料理と暗殺 ―映画「ミュンヘン」感想集―

私とオリンピック(2021.7.23.)

さまざまな理由から今日開会される東京オリンピックは、ひどいものになりそうである。
それについてはもう書かない。自分自身とオリンピックの関わりについての、短いメモだけ残しておく。

以下に述べる映画「ミュンヘン」のもととなった事件を、リアルタイムで私は見ていた。イスラエル選手の人質が殺されてしまったと知って、日記に「かわいそうで、しかたがない」と書いた記憶もある。オリンピックを中止すべきだという報道も多かった。しかし、それは私には「え?」という感じでしかなかったし、多くの人がそうだったからか、まもなく新聞の論調も「オリンピックに罪はない」というように変化して行った。私もそれに違和感はなかった。それが、イスラエルの人々にどれだけ失望と怒りを与えたかは、この映画を見るまで気づかなかった。

今回の東京オリンピックであぶりだされた、五輪にまつわる闇や醜さは、あのころどこまで進行していたのだろう? 少くとも私にとって、それはまだ初回の東京オリンピックの感動をかき消すほどのものではなかった。

もちろん初回の東京オリンピックでも冷ややかな見方はあって、開高健氏などは「ずばり東京」(週刊朝日)の開会式の記事をかなり批判的に書いていた。しかし、特に閉会式の、作られない自然な盛り上がりは、そういった声を消し、開高氏のその記事に「あんなことを書く人とは話をしたくない」と実況で口走った解説者もいた(開高氏は後に、もっと緻密な批判記事も書いたと記憶する)。

もう原稿がなくなってしまっているけれど、私は初回の東京オリンピック終了後まもなく、個人誌「かまど」の別冊として、オリンピックの選手村を舞台にした「虹と光と」という、いかにも私らしい、政治や社会情勢や東西の対立を盛り込んだ、甘っちょろい少女小説風の長編を書いた。そのラストシーンでは、たしかアメリカとソ連の若い選手二人が、閉会式後の選手村で会話を交わす。醜い現実を大会中に多く見て、理想や夢を失いかけた一人が、「結局はオリンピックなど、空虚な虹にすぎない」と言うのに対し、最初はすべてに反抗的で皮肉屋だったもう一人は、「そうかもしれない。でも、虹は、光がなければ、決して生まれはしないんだ」と答える。

虹と光と。それは今でも、オリンピックに限らず、甘っちょろい夢まぼろしとさげすまれる、すべてのものに対して、私が抱く思い、保ちつづける姿勢である。

それにしても、この数十年間にオリンピックは何と汚され、蹂躙されてきたことだろう。ふだんは知らない外国の選手たちや競技を目にし、さまざまな国の情勢や歴史に触れて、世界とつながる気持ちになるのが、私の喜びだったのだが、いつからか、テレビも新聞も日本選手のメダル数しか報道しなくなり、他国の選手は画面にも映らなくなった。愛国心を盛り上げ、国民が一致団結するだけの、おぞましいカルト集団の祭典としか見えなくなったオリンピックは、いつの間にか、私には嫌悪や唾棄の対象でしかなくなって行った。明日から開始されるものは、もはやその形骸と残骸でしかない。見ることもないだろう。

むしろ、この「ミュンヘン」の映画を久しぶりに見て、付録の特典映像を見て、制作過程そのものの中に、自らもユダヤ人であるスピルバーグ監督を初めとした、イスラエルやアラブの俳優やスタッフの交流の中に、かつての私がオリンピックで味わっていた、熱く激しい平和と愛への渦巻くような願いと希望と確信を感じた。

殺される人質を演じる俳優の一人は、実際のその人質となったイスラエルコーチの息子である。彼らは犯人役のアラブの俳優たちと話し合い、交流し、役者としてちゃんとした仕事をしようと語り合う。他の俳優やスタッフも、世界情勢や歴史についてよく議論しあったと言う。そこには私が、かつて拙い小説で描こうとし、オリンピックに求めつづけた世界が存在する。

ひとときの虹かもしれない。けれど、光がなかったら、決して生まれない何かが。

できれば、今あらためて、この映画と、特にメイキングその他の特典映像を見てほしい。
そして、今回のオリンピックのごたごたの中で浮き上がっている、帰国したら投獄されるかもしれない選手の運命などを通して、私たちの知らない遠い異国の歴史や現状に、少しでも思いをはせてほしい。あまりにも破壊されたオリンピックの現状の中から、せめて、そのような、もともとの精神につながるものを見出した報道をしてくれればと、心から願う。(2021.7.23.)

 

料理と暗殺 ―映画「ミュンヘン」感想集(1)―

(これは、公開時に見た、映画「ミュンヘン」の感想を、当時自分が運営していたサイトの掲示板から拾い集めたものである。実話をもとにした、スピルバーグのこの映画は、ベルリンオリンピックの際のイスラエル選手団へのテロへの報復として、国家の命令でアラブの指導者たちを暗殺して行く使命を帯びたグループの、行動と懊悩を描いている。
文中の「じゅうばこ」「キャラママ」「ゆきうさぎ」は、すべて板坂のペンネームで、同一人物である。
書き込みの再録なので、わかりにくく、できれば映画を見てほしい。なお、長すぎるから(2)(3)とわけただけで、内容はほぼ同様のものである。)

●私は、ラストのベッドシーンは、じゅうばこさんやキャラママさんの言うように、一応まじめに真剣に撮っているので、笑う要素はないと思うのだけど、それと対照しているような、初めの(妊娠中の)ベッドシーンは、首相と「妻の出産」について会話を交わした後で、奥さんが汗ばんであえいでいる顔がアップになったら、そりゃ普通、「あ、出産シーンか」と思わないでしょうか。そうしたら熱烈なベッドシーンであることがすぐにわかるわけなのですが、も、もしかして監督いたずらしてるのか?と見るたび首をかしげたくなる。そのへんのこの監督のセンスって、何だかもう予測がつかない。

●何度か見直していると、だんだん、ものすごく楽しくてきれいな映画に見えてきて困ってしまう。欧州各地の町や村を見て回れる美しい観光映画としても、70年代の懐かしいファッションや音楽や雰囲気にひたれる映画としても味わえるのが恐ろしい。けしからんと怒りたいけど、原作のアブナーも、旅先でいつも「こんなに各地を旅行してる」という、ささやかな誇りをこめて奥さんに絵葉書を出していたというのだから、これもまた原作の精神を尊重してるのだとでも言われたら一言もない。スピルバーグは信頼も評価もしてはいたが、そんなにすごいと思ったことはなかった。今回本当にすごいと思った。

●仲間が合流してからの最初の食事場面がすごく好きで、不謹慎ですが、あのままのメンバーにルイとエフライムも加えて、アシモフのミステリ「黒後家蜘蛛の会」をやってくれないかなと思ってしまった。

●私は何だか、あのアブナーのお母さんが許しがたい。嫌いなタイプじゃないんだけど、アブナーが最後に「僕が何をしたか知りたい?」と言ったとき、知りたくないと言って彼に話させなかった、その精神が許しがたい。「あらゆる犠牲にはそれだけの価値がある」って、おー、そーかよ、じゃどんなことを息子がしたのか、きっちり聞いてから肯定しろよ。

息子は話したがってるんだよ。話して救われたがってるんだよ。「それでもいい」とか「それはいくら何でもいけない、私の考えも変えよう」とか言ってほしいわけだよ。なのに、聞かないで、息子が汚いことしたその結果だけを享受しようとする、あの姿勢ってすごくいや。もうあそこで、アブナーがあの母親と祖国と捨てる覚悟を決めたのだとしたって、私はちっとも驚かない。

●原作といっていいような「標的は11人」の本読むと、アブナーが任務に出発する時、妻があんまりけなげで文句も言わないので、アブナーはかえっていらいらして弁解して、きげん悪くなって、とうとう妻が笑い出すんだよね。そして彼の顔を両手ではさんで「わかってないのはあなたよ」とか言って送り出す。

こういうところが、この夫婦とてもいいんですが、スピルバーグはこの場面も会話も映画に使っていません。その代わりに赤ん坊が生まれた時、アブナーが「僕の祖国は君だ」と言うと妻が笑い出して「まじめなのに」と憮然とするアブナーに、「感傷的な夫を持つと一生の不幸だわ」とか言って、アブナーは抱いた赤ちゃんに「意地悪なママだ」と訴える場面を創作しています。もう、これは小説の場面が表現する二人の関係を、そのままみごとに別のかたちで表現した場面で、うまいというか、すごいというか、絶好調やなあ監督というか、何かがのりうつってるとしか思えないというか。のってる仕事ってこんなもんなんだろうなあ。何もかもが、面白いように決まってますね、この映画。

●あちこちのサイトで、この映画の感想を見て回っていると、「日本人にはちょっとぴんと来ない」「日本人にはわかりにくい」とかいうことを言っている批評がけっこうある。なんだかなあ。こういう言い方見ると反射的に「あんたいったい誰?」と思ってしまうんだけど。こういう発言が何のひっかかりもなくすうっとできてしまう人って、いったいどういう人なんだろう。

昔、まだフェミニズムとかもまったくなかった頃、女優さんとか女性の作家とかがよく「女は男には絶対かなわないと思った」という発言をした。どうして?と思ってその理由を読むと、これが大抵、その人自身が誰か男の人にかなわなかったということで、まったくぽかんとさせられた。
そう言えば、そういう女優さんや女性作家って、きれいで優秀で男勝りの人が多かったけど、でも、それはただ、あんたがそのどこかの男にかなわなかったというだけの話で、いつ誰があんたに女性代表を頼んだのだよ、少なくとも私はあんたにそんな委任はしてないぞと、つくづく思った。またもし私が男にかなわないことがいくらあったとしても、だからって、それはただ私が無能力でバカなだけで、女がそうだなんて思ってほしくないよなとも思った。
更に言うなら、そういう無意識の「女性代表」やってる人たちが、自分で自分をそう思いこんでるというのが、自分がだめならどんな女もだめなはずと思いこんでるというのが、その図々しさと自意識過剰さに自分で気づいていないというのが、見てられないほど恥ずかしくて、こっちがいたたまれなかった。
この映画でもどの映画でも同じだが、「日本人にはわかりにくい」なんて、自分がわからないだけかもしれない話を、日本人のせいにして落ち着きはらってる人見ると、こっちが恥ずかしくて、そのへんに穴ほってかくれたくなる。

●ともかく面白い。

仲間どうしが、ぎゃーっと議論する場面が随所にあるが、あれなんかも実に70年代風。
「三丁目の夕日」より、こちらを見て悪夢のような郷愁を感じるのが幸福なのか不幸なのかわからないけど。

●アラブとイスラエルの対立については、「アラビアのロレンス」で知っていたぐらいです。 要するに、アラブの戦力とユダヤの経済力が欲しかった列強(イギリスとフランス)が双方にいいこと言って、土地の二重売りをする悪徳不動産業者みたいなことをやったんだ、という理解でした。 しかし、いわゆる小説や映画といった文学の世界で等身大の語り方で見聞きしたことはありません。 今回、この映画で、それもとてもすぐれた映画で、この世界に触れることができたことは本当に幸福でした。あえて幸福と言いたいです。自分の中の何かが、よみがえったような気がしました。

●監督のスピルバーグは「シンドラーのリスト」で、ナチスのユダヤ人虐殺と、それに抵抗した一人の男を描いた時、あの見慣れたハーケンクロイツ(カギ十字)のマークを一切画面に出しませんでした。わずかにシンドラーという、ナチスの勢力の内部にあって良心を守りぬいた男の胸のバッジにだけ、それを見せていました。
彼は大ヒットした娯楽作「インディー・ジョーンズ」ではカギ十字をシンボルとしてきちんと登場させ、それに反対する姿勢をちゃんと示していました。その彼が、より明快な主張をしているはずの「シンドラーのリスト」で、このマークをほとんど見せなかったのは印象的でした。私はそれを、「ナチスのしたこと」とわりきってしまうことへの警鐘とうけとめました。一つの政党や国や、歴史的事実の告発ではない。同じようなことのすべてに共通する問題として、人間が立ち向かわなければならない課題として、この問題を描いたのだと感じました。
今回、「ミュンヘン」で、スピルバーグはイスラエル建国のいきさつをまったく描いておらず、そのことへの批判もあります。私もそれは描いてもよかったのかなとも思います。でも、おそらく監督は、そういう特定の国や歴史という符牒をあえて、この映画から消しているのだと思います。そして、国家どうしの復讐の連鎖ということに問題をしぼり、しぼることによって、逆に普遍的な、どこにでもいつにでも通じる話にした。やはり、その方が正しいのだろうなと今は考えています。

●ふと思い出すのですが、日本赤軍の岡本公三がイスラエルに逮捕された時、取調べの中でたしか反省しているとか言って、イスラエルの建国については「栄光への脱出」という映画を見て感動したと話してた・・・って、イスラエルの当局が発表したことがありました。

私は多分高校生の頃かに映画館でその映画を見ていて、そんなに悪い映画とは思わなかったけど、何かわりきれない納得できない気がしていて、それだけに、まるで知らない岡本公三に腹が立ったのを覚えています。私は何だか複雑な気分で感激できなかった、あの映画にそんなに素直に感激したあんたが、何で今イスラエルへのテロをやるのさ、終始一貫しないにもほどがあるだろ、みたいな。
どうもあれから私はずっと、パレスチナゲリラやテロリストって、ものすごくいーかげんなやつらだっていう気がしてしまったのだよね。あの映画に感激したことと、パレスチナのために戦うことと、どう折り合いをつけているんだ、そこんとこもはっきりしないで爆弾投げるようなやつらなんか、どうせ大したことない、みたいな。
あの映画、サル・ミネオが出てたんだよなあ。そして、彼が収容所で男性たちにレイプされた体験を告白する場面があって、今でこそ珍しくも何ともないけど、多分あんな話が映画に登場したのは私が見る限りではあれが初めてで、その後も長くなかった気がする。テーマ曲も美しくて壮大だった。でも何だかどうしても共感できなかったのだ、あの映画。まだ建国の事情もアラブの事情も何も知らなかったのに、何かが納得できなかった。何だったんだろうなあ。妙に気になる。今になって。

●主役のエリック・バナは、映画「トロイ」で、ものすごくかっこいい王子をやった俳優ですが、その時に「あんないい役なら誰がやっても人気が出る」みたいな批評があって、私むかむかしてたのです。あんな役こそむずかしいんじゃないかって思って。

とにかく超が二つも三つもつくほど完全無欠の立派な英雄で、あれを地でやれるような人なら俳優なんかやってないだろと思ったし、だったら当然あれは全部演技なわけで、それってすごいことだと思った。だから「あの役なら」発言にトサカに来てたのですが、今回「ミュンヘン」見て、ちょっと笑った。あの王子で好きになった人なら、ちょっと肩すかし食うんじゃないかしらん。
やっぱりあれは演技だった(あたりまえです)し、つまり大変うまい人だってことを再確認したのですが、「トロイ」の時に見せた崇高で澄明でひらともゆらがない精神の剛毅さと端正さが今回まったくないんだもんなあ。水晶みたいな王子さまだったのが、なんだかもう、海底のワカメみたいにゆらゆらふわふわしていてさ。
監督は「トロイ」の前の「ハルク」の演技を見て、彼をスカウトしたらしいが、さもありなん、この演技は「ハルク」の時のまんまですね。間に「トロイ」が入ってなきゃ、「これしかできんのか、この人」と思うところでした。まあ、「ハルク」では、せっかくのその演技がかなり無駄に使われてるから、今回ちゃんと生かしてもう一回使おうと思ったとしても彼も監督も責められないけど。
今回はもういやになるほど、それがはまっていて、最初のどこにでもいそうな、平凡な青年が、すさんで、すりへって、狂気でもなく異常でもなく、成長でもなく堕落でもなく、ただ何かに変貌して行く恐さがせりふなんか何もなくても伝わって来ました。これといって演技をしているようにも見えないところがまた恐い。

●私はあのベッドシーンは、もちろん、アブナーが世界の苦しみと同化しているとかいうこともあるだろうけど、それは別にして、リアルな描写としてでも、新しい挑戦があるように思いました。

じゅうばこさんが「受身の愛」で書いておられた、ともすれば滑稽にもなりがちなそういう場面をそういうことも含めてきちんと描こうとしているような。

●ラストに近いベッドシーンの評判は意味不明だといまひとつということでしたが、私はこれは痛切にわかりました。いかにもスピルバーグらしい、暖かさと救いだと思いましたよ。わかりやすすぎて、みえみえなぐらいで、どうして皆がぴんと来ないのか不思議です。

アブナーという人は、すごく現実的な人で、国家も家族のように不満も欠点も含めてうけいれていて、それだけに逆に激しい忠誠心や信仰はない人ですね。
原作をざっと読んでみて、スピルバーグの脚色と原作や現実につかずはなれずの絶妙さにも感服したのですが、ともあれ、そういうアブナーの国家との関係を、あれだけのさりげない描写と演技でわからせてしまうのは、監督も俳優も大したものです。神業に近いかもしれないです。

だから彼はあの仕事も憎しみをまじえてはやっていない。公的にも私的にもです。
それが、隠れ家でのアラブ青年との会話で、自分にはそういう点での信念や信仰がないことに気づき、その後女テロリスト殺しで憎しみをまじえる殺しを体験する。考えすぎかもしれませんが、彼があそこであれだけ感情的になるのは、アラブ青年にあって自分になかったものを探す無意識のあせりと見えなくもない。

それと、ルイ一家をスピルバーグがどんなつもりで描いているのか、わからないのですが(下手ということではなく、うますぎて観客にさとらせない)、あの存在は気味が悪い。レジスタンスという、その時代ではやはりヒューマニズムと結びついていたであろう人が、国家に裏切られ歴史に絶望し、家族を守ることだけをよりどころに、あろうことか、情報という武器を売りまくる「死の商人」になっていて、しかもそうまでして守る家族がまた、必ずしも満足いく状態ではない。
あの一家の描写は一見牧歌的で美しく肯定的なようで、いや~な悪夢のようでした。レジスタンス、家族、いろんな意味でのなれのはてのような腐敗臭がしていてさ。
じゅうばこさんが、よく、「すぐれた映画や小説は、リアルなほどに、寓話的にもなる」と言いますが、あのルイ一家の象徴しているものは実に現代的で絶望的でした。

それで、そういう悪夢にどっぷりひたって、家族のような国家(そこには父と母も含まれる)にも絶望して幻滅して、でもそうなっている自分自身にもアブナーは何の誇りも自信も愛も持てない。
だから彼は仮死状態になる。世界の動き、他人のこと、いっさいに心を閉ざして何も感じないで生きようとする。これは私が学生運動した後、ざっと40年間陥っていた気分とかなり近いんで、相当いやになるほど、よくわかる。(笑)

そういう時は、きちんと人を愛せない。どんな快楽も情熱も持てない。何かに感動したり快感を得たりすると、心が揺り動かされて、思い出したくないことも全部よみがえってしまうんです。
映画にはあまり出てこないけど、アブナーのお父さんはそれで「生けるしかばね」になったんでしょうね。すごいのは小説読まないで、映画だけ見た時点で、私には何となくそれがわかったことです。

妻はそんな彼に身体で愛し合うことを求める。それがどういうことか、妻はよくわかっていたと思います。アブナーがもっと思索的な人だったら、応じないで自分の殻にこもってしまったと思うけど、この人はよかれあしかれ「悩むのが苦手」の現実的な人なんですね。だからあそこで妻を抱く勇気が持てる。

でも、あの奇妙なベッドシーンの映像で、彼の性行為に重なるのは、ことの発端となったオリンピックテロの凄絶な最終場面ですよね。でも私はあそこ、理屈ではなくほとんど身体でわかる気がするんですが、ああやって何かを愛して激しい感覚に身をまかせる時、自分の忘れたい体験のさまざまとともに、他者の、世界の苦悩が押し寄せてくるんですよ。
アブナーは理屈より身体で感じる人だから、自分が殺した相手や殺された仲間や、そのもとになる救いのない憎悪や恐怖が、心の底からよみがえってきてしまう。何より救いがたいのは、その世界の苦しみの中で、彼はもう被害者ではないことです。
あのテロリストが人質を殺す場面で、テロリストの一人はアブナーのように見えます。実際に彼なのか似た俳優を使ったのかはわかりませんが、明らかに意図した演出です。彼は、体験を通してテロで殺される人間、殺す人間の両方の気持ちがわかる。どちらにも感情移入してしまえる。

その苦しみは耐え難い。私はじゅうばこさん同様、この主人公に感情移入できないという人の気持ちに感情移入できません。(笑)しかしもし、あえて失礼な感情移入をすると、日本や世界の多くの人は、今現在、あの奥さんにそっと触られて誘われる前のアブナー状態なのじゃないですか。見たら、考えたら、感じたら、耐えられないと思うから、世界の悲惨に歴史の現状に心を閉ざしている。それをどうこう言う資格は私にはないです。ほぼ40年間私もそうしていたから。今だって部分的にはそうだし。
世界に、遠くに、近くにうずまく人の悪意や憎しみや、淋しさや悲しみや苦しみを、それをどうする力もないままに感じるのは恐ろしい。自分がそれを責める資格も導く資格もないとわかっているならなおのこと。でも、それをしなかったら、刻々自分の中の何かも死んでいく。人を愛することも憎むことも、自分を守ることさえできない。

あの場面でアブナーに押し寄せる幻想は、世界の絶望と苦しみだと思う。彼がしたこと、できなかったことのすべての記憶が、あの事件の映像に重なっている。それは世界の醜さと汚さ、人間の醜さと汚さだと思う。じゅうばこさんが、二人の愛の行為にともなって荒廃と地獄が広がると感じたのはそういうことだと思います。動けば汚す。愛すれば傷つける。何かをするほど、世界は壊れて荒涼として荒れ果てる。
けれど最後に奥さんは、それを見つめつづけるアブナーの目を自分の手で閉ざし、「愛している」と言います。そうやって奥さんは、彼と世界を抱きしめる。醜くて汚れて無力で罪を冒しつづけた人間を。あれは、もう奥さんではない。スピルバーグ自身だと思います。

そうやって認められ、許されて、受け入れられたから、アブナーは再生できた。傷つけあい、のたうちまわるこの世界とともに。だから彼は、大地をたがやし、訪れてきた上司に、世界を救うためにどうすればいいか、人間と未来を信じている者のことばで答えます。国家を家と重ねて、そこに帰らなければ君は自分を失うと警告する上司に、彼は食事に招いてもてなすという民族の伝統を示すことによって、人の生きるよすがとなる国や家族は、どこにでも築くことが可能だと教えます。それを断るしかない上司は、もはや民族の伝統を失った国家を守っているにすぎない。

私はあの奥さんのように、はっきりと一人ではなかったけれど、いろんな人に抱きしめられて、受け入れられて許されて、やっと生きて来られたんだろうなあと思っています。

●この映画の原作?「標的は11人」って文庫本なんですけどね。映画も面白かったけど、小説を読むとこれが更に笑えるなんてもんじゃない。こんな題材で笑うなんて不謹慎ですが、もう笑うっきゃないってこともあるのよな、世の中には。

まーなー、先日の「ハリー・ポッター」もそうなんですが、組織や国家とのかけひきにやたらと反応してしまうところがなあ、私らの現状をしのばせて、救えないっちゃ救えないけど。

だって、このアブナー(小説ではアフナー)、映画でも何やら、なしくずしにひきうけてますけど、小説を読むとやっぱりそうで、そのいきさつもよーくわかるんですよね。
ここ、原文が笑い転げるほどいいので、引用したいのですが長いので、かいつまみますと…、以下は映画のネタばれです。

特別な任務(テロ)を引き受けたアブナーは、それからしばらく日がたってから、上司(エフライム)に「部下は自分が選ぶんですか」と聞く。すると「ちがう。こっちで決める。その内会わせる」みたいに言われる。そうだろなあと思って、「どんなメンバーですか。爆弾係はいますよね、文書偽造係も」とか言っていて、「ヒットマンは?ボタン押す係は?(つまりテロを実行する人は?)」と聞くと、おまえバカかみたいな顔で見られて「そんなのはいない」。
えー、じゃ自分が手を下すの?と初めてわかってびびるアブナー(本当です)。上司は「君は軍隊にいて引き金の引き方も知らんのか」「そんなテロリストの訓練なんか、どこでどうやってやるんだ。やれるわけないよやってないよ。そんな特別な人の養成なんて」(あ、こんな言葉じゃないけど、でも本当にこんなこと言うんですよ)。アブナーはぼうっとしていて、「あのー、なぜ僕を選んだんですか」と言うと、「そんなの知らない。健康で能力があって条件にかないそうなら誰でもいいんで、コンピューターにそういう資料入れたら君の名が出たのかもしれない」。そうか、コンピューターならしかたないかなあ、ってアブナーは思って…もうこれ、笑い話かい。

もちろん、上司はそこで、とても説得力あるいいことをいろいろ言うんですよ。それはもう、たしかに。で、「君が断ってもしかたないと思う。君を責めはしない。どうしても標的に銃をつきつけて撃てないなら、それはしかたがない。そういうのは訓練とかじゃない。できない者にはいくら訓練してもできない」とか、良心的だけど絶妙にうまいこと言うんですよ。もう、これが。で、アブナーは「どうですかね。まあやれるかもしれません」とか言ってしまう。彼はこの時25歳ぐらいでしょう。そりゃあなあ、そう言うわな。としみじみわかる。私でも言いそう(笑)。

もう一つ、猛烈におかしいのは、アブナーは次々人を暗殺して、消耗も崩壊もしていくんですが、その一方でスイスの銀行に国家がふりこむお金がたまって行くのも、それをどんどん使っていろんなとこに行けるのも、ちょっとか、かなりか、うれしいんですよね。これは映画や俳優を思い浮かべるからではなく、そんなの知らないで原作だけ読んでも感じるんじゃないかと思うんですが、このアブナーって、そういうところ、変にかわいい。許せないし救えないし困ったものだと思うけど、実につましくていじらしい。限りなく普通で異常、と私が思うのはそういうとこなんですけど、でもそれがとてもリアルでもある。

それで、彼は最後に「もういやだ、やめる」と一方的に仕事をやめてアメリカに家族と移住しちゃう。上司がいろいろ脅したりすかしたりしても、帰国しないで国家を捨てる。でも、その拠り所は「スイスの銀行の貸し金庫にまだ十万ドルあるもん!」なんですよ。それがかなりの心の支え。ところが、上司の頼みを蹴った数日後(ここも私なんかは「縁を切る前に引き出さんかいふつう、そんな金!」と歯ぎしりする)、スイスに行って、もと仲間のスティーブと会って(彼はまだ国家の仕事してる)いっしょに銀行に行ったら、残額が三ドルぐらいしかなくて、「振り込んでいた方が、全部引き出されました」って言われて、真っ青になってわなわな震えてしまう。

これだけでも充分おかしいのに、悄然と帰りかけたら、同じぐらいショックを受けてたスティーブがいきなり不安になって、ひっ返して自分の貸し金庫にまだお金があるか見に行く。そして、にこにこして戻ってきて「あー、おれのはまだあった」って言う。

もうもう、どっちの場面も、あの映画の配役そのままで想像したら愉快すぎて悶絶します。頼むから監督、特別編でも何でも、ここ撮ってくれませんか。

アブナーの奥さんは、映画でもいい感じですが、原作ではこの後もものすごく頼りになります。この妻がいたから彼は何とか今も生きていられるように立ち直れてるんじゃないだろうか。で、この奥さんもなんだけど、映画の俳優たちが、この原作を読んでもぴったりあてはまるのが心憎いサービスといおうか何といおうか。

この、すべてしょうもない、人間の情けなさといとおしさ。戦争もテロも、こんな弱い人間たちの心と身体がやってるんだと思ったら、もう情けなくて哀しくてやりきれなくて、絶望し、でも、私自身も含めて、こんな頼りない人間をどうやって見捨てられるというの、という思いが、そのまままっすぐ希望へとつながって行く。

ラストに近いベッドシーンは、評価しない人もいるようだし、私もまだよくわかってないかもしれないけど、さしあたり、あんな悲しい恐ろしいベッドシーンは見たことがないと思いました。残酷な描写があるわけではない、愛しあう者どうしのむしろ平凡なぐらいの激しい愛の場面なのに、二人の性格や感情とは無関係に荒涼として索漠として、強く愛し合うほど、その動きから周囲に地獄が広がっていくようでした。どんな殺しの場面より、あのベッドシーンは残酷で恐かった。それを映像でなく演技で見せたのは、すごいと言えばすごいです。

●「ミュンヘン」書き出したらいろいろとまた、とまらなくなる気がします。映画の話コーナーでも別に作っちゃおうかなあ。
「ロード・オブ・ウォー」の時も思ったけど、皆さんこういう映画見て、「落ちこむ」「絶望する」「平和なんて来ないと思う」「主人公に感情移入できない」とか言うんだよねー。私は逆に元気が出て、やる気が出て、「へー、こんなバカがこんな程度のことでやってるのか。まあそんなこっちゃないかとは思っとったが、やっぱりそうか。とっととやめさせるしかないな。急がなきゃ」と思っていちだんと張り切ってしまう。

感情移入できないって言うけどねー、アブナーがいつもの仕事の続きのようなそうでもないような気持ちで、ずるずるテロリストになって行ってしまうのも、自分の行動が世界史的に持つ意味をさっぱり考えないまま、「お金が入るし」「これまでの仕事と同じだし」みたいに人殺ししてしまうのも、国家についての対応や認識が小娘級に甘いのも、そういうことした結果として自分の愛するものや自分自身が危険になるのを予測もしないのも、今の日本で憲法はじめとした法律が軒並み変えられ、自衛隊は海外派兵し、そういうことにどう対応していいのかわからないまま、毎日生きてる私にはまったく他人事とは思えなかったぞ。
ありもせなんだ大量殺人兵器を口実に、イラクの市民の上に爆弾山と降らせた国の政策を、もろ手をあげて支持し支援する政府や首相を大勝させた時点で私は、「ああ、この結果、私の愛するすべてのものと私自身の上にも、いつ爆弾が降ってきてもしかたがない」とあきらめたもんね。それでもそうなったら、アブナーみたいにあわてて愚痴って怒って嘆いてとち狂うだろうけど、でも、よその人たちがそんな目にあう引き金を引いたも同じ自分なら、「あー、身から出たサビかもしれん」と思うしかない自覚もある、アブナーなみぐらいには。

●テロはいかんテロはいかんと馬鹿の一つ覚えみたいに言う感覚を狂わせますよね。「ミュンヘン」という映画は。それだけでも爽快だと思います。

石原東京都知事を私はまったく評価しませんが、彼が一度テロを肯定したような発言したのは、おもしろかったですね。さすが、その昔「殺人教室」って大学生が面白半分無差別殺人をする短編を書いた人だけある。これは悪口じゃないですよ。私は彼には知事の資格はないと思ってるし適性にも著しく欠けると思っていますが、それは、この小説のせいではありませんからね。ちなみに、この短編、高校生時代の私の愛読書でした。
最近、戦後の反省の一つとして「封建主義は何でも悪い」という言い方が単純すぎた、お題目すぎたという批判があります。それは納得しますけど、もっと最近の傾向として、「テロは文句なしにとにかく悪」という図式でものごとをかたづけすぎるのは私は嫌いです。

爆弾テロなんか私も困る。さしあたり、やる気はないし、支持もしない。でも、私だって、時と場合によったらやるだろうと思っていますよ。この今でも。その点ではオウム真理教や連合赤軍と変わらない。断固としてちがうのは、「時と場合による」という、その時と場合の判断だけです。
「ミュンヘン」にかつてのフランスレジスタンスの一族が登場しますが、まさにナチスドイツに対するフランス国民の戦いはテロだった。その前のロシア革命の時のナロードニキの運動もそうだった。ベトナム戦争の時の市民の戦いもそうでしょう。圧制や弾圧に対する最後の抵抗の手段として、テロは歴史にいくらでもあった。問題は、それが本当に最後の手段かってこと。そして、いい結果を生む可能性がどれだけあるかってこと。だから、さしあたり私はやりません。そこに行くまでにはまだ、するべきこと、できることが山ほどあるから。でも、そういう手段がすべて奪われたら私は多分、一般市民をまきぞえにしても、爆弾を投げる。

ぎぇ~っと引いた人がどれだけいるかは知りませんが、そもそも私は、一般市民をまきぞえにするのがいけないのなら、ヒロシマ、ナガサキ、東京大空襲、その他、この今でも世界各地で行われている戦争の場合の殺人はどうちがうのかと思います。
「ミュンヘン」のアブナーは、自分をテロリストというより、戦争をしている兵士と思っていたのだと思います。兵士がいくら市民を殺しても、恨まれて個人的に家族をつけねらわれたりなんかしない。その基準が混乱するから彼はうろたえるのですが、そもそも戦争とテロの間には厳密な区別なんかない。無差別に多くの人を殺す可能性があるって点では、まったく区別なんかつけられない。
戦争に参加する、戦争に行く、戦争をすることを認める、戦争に人を送り出す、こういうことをする人のすべてに、少なくとも私は、テロリストを恐がったり責めたりする資格なんかまったくないと思っている。国の命令だからって、殺人道具かかえて出かけて、見も知らぬ他人を殺すことや、大勢の人が生活している町や村の上に空から爆弾落とすボタンを押すことを、異常と思わない人が、つまり日本のおおかたの普通の市民が、バスに爆弾投げ込んだり、飛行機でビルに突っこんだりする人に対して、何驚いてるんですかいったい。感覚どうかしてんじゃないの。

「ミュンヘン」に登場するテロリストたちは、皆いやになるほど普通の人たちです。主人公たちもあどけないと言いたいぐらい、ほほえましいし、殺される相手のテロリストの大物たちがこれまた皆、感じのいい落ち着いた教養ありそうな紳士ばかり。そもそも、テロを命令するのが、何だかだってれっきとした一つの国家。「テロは犯罪」「テロは悪」「テロは異常」という感覚が、とことん混乱するように作られている。監督も俳優も、これは確信犯ですよ。

そこから何を考えるか、どこに向って歩き出すかは、見た私たちが決めることです。戦場の兵士の人間像や生活を親身に描く映画がごまんと作られて、戦争という名の人殺しに対する恐怖や嫌悪がとっくにかすんでしまってる中、テロリストやテロ行為をこれだけ等身大に描いたことで、少しはバランス感覚というものを教えてくれたということだけでも、この映画はすでに充分、いい仕事をしてくれているというのが私の感想です。

●いい意味で、つっこみどころ満載の映画でした(笑)。

何ですかもう、手際の悪い、たどたどしいテロリストたちの仕事ぶりが哀しくなるほどリアルな上に、「どうして、そんな結果が予測できないんだ」と、じりじりさせられるのですが、「ロード・オブ・ウォー」と同じく、現実の戦争も紛争もこうなのだよなあと思って、ますます腹が立ってくる。

私は原作をまだ読んでいないのですが、はっきりモデルがあるという、この主役の人がものすごくもう普通の人で、それなのにものすごくもう異常な人で。「ロード・オブ・ウォー」の主人公と、その普通さにおいて異常さにおいて双璧ですね。
つっこみどころと言ったのは、だいたい、この主人公たちがはまって行く状態があまりにも予測できるんですよ。つうか、それしかないじゃんよと思うわけですよ。そういう手段で滅ぼせる相手かよとか、世界についても自分についても、いったいどういう展望と予測と見通し持って仕事(殺し)を始めたんだよとか。
映画の描き方が下手なのじゃなくて、多分わざとしてるんだと思うけど、この主人公は日常から非日常への踏み込みを、あまり決意してるように見えないんですね。何を考えてるのかよくわからないけど、何も考えてないんじゃないだろうか。たとえが、すごく誤解を生むのを承知で言うと、イラクへ行く自衛隊の人みたいに。
それにしてもですよ、この人が自衛隊員以上にヤバいのは、自分の立場とか上司の責任とかを確認しないまま仕事引き受けてしまうことですよね。よくわからないけど、この人の感覚としては、「非公式ではあるけど、ちゃんと国家から認められた仕事」「だから戦争で戦って殺すのと基本的に同じ」って意識がずっとあるんだと思うんです。どっか、そういう意識だもん。そこをはっきりさせないのは必ずしもこの人がバカなんじゃなくて、はっきりさせたらまずい、はっきりさせるのが恐いって意識もあるんだと思うけど。

だから、凄惨な話ではあるんだけど、そういう孤独感や凄愴感がなくて、特に前半は国家や仲間に暖かく包まれて、家族にも支えられて、そういう仕事をしてる海外出張のサラリーマンっぽいんですよね。
仕事の背景や中身がわからない部分が多すぎるのも、秘密の任務というよりも、手際の悪い三流企業の最先端で働いている企業戦士っぽいし。

でも、だんだん、否応なしに、仕事の本質が彼らを蝕んで行く。そして、じいっと見ていると、彼らのしていることは、日常の企業の仕事とかと似ている反面、もう一方では限りなく戦争そのものの本質と重なっていることにも気づく。これは、普通のプロジェクトかなんかの仕事を描いた話のようなのに、それはいつのまにか、戦争や紛争のとても抽象的な寓話になってる。そういうところが、もう、とても恐い。どういうのかな、入口がコンビニの建物に入って行ったつもりだったら、いつの間にか核実験施設だったみたいな。
そういう点ではもう悪夢以外の何物でもない。戦争と日常は薄皮一枚で密着してるし、そのどっち側に自分がいるのかわからない。

主人公に言いたいことは山ほどあります。ほんとに、ほんとにバカだと思う。でも戦争や紛争や、それを許している世界って、皆こういうもんだと思う。「そんなことしてどうなるか、先のこと考えなかったのか」「それだけのことしといて、自分は無事ですむなんて虫のいいことどうやって信じられたんだ」うんぬん、かんぬん、彼に言いたいことはそのまま、戦争を認めるすべての人に言いたいことと同じだって気づく。平和と協調が非現実的だって言うけどね、現実をちゃんと見て把握したら、それしか無事な方法はないんですよ。少なくとも、それをめざして努力することしか、現実的な展望はない。

もう一つ、この映画を見て思うのは「国家ってそんなに大切か?」ってことですね。まあこれに関しては私の感覚が甘いのか、人とちがってるのかしれませんが。

●主役のエリック・バナは、「トロイ」のへクトルでは、高貴で崇高で、底まで澄み透った水のような静かな落ち着きがあったのに、この映画のアブナーでは、まるで目立たなくて平凡で、まったく不透明な混濁したイメージで別人のようでした。これは彼が「ハルク」で見せた演技に似てますね。あの映画ではそれがあまり生かされていなかったけど、今回は普通の人間の無気味さが恐さとともにいとおしさを感じさせて、非常に成功してました。

たしか、随分背の高い人のはずですが、それを感じさせない軽やかさは、この人がコメディアン出身だということにも関係があるのでしょうか。肩の力が抜けた無雑作な演技が、かえって映画を重厚に見せていました。

おもしろくて、のめりこむように見てしまった。スピルバーグの映画はいつも、「もうそこでやめておいたら」から先が長いんで、少し閉口するのですが、今回はそれも感じませんでした。
これまでの、この監督の作品の中では一番好きかもしれませんね。

料理と暗殺 ―映画「ミュンヘン」感想集(2)―

●この映画を見て、あらためて、つくづく思ってしまうのが、私は国家というしくみだか、発想だか、ほとんどもう、その雰囲気というものが、嫌いで苦手で性にあわないのだなあということだ。このへんの私の感覚はアブナーやエフライムやアリや、新しい教科書を作る会とかの人や、今の日本の若者や右翼や左翼やその他いろいろと、どの程度どのように重なるかずれるかねじれるか、まったく自分でも見当がつかない。

これはそもそも、国家でなくて、組織や共同体でも同じである。ともかく、自分の中にあるいろいろな要素や好みの一部を、それだけで、誰か複数の人たちとひとくくりにされて、「同じよねー」と肌をすりよせられるのが、もう耐えられない。

私にだって愛国心や愛郷心や仲間意識はある。でもそれは、ちょっとした遊びで、ゲーム感覚にすぎない。阪神やソフトバンクを応援するとか、そういう水準以上のものにはならない。なっちゃ困るんじゃないかと、はっきり言って思う。

たとえば、マンションの住人だったら、いっしょに話し合い、よりよく生活していくための妥協点をさがす。共同で、土地の暴力団とか隣りのマンションとかと渡り合わなくてはならない時は、それなりに団結して協力する。でも、そこまでだ。それまでだ。それで充分だし、それだからいいのだ。まあ、いっしょにお花見をしてもいいし、運動会をしてもいいし、それなりに楽しい。でも、それ以外の部分では意見のちがいも習慣のちがいも、見せたくない部分もちゃんとある。当然だろう、そんなのは。

私は今、職場でも地域でも、幸いにしてかなり気持ちよく過ごすことができている。それは、この点で私が徹底的にわがままで我を通しているからで、つまり「ひとつやふたつやみっつやよっつ、共通点や共通の利害があるからって、何から何まで仲間とか理解しあえるとか、夢にも思ってほしくはない」ということだ。

うーん、このことを話していると、超長くなりそうだから、別項目で語るべきなのかもしれない。それとも、ここで、ちびちび話して行こうかなあ。どうしよう。

あう、それと、私たちの70年代の学生運動の思い出や、当時の組織と自分の関係を寓話で表現したものとして、「従順すぎる妹」と「水の王子・第三部」という小説をご紹介しておきます。まだ全部アップしてないのですが、おいおい追加していきます。トップページの「鳩時計文庫コーナー」からも行けます。昔、自費出版したもので、一応完成はしていて、本もあるんですけどねー(笑)。

●忘れない内に、更に書いておく。国家について。

私はこの映画を最初に見た時、アブナーが国家について警戒心のないのにあきれ、「こいつはどういう甘ちゃんだ」と率直に思った。
最後に次第に彼が、自分と国家の乖離に気がついていくのを見て、「そんなことわからずにやってたのかあんたは」と、あきれはてた。 これは、スピルバーグが言いたいことを言うために少し創作しているのかとも思ったが、原作の小説を読んでも、似たような感想を抱いた。

だとしたら、私はむしろ、そういうかたちで「国家」を意識している点では、アブナーよりもエフライムに近いのだろうか。その存在や、自分との関係を強烈に意識しつづけているというところは。
ネオナチとか言われる人たち、あるいは二言目にはネットで自分と異なる意見の相手に「在日」などと罵声を浴びせる人たちの抱いている「国家」のイメージは、いったいどっちに近いのだろう。そもそも、どういうイメージなのだろう。

その一方で、これとは反対のことも感じる。私があまり親しみを感じていない(悪意や反感ではなく、知識がない)韓国やアジアの国々とは、決して不必要に対立したくない、常に友好な関係でいたいと思うのは、言いかえれば、なじみぶかい日本やアメリカとは、平気で悪口を言って批判して対立してしまうのは、どこかに信頼が、ひいては甘えがあるのかもしれない。

私はいつも、愛国心や自分の所属する組織の団結を強調し、他国や組織外の人を攻撃する人を見ると、その人は、その共同体の中で不安でいる、孤立を恐れている、と思えてならない。その国や組織に嫌われまい、切り捨てられまいという恐怖がいつもあって、そうされまいと必死で努力しているように見えてならない。そして、平気でその共同体の中で言いたいことを言い、わがままを言い、それでもとがめられない人たちに、暗い嫉妬をしているように感じて、よせばいいのに、いつもものすごく、見ていられないほど胸が痛い。

何をそう不安でいるのだろう。なぜ自分たち以外の何かを憎むことによって、肌をすりあわせ、自分たちどうしの温かみを確かめようとするのだろう。それが温かさと思えるのだろうか。一人でいることを恐がる人間どうしの心をすりあわせても、寂しさはつのるだけなのに。

●パレスチナの若者アリが、国家の建設への情熱を語るのを、どんな思いでアブナーは聞いたのだろう?

題材となった小説でも、映画でも、アブナーという若者の中には、これに対抗または匹敵できるだけの激しい愛国心はなかった。建国を体験しなかった世代ということを指摘しておられた感想も見たが、実際そういう状況もあったろう。アブナーの個性がまた、狂信者どころか熱烈な愛国者にさえなるタイプではない。
この映画では、その傾向があるのはスティーブだ。彼は祖国への熱い思いを持っている。「モサドに入ったばかり」だからか、彼なりの体験や環境のせいか。だが、最初の食事の時、仲間はそんな彼を鮮やかにかわして、あしらう。まださほど親しくもないのだろうに、この時のスティーブを除く三人の連携プレーはみごとで笑える。そのスティーブを加えての四人そろった連携はエフライム相手に実行されるが、そういう時の彼らの団結ぶりと意気の合い方は、実にしっくり描かれていて、「いい仲間だなあ」と感じさせる。

だがそれは、愛国心とは重ならない。結局はアブナーは、アリがあれほど夢見た「国家」を持っていながら、捨てて去る。「彼があれほどめざしていたものを、自分は生まれながらに持っていた幸福」は、じゃ、だからこそ、その国家をありがたいと感じて守り抜こうとすることにはつながらなかった。しかも、どうしてかわからないが、映画を見ていると、つながらないのが、すごく自然だ。そんなの、つながるはずないやんと思ってしまうほど自然だ。

「日本人にはわからない要素が多い」と、この映画を見て言う人もいるが、私にはなぜか、この映画のアブナーの「国家」意識というものが、日本の若者や私の中の一部分と、すごく重なって感じられた。国家が大事だ、といくら言われても、私たちの多くは多分ぴんと来ていない。その一方で多分、それが強調されすぎることへの恐怖もあまりわかってはいない。
これは平和ボケとは関係がない気がする。「ミュンヘン」という映画を見て、役に立ったひとつは、そのことに私が何となく気づいたことだ。イスラエルは日本とちがって、国は半分いつも戦闘状態なのじゃないかと思うし、アブナーも兵役を務め、戦争に行って戦っているけれど、だからと言って国家への姿勢はまるで会社勤めのように冷静だ。暗殺までしていても。

考えてみれば、アメリカでもそうだが、殺人をしに戦場に行くからと言って、若者たちに愛国心や国家意識があると決まったものではあるまい。
戦争や殺し合いは、そういうものとは少し異なった部分で、いつも行われている気がする。

●この映画の上映も、先週の末で終わってしまった。あとはDVDの発売待ちだ。

まるで、デートの後で再会の時までに記憶をかみしめるように、ぼんやりと映画の印象に身を浸していると、こみあげるのは、ふしぎに優しい感謝の念だ。
古い友だちが帰ってきた。新しい友達にめぐりあえた。そんな暖かい安堵と静かな興奮が身体を包む。

冷戦の間、私は個人的にはアメリカに親しみを感じながら、理性や主義ではソ連の方に味方していた。どうしてか、私はいつも、わりとこういう立場におかれる。心情的に近いものや親しいなじみある存在と敵味方になる。なろうとする、のだろうか。親しくない、なじみのないものと敵対するのが、私はいつも恐い。だから、「韓国が嫌い」という人たちが韓国と敵対したがるのが理解できない一方で、どこかでひどく感心する。それなりに(笑)。

それはさておき、その構図の中で、ユダヤ(イスラエル)とパレスチナの対立は、理屈や知識では理解できても、どうしても身近なものにならなかった。小説や映画や漫画などがなかったせいもある。ハリウッド映画の悪役でしかないパレスチナゲリラも、左翼の文献で批判されるイスラエルも、どちらも私にはとても遠かった。「アンネの日記」をはじめとした、第二次大戦下の数々の文学ではあんなに親しかったユダヤ人なのに、彼らの声が聞こえなくて顔が見えなくて、私はとても淋しかった。

「ミュンヘン」を映画館で見ている間はそのことに気がつかなかった。今、映画が終わって思い出していると、アブナーたちや首相や母親も含めて登場人物のすべてが、なつかしく愛しい。彼らのしたこと、とった手段を肯定するのではない。ただ、「ああ、そうだったのね」と思う。「あなたたちも大変だったのね」と思う。やっとそれを、話してもらえた、聞くことができたと感じる。

そして、パレスチナの人たちも。仲間と談笑しながら隠れ家に入ってきた一瞬のアリの、あの笑顔や、階段でアブナーに国家建設の夢を語っていた彼の、狂気でも愚鈍でもない、だからこそ美しいほど痛ましかったあのまなざし。あれだけで私には充分だ。もはや、彼らは私には、見知らぬ他人ではなくなった。

更に、この映画を作り上映し評価したアメリカにも、私はあらためて敬意と信頼を抱くことができる。おそらくきっと、ソ連の人たちの声もいつか聞けると、そのことも信じる力が生まれてくる。

そう、たかが映画だ。
それでも、この映画は、そういう、長いこと会えないでいたものの数々と、私を再びめぐりあわせてくれた。
そのことが、とても、とても、ありがたい。どんなに感謝しても感謝しきれないぐらいにだ。

●この映画、あちこちで「ギャング映画?」と思うところがある。最初の殺しの後でカールが登場するところとか、ロンドンでサラメを狙う雨の夜とか。

そこで思い出すのだけど、昔、フランスレジスタンスを描いた「影の軍隊」という映画があって、それがリノ・バンチュラ主演で映画化された時、友人たちが「あれじゃギャング映画じゃないか」と言っていたっけ。でもレジスタンスもテロもギャングも同じじゃないけど、案外どこかに、共通する要素があるのかもしれない。あの映画もあれはあれでよかったのか。
映画ではない原作の方だが、レジスタンス組織の影のリーダーが素敵だった。目立たない、平凡な、もの静かな学者風の人で。

それと、こんな挿話があった。連合軍がナチスドイツの支配しているフランスの工場を空爆する。その後、レジスタンス仲間が汽車に乗っていると、その工場で働いていて、爆撃の時に片手を吹き飛ばされて無くした老人が、大声でその爆撃をたたえて工場が破壊されたことを喜んでいる。それを耳にした、レジスタンスの人たちに守られて逃亡中だった英国軍の将校が、自分のすごく名誉で貴重な勲章をそっとその老人のポケットにすべりこませてしまう。後で彼はレジスタンスの人たちに「自分がものすごくバカなことをしているのはわかっていました。でも、あの時はそうせずにはいられなかったのです」と話す。
できすぎた作り話かもしれない。でも実際にありそうな話でもある。この老人の心境も将校の心境も私には理解できる。「敵が勝つのを味方の中でひそかに喜ぶ」この気持ちを、とてもよく私は味わう。(「白バラ」のゾフィーたちもそうだった。)そしてまた、こういう心境があることを知っているから、私はアメリカの空爆の下で喜んでいるイラクの人も、ひょっとしたらいるかもしれないと思ったり、自分や家族がテロの犠牲になることと、テロを憎悪することが、ストレートには結びつかなかったりするのだ。

●いろんなサイトをのぞくと、映画の悪口は言っていても、主演のエリック・バナはほめている人が多い。それはまあ、同感だが、あの嵐のように料理作る場面での野菜刻む手は吹き替えですよね。

別にそれはいいんですけど、この映画と同じ頃作った、こちらは気楽な楽しい映画「ラッキー・ユー」で、彼はギャンブラーの役やるんでしょ?
ということは、トランプのカードさばきがあるんじゃなかろか。
かわいそうと言えばかわいそうだが、何も同じ時期に二つも、すごい手さばき指さばきを要求される役をしなくてもよかろうに(笑)。

ギャンブラーも手だけ吹き替えかな。昔マックィーンのやった「シンシナティ・キッド」では、女のギャンブラーの手の吹き替えがどう見てもごつい男で、まっ赤っ赤に爪にマニキュアしてたのが子どもの私でも気になったけど。まあ、中途半端に下手にやるよりは、すかっと吹き替えでしてくれた方がいいか。それとも、ひょっとしたら、トランプの練習するのが精一杯で、野菜刻む練習まではできなかったとか?
少なくとも「ミュンヘン」の最後に出るスタッフの名前のバナのスタントの一人は、野菜刻んでいた手の人なんだよな。そう思って見るたび目をこらしてるんだけど、いつもよくわからない(笑)。

●アブナーの不幸ってのは、どっかとてもいい人だもんで、それが相手に伝わって、人に好かれてしまうことだよね。だから敵や味方や、どっちでもない人たちの、一番魅力的でいいところを、その気もないのに見てしまう。

もし、世の中のいやな面ばかり見て、ひどい目にあわされて世界をのろって、それでもって人を殺すのならまだやりやすかろうけど、仲間も敵も味方も中間派も皆この人にやさしいんだもん。愛する人までが、たとえば強引に迫るとか、屈折してよこしまに歪んだ愛で苦しめるとか、そういう人が一人もいない。暗殺という仕事がしんどいのを除けば(それが一番問題ではあるけど)、こんなに人間関係に恵まれていて幸福な人ってめったにいないぞ。

ホームレスを焼き殺した少年のことを誰かが「自分のことが大切じゃないから他人も大切にできない」と分析してたけど、そうだとしたらアブナーは、とてもいい人間関係に恵まれて大切に愛されて、そういう自分も世の中も大切にしているから、他人も大切にできて、だからこそ、人殺しはつらい。優しさや人間らしさを失わないのは、彼の多分最大の強みなんだけど、これがまた最大の弱点。

でも、考えたらこれって、戦争そのものにもあてはまる。
罰当たりは承知で、「昔は戦争に行って人を殺しても、帰ってきてそれなりに暮らしてた人が多かったのに、最近は後遺症に悩む人が増えてるって、前からそうだったのがわからなかっただけかな。それとも人間がやわになったのかな」なんて思ってた。

しかし、たしかベトナム戦争の時、アメリカの兵士の訓練の中には、何も知らない新兵にうさぎを渡して皆でかわいがって、優しい気持ちにさせた後で、そのウサギを残酷に引き裂いて殺すというのがあったと聞いた。ヒットラーユーゲントの訓練か何かでも、猫をペットにしてかわいがらせた後で、目をつぶしたりしてそれを虐殺するというのがあったと思う。
ろくでもないもいいとこの話だが、言いかえれば、そうでもして残酷な気分や冷酷な神経を磨かなければ、野獣や悪魔にならなければなかなか人は殺せないのかもしれない。あと、よほど高尚な信念や理想があるのでなかったら。

しかし、こういう人間の中の野蛮さを引き出す訓練は、文化が進むにしたがって、否応なしに困難になる。つうか、日常の世界が上品に優雅になり、女性や弱者の人権が認められる社会になるほど、戦場での体験で身についたものでは適応しにくい社会になる。

アブナーの親たちの世代では、イスラエルに限らずどの国でも、まだ荒っぽい日常があり、いく分毎日が戦場めいていただろう。私の幼かった頃の学校や家庭や村でも暴力は日常的だった。それが薄らいでくるにしたがって、戦争に行って人を殺すことは、きっとますます不自然になる。

この感想の最初の方で、うかと仕事を引き受けてしまうアブナーを、イラクに行く自衛隊の人にたとえてしまって、我ながら乱暴と思っていたら、その後、イラクに行った自衛官の中で自殺者が出ていると聞いてショックを受けた。自衛隊は絶対に詳しい調査や現状を発表しなくちゃいけないと思う。それがわからない以上、何も言えないけれど、戦闘行為をしなくても、やはり戦場での体験と平和な日本での日常は精神的に簡単に行ったり来たりの切り替えはできにくいものなのだろうか。

すごく乱暴な話の発展かもしれないが、人間の未来や発展と、戦争とは基本的に不自然で相容れない関係なのではないかとじわじわ実感してしまう。もう、無理なんだよ、人間に、戦争は。

●最初は、あれ、スピルバーグにしちゃ、最後の駄目押しがくどくなくてあっさりしてる、とか思ってたけど、何度か見るとそうでもないね。

何度めかに私、生まれて初めて、ベッドシーン見て泣いたのだけど、前の感想にもあるように、最後はアブナーが人間としての感情をとりもどして、しかしもう自分を守る思想も憎悪も何もなくなって、ずたずたに傷つけられるしかない状態で、目の前の絶望的な世界を、まるで生まれたばかりの赤ん坊のように呆然と見つめているじゃない?

奥さんがそれを抱きとめて、夫がうめくような吐息をついて彼女の肩に顔を埋めてしまう時、じっと目を見開いて何かと向き合ってるような奥さんの表情が好きです。あなたが何をしたかわかった、世界がどんなものかわかった、それでも愛しているから安心して、今は何も考えないで。私は絶望しないから、いなくならないから、何とかするから、心配しないで、今は休んで。そんなことを言っているように見えました。
何だかねー、手塚治虫の「火の鳥・宇宙編」だっけに、愛した男が赤ん坊に変化してしまったのを養うために、植物になった女性を唐突に思い出した。あの奥さんは、あの植物みたく無気味じゃないけど。

そうやって抱き合う二人の手の指には、他のサイトでも指摘されていた方がいらっしゃったけど、それぞれの結婚指輪がしっかりはまって、それが固く握りあわされている。
あーもう、この年になって、こんなベタなシーンで泣こうとは。何が空しい暗い救いのない映画だよ。めっちゃくっちゃ大あまのハッピーエンドじゃんよ、これ。

最後のエフライムとの会話は、「こうやって生きていく夫婦は、こんなこともしました」という、いつものスピルバーグの幸福の完成の駄目押し、上塗りじゃないかよ、しっかりと。
そりゃ、ツインタワーは映るけど、あんな幸福な結末はないよ。見ていて流れる涙は至福の涙だよ。

●あの母親がアブナーに、「聞きたくない」という態度をとって彼に何も言わせないのは、自信?があるからじゃないかな。ナチスのホロコーストで大家族が全滅したんでしょ。そういう体験に比べたら、アブナーが何を体験したとしたって、自分はそれよりもっとずっと、ひどいことを知っている、だから何を聞いたって気持ちは変わらないし、聞くだけ無駄だ、と思っているのでは。

そして実際そうだと思う。彼女の体験したことに比べれば、アブナーの体験なんてどってことない部類に入るんでしょう、きっと。
でもそれは絶対、ちがうと思うんだよなあ。わかるけど、でもちがうよ。明らかにあそこで、アブナーは母親と祖国を見限ったんだし、そういうようにあの映画は描いている。
ルイのパパでさえ「世界は君らの一族にひどいことをしてきたから、その復讐をする権利がある」と言ったぐらいに、ユダヤ人が受けたひどいことは、どんなことでもして償われなければならない、という心境がきっとどこかにあるんです。どこにあるのか、誰にあるのかなんて聞かないで。どこかには絶対ある。少なくとも、あのお母さんにはある。

あの映画は、それに対して明確に「ノー」と言っている。誰が言ってもいいことではあるけれど、それを「シンドラーのリスト」を作ったユダヤ人のスピルバーグが言ってることはやはり衝撃的で、「被害者だからって、すべてを免罪されるわけはない、甘えちゃいけない」ということを、最近の日本では加害者すじの人が言ってることは実にものすごいと思うけど、被害者が言ったということはそれとはまた別の意味でまったくものすごい。

あえて言いますけど、こういうことを言う権利があるのは、被害者だけです。
被害者が言うから、そこに希望と未来が生れる。
でも、それを言えとは、絶対に誰も要求できることではない。
それでもそれを、この映画が言ったということは、くりかえすけどものすごいし、イスラエルが激怒するのは当然です。よくあの程度の怒りや抗議ですんでる。それはやはり、映画の力なのかもしれない。他の何かの・・人類の、人間の力みたいなものかもしれない。

●70年代の映画の、型にはまった描写ってことでいうなら、あの頃は男女の恋は絶対に全裸のベッドシーンがなくちゃいけなかった。そして男性どうしでもすぐ、そういう場面になった。これも、そんなに必要なくても、とにかく映画の中にそういう場面があった。

アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドが共演した「ボルサリーノ」ってお洒落なギャング映画があって、友人と見た後、彼女が「何だかさらっとしていると思ったら、そうか、ベッドシーンがなかった!」と叫んだ。私も「あっ、そうか。それでかえって、すごく緊密に恋愛が筋にからんで描かれてる気がしたんだ」と手を打った。それほど珍しかった、そういう映画が。

それで、「インディ・ジョーンズ」を最初に見た時、その徹底的な惜しみないサービス精神とともに、何よりも驚いて新鮮だったのは、全裸のベッドシーンがなかったことだ。キスや抱擁だけで激しい恋や愛を描くなどという手法は何十年ぶりだろうという気がして、「おもしろい監督だなあ。相当自信があるのかなあ」と思った。
あれが走りで、それ以後次第に大作の映画から不必要な激しいベッドシーンが消えた。もういいかげん皆、食傷気味だったんだろうけど。

スピルバーグは私にとって、何よりそれが印象的な監督だ。「ミュンヘン」のベッドシーンはそういう意味ではむしろ、この人には珍しい。「あまりそういうの、やらない人がやったらこけた」という見方もあるようだが、私はむしろ「適当にやる人じゃないから、充分に考えた上でやってるな」という感じを強く受ける。

●標的が撃たれてるのにふらふら歩き回ってるのは、ゾンビ映画より恐かった。「そこにいろ」と、それを適当にひきとめながら、次の弾こめてる方も慣れない武器だもんだからもたもた手こずってるし、女の人の方に目が行ってて気づかない人が多いと思うけど、アブナーなんかばらばら弾落として「あら?」て感じで拾ってるだろ。それでもそんなに、あわててもないのが変にプロっぽかったりもするし、何もかもが予想をくつがえすのが、最高に居心地の悪い、それだけどきどきする映画。

●私は、最後の母親との会話ではむしろ、アブナーにいらいらした。

お母さんが聞かないと言っても、「聞けよ!」と言ってがーっと全部話したれと思った。

ハリウッドの家族描いた映画ならたいてい、そうするじゃない。(「トーチソング・トリロジー」のあの息子とか見習えよ~)
そこが逆にハリウッド映画らしくなくて、外国映画見てるようだった。

でももし、そんなことしたら、それはアブナーらしくないなとも思った。
小心とか優しいとか言うんではないけれど、この人の本質はそこで無理やり聞かせるとか、そんなんじゃない気がした。だから、いらいらしたけど、納得はした。
お母さんに対しても首相に対しても、「いい子」で生きてきた人なんだなあと思った。無理にそうしたとかじゃなくて、本当に、いい国民でいい息子だったんだなあって。

●例のベッドシーンについて、私はこんな風に考えたのですが・・。

よく、映画の欠点を指摘して「私だったらこうする」などと言っている人がいますが、私は到底そんな度胸はないので、逆に「私だったら、こうしてしまうかな」と思って書くのですが。
アブナーのしたことは、この映画ではやはり罪だと思うし、何より彼がそう自覚していると思います(そういうように描かれています)。これは大抵の小説でも映画でも演劇でも、そうするしかないと思うけど、こういう場合、そういう人が救われるのは、「こんなことした、こんなひどいことした、こんな悪いことした、自分もつらかった、でもそんなこと言う権利もないほどひどいことした、つぐない方もわからない、生きていっていいかどうかもわからない、もう一度やれと言われたらもうしないか、またやるか、それさえもわからない、誰も責められない、何がいけなかったのかもわからない、自分のしたことが忘れられない、それをどう考えたらいいのかわからない」とか何とか、誰かに、もしくは何かに向って洗いざらいぶっちゃけて、かきくどくしかありません。牧師さんに懺悔するとかカウンセラーに告白するとか、まあ何でもいいけど。
でも、アブナーのしたことは、ことがことだから、そういう職業的な人にも告白できないだろうし、多分そういう相手ではうけとめられないでしょう。それに多分、ただ聞いてもらうだけではすまないほど、彼の落ち込んでいる闇は深い。

アブナーはむろんユダヤ教徒でキリスト教徒じゃないけど、言ってみれば、彼のそういう悲しみや絶望を吐き出して受けとめてもらえる相手は、きっとナルニアのアスラン級の存在でなくちゃならない。

前の感想にもあったように、アブナーは最初、そのアスラン役を母親に求めます。母親は、自分たちの民族が受けた迫害、生き抜いた者たちの希望と祈りを口にして、間接的に彼のしたことを肯定する。自分たちの暮らしと、この国を守るためなら、どんなことだって許される、と。

でもアブナーは、そこで、もっと具体的に話したいのです。戦場とちがった日常の場で、普通の人を殺しつづける苦しみ、具体的には標的との会話とか、標的の家族とか、死んだ仲間とか、パレスチナ青年との会話とか。狙われる恐怖、見えない理想、生まれる憎悪、そんないろいろ。「それでもやれ」と言ってくれる?と彼は聞きたいのです。

昔、学生運動をしていた頃、広い意味では革命をめざして戦っていた頃、何度も思ったのは、「本当のことを言ってほしい」でした。「それが、どんなに汚いことでも、必要だったら、そう言ってほしい。わかった上でやれと言うなら、やるから。指導部といっしょに罪を犯すから」と、そんなことを思いました。
組織のために、未来のために、汚いことをやらなくてはならないのなら、そう言ってほしかった。せめて、共犯者にしてほしかった。 たかが、下っ端の分際で、そんなことを求めるのが間違いだったとは今ではわかるのですが。一番上に立つ人に、そんなこと言えるわけがない。どんな組織だって。どんな国家だって。

あのお母さんは、そういう点では間違ってない。立派な国民だと思う。原作でアブナーの父は「自分は聖人じゃないけど、おまえの母さんは聖女だ。そこが困ったところだ」とか言います。彼女は国を愛していて、その姿勢はとてもきっちりと正しい。でも、息子を愛する者の態度じゃない。

今から思えばバカみたいだけど、本当に生身の身体を裂く思いで、仲間や組織から離れた後、私は母に、その時の心理を話しました。夜に、ふとんの中で、子どものように母にしがみついて。話しながらひとりでに、身体ががたがた震えてとまらなかった。とりとめもない、うまくもない話し方で、きっと母は、なぜ私が信じていた組織から去ったのか、仲間を見捨てて裏切るようなことをしたのか、何もわからなかったと思います。そして母は、ちょうどアブナーの母のように、私と同じ思想を信じて、私のやっていた戦いも支持してくれていた人だった。ちょっと困るぐらい、聖女で、烈女でした。でも、その時彼女は私の話すのをとめなかった。黙って私にしがみつかせて、最後まで話を聞いてくれて、何も言わなかった。

ところで、原作では、あの奥さんは、アブナーがイスラエルに帰って話をつけてくるというのを、すさまじい勢いでとめます。絶対に国に戻ってはだめ、「あの人たちのことは、私の方があなたよりずっとよく知っている」とすごいことを言い切ります。何でかはわからないのですが、何となくそうだろうなという気がしてくる(笑)。アブナーもきっとそう感じたんだろう。奥さんに従います。

この映画でうまいのは、女優さんの名演もあって、そういう小説の話は何もないのに、何となくこの奥さんは、そういう、ちゃんとわかってるし、アブナーを守ってくれる人と感じられることです。 母親はイスラエルの聖女だし(「お母さまはあなたをキブツに捨てた」と妻ははっきりした見解を持ってるわけですが)、ルイのパパは「君が息子ならよかったが、君は息子じゃない」と明言して甘えることを許さない。支えてくれたカールは死んでいる。エフライムはむしろ敵。だったらもう、アブナーのアスラン役をやれるのは、この頼もしい妻しかいない。

で、もし私がこの映画か小説を作るのだったら、あのベッドシーンにあたるところで、結局アブナーに長々と「告白」させてしまうと思うのです。奥さんに向って、自分がしたこと、されたことの洗いざらいを。
て言うか、うまく言えないのですが、アブナーはそうしたのだろうと思うのです。実際には。いや、何が実際か、何を実際というかは、あいまいなんですが。現実には、でもないし、小説では、でもないし、映画の別の見えないところでは、でもないし。

うわあ、ほんとに、何かわけのわからないこと言ってるよなあ(笑)。でも勢いで続けるとですね、私には、あのベッドシーンは、「アブナーが奥さんにすべてを語って語って語りつくして泣いて叫んで自分のすべてをさらけ出した」という事実を象徴的に描いていると思えるのですね。いや、ちょっと冗談入ってますけどね。
つまり、奥さんが「本当のこと話して。何があったの?」とか言って、彼が口ごもりながら、「こうやって一人目を殺し」「こうやって女を殺し」「こんなに恐くなって」「これでいいのかと」「故郷に帰っても」「母に会っても」「ここに今、君といても」みたいなことを徹夜で延々延々しゃべる場面のはずが、そんなの退屈だし陳腐だし長くなるしおもしろくないし、これ全部性交で表現してしまえないだろうか、というような、あまりにも恐ろしいことを考えたのが大スピルバーグではないかと思うのですけど、あ、いいです、信じなくても(笑)。

でも、あのベッドシーンが果たしてる役割、映画の上での位置というのは、もう、そうでしかないんだもん。アブナーはすべてをたたきつけ、ほとばしらせ、妻はそれを受けとめる。どなたかのサイトが「石のような」と形容していた、故国に帰ってエフライムに会った時のアブナーの表情(「アラビアのロレンス」のラストに近く、ロレンスもこれと似た顔になっている)、その後、アメリカで妻のそばで息をひそめて自分の中に閉じこもっている彼の、悲しみだけをたたえてすべてを拒絶している表情が、崩れていって、ほどけていって、最後に行為が終わった時、彼はまったく無防備な幼児のような無力な表情になっています。傷つけられたら、守ることも逃げることもできないほど、ただ傷つくためにあるような、やわらかく弱い肉体と精神そのものに見えて、しかも、その赤ん坊のような無抵抗な肌をさらしたまま、彼は目を開けて世界を見つめている。
この性行為の間ずっと、妻は目を閉じないで、そんな彼を見つめている。そして、その目をおおい、その身体を両手で抱きしめる。
いやね、性行為を、他のもので象徴的に表すというのはよくありますが、スピルバーグは今回その逆を、つまりアブナーの告白や奥さんのカウンセリングを、手っ取り早く性行為で象徴させちゃってるのではないかと・・だからいいです、信じなくっても。でもやっぱり私には、これしか考えられないんですよ。

●アブナーはロンドンのホテルで会った素敵な女性に誘われて、断って部屋に帰ってアメリカの奥さんに電話しますよね?まあそれでよかったんだけど。いろいろと。

これは、スピルバーグがフェミニズム全盛?の現代に合わせて創作してるんじゃなく、原作でもそうなんですね。そもそもアブナーは、奥さんを旅先でも裏切ったことはなかったと、かなりしっかり書いてある。

この本「標的は11人」がいつごろ出たのか今ちょっとわからないけど、実は多分ひと昔前、10年か20年前だったら、そういう設定したら小説でも映画でも「えー、うっそー、まじめー、何きれいごと言ってんのー」と驚かれたり笑われたりしかねなかったような気がする。そういう場合、旅先で男は必ず(そんなに誘われなくっても)知り合った女とは寝ることになっていた。寝なくちゃ変な感じだった。たとえ奥さんがいても、そんなことまるで関係なく。私はそのことにこだわりながらも、「しかたないのかなあ」と半ばあきらめていた。

私の覚えている限り、この手の冒険活劇映画で、正義の味方の強い男がそういう冒険や危険の中で敵の女や謎の女とつきあっても、奥さんに操たてて、貞操を守った(笑)最初は、「ホワイト・サンズ」のウィレム・デフォー演じる保安官だった。映画そのものはデフォーが出るくらいだから、しっかりした手堅い佳作ではあったが、まあそんなにヒットもしないし話題にもならなかったけれど、私にはそういう意味で非常に印象的な作品で、結局女と関係を持たないでシャワーかなんか浴びてる彼を「えっ、ほんと?ほんとにそんなことしてくれるの?(しないでくれるの?かな。笑)」と、どきどきしながら夢を見ているように見ていたことを今も忘れられない。そして、もしかしたら、この設定って小さく勇気がいることだったのかもしれないと思って、デフォーがやっぱり好きだとひそかに確信した。

今では多分、そういう描写も普通になっているだろう。現に「ミュンヘン」でアブナーが謎の女と寝なかったのを「男として不自然」と批判する意見はみごとに、まったく見ない。こういうことも、世の中は変わったなあと思う。そして、もしかしたら、「標的は11人」の本や、そのもととなった現実のアブナーなど、実際に「奥さんを裏切らないスパイ」は昔から存在していたのに、それが映画やドラマではまったく描かれなかったことに、あらためて、文化とか芸術とかって意図的な枠があるのだと痛感する。

ついでに言うと、今の映画では相当な凶悪犯でも女性をさらったら裸にもせずレイプもしない。これがどれだけ現実の反映かどうかは別として、70年代あたりの映画では、そうするのが明らかに不必要で不自然でも、お約束事のように絶対こういう時に犯人は女性をレイプした。人質とか取引材料にするなら、そういうことしない方がいいんじゃないの、第一そんなことして自分が消耗しちゃまずいんじゃないのなどと思って見ていたこともある。
これもいつからか、減って行ってなくなった。今は皆無になりすぎて、いずれその内揺り戻しがくるかもしれないが、私はまだまだ当分しばらくはこのままでいてもいいと思っている。ついでに言うと、そういうことを皆忘れているのかもしれないが、私はしつこく覚えているから、どんな意味でも70年代もそれ以前も、ちっともなつかしくなんかない。

●スピルバーグって、こんなに男をきれいに撮る監督だったっけ?と、目を見張った。いい俳優を使ってるというだけでなく、どの人の動きも皆その人らしくて美しい。

もちろん女も、奥さん、殺し屋、母親、首相、皆風格と存在感があってきれいだけれど、それにも増して男たちの「機能美」が目立つ。寡黙なハンスは黙って座ってるだけで絵になるし、オリンピックホテルの爆発のあと、車から飛び出すカールのしぐさとか、目かくしをつける時、やけのように手で紐をひっぱってはじくようにするアブナーとか、「ここで数えるな」とナプキンを投げられてah!と小さくばかにしたように言いながら札束包むルイとか、いったいどこまで監督の演技指導で、どこからが本人の工夫なんだろう。

●むか~し、高校生の頃、特攻隊の話が大嫌いで、「人を殺しに行っておいて被害者づらするな」としんから思ってました。今でも、戦争反対で平和を護ろうと思う私ですが、平和運動の中で特攻隊を美化したり同情したりする映画や小説は、やはり感情移入できません。

でも、考えてみれば「ミュンヘン」のアブナーたちを「人殺しじゃないか」「被害者みたいに甘えるな」と怒る人たちに対して、私は「それはわかっているが、やはり共感同情する」と言ってしまいそうで、これはどういうことなんでしょう。年とったのかな。
高校生の私が、この映画見たらどう思ったのか、もう絶対にわからないけど、知りたいです。

料理と暗殺 ―映画「ミュンヘン」感想集(3)―

どうも、ここは次第に、鳩時計文庫同人たちの、
かつての学園紛争時の思い出話や、
小説「水の王子」「従順すぎる妹」などの感想が中心になりそうです。
困ったな。
映画「ミュンヘン」の話も時にからまりはしますが、
映画にのみ興味のある方は(1)(2)を中心にごらん下さいね。

●スティーヴが皆に比べて安定を失わなかったのは、前半で苛酷な仕事をあまりしてないせいもあるんだろうけどね。2ちゃんねるだかどこだかで、「皆が銃を撃ったり後始末したり爆弾しかけたりスイッチ押したり、いろんな仕事してる時、スティーヴは車の運転とふとん敷きだけかよ!」という感想があって大笑いしましたけど。

でもそれも考えたら、最初にくじにあたって殺人したロバートはじめ、実際にことにあたった順から壊れて行ってるんだよね。そこもきっちりリアルだし、そして終始そういうことに携わっていてもあの程度にとどまったアヴナーの精神の強靭さもおのずと浮かび上がってくるということもあるんだよな。

●すごい俳優の中に、ジェフリー・ラッシュのエフライムもつけ加えて下さい。(笑)

スティーヴですが、最初からいかにもバカに見えるのですが、中途からどことなく彼がたのもしく見えてきませんか?仲間の皆がそれぞれに、疲れて壊れておかしくなって行く中で、彼一人が微動だにせず健康です。はなっから病気だからと言えば、それまでだけどさ。

こういうのは、たしか昔、学生運動や革命めざしていた時に、私たちの仲間では「党派性」と言っていたものだろうなあと思い出しています。ゆらがないし、迷わない。こういう人は宗教でも思想でも、もっと日常的なことでもそうで、信念を持っていて変わらないで、わかりやすくて安心できる。

後半のアブナーは、きっと心理的にスティーヴにかなりよりかかり救われていたと思います。彼がいてくれなかったら、アブナーは(あくまで映画のですが)狂っていたかもしれません。

この映画の恐いのは、私だけではないと思うのですが、観客もまた、多分見ている内に、スティーヴがたのもしく心強く見えてくるんじゃないかってことです。ロバートが脱落して行くのとは反対に、最初はバカで単純で、いささか滑稽な道化にさえ見えたスティーヴが、彼本人は別に変わっていないのに、だんだんとても見ていて「安らぐ」存在になってくる。これも計算した演出だとしたらすごいです。まあ、きっちり描いていたら自然とそうなるものかもしれないけど、それはそれで、またすごい。

明らかに狂気で異常で、皆も苦笑しながらあしらっていたようなスティーヴが、だんだん見ていて「心やすらぐ」「癒される」存在になってくるのって、それどうよ?(って、こういう時に使う表現なんだなあ)。くりかえすけど、そう感じるのって私だけじゃないですよね絶対に。

●「小倉昭和館」で二回観ました。「フライトプラン」と二本立てで入れ替えなしというゴージャスさだったのですね。二回とも時間がなくて「ミュンヘン」だけ観ましたが。

公開された当時から、「何でアブナーだけが裸で寝るんだ」と一部のファンがうれし紛れに騒いでたけど(笑)、その裸も含めてエリック・バナは無茶苦茶着せ替え人形状態に衣装替えさせられてますね。ちょっと笑いました。どうせ「スパイで変装しなきゃならないから」って、しっかりした言いわけが監督にはあるんでしょうが。

冗談はさておき、本当に監督は彼にほれているのかもしれない。私自身、この映画を見て、昔「アラビアのロレンス」でピーター・オトゥールという俳優にめぐりあったのと似た感動を感じています。近代史を、それにつながる現代を私に親しませてくれた、知識で知っていてもなお遠かった問題や世界を生身の人の姿で実感させてくれた、そういう映画の、そういう役柄を充分に演じてくれた俳優として、私にとって忘れられない存在に彼はなると思う。

でも、もうちょっと意地悪な見方をすれば、そういう着せ替えや何やかやでカバーしとかないと、周囲の名優に比べてやはり若干の遜色があると見えてしまうからなのかなあ、とも思う。
スティーブンを演じた彼も若い新人だけど、あの役は演じやすいと言えば演じやすい。単純な性格だし、わかりやすいし。アブナーはもっと複雑で、うつろって行く人格です。それをバナは新人とは思えない、むしろ新人ならではのみずみずしさでみごとに演じているけれど、でも、あの暗殺集団の他のメンバーは見れば見るほどすごいものなあ。

私はロバートも、カールも、ハンスも、演じた俳優さんたちはこれまで知らなかったのですが、見直せば見直すほど、そのうまさに寒気がします。オーバーなアクションも何もなく、とことん自然で地味でさえあって、何もしないで表情も変えないで、ただ座ったり立ったり歩いたりしているだけで、それぞれの役柄の人の人生がずしっとそこに感じられる。ハンスやカールを見ているだけで、長編小説が自然と書けてしまいそうなほど、背負っている過去が重い。それを深刻そうな顔ひとつせず、どうやってかもわからないけど、確実に表現してしまう。
いっしょにやってたら恐いだろうなあ。息もできなくなるんじゃないだろうか。アブナーもスティーブも。

こういう俳優たちが、スピルバーグの一声で集まってくるのですね。それはものすごい財産だとしか言いようがない。
そんな中で主役のアブナーを存在感持たせようと思ったら、それは相当のことをしないといけなかったんじゃないだろうか。着せたり脱がせたり、できることは皆(笑)。

●九州は小倉の「小倉昭和館」という名画座で、「ミュンヘン」を6月23日まで上映しています。こじんまりしているけど、画面も音も客席もきれいです。お近くの方はぜひどうぞ。JR小倉駅から歩いて10分ぐらいかな。

久しぶりに見て、スピルバーグがこんな映画を作ってくれたことに、あらためて感謝しました。本当に正統で骨太な暖かい主張。重厚なのに華のある的確な演技をする俳優たち。惜しげもないサービス精神。画面のゴージャスな美しさ。手抜きやがさつさ、不確かさ、不機嫌さがまったく見られない、誠実さと勇気と明るさと優しさがどの場面にもあふれている。
この映画の題材となった事件を生で見た時代に生まれた不幸と、この映画を映画館でリアルタイムで見る時代に生まれた幸福とを、ともどもにかみしめています。

●今、更新中の「水の王子・第三部・都には」は、私たちが30年ほど前に書いた小説で、学生運動や共産党での体験を寓話のように書いています。

だからこの小説での「都」は、私たちが信じて自分を捧げようとした組織や仲間であるわけですが、最近こうしてアップするため、読み直してみて、主人公たちが、アブナーどころではなく、「自分たちの秘密はあけわたさない」ということに徹底的にこだわっていたのに、あらためて驚いています(笑)。

共産党に所属しやがて離れたジャーナリストの有田芳生氏がこの映画の感想で、アブナーが国家に最後まで自分の秘密を守る姿勢に注目し評価しておられたのも思い出します。

もとになった本では、彼にこの姿勢を強く教えるのは、かつて自分もモサドだった父親なんですね。

●あまりにも余談すぎますが…

最近、いろいろあって、あちこちの貸金庫を使ってるのだが、金庫室に入って鍵あけて、中の箱を出してふたを開けるとき、無意識にふと、アブナー風な手つきや目つきをしてしまってる。これって面白い。貸金庫に行く時のささやかな楽しみ。

でも誰も見てないからいいようなものの、人が見てたら「何かっこつけてんだ」って相当おかしいかも。ひょっとして監視用の隠しカメラでもあったらどうしよう。

だんだん悪乗りしてきて、その内アブナー風の服装とかバッグとか身につけ出したら危ないな、我ながら。

●スピルバーグが原作をどう改変したかって、よく話題になるけど、それはもう実にうまく、徹底的にしてるよね。

たとえば、爆弾担当のロバート。原作ていうか題材になった「標的は11人」では、彼は全然こんな風に危なっかしくはないでしょう?いつも、ちゃんと成功している。爆弾をちゃんと作っている。

でも映画では、彼の爆弾はいつも失敗する。それこそグループの中で爆弾抱えてるような(洒落かよ)存在。これってもう、かなりなぐらいみえみえの冒険小説のパターンの王道である設定で、そしてとても効果的。

スピルバーグは完全に「お話」を作り「寓話」を作ってる。その中でロバートの役割は、とてもきちんと設定されている。グループのアキレス腱、不安材料。これだけ型にはまっていて、しかもそれが自然に見えてしまうのなんて、すごすぎて、あきれてしまう。

彼がまず脱落し、グループから離れる。彼のそのアキレス腱が、同時に駅のホームで「おれたちは崇高な精神の民族ではなかったのか」と仲間に問いかける「良心」と重なるのも、これまた心憎いほどうまい。グループの最大の(ひょっとして唯一の)弱点は、「正しいことをしているのか?」という良心の声でもあるという、この皮肉。

彼はグループから離れるけど、生きてはいる。そして、アブナーの狂気と懊悩が頂点に達した時、最後まで生き残る二人を除いた最後の犠牲者として、彼は死ぬ。まるでアブナーにとどめを刺すように。良心は最初に脱落し、そして最後に死ぬのかもしれない。

ロバートを演じるカソヴィッツは、そのような存在のはかなさと優しさと温かさをさりげなく、的確に、そこにただいるだけで示している。端役の一人まで、演技の的確さに何の不安もなく見ていられるのは、この映画の大きな快感の一つだが、彼らは皆、とてもリアルでありながら、とても象徴的で寓話的な演技をしている。

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カツジ猫