ぬれぎぬと文学(未定稿)1-はじめに 冒険への旅立ち

ぬれぎぬは好きですか?

「ぬれぎぬ」ということばに魅力を感じる人は、まずいないだろう。(註1)きせられるのもごめんだし、きせるのもいやだし、そういう状況にはかかわりたくないと思う人が圧倒的に多いだろう。
しかし、ふしぎなことに文学の世界では(映画やテレビドラマ、マンガも含めて)、「ぬれぎぬ」をきる人物が非常に多い。主人公である場合も少なくない。読者や観客が、ぬれぎぬというものを本当に嫌いで、見るのもいやと思っているなら、なぜ、これほどさまざまな「ぬれぎぬ」設定が、文学作品の中に登場するのだろうか。
こわいもの見たさか、悪の魅力か。あるいは、幸福な人生、立派な人物、理想的な世界は題材にはなりにくいという、文学作品の根本的な事情もあるかもしれない。読者や観客が共感し支援したいと思うような、健全で良識ある市民を、文学作品に欠かすことのできない危機や冒険にまきこませ、迫害を受けさせ、苦労を味あわせるためには、「ぬれぎぬ」をきせるしかあるまい。
だが、そんな屈折した嗜好や、手段としての必要性以外にも、「ぬれぎぬ」そのものに、私たちをひきつける何かの魅力がありはしないだろうか。

好まれる時代

ぬれぎぬは、古今東西の文学に一見まんべんなく登場するのだが、よく見るとギリシャ神話には登場しないが、聖書や騎士物語には多いといった若干のばらつきはある。日本文学の場合、古代の神話や平安朝の物語には少なく、「源氏物語」「平家物語」にも、印象的な「ぬれぎぬ」の場面はない。(註2)
ところが、江戸時代になると、特に歌舞伎や浄瑠璃といった演劇の世界で、「ぬれぎぬ」設定は異常なまでに増加する。滝沢馬琴をはじめ、演劇の影響を強く受けた作者の作品にもそれは反映する。(註3)
この原因や実態を探ることは江戸時代そのものの分析や考察に有効かもしれないが、それはこの本の役割ではない。(註4)この本の目的はあくまで、さまざまな文学で描かれた「ぬれぎぬ」の、読者や観客をひきつける魅力とはいったい何なのかをさぐり、それにまつわるさまざまな問題を考えてみることにある。

評価の限界

ほんの一例をあげると、最近の世の中では「評価」が大きな力を持ち、あらゆる人間や組織が完全に正確に評価され、それにふさわしい待遇をされることが可能であり理想であると誰もが考えているようだ。
「ぬれぎぬ」はこのような考え方の対極にある。それはまちがって評価され、あるいは正しく評価されることを拒んだ人たちの物語だ。それらを読むことによって私たちは、「評価」が万全ではないことを、永遠に知られないままの歴史や世界が常に存在することを実感する。
よく「科学は万能ではない」と言われるが、評価もまた万能ではない。どちらも当然のことであり、だからと言って必要がないわけではない。
それらに限界があり、それだけで解決できないものがあることを充分に意識し、それらでは見えない世界に畏怖しつつ利用する敬虔さを持たなければ、科学と同様に評価もまた、私たちを不幸にするだろう。
「ぬれぎぬ」が古今東西の文学作品に、これだけ多く登場するのも、そのことをうすうす感じていた先人たちの知恵であり教えなのではないだろうか。
「ぬれぎぬ」にまつわる問題を考えていると、広い世界と長い歴史と深い心の奥が見えてくる。それは、文学作品を通してしか味わえない、少し危険な喜びでもある。

 
(註)

  1. 「ぬれぎぬ」が「冤罪、無実の罪をこうむること」の意味になったのは、博多に伝わる「濡衣塚」の伝説で、無実の罪を継母にきせられ父親に殺された娘の話にもとづくと言われ、語源については異説もあるが、江戸時代にも同様の意味で使用されている。森盛子「語り継がれる『濡れ衣』説話 ―博多における『濡れ衣』説話・続考― 」(「語文研究」百十二号)に、その由来が詳しく、先行研究も紹介されている。
  2. たとえば「源氏物語」で、光源氏が実際には継母と密通すると言う大罪を犯していながら、それを誰にも知られないまま理想的な人物として最後まで尊敬されるという設定は、考えようでは「逆ぬれぎぬ」の悲劇である。また、江戸時代前期の西鶴の作品では、「貧しいのに貧しくない」という虚像を守る人物がしばしば登場するが、これは一見第二章で述べる「自分を実際より低く見せる」の行為の裏返しのようでいて、「貧しさをかくすことで周囲に気をつかわせず苦しめない」という点では「自分を低く見せる」のと同様の意図を持つ。この本でとりあげるのは、より明確に「実際より低く、悪く思われる」というわかりやすい場合に限って考察している。
  3. 馬琴の演劇からの影響については、河合真澄ら多くの研究者が指摘している。
  4. 江戸時代末期の絵草紙である合巻の代表作、柳亭種彦「偐紫田舎源氏」は全編「源氏物語」の翻案だが、原作と異なる大きな改変の一つは光源氏にあたる光氏の女性たちとの恋が、すべて本心ではなく、御家騒動をたくらむ悪人たちを成敗するための韜晦であるということである。これは有名な「仮名手本忠臣蔵」で大星由良之助が敵の目をくらまそうと遊里で遊興にふけったり、「助六」で主役の助六が実は曽我五郎で遊里で他人にけんかを売るのは実は紛失した家宝の名刀の捜索のためだったりするのと同様、人間本来の感情をそのまま肯定することをはばかる当時の感覚もあるだろうが、単にそういう理由づけのためだけにしては、手がこみすぎていて、書く方も読む方も、そのこと自体を楽しんでいたのではないかとの推測も可能である。
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