1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 救いの雨、恵みの雨

救いの雨、恵みの雨

昨日は一日街に出かけて、髪をカットし、体調も上々だったので、暖かな日差しの中、実に久しぶりに福岡の繁華街を少しだけ渉猟した。しばらく来ない内に店も通りも変わってしまっていることったら! なじみのお店がだいぶ消えてた。

それでも雑貨の店などをのぞくと、楽しい美しいものが多くて、しっかしお金も置き場もないから、安い小さなものだけをいくつか買った。この前いただいたアニメのカードを入れる小さい額縁(600円で安売りしてた)とか、カーテンをとめるのに使う猫の洗濯バサミとか、もうとことん、しょうもないものばかり。

私の足はものすごく弱っているのだけど、それでもかなり歩いても大丈夫そうで、一応満足して車に乗ったら、何だかいやに道が混んでて、いつもの倍ぐらいか、それ以上も時間がかかる。
 しょうもないテレビ番組は見たいし、炊飯器のスイッチは入れてないから、帰ってもすぐにごはんは食べられないし、さりとて中途で寄り道してスーパーでお寿司か弁当買うのもいやだなあと迷いながら進んでいたが、家近くなって、ひょいと思いついて、通りすがりの、ものすごい狭い、けちなコンビニ(別に悪口じゃないんだけどさ)に入って、おにぎりだのサラダパックだのアイスクリームだの、社畜のサラリーマンみたいな(多分)、食べ物を買いこんで帰った。このごろずっと自炊しかしてなかったので、こういう罰当たりなことをしてると妙に楽しくて、どしどし買いこんでしまい、レジのそばにあった豚まんと中華まんまで買って、帰宅してテーブルに広げたら、その殺伐と豪華な光景が、妙に痛快で、ばりばりと食いちらかした。はっはっは。

だけどさすがにお握りなどは大量に残ってしまって、冷蔵庫に放りこんでおいたら、ゆうべはすごくおいしかったのに、今朝はもう、冷たくて固くて、何だかおにぎりの死骸を食べているようだった。でも、もったいなくて、捨てる選択肢なんぞはさらさらないから、もう何回かで平らげてやる。こんなものでも食べたくなるぐらい空腹になるのを待てばいいだけの話だ。

歩き回った割には、案外というより全然疲れなかったのだが、それでも今日は気分がだらだらして怠けモードに入って、ベッドで春眠をむさぼった。水をまかなきゃなと苦になっていたら、ときどきこんなことがあるのだけど、天のいたわりのようにかなりな雨が降ってくれて、神だか仏だかご先祖だかは、私を見捨ててないと感謝した。

そんな中でテレビを見てたら、大河「べらぼう」で吉原の花魁をやっている女優さんが出てきてしゃべっていた。かわいい、きれいな、感じのいい方で、収録の苦労話や遊女を演じる工夫などをきびきびと話しておられて快かった。司会者の三人も節度がきいた楽しい対応をしておられるし、視聴者の寄せるメッセージやイラストも、とことん明るくて感じがいい。多分、売春や吉原を語る上で、これ以上のものは望めないというぐらい、配慮も精神も完璧な番組だった。

それでも、それだからこそ、見ていると、やはり居心地悪く、悩ましかった。本来は白日のもとで語られるべきでないことが、さらさらと健全に開陳され受容されて行くことへの、悶えのような感覚が消えない。

大学教員として江戸時代の文学を教えるのに、遊里や遊女は避けて通れない。それが悲惨な許しがたい、卑しく理不尽な売春制度であることは決して忘れず、でもなお、その中で花開いた文化やさまざまな美しさ、そこで生きる人たちの不幸だけではない幸福や誇りを、学生たちに伝えることは容易ではなかった。自分自身が学生として講義やゼミの中で味わい続けた、それは現実の毎日ともつながる不快感や矛盾もよみがえらせるものだった。

そして毎年の学生たちのレポートに「このような制度は許せない、嫌悪感しか感じない、絶対に否定する」と断じるのと、「細かく読んで知ってみると、遊女の暮らしも楽しそうで体験してもいいかと思う」というのと、両方の内容が、同じぐらいに登場するのに、満足と安らぎと達成感といらだちと自己嫌悪と罪悪感を、こもごも感じて落ちこんでいた。

その時の感覚をあらためて思い出す。

Twitter Facebook
カツジ猫