どしゃっ!
大雨が降るとか言うから水まきをしないでいると、結局一日降りやがらない、こんな天気が一番好かん、とかぐれながら、ベッドでふてくされて昼寝してたら、何だかどしゃっと音がした。
まだよく目が覚めずにいたが、あ、ひょっとしたら猫のカツジが、キッチンの机からベッドの横のテーブルに飛び移ろうとして落っこちたのかなと思って、がばと起きて見に行った。足でも折って床でくたばってるかと思ったが、そんなことはなくて、廊下の方に行く後ろ姿のしっぽが見えた。
その後、いつものように歩いていたし別状ないようだったが、要するにこれは、キッチンの机にあるクリスタルの花びんの水を飲むために、ベッドの横のテーブルから近道して飛び移るのを何とかしないといけないと、あらためて思った。だいたい、もともと異様に足腰が弱くて高いところには飛び上がれない猫なのに、人間で言えば二階の屋根ほどの高さの谷間の断崖絶壁をジャンプしてるわけで、どうしてそんな勇気が出るのか、そもそもできると思うのか、できてしまうのか、私にはわからない。
細かい説明はややこしくなるが、その花びんがそこにあるのを飲まないといやなようで、ためしにテーブルのエサのそばに別の器で水をおいて見ても頑として飲まない。今回また、新しい別の器をおいてみたけど、横目でチラ見して黙殺している。
どうしたらいいもんだか。
これから年をとる一方だし(多分、御年八十近い、十六歳)、足を折って半身不随になった猫を介護する体力も気力も時間も優しさも私にはあろうはずもないから、何とか考えないとと、ずっと頭を悩ましている。
集中講義の最後の時間は、「江戸生艶気樺焼」を読んで終わろうと予定している。前から思っているのだが、この作品で、主人公の醜男の艶二郎が、ロマンチストで文学作品の中の色男のようになりたくて、実際には自分は恵まれた富裕層なのに、貧しく不幸で不運で悲恋に苦しむ人物になろうと、金の力で強引に努力するのは、深く考えれば、夢想家やロマンチストや恵まれた者の悩みや苦悩や欲望をあぶり出しえぐり出すものでもある。心理学的に何か定義や用語があるのじゃないかと思うぐらいだ。何々症候群とか名をつけるの大好きじゃないですか、あの界隈の方々って、とちょっと嫌味な言い方をしてみる(笑)。
映画「タイタニック」が大ヒットしたとき、私は、あら珍しい、久しぶりに貧しい好青年と嫌味な金持ちが対立して、前者が恋に勝利するという王道に、メジャーな作品が復帰したわねという感慨にふけった。男女を問わず、不幸で貧しい美しい人が主役で正義で、金持ちでエリートで恵まれた人は悪役かせいぜい脇役かだったのに、いつからか「勝ち馬」が正義で主役にもなるようになった。私の記憶じゃ「プリティ・ウーマン」の映画が最初だったかもしれない。
私は「情けあるおのこ」でも書いたように、「恵まれた者」の不幸については潜在的に気になってたから、その新しい傾向は、危ぶみつつもどこかでくすぐったく共感もした。その一方で何か、人類の叡智と財産が崩れて行くような不安も感じていた。それは結局、現在の金や地位がなければだめで、恵まれない不幸な者はただ恥ずかしい、なりたくない、ふみにじってもいいという価値観や美学につながって来ていると思うし、私の予感は正しかったと感じてもいる。
それはさておき、恵まれて幸福な者が、物語や伝説の中の不幸で不遇なヒーローやヒロインにあこがれ、勝ち組になるには負け組にならないとつまらないと信じる心境は、探せばいろんな作品に散らばりまくっているだろう。私が一番思い出すのは、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」で、逃亡してつかまった黒人奴隷のジムを再度逃がそうとするハックルベリーとトム・ソーヤー二人の少年の内、浮浪児で無学でタフなハックに比べて、良家の息子で本も読んでいるトムが、簡単にジムを逃亡させられるのに、いろんな小説や歴史の登場人物なみに、さんざん脱獄の苦労をしようと苦心する場面だ。
原作からコピーしようと思ったら、この場面が異様なまでに長かった。これまた私は専門分野じゃないし、この作品の研究なんて山ほどあるだろうから、何もわからないのだけど、いったいトムのこの場面は、研究史上どのように批評され分析されているのだろう。ばりばり専門で研究してる研究者が近くにいるので、聞いたら一発で教えてもらえそうなのだが、もうその時間がないのよね。さしあたりは、ありあわせのもので、乗り切っとくしかない。