守りつづけて2-守りつづけて
後になって考えても、僕はその夜のことは皆、夢だったような気がする。
兄は、その夜のことをそれから一度も口にしたことはない。実際に忘れてしまったのかもしれない。初めて飲んだ酒で、めちゃくちゃ酔っていたはずだし、言ったこともしたことも何だか支離滅裂だったし。
だから、日がたてばたつほど、あれは自分の見た夢か幻だったような気がしてきた。動揺したあまり、僕は翌朝従妹に何かとりつくろったりごまかしたりする才覚がなく、とりとめもなく思い出すままに覚えていることを皆話してしまったのだけど、そのことがなかったら、ほんとに夢だと思うようになっていただろう。従妹はじっと僕を見てその話を聞き、「ふうん」と言っただけだったけれど、そして彼女と僕の間でも二度とその話はしなかったけれど、なぜか、彼女に話したことで、知っている者がもう一人いると思うことで、僕はあの夜のことは実際にあったことだとどこかでやっと信じていられた。
それほどに、兄はそれ以後、僕にあの夜見せたような姿を見せることはなかった。無理をしている様子もないし、何かに耐えてるとか隠してるとか、そんな様子も全然なく、とても自然に兄は父の片腕となり、重臣たちの一角に加わる存在になって行った。まだ少年の面影を残しながらも楽々と、生まれついてのように年上の兵士たちを指揮し、訓練し、父の相談役を勤めていた。
戦いにもあれから兄は何度も行った。もっと危険な、もっと激しい戦いにも何度も。そして帰って来た時も、前と同じように落ち着いて凱旋の行列の先頭で皆の歓呼に応え、宴会で人々にとりかこまれて杯を干し、僕はもう二度とそんな夜、兄を訪ねていくことはしなかったけれど、兄の方から気をつかっているように僕のへやに来て、いろんな戦いの話をした。別に勇ましい武勇談じゃなく、部下が死んで辛かった話や、敵に囲まれて危なかったことや、逃げそこねてひやひやした失敗談や、愚痴も交えて、とても自然に。僕はそんな兄に安心した。安心しようと思った。
それでも、時がたつほど、あの夜の記憶がうすらいで、幻のように思えてくるほど、逆に激しく心に生まれる、もう一つの幻が、つきあげてくる思いがあった。
なぜあの時に、僕は兄をゆすり起こして言わなかったのだろう。
「兄上、こんな都は出よう。二人で森へ行こう」
僕が弓を教える、二人で狩りをしよう。果物をとり、川の水をすくって飲み、木を切って小屋を作り、そして二人で生きて行こう。
戦いも、都も、家族も、しきたりも捨てて。何もかも忘れて。
そうやって生きていけるということを、僕は知ってたはずなのに。
なぜ、そのことを兄に教えなかったろう。なぜ兄を否応なしにひっぱって厩に行って馬を引き出し、月光の中を二人して森に走らせなかったのだろう。
時がたつほど、兄を見るほど、くりかえし、くりかえし、そう思うことが多くなった。あの時にそうしていたらと考える時が多くなった。兄は少しも不幸そうではなかったし、のびのびと自然にやさしく、背の高い見事な身体の青年になり、この国と都を背負う指導者として、人々の尊敬を一身に集める存在になって行っていたのに、なぜそう思えてしまうのか、僕は自分でもわからなかった。おいて行かれる淋しさなのか、そうでないのか。
***
あの夜の記憶がかすかに思い出されたのは、兄が最初の戦いから帰ってすぐ、自分のへやにおいていた、いろんな国のめずらしい品物を皆箱に入れてどこかに片づけてしまったことだ。犬がおもちゃにしてこわすといけないから、と聞かれもしないのに僕に言った。
おまえこそいい迷惑だよね、と犬の顔を見て僕は思った。そんないたずらしたことのない犬なのに。
それらのきれいな小さいつぼや、動物や人形の彫刻、船や戦車の飾りなどは、皆、父や兵士たちが戦いの戦利品として幼い僕らにくれたものだった。僕たちは大喜びで大切にしていたし、乱暴に扱ってこわしてしまう僕に比べて兄はそれらの品物をとても大事にしていた。僕が宮殿に来てまだ間もなく、そういうものを何も持っていない時には、自分のをいくつかわけてくれたりもした。
そういうのを皆、兄は目に見えないところにかたづけた。
置き物や飾り物だけではない。この都では身分の高い人たちは男女を問わず、儀式や宴会では特に、きらびやかな装身具をつける。王家の権威や象徴として、父や僕らは特に豪華な宝石を首にかけ、腕に、髪に、耳につけるのがしきたりのようになっていた。
兄は、それも身につけなくなった。思えばそれも多くが異国をほろぼして奪いとってきたものだった。だからこそ、この近くでは見たこともない不思議な色の宝石や手のこんだ細工の鎖が僕らの身体を飾っていたのだ。兄はそうした数々の飾りもいっさいしまいこんでしまった。犬がじゃれるの、とよっぽど言ってやろうかと思ったけど、さすがに僕にもそれを言う勇気はなかった。
宴席に何一つそれらを身につけずに現れる兄に、人々は最初のんきな兄がうっかりしたのだと思って笑って見逃していた。でも二度三度とそれが続くと、さすがに皆、気にしはじめたようだった。何度目かに無骨な老将軍の一人が「王子、何かつけませんとな」と言いながら、庭園に咲いていたアーモンドの花をとって、兄の耳のあたりにさした。
兄はちょっと恥ずかしそうに笑ったが別に抵抗せずそのままにしていたから、白とピンクの大輪の花は兄の若々しく男らしい顔に不思議なほど似合って、甘い香りを漂わせていた。
だがさすがに父がそれを見て気にしはじめたのか(父は案外それまで気づかずにいたのかもしれない)、後で兄を呼びつけて、珍しくきつい口調で次にこういう場所に出る時には王子らしい身なりをしなければいけないと言い渡した。僕も、重臣たちもいる前で。
兄は一礼して黙っていた。父はそれ以上追及しなかったが、多分兄が言うことを聞かなかったら激怒して雷を落とすにちがいなかった。老臣たちの前では特に、父は僕らに厳しかった。
兄がなぜ、そういうものを一切身につけなくなったのか、父は知っていたのだろうか?わからなかったかもしれない。繊細でやさしいけれど、父は剛毅な人だった。小さい僕が弓で射落とした小鳥の羽を手際よくむしって神殿のたき火の火で焼いて見せた時は、驚いて息をのんでいる兄を尻目に、手をたたいて大喜びしたものだ。そんな父は兄が美しい装身具を身につけなくなった理由など思いあたらなかったかもしれない。
僕だってわかっているのかどうか自信はなかったけれど。
その次の大きな会議がある日の朝、僕は兄のへやに行った。兄はもう身支度をととのえて、少しぼんやりした顔で、寝台のそばに立っていた。装身具らしいものは何も身につけていなかった。
僕は兄に歩みより、その手をとって、手のひらに細い金の鎖でできた髪飾りを落とした。兄が問いかけるように目を上げて僕を見たので、僕は目を伏せながら「町の金細工師が僕の目の前で作ってくれたんだよ」と小さい声で言った。「だから誰の血にも汚れてないし、誰の涙にもぬれてないよ」
兄は黙っていた。どうしてこんなにどきどきするんだろうと思いながら僕は目を上げた。兄はとまどった、少し気がかりそうな顔で僕を見つめていた。
「それでおまえは?」とうとう兄はそう言った。
「え?」
「何をしてあげたんだ?何をかわりにやったんだ?」
「えーとね」僕は思い出そうとした。「もともと、仲よくしてるんだよ」
「だから、どうして仲よくなった?こんな立派なもの、作ってもらうほどに」
本当にこういうところ、兄ってしつっこい。僕はいらいらしてきた。
「思い出せないよ!そこの奥さんがきれいな人で、僕にやさしくしてくれて」
兄が大っぴらにため息をついたので、僕は言った。「寝たりなんかしてない。寝てもよかったけど」
兄はうなずいた。「信用しておくよ。それで?」
「僕の馬が、彼らの家の前であばれて、馬から落ちて僕の服が泥で汚れて、それで中に入れてくれて服を洗ってくれたんだ。すりむいたとこにも薬とか塗ってくれて」
「奥さんがか?」兄って本当に意地悪だ。
「だんなさんもだよ」僕は言った。「だからお礼に、次の日、果物を持って行ったら、とても喜んでくれて、いっしょに食べて」
兄は何だかまたため息をついたようだった。
「小さい男の子がいて、身体が弱いんだ。だから、薬とか滋養のつくものとか持って行ってやった。だんなさんは足が悪いし、仕事に熱中してしまうと他のことできなくなるんで、水くみとかしてあげたり、屋根のはしっこの危ないとこに生えた草とか抜いてあげたり」
兄はもうはっきり眉をひそめてた。「王子がそんなことを?そのかわりにこれをもらった?」
「かわりって…僕は楽しかった。その人だって楽しそうに作ってくれたよ。とっても楽しそうだった」
兄はとまどいながらも、ちょっと意地になったように言い返した。「おまえは王子だぞ。そんな、特別の相手だけに親切にするのはまずいだろ」
「特別な相手ってどういうこと?僕は他にもそんな人何人もいるよ。弓を教えてやってる子どもたちとか、面白い昔話を話してくれるおじいさんとか、泉のとこでは奥さんたちや娘たちが洗濯物運ぶの手伝ってるし、へやの掃除をしてあげるかわりに歌を歌ってきかせてくれるおばあさんもいる」
兄はしばらく黙って僕を見ていてから、顔をそむけて寝台に座り、髪飾りをのせた手を僕にさし出して、「つけて」と言った。
兄の気持ちはよくわからなかったけど、とにかくほっとして僕は、僕と同じに、ふさふさ波うってうずまいてる兄の黒い髪に、金の細い鎖をていねいにくぐらせて、まきつけていった。
僕がそうしている間中、兄はひっそり動かなかった。まるで息さえもしていないように。そして僕が肩をたたいて「できたよ」と言うと、立ち上がって天井を見上げながら「僕は弱虫でわがままだな」とつぶやいた。そして静かに身をかがめて、へやのすみにあった箱を開け、その中からひときわ大きく豪華な首飾りをとり出して、ゆっくりと首につけた。
血のように暗い赤の大きな宝石がいくつも連なるその首飾りは、兄の白い肌の上で無気味なほどに鮮やかにきらめいた。箱を閉めようとして兄がまた身をかがめた時、黒い髪の兄の頭が一瞬暗がりにとけこんで、首のない死体の傷口から血が噴き出しているように見えた。輝く宝玉の飾りが、大勢の男や女のたたき斬られた首から、腕から、血に染まりながらすべり落ち、荒々しい笑い声とともに奪いとられてゆく、そんな幻影をつかの間僕は見たような気がする。
「他の色のにしたら」思わずそう言った。
兄はふり向き、首を振って笑った。「これでいい。ありがとう」
濃い藍の衣をまとい、ゆたかに流れる黒い髪に金粉をまいたように細い鎖の髪飾りが輝き、白い肩に真紅の宝玉が冷たく光る兄は、その時本当にきれいだった。まだどこか少年の清々しい厳しさを残しながら、大人のように沈んだ重々しさをただよわせて。冥界の王ハデスか、むしろその妻ペルセポネーのように。
***
あの時僕は僕自身の手で、人々の上に多くの都の上に死をもたらす戦いの神を生み出したのかもしれない。
初めての戦いから帰った夜のことを二度と話さなかったと同じに、その朝のことも兄と僕の間ではそれ以後もう決して話されることはなかった。兄は父に随って戦いに出かけつづけ、華やかな武勲を上げつづけた。部下の兵士を救うために何度も危険を冒し、命を賭けた。それがみるみる軍の士気に反映した。王子が先頭に立って戦う軍隊の兵士たちは、どんな苦しい戦いでも喜んで命を捨てる。まもなく父を残して兄は一人で軍を率いて出かけるようになり、そしていつも勝利を収めて帰ってきた。
兵たちの訓練、老臣たちとの会議、神殿での儀式、父への報告と、兄の毎日は忙しく、それを落ち着いて静かに楽しそうに兄はこなしていた。
王宮の中でも外でも、人々が兄へ寄せる愛情と信頼は僕の目から見ていても、まぶしくて恐いほどだった。「重荷じゃないの?」と聞くと、兄はそういうところは昔と変わらない、きょとんとした表情で僕を見た。「あんなに皆から愛されて」と言うと兄は何だかくすぐったそうに笑って「おまえがそういうこと言うのか」と、首を少し後ろへ投げるようにして僕を頭のてっぺんから足の先までながめて言った。
何でそんなに兄があきれたのか、とっさにわからなかった。後で考えると兄は僕が、侍女や貴族の娘たちから美しいとかかわいいとか二言めには言われ、町の娘や人妻たちから恋の相手に誘われることがますます多くなっていたのを、兄なりに心配しながら見ていたのだろう。
まあ、僕だってそうやって彼女たちやその家族から聞くいろんな話を父や兄に教えたりして、それなりに役にたっていないわけではなかったのだ。食べ物や着物や住まいでは今何が流行しているか、新しい建物や祭や法律は人々に評判がいいのかその反対か、父はもちろん兄の前でもかしこまって話さないような本音を人々は皆僕には話した。老臣たちもまったく知らず、父や兄に伝えることのできないそういうことを僕はいつでも二人に伝えてあげられた。だが、どんな時にどんな風にして誰からそれを聞いたかを話していると(なぜ、その香油や帯が女たちに好まれるのかの詳しいわけとか、法律をかいくぐってどうやって妻が夫をだますかという実例など)、父はくすくす笑い出し、兄はしんからぐったりげんなりした顔をして「もうそういうところまでは言わなくていいから」とさえぎって、父が残念だなあという顔で僕に目で笑いかけることもあった。
そういう時に、女の人の太腿の手触りなんて人によって全然ちがうんだ、などと説明したりしていたのでは、たしかに兄に何と思われてもしかたがないってことは認める。だけど、そんなこと言うなら、彼女たちのどれだけ多くが、僕とつきあっている間に、時にはたっぷり愛し合った後の寝床の中でまで、僕に兄のことを聞きたがり、何がお好きなのつきあっておられる方がどなたかいるのなどとたずねたか、僕がまたついつられてどれだけ何度も彼女らに、ばかみたいに兄のことをこまごま話してやってたか、兄はきっと知らないんだろう。
「どうしてあんなに鈍いのかなあ」僕は従妹に向かってこぼした。「宴会の時だって、よりどりみどりに貴族の娘たちから笑いかけられたり、見つめられたりしてるのに」
「気づかないのよ、皆があなたにするみたいに、腕をとったりもたれかかったり、顔をよせたりしないから」従妹は首をふった。「好きよ!と面と向かって言ったり」
「うん」僕は吐息をついた。「兄上にはそういうこと、言えないんだよね。立派すぎて」
「そんなに年もちがわないのに」従妹は宙を見つめて考えこんだ。「何だってもう、あんなに大人びちゃったのかしら」
「それとも僕が子どもっぽすぎるのか」
「自分で言ってりゃ世話ないわ」従妹は吹きだした。
「たのまれたわけじゃないんだけど」僕は言った。「兄上からたのまれたような気がするんだ」
「子どもっぽくしててくれって?」
「うん」僕はうなずいた。「そのままでいてくれ、変わらないでくれ、って。ずっと昔、もう忘れたどこかで、いつか」
彼女は笑った。「そんなこと言ったって、いつまでよ。いつまでも子どものままなんかじゃいられない」
テラスの向こうに遠くすみれ色の海が見えた。初めて兄と海を見た日の朝のことを僕は思い出していた。
「大人になって、昔を忘れて」僕は言った。「思い出したらばかばかしくて、僕のことが重荷になって、捨ててしまってもいいと思えるようになる日が来るまでね」
彼女はちょっと眉をひそめた。
「昔夢みていたことを笑ってしまえる勇気が出たら」僕は言った。「捨てられないと思ったものを捨ててしまえる勇気が出たら、そういうもの皆忘れても生きていける日がきたら、兄上はきっと僕に別れを告げるつもりなんだ。そのために僕はいる。昔のままでね」
「そんなのないわ」彼女は怒ったように言った。
「大丈夫だよ」僕は言った。「そうなっても僕は生きていけるから」
従妹は手を上げ、男の子どうしがするように荒っぽく僕の髪をかきみだした。「ずっと思っていたけれど」彼女は言った。「お兄さまより強いのね」
「そう思ってるけど、まちがいかもしれない」僕は言った。
「無理しちゃだめよ」従妹はまじめな顔で言った。
***
男の子がよく女の子にするように、僕はその時従妹にちょっと強がりを言ってたのかもしれない。
実際には、その頃僕は少しだけ兄が恐くなりはじめていた。
自分に自信もなくなっていた。
実際にその数日前、兄とけんかをしたばかりだった。
兄はその頃、どんどん背も伸び、たくましくなり、だからもう、それでいいと思うのに、その外見にあうように中身も背伸びしようとしているようだった。細面のどちらかというと僕よりも女の子みたいに見える時さえある顔に髭までのばして年よりもずっと男っぽく大人っぽく見えていた。僕はいたずらして何度か、疲れて寝ている兄の顔のせっかくのばした髭を剃ってしまって兄から追っかけられて床に組み伏せられたりもしたけれど、今度こんなことしたらおまえの顔の皮をはいでやると脅かされたりもしたけれど、そんなのはおたがいけっこう真剣になりかけても、まだどことなく笑えた。僕が一番参ったのは、兄が若い兵士や遠くからきた王族に、僕が生まれた時からここにいて、森にいたことなんかないと話しているのに気づいたことだ。
僕が怒るのを、兄はちょっとうしろめたそうな、でもとまどった、どうしてそんなに怒っているのかわからないような顔で聞いていた。そのことにますます腹が立って、自分の気持ちをどう言葉にしていいかわからなくなって、僕は涙が出そうだった。これがどんなにひどいことなのか兄にはわからないのだろうか?説明しようと思ってもうまく説明できなくて、僕は兄になぐりかかりたいのをやっとのことで押さえていた。
兄の方も、自分の言いたいことがうまく説明できないらしくて、もどかしそうな表情を何度か見せた。「都も大きくなったし、近隣の国々でも評判になってるし」と兄は言った。「だから、都に住む者にはここに誇りを持ってほしいし、遠くのこの国を知らない人たちに変な話を伝えたくないし」
「僕が森に捨てられて、そこで育ったのは変な話なのかい!?」僕は叫んだ。頭に血が上って目の奥が暗くなりそうだった。「そんなに恥ずかしいことなの、この国にとって!」
兄は僕を抱き寄せた。子どもの頃みたいに。僕はぶるぶる震えていた。「おまえが恥ずかしいなんて誰も言ってない」兄は僕の目をのぞきこんで力をこめて言った。「おまえは、この国の誇りだ。私の誇りだ。そんなことわかっているだろう!」
「わからない」僕は兄をふりはなした。「じゃなぜ、僕の過去を消すの!?」
「おまえは何もまちがってない。でも、この国のしたことはまちがってた」兄は僕をまたつかまえた。「神官のお告げなんか信じて、おまえを森に捨てちゃいけなかったんだ。それはこの国の恥だ。父上と母上の恥だ。そのことを知っても何もしなかった私の恥だ。起こったことは変えられない。でもせめて、おまえがここに初めからいたことに…そうだったらどんなによかったろうと、ずっと私が思い続けてきたように」
「ばかにしないで」兄の腕の中で僕は息をはずませた。「僕は捨てられた。森で育った。それが僕だよ。変えてほしくない」
兄は傷ついた顔をしていた。それを見るとやりきれなかった。「どうしてわかってくれないんだ」と僕たちは二人見事に同時に言って、情けなさにどっちも泣き笑いの顔になってしまい、僕は兄をふりはなして「もういい!」と言って話を終わらせた。「二度と僕の昔のことで嘘ついたら許さないからね!」
空威張りだった。こけおどしにすぎなかった。僕自身が一番よくそのことを知っていた。
兄は、すると決めたことは絶対にする人だった。父も、老臣たちも皆、そのことは知っていたが、僕が一番よくわかっていた。
あの有名な逸話でもわかる通り、兄は嘘をつくのは得意じゃないし、好きじゃない。誰もがそれを知っていたから、ある意味兄が嘘をついたら誰でもだまされた。でもそれだけじゃなく、きっと人を殺すのだってそうだったんだろうが、嘘をつく時もそうで、兄は嫌いなことをする時ほど寸分の隙なく完璧にやった。
小さい時から僕をかばって何度も父をだましてくれた。そんな時、兄は身体の調子が悪くなるほど真剣に考えて準備をしていた。もし父上がこう言ったときはこう言うし、ここがおかしいと思われたらその時はこうするけど、そうじゃなくてこう言われたときには、とありとあらゆる予想をして対策をたて、くたくたになって、見ていて僕の方があきれた。僕は嘘なんかその場で考えてつく。兄は決してそうじゃなかった。あれだけ準備をして全精力をこめてやったら、どんな嘘だってそれは成功するだろう。
僕の昔を消してしまうということだって、絶対に兄はよくよく考えた上で決めたのだし、それで都合が悪いことは何と何があって、それはどうしたらうまくいって、さしひき結局そうした方がいいのだ、とかあらゆることを予想した上でのことにちがいなかった。そして、そうやって始めた以上、絶対に兄はもう、その嘘を真実にしてしまうにちがいなかった。
兄がたった一つ予測してなかったのは、それを僕がどう感じるかということだった。それだけ僕のことだけは兄はよくわかっているつもりで、油断してしまっていたのだろう。
だけど僕には本当に笑いごとじゃなかった。冗談じゃなかった。
暗い、底知れない虚空に吸い込まれていくような恐ろしさを感じた。生まれてから一度も感じたことのない恐怖だった。僕の過去がなくなる。僕の記憶が消される。まるで生きながら身体が半分溶かされてしまうようだった。
どうしてこんな残酷なことが兄にはできるのだろう?あんなに僕を愛している人が。不思議で不思議でしかたがなかった。
そのくせ、心のどこかで、こうなることを知っていた気も、望んでいた気もするのだった。従妹に話したのは、そんな気持ちの一部分だった。兄は成長し、大人になり、自分の昔を忘れたいんだ。今の自分と、今のこの国にふさわしい、立派な昔がほしいんだ。そこには、森にいた僕はじゃまなんだ。そして、その内、僕の全部がきっとじゃまになるんだろう。きっと僕より大切なものができる。僕を捨てても守りたいものが増える。僕がいたらじゃまになる。僕の生き方が、僕のすることが、兄にはもちこたえられなくなる。そして僕は捨てられる。もっと大事なもののために。
でも、そのために僕はいたんだ。兄が僕を忘れたら生きられない間は存在し、もう大丈夫になったら消されてしまうために。
ずっと、そんなことはわかっていた。今さら泣き言言ったってはじまらない。
結局、僕が何とか耐えられたのは、誰が忘れてしまっても、僕だけは自分が森で暮らしたことを忘れないとわかっていたからだ。
僕はすべてを覚えていた。水の匂いも空の色も。緑に染まる雨の朝を。谷から谷へとかかる虹を。木の幹の、草の手触りを。僕はそこで暮らした。僕はそこにいた。誰にも奪えない僕の記憶があった。
それがわかっていたから、生きていられた。兄を、皆を愛していられた。どんなに苦しくても、幸福でいられた。
***
それからまた、何年かたった。
僕たちの都はこれまでにないほど、人が増え、豊かになり栄えていた。他国からの貢物も増え、小麦やカラス麦、さまざまな染料、香料、宝玉や薬草、山羊や羊の群が、ひきもきらずに馬や馬車に積まれて城門から入って来ては、王宮の前の広場に並べられた。
堅固な高い城壁に囲まれた都の周囲にも街並みはあふれ、広がりつつあった。浜辺には船が並び、街道にはいろんなちがった言葉を話す商人たちの隊商が行き来する。若い男たちも多くなり、彼らを率いる兄の軍隊の勇猛さは遠い地方までとどろいていた。その中には、僕が弓を教えた子どもや少年たちが成長した若者を中心に組織された射手隊もあった。
彼らが乗るための馬が厩にずらりと立ち並び、剣や盾や槍や弓矢などの武器、鋤や鍬や鎌などの農具を作る鍛冶屋の槌やふいごの音が街の辻辻で響いていた。
兄があの時、僕の前でつけた大きな紅玉の首飾りなど、今では特に珍しくも豪華にも見えなかった。もっと大きな宝石をふんだんに使った、もっと手のこんだ細工物がいくらでも遠くの国々から僕らの手元に届けられた。
海をへだてた半島の長年対立している国とのいくさにも、この数年はいつも勝った。兄の軍隊は年ごとに強大になり、都の秩序は完璧に保たれていた。
戦いは兄にまかせて、父は神々に供物を捧げ、都と民の無事を祈った。僕がおかしな名前をこっそりつけていた彫刻も多くは古びて、新しく前の数倍も巨大なものにとりかえられていた。
戦いの場から遠ざかり、わが手で敵をほふることがなくなった分、父は祈りにあけくれた。兄が戦いに行っている間、父は日も夜も神々に祈っていた。
年を取り、身体が弱っていくにつれ、父の昔の剛毅さは失せた。父が兄に頼るようになり、兄を失うことをひどく恐れるようになっているのを僕は気づいていた。父自身がそれをどこかで恥じており、兄にそのことを隠そうとしているのにも。兄の気持ちに負担をかけまいとして、そうやって兄の前では超然としている父が、僕には時々少女のようにけなげに見えた。
兄の率いる軍勢が、陸路であれ海路であれ、都に戻って来る時には、父は前もって早馬で兄の無事を知らされていても必ず城壁から遠くながめて、先頭にたつ兄の姿を自分の目でたしかめるまで、そこから動こうとしなかった。そのことを兄に知られたくないように、すぐに戻って王宮で何くわぬ顔で兄を迎えるのが父のならわしだった。次第に目が薄くなって、兄を見つけてから王宮に戻るのが難しくなると、それからは宮殿の一番高いテラスから見守るようになった。
兄が無事に帰った後は父は神々へ法外なまでの供物をいつも捧げた。兄自身がときどき驚いたような不審そうな、それほどの戦いではなかったのに、という非難と紙一重のまなざしをすることがあって、それに気づいた父が、何となく兄に隠してこそこそ捧げ物をしているのがおかしかった。
父が兄の無事を祈って神々に何を約束していたのか僕にはわかるわけもないが、大概のことは誓っていたのではないかと思う。神殿をたてるとか神官や儀式をふやすとか、お告げは何でも必ず聞くとか。戦って敵を倒すことができなくなった今、兄のために国のために、自分が何かをしていると実感できることは神々に祈ることしか父はなかったのかもしれない。そして、兄の勝利を収めつづける力のどれだけが兄自身のもので、どれだけが自分の祈りによって神々が兄に与えてくれたものなのか、父は次第に区別がつかなくなっていくようだった。
「ああ見えて、あれは弱いから」
父はある時、兄の留守中、老臣たちや僕の前で兄のことをそう言って、皆を絶句させた。小さい時には病気がちだったし、あんなに勝ちつづけるのは神々の意志以外の何物でもない、という話の中のひと言で、比較的若い家臣の何人かが後で「いくつになっても親はまことにありがたいものですなあ」と首を振っていた。「あんな戦いの神のようなお方でも、お父上の目から見るとご心配なのですな」
僕がその話を父にすると父は吐息をついて、「身体のことだけではないよ」と言った。「あれは優しい子だから心配なのだ。どれだけ戦いの場数を踏んでも、ふてぶてしいところがちっともない」そして僕にほほえみかけ、腕をとってひきよせて、「まだおまえの方が安心だな」と言った。
「ふてぶてしいから?」
「悪い意味ではない」父は楽しそうに目を細めて、笑いながら言いわけした。
「いいんです」僕も笑った。「おっしゃりたいことはわかるから」
女も男も、兄といると安心するとよく言った。でも僕はその気持ちはわからなかったし、多分父もわからなかっただろう。強くて完璧で優しい兄を見ていると、心配でたまらなかった。いなくなったら困るという気持ちだけではなかった。
女たちと愛しあい、彼女たちのやわらかな胸に顔を埋め、明るい笑い声を聞くと、僕はいつもこの安らぎと快さを自分ではなく兄に味あわせたかった。兄を見ていて感じる不安を、彼女たちを求めることで癒していた。まるで僕がそうやって彼女たちと抱き合うことで、僕を通して兄の身体と心も安らがせることができるかのように。
***
それからしばらくして、僕と兄は東の国のある部族の王を訪問に行った。その国に育つすぐれた馬とひきかえにするための布や器を車に積ませて。ところが、王の館の少し前で、もうすぐ着くと気がゆるんでいたせいだろう、荷物や兵士たちとはぐれて二人だけで森の中に踏み込んでしまった。すぐに道に出られて皆と会えるだろうとたかをくくっていたのに、行けども行けども森を抜けない。迷ったとわかって馬をとめた時は、もう引き返す道もわからなくなっていた。
僕はそんなにあわててなかった。この森は僕が育った山の上の明るい森とはまったくちがって、陰気でしめっぽくて重苦しかったけれど、それでも森は森だった。積もって土になってゆく枯葉の匂い、木の幹からしみだすやにの匂い、何もかもが僕を落ち着かせ、ときめかせ、もうずっと思い出すこともなく忘れてしまっていた空想が思いがけなくよみがえってきた。兄と二人だけで森で暮らす夢が。
もう、そんなことを考えた時からあまりに時がたってしまった。あまりに遠くまで来てしまった。引き返しようもなく、取り戻しようもないほどに。それでも森の空気と香りがまるでそんな夢を見たのが昨日のことのように、生き生きとそれを僕によみがえらせた。このまま道がわからなくて、永遠に森から出られなかったらどうなるのだろう。二人でどんどん森の奥へ進んで行ったら、どんな世界が開けるのだろう。宮殿も、城壁も、海も、人々も忘れて。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていても何となく道はわかるような気がした。いつの間にか僕の方が少しだけ、兄の先にたって歩いていた。兄は無口になっていて、一度何げなく僕が注意をひこうとして、身体をよせて腕に手をかけるとびくっとして剣の柄を握ったので、僕はあきれながら笑った。兄もしかたなさそうに照れ笑いした。
「森で戦ったこととかないの?」僕は聞いてみた。
「ある」兄は苦虫をかみつぶしたような顔をした。「さんざんだった」
「それでそんなに緊張してるのか。僕のことまで恐がってるみたいだ」
「どっちみち、おまえはいつでも恐いんだ私は」兄は少しやけになったように白状した。
何だかそんな会話をかわしたことも、この頃ずっとない気がしたので、僕はちょっとしんみりなって、「僕はこれでも兄上を安らがせたいと、いつも思っているんだけどなあ」とつぶやいた。すると兄が吹き出したので、僕はかなり傷ついた。
兄はすぐ僕のそんな様子に気がついた。「すまない」と素直に謝ってから、「でも本当にそうだから」とそれをぶちこわすようなことを正直につけ加えた。
「もういいよ」僕はすっかり気を悪くしていた。「どうせ僕は役立たずの困り者だよ」と、手にした弓の先で思いきり木の枝を払いのけながら言った。
兄は前を見たまま笑い、「自分でも信じてないことを言うんじゃない」とたしなめた。「おまえのことを誰もそう思ってないって、自分が一番知ってるだろ」
そして僕がふり向いて笑うと兄は「そら見ろ」と言った。「そうやってすぐ、きげんを直す」
「でも兄上を安らがせたいって思ってるのは本当なんだ」僕は悲しくなりながら言った。「本当にそうだったらいいと思ってる」
「あきらめるんだな」兄はしなやかに身体をななめにそらして、低い枝の下をくぐりぬけながら言った。「おまえには無理だ」
しばらく黙って馬を歩かせてから兄は話の続きのように、「それよりも」と言った。
「え、何?」
「安らがせたりなんかしてくれなくていいが」
兄はそれきり黙ってまた、何か考えながら馬にゆられていた。いつの間にかまた、僕が後ろになっていた。
僕は声をかけた。「何なの?」
「あせらないでくれ」兄は前を見たまま言った。「そう一ぺんに強くはなれない」
「何のこと?」
「いつもおまえに試されてる気がして」兄は言った。「牛の子を持たされてるみたいに」
「牛の子?」僕は首をかしげた。「それ何のことだよ?」
兄は笑い出し、馬の手綱を引いてまた僕と並んだ。「覚えてないか?父上がいつか話してくれたろう。ある男が幼い息子を力持ちにしようとして、生まれたばかりの牛の赤ん坊を持たせた…覚えてないか?」
僕は首をふった。兄は前方に目を配りながら話を続けた。
「そうか…犬ほどもない子牛だから、幼い息子でも楽々抱えることができた。そうやって毎日抱えている内に、牛も息子も大きくなって、大人になって、それでも息子はその牛を軽々と両手で頭上に差し上げることができたそうだ。少しづつ、毎日大きくなっていったからな」
「覚えてない」僕は吹き出した。「また何を考えてそんな話を父上は僕らにしたんだろ」
「さあ。何も考えておられなかったのじゃないか。ただ面白い話だとお思いになったから聞かせて下さったんだろうよ」
「それと僕と何の関係が?」
兄はいたずらっぽい目で僕を見た。「おまえが何かしでかしては私に助けを求めるたびに、牛の子を持たされたような気がした。だんだん、そうやって、いろいろ工夫して努力して…成長させられてる気が」
「まったく、ものは考えようだね!」僕はあきれて、しみじみ言った。
「おまえがいなけりゃ私は今みたいになってない」兄は、日の光を透かして薄緑色に広がる木々の梢を見上げた。「きっと、もっとずっと愚かで冷たくて、弱い人間だった。それが私の本質だから」
「ばかなこと言うなよ!」僕は思わず声を荒らげた。「何てこと言うのさ!」
「おまえが私をこうしたんだ」兄はほほえんで繰り返した。「そのことには感謝してる。でも時々、おまえがやけになってるんじゃないかと思うことがある。息つく間もなく、できそうにない課題を私に次々押しつけて考える間も与えない。私に音を上げさせたいように…私にあいそをつかしたいのか、自分があいそをつかされたいのか」
「両方だよ」僕はすねた。「そして、とっとと楽になってほしいんだ」
「安らがせるって、そういうことか?」
「かもしれない」僕はすねつづけた。
「おまえはいつも、そうやってあせる」兄は木の枝を頭をかしげてよけながら静かに言った。「きっと頭がいいし、自信もあるから、一気にかたをつけたくなるんだろうな。でも、待っていてくれないか」
「何を?」
「私がおまえの望むことをかなえられるようになるまで。ひとつづつ。少しづつ。あきらめないで、試しつづけてくれないか。私を安らがせないでほしい。だが、手加減し、配慮してくれ。私はそんなにかしこくも強くもないが、じれったがって見限るな」
僕は兄を見た。兄も僕を見返した。まっすぐに、澄んだ目で、力強く。
そしてもう、それ以上、僕には何も言えなかった。