もやもや返し
ネットで見ると、朝ドラ「あんぱん」は好評だがヒロインが好きになれないという感想が多いそうな。細かいとこはいろいろあるが、軍国教師?になってることも大きな一因らしい。子どもたちが「お国のために死にます」とか言ったら、これまでの朝ドラなら「私は間違っていたかもしれない」などと改めるか、「まだ小学生のあなたたちはそこまで言わなくてもいい」とか言うのに、ヒロインは愛国を説き続ける、という比較をした記事もある。
私は戦後生まれで戦争なんか知らないが、それでも、何ちゅう脳天気な平和ボケかいなととっさに思ってしまう。だいたいYouTubeでもよく映画「火垂るの墓」を見てアメリカをはじめ世界の人がショックを受け主役の幼い兄妹の運命に涙したとかいう話が山ほど紹介されてるが、そりゃ悪いことじゃないし「火垂るの墓」は名作だが、やっぱり私は唖然とし、何を今さらすっとぼけとんじゃと、開いた口がふさがらない。コメント見ると日本人でも、「名作だし皆に見てほしいが、二度とは見たくない」「公開当時『となりのトトロ』と同時上映されたのが信じられない」などと言われているようだが、私はあの映画、何十回でも毎日でも見直して楽しめるし、まさに「トトロ」といっしょに映画館で見たのだが、二つをいっしょに見ることで、どっちもすごく楽しめたし、むしろ楽しみが倍増した。
私は映画も小説も癒やしだなんて思わない。格闘技とまでは言わないが、心を折られてかき乱されて、へとへとになって打ちのめされて、死ぬほどショックを受けて考え直さされて、それでも立ち直って這い上がって、見る前読んだ前とちがった生き方をはじめるぐらいでないとリフレッシュされないし快感も生まれない。第一「トトロ」だって、唐突に言うなら「赤毛のアン」だって、別に全然心温まるような安らぐような話じゃないぞ。孤独も恐怖も悲しみもぐさぐさ刺さってくる作品で、けっこうあちこち毒もあるし、あんなんでほのぼのして安らいで慰められるって、どういう感覚でどういう神経してるんだと思う。ある意味、「火垂る」より「トトロ」の方が無気味で恐くて切実だよ私には。そこがいいんじゃねえか。あーもう、こんなだから私のことも優しいとか面白いとか何言ってもふざけても許されるキャラだって、勘違いするやつらがあとを絶たんのだよね。私が何言われてもされても平気で怒らないのは、年齢立場に関係なく、生徒や教え子に対してだけですよ。教師としての職業倫理で、それは一生続きますから、ご安心下さい。などと言ってたら話がいつ終わるかわからないので、ちょっとだけ戻しますと、私は実は「あんぱん」にまったく逆の意味でちょっといらいらもやもやしていて、それはあの時代にあんまり皆が、のどかに反戦思考だからですよ。妹さんにしろ婚約者にしろ、平和や戦後を語ることに、あまりにのんきで抵抗がない。実際あたりの空気もそうで、だからこそ、ヒロインの軍国教師や国防婦人会が異様に見えて浮いちゃうんです。
ただよってる戦時下の雰囲気に、ちっとも緊迫感がない。反戦思考を持ってる人たちに危機感や緊張感がなさすぎる。それをどうしたら描けるのか私は知らないけど、何とかしようがあるはずだ。戦争がいやだのいつか終わるなどと口にするのも考えるのも、広島でカープの福岡でホークスの仙台で楽天の悪口言うより、よっぽど勇気と決意がいるんじゃないかと思うぞ私は。あーそう言えば「アンの娘リラ」の中で、村全体が戦争を支持し賛成し、反対する人にアンの家族も村人も皆敵意を抱き牙をむくという描写に私が戦慄し、「平和を訴える、正義を主張する、ということは、恐ろしく醜い敵と対決することじゃなく、親しい大好きな人たちすべてと対決することなのだ」と「むなかた九条の会」で講演したとき、聞いていた人たちは皆何のことかわからないようで、実際「何をそんなにくよくよ考えるのか、聞いていてもどかしい」とさえ言われた。私はこれでもそんなにわかりにくい話をする人間ではないから、思いはちゃんと伝えたつもりだ。それでもほぼ全員に多分わかってもらえなかった。私はその時、この人たちと最後までいっしょに戦うし、同志で仲間かもしれないが、それでも全然わかりあうことはないし、骨の髄まで他人だなと完璧に確信したものだった。(ちなみにAmazonのこの本のコメント欄でも、私のようなことを考えてる人はいないようだから、「むなかた九条の会」が特別なわけじゃない。)
「あんぱん」を見る人たちは、登場人物と同じ気持ちでいたいのだろう。それは今のこの現代の思想を持ち社会常識を持って生きている自分と相反し齟齬があってはならないのだろう。そういう感覚そのものが私はとても恐いと思う。まあそれを言うなら制作者だって、まだまだヒロインの心情や心境にしっかり寄り添って同化していないのだろう。だから彼女の心根も理解してもらえないのだろう。ただそれは、そこそこうまくやってる方だと私は思うんだけどなあ。
むしろ私がもやもやするのは、そこまで彼女を染め替えて、有形無形の圧迫を加え続けてくる世の中をしっかり感じさせてくれない点だ。お国のためにと説く連中は婦人会にせよ校長にせよ、皆、いやなやつでバカばかりに見える。当時の現実がそんなはずないだろ。そうではなくて、心から尊敬できて魅力的で親しい人たちが皆忠君愛国を心から信じているのを見せないと、世間や時代の恐ろしさが伝わらない。そういう描写をしたら不快に思って反発する人も増えるだろうが、言っとくが、そういう人たちって、世が世ならお国のために死ねとか死にますとか何の疑いもなく合唱する可能性がものすごく高い。
まあいいや。気が向いたらまた続きを書きます。
鯉のぼりを箱に入れて棚にしまい、玄関前の木の枝を切りまくり、奥庭のバラの鉢にまた土を入れて栄養剤をかけてやり、ハーブの藪を引っこ抜いて、ご近所の方々にもらっていただき、いろいろたいがい働いたのに、家は片づく気配もなく何だかますます散らかって来た。大規模な片づけをするとこうなるものだから、あわてはしないが、うっとうしい。まあ、一歩ずつ前進するしかあるまい。
がらくたの中から出て来た、多分十年近く前から読みさしの文庫本「明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか」をベッドにひっくり返って読み上げた。いろいろ立派な本だった。感想はまた明日にでも。そう言えば、「戦雲」の感想のラストも書いてないし、先日の「むなかた九条の会」の講演の報告もしてないし、いろいろとあせる。