オタク研究会覚書

オタクの起源

もともとは、「お宅ではどうしますか」などと、日常の会話に使われていた語が、現在のように、ある種のマニアックな人々をさすようになったのは、いつからか。また、なぜか。
いくつかのオタク関係の本では、テレビアニメがきっかけとされている。
私自身の記憶では、相手に「オタク」と呼びかけるのが印象的だったテレビドラマで、NHKの「事件記者」というのがあった。東京日報という新聞社を中心に、刑事事件の取材合戦をする記者たちの世界を、記者クラブを舞台に描き、永井智雄、滝田祐介、原保美といった新劇の俳優たちが出演していて、高い視聴率の人気ドラマだった。新劇界では著名な役者だった永井が、後に深刻な翻訳劇などに出演しても、観客は「あ、東京日報のキャップだ」と反応するので困ったという話を新聞で読んだ記憶がある。 女性は行きつけの飲み屋「ひさご」の女将「おちかさん」と、そこに勤める若い女性の「おみっちゃん」ぐらいしかレギュラーはおらず、男性たちだけの場面が大半だった。ライバル関係にありながら、和気あいあいとした雰囲気も毎回、視聴者を楽しませていたと思う。軽やかで、ノリのいい、なれあいめいた、しかも互いにネタをかくしあう集団の関係も、知的でクールでしゃれていた。

このドラマの中で、彼らは「オタクは」「オタクが」「オタクなら」などと、相手に対して「オタク」をよく使った。むしろ、他の呼称を使った例を思い出しにくい。「それで、オタクはどうなのよ」などと、全体のことばづかいも、今のいわゆるオタクの感じに近かった。
ちなみに、このかなり後で放映されて人気があった、アメリカのスパイドラマ「0011ナポレオンソロ」の吹き替えでも、「あはん、それじゃ、オタクはさ」などという感じで主役二人の男性の会話には「オタク」が多用されていた。その会話の調子は「事件記者」のそれに似ていて、直接か間接の影響があったのではないかと思う。
これらはいずれも、くだんのテレビアニメの放映よりも、ずっと早い。その影響が直接にどれだけあったかはわからないが、私自身の個人的な感覚では、「事件記者」や「ナポレオン・ソロ」風のしゃべり方をする人が、ちょっと知的で軽やかでクールな層の中で増えてきたなという時期が、しばらくずっと続いていた。マスコミ関係の人とか、学生とか。私自身もよく使っていた。そこには、変人とか少数派とかいう印象は別になかった。まじめ一方のエリートではないし、熱血漢の思想家やスポーツマンともちがう。博識で、常識と教養があり、進歩的で自由なものの考え方をし、行動的で、スマートで、ユーモアとウィットに富み、派手でもなければ地味でもなく、独自の価値観を持っているがそれを他人に押しつけはしない。そんなイメージの人たちが「オタク」と相手を呼ぶものだという印象がある。

それが、やがて、強い個性や趣味を持つ人たちをさす代名詞のように使われ始めた。その過程の中で、やや印象はちがってきたが、断絶があったわけではなく、現在のオタクと呼ばれる人たちが、「オタクと呼び合う人たち」から生まれていること、その最初の段階では、「事件記者」「ナポレオン・ソロ」のイメージと重なるものであったことは、たしかと言っていいと思う。少なくとも私自身は、まったく自然に「事件記者」の登場人物のような人たち…自由で明るく冷静で行動的な知識人が増えてきたのだなあと、オタクという呼びかけを聞くことが多くなるたびに、受けとめていた。
「事件記者」の放映当時、私はまだ中学生ぐらいだったから、すべてのドラマや新聞に目を通していたわけではない。しかし、当時はマスコミといっても、今とは比較にならぬほど報道機関は少なく、情報源も限られていたから、私が他の同様の作品を見落としていた可能性はそれほどはない。少なくともオタクの歴史と発生を語る時に、「事件記者」と「ナポレオン・ソロ」、特に前者の影響は考慮しておく必要があるのではないか。

これはまったく、たまたまだが、「事件記者」が娯楽的で大衆的な作品でありながら、俳優たちはいずれも本格的な訓練を積んだ舞台俳優であったと同様、「ナポレオン・ソロ」もふざけたのんきなスパイものにもかかわらず、主役二人の俳優はともにシリアスな演技も充分にできる実力派だった。こういった、ちゃんとしたプロでありながら、それを見せずに軽い仕事を楽しくしあげる(とりもなおさず、そのことが実力の高さでもある)という精神も、正統や本格と、そうでないものの境界を超える、現在のオタクの世界と共通する要素を具えているとは言えないか。

宮崎勤事件

オタクに関する本を読んでいると、このことばと、それが示す人たちのイメージが漠然と広がってかたまりはじめていたころ、宮崎勤事件が起こって、一気にオタクということばがマイナスイメージとして強烈に社会に定着したと、いくつもの本に書いてある。これは既に定説、常識として認められているようである。
もっとも、今の私の周囲にいる若者たちは、オタクを自称する人でさえ、この事件も、彼の名前も知らない人がほとんどで、そのようなイメージも既に歴史上のものになりつあるのかもしれない。秋葉原の事件の直後、宮崎勤の死刑が執行されたのは、そのイメージを再び世間に確認させようという意図があったかのようにも思えるが、メディアの報道は抑制されていて、そのことがあまり成功したとは言えないだろう。よかれあしかれ、時は流れているということだろうか。

だが、今後のこともあるから、この事件の持つ意味を私なりに確認しておきたい。この事件では、複数の幼女を誘拐して殺害した犯人である宮崎勤が、膨大なビデオや漫画を所有する、いわゆる当時「オタク」と言われはじめた若者であったため、その犯罪の異常さがオタクと結びつけて報道された。当時、私はあまりテレビを見なかったから、その報道がどれだけ執拗なオタク攻撃だったのかは知らないが、古くからのオタクの人たちにとっては、この事件の記憶は「マスメディアと社会が全力をあげて、オタクを攻撃した事件」として、トラウマにも近いほど鮮烈であるようだ。
私の周囲では、著名な国文学者である恩師の先生が、新入生むけのパンフレットに「研究者になろうと思うなら、宮崎勤になることを心がけよ」という、これが今ならどっかで問題になったのじゃないかと思う一文を寄せ、その先生たちが、「しかし、たった数千本程度のビデオ持ってたぐらいじゃ、オタクとは言えんよねえ」などと、あたりまえの顔で話していたり、別の大学の同僚(心理学担当)はゼミの学生たちと研究会でこの事件をとりあげ、「宮崎勤は異常でもないし特殊でもない」という結論を出したりするといった状態だったので、そんなに圧倒的に世間がこの事件に嫌悪感を抱いているという実感さえあまりなかった。

彼の犯した犯罪はもちろん絶対に許されない。そんなことはあたりまえだ。だが、被害者の尊厳ということから考えてさえも、あの事件をオタクへの攻撃に結びつけ、利用さえしたのは問題だと、あらためて思う。
実は、当時の記憶を思い出すと、私はこの事件で犯人にあまり嫌悪や憎悪を抱かなかったような気がする。女性への性犯罪に対しては、過度なまでに本能的に敵意を持つ私が、なぜそうだったか不思議なくらいに。多分、報道機関の彼に対する攻撃が、どこか幼女や女性が被害を受けたことに対する、まっすぐな怒りではなく、何か別の意識がまざっているのを感じていたからではないかと思う。
いや、もしかしたら、それ以前に私は彼のしたことに対して、強い憎悪や嫌悪を持てなかったのかもしれない。

この少し前に連合赤軍事件があって、そこで仲間の男女を殺害したリーダーの永田洋子に対して、マスコミは彼女の人格や性生活まで揶揄しつつ、すさまじい攻撃を行った。私が何となくそれに共感できなかったのは、そのまた少し前に、大久保清という犯人が数人の女性をレイプして殺したという連続殺人事件があって、その報道にはそういった怒りがまったく見えなかったばかりか、週刊誌などでは無頼をきどる作家や芸術家が、彼に対する共感や憧憬ととられてもしかたがないような文章を、しばしば書いてさえいたからである。この生ぬるさはどうだ、こんなことが許されるのかと唖然としていた時に、うってかわって永田洋子にはヒステリックとしか言いようのない悪口が浴びせられたのを見ると、「そうか、なるほど、今の日本の社会やマスコミは、大久保清には腹が立たなくて、永田洋子には腹が立つのだな」と感じないではいられなかった。女をレイプして殺す連続殺人には拒否感はなく、特に妖婦型でもない女性が指導者として男性を殺すのは絶対認められないのだなと。

今考えると、宮崎勤事件にもそれと似た要素を感じる。彼はたしか、成人女性は相手にする勇気がなく、だから幼女を対象にしたのだったと記憶する。それ自体は許せる余地はまったくない。  しかし、彼に対する報道にこもっていた、あの軽蔑と嘲笑は、私には永田洋子へのそれと共通する、「男が女をレイプするのは犯罪でも何でもない」という社会的常識をゆらがすものへの怒りに見えてしかたがない。「幼女を犠牲にするとは許せない」という、まっとうな怒りの陰に、「一人前の女をレイプできなかった情けないやつ」への軽蔑や怒りは、本当にまったく存在しないのだろうか。痴漢や露出狂は強姦魔に比べて、どことなく男らしくない、みっともない、格の低いものという価値観は、まったく存在しないのだろうか。

あの事件の被害者の方々を傷つけることは深く恐れるし、私のこの感覚もどこか大間違いなのかもしれないが、私は宮崎勤が、「成人女性は相手にする勇気がなかった」ということに、同情と好感を持つ。だから幼女を手にかけた、ということは許せないが、「女はレイプでもしていいから、ものにするのが男だ」という常識が、今とは比べものにならないほど世間に蔓延していた時代、それができなかった宮崎勤に、あえて言うなら、私はそのような常識を崩そうとしつづけてきた自分の責任を感じるのである。

最近の男が情けない、という世間の言い方を、どんな意味でも、髪の毛一筋も、私は決して容認しない。フェミニズムやジェンダーフリーの立場にたつ人の口からさえ、そのようなことばが出ることに、複雑すぎる危機感をかみしめる。男が弱くなった、という言い方の裏にはぴったりと、女が強くなりすぎた、という批判がはりついていることを、いったい誰も感じないのか。女性が人間として尊重され、男性に暴力的に支配されないことを願い、望んできたのなら、男性が女性を強引にしたがわせることをためらい、ひるむようになったことによって起こる、あらゆる問題をむしろ歓迎しつつ、前向きに誠実に精力的に対応しなければならないのだ。

大ざっぱなのも乱暴なのも承知の上で、総括すると、宮崎勤をオタクの代表のように扱った報道は問題だが、ある意味では正しい。「男は女を支配し、指導すべき。レイプさえもその一環としてさほど唾棄することではない」という従来の通念がゆらぎ、その感覚を持てない男性が増えてきた。それは、オタクとまとめられる層と、かなり一致もしていた。そのような新しい男女のあり方へ向かう流れのいっさいを、恐怖し、嫌悪する人たちが、あの事件をきっかけに、そういう層を攻撃したのだ。

永田洋子にしろ、宮崎勤にしろ、弁護したくなる人たちではない。だが、彼らがあのような犯罪を犯した背景か根底をさぐっていけば、どこか遠くでそれは、切実で誠実な、新しい時代の社会や人間関係をめざして努力する人たちの行動とつながってくる。彼らの罪は裁くにしても、私たちはそのことを忘れてはならない。彼らを切り捨てるのではなく理解することから、未来は作っていかなければいけない。

オタクとは何か

オタクのイメージも、いろいろと変わっているし、定義するのは難しい。
ある学生は、オタクにマイナスのイメージがあるのは、主として二次元の世界が対象だからではないかと述べ、たとえば、紅茶やワインのオタクはそれほど敬遠されないのは、三次元のものが対象となるからではと述べた。
それに対して、ある女性は、紅茶やワインのオタクの人は裕福であり優雅な生活をしている場合が多いから、それに対する憧憬もあって敬遠されないのではないかと述べた。また、三次元といっても、鉄道オタクなどはやはり二次元の世界を対象にするオタクと似た目で見られはしないかという反論もあった。

非常に困難な定義と思うので、思いきって私自身の非常に個人的な、だが確固とした感触をここで述べておくと、私が自分自身の中で「これは苦しいな、これは危ないな」と感じ、「いわゆるオタクの精神とは、きっとこういった部分だろう」と思うのは、「絶対に自分が参加できない、自分に手の届かないものを深く愛する」という精神である。
オタクに対する評価も含めて、オタクとは何かに熱中し、収集し、徹底的に詳しくなることとよく定義される。それはそれで正しい。そういう定義もあるだろう。
しかし、私の場合、どうしても欲しい本を買おうと食事を抜いても金をためたり、同性の誰かと性交し結婚することを望んで、めざしたり、そういうことは私にとっては現実可能な夢であり、人にかくすことがあるにしても、自分の中では決してうしろめたくはない。それは健全な、建設的な、目標に向かっての努力である。あえてもう、むちゃくちゃを言うと、どうしても得たい宝石を取ろうと、仲間と強盗団を組織して計画を練るのも、許し難い相手をひそかに殺そうと武器を用意してつけねらうのも、私の中ではある種健全で、恥ずかしくない努力である。

しかし、たとえば、本の中の人物、絵の中の人物、歴史上の人物、などにほれこんで、夢に見るほど好きになることは、これは私的にはヤバいと感じられる。絶対にかなうはずもないことを夢みるのは、無駄と思うから、うしろめたい。ちなみに、遠い国の、言葉も通じない映画俳優にほれこんで好きになるのは、もしかしたら万一めぐりあってつきあって結婚するという可能性もないわけではないから、私にとってはうしろめたくはない。ただし、たとえば、その俳優の演じた役柄にほれこんでいる場合には、その俳優とは別物の、存在しない幻像を愛しているという意味で、実在しないものを愛していることになるから、やっぱりヤバくて、うしろめたい。
また、たとえば、野球でもサッカーでも、売春でも戦争でも、自分が実際にやらないのに、やっている人たちのことをあれこれ批評し、分析し、応援するのは、ものすごく危険な気がして、没頭できない。没頭し、夢中になるほど、とてももどかしく、わびしくて、せつない。
私の場合、このうしろめたさ、わびしさ、せつなさ、もどかしさが、オタクであるということには欠かせない。この、「見ているだけでどうしようもない焦燥感」が、オタクであることの醍醐味だとさえ感じる。応援団の悲しみ、観客の悲しみ、批評家の悲しみ、自分では生み出せない者の悲しみ。これがなければ、自分の中にある感情を、オタクとは私は呼ばない。
そういう意味では、男性どうしの恋愛や性行為に夢中になる「腐女子」と言われる女性は、実にまっとうにオタクだし、男女を問わず二次元の世界にあこがれる人もそうである。どんなに努力しても絶対に、夢想している世界には行けないという意味で、私の定義では文句なくオタクになる。

このことについては、参加者の中でもさまざまな反論や意見があり、また項をあらためて述べることにする。

オタクでない人

私の定義にしたがえば、たとえばイチローや羽生名人が、野球や将棋にどれだけ熱中しても、それはオタクということにはならない。それには共感する人もいそうだが、しかし、その二人も、本職に没頭している点ではオタクという人もいるだろう。
そうなると、世の中のたいていの人はオタクではないかということにもなる。いったい、オタクでは絶対にない人というのは、存在するのだろうか。それは、どういった人たちか。
最近、オタクは評価されはじめているようだ。増加しているようでもある。そのため、オタクでない人たちが、「周囲はかくしているけれど、気がついたら皆オタクで、自分がとりのこされるのではないか」という不安を抱きはじめているようだ。オタクに関する本がよく出ているのも、そのせいかもしれない。
「オタクの人がそれをかくさないですむようになってほしいから、なぜかくさなくてはならないほど差別されてしまうのか、それを知りたい」と言った参加者もいたが、それも、そういう状況の反映だろう。

私の考えでは、オタクでない人は、もちろんいるだろうし、いていいし、いてもらった方がいい。オタクに絶対ならない人と言って、とりあえず私が思い出すのは、山本周五郎の「日本婦道記」に登場する、すべてのお稽古ごとをわざと中途はんぱにして、主婦業のさわりにならないようにする姑で、彼女は明らかにオタクになることを自分に禁じていると思う。また、「トニオ・クレエゲル」で主人公のトニオがあこがれる、かつての友人と恋した少女、どちらも金髪碧眼で白い肌の明るい健全な市民で、トニオの芸術家仲間から言わせると「俗人」である人たちも、これも絶対オタクにはならないだろう。
ついでに言うと、サマセット・モームが「お菓子と麦酒」の冒頭で、悪口をひとつも言わずにけなしまくってバカにしている俗物の若い作家などもオタクにはならなそうだが、こういう人はオタクが世間で認められ流行しはじめたら、きっとオタクになるだろうからわからない。
江戸時代の「通人」もオタクにはなるまい。通人になりそこないの「半可通」ならオタクそのものだが、すべてにほどよくバランスがとれ、金にも不自由しない通人は、オタクにはならないはずだ。儒教の理想である君子も、何かに執着するようなことはあるまい。
どうも、ただの印象だが、オタクにならない人というと、よっぽど貧しい人とかもだが、その逆に非常に身分の高い人や権力者や大金持ちも、オタクにはならないような気がする。特に支配者がネロでもルードヴィヒでもそうだが、芸術を愛してオタクっぽくなると、ろくな支配者にならないようだ。

現実と空想

実は私は、この研究会を始めた第一日の第一回めに、「腐女子と言われる女性たちが男性どうしのベッドシーンを書く時、そこに自分の性の体験は反映するのかしてないのか」といきなり問題提起して、参加者たちをあきれさせた。
その時の皆の意見では「おそらく反映していない。空想で書いていて、読む方も現実とは関わらせず、こんなものだと思って読んでいる」ということではなかったかと思う。
そうなのだろうか。たしかに、そういう場面の描写は、たとえばあえぎ声にしても、どの作品でもよく似ていて、どれかとどれかを入れ替えても、いっこうにさしさわりがあるとは思えないほどだ。だが、そういうお約束ごとのパターンにはめて書いているのだとしたら、そういうパターンの基本は、いったいどのような作品から生まれたのだろう。たとえば森茉莉やボールドウィンといった人たちの小説を読んでも、それと共通する描写はない。少年愛や同性愛を題材にした初期の少女漫画とも似てはいない。男性が女性を犯すポルノの描写とも少しちがっているような気がする。
私はネットや本で、腐女子と言われる人たちの、そういう作品のそういう場面を読むたびに、そのことが気になっていた。多分かなり若い、ひょっとしたら中学生や小学生さえもが書いているのかもしれない、そういうかなり具体的で精緻な性の交渉を、いったい何をもとにして作者たちは書くのだろうかと。

ちなみに私が昔でも今でも、そのような場面をもし書こうと思ったら、少なくとも既成のそういう作品の場面は参考にはしないと思う。いや、参考にはするだろうが、肝心の部分の描写は絶対に何らかの自分自身の体験から、似たものを選んであてはめる。もちろん私は男性ではないから、男性に犯される男性の感覚はわからない。それでも私はそうするだろう。自分が男性あるいは女性と、あるいは一人で行った性交渉から類似の部分を取り出して、それをその場面に生かすだろう。
だからただ何となくだが、こういった作品を書く女性たちは、自分の男性との性体験を利用して、その時の気持ちや感覚を、どちらかの男性にあてはめて書いているのかなと考えていた。そういうこともやはり部分的にはあるのではないか。それとも、きっぱりそういう現実とは切り離して、あくまでも見たり読んだりした架空の世界の印象を、自分なりに再現しているだけなのか。

かりにそのどちらであっても、だから彼女たちの書く男性同士の性行為が偽物だとは、私はまったく思わない。さきにあげた例で、私が自分の体験をもとに男性同士の性体験を描いたとして、それを男性の誰かが「女性のあんたに、男性のこういう時の感覚がわかるわけはない」と言ったら、私は即座に「私が描く、この男性ではないあなたに、この男性のこういう時の感覚がわかるわけはない」と言い返すだろう。
私は、私と同じ女性であるからという理由で、私の心や身体を理解できると信じ込む女性、私と同じに結婚せず子どもを生まなかったからといって、私の心や身体を理解できると信じ込む女性を嫌悪する。私と同じ日本人、私と同じ団塊の世代、以下同文。かりに、そういう共通点があるゆえに、私と共通する部分があっても、それ以上に決定的にちがって理解し合えない部分はずっと多くある。男、女、日本人、若者、老人、といったことから生まれる共通点は、人間、生き物、という共通点や、私個人と、それ以外のすべての他人という共通点と比べて、そんなに決定的だとは私には思えないのだ。

むしろ、「同性の男性から犯される男性の肉体的精神的苦痛を細かく書いたりする時に、女性の作者はいったいどこから資料を得たり参考にしたりしているのか」ということを、自分についても他人についても考えることによって、今まではごくあたりまえで、不思議とも何とも思われなかった、男性作家が主婦や女子高生の日常を書き、性の愉悦を描く時には、何を題材にして参考にしているのかを考えるきっかけにするべきだろう。私はときどき、さまざまな文学賞の選考などで、男性作家の書いた女性の描写を男性作家たちが「女性の内面がよく書けている」と感嘆しているのを見て、私には日本語に対する理解力が欠落しているのかと真剣に疑ったことがある。
どんな人間にも基本的には自分以外の人のことはわからない。体験したこと以外の実感はない。宇宙飛行を描くにも怪獣との戦いを描くにも、これまで読んだり見たりしたものと、自分の中の似た感覚を使って書くしかない。腐女子と言われる人たちの描く男性どうしの性描写は、そういった問題を実感し考える契機にも、私の中ではなっている。

その上で、それでもやはり興味があるのは、なぜ男性同士でなければならなかったか、そのような関係を書くことや読むことによって、何が刺激され何が癒されるのかということだ。
少なくとも私の場合には、ある人間関係を書くことは、自分の中にある悲しみや苦しみを、現実には発散できない代償作用だった。その場合、自分と共通点の多い人間に作品の中で自分のできなかったことをさせるよりは、自分とは思いきりちがう人間にさせる方が楽だった。その人物は、自分が好きな人物の方が快かった。しかしそれは、現実の世界で自分が好きな人物とは、また少しちがっていたような気がする。
こういったことのさまざまを、男性同士の愛を描く女性の作者にもっと聞きたい。

何が禁じられるべきだろう?

研究会の中でも、オタクに関する本の中でもしばしば話題にのぼるのは、腐女子と言われる女性オタク(こう、まったく同じものとして定義していいのかどうかわからないが)は、男性のオタクに比べると、見た目もきれいで、社会生活への適合が巧みということだ。
本当にそうかも、またそれが評価すべきことかどうかも議論の余地はある。だが、少なくとも宮崎勤事件のような、あからさまに激しいバッシングは腐女子に対してはこれまでなかったといっていい。
それだって、単にたまたま運がよかっただけかもしれない。もし、明らかに腐女子の女性が、たとえば美少年を拉致監禁して殺害するなどという事件を起こしたら、事情はちがっていたかもしれない。

だが、そんな事態は起こり得るのだろうか? 「そんなことあるわけないでしょう。女性はそれほどバカじゃないから」とオタクを自称する女性たちは言いそうだ。しかし私は不可知論者の悲観論者なので、そんな女性だってもしかしたら、いないものでもないと思い、これまでいなかったことが奇跡に近い運のよさとも思い、優等生の少年だけでなく、優等生の少女も衝動的な事件を起こし始めている現状では、そんな女性が登場するのも時間の問題かもしれないと不吉なことを思ったりする。
問題は、そのような事件が不幸にして起こった時、宮崎勤事件のような女性オタクへの攻撃が、単純に即座に起こるのだろうかということだ。
女性は、男性は、という言い方を固く自分に禁じてきた私だが、それでもここまで年をとると、その信条に反して感じてしまう、根拠もなしに漠然と強く生じる実感もあるわけで、男性、といって悪ければ男性社会というものは、しばしば女性的と言われてきた、「臆病で、妙に勘がいい」という特徴を持っているような気がしてならない時がある。つまり、腐女子や彼女たちの書く作品や妄想を、男性社会は本能的にすごくおびえて敬遠していて、近づくまい見るまいなかったことにしようと決めていて、そういう事件が起こった時、腐女子の妄想を分析したり攻撃したり弾圧したりする剛の者が果たしているのだろうかと、何となく疑問に思う。
源氏物語があれだけ天皇の不倫話などをばんばん書いていて、何でおとがめがなかったのだと疑問を持つ人が時々いる。国文学者である私たちはそんな時、「あ~、当時の正式の文章は漢文ですから、女が書くひらがなの文章なんて、公式には存在しないも同然で、だから問題になるわけないんですよ~」と笑ってかたづける。まあ、基本的にはそうだったんだろうと思う。しかし、これこそ妄想だが、私は今何だか当時の人たちにとって、源氏物語は腐女子の書いている文学のようなもので、なんか恐くてそっとしとこう、というものではなかったのかとさえ思う。まあこれは多分、幻想だ。でも頭からふりはらえない。

そもそも、こんな研究会を作ろうと思い、そのずっと前から、オタク特に腐女子と言われる人たちの文学活動について、きちんと把握も分析もしておかなくてはと私があせっていたのは、次第に社会の表に出てきたこの分野の活動が、突然攻撃され、排斥されて葬られそうになった時に、どう対応するかを考えておいた方がいいのではないかと不安になったのも理由のひとつだった。
その時点で私が予測していたよりは、はるかに深く広く、このような文学活動は浸透していて、これはそう簡単に攻撃できるものではないかもしれないという実感も生まれたが、それでも私の不安は消えたわけではない。
この種の文学活動が、これだけ表面に出てきたということ、これだけ深く広がっているということは、このような文学をまったく理解できない人たちの目に触れる機会も多くなったということであり、また、本来はこのような文学でなければならないという必然的な好みではなく、周囲の影響や流行への順応から、参加してきている人たちも増えてきていることを示している。
誰かが、何かが、意図的に充分に準備して激しい攻撃を加えれば、たとえばこの種の文学の刺激的な描写の部分だけを強調してメディアで流せば、広範な人たちが衝撃を受け、批判する側になる可能性がある。そうやって禁止されれば、特にこのような傾向のものでなくてもよかった作者や読者は去って行く。

そう簡単にいくものではないかもしれない。しかし戦争を体験した私の老母は、くりかえし「世の中はほんとうに、一夜でがらっと全部変わる」と警告する。ひとつの法律、ひとりの人間が事態を決定的に変えてしまうことはある。
東京都の学校で、まじめに行われてきた性教育が、いきなり告発され処罰されたことは記憶に新しい。「ちびくろサンボ」の絵本が批判され、消えてしまったいきさつも、知れば知るほど気持ちが沈む。こういった問題は、いったんとりあげられ、流れが生まれてしまうと、ていねいに冷静に対応するのは実に難しいと痛感する。

ここから先は、いつものことだが、私の危険な発言だ。
「ちびくろサンボ」の件などをこんなところで引き合いに出しては、サンボの方で迷惑かもしれないが、この絵本への攻撃が、誤解も多く、感情的で雑な部分もありながら、それでも、そのいきさつを読んでいてさえ頭が痛くなり吐き気がし、脱力するほどの執拗さと正義感をもってくりかえされたのを知ると、人権とかフェミニズムとかいった感覚、ひいては思想や宗教といった信念すべてを持つことの難しさを痛感するし、最近よく見る、人権やフェミニズムに過激に反応し敵意を抱く人たちの気持ちに納得同調してしまいそうな自分が恐い。
昨今の児童虐待防止に関する種々の法律や規制に対してさえ、私は似た不安を感じている。児童へのよこしまな行為を誘発するような、あらゆるものを規制しようとするのは、その目的にはまったく共感するが、はたしてそんなことが可能なのだろうか。たとえばキューピー人形、小便小僧、天使の彫刻だって、そんなゆがんだ欲望を抱く原因になり得るだろうし、だからといって規制してしまえるのだろうか…って、もうされているのかもしれないが。
河野多恵子には文庫本にも入っている「幼児狩り」という名作の短編がある。あれも早晩、発禁処分になるのではないか…って、もう出版されてないのかもしれないが。
幼児ポルノと「幼児狩り」の小説を、盗撮した子どもの写真と「不思議の国のアリス」の挿絵を区別するのは難しいかもしれない。それらをどう扱い、どれを公開するかしないかを判断するのも難しいかしれない。それでも、それを避けてはならない。感情的になることなく、ひとつひとつを話し合って、さまざまな資料や事実を考慮して、ていねいに対処していかなければならない。

実は最初に書いた、腐女子の書く作品などふれたくも見たくもない、ひたすら敬遠するという男性の感覚は、私には何となくわかるのだ。それは、ほとんど生まれてこのかた、ものごころついてからずっと、私が感じつづけていた感覚ではないかと思う。
自分と同じ性が、映像で絵画で文章でもてあそばれ凌辱されていることを、ずっと感じつづけていた。そんな映画が、雑誌が、絵画が、ドラマが、公開され、販売され、放映され、展示されている世の中で過ごし、それを見た人たちが、しばしばその映像や文章と私を、目や頭の中で重ね合わせていることを、ずっと意識しながら生きてきた。
ときどき週刊誌などで、腐女子の告白として、身近な恋人や兄弟が同性の友人と愛し合い性行為をする妄想をしてしまったと反省したり衝撃を受けたりしている文章を読むたびに私は、何て人がいいのだろうと呵々大笑してしまう。女性の裸体をグラビアにした週刊誌がコンビニの棚に堂々とおかれ、そんな画像や映像に夢中で見入る少年たちの姿は、ほほえましい青春のひとこまとして映画でもドラマでも公認されまくっている世の中で、腐女子が男性を対象に何を妄想したからって罪悪感も羞恥心も感じる必要などあるものか。

私は自分と同じ性が、自分を連想させる性が、もてあそばれる描写が身近にあふれる世の中が嫌いだ。
しかし、そういう描写があふれつづけたあげく、人類の文化がもはやそれなくして存在しないほど、その私を傷つけおとしめる描写の数々が豊かな芸術を生んできたのも知っている。
だから私は、もうそれは、あきらめている。そういう要素を持つものをすべて排除したら、世界中の図書館も美術館もがらあきになることがわかっている。だから私は、自分を否定し侮辱する美術や芸術を認める。存在するのも鑑賞するのも。
だからだな、と歯もくいしばらないし、ふるえもしないし、冷ややかな笑いも浮かべないで言ってやる。男性や、幼児や、ある種の人間、ある種の生き物、その他のあらゆる何かを否定し侮辱し傷つける芸術や文学が存在するのも認めろや。鑑賞するのも認めろや。

それはそれで、悪くもないのだ。そうやって否定され、侮辱され、傷つくことの楽しさも、快さも私は知った。その中からも豊かなもののいろいろを得た。それもまた、今は私の一部であり、私はそれを愛している。
腐女子の書く文学を敬遠し嫌悪する男性たちがいるのは当然だ。だが、そのような男性たちは、そのようにして敬遠し嫌悪する対象が、大量に身近に世の中に存在するという点では、これまでになかった新しい時代を初めて生きている。他のことの多くがそうであるように、このことももう元には戻れない。前に進み続ける中で、よい解決法を見いだしていくしかない。

腐女子と言われる人たちは、自分の書く文学をインターネットでも同人誌でも、さまざまな方法で慎重に隔離し、自分たち以外の人の目にふれないようにしている。それは不要な攻撃を受けないための自衛であるとともに、それを見たら不快になるかもしれない他の人々への配慮でもある。女性が陵辱されることを楽しむ作品に、このような配慮はなされたことがなかった。
その一方で、このような隔離がつづく限り、腐女子の人たちが作る作品は、本当はそれを読むことが幸福になるかもしれない男性や、その他の人々から、それを読む機会を奪う。これらの文学の中には、これから更にすぐれた作品が登場してくる可能性がますます高くなるだろうが、それを他の分野とも交流させ、刺激を与えあい、多くの人に公開する機会も奪う。こうしたことの功罪も、私たちは考えてみなければならない。

現実と空想(2)

私が最初の研究会で聞いたもうひとつの質問は、「本当に男女の間の役割分担がまったくなくなり、同性愛も含めた、あらゆる愛のかたちが自由に認められたとしたら、そんな時代や社会で、今の男性どうしの愛を描いた文学が、どれだけ必要とされ、どれだけ残るのだろう?」ということだった。

これに対する意見や結論はよく覚えていない。私がなぜそんな質問をしたかというと、少なくとも私が、男性同士の深い関係を書いたり空想したりして楽しむ場合、もし女性と男性の社会的地位、精神的肉体的能力がまったく互角でありえるなら、その状況が普通なら、男女の関係でもそれは表現できるのではないか、と思うことがあるからだ。
「エロイカより愛をこめて」の作者青池保子氏は、男性どうしだとそれぞれ自立した一人前の人間どうしとしての対立や愛を描くことができる。女性と男性ではそれは難しい」という意味のことを言っておられたことがあり、これは私の実感でもあった。

もちろん、現実の同性愛においても、架空の創作での同性愛においても、それが男女の愛がもっとちがうかたちで保障されればなくていい、なんらかの意味での代償作用と簡単に言ったり考えたりすることは、とても危険だし失礼だ。
私自身、書いたり空想したり体験したりしていて、男性同士や女性同士の性も含めた愛のかたちから得る快感は、男女のそれではおきかえられない部分が確かに存在すると感じることがある。
だが、その一方で、特に現実ではそれは、同性だからとか異性だからとかいう話ではなく、その相手だから、その人だからという問題にすぎないという気もする。
たとえ私がこれまでに、千人の女と一人の男と性も含めた最高の愛を楽しんだとしても、それは別に私が女を男より千倍好きだということにはちっともならないだろう。

空想の世界のことで言えば、私は幼い時、最初にしていた空想での最高の愛のかたちは、男性どうしではなく女性どうしでもなく、姉と弟だった。
その後、男性どうし、女性どうしの愛のかたちが加わって、のちにはそれが中心になった。兄と妹、男女という空想は、ないわけではないが、ずっと少ない。
そこには、いろいろな理由が入り交じっていたと思うが、一番大きな理由としては、私が空想で愛する男性と密接にかかわり身体的にも心理的にも密着するためには、女性では不可能な場合が多すぎたということがあったと思う。
その空想の相手がファンタジーもので歴史ものであれば、たいていの場合、武器を持って戦っており、女は戦場に行けない。現代もので圧倒的に多いスポーツものであれば、女はグラウンドに入れない。たまさかどうかして入ったとしたら、それは何かとても特別な場合だし、ものすごく特殊な状況であって、逆に周囲の目を気にしないといけないから、相手に接近するどころではない。
そんな状況を不自然でなく設定しようとしたら、それこそものすごい空想がいろいろ必要であり、そんな手間暇かけるよりは、誰だって、自分が愛する相手に誰の目も気にせず自然に接近し接触する方法としては、自分が男である空想をする方を選ぶ。のではないだろうか?

ちなみに、研究会でこのことを(「なぜ男どうしだといいのか、なぜ男どうしでなくてはいけないのか」)皆に尋ねると、最初にあがったのは、背徳性、禁断の恋の魅力だった。昨今では身分違いその他、恋のタブーが減ってきており、障害や垣根のある恋の状況を描きにくく、同性どうしの愛だと、それが手っ取り早く描けるというのだ。
だが、たとえば不倫などは、まだタブーの要素が多いという意見もあって、なお議論の余地はある。
更に、作品の中だけではなく、そういう作品を書いたり読んだりすることに関しても、他人にかくして身内だけで暗号めいたやりとりをする、その楽しさも少なくないという意見もあった。

自分の位置を自覚したくない

私の場合、前項の「なぜ男同士でなくてはいけないか」ということで、一番大きいのは「いろいろ考えなくて、いっしょにいられる設定ができるのが便利だから」だが、もうひとつあるとすれば、「自分が何者か考えないですむ」ということがあるだろう。

もうこの年になると、そんな感情があったことさえ忘れてしまうが、若いころや子どものころには、小説を読んでいて、時々、胸をかきむしられるような切ないとも苦しいともわからない感情にとらわれることがあった。
自分が実現できそうな、自分の身の回りの世界が舞台の話では、そういう感情は起こらない。また、宇宙とか外国とか、昔とか未来とか、ものすごくかけはなれた世界の場合でも私の精神は動揺しないし、安定していた。
手のとどきそうで届かない、行けそうで行けない世界。具体的にはたとえば、日本の上流階級の生活とか、都会の大学生活とか、そのあたりだった。
たとえば、現実の自分がそこに行ったら、場違いだし何もできないということがよくわかってしまう世界とでも言ったらいいのか。少し現実に近いばかりに、そのことが想像してしまえる世界といおうか。
現実に努力する程度では、近づけない。でも、空想であこがれるには近すぎる。そういう距離の話だ。

私は高校時代、太った陽気な女の子で、どんな基準から見ても美人ではなかったが、そのことにまったく不満はなかった。やせたり、きれいになったりしたら、私のイメージがこわれて、貴重な人間関係や周囲で確保している位置が失われるという危機感さえ持っていた。要するに、きわめて自分に満足していた。

だが、そういう姿や性格のままで、空想の世界に入っていけるかというと、それは微妙だった。現実に満足しているのと、それをそのまま空想の世界に持ち込むこととは同じではない。多分、私がものすごく美人であっても同じだったと思うのだが、空想の中では現実の自分とはむしろ、ちがった姿になっていた方が楽だったし、現実を失わないでいられた。
空想の世界に入る時、女性ではいたくないとか、子どもではいたくないとか、日本人ではいたくないとかいうのは、そういうことと関わる気がする。

少女小説と性描写

私はさまざまな理由から、多分もう小学生のころから、好きな小説の中の男性どうしを愛しあわせる空想をしていたと思う。それがどの程度、当時は特殊なことだったか、それともそうでもなかったか、誰ともまったく話したことはなかったからわからない。

だが、そのこと自体は、それほど特殊なことでもなかったのではないかという気がしている。私は今でもどうしようもなく男性的な思考をすることがあり、それも自分の特性だと思っているが、つまり、そういう感覚でどこか非常に自信を持って断言できるのは、そんな男性どうしの愛の世界を空想していたのは、私の中の男性的な部分だったという気がしてならないのだ。たとえば映画「プリンセス・ブライド・ストーリー」の男の子がおとぎ話をしてくれるお祖父さんに「キスシーンはイヤ」と注文をつけたり、「宝島」を書いたスティーブンソンが、「女の人を登場させないで」という少年の要望にこたえて女性を出さなかったという言い伝えがあったりするように、「女の子が出てくるとつまんない」と思ったり言ったりする多くの少年たちと共通する感覚で、私はそういうことをしていた気がする。だから、私は男性たちにもぜひ聞いてみたいが、ここまでの、つまり性的なものをまじえない、男性どうしの固い絆の空想だったら、女性より男性たちの方が普通に多くやっているのではあるまいか。

いや何もそもそも別に聞いてみなくたって、ヤクザ映画や軍隊映画、スポーツ漫画その他のあらゆる文学作品の中で、強く深い男同士の友情は常に語られていたし、「女にはわからない」「女なんてじゃま」という言い方は、そういう作品の中でも現実でも、けっこう大っぴらに口にされていはしなかったか。
やおいだ腐女子だとこんにち定義される、男性どうしのやさしく深い感情の交流は、絶対に誰よりも男性たち自身が熱心に語ってきた分野だったと思う。空想でも現実でも男性たちはそれをのびのび味わって、楽しんでいたのだし、読んだ男性たちも絶対にそういう人間関係の連想、空想をしていたはずである。

空想でも現実でも、それが性行為をともなうようになってから、事態はさまざまに変化した。とはいえ、実のところ私は、基本的には本当は何も変化などしていないのではないかとさえ考えている。男女であれ男どうしであれ女どうしであれ、あえて言うなら近親であれ動物相手であれ、深く愛し合う関係はいつもあり、それが性行為をともなうかどうかは、結婚という法律上の制度をとるか子どもを生んで育てるかということも含めて、二階建ての家に住むか平屋に住むか、朝食をごはんにするかパンにするかと同程度の、好みの問題にすぎないという気がする。

ちなみに私は昔から「男女の間に友情が成立するか」といったたぐいの青春小説が大好きだったテーマに、まったく関心が持てず、そもそも理解ができなかった。性行為を持つとか結婚するとか、そういったことで一律に愛の種類を定義するということが、どうしようもなく不可能で不毛に思えた。ことのついでに言ってしまうと、教え子の学生たちと親子ごっこをするのも好きではない。そんなひとつの関係にことよせた窮屈な人間関係は持ちたくない。男女を問わず年令を問わず立場を問わず、動物だろうと植物だろうとどんな相手といる時でも私は相手と性行為や結婚をする可能性があると思って、警戒あるいは期待している。言いかえれば誰が相手でも何が相手でも、ほとんど警戒も期待もしていないと言うことでもある。

ともあれ私に関して言えば、そういった空想の中での男性どうしの関係で、性的なものまでを描いたのは比較的最近で、今から十年近く前、年代でいうと一九九七年ころになると思う。ちなみに、いわゆる同人誌文学での男性どうしの性描写は、それまでに少しは知っていたが、そのことに影響を受けた部分はない。あくまでも自分自身の中での空想の発展として私はそれを開発した。かなり意識的にやった部分もあった。おそらく、男性どうしのプラトニックな友情を空想している男性でも、私と同じことをするのは可能だと思う。
言いかえれば、それまでは、およそ五十代の終わりまでは私のそういった空想に、性的な部分はなかった。性的な空想をする時はあったが、その時にそういう男性どうしの愛についての空想は利用したことがなかった。

おそらく、男性読者の多くが空想していた男性どうしの愛の世界を、私のような女性読者がなぜ夢みなければならなかったかと言うことは、そんなに難しい疑問ではない。それにあたる女性どうしの愛の世界は夢みようにもあまりにも、材料が少なく、空想のもとになる文学も少なかったからだと思う。
ただ、そこに性的な空想は、いつどうやって入りこんだのだろう?
私は大学院生のころ、「小説ジュニア」という雑誌の編集部にときどき原稿を送り、年に何回か掲載してもらっていた。いわゆる学園恋愛ものは書く気がしなくて、それこそ女性が登場しない外国ものや歴史ものを書いていた。
当時、少女を対象としたその雑誌の読者たちに圧倒的な人気があったのは、「おさな妻」をはじめとする富島建夫氏の小説で、露骨といっていいほどの性描写が特色だった。「何べんも読みました」という読者の投書がよく紹介されていた。

当時のこの雑誌の執筆陣は富島氏以外はほとんどが女性だった。実は氏以外の男性作家を私は今、思い出せない。そして、富島氏が毎号どれだけ強烈な性描写をしても、そして読者がそれをどんなに歓迎しても、女性作家たちは決して性的な描写をしなかった。古色蒼然と言いたいほどに清らかでストイックな、ひかえめな恋の描写しかしなかった。
私は正規の執筆陣の一人などでは、もちろんなかった。それでもときどき本当に漠然とだが、富島氏から挑戦されているような気がしていた。もうこれはまったくの、それこそ妄想なのだが、私は抜群の人気を誇る富島氏が満足しているようにも幸福なようにもあまり見えず、むしろ、いらだっておられるのではないかと、どことなく感じていた。ご自分がこれだけ果敢に少女小説での性描写を書きつづけ、読者からも圧倒的な支持を得て、いわば少女小説の新しい未来をきりひらいて、土台を築いているというのに、当の女性作家たちは何をそう臆病に怠惰に、これまでと同じ形式をかたくなに守って、従来の少女小説の殻を破ろうとしないのかと、私が富島氏ならきっと腹立たしいと思った。

その一方で私は、自分自身も含めた女性作家たちは、富島氏の後につづくような作品は決して書かないだろうという気がしたし、もっと深いどこか心の奥で、そのことは多分正しいのではないかと思っていた。
当時のこの雑誌の編集部の意向などは知りようがないが、あれだけ富島氏の作品が読者に評価されていたら、同じような作品を書く作家が現れることを望む編集者もいただろうし、実際、私が自分の作品を自費出版し始めて、次第にこの雑誌に投稿しなくなった後、多分そのような試みも若い女性作家の間ではなされていったのだと思う。そのあたりの時代のことは私はもう知らないのだが、ただ、それでも富島氏のような激しいリアルな描写をする作家は結局出なかったのではないかと思う。

特に私が書いていた時代の女性作家たちが、いや、少なくとも私が、富島氏の描く性描写に続く作品を書こうとしなかったのは、怠惰でもないし意地をはったのでもなかった。 臆病ではあったかもしれない。
私は男女の性をあからさまに描くことは、今の状況では危険だと感じていた。それは私の中の、まだまったく解決できていない男女についての、さまざまな問題に深く関わっていて、それについての考えがまとまらないまま性を描写することは、自分をはじめ誰にとっても、よい結果を招かないと思えたのだ。
結局、それらの問題に自分なりの結論をいくつか出せたのは、ほぼ四十年後の還暦になってのことだった。
富島氏について言うと、その後、何かの記事で、少女小説の性描写についてやや否定的とも見える発言をしておられるのを見たこともあって、やはり当時の他の作家に不満を持っておられたのではないかと感じたことを覚えている。
だが、富島氏を嚆矢として、その後の若い女性作家たちによっても、性行為を大胆に詳しく描写するということに対するタブーがなくなったことは確かだろう。現在の腐女子と言われる人たちの作品や空想における性描写へのまったくの抵抗のなさは、やはりこれらの人々によって作り出された成果だろう。

問題は、少女漫画などの影響もまたあるにもせよ、富島氏たちの活動によって、これだけ自由に描けるようになった性行為の描写を、少女の読者たちが富島氏のように男女間のそれではなく、男性どうしの関係を描くのに使いはじめたことである。
それはいったい、なぜだったか。綿密な分析も広範な調査も必要なのだろうが、唐突といっていいほど、とっさに思い浮かぶのは、女性読者にとってだけでなく、私のような女性読者にとってだけでなく、女性にとってだけでなく、男性読者や男性にとってさえも、本当に対等に激しくぶつかりあい、本当に心を許して計算ぬきで安らぎ、心も身体も解放してまかせきりになれる、そんな性行為が男女間の性描写で描かれたことは、これまでいったいあったのだろうか。
精神的な面に限って言えば、男性たちでさえもが、男性たちこそが、そういう関係は男性どうしの場合が最も実現しやすいと、ごく自然に実感してきたのではないのだろうか。

力の差がある相手への遠慮やいたわり、生活設計や将来の展望と重なり合う現実的判断、そういったものの数々を意識しながら性行為を行う時、それは無心に相手と一体化したり、相手のすべてを認めて受け入れたりすることを微妙に妨げる。その結果、性行為(の描写)は時に機械的になり、時に暴力的になる。
ちなみに私が、性的な空想をする時、女性としての空想では常にどこか被虐的だった。空想の材料にする文学や映像が圧倒的にそういうものが多いということもあったが、それだけではなく、本当に相手とすべてを許しあえない状態では、そういうかたちの刺激しか見つけようがなかった気がする。男性どうしの性行為を空想できるようになってから、私の空想でも現実でも性行為は平和な優しい、あえて言うなら豊かなものになっていったように思う。

腐女子の描く性描写の多くに、レイプめいたものがあるのを見ても、このことはまだ、いちがいには言えない。ただ、私はもしかしたら、男性が夢みていた男性どうしの深い関わりを、空想の中で性行為まで行うことによって、女性との関わりも変化するような気がする。楽天的にすぎるだろうか。
ただ、これと直接の関わりは多分ないが、最近スポーツ新聞や週刊誌のポルノ小説が、以前のようなレイプ一辺倒ではなく、男女双方で楽しむようなものに次第に変化してきているようなのも、意志の疎通のできない存在との暴力的な刺激や機械的な冷淡さではなく、共通のものを多く持った相手と楽しみあう形式のものへと、現実もまた徐々に変化しつつあるのかもしれない。

ボーイズラブ作品ふたつのタイプ

前項で、「私が男性同士の愛の世界を、性関係や性描写はなしで空想していたのは、むしろ私の中の男性的な部分がそうしていたような気がする」「ということは、多くの男性も性的なことを抜きにしてなら、そういう関係は空想するのではないか」「では最近私が始めたように、そういう関係の空想に性的なものを加えるのは、男性たちにも可能ではないのか」「それは男女の愛にとっても、よい方向に行くのではないか」といったようなことを述べた。それを、研究会の参加者たちに聞いてみたところ、いろいろとまた、参考になる話し合いがあった。

私は予想していたのだが、今のように普通の少女たちにボーイズラブの小説や漫画に早くからふれる機会が多いと、おそらく、昔だったら男女の愛を空想していた人たちまでが、あたりまえのようにそれを男性同士の愛として空想することはあり得る。
たとえば、私の幼い頃だったら、大変大ざっぱに言ってしまうと、男の子は仲間と怪物をやっつけたり、船に乗って南極探検をしたりする空想をするし、女の子はお城に住んで白馬の王子がやってきてくれたり、村で暮らしていて川に落ちたらすばらしい若者が助けてくれたり、そういうように空想がわりと分かれていただろう。
で、私のような女の子は、男の子といっしょに戦いや冒険に出かける、男の子バージョンの空想をするのだが、それだと、皆で美しいお姫様を助けようとしたりした時、あれ、私はどうしようととまどったりすることもあるわけだ。

それで、今の腐女子と言われる人たちがやっている、男性どうしがいっしょに仲よく行動し、時には性行為も行う、という空想は、私のような傾向の人だったら、そういう、男の子バージョンの冒険物に性生活といって悪けりゃ恋愛生活がプラスされたものになるわけだが、もしかしたら、今なら、女の子バージョンの空想をしてた人たちでも「お城で王子様を待つ」だの「バラを抱えた騎士が窓の下に来てくれる」だの「川に落ちたらすてきな青年が助けてくれる」みたいな話を、かたっぽをつまり女性を男性に変えて空想している場合が、けっこうあるような気がしてならない。

つまり、(A)女性がいない戦隊もの、冒険ものに性行為や恋愛行為が加わったものと、(B)男女の恋愛ものの女性の方が男性に変わっているものと。「少年漫画的ボーイズラブ」と「少女漫画的ボーイズラブ」とでも言ったらいいのだろうか。
私は参考のためと思って、手当たり次第にボーイズラブ小説をいくつか読んだことがあるのだが、実はあまり夢中になれなかった。稚拙とかうまいとかそういうこととは関係ない。何となく退屈で、面白くなかった。それは、もしかしたら、それらが「少女漫画的ボーイズラブ」だったからではないかと思ったりする。

ただ、実際問題として魅力的な男性二人が登場し、職場や学園でさまざまな恋愛劇をくりひろげる話で、それがいったいどちらのタイプなのかは、判断しがたい。それでも私は何となく区別がつくような気がするし、いわゆる「少年漫画的ボーイズラブ」だったら、とても楽しめそうな気がするのだが、いざ、その区別がどこでつくかというと、わからない。これは、今後の宿題である。

また、「少女漫画的ボーイズラブ」にしても、自分が男性になって男性を愛したいと望むからそういう空想をする女性もいれば、自分が男性になって男性から愛されたいと望んでそうする女性もいるだろうと思うので、そこもまた、一概には言えない。
もちろん、男性にだって、お城で待っていたらすてきな人がやってくる、川に落ちたらすてきな人が助けてくれるといった空想をする人もいるだろうし。

最近ではボーイズラブ小説や漫画が、明らかに若い男性を読者とした雑誌に載ることもあるらしくて、そういう傾向とも、これらの話は一致している。

少女漫画と同性愛

どんなものにも、始まりはある。私の記憶する限りでは、日本で漫画を初めてきちんとまともに評論した文章は、開高健が「週刊朝日」に連載していた「ずばり東京」というルポルタージュだった。彼はその中で、手塚治虫を高く評価した。そんなの今ではあたりまえすぎるが、当時は私の知る限りでは、そんなことを口にする人さえ誰もおらず、漫画すべてがひとくくりでバカにされていた。開高氏は、この回の記事を書くため、屋台でせっせと漫画本に読みふけっていたら、店主から狂気の人間を見るような不安そうな目で見られたので、金を先払いしたと書いている。まさに、そういう時代だった。
のちに、この記事が読みたくて開高健の全集を買ったら、「ずばり東京」は抜粋されて収録してあり、この回は省かれていた。私はしかたなく、より豪華な高い全集のその巻を買って、今も大切にとっている。小説をはじめとした各方面の仕事で開高氏の業績は大きい。しかし、多分、日本で最初にちゃんと漫画をとりあげて手塚治虫を評価したという業績は、その中でも特筆すべきものなのに、誰も気づかないのかなあと、その時もけげんに思ったし、今も気になっている。

いわゆる腐女子と呼ばれる人たちが書く(描く)、男性どうしの愛情を題材にした漫画の最初は、萩尾望都「ポーの一族」「トーマの心臓」や竹宮恵子「風と木の詩」や、その前後の作品と思われているようだ。私もこれらの作品は連載時に愛読した。それらの作品の中には性的な描写を含むものも、そうでないものもあったが、少年を主とした男性どうしの深い愛情や、それにまつわるさまざまな心情は特にタブーでもなく、自然に描かれていた。
私もまた、それを自然にうけいれた。古典文学の名作に、そういう話はよくあったし、少年漫画が描き出す強い友情や同志愛の世界と、それほど異質なものは感じなかった。その当時はすでにもう、社会がかなり「この人は別格」という感じで認めていた、手塚治虫の作品にさえ、隠微で病的なエロチックさはしばしばあり、文学ならばそんなことは、すべて普通と思っていた。

そうは言っても、それまでの少女と少年の愛を描いてきた少女漫画とは、やはりそれは一線を画した。どんなに強い友情を描く少年漫画でも、「君を愛している」といったたぐいの、明確に同性の相手を恋愛対象として意識した発言や行動は書かれることがなかったし、もちろん少女漫画の世界には、従来そういう設定は登場しなかった。
それが最初に登場した作品は何だったのか。開高健氏のルポルタージュもそうだが、私は普通の学生か大学院生だった頃で、そういう状況を精査していたわけではない。私が記憶しているよりも、もっと古い例があるのかもしれない。
ただ私は、そういうことを、かなり意識して生きてきたつもりである。他に目にしていたら、見逃しはしなかっただろう。だから、またしても私の見る限りでは、と言うが、最初にそのような作品を目にしたのは、当時住んでいた福岡市の名島にあるアパートへの帰り道、家の近くの小さな本屋で立ち読みした、多分漫画雑誌の中の作品の一つである。
私は、その雑誌を買わなかった。多分何かに疲れているか、他の仕事に熱中していて、そういった方面へのアンテナが休止状態になっていたのだと思う。その作品も、特に嫌いではなかったが、ものすごく好きで本が手放せなくなるほどではなかったのだろう。

それでも、はっきり自覚した。これは、男性が男性に明確に愛を告白した、私が見る初めての漫画だと。多分、年下の少年が年上の男性に、ふれることはしないで言葉だけで、「あなたを愛している」と静かに口にしていた。彼は髪が長く、正面を向いていて、コマは少し斜めになってはいなかっただろうか。そのひとこまは目に浮かぶが、彼の顔は思い出せない。前後の話も思い出せない。ものすごい衝撃などはなかった。ひっそりと、普通に、その漫画はそこにあった。特に問題作というような風でもなかった。何か確実に新しいものが生まれているのを、誰にも知られずに見たという気がした。感じたのは、おだやかな満足と、静かな安心で、その気持ちをそっとそのまま残すようにして、そのまま店を出た。
その店ももう、とっくになくなった。私の記憶もただそれだけで、本当にかすかで小さい。時期さえもはっきりしない。だが、多分、萩尾望都や竹宮恵子が登場する、かなり以前だったと思う。でなければ、それ以後ずっと、今にいたるまで私の中で、「あれが同性愛の漫画を普通の雑誌で、普通の店で見た最初だった」という、個人的な歴史的記憶として保存されているはずはないから。

作者の名前は覚えている。水野英子という作家だった。当時としては珍しく外国を舞台にして、黒人問題をとりあげた作品などをよく描いていた。かわいい少女漫画そのものの絵だったが、きちんと安定し、しかも躍動感のある描き方だった。
アメリカのロックグループを主人公にした「ファイアー!」という長編は彼女の代表作で、連載時から私は読んでいた。分厚い単行本も買って、今も持っている。少女漫画風の恋愛話もきちんととりいれながら、芸術家や反体制の若者の苦悩も書き込み、主人公のアランという少年が、リーダーの背の高い青年に、君の目の色が海のようだと言ったり、先住民の血をひく彼に「君が馬に乗って野牛を狩るところを見たいな」と言ったりする場面があって、男女にこだわらない深い心のつながりが随所で印象的だった。ハッピーエンドではないラストの、暗く救いのない力強さも忘れられない。

その人の描いた作品だった。そのことにも私はある信頼と幸福を感じたと思う。
今これを書くにあたって、初めて彼女の公式ホームページを見たが、この作品が何だったのかはわからなかった。「同性愛をきちんと表明した漫画を日本で初めて描いた人」というような説明も、むろんなかった。古典的で健康で正統な漫画家として著名な人に、そのような業績は不要なのかもしれない。
開高健氏の場合もそうだが、誰もそれまで書かなかったことを、こうやって最初に書いた人の名前も作品も、こうして消えていくのかと思う。自分自身の記憶さえもが、薄れて失われない前に、せめてこうして書きとめておこう。(つづく)

○男女のオタク
○ファン心理
○名作を読みたくないか?
○著作権協会はどう考える?


多分、ここまで書いてから、十年以上が経っていると思います。
最後に今後書く予定として、あげておいた四つの項目も、何を書くつもりでいたのか、内容さえもう思い出せません(笑)。

当時の研究会のメンバーは、とっくに皆卒業して就職し、今はどうしているかもわかりません。(そもそも私は卒業後の学生とは、ほとんど連絡を取り合わないのですが。)
オタクとかやおいとかボーイズラブをめぐる状況も、さまざまに変わりました。忙しさもあって、そういう関連の本やサイトとも最近疎遠になっている私は、その変化の実態さえも知りません。

あのころ、私は集まっていたメンバーに、しつこく言っていたことがあります。コミケとかコミマとか、その他膨大な作者と読者を抱えるこの作品群の全貌は、おそらくほとんど誰にも知られることなく、変化しては消え去って行くだろう。しかし、それがこの何十年かの日本文学史に果たした役割や影響は、おそらく膨大なものがあり、後の時代に巨大な暗黒、空白を残す文学活動となるだろう。これが文学ひいては社会に与えた影響は、決してわからないままになるだろう。そうならないために、少しでも、実態を書き残し、記録を残しておくべきだと。

それは結局、できませんでした。そして、今、その巨大な地下帝国の現状がどうなっているのか、もう私にはまったくわかりません。それを再び探る時間も力も、もう私にはないでしょう。

私は、もはや、そういうことは望みませんし、めざしません。
ただ、そういう、日本文学や日本社会に、オタクやボーイズラブの文学が与えたり残したりした影響の一部として、それがこの私自身にとってどうだったかという問題は、まだ残っています。

そのため、このページはここでいったん打ち切りとし、「ミーハー精神」という、新しいコーナーを設けて、ひきつづき追求することにしたいと思います。(2019.2.16.)

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