羊がいっぴき
埼玉の陥没事故が気になってならない人はきっと多いだろう。私も毎日何だか落ち着かない。現場の人が一番やりきれないだろうのは、よくわかっているし、素人が何ひとつわかるわけではないけれど、これだけ文化が進んで、防衛力だの何だのが世界で一二位だか何だか知らんがそれに近くもなってるような国で、穴に落ちた高齢者一人引っ張り上げられないなんて、わけがわからない、信じられない。
私が小さいときから、家の壁にはってあった、イエス・キリストの小さい絵がある。古びて色あせて、それでもなつかしいから、ずっと持っていて、今もベッドのそばの壁にはっている。野原の小川のそばで、白い衣のイエスが、小さい子羊を抱いている。どうということもない絵で、価値にしたら五十円にもならないだろう。
こちらは、おまけで。数年前に買って、絵の横に置いている羊のぬいぐるみ。毛皮をはずして、脱がせられます。FERISSIMOさんの製品ね。
母がこの絵のモチーフについて教えてくれたのは、イエスは九十九匹の羊を放っておいても、迷子になった一匹の羊を見捨てないで救いに行くのだということだった。そんなものかと思ったし、そのモットーにも、幼いなりに突っ込みどころは満載のような気がして、深く理解もしなかったし強い衝撃も受けなかったし、まさにスルーしてそのまま成長した。
なのに、気がつくとそのイエスの姿勢を一度も否定したことがない。拒否したこともない。いつも心のどこかで、その姿勢を住まわせていた。
ただ、それだけのことである。でも、だからやっぱり、この事件のことが頭から離れないでいるのだろうとは思う。議論も分析も主張もする気はない。ただ、私の中から、この意識は今のところ、どうしてももぎとれない。聖書の教えとかとは、多分何の関係もなく。
他にもあるかもしれないが、日曜学校で習ったかどうかして、当時私が知っていたのは、この歌しかなかった。何となく、今でも歌える。母も私もキリスト教徒ではなかったが、一家が長崎の出身だったのもあって、何となくなじんでいた文化だったのだろう。