東遊雑記「東遊雑記」稿本について

江戸紀行の代表作

岡山の郷土史家古川古松軒が、幕府の巡見使に従って東北地方を経由して、蝦夷の松前に赴いた際の紀行「東遊雑記」は、単身九州を旅した「西遊雑記」とともに「東西遊雑記」と称され、橘南谿「東西遊記」とともに、江戸紀行の代表作である。

江戸時代の紀行と言えば松尾芭蕉の「おくのほそ道」が有名すぎるが、これは著名度が突出しすぎていて、同時代には他にろくな紀行はないかのように思われがちだ。研究史の上でも、そう言われていた時期が長かった。

これはまちがいで、実際には二千五百を超えるだろうと思われる多くの紀行が江戸時代には書かれており、その中には「おくのほそ道」にひけをとらない、すぐれた大作や名作も多い。だがその多くは評価を受ける機会さえなく、ひっそりと今もまだ、各地の文庫や図書館に眠っている。

私が江戸紀行の研究を始めた五十年ほど前に、それでも江戸紀行の代表作として、「おくのほそ道」についでとりあげられることが多く、専門分野では比較的知る人も多かったのが、古松軒と南谿のこの二作だった。後者は出版されて江戸時代にも広く読まれている。前者は写本で流布し、後者ほどではないが、やはりよく読まれたことは、全国に現存するおそらく百点あまり残っている写本からも察しがつく。

江戸時代、幕府は出版物を厳しく取り締まったが、それは出版された本が対象で、写本で流布する分にはまったくおとがめがなかった。古松軒のこの紀行は藩の内情などにも触れており、忌憚ない批判も多いので出版されることなく写本で読まれたのだろう。江戸時代の読者は貸本屋を多く利用したのだが、その貸本屋が所有していたと思われる、一見出版された板本と区別がつかないほど、美しく清書された写本も多く見た。この本は多くの挿絵を有するのだが、ほとんどの写本が、その絵図もていねいに写して伝えている。

諸本の系統はほぼ三つ

私はこの中の六十点ほどの写本を実際に見て、その系統が(東北地方の部分を省略しているものなど)おおむね三つに分かれることを知った。そのことを論文にし、新書にも書いた。

だが、そこにも記したことだが、その三つの系統のどれにもあてはまらない写本が二つあった。一つは部分的にそうだが、もう一つは完全に全体がまったく別のものだった。内容は同一なのだが、表現や構成が異なる。しかもこちらの方が、よりなめらかで自然な紀行の体裁である。

おそらくこれは、後に流布して現在多くの写本で残る「東遊雑記」の原型をとどめる稿本であろう。

この本は東京大学附属図書館の南葵文庫が所蔵する。

私は、この本の資料としての重要性を指摘した後、許可を得て翻刻紹介しようと思っていたが、ついそのままになって長い月日が流れてしまった。今では、その私の論文さえもが、あまり見られる機会もなく、この文学史上かなり重要な事実が下手すると闇に埋もれてしまいそうだ。

どなたかに引き継ぎたい

「東遊雑記」は最初に述べたように、「おくのほそ道」ほど有名ではないものの、江戸紀行の中では優遇されている。帝国文庫紀行文集や東洋文庫や日本庶民史料生活集成など、江戸紀行を紹介する全集には必ずと言っていいほど収録される。

だがそれは、いずれもいわゆる流布本であって、この稿本ではない。

かつて恩師の中野三敏先生は、「君の論文の指摘通りなら、少なくとも史料集成などは、南葵文庫を底本にするべきだった」と私に言われた。その言葉の意味する重さを充分に受けとめないまま、私はこの本の紹介を放置しつづけてしまった。

今や人生の残り時間も少なくなって、他の仕事も山積みの中、せめてこの仕事はどなたかに引き継いでいただければと願っている。せめて、もう一度、この本の所在だけでも、多くの人に知ってほしい。ついでにはなはださしでがましいことを言えば、東京大学はぜひあの本をさしあたり貴重書扱いにしてほしい。

論文を書いたとき、すなわち五十年前だが、一応ざっと作った手書きの翻刻はある。チェックしないと使えたものではないが、冒頭の部分だけでも少し紹介しておきたい。

なお、踊り字(くりかえし記号)は「<」で示している。

南葵文庫本「東遊雑記」翻刻

第一冊(巻一)

無釣餌不能以獲魚。不知文不能以読書。世之所欲富貴利達。予之所安窮居談泊志。既与人異好亦殊趣。予之有川(ママ)之癖已入膏肓。足跡殆将周於六十之州。而猶且不能止。今茲戊申孟将東游奥羽探奇。於松前蝦夷夫路有易隠随記。而後峻嶺之峯々冥海之浩之総為予之嚢中之物。其楽可知己。嗚呼世人罵予呼狂。亦可晒予名痴。亦可漫哉游哉。聊以卒歳。
 于時天明八戊申孟夏

目出度御代のならひとて、おふきみの命を承り給ひ、はるけきみちのくの末、羽を出せるとよみし遠つ空、蝦夷の千しま、松前のはてまでも見めり(ママ)給ふ、何がし君の御めぐみ、浅かの山の浅からざりし御ちぎりや有りて、御供に召されつゝ、またしら川の関越へて、千賀のしほがまなからぬ雄しま松しま、きさがたの名所<を詠めなば、とし比の望もはれ、かれ<なる老木の再び花咲、やよひの空、飛鳥も取つべき心ちして、自勝堂旅立侍とてよめる、
  飛鳥も何か及ばじ旅衣雲路はるかにかよふ心は
御発駕御延引有て、やふ<さつき六日に東都出立して千寿御休也。此日は朝六ツ過迄雨強く降しに、五時より能日和に成りし也。
千住の大橋也。浜御殿より船に乗れば便也。海船入ると見へたり。隅田川の源也。僅に一里にたらず。千寿は娼(にんべん)家の数多ある所也。古しへ平の重衡の愛せし千寿の前と書ひし白拍子は、此所の産といふ。詳ならず。
此日仙台侯御下向の御行列を一見せしに、美々舗見え侍し也。都而の印朱にて九曜をゑかきして赤印也。鉄砲袋は黒の羅紗にて、鉄砲持は羽識(ママ)を上下の如くに肩の立ツ様に仕立し物也。越谷へ暮前着。此所は水沢迄はつゞきし町にて、廿余町迄街道筋の在郷、何れも草屋にて見苦しき家造りにて豪家更になし。広大の平地にて、北に築波山、西に日光山、晴天には遥に見える也。月の出るべき山もなしとよみし、此所なるべし。江戸には小キ山は数々あれば、歌によみし武蔵野は江戸よりの千寿より此辺ならんとおもほゆる也。此街道筋は奥羽北越後ゟ江戸往来の街道にて人通りも多し。粕壁。大抵よき町にて娼(にんべん)家も見え侍る也。川有り。古戸根川と称し、凡百五拾年以前に今の戸根川筋へ水を落せしより下総の国を武蔵分とせし事也。古しへは杉戸抔は沼にて有しと云。葛飾郡およそ七八九石斗り武蔵となる也。杉戸ゟ越谷へ四リ半。古へは五リ半といへども半里は戸根川に行、陸五里。
戸根川は水上幾筋となく流レ出て、栗橋の御関所の下ニ而一筋に流る也。大河に見え侍りて、川舟の三百石五百石積の舟、江戸へ往来する事也。川の流凡廿余り有り。流はさして早からず。左右の堤破、土手は已に天明午の夏堤切て、人死幾人と数しられざる程ニ而、だんごほどの石もなし。家造り乏家にてもこと<く土座造りにて村里草屋也。所<の町も三百五百七百軒もあれども、七八割も草葺ニ而見苦しく見らるなり。中田は戸根川渡り上りの貮百斗有。悪しき駅也。古河は七万石土井侯の城下にて、千軒斗の町也。右の両所は下総国にて古河ゟ廿町程も北に国境在候て、夫ゟ下野国ニ而、下総は帯のごとし。細長く入出て有事也。是は戸根川つき替りて、戸根川を以て武蔵下総の界有りとせしによりて右のごとし。此辺は人物不宜。広平地ニ而、道は上方中国筋にもなき、よき道也。ハンノ木といへる木を藪のごとく郷中に植しもの也。杉戸の辺より北に築波山見る。西に日光山見え、南に富士山を見る。所に海魚不自由にて、鯉鯰うなぎは沢山ニ而、味ひ佳也。戸根川いかゞの事にや鮎ますの魚なく、なまづの大イ成多し。宿<に兎角遊女見へ侍る也。色情深き国なるや。間々田の駅御休。此所長キ町にて娼(人偏)家数多有り。大なる家造りなれども皆<茅屋也。瓦なき所なるや。街道は並木しげく日影を覆ひ能道なり。左右岡にて此間<小田もあり畑もあり深林いふ斗なく檜の木榎木松杉の良材見え侍る也。従一人老人の身にて若き人々と打交り歩行せし事、何となく物哀れにや侍らんとおもひ、
  夏山に哀を見せり枯木哉
扨此辺にさして豪と見ゆる家なし。農業も上方筋とは違ひ鍬など風土に異なり。
 (図あり)柄と鍬と長さ同じ。凡二尺五寸余。
  此間五寸余。

八日。宇都の宮御日暮て漸夜の五ツに着せり。此次(ママ)は殊(ママ)のふ古き所にて宇津の宮公綱出生の地といへり。明神有り。正一位勲一等慈間明神とて勧請の開基千有余年。俵藤太秀郷奉納の甲冑の有りしに、近き年の大火に焼火(ママ)せりと云々。しめじが原のさしもぐさとよみしは当所の名所にて近郷にも同名あり。此所の土人は爰は下野の国なりといへり。神君会津御陣の時 神君答(ママ)山に御陣を寄せられ、
将軍台廟は此所迄は御進発ありし時に石田三成むほんのはべるに依て、是ゟ軍をかへし給ふといふ也。又本多上総介悪逆の事ありて世人のよく知る事にて今以二の丸に其時工みし堀の跡少し残り有りと云。城は甚広き城にして本丸は凹にて土人穴城と称す。二の丸三の丸は凸にて、本丸には館矢倉も今はなし。町は対外七日町の間四十六丁有〔八丁ともいふ〕。市中は大抵ニ而今は大に衰へて見苦敷町多く、茶屋造り七分位に見え侍るなり。町人に植木何某とて上様へ御目見之家有りて時斗蝋燭を献ぜる家也。 神君の御時ゟ献上せる古例にて蝋燭の夜の時刻を割付て風なき所に燈せば百本とぼしても時の狂ひなしと土人のものがたり也。何分にも当国は人の鮮き国にて平地の深林幾里もつゞき竹木ボウ<としげりて開発せば何万石不可斗。田にはならず畑かたのみと見ゆる也。地理の好事あらば水も引入るゝ工夫も有べきや。纔(ママ)往来の道より見渡して、そのかぎりを知らず。尽田より宇都宮へは、北へ<と行事にて弓手に日光山見え凡八九里径道は六り斗に見えるなり。中禅寺の山は高く日光山は低し。夫より西は山つゞきにて限り見へず。馬手のかたには築波山見え、往来ゟ径道は五六里に見えるなれども十三里斗ありて、右の道法は宮津宮ゟも行様にて宇都宮よりは径道遠くなる也。扨此辺の深林には鹿うさぎ至て多く民家難義せる事也。左右の見渡しには村里もなく、只ぼう<とせし野原也。宿々に寺院も見え侍る事なし。皆<草葺の堂塔なり。
此夜は宝蔵院と云天台宗の寺に止宿。東叡山の末寺也。是ゟ江戸へ廿八里。

九日。雀の宮ゟ宇都の宮迄の道は左右の並木、松杉の大樹甚繁茂し、小雨などには笠なくても濡れずし(ママ)いふ。扨宇津の宮辺には白石至て和らかなるありて、土倉或は堂塔小社、或は石燈籠、右にて造る事也。上方筋にはなき石也。宇津の宮を五ツに発足。是よりは道もよからず。ころ<せし小石数多有りて並木もちぎれ<に有る也。白沢。宇津の宮。白沢悪敷駅ニ而潰れ家も見えて貧家数多也。宿ゟ十町斗出て川有り。白沢川と云。舟渡し也。夫ゟ五丁北にアクズ川あり。是も舟渡しにて
白沢川ゟ大ひなり。次第<に人物言語少し宛劣りて見える也。白沢より氏家へ。
氏家より喜連川、弥次郎坂と南に喜連川侯領分の標木あり。扨、喜連川ながき町ながらも、豪家一家もなし。南に荒川と云流れ、至而清き流也。水上十里斗、川下は常州へ落る也。鮎の大産也。町の中ニも、うち川といふ流れ有。喜連川侯の館は町口の川ゟ一丁下に見え侍る也。弥次らう坂は、余様の坂也。江戸を出ては、びやふ<とせし平地ニて、初而此坂を越し也。扨、世に東屋根とて、はふなき家を、上方中国筋にて漸初て知りしなり。江戸を出てより草屋一軒も、はふある家なし。喜連川の町々も遊女ある也。食もりと称して宿<に大小居るなり。国の風俗にて本陣などにも有りて至て賤しき事ニは不思やふ也。此一両日は仙台侯と日々こみ合、喜連川にて行列を委敷一見せしに、はかね(ママ)御勘略にて諸道具御人数も減し給ひしといへども、中<薩州侯などの不及御行烈(ママ)して甚美々敷也。家老の人々赤坂奴ニ伊達道具をふらせて宿<鳴渡る也。併、此度御巡見の御往来はひとかたならぬ事にて、公即位の初には諸州を廻らしめ、公の御使にて御朱印を給ふ故、諸侯尊み恐る事なるに、仙台侯御家士貴賤共平挨もなく馬上の乗打、是礼を知らざるとやいわん。従者の大夫道をしるあらば込合ふ間は
公を重し少も無礼なき様ニ制せさるべきに、其法なきを見ては数千の家士あるとも、おそるべき諸侯とは見えず。家に法なく礼なくして、まさかの時に混雑して隊伍調ふべからず。治平ニ居て戦を忘ざるをこそ真武ともいふべけれ。古語ニも一器の水を見、天下の寒きを知るとあり。少しのことにても家の制度なきは知れるもの也。甚ぎゃうさん勇能ニ見えても武風は恐るゝニたらず。予がごときの愚眼ニても、家々礼法なる事は見へること也。古へも山名、大内、大国にほこりて国亡せしが能き手本也。喜連川侯ゟは御使者三ケ所に出て尊敬の礼有り。流石足利家の遺風有りと見へ侍る也。御領之方、纔ニ小一里、山数多ニて、よき所ニあらず。所は何とやら幽雅の地にて、家士の家造り見苦敷、茅葺ながらも開き門にして昔を不忘体なる事也。喜連川ゟは小山数多有なり。此辺、柿の木数千本見へ、樹木沢山なる事ニて売る所なく金には少しもならずと云。
扨、福原内匠侯の御在所は作山といふて、是も茅屋の長き町ニ而、娼(にんべん)家多し。何も陸(ママ)至て賤しき事也。御領内は寅卯の凶年に渇死せし人数多有りて、広々とせし所、田畑あれ果て見ゆる也。福原家は奈須七騎の其一ツなり。喜連川ゟ作山へ三リ。此所ゟ高原山は西南に見る。伯耆根山、当国第一の高山にて高原山第二とす。拍(ママ)耆根川、作山の北に流れて常陸へ落る舟渡し也。名産、鮎。

十日。作山出立。大田原三里。此間になすのゝ原有。世に知る所にて色<の説、数多くして所の土人、委にあらず。摂州有馬の鳥地獄の類にて、硫黄の気出て絶る所也。石の色悉くこげ色にて、温泉の傍に「さいの河原」と云所、湯のわき上る事□はあたり地中あつし。是を以て見れば毒の石より出るにはあらずして、地中の気也。日中には見物に行事ならず。不知して行ば忽死すといふ。是も大うそ也。世の中には色<の虚説謬説怪説甚敷事也。太田原ゟ湯本迄七里有り。大関伊予寺侯の御領分也。日中に見物に行ても害なし。
 罪科をなすのゝ原と云やせん殺生石のくちぬうちには
大田原、大抵の町にて是ゟ鍋掛へ三里。遠し。鍋かけゟ越へ堀ゟ僅にて、中に川を隔し斗也。此川に鮎多し。此辺にては小山連々として図の如し。

(図アリ)
 世に知る道のべの清水、
 遊行柳ハ芦野の北の
 出離しの左りの方一丁ニ
 有り。今の街道ハ芦野の
 町へ通る故に曲道也。
 古しへは今の遊行
 柳の有地へ往来せんと
 ならぬ地理なり。
 幽雅の地に見へ侍る也。
 江戸ゟ是迄
 さしての名所旧跡なし。
 西行も旅つかれ有りて
 休息ながらの詠なるべし。
 上方筋と違ひて□□□□
 にて少しも景色の能所
 更になし。多く原野と
 山のみにて弥見よき
 所なし。風土は
 をなじごとく
 見ゆれ共
 人物ハ次第
 <に悪し。
 芦野ゟ
 奥州
 堺迄三り。
 此間ニ
 笹川と
 云アリ。
 都而
 水の流
 至而清キ也。
 国堺ヨリ
 白川郡
  白坂ゟ
 奥州界

下野
 奈須郡

此辺土色至而
 白し。銀砂と
 云名砂アリ。

奥州ノ寺
 天台
 和光山ノ
 豊袖寺。

両社共祭神 
  玉津嶋大明神。
 祭礼 四月十三日。

下野方
  宝珠山
   聖観音 真言。

今の白川の城下ハ
  後世の名なり。

此所は古しへの関ニハあらず。天正未年秀吉公会津征伐の時に初而造りし道し(ママ)て、都をば霞とともに出しかど秋風ぞ吹白川の関とよみしハ、此より一り、樵村と云有り。此所、古しへの関の旧地也。
  けふ越ていつ帰りこん白川の
十日。南北の町、大抵の所。白坂止宿。夜ニ入る。
   下野ナス郡

奥羽白川郡  岩瀬郡
安積郡 今津 大沼郡

十一日。五ツ過、白坂御出立。関サ(ママ)山へ三り。御参詣也。此道御巡見道にて、白川へ直に行バニリ。御巡見道は五里余有り。扨関山と云ハ、さしての高山にはあらざれ共、嶮岨の坂七曲と云、巾余曲屏風を建し如きの所を登る事、凡十七丁、絶頂関山観音の堂有り。額に「満願寺」と月丹の書し額かゝれり。傍に堂しツあり。山王何のかのといふ仏多し。少し下り大なる鐘有りて、夫ゟ寺有て大抵の仏地也。関山正観世音の堂は正東向キにて□□は北にむかひ、登ル道は南も登而宝物聖徳太子乃像有り。則大師を開基とす。予按ニ往古は相州箱根足柄よりは蝦地にて、次第<に国開け(ママ)まゝ奥州堺より蝦地とし数年の例也。此節ニハ関所数多にて時代によりて違ひ有り。古へは此山の麓に関あるべき地理有り。此山も関山権現成るを、本地観音と称して、夫ゟして権現とは称せずして観音といふなるべし。院地有り。真言宗なり。山中杉の木数多にて直にして長き事古(ママ)べからず。越後高田柳原侯の御領分なり。扨江戸ゟ北南と行事にて時候大に違いひて、北下野ゟハ江戸の十月頃のごとくに冷気あり。白坂辺にては綿入を二ツ着しても冷気有り。爰を以て見るに大なる違ひとは思われ侍る也。麓を苗松村といふ。

十一日。白川ニ止宿。白坂ゟ御巡見道五里といへ共遠し。其間原野数多、方十一丁、或は廿丁の十丁のびやう<とせし原にて人家なし。唯細葉わらびのみ茂りて広大に見ゆる。見かへりの山も何も亡草山のみにして諸木有山は稀なり。白川は大抵の町にして茶屋也。町の中に急流の小キ川有り。水至而清し。城は平城にみえて大手の口、町通に有り。御園場抔みえず。寅卯の凶年、民家大に屈せしと聞しに、今の白川君は賢智の君にて諸民をすくひ給ひしよしにて貧家数多ながらも、さして難儀に見ゆる人夫見かけず。流石におもわれ侍る事也。
白川城下南一りに小社有りしを、吉次吉内吉六の宮と称して世に知る奥州の金売吉次兄弟が墓と云伝て、社の後ロに三ツの少き石の印有り。大木の桜の株有り。昔時は三把斗の桜有りしも土人の云伝へ也。委ク土人の口実を尋しに、福嶋ゟ一り斗北西に猫川と云所有り。此在中に吉次出生の所有りて、猫川には吉次守り本尊の観音を安置せし寺有りて法事ありと土人の物語也。予按、豪家の商人にて今の呉服やのごとく売買の為に都通ひせし富家たりしより、金売吉次と称せしなるべし。十一日昼迄小雨ふり昼後より少し強く降、十二日も雨天也。都而、此辺さして見所なし。阿武隈川の水上を渡る。古松軒、
  けふ越て帰る日数も白川の
  関に一夜の名残をぞ止む

十二日。此日、岩瀬郡入ル。ナメリ川ト云所郡堺。白川アリ。是マデ。
白川の町はさしてもなき所にて、城をくる<と取廻して町を配りし所ニ而、大手裏めてを往来より見る也。扨此地は魚類至而不自由にて、鯉鮒のなき所にて風土悪敷所也。上方筋の城下<は二三千軒の地多し。白川侯十余万石の城下にて市中漸千余軒□に不足と土人の物語也。此所ゟ棚倉江六り、三春江十二り、二本松江十五り八丁、若松江九り。扨下野の内よりは女馬のみにして男馬なし。奥州の地に入りては牛もなく、烏鳩鷺雀類も寒気の強キ所にて大ニ稀なり。けふ迄も鳩鷺を不見。爰を以て思ふに南奥州ハ風土下々国の地なり。農具も上方中国筋とは大に違ひ在り。〔白川郡 飯土用 岩瀬郡 滑川〕界、白川ゟ二里、飯土用一里、上小や二里半、長沼。

十三日。長沼五ツ時御発駕。長沼より勢至堂江二り六丁。此間は幽谷にして冬月雪深、往来安からず。熊猿など通ふ所也。白川ゟ此辺迄、山連ン<とし山分也。扨勢至堂の沢ゟ二丁ばかり前に滝二ツ有り。一ツは馬の尾の滝とも白糸の滝とも云。一ツは銚子の滝といふ也。
  駒止ていざ水かわん夏木立  谷喜
  みちのくの賤がふし布さらすかと見えて落くる白いとの滝 古松軒

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