とみのさわコーナーセレナアド─LUNATIC STORY─

明日は日曜日である。その前夜、W倶楽部の九号室で五人の大学生が茶を呑みあつた。話は別にない。いつもの雑談である。心に名誉と奢侈《しやし》とを望む報告である。一週間、それ以上も堆積されてゐた精神上の饑渇の哀訴報告集会である。平素の通り哄笑も起る。煙草の吸殻は茶碗のなかで、捨てられたのを叱るやうにブフツと叫ぶ。が、その叫びは誰の耳にも響かない。話の行詰つた者はふいに立ち上がつて便所へ逃げる。そのたびに鈍い烟《けむり》雑《まじ》りの空気が電燈の周囲で左右に揺れる。額縁のなかで西班牙《スペイン》女が踊つてゐる。そこへ黄いろい光が射すと、一同はゐずまいを直す。一様に眼がそこへ注ぐ『額縁詩』が各々の胸に感じるのである。時は三月末なのである。暦では春と言ふ。春は椿の次に風信子《ヒヤシンス》が咲くのである。西洋でも日本でもこれには変わりがない。
誰か呼鈴を押す。暫く経つても返事がない。仕方がないからまた押すのである。階段が跫音《あしおと》で軋る。ドアが徐かに開く。と、その入り口の隙間から煙が白く太い筒になつて飛び出る。
女中は一同を見廻してから、生へ下つた頭髪のため額の見えない男を見る。彼はこの部屋の主人なのである。彼の女は口を噤《つぐ》んで佇《たたず》んでゐる。誰も女中などには注意しない。女中を呼んだことなどは忘れてゐる。
『三毛が、三毛が………』
女中は、二日前から主人に言ひつけられた猫の名を、まだ口の中で呟《つぶや》いてゐる。
こゝの主人にも、女中にも、胸がないのである。心が岩塊なのである。従つて何事も感じないのである。彼等の性分に反抗してくる他のものの姿が見えると、それを否定してしまふ癖がある。それが自然の意志であらうと、また何であらうと――
女中はドアを開けたままで、左足を膝から折つて跛のやうに傍に靠《もた》れてゐる。床がドンと鳴つた。眼鏡玉《めがねだま》が四ツ光つた。学生の一団は固唾を呑んだ。
『吃驚した!』
『遅いぢやないか?』
頭髪で額の見えない男が口を尖らした。
『三毛が見えない? それが己たちにどうしたといふのだ。』
『すみませんでした。』
『いつもきまつてらあ。菓子と茶の追加だ。』
暫く一同は沈黙を楽んだ。絶えない川瀬のひびきのやうな空気が戸外で楽を奏してゐる。ぢ、ぢ、ぢ……と耳の底に流れてくる。それは風でもない。十二時近い春の夜の奏楽である。夜声といふのか大学生にもその原因が分からないのである。風でないことは慥《たしか》である。
『月が出てゐる!』
一同は突然頭を擡《もた》げるやうに窓の方を覗く。平びたい屋根と枝々の青ばんだ独立木の間からまんまるくはない月が藍白色の空に浮いてゐるのが見える。下手な舞台の背景によく見られる光景である。
『おお、おお!』
胸を我が腕で抱き締めた。その男は自分を『僕』と呼んで物を言ふ癖がある。勿論これは癖には違ひないが、この連中では誰も余り注意しない癖である。
一同には、この新しくもない倶楽部が、今夜といふ今夜程、何か神秘な不思議でも秘められてゐるやうに感じられてならない。月は独立木の枝に貼付けられてゐるやうに動かない。魔法の覗き眼鏡《めがね》!と、誰かが呟いたのか、一同の心には、さう感じた、その窓はいつか誰かの手で開けられてゐた。
屋根の薄闇を猫の影が馳けて行つた。
見えない所では猫は太く喉笛を鳴らした。
『三毛、三毛………』
『三毛、三毛………』
倶楽部の主人と女中との声である。
ヅンとトタン張りが鳴つた三匹の猫の姿が、一瞬、月光に黄いろく輝いた。一同の視線は闇のなかに突射る。一段低い瓦の列の山が白く光つてゐる。
『馬鹿な、チイ!』
『いまいましい奴等だ。』
額の見えない男が、『僕』の肩に両手を載せた。
『赤ん坊が屋根の上で泣くと猫が仔を孕む!………』
かう『僕』は詩人らしく嘯《うそぶ》いた。
大きな笑ひが天井に反響した。
『僕』は得意な容子をする前に、この言葉が『真《しん》』になれかしと彼の胸中で祈つたのである。
『その意気の乾びないうちに、カフエへ行かう?』
微笑みを含んだ、頬骨の高い男が立つて、マントのフツクをかけながら渋みのある声で言ふのである。
『僕』の眉はきツと微動した。
眼鏡をかけてきざ《傍点》に頭髪を縮らした男が、内懐中《うちふところ》に手を入れて紙入れを握つてみる。誰も感じない動作である。額の見えない男は、西班牙女の額縁を見上げながら茶碗を一ツ灰皿のなかに入れた。彼は帽子のありかへ眼を向けてゐる。それでもまだ腰掛を離れないのである。ドアが三遍勢ひよく風を切つた。
『僕』は顔を顰《しか》めるやうにしてその風を防いだのである。
十五分後、青電車を降りた学生の一団は、細い、藍白色の空が一すぢに見える小路に吸はれてゐる。高い笑声の間にピアノのひびきがかすれて流れる。唾を吐く音がすると渋みのある声が物を言ふ。小便をして遅れてゐる友達を呼んでゐるのである。
蒸返し爛れた悪臭のなかから『いらつしやい!』と疲れた声が優しく響く。店はぼんやり朧ろな光に渦巻いてゐる。蒼白い旋律がその渦のなかで舞踊をつづけてゐる。カツプは泡を沸いたまま宙を泳ぎ廻る。ピアノの蝋燭が消えると奏楽は歇《や》む。マツチを擦つた音は黄いろい光芒と変る。その刹那、背広服がその光芒を吹き消す。鈍い眼が光る。白いエプロンは声を呑んで、薄闇の明りへ跳び出る。
『桃子、弾け、もつと弾け!』
店の隅から息切れのする短い声が命令する。
学生の一団は会社員風の一群と退陣して居る。ビール瓶は砲弾のやうにテーブルに並べられて行く。
『アインスタインは宇宙の支配者である。』
会社員の一群の一人が左手を揚げて叫ぶのである。彼はそのついでに下げる手先で鼻先から口辺を撫で擦つた。
『トルストイは人神である。彼は宇宙の立法者である。』
応呼した額の見えない男に続いて、一同は異口同音に、最後の句を繰返したのである。
店は縦波を打つてどよめく。カツプに酒を注ぐ音が突然起る。と、それは、柱時計の脅迫がましいビーン《傍点》といふ響に打ち消される。たつた一ツきりであとは脅かさない。生命が警告的に現れたのである。一は二の半数である。十の十分の一である。店には瞬間の沈黙が溜息を漏らした。黄いろくなめらかに輝いてゐる空気は、横に流れて、異つた声が恐る恐る帳場越しに『皆さん、時間が迫つて居ります………』と重くるしく淀む。日本服を着たロシア人である。彼の顎に鬚が生へてゐるならコロレンコそつくりの容貌である。彼の眼は鶏のそれのやうに茶色にチラリと閃く。
『桃子、弾け、弾け!』
『律子、唄へ、唄へ!』
店の一団は足並みをそろへて気勢を揚げる。
桃子の指が十本揃ふて空気を敲《たた》き始める。
律子の頬が二重に脹れると、白い歯が唇の蔭で空気を噛む。
音階は眩暈の波を描いて飛び散る。
青は白、黄は青、白は青、紫と黒、そして逆流し、横流し噴水の如く上流して真珠と砕ける。渦と旋風はよろめき喘ぐ。そして忙しく荒れる。
天文学者は天候を予報するであらう?
窓が震へた。風が白馬に跨り笛を吹いて通つたのである。そのあとの夜番の呼声が追ふてゆく。跫音はしない。拍手が鳴る。喝采が響いた。彼らは満足したのである。狂気したのである。酒に酔ふたのである。
『私は二階からキツスを投げたのであります!』
ピアノの前に二人の女が佇んで微笑みの影のみを見せる。
額の見えない男は頬骨の高い友達をぢろりと偸み見した。良心には黒い斑点が一滴ぽつたりと滴つたのである。彼は歯を食ひ縛つて瞼を閉ぢた。
銀色の死の影は店のなかに忍び這入つた?
鬚のないコロレンコは女の方を睨む。それは機械的にである。彼の眼は幸福な夢を夢みる人のやうに憐れ気に涙ぐむと同時に笑つてゐるのである。鶏の笑ひや涙を見たことのない者には、彼の心裡が分からないのである。
肉体の疲労は精神を虐げてゐる。
踊る勇者は幸ひなるかな?
鬚なしのコロレンコの眼はチラリと輝いた。星が瞬いたやうにである。
満月の如く銀板を肩に懸けたボーイが調理場に隠れる。彼は走らないのである。歩いたのである。
笑つてはいけない。銀色のオーバアコートが、ピアノの前に打俯して掛けてゐる。彼はタイプライターを打つてゐる。それは或時の彼の姿なのである。彼の右手の指先を見給へ。右往左往飛んでゐるではないか。彼の神経は吃驚してゐる。彼は夢のなかで請求書を書いたのである。そして彼は、こつそり《傍点》と禿頭の眼鏡を盗んで、ローマ字のラヴレターを打つのである。音階はじれつたそうに、125313………と跳び廻つてゐる。
コーヒー茶碗から白煙が光線のやうに漾《ただよ》ふ。匙がカツチリ瀬戸物にかちあふ。
――ポタリ――ポタリ――水滴の音である。
桃子がこれを気に病んでテーブルの周囲を巡る。風信子もろとも花瓶が倒れてゐる。桃子は嬌羞を罩《こ》めた指先で、それを立て直し、水差しを取りにゆく。額の見えない男が頭髪を掻きあげると、額がちらりと光る。水差が反射したのである。頭髪がバラバラツと眼を遮る。彼はすばやく右手を鼻先で振つた。
『アラ、アラ!』
『何だい?』――息苦しい声である。
ガラス花瓶がテーブルの下で砕けてゐる。風信子は露を含んだやうに破片で輝いてゐる。
顔をあげた者は更にない。
律子は身を震はした。
白馬に跨つた風が、思ひ出したやうに笛を吹きながら馳け過ぎる。
『私は二階からキツスを投げたのであります!』
極く微かに風が囁いて行く余韻が柱時計の下で消える。
十秒――五分―― 物憂い真夜中の疲れたストーヴの燃えさしが、バツチリはねる。
律子は頬骨の高い男にマントをかけ直した。
片眼が鋭く光つた。額の見えない男は顔の向きを変へた。皆、瞬間である。
五十秒――三十分――
店にのこされた眠れる男たちは動かない。
白馬が屋根を走ると、電線は月光に震へた。
『あツ!』
ドアが二三度蝶番《ちようつがい》を軋つた。
頬骨の高い男が口にカツプを噛み砕いた。
『人殺し!………』
縦横に声が空気を切つて飛ぶと、跫音は床を蹴つた。
頬骨の高い男の背中には、フオークが突立つてゐる。柄の半分も見えない程深く差込まれてゐる。彼は痛くないのに違ひない。微動だにしないで打俯してゐるからである。
人々は失踪者のあとを追ふた。
律子は身を震はした。
赤い電燈が点《とも》つてゐる。電車の停留所である。そこを曲がる時、人々は赤い街路樹の影を踏んだ。カフエは見えなくなつた。額の見えない男が先導になつたのである。彼は疾走者を抜いた。三間、四間………二十間、三十間………白く吹き散るのは、彼の息である。
………落伍者が銀行の入口の階段に腰をへし折つて顎を垂れる………咽を掻きむしる………
十字街の電車軌道で、失踪者はその行先に迷ふてゐる。額の見えない男は両手を拡げて声をあげながら馳け寄る。もう五間とは離れない。いまひと《傍点》跳び!
失踪者は左に折れる、と、彼は三角形の一辺を利用した、二ツの影が縺《もつ》れやうとする。二ツの姿が抱きあはうとする。瞬間、額の見えない男は失踪者を背負ひざま、足を浮かして地上に倒れた。額を掻きあげながら、彼額の見えない男はぬつくりと立ちあがつた。彼はただ一人であつた。彼は疾走者の馳けてくるのを一瞥してから天空を見上げた。

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