地下室の棚「脇役論」まえがき

1 「私これで帰りますと席を立った」

友人の一人に、女では珍しい役職について、がんばっているやつがいる。
当然、敵もストレスも多いらしい。しかし、彼女は、ほっそりとしておとなしげで、声も態度も優しいわりには、したたかで手ごわい(「鳩時計文庫」の「従順すぎる妹」のモデルである)から、けんかしている相手の方がストレスは多かろうと、私はひそかに同情している。
めったに会う機会もないが、たまに会うと彼女は職場での、そのような戦いについて少し話してくれる。その時、彼女が言ったことだが、そういう毎日が終わって帰ろうと、駐車場から車を出す時、ひとりでに口をついて出る歌があるそうだ。
「わたしこれで かえりますと せきをたった――って言う歌なの」と、彼女は歌って見せた。「知らない?」
知るものか、と私たちは口をそろえて言い、彼女が、あなたたちも何かそういう歌とか決まり文句とか、自分でも気づかず口にしてることない?と聞くので、あるもんか、と私たちは皆、首を振ったのである。

2 「よしてくれよ、この空模様だぜ……」

しかし、それから間もなく気がついたのだが、これが私にはあったのですね。声に出して言うとは限りませんが、相当の頻度で、頭の中やら口の中やらで思わずつぶやいてしまう、決まり文句ってやつが。
それが、これでした。「こんな日に舟を出せるもんか」。
つぶやく場面はいろいろである。ろくに寝てなくて食べてなくて、疲れ果てて、もう今日は帰って寝ようと思ってるところに深刻な顔した学生が来て、就職だの恋愛だのの相談を持ちかけてきた時。若い先生が仕事を押しつけられて息切れしそうになってるのが分かって、こっちも忙しいのだけど協力しなきゃ、相談にのらなきゃと思う時。会議の席で、これを言ったらまた敵が増えるなあとか、皆に恨まれるなあとか、でもやはり、これはおかしいから反対しなきゃと思う時。意見広告を新聞に出すので名前を出して下さいと言われて、趣旨には賛成なんだけど、ちょっとヤバいかもと思う時。要するに、社会人として大人としての自分の良心や誠実さが試される時だ。そういう時、つい、このせりふを言っている。
「こんな日に舟を出せるもんか!」になるか、「こんな日に舟を出せるもんか――」になるかは、その時の状況や気分でちがう。さらに状況や気分次第、その頃に見た映画や読んだ小説次第で、せりふが勝手に付け加わることもある。「考えてみなよ、この空模様だぜ」とか、「あんたには気の毒だけど、そんなことしたら、この俺の命がなくなるんだよ」とか、「あんたには同情するが、おれだって自分がかわいいんだよ」とか、「おれにだって妻や子がいるんだよ(いませんけど、飼い猫しか)」とか、「忘れてくれ、もう昔の私じゃない」とか、「あの荒れ狂う湖を見ろ、どんな舟でもひとたまりもない」とか、「いいから静かに死なせてくれ」とか、「しょせん、おれはただの興行師だ」とか、「よりによって、なんで、おれなんだよ」とか、「英雄ごっこはもうやめたのさ」とか。はっはっは。書いてて何だか、自分でも力が抜けるなあ。

3 「追われています、助けて下さい!」

要するに、文学作品ではしょっちゅうと言っていいほど、登場してくるパターンである。正義の味方が必死で逃げる。悪人は後から猛追してくる。つかまったらもう命はない。と、前方に荒れ狂う川。舟がつながれた小屋があって、老人がそばで煙草をふかしている。傷ついて、疲れ果てた正義の味方は、その老人にとりすがる。「ご主人、追われているんです。舟を出して、向こう岸まで、渡して下さい!」
私は、どっちかというと昔は、頼み込む立場だったこともあったような気がするのである。そして、いろんな人たちに舟を出してもらったような気もするのである。そんな、ありがたいこと、ちゃんと覚えとかんかい、と言われそうだが、こういう時のことって、なかなか覚えてはいられないもののようだ。というより、頼み込む時は、いつも必死で夢中だった。逃げつづけていた人間には、川っぷちの小さい小屋に住む老人の生活はまだわからなかった。川を渡してくれるということが、彼にとってはどんなことかも、その時は考えなかったし、わからなかった。
ただ、私の中には、やはりそうして川を渡してもらった記憶が身体のどこかに残っている。だから「こんな日に舟なんか出せねえよ」と言うのが、うしろめたいのだと思う。

4 「ああ、今度こそ帰れない」

そう、ある時期……多分、十年か十五年前ぐらいから、かなりしょっちゅう、「舟なんて出せないよ、こんな日に」と私はつぶやくようになった。  そういう立場になった、ということなのだろう。就職し、年をとり、それなりの仕事をし、評価もうけた。ローンを組んで家も建てた。何冊か本も出版した。
私の川っぷちの小屋は、とても粗末なボロ家だが、さしあたりそこでの暮らしに不自由はないし、それなりの苦労の結果でもある。  息を切らせてとりすがる正義の味方は、見知らぬ人でも、私にはどういう人かわかる。自分がかつて、そうだったから。その見知らぬ人のために、妻や子のこともかまわず、舟を出して、荒れ狂う波にのまれて死んでも、あるいは、首尾よく向こう岸に送り届けてもどった後で、追いついてきた悪い代官に、小屋は焼かれ、妻子は殺され、自分は牢屋にぶちこまれ、でもって、川を渡してやった正義の味方は、そのことを知らないし、私のことを思い出しもしなくても、それでも、……しかたがないだろうなあ、という気持ちが私には、やはり、ある。
「舟なんて出せねえよ」と言いながら、かなりの頻度で結局私は、たびたび舟を出したと思う。
今度こそは、もう帰れないぞ、と時には覚悟を決めながら。

5 「わしも、年貢の納め時よの」

そう、はやばやと白状してしまおう。
このコーナー、「脇役論」とは、半分名ばかり、半分世を忍ぶ仮の姿で、私が書こうとしているのは実は「大学論」なのだ。
大学について、私たち大学につとめる研究者について、この数年、嵐のようにいろんな事が語られ始めた。
だが、その中には、あまりにも大学が今どのような状況にあるのか、学問や研究とはどんなものかということについて、私の感じていることとはちがった意見が多い。
わかってもらえていない、と嘆く前に、自分の知っている事実だけでも、たくさんの人たちに私は伝えて、そして、判断してほしいと思う。
私は大学や大学人を代表する立場にはいないし、こういうことをいろいろ書くのは、難しいし、怖い。
荒れ狂う川に舟を出すように。
追いかけてきた人たちに、小屋を焼かれるかも知れないし。
こんな日に、舟なんて出せるもんか …… と、今もまだ、私はつぶやいている。
よりによって、この空模様だぜ。
独立行政法人化といい。定員削減といい。教育大学の統合といい。
やれやれ。今度という今度こそ、わしも年貢の納め時かね。なんちゃって。
でも、半分、と言ったのは、「脇役論」も書きたいからだ。
これはこれで、やっぱり面白いし、何より心の励みになる。
戦いの参考には……多分、ならんでしょうなあ。
ということで、このコーナー、大学に関するおしゃべりと、脇役に関するおしゃべりが交互に登場いたします。こうご期待……うっ、つまらん洒落を。

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カツジ猫