マンガの評価
待望の雨。今日はだまされたつもりで、上の家のダンボールと古紙を、とにかく片づけてみようかな。そうしたらきっと何か新しい光景が開けるだろう(笑)。
昨日の余命云々の話の続きになるが、ふと気がつくと大河ドラマ「べらぼう」の蔦重って、それこそ47歳ぐらいで死んだんじゃなかったっけか。すごいなあ。それであれだけ、いろんなことをやってのけたのか。恩師の中野三敏先生が、どなたかすごい才能のある研究者が夭折したとき、「だからさあ、人間てのはするべき仕事をしてしまったら、死んでしまうものなんだよ」みたいなことを、何だか涼し気な顔でおっしゃってたのを思い出す。(でもそんなこと言ってたら私二百歳ぐらいまで死ねないんだけど。)
読書会のメンバーの奥さまは、蔦重とイメージがちがうと言っておられるが、私はもともとイメージもないので(笑)、横浜流星という役者さんは知らなかったが、すきっと前向きで元気でまっすぐで、こりない感じがいい意味の江戸っ子っぽくて満足して見ている。そして前回のラストで、喜三二やら春町やら京伝やら誰やら、おなじみすぎる戯作者たちの名前がずらずらずらと画面に出て来たときは、何だか我ながら変なぐらい、異様にテンション上がって興奮してしまった。いいなあ、作品でおなじみの面々が生身の姿で動き回ってくれるのなんて、おいしいなんてもんじゃない。
朝ドラ「あんぱん」も面白く見ている。えらく不評な師範学校の愛国スパルタ女教師も、私は見ててけっこう好きなんだけどなあ。まあ、その昔チャップリンの「独裁者」の映画見て、ゲッペルスがカッコいいと思って何度も見に行った私だからなあ。とは言え、一方で自由な東京で軍人に平気で反抗する美術教師の方も好きなんだけど。山寺宏一さんが演じてるからってだけじゃなく(笑)。
「あんぱん」でひとつずっと不満というか不安というか気になってるのは、マンガというものが当時どんな扱いだったか、どれだけ市民権も何もなかったかが、あのドラマ見てる限りじゃまったくわからないことだ。多分確信犯で意識的にそうしているんだろうけれど、それで主人公が漫画家になる道を選ぶ意味が、ちゃんと伝わるのかな。
私が小さいときだって、マンガは普通の書店や図書館にはまったくおいてなかったし、子どもが読むものじゃないとされてたし、もちろん大人でも人前で読んだらバカにされてた。ちゃんとしたものとして扱われていないことは、今では想像もつかない状況だった。私の知る限り、マンガをきちんと分析評価して、その中でも手塚治虫は別格と高く評価したのは、「週刊朝日」が連載していた開高健の「ずばり東京」が最初だった。それまでは貸本屋などで細々と読まれていたが、とにかくまともな読み物と考えられていなかった。
そういう中で、やなせたかしが、どのようにして、マンガへの愛を貫き、それを仕事に選んだかは私にはとても興味があったりする。それをまるきりすっぽかして彼の人生や成長を描くこのドラマは、私にはどうしてもどこかものたりない。家族や世間も含めて、マンガというものへの蔑視や差別を主人公は一度もぶつけられていない。普通の絵画や美術や図案といった世界との棲み分けや位置づけが当時どうだったのかも、見ていてさっぱりわからない。あの当時マンガで生計を立てるなんて良家の子女が考えたりめざしたりするのは、同性と結婚しますとカミングアウトをするぐらい、とんでもない狂気の沙汰ではなかったかと私は思うのだが。
今までのところ、そういう場面(マンガ?なにそれ!とあきれられそうな局面)は、どこも、いつも、さりげなくごまかされてぼかされている。これからどうなって行くのか、制作サイドにはちゃんと計算もあるのだろうけど、何だかすごく大きな芯が一本すっぽぬけた話を見せられてるような気がずっとしてならない。
ところで、部屋に飾った巨大バラは、前のもそうだが、家の中ではだんだん大きくなってくるように見えるのは気のせいかしら(笑)。夜、ベッドからながめていると、人の顔ぐらいありそうで、笑ってしまいそうになるんだけど、いいのかねこれで。