルシアスは笑った。「その後見人として実権を握るという?そのためには、あの男が遺言したように、元老院の支配が復活して、民主制がよみがえるのは、母にとってはまずかったのではないのですか?あなた方と母とは、そのことでどのように話し合い、意見を一致させていらしたのです?」
セイアヌスが小さくせきばらいした。グラックスはふり向いて、「どうした、セイアヌス」と聞いた。「おお、いや、これは気がつかなんだ。月がもう、神殿のはしの屋根にかかっておる。ルシアスさま、このお話の続きはまた明日にしませんか?」
「僕はまだ眠くありませんよ」ルシアスは言い張った。
「だが、お連れの方はそうでもないようだ」グラックスはほほえんだ。「ちがいますかな」
横を見ると、タキトゥスは本当に、長椅子にもたれかかって口を開け、いびきをたてんばかりに眠りこけていた。

(4)行ってみたい国

母は、何を考えていたのだろうか…
ゆりおこされて、寝ぼけ顔で「西風の間」に戻ってきたタキトゥスは、すぐにベッドにもぐりこむと、ぐっすり眠りこんでしまった。
ルシアスは眠れなかった。
タキトゥスが話し相手にならないので、しばらく一人でへやの中を歩き回った。
月光はまだへやの中まではさしこんでおらず、壁の海神とイルカのモザイクは、薄闇の中で、おぼろな青い濃淡の影だった。

妻として、母として、そして名皇帝の娘として、母の若い日々は充実していたのだろうか。
マキシマスというあの若い兵士と、弟を失っても。
父の死後、母は弟と手を組んでマキシマスを見殺しにする。
そして、やがて彼が現れた時、今度は弟を倒すために彼を利用しようとした。
母が本当に愛していたのはいったい誰だったのだろう?
最終的に望んでいたものとは、いったい何だったのだろう?
自分、ルシアスを皇位につけることか。
その背後で自らが実権をふるうことか。
ルシアスは首を振った。
たとえ、母が自分をどれだけ愛していたとしても、それは母の愛し方ではないような気がした。

「ルシアスは、あれに乗って、どこへ行きたい?」
港に泊まっている船を指さして、母が自分にほおをよせ、楽しそうに何度もそう聞いたのを、ルシアスは覚えている。
ルシアスの答えは、そのたびにちがった。
港の船乗りたちは、石垣や、ひっくり返した小舟の底の上に座って、日焼けした太い腕で網をつくろったり、櫂を削ったりしながら、目を丸くして聞き入っているルシアスのような子どもたちに、いろいろな国の話をして聞かせた。
それを聞くたびにルシアスは夢中になり、行きたい場所は次々変わった。
雪のふる国。砂だけの国。大きな塔の上で鐘が鳴る国。さまざまな色の鳥が乱舞する国。
それを聞くたびに母は笑ってルシアスを抱きしめ、きっと行けるわよと約束した。
何になりたいかとは聞かなかった。
いっしょに行きましょうとも言わなかった。

吐息をつきながらルシアスはテラスへと出た。
手すりによりかかって下を見下ろすと、今夜は風もなく、ひっそりと静まる庭の大きな木々の枝から、重々しく、みずみずしい、木の葉の香りがたちのぼってくる。
白いものが、その木だちの間に見えた。
またアヒルかな、とルシアスが目をこらしていると、それは太い木々の間をゆっくりと遊ぶように回りながら、こちらに近づいてきた。
首を曲げてのぞいて見ていると、その白い影はどうやら人の姿らしい。
テラスのすぐ下の木々の間まで来た時に、それがセイアヌスだとルシアスは気がついた。
着ているトーガは薄紅か淡い緑のようだが、月光の下では白く見える。
ほおづえをついて見下ろしていると、視線を感じたのか、セイアヌスが目を上げた。
ルシアスと目が合うと、あまり驚いた様子もなく、いつもの、なつかしそうな少しだけ淋しげな笑顔を見せた。

(5)夜の奥庭

ルシアスは手すりに手をかけ、身をのり出した。
「眠れないのかい?」
セイアヌスはあいまいに肩をすくめるようなしぐさをしてから、低いが、はっきりとおる声で呼び返してきた。
「ルシアスさまもですか?」
「ああ。そんなところだ」
セイアヌスはちょっとだがためらってルシアスを見ていた。このまま行ってしまおうか、もう少し何か言おうかとするように。話を続けたくなって、ルシアスは声をかけた。
「最初、アヒルかと思ったよ」
「何ですか?」
「アヒル。この前の夜、見たから」
「ああ…」セイアヌスは笑って木立の向こうを見た。「よく池を、逃げ出すんです」
二人の声が耳についたのか、タキトゥスがむにゃむにゃ言って寝返りをうった。ルシアスはそちらをふり向き、とっさに心を決めた。
「連れが目をさましそうだから」彼は言った。「そっちに行くよ」
「そっち?」
セイアヌスはとっさに何のことかわからなかったらしい。だがルシアスが手すりをのりこえ、テラスの柱につかまろうとしているのに気づくと、とまどって、あわてて手を口にあて、あたりを見回し、とめようとするように手を上げたあとで、今度は柱の下まで走って来た。
「大丈夫、どいていたまえ」柱を身軽にすべり下りながらルシアスは笑った。「どっちみち君にはうけとめられやしないったら」

するするとすべり下りて来て、目の前の石段にとび下りたルシアスを、セイアヌスは目を見開いて見つめ、あらためて柱を見上げて、無邪気な感歎の声を短く上げた。「すごい!」
「このくらいでびっくりしちゃいけない」ルシアスはチュニックのすそをはたきながら、セイアヌスを見上げた。「島の男の子なら皆、この三倍はある船のマストを自由に上り下りするんだよ」
セイアヌスはうなずいて、見えない船を見上げているように、じっとテラスの上に目をやっていた。
「そんな船を見たことがあるかい?」
「昔…少し」セイアヌスは小声で答えた。「母と旅をしていた頃に」
「きれいな庭だね」ルシアスはあたりを見回して声を上げた。
上から見ていた時にはわからなかったのだ。やわらかいシダの、銀色に光る茂みが煙のようにそこここに広がっていた。巨大な木々の幹にからまる黒っぽい蔦がつややかに輝きながら不思議な模様を描いている。壮麗な回廊の柱のようにどっしりと並ぶ古木の上から白く幾筋も落ちかかる月光に、大小いくつもの彫刻が浮かび上がって、まるで音もなく躍っているように見えた。
「海の底にいるようだ」ルシアスは淡い光の中に手をさしのべて見ながら言った。
「ここは奥庭なので、お客さまがお入りになることはめったにないのです」セイアヌスは木の幹の一つにそっと手のひらで触れながら答えた。
「じゃ、僕が来て悪かったかな?」
セイアヌスは笑って首を小さく振った。
「少し歩こう」ルシアスはそう言って、テラスの下を離れ、光と影の入り乱れる、木々の間に入って行った。

月光は、二人の上にさしわたした枝の間から、細かい銀粉のようにふりそそいでいた。風ひとつなく、あたりはしんと静かで、少し離れてついて来るセイアヌスのサンダルが草を踏むかすかな音まではっきり聞こえた。
たくましい若者のやさしく曲げた腕の中に、豊かな髪に包まれた裸身をあずけるようにのけぞらせて抱かれたまま、まどろんでいるニンフの像の前で、ルシアスは立ちどまった。
「美しい像だね」彼はそれを見上げて言った。「母とマキシマスって人も、こんな風だったのかな」
セイアヌスはゆっくりと像を回るようにして近づいて来て、ルシアスと並んで立って、若者とニンフを見上げた。
「そうだったのかもしれません」
夢見るようなおっとりとやわらかい口調だった。
ルシアスはニンフの折り曲げた足のそばに腰を下ろした。
「君はもう読んでしまっていると言ったね。母の手紙を全部?」
セイアヌスはちょっとためらいながら、小さくうなずいた。
「母は、どんな人だったと思う?何を望んで…考えていたのだろう?」
「私は、お母さまにお目にかかったことはございません」つつましく、ていねいにセイアヌスは答えた。「お書きになったものをすべて拝見しましても、それで人となりがどのような方か、とても、わかるものではございません」
ルシアスは笑った。「用心深いんだな」
セイアヌスも少し困ったように笑った。「けれど、ほんとのことでございますから」
「手紙から察するだけでもいいよ。母は、どういう人だったと思う?」
セイアヌスは答えなかった。
「恋人を捨て、弟を裏切り…結局は自分のために生きた人?」
セイアヌスは強く首を振った。
「それは、ちがうと思います」
「結局は、僕のことが…自分の息子だけが大切だった人なのかな?」
またセイアヌスは、きっぱりと首を振った。
「お手紙を拝見した限りでは」彼はささやくように言った。「それだけの方だったとは決して私は思いません」
「心強いな」
ルシアスが笑ってそうからかうと、セイアヌスはかすかに赤くなって目をそらした。
「お母さまはとても、すばらしい方でいらしたと私は思っています」彼はいつもの落ちついた声に戻って、ニンフの像を見ながら言った。「おやさしく、かしこい…とてもすぐれた女の方でいらっしゃったと」

第六章 船の見える窓

(1)濁った空

テラスの柱を再びよじのぼって行くルシアスを、セイアヌスは感心したように見上げていた。次の日会った時、彼がどんな顔をするのだろう、いつもと同じか、それともこっそり笑いかけてくるのかなどとルシアスは考えながら眠ったが、翌朝はセイアヌスもキャシオもいつものへやには来ておらず、グラックスだけが朝の光の中に座って、じっとテラスの向こうの緑の木々と遠く霞むローマの町なみに目をやっていた。
「空気が濁っていますな」彼はつぶやくように言った。「アフリカからの熱風が、かの地の砂を運んでくるのか」彼はルシアスに目を戻した。「お連れの方は?」
「そろそろ一人歩きにもなれたようなので、町に遊びにやりました」ルシアスは笑った。「今ごろはきっと広場で、あやしげな土産物でもつかまされていることでしょう」
「それはそれは」グラックスも笑った。

ルシアスはゆっくりとテラスに歩み出、手すりに手をかけて町を見つめた。
「あなた方のクーデター計画が失敗したのは、母が僕を殺すとおどかされて、叔父にすべての計画を話してしまったからなのですか?」ルシアスはグラックスの方を見ないまま言った。「そして、僕の即位式が行なわれた後で、そのことが人々の間で噂になり、裏切り者と名ざされて母は都を追われたのですか?」
「どなたに聞かれた?」グラックスの声は静かだった。
「侍女たちがそう言っていました。島の漁師たちもそう話していた」
「でしょうな」あいかわらず穏やかに、グラックスは言った。「ここ、都でも、誰もがそう思ったし、そう語った」
「それは、本当なのですか?」
グラックスは長いこと黙っていた。木々の間でさえずる鳥の声をいつまでもしんぼう強く聞いた後、ルシアスはようやくグラックスがゆっくりと身体を動かす衣ずれの音を聞いた。
「ちょうど、このような朝でした」グラックスが言うのが聞こえた。「お母さまは、あなたが今立っておいでのその場所に立って、同じようにそうやって町の方を見ておられた」
ふりむいたルシアスにグラックスは笑いかけた。屈託のない笑顔に見えて、あいかわらずその表情は読めなかった。
「私はお母さまに申し上げた。民衆を見くびっては危険です。彼らは愚かに見えて愚かではありません。真実はいずれ彼らの知るところとなりましょう。お母さまは涼やかに笑っておっしゃった。グラックス。あなたは謙虚な方だから、民衆を自分と同じに思っておられる。なるほど彼らは愚かではありますまい。けれども彼らの弱点は、知ろうと思う真実しか知りたがらないことにある。見たくない真実など、彼らは決して見ようとしないわ。大丈夫。わたくしには自信があります」
かすかに茶色がかって曇る空の下に広がる都の方に目をそらして、グラックスは低い吐息をついた。
「お母さまは、正しかった」

一瞬、何を言われたのかのみこめず、ルシアスは眉をひそめた。
「何とおっしゃったのです?」
「コモドゥスが皇位につき、そしてコロセウムでマキシマスに殺されるまで、我々にとってもお母さまにとっても、まことに緊迫した日々が続いておりました。ただ一瞬の判断の誤りがすべてを変えてしまうような毎日が」グラックスは立ち上がり、純白のトーガをゆらめかせて、ゆっくりと机を回った。「手紙をやりとりする暇はなかった。そんな危険もおかせなかった。あの頃、お母さまが何を思い、何を感じて生きておられたかは、知りようがありませんでした。弟が父を殺し、かつての恋人マキシマスを殺し、それを知りながら弟を支えた日々。死んだと思われていたマキシマスの出現。彼を説得し、クーデターの計画をたて、やがてそれは失敗する。私は投獄され、マキシマスは地下牢で死にいたらしめる傷を負わされた上で闘技場へとひき出された。後にわかったことですが、コモドゥスは実の姉であるお母さまに男女の関係を迫り、自分の子を生んで後継ぎとすることを要求し、拒めばあなたを、ルシアスさまを殺すと言っていた。そのような中で、お母さまはマキシマスとコモドゥス…かつての恋人と弟の決闘を見つめ、二人が死ぬのを見守られ、その後、あなたを皇位につけ、やがて失脚して都を追われた。その間、何を考えておられたか、計画を話しあうことはあっても、お心をうかがういとまはありませんでした」
グラックスは、いつもの白い箱のふたを開けた。だが、そこから取り出した、ぶあつい手紙の束を、ためらうようにしばらくの間、重たげな指輪をはめた手の中に持ったままでいた。
「当時のお気持ちをつづった長いお手紙を下さるようになったのは、あなたと島でお暮らしになるようになってから間もなくです。さまざまなお気持ちを思いつくままに、とりとめもなく、書いてよこされるようになった」
「知っています」ルシアスはうなずき、つぶやくように答えた。「僕はよく覚えている。海がすぐ目の前に見えるへやの窓べで、小さな机に向かって母は手紙を書いていました。おくれ毛を潮風になびかせながら。時にはほとんど毎日のように」
「この時期のお手紙を私はまだあまり整理しておりません」ようやく机の上に手紙の束を置きながら、申しわけないというように、グラックスは軽く頭を下げた。「少し順序は乱れているかもしれないが、おそらく、どのみち、あまり問題ではありますまい。お母さまも時の流れとは関係なく、思いつくまま、気の向くままに書いてよこされているようですからな」

(2)見えてきた闇

なつかしいグラックスおじさま
この数日、雨がふりつづいておりましたけれど、今日はすっかり晴れました。
春の海は、何やら人をおどかすような深い緑色をして、まだ少し荒々しく、晴れた空の下でうねっています。

ルシアスは、あっという間にここの暮らしになじんでしまいました。
毎日、砂だらけになって島の子どもたちと浜べで遊んでいます。
それを見ていると、何だかもっと早くこうしてやりたかったとさえ、ふっと思ってしまいます。

弟がまだ幼いころ、友だちと遊んで泣かされないか、それとなく見守っていたことなどを、ふと思い出します。
皆が、この子は弱虫と言い、愚かと言い、それでもわたくしがこの子を一人ででも守ってやると心を決めて、いつもあの子を見守ってきました。

政治や歴史に、もしも、を考えても意味がないことは知っています。
それでも、もしも、と思います。
あの時、マキシマスがコロセウムに現れなければ、わたくしは弟を支えて何とか政治をたて直してゆくことができたでしょうか?
それともあれは、初めからまちがったことでしたでしょうか?
弟を支えて、皇帝として正しい道を歩ませようとしたことは?

弟は、たしかに元老院に強い敵意を抱いていました。
元老院との対決やかけひきに、さんざん苦労していた父の様子を見るにつけ、弟はそれに敵意と反感を持ち、皇帝のみの支配をめざすようになって行ったのだと思います。
けれども、父はひとすじ縄では行かない人と、わたくしは知っておりました。
元老院とのかけひきを、おじさまたちとの戦いを、父は充分に楽しんでいたと、わたくしは思っています。
時には元老院を悪役にして民衆への批判をかわすなど、上手に利用してもいた。
こうしたことが弟にはすべて、見えていませんでした。
ただ素直に父に同情し、元老院を憎んだのです。

けれど同時にあの頃弟は、自分が手に入れた権力に、おびえはじめてもいました。
ローマに戻ったはじめの頃は、新しいおもちゃをもらった子どものように、夢中で宮殿の模様替えをしたり、町の整備をしたりして喜んでいましたけれど、次第に自分には何かが見えていないこと、何かが欠けていることに、否応なしに気づきはじめてもいたと思います。
あの子は人に好かれるようにするにはどうすればいいかは、わりとよく知っていました。
けれど、人にどう思われようと、しなければならないことを、何ひとつと言っていいほど、あの子は持っていませんでした。
元老院の皆さまは、おじさまをはじめ、どんなにいいかげんでも、何かそういうものを持っておられる。
おじさま方とわたりあう中で弟はそれに気づき、自分にはまったく扱いようのない、見えない世界があることを感じて、おびえはじめていました。
暗闇が恐い、というのは、あの子の昔からの癖です。
でも、あの子はあのころ、しばしばそれを口にして、それは決して本当の暗闇というだけでなく、朝も、昼も、あの子が感じていた、自分には手さぐりで歩くしかない、見えない世界の闇だったようにわたくしには思えてなりません。
そんな中で、あの子はおびえた子どものように、わたくしにすがりついて来ようとしてきていました。
わたくしに見捨てられ、裏切られたら、もう絶対に生きて行く道がないことを、知り抜いていたと思います。

弟がそうやって、姉として以上の愛情をわたくしに向けてくるのは危険なことではありましたけれど、その執着と愛情を、うまく、うけ流しつつ利用すれば、わたくしはあの子をあやつって、支配して、元老院とよい関係を結ばせて、よい皇帝にして行くことが可能だったのではないだろうか。むずかしい賭けでしたけれど、望みがなかったわけでは決してないと、わたくしは今でもそう思う。

けれど、現実にはマキシマスがあらわれて、そして、すべてが変わりました。

(3)白馬に乗る人

あの日、彼がコロセウムに現れた日。
なぜかわたくしは、彼がわたくしによく似合うと言ってくれた、濃いすみれ色の服を着た。
残酷な処刑やショーはルシアスのために避けて、剣闘士競技が始まるまで、日陰でワインをいただいていたことを覚えています。
新しい紫紺の服がわたくしと似た色だったことに上機嫌だった弟は、髪につけた細い金の月桂冠が似合うかどうかをわたくしに聞いたりいたしました。
人々の喝采の中、貴賓席についたわたくしは、長い槍と大きな楯を持って現れてきた、まもなく皆殺しにされるはずの銀色のよろいの大きな男たちを、見るともなく見ていました。

彼らはわたくしと弟の席の下に並んで、手を上げて、「皇帝のために死に行く者」の誓いのことばを、声をそろえて述べました。最前列の中央にいた一人の男が手を上げず、唇も動かさず、黙ってこちらを見ているのには気づきましたが、そういうことは時々あるので、わたくしは気にとめませんでした。
なだれこんで来た戦車の集団の前で、その男たちが、これまで皆殺しになった男たちが誰もとったことのない奇妙な隊形を…アリーナの中央にかたまって一団となり、周囲を楯で囲む体勢をとったのにはわたくしも気づきましたけれど、それをとりまいて走り回るだけで何もできなかった戦車の中の一台が、楯にぶつかって横転した時は、驚きながらもまだ偶然のことと思っておりました。

けれど、それからも次から次へと戦車は算を乱して転倒しつづけ、砕けつづけ、こういうことに目ざとい観客たちや、競技にくわしい弟が、目の色を変えて、身をのり出し、叫びはじめるのを見ていて、ようやくアリーナで今、ただならぬことが起こっているのを知りました。
その中心になっているのが、いつの間にか、まるで砕け散る戦車や飛び散る肉体の海の中からわき出たように、奪った白馬にまたがってアリーナ狭しとかけ回って仲間を指揮している一人の剣闘士であることも。
顔をすっぽりとおおった、かぶとの異様なかたちから、あれはさっき忠誠を誓わずに沈黙していた男ではないかしら、とちらと思いはしましたけれど、まだわたくしは何も気づきませんでした。
ただ、その白馬に乗った男が目の前をかけすぎる時、短い粗末な青いチュニックのすそからむき出しになっている、ひきしまった長い足が、白馬の背をしめつけているのを見て、ふっと思いました。
美しい足。
まるで、あの人のような。
つかの間の、ほんの一瞬、頭のすみをかけぬけた思いでしたけれど。

競技が終わった時、弟は興奮しきって、そばにいるわたくしのことなど忘れていました。
ルシアスもそうでした。
男の子なのね、とちらと思ったのを覚えています。
戦車はすべて破壊され、剣闘士たちは勝ち誇って、観衆の喝采を全身でうけとめていました。
あの白馬の男に会ってくると言って弟は、身をひるがえしてアリーナの通路に消え、ルシアスもそれを追って行きました。

めったに競技場においでにならなかったおじさまはご存じないでしょうけれど、弟はよくそうすることがありました。
気に入った剣闘士に、アリーナに下りて行って声をかけることが。
場なれした剣闘士なら、それを予想して待つのですが、明らかにコロセウムには初めて来たらしい、その時の剣闘士たちは、退場しようとしていたのを近衛兵の一団におしとめられて、緊張して剣を構え、戦ったあとの興奮がまださめていない、気のたった獣のように戦闘体制をとりました。
その中に立っていた、あの奇妙なかぶとの男が、わずかな両手の動きで仲間を制し、落ち着かせたのをわたくしは見ました。
もう、落ち着いている。
そう思いました。
あの男だけは、勝利にも酔わず、一人だけ、もう氷のようにさめている。
まるで、とちらと思ったのかどうか。
わたくしはもう覚えてはおりません。

弟はその男に何か話しかけていました。
ルシアスが走って行って、弟の前に立ち、背中をもたせて甘えていました。
男は、ふつう剣闘士がそういう時にするように喜んで胸を張り、ことさら自分を大きく見せながら、しかも、うやうやしい態度で受け答えするのではなく、微妙に身体を斜めにして、弟から顔をそむけ、地面に目を落としていました。
奇妙な態度でした。何を考えているのだろうと、わたくしはいぶかりました。これ以上はないというほどの衆人環視の中にさらされていながらなお、まるで自分の姿をどこかに隠してしまえると思ってでもいるかのように見えました。
そして、そういう姿勢をとればとるほど、そのような風情を見せれば見せるほど、その男の身体のつりあいのとれた美しさ、周囲の巨大な男たちの中ではやや小柄に見えてしまうほどの、自然で目立たない、でもその分少しも人工的なわざとらしさのない、まるで野生の獣のようなすくよかなしなやかさが、あらわになってしまうのは、見ていてどこか痛々しいほどでした。

わたくしの心の中でまた、何かの記憶が動きました。
今思うと、それは、マキシマスがわたくしをいやがって避ければ避けるほど、わたくしがその魅力にひかれていった、いやな時期の思い出で、それとはっきり意識はしませんでしたけれど、何となく不愉快でしたから、わたくしはそれを押し殺しました。
そして何も考えないまま、弟と、その男のやりとりを見つめていました。

声があまりはっきりと届いてきたわけではありません。
けれど、その男が突然、何かを拒絶するように弟に背を向けて歩き出した時には、その考えられない無礼に全観衆は凍りつきましたし、それを鋭くとがめる弟の声はよく聞こえました。
「奴隷!」と弟がどなりつけた時、男の足はとまりました。
よろいの肩がわずかなため息に上下したのがはっきり見えました。ゆっくりと手を上げて、彼はかぶとをはずして抱え、弟の方にふりむきました。
その、こんな時なのに、どこかとても大事そうにていねいにかぶとをかかえたしぐさに、わたくしは激しく胸がとどろきました。うつむけ気味に弟の方に向き直ったその横顔がまごうかたなき、あの人であることを、そのしぐさとともにわたくしは、はっきり確認できました。

(4)恐ろしい敵

自分でも気づかず、立ち上がっていました。
皇女としてそのような動揺を見せてはならぬと、よく知っていながら。
幸い、誰もわたくしのそんなしぐさを見てはおりませんでした。
驚愕と恐怖に身動きもできず立ちつくしている弟に向かって、あの人が自分の名を名乗り、先帝である父への忠誠と妻子の復讐を誓う声は、基地でも、どこでも、いつもそうだったように、低くてもはっきりと、遠くまでよく届いて来ました。
それは事実上の反逆罪に値する、弟への公然の宣戦布告でしたから、そばにいた近衛隊長は当然周囲の兵士たちに抜剣を命じました。
それに対する観衆のざわめきと怒号が高まる中、弟がなだめるように手を上げたのは、まことに愚かなことでした。
殺すなという声は、すでにうねるように大きくなっていましたけれど、それでも弟がそれを無視して何もしなければ、あのまま近衛兵が剣闘士たちを殺し、人々の怒りは兵士たちに向いたでしょうし、後で近衛隊長にその責任をとらせることも可能でした。
自らの意思表示をして見せたことで弟は、観衆と自分との間におくべき障壁を、それが最も必要な時に、自分の手で取り払ってしまったのです。

弟が本能的に、反射的に手を上げてしまったのは、目の前のマキシマスがとにかく恐かったのだと思います。
自分には兵士と、民衆がついている。自分の手と指の動きひとつで、彼らを自由にあやつることができる。
そのことを弟は確認しないではいられなかったのでしょう。
けれどもそれは、裏目に出ました。
観衆は、弟が手を上げたことで、その指を上に向けるか下に向けるかを左右する力が、自分たちにあることを、逆に確信したのです。
たちまち、コロセウムは嵐のような抗議と怒号の叫び声につつまれました。そして、すぐにそれは、巨大な一つの「殺すな」という叫びに結集して行きました。

これが、ローマの民衆です。
自分たちの力を知り抜いており、それが行使できると見た時には、決してあとへはひきません。
それに乗れば、思いがけないことも可能となる。しかし、いったん立ち向かうことになれば、これほど恐ろしい敵もない。
なぜかあの時、わたくしはマキシマスを見ず、弟だけを見つめていました。
マキシマスのことは、忘れてしまったといってもいいほどです。
弟の心がわたくしには、手にとるようにわかりました。
とまどい、怒り、そして恐怖が。
それまでいつも弟は、民衆のヒーローでした。
即位した当時は不満や反感を持っていた人々も、弟の次から次へと実施した、人々を喜ばせる政策にすっかり気をよくし、弟を支持していました。
民衆に守られている。弟はそれを信じて、元老院との対決に、からくも自信を保っていました。
弟を見つめながら、自分が何を考えていたか、わたくしはもう覚えていません。
マキシマスがあの時何を考えていたかもわかりません。
兵士たちの心をつかむのは巧みでも、民衆のことは彼はよく知らなかったはずです。
弟がどれほどの恐怖を感じていたかということも、わたくしほどには彼にはわからなかったでしょう。

弟がよほど度を失って半狂乱にならない限り、指を下ろして死を宣告することはあり得ないと、わたくしは思っていました。
民衆に逆らって断固として何かをするということは、弟には決してできません。
ただ、半狂乱にならないという保障もまたありませんでした。
民衆に裏切られたという怒りにまかせて、民衆をふみにじろうと思うかもしれない。父に裏切られたと思った時、父を殺してしまったように。
なぜか、でもまた、わたくしは、マキシマスが前にいる限り、弟は半狂乱にはならないだろうという奇妙な気持ちもしたのです。
彼をどんなに憎んでいても、恐れていても、マキシマスに見つめられていれば、弟はどこか冷静でいられるはずだと。
わたくしも混乱していましたから、その判断がどれだけ正しかったかは今でもわからないのです。
マキシマスといっしょにいる時、弟はいつも幸福そうで落ち着いていた、そんな昔の思い出が、いわれなくよみがえってきていただけなのかもしれませんけれど。

そして、弟は、やはり、指を上に上げて助命の合図をし、満場の喝采の中をマキシマスは仲間の剣闘士たちとひき上げて行きました。
それを見送っていたわたくしの中に、ひとりでに浮かび上がってきたことばがありました。
彼しかいない。
弟と対抗して民衆を支配できるのは彼しかいない。
わたくしは立ち上がり、戻ってきたルシアスを連れて、まだ興奮のさめやらぬ人々のざわめきの中を宮殿へと戻りました。
弟とは顔をあわせないまま、ルシアスを寝かせて、自分のへやに戻りながら、なお考えつづけました。
彼がわたくしたちに協力してくれれば、わたくしたちは弟を倒せる。
それはいったい、可能だろうか?
そんなことばかりを必死で考えていて、気がつくと、わたくしの全身は熱病にでもかかったように、わたくし自身の意志とは何の関係もなく、がたがたと震えはじめていて、両手で腕をきつく抱き、歯をくいしばってとめようとしても、とまらないのでした。
いつからそうなっていたのか、それもわかりません。
今までずっと、必死で考えていたことは、本当はどうでもよかった。
何かを考えつづけていなければ、自分がどうなるかわからないから、考えつづけていただけです。
ひとつの事実を少しづつ、自分の中にしみこませて行く時間がほしかったのです。
あの人が、生きていたという。

その夜、弟に会いました。
しいて、さりげない風をよそおって、書記官の持ってきた書類の山にサインを繰り返しながら、彼が全身でわたくしが何を考え、感じているか、さぐろうとしているのが、ひしひしとわかりました。
そして、あの夜、生まれて初めて、わたくしは、弟が恐いと思いました。

海の色がおだやかな灰色に変わり、遠い空に夕焼けが、にじむように広がりはじめています。
この続きはまた明日、書かせていただきます。

(5)初めての感情

わたくしのグラックスおじさま
おじさまも覚えておいでのように、わたくしはすでにあの時、おじさまやガイウス議員に、ローマのためには弟を殺すしかないという決意をお伝えしておりました。
それはもちろん、本心でした。
けれども同時に、わたくしの方からそう語ることで、おじさまたちが、元老院が、弟をどれだけ見限っているのかをたしかめるとともに、弟の生殺与奪の決定権をわたくしの手に握っておくという計算もございました。
わたくし自身は、あの時もまだ、もしかしたら弟を殺さないでもすむかもしれない、徐々にわたくしの言うことを聞かせて、望む方向に立ち直らせて行けるかもしれないという一縷の望みは持っていました。
今になって、冷静に考えてみれば、コロセウムで思わず手を上げてしまった弟と同様に、わたくしも愚かであったかもしれません。
マキシマスの登場によって、民衆の支持を失うかもしれないと予感した弟は、ただ一つのよりどころであった自信を失って、それまでになくおびえ、わたくしにすがりつこうとしていたはずです。
それをわたくしが見抜いて強気に出れば、完全に主導権をとって弟を思いのままにできたはずでした。
それなのに、あの時わたくしは、それを察する余裕がありませんでした。
どうしてあれほどまでに、おびえてしまったのでしょう?

それまでのわたくしは、ずっと落ち着いていたのです。
弟を殺さなければならないかもしれないことは、もちろん、恐ろしかったし、悲しかった。
けれども、それを決めるのはわたくしでした。
わたくしが弟を見限った時が、弟の死の決まる時でした。
そう思って、ある意味では冷やかに落ち着いて弟を見守っていました。
いとおしくも哀れでもあり、用心もしていましたけれど、決して恐れたことはありません。
そもそも、弟に限らず、生まれてからあの夜まで、わたくしは何かを恐れたことなどありませんでした。
父も、夫も、弟も、その他の誰も、どんな敵も、痛みも、危険も、辱めも、恐いと思ったことはありません。
マキシマスと別れる頃は、たしかに、あの人がわたくしのことをどう思っているか恐かった。それを知るのが恐かった。
でも、そんな恐怖は恐怖とも呼べないほど、何でもないものだったことを、あの夜、わたくしは知ったのです。
生まれて初めて知る感情だったから、それがおびえということさえも、よく理解できないまま、弟のまなざしに、一言一言に、わたくしの胸はおののきました。
マキシマスが傷つけられるかもしれない。
ただ、そう思っただけで。

でも、そのことさえも、その時はよくわからなかったのです。
病気の初めや怪我の直後に、痛んでいるのがどこかがどうしてもつかめないように、自分が、何におびえているのかさえ、はっきりつかめませんでした。
ただ、自分の中で何かが砕けて行き、崩れて行き、守りが固いと信じていた城の城壁がみるみる弱点をあらわにして行くように、何かが変化して行くのがよくわかりました。
自分の判断力も分析力もどこかでゆがんで狂っていくようで、何ひとつ信用できず、自分の弟に対する支配力がその場で、指の間からすべり落ちるように消えていくのが、目に見えるようでした。
弟の目をごまかせたかどうかもよくわからなかったし、何を答えたかもよく覚えていません。
へやにひき上げて、おじさまにさし上げた、あの書きつけを書きました。
あんなものを書くことも、お届けすることも、危険なことはわかっていました。
けれども、わたくしは夢中でした。
冷静にあの人の気持ちを分析し、わたくしたちがそれをどう利用できるか考えることで、自分の中にわき上がってくる、もう一つの感情を抑えようと必死でした。

(6)仮面の下に

そうやって、落ち着いて、落ち着いて、と自らに言い聞かせながら、彼の心にふれる時、わたくしの心はますます乱れました。彼の味わった苦痛。耐えた悲しみ。かみしめた屈辱。そのひとつひとつがわたくしの中に流れこみ、自分のものか彼のものか、見わけがつかなくなるほどでした。
その後につづく長い日々もずっとそうでしたけれど、このような痛みと苦しみを、彼に与え、わたくしに与えている弟と、ローマの民を、わたくしがどれほどまでにさげすみ、呪い、憎んだか。とても口では申せません。
そのすべてを隠して、弟の前で、人々の前で、にこやかにほほえみ続け、彼の噂に耳をかたむけ、時には自分でも彼のことで軽口や悪口を語って笑いあってみせたりもした、あの日々を思う時、今でも身の毛がよだち、血の凍る思いがいたします。
けれど、そうしなければ命とりでございました。
わたくしが愛してやまないあの人の命は、わたくしの手にではなく、あの人のことなどなぐさみものとして以上には何とも思っていないたくさんの人々の手ににぎられていたのですから。
その人々の目から、弟の目から、わたくしの彼への愛の深さをかくしぬけるかどうかということに、あの人の命がかかっておりましたから。

そしてその夜、わたくしは、熱にでも浮かされたかのように、あの人のいる剣闘士の訓練所へと向かいました。
あの人を説得し、わたくしたちの味方につけること。
弟が危険を感じて行動を起こす前に、一刻も早く、こちらが手をうたなければならない。
そう自分に言い聞かせて。
けれども今は、わかります。
あの時のわたくしには、弟も、ローマも、どうでもよかった。
あの人を見たかった。
声を聞きたかった。ふれたかった。
肌の匂いをかぎたかった。
近づきたかった。一歩でも近くに。
ほのかな身体のあたたかさが空気を伝って感じられるほどに。

今日はもう、これ以上書けません。

思いがけないほど涼しい風が、テラスから吹き込んできて、手紙の束をかさこそと鳴らした。
ルシアスは目を上げた。
「雲が出てきましたな」つぶやくようにグラックスが言った。「雨になるかもしれません。お連れの方が、それまでに戻ってみえればよろしいが」
「これほどまでに愛していた人を、母は裏切ったのですか?」ルシアスは手紙のはしに手をのせたまま、低く聞いた。「僕の命を守るために?」
グラックスは答えなかった。首をふるでもなくうなずくでもなく、あいまいに彼は頭を動かした。
「そんなに自分が愛されていたなどと、僕にはとても思えない」額を手で支えて、うめくようにルシアスは言った。「思いたくない。そんな愛は、重すぎます」
「そうではありません」あいかわらずつぶやくような低い声でグラックスは、外を見たまま、そう言った。
「何がそうではないのです?」
「世の中のできごとというものは、何ひとつ、はためから見たそのままのものなどない」あいかわらずひとり言のように、どこか皮肉な軽やかさでグラックスは言った。「そういうことです」
ゆっくりと彼は首をめぐらし、鋭い目でじっとルシアスを見た。
「手紙の続きをお読み下さい」彼は言った。「昼食までにはまだ間があります」

(7)男たちの絆

尊敬するグラックスおじさま
ローマは大変な状況と聞いておりますが、ご無事とうかがってほっとしております。
皇帝の座はめまぐるしく入れかわり、軍団の動きも先が読めそうにありませんのね。
人々の苦しみを思うと胸が痛んでなりません。
幸い、この島は平和です。
浜辺で、貝のふたを開けている女たちの歌声が聞こえてきます。

マキシマスと弟とわたくしの三人は、思えばとても奇妙な関係だったのかもしれません。
おじさま、これはわたくしの負けおしみととって下さってかまわないのよ。弟さえいなければ、わたくしはマキシマスともっと長く、深くつきあって、最後はもしかしたら結婚できたかもしれません。
もちろんそうならなかったのは、弟のせいではないわ。
あの、ひねくれもので臆病者のマキシマスのせいなのですわ。

幼いころから弟は、わたくしが大好きで、わたくしの言うことならば何でも絶対、聞きました。
あなたがそうしむけたのでしょう、と、あの憎たらしいマキシマスが一度申したことがあります。
あなたがあの子をあのように支配しきっていることは、いつかきっと、あなたを不幸にするように思えてならない、と。
そうです、うっかりでしょうけれど、弟のことをあの人はあの時、あの子と呼びました。
泣き出しそうなほど、苦しげな顔で。

あなたにはわかっていない、とわたくしはその時、叫んだわ。
わたくしは、女よ。戦いに行くことも、政治に口を出すこともできない。わたくしが支配できるものと言っては、この世にあの子しかいなかった。
わたくしの未来に何があるの。あなたには拒絶しなければ与えられるもののすべてが、わたくしには要求してさえ与えられることはないのよ。黙って運命を受け入れていれば、わたくしの生きていく先には何が待っているか、わたくしにはすべて見えるわ。望みもしないどこかの貴族と結婚して、その人の子どもを生んで育てて、侍女たちと噂話にあけくれて、ひまつぶしに若い恋人や愛人を作り、その人や夫の政治や仕事のぐち話のお相手をつとめながら、年とって死ぬだけの人生。誰の記憶にも残らない、何ひとつ残すことのできない人生。あきらめつづけることが幸福、生きながら死んでいることが安らぎにつながる人生。そんなものをうけいれるの?わたくしはいや。そんなこと、決して認めない。
人間には、自分の力ではどうしようもないことがあるのです。あの人はつぶやくようにそう言いました。あきらめずに全力をつくして、最後の最後までせいいっぱい戦っても、それでもなお、かなわないことが世の中にはあります。それは、あきらめて、受け入れるしかありません。そうでなければ自分も、他人も不幸になります。
それが何なの。わたくしは認めない。わたくしは叫びました。たとえ自分が不幸になっても、たとえ他人を不幸にしても、そんな運命を決して、わたくしは認めはしない。そんなものをうけいれて認めて、幸福になんかなれないわ。人を幸福にもできるわけない。そんなことを認めたら、わたくしは、生きていけない。

そんなことは、ともかくとして。
ええ、今日は、深刻な手紙は書くまいとわたくし決めておりますの。
夏の陽射しはこんなに明るく、海はあんなに青いのに。
洗いざらした白いカーテンを風がなぶって行く。わたくしの心にまでそれが吹きとおって、胸の底までからりと晴れて行くよう。
それで、弟は、わたくしのいいというものは何でもいいと思い込み、悪口を言うものは皆つまらないと思い込み、それはとても、おもしろいほどだったのですけれど。
だんだん、その内、わたくしの気に入るものは自分も気に入って、何でもかでもほしがるようになりました。
あれはいったい、何だったのでしょうかしら?
時には、あまりほしがるから、いいわよと言って、おもちゃでも、かざりものでも、あげてしまうと、すぐにあきて放り出してしまっていることもありました。
わたくしといっしょに何かに夢中になっていて、でもわたくしがあまり夢中になっていると、きげんが悪くなってしまうことも。

やるわねえ、と時々感心してしまいましたのは、わたくし自身がまだ自分がそれを好きかどうかはっきり気がつかないでいる内に、あの子がそれを好きになったり、気にしたりすることでした。
あの侍女がどうのこうの、あの馬がどうのこうの、といやにこだわってごちゃごちゃ言うので、わたくしも、そうかしら、と思って注意してみようとして、ふっと気がつくと、それって、わたくし自身がかなり前から、自分でも気づかずに、目をとめていた、人だったり、ものだったりするのです。
わたくしが何を好きか、きらいか、愛しているか、憎んでいるかに、弟はそれほどに敏感でした。

マキシマスについても、それは同じことでした。
ただ少しちがったのは、弟はどうやら、わたくしが好きだからということだけでなく、自分自身がマキシマスを好きだったらしいことです。
マキシマスがまたマキシマスで、それまで父をはじめとして、誰もがしなかったことを堂々としてくれましたの。
わたくしよりも弟のことを大切にしたのです。
男どうしだもんな、という感じで、わたくしをのけものにするような楽しげなまなざしを、ちらと弟に向けることがあって、そんな時の弟の、もう幸福そうな顔といったら!
その内にすぐ、弟自身が小生意気に、そのマキシマスとおんなじ顔をわたくしにしてみせるようになって、二人で何かしている時に、わたくしが仲間に入ろうと近づいて行くと、女にゃわかんねえ話してんだけどなあ、みたいな、じゃまくさそうに、えらそうにこちらに向けてくる顔の、眠そうに目を細めた下目づかいなんかが、もうマキシマスそっくりで、マキシマス自身が時にはそれに気がついて間の悪そうな顔してたぐらいで、わたくしもおかしくて笑っていたのですけど、時には、ばかばかしいと思いつつ、真剣に腹がたったりもいたしました。

そして、それはもう、ほんの時たまですけれど、それまで決してわたくしに見せることのなかった、意地悪な、いやな態度を弟がわたくしにちらっと見せることがあって、それはもう、ほんのちょっとのことではありましたけれど、何となくわたくしは、ああ、弟は、自分の好きなものを奪われようとすると、こんなに冷たく、残酷に、強くもなれる子なのね、とわかったような気がしました。
わたくしがかわいがっていた侍女が目をまっ赤に泣きはらしていたことがあったり、飼っていた子犬や子猫が急におどおどとものにおびえたり、凶暴になったりしたことがあったのも、もしかしたら弟がかげでいじめていたのではなかったのかしらと、その時初めて思いあたりました。
そこまで気づいていながら、愚かにもわたくしは気がつかなかったのです。
弟がマキシマスのことも、かげで傷つけ、いじめて、わたくしから遠ざけようとしていたかもしれないなどとは。

今にして思えば、おじさま、わたくしは幼いなりに、かしこすぎたのですわ。
理屈に合わないこと、する価値のないことはいたしませんでした。
何をするにもちゃんと、計算と見通しがありました。
大抵の人って、そうではありませんこと?
ですから、弟が、マキシマスを大好きで、時にはわたくしを遠ざけたがるほど彼のことを好きなのを、よくわかっておりましたから、よもや、わたくしを独占するために、彼をしりぞけようとするなどとは思ってもみませんでした。
いいえ、弟だって決して彼をしりぞけよう、いなくなってほしいなどとは思っていなかったと思います。
そこが、あの子の強みなのよね。
何をしたいのか、自分でもさっぱりわかっていないことが。
弟のすることは、いつも支離滅裂ですわ。
だから、ちゃんとものごとを筋道たてて考える人間には、対応なんてできないのですわ。

もちろん、マキシマスがまた、弟にいじめられている様子をわたくしにまったく見せなかったということもあります。
侍女のように目を泣きはらしたり、子犬や子猫のように臆病になったり凶暴になったりすることは、もちろん、あるはずがありませんけれど、それにしても、まったくそれまでと変わらず、おだやかで明るく、のんびりとして見えました。
ただ、時々、どことなく沈んだ顔で、もの思わしげな風をするようになってきたのはわかりましたが、その頃の彼は何だか背ものびる一方、ひょろひょろしていた長い手足にしっかり筋肉もつきはじめて、顔だちや身体つきもいちだんと男らしくなりはじめ、肌の色もつやつやとみずみずしく、どうかした時は本当にまぶしいほどきれいに見えることがあり、この人、大人っぽく立派になったなあと、わたくし、うっとりながめていて、前より憂わしげに静かになってきたのも、その一つかと思ってしまっていたのです。
その内、次第にわたくしをさけるような、遠ざかるような様子が見えてきた時も、ですから、わけがわかりませんでした。

それに、彼はいつも堂々としていて、ある意味、生意気でしたから、わたくしは気がつきませんでしたけれど、やはり彼はただの兵士で、わたくしは皇女ですから、彼としては、あ、れ、で、も、わたくしの前ではせいいっぱい、まめまめしく、気働きをして、仕えてくれていたのですわね、無理をして。あたりまえのことではありますけれど。
これだけ年をとって、夫とも夫婦として暮らしてみて、今になって思い出してみると、わたくしなりに思いあたることがございます。

夫のヴァレスという人は、何ひとつマキシマスと似たところなどなかったのですが、たったひとつ、似たところがございましたのよ。
めんどうくさいことが、大きらいでしたの。
夫はとことん、しょうもない人でしたけれど、それだけにわかりやすくもあって、見ていると、ああ、マキシマスもこうだったのだ、と思いあたることがよくございました。
マキシマスの方がずっと賢いし、優しくて、したたかだから、すぐにはそれとわからないことが、夫を見ているとわかるのです。
お父さまが幾何学などを教えて下さる時、まず単純な問題を解いていくと、それを応用して複雑な問題もたやすく解けるようになるとよくおっしゃったのは、このことだったのね、とつくづく実感したものでございました。

おじさま。
マキシマスって、怠け者です。
きちょうめんだし、まじめだし、骨身を惜しまず人のためにつくす人ですけれど、それは無駄を省いて、時間や労力を節約して怠けるためで、決して、仕事そのものを難解に複雑にして、四六時中それにかまけていることを喜ぶのではありません。
とりわけ、人間関係のややこしいのは、ものすごくうっとうしがって、すぐに逃げ出したがる人です。
いたずら好きで、気まぐれで、軽やかな一方で、ちゃらんぽらんで、ぐうたらな、スペイン気質もありすぎるほどありました。
夫のヴァレスがふた言目には、そんなややこしいこと、もうわからん、うっとうしい、と言い、おれはもう知らん、かかわりたくない、と投げ出すたびに、わたくし、きっとあの頃、弟とわたくしの間にはさまって、マキシマスもこんな気持ちでいたのだろうと、わかったような気がいたしました。
ですから、きっともうあの時は、わたくしと弟からとにかく逃げたくなったのですわね。
かわいそうに。

ルシアスがエビかカニか何か見つけたらしく、わたくしを呼びたてておりますから、今日はここまでにいたします。
都の情勢は一段落したとはいえ、まだ予断は許さないかと思います。おじさま、どうかくれぐれもご用心なさって、おけがなどのないようにご注意なさって下さいませね。

第七章 色あせたモザイク

(1)すれちがう心

わたくしの大切なグラックスおじさま
あれからずっと毎日よい天気が続いております。雨ひとつ降りません。
あの、うっとうしいマキシマスの話をとっとと片づけてしまうことにいたします。
何かとあの人がわたくしを避けはじめてからしばらくの間は、わたくしもわけがわからず不安で、あの人の顔色をうかがったり、それとなくつきまとったりしていましたけれど、その内にだんだん腹が立ってまいりました。
わたくしの我慢にも限度があるわ。思わせぶりな、煮えきらない態度をとりつづける人に、いつも気をつかってさぐりを入れつづけているのなど、わたくしのプライドが許しませんでした。
わたくしはすっぱりとあの人を無視することに決め、ヴァレスやファルコや他の貴族の方々と、派手に遊び回ることにいたしました。
やってみると、それはそれでもう、大変に楽しゅうございました。

今思えば自分がまいた種ですのに、弟はわたくしのしていることにすっかりとまどい、困っていたようでした。
一人で基地に遊びに行って戻ってきては、マキシマス、元気がないよ、と何度も言っては、わたくしの気をひこうといたしましたが、あらそう?と言うだけで相手にもわたくしはいたしませんでした。
そら見ろ、やっぱり、という、たけだけしい満足感が心のどこかにあったかもしれません。
場所でも人でも、ものでも国でも、弟はわたくしの持っているものをほしがるけれど、それが輝いているのは、わたくしの手の中にあるからなのだということを気づいていない。自分には、それを輝かせる力も育てる力も守る力もないことを、まったく考えようとしない。
ええ、わたくし自身が、弟のものになったマキシマスに、そして弟の手の中で輝いても幸福にもなっていないマキシマスに、何の魅力も感じられなかった。
一二度、父のお伴をして基地に行き、そこで彼に会った時、わたくしが礼儀正しく明るく、きげんよく、よそよそしく、幸福そうにふるまったのは、ですからそんなに大変な努力を必要としたわけでも何でもありません。楽々とわたくしがそうしていることは、のんびりしているようで敏感な彼には、よく伝わっていたはずです。
そのせいか、彼は露骨に愛想が悪く、不きげんでした。とても意地悪で傷ついた怒った目でわたくしを見ていました。

わたくしはそれを見ていると、目まいがしそうなほど、どきどきしました。
それは、わたくしが初めて見る彼でした。そんなことをしそうにはない人が、無防備なほどにそんな態度を見せているので、どう考えていいのかわからなかったのです。
今ならば、自信を持って言えるでしょう。手にとるようにわかるでしょう。
彼は、わたくしがとても好きなのだと。そのことに彼自身が初めて気がつきはじめたのだと。
わたくしと弟の板ばさみになって、めんどうくさくなった上、わたくしにつきまとわれるのがうっとうしくて、遠ざかろうとしたけれど、実際にわたくしがいなくなり、他の男たちと心から楽しそうにしているのを噂にも聞き、目のあたりにし、おっつけ永遠に、わたくしが自分の手からはなれて行って、他の男のものになると感じた時、しかもそれをわたくしが何とも思っていないらしいと感じた時、彼はとまどい、いらだち、わたくしをもう一度とり戻したい、絶対に手放したくないという思いにかられはじめているのだと。
それを、どうするすべもないから、途方にくれているのだと。
このままだと、自分はわたくしの心の中で、思い出にさえ残らないのかもしれないと思い、その一方で自分の中ではわたくしとのさまざまなことが忘れられなくなってきて、自分はわたくしにとって、それだけのものでしかなかったのかと思えば思うほど、傷ついて怒っているのだと。
今ならわかる、ありありとわかる、そんなあの人の気持ちが、その時のわたくしには何ひとつわからなかった。
もしやそうでは、と思っても、そんなのは虫がよすぎる自分の勝手な思い込みのような気がして、まちがっていたらと思うと恐くて、信じるどころか、はっきりと考えることさえできなかった。
望みがまだあるのかもしれないと思っただけで、心が乱れ、気が狂いそうになるのでした。だからもう、そんな可能性は絶対に考えまいと思っても、完全にはどうしても、あきらめきれていない自分が悲しくて、情けなくて、憎かった。

(2)傷つけあって

そんな夜、ヴァレスたちとの宴会から帰って来たわたくしに、待ちくたびれていた弟が得意満面で告げたのです。マキシマスが姉上と遊んだり、キスしたり、抱き合ったりしてたのは、皇女にそう望まれてやむを得ず、やってたことだって言ってたよ、って。
多分、自分に対してはそうではなかったのだと弟は言いたかったのでしょう。
わたくしにそう自慢したくて、自分と二人だけでもマキシマスは幸福なのだということを何とかわたくしに見せたくて、彼がそう言わざるを得ないように話をもっていったのでしょう。
それもまた、今だから、わかること。
ただでさえ不安定で、緊張しきって張り詰めた弓の弦のように震え続けていたわたくしの気持ちの糸は文字通り、それでぷっつり切れました。
肌が一時に、火のように熱くなったのをぼんやりと覚えています。
気がついたら輿を命じて、月夜の中を基地に向かって走らせていました。
川の波が月にきらめき、ナイフのように鋭く光っていました。

起きてきた彼を、テントの中で問いつめました。そんな気持ちでつきあっていたの、と。
彼は青ざめて、見たこともないほどすさんだ荒々しい目をしていました。皮肉な、いやな笑い方をして、それがあなたに何か問題になるんですかと聞き返しました。私の気持ちがどうなのかということが、あなたにとってそんなに大切なことなんですか、と。
わたくしには答えられませんでした。わかりませんでした。考えるのが恐ろしかった。知られるのはもっと恐ろしかった。
わたくしをたたきのめすような、彼が口にできる答えがどんなにたくさんあるかと思うと。
あなたとのことは、ただの遊びです。
忘れられない美しい思い出です。
何もかも、もう過去のことです。
苦しいけれど、これきりにしましょう。
あなたを好きだから、これ以上、傷つけたくはないのです。
もう充分に愛しあったのですから、私には悔いはありません。
そんなにも愛して下さって光栄です。
お気持ちに応えられなくて申し訳ありません。
あなたの勇気と愛情は私には重すぎる。
誤解させてしまって許して下さい。
そんな答えのどの一つでも、永遠にわたくしを殺せた。愛していると、あなたが欲しいと告げた後で、そんなことばが返るかもしれないと思ったら、耐えられなかった。そんな危険をおかしてまで、告げるほど、愛しているのか、求めているのか、自分の気持ちに確信もなかった。
彼はからかうような目で、黙りこんでしまったわたくしを見て、ふざけた口調で言いました。あなたのようなしたたかな人に、弱みをにぎられたくなんかないからな。
もっと考えてから来るべきだった、もっと準備をしてから来なければいけなかった。そうあわただしく後悔しながら、わたくしはもう死に物狂いで叫んでいました。命令します。わたくしの質問に返事をなさい。
時間がとまり、空気が凍りついたようでした。そしてやがて彼が何の感情もこもらない、ぞっとするほど冷たくよそよそしい声で言っているのがわたくしの耳に届いて来ました。あなたは私のすべてです。初めてお会いした時から、命をかけてお慕いしており、この血の最後のひとしずくまで、あなたに捧げるつもりでいます。そして、わきを向いて、あくびをかみ殺し、もう寝に行ってもいいですか?と聞きました。明日は朝が早いものですから。
気がつくと、彼のほおを思うさま打って、テントを飛び出していました。輿にころげこむように乗りこんで、宮殿に戻るよう言いつけたあと、帰りつくまで輿の中で、わたくしは声を殺して泣きつづけました。

あの夜以来、またひとつわたくしは、もう何も恐いものなどなくなった気がする。

(3)二度目の対決

剣闘士の訓練所にあの人を訪ねた時、わたくしは、その夜のことを思い出しておりました。
多分、反抗した剣闘士を罰するための小部屋でしょう、壁にいくつもの鎖や手かせがはめこまれてたれ下がり、かがり火が陰気に燃えている、暗い奥まったへやに通されて待っていると、衛兵につきそわれてあの人が入って来ました。兵士たちは壁の長い鎖のはしに彼の手首のかせをつないでから出て行って、わたくしたちは二人だけになりました。

あの人は最初わたくしがいることに気がつかなかった。鎖につながれて放って行かれて不安だったのか、自分が奴隷であることをあらためてかみしめるような苦々しげな表情で何か考え込んでいました。わたくしの胸にあの人へのいとしさと哀れみが噴き上げるようにあふれ、だからこそヴェールをはずして光の中に歩み出しながら、ことさらにからかうような冷やかな声をわたくしはかけていました。
「偉大な勝者を一晩自分のものにするためなら、金持ちの婦人はどんな大金でも払うのよね」
あの人はわたくしを見つめ、わたくしが望んでいたとおり、怒りにあふれた目をしました。全身に力をみなぎらせてわたくしの方に歩み出して来て、中途で鎖にひきとめられました。「たかがおれを殺すのに、大物をよこしたものだな」皮肉に、冷やかに言い放とうとした声が、怒りにわなないていました。
「弟は何も知らないわ」わたくしは力をこめて答えました。
「私の妻子ははりつけにされ、生きたままで焼き殺された」
「それを聞いてわたくしも泣いた」
彼は背を向け、数歩壁の方へと下がっており、わたくしは自分でも気づかず、いえ、気づいていたのでしょうか、そちらに進んで彼の手の届く範囲にふみ込んでいました。はたして彼はくるりとふり向き、あっという間に片手を上げて、わたくしののどをつかみました。怒りにふるえる指がわたくしの首をしめつけ、そのまま一気に力をこめて首の骨を砕こうかとわなないているのがわかりました。
「父上が死んだ時のようにか?」
押し殺した、しわがれた声の中に、底知れぬ怒りと侮蔑がこもっていました。ぎらぎらと燃える、まるで野獣のような目がわたくしの間近にありました。
わたくしは恐くなかった。
のどにかかっている、あの人の指の力強さがうれしかった。
この人は、生きている。
彼が激しく動いてわたくしに近づいたため、よどんでこもった空気がかき乱されました。その中に甘くふしぎな香りがただよいました。剣闘士たちは戦いのあと、風呂に入って身体の手入れをしますけれど、金持ちの客に買われる時のためなのか、人の心をそそるような香油の香りをさせています。その香りがあの人にもして、基地で抱き合っていた時には決してしなかったその異国の香りは、この人はそういう身分の人になったのだとあらためて思う悲しみと奇妙なときめきで、わたくしの頭をしびれさせました。そのくせ、それに混じって、わたくしがよく知っている、野の花のような、夏の草のような、あの人の香りもかすかにかいだような気もしたのは気のせいだったのでしょうか。それはわたくしの全身に、長いこと忘れていた、何か荒々しいけもののような、力とぬけめのなさを吹き込んでくるようでした。

ことばはすらすらと、わたくしの唇から流れ出ました。
「父が死んだあの日から、わたくしは苦しみと恐怖の中にいるわ。弟を恐れて、父の死を悲しむことさえもできない。息子は皇位継承者よ。いつ弟に殺されるかと思うと夜も眠れない」
わたくしもあなたと同じなの。
あの弟の犠牲者なの。
同じように息子が殺されようとしているの。
そう訴えれば、この人なら抵抗はできないと、わたくしにはわかっていました。
ただ、危険なことを言っているのも知っていました。
なぜ、あなたの息子は生きているのだ、私の息子があんなに残酷に殺されたのに。
理不尽でも親なら誰でも思うことです。
しかも、相手が自分の子どもを殺した者の仲間ならなおのこと。
ことばだけのこととは言え、この危険な賭けにわが子を投げ出すのに一瞬迷って、でもわたくしは断固として、それをしました。
彼がそのわたくしの冷たさに気づいても、それをはっきりと見つめる余裕は彼にはないと判断しました。
自分自身の心にうずまく、本当の思いと向き合う勇気も、彼にはないと判断しました。彼のやさしさも誇りも、その恨みから生まれる思いを、そのまま、あからさまに口にするには、あまりにもまだ充分に残っているはずだと。
「私の息子に、何の罪があった?」
果たして彼は、そう言うのがせいいっぱいでした。
「死なねばならぬような、何をした!?」
すかさずわたくしは言い返しました。本当に彼が言いたかったことを。
「わたくしの息子も死ねばいいの?そうしたら信じてくれるのですか?」
彼はひるみました。自分の心にあった思いをはっきりとわたくしに言葉でさしつけられて、その残酷さとみにくさにたじろいで、我に返ったようでした。指は力なくわたくしののどを離れ、彼はほとんど悄然と、またわたくしに背を向けて壁の方へと歩きました。
「私があなたを信用するかしないかなど、今となってはどうでもいいことだ」
投げやりな、力の抜けた声でした。

(4)命あればこそ

「神々はあなたの命を助け、あなたはそうしてまだ生きている」力をこめて、わたくしは語りかけました。「皇帝以上に民衆を支配することのできる奴隷となって」
「観衆のなぐさみものになって生きながらえているだけだ」
屈辱にふるえる声と、かろうじてわたくしからそらさないでいる目に、わたくしは、やはりそうか、と思いつつ、しれでも呆然といたしました。
この人は、ローマを知らない。その狂気、その諧謔、その爛熟の果てに行き着いてしまった逆説を。
民衆を、知らない。
自分の手にした力を知らない。
自分が今、立たされている舞台を知らない。
「それがローマでは権力なの。民衆を喜ばせるのが、支配するということなの」
信じられない、という目で彼がわたくしを見つめました。そのまなざしに、わたくしは一瞬、遠い思い出の中の彼を見ました。わたくしのローマについてのいろいろな話を、ちょっと疑わしげにしながら、でも熱心に聞いていた、ひょろりとのっぽの少年兵。なつかしさと悲しみが怒涛のように足をすくうのをくいとめようと、思い出を必死で押しやって、わたくしはたたみかけました。
「あなただけなの、弟に反抗できたのは。元老院には弟を憎み、さげすむ者がいくらもいるけれど、誰も正面きっては彼と対決できないでいる」
「あんなやつらは口だけさ。行動なんて誰が起こす!?」
わたくしの心は躍りました。
この人はまだ自分の力を信じている。自分にしかできないことがあると思う気持ちを失っていない。
「彼らの中にもローマを愛する者はいるの。命をささげる覚悟もしてるわ。会って、協力してやって」
やりきれない、というように、彼は壁ぎわに下がりました。何かを必死で訴えようとするように、彼はわたくしを見つめ、切なく顔をゆがめました。
「わからないのか!?おれは奴隷だ。今夜でも、明日でも、いつ殺されてもおかしくないんだよ。おれに何ができる?なぜ、おれに頼む?」
「その人はね」わたくしはかまわず続けました。「同じ目的を持って生きている人なのよ」
「そいつに殺させろよ、コモドゥスを!」彼は荒々しく叫びました。
稲妻のようにわたくしの心の中に、一つの確信が走りました。
この人は今、嫉妬した。
ローマを愛している誰かに。
命をささげるつもりの誰かに。
わたくしが彼に協力をたのんだ誰かに。
わたくしと同じ目的を持って生きている誰かに。
かつての自分がそうであったような誰かに。

「あの人はどこへ行ったの?」力をこめてやさしく、わたくしは呼びかけました。「誇り高く、気高く、自分のすべてをローマにささげて生きていた人…わたくしの父が誰よりも愛した、あの人は?」
彼はわたくしが予想していたよりもはるかに見るかげもなく、しょんぼりとして下を向きました。まるで、大きな、よるべない子どものようでした。彼と初めて会って以来、これほど彼が無防備で、無力に見えたことはありません。
「その男はもういない」やっと聞こえるほどの低い声で彼は答えました。「あなたの弟に殺された」
そのことを、他ならぬこの人自身がどんなに苦しみ、悲しんでいるか、本当にわかったのはきっとわたくしだけでしょう。
「何かできることがあるなら言って」何もかも忘れてわたくしはそう言いました。「何でもさせて」
「だったら、たのむことがある」彼は冷たい、ていねいな口調で言いました。「忘れてしまえ、私のことを。二度と訪ねて来ないでくれ」
そして声をはり上げて「番兵!」と呼びました。「ご婦人はお帰りになるぞ」
一瞬にせよ、あれほどに弱々しい姿をわたくしの前にあらわにし、わたくしに同情させたことで、彼の誇りは言いようもないほど傷つき、ことばでは表現できないほど、わたくしを憎んでいたのです。

悲しみでずたずたになった心をひきずるようにして暗い廊下を戻りながら、それでもわたくしは幸せでした。
あの人は、わたくしを傷つけられる。
わたくしは、あの人を苦しめられる。
二人とも、生きているから。
昔、おたがい、いじめあい、からかいあって、けんかをした時とどこか似たときめきがわたくしの胸を騒がせ、熱い血がどくどくと脈うって、身体の中を流れはじめていました。
あの人が、生きている。
そのことは苦しみと恐れと痛みとを、わたくしの全身によみがえらせ、それはそのまま、生きている実感となって、わたくしの心をゆさぶりつづけたのです。

おじさま。
ローマでは皇帝がまた殺され、新しい皇帝が即位したとか。
わたくしたちの望み、計画したことは、すべて、泡と消えたようですけれど、後悔も絶望も、わたくしはいたしておりません。
あの日々の思い出はひとつひとつ色あせたモザイクのかけらのように、わたくしの心の中に残っております。
人が見れば何の意味も持たない、薄れきった色と、とりどりのかたちのかけらの中に、わたくしどもの描き、夢見た未来が、わたくしは今でも見えますわ。
たくさんの失敗もしたし、力及ばず終わったとしても、おじさまたちとめざした新しい日々がいつか、この世に来ることを、わたくしは今でも信じております。
海に太陽が落ちて行きます。
夜がまた、明けるために。
明日もまた晴れるのでしょう。
みごとな夕焼けですわ。
こうやって、一日の終わりを愛することができるように、自らの一生の最後の部分をみちたりた満足のうちに迎えられますのは、何と恵まれた、幸せなことなのでしょう。

(5)誇り高く

「お母さまの、そのお手紙の最後の部分にあふれている誇りに、お気がつかれましたかな?」
目を上げるとグラックスが、からかうような笑みを含んだ目でルシアスを見つめていた。
「それが、わが子のために恋人を売り、ローマを売り、そのことを後に人々に責められて栄光の座から追われた人間の言えることばでしょうか?」
「たしかに、そうは思えませんが」ルシアスは手紙を手にしたまま言った。「それではどういうことだったのです?」
グラックスは机にゆっくりもたれかかり、片手の指で額を支えて、斜めからルシアスをじっと見た。
「コモドゥスがマキシマスをコロセウムでどうやって殺そうとしたか、あなたはご存じですか」
「脇腹を刺して致命傷を与えた上で、その傷をよろいで隠させ、正々堂々の対決であるかのように見せかけて、コロセウムで決闘した、と」
「そのとおり」グラックスは涼しい、冷やかな目でうなずいた。「それが、あの男です。形式にこだわるのです」
「と、いうと?」
「彼は、民衆の英雄であるマキシマスを人々の前で倒して、自分がその人気をそのままうけつぎたかったと人は言う」グラックスは指先で考えるように軽く机をたたいた。
「しかし、怪しいものですな。たしかに、それもあったろう。だが、それ以上にあの男は、自分がその気になりたかったのです。形式をふむことで、自分を納得させたかった。でないと、安心できなかった」
「それは、わかるような気もしますが」ルシアスは言った。「そのことと、母の件と、何か関係があるのですか」

グラックスは座り直し、元老院での政敵とのやりとりを思わせる、すきのない、考え抜いた口調になった。
「マキシマスがとらえられた翌朝、コモドゥスは側近にも元老院にも言って回った。大規模な反乱計画があり、私の身近な者がそれに加わっていた。だが、その者は私の慈悲に心をうたれ、正しい人間に立ちもどって、すべてを私に告白し、私は彼女を許した、と。お母さまの名は出なかったが、誰もがお母さまのことだとわかった。民衆はまだ知らなかったが、後に、それを知ることになる」
「それは事実でないのですか?」
「事実に近い。だが、ちがう。私は当時、投獄されていましたが、コモドゥスの死後、ただちに釈放され、復権しました。そして最初にした仕事は、マキシマスがとらえられ、ガイウス議員をはじめとしたクーデター計画の参加者の多くが粛清された、あの夜の一連の動きの調査でした。私の逮捕を知ったお母さまが侍女に命じて、ひそかにマキシマス脱走の手配をととのえ、彼のもとにご自身で知らせに走ったのは、夜に入ってすぐでした。帰宅したお母さまをコモドゥスが、ルシアスさま、あなたを殺すとおどして白状させようとした時刻には、すでにもう近衛兵は命令をうけて動いていました。コモドゥスは反乱計画をすでに察知し、密偵から情報を集め、とるべき処置はすべて皆、とっていたのです。城壁の外でマキシマスを待っていた彼の従僕はとっくにとらえられていたし、ガイウス議員の屋敷には暗殺者が潜入していた。剣闘士の訓練所も見張られていた。なすべきことをすべて行なった上で、コモドゥスはお母さまを待ちうけて、あなたをたてに、お母さまに仲間と恋人を裏切ることをせまったのです」
「何のためにです?」
聞きながらルシアスは、わけもないおぞましさに、ひとりでに眉をひそめていた。
「それはもちろん」グラックスは冷やかな優雅な笑いをうかべた。「あやまった道にふみこんだお母さまに、反省とくいあらための機会を与え、偉大な君主である慈悲深い自分の前に、身も心もひれふさせるためです」

ルシアスは嫌悪で顔がゆがむのを、抑えることができなかった。
「叔父は、正気だったのですか?」吐き捨てるように彼は言い、思わず自分で返事をした。「そうは思えませんね」
「たとえ、狂気であったとしても」グラックスは静かに言った。「これは権力者がまま陥る狂気で、特に珍しいものではありません」
「しかし、それはたしかなのですね?」ルシアスは念を押した。
「私は自分がどのように重要な調査を行なっているか、よく理解していたつもりです。ですから、綿密に、徹底的に、この調査は実行しました」グラックスは落ち着いて、自信に満ちて断言した。「私の確認した、あの夜の時間関係と事実経過に絶対にまちがいはない。コモドゥスがお母さまにクーデター計画を白状するようせまった時、すでにもう、彼はすべてを知っていたし、すべての処置をすませていた。すべてはもう、すでに終わっていたのです」
「母にもそれは、わかったのですね?」
「もちろんですとも」グラックスはほほえんだ。「あの方は、そういうところの判断を決してまちがう方ではない。コモドゥスがルシアスさまをたてにしてまで白状をせまるほどの大きな陰謀計画の存在の事実をつかみながら、何の手もうたずに座り込み、ねちねちと自分を尋問することなど、あり得ない。もはや、すべては終わっている。これは最後に弟がじっくり楽しむ、勝利の儀式にすぎない。お母さまは即座にそれと悟られた。それでも望みを捨てることなく、最後まで戦われた。コモドゥスの望む通りの白状をして彼を油断させた後、侍女や解放奴隷たちを各方面に走らせて、マキシマスだけは何とか救おうと画策された。しかし、ことごとく失敗におわった。侍女の一人だったネメシスという女は連絡に走る途中でとらえられ、拷問にかけられたが、何も白状せず殺された。そして、あの日の朝が来た。マキシマスの死ぬ日の朝が」

ルシアスはグラックスを見つめた。
「母はなぜ、人々が裏切り者と母をののしり、僕が皇位を追われた時、そのいきさつを皆に話して弁明しなかったのでしょう?」そしてすぐ、首を振った。「いや、わかる気がします。たとえ結果がどうであれ、裏切ったのは同じことだと母は思ったのでしょうね。だから、弁明の余地などないと」
グラックスがどこか満足そうに低く笑うのが聞こえた。
「お母さまはそんなに、やわな方ではありませんぞ」彼は言った。
ルシアスが見つめ返すと、老議員は若者のように目を輝かせて、昂然と顔を上げていた。
「あれは、お母さまと私どもが相談した上での計画でした。あなたを皇位につけて、事実上はお母さまが実権をにぎる。そして、お母さまの人気が高まり、マキシマスの人気もまだ衰えていない時期を見はからって、スキャンダルを広めてお母さまに裏切り者の汚名を着せて没落させ、あなたもろとも都から追う」
ルシアスは息をつめて、グラックスのほのかに紅潮したほおと、高揚して生き生きと燃え上がる眼を見まもっていた。
「そして、ローマから皇帝は消える。皇帝に対する幻想も。元老院の支配する民主政治が復活し、マルクス・アウレリウス皇帝がマキシマスに託した願いは、お母さまとあなたとによって実現される。皇帝としての権力を、その手ににぎれ。しかるのち、誰の手にも渡すことなく、永遠にそれを投げ捨てよ、という命令が」

第八章 戦いぬいて

(1)流木と貝がら

わたくしの大切なグラックスおじさま
今日、浜べに出て、侍女たちと貝をひろって遊びました。
何日か前に嵐があったせいか、珍しい海草や、どこから流れてきたともわからないすべすべの流木が、いくつも砂にうちあげられていました。
どのくらい長いこと、波にもまれて、ただよってきたのかしら。
木の肌はなめらかに美しく、しかもふしぎなあたたかささえ感じられて、曲がりくねった面白いかたちがどれも、思い思いの歌を歌っているようです。
ひとつふたつ、持ち帰ってへやにかざりました。
島の大人の女たちは、こんなに長く住んでいても、まだわたくしに遠慮して近づかず、遠くから笑いかけてくるだけですけれど、小さな子どもたちはそんな遠慮もなく、「おばさま、おばさま」とわたくしを呼んでは走り寄ってきて、てんでに拾った美しい桜色やうす水色の貝がらをわたくしの手に押しこんで行きます。
それも持って帰って、流木をおいた回りにちりばめるように並べてみると、風と陽射しと海水にさらされて淡くなった色がどれも、まぶしくきらめく宝玉とはまたちがって、とても美しい。

じっとそれをながめていますと、自分の中のぎらぎらと激しく燃えていたみにくい思いの数々も、とどのつまりはすべて、時とともにこうして、やわらいで、まろやかな、美しい色になっていくのかしら、と思います。

マキシマスと、あのひどい別れ方をして、輿の中で泣き通しに泣きながら宮殿に帰った夜からしばらくして、わたくしは彼が、遠くの前線の勤務になって、去って行ったことを知りました。
むしろ、ほっといたしました。
そして、その後もファルコやヴァレスや、その他の若い貴族たちと派手に遊び回っております内に、心に余裕ができたのか、性こりもなく、ともすればまたマキシマスのことを考えるようになっていました。
あの、最後の夜のことなども、いろいろと。
本当に、ひどい夜ではありましたけれど、考えれば考えるほど、逆に、あの人はわたくしをきらってはいない、という確信が、最初はこわごわと、おずおずと、やがてはっきりとゆらがないものとなって、わたくしの心に生まれてまいりました。
あの、青ざめた、苦しげな顔。残酷な冷たい、切りつけるような声。
わたくしと同じように彼もまた、恐くて、そして必死に自分の心をかくそうとしていたのかもしれない。
私が本気かどうかってことが、あなたにとって何か問題なんですか?
あなたのようなしたたかな人に、本心なんか知られたくないからな。
あれはもしかしたら、いいえ、きっと、何とかわたくしに自分の気持ちを用心しいしい伝えよう、わたくしの考えをひき出そうとしていたことばだったかもしれない。
わたくしが彼のことを何とも思っていなかった時、残酷にからかわれたり、笑われたりしたくなくて。
そんなことをされたらもう耐えられないほどに、今はわたくしのことを愛してしまっているから。
そうにちがいない、と思いました。
何度も何度も考え直し、まちがっていない、と思いました。
今度会ったら、どんなに恐くても、何とかして、わたくしの気持ちを伝えようと、わたくしは心を決めました。
なぜ、わたくしから遠ざかったのか、そのわけも、勇気をふるって、まっすぐにきちんと聞いてみようと。

そんな時、わたくしは父から、マキシマスが結婚するらしい、と聞いたのです。
呆然としました。信じられませんでした。
この世で何があろうとも、そんなことは絶対に、起こるはずのないことでした。
きっと何かのまちがいだと確信して、わたくしは、さまざまなつてを求めて、たしかな情報をさぐりました。
父の言ったことは本当でした。
スペインの故郷に帰っていた時、そこの軍団に協力を頼まれて山賊の本拠地を討伐し、その時に捕虜となった娘の一人と結婚したというのです。

あの彼の腕が、わたくしではない身体を抱く。
あの唇が、わたくしのではない唇と合わさる。
わたくしの指ではないどなたかの指が、あの人の指にからまり、あの人の髪にさしこまれ、顔に、肩に、背中にふれる。
ひとつ屋根の下での、あの人との一日。
誰もが認めて、祝福してくれる、あの人との抱擁。
並んで、肩を抱き合って、人々の前で顔を見交わして笑い合える毎日。
この人は自分のもの、と引き寄せ合って、誰はばかることなく、くりかえせるくちづけ。
わたくしが一度も見たことのない、朝の光の中のあの人の寝顔。
小さい台所で、あの人と向かい合う朝食。
わたくしにはわからない冗談を言い合って笑い合う二人。
争い。涙。仲直り。笑顔。抱擁。接吻。あの人が許しをこうように、甘えてふざけて、身体を少しかがめながら押しつけてくる、丸い固い頭、短い髪の匂い。
どうして?どうしてそんなことになるのだろう、と呆然としたまま、わたくしは自分に問いかけつづけました。
彼は絶対にわたくしを愛している。
そして、決して、そのことに目をつぶったり、逃げたり、ごまかしたりする人ではない。
それだけはわかっていたのに。
そのことだけは信じていたのです。

(2)行きどまりの構図

「もしも、それがまちがっていたら」と、すすり泣きながらわたくしは、侍女のカルミオンに向かって申しました。「もう何も信じられるものなんかこの世にないわ。だからわたくしも結婚する」
「落ち着いて下さいませ」カルミオンはあきれ顔で、わたくしをなだめようといたしました。「ご結婚って、第一、誰とでございますか?」
「ヴァレスでもファルコでも誰でもいいわ」わたくしはむせび泣きました。「カルミオン、ああ、カルミオン!おまえだけがわかってくれるわ」
「そんなに弱気になってしまわれてはいけません」はげますように、叱るようにカルミオンは申しました。「お嬢さまらしくございませんわ。いつもの誇りはどこに行ってしまわれたのです?」
「あの人はわたくしを捨てたのよ。誇りなど持てるものですか」わたくしはすすり泣きました。「教えてちょうだい、カルミオン。何を言われても恐くないから。わたくしの何がいけなかったの?何が足りなかったというの?」
「足りないものなどございません。いけないところなどございません」カルミオンはきっぱり言いました。「あの男はお嬢さまが恐かっただけです。愛しているからお嬢さまから逃げたのです。どうしてそれがおわかりになりませんの?自信を持って下さいませ」

「なぜわたくしを恐れるの?愛しているのに逃げるのです?」
「あの男は、自分の分にすぎるものを決して求めない男です」カルミオンは荒々しく申しました。「地位も、名誉も、愛さえも。野心というものを決して持たない人間の清々しさがあの男にはあります。それがあの男の最高の魅力で、最大の力なのです。あの男自身もそれを知っているのですわ。与えられるものを大切にし、求められたことにせいいっぱい応えて、そうやって生きて行くことが、安らかで、かしこい生き方だと本能的にわかっているのですわ。あなたを愛するということは、その生き方をこわすことです」
「愛したではないの!」わたくしは叫びました。「抱き合ったわ!口づけして、互いのすべてを与えたわ!」
「おわかりでしょう」カルミオンは言いました。「それだけならば、それは、ただのなりゆき。あの男が計画したことでも、あなたが計画したことでもない。それとも計画なさったのですか、少しぐらいは、お嬢さま?」
わたくしは泣き笑いしました。「放っておいて」
「ええ、ええ、それはいいとしましょう」カルミオンは、そんなことにはいちいちかまっていられないというかのように、早口につづけました。「でも、これ以上、深く、長く、あなたとのかかわりを続けることは、皇女との結婚をめざすこと、皇帝の地位を求めること、そのための努力を着々と続けることではありませんか。そんな努力をすることは、そんな野心を抱くことは、したことのない男なのです、あれは」
「わたくしのために、それをしてくれるほど、わたくしを愛してはいなかったというのね?」わたくしは頭をかかえました。「そう言いたいのね、カルミオン?」
「お嬢さま、自信を持って下さいませ」カルミオンはねばりづよく申しました。「もしも、あなたを愛し、あなたと結婚したら、今の地位を失い、貧しくなり、辱しめられ、鞭うたれ、奴隷の暮らしに落ちるということなら、あの男は決してためらいはいたしません。あなたのために名誉も地位もなげうってくれるはずです。けれど、あなたを求めることが、名誉と、最高の地位を求めることになる、そういうものを得るために、ローマにつくし、陛下につくす…これが、あの男には、耐えられないのです。それは、陛下へのお気持ち、ローマを愛する心さえも汚すことだというように、あの男には思えるのです」
わたくしの全身から力が抜けていくようでした。
「それは結局、わたくしより、父とローマを愛しているということですか、あの男が?」

カルミオンは首を振りました。
「そうではございませんとも。お聞きなさいませ。あなたを救うために、お父上と対立し、あなたを自分のものにするために、お父上の怒りをうける…そういうことでしたら、あの方はきっとそうなさいますよ。あなたのためなら、あの方は陛下を裏切り、ローマも捨てます。けれども、けれども、実際には、あなたを手に入れようとすれば、皇帝のさらなる信頼を得、ローマのさらなる支持を得なければならない。人々に賞賛され、出世し、功績を上げなければならない。それは、あの人の生き方ではないのです。だから、あの方は、どうしていいかわからずに、おびえてしまわれるのです。ただ、回りのためにつくすのではなく、自分の目的を達するために、回りを味方につけようと、評価してもらおうとして、それをする、そんな戦いを、そんな生き方を、あの人はしたことがない」
「信じられないわ」わたくしは、ゆがんだ笑いをうかべました。「子どもではあるまいし!」
「でも、あの方はそうですよ」悲しげにカルミオンは言いました。「おわかりのはずですよ。そこに、ひきつけられなすったのではないのですか。たしかに、あの人にだって、計算や野心がないとは申せません。かけひきも、とりひきも、充分にできる方です。けれども、それはせいぜいが一時のいたずら心や遊び心、仕事の上での工夫などにすぎません。自分の心の一番奥の、かけがえのない大切なものにかかわる、長い人生のずっと先の最終の、とても大事な目的を、そういう風なやり方ではかりながら生きて行くことは、あの方には決してお出来になれません。だから、あなたが恐いのです。そんな、自分には決してできない生き方をしてしまいそうにさせるほど、自分がほしいと思ってしまう、あなたのことが」
「カルミオン」わたくしはうめきました。「それならば、わたくしはどうしたらよいのです?」
カルミオンは答えません。
答えなどないことは、わたくしも知っておりました。

その数日後、ルシアス・ヴァレスとの結婚を、わたくしは承諾いたしました。

(3)野心と報酬

貝がらの、色のきれいなのをいくつか、いっしょに入れておきます。どうせおじさまは、あのガアガアとやかましいガチョウやアヒルたちの羽根の色つやがよくなると目を細めて、砕いてエサにまぜておしまいになるのでしょ。別にかまいませんことよ。
おじさま。
カルミオンはあんな風に申しましたし、あの時はわたくしもそう思いました。けれど、今になって思い出すと、マキシマスは決してそういう、他人から評価されることを計算した、野心にみちた生き方が、できなかった人ではないと思います。
むしろ、大変上手だったからこそ、自分でもそれが恐かったのではないでしょうか。
あの人は人の心を見抜くことに恐ろしいほど、たけていました。自分の気持ちを完全に抑えて、押し隠すことも楽々とできる人でした。
その気になればどんなにでも、人を、回りをあやつれる力を持っていたからこそ、あの人は、そんな力の恐さも醜さも、よく知っていたのではないでしょうか。
自分と仲間をどうしても守らなければならない時、逆に気軽に何をしてもいいような時には、コロセウムの観客を表情のひとつ、しぐさのひとつであっという間に魅了したり拒絶したりすることぐらい充分にできる力が、あの人の態度には見え隠れしていました。
第一、コロセウムでいつも、終始にこりともしなかったのも、無器用で人にこびることを知らぬなどと、尊敬と同情のまじった愛情を観衆から滝のようにそそがれる結果となっていましたけれど、それが無意識だったのか、高等戦術だったのか、わかったものではないと、わたくしは時々思っておりました。
あの訓練所の小部屋で、この人はローマを知らない、と嘆息したわたくしが、さしずめだまされた最初の人間だったのかもしれない、とさえ。
何も知らない、と同情して見ていると、本当に何もわからないからこそ、恐いもの知らずでやっているように見える、とんでもないこと…観衆に愛想をふりまかない、無視をきめこむ、敵をもてあそばず、あっさり殺す、戦い方は実用いってんばりで、一向に見てくれを気にしない…そうしたことの一つ一つが、逆に新鮮で斬新で、心もとなくいじらしくも見えて、観客の心をまったく無駄なく、的確にぐいぐいとつかんでゆく。
偶然にしては、できすぎている。この人はすべてわかって、先の先まで読みきった上で、素人のふりをして、とぼけた無邪気な顔をしているだけなのではないのか。戦場で敵の動きを読む要領で、観客の心理を完璧に見抜いた上での行動ではないのか。わたくしの、そんな疑惑は、あの人がコロセウムで戦うのを見る最後の頃には、ほとんど確信にまで変わっていました。
幼い時はむしろずるくて抜け目がなく、したたかで百戦錬磨の上官や古参兵も手玉にとっていたほどで、それをお父さまが教育して今のようにしたのだという話は前にも書きましたけれど、だからこそあの人は、昔のようにはなるまいとして、かたくなに今の生き方を守ろうとしていたのかもしれません。
そうだとしたらお父さまはある意味、残酷な方であったのかもしれないと思います。

もう一つ、あの頃、心の底でちらちらと思いながら、口に出してしまうほどにはまとめられなかった、ひとつの思いがございます。
わたくしが、野心のある人が成功をおさめた時に、かちとられる、そんな存在でなかったら。
わたくし自身が戦って、成功をおさめて、野心をかなえ、そのことによって、「これが」ほしい、「これを」望む、と、指し示したものを正当な報酬として戦利品として、かちとることのできる存在であったなら。
そうしたら、野心を持つことなど、わたくしは恐れはしなかったわ。
どんな策略もめぐらして、あの人を手に入れてみせた。
そして、幸福にしてみせた。
運命が、ほうびとして人に与える存在でなく、自分自身が運命を人に与える立場であったなら。
最高の運命を彼に与えてあげたのに。
その運命を彼はうけいれてくれたでしょうに。
うけいれて、それに毒されたり蝕まれたりすることもなく、それにふさわしい誠実なよい生き方で応えてくれ、それをもっともよいかたちで生かしてくれたのでしょうに。
わたくしが男であったなら。
あの人が女であったなら。
何の不自然さもなく、互いにそれはできたでしょうに。
姿かたちや、心のことを申しているのではありません。
男と女が、今とはちがう生き方のできる世界であったなら。
わたくしはきっとあの人をかちとってみせたでしょう。
誇らしげに堂々と、それができ、言える世界であったなら。

(4)選ばれた者

いつもお元気でおやさしいグラックスおじさま
お手紙をありがとうございます。
長いことお便りをせず、ご心配をおかけしてしまってすみません。
でも本当にこのところずっと体調がすぐれませんの。
季節の変わり目にひいた風邪がいつまでもぬけないようで、夜になると熱が出たりして。
このまま死んだらどうなるのかしら、とふっと思ったりします。
ルシアスもすっかり大人になりましたし、もう思いのこすことも別にないから、いいのかしら、なんて。

そのせいですか、このごろは、おじさまにお手紙を書くとき以外にも、何かのはずみに昔のことを本当によく思い出します。
まるで、亡くなった人たちが、遠くから呼んでいるように。
この前は、久しぶりに浜べに出まして、波打ち際にうちあげられて波に洗われている、船のへさきにでもついていたのでしょう、すりへってかろうじて人の形とわかる何かの木像をながめていたら、マキシマスとおじさまが初めてひそかに会見した、小部屋を思い出しました。
粗末な暖炉に火が燃えていて、そのそばに、古いすりへった彫刻がおきざりにされていたのよ。
おじさま、覚えていらっしゃいます?

おしのびでいらしたから、おじさまはいつもの輝くように白い元老院議員のトーガはお召しではなかった。
それでも、その威圧感はあたりを払うほどでした。
でも、粗末なチュニカの上にマントを羽織っただけのマキシマスは少しも動じる気配がなかった。
お二人がつかの間、相手を見定めるように、すれちがうようにゆっくり歩き、マキシマスが自然に静かに腰を下ろしたのを覚えています。あの人は大地が水を吸い取るように、おじさまの迫力をうけとめて、うけいれて、堂々としていた。
自分を買い取って自由にし、オスティアの港まで行く馬をくれ。そこにはかつて自分の指揮した軍団がいて必ず自分に従うから、ひきつれて帰ってローマを制圧し、コモドゥスを倒す。あの人はそう言いましたね。
おじさまは難色を示された。ローマは都の中に軍を入れたためしはない、そうして都を制圧した後、あなたが新たな独裁者になるのか、と。
あの人は動じた風もなく、水のように静かに、何でもないことのように答えた。コモドゥスを殺したら、私は軍を残して去ります。軍は元老院の指揮下に入って、あなた方を守るでしょう。
あなたはこの国と都を、わが手ににぎることになる。おじさまはおっしゃったわね。いったんにぎった、その巨大な権力をむざむざとあなたは手放すというのか。何のために?何が望みだ?
するとあの人は、おじさまにではなく、ふり向いてわたくしに答えた。それが、お亡くなりになったあの方が、望んでおられたことでしたから。
喜びも誇りもなく、沈痛な、怒ったような、何かを訴えているような表情で。
おじさま。
愚かなわたくしは、あの時に初めて、ことの次第をおぼろげに理解することができたのです。
父がこの人に託したのは、皇帝の地位ではなく、それを投げ捨てる役割であったことを。

父が、かねがね、ほんの時たまですけれど、ローマを再び共和政に戻す構想を語り、皇帝の手からすべての実権を元老院にひきわたす方が、危険に見えても結局は、新しい時代に対応できるローマを作ることになるだろうと考えていたことは、わたくしもうすうす知っておりました。
けれど、父が死んだあの夜、当然と言えば当然のことかもしれませんけれど、そんなことなどわたくしはまったく忘れておりました。
あの夜、マキシマスの副官で、のちに近衛隊長となったクイントゥスに呼ばれて、わたくしが父のテントにかけつけますと、弟がベッドをととのえて父の遺骸を横たえ、やはり呼び出されてきた医師に向かって、皇帝が何者かに殺された、軍団の動揺を招かないため、病死と発表するように、と早口に命令しているところでした。
わたくしが来ているのに気がつくと、弟は歩みよって来て、低く一言だけ言いました。「父上はマキシマスを後継者に選んだ」そしてすぐまた戻って行きました。
わたくしは、へたへたと椅子に腰を下ろしました。
その時にわかったのです。
弟が父を殺したことが。

気がつくと、涙がいくすじもほおを伝っていました。
けれどあの時、その瞬間、わたくしが怒り、憎んでいたのは、決して弟ではありません。
マキシマスと、父でした。

おじさま。
この時の自分の気持ちをわたくしはどなたにも語ったことがございませんし、できるなら自分でも忘れてしまいたい。
父を殺した弟の気持ちがわたくしにはよくわかったのです。
わたくしだって、その場にいたらそうしていたかもしれなかった。
座りこんだまま、呆然と頭の中でくり返していました。
ああ、やっぱりそうなのね。
結局はそうなるのね。
またしてもマキシマスなのね。
どんなに努力しても、愛しても、見を粉にしてつくしても、そんなものにはお父さまは目も向けては下さらない。
夫のヴァレスは父の共同統治帝でしたけれど、実際に彼を動かしていたのはわたくしです。
そのことは父もよく知っておりました。
ヴァレスの死後、わたくしを最もよく活躍させるためには、わたくしを信頼しきっている弟を皇位につけるのが一番よい方法であることも。
父がそうすると、わたくしは信じて疑いませんでした。
それだけのことを自分はしてきたと思っていましたもの。

マキシマスが結婚したと知り、ヴァレスの妻となったあの日以来、わたくしはヴァレスを通して父を助け、ローマを支えることに、すべての情熱と、知恵をささげて生きてきました。
父もそのことは、よくわかっていたはずです。
それなのにやっぱりマキシマスなのです。
父に最後に選ばれるのは、いつもそうなのです。

マキシマスが呼ばれてテントに入ってきた時、わたくしはまだ絶望と怒りのただ中にいて、何も感じなかったし、考えられませんでした。彼が一言も言わず、父の遺骸の上に身をかがめ、そっと首すじを調べたのに気づいても。低い低い声で「父上」と父にささやきかけながら、冷たくなった額にそっと唇をふれた時、その声が言いようもないほどの深い悲しみにふるえているのを聞いても。問いかけるように一度わたくしの顔を見たあとで、彼がぐいと頭を前に向け、弟のさし出した手をまったく無視して、大またにテントを出て行くのを見た時も。

その夜、弟が、新皇帝となった自分への忠誠を拒否したかどでマキシマスを逮捕し、翌朝処刑したと聞いても、故郷の妻子を処刑する命令を下したと聞いた時も、わたくしは何もしなかったし、何も言いませんでした。心の痛みすら感じないほど、自分自身の悲しみが、わたくしの心をおおいつくしていた。
マキシマス。
わたくしから父を奪った男。
そして、わたくしを捨てた男。
許せなかった。
この世から消して忘れてしまいたかった。
彼をわたくしから奪った、その妻と子どもも。

あの時ほど弟の気持ちが理解できたことはありません。
何としてでも彼を支えて、この国を守りぬき、マキシマスと父を見返してやりたかった。

弟は父を殺す前に、父からどれだけ話を聞いていたのでしょうか?
マキシマスを皇帝にするとだけしか、父が言わなかったはずはありません。彼を最後の皇帝として共和政を復活させるとまで必ず言ったはずなのですが、弟はそれがよく理解できなかったのかもしれません。
わたくしでさえ、今思えば弟が何かそんなことを言っていたような気もするのですが、その意味をはっきりつかんでいませんでした。
話す弟も、聞くわたくしも、父がマキシマスに本当に頼んだことをわかっていなかったのです。
マキシマスだけがはっきりと理解していた。
あの時、おじさまの前で彼はそれをわたくしに告げた。
今思えば、それは、剣闘士の訓練所のあの小部屋で、「なぜ、おれに頼む!?」とわたくしに叫んだ時の表情と、とても似ていた気がします。

(5)悲しい推測

おじさま。
でも、あの時に、わたくしの心に去来したのは、情けないことに、まだ彼への思いやりではなかったのです。
そうだったのか、と驚いた時、ひとりでにこみ上げてきたのは、かすかな、たしかな安らぎでした。
そんな仕事をお父さまが、弟やわたくしにさせるはずがない、わたくしたちにできるはずがない、という納得をまず感じました。
大きな権力をうけとめ、失わないように奪われないように守りつづけることはできても、それを捨てることなど、弟はもちろん、わたくしにだって、できたとは思えません。
マキシマスならできるでしょう。
誠実で精力的でありながら、どこか無気力でうつろなものを、心の中心に抱いたふしぎな人。
そんな彼の性格を的確に父は見ぬいていたのです。

そのことをマキシマス自身はどれだけ気づいていたのだろう、とわたくしが考えはじめたのは、その夜ももう更けて床についてからでした。
そして、恐ろしく悲しい残酷な期待が、押しころそうとしても押しころせずに、わたくしの胸の底にうかびはじめました。
父は、もしかしたら、わたくしはもちろん、弟のことも、とても愛していたのではなかったろうか。
皇帝の権力を投げ捨てる、そんなつらい仕事は、わたくしたちにはできない、と思っただけではなくて、そんなことはさせたくない、と思ったのではないだろうか。
それよりも、マキシマスにたのもうと思ったのではないだろうか。
自分を深く愛していて、たのんだことなら何でも聞いてくれる彼に、そんな仕事はやってもらえばいい、と。

父の心は、わかりません。
やさしさと冷たさが、あたたかさと残酷さが、何の不自然もなくからみあい、同居している人でした。
マキシマスは誰よりもそのことを知っていたはずです。
父のことです。
彼にその仕事をたのむ時、「コモドゥスは不肖の息子だ、あれに皇位は継がせられない」ぐらいのことはもちろん、ぬけぬけと言ったことでしょう。
それもまた、父の本心ではあったでしょう。
けれどもし、父の心の奥底に、コモドゥスにさせたくない、つらすぎる仕事をおまえにだったら頼めるのだよ、という思いがあったとしたら。
誰よりも大切にしているのは結局は自分の息子と娘だという、父自身にも気づかぬ意識があったとしたら。
マキシマスは確実にそれを見ぬいてしまったはずです。

それでも彼は、ひきうけただろう。
あんなに愛していた父の言うことなら。
たとえ、父が自分よりもっと愛している誰かのためとわかっても。
たとえ、自分が一番に愛されているのではないとわかっても。
それでも彼は、父の願いをかなえてやろうとしただろう。
自分が愛した人だから。
わたくしには、それがよくわかりました。
枕の上で天井を見つめたまま、わたくしのほおにはいつからか、とめどなく涙が流れおちつづけていました。
父の死を悲しむ先に、愛されなかったことを怒った自分のみにくさ。
自分は結局その人にとって一番大切な人ではないのかもしれないと感じながら、それでも自分の幸福も生活もなげうって、その人のために全力をあげてつくそうとしたマキシマス。
彼があわれで、いたましくて、でも、こんなみにくい自分が、あれほどに強く気高い心を持った人に、そんな思いを抱く資格もないと思った。
あの夜、わたくしは自分に誓いました。
ローマのために、父が願ったことを実現させるために、マキシマスと同じように、わたくしもまた、どんなことでもしようと。

久しぶりに長い手紙を書いたものですから、とても疲れてしまいました。
今日はもうここまでにいたします。
おじさまもどうか、いつまでもお元気で。

「それがお母さまの、私に下さった」グラックスが静かに言った。「最後のお手紙になりました」

第九章 甘き眠り

(1)紫の記憶

遅い昼食は結局、夕食になってしまった。それさえルシアスは、あまり食べる気になれなかった。やはり雨にあってずぶぬれになり、風呂で着がえたタキトゥスが、セイアヌスやキャシオと何か陽気にしゃべりながら入ってきたが、うす暗くなりかけたへやの中に黙って影のように座っているグラックスとルシアスを見て、三人ともあわてて口をつぐみ、キャシオとセイアヌスがそそくさとランプに灯をともした。
簡単な食事が運ばれてきた。それを食べはじめてもなおしばらく一同は無言だった。

「母が、祖父について考えたことを、あなたはどのようにお考えになりますか」ようやくルシアスは口を開いてそう聞いた。
グラックスはワインをすすって、かすかに眉を上げた。
「何とも決めがたいことです。お母さまなりの幻想であったかもしれないし、正しい推測であったかも…」
「祖父がコモドゥス叔父を愛していた可能性もあると?」
「何とも申せませんな」グラックスはくり返した。「あり得ることにも思えます。お母さまは鋭い方でした。ただ気をつけねばならぬのは、そのように考えた方が、お母さまには確実に楽であったろうということですな」
グラックスはほほえんだ。
「自分たちは誰よりも父に愛されていた。それでもマキシマスは父につくした偉大な人物だった。お母さまにとっては誠にこの上なく快い考え方です。誰もが傷つかぬし、感動的だ。それを信じてしまう魅力に、お母さまとしては抵抗ができましたかな」
ルシアスは苦笑した。
「本当に皮肉な見方をなさるのですね」
「真実から目をそらさず、あらゆる可能性を考えてみるだけです」グラックスは歯切れよい冷やかな口調で応じた。「そうでなければ、ここ、ローマの政界では生きのびることなどできません」

「ところで」ルシアスは口調を変えぬまま聞いた。「母の手紙は、これで全部とおっしゃいましたか?」
グラックスはゆっくりとルシアスを見た。
「そう申したと思いますが、それが何か?」
「本当にそうなのですか?」
グラックスは表情を変えなかったが、キャシオとセイアヌスがかすかに身動きしたのをルシアスは感じたような気がした。
「手紙はまだ他にあるのでは?」ルシアスはおだやかに聞いた。
グラックスは落ち着いた顔でルシアスを見つめたまま、小皿の上のナツメヤシをつまんで、かじった。
「そう思われる根拠が何かおありなのですか?」
「ある、と申し上げたら?」
「その根拠とやらを、おうかがいしたいものですな」
「ごまかせないものかどうか知るためにですか?」ルシアスは笑った。「そんな切り札は出せませんね」
「そもそも、切り札がおありなのですかな?」
グラックスの目は面白そうに輝いていた。

ルシアスは苦笑した。
「いいでしょう。切り札を出しましょう」彼は言った。「僕は覚えているのですが、母は昔、船乗りから遠い国のものという紫色の紙を一束もらって、とても喜んでいました。これでグラックスおじさまに手紙を書くのだ、とはしゃいでいたし、事実書いていたのを僕は見ています。書き損じの紙を母はよく僕にくれて、それに落書きをしたり、折りたたんで小さい箱や船を作って僕は遊んでいたものです。しかし、その紫色の紙は、母は大切に使っていて、書き損じを出さなかった。美しいすみれ色の紙でしたから、子ども心に残念だったのを今もよく覚えています」
ルシアスは笑ってグラックスを見た。
「おわかりでしょう。お見せいただいた母の手紙の中に、その紙に書かれたものはなかった」
しばらく沈黙が続き、それからグラックスがセイアヌスの方に顔を向けた。
「お持ちしなさい」彼は言った。
セイアヌスはかすかに目を見はった。そして、それとようやくわかるほどわずかに小さく首をかしげた。
「お持ちするのだ」グラックスは再びゆっくり椅子にもたれかかりながら、くり返した。
セイアヌスは黙って一礼し、立ち上がって出て行った。
キャシオもどことなく落ち着かない表情をしている。
間もなくセイアヌスが戻って来て、小さい包みをグラックスにそっと渡した。

「これをあなたにお見せしてしまったとなると」グラックスはややわざとらしい軽い吐息をつきながら、淡い卵色の布を広げて、中から何通かの手紙の束をとり出した。
うちの一つが、やわらかい薄紫色だった。
「お母さまにあの世でさぞかし、お叱りをうけることでしょうな」
「これはどういった手紙なのです?」うけとりながらルシアスは聞いた。「別にしておられたのはなぜです?」
「ごらんになれば、さだめしおわかりになることかと」しかつめらしい表情をグラックスはくずさなかった。
けげんな顔でルシアスが手紙の一つを開こうとすると、グラックスが軽く手で制した。
「この手紙はどうぞ、おへやでごゆっくりごらんになって下さい」
「かまわないのですか?」ルシアスはますますふしぎに思って聞いた。「大切なものとうかがっていましたが」
「さよう。そうではあるのですが」グラックスは微妙な表情をした。「私もいくら年とは申せ、目の前でこれをお読みになられては、いささか面はゆいところがございましてな」
「いったい、どういう手紙なのです?」
ルシアスはそう言いながら、ちらとキャシオとセイアヌスを見た。セイアヌスはいつもより更に静かな無表情で庭の方をながめており、キャシオもまるで猫のような、そしらぬ顔を作っていた。
「さよう、その紫色のお手紙は、あなたもごらんになった通り、島から下さったものですな」グラックスはさりげない調子で告げた。「残りはお母さまがマキシマスとお会いになって、半年か一年かそこらたった頃の…」グラックスはせきばらいした。「お母さまはなかなかに、いたずら好きなところがおありでしてな。私をからかって面白がっておいでだった。それで一時期、こういう手紙ばかりを、いかにも楽しげに次々、私によこされたのです」

(2)光るせせらぎ

いつもおやさしいグラックスおじさま
どんな風に書こうかと迷ったけれど、ありのままに書きますわ。
今日また基地に行ったの。マキシマスは医務所にいるとのことなので、侍女たちは休ませて、わたくしは一人でそこに行きました。小さいけれど、小ぎれいなさっぱりした建物で、細かく区切られた棚や引き出しに、いろいろな薬が並んでいました。
彼はそこの担当士官に信頼されて、時々手伝いをしているらしいのです。その士官は薬草をとりに行って、今はいないということでした。
面白かったので、わたくしがあたりを見て回っていると、彼もわたくしにいろいろな、乾かした薬草の葉や、気持ちの悪いひからびたトカゲや、びんにつめた蛇や虫を見せてくれました。わたくしが恐がるかと思っていたらしいけど、わたくしが平気なので、ちょっとつまらなそうにしていました。
わたくしはおかしくなって、いたずらしたくなり、彼が今度はとてもきれいな色の水薬のびんをいろいろ見せてくれていた時、その中の一番きれいな、まるで紅玉のようにすきとおって輝いている薬が入っている小さなびんをとって、「ちょうだい」と言ってみました。
彼は笑って首をふり、返せというように手を出したので、わたくしはびんを背中にかくして、「お母さまが下さった首かざりがあるの」と言いました。「金のくさりの、とってもきれいな。香水を入れる小さなびんがついているのよ。それに、これを入れて首にかけるわ」
彼はまた笑って「だめ!」と言いました。
「とてもきれいと思うのよ」わたくしも笑いながら言いはりました。「大切にするからいいでしょ?」
「危ないですよ、それ、毒薬です」彼はまじめな顔でわたくしをおどかしました。「ちょっとでも肌についたら、全身に吹き出物ができて、ただれて、熱が出て、もがき苦しんで、すぐ死にます」
「嘘ばかり!」わたくしは吹き出しました。「おまえの嘘なんか、すぐわかるのよ」
「もっときれいなのを見つけてあげます」子どもをすかすような口調で彼は言いました。「ですからそれは、お返しなさい」
彼が一歩近づいたので、わたくしは首をふって一歩下がりました。
「もう!」彼はちょっとあせりはじめていました。「大切な薬なんです」
「そう?」
「たくさんの兵士が助かるんです」
「毒薬じゃなかったの?」
彼がまた進んできたので、わたくしは逃げて、そこにいくつか並んでいた診察用のベッドの一つの向こう側に回りこみました。ベッドをはさんで彼を見守り、彼がこちらに来ようとするたび、右に左に動いて逃げました。びんをしっかりにぎったままで。
彼はいらだちながらも面白がっていました。右に動くと見せかけて、いきなり左から回ってきたので、追いつめられたわたくしは、ベッドにとび上がって、向こう側にとび下りようとしました。彼はわたくしがそんな乱暴なことをすると思っていなかったらしく、あわててベッドに身を投げるようにして、わたくしの足をかかえたので、わたくしはベッドの上に倒れました。

笑いながらもがいて、わたくしはあおむけになり、びんを持った手を背中に回して身体の下にかくしました。彼はそれを見つけようとして、わたくしの上にはい上がり、背中に手を回してさぐって、ようやくびんをとり上げました。
くすぐったいのとおかしいのとで、わたくしは死にそうに笑っていました。彼も息をきらして笑いながら、それでも少し怒っていて、びんを持った手をのばして枕もとの机におきながら、また「もう!」と言って、わたくしのあごを指ではさみました。
わたくしは首をねじって、その手に軽くかみつきました。彼はもう一方の手でわたくしの鼻をつまもうとしました。
もっと書きたいのですけれど、おじさま、わたくしも皇女でございます。ことばには気をつけなければなりません。ひょっとして、あのファルコさまとか、わたくしにぞっこんのヴァレスさまが、この手紙を手に入れて、これをもとにお父さまを脅迫してはいけませんわね。ですからわたくし、お行儀よくいたします。ええ、とてもつつましくいたします。安心なさって下さいませ。あの人の手首をつかんで、金色の産毛につつまれた、しなやかな日焼けした腕を上にさすり上げたりなんかしなかった。そのままもっと上まで手をのばして、あの人の、やわらかい短いひげにつつまれた、でもとても少年らしい細いあごや、すべすべやわらかい冷たい耳をさわってみたりもしませんでした。そうしたらあの人はくすぐったがって身をよじりながら、息づかいは激しくなんかならなかったし、戸口の方を気にしながら、手をわたくしの首すじから衣のえり元にすべりこませて、手のひらでそっと胸をおおって包みこんだりなんかしなかった。斜めにかしげながらわたくしの上にかぶさってきたあの人の顔の、熱く乱れた吐息は、わたくしのほおをくすぐらなかったの。わたくしもあの人の唇を唇で受けとめて吸ったりなんかしなかったの。それで背中がぞくぞくなんかしなかったし、あの人はかすれた声で「ルッシラ」なんて呼ばなかったし、舌をわたくしの唇にさしこんできて、わたくしの舌とからめあったりもしなかったわ。(かわいそうなおじさま、まだ読んでおいでなのかしら?)わたくしの指はあの人のひきしまったお尻をさぐって、手さぐりでチュニックのすそにもぐりこみ、洗いざらしてやわらかになっているけれど、ごわごわした腰布をひっぱってほどいて、はずしたりはしなくてよ。それをからみつかせたまま、じれったそうに腰をふってそれをはねのけようとしながら、あの人の長い脚は、わたくしのひざの間に割って入ってきたりなんか、しませんでしたことよ。あの人のひざ小僧が、がさがさと荒れて固くて、その反対に股の内側がびっくりするほどきめ細かで絹のようにやわらかく、火のように熱かったことなんて、わたくし決して存じません。何ひとつ、ひっぱったりも、吸い込んだりも、しめつけたりも、神々に誓って、決していたしておりません。
そうですとも、わたくしたち、二人して、子猫のような子犬のような悲鳴に聞こえそうなほど息をきらしてあえいだり、逆に息をつめて短くうめいたり、そんなこと何もしていないわ。ベッドのシーツをまきこんで、ひきちぎりそうになりながら、のび上がったり、のけぞったり、もみあったりもしていない。いっしょに身体をうねらせたりも、小きざみにふるえながら、しがみつきあったりもしていない。ああ、そんなにすばらしい、楽しい、今思い出しても顔が赤くなって胸がどきどきわくわくしてきてしまうようなこと、わたくしたちは何ひとつしなかったのよ。本当よ。

ルシアスは声をたてて笑い、寝台のふとんをけとばしてしまった。かたわらの床の上で、剣のさやを磨いていたタキトゥスが驚いたようにこちらを見た。
「どうしたんです?」
「どうしたも何も、いや、これはまったくすごい」ルシアスは枕につっぷして、手紙をにぎりしめたまま笑いにむせんだ。「母上ときたら母上ときたら…まったく何という大胆な方だ。あきれてものが言えないよ。こんな手紙をあの謹厳で気どりまくったグラックスに、こんなに何度も送りつけておられたのか。本当にもう、とんでもない方だったのだなあ」
「ねえ、何て書いてあるんですよ?」タキトゥスは剣をおいて、興味しんしんのふぜいで、にじりよってきた。「読んで下さいよ、面白そうなところから」
「そう言ったって、こんなのどこから読めばいいんだ」ルシアスは涙をぬぐって座り直した。「ここからか?それで、わたくしたちは誰もあたりにいないのをたしかめて、着物を脱いで川に入って行きました。水の中なら何をしても見えないから安心と思ったの。でも、水はとても澄んでいて、何もかもがとてもきれいに見えてしまって、思わず着物がわりにわたくしたちは、たがいの身体にしがみついて、ぴったりひきよせあってしまった。そうすると、たがいの身体は見えなくなってかくせたけれど、うごめいてつっつく小魚、ゆらいでかすめる水藻のようなあちこちが、はっきり伝わってきて、水と、それとにくすぐられて、何が何だかもうわからない」
タキトゥスはしばらくぽかんと口を開けていた。「それを、お母さまが書かれたんですか?あの、しとやかで、上品な方が?」
「水の中では、何もかもがいつもとちがってしまうのよ。あの人の…すべてが、なめらかに冷たい水の中で…わたくしの…乳房の先を…日の光がその上にゆれて…」
「今、飛ばしたでしょう?」タキトゥスは追求した。
「こんなところ読めない」ルシアスは笑い転げた。「死んだって読めるものか」
「読んで下さいよ、ずるいですよ、お一人で!」タキトゥスはルシアスのひざに手をかけて、ゆさぶった。
「待て待て、先を読んでやるから」ルシアスはなだめた。「水から上がったわたくしたちは、もうふらふら。木の下の草の上にどさりどさりと身体を投げて、重なりあうように横たわったわ。そうやってうとうとしていてふと気がつくと、かわいい子リスがわたくしの顔の上にいて、ふさふさのしっぽがわたくしの鼻の先をぱたぱたたたいていましたの…」ルシアスは目で手紙の先を読み、またむせかえってやめた。「すごい。すごすぎる。だめだだめだ、ここもとても読めやしない」
「ええっ、ちきしょう、ああ、ちきしょう!」タキトゥスは床の上を転げ回ってくやしがった。「字が読めたらなあ!くそっ、字が読めたらなあ!おふくろがふた言めには、読み書きができないと、おまえはこの世のすばらしさが半分もわからないままになるよと言ってたっけが、本当にそうだったなあ!」
「ここならいいか」ルシアスは深呼吸して息をととのえた。「わたくしは子リスに申しました。そんなことをしてはだめ。あなたのしっぽは…いや、ちょっとここもやめよう」
「何なんですかあっ!」タキトゥスは絶叫した。
「しいっ!大きな声を出すなよ。屋敷中に聞こえてしまう」
「読んで下さらなかったらもっとわめきますよ」
「ちょっと待ってろ」ルシアスは手紙の先に目を走らせた。
「あのお美しいお方を…しかもお若い頃…くそう、うらやましいなあ」タキトゥスが歯ぎしりしている。「うまいことしてる男だなあ」
「ここならいいかもしれない」ルシアスは手紙を持ち直した。
「はいっ!」タキトゥスは寝台のはしにすがって、かたずをのんで耳をすました。

今になって思ったら、おじさま。あの最初に医務所のベッドで抱きあったとき、わたくしとマキシマスは本当に身体をつながらせたのではないの。その時はわたくし、わからなかったけれど、彼はわたくしを気づかって、あいまいなところでやめてくれていたの。
わたくしはそれを知らなかったから、そのあと何度も抱きあっている内、何だか前とちがわない?とか、これはこれでもいいのかしら、とか思っている内、いやというほど完全に、彼とひとつになることができるようになっていたみたい。
小さい時から弟の世話をしていたから、男の人の身体のことなんて、よく知っているつもりでいたわ。でも、マキシマスと抱きあうたびにそうじゃないってはっきりわかった。あの人の身体の固いところややわらかいところ、熱いところや冷たいところ、乾いたところやしめったところ、そのどれもが、どこもが、珍しくて新しく、目で見た時には決してわからなかったことが次々見つかるし、ことばではどうしても伝わらないことがとてもはっきり語りかけられてくる。
あの人は唇よりも身体の方が雄弁です。いえ、そうではない。ことばや外見では充分に示してくれない、あの人の素直さや優しさや清らかさは、じかに身体を触れあわせ、さぐりあうほど、しっかりとまちがいなく、本当にひたひたと豊かにつかみあてられるのよ。
あの人と身体をあわせ、肌の表も身体の奥もどちらのものかわからないほどぴったりひとつにとけあって、二人の身体が大きく激しく波打つと、うなじのあたりか腰のあたりから、わたくしの身体はどこかへ消え去って行き、手足は星にふれられるほど、空のかなたにまで伸びて広がって、頭のしんは湖の底にいるように、しんと静かに透明になる。何も聞こえず、何も見えない。ただ、どこかから、かすかに、あの人の吐く息が聞こえ、身体のどこかにあの人の骨の固さをふっと感じる。そんな時わたくしが全身に感じる、この安らぎは、おじさま、本当にこの世のものなのでしょうか。
愛することは空しいとか危険だとか、おじさまはよくおっしゃる。でも、これがそういうことなのですか?大きく回して抱きしめる腕の中いっぱいにあの人がいる、その重さ、そのあたたかさ。そっと押しつける唇の下でやわらかく小鳥がはばたくようにうごめく、あの人のまぶたとまつ毛。わたくしの背中をおおうあの人の腕のたしかさ。わたくしの首筋に回されるあの人の指のしなやかさ。そうやって、わたくしの身体をあの人の身体がつつみ、あの人の身体をわたくしの身体がつつんで、互いが互いをみたしあい、わたくしたちの間にはもうこれ以上どんなものも入りこめないほど、わたくしたちはひとつになって、しかもそれぞれ自由だわ。わたくしの中のあの人も、あの人の中のわたくしも息づいて、脈打って、互いの命を感じあいながら、許しあって、うけいれあって、安らいでいる。これほどまでにみちたりて、おだやかな気持ちを、わたくしは他のどんなことでも決して味わえはしないと思うのに。

いつの間にか床に転がって眠ってしまったタキトゥスのそばで、ルシアスは深い吐息をつきながら、今読みおわった母の手紙をそっとおいた。あとはもう、最後の一通を残すだけとなっていた。島から母が送った、あの薄紫色の手紙だ。ルシアスはそれを開いた。

(3)最後の抱擁

なつかしいグラックスおじさま
今夜は月がきれいです。
ルシアスも侍女たちも眠ったのか、家の中はしんと静か。
波の音だけが聞こえます。

おじさま、覚えていらっしゃる?
若気のいたりでわたくし、昔、マキシマスと愛をかわした時のことを、こまごまと、あらいざらいに書きつづったお手紙を何度もおじさまにお送りしましたわね。
おじさまがどんなお顔であれを読んでおいでだったかしらと思うと、今でも笑えてしまうのですけれど。

大人になって彼と会う時、あの手紙に書いていたようなことをしていた頃のことを、わたくしはしばしば思い出しておりました。
女になったこの身体で、女としての喜びをすみずみまで知りつくしたこの身体で、あの人ともう一度抱きあいたい、そう思って狂おしくすごした夜がございました。その一方で、まだお互いに何も知らぬみずみずしい、なかば子どものような手足で抱きあい、どこをどうすればどう感じるか、どう変わるか、手さぐりでぎごちなくためしあっては、びっくりしたり、とまどったり、喜んだり、しょげたり、あわてたりしながら、夢中になってお互いの身体を知りあっていったあの日々の、かけがえのなさも思いました。そんな時間をあの人が他ならぬこのわたくしにくれたこと、たとえ奥さまでも、それはお持ちでないことを思って、神々に感謝し、自分をなぐさめたこともございました。
互いに大人になってからというものは、あの人はずっとわたくしのことを警戒しつづけていました。ただの一度も、身体にさえも、ふれさせてはくれませんでした。宴会の席で、儀式の場で、人が見ているところでは逆にさけられないだろうと思って、さりげなく手をのばしてふれようとしても、とても上手に身体をかわして逃げられました。二人きりになった時には、礼儀正しいよそよそしさと、敵を見るような鋭い目で、わたくしを決して近づけませんでした。
悲しいというより、わたくしはうれしかった。こんなにもまだ、この人はわたくしを意識し、拒絶している。わたくしの魅力に負けまいとしている。それが、ありありとわかりましたから。わたくしが、昔のあのきゃしゃな手足や初々しい顔だちとは別人のような、たくましい身体や落ち着いた表情の、あの人のすべてを目でなぞって、あの腕が、あの肩が、あの唇が、あの目が、どのように昔とちがって、また同じところも残して、わたくしの腕の中で動くのだろうと思いつづけているように、あの人もまた、わたくしの髪に目に、胸に、手足に、昔とちがうわたくしを見、とまどいとあこがれとなつかしさとを感じつづけていることがわかっていましたから。

大人になってわたくしがあの人にふれたのは、たった二度です。一度は反乱計画への協力を頼むために剣闘士の訓練所に行ったわたくしに、あの人が怒って、わたくしを殺そうとするように片手でのどをしめつけた時。あの人の手首についた鎖が低く鳴る音を聞きながら、その時でさえ、心のどこかで、気が遠くなるほどうれしかった。もう一度は同じ訓練所のあの人のへやに、逃げる手はずを伝えに行った時。抱きあって、口づけし、二人きりで会った、それが最後になりました。
侍女や他の者に行かせるわけには行かないほどの緊急で危険な伝言でした。あの人にもそれはすぐわかって、危険なことをして、とわたくしからまだ少し目をそらしながら、たしなめるようにあの人は口のなかでつぶやきました。あなたには借りがある、とわたくしが申しますと、あの人は初めてやさしくわたくしを見つめ、そんなものはない、あなたは子どもを愛する母として、するべきことをしているだけだ、と申しました。
あの人はまだ、あの人はまだ、そんな時にもあの人はまだ、わたくしがこんなことのすべてをしているのは、あの人のためでもローマのためでもなく、子どものためと、本当に思っていたのでしょうか?そう思っていたかったのでしょうか?
わたくしは限りなく疲れた気がいたしました。もう疲れた、と気がついたら言っていました。弟はこの世のすべてを、特にあなたを憎んでいる、と言いました。
なぜ弟のことなどを?もしかして、わたくしは続けて言いたかったのでしょうか?弟の気持ちがわかる、と。わたくしもあなたを憎んでいる、と。

ずっといつもそうだったように、わたくし自身にもわからないわたくしの気持ちをあの人はわかってしまったようでした。つらそうな、すまなそうな、どこか訴えるような表情で、彼はわたくしを見て、低い、あきらめたような声で言いました。
父上が私を選んだから?
そう、選んだ、とあの人は言った。
わたくしと同じ疑いをあの人が抱いていたか、それともそれは疑問ではなく確信だったのか、今でもわたくしにはわからない。
けれども、わたくしの疑問はその時晴れました。
本当のことと向き合う力がわたくしの中に生まれたからかもしれません。
言うべきことも、ひとりでにわかった。それが真実だということも。それだけが、たった一つの。
いえ、とわたくしは長い吐息のような声で言いました。
そうじゃない。父が誰よりもあなたのことを愛したから。
そして、つけ加えました。そしてわたくしもあなたのことを誰よりも愛したから。
言って、初めて気がつきました。
そのことを一度もあの人に告げたことがなかったと。
言えば、負けと思っていたから。
これほど愛している人に、そんな弱みをにぎられてしまうのが、とても恐ろしかったから。

わたくしがそう言った時、あの人の身体をおおっていたよろいが突然はずれて全部がらがら床に落ちて鳴る音を、耳に聞いたような気がしました。あの人は何か言いました。わたくしも何か言いました。でも、もうそれは覚えていません。ことばなどもうどうでもよかった。まるで雪がとけるようにやさしくしなやかになった身体と表情で、まるで自分でもそれにおびえているようにおずおずと、あの人は指でわたくしのほおにふれ、わたくしたちはそっと身体をよせあって唇をあわせました。それだけでした。本当にそれだけ。それでもわたくしたちはその短くてあわただしい抱擁の中に、すぎ去った年月を、互いの上にふりつもり、通りすぎていったたくさんのものを感じとることができました。そして、変わっていないものも。あの人の唇、歯ならび、うなじの手ざわり。はずむ息をおさえようとして不規則になる息づかい。ああ、それらのすべての何もかもを、何とまざまざと、わたくしの指も、舌も、唇も、腕も覚えていてくれたことか。手に入ったことが信じられない大事な大事なこわれものを扱うように、そっと抱きしめあい、ふれあいながら、わたくしの身体の中には稲妻が走り、夫が相手の時にはおだやかにまどろみ、弟とふれあう時には氷のように凍りついていたものが、奔流のようになだれになだれて、とめどがありませんでした。抱きあっていたのはつかの間、でもあの瞬間は永遠でした。わたくしのように幸せな女がいったいいるだろうかと、あの時を思い出すたび、今でもわたくしは思うのです。

わたくしはあの時に思いました。あの人のゆっくりと息づく胸の動きを二つの乳房でうけとめながら、心から祈りました。この身体を傷つけたくない、死なせたくない。この身体の中に息づくこの人の心を、たとえ少しでも苦しめたくない。ローマなど、どうなってもいい。この人を生かしておきたい。わたくしのものにならなくてもいい。この人が幸せでいてくれればそれでいい。
あの人と別れて夢のような気持ちで夜の道を戻りながら、月の光はふしぎなまでにやわらかく、甘かった。なぜでしょう、ふとわたくしは、あの人の妻と子どもがどこかで生きているような気がいたしました。なぜそんなことを思ったのでしょうか。あまりにもはっきりとそれが感じられた驚きに、わたくしは思わず街路に足をとめました。
まぶしくふりそそぐ月の光は、まるで誰かが音のない陽気な音楽をかなでているようでした。
いつも、あの人の妻のことを思うたび、やけつくように苦しんで、よじれるように傷ついていたわたくしの心が、その時は本当に安らかでした。わたくしは願いました。そんなことはあるはずもなく、そんなことをあの人がするはずもないと知っていながら、わたくしはあの人が、オスティアには行かず、ローマのこともわたくしのことも忘れて、妻と子のもとへかけ去って、幸せになってくれればいいと、ただそれだけを本当に、つかれたように願ったのです。
あの人を永遠に失ってもいい。あの人が幸せでいてくれるなら。
わたくしには、あの人と抱きあった、あの瞬間があればいい。これほどに人を愛する喜びを知っただけで、もう他に何がなくても、一生わたくしは生きていける。
初めて、心から本当に、そう思いました。
それは、もしかしたら、あの人に愛されていること、ずっと愛されていたことを、初めてはっきりとたしかめることができたという安らかさのせいだったかもしれません。
たとえ誰と暮らそうと、誰とともに夜をすごそうと、あの人の心はわたくしのものでした。
彼はいつでもわたくしがよく知っていた彼でした。
消えたこともなければ、はじめからいなかったのでもない。
わたくしは一度も、彼を失ったことなどなかった。
それを知ったとき、わたくしは初めて、あの人よりも、あの人の幸せがほしいと思った。
わたくしの見えないところで、わたくしの知らないところで、それでもあの人が幸せに生きていてくれさえしたら、わたくしは決して不幸にはならないと。
たとえ、あの人がわたくしのことを忘れてしまっても。他の人を愛して幸せでも。
生まれて初めて感じる気持ちでした。
月の光につつまれて、自分がこの世にただ一人で、新しく生まれてきたような気がしました。

(4)お別れはつげぬままで

そして今夜もまた月が美しい。
おじさま。
この光を浴びるたび、何度でも、何度でも、わたくしはあの月の街路に戻り、あの時の新しいルッシラに生まれかわれそうな気がいたします。
現実にはあれから何度も、この島に来る前も、来てからも、いろんな人を憎んだし、自分の運命を呪ったこともありました。
けれども、あの夜のことを思い出すたび、再び勇気とやさしさがわたくしの心によみがえり、そうやって屈辱や憤りにもだえている自分さえもどこかで微笑んであたたかく見守っている、もう一人の自分が生まれてくるのを感じます。そんな愚かで弱い自分も含めた、すべての人の幸福を心から願うことができるようになる気がいたします。

このことだけをお知らせしておきたくて、どうしてもと思って書きはじめたのですけれど、これだけ書くのに本当に、信じられないほど長く何日もかかってしまいました。
おじさま。
これが多分わたくしがおじさまにさし上げる最後のお手紙となることでしょう。
この前のお手紙で書いたように身体の具合がずっとすぐれなかったのですが、それが次第にひどくなり、このごろはずっと、起き上がることもままならない日々がつづいています。
ルシアスもカルミオンも島の女たちも本当によく面倒を見てくれて、何ひとつ困ることはございませんけれど、わたくしの命の炎だけは確実に細って消えて行こうとしているようです。
けれど、わたくしの心はふしぎに明るく、淋しくもなければ、恐ろしくもございません。
わたくしからの手紙が絶えても、お嘆きにはならないで下さいませ。
死ぬ瞬間もわたくしはきっと、みちたりて幸せだろうと存じますから。
マキシマスとずっといっしょにいた、あのアフリカ人の剣闘士が故郷に帰る前にしばらくおじさまのお屋敷に滞在して、いろんな話を聞かせてくれた中に、彼らといっしょにアフリカの闘技場に引き出されてすぐに殺されてしまった、ギリシャの詩人の剣闘士の話がありましたわね。
文字を持たない部族のあのアフリカ人は、すぐれた記憶力で、その詩人が奴隷小屋の壁に書き残し、マキシマスが読んでくれたという長い詩を皆覚えていて、わたくしたちに暗誦して聞かせてくれました。
おじさまはそれを刷り物にして人々に配り、死後にますます高まったマキシマスの人気とともに、その詩もまた流行してよく知られるようになり、あちこちの塀や壁にも刻まれたようでございます。
おじさまもまた、客間の一つの壁に彼の詩を刻ませ、彼の姿を模したペンを持つ男の彫刻を作って飾らせておいででした。
その部屋の名前の由来ともなった、あの長い詩のはじまりの一句をわたくしはこの頃よく思い出しています。
「みつばちの羽音は甘き眠りを歌い…」というのでしたわね、たしか。
死は今、わたくしには、そのような、のどかな春の日の午後の甘い眠りのように思えます。
ですから、お別れは申しませんわね。
おじさまも、お身体に気をつけて。
どうか、いつまでも、今のまま、お元気で、皮肉屋で、嘘つきで、意地悪でいらして下さいね。

第十章 すみれ色の闇

(1)場ちがいな幻

ルシアスとタキトゥスは、来た時と同じ道を通って、都を出る城門へ向かっていた。今日も人出は多かったが、時間がもう昼近いせいか、人の波もどこかのんびりとしていて、来た時ほどにはごったがえしていない。
ほとんど屋敷から出なかったルシアスにひきかえ、ここ数日町中を歩くことの多かったタキトゥスは、来た時とはあべこべに、いっぱしのローマ通のような顔で、ルシアスにあれこれと目に入る塔や建物の説明をしていた。
「すっかりローマが気に入ったみたいじゃないか」ルシアスはからかった。「島に帰ったらおまえ、退屈しちまうんじゃないのか」
「そうなんでさ」タキトゥスはまじめな顔であいづちをうった。「お母さまはあんな何にもないとこで、よくお淋しくなかったなあ。おれにはもう、おれがふしぎでなりません」
来た時とはえらいちがいだとルシアスは吹き出した。「そんなに名ごりおしいんだったら、もう昼近いし、そのへんの店で何か食って行くか」
「グラックスさんとこで弁当でも作って来てもらえばよかったですね」タキトゥスは図々しいことを言った。「あそこの料理番はおれのこと、けっこう気に入ってくれてたみたいだったし」
「そうかい?」ルシアスは笑いをかみ殺した。「何もなくてよかったな」
「何です?」
「何でもない。どっちみち、今朝はグラックスも忙しいそうだったし、早く出発した方が正解だったさ」
「元老院に行くんだって言ってましたね。ファルコとかいう若僧とやりあうんだって、やけに威勢がよかったじゃないすか」
「若僧ったってもう、いい年だと思うぞ。母上の恋人の一人だった、あのファルコらしいから」
「コモドゥスにおべっか使ってたやつなんでしょ?そんなやつが何で今ごろまで政界に生き残ってるんですかね?」

「あいつ、母上を攻撃して追放する急先鋒にたったらしい」ルシアスは笑った。
「民主政の闘士としてな。グラックスに言わせれば、本当にそうだったのかもしれないそうだよ。アウレリウスやマキシマスのように立派な皇帝こそが実は民主政の敵だというのが、やつの持論でね。コモドゥスのような愚帝や暴君を、さんざんおだてあげて調子にのせ、暴虐の限りをつくさせて、民衆に皇帝への反感をつのらせ、帝政に絶望させるのが一番手っとり早い民主政への道だって主張してたそうだ。コモドゥスに近づいて何かと協力してたのも、そうやって彼にますます本性をあらわさせ、人々に彼の正体を見せつけるためにやってたことなんだと」
「言えば何でも言えるもんだって気がしませんか?」
「彼なりに本気だったのかもしれないよ。過激な民主主義者ってやつだろ。策略をめぐらしすぎて、誰にも本心がわからないんだが、そうやって強い方についちゃ、いつも生きのこって来たらしい」
「何だかグラックスさんは、やつとのけんかを楽しんでるみたいじゃなかったですか?」
「彼が死んだら淋しくなるでしょうな、なんて、あっちが年上みたいなこと言ってたな」
「あのじいさんは、ほんとにいつまでも生きますよ」タキトゥスは感心したように言った。「おれたちが腰の曲がったじじいになって、またあの屋敷に行ったら、きっと今と同じ桜色のほっぺたをして、やあやあなんて元気な足どりで出迎えますぜ、きっと、グラックスさんは」

「そうかもしれないな」と笑いながら、ルシアスは、こうして少し離れただけで、もう夢の中か昔のことのように遠く思える、グラックスの屋敷のあれこれを思い出していた。白い大きな花が描かれていた階段のわきの壁、黒と銀の大理石が水面のように光っていた玄関の床。寝室の壁に舞っていた、うす青いイルカの群の色あせた模様。無造作に見えて絶妙の効果を計算してあちこちに配置された美しい優雅な彫刻やつぼ。月光につつまれた奥庭でひっそりと歓喜の表情をうかべていた若者とニンフの像。まだ昼の陽射しのあたたかさを残していた、ぼろぼろと表面のやわらかい、ぼってりと太いテラスの柱。ゆれる木々の梢、噴き上げる噴水のしぶき。
そしてふとルシアスは、グラックスの出かけるしたくで、どことなく忙しそうにしているキャシオとセイアヌスに今朝玄関先で別れを告げて庭を横切ってくる時、池のそばにぽつんと一人座っていた、黒い小さな人影を思い出していた。セイアヌスの母だった。逆光で、その太ったみにくい顔や姿はよくわからなかったが、前こごみになったまま動かない、そのたたずまいそのものが、孤独で、哀れで、しかも奇妙な嫌悪感をさそったのは、グラックスからあの話を聞いていたからだろうか。
生きるために子を売った女。
わが子を守りきれなかった女。
母とはまるで反対だ、と思いながら、ルシアスはその姿からふしぎに目が離せず、あの何もかもが美しかった屋敷で見た、最後の無気味な幻のように、今もなお、目に焼きついてはなれなかった。

まるでルシアスの心を見通したかのように、その時タキトゥスが「あのアヒルの番してるばあさんと、この前、話をしましたよ、おれ」と言い出した。「セイアヌスのおふくろさんと」
「本当か?何を?」ルシアスは目をさましたように我に返って、タキトゥスを振り返った。
「何、話ってほどじゃ」タキトゥスはちょっと照れた。「でもあいつ、島のペトルッキオんとこのかみさんとそっくりじゃないですか。ぶかっこうで、でぶで、いつもウニみたように不きげんで。そう思ったら何かちょっとなつかしいような気もして、アヒルにえさやってる時、近づいてって話しかけてみたんでさ。アヒルってやつはうるさくって、自分勝手だから、苦労するよなって。そうしたら、案外あいそよく、にたっと笑って、何、なれりゃそれなりにかわいいもんさ、って言いましたよ」
「ふうん」
「おれもそれで、ちょっとばかし調子にのって、セイアヌスってあんたの息子?って聞いたらば…」
「おいおい」ルシアスはあきれてタキトゥスを見た。「よくそんなこと聞いたな。何て言った?」
「赤の他人だよ、あたしの息子なもんかい、って、いっぺんに不きげんになって、よたよた池の方へ行っちまいました」
「そりゃそうだろう」ルシアスは吐息をついた。「なぐりとばされなかっただけ幸運と思えよ」
「だけどたしかに見れば見るほど、セイアヌスには全然似てないもんなあ」タキトゥスはこだわった。「はんぱじゃないすよ、あの似なさすぎは」
「そんなこと言うんだったら、僕だって母にはちっとも似ていない」ルシアスは笑った。「父にも似てないんだそうだ、まるっきり。セイアヌスもきっと、ひいじいさんのまたいとこか、遠い親戚のおばさんに似ちまったんだろう」
「やっこさんにとっちゃ運がいいんですかね悪いんですかね」タキトゥスは首をふった。「だけど、それで、ルシアスさまは、お母さまのお手紙を全部読んで、何かわかったことがあるんですか?」
「ああ。いろんなことがわかったよ」
「だけど、知りたいことはわかったんですか?」
「そもそも何を知りたかったのか、自分でもよくわからずに来たんだよ」ルシアスは白状した。「だから、何かがわりきれない気もするが、これでいいんだって気もする」

(2)迷路の果て

タキトゥスは首をかしげて何か言いかけたが、ちょうどその時、馬を進める二人の前に、大きな広い石の階段があらわれると、たちまちそちらに気をとられて、「ルシアスさま、覚えてますか?」と、はずんだ声で言い出した。「戴冠式の日、お母さまとお二人で、この階段の上から民衆にあいさつされたんだそうですよ」
ルシアスは石段を見上げた。今日もよく晴れていて、石段の上にはぬけるような青空が広がっている。人々がまばらにのんびりと階段を上り下りしていて、すっかりすりへって薄れてしまったモザイクの模様が、石段の上に紅や黄色や紫の淡い色を飛び飛びに重ねあわせている。
「その頃はまだ、このモザイクの模様も、出来たばかりで、あざやかで」タキトゥスが言っていた。「ほら、よく見るとわかるでしょ?この下のあたりは、舞い降りてきた大きな鳥の翼なんです。その時、ここにしきつめられた赤いじゅうたんが少し短かすぎて、翼のはしの尖った部分が下の方からはみ出してのぞいているのが、黄色い羽根だもんだから、ちょうど、おっきな赤いろうそくのはしに、ぼうっと炎がゆれてるみたいに見えたそうで」
…まるで赤い大きなろうそくの先に、
…そう思わない、ルシアス?
「何だって?」ルシアスはタキトゥスの顔を見て聞き返した。
「だから、大きい鳥の翼の黄色いはしが…」
…炎が風にゆれているよう。
「誰がおまえにそう言ったんだ?」ルシアスはそうたずねている自分の声を頭のどこかで、ぼんやり聞いた。
「え?セイアヌスですよ」タキトゥスは答えた。「おれが昨日、ずぶぬれになって戻って、あの階段のとこで雨にあって、水が滝みたように石段を流れ下ってたって話したら、あそこは昔、戴冠式があった場所で、赤いじゅうたんが敷かれたんだけど、それが長さがたりなくて」
…まるで赤いろうそくの先にともった黄色い炎が風にゆれているよう。そう思わない、ルシアス?
「ねえ、どうしたんです?」馬をとめてしまったルシアスを、自分も馬をとめながら、けげんそうにタキトゥスが見た。
ルシアスはしばらく何も言わずに考えにふけっていたが、突然さっと馬の手綱を引き上げて、向きを変えた。
「ど、どうなさったんで?」ふり向きながらタキトゥスが大声を上げた。「ちょっと、ルシアスさま!」
「戻ろう」ルシアスは早口に言った。
「どこに?」
「グラックスの屋敷にだ」
「な、何でまた…?」
タキトゥスの方を見もせず、ルシアスは来た方に強く目をやりながら、きっぱりと言いきった。
「母の手紙は、まだ他にある」

「おまえがセイアヌスから聞いた、その風景…赤いろうそくと炎に見えた、赤いじゅうたんと黄色い鳥の翼のかたちは」馬を並べて早足に今来た道を戻りながら、ルシアスは説明した。「考えてみろ。階段の上から下を見下ろした時にしか見ることのできない情景だろう。その時に最上段に立って下を見下ろしていたのは母と僕しかいなかったはずだ。母が手紙に書かなければ、誰も知らない風景だよ」
「グラックスさんも段の上にいたんじゃないんですか?」タキトゥスが異議をとなえた。「寝物語にそれをセイアヌスに話して聞かせたんじゃ…」
ルシアスは首をふった。「元老院は僕の皇位継承を正式には認めてなかった。彼があそこにいるはずはない。それにタキトゥス、僕は覚えているんだよ。いや、忘れていたが、今、思い出した。僕がきょろきょろしてるものだから、まっすぐ前を、下を向かせようとして、母が僕の肩に手をかけて、耳に口を寄せ、ささやいた。ごらんなさい、ルシアス。赤いじゅうたんのはしっこを。短かすぎて、モザイクの模様がはみ出しているわ。でも、きれい。まるで、赤いろうそくの先にともった小さい黄色い炎が風になびいてゆれているよう。そう言った。はっきりと思い出せる。見下ろしたら、その通りの情景が見えた。長いまっ赤なろうそくの先に、小さい炎のように黄色い色が一方にかしいでいた。それもはっきり覚えている」ルシアスは大きく息を吸った。「母はそれを手紙に書いたにちがいない。セイアヌスはそれを読んで、そのことばを覚えていたんだ。彼はいろんなものをよく読むから、どこでその文句を見たのか忘れてしまっていたのかもな。ただ印象に残っていて、それをうっかりおまえに話してしまった」
「ごらんになった手紙の中に、その文章はなかったんで?」
ルシアスは首をふった。「なかった。そもそも戴冠式のことを書いた手紙はなかったもの。考えてみれば他にもおかしいことがある」右に左に手綱をひいて、彼はあわただしく人波をよけながら、ますます馬の足を速めた。
「あの紫色の手紙…あれは母が最後に書いた島からの手紙だった。とすれば、たかだか一年あまり前、その時僕はもう大人だよ。母はあの紙を長いことかけて大事に使っていたんだろうが、それにしても、初めて母があの紙を使っていたのを僕が見たのはずっと昔、僕がまだほんの子どもの頃だった。昨日いっしょに見た手紙の中身があんまりとんでもなかったから、笑いころげてうっかりして、僕はそれに気づかなかった」
今朝ルシアスから手紙をうけとりながら、「よくおやすみになれましたかな?おへやの方から遅くまで何やら叫び声などがしていたようですが」と、とぼけた顔で言ったグラックスと、何となくどぎまぎして、あわただしく礼を述べ、別れを告げてしまった自分を思い出して、ルシアスは舌打ちした。
「たぬきじじいめ」彼はつぶやいた。「いっぱい、はめたな。何もかも計算していたにちがいない。セイアヌスとキャシオもだ。とまどったような顔をして見せて!」
「紫色の手紙だけでも、まだ他になくちゃおかしいってわけですね」タキトゥスもようやく、のみこめてきたようだった。「でも、どうするんです?まっすぐ入ってって、まだ見せてない手紙が他にあるだろう、とっとと見せろと言ったって、おとなしく恐れ入りましたとさし出すやつじゃないですぜ。グラックスさんも、セイアヌスも」
「わかってる。とにかく戻ろう」ルシアスは更にまた馬を速めた。「戻って、それから考える」

二人の馬が門番小屋の前をほとんどかけ抜けるように通過した時、とがめる者は誰もなかった。いつになくグラックスの屋敷は人の気配が多くて、ざわざわと落ち着きがない。門から玄関につづく広い道の両側には豪華な輿がいくつも停まり、つきそってきた解放奴隷や兵士たちが小声で何かささやきかわしている。彼らは通りすぎるルシアスたちを話をやめて、興味深そうに見守っていた。
「あ、ルシアスさま!」半ば走るようにして、奴隷たちにあれこれと命令しながら歩いてきたキャシオが、ルシアスを見つけて、驚いた風もなく声をかけてきた。「お戻りになりましたか。どこでお聞きになりました?」
ルシアスは馬からとび下り、タキトゥスに手綱を渡した。「何かあったのか?」
「ご存じないのですか?」
「何かあったことは知っている」とっさにルシアスは嘘をついた。「だから戻ってきたんだが」
納得したというようにキャシオはすぐにうなずいた。「グラックスが元老院で倒れたのです。意識不明で輿で戻って来ましたが、医者が来て、さっき意識は戻りました。あいすみませんが、見舞客でごったがえしていますので、ひとまず『西風の間』でお待ちいただけませんか。まだそのままにしてありますので。落ち着いたら主人に知らせておきますので、お戻りになったことを」
「わかった。邪魔にならないよう、どこかに引っ込んでいよう。だが、何か僕らにできることがあるかい?」
キャシオは首をふった。「それはご心配なく。秘書も執事もおりますし、私どもで何でも手配できます。主人の病状も今はひとまず落ち着いて、何の心配もございません。何かご用がありましたら、セイアヌスに申しつけて下さい。もう少ししたら客もひき上げて、ここも静かになりましょう。馬をこちらへ」
走りよってきた少年奴隷に二人の馬の手綱を渡すと、キャシオは早足でまた輿の並んでいる方へと去った。
「キャシオはああ言ったが」玄関を入って行きながら、ルシアスはあたりを見回した。「セイアヌスはどこだろう?」
その時、タキトゥスがいきなり荒っぽくルシアスの腕をひっぱって、廊下の向うを指さした。
セイアヌスだった。あの手紙の入った白い箱を両手で大切そうに抱えている。淡い紅色のトーガのすそをひるがえすようにして、暗い廊下の奥へと曲がって行くのがちらりと見えた。
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、その後を追うようにして、廊下の向こうへ走り出した。

グラックスの屋敷の廊下は、奥に行くほど床も壁もモザイク模様の手がこんできて、美しいが狭くなり、まるで迷路のように入り組んでいる。どこかの角で、あの白髪の太ったみにくいアヒル番の女がちらと向こうを横切ったかと思うと、華麗な衣装をつけた小人が数人、走り抜けて行くのが見えた気もした。金髪と赤毛の、女とも少年ともつかない美しい二人が壁によりかかってささやきかわしながら、横目でこちらを見て笑ったようでもある。若者が二人向こうから走ってくると思ったら、行き当たりの壁の鏡に映った自分たちの姿とわかって、ルシアスは舌打ちした。思いがけないところで広く開いた窓から、庭の木の間ごしの緑がかった光が流れこみ、水盤の水を反射して天井にも壁にも床にもゆらゆらとゆれているかと思うと、たちまち、闇のように暗い廊下が長くつづいて、壁の黒いライオンの頭のかたちをした彫刻のランプの中におかれた灯の炎が一列にずらりと並んでまたたいていたりする。
うす紅色のトーガの袖でなかばくるむようにそっと重い箱を抱えているセイアヌスの足は、歩きなれている廊下のせいか、すべるようになめらかで速い。ルシアスたちは何度も彼を見失いそうになった。しかし突然、廊下はまた少しづつ広くなりはじめ、両側の壁に巻物や本がぎっしりとつまった棚があらわれはじめ、いつの間にかルシアスたちは、どっしりとぶあついじゅうたんがしきつめられた広いへやへと入ってきていた。へや中が本の棚でいっぱいで、その向こうの広いテラスから、日光が明るく太い筋になってさしこんできている。

毛足の長いじゅうたんは、ルシアスたちの足音を吸い込んで消した。二人が本棚の列のかげからそっとのぞくと、テラスの手前のわずかな空間におかれた大きな机の上で、箱から出した手紙を並べ直して整理しているセイアヌスが見えた。
彼は仕事に没頭していた。二人に見られているのにはまったく気がついていない。短い吐息をつきながら蜂蜜色の髪を乱暴にかきあげると、彼は身をかがめ、机のひきだしからサフラン色の布の小さな包みを出して机の上にのせ、ていねいに開いて、中からいくつかの紫色の紙の束を出した。注意深くそれを他の手紙の間に入れようとして、何かを感じたのか、彼はふっと顔を上げ、本棚の間からこちらを見ている二人を見つけた。
彼は表情を変えなかった。声も立てなかった。ただ、手だけがさっと本能的に、今、包みから取り出した手紙の束をトーガの袖の中にひきこんで、身体も一歩机から下がった。そしてすぐ、今度ははっきりと表情を動かした。自分自身の今のしぐさを明らかにしまったと後悔している顔だった。

「セイアヌス」ルシアスは本棚に片手をかけて、ゆっくりと進み出ながら、落ち着いた声で呼びかけた。「今かくしたのは、それは何だい?」
セイアヌスは答えなかった。目だけをわずかに動かして、ちらとテラスの方を見たが、すでにそこにはタキトゥスが退路を断つように回り込んでいるのを見ると、静かにルシアスに目を戻し、いつもと同じ落ち着いた声で「主人の所有している土地からの税の報告書です」と答えた。「あいすみませんが、外部の方にお見せするものではございませんので」
「紫色の紙に税の報告書だって?」ルシアスは笑い出した。「思っていたよりも君は、嘘をつくのが上手じゃないようだ、セイアヌス。第一、そんなものを何で母上の手紙といっしょにしておくのかな?本当に報告書なら、いいよ、読みはしないから、そこから広げて見せてくれ、こちらに向けて。ここからでは字は読めないが、女文字の手紙か、君の言うような報告書かどうかぐらいはわかる」
セイアヌスは黙ってルシアスを見つめ返し、それから、涼しい澄んだまなざしのまま、落ち着いたしぐさで言われた通りにトーガの袖から出した紙の束を両手の間に重ねて、こちらに向けて広げて見せた。おや、と思わず自信を失ってルシアスが目ばたきしてしまったほど、表情も手つきも平然としていたが、次の瞬間、そのセイアヌスの指がすばやく動いて手紙の束を二つに引き裂き、更に細かくちぎろうとした。
怒りの叫び声とともにルシアスは机にかけよって躍りこえ、セイアヌスにとびかかった。それより早くタキトゥスがとびついていて、二人に押されてセイアヌスはじゅうたんの上に横倒しに倒れ、紫色の紙の切れはしがあたり一面に蝶の飛ぶように舞い上がりながら散った。更に残った切れはしを握りしめているセイアヌスの手首をわしづかみにしてルシアスは床にたたきつけた。骨が折れるかというような強さだったが、セイアヌスは声ひとつたてず、しかしさすがにその指からは力が抜けて、ルシアスに紙をもぎとられるにまかせた。

「動かすな」息を切らしてタキトゥスに命令すると、ルシアスはセイアヌスから離れて床の上をはいずり回って破れた手紙を拾い集めた。タキトゥスはルシアスの方を見ながらうなずいたが、そんな命令はほとんど不要といってよかった。背はセイアヌスの方が高いのだが、明らかに格闘などとはまったく無縁の生活をしてきた、ほっそりと色白な手足は、赤銅色の筋肉が隆々と盛り上がるタキトゥスの腕に押さえつけられると、もうびくりとも動けない。セイアヌス自身がそれをよく知っているようで、もがいてみようとさえする気配がなかった。
「…ルシアスさま」
かわりに彼は、いつもとちがう、ふりしぼるような声で、どうにか目につく限りの紙片を拾い終わってもう残りはないかとじゅうたんの上を見回しているルシアスに向かって呼びかけてきた。
「…ごらんにならないで下さい」
「黙れ」ルシアスは息を切らせながら首を振って髪を払いのけ、床の上に座ったまま、集めた紙片を見比べた。書いた時期がちがうせいか、同じ紫色でも紙の色に微妙な濃淡があって、破れていても案外たやすくつなぎあわせられそうだった。
「お願いです」セイアヌスの声は低く、だが聞く者をどこかでぞっとさせるような必死のひびきがこもっていた。「それをごらんになってはいけません。絶対に、ごらんになってはいけません…お読みにならないで下さい」
「黙れよったら。うるさいぞ」その声にひびく絶望的な調子の無気味さに、自分でもわけのわからぬ恐怖を感じたのだろう、タキトゥスが乱暴な口調でさえぎった。「それ以上なんか言ったら、背骨をたたき折るぞ、セイアヌス」
「ルシアスさま」タキトゥスの声もことばもセイアヌスの耳に入った様子はなかった。「読まないで下さい!見てはだめです!」
タキトゥスが腕をねじ上げでもしたのか、激しく短い息を鋭く吸い込んでセイアヌスはことばを切った。だがルシアスはすでにもう、そんなことを気にしてはいなかった。手にした紙片の一つにあった、見なれた母の文字に彼の目は吸いよせられていた。
「わたくしは、どうしても、あの子を、ルシアスを、愛することができません」
文字は、そう書かれていた。

(3)うすれゆく面影

おやさしいグラックスおじさま
秋が深まるにつれ、海の色は濃い藍色に変わってきます。海鳥の声が鋭くなって、夜はつんざくような風の音が、むせび泣くように遠い波のひびきとまじります。
こんな夜にはたまらなくマキシマスがなつかしい。
会いたくて、会いたくて、声を聞きたくてたまらなくなる。

あの人といっしょに暮らしたことなど一度もないのに、こんな夜にふとふり向くと、あの人が寝椅子に身体を投げ出して、クッションによりかかり、わたくしの方を見て笑っているような気がするの。
立ち上がり、かけよって行って、あの人を抱きしめたい。床にひざをつき、あの人の胸にあごをのせ、耳や髪をもてあそびながら、何かとても他愛のない、どうでもいいようなことばかり、いつまでも、いつまでも、話していたい。

あの人が生きていたら、わたくしに言うことが、おじさま、わたくしにはよくわかっています。
私のことなど忘れていいから、ルシアスを大切にして、愛してやって下さい。
きっとそう言うの。そう言うことがわかっているの。
最後まであの人は、そのことを気にしていたのだから。
ローマを元老院に、ルシアスをわたくしに託して、あの人は死んだ。
「ルシアスはもう大丈夫」それがあの人がわたくしに言った最後のことばだった。
あの子を何よりも大切に、愛して生きてゆくことが、わたくしの幸福だと、あの人は知っていた。
わたくしだって、それはわかっている。
そして、あの人が生きていてくれさえしたら、それもできると思います。
たとえ、あの人と二度と会えなくても、どこかで今も生きていてくれるのであれば、あの子のこともきっと愛せると思います。
会いに行かないと決めていても、会うことがないとわかっていても、その気になれば会えるかもしれないこの世のどこかに、あの人がいると思うだけで、会わないでいても耐えられる。
けれど、あの人は死んでしまった。
もう、この世のどこにもいない。
それなのにもう、人を愛する力など、わたくしのどこに生まれるというの。

それどころか、誰を見ても、わたくしが今思うことは、ひとつしかない。
なぜ、マキシマスが死んだのに、この人が生きているのだろう。
なぜ、マキシマスはもう見られないものをこの人が見、マキシマスが聞くことのないことばをこの人が聞くのだろう。
ルシアスを見てさえ、そう思ってしまうのです。
なぜ、生きて、動いて、笑っているのがこの子で、マキシマスではないのだろうと。
わたくしと話し、抱きあうことが、なぜこの子にはできるのに、マキシマスにはできないのだろうと。
それがとてもひどいことのように思えて、耐えられないし、許せない。

わかっています。この子は彼が命とひきかえにして守りぬき、わたくしにさずけてくれたもの。
だから、それにこたえるためにも、あの子を愛し、いつくしまなければならぬと思います。
でも、「なければならぬ」と思うことがすでに、わたくしの心が何を感じているのかを示しています。
わたくしはあの子が、うとましい。見るのがつらくてたまらない。
あの子が次第に大きくなり、わたくしがマキシマスと初めて会い、抱きあった頃と同じ背丈に、同じ長さの手足になって行くにつれ、この苦しみは増して行きます。
おじさま。
もうこんなに年老いて、こんなに時が流れて、それでも四季がすぎて、雲の色が風の香りが変わるたびに、わたくしはマキシマスの笑い声を、指の動きを、肌の香りを、鼻のかたちを、目の色を、髪の手ざわりを思い出します。身体の奥まできざみこまれたあの人の記憶は決して消えないし、あの人のものの考え方、あの人の心のすべても、大地に根づいたいしずえのように、深く、重く、わたくしの心の底に沈んで、わたくしの生き方を支えています。
それでも、消えて、うすれて行くものがあるの。時とともに、どうしようもなく。あの人はこんなくせがあったような気がする。あの人はこんなしぐさをしていたような気がする。そんなこと忘れるはずもないと思っていたから、気をゆるめて油断していた何でもない日常のひとつひとつが、気がつくともうどうしても思い出せない。
生きていたら一番かんたんにすぐわかる、一番何でもないことほどが。

そして、ふと気がつくと、わたくしの思い出している、くせやしぐさは、マキシマスのではなくて、ルシアスのそれだったりするのです。
あの子は父のヴァレスにもわたくしにも似ていないけれど、むろんマキシマスにも少しも似てはいません。しいて言うなら祖母に…わたくしの母に似ているという人もいますけれど。
けれど、どんなに姿かたちがちがっても、あの年ごろの男の子はどこかやっぱり似ています。マキシマスの足を思い浮かべようとして目を閉じても、ルシアスの足しか思い浮かんで来なかったり、走ったり、椅子に座ったりするマキシマスのしぐさを思い出しているつもりが、実はルシアスのそれだったりするの。古い壁の絵の上に、新しい染料が塗られて、もとの絵が見えなくなって行くように。
そんな時、ルシアスにわたくしは、憎しみさえ感じます。恐怖さえ感じます。
マキシマスは死んでしまい、消えてしまって、新しい記憶を一つも生み出すことができないのに、どうしてこの子は、人々は、育ちつづけて、生きつづけて、新しい、生々しい記憶をわたくしに与えつづけるのでしょう。
マキシマスが死んだとき、時がとまってほしかった。
すべてが、彼の消えるとともに、消え去ってしまってくれたらよかった。

自分の子どもがすくすくと成長して行くのを、恐れ、憎むなどと、わたくしは何と罪深い、不幸な母親なのでしょう。
そう思って、憎しみや恐れをかろうじて消しても、そうすると心のどこかが、何かが死んでしまいます。
憎しみと愛を生み出す力は人の心の同じところにあるのでしょうか。
だからこそ、おじさまは愛を遠ざけ、父は警戒したのでしょうか。
母として、わが子を愛せないということでは、あの人への愛を、汚してしまうことになる。あの人をきっと悲しませ、失望させることになる。
そう思って、どんなに必死で努力しても、わたくしは、どうしても、あの子を、ルシアスを、愛することができません。

(4)沖を見る女

誰かが低くすすり泣いている。
けれど、自分の声ではない。
目を上げた時、ルシアスはセイアヌスが泣いているのを見た。
タキトゥスはもう彼を解放していた。ルシアスから少し離れたじゅうたんの上で、うす紅色のトーガを床に広げるようにしてぺったり座りこんだまま、ほとんど声もたてずに彼は、低くしゃくり上げて泣いていた。
ルシアスは手紙を胸にしまって、セイアヌスの方にひざですり寄り、その肩に手をかけた。
「セイアヌス、セイアヌス」彼は明るい、しっかりした声で言った。「泣かなくていい」
セイアヌスは首を振った。肩を小さくふるわせて、まるで幼い子どものように泣きじゃくりつづけていた。
「君のせいじゃないだろ」ルシアスは言った。「落ち着けよ。君らしくないぞ」
「お見せするなと言われていたんです」涙にくぐもった声がやっとのことで聞きとれた。「お見せしてはいけなかったんです。絶対にお見せしないつもりでいたのに…」
「君はそうしたよ」ルシアスはなだめた。「僕たちが無理に見たんだ」
セイアヌスはまた首を振った。「ちがいます。私がもっと気をつけていれば、もっと何か考えて、どんなことでもしていれば…そうしたら、こんなことには…」
「見てしまったものはしょうがない」ルシアスは足を組んで、くつろいだ姿勢で床に座り、セイアヌスの肩にかけた手をゆすった。「心配するな、セイアヌス。こんな手紙があることは知ってた。あるんじゃないかと思っていたんだ」
涙にぬれた顔をセイアヌスはルシアスに向けた。今聞いたことが、よくのみこめていない表情だった。
「あの、何とおっしゃいましたか?」
「僕はね、こんな手紙がきっとどこかにあるような気がしていた。だから、ここに来たんだよ」
セイアヌスは黙って床を見つめたまま、しきりに目ばたきしていた。必死になって考えをまとめようとしているかのように。
「わかるかい?」ルシアスはしんぼう強く、やさしく、くり返した。「僕にはわかっていたんだよ。母がこんな気持ちでいるんじゃないかってことが、心のどこかでね」
「ルシアスさま…」ルシアスを見つめるセイアヌスの顔がゆがんだ。「それは…では…」
「泣かなくていい。もう泣くな」ルシアスは強く言った。「心配しなくていいんだよ。母は死ぬまで、僕にはとてもやさしかった。僕はとても幸福だった。小さい時から、ずっと今まで。母はほんとに、いつだって、生き生きしていて、楽しそうで、もの静かで、風変わりで、きれいで、叱る時には叱ったし、抱きしめる時は抱きしめてくれた」
「でも…」セイアヌスの声はつまった。「おわかりになっていたのですね…なぜですか…幸せすぎたからですか…?」
「その前に聞かせろよ」ルシアスは気のおけない、からかうような口調になった。「どうして君は、こんなに必死だったんだ?いいや、今でも必死だね。かくしていたこれらの手紙を、僕が見てしまったことを、まだ認めたくないみたいじゃないか。グラックスの命令だからか?それだけとはとても思えない」
ルシアスを見返すセイアヌスの目が、ちらとかたわらの机によりかかって腕組みしているタキトゥスの方にゆれたのに気づいてルシアスは「タキトゥス」と呼びかけた。「ここはもういい。助かったよ、ありがとう。へやに戻っていてくれないか。そしてキャシオが何か言ってきたら、ここに知らせに来てくれよ」
タキトゥスは何か言いたそうに鼻を鳴らしたが、そのまま黙って大またにへやを出て行った。
あいつ、帰り道がわかるのかな、とルシアスはちらと思ったが、気にしないことにして、セイアヌスの方にまた顔を向けた。
「で?」おだやかに彼はうながした。

セイアヌスは手の甲で涙をぬぐいながら黙って息を整えていたが、ようやく、自分の心を自分で手さぐりしているような、小さな声でつぶやいた。
「ルシアスさまはとても、お幸せそうでした…だから、そのままにしておきたくて…」
「僕をかい?」
セイアヌスはうなずいた。「人が失ったものや、初めから持てなかったものを、ちゃんと皆、すべてお持ちのようでしたから…だからそのまま…持っていていただきたくて…そんなものを持てなかったり、失ってしまった者たちの代わりにちゃんと、ルシアスさまに…」
ルシアスはセイアヌスの顔をじっと見つめた。
「君は…」彼は口ごもった。
セイアヌスが目を上げてルシアスを見た。その目があまりにぼんやりと、とりとめのない途方にくれたような表情で、何を言っていいのかわからないでいる様子だったので、ルシアスの方も、何か言うつもりでいたことを忘れてしまった。
「君は何だかふしぎな人だなあ」とりあえず、そう言ってみた。「ふつうは逆じゃないのかな」
「逆?」
あいかわらず、自分でも自分の気持ちをつかめているのか自信がないといったような、心もとなさそうな小声だった。
「ああ、自分が持ってないものや、なくしたものを持っている人間を見たら、ふつうはそれを奪いとりたくならないか?せめて、相手を自分と同じに不幸にしたくはならないか?」
セイアヌスは、言われていることがよくのみこめないように、それとも、それが普通なのだろうかと考え込んでいるように、黙ってぼんやりルシアスを見ていた。
「それで君は、たったそれだけのことで、こんなに必死になったのか?」ルシアスはまだ信じられない思いで聞いた。「まるで自分のことみたいに」

セイアヌスは少しいつもの落ち着きを取り戻したのかもしれない。かすかに苦々しげな表情をした。
「自分のことと言われれば、そうだったかもしれませんね」つぶやくように彼は言った。「私はここが好きだったんです。ここの、このへやが。お屋敷の中で一番、ここが気持ちが落ち着きました。このお屋敷に来てすぐの小さい時から、何かあるたび、このへやに来て隠れていました。どうしてか、とても気持ちが落ち着くものですから」彼はゆっくり顔を上げて、あたりの本や巻物の山をなつかしそうに見回し、ルシアスはふと、そこに座りこんでうっとりと安らかそうなまなざしをしている、ふっくらとしたやわらかいほおと、波打つ金褐色の巻き毛の、きゃしゃな手足の色白な小さい男の子の姿を目にしたような気がした。「手当たり次第にいろんな本を読んでいたら、ある時、かくし戸棚が開いてしまって…このお手紙の入っている箱を見つけてしまったんです。夢中で読みました、悪いこととは知らなくて」
「悪いことなんかじゃないさ」ルシアスはやさしく言った。「それで?」
「何度も何度も読みました。どんな本より大好きでした。でも、悲しすぎました。私は…自分が…」セイアヌスはルシアスが予想もつかなかったほど、臆病そうな上目づかいで、おどおどとルシアスの顔色をうかがった。「もし…自分があの…」
セイアヌスが言いよどんでいることの見当がようやくついて、ルシアスは笑った。「この人の子だと思ったら?そうなんだね?」
「あなたが本当にいらっしゃるとは知らなかった」セイアヌスはルシアスのことばさえ、なかば耳には入っていないほど、びくびくと身体をちぢめているように見えた。「いつの時代の手紙かもわからなかったし…まだ子どもで…」
「ちっともかまわないったら」ルシアスは元気づけるように言った。「それで?」
「もしも自分が…そうだったらと思うたびに」セイアヌスはまだ気をつかっているのか、あいまいな言い方をした。「この人と、この子を幸せにしておきたくて、二人にとって悲しいお手紙だけは、だんだん読まなくなったんです、私は…それだけを別にのけておいて、お母さまがあなたを愛していらっしゃると思って読んでも困らないお手紙だけを読むようにしていました。深い、激しい、この愛から、私…あなたが生まれたのかもしれない、そんなことさえ空想できる読み方をして…それでも意味が通じたし…その方がとても美しい話のように思えたものだから」
ルシアスはセイアヌスの肩を荒っぽい親しみをこめて抱き寄せた。
「きっと母も同じ考えだったさ」彼は言った。「セイアヌス、君は母がそうしてほしいと望んだ通りの読み方をしてくれていたんだよ」
セイアヌスがまた、固く肩に力をこめてこわばらせ、涙をこらえたのをルシアスは感じた。「私はあなたがおいでになると主人からうかがって、手紙をお見せすることで意見を求められた時…考えられませんでした、自分が絶対読まないようにしていた、この、いくつかのお手紙を、あなたのお目にかけることなど。だから、主人にそう強く申し上げ、そして、認めていただきました。だって、本当に、なかったんです」セイアヌスのほおにはまた、とめられなくなったように、新しい涙がいく筋も流れ落ちていた。「あの子…あなた…私の…その子の世界には、本当にそんな手紙はなかった。決して、決して、あんな手紙は、あってはならなかったんです」

静かに手を上げてルシアスは、セイアヌスのほおの涙を力をこめて指でぬぐった。
「君は本当に、ふしぎというよりあきれた人だ」彼は吐息をつきながら言った。「君の運命は苛酷だ。それには君は平気で耐えているように見える。そんなことには耐えられそうにない、とても小さい、子どもの時から。その同じ君が、他人のことでこんなにも耐えられない思いをするのかい?君にとっては、これはただのお話じゃないか」
「それはルシアスさまが、不幸というものをご存じないからです」セイアヌスはトーガのはしを固くにぎりしめながら、小さな声で返事をした。「現実には耐えられます。それは、存在するものだから、どうしようもないのだから。でも、心の中の世界は…文字とことばの描く夢はちがいます。だからこそ、それに救ってもらえなかったら、それが崩れてしまったら…助けを求める心には、もう行く場所がありません」
「島に来いよ」ルシアスは唐突に、思い浮かんだことをそのままに口にした。
セイアヌスは驚いたようにルシアスを見た。初めてちょっと笑って彼は首を振った。
「島に行こうよ」ルシアスはセイアヌスの腕をつかんでゆすりながら、くり返した。「こんなに細い腕じゃだめだよ。さっきだってタキトゥスに全然抵抗できなかったろ。もっと陽にも焼けなくちゃ。いっしょに船を出して、魚をとろう」
セイアヌスはほほえんだ。
「楽しそうですね」ぼんやりと彼は言った。「とても楽しそうです、ルシアスさま」
「楽しいさ」ルシアスはセイアヌスの肩に手をかけたまま、ちょっと顔をしかめた。「母だって、とても楽しそうだったんだぞ。本当にしたたかな人だなあ。よくもあれだけ徹底的にだましてくれたよな」
「そうなんですか」セイアヌスもかすかに眉をひそめて小さく笑った。「それじゃ今ごろ、きっと笑っておいでなのかも」
「そうだなあ」ルシアスは吐息まじりに言って天井を見上げた。「いつも明るくて、美しくて、誰にでもやさしかった。夜明けや夕暮れ、一人でよく浜べを歩き、漁師の子どもたちと石投げをして遊んだり、どこかの少女がお守りをしている赤ん坊がむずかって泣いているのを取り上げて上手にあやしながら、突堤に座って、いつまでも沖をながめていたり。本当にきれいだったよ、そういう時の母は。青いもやの中、白い霧の中、金色の朝日の中、いつもとても幸せそうで、安らかそうだった。それなのに、なぜだろう、そんな母を見ていると、僕はいつでもひとりでに涙が流れたものだった」
ルシアスのつぶやきはいつか、なかばひとり言になり、無意識に彼はちぎれた手紙の束を指先でもてあそんでいた。「なあ、セイアヌス」と彼は考えながら言った。「一つ、たのみがあるんだが」

セイアヌスは涙をぬぐって、まばたきした。「何でしょう?」
「聞いてくれるかい?」
「私は、こんなへまをして、ルシアスさまに」セイアヌスはまた、わずかにのどをつまらせそうにした。「そんなものを…それをお見せしてしまったのですから、そのつぐないのためにでも、できることなら何でもいたします」
「いや、そんなたいそうなことじゃない」ルシアスは笑った。「僕はここで今から残りの手紙を読もうと思う。そばにいてくれるかい?」
セイアヌスはルシアスを見た。
「いっしょにいてくれないか。それだけでいいんだが」
「本当に、それだけでよろしいのですか?」
「ああ。変なことを頼んでるか?」
ちょっとためらってから首をふったセイアヌスの、どこかあいまいな表情を見て、ルシアスは気がついた。
「そう言われることがあるのか?誰かに?」
セイアヌスはうなずいた。
「グラックス?」
セイアヌスはまた黙ってうなずいた。
ルシアスは苦笑した。
「僕のは、そんなんじゃないからね。そこの机にただ座って、せいぜい何か楽しそうな本でも読んでいてくれたらいいんだよ」
セイアヌスはちょっと間をおいて、また黙ったままうなずいた。
「じゃ、そうしてくれ」ルシアスは立ち上がり、転がっていた椅子を起こした。「僕のことは気にしないで、忘れてくれてていいからね」

(5)愚かさという武器

わたくしのグラックスおじさま
わたくしの愛は、いつもいつも、憎しみと切りはなせなかったような気がしてなりません。
お父さまを愛したから、マキシマスを憎んだ。
マキシマスを愛したから、弟を憎んだ。
そして今、ルシアスを憎むまいとすると、愛する心が消えてしまう。

これと似た気持ちが前にも一度ありました。
マキシマスと、あのひどい別れ方をしたあとの、弟に対する気持ちがそうでした。
それまではおじさま、弟のことがわたくしは本当に好きでした。
あの、どうしようもないちぐはぐさも、もろさも、かわいくてかわいくてたまらなかった。
妙なしつこさも、意地悪さも、変にもう間がぬけていて、どうしても、憎めなかったわ。
甘やかしているとマキシマスは心配し、支配しているとわたくしも認めたけれど、本当はそれだけではない、やはりあの子が、弟が、心の底からどうしようもなく、わたくしはかわいかったのです。

けれど、マキシマスがわたくしのもとを去り、彼を失ったつらさが身にしみて行くにつれて、わたくしは次第に、弟がいなければ、わたくしはマキシマスを失うことはなかったにちがいないという思いが、はっきりと心の中に、かたちをとってくるのがわかりました。
そして、マキシマスとわたくしの両方を得ようとして、わたくしたちを不幸にしてしまった弟の愚かさを、わたくしは強く憎みました。
弟とたたかって、わたくしを得ようとしなかったマキシマスの臆病さを憎むべきだったのでしょうか。
あるいは、マキシマスのその弱さを見ぬけなかった、わたくし自身のうかつさを?

けれどもわたくしは、その頃から、弟が本当は愚かなどではなく、人の心に気がつかないのではなく、自分の都合のよいように人をかしづかせ、自分の思いを通すために、わざと愚かなふりをし、ちぐはぐな行動をとるのではないかという強い疑いもまた抱きはじめていました。
無意識なように見えて実は計算しつくされ、自分を弱いと思わせながら人を思うようにあやつる、この弟の性格は、父にもどこか似ていました。
父がもし、弟をうとんじたとしたら、あるいはまた、心の底では愛したとしたら、それは自分と似て、ただもっと幼稚でみにくい何かを、弟の中に見ていたからかもしれません。
そして、マキシマスが父をあれほど愛したのも、弟を決して憎んでしまえなかったのも、あるいは二人に共通する、このふしぎな狂気に似た何かのせいであったのかもしれません。
それは、あの人自身には、まったくないものでしたから。

ともあれ、そのような弟を、わたくしはもはや幼い時のような素直ないとおしさをこめた目で見ることはできなくなっていました。
それでも、憎む決心まではつかず、ちょうど今ルシアスに対してしているように、さりげないやさしさと明るさで接しながら、心の底を少しでもあらわに見せるようなことはもう決していたしませんでした。
何かが決定的に変わってしまったことに、弟は気づいていたのでしょうか?
わたくしには今でもわかりません。
例の、都合のよい愚かさを発揮して、わたくしの変化には目をつぶっていたのかもしれません。
気づいて、まともに見つめれば、その原因をさぐらなければならなくなり、自分自身がしたこととも向きあわなければならなくなります。
弟は、そういうことを決してしようとしない子でした。
かしこい動物が、道のずっと先にあるわなを見つけて立ちどまるように、その先に自分にとって見つめたくないつらい事実があると察したら、弟は目の前のどんなことにも目をつぶり、知らないふりを決めこむ子でした。

わたくしはあの頃、父の片腕として皆さまに認められるほど、あらゆる策略や陰謀のただ中にいましたけれど、その中で、決して中心にしてはいなかったにしても、いつも心がけていたのは、弟に決して権力を持たせまい、父と自分のそばに近づけまいということでした。
嫉妬でも嫌悪でもない、それは冷静な計算でした。
自分がヴァレスの妻として父のあとを継ぎ、ローマを支配しようとするなら、弟を近づけてはならない。それはマキシマスを失ったような混乱と危険を招くことになる。そう察知していましたから。
幸い、愚かさは弟の武器でした。それを武器にしたいことをしようとしている者は、逆にこちらもその同じ武器で攻撃ができます。
弟が愚かなふりをして何かしようとするたびに、わたくしは彼をかばうふりをして、その愚かさを人々に、父に印象づけました。
弟への愛に盲目になる愚かな姉をわたくしが演じている限り、弟もまた、その愛を信じるか、信じるふりをしているかしかなかったのです。
「おまえが、かばいすぎるのだよ」と父は時々、あきれ顔で申しました。「それがますます、あれの立場を悪くするということが、そんなにかしこいおまえに、どうしてわからぬものかなあ?」
「お父さまこそ、おわかりにならないの?」わたくしは悲しげに言い返しました。「わたくしがこうやって身内をかばって人々の反感をかうからこそ、お父さまがあの子にきびしい処分をした時、お父さまの株が一段と上がるんじゃありませんか」

くり返しますけれど、弟のことなどは、わたくしがその頃していた数しれない政治的かけひきの、ほんの一部で、片手間でした。
それだけに、父も含めて誰も、わたくしが弟にしていたことの、本当の意味を気づいていたとは思えません。
たった一人を除いては。
マキシマスは多分気づいているだろう、とわたくしは思っていました。
遠い前線で、たまさかに会う父の話を聞くだけで。
すべてを正確に把握はできなくても、何か漠然とした、ことの本質のようなものは。
気づかれてもかまわない、とわたくしは思っていました。
気づいてほしいとさえも、思っていたかもしれません。

ルシアスは手紙をひざにおき、顔を上げた。
セイアヌスは言われた通り、机に座って、ひっそりと開いた巻物に目を落としている。そして、言いつけられたというよりも、本当にもう、ルシアスのことは忘れて、一心に夢中で書かれた中身に読みふけっているようだった。ゆるやかな巻毛が白い額にかかっている。安らかで、無心な顔だった。
ルシアスは微笑して、また次の、ちぎれた手紙をつなぎあわせて、読みはじめた。

第十一章 そばにいてくれるなら

(1)生まれながらの王者

いつもたのもしいグラックスおじさま
夫のヴァレスの死後、それでもわたくしは、弟が皇帝になれば、わたくしたちは何とかやって行けるだろうと予測していました。
お互い、目をつぶるところにはつぶりあい、利用するところは利用しあって。
そして、父の死後も、その努力はつづけましたけれど、死んだと思ったマキシマスがあらわれた時から、その努力をわたくしはもう、続けられなくなりました。
彼が殺されたらどうしようというおびえが、わたくしのすべてをおおいつくし、それを弟や人々にちらとでも見すかされてはおしまいだという気持ちが、自分でも信じられない力で、わたくしを何とか支えていました。

そんな弟へのひたすらなおびえが、底知れぬほどの怒りと憎しみに変わった瞬間を、わたくしははっきりと覚えています。
わたくしが、コロセウムが大きらいのおじさまに、ぜひとお願いして、マキシマスを見ていただくために見物に来ていただいた日のことを覚えていらっしゃいますわね?

陽射しの中を、観客の大かっさいに包まれて、有名な剣闘士である強敵と戦うためにアリーナを横切って歩いてくる彼は、なぜか、とても一人ぼっちで、小さく、はかなく、そして美しく見えて、貴賓席から見下ろしながら、いとおしさと切なさでわたくしは息がつまりそうでした。それを見せまいとして、きっと氷のような冷やかな顔をしていたと思います。
かぶとをかぶっていない彼の、短く髪を刈り込んだ、かたちのいい丸い頭がまっすぐに起こされていました。いつものよろいに、いつもの剣と丸い小さな楯を持ち、乱れも迷いもない落ち着いた足取りで、まっすぐ歩きつづけていました。上体がまったくゆれず、歩幅はしっかりと一定で、その機械じかけのような正確さとかざりのなさが、逆に華麗で、そして奇妙に痛ましくさえ見えて、観客は嵐のような拍手で彼を迎え、それは高まる一方でした。
「やつのことが大好きなんだな、この連中ときたら」わたくしのそばで、かたちだけの拍手をしていた弟が、不快そうにつぶやきました。
「ひと月ももちはしないわ、こんな人気は」
わたくしの言い方は冷たすぎたかもしれません。
「なに、それほどもちゃしない」と自信ありげに言い放った弟の方を思わず見たふり向き方も、早すぎたかもしれません。
弟がわたくしを見返して「ちゃんとしかけがしてあるのさ」と言った時、わたくしは弟がわたくしの内心を、ほぼ完全に見ぬいてしまったのを感じました。

おじさまもご存じのように、弟の趣向とは、鎖であやつられて、彼の方だけにおそいかかるようにされた、大きな四ひきのトラでした。人間の頭などひとなぐりで砕け散る、その巨大な前脚の一つが彼の身体をかすめた時、わたくしは思わずまた弟をふり向いてしまい、アリーナの彼ではなくわたくしの方を、なぶるような目で見ている弟を見た時、マキシマスの身体がトラにひきさかれるのを見るのと同じくらい、その瞬間のわたくしの表情を見ることを、弟が楽しみにしていることを知りました。
弟はもう完全にわたくしの弱みを知っていました。
そして、わたくしが自分を恐れていることを確信していました。
愛されていないとわかった苦しみより、恐れられているとわかった喜びの方が彼には今、はるかに大きく、強いこともよくわかりました。

あのときマキシマスがどうやって相手の剣闘士とトラの一ぴきを倒して勝利をおさめることができたのか、今でも信じられません。
今度こそトラにひきさかれたと思って思わず目を閉じてまた開けると、彼はいつもまだアリーナにいて、相手の大男と激しく剣をまじえているのでした。
彼が勝利した時、全観衆は酔い、倒れた敵にとどめをさすよう叫びたてました。その声に押された弟がふしょうぶしょうに指を下ろして殺せという合図をしたにもかかわらず、その命令にマキシマスは従わず武器を投げ捨て、倒れた敵に背を向けて、すたすたと早足で出口に向かったのです。
わたくしは、入場してきた時にもまして無造作なその足どりと無言の背中に、観客へのさげすみと怒りを見ました。彼らを支配することがローマを支配することと言ったわたくしや、それを実行している弟への怒りも。
彼をどんなに支持し、愛していても、トラがあらわれれば、それが彼をひきさくことを期待し、彼が勝利すればその彼が敵を殺すことを望む、血に飢えたローマの民衆。その望みを拒絶することで、彼は観衆に抗議し、観衆を罰していました。
そんな彼に、おもねるような歓声で、人々は彼の慈悲を口々にたたえていました。

弟はたまらなかったでしょう。もともと、マキシマスに、そしてわたくしにも、彼の人気といっても結局は、マキシマスの言うあやつり人形、なぐさみものに対する人気でしかないことを、身にしみて感じさせようと思って工夫した趣向が、逆に証明してしまったのは、マキシマスがもはや決してそんな存在ではないこと、観衆のあやつり人形であることを拒否してもなお、愛され、支持される存在となっていることだったのですから。それは、どんな決定をするにも民衆の声に左右されざるを得ない、いえ、それをもとにすべての決定を行うしか判断の基準をよう持たない皇帝の自分より、名実ともにこの都の支配者たるに彼がふさわしいことを、あざやかに示したのですから。
やっきとなってアリーナに下りて行き、面と向かって彼を挑発した弟のことばにも、マキシマスは動揺しませんでした。弟に背を向けて歩み去る彼を、とり囲んでいた近衛兵たちがさえぎるどころか一礼して槍を立てて道を開いたのを、はっきりとわたくしは見ました。もはや彼に支配されているのは観衆だけではなかったのです。あまりにも自然にそれが行われたため、弟でさえ、兵士たちをとがめることもできませんでした。
あの時に、これは天性のリーダーだ、おそらくはアウレリウスとはまったくちがうタイプの、もしかしたらアウレリウス以上の支配者となる男だと確信されたと、おじさまは後にお話しになりました。
けれども、マキシマスの退場とともにすっくと立って退席されたおじさまのご様子で、そのお気持ちはあの時にもう、よくわたくしに伝わりました。

(2)憎む心

その夜のことです。
もう夜中近くに、弟がわたくしのへやにまいりました。
さぐるようにわたくしを見て、「あいつをどうしたらいいと思う?」と聞きました。
「殺したら?」とわたくしは即答いたしました。
「大胆だね、姉上も」弟はきらきらと輝く目で、じっとわたくしを見つめて言いました。「いいのかい?そんなことを言っても」
弟が信じるかどうかはもうわかりませんでしたけれど、ものうげにわたくしは眉をしかめ、「もう何もかもうんざりだわよ」と、なかば投げやりな、ひとり言のような口調で申しました。
弟はしばらく黙っていました。わたくしの心がわからなかったのでしょう。それからいきなり笑い出して、「アリーナで私があいつに言ってやったことが聞こえたか?」と申しました。
「いいえ」わたくしは答えました。「遠すぎて」
「呼びとめて、私を殺したいなら殺せ、と言ったんだ。今、ここですぐ。あいつはじっと見返していたが、回りをとり囲んだ兵士たちをちらと見て、そのまま立ち去ろうとした。おそいかかっても私を殺す前に自分が殺されるときっと判断したんだな。利口なやつだよ」
「誰だってそう思うのじゃなくて?」わたくしはつまらなそうに天井の方に目を上げてみせました。
「のどから手が出るほどに私を殺したかったろう」弟はうれしそうにくすくす笑いました。「自分をこんな目にあわせた、憎い男がすぐ目の前にいるんだぜ。どんな気持ちだったと思う?」
わたくしはほほえんで首をふりました。
「それでも背を向けて、帰ろうとしたんだ。だから呼びとめて、言ってやった。あいつの妻と幼い息子が、どんな死に方をしたかをね。子どもは、十字架に手のひらを釘で打ちつけられた時、女の子のようにひいひい泣いて、妻は兵士たちにたらい回しに強姦されて、けもののようにわめいたってさ」
頭の中がまっ白になったような思いで、わたくしは弟を見つめていました。
「あいつは表情を変えなかった」こころよさそうに弟はつづけました。「変えなかったように見えた。でも、私にはわかっていた。はらわたがねじれるほど、あいつが苦しんでいることが。ものすごい痛みに耐えているような、うつろな、力のぬけた目をしていた。見張っているけど、でも、何も見ていないんだ。唇を小さく開けてた。その唇も、目も、眉も、肌も、短く生えていたひげも、一気に白っぽくなって色がうすれていったようだった。まるで、いきなり手を切りおとされた男のようだ。処刑の見世物で、見たことあるだろ?まだ痛みを感じていない。あまりにすさまじい痛みだから、それが痛みかどうかさえわからない。なぜ自分がそんな目にあうのか、なぜ相手がそんなことをするのか、わからないし、信じられない。それほどにひどい痛手をうけた人間の目で、どこかびっくりしたように、じっと私を見つづけていた」
弟はまだ何かしゃべっていたような気がします。
けれども、弟の顔を見てはいましたが、わたくしはもう、何も聞いてはいませんでした。

その時に、弟への愛はすべて、わたくしの中から消え、憎しみがそれにとってかわりました。
弟があの人を苦しめたからではありません。
それは、あの人の苦しみで、あの人が憎めばよいことです。
弟はあの時、わたくしを苦しめようとしていました。あの人がどんなに苦しんだかを話すことで、苦しめようとしていたのは、わたくしでした。
それだけではありません。
それだけなら、どんなに弟をさげすみ、うとんじても、心のどこかにまだかすかな哀れみや愛は残ったと思います。
わたくしが、つま先から身体のしんをつきぬけて、脳髄まで燃え上がるような怒りを感じたのは、ああ、もう、言いたくもありません。
あの人が、奥さまや子どものことを言われて、どれほど苦しんだかをわたくしに教えることで、弟は、あの人がどんなに奥さまと子どもとを愛していたかも、わたくしに思い知らせようとしていた。
あの人の苦しみを思いやってわたくしが深く傷つくとき、でもそれは決してわたくしのための苦しみではなく、他の女のための苦しみであることが、もっとわたくしを苦しめることを、弟は正確に知っていた。

残酷な、卑劣な、と思う前に、その小ざかしい浅ましさが、胸がむかつくほどいやでした。
こんなところだけはあやまたず鋭く見ぬき、そんな自分のみにくさにも気がつかず、したり顔でわなをかけてくる、そのうす汚さが、身ぶるいするほど汚らわしく、許せませんでした。
あの瞬間から弟のことを私は憎みぬき、二度ともう、愛することはありませんでした。

今となって思えば、わたくしがそれほどに我を忘れて怒ったのは、やはりそれは、わたくしの心の奥底にわだかまる、一番悲しく、痛く、苦しい部分であり、自分も他人も決してふれさせたくない部分だったからでしょう。
マキシマスが、わたくしではない他の誰かを愛しているということは。
わかっていても、見たくない、考えたくない、忘れていたい部分でした。
弟であれ、誰であれ、それにふれてはならなかったのです。
決して、してはならないことであり、何をもってしても、とりかえしのつかないことでした。

わたくしが更に傷つき、許せなかったのは、弟がそれだけの覚悟をしてわたくしのその部分にふみこんできたとは、どうしても思えなかったからでした。
どう見ても、むぞうさに、不用意に、自分の一時の腹だちといらだちをいやすための気ばらしとしてだけで、弟はわたくしのその部分にふれてきたのです。
そこが一番のわたくしの弱みで、一番深く傷つけられるということは、浅はかな、目はしのきく鋭さでわかっても、そこにふれたとき、どんな恐ろしいことが起こるかは、考えようとも気づこうともしない、その軽率さが、怠惰さが、愚鈍さが、わたくしを逆上させました。
マキシマスなら耐えるのかもしれませんが、わたくしはマキシマスではありません。
弟がいささかの覚悟もした風がなく、そうやってわたくしの痛い部分にふれてきた時、わたくしはこの子はわたくしのことなど、そもそも自分以外の他人を、いいえ、もしかしたら自分自身をさえ、一度も愛したことなどないのだと、わかりすぎるほどよくわかりました。
もしも、何かを本当に愛したことがあったなら、それがたとえ自分自身であってさえも、人が大事に、大切にしているものとはどんなものか、それにふれられる時にどんな思いがするかぐらい、わからないはずはありません。

あの夜以来、弟は再びまたわたくしの心が読めなくなったと思います。
弟への恐れが憎しみと怒りに変わった時、わたくしは再び強くなりました。
マキシマスを傷つけることさえも、もはや、恐れないほどに。
まるでわたくしのそんな思いが伝わったかのように、その頃、マキシマスのかつての従僕だった若者が、群衆にまぎれて、もの乞いのふりをして、通りでわたくしの輿に近づき、元老院と協力する用意があるとの彼の意志を伝えてきて、おじさまとの会見が実現し、反乱計画が動き出しました。

同じころ弟は、わたくしの心をさぐろうと必死でした。
彼なりに、何かで、どこかで、わたくしを傷つけ、とりかえしのつかないことがおこったのを何となく理解はしていたのでしょう。
わたくしの愛をとり戻そうと、無器用に甘え、時には姉弟の関係をこえかねない、度をすぎた愛情も見せました。
けれども、わたくしの心はもうまったく動くことなどありませんでした。
弟に抱きしめられても、顔をよせられても、うとましささえ感じませんでした。
娼婦の心とはこのようなものかもしれないと、ふっと思ったことでございます。
弟がどうしても望むなら、身体を許すことさえも、やむをえないとわりきっていました。
それほどの激しい憎しみと、さげすみで、わたくしの心はいっぱいになっていたのです。

わたくしが今ルシアスに対して感じているのは、もちろん、あの時、弟に対して持っていた、激しい憎しみとはちがいます。
せめてもの救いなのでしょうか。
それとも、もっとよくないことでしょうか。
ただ、ものうい無関心です。
憎まないではいられるのですけれど、愛することだけはできません。
あんなにかわいがって、いとおしく思っていたのに、どこで、いつ、何が、消えたのか。
もしかしたら、愛することにも憎むことにも、わたくしはもう、疲れてしまったのでしょうか。

目を上げると、ちょうどテラスの方をながめていたセイアヌスが、こちらに顔を戻すところで、二人の目が合った。
「信じられないね」ルシアスは手にした手紙を小さく動かして見せた。「母がこんなにも人を憎める人だったとは」
少し悲しそうにセイアヌスはうなずいた。「でも、ご自分でもおっしゃっているように、だからこそ強く愛することも、お出来になられたのかもしれません」
「人を愛したことがあるかい、セイアヌス?」
セイアヌスは巻物のはしに軽く手をかけたまま、首をかしげるようにしてルシアスを見た。
「お母さまのようには、まだ…」
「僕もだな」と答えてルシアスは笑い出した。「ああ、むろん、島の女の子たちと寝たことはあるけどね」
セイアヌスは小さくうなずいた。「それだったら、ここに来る前に私も…」
「君、ここには十歳ぐらいの時に来たんじゃなかたっけか?」
セイアヌスはまじめにうなずいた。「そのくらいの小さい子どもを好む人がいて…男にも、女にも」
ルシアスは沈黙した。
「それに私は自分の年がいくつなのか本当はよく知らないんです」
何も言えなくなったルシアスはうなずいただけで、また新しい次の手紙に目を落とした。

(3)ここには何もない

わたくしのグラックスおじさま
おじさまが逮捕され、わたくしがマキシマスのもとへそれを知らせに走ったあの夜、帰宅したわたくしに向かって弟は、ルシアスを殺したくなかったら、反乱計画のすべてを白状するよう、せまりました。
その余裕ある態度から、わたくしはすでに弟がすべてを知っており、対抗措置もとったとわかって、無念にも痛恨にも思いましたけれど、それだけに、ルシアスの命については、さほど心配はいたしませんでした。

弟はたくさんのものを一度に憎む度胸はないのです。すべてを敵に回して戦うような信念も誇りもありません。
むしろ、何かを憎んだら、その相手を孤立させようと本能的に思うのか、他の人間との関係を急に大切にしはじめます。
マキシマスを憎みきっている時に、同じようにルシアスを憎むようなことは弟はしないし、できません。そんな勇気はありません。
憎しみすらも弟は、貧弱で粗笨でした。
それに、もともとルシアスのことはかわいがっていたのです。
弱くて小さく、自分の言いなりになるものは弟は好きでしたから。
ルシアスもそれを察していたのか、弟にはいつもなついて、甘えていました。

あの時、わたくしが思ったのは、一刻も早く弟の望む告白をして満足させてこの場を離れ、こちらもまた対抗措置をとらねばならないということでした。
弟がどこまで知っているのか、告白しないでおける部分がありはしないかなどと考慮するのは愚かでした。少しでもまだ何かを隠していると気取られれば、ひきとめられて、それだけ手をうつ時間がなくなる。危険も犠牲も承知の上で、とにかくすべてを話すしかないとわたくしは判断し、そうしました。
でも、とり乱した母親をよそおって、弟に計画の全貌を話しながら、わたくしが必死で考えていたのは、反乱の計画がどこからばれたのだろうということでした。よもや、侍女たちの誰かが?だとしたら、この場を去ってすぐ、彼女らを手配して八方へ走らせなければならぬのに、信用できない者がその中にいることになってしまいます。
時間はありませんでした。あまりうまい策とも思えませんでしたが、わたくしは弟がわたくしの告白を聞きおわり、満足をおしかくした深刻な顔つきで側近を呼びつけ、とっくにもう下しているはずの命令を、ただわたくしに聞かせて苦しめるためだけにもったいぶってくり返すのを、軽蔑をこめた思いで聞いていました。そして、側近が下がって行くが早いか、すっくと立ち上がり、弟よりは巧みな演技で、怒りに燃える目をまっすぐに彼に向けて、聞きました。「侍女の誰かがしゃべったの?もしそうならば、その者の名を教えて。今夜の内にとらえて舌を抜いてやるから」
もう反乱などどうでもいい、でも自分に仕えている者にバカにされるのだけはがまんならない。そういう態度をとったのです。それはある意味とてもわたくしらしいことでしたから、弟も信用したようでした。そして、残酷な楽しみをまたしても見つけた喜びが、彼の目にひらめきました。「そうか、じゃ姉上、この子の舌を抜くんだな!」そしてルシアスをわたくしの方に思いきりつきとばすと、高笑いしてテラスの黒い夜の闇の中へと消えて行きました。

おびえてしがみついてきたルシアスに、何かを聞きただしているひまはありませんでした。彼を抱きよせるようにしながら、カルミオンのところへわたくしは走り、事情を告げて、侍女たちに指示をするよう言いました。すぐにのみこんでカルミオンがかけ去ったあと、わたくしはルシアスを寝かしつけました。彼はまだおびえて、べそをかいていました。
「僕の舌を誰かが抜くの?お母さま」わたくしにかじりついて彼は聞きました。「それとも誰か他の人?」
「抜くんなら、あのばちあたりなおじさまの舌よ」わたくしは元気よく笑って言ってやりました。「あなたにも誰にも、お母さまが何もさせやしないから安心してもうおやすみなさい」
ルシアスはわたくしがいつもの調子なのに安心したのか、間もなく眠ってしまいました。

カルミオンとともに、あちこちに走らせた侍女たちの報告を待ちつづけて、じりじりと過ごしたその長い夜、わたくしは、そうしたあわただしい動きをしている理由を弟の目からくらますためもあって、誰がいつどうして反乱計画をもらしてしまったのか、とり調べているふりをしました。ルシアスのおつきや遊び相手の奴隷たちを皆、たたき起こして、呼びつけて。
そこでわたくしが知ったのは、宮殿の廊下で木剣をふり回して、奴隷たちと剣闘士ごっこをして遊んでいたルシアスが「僕はローマを救うマキシマスだ!」と叫んでいたのを、たまたま通りかかった弟が聞きとがめた、というものでした。
弟はルシアスに、誰がそんなことを言っていたかをたずね、わたくしが、おじさまやガイウス議員の使者との会話の中でそのようなことを言っていたことを知り、そして、剣闘士の訓練所や、わたくしや、議員たちの動向を見はらせていた密偵たちをただちに集めて情報を総合し、反乱計画の中心にマキシマスがいることをつきとめたのでした。

そして、その夜に試みた、わたくしのすべての努力は失敗し、マキシマスは仲間とともにとらえられ、コロセウムの地下牢につながれて、残酷な処刑を待つばかりとなっていることがたしかになった、まだ暗い夜明け前、わたくしは衣のすそをひきずるようにして、よろよろとルシアスの寝室に行きました。
明け方のうす明かりと、消えかけるろうそくの光がまじりあう中、ルシアスは枕に頭を沈めたまま、安らかな寝息をたてていました。
わたくしは、その枕もとの床にひざをついて座り、ルシアスのほおに顔をよせ、髪を手でおおって、やわらかい寝息を額に感じました。
生きている、あたたかいものにふれて、なぐさめられ、安らぎたかったのに、心にあふれ、つきあげて来たのは、ただ苦く、重い何かでした。
わたくしのいとしいものは、何ひとつここにはない。
それは、どこか、わたくしには決して手のとどかない、見ることもかなわない、暗い地下のどこかに、傷ついて、孤独で、鎖につながれて、屈辱と苦痛にみちた死を待っている。
わたくしのすべてはもう、そこにしかない。
その時に初めて感じた、その思いを、今もまだずっとわたくしは、かみしめつづけているのです。
わたくしのいとしいものは、何ひとつ、ここにはない、と。

「母がいっそ思いきってめちゃくちゃに僕を憎んでくれたらよかったのにな。叔父に対してしたように」ルシアスはつぶやいた。「僕を愛せないのをつらがっているのが、手紙のどこからか、いつも感じられて、その方がこっちもつらい」
セイアヌスはうなずいた。「私もそうでした。お母さまはまるで、手紙を読むはずのないルシアスさまに気をつかっておいでのようで」
「予感していたのかな?僕がいつか、こうして手紙を読むことを」
セイアヌスは首をふった。「わかりませんけれど…でも、予感しておられなくても、やっぱりそんな書き方をなさったような気がします」

(4)勝利の確信

なつかしいグラックスおじさま
マキシマスと弟が死んだあの日の朝、わたくしがどんな気持ちでいたか、どんな思いでコロセウムの自分の席に座っていたか、想像することさえも恐ろしくてとてもできない、と侍女たちは今でも身ぶるいいたします。弟はあの朝わたくしに、自分の愛にこたえて、自分の子どもを生むようにと、熱でうかされたような目で申しわたしました。拒めばルシアスを殺す、わたくしが自殺しても、そのあとでルシアスを殺す、と。
人間は、同時に楽しむわけにはいかない楽しみというものがございます。この愚か者はそんなこともわかっていない、とわたくしは心でさげすんでいました。昨夜、弟はルシアスのせいでマキシマスがとらえられたことを教えて、わたくしとルシアスの絆を断とうとした。そのことにいくらかでも成功していたならば、ルシアスを殺す、という脅しがわたくしに与える恐怖もまた同じぐらいうすらぐだろうことが、弟にはわかっていませんでした。
どのみち、ルシアスをどれだけ愛していようとも、マキシマスをどれだけ愛していようとも、あの時の私の心は、弟に対するすさまじい憎しみと怒りでいっぱいでしたから、何を言われようと、どんな恐怖も苦痛もわたくしは感じはいたしませんでした。

これは、新しい戦いのはじまりだ、とあの朝のわたくしは思っておりました。弟とわたくしとの、長くつづく、容赦のない、血みどろの戦いが、この日、幕を切っておとすのだと。
そして、自分が勝つこともわたくしは知っておりました。
このように激しい怒りと深い憎しみにまさる武器など、この世のどこにも決してありますものか。
マキシマスが殺されればもう、わたくしに恐れるものなど何もない。守らねばならぬ生き方もない。
ローマも、わたくしそのものも、ちりとなって消えようと、泥にまみれようとかまわない。弟を、この世の誰も味わったことのない不幸の中にたたきこみ、あらゆる苦しみをなめさせて、絶望のうちに死なせればよい。それだけがわたくしに残された仕事だったら、これほどに簡単なことなどあるでしょうか。
おそらくは誰一人幸福にしない、悲惨さだけをこの世にもたらすであろう自分の勝利。それをわたくしは確信しておりました。
弟がわたくしを抱くなら抱くがよい。わたくしの肉に溺れるならそれもよい。子どもなど、何人でも生んでやる。弟がその誰かを愛したら、その子をわたくしは苦しめて殺す。弟がその誰かを憎んだら、その子に手を貸し、弟と苦しめあわせてやればよい。

わたくしにできることは無限にありました。今のこの憎しみと怒りを決して変えないでいられるなら。それをたしかなものにするため、あの朝、わたくしは、マキシマスが、その仲間が、おじさまが、どのようなむごい殺され方をしようとも、それを少しも見のがさず、見とどけようと決意しておりました。これからの長い年月、弟がかりにどのようなよい人間になってくいあらためようと、どのようにみじめで哀れな姿になって慈悲を願おうと、ひとかけらの哀れみも持たないでいられるために、思いおこしつづける情景を、この目にきざみつけるのだと誓っておりました。それが戦いのはじまる最初の日のこの朝、わたくしが絶対にしなければならぬことだと思っていました。

(5)いつか見た風景

アリーナの地下から昇降機が上がってきて、取り囲んだ近衛兵たちの黒い楯の林が割れるように開いて、黒いよろいのあの人と白いよろいの弟があらわれた時、得意満面で高く両手を上げて観客に応えている弟に比べて、あの人の動きは明らかにぎごちなくて異様でした。いつもの美しい安定も柔軟な動作もまったくなく、とっさにわたくしは、あの人が目をつぶされているのではと疑いました。近衛隊長が地面に投げた剣をおぼつかないしぐさで拾って、あの人が弟の方に向いた様子から、そうでないことはすぐわかりましたが、それにしても身体の動きは変でした。明らかによろいの下の、観客から見えない部分を切られるか刺されるか焼かれるか、ともかく立っていられないほどの致命傷を負わされているのがわかりました。元老院議員たちの席でもそれに気づいて、手を上げて試合の中止を要求している者が数名いるのが見えましたが、その声はわずかで、人々の歓声の中にかき消されて行きました。
あの人はやや身体を折るような姿勢のまま、ゆっくりと弟に向き合い、そしてわたくしが予測していたよりもずっと力強い勢いで、二つの剣はうちあわされたのです。

それは命をかけた血みどろの死闘のはずでした。とりわけて、あの人にとっては、なぶり殺しにもひとしい、苦痛と疲労の中での死にいたる戦いであったはずでした。
それなのに、剣をまじえ、行きちがい、回りこみ、すきをうかがいあう二人の姿を見ている内に、わたくしの心には無惨さではなく、何かほのかなもの哀しいなつかしさに似た思いがこみあげてきたのです。
春の日の野原がわたくしの目によみがえりました。
ひばりの声。草いきれ。
草の中に座って花をつんでいるわたくしの向こうで、息を切らして走っては、追っかけたり、追っかけられたりしている二人の少年。
マキシマスと、弟。

目の前のアリーナで戦いあっている二人は、まるで、あの日と同じに、遊んでいるように見えました。
弟の剣が空を切り、マキシマスの剣がたたき下ろされ、めまぐるしく右と左が入れかわり、二人の足が砂をける。
少し大きくなってからは、木剣でこれと同じようにして、二人はいつも、わたくしの見ている前で打ちあっていました。
マキシマスの方が腕ははるかに上だったし、年長で身体も大きかったけれど、それだけに手かげんしていましたから、勝負はなかなかつきませんでした。
弟は猫のようにしつこくて、ずるく、いつまでも、いつまでもマキシマスにくいついて離れず、うるさがった彼が背を向けて逃げ出すのを、弟が喜んで大声を上げて、木剣をふりながらどこまでも追って行くこともありました。
もうおしまい、と二人でわたくしの方に来かけた時、弟がいきなり不意をうってマキシマスの足や背中を木剣で思いきり打ち、さすがに怒った彼が弟にとびかかって地面にぎゅうぎゅう押しつけて、弟が甘えたようにわあわあ悲鳴を上げてわたくしに助けを求めていたことも。助けて、姉上、苦しい、と叫びつづける弟に、姉上だって助けてくれるもんですか、とマキシマスが冷淡に言い、わたくしが、そうよ、そんな悪い子、そのへんに埋めちゃって、と言い、弟はますます大声でわめくのでした。
それもこれも、春風や、夏の光や、秋の陽射しの中。
三人ともまだ幼く、空気の匂いはいつも甘かった。

夢中になってとっくみあったり、追いかけあったりする二人が近くに来ると、花がふまれる、汗くさい、とわたくしはいつも怒って、あっちに行ってと言いましたけれど、二人はどこか、そんな自分たちの姿をわたくしに見せていたいらしく、いつもわたくしに見えるところで、もつれあったり、ころげ回ったりしていました。
それでも時々、わたくしのことを本当に忘れたように二人が夢中になってしまって、野原のずっと向こうの方にまで木剣を打ちあいながら移動して行ってしまうと、今度はわたくしは不安になって、つんだ花の束を手に下げたまま立ち上がり、のび上がって、草のなびく向こうで目まぐるしく動いている小さくなった二人の姿を見守っては、何だか不安で悲しくなってしまうのでした。
ああ、ああやって二人で夢中で、戦って遊んでいる内に、わたくしのことなど忘れてしまって、いっしょにどこかへ行ってしまうのではないかしら。

今、アリーナを見下ろしながら、そのときの思いがよみがえりました。
ああ、ああやって二人で遊んで、わたくしをおきざりにして、二人でどこかへ行ってしまう。
気がつくと弟の剣はマキシマスにたたき落とされていましたが、マキシマスの目ももはやかすみはじめているようで、どこか遠くを見つめながら、ひとりでにその手から彼の剣もまたはなれて落ちました。
すかさず弟が近づいて、かくし持っていた護身用の短剣をよろいの袖から引き出して彼におそいかかった時、客席中に広がった憤激の叫びの中で、わたくしが思わず悲しく微笑してしまったのはなぜでしょう。
なつかしかった。
マキシマスに対して、こんな卑怯なふるまいは弟のおはこで、まるで愛情表現のように、いつもいつも、彼をだまそう、ひっかけようとしていたのです。
甘えた声で呼びながらからみついて行って、首すじにとげのある草の実をつっこんだり。
手を握るとみせかけて、気持ちの悪い虫を彼の手ににぎらせたり。
見ぬかれて、マキシマスからしかえしに草の実を髪にくっつけられたり、虫を鼻にのせられたりすると、ぎゃあぎゃあ騒いで抗議しながら、それでも本当に楽しそうでした。
あきもせず、そんないたずらばかりしかけては、よく次から次に思いつくもんですねと、こらしめるために子猫のように弟の首すじをつかんでぶら下げながら、マキシマスがあきれたように言ったことがあります。

アリーナを見ながらわたくしは心配さえもしませんでした。
マキシマスはこんな弟の卑怯さは知りぬいているどころか、むしろわたくし同様なつかしがってさえいるのではあるまいかと、ちらと思ったぐらいです。
楽々とあの人が弟の刃をよけ、力まかせになぐりつけ、がっきとおさえた弟の腕をじりじりと押し曲げて短刀の先を弟ののどにつきつけていく間、弟のもう一方の手のこぶしは力なくマキシマスの身体をたたきつづけていました。
あの、どこかうれしそうな、はしゃいだわめき声が聞こえてくるようでした。
弟になりたい、とわたくしは思いました。
刃の先がのどにくいこみ、つらぬいて、マキシマスにしがみつきながら弟がずるずると地面にくずれおちて行く時、それを見守るマキシマスの、あきらめたような澄んだ無心な表情を見た時、ずっと、弟になれたら、と願いました。
ああ、ああやって二人で遊んで。
いっしょに遠くへ行ってしまう。

マキシマスは弟が地面に倒れたあとも、なおしばらく立っていました。
近衛隊長に呼びかけられて、静かに仲間の解放とグラックスの復権を命令し、ローマを元老院の統治下におくことを宣言した彼の声は低くてもはっきりと届いてきましたけれど、すぐそれを復唱して部下に命じた近衛隊長の声の大きさと強さに、これが生きている人、これからも生きていく人の声なのだとなぐられるように実感し、マキシマスの声がもはやそうではなくなっていたことに胸をつかれたわたくしは、もはや身分もしきたりも忘れて席を立ち、アリーナへの通路を走りました。
わたくしがアリーナへかけ出した時、まるでそれを待ってでもいたかのように、彼の身体はどうと砂の上に倒れ、かけよってひざまずいたわたくしに一言、ルシアスは安心だよ、とまるで自分に言いきかせるかのようにそう告げてほほえんで、彼は息をひきとったのです。

このような人の死に値するローマを築こう、と立ち上がったわたくしは人々に語りかけ、おじさまの呼びかけに応じて、剣闘士奴隷も近衛軍の兵士も、こぞって彼の身体を捧げ持ち、列を作ってアリーナを去りました。ルシアスさえもそれにつきそって行くのを見送りながら、背後に倒れたままの弟の死体とともにわたくしが一人アリーナに残ってしまったのは、まだあの昔の思い出の世界から完全にわたくしがぬけ出しきっていなかったからかもしれません。
日がくれるまで三人で野原で遊んで、帰ろうとするマキシマスを、弟があれこれ悪だくらみをして何度もひきとめてしまい、マキシマスも本当にだまされているのかいないのか、いつまでも残ってしまって、とうとう基地のラッパの音に、帰らなくちゃととび上がった彼が、ふざけてとっくみあっていた弟がしがみつくのをつきはなして、あとも見ないで、頭を低く下げて、前のめりになってまっしぐらに走って帰って行くのを、背後の草の中に息を切らして倒れたままの弟が、あえいで笑いながら「マーキシマースー、また、明日なー」と叫んでいるのを聞きながら、わたくしは草の中に立って見送っていた。
何度もあったそんなことが、また起こっているようだった。
ふり返ると、血に染まって砂の上にあおむけに倒れた弟は、幸福そうに笑っているように見えました。

マキシマスの遺体に別れを告げようとして、ぞろぞろと席を立ちはじめた観衆は、もはやアリーナの方を見てはいませんでした。わたくしは近衛兵を呼んで、弟の遺骸をとりかたづけ、皇族として最小限の手続きで葬るようにと命じました。
けれど、そうしながらわたくしの心に、もう弟への憎しみはありませんでした。
怒りもさげすみもふしぎに消えてしまって、ただ淡い哀しみだけが残りました。

弟のことを思い出すとき、今でも、わたくしのその気持ちは変わりません。
マキシマスをあれほどまでに苦しめて、殺した弟なのに。
まるで、マキシマスがあの最後の戦いで、わたくしの憎しみのすべてを消して行ってくれたように。
ただ、その彼も、ルシアスに対するわたくしの愛は、よみがえらせてはくれなかった。
ああ、わたくしは何を言っているのでしょう。
どこまで彼に甘えれば気がすむのか。
そうやっていれば、彼がまだ死なないでいてくれるかのように。
あの人のいなくなった世界で、わたくしが一人で戦わなければならない、これは戦いだというのに。

ルシアスの戴冠式の日、あの子とともに立った高い階段の上から見ると、長くひかれた赤いじゅうたんの下のはしが、階段の下まで届かず、床のモザイク模様の黄色い鳥の尾か翼のはしがのぞいて、まるで赤いろうそくのはしにゆらめく小さい炎のようでした。こっそりとルシアスにそれを教えてやりながら、心の底からわたくしは自分に誓いました。皇帝の地位から追うために、その椅子につけるこの子には、きっと皇帝になる以上の幸福を、すばらしい一生を、ゆたかな愛を与えてやろうと。命をかけてこの子を守り、わたくしの手に残してくれたマキシマスのためにも。
それなのに、わたくしには今どうしても、それができない。
彼のいない世の中に、あの子と二人で生きているぐらいなら、弟のようにいっそ、あの人に殺されたかった。
日々、その思いが強くなり、もう自分でもおさえようがなく、とめようがない。
力を貸して、力を貸して、とあの人に日夜祈っています。
それにしても、あの人がいてくれたなら。
この世のどこにでもいい、いてさえくれたら。
まして、もし、もしも今、ここに、わたくしのそばにいてくれたなら。
何も言わなくてもいい、目を見て、肩に手をのせて、わかっているよと言うように、ただ、ほほえんでくれさえしたら。
何もかも、どんなことでも、とても簡単にできたでしょうに。
ルシアスを愛することも。
幸福になることも。

(6)旅立ち

最後の手紙を読みおわったルシアスは、それをひざにおき、セイアヌスを見た。
「母が、この手紙に書いている朝のことを、僕は覚えていると思う」彼は言った。「いや、都での僕の記憶はそれしかないと言った方がいいのか。あとの記憶が僕の中からすべて失われてしまっているほど、それは奇妙で、鮮やかで、そして恐ろしい思い出だった」
セイアヌスは何かに静かに耐えているような表情で、黙ってルシアスを見つめていた。
「僕は銀色のえり飾りのついた黒い服を着ていた」ルシアスは言った。「大きな立派な椅子に座っていて、回りにたくさんの人がいた。あたりはとても広く、遠くまで人がうごめき、何かを口々に叫んでいたような気がする。あれはきっとコロセウムだったんだろうが、はっきりしない。覚えているのは母の顔だけだ。僕のすぐ隣りに座っていた。じっとうつむいて、何かを考えこんでいた」
ルシアスの顔はセイアヌスが一度も見たことのない、暗い厳しい、だが澄んだ鋭い表情をうかべていた。
「今でも、その母の顔を、細かいところまで明らかに思い出せる。大きくなってからは何度も夢に見た。憎しみに満ちていた。それでいて、氷のように決然としていた。その顔をした母の心の中に、僕という存在の入る余地はまったくないと、子ども心に僕にはわかったのだと思う。僕がどうなっても、この人はまったく気にはかけないだろう。僕に関するあらゆることに、この人は何一つ興味もなければ関心も持たないだろう。そのことが、千万言をついやするよりありありと、あの瞬間に僕にはわかった。そんな母の顔をたった一度しか僕は見たことがない。だが、それはたしかに母だった。どんな母よりも、本当の母に見えた。それ以来、どんなにやさしい母を見ても、楽しげな母を見ても、僕はその表情の下に、あの顔があるのじゃないかという漠然とした不安を、いつも確信のように抱きつづけて生きてきた。そう思いつづけながら、僕は大きくなったんだよ」
セイアヌスは低く答えた。「まだ試合が始まる前だったのですね。お母さまは、何が目の前で起ころうと、すべてを見つめて、その憎しみをたった一つの武器として、コモドゥスとの戦いに臨まれようと決意しておられた、その時のお顔…」
「そうだ。そして僕のことをもう二度と愛せなくなっていた顔でもあったんだ」
何か言いかけたセイアヌスをルシアスは手で制した。
「母のせいじゃない」彼は言った。「僕のせいでもない。コモドゥスのせいでも、むろんマキシマスのせいでもなかった。子どもの僕が何気なく口にしたこと、それがマキシマスの死を招いた。それはしかたのないこととどんなにわかっていても、それでも母は忘れられなかった。僕を見るたび、そのことを思い出し、それでも僕を憎むまい、うとむまいとして、母は死ぬまで戦いつづけた。苦しみつづけた。セイアヌス、僕にはそれだけで充分だ。充分以上だ。そう思わないか?」
セイアヌスは何度もためらってから、低く言った。
「島から来た最後のお手紙の中でお母さまは、マキシマスと最後に二人で会ったあと、月の光の中の街路で、すべてを愛する心になられ、月を見るたび、その時の心に戻れるとおっしゃっていました。そのように、お命の終わる最後の頃には、ルシアスさまへの愛もまた、よみがえっておられたのではないでしょうか」
「そうだったらば、そう書いたろう」ルシアスは笑った。「無理するな、セイアヌス。こういうことはあるんだよ。人の心は、こわれやすい。愛も、憎しみも、突然生まれ、そして理由もなく消える。傷ついたらもう二度と、もとに戻らないこともある。それを責めても嘆いても、本人にだってどうしようもない」
彼はていねいに破れた手紙を重ねあわせ、じっとそれに目を落とした。
「母を僕は、いつも信じていた」彼は言った。「信じないではいられない何かが母にはあった。でも、母のことがどこかどうしても僕にはわからなかった。それは僕という人間、自分自身もどこかで理解できないことで、だからずっと僕は煙りの中で、霧の中で生きてきたような気がする。その霧は今晴れた。母という人の姿が今の僕にははっきりと見える。その愛が。その憎しみが。母が愛した人のこと。母の憎んだ人のこと。何もかもが、母の感じた通りにわかる。あの怒りに凍った母の顔も、僕にやさしく笑いかけていた顔も、それぞれたしかなものとして、初めて一つに結びついた。僕が見たすべての母の顔が、姿が、どれもいつわりではなく、幻でもなく、それぞれに母の真実の姿だった。僕はもう、母を見失わないだろう、セイアヌス。母は死んだけれど、僕の心の中からは決して僕はもう母を失うことはないだろう」
彼は立ち上がり、手紙の束をセイアヌスにさし出した。
「さあ、これを他の手紙とひとつにしてくれ。そして、これからは他の手紙を読むときには、これも必ずいっしょに読んでくれ。君も、僕も、向き合うんだよ、セイアヌス。母の、新しい物語と」

「ごらんになられたのですな」翌朝早く、寝室に入ってきたルシアスを見て、グラックスはベッドの中から、すぐに静かにそう言った。
ルシアスは、グラックスの枕もとの椅子に腰を下ろしながら笑った。「おわかりですか」
「お顔を拝見しますとな」
カーテンをひかれたへやの中はうす暗く、ひんやりと涼しくて、さわやかな香の香りがほのかにただよっていた。枕に頭を深く沈めたグラックスの顔は、白い短い髪がやや乱れている他はいつもとほとんど変わらなかった。彼はルシアスを見てほほえみ、問いかけるように、ふとんの上に、青い静脈がいくつも浮き出した片手をのばして、おいた。「セイアヌスが、お見せしましたか」
ルシアスはその手をとりながら首を振った。「彼は必死で見せまいとしました。どうか責めないでやって下さい。最後まで抵抗し、力づくで僕が読んでしまった時には、いつまでも声を出さずに泣きつづけました。絶対に見せたくなかった、と言っていました」
「そうでしたか」グラックスはうなずいた。
「あの子はめったに泣かぬ子でしてな。子どもの頃から私の前で涙を見せたことがありません。ただ一度だけ、ここに来て間もなく、母親が自分を私に売ったことを私が話して聞かせた時、声も出さずにいつまでも涙を流していたことがあります。悲しいのか、と聞くと、黙って首をふりながら、それでも、まるであの子の意志とも感情とも何の関係もないかのように、次々と涙があの子の目からあふれて来るのです。その時きりでした、あれが泣いたのを見たのは。久しく忘れておりましたが」
二人はしばらく黙ったまま、それぞれの思いにふけっていた。

「グラックス」やがてルシアスが口を開いて、あらたまった口調で呼びかけた。「このたびのこと、さまざまなお心づかいに僕は本当に感謝しています」彼は深く息を吸った。「おかげで、知りたかったことのすべてを知ることができ、これまでに抱いていた疑問のすべてが晴れました」
枕の上で老議員の目は生き生きときらめいて笑った。
「何ともそれは、お幸せなこと」歯切れいい口調で彼は言った。「そのように心から信じこめる幸福を持てる人間は、この世の中にそうそうめったにいるものではございません」
ルシアスは笑い出した。「まったく、決して、皮肉を言う機会をお見逃しにはならない」彼はつと立ち上がり、身をかがめてグラックスのほおに荒っぽく親しみをこめて口づけした。「母に代わって、あらためて僕からも申し上げておきましょう。どうかいつまでもそうして、意地悪で、嘘つきで、皮肉屋で、元気で長生きなさって下さい」
グラックスは微笑しながら目を閉じて、ルシアスの唇を押しつけられるままになっていた。わずかにあげた片方の指先に、ルシアスのさらさらとまっすぐな金髪のいくすじかがからまって、ルシアスが身体を起こすのとともに、それがまたすべって指からはなれて行く感触を楽しむように、じっとしていた。ゆっくりと目を開いてルシアスを見た時、その目は若者のような輝きをたたえていたずらっぽく躍っていた。本当に永遠に、彼は長生きしそうだった。
「出発します」ルシアスは元気よく言った。「タキトゥスを先にやって船の手配はさせてありますから」
「お一人の旅はご退屈でしょう」グラックスは、よい主人らしい気づかいを見せて言った。「港までセイアヌスをお連れ下さい。無口な子だから話し相手には向きませぬが、何かの気ばらしにはなりましょうからな」
「本当ですか?」ルシアスは喜んだ。「彼はいいと言うかな?」
「喜びましょう。めったに屋敷から出たことはないのだから」グラックスはほほえんだ。「ただし、気に入ってそのまま、島に連れて行ってはいけませんぞ。それは私が死んでからにしていただきたい。今のところは親子ともどもなかなかに、私の役にたっておるのですから」
「僕を怒らせようとしてもだめですよ」ルシアスは言い返した。「それではお言葉に甘えて、彼と港までの旅を楽しむことにいたします」

キャシオや奴隷たちに見送られて玄関を出ると、セイアヌスがもう馬に乗って待っていた。ルシアスが馬に乗るのを楽しそうに、待ちきれないように見ていて、いつもより明らかに生き生きとはしゃいでいた。もしかして、僕より年下なのじゃないか、とルシアスはちらと思ったぐらいだった。
さわやかに晴れた朝だった。二人が手綱をひいて馬を回し、並んで門へと向かった時、ちょうど一陣の風が舞って大きな木々の枝枝がゆれ、宝石のように輝く緑の葉が二人の上に雨のように落ちてきて、光りながらくるくると回って散った。金髪の上にとまったその一枚をセイアヌスは首を振って払い落とし、まっすぐにルシアスを見て明るく笑った。新しい物語、ということばがひとりでにルシアスの心に浮かび、彼もまた、マントの肩にとまった木の葉を払いのけて笑い返した。
遠く、庭の奥のどこかで、のどかにアヒルの鳴く声がしていた。

最終章 秋の旅

(1)とむらいの衣装

わたくしのグラックスおじさま
このお手紙がお手もとに届く時、わたくしはもうこの世にはおりません。
侍女のカルミオンに申しつけました。わたくしの死後、このお手紙をおじさまにお届けするようにと。読みたかったら読んでもよいし、その上でお渡ししない方がよいと思えば、船の上から海の中に投げこんでしまってもかまわないのよ、と。
けれどあの子は…あの子と言っても、もうわたくしと同じ、髪に白いものもいくすじかまじる中年女ですけれど…そのどちらもしないような気がします。ですから、おそらく、このお手紙も、きっと他の手紙と同様に、おじさまのお手もとに届くことと存じます。

夏の終わりの陽射しは、強い中にもどこか秋のやさしい気配をただよわせていた。ルシアスとセイアヌスがあとになり先になりして馬を走らせて行く街道の左右の野原は、一面まだ濃淡さまざまの豊かな緑につつまれていた。麦畑やぶどう畑のそこここで、農夫たちが作物の手入れをしている白や茶色の服がちらちらと動いている。なだらかな丘の斜面をかけ上がりながら、ルシアスは少しあとからついて来るセイアヌスをふりかえって笑い、セイアヌスも馬の足を速めてルシアスに追いつき、追い越して行きながら、笑っていた。

身体の調子は悪くなる一方で、すぐに疲れてしまいます。まるで自分の身体ではない、誰か他人の身体のようです。
この手紙も、他の手紙を書く合間に少しづつ時間をかけて書いていっているのですが、もしかしたら書き上げられないままになるかもしれません。でも、そのことはもう、気にしないことにいたします。

ほのかなろうそくの光の中で、寝椅子にもたれてグラックスは、紫色の紙の手紙を読んでいる。
外はまだ明るいのだろう。だが、重いカーテンをひいたへやの中は夜のように暗かった。
さっき、キャシオに、このへやに今日はもう誰も近づけないように言ったあと、壁にしつらえた青銅のランプの白鳥の羽を回して開いた小さなかくし戸棚から、グラックスはこの手紙をとり出した。
そうやって、光をとりまく闇の中で静かに一人で見慣れた文字を目で追っていると、グラックスの耳には、はつらつとしたいたずらっぽい笑い声が聞こえてきて、生き生きと利発そうな、愛らしい幼い少女が闇を横切ってかけて行くのが見えてくる。
やがてそれは、すらりと背の高い聡明そうなまなざしの少女へと変化する。星のように輝く強い瞳が、夢と希望をみなぎらせて、まっすぐにグラックスを見つめる。そして間もなく、落ち着いて堂々とした威厳と気品にあふれる女性が、頭を高く上げて、幼い息子によりそうようにすっくと立っている姿が、まるで昨日目にしたような鮮やかさで、老議員の前のおぼろな光の輪の中に浮かび上がってくる。
皇帝の娘。皇帝の妻。皇帝の姉。皇帝の母。だが自らが皇帝とはついに呼ばれることがなかった女性。

島では今日、死んだ人の(あたりまえですわね)お葬式がありました。黒いカラスのような衣装をつけた女たちが、ぞろぞろと道を歩いて行きます。
窓から見ていてさえうっとうしくて、わたくしが死んだら、あんな黒い服なんか誰も絶対に着ないでね、ばら色や空色の服を着て、陽気な歌を歌って、皆で浜辺で踊ってちょうだいとたのんだら、カルミオンとルシアスから笑われました。

目を閉じて、グラックスは思い出してみた。一年前の雨のふる静かな夜のことを。厚いヴェールに顔をつつんだ一人の女がひっそりと訪ねてきた。女の日焼けした肌の色も、ふしくれだった指先も一見ふつうの田舎女だった。だが、その目には強い聡明なきらめきが宿っていて、言葉ずくなに語る声もりんとして美しく、口調は…グラックスはおだやかにからかった。長く仕えている女主人には、話しぶりも似てくるものなのだな。
おたわむれを。それは、わたくしのような者にはあまりにも身に過ぎたお言葉です。女は低くそう答え、グラックスにこの手紙を渡して、影のように静かに夜の闇に消えた。

これだけは決して書くまい、書いてはならないと思っていたことを、こうしてわたくしが書く気になってしまったのも、あの黒い衣の女たちのせいなのでしょうか。
心の秘密があるのなら、それを抱えて死んでしまって、焼かれ埋められる身体とともにあの女たちにひきわたされるのなら、いっそわたくしをよく知っているどなたかに語っておいてしまいたい。あの女たちにも墓場にも、渡すのはわたくしのからっぽの心のぬけがらだけでいい。

彼女はもうとっくに土にかえったろう。グラックスはそう思った。この文字を書いた指も、このことばを見つめた目も、すべてはすでに、この世から消えた。だが、自分はまだここにいて、その人の書いた手紙を読んでいる。書きながら彼女は涙を流したのか。吐息をついたか。そうだとしたら、そのすべてはまだここにある。
一年前のあの夜から自分は何度、この手紙を読んだろう。まだほんの数回のような気がする。だが、内容はよく覚えている。ひとつひとつのことばを、目を閉じていても思い出せる気がする。あの涼しく強く澄んだ声とともに。
自分の記憶力もまだ捨てたものではない。それとも、もしや、記憶は逆におぼろになりかけていて、実は何度も読んだことそのものを、忘れてしまっているのだろうか。

ルシアスを愛せない、どうしても愛せない、と何度かお手紙に書きました。
マキシマスのことを思い出すと。あの子があの人の思い出を消すから。あの子が原因で、あの人が死んだから。あの人が死んだのに、あの子が生きているから。そんな理由もさまざまに。
でも、それは皆、本当ではない。
わたくしがそうやって必死にさがしつづけ、書きつづった理由は、どれも皆。
理由など何もなかったのです。
生まれてから一度もわたくしは、あの子を愛したことなどなかったのです。
かわいいと思ったことも。
いとしいと思ったことも。
ただの一度も、おじさま、たった一度さえも。

「セイアヌス」ルシアスが呼びかけた。
少し遅れて道草をくって遊んでいたらしいセイアヌスが、濃い青い実のいっぱいついたつるをちぎって手に持ったまま、あわてて馬を追いつかせてきた。「食べられないよ」とルシアスがつるを手にとって見ながら笑うと、「いいんです」と首をふって、つるを馬のたてがみに編み込みはじめた。
ルシアスは鞭で前方を指し、「この坂を登ったら海が見える」と教えた。「でも急だから、馬の足に気をつけろよ」
ちょっと緊張した顔でうなずきながらセイアヌスは目を輝かせた。「島も見えるでしょうか?」
「僕と母のいた?そりゃ…ここからはちょっと無理だろ」セイアヌスがつまらなさそうに小さい吐息をついたので、ルシアスはなぐさめた。「でもきっと他の島が見えるよ。今日は天気もいいし、夕焼けがきれいだろう」
二人は馬を並べるようにして、一気に坂をかけ登って行った。

(2)ひそやかな祈り

わたくしがそれに気づいたのは、とてもつまらないことがきっかけでした。
ルシアスが赤ん坊のころや小さいころ、弟がよく、夫のヴァレス(弟は苦手だったの)の留守をねらって遊びにまいりました。
そんな時いつも弟は、ルシアスをかわいがり、とてもいい叔父さまぶりでした。
マキシマスと三人でいた時のような、何を考えているのかわからないおかしな風や、いらだっている様子は少しもなく、わたくしは、弟も大人になったのだなあと、漠然と安心もしていました。

ところがある日、お友だちのある貴婦人の連れてきた、ルシアスより少し年上の小さい女の子が、外見はそれほどでもないけれど、とても賢くて、かわいくて、わたくしが夢中になってひざにのせてかわいがり、お菓子やリボンを与えていると、たまたま同席していた弟が、急にその女の子を攻撃しはじめたのです。冗談めかしてではありますけれど、大人でも耐えられないような、えぐるような言い方で、その子の鼻のかたちとか、足の大きさとかをけなしつづけ、その子が一生けんめいがまんしているのを見かねて、わたくしがとりなそう、かばおうとすればするほど、異様なまでに意地悪をしました。
とうとう、その子の母親も気がつき、口実を作って早々に子どもを連れて帰ってしまい、弟はしごく満足そうにしていました。
わたくしは、わけがわかりませんでした。
弟はどうしてしまったのだろう、まるで昔に戻ってしまったようだ、と思いながらルシアスを寝かせつけていました。ルシアスには弟は、あんな様子をまったく見せたことがないのに、と考えていて、突然気がつきました。
さっきの女の子に自分が、初対面なのに会った瞬間から感じたような、切ない、甘い、まるで自分の一部のようないとしい思いを、赤ん坊のころからルシアスにはまったく感じたことがなかったことに。
マキシマスはもちろん、父や弟や、夫にさえも感じたことのある、なつかしさや親しみを、いいえ、好奇心やいらだち、恐怖、憎しみさえも抱いたことがないことに。

なぜなのか、と聞かれても、どうしてわたくしにわかりましょう。
答えられる理由が何かひとつでもあれば、こんなに苦しくはありません。
ルシアスは、いい子です。元気で、素直で、かしこいし、わたくしのことを心から慕ってくれます。
わたくしだって、その時までは何も気づいていなかった。
あの子を抱き、ほほえみかけ、ほほずりし、かわいいでしょうと人に言われ、そうねと笑ってうなずいていました。
そして、あの夜、気づいたのです。
この子のことを、わたくしは何とも思っていない。この子が死んでも、いなくなっても、悲しむことはないだろう、と。

あまりにもはっきりしていましたから、動揺さえもしませんでした。
そのこと自体には苦しんだけれど、でも、愛しようと努力して苦しむことはしなかったし、自分を責めもしませんでした。
そんなことができるわけがないと、努力するまでもなくわかっていた。自分のせいではないことも。髪の色や肌の色、手足の数を自分では変えられないのと同じことで、わたくしにはどうすることもできなかったのです。
それが自分で、わかっていました。

もしかしたら、わたくしのような女は、他にもいるのかもしれません。
そのことに気づかぬままでいる女も。
わたくしだって、もし、マキシマスを愛さなければ、そして弟がいなければ、この子への気持ちがこんなに静かすぎることに気がついたりはしなかったでしょう。
そしてまた、それだからこそわたくしは、自分があの子をどうしても愛せないことが不幸とは思えなかったし、あの子に申しわけないとも感じなかったのです。
わたくしは、マキシマスへの愛に苦しみました。
彼を苦しめたことも知っていました。
後悔はしていません。何もかもが喜びだったと今でははっきり思います。苦しみも、涙も、痛みも、すべてが貴重に思えます。今、味わっている切なさや淋しさすら、心のどこかでわたくしは、決してなくしたくはありません。
それでも、それは、ない方が楽には決まっていました。
信じられますか?おじさま。
何の愛情もなく、気楽な、気軽な気持ちで、あの子を抱き、世話をしながら、わたくしが心の底から、その安らかさに感謝していたことを。
あの子に、感謝していたことを。

「見ろよ、セイアヌス」ルシアスが叫んだ。「海だ」
二人の若者が馬をかけ上がらせた崖の上で、道は大きく曲がりになり、赤茶色の断崖の下に、海が白いしぶきをくりかえし、高く上げつづけていた。青緑色の波がなめらかに大きくうねるかなたには、うす紫のもやの中に、島とも雲ともつかない灰色のかたまりが点々と散らばっている。
セイアヌスが喜びのあまり、小さい叫び声をあげた。
「港までもう一息」ルシアスが勢いよくそう言った。

どのみち、あの頃のわたくしの生活は、朝から夜まで嘘だらけ、お芝居だらけで、わたくしはそれを自分で楽しんでいました。
そこにもう一つ、子どもを愛する母親のお芝居をつけ加えたところで、わたくしには、大したことでもなかったのです。
わたくしは人々の前であの子を抱きしめ、ほほえみかけ、いないと心配して顔をくもらせました。
おじさま、皮肉なものですわ。
そのようにして計算ずくの型通りの愛する演技をしている方が、人にはわたくしが心からあの子のことを愛していると映るのらしゅうございました。
ルシアスがけがをした時、熱を出した時、いっこうに動揺しないで、冷静に的確に対応するわたくしの様子を見ても、あまり苦にしていないから平気なのだとはどなたも思わず、母の愛情ゆえのとっさの賢い判断とほめそやして下さるのでした。
あれほどわたくしが弟を愛していた時には、わたくしが弟をおもちゃにし、支配していると噂し、マキシマスを愛している時には、彼をいじめて喜んでいると笑ったり眉をひそめたりしていた方々が。
「子どもを生んで変わられた」
「母の心を知ってやさしくなられた」
そう口々におっしゃっては、満足げにほほえみかけて下さいました。
本当に、とわたくしもまた涼しく笑って申し上げ、ルシアスを抱いて口づけし、心は決して痛みなどいたしませんでした。
どうせ、人は誤解されて生きていくものでございます。
いつわりのものしか見ようとしない、見えない方々には、それを見せておくのが何より、たがいに幸福なのだ、とわたくしは思っておりました。
おじさま。
わたくしが恐かったのは、ただあの人の、マキシマスの目ばかり。
あの人が生きている限り安心はできないと、わたくしは知っておりました。
あの人だけは、人が何と言おうとも、きっとわたくしの嘘を見ぬいてしまうことが、わたくしにはよくわかっておりました。
死んでくれ、と祈ったことさえございます。
あの人がいなくなれば、この世から消えてなくなれば、気楽な嘘の世界の中で、わたくしは孤独で安らかで、幸福に生きられるのだから、と。

でも、あの人は死ななかった。
いつも、世界のどこかにいて、わたくしのことを考えていた。
それがわたくしにはわかっていました、おじさま。
そして、たとえ会うことがなくても、あの人がそうしてどこかにいる限り、わたくしは、自分がいつわりの生き方をしていることを忘れることはできませんでした。

(3)いつか見た人

「岬の手前が港なんですか?」セイアヌスがふりかえって、はずんだ声で聞いた。「船がたくさん見えてますけど」
「あんなに屋敷の中にばかりいて、本ばかり読んでたのに、目がいいんだなあ」ルシアスは遠くもやにかすんでいる岬と、セイアヌスの生き生きと輝いている顔を見比べて感心したように首をふった。「そうだよ。あそこだ。さあ、急ごう。タキトゥスがきっと待ちくたびれているよ。見つけたらいっしょにめしでも食おうな」
セイアヌスはうなずいて、いそいそと馬の向きをかえた。
「君を船に乗せてやりたいな。乗ったことがあるのか?」
セイアヌスは、ちょっと恥ずかしそうに目もとを笑わせて、軽く首をふった。
「ほんとに、乗せてやりたい」ルシアスはくり返した。「グラックスは僕に、君を気に入って島に連れて行っちゃいけないって釘をさしたんだが」
珍しくセイアヌスが声をたてて笑った。「それはわたくしも困ります」
「君、ずっとあの屋敷にいるつもりなのか?」
セイアヌスはうなずいた。「グラックスさまがご存命の間は」と、つつましく彼は言った。「それから先はわかりませんが。どうするかまだ、考えていません」
「彼のことが、好きなのかい?」
「いろいろ、お世話になりましたし」
「お世話にって」ルシアスは思わず吐息をついた。「彼だって君を…相手に楽しんだんだろうに。何も君が、恩を感じることはない」
しばらくセイアヌスは黙って馬を歩かせていた。気を悪くしたのかな、と思ってルシアスがそちらを見た時、ちょうどセイアヌスが何かを決意したように「ルシアスさま」とおだやかに言った。「キャシオも、誰も知らないことなのですが、グラックスさまは私を一度も、そのように扱われたことはございません」

あの人と初めてルシアスの話をしたのは、前線で、今思えば父の死ぬ前日の朝です。
父のテントから出てきて、もの思わしげにしていたあの人を呼びとめてあれこれ話しかけると、あの人は例によっていやそうにし、すきあらば逃げようとして目をそらしてばかりいました。
面白いからしおらしい顔で、あなたの無事をいつも神々に祈っているのよ、と言ってやると、それには答えず、ご主人がお亡くなりになってお悔やみを申し上げます、とローマの重装歩兵の戦列のような鉄壁の防衛ぶりを見せてくれましたわ。
むかっとしていると、あの人が続けて、お子さまもいらっしゃるのでしょう、と聞いて来ました。
はっと思わず身がまえたわたくしは、ここぞとばかり母の幸せに顔を輝かせて、とびきりのほほえみを見せながら、そうよ、ルシアスと言って八歳になるわ、と申しましたが、さすがにあの人の目は見られなかった。
気づかれなかったかしらと目を戻すと、あの人はかすかに笑ってわたくしをじっと見ながら、うちの息子と同じ年ですね、と言い、祈って下さってありがとうございます、と言って去って行きました。

ごまかせたのかしら?と見送りながら、わたくしは思っていました。
今でもそれはわからないのですけれど。
ただひとつわかっているのは、あの人が、つかの間の出会いの中でルシアスを本当にかわいがったこと。
そして、ルシアスもまた、あの人を一目で好きになり、かつて弟がそうだったように、彼に夢中になって行ったこと。

ルシアスは思わずまじまじとセイアヌスを見た。
「何だって?」
「私は、そのようなものとして売られたし、買われましたが」セイアヌスは言った。「グラックスさまは実際には、私を抱かれたことはありません」
「どういうことだ?」ルシアスは混乱して聞き返した。「彼はどういうつもりだったんだ?」
「さあ」セイアヌスは首をかしげた。「何度か抱こうとはされたのです。でもそのたびに、おやめになりました。私を見ていると、誰かを思い出すとおっしゃって」
ルシアスはセイアヌスをじっと見ていた。「それは…誰を?」
「誰なのか…」セイアヌスはちょっと笑った。「ご自分でもおわかりにならなかったようです」
ルシアスは笑わなかった。眉をひそめ、今にも馬を返して戻りたそうに、来た道をちらとふり返った。
「似ているのに、わからない?」彼は口の中でくり返した。
「変な言い方ですよね」セイアヌスはうなずいた。「でも、いつもそうおっしゃったのです。少しも似てはいないのに、誰かをたしかに思い出す、と」
「ふしぎだな」ルシアスは馬をとうとうとめてしまい、セイアヌスの顔をまたじっと見つめた。「君は、そういう人なんだろうか」
「私が、どうかいたしましたか?」
「僕もずっとそう思っていたんだよ。君を最初に見た時からずっとだ」ルシアスは言った。「たしかにいつか、どこかで会った。ずっと昔に、たしかにどこかで」

あの人が初めて、あの異様なかぶとで顔をかくしてアリーナにあらわれた日。
ルシアスはその前に、あの人の素顔を見ていました。
剣闘士たちが出番を待つ間、観客に見物されるために入れられている格子つきの細長いへやを、お守り役の男といっしょにのぞきに行ったルシアスは興奮して戻って来て、しきりにわたくしに、すごい剣闘士がいたよ、すごいんだよ、とくり返し報告しました。
とてもやさしくって、強そうで、僕のことすごく気にしてた。
試合を見るのか?って聞くんだよ。叔父さまが見ろって言うんだと答えたら、でも父さんはいいって言ったか?って。父さんはもう死んだって言うと、すごく心配そうに僕を見た。
おかしな剣闘士だこと、とわたくしは笑いました。自分が生きるか死ぬかの試合を、子どもが見るようなもんじゃないと気にするなんて。
母親のわたくしが気にもしなかったことを。
自分にも子どもがいたのかしら、とふと思い、きっといい父親だったのね、とちらとほろ苦い思いがしたものでした。

「あの時だ」ルシアスはつぶやいた。
セイアヌスは黙って首をかしげるようにして、ルシアスをじっと見つめた。ゆるやかに波うつ蜂蜜色の長い髪を夕風が軽くなぶっている。
「母のあの手紙…かくしていた手紙を僕に見られて、君が僕以上に悲しんでくれた。あの時、一番そう思った。君は僕を、幸せなままにしておきたかったと言った。君はこんなに不幸なのに、どうして僕にそんなにやさしいんだろうと思った。自分が苦しいどん底にいて、自分よりずっと幸せに思えているはずの僕を、どうしてそんなに気づかって、必死で守ろうとしてくれるんだろう。その時、思った。ああ、こんな気持ちをずっと前、誰かを見た時、そして、その人に見られた時、たしかに感じたことがある、って。それまでにそんな風に僕を見た人はいなかった。そんな目で見られたのは、その時が初めてだった」

(4)雪の山

あの人がコロセウムで弟と初めて向き合った時、おそいかかろうとしなかったのは、間にルシアスがいて傷つけるのを恐れたからだ、と今では皆が申します。
けれども、わたくしはそれを信じません。
あの人の技と力をもってすれば、たとえばルシアスをひきのけて、弟の剣を奪って致命傷をおわせることなど、できなかったはずはありません。
それをしなかった理由は一つだけ。
目の前で、そんな血みどろの残酷な場面をあの子に見せてしまうことを、あの人は恐れたのです。
でも、何という人でしょう。
自分がそれほど大切にしていた子どもは、あんなにも残酷に殺されたのに。
その処刑に加わった憎い仇の一族の子なのに。
母親さえも、コロセウムに連れてくることを何とも思っていなかった子なのに。
今、そこで弟を殺さなければ、自分自身も何ひとつなすすべもなく、残酷に殺されるかもしれないのに。
それがわかっていて、それでもなお、あの人は、わたくしの息子の身体どころか心さえ、傷つけるのをおもんぱかったのです。

ルシアスはセイアヌスを見た。
「君のお母さんは本当にあの女なのか?」あらたまった口調で彼は言った。「本人はちがうと言いつづけているんだろう?」
「ええ」むしろのんきなぐらいにおっとりと、セイアヌスはうなずいた。「ずっと、ちがうと言ってます。キャシオはそれで怒るんです。つらいからそう言うんだろうが、それこそ卑怯で、卑劣だと言って」彼はかすかなため息をついた。「でも、母の気持ちもわかるから…」
「お母さんが…あの女がもし本当のことを言っていたらどうする?」ルシアスはせきこんで聞いた。「君とあの女は全然似ていないじゃないか。もし自分が母親じゃないんだったら、じゃ、君の母親はどんな人だったか、あの女、話したことはないのかい?」
セイアヌスはまた吐息をつき、聞きたがりやのわがままな子どもをかまっているような、やさしい目でルシアスを見た。「アルプスの山の村から来た、自分と同じ売春婦だったって…生意気で客とよくけんかしていたから、なぐられて鼻は曲がり、片方の耳はちぎれていたそうです。最後は客から仲間をかばおうとして殺されて、私があとに残されたって」
「えらく、具体的じゃないか。本当の話かもしれない」
セイアヌスは笑った。「売春婦たちは母に限らず、自分自身で本当に好きなように話を作って客に聞かせるんですよ。とても細かいところまで」
「それで、君のお父さんは?」
「それはまったくわかりません。多分、母を買いに来ていた客の一人だったんでしょう」
「知りたいとは思わないのか?」
「父のことをですか?」
「お母さんのこともだよ」
ひっそりと静かな表情のまま、セイアヌスは首を左右に振った。

最初のコロセウムの試合以後、マキシマスは大変な人気者になり、彼の近くには一目でも見ようとする人々が常にひしめくようになったものですから、結局ルシアスは、あの日以来二度と、マキシマスと言葉をかわすことはありませんでした。
それだけに彼はあの、最初に出会った日のことを何度も何度もわたくしに語って聞かせました。
僕が、思ったより大きくないんだね、って言ったらね、ちょっとがっかりしたような顔したんだ。そしてね、片手で人の頭をつぶせるって皆が言ってたよって言ったら、それは無理だけど、子どもの頭なら何とかって、僕の方に手をのばして指を動かしておどかしたけど、とてもやさしそうに笑ってたから、本気じゃないってすぐわかった。
よろいの胸に馬の模様があったでしょ。僕があれを指さして、それ、スペインの馬?って聞いたら、だってほら、皆が彼のこと、スペインから来たすごいやつって言ってたから。そしたら、そうだよって言って、一頭ずつ馬を指で押さえて、こっちがアルジェントで、こっちがスカルト、どっちもいい馬だったけど、とり上げられてしまった、って。それで僕が、おまえのこと応援してやるね、って言ったら、急に心配そうにして、試合を見るのか?って。びっくりしたよ。だってふつう喜んで、光栄ですとか言うはずなのに。見られたくないのかな、勝つ自信ないのかなと思ったけど、そんなことあるわけないし。わけわかんなくなって、試合を見たら男らしくなれるって叔父上が言ってるよって言ったら、やっぱり眉をひそめながら、父さんは何も言わないのかって。ほんとに変なこと聞くなあと思って、父上は死んだよって答えたら、僕のことじっと見たの。それで初めてわかったんだ。僕のことを心配してるんだって。まるで気が気じゃないって感じで、何だかちょっと腹が立った。僕はそんなにかわいそうな子じゃないのに、そんな目で見られたくないと思って、それで名乗ったの。父はルシアス・ヴァレスだよって。

そんな名前の馬たちが本当にいたのかどうか。彼はよく弟に、お化けの人食い馬の話などをまじめくさった顔で話して聞かせたりすることがあって、弟はすっかり信じこんでいました。その気になれば彼はほんのひとつ二つのことばだけで、子どもを完璧に信頼させる暖かい魔力のようなものを持っていた。自分の子どもにもきっとそうだったでしょう。同じようにしてルシアスのことも鉄格子ごしの一瞬で、やさしい魔法にかけたのかも。
そうやってルシアスが、あきもせずマキシマスの話をくり返し、彼に夢中になって行くのを見ていると、昔、弟と彼の話を何時間でもした時の楽しさとはうってかわって、わたくしの気持ちは重苦しくなる一方でした。
何だか自分が責められている気がしたのです。
ルシアスではなく、マキシマスに。
ルシアスがこんなに彼に夢中になっていることを彼自身が知っているわけはないのですが、それでも、たった一度だけ会った彼に、これほど心を奪われてしまうということは、やはりわたくしのさめきった気持ちや、弟の無責任なかわいがり方とはちがった本当のやさしさにふれたからかもしれないと思うと、ルシアスの淋しさや空しさを、彼に目ざとく見抜かれてしまったようで、心が落ち着きませんでした。

(5)風が運ぶもの

今となってはもう弟にもあの人にも永遠に聞けなくなったことなのですが、わたくしには今でも気にかかっていることがあります。
あの夜、とらえられたマキシマスに弟は、反乱計画のばれた原因を、彼がとらえられ、仲間や従僕が殺されるにいたったわけを、どのように説明したのでしょうか?
何もしゃべらなかったとは思えません。弟が彼を苦しめるチャンスを一つでも逃がしたはずはありません。
ルシアスが口をすべらしたと言ったのか。
わたくしがルシアスを救うために彼を裏切ったと言ったのか。
おそらく、わたくしが裏切ったと言った方が彼を苦しめられると思って、弟はそうしたことと思います。
そうであったらよいがと思っています。
そう聞いたらマキシマスはきっと、安心してくれたでしょう。
あの最後のことばも、そんなわたくしを許すとともに、ほめてくれたのだと思います。その安心を彼なりにわたくしに伝えてくれたのだと思います。

けれど事実は、ルシアスの命のことなど、あの時のわたくしは少しも気にしていなかった。
いいえ、それよりもっと悪い。
絶対にルシアスに死んでほしくない、死なせてはならないと思った。
反乱計画がすでにもう露顕しており、弟が手をうっていることを、わたくしはあの時確信しておりましたけれど、もしもそうではなく、本当に、マキシマスの命とあの子の命のどちらかを選べと迫られたら、ためらわずわたくしは、あの子を救う方を選んでいたと思います。
あの子を犠牲にしてマキシマスを守れば、これからの生涯ずっと、わたくしとマキシマスの愛にあの子の思い出がまぎれこんでくる。あの子の血の烙印で、わたくしたちの愛が汚れる。
そんなことは絶対にがまんができませんでした。
まだ、マキシマスを死なせて、そのことであの子を恨み、憎みながら生きて行く方がましでした。
思えば今のこの人生は、わたくしが選んだ人生なのです。
みにくいと言われようと、恐ろしいと言われようと、これがわたくしの愛でした。

父のことも母のことも、別に知りたいとは思わない、というようにひっそりと首をふったセイアヌスをルシアスは見つめた。
「そうかなあ」彼は声を上げた。「僕だったら知りたいけどなあ」
セイアヌスは目を上げて空を見た。頭上に広がる濃い澄んだ青よりも、もっとやわらかい、冬や早春の晴れた日の空のような、灰色がかった青い目だった。
「私は、ここにいます」あたたかく静かな、幸せそうな声だった。「ここにこうして、私が今、生きています。それで私には、充分です」
彼は笑ってルシアスを見た。
「いつも私自身の中に、母がいて、父もいるのを感じます」彼は言った。「その母があの人でも、ちがう人でも、父と母は私がここにいる限り、消えてしまうことはありません。たとえ二人がどんな人でも、今どこにいても、どこにもいなくても、私のことをどう思っていても、私がいると知らなくても、ひとつ、絶対にたしかなこと…それは、その二人がいなければ、私は今ここにいなかった」セイアヌスは笑った。「私にはそれだけで、充分なのです、ルシアスさま」
淡く金色がかったまつ毛の下のやさしい青い目をルシアスは見つめた。
「私は、とてもうれしいのです」セイアヌスはつぶやいた。「この世にいることが。自分であったことが。どんな一生でも、それが明日おわるとしても、それでも今、ここに、こうしていることが」

風が吹いてきた。海の香りをたたえて。あたりにただよう草の匂いの中に、生き生きと荒々しくそれがまじりあって二人を包んだ。
「それでも君は」ルシアスは言った。「それでも君は、心配してくれたのかい?僕が母にどう思われていたのかを、僕が知ったらどう思うのか」
「ルシアスさまと私とはちがいます」セイアヌスはすぐに答えた。「人は皆、それぞれちがいます。一人の人間にとってはどうでもいいことが、別の人には大きな悲しみです。そんなことは比べられはしません。そんなことはよくあることです」
「君はやっぱり誰かに似ている」ルシアスはくり返した。「僕は絶対に前に一度、どこかで君に会っている」
セイアヌスは笑った。
「私のような人間は、どなたのそばにもよくいるのです」彼は静かにそう言った。「姿かたちはちがっても、きっとどなたもどこかでお会いになっているはずです」

(6)もしかしたら

この数日、頭痛も吐き気も耐えがたいものになってきました。
息をするのが苦しくて、夜もよく眠れません。
夜あけがくるまでの時間が毎晩恐ろしいほど長く、永遠に夜が明けないのではないか、自分はもう死んでいるのではないかと思うこともあります。
目もかすんで見えなくなることが多くなり、文字を書く手にもふるえて力が入りません。
コロセウムで弟と戦っていた時のあの人もこうだったのかと、ふと思います。
時間は、わたくしが思っていたほどたくさんはないのかもしれません。
急がねば。

けれどおじさま、決しておまちがえにならないで。
わたくしがこれから書こうとしていることは、熱にうかされたうわごとではないし、苦痛が言わせる弱音でもありません。
ずっと考え、心の中にくり返してきた思いです。
わたくしは冷静ですし、狂ってもおりません。
少なくとも、自分ではそのつもりですわ。

おじさま。
マキシマスはあの人なりに、わたくしの幸福を願ってくれたのだと思います。
ルシアスを愛して生きること。
それがわたくしを幸せにすることぐらい、わたくしにだってわかっています。
いえ、それだけではありません。

おじさま。
弟が父を殺したと知った時、わたくしはこれは神々がわたくしに下した罰だと思いました。
マキシマスと別れたあと、わたくしはそれを弟のせいにして、弟を愛することをやめ、彼を遠ざけつづけ、その不幸を願いました。
もし、わたくしがマキシマスを失っても弟を愛していれば。
心をこめて育て、みちびき、支えてやっていれば。
弟はあんな風には育たなかったし、父を殺しもしなかった。
そして、マキシマスもまた、心はともかく身体や命までも、わたくしから奪い去られることはなかった。

ルシアスのことばから反乱計画がばれたと知った時も、同じことを感じました。
神々に罰されたと。
わたくしが愛を与えなかった子どもが、無意識にであれ、わたくしから最愛のものを奪ったと。
どちらの場合も神々は、わたくしを苦しめ傷つけるのではなく、わたくしの何より愛した人を苦しめ傷つけることで、わたくしに最大の罰を与えたのだと。

おじさま。
それでもわたくしは、あのとき、弟を愛すればよかったとか、ルシアスを愛すればよかったとかは思えません。
いいも悪いもありません。
わたくしにそんなことはできませんでした。
愛してもいないものを、ただ幸福になるからという理由で愛することなど。
たとえ、あの人の願いでも。
たとえ、あの人の命や幸福のためでも。
あの人のためなら、どんな苦しみも、はずかしめもうけます。誇りも、命も捨てるでしょう。どんなものでも犠牲にできます。
でも、愛してもいないものを愛することだけはできない。

愛するということは、そんなにむずかしいことですか、と驚く人もいるでしょう。
特にマキシマスはきっとそうでしょう。
それはそう。
マキシマスがルシアスを、弟を愛したように、あの人が誰もを愛したように愛するのだったら、それはわたくしだってルシアスを愛せる。
誰だって、何だって愛せるでしょう。
でもおじさま。
そんな愛し方はわたくしにはできない。
そんな愛を愛と思いこむことも。

おじさま。
わたくしは時々、叫びたくなる。
あの人に、マキシマスに向かって。
そんなに何でも愛してしまうあなたは、いったい本当に何かを愛したことなどあるの、と。
自分を憎むコモドゥス。自分の幸せを最優先に考えてくれなかった皇帝。わたくしを奪ったヴァレスの息子。敵だった女。その女に生ませた子。自分に頼り、自分を支える以上のことはしようとしなかった部下や仲間たち。そんな人たちのすべてを、本当に、本当に、あなたは愛していたの。許して、あわれんだだけではないの。あなただって、ほしいものはなかったの。してほしいことはなかったの。これでなければいやだということ、それ以外のすべてをふみにじってもいいと思えるほど好きなものが本当にあなたにはなかったの。
自分がそうだったという自信などはわたくしにはない。でも、わたくし以外でも、そんな何かが、誰かがあなたにあったらと思っても、それがわたくしには思いつけない。
あの人は本当は、とても不幸な、淋しい人だったのではないでしょうか。
奴隷になろうとなるまいと。将軍のままでいても。皇帝になったとしても。
だからこそ、こんなにもわたくしはあの人を愛し、あの人が他のすべてをふみにじっても求めるような存在になってあげたかったのではないのでしょうか。

おじさま。
わたくしのこの愛は、かなう見込みもなかったし、愛した人もわたくし自身も含めて、誰も幸福にはしなかった。
それでもわたくしに、いっさい悔いはありません。
何のなぐさめもないままに、孤独の中で死んでも、死後の世界でもあの方は奥さまのもので、わたくしを迎えてはくれなくても、それでもわたくしが愛するのは、この世でも、来世でも、ただ一人、あの人だけでございます。

(7)花のような炎

グラックスはゆっくりと寝椅子から立ち上がった。
銅製の火鉢の底に注意深くろうそくを下ろし、紫色の紙の一枚を細く丸めて火にかざした。
つぼみが花びらを開いていくように、やさしい小さい炎が音もなく上がって、手紙はたちまち灰になった。
グラックスは二枚目の紙をていねいに丸めた。
「できればキャシオかセイアヌスに頼んで、この手紙は私といっしょに埋めてもらおうと思っていた」
ひとり言のように彼はつぶやいた。
「だが、大事をとっておこう、アウレリウスの姫君よ。私がこの世にいられるのも、もうそれほどまでに長いことではなさそうだ。あなたと、あなたの息子に似た母君のためにも、この手紙を人目に…とりわけ、あなたの息子の目にふれさせる危険をおかすような、愚かなことをしてはなるまい」
三枚目、四枚目と明るく静かな炎を上げて、グラックスの指先で、手紙は次々に燃えて行った。
「私はあなたや、あなたの愛したあの男のように死後の世界は信じない。だが、何ごとにもまちがいはあるものだから、そんな世界がもしあったなら、そして、そこで、あなたが孤独であったなら、今と同じに私はまた、そこであなたを見守ろう。私だけではありませぬ。孤独を恐れず自らの愛と生き方をつらぬき通し、戦いぬいた多くの人の魂は、常にあなたとともにある。いつわりの愛にすがらなかった魂たちが。自らの求めるものを決して見失うことなく、そのためには、自分も他人も傷つけることを恐れなかった魂たちが。私にも、あなたが愛した男にも、その戦いを戦い抜く勇気はなかった。そんな私たちもまた、尊敬と憧憬をこめて、あなたのことを見守るでしょう。それは実は、愛に似て、愛以上の深い思いなのです」
炎が一瞬高く伸びて命あるもののようにゆれ、朱色がかった金色の美しい光をひときわ強く、あたりに放った。
手紙はもう、最後の数枚を残すだけとなっている。

おじさま。
何があっても、この手紙だけは決して書くまいと思いながら、冷たいふりをしておられても本当はおじさまがわたくしのこれまでの手紙の一つ一つに心をいたませ、苦しんで下さっていることをよく知っていながら、それこそ、おじさまがそうやって冷たいふりをして下さっているのをいいことに、まるで弟のように父のように、わたくしはそれを知りながら知らぬふりをして、おじさまを悩ませ、もの思わせ、そしてとうとう、これだけは書くまいと思っていたこの手紙まで書いてしまって、こうしてお手もとに送りとどけてしまいました。
ここまで書いたらもういっそ、わたくしがこんなにまでおじさまに甘え、みにくさも、あさましさも、おろかさも、洗いざらいお見せしてしまったのがなぜなのかも、申し上げてしまうことにいたします。
おじさまはずっと昔、もしや、わたくしの母のことを愛しておいでではなかったの?

お答えはいりません。いただいてもわたくしは、この世にはもういないのだもの。死後の世界があるならば、そこできっと母がわたくしに直接教えてくれるでしょう。
理由は何もありません。あったとしても忘れたわ。ただ、とても小さい子どものころから何となくそんな気がしていただけ。
わたくしのただの幻想かもしれません。信じたかった夢にすぎないのかも。そうだとしてもおじさまは笑って許して下さるわね。
母は父が、元老院でおじさまにやりこめられた話をする時、何だかとても楽しそうでした。本当に母には珍しく、何度も声をたてて笑ったこともあります。おじさまの悪口を父や他の人が言っても、決して弁護はしませんでした。静かな、落ち着いた目でただほほえんでいたわ。でも、冒険好きだったくせにその一方で、とても夢みがちな少女でもあったわたくしは、いつか母のそのほほえみが、他の時とはどこかちがう自信をたたえているように見え、そうしてわたくしの頭と心は、根も葉もない勝手な物語をつむぎ出して行ったのかもしれません。

グラックスの指は最後にもう一度目を通した紙を火にかざすたび、ためらうようにかすかにふるえた。しかし彼は手をとめず、一枚また一枚と薄紫色の紙片を同じ色のやわらかい灰の重なりへと変えつづけて行った。

母は不幸で淋しい人とずっとわたくしは思っていました。あのように生きて死ぬことだけは絶対にしたくないとも思ってまいりました。けれども、自分の命のおわりに、ふとふりかえると、結局、母の一生もわたくしの一生も、そんなにちがっていたのかしらと思います。わたくしが人の見るより不幸であったというのではないわ。母がわたくしの思っていたより幸福であったというのともちがいます。人の心も一生も、とどのつまりはその人だけにしかわからないのかもしれない、そんなような気がするだけ。母には母の幸せが、夢が、満足が、きっとあったのだと思います。

わたくしは父を深く愛していました。たとえ、どんな欠点があろうとも。今でもそれは変わりません。けれどもわたくしが勝手につむいだ幻想の中で、心のどこかでおじさまは母のもう一人の夫であり、わたくしのもう一人の父でした。一見あたたかそうでいて、意地悪な父との、油断ならないかけひきを、わたくしは心の底から楽しんだと思いますけれど、冷たくきびしそうにしながら、すべてをうけいれて下さったおじさまがいて下さったおかげで、わたくしはこれほどまでに強く思いきり生きられたのだと思います。
わたくしの心を、人生を、何も言わずにうけとめて支えつづけて下さったことに、あらためて、最後にお礼を申し上げます。

おじさまの、るるより。


夕陽に赤くふちどられた、薄墨色の波がちゃぷちゃぷとおだやかな音をたてて、桟橋によせていた。ずらりとならんだ大小さまざまな船の帆柱やとがったへさきが、さほど強くはない風にぎいぎいときしんで動いている。その甲板で、船へ昇っていくはしごで、陽気な声の船乗りたちが、異国のことばを叫びかわしていた。馬を引いてセイアヌスとともに、波止場の人波をよけて進みながら、ルシアスはきょろきょろあたりを見回していた。
「タキトゥスのやつ、いったい、どこにいるんだろう?」
果物や野菜を積んだ手押し車ががらがらと渡し板を登って行き、魚や貝を入れた木箱が、たくましい男たちの手から手へ渡されているのを、セイアヌスは楽しそうにながめながら歩いていた。
「私の知らない言葉ばかりが聞こえます」彼はルシアスの方を向いて、笑いかけた。「本当にたくさんの、いろんな国があるんですね」
「ああ、母がよく言っていたっけ」ルシアスもふと、足をとめて耳をすました。「ローマなんかほろびても、またきっと別の国が栄えるわ、そうやって人の世界は続くのよ、いえ、人の世界が亡びてもまたきっとちがう世界が生まれるわ、ってね」
セイアヌスは首をかしげるようにしてルシアスをじっと見た。「どんなお顔で?意地悪な、それともやさしい?」
思い出すようにルシアスは目を閉じてほほえんだ。「そうだなあ…とても、楽しそうだった」
何か言いかけて遠くに目をやったセイアヌスがふと、ぱっと顔を輝かせてルシアスのマントをひっぱった。
「あそこ」と言って彼は指さした。ルシアスもそちらを見た。
少し先に停まっている、大きな新しい船の甲板の上に、もうとっくに二人を見つけていたらしいタキトゥスがいて、大喜びで、高く上げた両手を大きく振りまわしていた。彼の背後には、もうなかば張られた白い帆が巨大な鳥の翼のようにいっぱいに広がっていて、それは、徐々に濃くなる夕焼けを反射して、赤々と染まりはじめている。

グラックスの指先で、手紙の最後の一枚は長い紅の炎を上げて、今すべて燃えつきようとしていた。

タキトゥスの背後の帆は夕風をはらんで、ゆるやかに動いた。夕焼けの色はその上に、金色の、ばら色の、紫と青の影を波打たせ、ゆらめかせ、あるいは淡く、あるいは暗い、さまざまの輝きをはなって、その光は夕闇に沈んでいく港の薄暗がりの中でますます強くなる一方だった。
「すごいなあ」ルシアスは思わず声を上げた。「島で何度も夕焼けは見たけれど、こんなのは初めてだよ」
セイアヌスはうなずいた。「美しいものが、燃えているようです」
「だが、もうすぐに消えるだろう」ルシアスが沖に向かって押し寄せて行く、空の深い藍色と海の重い灰色を見ながら、ため息のようにそう言った。「そしてすっかり暗くなる」
「そうですね」セイアヌスの声は、さまざまな国のことばが歌のように入り乱れる港のざわめきの中でも澄んでよくとおる、どこか遠くから聞こえてくるような、やわらかく力強い、深いひびきを帯びていた。「夜がまた、明けるために」

海の歌(終)・・・・・2002.6.5.

ありがちな女?-あとがきにかえてー

映画「グラディエーター」の一つの弱点はヒロインルッシラの描写にある、と感じている人は多いだろう。私の老母は映画を見た直後に「何なの、あのお姉さんは。弟に忠告もせず、恋人を裏切って」とあからさまな不快、反感を示した。大正生まれで、キリスト教と武士道と社会主義とをごっちゃにした反骨精神と禁欲主義が性格の根底にある彼女としてはまあ当然の反応だろう。
友人の江戸文学を研究する若い大学院生の女性も「ラッセル・クロウは好きだけど、あの映画はなあ。いかにもハリウッド風のヒロインの描き方がいやなんだなあ」と言っていた。やはり若い女性で、この映画を自分のHPの掲示板で紹介説明した人は、マキシマスを「桃太郎侍みたいな立派な人」と表現したのだが、ルッシラのことを「桃さんと昔なんかあって、うらぎったらしい」と説明し、最後の裏切りも含めて「ありがちなオナゴたいねー」と述べたのであった(笑)。

私自身、この映画を見た時のルッシラの描き方には、やや違和感と当惑を感じた。「テルマ&ルイーズ」から「G.I.ジェーン」まで作ってのけた監督にしては、どうしたことかととまどいもした。しかし、失望ではなく、嫌悪感もなかった。
それは主として、ルッシラを演じたコニー・ニールセンの終始一貫ゆるみを見せない緊迫感と奥深い豊かさと典麗な優雅さに満ちた演技のせいでもあったろう(当時、ある映画サイトで、ラッセル・クロウの声が将軍としてはやややわらかで甘すぎるのに対し、牢獄で彼と対決する時のルッシラの声は「いかにも皇女の声と思わせる」と指摘していた人もいた)。彼女がこの役でオスカーの候補にすら上らなかったのはまったく信じられないほどで、「グラディエーター」という映画は、彼女の存在がなかったら、あれほどの完成度は示せなかったと思う。
だが、その演技だけではなく、脚本や設定そのものの中にも、この映画の他のあらゆる面と同様に、ルッシラについても「どうにでもとり得る」複雑さと深みがあるのではないか、とも思う。

彼女が初めて登場するのはコモドゥスとともに馬車に乗っている場面だが、その時の彼女の演技は、はっきり「悪役」としての演技に私には見える。これは、祝宴の翌朝の中庭で、マキシマスと言葉をかわす場面にまで続いていて、羽織った毛皮をゆらめかせながら、高笑いしてマキシマスを呼び止める彼女のしぐさも表情も、妖婦、悪女以外の何者でもない。
ただ、そのような中に、ときどき、無邪気な少女の顔や優しい娘や母の顔がまじって来る。そして、映画の最後に近くなると、彼女はマキシマスと同様に弟であるコモドゥスに蹂躪される存在になり、そのような犠牲者、抵抗者としての表情、演技に変化して行く。美しい女として、性的な征服の対象となり、子どもの命を脅かされる母でもあり、愛するマキシマスの命もまた奪われかねない恋人でもある彼女の立場は、ある意味ではマキシマス以上に複雑で錯綜し、そして重いといっていい。

登場人物の誰の立場から見ても万華鏡のようにちがった世界があざやかに広がっていくのは「グラディエーター」という映画の大きな特徴であり、魅力でもある。ルッシラの立場に立ち、彼女の目で見たときに、この映画の世界は実に息詰まる恐ろしいものとなる。それを的確に演じきって、何の破綻も見せない、不自然も感じさせないニールセンの演技にはどれだけ賞賛を贈ってもよい。
ともあれ、そうやって、最後には彼女はマキシマスの同志となり、ついで裏切り者となり、しかも最後には彼の遺志の継承者、遂行者として、コロセウムに君臨する。ひとつまちがえば反発を招き、映画全体をも崩壊させかねないこの結末を力技で乗り切るのは、やはり彼女の演技の迫力に負うところが大きいだろう。
とはいえ、もちろん、それで納得できない人も多いはずで、それがおそらく、この映画を楽しめない人を生んでいるのだろうとも思う。

ルッシラを分析、解釈するのは至難の技といっていいほど難しい。(まあ、そんなにまでしてする必要があるわけでもない。笑)「グラディエーター」関係の小説の中では、彼女はマキシマスを愛してはいるが、それほど複雑な人間ではなく、やや高慢な世間知らずな皇女と描くものもある。また、彼女がマキシマスと理解しあっていく段階を、グラックスとの会見の場面、最後の牢獄での場面、などを節目として解釈しつつ、基本的には、彼女は「子どもを愛する」ことが最優先の比較的単純な女性だったのだ、とする人もいる。先にあげた「ありがちなオナゴ」説もこれに近いであろう。

これらの考えはそれぞれに、充分に納得がいくものである。そう見てもまったくそう見えるし、正統的で正しい、この映画の鑑賞だとさえ言えるだろう。
「海の歌」で私があえてそれらに逆らい、まったくちがったルッシラ像を描いたのは、何となく「ファンフィクションやパロディとは、どこかとんでもない解釈がなくてはいけない」という私の勝手な強迫観念(笑)もひとつにはある。ただ、私としては、この映画があらゆる部分ではらんでいる、奇妙な不透明な部分をルッシラについても感じて、それを無視してしまうのがちょっともったいなく思えた。

映画を見ていて、ルッシラについて妄想ではなく誰もが確実に言えることは、「マキシマスが一番露骨にいやな顔をし、敵意を見せる人である」ということであろう(笑)。コモドゥスに対してだって、マキシマスはあれほどあからさまには怒りをぶつけてはいないし、ないがしろには扱わない。
そこから考えられるのは、「マキシマスみたいな人がそういう態度をとってしまうのは、よっぽど彼女はひどいことをしたんだろう」ということになる。くりかえすが、この話、この映画は、それでもいける。
ただ、もう一つ考えられるのは「マキシマスみたいな人がそういう態度をとってしまうのは、ひどいことをされた人に対してではなく、むしろ自分がひどいことをしてしまった、そしてそのことについてまだ気持ちの整理がついてない人に対してじゃないか」ということで、これでもまた、この映画はいけるのである(笑)。
私は自分がマキシマスにもルッシラにも似ているなどとは思わないが、どちらの立場で考えてもマキシマスのルッシラに対する態度は敵意むき出しもふくめて、ある意味、無防備すぎ、甘えすぎていて、あの用心深く、冷静で、穏やかで、支配者らしい人が(まあ、このイメージも私のマキシマスで、彼がもっと単純な直情径行型の人と思っている人はまたちょっとちがってくると思うが)とる態度とも思えないほど、心を許し自分をさらけ出しているかに見える。私が奥さんででもあったならば、愛する夫があれほど別の女につんけんしてあたりちらしているのを見たら、確実に嫉妬で死にそうになることだろう(笑)。

冗談はさておくとして、そのような私としては、もしマキシマスがあれほどの敵意を示す原因がルッシラが過去にした「ひどいこと」にあり、それを平気で忘れた顔で近づいて来るような女であったなら、彼女がローマのために何をしようと、自分を救うためにどれだけ身を粉にしようと、そんなことで許して唇まで合わせるとはとても考えられなかった。それは私の考えるマキシマス像ではなかった。
もちろん、くりかえすが、そのへんのイメージはそれぞれの人で異なる。それぞれのイメージにまた別の物語が生まれ得る。私が作ったのは、あくまでその中の小さい一つに過ぎない。これが正しい解釈とか、唯一の解釈とかいうことでは決してない。

以下、ネタばれです。まだ本編を読んでおられない方はご用心を。
ルッシラのルシアスへの気持ちについて、どうしてこんな設定をしたのかというと、実は私は、あの映画のルシアス君が、かわいいと思ったし、反感も感じなかったし、でも、何だかちっとも愛情を感じられなかったのです(笑)。あの子役のせいではないと思います。とにかく、ほんとにどうってことなくて、そういう気持ちもあるということで書きました。
ただ、似たような悩みを人から聞いたことはあって、そういう点ではまったく架空の設定ではありません。

もうひとつ、小説の中では書かなかったのですが、ルッシラがこうなった原因は、彼女自身は気づいていなくても、二つ考えられると私は思っています。
一つは「自分が何かを愛したら、弟から傷つけられる。大切なものは愛してはいけない」というトラウマ。このような点でも、コモドゥスのような存在は実に、実に罪深いと私は思っています。
もう一つは「人を愛するな」と教えた亡き母とルシアスの外見が似ていること。そのような母(と、その教えをどこかで忘れられず、それがマキシマスを失うことにつながってしまった自分)に対する自分でも気づかない恨みと恐れが、彼女の気持ちを冷たくしているのかもしれません。

なんだか、あとがきと言いながら、これから、これをきっかけにますます話が発展しそうな気配がしますが、いったんはこれで。長い、長い間の連載中、変わらず読んで、感想を下さり、時には笑い、そして泣いて下さった皆さまのことが、登場人物と重なってよみがえって来ます。るるちゃんともども、幸福と、感謝を、かみしめています。最後まで、ほんとにありがとうございました。
それにしても、クリスマスまでには終わるかな、と半分冗談で言っていたのですが、ほんとに半年かかってしまいましたね。
どうか皆さま、よいクリスマスを、そしてよいお年を(笑)。

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