ノコギリ確保
とっちらかった家の中から、記憶をたどりまくって、やっと錆びついたノコギリを発掘(下の家の下駄箱の中に押し込んであった)。
庭の中で育ちすぎて、太くなってしまった木や枝を切りまくる予定である。
と思っていたら、昨日から雨。しっかも今日は寒いらしい。
初詣にも行きたいし、映画もちょっと見たいけど、今日はまた家にこもろかな。
体調もなんか、いまいちだし。
冬も、このぴりっとした寒さも、そんなにきらいじゃないんだけどさあ。
とにかく、家で片づけしてるのが、何だか一番楽しいのよね。いろんなものが出て来るし、いろんな計画めぐらせられるし。
それにも疲れたら、ベッドにころがって、猫なでながら、そのへんの文庫本読んでればいいし。うふー。
昨日は文庫本の「ともえ」を読み上げた。木曽義仲と巴御前の幻に重なるように描かれる芭蕉と老尼(まだそんな老いてはないけど)の愛は美しくて色っぽく、近江の風景や義仲寺に行ってみたくなるほどだったが、あまりにも華やいでなまめかしくて、ちょっとぞわぞわした。そんな露骨な描写や場面があるわけでもないのに、これは作者の力量だろうな。
ただ、最近アニメのけしからんファンフィクションを読みあさっているせいか、そういうジャンルの一種類で、いわゆる男性同士をからませる「やおい」とはまた別に、作者が自分を魅力的な女子高生に仮託して、好きな「推し」と仲よくする作品群が山ほどあって、もう別に文句を言う気はないのだけど、やっぱりどこか白昼読むのに面映ゆい。そりゃああんた書いてたら楽しかろうけど、いやもうああもう好きにしてと、へたりたくなる。読んだこっちが悪いんだけどさとも、感心しつつ反省する。ぶっちゃけた話、他人の自慰行為を見せられているような、快感と嫌悪感と罪悪感でおののく。そこそこ名作も多いし、こうやって、れっきとした文学作品も生まれて来るんだろうなとも思うし、自分が書いてるものだって、これらとどこがちがうんだという気もどこかでちらっとするし。
「ともえ」読んでると、それと似た気持ちになるんですよものすごく。夢を見るのも書くのも読むのも、それを人に語るのも、文学ってすべてもう、いやらしくて、いかがわしいものかもしれないと思えてくる。いかん、熱が出て来そう。
ご近所の方から、立派なみかんをいただいた。いつもはけちって、安いのを買ってるので、それと比べ物にならないおいしさに、夢中になって、あっという間に食べあげてしまったのみか、今日はスーパーで、いつもは買わない高めのみかんを一袋買って来てしまった。ついでに花屋さんに寄って、久しぶりに花を買う。庭の梅と水仙が、まだもうちょっと、開きそうにないのだ。
名前を教えてもらったのだが忘れてしまって申し訳ない。紫の、あまり見ない、洒落た花で、かぐわしい、いい香りがする。
大相撲が荒れてるなあ。翔猿も豊昇龍も琴櫻も照ノ富士も大の里も、皆それぞれに、嫌いじゃないから困ってしまう。琴櫻は三敗になって心配だ。昨日二敗したとき、解説のどなたかが、「昨日も負けたあとで四股を踏んでいたというから立派なものだ。でも、四股はいいから、ごはんでも食べに行って気分転換すればいいのに」とか言っておられたので、ちょっと笑ってしまった。私も初詣は暖かくなる週末にのばして、少しのんびりするとしようか。