結局そこかよ
私は涙腺に支障があるのじゃないかと思うぐらい泣くことはないのだが、今朝の朝ドラ「あんぱん」では、危うくほろっと来そうになった。ヒロインが夫の撮った自分の写真を見ていて(これがまた、どれもこれもいい写真で、撮っていた夫の愛情がレンズ越しに、ひたひたと伝わってくる)、中に夫自身のも一枚あるので、こちらとしては、あらーよかったねととっさに思うのだが、妻は「ごめんね、これは私が撮ったから下手でピントがぼけているよね」と思うのだ。
それでものすごく悲しくなったのは、何をかくそう私が初めて自分が一人で飼った猫の「おゆきさん」のことを書いた「雨の日のある町から」のエッセイの一部を思い出したからだ。田舎の実家で飼っていたたくさんの猫たちの中に、白の多い三毛猫の「マダム」というのがいて、庭に侵入して来た近所の犬に応戦して、かみ殺された。昔のことで、猫の写真など撮ってなかったから、母は彼女を埋める前に写真を撮ったが、それも昔のことだから、ピンボケのしか撮れなかった。「雨の夜のある町から」の一節を引用しておく。
私の愛した猫たちは、皆、死ともつれあうようにして私の前を陽気に走りぬけていきました。中でも忘れられないのは、マダムという猫の死です。まるまる太った、白の多い三毛で、きらきら光る金色の目をしていました。人なつっこく、明るくて、子育てがうまく、かしこくて、恐れを知りませんでした。猫ぎらいの祖父からさえも愛された唯一の猫で、年をとっても、つやつやふかふかして、すばしこく、気さくでちっとも高ぶりませんでした。大抵の猫は年をとると少し気むずかしくなり、飼主に対しても威厳をもって対しはじめるのに、彼女は私たちといつまでも友だちづきあいをし、卑屈なところのない、元気いっぱいのサービス精神で愛想をふりまきました。大学に入って家をはなれた私が、休みに帰省し、また学校に戻るとき、彼女は自分の仕事を心得た、楽しげな顔で、先回りしてへいの上にかけ上がり、つつじの植えこみのかげから最後まで私を見送ってくれました。まだ若かった私には、家をはなれて学校に戻るのが少しつらいときもあり、そんなとき、最後に別れをつげるのが、母や祖父母でなく、金色の目の、ふかふかした白い小さい毛のかたまりだということは、ふと心を軽くする救いにもなったのです。マダムの別れっぷりは、しつこくなく、さらっとしていました。「行ってくるよ、マダム」と、のどを鳴らしているまん丸い頭をなでてやって、ずっと遠ざかってから、駅への曲がり角でふり向くと、いつでも濃みどりのつつじの茂みの間に、まだぽつんとあざやかに、輝くようにまっ白い、小さな点が見えるのでした。彼女が近所の家の大きな秋田犬にけんかをふっかけてかみ殺され、一晩苦しみぬいて、それでも最後まであいそよく、ごろごろのどを鳴らしつづけて母たちに愛嬌をふりまいて死んでいった、という手紙が来たのは、私が大学を卒業する少し前のことでした。母は書いていました。
「久しぶりで私も涙が出そうになったよ。庭のなつめの木の下に埋めた。あれの写真はなかったからね、そのまま埋めるのがもったいなくて、何枚か写真をとった」けれど、その日が雨ふりだったせいか、できあがった写真はぼんやりぼやけて、黒い土の上にだらりと横たわったマダムの死体はセメントのかたまりのようで、何なのかもよくわからなかったのです。あの手紙をうけとったときの悲しみと怒りと空しさを、今でもすべて、私は思い出せます。秋田犬は庭に入ってきて、それにマダムはおそいかかったのです。庭に入ってくる犬は皆追い出す、ファイト満々の猫でした。動物どうしのけんかは負けた方が死ぬしかない、それが彼らのおきてなのだ、とわかっていても、私はマダムをかみ殺した犬が憎く、それをどうしようもないことに、やり場のない深い無力感を持ちました。これは、抱いてはならない憎しみや怒りでした。しかし、もしそうしたら、これっきり何を恨むことも憎むことも許されず、どこにも誰にも、どんなことも訴えることができないとしたら、いったい、マダムの死とは何なのか。マダムとは何だったのか。そう思わずにはいられませんでした。いつも、ふり返ると必ず私を見送ってじっと動かずにいた、まっ白く、小さな点。あれはいったい何だったというのかと。そう、それは、たかが、猫でした。猫にかぎらず、たくさんの鳥や、リスや、犬や、山羊の一生を私は見てきました。どの動物も私にとっては、一ぴきであり、死は、かけがえのない一ぴきの消滅でした。しかし、それは皆、たかが、動物なのでした。彼らのために泣くことは、いく分異常で、こっけいで、感情的で幼稚なことと思う人が多いのを私は知っていました。つきつめれば私たちは獣肉を食べ、医学実験に動物を使い、ゴキブリやハエを殺して生きているのでした。それを思えば、猫は、たかが猫、と思うべきであり、その死に涙することは、偽善でもありました。私はそれらの考えに反論ができません。そして猫のために泣くことがこっけいと思う人がこの世に一人でもいる間は、猫のために私は泣く気はありません。私はとにかく、私の猫たちを、誰からもこっけいだとは思われたくないから。こっけいなものにされたくないから。だから、どんなに愛した猫の死にも私は涙をこぼしたことはありませんし、これからもないでしょう。「たかが猫」と私は自分に言いきかせ、涙を押しやり、忘れます。しかし、そうやって自分に言いきかせるたびに、心の中で一つのこだまがひびくのがわかります。「たかが、人間──」と。猫や、動物たちの死に涙しないでいいのだったら、人間の死にも苦しみにも、泣く理由はないように、私は思ってしまいます。それは理屈ではなく、心の中にひとりでにおこる共鳴音のようなもので、どうしても消すことができません。
ついつい長くなっちゃった。つくづく思いますが、私は何でも猫に置きかえないと、悲しみも喜びもいまいち実感できないのかなあ。それにしても、私がこれを書いた数十年前に比べると、今は動物のために泣くことも、別に全然こっけいではなくなっているようで、時の流れを感じます(いいことです)。
人間に話を戻すと、戦争で生きて帰って来ても、その後病気で亡くなる人を見ると、思い出すのは小説「チボー家の人々」のアントワーヌです。エリートで優等生で優秀な医師だった彼は、第一次大戦に行ってドイツ軍の毒ガスを吸い、戦後の長い闘病生活の中で、反戦運動に命を捧げた弟ジャックの忘れ形見の幼いジャン・ポールへの遺言のような長いノートを書きつづります。中学生のころ読んだ私には、現実の生活以上に彼らは親しい身近な存在でした。じわじわと蝕まれていく肉体、すぐれた医者だっただけにその病状を理解しつつ否定しようとする果てしない苦悩。それを自分のことのように味わいつづけました。
アントワーヌには、「あんぱん」ののぶさんのような愛する妻はいませんでした。激しく謎めいた恋の思い出はありましたけれども。次郎さんの病死を見て、アントワーヌを見守った日々のことをあらためて生々しく思い出しています。当時はずっと年上の大人だった彼が、今では私の孫ぐらいの年ですけど。
写真は、ピントのずれてない「おゆきさん」の写真。目ぢからがありますでしょ。