「格差」ということ
1 王女さまの絵本
私の話はいつもそうだが、例によってまったく関係ないところから始まる。
昔も昔の大昔、幼かった私はたくさんの童話を読んだ。愛読したわけでもないのに妙に印象に残っている作品がいくつかある。その中の一つがこれだ。もちろん作者も題も忘れた。
主人公はある女の子である。親に買ってもらったか何かした、大好きで大切にしている絵本がある。それは誰にでもやさしい王女さまかなんかの話できれいな挿し絵もついているのだ。
友だちがその本を貸してほしいと言う。彼女は大好きな本なので貸したくない。でも、その本の中の王女さまなら貸さなかったりはしないと思い、本を友だちに貸す。するとなかなか返してくれない。思いきって催促すると別の友だちに貸したと言う(んだったと思う)。それでなんだかだといろいろあって、とにかく彼女はその本を持っている子をやっとたずねあてて家に行くと、その本は台所のかまどのたきつけ(昔の話だからなあ。かまどは火でたく時代です)にされかけてるか何かで、汚れて破れて見るかげもなくなって、放り出されている。
女の子はそれを拾い上げて「ひどいわ、ひどいわ」と涙をぽろぽろこぼす。そしてその本を持って帰る。友だちを恨みそうになるけれど、その本の王女さまはきっとそういう人も許すだろうと思って友だちを憎んだりはしまいと思う。それがほとんど最後だったはずだが、いよいよのラストの場面は覚えていない。
子どものころ、それこそなめるように愛読した本は多い。だがそれ以外に一応は読んだがそれきりになった本も多い。多くは図書館から借りた本や日本の児童文学で、挿し絵もいまひとつだったし、さほどの愛着もなく読み流した。その中で覚えているのは、川でつかまって水槽に入れられてだんだん汚れてくる水の中で川のことを思い出しているフナの話と、友だちから「卵を食べたことがない」とからかわれていじめられた男の子が、それを聞いた母親に卵をおかずの朝ご飯を食べさせてもらい、その黄身を口の回りにつけて学校に行っていじめっ子たちに「卵を食べてきた」と告げて文句を言わせなくなる話、そしてこの絵本の話と三つしかない。
卵の話は単に汚くて印象に残った。フナの話は切実だった。自由でないということ、束縛され閉じこめられることに対する私のこらえ性のなさがわかる。だが、この王女さまの絵本の話は、もう一つの私の深部に触れてくる。
ずっと長いこと私はこの話を、ただ覚えていただけだった。
そのうち、大人になり年老いて、人や動物を愛したり仕事をしたりする中で、いつも似たパターンで自分が傷つくこと、怒ることがぼんやりとわかり始めた。自分が激しく共感したり愛したりする映画や小説、人間や動物にある共通点があることにも気がついた。
そういう自分の中の弱点や急所、ほとんど思想的な性感帯、竜ではないが逆鱗とやらののどに一枚だけあるさかさまの鱗、何でもいいがそういうものの始まりは何だったろうと思い出すと、最古の体験がこの王女さまの絵本の話だった。私のこの種の感情は、少なくともそこまではさかのぼれるのだった。
2 大切なものが奪われる
あくまで私の場合だが、この話の要点は次のようなものになる。
- 自分にとってとても大切な愛しているものがある。
- それを他人から要求される。
- それを拒絶する正当な理由が見あたらない。
- 相手にとってそのものはどの程度の魅力なのかがよくわからない。
- 相手は私から与えられたそのものを大切にはしない。
- そのものは汚されて魅力を失い捨てられる。
- もらった相手もそのものも私も皆不幸になる。
このどれもが私には耐えられなかった。まあ誰にだって愉快なものではないだろうが、耐え難い苦痛の種類は人によってちがう。私は特にこの手の不快さに徹底的に弱かった。
私はわりと子どもの頃から革命を支持し社会主義や共産主義を支持してきた。権力者や貴族よりは常に民衆や虐げられた者の側に立つように努めてきた。それはたしかに、たとえば私がつつましい農夫でわずかな畑をたがやして小鳥の声とかきれいな水とか優しい妻とかかわいい子どもとか(こういう場合に無条件に自分を男性として考えてしまうのは、小さい時から読んだ本が皆男性バージョンで人生を語っていたのだからしかたがないと開き直ろう)を大切にして、名声も贅沢も何も望まないで生きていたのに、ある日突然ご領主から土地だの妻だの牛だの、いい声で鳴く小鳥だのを召し上げられて拒絶できない、というパターンが強烈という以上にもう自然に頭にあったからである。
国家だの支配者だの権力だのというものは、そうやって理不尽に支配下のものの上に襲いかかってくるものだし、そのことで支配者たちを責められないとさえ、どこかで私は思っていた。だから、そういう誰かが誰かを支配する形態はできればなくしてしまいたい、あるならなるべく上に立つ者の力は弱くしておきたい、それが子どもながらに確実な私の実感だった。
だが、私にはもう記憶をたどれないのだが、幼い私の中にはもしかしたら、それと裏腹の実感もどこかであったのかもしれない。そして、私が革命や民衆を支持したのは、もしかしたらこちらの実感にもとづいていたのかもしれないのだ。
それは、民衆を搾取して贅沢にふけっていた貴族と同様、自分では気づかずに人をしいたげ、人の涙と血と汗の上で幸せにひたっていた私が、いつか自分の虐げていた人々に断罪され攻撃され、持てるもののすべてを奪われるかもしれない、という恐怖だった。
3 恐怖の記憶
私はその恐怖をいったいどこから、どのようにして知ったのだったろう?
幼い私は、最初にどこかで聞いた「火事」の話に非常に脅えたのを覚えている。当時、母にもらった、小さな青い丸いボタン(洋服につける、ごく普通のただ一個の)を私は好きで大切にしていた。それが、というか、それもというか、あとかたもなく焼けてなくなるのかもしれないと思うと、子どもながら無常を感じ、何を大切に持っていてもしかたがないのかもしれないと思った。自分の所有欲が奇妙に減退したあの瞬間を、私は今でも覚えている。ボタンを見ていた自分がよりかかっていた小さい座り机の表面の色まで思い出せる。
母は私に火事の話を聞かせたら、私がいきなりいなくなり、どうしたのかと思っていたら、どこか離れた土手の上に、何日か前にあったたばこの吸い殻を思い出して消しに行ってきたと戻ってきた私が言ったと、今でも笑い話にしている。それは私は記憶にないが、おそらく同じ時だったと思う。すべてが灰燼に帰す恐怖を、私はあの青いボタンを失う恐怖として実感したのだった。
同じころ、近くの川が氾濫して水害もあった。自宅が床上浸水もした。けれどもそれは、むしろ少し楽しい冒険で、私は特に恐くなかった。二階に上がってろうそくの光の中で、黒ずんだ水がゆらゆら階段を上がってくるのを、不思議なおとぎ話の中のできごとのようにながめていた。何もかもが燃えて消えてしまう火の怖さより、水の怖さはそれほどに私は感じていなかった。
映像としての恐怖で覚えているのは、戦後まもない「アサヒグラフ」に載っていた、原爆の死者たちの数々の写真だった。焼けただれたその人々の顔かたちや腕のかたちを今でもはっきり思い出せるほど、私は夢に見るほど恐れた。だが、私がその写真誌を見せて説明を求めた時、私の母は、どういう言い方でかは記憶にないが、その人たちが私や母とまったく同じ暮らしをしていた、とても普通の人々であることを教えてくれた。どんな恐ろしいかたちをしていても、その人たちは悪くもなければ恐くもないと私には理解ができた。
それでも、その姿は恐ろしかった。そして、その人たちが私や母と変わりがないということを知ったからには、もっと恐ろしいことは、自分も母も家族もまた、いつそのような姿になるかわからないということだった。
恐ろしい、みじめな姿の人々への本能的な恐怖と、それを恐れる必要はないという理性と、けれど、悪人でもなく危険でもないそのような人々が、そのような姿になることがこの世には起こるという別の恐怖を、ともに私は味わっていた。
私が映像として目にした残酷なものの記憶は、幼い頃にはそれしかない。これは現代とはちがうだろう。特にホラーやスプラッタといった映画やドラマでなくても、今の幼い子どもたちはずっとひんぱんに、もっと強烈な残酷な映像を目にする機会が多いだろう。そのことをどう思うかということもあるが、私はむしろ、そうしたものを目にした子どもたちが、それをどのように感じ、恐怖や嫌悪を覚えたとしたら、それをどのように自分なりに説明をつけ、処理をして解決したのか聞きたい気がする。
私の場合、母の説明が大きかったが、確かなのは私が、どう醜くて異様でも、そのような姿となった人々を自分と同一視したことである。それ以後、今にいたるまで、最も醜い恐ろしい人の姿を、自分と同じだと感じる私の癖は、多分あの時にもう始まっていた。
言いかえれば、どんなに清く正しく生きても、どんなに賢く強く生きても、こうなる可能性から人は逃げようがないと、幼い私はあきらめた。こういう人がいる限り、それはいつでも自分であり得ると感じた。
自分がこうなるのがいやだったら、こうなる人をゼロにするか、少なくともそれに限りなく近づける努力をするしかないと思う気持ちに、どこで、いつの間に、それはつながったのか、私はもう思い出せない。私にとって、この恐怖から逃れる方法はそれしかなかった。
なぜ私は、自分がそんな立場にならない方法や、逃げる努力を考えようとはしなかったのか。または、漠然と自分は逃げられる、自分の上にはこんな災難は降りかからないと思いこんで目をそむけて、やりすごしてしまわなかったのか。
多分誰も、そんな方法を私に教えなかったのだと思う。そして私も何となく、そんなことは自分にはできないと感じていたのだ。感情的にではなく、能力的に。
4 ノアの方舟には乗れない
キリスト教徒ではなかったが、日曜学校には行っていた。だから聖書の話には親しかった。ノアの方舟の話は特に嫌いではなかった。ごく普通に面白いと思って読んでいた。
ノアの方舟の話を空想する時、幼い私は当然のように自分は方舟に乗っていて、暗い船底でたくさんの動物たちと、ちらちらゆれるろうそくの光の中で舟板の向こうにとどろく波の音を聞きながら、黙って滅びて行く世界や溺れて行く生き物のことをぼんやり考えていた。それは悲しくもなく、恐くもなく、夢のような安らかさに満ちていた。どこか、洪水の時に二階の階段の上からひたひたと上がってくる水を見ていた感覚に似ていた。自分が守られていて安全で、生きのびる存在であることを、何の罪悪感もなく疑いもなく私は信じていた。
あの自分が傲慢だったとは思わない。無知だとも不健全だったとも思わない。むしろ、あの時の自分はとても健康で幸福だったのではないかと思う。そんな実感があの思い出にはある。
その思い出は今も消えない。だが、ノアの方舟の中のとろとろとまどろんでいた幸福な自分の姿はそのまま残っているのだが、それとは別にいつの間にか私は、「仮にノアの方舟があるのなら、そこに乗るのは決して自分ではないだろう」という実感も持つようになっていた。積み残される大勢の人たちの方にきっと自分はいる。仮にそれが半数であれ三分の一であれ、たったの十人であったとしても、自分がその残される方に入らない保障はない。そういう気持ちが強くなった。
今も私は思うのだ。どちらが逃避だったのだろう?
方舟に乗れるように、生き残る方に、選ばれる方になるように、勝ち抜くための戦いをすること。
そんな戦いをしなくても、誰もが、せめて可能な限り多くの人が生き残れるように努力すること。
どちらができそうにないことだったのか。どちらが現実逃避だったのか。
今、多分、多くの親が子どもに、「勝ち抜いて生き残る」ことを教えようとしているのだろう。
また、平和憲法では日本が守れないと考える人たちも、国を滅ぼさないためには敵に勝つことが欠かせないと考えるのだろう。
それに対する私の現在での実感は、「すべての人は勝ち抜けない」「すべての国は生き残れない」である。
そこまでは、同じかもしれない。
そこから、更に私の考えは「なぜ自分や、自分の国が、勝ち残り生き残れると考えるのか。何を根拠にそれが信じられるのか」である。
5 戦ってみないとわからない
私のノアの方舟幻想の中で、私はいつも知らない間に船に乗っていた。誰かに乗せてもらっていた。
乗るために努力はしなかった。まして戦いもしなかった。
私はひとりっ子である。だから競争に弱く戦闘に弱いというあまりにも言い古された言葉にも、少しの真理はあるかもしれない。
これもひとりっ子がそうだと言われそうだが、私は独占欲が強く、わがままでもある。絵本やボタンの話でもわかるように、私は自分のものを大切にし、それを人とわけあうことに、かなり我慢ができなかった。だがそれは、はじめから私に与えられたものであり、戦ってそれを勝ち取る方法はほとんど知らなかった。
その後、いろんな局面で戦いもしたし、勝ちも負けもしたが、そういう中で得た私なりの結論は「勝つとわかっている戦いと、負けてもしなくてはならない戦い以外はしない」ということである。
それでだいたい、今日までの戦績に私は不満はないのであるが、しかし、それでもなお私が今持っているもう一つの実感は、「どんな戦いも結果はやってみなければわからない」なのだ。
それは私だけでなく、誰のどんな戦いでもそうだと感じる。
だから、個人であれ国家であれ、自分(たち)が勝ち抜いて生きのびられるという可能性は少々高く見積もっても、そんなに高くはならないし、そんなものに命をはじめ貴重なものの数々を賭けるのは、あまりにリスクが大きすぎると思っている。
だからいつも、勝ち抜いて選ばれることを避けようとしてきた。
くりかえすが、それが逃避でなかったと言い切る自信はない。
競争や選抜によって生まれる活気や才能があるだろうとも思う。
けれど、大勢の人が「勝つのは自分だ」「最高は自分だ」と信じて努力し、その大半がまちがいだったとわかるという過程は、私には何かもう恐ろしく合理的でなく無駄で贅沢な遊びで雑で野蛮に見えるのだ。
私のこの考えは、一方では身分制度や士農工商、妻妾同居とさえつながりかねない。つまり私は自分の一定の生活や欲望が保障さえされれば、最低限の奴隷であろうが妻妾同居の妾であろうが、それなりに充分幸福だろうという自信と実感もどこかで持っている。だが、そのような保障をしてくれる主人や夫や国家や神の存在を今のところは信じられないので、やはり自分の面倒は自分で見るしかないだろうと考えているだけだ。
更についでに言うならば、自分が主人や夫や国家の支配者や神になる方が、いっそ面倒がないかもしれないとぼんやり考えたりもする。
6 草を食べるフーロン
予想していたことではあったが、話がへやじゅうにとっちらかってる気がするので、少し元に戻したい。
私が恐怖というものを感じた最初の頃の話である。
「草を食うフーロン」と聞いて何のことか、すぐわかる人っているのだろうか。
これはディケンズの「二都物語」に出てくる収税吏で、出てきたと思ったら殺されてしまうので、多分二ページぐらいしか登場していない。
私は「二都物語」を、子供向きの講談社文庫と、その後文庫本で読んだ。あんな場面を子どもの本で書くとは思えないから、きっと文庫本で読んだと思うのだが、不思議なことに私のフーロンにまつわる記憶には、小学校の小さな図書室の壁や棚や椅子が重なっている。どうも、そこで読んだか、少なくともそこに行っていた頃に読んだ可能性が高くて、そうすると文庫本ではないのである。しかし、一方ではその場面の文字は文庫本のサイズで思い出すのである。
つまり、いったい、いつ、私はフーロンの出てくる場面を読んだのだったろう? あの頃の子どもの本は案外平気で、そういう場面を書いていたのかもしれない。
もったいぶらずに早く言えと言われそうだから、説明すると、フーロンはフランス革命の起こったころ、どこかの町で蜂起した民衆に屋敷かどっかに押し寄せられて、ひきずりだされて処刑されるのである。もちろん、それに値するだけの残酷なことを彼は民衆に対してそれまでしていて、恨みをかったわけである。
彼は、飢え死にしそうな貧しい人々に向かって「貧乏人(百姓だったかなんかそんな意味のこと)は草を食え」と言い放ったことがあった。民衆はそれを決して忘れてなかった。だからひきずり出したフーロンに草を食わせる。無理矢理に口に押しこむ。その上で首をはねてさらす。首だけになった彼の口からは(鼻からも耳からも、じゃなかったよなあ、まさか)草がぴんぴん飛び出しているのである。それを見上げて民衆は歓呼の声をあげるのだ。
私は昔も今も臆病で、変なものにものすごくおびえる。手塚治虫のSF漫画に出てくる「ガビラ」というヒトデのような宇宙からきた生命体が、異様に恐くて、一時期は夜に外を歩きたくなかった。他にも何かそういうものはあった気がするが覚えていない。
だが、フーロンのみじめで滑稽でグロテスクな首のイメージは、そういう恐さとはちがっていた。そこには死の持つ尊厳も何もなかった。もちろん私はフーロンに同情しなかった。彼はそうされてもしかたのないことをしたのだから。彼にそのようなしうちをした民衆を恐いとも憎いとも感じなかった。けれども、むろん好きとか魅力的とも思わなかった。
しいて言うなら、すべてが何かものがなしかった。加害者にも被害者にも感情移入できないで、何をどう感じたらいいのかわからなかった。
私はその時も、それからも、民衆と革命をずっと支持した。フランス革命も、イギリス革命も、ロシア革命も。虐げられた民衆が立ち上がるのは正しいと思い、独裁者や暴君を倒すための戦いはテロも含めてすべて認めた。
だが、実際には、立ち上がって戦う民衆は、いつも私にとって、フーロンの口に草を押しこんで首を切った、あの女たち、男たちだった。そういうイメージでしか私は革命を考えられず、それでも支持しなければならないと考えていた。
「二都物語」は、殺す貴族のリストを編み物に編み込む、マダム・ドファルジュをはじめ、民衆を残酷に下品に描く一方で、とらえられ殺される貴族たちを美しく描いている。普通に読めば民衆を恐れて憎み、貴族に感情移入しそうなものなのに、私がそうならなかったのは、貴族の側の残酷さもあの小説がどこかで書いていたからだろうし、他の小説の影響もあったのだろう。
私が、たまたまそういう、貴族を美化した小説であの場面を読み、民衆の残酷さが刻みつけられたというのも、そう一概には言えない。
他にも、デュマだったかの「黒いチューリップ」で、身分の高い王族か閣僚クラスの男性二人が暴徒にリンチにあって殺される凄惨な場面も読んだ。これは確実に子ども向きの講談社文庫で、殺される二人はフーロンのような暴虐な支配者ではなく、むしろちゃんとした魅力ある男性だったから、更になまなましい印象を受けた。
中学で読んだショーロホフ「静かなるドン」でも、革命軍反革命軍入り乱れての残虐行為、暴力行為が、これは大人の文庫本だったから、容赦ないすさまじさで描かれていた。
自然の災害、火事や洪水などと異なる、人間の残酷さ、凶暴さ。それを私は現実にも、いじめっ子に泣かされたり、母にぶたれたりして味わうこともあったけれど、それよりもはるかにすさまじいものとして、文学の中で、それを知った。
最近の日本の子どもはもしかしたら、現実のいじめで、読むより先にそれを体験するのだろうか。世界の子どもも、現実の戦争や紛争で、それを読むより早く実際に知るのだろうか。それは私はわからない。けれど、人間は体験する以上の恐怖を、どこかでいつか、いつも持っているような気もしないではない。どんな現実も上回る空想が、誰の中にもいつもある。その恐怖が、現実をひきずって、変えてしまうことだってある。
現実のいろんなものにおびえながら…仲間はずれにされないかとか、裏切られないかとか、いきなり攻撃されないかとか、さまざまなことを恐れながら、それとは別に、けれどもどこかで重なって、あの頃、本を読みながら私が恐れていたものとは、それはいったい何だったろう。
ひとつは、言うまでもなく、力で支配されることだった。金で、腕力で、権力で、自由を奪われ、意志を曲げられることだった。それに対しては戦っていい、と私は自信を持っていた。家族や学校がそれをそんなに教えたわけでもなかったから、やはりそれは、読んだ本から得た知識だったと思う。大きな力に逆らって、上からの支配に逆らって、戦うのは正しいことだった。これは読んだ本だけではなく、戦後の、あの時代の風潮でもあったのだろう。おませな私は大人の読む新聞や雑誌によく目を通していた。当時は女性週刊誌もフォーカスもフライデーもなく、テレビも普及しておらず、民主主義と革新思想が、どの週刊誌にもあふれていた。ラジオも知識人も多分皆普通に左翼だった。思えばあの時期、公然と保守を標榜した人たちは、やはりそれなりに偉いと思う。それほど、右よりな思想は古くさくて受けが悪く、警察や暴力団と結びついて、危険で暗いイメージだった。少なくとも私が当時ふれていたメディアでは。
けれど私は、そのような右翼や暴力団を嫌悪はしても恐ろしいとは思わなかった。ついでに言うなら、戦争文学で悲惨な残酷な描写を見ても、それは少しも恐くなかった。もう戦争は起こらない、起こしてはならない、起こさない、と、子どもの私は思っていたから。そういうことをめざすものとは、勇敢に戦ってそして勝利すると、まったく普通に思っていたから。
私は時代に流されていたのか。それは間違いだったのか。今、私にはどちらとも言えない。
いくらそんな時代でも、そこまで考えていた小学生は、きっとそんなに多くない。だが、ほとんどいなかったとも言えないと思う。人間は前進するもの、世の中は変革するもの、戦争は二度と起こさず、平和は絶対守り抜くもの。ちょっとおませで気の利いた優等生なら、多分だいたい、そう考えていたし、口にもしたはずだ。それは、今、同じようにちょっとおませな子どもが政治や思想をかじったら、2ちゃんねるに中国や朝鮮の悪口を書いてみようと思うのと、まるで変わらない部分がある。
私は田舎の学校で、回りの子どもとそんな話はできなかった。本の話もできなかった。それでも、ちっとも淋しくも物足りなくもなかった。友だちとは他愛ない噂や冗談を言い合って、何時間でもしゃべっていられた。本や思想や政治の話は、皆、母としていた。年の離れた姉妹のように。私はそれで満たされていた。
戦争は恐怖ではない。戦争を起こそうとする勢力と戦うことも恐怖ではない。もちろん恐いとしても、立ち向かうことで克服できる。
だが、そのように大っぴらに口に出せない恐怖の対象が、いつも私にはなかっただろうか。
民衆への。私より劣った者たちへの。
7 優劣の基準
「私より劣った者」という言葉を、私は今、軽率に選んだのではない。
そもそも自分が、人よりも劣っているのか優れているのか、私はいつもわからなかった。
さしあたり優等生で、多分暮らしには余裕があった。だがそれも、田舎の学校だったからだし、本当の富裕層にはとても及ぶようなものではなかった。
都会の親戚の家に行けば、田舎者だった。田舎の友だちの中では、都会風の異分子だった。誰でもそうだろうが、いろんな意味で私の立場は二重だった。
そして私はいつからか、いつもどこかで、自分より弱い者、劣った者から、自分が攻撃され、侵略され、ほろぼされるのではないかと、かすかに恐れていた。
私の周囲の、私より生活の苦しい、私より成績の悪い友人たちは決してそんな要求を私に対してしたことはなく、むしろいつも、私を守ってくれていたのに。
私は彼らを愛していたし、甘えていたし、信じていた。今でもそうだが、周囲の理解や容認に、いつも自分のわがままが許され、弱さが支えられていると感じている。
それなのに、それとは別に、いつもどこかで、「民衆」を恐れていた。
彼らが私に何かを要求し、私にとって大切なものを奪うのではないかとおびえていた。
しかも、目上の暴君や支配者が奪うのとはちがって、それは正義に照らして正しく、私に抗弁の余地はない、そういうかたちで。
私の家族は、キリスト教の信者ではなかったが、その文化に親しんでいた。私は日曜学校に行ったりしていて、神のことは普通に身近に考えていた。本当に神が存在するかということについては、真剣な問いかけさえもしたことがない。だが、偉大な、正しい、信じられる存在として、そのようなものがあることは漠然とうけとめていた。私がまちがったら罰し、反省すれば許してくれる存在として、そういうものがどこかにあることも意識していた。人によっては、それは父母や家族や、先生や社会や法律になるのだろう。人は皆、誰でも、そういうものを求めるもので、そのことでは私が特に変わっていると思えない。ただ、その、ごく最初の頃から、私の中では、私よりも貧しい人、愚かな人、弱い人が、いつもどこか、そのような偉大な存在と重なっていた。私は、自分が罰され、許され、認められる相手を、具体的にはたとえば金の冠をかぶった偉大で巨大な王や将軍としてではなく、ぼろぼろの衣をまとった、外見の醜悪な傷だらけの死にかけた人として、イメージしていたような気がする。
その感覚だって、それほどものすごく特殊だとは私は思っていない。洋の東西、古今を問わず、聖人や神はしばしば醜い病んだ老人の姿で、人々の前にあらわれ、人々をためし、その反応で人々を評価し裁き奇跡を起こしてほうびを与える。最もいやしい存在とされる人々、たとえば遊女の姿を借りて、神はあらわれることがある。そんな発想が何にもとづくものかは知らないが、いつの時代の誰の心の中にも、そういう予測はあったのだと思う。
更にまた、社会主義やマルクス主義に関係する文学の中では、エリートやインテリやブルジョアの若者は、こっけいなぐらい、自分を卑下し、劣等感を持ち、労働者や農民を尊敬し信頼している。この感覚は現代つまり2008年段階での日本では、壊滅的になくなっていると思うので、そういう感覚のエリート男女が登場する小説、まあツルゲーネフとか、そのあたりの古典を読んだら今の若者は宇宙人の話を読んでいるような気がするにちがいない。
そのような「労働者は正しい」感覚が、どの程度特殊なものであったのかは私にはよくわからない。だが少なくとも戦後の日本、もしかしたら世界でも、そういう感覚はそんなに特別なものではなかった。そして、私の中ではそれは、幼い頃になじんだキリスト教の、「貧しく、恵まれない者こそを神は最も愛される」という感覚と、少しも矛盾せず自然につながるものだった。
幼い私は、母(父はいなかった)を尊敬し、学校の先生を尊敬し、多分神も尊敬し、その人たちに愛されていると感じ、愛されたいと願っていたし、それは努力すればできることだと思っていた。どんなにがんばっても愛されない、求めたものが与えられないという感覚は、特に精神的な面では私にはほぼ、いやまったくなかったと言っていい。私は皆にかわいがられていた。外見が醜いとか、行動が機敏でないとか、そういったことはいつも言われていたが、愛情こめて言われていたせいで、私はむしろ、自分の外見や能力は、人の愛を得るという点で必要なものではないということを、日々実感していた。多分、私に手足がなくても、似たような状況だったろう。
私は、目に見えない神も含めて、そういった周囲の判断や評価をいつも信じていた。禁じられても罰せられても、それに不満は持たなかった。
だが、それも成長にともなう自然なことだろうが、次第に私は、そのような周囲の判断や評価を信用しなくなっていった。母も家族も先生も愛していたが、時に怒りを持つようになり、時に距離をおくようになった。たまたま小学校の時、一学年ごとに担任の先生が替わったのでわかりやすいのだが、小学校五年生の時からはっきり、担任の先生に甘えなくなった。決して悪い先生ではなく、その当時からそれはわかっていたし、だから反抗もしたわけではない。ただ、まったくさめた気分で先生や親を見るようになった。
私が弱い者、劣った者、愚かな者を信頼し、愛し、尊敬し、神と同等にとらえていた感覚は、その中で比較的変化の少なかった方だ。それは私の中の最後まで残った信仰だったのかもしれない。
偉そうな教育者は批判した。母や祖父にも時には冷たい評価を下した。神を批判しなかったのは、いないならしても無駄だと思い、いるのならうかつに抵抗しては危険だと判断していたからである。
弱者も、それと同じだった。弱者を否定し、攻撃していいものかどうか、当時の私にはまだ判断がつかなかった。実のところ、今でもつかない。くりかえすが、今現在は2008年の日本だ。これだけ大っぴらに恥ずかしげもなく恐れげもなく、弱者が攻撃されている時代も社会も珍しいと感じつつ、なお私は、その攻撃している勢力の強さを信用できないでいる。弱者という神への恐怖も畏怖も捨てきれずにいる。「きっとばちがあたるぞ」と、どこかで恐れている。そういう攻撃に加わる勇気どころか、何もしないで黙って見ていたことをとがめられ、責められる日が来るのではないかとさえ、この今、私は恐れているのだ。弱者という神は、私にとって、それほど偉大だ。
神そのものに対しても私は「もし存在するのなら、いまのところまだ勝ち目はない」と、それこそ神が聞いたら笑い死にしそうなことを、意識下の水面下でけっこうまじめに考えていた。
民衆、弱者という神についても、似たようなことを考えていた。「とても勝ち目はない。どうせ私が悪者になる」と。
ついでに言うと、男性に対する女性としての怒りでもそうだった。「今の状況なら絶対に勝ち目はない。自分が滅ぼされて終わりだ」と。更についでに言うと、必ずしも勝ち負けではなく必ずしも男性を敵としてでなく、この問題については私は今、負けずにすむ見通しを持てた。これだけでも生きてきた意義はあった。
神に対しては、どうせもう死ぬまで無理だろう。だいたい、いないかもしれないのだから、それはそれでよい。また、この点についても私は「存在を示してくれない」ものに対しては「いないという前提で生きてやる」という対応策を一応は考えているので、さしあたり互いに何とか最後までやりすごしていける展望はある。…ってもう二世帯住宅の嫁と姑じゃあるまいしって感じだが。
まあ、そのへんはいいとして、要するに、残った「民衆、弱者との関係」について、勝ち目があるのかないのか、このへんがわからない。実はだんだん勝ち目がありそうな気がしているから、こんなことを書き始めたのだが。そして、勝ち目がある時に、ある方がさぼらないで勝っておかないと、悲劇が起こってしまうことが世の中にはままあるからなのだが。
私が勝ち目がないと思っていた状況の話をしよう。もちろん私が幼かったということもある。だが、その幼い私なりに、母をはじめとした家族も、学校の先生も学校も、社会も神も、皆すべてが、弱者や民衆と私が対立し対決した時に、決して、断じて、私の味方になどつくはずがないということを、私はそんな対立など何も起こっていない時点で、もうまったく完全に確信していた。そもそも私自身がすでに、弱者や民衆、大衆と対立する自分など、許せも愛せもしないことが、いやというほどよくわかっていた。
とにかく民主主義全盛の時代である。家庭でも教室でも社会でも、常に正しいのは庶民で、民衆で、恵まれない弱者だった。先生でも親でも、およそ人の上に立つ人のまなざしにも、ことばのはしばしにも、その姿勢がはっきりあらわれていた。読む本にも新聞にも、そういう考え方しかなかった。そしてキリスト教であれ仏教であれ、それは宗教のすべてに通じる教えでもあった。恵まれている者は、恵まれない者のためにつくせ。劣っている人、弱い人を傷つけるな、あざ笑うな。朝から晩まで瞬時も休みなく、その考え方の中で私は生きていた。
もちろん、それは基本的に大変正しい。そして、今この2008年の日本では、そういった考え方が今度はなくなりすぎているような気もする。私の幼かった時代、強い者、すぐれた者は、周囲に奉仕するのが当然という感覚は、古い伝統としても新しい思想としても、力強く、あたたかく社会に流れていた。その点ではまちがいなく、いい時代だったと思う。
それでも、問題はその中で私がいつも、「いざ私が誰かと対立したら、親も教師も社会も神も、絶対味方にはついてくれない」と自然に実感していたことだ。たとえば、一番最初にあげた、大好きな絵本を貧しい友だちに貸して、汚して、なくされたとしたら、絶対に私が我慢する他ないということは、神も先生も母も一致していると感じていた。実際の私はわがままで甘えん坊の女の子だったが、それにしても私のあらゆる要求は、きっと、もう私がその欲求を持った時点で、私が持ったということで、わがままになってしまうのだということを私は知っていた。私には、切実な、誰にも納得し同情してもらえるような欲求はそもそも持ちようがないのだ、何かを願った時点ですべてそれは、わがままで、ぜいたくになるしかないのだと、私はどこかで知っていた。
8 パトリシア事件
何かがおかしい、と、いつもどこかで、かすかには思っていた。だが、まさに、この今でさえ、私は自分のその感覚が正しいかどうか自信がないのだ。
恵まれている者は、不満を口にしていいのだろうか。いつも、それを思う。
やっかいなのは、恵まれていない者でも、不満を口にしない人はいくらでもいるだろうということだ。私自身、ある部分ではそうである。
耐えるのは、あまり正しいことではない。怒りや不満は、かかえているより話し合おう。
基本的には、それが正しいとわかっている。しかし、そうするには、相手や周囲への信頼や愛がある程度は必要だ。それが足りなかったから私は、男性への不満や憎しみを長いこと決して口にできなかった。ある時点から、それは言えるようになって、人生の半分が身軽になったような気がする。だが、まだ残りの半分か三分の一かは、身軽ではない。それは私が、恵まれている者としての不満をまだ決して口に出してはいないからだろうと思う。
正直、心のどこかで思う。私のこの不満は、実は多くの男性の抱いている不満と共通しているのではないかと。弱音を吐くことを許されず、つくすことを求められ、期待にこたえ責任をとることが常に当然とされる存在が、死ぬまで言えずに抱く不満と。
女としての怒りと同様、いやそれ以上に、私はこの不満を死ぬまで口にする時はないものと自然に思っていた。不満と、そして恐怖も。
私は自分が恵まれた人間であり、経済的に周囲より多分困っていない立場にあり、優等生で成績がいいことで、いつも自分が危険にさらされていると思っていた。何かを要求されているような気がしていた。それは、目に見える周囲だけではなく、遠い国の飢えた人たち、不幸な人たちからいつも、自分の幸福が見つめられているような、そんな感じだった。
私は、それが考えすぎとは思えなかった。むしろ、自分の恵まれた立場、食べ物に困らず、寒さに震えず、平和な国で楽しく生きていることについての、負い目や恥ずかしさを、もっと感じていなければ、うっかりそれを忘れてしまったら、自分がものすごくまちがった、とりかえしのつかない発言や行動をしそうな気がしていた。実際に私は気づかずに、いくつかそういう発言や行動をしたことがある。謝るべき時にも謝りそこねた。誰も私をとがめなかっただけに、自分では忘れられなかった。いつか、そのことで責められ、罰せられるにちがいないと、半分あきらめて生きていたような気がする。
小学校高学年のころから私は、いくぶん反抗的になっていたが、暗い激しい反抗などは手垢がついていてつまらないという意識もあり、陽気で軽やかな反抗を心がけていた。どんなに愛して尊敬する相手にでも、支配され束縛されるのは絶対にいやだと思っていた。力や情や、そういったものに訴えて、こちらを好きなように動かそうという相手は許さなかった。傲慢ということばは大好きだった。そんな批判にはびくともしなかった。
私の目上の人にとっては楽しくなかったろうが、私にとっては、そんな日々は悪くなかったし、楽しかった。しかし、私はほとんどもう神も含めて目上の人たちの弱点は見切っていて、相手の力も知っていて、その中で自分がどこまで好き勝手をできるかも計算していて、基本的に恐いものはなかったのだが、実は何より恐れていたし抵抗できないと思っていたし、ある意味、神にひとしい存在と感じていたのは、貧しい、不幸な、醜い、愚かな、弱い、すべての人たちだった。
その人たちから「あんたはうぬぼれている」「あんたの存在は不快だ」「あんたはいい気になっている」「あんたの持っているものを私たちにもわけろ」と、もし言われたら、何も抵抗できないと感じていた。されるままになるしかないという、確信があった。だって、弱い、不幸な人たちを傷つける存在になりたくなかった。民衆をしいたげる存在になりたくなかった。
現実には、その当時、優等生でお嬢さんである私が、それを理由にいじめられることはなかった。それに近いことはあったかもしれない。けれど、それを予測して極度に恐れていた私は、そうならないよう、あらゆる工夫をしていたから、そんな事態は起こらなかった。私の努力だけではなく、そのころはまだ、そういう時代だった。私のまわりの子どもたちは寛大で、あちこちボロが出ていたにちがいない私の過ちの数々を、見逃してしまってくれた。それでも、小中高で私が何より恐れたのは、数回言われた「勉強ができると思っていばってる」といったたぐいの陰口や悪口だった。
私が当時あれほど恐れていた状況は、その後、私が大人になったころ、優等生も対象になることがある「いじめ」として、学校内で発生し、定着した。私は、そういういじめを受けた子どもたちが、時々、唖然とするほど何の抵抗もせず、相手の言いなりになる心境に、もしかしたら当時の私に共通するものがあるかもしれないと思う。当時の私が、誰かに何かを要求されたら、黙って言いなりになった可能性がある。その根底には「この人たちより私は幸福なのだから、我慢しなくてはならない」「どこか遠くのたくさんの人たちよりも、私は幸福なのだから、その遠くにいる不幸な人たちのかわりのこの人たちから、ひどい目にあわされなければならない」という、要するに、恵まれ、優れて、幸せであることのうしろめたさが横たわっている。いた、とは、たった、この今でも私には書けない。自分の金、自分の幸福、自分の持っているもののすべてが、「これは私がかちとったもので、あなたに渡す理由がない」と心の底からきっぱりと、どんな相手にも言い切れない。
私がこう考え感じるようになった原因の一部には、確実にマルクス主義とキリスト教がある。だが、仏教でも、その他の宗教思想道徳のすべてに、こうなる要素はあると思う。自分が幸福である根拠や理由がしっかりとつかめない。私は、この地位、この幸福に値する、それにふさわしい人間だと、誰にも後ろ指さされる覚えはないと、胸を張って堂々と言い切れない。豊かで、健康で、幸福であることのつぐないを、何かのかたちでしなければならないと、ずっと思いつづける。
それは悪いことではない。むしろ、このところの日本には、その感覚が崩壊しすぎている。この感覚が皆無なのは、個人でも社会でも、非常に危険だ。
だが、ありすぎても、また危険だ。
こわいもの見たさというのではない。やけっぱちというのでもない。でも、その二つに近い心境としか言いようがない、ある投げやりさと冷静さで、当時の私はしばしば、おごりたかぶった自分が天狗の鼻を折られ、気づかずに傷つけていた人たちから、糾弾され抗議され、今の地位からひきずりおろされ、制裁され処刑されることを空想した。私は当時は性的な妄想でも被虐的だったと思うし、そもそも加虐的な妄想というものが正確には可能なものか、ずっと疑問なのだが、それはさておき、そういう「正義の弱者」から「過ちをおかした支配者」として、あらゆる処罰を受ける空想をする時、そこに性的な快感もあったかもしれないが、それ以上に自分の気分として憶えているのは、「まあ、こんなもんだろうなあ」という、ものすごくさめた気分と、「ああ、疲れちゃったよ、もうどうでもしてよ」という、恐ろしいほどの疲労感だった。
人の上に立ち、すぐれた人間であること。誰からもうらやまれる幸福を手にすること。そのことに私はいつも、緊張と疲労を感じつづけた。そういう空想をする時、私を罰して葬る弱者は、どこか神でもあったのだが、そういう存在に私は恐怖も尊敬も愛も感じてはいなかった。あんたがそんなにうらやんだ私の幸福が、そんなにほしいならくれてやる。だからこれでもう縁を切ろうね。そんな気持ちさえあったかもしれない。言いかえれば、疲れ切って抵抗も弁明もせず相手にされるままになってはいても、私はまるで相手に心を支配されてはいなかった。相手の告発や糾弾をすべて納得して認めていても、なお心の底で私は、私には絶対にどうしようもなかった、と思っていた。貧しさや愚かさや弱さや汚さが、神にうけいれられ、認められ、それ故に犯した罪の数々が許されるのなら、私が豊かで優れて強く美しかったゆえに犯した過ちの数々も、同じように私の罪ではないということにならなければおかしい。心の底で永遠に溶けない氷のように、そう確信しつづけていた。
七十年代、私が学生のころか、世界でさまざまなかたちでの、反体制運動が盛んだったころ、アメリカでパトリシア・ハーストという大富豪の令嬢が過激派の集団に誘拐された。彼女はレイプされ洗脳され、自分が貧しい者をしいたげていた富裕層だったことを恥じて悔い改め、過激派の仲間とともに銀行強盗をしたりした。その後、逮捕されカウンセリングを受けて立ち直り回復する。その治療にあたった医師の手記を週刊誌で読んだ記憶がある。
今ではあらゆる点で、とんでもない事件にみえるが、その当時は普通とまではいかなくても、そんなに突飛ではない、あってみればありそうな事件だった。私は本能的に避けて、あまり詳しく関係の記事は読んでいないが、内心しばしば苦笑したぐらい、これだけ私にとって扇情的に切実で、あらゆる点で不快な話も珍しいと、そのマイナス方向での完璧さにひそかに感心していた。
パトリシアは、そういう目にあうまでは、多分自分の立場について、うしろめたさなど感じていなかった普通の令嬢だったと思う。衝撃的すぎる屈辱の数々を受けた時、それとセットになって、「こんな目にあうのは、おまえにとって当然の罰だ」という教育がなされたということが、完全無欠なまでに私をうんざりさせまくる。
だいたい、レイプや拷問、監禁、拘束、脅迫などとセットになった説得や教育は、どんなに納得できる正しい内容だったとしても私にとっては耳をかたむける余地のあるものではない。そういうことがなされて、しかもそれが、どっちかというと私が支持してきた革命だの反体制だのの思想を教え込むためにやられたということが、輪をかけて、どこまでも不愉快で、実にすきまなく理屈でも感覚でも腹の立つ事件だった。
パトリシアも生きていたらもうきっと、私と同じくらいの老婦人になっているのだろう。そして、彼女には失礼なのか救いなのかよくわからないが、当時あれだけ考えまいとし、無視してはいても、この事件のあまりのしょーもない安っぽさと滑稽さとは、私がずっと心の奥で抱えていた、「恵まれていた者が、虐げられていた者から断罪され処罰される」という図式への、恐怖やあきらめを消して、嘲笑と怒りに、わずかながら方向転換させてくれたような気がする。誰がパトリシアのようになるか。彼女をレイプし支配した集団ほどには愚かでなく、もっと巧妙で、もっと高級で、もっと精緻な攻撃が加えられる可能性があっても、それにおめおめ屈してなるか。そんな思いが少しづつ私の中に生まれてゆく、とてもささやかなきっかけに、あの事件はなったのかもしれない。
ただ、その歩みは、あまりにも少しづつで、のろかった。今でさえ、見てのとおり、この方面での私の進む速度は遅い。そして、私のかすかだが大きい後悔は、もしこの問題に私がもっと早くとりくみ、たとえ部分的にでも解決の方向を見つけていれば、この十数年の間に起こった、いじめや少年犯罪の数々による被害者や加害者をもっと減らすことができたのではないかということだ。それらの、どちらかというとエリートの少年少女の、犯行や自殺にいたる心境のどこかには、私がここでこだわっているさまざまな問題との関わりがあるように思えてならない。最初にこのような犯罪として注目されたのは、祖母を金属バットでなぐり殺して自殺した少年の事件だったと思うが、あの少年の手記を見た時、私はそのはしばしに、決して人に言えずにきた自分の怒りや恐怖と同じものを、暗号で書かれた手紙のように読み取った記憶がある。連合赤軍事件の永田洋子と私のちがいが見出せないと私はしばしば言ってきたが、それとはまたちがった意味で、「この少年は私だ」と感じたことを憶えている。
9 シチュカーリ爺さん
「静かなるドン」(このロシア革命を描いた長編小説自体が、今ではもうまったくちがう内容の劇画のタイトルとしてしか知らない人の方が多いかもしれないが)の作者として有名なロシアの小説家ショーロホフには、革命後の農村が社会主義への変革を行っていく過程を描いた「開かれた処女地」がある。文庫本六冊か七冊の「静かなるドン」に比べると、こちらは文庫本二冊と、かなり短いものの、けっこうな長編ではある。私は「静かなるドン」も好きだったが、「開かれた処女地」はもっと好きだった。ショーロホフの妙なユーモアは、この小説の方がよく出ていた気がする。
多分、読んだのは中学の時で、他の本と同じく、母といっしょに読んで、夢中で感想をしゃべりあっていた。私は母の感想や意見に異を唱えたことはなかったが、理解や共感はできない時もよくあって、それを口には出さずにただ覚えていた。
この小説の場合、私は多分、昔ながらの農民たちの住む村を、社会主義体制に変えてゆこうと努力する、都会からきた労働者の若い政治委員ダヴィドフや、一本気で気性の激しい共産党員ナグーリノフに共感しつつ読んでいた。それに対して母が好感と興味を持ったのは、村の社会主義化に協力し、それに共感も支持もしながら、反革命勢力とも関係を持って、常に気持ちがゆれているヤーコフ・ルキッチだった。
村の主なメンバーとしては、反革命軍に妻を殺され、深い怒りを抱きながら復讐のための殺人はついにできず、村の社会主義化のために努力するラズミョートノフと、自分の大事にしていた牛を共同で飼うようになっても、やはりえこひいきしてしまう、私有財産への執着に悩むまじめな農夫マイダンニコフなどがいる。今こうして書いていると、私の好みから考えると母と同じにヤーコフ・ルキッチを好きになりそうな気がするのに、当時はそうはならなかった。ちょっと不思議だ。
何かの目的をめざして努力する集団の中で、ひそかに別の世界を持ち、裏切り者と内通しつつ、どっちつかずで心がゆれている人物なんて、本来絵に描いたような私の好みで(木下尚江「火の柱」では、特高スパイで新聞記者の吾妻が大好きだったし)、あるいはこれは母のDNAを受け継いでいたのかもしれないのに、この小説ではまったくそうではなかった。いつも「獅子身中の虫」そのものの彼には、まったくものすごく、ただもうイライラさせられた。その頃もう、あるいは思想的に革命や社会主義が好きになっていたのだろうか。それとも別の要素だろうか。思い出しても、よくわからない。
ショーロホフは文句なく社会主義作家で、この小説もソ連の偉大さを描いた作品なのだろうが、しかし、そのわりには読んでいて、たしかに母が夢中になったのでもわかるように作者はヤーコフ・ルキッチを力を入れて描きすぎている。もっと言うなら、この話全体、そう簡単に社会主義礼賛、民衆礼賛の文学のように思えない。
ラズミョートフが最後に隣家の若い娘と再婚し、妻の墓に詫びに行く場面でこの小説は終わっている。超乱暴な言い方をすると、私はこの亡妻の墓が、その少し前に死んだヤーコフ・ルキッチの墓に見え、作者がラズミョートノフとともに、過ぎ去った時代に、ヤーコフ・ルキッチに追悼を捧げているように思えてしかたがないのだ。
マイダンニコフの私有財産についての悩みも、私は彼がとても好きだったが、感動的というよりは微笑ましくて滑稽にさえ思えた。まちがった観念を克服するための思想闘争という真剣さや深刻さを、私は感じとれなかった。「やっぱり自分の牛がかわいいんだ」と悩みぬくマイダンニコフの心境を作者は別に悪いとも何とも思っていないようにしか、私には思えなかった。
マイダンニコフの心情は、実はパトリシア・ハーストと同程度に、私の気持ちと共通するはずである。なのに私は、彼の悩みに、「社会主義になったら、こうなってしまうのか。こんなことを悩まなくてはならないのか」という深刻さも切実さも、まったく感じなかった。その気持ちはわかりすぎるほどわかっても、少しも危機感を持たなかったのは、作者自身にそれを批判し追求する意図がなかったからではないか。そんな風に思えてならない。
こういうことがすべて、私の勝手な妄想なのかもしれないが、そう言い切ってもしまえないのは、この作品に登場する民衆、村人、特にその中でのシチュカーリ爺さんという人物の存在である。
この人物は長いこと、いや、今にいたるまで私と母との「シチュカーリ爺さんみたいな」という話のたとえに使われているほど強烈な描かれ方で、とにかく愚鈍で狡猾で欲深く卑怯で臆病で、もうどこをとってもいいところも愛すべきところもひとつとしてない。パワフルでしぶとくもある。しかも、その描写は実に生き生きと細かく、リアルである。ぜひもう読んでみてほしい。一度読んだら忘れられない。シェイクスピアのフォールスタッフなんて、この爺さんに比べれば聖人である。
何を思ってショーロホフは、こんな爺さんを民衆の一人として描いたのか。克服すべき旧世代の象徴なのだろうか。
(ええとですね・・・ヤケというのは、こういうことかと思うのですが、ここで書いていることといろいろ重なる、友人の「じゅうばこ」が書いた文章を、リンクしておきます。映画の話なのですが、最後の「その三 剣をおさめよ!」のあたり、「自分の基準が持てなくて、他人との競争でそれを確認しようとする人」について述べています。よかったら、拾い読みして下さい。
また、私のサイトのトップページから「鳩時計文庫コーナー」に行って、「青い地平線」という、これも友人が昔書いた小説にも、ここで書いたような問題が描かれていると思います。)
以下はメモです。無視して下さい。
多分私は、民衆と支配者は、いつでも結託すると、どこかで思っていたのだと思う。
パトリシア・ハーストの事件は、かなり私の自分について予測していた図式のどこかにあてはまっていた。私は恐怖し、敗北を予測し、そして屈服したのだ。
いつか、ずっと昔には私は王や貴族が好きだった。いつからか、徹底的に民衆の味方になった。でもそれは、好きだったからではない。自分が民衆と思ったからでもない。民衆になりたいと思ったからでもない。
三つの大きな敵がいた。支配者・強者という力。親や教師も含まれる。そして男性と、それを支えている社会。最後に、弱者・民衆・庶民。
私の、この民衆への不信感は、男性が女性に感じているそれと、多分大きく重なっている。だから、私が民衆や庶民への恐怖を見つめ、語らなければ、男性と理解しあえることもないだろう。
社会主義や共産主義を攻撃する人たちの意見を聞いて、その大半、ほとんどすべてに私はがっかりしていた。その程度しか批判することがないのかと、いつも思った。残酷だとか、冷たいとか、画一的とか。そんなことに文句を言っていいのなら、私が最初に言っている。そう思った。そして、社会主義や共産主義でなくても、ばりばり資本主義、ばりばりキリスト教、ばりばり日本の伝統の中でも、そういう他者との共存とか集団の大切さとか、そういうことは、いつも言われていたではないかと思った。資本主義でも自由主義でも、そういう要素は避けられなくて、私はそれを我慢しなければならなくて、だったらいっそもう、社会主義でも共産主義になってしまえと思っていた。
選挙の票がほしいから、民衆や庶民の悪口は誰も言わない。怒られもせず、誤りを指摘もされず、民衆と庶民は愚かさを増し、増長する。いつか、それを自分でももてあまし、強い支配を、独裁を求めるのだろう。
マイダンニコフとシチュカーリじいさん。
杉浦民平の小説。
罰される快感。キリスト教の苦行なども?