ラフな格差論1-ヒーローたちの悲鳴が聞こえる

やってらんないぜ

「アイ・アム・レジェンド」もそうだったが、ウィル・スミスの映画は前半で実に面白いテーマを提供し、後半はとってつけたようなばたばたのお決まりの活劇とハッピーエンドでしめくくる。だが後半の大ざっぱさを金もうけのためとあきらめてもお釣りが来るぐらい、前半の問題提起は面白いから許す。
「ハンコック」の映画もそうで、飲んだくれてぐれて貧しくて礼儀正しくないが大変な能力があって、楽々と人助けや悪人退治ができるスーパーヒーロー、超能力者はどうやって大衆の人気者になれるかという視点はなかなかに新鮮で鋭い。

後半の無茶な展開でどうつじつまをあわせようと、この映画で最も印象に残るのは前半の、ぐれて、やる気のないヒーローの姿である。そして、さほど熱心に見ているわけでもないが、ここのところのアメリカのこの手の映画には、こういう姿勢のヒーローが増えている。彼らの原典であるアニメの世界ではどうなのかは暇がないから検証していない。映画に限った話だと、「スパイダーマン」「ジャンパー」「ハルク」、この「ハンコック」など、常人にはない能力を具えた主人公たちは、不正と戦い正義を守ることにあるいは逡巡しあるいは抵抗しあるいは初めからそんな事は考えないか、あるいはそんな事どころではない。

昔は優等生

昔の「スーパーマン」などではヒーローたちはそんな迷いや疑いは持たず、自らが与えられた優れた能力とセットとして、正義を守り悪と戦い弱者を救うことを運命として受け入れた。現在のヒーローたちがそうしない、またはできないのは、「すぐれた能力を持ち、恵まれた才能を持つなら、世の中をよくし、弱い者を助けなければならない」という常識が崩れ始めているからのように私には見える。

たとえば男なら女を守るものだった。若者は老人を、大人は子どもを、支配者は自分の民を、教師は生徒を、守るものだった。エリートはそうでない人々を金持ちは貧しい人々を、先進国は発展途上国を救うものだった。強者は弱者をかばい守り、そのために生きるのが建前だった。それは報酬を要求するものではなく、人に知られてはならない無償の行為であるべきだった。だからこそヒーローは仮面をつけたり変身したりもした。

実は私はこの方面の知識に詳しくない。仮面ライダー、ウルトラマン、どれもほとんど見ていない。だから、見ている人が調査も考察もしてほしいものだが、おおむね昔のヒーローは自分の苦労を人に見せず、恋人や家族にさえ見せず、弱音を吐かず、いつも余裕で笑っていた。最近のヒーローたちは疲れ、迷い、息もたえだえで人を救い悪を倒している。
あるいは昔からそうだったのかもしれない。だが、そんな彼らの姿は描かれなかったし、誰も見たいと思わなかった。

能力があるからって

こうなった原因はさまざまだろう。だが、その中の一つは、何かを得た人、地位や財産や名誉など、他人が望むものを得ていわば「人の上に立った人」が、その幸福や満足を他人や社会に還元する必要を感じず、その幸福や満足を独り占めして使い尽くすことに後ろめたさをまったく持たず、その状態をかちとったのは自分の努力や能力の結果と胸を張って言えるようになって来ているからではないか。

自分が恵まれているからと言って、他者よりすぐれているからと言って、どうして他人のために何かをしなくてはならないのか、見たこともない他人を救わなくてはならないのか。そういう思いが広がっている。私はそのことを悪いこととは思っていない。あなたはすぐれているから、あなたは強いから、あなたは恵まれているから、そう言われてがまんさせられ、耐えてきた人々は男女を問わず年齢を問わず、いつの時代にも大勢いた。ヒーローのように、彼らは無言で無償で、周囲や他人のために戦い、身をささげて生きた。

ヒーローをなくす努力を

連載の第一回で、いきなり結論を言おう。これからの世の中に私はそういう存在は作ってはならないと考える。そういう存在を生みださないために何をしなければならないかを、誰もが考えるべきである。音をあげ、ふてくされるヒーローたちの描写は、たとえ映画の後半で、言い古された凡庸な理由で彼らの悩みが解消され彼らが再び悪と戦い正義を救うという無難な結末でごまかされるにしても、やはりそういう問題提起をしなければならない、時代の流れを示しているのだ。

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カツジ猫