守りつづけて3-守りつづけて

最初は気のせいかと思っていたが、次第に木々の間が広くなってきた。さしこんでくる光の筋も大きくなってきた。とうとう森が開けて、僕たちは広い草地のはしに立っていた。ずっと向こうにはまた黒ずんだ森の影があって、その広い野原は四方を森に囲まれているとわかった。
巨大な堂々とした、丸太と石を組み合わせた館が僕たちの前にそびえていた。いくつもの建物が回廊でつながっている。あちこちの階段の手すりには、さまざまな模様を織り込んだ美しい布がいくつもかけられて、ゆっくりと風をはらんで旗のように動いていた。草地にはすばらしい馬が数頭のんびりと草をはんでいたが、僕らの方を見もしない。そのそばにいた男たちがこちらを見て少し驚いたように顔を見合わせている。
どうやらここは、館の裏手らしかった。草地に下りる広い石段にたたずんでいた、金色のような淡い黄色や栗色の衣を来た娘たちが、あわてて建物の中に入りかけたが、僕らが馬から下りたのを見て、一人がゆっくり近づいてきた。落ち着いた声で彼女は「父のお客さまですね?」と言った。「お供の方々はもうおつきですわ。どうぞ、こちらにいらして下さい」
彼女が軽く手を上げて合図すると、男たちが近づいてきてうやうやしく僕らの馬の手綱をとった。そして僕らは、どうやらここの王女らしい、その娘に導かれて館の中に入って行った。

「あなた方の国の堅固な城壁は有名だが」黒いひげをふさふさと生やした陽気な顔だちの王は、満足げに杯をあげながら、私たちに向かって言った。「ここではそれにあたるのが、あの森でしてな。あれが外敵からこの館を守っておるのです。正面の道から来る者以外は皆、あの森の中をさまよって飢え死にし、白骨になる」僕と兄が顔を見合わせるのを見て、王はまた大笑いした。「いや、そうならぬ前に迎えを出そうとしていたところでした。だが、無事に抜けてこられたとのことで驚きました」
「本当よ、お父さま」僕たちの向かいの席に座っていた王女たちの一人が、声をあげて教えた。「ええ、本当に森から出ていらしたわ」
「わかったわかった」王は手をふってうなずき、兄に尋ねた。「前にここにおいでになったことがおありか?」
「いいえ」兄が首を振った。「でも弟が、道を見つけてくれまして」
「美しい旅の神ヘルメスに乾杯しよう」王は僕に向かって杯をあげた。「しかしこうもあっさり、あの森を抜けられるようでは、何か策を講じないことには。毒蛇や猛犬を放つとか。落とし穴やしかけ網を作るとか」
「またそんな恐ろしいことばかり」王妃が料理をとりわけながら眉をひそめた。「私どもが森に入れなくなりますわ。薬草や木の実やきのこを取りに」
「そんなのはいやですわ」王女の一人がまた言って、彼女たちはまたお互いに大真面目な顔でうなずきあった。「きのこがとれないなんて!毒蛇なんて!」
僕たちを案内してくれた、あの落ち着いた王女だけが、話に加わっていなかった。彼女は一番年上のようで、王妃を手伝って料理や音楽などを使用人たちにさりげなく指図して、忙しく立ったり座ったりしていた。それでも慣れているらしく楽々とこなして、ほほえんで妹たちの話を聞いていた。

その夜、僕たちが与えられた居心地のいいへやにひきとって、寝支度をしていると、とびらの外でくすくす笑う声がした。開けてみると王女たちで「母と姉が、寒いかもしれないから、余分に掛けるものを持って行くように申しまして」と言って、ひざをかがめてうやうやしく一礼し、折りたたんだふかふかと暖かそうな厚手の布をさし出した。
彼女たちは皆で三人、宴会の時と同じ衣装を着ていた。髪飾りやなんかは、もっと増えていたような気がする。化粧もし直してきているようだった。それでも下の妹などはまだ子どもと言っていいぐらいの幼さで、皆とてもかわいらしかった。まじめくさった顔をしてみせていたが、僕たちが受けとって礼を言うと、肩をぶつけあって笑い出し、いつまでいらっしゃるのですかとか、ずっと同じ馬に乗ってきたのですかとか、僕たちを質問攻めにしはじめた。
僕たちがそうやってかなり長いことしゃべっていると、軽い速足の足音がして、廊下の向こうから姉娘がやってきた。彼女一人はもう宴会の時の衣装は脱いで、淡い樺色のやわらかい動きやすそうな衣を着て、黒いふさふさした髪も長く肩にたらしていた。飾り物は何もつけてなく、化粧も落としていたので、少し顔色がくすんで見えた。けれど、帯もない長い衣がきびきびと無駄のない動きにつれて、身体にまつわるのは、一瞬彼女の豊かな胸や丸い腰を浮き上がらせて、妹たちよりなまめかしかったかもしれない。
「いつまでも、何をしているの」彼女は僕らをはばかった低いあたたかな声で妹たちをたしなめた。「お疲れなのに。さあもう寝に行って」
「お姉さまだってお話なさりたいくせに」妹の一人が唇をとがらせた。

「長い旅で、お疲れなのよ」姉娘はくり返した。「そのくらい、お察ししてあげられないの?」
「そりゃお姉さまはお察しにもなれてよ」別の妹がちょっとむくれて言い返した。「お食事の間中、兄王子さまのお顔ばかりずっとごらんになっていたんだもの」
「あなたがお座りになっていらした椅子に、後でこっそり座って見ていたのよ」もう一人の妹が兄の袖をひっぱって教えた。「お姉さまったら。本当よ」
「テーブルを片づけていただけ」姉の王女はちょっとむきになって言った。「さあ、いいからもう行くの」そして、子どもにするように、妹たちの尻を平手で軽くたたいて、憤慨の声をあげながら彼女たちが廊下の向こうに走って行くのを見送ってから、かすかにほおを染めてふりかえった。「申しわけございません。でも、もう静かになると存じますわ」
「かまわなかったのに」兄が言った。
「あの子たちは、きりがありませんから」彼女は笑ってとびらをしめようとして、妹たちの一人が落として行った髪飾りに気がつき、身体をかがめて拾い上げた。そしてまた立ち上がった時、とびらを支えていた兄と、面と向かい合って立つことになった。そうすると、大抵の男より背が高い兄と、彼女の目の高さがほとんど同じなのに僕は気づいた。兄もちょっと目を見張るようにして、「背が高いんですね」と言った。
男ならともかく、女の人にそんなこと言っちゃまずいよ、と見ている僕があわてた。果たして彼女は恥ずかしそうにあいまいに笑って、「父にいつもからかわれますわ」とあきらめたように言った。「おまえにキスする男は皆、背伸びをしなくちゃいけないぞって」
ほら見ろ、傷つけちゃったじゃないか、どうする気だよと僕がやきもきしていると、兄はちっともあわてずに身体を軽くかがめて首をかしげながら、彼女の唇に口づけした。

えっと驚いたが、もっとびっくりしたのは、彼女が一瞬身体をこわばらせた後、両手を上げて兄の首をつかむようにして、自分からも口づけを返したことだ。
すぐに彼女は身体を離した。自分でもびっくりしたように後ずさり、どぎまぎした顔でちらと兄を見てから、速足で廊下を遠ざかって行った。
兄は静かにとびらを閉めて、あっけにとられている僕を見もせずに「寝ようか」と言って寝台に上がって掛け布をひっかぶってしまった。
僕はぽかんと立ったままだった。ようやく我にかえって灯皿の火を消し、寝床にもぐりこみながら思ったことは、この人、もしかしたら、都では余計なもめごと起こさないために、女の人とつきあわないでいるだけで、戦いに行った先や旅の間には、けっこう遊んでるんじゃないかということだった。
ずっと後になって兄が話したことによると、あの時は足ががくがくして立っていられそうになかったから、もうこれは寝るしかないと思った、と言うのだけれど。

その同じ時だったか別の時だったかに、何であの時、あんなに突然キスしたのと聞くと、兄は困った顔になって考えこみ、とにかくしたかったんだと言った。変なこと言ったおわびに?と聞くと、何のことかわからないような顔をしていて、そうじゃなくて、彼女がああいうこと言うから、そういえばちょうどいい位置にあるなと思ったし、とてもきれいな唇だったし、と、うっとりした目をするので、聞いたこっちがばかばかしくなった。彼女ああ言って兄上を誘ったのかなと言うと、そんな人じゃないよと妙にきっぱり首を振られて、またばかみたいな気持ちにさせられた。
それはさておき、僕らはその館にそれから数日滞在した。連れて行く馬を選んだり、王の家来たちと槍投げや矢合わせに興じたりした。毎日すごくいい天気だった。王女や妃も競技を見物に来て、はしゃいでいた。
そんな時、姉の王女は、妹たちにからかわれて赤くなりながらも、兄の方ばかり見ていた。あんな人って思わなかった、あんな姉さま見たことない、と妹たちは口々に僕に話した。兄も時々彼女に笑いかけていた。僕はあの夜からこっち、兄のことを何となくすみにおけない人だと思い込んでいて、あんな、まじめで地味な感じの王女に、罪なことするなあと思った。
出発の日は、馬の世話などでごったがえしていたから、王女たちとゆっくり別れを惜しむ暇はなかった。

***

都に帰ってからは、僕は王女のことは忘れていた。ただ、兄は僕が思ってたよりは相当、女の人に対しては凄腕だったんじゃないのかという新発見で動揺していて、兄に対するこれまでの印象をいろいろと修正するのに忙しかった。今思えばそれは根っから大まちがいで、修正する必要なんかさらさらなかったのだが、おかげで僕は混乱し、その頃の兄を見る目が狂ってしまった。
そんなことがなければ絶対に僕は気づいたはずだった。兄の様子がおかしいことに。兄はその頃、多分生まれて初めてのちゃんとした恋をしていたのだから、いろいろおかしなことをたくさん、したり言ったりしていたはずだ。ところが僕は、自分はこれまでちゃんと兄を見ていたのだろうかと自信がなくなり、兄を見直せば見直すほど、兄は変化したのか、もともとそうだったのかがわからなくなってしまっていた。

それにしても、都に帰ってからの兄は女の人たちにもてた。
それまでだって、ひそかにあこがれられて遠巻きに見守られていたのに本人が気づかなかっただけなのだが、それが僕と同じようにいやもっと、人妻からも娘たちからも、しなだれかかられたり腕をからめられたり、面と向かって外見や性格をほめちぎられたりするようになった。兄は珍しそうに、でもこんなのも悪くないなあと言うように小首をかしげて、言われるままされるままになっていた。
僕はそういうのを見ていて、ますますとまどってしまい、前からこうだったのに自分が気づかなかっただけかしらと、思い出そうとしたり悩んだりしていた。

今考えてみると、何ともほんとにばかばかしいほど、太陽の下の海の上のまっ白い船の帆よりももっとはっきりしていることなのだが、あの時の兄は、それまでとちがって、すきができていたのだ。すきだらけ、と言った方がきっと正確だったろうが。
それまでの、どこか近づきがたい神々しいおかしがたさがなくなって、すぐ手の届くところにいるような、親しみやすい人間らしさが、それにとってかわっていた。
堂々と立派な大人なのに、どこか固く青いつぼみのような、さわるとこわしてしまいそうで痛々しくなるような少年っぽさがただよっていたのもいつか消えて、誰でもかぶりつきたくなる、とれたての果物のようなみずみずしい若者らしさがみなぎっていた。女の人というのは、そんなところにはとても敏感だ。花に群がる蜂や蝶のように、たちどころに集まってくる。

兄の表情やしぐさは、それまではきれいで無駄がなかったが、どことなく超然としていて、僕が女の人たちと楽しそうに騒いでいるのを見ていても、どうしてそういうことをしているのかわからないというような、礼儀正しい無関心さ、本人はそんなつもりはちっともなくても、こちらは見下され、さげすまれていると思いそうになる冷たさのようなものがあった。ただ、それには、いつもかすかな疲れや悲しみがこもっていたから、さげすみや冷たさにはかろうじて見えなくてすんでいたのだけれど。
そういうところもなくなった。前のような、よく理解できないまま見守っている淋しさと、一見とてもよく似ているのでわかりにくいのだけれど、明らかにそうではない、もっと温かい、人恋しさのようなものが兄の目にはただよっていたし、ぼんやりしている時でも何だかうきうきした、うっとり楽しそうなほほえみが唇のあたりに今にも浮かびそうだった。「何を笑ってらっしゃいますの?」と顔を寄せて問いかけるのに、これ以上絶好のものはない、見逃せという方が無理だろうと言いたくなるような表情だった。
僕が宴会の後、残った食物や酒を賭けて、女の子たちと、手の中の品物のあてっこや、目かくししてさわったものをあてる遊びなどして大騒ぎしていると、面白そうにながめていて、時々ちょっと加わったりもした。どことなくおっかなびっくりの、おずおずだったが、そういうばかなことをするのを、かみしめて、楽しんでいるのはまちがいなかった。

兵士たちに対してはそんなに変わったこともないようだったが、それとなく何人かに聞いてみると、やっぱり、「よく笑われるようになりましたな」とか「いつも楽しそうにしておられますな」などという返事が返ってきた。ある老兵は「くすぐったがれるようになりましたな」と言った。
「それは何のことだい?」
「そうですな…汗をふいたり、鎧をつけるお手伝いをしたり、小さい傷の手当をしたりする時、前は何をされても自分の身体じゃないように、眉ひとつ動かされなかったのが、この頃は痛いとかくすぐったいとか気持ち悪いとか文句を言われて、ご自分でなさってしまうことが多いんですよ」
「身体の具合でも悪いんだろうか」
「いや、生き生きしてらっしゃいますよ。目の輝きといい、肌の色艶といい、これまで見たことないぐらい力にあふれていらっしゃる。大人になりかけの子馬が、ちょっとさわられてもとびはねたり、かみついたりするみたいだ。全身、はずんでいらっしゃって、風のひと吹き、雨のひとしずくでも、ぱっと反応されるような」

***

たしかに兄は、これまでになく活気にあふれていたが、その一方で糸のゆるんだ凧のようにふらふらと、変に不規則な動きもした。これも、それまでないことだった。そう言えば幼い頃は、ぼんやり気だるそうにしていることが多かったかな、と思い出してみるとそうなのだが、もうそれを思い描けないほど、大人になってからの兄はいつも静かにきびきびと働いて仕事をこなす人だった。それが何となく、思わぬところに出没し、早い話がうろうろし、もちろん仕事に支障をきたすことなどなかったが、意外なところで会うことがよくあった。何かをさがしているように、いつもとちがったものを見て考えをまとめようとするように。
特に僕のところに、用もないのによく来た。梨を食べないかと言って持ってきて、二人で食べたりしながら、何か相談したり聞いたりしたいことがあるのだが、何を聞けばいいのかわからないといったように所在なげに果物を持った手をとめて、テラスごしに海をながめたりしていた。「また馬を買いに行こうかと思うんだが」とか、「この前また、あの王のところに行ったが、今度は迷わないで行けた」とか言ったこともあるが、僕が「いい馬がいそう?」とか「森には入らなかったの?」とか聞くと、うんとかああとか言ってすぐ話を変えてしまった。
そんなこんなで僕はまったく、あの王女と兄のことには気がつかず、彼女と結婚する、父上の許しもいただいた、と兄が僕に話した時にはあっけにとられて「え」と言ったきり、しばらく黙っていた。

兄はそんな僕の様子には気がついてもいないようで、そう言えば気づかいや思いやりの塊りのようでいて、どっか鈍感無神経なとこもある人だったなあと思いながら僕が聞いているのにも気がつかず、まあこの際それがありがたかったのだが、夢中になってこまごまと、彼女とどうやって相談したか、両方の父親に許しを得たか、なかなか会えなくて心が遠ざかりそうになり何度ももうだめと思ったとか、でも信じてくれたし信じていたしとか、話しつづけてとまらなかった。それはいいのだが、その中に何度も「おまえに言ったように」とか「おまえも知ってるとおり」とかいう言葉が繰り返されるので、僕はとうとうさえぎって、「兄上、とてもおめでたいし、心から祝福するけど、僕はそういうこと何も聞かせてもらってないよ」と言った。
兄はびっくりしたように僕を見つめて「まさか」と言った。「ちゃんと話した」
「聞いてない」僕は首を振った。「そんな気になってるだけじゃないの」
兄はとまどって考えこんだ。「そうだったろうか」
どうせ父に嘘つく時と同じように、何をどう聞こうか話そうかと何度も準備して練習して来るもんだから、何を言ったか言わなかったかきっと後でもうわからなくなるんだ。そう言ってやると、兄は苦笑して「まさか、そこまでは」とつぶやいた。「でもたしかに、彼女のことになると、何を言ってるか何をしてるか、時々わからなくなるからな」
そしてまたちょっと考えていてから、「それに、話そうとか何か聞こうと思ってここに来て、おまえの顔を見ていたり、おまえのそばにいるだけで、もうわかってしまうこともあったから」と言った。

僕がよくわからない顔をしていると兄は、「あの」と説明にかかった。「彼女が何を考えているのか、こんなことする時はどんな気持ちなのか、こういうこと言われたらどうしたらいいのか、いろいろ迷ってわからなくなった時は、いつもおまえはどうしていたかなあと自然に思い出していたんだ。そのまねをしていた」
「まさか」僕は一瞬、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
「おまえが女の人たちといっしょにいるのを見ていると、何となくいつも答えがわかったんだ」兄は笑った。「それでもわからない時は、おまえに聞こうと思ってここに来るんだが、ここでおまえのそばにいて、おまえの顔見てると、何となくひとりでに、いつも答えが見つかった。どういうか、華やかなはずんだ気持ちになって、元気が出たし、希望が持てた。おまえがいてくれてよかったと何度思ったことかしれない」
「それはやめた方がいい」僕は自分でもとまどうほど、ものすごく恐くなって一生懸命首を振った。「僕のすることをめやすにするのは」
「そうか?」兄は目を見張った。「けっこういろいろ、役にたったんだが」
「それはよかったね。でも、やめた方がいい」兄の気持ちはよくわかるし、無理もないともわかるだけに、僕はだんだん泣きたいのか笑いたいのかわからなくなってきていた。こんなに困った人はいない。こんなに恐い人もいない。まったくもう、何て人なんだ。「どんな風にかはわからないけど、そんな風にはあまりいつも、いい結果になるとは限らない」
兄はちょっと首をかしげて、けげんそうに僕を見た。「何から何までまねしたんじゃない。こんなことはしない方がいいと思ったこともあったし、要するに、そんな風にいろいろと、おまえがいて助かって」兄はうまく言えないのがもどかしくなったらしく、僕を引寄せ、抱きしめた。「とにかく、感謝しているんだ」
どこの世界に、兄の模範にならなきゃいけないから、もっとちゃんと人を愛さなくてはいけないと決意するような弟なんているだろうか、と僕は兄に抱きしめられながら、どこか憤然として思った。

兄の結婚はやがて公になり、国中がその喜びで酔いしれた。そうなると兄はかえって落ち着くのか、いつもの顔で仕事をきちんとこなしていたが、侍女や兵士や老臣たちからからかわれても手放しでうれしそうにしていて、ちっともこたえる様子がなかった。「女たちは皆がっかりですわよ」と言われれば真顔で「すまないな」と謝るし、「どんなに素敵な方でいらっしゃるのかしら」と聞かれると「口では言えないが、すぐにわかるから」と答えるし、まじめなんだかしたたかなんだか、もう手のつけようがないですわねと侍女たちはさじを投げていた。
そんな中で僕は一人、何だかおたおたしていた。「お淋しくなりますわね」と侍女たちからは同情されたし、そんな気持ちもないではなかった。だが、それよりも気になってたまらなかったのは、いったい兄は、僕の何を、どんな日常を見て、自分の恋の参考にしたのだろうということだった。
たとえば気軽に気ままに毎日織っていた布が、自分の知らない内に神殿で国の運命に関わるような大事な儀式に使われていたと知った娘はこんな気持ちがするのだろう。
僕のしていたこと言っていたことに、もし何かまちがったところや汚れたところがあって、それを兄が使って自分の恋を成就させたのなら、兄の恋そのものが、どこかゆがんでおかしなものになってしまう、そんな気がしてたまらなかった。
兄は僕に決して人では味あわせることができない、そうなってみなければ想像もつかない恐怖をいつも味あわせる。僕の過去を消してしまった時もそうだし、今度もそうだ。そしてどっちも本人は全然何をしたかわかってないから、これほど始末の悪いことはない。

僕は本当に恐かった。僕はいったいどんな恋をしていたろう。どんな風に人を愛していたのだろう。狂ったところや卑しいところ、ずるいところや意地悪なところはなかっただろうか。嘘をついたりごまかしたり、相手の人を軽んじたり、おもちゃにしたり踏みにじったりしたことはなかっただろうか。そんな態度やそんなまなざし、そんな口調をしてなかっただろうか。
考えてみてもわからなかった。こんなことは自分ではまず絶対にわからない。それでも、思い出す限りでは、何とか大丈夫と思った。人の目から見てどんなに変でも無責任でも、僕には僕の基準みたいなものがあって、それに照らして考えて、愛した人との自分の接し方に、やましいところはないと言いきれる…そんな気がした。
ちょっと安心して、こわごわ息を吐きながら、それでも僕はまだ不安だった。兄はいったい、僕の何を見て、どんな点でもまったく共通項のない自分の恋にそれをとり入れたのだろう。そもそもどんな恋をして、どんな夫婦になるのだろう。それを考えていると不安と、何かわけのわからない、自分でも何でそんなことを感じるのか変だと思うような責任感のようなもので、胸がつぶれそうになった。自分の作った船が初めて海に浮かぶのを見る時の船大工みたいな、切迫した気分が日増しに高まってきた。自信はあるけど、でもまったくない。
さすがにこれは従妹にも言えなかった。彼女であれ誰であれ、僕がこんなこと考えたり感じたりしてると知ったら、きっと笑って笑って笑い死にしただろう。でも僕は本当に心配で、つらかった。兄が勝手に、僕に無断でしたことで、こうまで苦しめられるなんて理不尽じゃないかとつくづく兄が恨めしかった。何もよりによって僕を参考にしなくても、他に基準はなかったのかよ!?そう言ってやりたかった。

***

兄の婚礼の前の日、宮殿の中は興奮でごったがえしていた。祝宴のための果物や酒を運ぶ男女が廊下にあふれ、父は神々のための供物の準備を神官たちに命じたり、訪れた他の国の祝いの使者や王族たちとの謁見に忙しくしていた。
厩では祝いの行列に出る馬たちが、しっぽとたてがみに花輪を編みこんでもらっていた。兵士たちも大騒ぎで鎧や槍の手入れをし、兜を飾る長い馬の毛をつけ直していた。
花嫁の家族も皆来ていた。妹たちは宮殿の様子に目を丸くし、従妹にあちこち案内してもらって盛んに声をあげていた。父親は厩に行って、自分の国から連れてこられた馬たちが大切にされているのを喜び、一頭一頭名前を呼んでは再会を喜んでいた。
父が遠来の王族たちに兄をひきあわせたいと探していたので、僕は多分花嫁のところだろうと思って呼びに行った。

庭園と噴水に面した花嫁の控えの間は、あわただしく華やいだ雰囲気の中にも、花嫁の人柄を反映してか、穏やかで静かだった。花嫁の母親が、連れてきた侍女たちに低い声でさしずして、花嫁の明日まとう雲のような白と金の衣装や、つきそう女たちのばら色や水色の衣のさまざまに最後の手直しをしているところで、寝台や椅子だけでなく床までが、それらの衣や花飾りで埋めつくされて、まるで花の海のようだった。
花嫁はふだんの衣装のままで、その中に座っていた。髪も長くたらしたまま、化粧もしていなかったが、落ち着いて幸せそうで、そんなに華やかなへやの中で、そんなに飾り気なくしていても、少しも回りに埋もれてもかすんでもしまわず、まるでそのへやの中心のように、ひとりでに人の目をひきつけてしまうのに驚いて、僕は彼女を見守った。この女性には何かそういう力強さと気品とがあるのだった。
彼女に目をひきつけられていて、とっさに兄に気がつかなかった。兄は彼女の座っている長椅子で眠っていた。座ったままの上半身を倒して彼女のひざに頭をのせ、片腕を彼女の腰に回し片手を彼女の腕にかけて。彼女の腕は兄を抱き、兄は彼女をつかまえているようにも、しがみついているようにも見えたが、ぐっすり眠りこんでいる、その唇はほほえんでいた。

兵営から戻ってきたばかりらしい兄は、髭ものび気味で髪はくしゃくしゃ、脚や腕にもあちこちに血がにじんだままのすり傷があった。手甲や脛当てははずしていたが、鎧は着たままだった。
「さっきいらして、明日の相談をしていたら、そのまま眠ってしまわれて」花嫁は自分のひざの上で安心しきったように目を閉じている兄の髪に指を入れて、そっと乱れを直しながら言った。
「ずっとちゃんと寝てないんだよ。隊商がたくさん着いて、その警護で気がぬけなかったんだ」僕は兄をはさんで彼女の反対側に腰を下ろしながら言った。「ゆうべも町で、ぼやだけど火事もあったし、夜明けまでかけ回っていたから」
花嫁はほほえんでうなずき、兄の髪を指先で静かに整えつづけた。
そんな彼女を見、すっかり気を許してその膝に身体を預けている兄の寝顔と、彼女の身体に回している腕をながめている内に、まるで自分がそうやって彼女の温かい膝に抱かれているような幸せと喜びがこみあげてきた。よかった、と思って、僕は大きな吐息をついた。兄にもこれで本当に家ができたんだと思った。もう安心だ。大丈夫だ。
この人のこと、たのむね。そう言いたくて、でも恥ずかしくて、僕が黙っていると、彼女が兄を見下ろしたまま、「森にいたの?」と、ふっと聞いた。

「え?」僕はとっさに何を言われたのかわからず、彼女を見返した。
彼女は顔を上げ、僕を見て、率直なしっかりした目で笑った。「小さい時に」
「いたけど、どうして?」僕は口ごもった。「なぜ知ってるの?」
でも、彼女が答える前に、僕はもう答えを知ってた。
「この人がさっき、そう言ったの。眠るちょっと前に」彼女は指の背でそっと兄のほおをなで、乱れかかった髪を払った。夢うつつに兄はそれを感じたのか、顔を動かし何か小さくつぶやいた。
「風に汐の香りがすると私が言ったら、森がなくて淋しい?と気にして、自分はここでずっと育ったからわからないけど、弟は小さい時は森にいたから、きっといろんな話ができるって」
「僕のいた森は、あなたの故郷よりは山の上で、あんなに木が多くなかった」僕は言った。「でも同じ木の葉の香りがしていたよ」
「私の故郷でも、木がまばらな所もあるのよ」彼女は言った。「小川のそばなどは開けていて明るいの。春には雪が溶けて水かさが増す。そして間もなく、いっせいに花が咲き出す」
「山の上では春はいつも、遠い峰の雪の中に黒い岩がぽつぽつと見え出してはじまる」僕も言った。「霧がそこにまつわって、山羊たちが雪の中から生え出したやわらかい草を争って食べる」
話していると幸せで泣きたくなった。凍りついていた川が溶けて流れ出すように、心の中にひたひたと何かがあふれてうるおってきた。その幸せな気持ちは次の日の兄の婚礼の時にもこみ上げてきて、こっそり涙をぬぐっている僕を、わきから従妹がひじでこづいた。「あらら、お兄さまが奥さまに取られちゃったみたいで悲しいんでしょ?」
うん、そうだよと言って、僕は泣く口実ができたのをいいことに、彼女の肩に顔をくっつけて、人目もかまわず大っぴらに涙を流しつづけた。
兄も気がついたようで、豪華なぬいとりをほどこした薄紫と金の衣装をまとって花嫁とよりそったまま、気がかりそうに遠くから僕を見ていた。いいんだ、かまうもんか、と僕は思った。少し心配させてやれ。

***

それからまた何年かして兄夫婦には子どもが生まれた。大きな男の子だった。兄が、その子が義姉の乳を元気に飲むのに見とれていて、朝の訓練に何度か遅れたと聞いた時、僕は寝台の上で一人ででんぐり返しをして喜んだ。
従妹と僕はあいかわらずけんかをしたり笑ったりしながらすごし、父は神々に祈り、僕は女の子たちと恋を重ねている。海の向こうの敵国もこのごろは戦いに疲れたらしく、和平を求めてくるのではないかとも噂も届いている。
義姉と僕は、よくおしゃべりをする。ごくたまにだけど、森のことも話す。兄は赤ん坊をあやしながら黙って笑って聞いている。人にはまだ、僕がずっとここにいたという話をしてることもあるようだが、そんなに一気には変われないだろうと思って、僕は大目に見ることにしている。
何もかもうまくいっているようだけれど、人の世の先はわからない。運命の女神が軽く吐息をついただけで、この幸せもばらばらに吹き散らされてしまうのかもしれない。

そんなに誰かれかまわず恋をして、と父はときどき僕をからかう。おまえの運命の人にはまだ出会わないのかね。
ここまで来たんだから思いきってじっくりさがします、と僕は言い、父は笑う。
そんな人とめぐり会わなければそれでもいいし、いなきゃいないでかまわない。このまま、いろんな女の人と愛しあって、それで一生終わったって、それはそれで、きっと楽しい。

前からそうなんだけど、従妹は時々恐いことを言う。
先日、二人で城壁の外の甘い実がなると評判のイチジクの木のところに行って、ちぎって木蔭で食べてると、突然彼女が「あなたがもし、生涯の恋に落ちるなら」と海をながめながら言った。「その相手ってきっと、お兄さまのような方ね」
「ふうん」僕は負けずに言い返した。「髭を生やして、背が高いの?」
「ばかね、もう」従妹は目を上に向けた。「そういう愛し方ってことよ。与えられた義務をきちんと果たしつづけているけれど、どこかが生きながら死んでいる人。それを自分でどうにもできずに、行く先もわからないまま、疲れてとぼとぼ歩いている人。そういう人は、あなたを見るだけで、あなたがそばに来るだけで、何かに目ざめてよみがえる。でも、そのことでもっと苦しむ。そういう人はあなたに助けは求めないわ。けれど、だからこそきっと、あなたは放っておけなくて、その人を助けてしまう。どんな犠牲を払っても」
「兄もそうだったって言うのかい?」
「夢と現実を結びつけるのよ、あなたって人は。お兄さまだってそうだった。あなたは、空の星に手をのばす勇気を与える人。お兄さまもそうやって、今の幸せをつかんだ。この都もそうやって栄えてきた。あなたはあの人の夢、この都の命だわ」
「でも、それは、ひとつまちがったら、えらいことになる」僕は言った。「兄は幸せになったけど、いつもそうとは限らない。それに、実現できなかった夢も、与えられなかった現実もあるよ。兄は戦いつづけてるし、人を殺しつづけているもの」

「戦いは、終わろうとしているじゃない」従妹は言った。「和平交渉がはじまりそうだという噂は、どうやら本当らしいわよ。お兄さまは殺しも、戦いもしたけれど、いつも平和を望んでいたわ。そして、あなたを決して戦わせなかった。何があっても自分があなたを守るかわりに、あなたに自分を守る力を持たせようとしなかった。きっとお兄さまにとって、あなたは自分の一部分か、もう一人の自分だったのよ。あなたを戦わせず、いつも幸せにしておくことで、お兄さまは一つの夢を、自分の中の何かを守ったんだわ」
「兄はそんなこと思ってないだろう」僕は笑った。
「思ってなくてもわかっているわ」従妹は答えた。「だから、あなたが誰かを愛して救ったら、お兄さまはきっと誰よりもその人の気持ちがわかるわ」
「巫女みたいに予言するね」僕は感心しながら面白がって言った。
「いつか巫女になろうかと、本気で思っているのよ」従妹はイチジクをほおばりながら笑った。

お互いに忙しく、兄とはこの頃あまりゆっくり会うひまもない。
こんなに華やかで美しい王子はいないと人々は僕のことを言うけれど、年を追うごとにそなわってくる兄の静かな堂々とした美しさの足もとにも及ばないといつも僕は思う。この都を守り、家族を、国民を守り、そしてその何にも増して兄はいつも、僕を守ってきてくれた。どんな敵からも、身をもってかばって。これからも、きっとそうだ。
それなのに、なぜだろう。これほどいつも守られて、甘えてきたのに、僕はいつも兄のことをずっと守りつづけていたような気がする。
僕が僕であることで。僕のままでいることで。兄の中の何かを、ずっと。
もし、兄がいなくなってしまったら。
僕はもう、僕である必要はないのかもしれない。

あなたは、あの人の夢。
そして、この都の命。
それなら、兄とこの都が消える時、僕もまたきっといなくなるのだろう。
僕をはぐくみ育てた森の中へ、僕はまたきっと戻ってゆくのだろう。
今とはちがう姿になって。
誰も知らない僕になって。

( 守りつづけて・・・・・終     2004.9.7.15:16 )

※一応完成ですが、前の方の部分も含めて、あちこち訂正しています。もしプリントなどして下さってる方がいらっしゃいましたら、お手数ですが、ご確認ください。一応これが最終稿です。( と言っていてごめんなさい。最後のあたりちょっと加えました。―9.8.16:00― )

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