1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. テロリストの心
  4. 最後まで着る服(6)

最後まで着る服(6)

これまたどっちも、その気になれば売れるし、人にもあげられるんだろうなあ。革ジャンと革のスカート。

買ったのは別々です。スカートの方はキウイやヒツジのセーター同様、ニュージーランドで買った気がする。私が一番やせてた時はちょっとぶかぶかで、太りすぎてたときはきちきちで、今はどうやら、ちょうどいい(笑)。

ジャンパーの方は叔母に買ってもらったものです。いやーもう、衣服の話をすると、叔母のことしか出て来ない。いかに私の衣服関係が叔母に依存していたかを、あらためて思い知る。

実際、九州を離れて名古屋に就職するまで私は自分で服を買ったことがありません。子どものときから大学時代、大学院でも最初の就職した熊本でも、すべては叔母が買ってくれたものばかりでした。それも、ものすごく高価で上等な。

それでもあまりうれしくはなかった。何しろ自分の趣味ではなかった。というか、自分の趣味など持てなかったから、どこか完全には生きていない感覚がずっとしていました。立派な服が山ほどあるから、自分が買う理由がなく余裕もない。でも、自分の好みがまったく反映していない服だから、それを何とか無難に着るには、自分で買った服を着こなすのとはまたちがった才能が要求されて、すごく無駄な努力をしているようで、いつももどかしかったです。

当時買ってもらったスーツもワンピースも、あらかたは人にさしあげて、手元には残っていません。初めて名古屋で、見知らぬ町で、自分のお金で店に入って服を選んで買った時の、解放感と幸福感は今でも忘れません。安い普段着ばかりだったけど、それでも自分の好みで選べて組み合わせを考えられるのが最高でした。その後、長年我ながら服については好みに任せてかなりの散財をしましたから、けっこう回転も激しくて、最初に買ったその頃の服ももう今は手元にないけれど、ずいぶん長いことどれも愛用していました。

その中でこの革ジャンは、デパートで叔母と二人でショッピング中、叔母が見つけていいねと言って私も珍しく気に入って、買おうとしてたら叔母が変にしぶってためらってたので、私はふしぎでした。でも叔母は私が欲しがっているのを気がついたようで、結局買ってくれましたが、店員さんが品物を持って下がったとき、私に耳打ちして「五万円だったよ」と教えました。値段に糸目をつけないようで、気にするところはいやに気にする、ある意味健全でつつましい富裕層の叔母にとって、それは破格の値段で、まあ当時としてはたしかにそうだったのだと思います。そもそも買う前に二人とも値段を確認もしなかったのかと思いますが当時の私たちはそうだったし、また叔母がそこでためらったのも、いつも私に買ってくれる派手派手の華やかな服とちがって、それだけの値段に引き合う魅力を感じなかっったからでしょう。逆に私の方は、叔母が選ぶ服の中では珍しく、これは欲しかったのだと思います。値段を聞いて「ふうん」と複雑な顔はしたけれど、それ以上感謝も特にしなかったし、叔母もそれきりそのことは言いませんでした。

さすがに上等だったからか、この革ジャンは、それからかれこれ五十年にはなろうかというのに、古びた気配も見せません。一度えりのあたりがほつれて修理に出した以外には、どこも傷んでいないようです。私もそうしょっちゅう着たわけではなく、何となくまだ身体になじんでいないようでもあります。
 ニュージーランドで革のスカートを買ったときも、多分この革ジャンと合わせようと思ったのでしょう。実際何度かいっしょに着て、まあそれなりの迫力はあり、気分が変わってよかったです。

そういう、あらゆる点から見ても、手放してもいいし、もらった人も喜んで使ってくれそうな気もします。実際、処分しようとしてできない服は私の場合、「これは大切に使ってもらえそうにないな。私が最後まで着るしかないか」が、一つの基準になっているので、文句なしの上等な服や無難な服は、このリストには入っていない(笑)。

なのに、なぜこれを置いておきたいかというと、多分一種の変身願望でしょう。私は人にレッテルをはられたり分類されたり、誤解を恐れずに言うと理解されるのが大嫌いです。勤めていたころ、会議や委員会の時に、大喧嘩した論敵と別の問題では手を組むので、「あんたはいつどこにいるのか、どこに行くのかわからなくて、不意を打たれる」と感心?されたことがあったし(私の方では主義主張は首尾一貫しているつもりでしたが)、逆にろくに私と知り合ってもないくせに、わかりきってるつもりになって、ピント外れの馴れ馴れしい冗談を言ったり接近したりする人には、可能な限り近づかないよう心がけます。

もうさ、ここだけの話、私は夫婦別姓問題については、まったく別姓というか選択自由にするのに賛成だし反対する人の理由がわからんし、また結婚したいという願望もまるで持ったことがないのですが、それでももし結婚して姓が変わるなら、それはちっとも嫌じゃないと思います。少々の不便や不利益があっても「もうあんたの知ってる私じゃないのよ」と友人知人に手軽に実感させるには、こんなに手っ取り早いことがあろうかと思うからです。何ならまるごと名前が変わっても外見が変わっても、それで私のことを「知ってる、理解してる」と安易に決めこんでつけあがってくる人たちを遠ざけられるなら安いもんだって意識すらどこかにある。思想や趣味や主張でさえも、あんまり固定したくはなくて、昔は何か小説や本を書いたら、そこで訴えたことや語ったことは、全部消して忘れて、ちがう人間になりたかった。同じ居場所に居たらつかまる、って感覚ですかね。即移動しないと撃たれる、みたいな?(笑)。

何にしろ、わかったつもり、把握したつもりになられたくない、私の行動、発言、内面を予想するなど百年早い、という精神を簡単に示すには、突拍子もない服装をすることもありですから、ありとあらゆるかっこうをして、おかげで、あまりそれも効果がなくなったりするのですが、まあそういうアイテムのひとつとして、この革ジャンとレザースカートはもうちょっと取っておきたい気がする。 (2025.4.28.)

Twitter Facebook
カツジ猫