病巣は深い
仕事がのってて、忙しくて、フジテレビの10時間会見も全然見てない。でも、見てなくて、数十秒のちらっと流れる映像を見ただけでも、頭に血がのぼって気分が逆なでされるのも、ある意味すごいっちゃあすごいな、私もフジも日本も。
何がそんなにムカつくかって、フジテレビ側が、中井氏のレイプ事件を知りながら、彼の出る番組をそのままにして、これといった対策を(週刊誌に暴露されるまで)何もとらないでいたことについて、
「そっとして、広く人に知られないようにしておくことが、被害者の女性を守ることだと思ったから。その配慮だけが一番だった」
みたいなことをくりかえしてるだけで、結局それしか言い訳がないらしいこと。
それも、それをまったく本気でそう思ってて、信じていて、多分それがどこか悪いところがあるなんて、きっと夢にも思ってないだろうことが、わかること。
当然、「それが被害者を思いやることになるのか。ならんだろ」という批判もものすごいわけだけど、私にはわかってる。本気でそう思って怒ってる人も多いだろうけど、それ以上に、ものすごく多くの人が「なるほど」「それはそうだろうな」「まあ、言い訳としてはそれしかないだろうな」とか思っているに決まってること。
どうしてそう思うかって? 私はずっと大学につとめてて、教員として、学生指導とかトラブル対処とかにも平常普通にあたってた。私だけではなく教員はすべてそうだった。
まじめな学生が多い大学だったと思うけど、万引きとかレイプもどきとかも何年か何十年かに一度か二度は起こった。私の身近でもたしか一度、女子学生のトイレがのぞかれるような事件が起こった。ものすごく身近な学生ではなかったから、詳しいことは覚えていない。その中で、どうにもこうにも、もやもやして不思議で、いまだに覚えている点が二つある。
一つは、講座会議で対策を話し合ったとき、私と同年齢の講座では中心の責任ある立場だった男性教員が、一も二もなく、「女子学生を守らなくてはならないから、ことを大げさにしてはならない。詳しいことを聞いてはいけない」という反応をし、その態度を貫いたことだ。
私は彼とほぼ同等の立場で発言権もあったし、個人的にもけんかもすれば協力もする、友だちに近い関係だった。私は女性差別については過激で敏感な方だったけど、性犯罪や性被害についての常識や知識にはそれほど自信がなかったから、「そんなものか」と何となく思って、表立っては反対はしなかった。というか、え?という感じしか持てなかった。
彼も私も勇敢で孤立も対立も恐れない人間だったから、思えば彼がはっきりとそういう態度を示して発言したのは、彼が誠実でまっとうだったからでもある。他のメンバーは特に発言や反応をしなかったから、どう考えていたかはわからない。
ただ少なくとも、「それはちょっと、ちがうんじゃ」みたいな発言や態度をした人はいなかった。もしかしたら、ぬれぎぬかもしれないが、ほぼ全員が「そうね、こういうことは騒ぎ立てると女性の被害者を傷つけるから」と思った可能性はあると思う。十数名のメンバーの中には女性教員も数名いたが、そんなこととは関係なく。
もうひとつ、強烈に印象に残っていること。私はその後に一応被害者の女子学生たちと会って、話を聞いた。その時に彼女らの態度にも表情にも恥じらいやら暗さやらはまったくなかった。屈折や怒りのような被害者意識っぽいものさえなく、交通事故やバッグのひったくりにあったのとまるで変わらない、あっけらかんとまっすぐな明るさで、彼女たちは被害状況を説明し、告げた。
彼女たちは自分たちが被害にあったことに、罪悪感も責任感も、かけらも感じていなかった。同僚の「大げさにしたら彼女たちを守れない」発言を聞いてなかったら、それは私自身の感覚とまったく同じものだったろう。当然のものを当然のように見たことを私は喜ぶよりも、同僚たちの常識や感覚との大きなずれを感じて、自分たち(女子学生たちと私)が少数派なのかどうかも判断できない、微妙だが強い違和感だけが刻み込まれた。
事件がどう解決したかは覚えていない。同僚たちの「こういう時は被害にあった恥ずかしさや罪悪感から女性を守らなければ」という感覚があってもなくても、その過程にも結果にも、特に変わりはなかったと思う。そうであってほしい。あの女子学生たちが、私の態度や事件への講座の対処に、違和感や不満を感じたりしなかったことを願いたい。しかし、自信がない。
思えば痴漢被害にも共通する私自身の性被害を、きっちり総括し整理してなかった私自身の弱点も、あのとき現れたのだろう。
フジテレビの会見を見聞きすると、その違和感がよみがえる。こんな理屈と感覚が十時間に及ぶ大メディアの弁解に、今も通用することに、不快と不安がひたすらつのる。くり返し、私は問いたい。本当に「性被害の隠蔽は被害者を守るため」という理屈にどこかで、しっかり納得している人たちは、いわゆる左翼やリベラルの人の中にさえ、相当数はいるのではないか。腐った騎士道精神、ゆがんだ保護者意識が、まだまだただよい、よどんでいるのが、今の社会の実態ではないのか。
あの女子学生たちの一点の曇りもない、明るいまっすぐな笑顔が、今でも私の目に残る。支えられるよりも、後ろめたくて心が凍る。