「クイック&デッド」の魅力

1 少ない情報、低い評価

アカデミー賞も受賞し、名優と言われるオーストラリア出身のラッセル・クロウがハリウッドに進出するきっかけとなった映画「クイック&デッド」を、私はテレビの吹き替えで見た。多分カットも多かったろう。
その後ビデオで見て、パンフレットと原作の小説(ジャック・カーティス著、鈴木玲子訳、TOKYOFM出版「クイック&デッド」 1995年)もたまたま手に入れることができた。しかし公開当時の評判や批評は資料がなくてわからない。
私の記憶にもこの映画の公開の時のことはまったく残っていないことから見ても、おそらく、あまりヒットはしなかったのだろう。

ラッセル・クロウという俳優はマスコミの作ろうとしているイメージよりは、はるかに思慮深く知的だという印象を私は持っている。その落差がまた意外性や複雑さも生んで、彼の魅力のひとつにもなっているふしがあるから、よほど目に余る事態にでもならない限り、そのことにあまりこだわるつもりはない。
私が彼に対してそういう印象を抱く理由の一つに、彼がまだ有名でない時期に出演した映画の選び方がある。映画デビューとなった「アンボンで何が裁かれたか」は戦争犯罪を扱った真摯で良質な社会派映画であり、心優しいゲイの青年を演じた「人生は上々だ!」やネオナチグループのリーダーを演じた「ハーケンクロイツ ネオナチの刻印」はそれぞれ高い評価を受けた名作といっていい。
これらはオーストラリアで制作されており、それらの作品で自国では俳優としての声望が定まった時、彼は更にハリウッドでの仕事に挑戦する。そのきっかけとなったのが、女優シャロン・ストーンから声をかけられて出演した、この「クイック&デッド」である。

その後「L.A.コンフィデンシャル」という名作の主役の一人として注目されるまで、彼はあまり認められておらず、「バーチュオ・シティ」「逃走遊戯」「ヘブンズ・バーニング」といった、今日では彼の主演というだけで有名になっている映画にいくつか出演している。いわゆる下積みともいうべき時期で、精神的には苦しい時代だったろう。これらの映画の一々に触れている暇は今はないが、どの映画を見ても彼の演技は確かで安定しており、幅の広さと堅実さを見せつけている。腐っている様子も荒れている様子も手を抜いている様子も見られない。
こういった映画の数々をどのような基準で彼が選んだのかも、明らかではないが、これもまた私は、それほどひどい選択を彼がしているとは思えない。限られた条件の中で彼なりによく考えて選んだ仕事だろうという気がしている。(もっとも、この俳優は、仮に金に困ったりそれ以外のやむを得ない理由で、自分ではしょうもないと思う映画にいやいや出たとしても、出た以上は決して「あれはやりたくない仕事だった」などとは口が裂けても墓に入っても絶対白状しない気がするから、本人の発言があってもそれをそのまま信用はできないが。まあ、その前に彼はそんなやむを得ない理由から、いやな仕事をすることは絶対しなかったような気もするが。だからこそ、今あれだけ、いい意味での子どもっぽい傲慢さを持ちつづけていられるような気もするが。)

そのように考える時、私はこの「クイック&デッド」という映画が、少なくとも当時のラッセルに強い拒否感を抱かせるほどのつまらない映画だったとは思えない。ハリウッドでの最初の作品として、いわば「アンボンで何が裁かれたか」に匹敵する位置にあるこの映画を、彼がそうそう適当に引き受けたとは思えないのだ。
最近のラッセルは撮影現場でわがままと評判が悪い。一方でそれは映画への情熱と評価する監督もいる。おそらく脚本が未完成の状態に近かった「グラディエーター」などに典型的だったように、彼は今では監督やスタッフと映画の内容の改変についても充分に意見を戦わせることのできる立場にいるのだろう。
「クイック&デッド」当時はもちろんそうではなかったろうから、彼は与えられた脚本をそのまま受け入れて演技しなければならなかっただろう。だが、だったらなおのこと、彼はこの映画の脚本や設定にそれほど拒否反応はなかったのではないだろうか。

なぜ、くどくどとこんなことを言っているかというと、この映画、作品としての評判がほんっとに悪いからである。当時の批評は先に述べたとおり今はわからないが、ネットで検索する限り、ほめた批評はまったくない。ラッセルのファンサイトでさえさんざんで、「ラッセルが演じるガンマンで牧師のコートが登場するところからしか見ない」という人が少なくない(もしかしたら、ほとんどかもしれない)。
もともとラッセルのファンというのはクールでシャイで口が悪い。彼の出演作だからと言って手放しで評価するような人は少ない。いやまあ、ファンというものは、好きな俳優が出ていることだけで、その映画を見ることがむしろ多いのだから、これは普通のことなのかもしれない。

私は、この映画でラッセル・クロウという俳優を初めて知り、興味を持ち、徐々にはまった。そして、これはずっと感じていたのだが、私はこの作品が映画として非常に好きで、その中のラッセル演じるコートの位置が好きで、だからこそラッセルを愛したのだという気がする。これが他の映画なら、たとえ「人生は上々だ!」でも「L.A.コンフィデンシャル」でも、きっとこうはならなかった。「グラディエーター」「ハマー・アウト」ならひょっとしたらなったかもしれないが、それもわからない。
俳優の魅力と演じる役柄の魅力とは、不可分で、そして微妙にからみあう。ラッセル・クロウという俳優の何にひかれたかについては、ファンのひとりひとりがさまざまだろう。そして私は、いつも、たしかに、この評判の悪い西部劇映画の彼が演じたコート牧師に、その体現していたものに彼を重ねてひかれていた。

だとしたら、やはり一度は、この映画についてきちんと考えてみたいと思う。ただし、私は、公開当時「単純」と切って捨てられがちだった「グラディエーター」をものすごく手の込んだ映画として分析し(それは嘘ではないと思うが)、これまたラッセルは出演してないがあまり評判よくなかった映画「トロイ」を思想的哲学的に考察して、どっちもいろんな人たちから、「よくもそこまで複雑にこじつけて解釈できるもんだ」と、あきれられてるかもしれない節がある(被害妄想かもしれないが。笑)。だから、この「クイック&デッド」でまでそれをやると、「結局おまえは、どんな映画もやたら難解なテーマを含んだ芸術作品にしてしまうんだな」と愛想をつかされ、前の二つも結局はそういう思いこみが生む幻想だったのかと否定されかねない。
だが、前の二つの映画にしても、この映画にしても、私は特に難しいこと、高級なことを言っているつもりはない。どんな映画にも漫画にも、作者の思想や哲学は絶対に存在し、反映する。それこそ「どらえもん」でも「サザエさん」でも「クレヨンしんちゃん」でも。それに気づいてない人でも、それを味わい楽しんでいるのだ。

だから、これから私があーだこーだと理屈を並べるからと言って、「クイック&デッド」が特に高級でも複雑でも芸術的なのでもない。どんな映画についてもこういうことは語れる。要するに私は、この映画のどういうところが私に快く受け入れられたか、その中で重要な存在であった彼の演じるコート牧師に魅了されたかということについて、説明したいのであって、早い話が、もってまわった、のろけを言いたいだけである。

2.どこにいったい、ひかれるのか?

私がテレビでこの映画を見た時は、まだ淀川長治氏が元気で解説をしていた。氏はたしか、この映画について、「マカロニウェスタンとか、いろんな西部劇の面白い要素を全部つめこんで作っているのが面白い」「きれいな女優さんは有名になるとよく、思いきり汚れたかっこうの役をしたがるものだけど、この映画の主演のシャロン・ストーンもそうだ」というように話しておられたと思う。

この映画の特徴といったら、まあたしかにそのへんになるのだろう。あと、この映画の紹介としては、サム・ライミ監督らしく遊びがあって、撃たれた男の頭に穴があいて向こうが見えるような漫画っぽい表現があることが指摘されたりする。他は、前にも言ったように、そこそこ面白いとかちょっと変な、風変わりな感じとか言われて、そう嫌われたりけなされたりはしていないが、決して高い評価は受けていない。ジーン・ハックマンという演技派の名優にシャロン・ストーンという人気女優、まだ新人のディカプリオと、ハリウッドではほとんど無名のラッセルという、豪華な顔ぶれの割にはどうってことない映画という受けとめられ方もされている。

あらためて、こうして整理してみようとすると、この映画への批評はあいまいで定まっていない感じも受ける。大嫌いだという人もいないし、大こけしていると思っている人もいない。さりとて評価しようとするのもためらわれるし、そうかと言って完全に否定するのもちょっと勇気がいるといったような。
どこかのサイトでどなたかが、「バカっぽい映画に見えて何かありそうで、でもやっぱり何もない(そこがいい)」みたいに言われてたような記憶がある。そういう、人を迷わせるような奇妙な味がある。

そういう意味では、私もこの映画が、映画としていいのか悪いのかはわからない。ただ、見ていて安心して楽しめる、気持ちいい映画という点では、ほんとにベストテンどころかベストスリーに入るといっていい。そのくらい、安らげる。いいかえれば、普段は何の映画を見ても、どこかで私は不愉快になり、まあまあまあと自分をなだめながら見ているんだなあと、ほとんど自分がいじらしくなる(笑)。
そんな私の好みを聞かされるのも不愉快な人もいるだろうが、そこが私にとって、この映画の魅力なのだからしかたがない。はああ、こんな理由でこの映画を好きになる人もいるのだなあとあきらめて聞いていただけるとありがたい。

それはもう、とっても単純な、死ぬほど単純な話で、書こうとして自分の頭と心の構造の単純さにむしろびびるが、理由はたった二つだけ。「女がばかにされてない」と「暴力否定」と、ただ、このたった二つだけ。
書いてて、ほんとにちょっと自分でいやになる。もうちょっと他に何かないんかい(笑)。
でも、そうなのだから嘘はつけない。そして、こうしてこの映画を楽しんでいて、こういうことを書いていて、あらためて気づくのは、この二つは私の思想信条の骨格だなあという、何だかそれも、そうみえみえでいいのだろうかと不安になるぐらいの根強く激しい実感である。もう、人を愛するのから選挙の投票から、小説や映画の好みから、私のすべての基準は結局はこの二つでしかない。この二つさえ保障してもらえれば、あとはもう、たいがいのことに私は妥協し目をつぶり許す。そのことをしみじみ感じる。

逆に言うなら、この二つを否定するもの、冒すもの、危機にさらすもののすべてに私は我慢できない。それにつながるすべての動きを見逃さず、嫌悪し否定し攻撃する。言いかえれば、私を動揺させ苦しめようと思ったら、ここを攻撃したら、他のすべてのことのように私ははぐらかしたりごまかしたり逃げたり煙に巻いたりできず、自分の姿勢を明確にし自分の意図をさらしてしまう。まったく、まったく危険なことで、こんなことを敵に知られたらおしまいだから、あまり書きたくないが、書かなければ「クイック&デッド」の魅力が語れないからしかたがない。まったくもう、ラッセル・クロウのファンになったばっかりに、何という大きな犠牲を私は払っているのだろう。(あー、最近気づいてきたのですが、私のこういう言い方って、冗談ととらえて下さらない方がいるのよねー。書いた本や文章の批評などで、「生真面目に悩んでいるのが面白い」などと書かれて、ずっこける。別に嘘ではないけれど、こうやって生き方や好みや主義主張で悶々と悩んでるのって、けっこう楽しんで遊んでやってるんだってことは、わかって下さってるんでしょーねー、と世にも野暮な心配ふっとしたくなるのだわ。それとも、あれかな。こういう思想的生き方的なこと悩むのは、重苦しくって暗いって相場が決まってるらしいのに、私のそれは何だかおかしくてかわいくて素敵に見えてかまいたくなるっていう、それなりの好意の表現なんだろうか。だったら喜んどくべきかい、それなりに。でも、何となく、そういうこと書いたり言ったりして下さる方を見ると、あんた私なんかに同情したりかわいそがったり面白がったり余裕こいてる場合かいって、ちょっと鼻でせせら笑いかえしてみたくなったりもするんだよね。どうも私の冗談のセンスって、ミクロン単位ではあるけれど、確実に人とずれてるって気がしてならない。言っておくが、私のせいだとは私は思ってないからね。)

さてそこで、この「クイック&デッド」という映画だが、監督のせいかシャロン・ストーンのせいか、後者じゃないかと思うのだが、もう徹底的にこの私の二大アキレス腱…「女をバカにしない」と「暴力否定」を基本にすえた作りになっている。
しかもそれを西部劇でやっている。
このへんを追求すると、またまた自分をさらけ出し分析することにつながって危険なのでやりたくないのだが、「女性尊重」「暴力否定」だけなら、恋愛映画でもホームドラマでもいくらでもやすやすと描ける。
すごく、すごく問題なのは、そしてやばいから追求したくないのは、その二つに徹底的にこだわるくせに、私が戦争映画や西部劇が大好きだということで、これはほんとに不幸なことだ。不可能なことを求めるという点で不幸なことだ。

しかるにこの映画は、そんなおかしな無理難題の好みを持った私のような人間に対する特別メニューを作ってくれているかのように、ありとあらゆる手法や工夫や設定を用いて、その不可能なことを追求してくれている。そして、どんな芸術映画も文芸大作もアカデミー賞カンヌ映画賞その他もろもろの受賞作もできなかったほど完璧に近く、その不可能を可能にするのに成功している。こんな映画に感謝せず評価せず愛さなかったら、それこそ罰が当たるというものだろう。

3.西部劇と暴力

まずは、暴力否定について。
もっとも、これは「クイック&デッド」に限らず、西部劇というジャンルそのものがいつも内包している矛盾でもある。主人公となるガンマンたちは常に正義の味方であり、したがって平和主義者であり、戦いは避けるが、それでもやむにやまれない事情から悪人に向かってついに銃を抜く、というのがお決まりだ。古典的名作「真昼の決闘」では主人公の妻は絶対非暴力を守るクェーカー教徒か何かで、それが夫を守ってついに銃を撃つというのがクライマックスの一つだった。
マカロニウェスタンが登場し流行した時に、昔ながらの西部劇ファンがその残酷さや泥臭さに反発しつつも動揺したのは、それがリアルに西部劇の本質を描いていたからであり、従来のスマートな描写の陰にかくれていた残酷さや暴力性が、生々しいマカロニウェスタンの描写によって、さらけ出されてしまい、夢が消えごまかしがきかなくなったからでもあった。そういう指摘が当時すでにされていた。

先に私は西部劇が好きだと言った。だが考えてみると、それもまた微妙なところがある。私はともかく恋愛映画が退屈で嫌いだった。何となく勉強と思って一応見てはいたが、ほとんど楽しめず、これは「女性尊重」との問題ともからむので、後で述べる。
それに比べると、冒険映画、戦争映画、西部劇はずっと好きだった。だがその中でも西部劇は何となく、あまり好きではなかった。
私は戦後民主主義の中で育ち、アメリカとソ連がともに日本帝国主義・軍国主義に勝利した正義の味方ととらえる文化の中で成長している。その後、青春時代はベトナム戦争や学生運動の時代でアメリカと敵対するようになり、反米デモにも出かけていたが、それでもアメリカが嫌いではなかったし、特に子どもの頃はキリスト教と関わりの深い文化の中にいて、アメリカ人の宣教師もよく家に遊びに来ており、アメリカの歴史や政治を批判する精神はまったくなかった。
それなのに西部劇は、どことなく何となく楽しめなかった。

戦争映画を楽しめたのは、おかしな話だが、それが戦争の悲劇や矛盾を描く戦争反対の姿勢で描かれること、あるいはナチスドイツに対する(日本がアジアで行った数々の行為についての反省や贖罪は私の幼少年時代には、まだまったくといっていいほど、とりあげられていなかった)正義の戦争として描かれることが多かったからだろう。
だが西部劇の場合は、一つの村や町などという規模が小さいため、悪の跋扈や来襲は結局は銃という暴力で対決して葬るしかないという図式がはっきりと表に出る。それは幼い私にはやはり受け入れがたかった。それは私が親や学校や教会の日曜学校で教えられたこととちがい、当時のマスメディアや知識人が語ることともちがい、児童文学や絵本のすべて、背伸びして読んだ大人の文学のすべてが語ることともちがっていた。

特にインディアンと呼ばれる先住民が無条件に悪役になって滅ぼされるのが、見ていて居心地がよくなかった。黒人やインディアンをしいたげたアメリカの歴史が批判と抗議と反省の対象になるのは、ベトナム戦争以降だから、その当時の幼い私がそんな居心地の悪さを感じたのは、やはり「人種差別はいけない」と教わったことと基本的に一致しなかったからだろう。それと、あるいはまた、西部劇がインディアンをそれなりに事実に忠実に誇り高い卑怯なことをしない勇敢な人々として描いていたこともあったかもしれない。そういう点での事実の歪曲は、西部劇の描写にはなかった。それはまた、虐げられ滅ぼされた先住民の人々の行動や態度が、歪曲できないほど強烈な印象を残していたということなのかもしれないが。

そういう点では、西部劇というジャンルで、「シェーン」や「真昼の決闘」のように、暴力をどのように否定しつつ最終的には肯定するかということは、かなり重要な条件であり、そこをさまざまに工夫するのが脚本や監督の腕の見せ所であるのかもしれない。
もちろん、西部劇にはその一方で、「OK牧場の決闘」のように暴力の使用はすでに前提として、その中での人間模様やドラマを描く作品も少なくはない。私が一番、魅力を理解できない種類の作品である。実は私はヤクザ映画を「木枯らし紋次郎」以外はまったく見ていないので、これこそ何も語れないのだが、それと共通する要素を持つ種類の西部劇といっていいのだろう。

だが、くりかえすが西部劇の名作の多くは、「暴力否定」にこだわりつつ暴力を最終的に肯定する図式を持つ。「クイック&デッド」は、その点では西部劇のむしろ王道でもある。
けれど、ほとんどの西部劇では描きたいのは決闘でありガンマンであり、暴力否定へのこだわりは、それを観客に抵抗なく楽しませるための配慮でしかない。「クイック&デッド」は、そのことにこだわりすぎる。決闘やガンさばきの魅力を満喫するための枝葉にすぎないはずの「暴力否定」が大きくなりすぎて、メインテーマにさえ見える。

この文章を読んでいる人は、ラッセル・クロウのファンが多いかもしれない。そんな人たちは、この映画がそうなってしまっているのは、ラッセルが演じたコート牧師の存在が強烈すぎてそうなったのだと、きっと考えたいだろう。私も少々、そんな気はする。だがもう少し慎重に考えてみたい。

4.エレンの成長

マカロニウェスタンが暴力や殺人の正当化として使う理由は、「復讐」である。愛する者や家族を悪人に残酷に殺されたから、主人公は非人間的になる。
「クイック&デッド」もこれを理由として使う。シャロン・ストーン演じる女ガンマンエレンは、かつて幸せな町の誠実な保安官だった優しい父親(ゲイリー・シニーズを使うという贅沢な配役)を、ジーン・ハックマン演ずるならず者のへロッド一味に殺されており、しかも幼い少女だった自分が縛り首にされようとする父をつるしたロープを撃とうとして、父を誤射して殺してしまうという痛恨の過去を背負って生きている。彼女がへロッドの支配する荒れ果てた故郷のリデンプションを訪れた時、棺桶屋が彼女の背丈を推測して身の丈にあった棺を作ろうと声をかける場面をはじめ、この映画はマカロニウェスタンを強く意識して、その雰囲気をとりいれている。だからマカロニウェスタンと切り離せない「復讐劇」という設定になったのか、「復讐」という設定にしたからマカロニウェスタン風になったのか、どちらとも判断できない。

あまりに何も資料がないから、このへんはすべて推測になってしまう。「シャロン・ストーンを主人公にした西部劇」を作ろうなどという考えが、どの段階で誰の頭に生まれたかはわからない。「西部劇ではしょせん女は脇役だから、いっそ女ガンマンにして名実ともの主役にしよう」ということになったのかどうかもわからない。
ただ、とにかくそこまで話が決まれば、この女ガンマンの性格設定として、「人を殺したがるガンマニア」では受け入れられにくかろうし、「生活のための賞金稼ぎ」でも最近ならまだしも当時は抵抗がかなり予想されるし、「苦しんでいる民衆が悪人を倒してくれるよう頼む」パターンでは女性のガンマン相手にそんな依頼を人々がするのも不自然だろうし、「復讐」という理由が選ばれることになるのではないかな、という気はする。

ところで、まさかという人もいるかもしれないが、この映画には原作がある(笑)。多分、ノヴェライズではない、ちゃんとした原作である。
それを読むと、エレンがへロッドをなかなか殺せないのは、その強烈な個性と迫力に圧倒されて、彼の前に出るとすくんでしまうからだということになっている。

そもそも女(エレン)はあの男を殺すためにここまで来たのだった。ところが、彼の威圧的な存在感の前にその勇気はもろくも崩れた。(単行本116ページ)

そういう意味では、この自分も町の住人たちと変わりはしない。あの男のそばにいるだけで、がたがた震えて、おじけづいてしまったのだから。こうして、あいつの前で勇気を失った自分の弱さを嫌悪しているではないか。町の人たちだって、同じように感じているに違いない。(単行本172ページ)

だが、映画では必ずしもそうは見えない。ハックマンやシャロンの演技力の問題ではなく、そういう設定になっていないのではないかと思う。
この映画のエレンは、この町に来るまで、人を殺したことがない。それどころか傷つけたことも、人に向かって銃を撃ったこともない。そういう演出がされている。

最初にドッグ・ケリー(原作の小説によると、砂漠で迷ったかして飢え死にしかけ、愛犬のブルドッグを殺して食って以来おかしくなった半狂人のならず者。私は西部劇小説というものをよく知らないが、この原作のこういう雰囲気はむしろマカロニウェスタンっぽい)と決闘する時の、直前までの緊張と、相手を倒した(殺してはいない)直後の喜びと安堵のあまり、祝福しにきたキッドを思わずひきよせてキスしてしまうのなどは、明らかにエレンにとってこれが初体験であることを示している。この時の彼女の放心状態の輝くような笑顔はとても美しい。
次に彼女は、酒場の主人の娘である少女をレイプしたユージーンと、怒りにまかせて撃ち合いにもつれこむが、相手の性器を撃って重傷を負わせて命乞いされると、我に返って殺すのは思いとどまる。しかしその相手から卑怯な逆襲の不意打ちをうけて、本能的に防御して撃ち殺してしまい、その衝撃でいったん町を離れ、復讐を断念しかける。こういった反応からは、彼女が人を殺したのも、これが初めてとしか考えられない。
その次のコートとの決闘は芝居だが、そこでも彼女は相手を撃てない。コートもそうで、二人は殺し合うことをぎりぎりまで拒否する。最後はコートが彼女を撃つが、実は二人とも相手を撃ってはおらず、結局彼らは実際には殺し合いを拒否し抜いている。
この長い逡巡と段階を経てようやく彼女は、ラストのへロッドとの殺し合いを断固として行い、復讐を成就する。凄腕のガンマンであり、行動や発言のすべてが歴戦の勇士でありながら、人を銃で傷つけ殺すということに彼女は徹底的にナイーブだ。

ある意味では、これは不自然な設定である。あれだけ荒くれ男に伍して何のためらいもなく生きており、酒をあおり男と寝てなぐりあいもし、何より尋常でない銃の腕を有していながら、人を殺したことはおろか、傷を負わせたこともないらしいというのは不思議すぎる。いったいどういう過去なのか、想像するのが難しい。
だがそれがそんなに強い違和感にもならないのは、そもそも女性でいながらまったく男にひけをとらない腕力と意志と銃の腕という設定自体が常識はずれだからで、そんな女性がどんな風にしたら生まれてくるのかなんて資料は誰も持ち合わせがないのだから、それこそどんな過去だって否定はできないからである。それは男性の英雄豪傑だってそうだが、非現実なものを設定した以上、背景や周囲ももう現実を根拠になんかできない。エレンという、こういう女性がいるからには、そういう女性を生み出すような環境と土壌と成育歴があったのであると思えばいいのである。思うしかない。エレンがそのへんにいそうな、並みの人間なら、「そんな過去は不自然だ」「そんな設定はあり得ない」とか言えようが、彼女は並みの人間ではないのだから、そんな理屈も通用しない。

監督がそういうことをちゃんと考えたかどうかは知らないが、本能的にはそれをわかっていたと思う。それで、この映画のエレンは生き方も愛し方も自由で過激でありながら、「銃で人を傷つけ殺す」ということにかけては、少女のように純粋で臆病でうぶで迷いぬく。彼女に復讐を遂行させない、これはほとんど唯一の障害であり、こんな初歩的で根源的な悩みを全編通して主人公が克服すべき課題にするというのは、西部劇としてはやはり、かなりに珍しい。
前に述べたように、原作の小説では、彼女がすぐれたガンマンになるまでの過去はまったく描かれていないのは映画と同様だが、彼女がへロッドを撃てないのは、こんな「人が殺せない」悩みなどではなく、「人を殺す」ことへの拒否感でもなく、あくまでへロッドという人物に圧倒され萎縮するのが原因だ。あえて言うなら小説のエレンは、すでに何人も人を殺しているかもしれない。小説の彼女がためらうのは、へロッドを殺すことであって、人を殺すことではない。

だから「人を傷つけ、殺すこと」への拒否感とこだわりは、あくまでこの映画のものであり、監督が求めたテーマであるといってよい。伊達男のガンマン、エース・ハンロンの死体が身ぐるみはがれていく場面やそれに滅入るエレンの描写など、この拒否感とこだわりは映画の随所でしつこいほどにくり返される。多分、私を安らがせ共感させるのは、そういうところなのだろう。
映画の中でエレンは徐々に、このこだわりを克服していく。本来なら、この町に来るまでにとっくに克服しているのが自然なのだが、まるで彼女がそうやって少女の頃から成長してきた過程をここで重ね合わせて見せてくれているかのように、監督はこの短い数日の間の彼女の変化と成長を追う。そして、ついに人を殺して、それに耐えられずに逃げ出した彼女と町はずれの墓場で会った、父の友人の老医師は、彼女を励まし、「父の復讐」が彼女自身のアイデンティティの確立であることを指摘するとともに、「町の人々をならず者の支配から救う」という正義の味方としての社会的使命でもあることを教える。
この「暴君の支配から民衆を解放するという役割」という図式が、現在のアメリカやかつての日本の行動の理由づけにどのように使われているかを連想すると限りない憂鬱に落ちこむが、だからと言って、このような図式自体を否定するのは正しくない。エレンを最終的に成長させ、一人前の人間として確立させるのは、このような自分の役割の意識であり使命感だった。

私はあまり監督を意識して映画を見ない。この映画のサム・ライミ監督の作品も他には知らないし、彼の成功作、出世作と言われる「スパイダーマン」は「2」しか見ていないが一向に共感できず興奮もせず、むしろ嫌いな映画の部類に入った。だが一人の平凡な青年が偶然持った能力のために、民衆のヒーローにならざるを得ない苦しみには、あるいはエレンの成長と共通する要素が見えるかもしれない。西部劇やヒーローもののお定まりの枠組みの中に、そういう異質な観点を持ち込む傾向がこの監督にはあるのかもしれない。

ともあれエレンはそうやって着実に、映画の中で成長して行く。この間のシャロンの演技はそれをきちんと描いているし、私たちに伝えてくる。
ただ、それが映画のメインとして感じとれない、という指摘はいろんな人からよくなされる。ヒロインとしての魅力がいまいち、主役の影が薄い、などといった不満と重なって、いくつかのサイトで見たのは、へロッドはどう見てもエレンよりコートを愛しており、息子キッドも含めて、この三人の関係の方が緊張をはらんでいて、愛憎劇として迫力があるという慨嘆や苦笑だった。

私もその通りだと思う。ただしそれを、この映画の欠点だとは思わない。この映画はそういう映画であり、そのように作られたのだと思う。どこまで計算したか偶然の結果かはやや微妙だが、少なくとも、「へロッドはコートとキッドに気をとられていて、エレンのことなどさほど気にとめていない」というのが、この映画の図式であり、だからこそ説得力ある納得できる構成になっていると思う。
へロッドがエレンを気にしていたら、この映画の中でよちよちと成長しつつある彼女を見逃すはずがなく、彼女の過去やその意図を見抜かないはずがない。面白そうな女と思って声をかけたり食事に誘ったりするが、彼の彼女への関心や興味は通り一遍のものでしかなく、彼の愛憎は大半がコートとキッドに向いている。だからこそ、彼の目の届かないところでエレンは苦悩し迷走し、一歩一歩成長してついには彼を倒せるまでの存在になることができた。言いかえれば、ヒロインの位置にいても彼女の役割は限られていて、この映画の人間ドラマ、愛憎劇の中心は誰もがそう感じているようにコートとキッドがになっている。それは脚本のまずさでもシャロンの演技のまずさでもなく、最初からそういう役割分担で作られているのである。そういう映画なのである。

5.本当の主役たち

それでは、この映画のコートとキッドとは何なのか。
いや、その前に、この映画のへロッドとは何なのか。
彼は、かつてならず者として仲間を率いて銀行強盗などの悪事をくり返し、十数年前、エレンの父が保安官をしているリデンプションの町を襲って、保安官を惨殺し、町の支配者となった。善良だが臆病な町の人々は彼の支配に抵抗できず、ならず者が町に流れ込み、売春宿や賭博場ができて殺人は日常となり、町は荒れた。彼は住民から理不尽な税金を取り立て、逆らう者は殺した。

彼には美しい妻がいた。だが農夫と浮気をしたと思った彼は、彼女を殺した。妻の生んだ息子のキッドが早撃ちのガンマンになっても、自分の息子と認めなかった。
彼はむしろリデンプションの町を襲う前に、自分の仲間から去った早撃ちの青年コートに執着していた。身寄りのない幼い少年だった頃から拾い上げ、目をかけて世話をしてやり銃の撃ち方も教えた若者だったが、かつて国境近くで強盗をして追われ、負傷してかくまってもらった教会で、看病してくれた神父を彼はコートに殺させた。

コートはそれに反発して彼の仲間から去り、神父となってメキシコで貧しい子どもたちのために尽くしていた。(以下が、映画で描かれる場面となる。)彼はそれを許せず、力づくで連れ戻し、町で行う早撃ち競技のトーナメントに参加して再びガンマンとしての腕を見せるか、さもないと殺すと脅した。
コートは拒絶し、殺されかけるが、絞首刑にされかけたロープを撃ち切ったエレンによって救われる。へロッドはエレンの競技への参加を認め、コートも強引に参加者に加える。キッドはもちろん、参加していた。

名優ジーン・ハックマンは、この怪物めいた男を楽々と演じている。どこか人間らしい弱さもところどころににじませて。
シャロンのエレンの性格が明確でまっすぐなのに対して、ハックマンの演じるへロッド、ラッセルの演じるコート、ディカプリオの演じるキッドは、あちこちでいまひとつ、不可解な部分を感じさせる。それが脚本や演出のせいか、彼らの演技のせいなのかはよくわからない。俳優自身の解釈がどの程度入っているのかもわからない。
へロッドはエレンを招いた二人きりの豪華な夕食の席で、「厳格な判事だったが、悪と戦うことに疲れて、妻子を殺して自殺した」父の思い出を語る。それがどこまで真実かはともかくとして、ただ乱暴で野蛮なだけではない、彼という人間の底知れぬ無気味さがうかがえる。
だがそんな話はむしろカムフラージュで、おおかたの暴君がそうであるように彼もまた、小心で傷つきやすい人間のようでもある。それは、彼があまり関心を抱いてないエレンとの関わりではなく、彼が執着するコートと拒絶するキッドとの関係の中に、より強く浮かび上がってくる。

一見主役に見えるエレンの物語を覆い隠して、この映画の中心となるコートとキッドの物語だが、更にこの二人やへロッド以上に、この映画には目に見えない強力な存在の人物が二人いて、それが作品の世界を常にどこかで支配している。その二人がどんな人物だったか、そしてへロッドにとってどういう存在だったか、観客がもうどんなにでも想像できる余地なんてものじゃない大平原だか大宇宙だかを残してくれているのが、この映画のつくづく罪なところで、少し考えただけで、もうこの映画以上の壮大なドラマが地のはてまでもと言いたいぐらいどんどんずんずん広がっていくのが、こたえられないというか、手に負えないというか。
その一人とは、へロッドに殺されたキッドの母。もう一人は、へロッドがコートに殺させた神父である。

6.殺された二人

へロッドという人間を考える時、どうしても知っておきたくなることの一つは、彼が殺した妻すなわちキッドの母親はどういう女性で、彼女が浮気したというのは本当かどうかということである。
その手がかりになるようなものは映画の中には何もない。こう解釈した方が他の部分がよりよく理解納得できるというようなことさえもない。どんな女性でも、浮気したのでもしなくてもまったく、この映画にはさしさわりがない。
小説ではキッド自身がエレンと会った直後に笑いながら、次のように語っている。

「あいつ(へロッド)は若い女と結婚して、しばらくあそこで一緒に暮らしてた。そのうち女が妊娠したとき、奴は自分の子だとは信じなかったんだ。それで僕が生まれて四〇日たったころ、女の体がまた使いものになったのを確かめて通りへ放り出したわけさ」
「放り出したって、通りで客を取らせたってこと?」
「通りじゃなくて、実際は隣の店だけど」
「どうして、そんなことを?」女(エレン)は驚いて目を見開き、酒を一口すすった。
「要するに、奴は誰かと何かを共有するってことに耐えられないんだ。何でも独占できないとだめなんだよ」(単行本77ページ)

「僕の父親は行きずりの兵士か、騎兵隊のドラマーか、あるいはここでのたれ死にしていった何百もの男たちのうちの誰かだ」
「本気でそう思ってないくせに」
「思ってない。おふくろの話を信じてるよ」キッドの口調はやや力を失った。
「おかあさんはどうしたの?」
「何年も前に死んだ。商売女たちはブランデーに睡眠薬を入れたりして、めちゃくちゃなことをしてるだろ?それが高じると、どんどん強いものを欲しがるようになる。あんたのデッド・アイ(酒の名)みたいな。そうなりゃ、たったの三〇グラムでたちまち永遠の眠りにつけるってもんさ」
彼の目はいつのまにか少し潤んでいた。(単行本78ページ)

これによると、キッドの母(へロッドの妻)は薄幸な売春婦であり、彼女自身は浮気などしていないと息子に語っていたことになる。一方、キッドの死に際してへロッドは次のように述懐する。

彼の真剣な表情には押さえつけた痛みがのぞいていた。確かに、以前にはなかった喪失感をそこに見ることができた。
「へロッドさん、あんたの息子よ」
「そうではない…」へロッドの声はかすれた。「これの母親が一度不実を働いたことがあったとして、どうしてその前にはなかったと言えるんだ?浮気をしていたかもしれないし、そうではないかもしれない。信じられなくなる。だから、そういうやつらは死ななくちゃならんのだ。常に誰が誰のものか、はっきりさせておくために。こいつは俺より農夫によく似ていた。だが、あの女がはっきりそうと言ってくれてさえいれば…。いや、やっぱり違う。こいつは絶対に俺の息子じゃない…」
じっとキッドの亡骸を見下ろしたまま、へロッドはひとりでしゃべり続け、勝手に結論にたどりついたらしかった。要するに、彼が信じられる人間など、ひとりもいないのだ。妻も、息子も信じなかった。(単行本225ページ)

これらの文章からは、やや具体的なイメージが生まれる。かえって混乱するようなところもあるが、それは作者や翻訳者の未熟さなのかそうでないのか判断しにくい。いずれにしても、これらのわずかな手がかりさえも、映画はいっさい消してしまっている。そのためにキッドの母親とへロッドとの関係はいっそう自由な空想を許す。たとえば私はこの女性は売春婦とは思わず、むしろ良家の子女で貞淑な箱入り妻だったように何となく受けとめていた。
私のそのような空想も許されるだろう。映画は映画で、必ずしも小説の設定にこだわる必要はないのだから。だが、このような小説の記述を考慮するとなおのこと、へロッドは妻に裏切られたくないと願っており、裏切られたと思った時、深く傷つき、そのことが許せず、したがってキッドも自分の子として認めないのでありながら、なおも心のどこかでは妻を信じたがっており、キッドを自分の子どもだと思いたがっているという、極端に言えば愛に飢えた臆病で孤独な男の人間像さえ浮かび上がってくる。そうなるともはや、へロッドは怪物というよりは、凶暴で異常な面は持つものの、ごく平凡で小心な男でもある。

そのように考えるなら、彼の人格を考えるのに欠かせない、もう一人の人物…彼がコートに殺させた牧師との関係もまた、さまざまに想像できる。
この事件のいきさつについては、コート自身が映画とほぼ同様の告白を、小説の中でエレンにしていて、それは次のようなものである。

「あいつが恐れを知らない男だってことはよく知ってると思うが」と、コートはとうとう重い口を開いた。「あるとき、ソノーラまで行って銀行を襲ったことがあった。だが、メキシコ人たちの抵抗は激しかった。あいつと俺は一緒に逃げたんだが、ルラレス一家のやつらがしつこく追ってきて、かなりのふかでを負わされた。それで、ツーソンの南のある宣教師のところに逃げ込んで、ルラレス一家に襲われた旅の者だと嘘をついた。その神父もルラレス一家を嫌っていたので、俺たちをかくまい、食べ物から傷の手当てまで面倒をみてくれた。いい人だった」
「何だか、続きが読めてきたわ」女(エレン)が静かにつぶやいた。
「いや、そうでもないだろう」コートの声には悲痛な響きがあった。「ふたりとも傷が治って元気になると、へロッドは俺に神父を撃てと命じた。俺はどうしてそんなことをするのか理解できず、やりたくないと言い張った。へロッドは俺の頭に銃を当てると、十から逆に数え始めた」
そこで彼は声を震わせ、手錠をはめた両手で顔をおおってしまった。しばらくして女を見上げたその顔は、うつろで生気がなかった。「仕方なく、俺はその親切な神父を撃ち殺した。頭に一発、撃ち込んでね、そこで、俺は逃げた」
「ヘルモジーリョへ」女がそこで口をはさむと、コートはうなずいた。
「だが、あいつは俺の行方を知っていた。この町が気に入って、散らばった仲間たちにもここへ集まるようにと命令を下したが、俺は従わなかった」
女は無言のまま、話の続きを聞いていた。
「俺は罪深い男だ」彼の声はかすれた。「俺は神のしもべとして選ばれた人を殺した。それには何の償いも、あがないもありえない。俺は永遠に罪を背負い続けるんだ」(単行本176ページ)

この少し後でコートは、「人をひとり殺すたびに、自分自身も少しずつ死んでいくんだ。そんなふうになっちゃいけない。俺のようになっちゃいけない」とエレンに忠告するが、もちろん彼女は受け入れない。

コートの告白はかなり詳しく具体的だが、彼か作者が説明下手なのか計算の上か、なおも不明な部分は残る。二人の負傷はどの程度で、どちらが重傷だったのか?神父はどちらを主に看病し、どちらが看病の合間に神父と話をすることが多かったのか?神父と心を通わせることがより多く、その人柄に影響されることは果たしてどちらが多かったのか?
ごく普通に考えればコートの方が神父にひきつけられ、それをへロッドが許さなかったという展開が想像できる。へロッドが回復後(これもどちらがどれだけ回復後なのかよくわからない)神父を殺せと命令したのは、彼のただまったくの残酷な気まぐれ、あるいは自分たちの足跡を消すために口をふさごうとした実際的な判断にすぎなかった可能性も、もちろんあるからやっかいだ。それならコートはただ呆然とし、「こんなに親切にしてもらった相手にそんな」とためらい、へロッドはまたへロッドで「何でそんなことにくよくよするんだこいつは」とびっくりした、ということになるだろう。この行き違い感覚違いの素直な天然ボケ二人の師弟も、想像すればそれなりに微笑ましい(まさか)。

だが、この映画の描き方は微妙だとしても、どうもやはりへロッドはそのような大物の超人の怪物っぽくは見えない。とはいえ、その可能性も魅力もやはり私は捨てきれないでもいるのだが、ここはひとつ人情話だか同人誌文学だかなら当然に連想できる、ベタな設定で考えてみよう。
などと大げさに構えなくても誰でもわりとすぐ思いつくだろうことは、「俺はどうしてそんなことをするのか理解できず」(このせりふは映画にはない…多分。字幕を見る限りでは)、今もなお理解できていないかもしれないのはコートだけで、どう考えてもおそらくは、「コートが神父に魅了され改心しそうな気配が見えてなかったら、へロッドは彼に神父を殺させること、そもそも神父を殺すことさえ思いつかなかったんじゃないか」ということである。「誰かと何かを共有するってことに耐えられない」(この文句も映画にはないが)へロッドがコートの心を尊敬を愛を神父に奪われることに我慢できなかった三角関係の清算であり、そのことに気づいていないコートの方に、愛される者の鈍感さと残酷さがあるとさえ見える。
愛する相手を殺させることで、その二人の苦しみをじっくり楽しむへロッドの趣味は、すでにエレンに父親殺しをさせた実績で示されている。おそらくエレンもコートの告白を聞いた時、かつての自分の体験と重ね合わせて彼の苦悩と絶望を、そしてへロッドの動機さえも、コートよりはいくぶんか深く理解したのではないだろうか。

ちょっと話がわき道にそれるのだが、実はここまで想像をめぐらしていると、必然的に(そうか?)そろそろ気になってくるのは、「いったいへロッドに神父を殺させられるまでのコートって、どんな若者だったのかな?」ということである。それは何しろ彼が殺し屋の凄腕ガンマンから虫も殺さぬ神父に変身するという、聖書のサウロがパウロになったにも等しい啓示であるほどの大事であったわけだから、ひょっとしたら外見も何もまったく変わってしまったのかもしれない。
ラッセルの映画でいうのなら、私たちは妻子を殺され奴隷に身を落とす以前の、幸福な将軍だったマキシマスの姿を映画の中で目にしている。一方「L.A.コンフィデンシャル」の心優しい暴力刑事バドが、母親を父親に殺されるのをまのあたりにするまではどんな少年だったのかは勝手に想像するしかない。
強烈な体験によって生まれ変わった人は、それ以前の面影をどれだけ残しているものだろう?すぐれた俳優なら変身後の姿を演じるだけで、その背後にそれ以前の姿もどこやら透けて見えるという離れ業を演じてくれるものだが。
いったい、以前のコートはどんな少年、どんな若者だったのか。「バーチュオ・シティ」のシド?「ザ・パイロット」のラクラン?「ハマー・アウト」のイースト?へロッドが呼び戻そう、よみがえらせようとしている昔の彼とは、いったいどういう青年なのか?

そのことについては、また後で考えるとして、この「神父をへロッドに強要されてコートが殺すくだり」、更にはその前後の三人のドラマは、特に同人誌文学の世界の人でなくても、想像しただけで2ちゃんねる風だか今風だかの言い方なら、これをおかずにごはんが数杯軽く食べられそうなほどおいしい、そそる、何でもいいが得難い空想や創作の材料だろう。何も特に同人誌趣味に走らなくても、哲学的宗教的な重いテーマの劇としても充分なりたつ要素がある。こんな話をたかが前日談の挿話としてあっさり登場させる、この原作の作者も作者だ。あまりにもおいしすぎて、さすがの私もかえって恐れをなし、空想の中でさえもこの話を作ってみる勇気がなかった(ほんとです)。
そうこうしている内に、もうひとつの可能性に行き着いてしまった。この顛末を想像する時、私でなくても大抵の人なら自然に「若いコートが神父の人柄と話に惹かれ、それを不快に思い危機感を感じたへロッドが、自分の支配力の確認のためにコートに神父を殺させた」と考えると思うのだが、もう一つの可能性として、へロッド自身がこの神父の人間性に惹かれて改心しそうになり、つまり自分自身の哲学がゆらぎ始めた恐怖から、コートに神父を殺させたということだってありだなと思った。
その場合、コートはある意味もっと気の毒で、何が何だかわからない二人の強烈な個性の人間の愛憎劇にまきこまれ、行き詰まった一方が一方を葬り去る道具として扱われたことになる。そして彼がわけがわからないままに何かを感じて逃亡し、改心し、死んだ神父と同じ道を歩み始めることによって、へロッドは殺したと思った神父すなわち自分の内なる神の復活を見る、ということになるのかもしれなくて、それはまたそれなりに宗教的な前衛劇としての面白さを持つ。
このしばしば、「かなり変てこりん」という目で見られる映画には、どこかをどうか間違えると、そういう「ゴドーを待ちながら」みたいな不条理劇としても見えてしまいそうな奇妙な味わいがある…って、だんだん私の「何でも複雑高尚に見せてしまうマジック」にかかりそうになったぞと警戒している人たちがあちこちで眉につばをつけていそうで、書いててびびっているのだが。

しかしまあ、ここでは誰もが考えやすい、おそらくは監督もラッセルたちもそういう想定で作っただろうと想像できる方の話として、「コートの方が神父に傾倒し、それをへロッドが許さなかった」というパターンを採用しておく。
その場合、先にふれかけた、「いったいへロッドが神父との事件で失ったと感じ、再び取り戻したがっている昔のコート」とは、どういう青年なのだろう。ラッセルの演技からそれが推測できるだろうか。

7.消えた少年

「へロッドの仲間になったとき、あんたも十七歳ぐらいだった?」
「そんなもんだった。でも、もっとましな暮らしをしたいと思うくらいの年にはなってたよ。牛の群をエルズワースまで連れてきたカウボーイの中から、へロッドは俺に目をつけたんだ。それまでは、俺も月に向かって銃を撃っては大騒ぎするだけの、他愛ないカウボーイのガキにすぎなかった」コートは静かに言った。「それでも自分は強いんだと思い込んでいた。確かに少しはそうだったかもしれないが、まだ悪事についてはまったく無知だった。おそらく、あいつは俺が銃の扱いがうまいわりに頭はよくないことを見抜いたんだろう」(単行本173ページ)

小説では、へロッドと知り合った頃の自分についてコートはエレンにこう語る。映画ではたしかもっと簡単で「銃の腕をへロッドに見初められた」程度だったような気がする。ただし「何も知らない子どもの目からは彼は神のように偉大に見えた」といったせりふがたしか加わっていた。
これらの言葉から察すると、コートは銃の腕は並はずれてはいるものの、素朴で素直な平凡な若者だったように思える。あまり不幸でいじけていたとか、自意識過剰でびりびりしていた感じではない。どちらかというとおっとりのんびりした性格で、そこをへロッドに愛されたように思えてならない。
コート自身はへロッドが自分に執着するのは、拳銃の腕だけが理由だろうと解釈している。それ以上のことはおそらく彼は感じていまい。もちろんへロッドがコートに抱く関心の最大の理由はそれだろうが、同時にその他のコートの性質やたたずまいもへロッドをひきつけるのではないかと思えてしかたがない。

すぐれた役者なら、ある人物の現在を演じていても、実在の人と同様にその人物の過去を浮かび上がらせると前に書いた。「クイック&デッド」におけるラッセルの演技は、他の映画と同様に決して過度ではなく、あくまで自然で目立たない。それでいて、神父になる前の彼がどんな若者だったかを何となく見る者に理解させる。
この映画の大半で彼は鎖につながれており、なぐられたりひきずられたり何かをぶつけられたりと、キリストもどきに常にいじめられている。普通これだけそんな場面が続いたら、悲惨すぎてうんざりするか、逆に猟奇的な刺激を受けて妙な気持ちになってくる。ところがラッセル演じるコートは、そんな目にあいっぱなしでも、どこかのびのびくつろいでおり、鎖につながれた動物のように運命をあきらめて受け入れて、開き直って安住している無心な様子をしているから、見ている方もあまり加虐的な快感などはそそられない。 代表作の「グラディエーター」でもそうだが、彼は悲惨なめにあっていても、見ているものを不快なまでにはいらいらどきどきわくわくさせない、落ち着きと品位をどこかに漂わせている。特にコートは、マキシマス以上に落ち着いていてふてぶてしくさえ感じられる時があり、それは彼がマキシマスよりずっと悟りを開き、死を覚悟し、神に身をゆだねているからなのだろうが(これといった悪を犯していないのに、信じていた世界に裏切られた怒りと悲しみを抱いているマキシマスに比べ、コートは自らも最悪の罪をすでに犯したことを自覚しており、その点でも彼は自分にひどいしうちをする周囲を恨んだり憎んだりする権利はないと思っている)、どうかするとそれは、へロッドという相手を知り抜いている、更に言うなら愛されていると知っている者の自信にさえも見えないことはない。

だが、これはそういう愛されている者の慢心や、神に身を捧げた者の悟りというだけではなく、コートという若者が生まれながらに具えていた野生の獣のような落ち着きではないのだろうか。そしてへロッドが何よりも愛したのは、このような一種の暖かさと安定感ではなかったろうか。ラッセルの表情や態度には、そんなことまでしのばせる表現がある。計算しての演技ではなく、ラッセルはおそらく、この「凄腕のガンマンでありながら神に仕えることを選んだ青年」などという、ちょっととんでもない設定の人物に感情移入し没入し、血と肉をそなえた一つの人格として自分の中に創り上げたのだろう。それは、こういう人物にしかなり得ないという確信をもって、本能的に。今にいたるまで、すべての映画で彼がそうしてきているように。

そんなコートが激しく動揺し、苦悩の表情を見せるのは、唯一彼がへロッドのいろいろなしかけに負けて、撃たないと言っていた銃を撃ち、殺さないと言っていた人間を殺し、そのようにして神に誓った自分の生き方を捨てて行く時だけである。誰もが多分感じるように「クイック&デッド」とは、これがメインの話であり、贖罪を誓って聖人になった天使をもう一度泥の中に引きずり戻そうとする悪魔と、それにあらがう天使との格闘を描いた心理劇を楽しむ映画といって過言ではない。ハックマンの演技の真髄はそこに費やされており、ラッセルはまたひとつひとつ、みごとにそれに応えている。
「おまえは必ず銃を撃つ。引き金を引く。なぜならおまえの身体を流れるガンマンの血がそうさせる」とささやき続けるへロッドは、最初の決闘を見物した直後にコートに「胸がおどり、動悸がして身体が熱くなるだろう?」というようなことを語りかけ、コートがついに相手を殺した時には、呆然と立ちつくす彼に近づいて神父の白いカラーをのど元からむしりとり、「殺しの世界へ再びようこそ」とコートにとって絶望と屈辱の限りを与えるあいさつを送る。それらの場面のひとつひとつでコートが見せる表情は、まさに凌辱された者のそれでしかない。へロッドが行っているのは精神的なレイプに他ならず、ポルノ小説に欠かすことのできない「そら、気持ちよくなっただろう。いやだいやだと言っていても身体は正直で嘘はつけないのだよ」というたぐいの台詞を、この映画の中でへロッドは何度もう、コートに浴びせていることか。

しかし実際まあいったい、何を私は書いているのだろうねえ(笑)。
まあこれはそういう映画なのだから、しかたがないのだけれども。
そして私がこの映画を好きで、安らいで信頼して見ていられるのは、そういうエロチックなサービスをしてくれながらも、「人を殺さない」と誓っている者が「殺させられてしまう」ことが敗北であり屈辱であり恥辱であるということを徹底して描いてくれることだった。
コートはそもそも、人を殺せる能力はずばぬけている。そういう能力を持った者が何かの理由でそれを一時的に封じられて苦難を味わうという設定なら、これまたおとぎ話や英雄物語には山ほど登場する。だが、そういったもののほとんどすべては、英雄が耐えられなくなり、あるいは呪いや禁忌が解けて、彼のパワーが発揮され敵が倒されることは勝利であり喜びである。この映画のコートのように、力を取り戻すこと発揮することが、敵への屈服であり服従となるという設定は、ありそうでめったにあるものではない。「戦いを拒んで殺されていく」キリスト教の殉教者としての話ならあるが、そのような殉教者たちは戦わずに殺されて勝利する。自分の信念を守れなかったコートはいわば転向者であり脱落者であり落伍者である。そんな人間もこれまた、あまり描かれることはない。

思えば西部劇というジャンルは、最初の方で書いたように、そのへんの倫理ではいつも危険な綱渡りをしていた。耐えに耐えていたヒーローがついに拳銃を抜き、悪を倒して正義を守る時、彼がその禁忌を破った罪が問われることはない。「シェーン」のラストでは主人公の死を暗示することでそれをひかえめに示してはいるが。
「クイック&デッド」は、そもそも原作からしてそうなのだが、コートが戦わされてしまうこと、怒りに燃えて自分の能力を発揮してしまうことが、悪の象徴へロッドの目的であり悪の勝利であるという論理が、執拗なまでにくりかえされている。

彼(へロッド)の足元にすわらされたコートは、まるで主人の足元にうずくまる犬のようだった。
ああやってぼろぼろになるまで引きずり回す気だ、と女(エレン)は思った。長身の牧師の顔はしばらくぐったりと前に垂れていたが、急に自分を励ますかのように、背を伸ばすと姿勢を正した。疲れさせ、叩きのめし、絶えずののしり、そうしてやがてはへロッドの望みどおり殺し屋の本性を復活させることになるのだ。(単行本119ページ)

女(エレン)はコートの顔にそれまでになかった怒りの色を見てとった。へロッドの勝ちだ。へロッドは結局、いつでも自分の思いどおりに事を運んでしまうのだ。(単行本121ページ)

小説のエレンは一方では、最初の決闘の時、コートが無抵抗のまま殺されそうであることに、いらだち、彼を軽蔑している。このへんの葛藤を小説が充分に描いているとは言えないが、コートがへロッドによって殺し屋としての本能を目覚めさせられ、戦う気になることはへロッドにとっても危険な賭けだ。彼がおとなしく死なないで戦うことを決めたのなら、自分の命もまた危険になる。
無抵抗の殉教者たちを圧制者たちが恐怖し憎悪するのは、彼らをどう残酷に殺しても彼らの生き方や信念を圧殺できないからである。へロッドもまた、コートをむざむざ無抵抗のまま殺したのでは、生まれ変わった彼を、その背後にいる死んだ神父を本当に葬ることはできないと知っている。コートを再び殺し屋にし、戦う本能を取り戻させたと言って、昔のように彼が自分のものになるわけではないが、少なくとも自分の世界、自分の論理の支配する土俵には連れ戻せる。そこで彼を殺してしまえば、もう二度と彼や死んだ神父の思い出に悩まされることはない。へロッドが願ったのは、そのような完全な勝利の図式だった。そして、へロッドほどの知性の持ち主なら、そのくらいのことは感じていたと思うが、仮にそのような最後の戦いでコートが勝利し、自分が殺されたとしても、コートを戦わせたということ、自分の世界に連れ戻して対決できたということで、満足感や勝利感を彼は得ることができただろう。

こうして書いている内に、とんでもない事実に私はつきあたってしまったが、もしかしたらいくつかの点で、「グラディエーター」より「クイック&デッド」の方を私は評価し、愛しているのかもしれない。
もう一度くりかえすが、さまざまな西部劇でファンタジーで冒険活劇で、暴力に対して批判的な主人公が、対決する悪のあまりの卑劣さ残酷さに耐えられず、剣なり銃なり攻撃呪文なりを用いて戦って敵を倒す時、私はいつもどこやら割り切れない居心地の悪さ、苦い思いをかみしめた。彼らは結局戦わせられてしまったのであり、憎い汚れた敵の相手をつとめてしまったのであり、そうやって敵を殺して滅ぼしても、こちらの手を汚して敵を死体にしてやったということ、刃をまじえたということそのものが、親切すぎるサービスであり、不必要な思いやりであり、敗北であり屈辱であるという気がしてならなかった。

私に戦いをいどむ敵が、恐ろしいとかいう以前のもっと根本的なところで、私はいつも不愉快だった。勝手にこちらをライバル視して一方的に挑戦してくる者、それがどこか、こちらの名誉にもなるのだからありがたく思えという顔色さえどこかで見せる相手を、しんそこ軽侮し嫌悪した。対抗意識を燃やされること、妬まれること、羨ましがられることさえもが、はっきり言って私には「あなたが私にそんな意識を抱くことなどは身分不相応もいいとこと思わないのか」という感覚がどこかにあった。もちろん、だから自分も他人の持ち物や環境にあこがれたりうらやましいと思うことはなかった。その人がそれを得るために払う努力も、ひきかえに失ったものも知らずに、そんなことがそもそもできるわけがないと感じてきた。

いきなり、えらく個人的な次元に話が落ちてしまったようだが、あらゆる戦いの根底に他人への何らかの関心があるというのは事実だろう。そういう点では、戦いは愛情に、愛情は戦いに、いつも私には似て見えた。どちらもうまくいけば快適な部分があるが、そうでなければ不快きわまりないだけのものになる。
愛情を求めてせまって、それが与えられない時、人はしばしば憎しみだけでも得ようとする。抱きしめてもらえないなら、いっそ殺してほしがるのだ。そうしてほしさに、こちらの怒りをかきたてようとする努力を怠らない。
「グラディエーター」のコモドゥスはそうやってマキシマスにせまった。彼がそうやってマキシマスのライバルであろうとした、そして勝利者になろうとして巡らせた手練手管の数々は文字通り私を戦慄させ、その感情を何とか処理しようとして、あの映画に私ははまり通した。その間の感情は、これまた長すぎるほど長い「コモドゥス論」に詳しく書いているが。
「クイック&デッド」のへロッドがコートにしたことも、同じだった。そして、それに対するコートの対応に私は深く救われる思いがするのである。それが、この映画をこれほどまでに私が愛する究極の原因なのかもしれないと思うほどである。

8.へロッドの望み

誰もが認めるほどにどう見ても、この映画でのへロッドのコートに対する関心と敵意とは、ゆがんだ愛情とも言うべき支配欲だろう。だが、あえてそれを愛情と呼ぶなら、それに対するコートの方の反応は実に冷たい。恐怖や嫌悪さえ感じていないのではないかと思うほど、無関心に近く坦々としている。これは原作の小説よりも映画の方に著しく、ラッセルはそのように演じている。
コートにはもともと、マキシマスとも共通する、静かな冷たさや周囲に対する無関心さが漂っている。原作の小説のコートはキッドを初め町の人々にも、もっと積極的にへロッドへの抵抗や正しい生き方を呼びかけては拒絶され嘲笑されているのだが、映画の彼はそれすらしない。彼が説得し訴えかけるのはエレンに対してだけである。これも、その方がコートを魅力的に見せる改変で、総じてこの映画の原作の改変は、テーマをより明確にし話をわかりやすく整理する結果になっていて、すぐれた脚色といってよい。
マキシマスやコートのこういった冷ややかさは、迷惑なぐらい人に愛されてしまう人間のしばしば身につけてしまう鈍感さ、残酷さでもあるだろうが、もちろん、彼らがそれまでに味わった絶望や苦悩のためでもある。彼らは二人とも、もはやこの世での幸福をあきらめ、現世に未練を感じていない。そういう解脱した人間特有の高貴さと孤高さが周囲に淋しい思いをさせ、時には激しくいらだたせもする。

だが、二人のどちらがより強く、より冷たいかと言えば、おそらくコートの方だろう。あるいはそれは彼が、神を信じる人ということにも関係するのかしれないが。
マキシマスがコモドゥスをどう思っていたかは、究極のところはわからないのだが、見る者によっては、かすかにであれ心のどこかでコモドゥスを愛していたと感じられるかもしれない、はかりしれない優しさがラッセルの演技のどこかにはうかがえる。そのような救いようのないまでの聡明さと強靱さから生まれる切なさとはかなさが、ラッセル演じるマキシマスの最大の魅力でもあった。
コートには、そういうはかなさや弱さがない。神を信じている人なのに、いや、だからこそなのか、マキシマスよりずっと彼は厳しくて冷たい。

へロッドに対するコートの態度には、終始一貫余裕がある。激しい憎悪すら彼は一度も見せてはいない。エレンとの決闘の直後に一度だけ見せるのは、へロッドを欺き、真実から目をそらさせるための芝居であり、ここでへロッドが、ついにコートを自分に対して激怒させたと喜んだとしたら、コートのしたことは、あの髪をつかまれて上向かされながら見せたうっとりと勝ち誇った微笑みといい、ほとんどもう色仕掛けの域に達する(笑)。
かつては悪人だったたくましさなのか、へロッドという人間も、彼の自分への感情も知り抜いている故の余裕なのか、愛して尊敬した人を我が手で殺させられたというマキシマスよりはるかに苛酷な体験(マキシマスなら、アウレリウスを自分の手で絞め殺させられたにも等しいだろう)が生む、自分自身とへロッドへの絶望なのか。コートのへロッドに対する姿勢の落ち着きと冷たさには、泰然自若と言いたいほど常にゆらぎも迷いもない。
そういう点では、コートに対していつもやっきになっているへロッドの方がひたむきで切なくて無邪気な感じさえする。同人誌文学では同性愛における受け身かどうかという表現で受けだの攻めだのという用語を用いるが、この際便利なので使わせてもらうと、へロッドとの関係でコートは一見受けに見えて、徹底的に攻めなのではないかとさえ思える。
やれやれ、また何を書いてるんだか。

そうは言っても、へロッドとても愚かではない。さまざまの手管を用いて神に仕えたはずのコートを、再び自分の支配する修羅の世界に引き戻したところで、かつて楽しい仲間として信頼しあえる師弟として、無邪気に強盗や殺人をして回った日々の関係がよみがえるなどとは、いかに彼でも期待はできまい。
自分へのコートの尊敬や信頼が戻らないことは彼も知っている。彼自身、一度は自分を捨てて逃げた男、自分より神父に惹かれ神を選んだ男などを許すつもりはさらさらない。
コートの心の底にひそむ闘争本能、ガンマンとしての本性をさらけ出させたら、へロッドの目的は、その絶望の中で彼を殺すことである。それが自分を裏切った相手への彼の罰だ。

エレンと彼を戦わせ(愛する者どうしを殺し合わさせるのはさぞ楽しかったろう)、コートの怒りを燃え上がらせ自分を憎ませたことで、彼を神からひきはなすのに成功したと思ったへロッドは、コートへの復讐、自分を裏切った弟子への処罰の最後の仕上げにとりかかる。
ここで彼は、一見奇妙な行動をとる。決闘の前夜にコートを痛めつけ利き腕を使えなくした部下に怒って彼を殺し、公平な決闘のために自分も左手で戦おうと殊勝に宣言する。実際に「昔からおまえと戦いたかった。この時を待っていた」と最高のライバルと対決できる喜びを陶然として彼は語り(小説ではここでへロッドは「まるで、一種の恋愛みたいなものだな」と明確に発言している)、偉大な拳銃使いどうしの対決を行える幸福に酔っているかに見える。そのくせ、コートと背をむけて決闘のために歩く出したとたんに彼はかたわらの部下に命じる。「もし俺が撃ち損じたら、すぐにあいつを殺せ」と。

これがへロッドである。とことん非道で卑劣で横暴な専制君主や暴君になってのける潔ささえ彼にはない。いや、専制君主や暴君と言われる人間のほとんどが、そんな度胸や簡潔さや合理性は持たないのだろう。
彼らはたいがい、うんざりするほどロマンティックで感傷的だ。ルールを守って戦う勇気も持たないが、ルールを破って無視する勇気もまた持てない。自分の好む、自分だけに通用するルールを作って、それに皆をつき合わせる。自分だけしか絶対に勝てないルールを作った上で、正々堂々と戦って勝利したかのような幻想に自分で酔って満足する。茶番劇、猿芝居。質の悪い権力者ほどが、往々にしてそれを好む。

9.ルールを変更

「クイック&デッド」という映画の大半は、小さな町での拳銃の腕をきそうトーナメント競技という枠組みの中で話が展開する。この映画そのものが、まるでテレビのスポーツ中継番組のパロディのようにも見えて、安っぽい変な映画という印象は幾分そこからも来るのだろう。
不死身のインディアン、スマートな黒人のプロの殺し屋、気どったスウェーデン人のガンマン、贅を尽くした衣装の伊達男、悪臭を放つ囚人、などという、どこまでまじめかわからないような誇張された多彩な競技参加者の的確な描写と演技を、彼らがあやつるさまざまな銃の美しさ(ガンマニアにはおそらく垂涎の品ばかりなのだろう)とともに私は大いに楽しんだし、乱雑なように見えてまったく無駄のない彼らの役割の使い方にも快感を感じた。この競技自体が、へロッドがエレンに説明する「自分に逆らう者をこうやって排除する目的で行っている」という理屈できちんと理由づけされているのも、何だか律儀で妙に笑えた。

だがこうやって考えていると、またしても私の深読みしすぎだと笑わば笑え、言わば言え、この一見安っぽい、思いつきっぽい構成そのものに、作者や監督のこめた寓意があるように思えてならない。
へロッドが支配する以前の幸福でのんきな時代には、「7月4日にスイカの早食い競争やなんかをしていた」(小説による)平和なこの町の風景は映画ではエレンの追憶のセピア色の画面に、笑いさざめきながら乳母車を押して通りを往き来する町の人たちの姿として、ほんの一瞬しか登場しない。そんな時代の罪のない競技が行われた町の広場は、今やへロッドの敵をゲームの名の下になかば合法的に葬る処刑の舞台と化している。
へロッドが昔ならず者だった時代のように、敵対する者を否応なしに殺した時代が変化して、彼はエレンの父を闇雲に処刑したようなやり方ではなく、法の枠内でルールを守って敵を葬るようになっている。それは、彼の力が弱まったからではない。むしろ定着し安定したから、正当な権力者としての格式と手続きを具える余裕ができたのである。

だから競技はあくまでも、権力者であるへロッドの意向に沿うかたちで行われる。彼にとって都合の悪い好ましくないルールは「不思議の国のアリス」が見た悪夢の中のゲームと同様、随時に変わる。
当初、この早撃ち競技では、「撃ち合った後、立っている者が勝者」だった。だから、キッドに撃たれたスウェーデンのガンマンも、コートに撃たれた子持ちのへロッドの部下(フラッティ・ノーズ)も、エレンに撃たれたドッグ・ケリーも皆命は落とさなかった。
へロッドの圧政にあえぐ町の人々がひそかに雇ったプロの殺し屋、黒人のキャントレル軍曹をへロッドが殺したいと思った時、彼は「勝者は生き残った者だ」とあっさりルールを変更する。これに異を唱える者はない。ただ一人、鎖につながれたままのコートが囚人らしからぬ落ち着きと磊落なまでの気楽さで「何だおい(とは言ってないが、そんな感じで)へロッド、ルールを変えるのか?」と呼びかける。

思えばこれは異常である。コートはそんな立場にはない。だがコートは別に覚悟も必死な様子もしておらず、当然のように声をかけ、またへロッドも他の誰も、それをとがめもせず不思議にも思っていない。キャントレルが「けっこうだ」と認めたこともあって、そのまま事態は進行し、ルールは変更されキャントレルはあえなく死ぬが、コートも特にとがめられずにそのままになる。
このため、見ていると、それまでなぐられけられ、さんざんな目にあわされていたコートの立場が何だか嘘だったように見え、へロッドとコートは実は愛し合ってなれあっているんじゃないかという印象さえもちらと生まれる。それもまったくのまちがいではないだろうし(調子に乗ってコートを変に虐待するとへロッドにいきなり殺される危険もあることを、賢い部下なら察しているだろう)、このことでコートという人間の性格が少しもぼやけたり不可解なものになったりしないのは、主としてラッセルの演技の的確さによるのだろうが、ここで示されているのは、この映画の中の世界で、ルールを作る権力を握るのはへロッド以外にはコートしかいないということだ。それをするだけの意志と力を持つ可能性のある人間は。

それを象徴するのが最後の場面だ。へロッドとコートの撃ち合いの直前、町の人たちの協力も得て、エレンとコートがしかけていたダイナマイトがあちこちで爆発し、硝煙の中に現れた、死んだと思われていたエレンとへロッドは決闘することになる。
エレンをねらうへロッドの部下たちをコートは瞬時に早撃ちで倒し、声をかける。「へロッド、ルールは変更だ。フェアにやるんだ」と。コートは早撃ちでへロッドに勝つのではない。彼のルールを変更し、彼のルールにのっとって行われる競技への参加を拒否することが彼にはできるのだ。

10.安らかな結末

前に、私を自分のライバルや目標と一方的に決めて挑戦してくる相手が、うっとうしいと私は言ったが、それはそもそも、これまで勝とうが負けようが自分の戦ってきた戦いやゲームに、公正で公平なものなんかひとつもなかったと心のどこかで私が痛感しているからだろうと思う。いろんな局面で職だとか地位だとか金だとか、具体的に欲しいものがあっていつも私は戦って獲得したりしそこなったりしたが、それはただそれだけのこと、それで自分と相手の実力の差が明らかになったなどと、勝っても負けても実感したことはない。人の持つ力も状況も瞬時に変化し、しつづける。その時々の結果はあっても、それは永遠でも絶対でもない。

それでも、その瞬間瞬間が実力だといい勝敗というなら、それもわからぬではない。だが私がしんからうんざりさせられたのは、さまざまな表に出ないハンディを背負って努力している私に、そんなハンディのことは明らかに何も知らず想像もできず、互いの実力全開で戦える場があるかのように思いこんで挑戦してくるバカ(と書くがもう)がしばしばいることだった。たとえば私が実は某国のスパイで、カムフラージュのための洗濯屋をしていたら(何のドラマを見ていたかみえみえだなあ)、いきなり新進気鋭の洗濯屋が洗濯コンテストで勝負しようと申し込んでくるようなもので、自分に後ろ暗いことや二重生活やその他もろもろの何もなくって太陽の下であけっぴろげにしている努力がすべてという人間は、他の皆も自分が全力投球していることに全力投球しているものと信じて疑わないらしい。こんな書き方で私がはっきりそういう人をバカにしていると思われたならそれでもいいが、そんなことより何よりも、とにかく迷惑なのである。こっちが全力かけてもいない、そんな必要もないか、できないかしていることに、生きがいだかアイデンティティだかをかけて全力で挑んでくる相手なんていうのは、ほんとに、ただ。

人と比べて勝負して勝った負けたと確認しなきゃ幸せつかめないやつなんか、ほんとにどっかに行ってほしいとしみじみ思うが、こういうやつはまた臆病で、最強の相手といよいよの真剣勝負は実はする勇気がなく、私程度の勝てそうなやつにしか勝負を挑まず、かつまた悪質なのになるとそれでも用心して、絶対自分が勝つような条件を確保してから、かませ犬として私をひっぱり出そうとする。何かそんなのを一二匹ばりばりかみ砕いた骨のかけらが、まだ歯の間にはさまっているような気もしないではないが、それはほんの冗談として、とにかくそういう体験の一度ならずある私にとって、「自分が勝つルールを万全にしき、条件を整えた上で挑戦してくる権力者」という設定は、もう頼むからそんなに私の急所をつかないでえぐらないでと言いたいぐらい、目のくらむなんてものではなく激昂させられる。

映画「グラディエーター」の悪役コモドゥスはそういう人間の典型だった。
そして、そんな彼につきまとわれた主人公のマキシマスに私は我ながらあきれるほどに深く同情共感し支持し愛したのだが、それだけに、最後の最後にはあれだけ理不尽な不利な条件を与えられながら、結局のところ彼と戦って彼を殺してやったマキシマスの優しさというのが許せない気がして、時々、彼のそういうところが、ほのかに、かすかに、嫌いである。
それは、再度くり返すが、西部劇などで耐えに耐えていた主人公が最後の最後に戦ってしまって悪を倒すことに、単純で純粋な勝利感や達成感を感じられない心情と、どこかでつながっているだろう。

「クイック&デッド」という一風変わった西部劇は、一見主役のエレンの成長にせよ、多分こちらが実は中心のコートとへロッドの確執にせよ、「暴力で人を殺す」ことに徹底的にこだわった。普通の西部劇なら、最後に主役が悪を倒す時に観客をスカッとさせるための、「撓め」の演技で手法でしかないものを、この作品は中心のテーマとして追求しつづけてしまっている。そして最後に一見主役のエレンが「人を殺す」ためらいを克服してへロッドと渡り合い倒すことで、従来の西部劇の伝統に忠実なようでありながら、その実かくれ主役のコートが、へロッドから迫られた「殺し合い」…神の名において神父の義務として拒絶しつづけてきたそれを、見事に拒絶しとおしてしまったという点で、これまでの西部劇と大きく一線を画している。

同人誌系もそうでないサイトも、しばしば一様に指摘するように、コートという存在はこの映画の中で、へロッドに徹底的になぶられ刺激されている。「戦いたい」「殺したい」という人間の本能を刺激されつづけ、「生きたい」「守りたい」という根源的な欲望とからめて、それを認めさせられることで精神的に生きて守ろうとするものを捨てさせられ、犯され、凌辱されつづける。その痛ましさと哀しさをポルノ映画もSM映画も顔負けのみだらさと色っぽささえとりまぜて、ラッセルとハックマンという二大名優は演じきってくれている。

だが、この映画が本当に偉大なのは、そうやってそこまで辱められながら、コートという存在が決して誇りも気力も失わず、最終的にはへロッドと戦わなかったことである。
その過程でコートが、ただの一度もへロッドに対して、敗者が勝者に、被征服者が圧制者に、レイプされた者がレイプした者に対して、つい抱いてしまいがちな、愛情も尊敬も、かけらも持とうとしなかったことである。

これもまた、複数の人がすでに指摘しているし誰の目にも明白なのは、コートはへロッドに対して、いつも徹底的に冷たいだけでなく、最後の段階では残酷なまでに彼を裏切りもてあそび返している。
強いられた決闘でエレンを殺した(と見せかけた芝居をした)後、激怒してへロッドに躍りかかるコートの姿にもう神に仕える敬虔な神父の面影はまったくない。そうやってへロッドの望むままに改造洗脳され終わったと見せて、へロッドとの決闘を約した時、彼はうっとりとへロッドにほほえみかける。それはへロッドの側から見れば、自分の世界に戻ってきた者の微笑であり、犯されつくして屈服した者が征服者に向ける微笑である。怒って自分を殺す決意をしていることは、すでにコートがへロッドの思うとおりになっているということなのだから。
この時のへロッドは、どんなに幸福だったろう。
それを見ているコートもまた、どんなに幸福だったろう。
なぜなら彼は知っている。自分が屈服などしていないこと、へロッドと戦う気などないことを。改造も洗脳もされてなどいないことを。このほほえみがどれだけへロッドを喜ばせ、そのことがどれだけ彼を残酷に裏切り、滑稽に哀れに見せるものであるかを。
虐げられた者だけに許される、虐げた者への厳しさと残酷さ。それをあのなまめかしい笑顔で正確に見せたラッセルの演技は、ピンポイント爆撃なみの精密さと破壊力を持っている。

これもすでに、どこかで指摘されていたと思うが、最後の決闘の直前にへロッドが例の「この日を夢見ていた」と有頂天のせりふで、ほとんど恋の告白をした時、コートもかすかに笑い返す。
へロッドから見れば確実に、相手が自分の世界に戻り、銃で戦うというかたちでの愛の交換に応じる喜びを共有してくれたとしか思えない共犯者の甘美な微笑。
この瞬間もへロッドは勝利と幸福に天にものぼる心境だったろう。だからこそ、そこまでつかんだコートを葬り去ることに、ためらいも不安も感じなかったろう。
キッドとの関係でもそうだが、彼のような人間にとって、自分のものとなった相手、自分を愛してくれる相手、自分につくしてくれる相手は、その価値を失う。自分を愛していないし大切にしていないし自信も持てない人間は、そんな自分を大切にして愛して認めてくれる人間を、心のどこかでさげすむのだ。
彼がコートに執着し惹かれつづけたのも、彼が自分の手に入らない存在だったことが、それに一段と拍車をかけていたのだろう。今や、その桎梏もとりはらわれた。コートが彼にほほえみかけた瞬間に、やや大げさに言うならば、彼の心の中の卑小でくだらぬ世界ではあれ、彼は世界を支配したのだ。やすらかに、みちたりて。

だが、コートのこの微笑こそは、自分がへロッドと戦わないことを決意し、それが成功することを確信している微笑であり、へロッドの自分への愛(と呼べるなら)を完膚無きまで徹底的に踏みにじってコケにしているほほえみなのだ。
おそらく、その微笑の効果も、それがへロッドにもたらすものさえもコートは知り抜いている。そのことに良心のとがめも彼はまったく感じてはいまい。
それほどに彼はへロッドを、自分に神父を殺させた、神に仕える生き方を捨てさせた相手を許してはいない。

そして彼は、計画を遂行する。自らは戦わず、エレンと彼をフェアに戦わせる。エレンが敗北した場合に彼がどうしたかはわからない。それはまた次の物語、別に語られるべき物語だ。この映画では、そんな予測をする必要はない。
この映画でのエレンという人物の存在は、このためにあった。へロッドが戦わせようとした者を戦わせないために。暴力否定をめざしながら最後には暴力によって相手を倒してしまうしかない西部劇の定式を破壊するために。
コートがエレンを身代わりにした、盾にして逃げた、という考え方はあたらない。エレンはへロッドと戦うことを望み、戦うことで自分の人生をとりもどすことのできる人間だった。一方で へロッドは彼女を愛しても憎んでも戦いたいと思ってもいなかった。そんな望まない、とるにたらない相手によって、この世から葬り去られることこそが、へロッドのような人間にはふさわしい最後なのだ。エレンの生きる力にでもなることぐらいしか、彼の命には奪われる価値さえもない。

どんな西部劇も(もしかしたら、ほとんどの冒険談が)成功しなかった、「憎い敵の憎悪に負けて、あるいはその他さまざまな理由で、結局は銃をとって相手を殺すことで、相手と深く関わってしまう正義の味方の主人公」を作らず、「自分との殺し合いを求め続けて、自分との共犯者めいた深い関係になることを強要しつづける敵」を拒絶しぬいて自己を守った人物を描き出すことを、「クイック&デッド」という映画が完成させられたのは、この設定の主軸をになうコートという人物に、どれだけの命を吹き込めるか魅力を持たせられるかにかかっていた。ラッセルがそれをどれだけ完璧にやりとげたかは、もうくりかえさない。あらためて、ただ、もう一度映画を見てほしい。最初の聖職者としての素朴な表情から次第に冷酷な拳銃使いの面差しに変化してゆく段階の変化、ありえない立場の奇妙さ複雑さを自然に納得させてしまうあらゆる場でのたたずまい。それがあまりに自然なものだから、特にうまいとさえ見えず注目されそこないがちなのは、今も昔も変わらないが、見れば見るほど、こんなとんでもない設定の人物をこれだけ豊かに肉づけした、彼の演技に驚かされる。

そして、私自身の感想など、もはやどうでもいい気がするが、へロッドという存在に対して、あれほど厳しく拒絶しつづけ冷たく無視しつづけ残酷に裏切りつくしたコートという人の、しかもそれがまったく異常でも狂気でもない、清潔で健康な精神に、私は深く安らぐのだ。

11.強い女の条件とは

前半があまりに長くなってしまったので、後半はあっさり終わらせたいのだが、そううまく行くものだろうか(笑)。

ともあれ、この映画が私をひきつける、もうひとつの魅力、「女性尊重」(もうちょっといい言葉がないかなとも思うのだが、とりあえず)について考えてみよう。

私がこの映画を見ていて、常に快いのは、ヒロインというかヒーローというか主人公の女ガンマン、エレンの造型である。だから、おおかたのラッセルファンとはちがって、この映画はいつもきちんと最初から見るし(笑)、それは少しも苦痛ではない。
彼女は確かに男勝りで強い女なのだが、強い女にもいろいろあって、いくつかの点で彼女には私が共感できるところが多い。

まず、前半でも述べたが、彼女の唯一の弱点は「人を殺すのに平気でない」ということである。
これについては原作でもへロッドとの会話で「的を狙えばはずしやしないわ。ただ、人間を的にして練習してないだけよ」という発言はあるが、へロッドを殺せない原因を直接にそれとはしていない原作に比べて、小説ではこの点をずっと強調し、彼女が克服しなければならない課題として設定している。あえて言うなら、それを克服してへロッドに向かう時、彼女はもはやそれまでの彼女とちがっており、もしかしたら人間としての何かを失っているかもしれず、「シェーン」同様、町から出て行った後死ぬのかもしれない(原作ではこのラストではなく、彼女は町にとどまる)とさえ、映画は暗示しているようである。
「人を殺す」こと、「憎しみや恨みを殺人で精算する」ことに対する、この映画の執拗なこだわり方、神経質さがそこにはあるが、いずれにしても、彼女が持つこの弱さは、私自身が自分の中に何か弱さを残すなら、これを最後まで残しておきたいと思う弱さであり、彼女の女らしさ、人間らしさ、かわいらしさ、弱さ、もろさ、何でもいいが、そういった魅力を表現するために、他でなく、この弱点を選んだところが、まず趣味にあう。

また、強い女でも、男との性の関係においてはうぶでかわいくとまどったり、変に恥じらったり、唐突にくにゃくにゃ女らしくなったりすることが多い。そうでなければ、女の性を売り物にし武器にして、それで男を征服してひいひい喜ばせてにんまりするというような「強さ」を発揮してみせる場合が多い。
この映画のエレンはそのどちらでもないのが私には奇跡的に思える。
彼女はキッドとまったく対等にベッドをともにし、翌朝も寝る前と態度をまったく変えないという、等身大の平常心の性を楽しむし、ラストに近くコートには攻撃的に迫ってほとんど彼をレイプする。とはいうものの、それは従来のラブシーンで男性が女性に迫ってレイプまがいに愛を成就させてきたのと比べれば、まったく問題になるほどのことでもない。そして、その時も彼女は妖艶な色仕掛けなどは微塵も見せず、堂々と全身で「欲しい」「寝たい」と彼に表現し要求する。このシーンについてはまた後で述べるが、この時の彼女は戦う若い兵士のように、いちずで清爽だ。
へロッドとの夕食の場面を見ても、相手を殺そうという計画があって、それは彼女の一番苦手なことだから緊張しているということもあるにせよ、謎の女にふさわしい神秘性や妖艶さはそれほど感じられない。それは彼女の演技力のなさと言う人もいるかもしれないが、そうではなくて、彼女は背伸びはして見せていても、育ちがよく清潔でまともな人で、男を手玉にとるような妖婦の素質は持ち合わせていないのだ。そういう人物として演じられている。
これも私には共感できたし、快かった。エレンは性に未熟な弱者ではない。だが性を利用する(しなければならない)弱者でもない。

そのことは、この映画が過度にどころかまったくといっていいほど、売春婦を登場させない姿勢にも見てとれるだろう。リデンプションはへロッドの支配後はすさんで享楽的になった町であり、その象徴として売春宿もある。たいていの映画なら、ここぞとばかりに売春婦を主な人物の一人として登場させるだろう。だが、この映画はかたくななまでに彼女らを背景や雰囲気を出す小道具としてしか使わない。
それが、どれだけ意図的かは、原作との比較からもわかる。原作では、先に言ったようにキッドの母であるへロッドの妻は売春婦だった(あるいは売春宿に売られてそこで死んだ)。またキッドの恋人のマティーも売春婦の一人であり、キッドは彼女をそこから救い出したいと、コートに頼んで結婚式をあげてもらうという場面さえある。エレンにあこがれてつきまとう宿屋の娘のケイティーも、かなり愚かで淫らな感じで、いずれは売春婦になることが予測できそうな娘である。
映画はこれらの設定を徹底して変更している。私が漠然と考えたようにキッドの母は貞淑な良家の婦人ととらえても不自然ではなくなっているし、マティーも売春婦というよりは普通の家の娘で、キッドと無邪気に恋愛を楽しんでいるように見える。ケイティーも利発で愛らしく、あこがれのエレンのようにはならないまでも、そこそこまっとうな人生を生きることが可能な未来がありそうに思える。
映画はこれらの人物から売春婦の影を消し、多くの文学や芸術がともすれば性を売る娼婦を女性の代表のように登場させてきたのと対照的に、それ以外の女性たちの姿を描く。特に、へロッドに密かに抵抗して町を改革しようとし、殺し屋のキャントレルを雇う町民たちのグループの中に原作には登場しない(ただ「九人から十人ぐらいの町の住人」としか説明はない)老婆と、しっかり者らしい若い娘を加えていることを見落としてはならない。売春婦ではない普通の家の老婆や娘がきちんと生きて、町の政治に関わっている。そのことを明確にこの映画は示している。映画のラストで保安官になるコートとともに町の再建に携わるのは、これらの人々なのだろう。

「人を殺すことへのためらいが唯一の弱点」「性に未熟でもなければ、それを利用もしない」という、この二点に加えて、私がエレンを好むのは、彼女が「女性を愛している」ことである。同胞として、味方として。
男性の方は彼女はむしろ敵視する。コートとも初めは対立するし、盲目の少年でさえ対等にきちんと扱い、守るべき対象とはしない。それは彼女が男として生きているから、弱い女性を守り、男性とはライバルとして対決するということとも、少しちがうようである。

見ているとすぐにわかるが、エレンは女が性を売ること、男にとっての性の慰みものになることに激しい嫌悪をかくさない。ケイティーが金目の装飾品にひかれて中年男のユージーンになつくのを、周囲に無関係でいたがる彼女らしからぬ介入で批判し阻止しようとする。ついにユージーンがケイティーをレイプし、そのことを勝ち誇って酒場で皆に話した時、彼女は半狂乱になって彼になぐりかかり、怒りにまかせて彼を殺そうと雨の中で決闘する。
この場面も原作にあるが、彼女が狂って雨の中で敵を求めて咆哮するのは、その直前にコートの話を聞いた後で、ユージーンとは関係ない。映画がこのように変えたのは、エレンのこういう傾向を彼女の基本的な性格として強調しようとしたのだろう。

こうやって数え上げてくるとエレンには、シャロン・ストーン自身とも重なる、この映画公開の当時のアメリカの若々しいフェミニズムやジェンダーの思想が反映しているようである。彼女がコートやキッド、へロッドと比べてあいまいな面を持たず、すっぱりきっぱりしていて、リアルな感じがあまりないのは、その美しさもあるだろうが、馬琴の「八犬伝」の主人公たちのように、彼女がそういうある思想を完璧に体現しているからかもしれない。およそ不自然な設定の人物なのに、妙に安定して型どおりにも見えるのは、考え抜かれ整理しぬかれた理論と理想に基づいて彼女が動いているからだ。それは悪いことではない。現実にはまだ存在しない新しい生き方や思想は、そのように表現されるしかない時もあり、それもまた映画も含めた文学の役割だ。
エレンのケイティーに見せる優しさといらだちは、彼女に体現される未来への、フェミニズムの女性たちの強い期待と不安なのかもしれない。

シャロン・ストーンは美しさでは誰もが認める女優だが、演技についてはどの程度評価されているのか知らない。だが、このような一つの理想、理論や思想を具体的な目に見える姿として鮮やかに表現するという点では、彼女は完璧な演技をしている。明確に、正確に、まっすぐに、細心に、手抜きなく。おそらく彼女は、このエレンという人物を充分に理解し、それに同化している。彼女の演技が単純で単調に見えたとしたら、それはこの役がそういう役だからだ。型どおりで意外性がなく、そのことで見ている者を満足させ安心させる役柄だからだ。

12.キッドとは何なのか

ところで、女性以外にもエレンが激情をあらわにするもう一つの対象があって、それは、後半の父との決闘から死にいたる前後のキッドに対してである。そして、まるで彼の死に後押しされ、その復讐を決意したかのように、コートと組んでへロッドを滅ぼす最後の計画を思いつく。
フェミニズムの化身として寸分はずれない生き方をつらぬいてきた彼女が、ここでなぜそれほどに、男性であり人殺しでもあったキッドの運命にそこまで心をゆさぶられたのだろう。最初に一度寝た時も、その後町を出ようとしてキッドから愛を告白された時も、彼女はキッドを恋する対象として見ていた様子はなく、それほどに大きな存在であったようには思えない。
キッドの父との不幸な関わり方が、父を失った自分とどこかで重なったのか。あるいは、この映画にフェミニズム的な思想性が強いとすれば、キッドとは「父親という男性論理に認められようと人殺しにはまっていく若者たちの悲劇」として見過ごせない存在ということになるのか。
だがそれもどこか、しっくり来ない。

そもそもキッドが拳銃使いや人殺しにはまっていったのを、へロッドに愛されなかったせいにしていいものだろうか。
あれは、父とは関係なく、やっぱり本人の天性で素質だったのではあるまいか。
どうも、そのへんがわからないのである。

コートが父に愛されるのを見ているから、銃がうまければ愛されると思いこんでその道に励んだのだろうと何となく思っている人も多いだろうが、そういう人たちでさえも、その一方で何となく、あのキッドにそんな屈折があるか、彼がどこか鉄道線路の脇の空き地かどっかで、「この空き缶を狙って飛ばせたら、僕はコートになれる!父ちゃんに愛せる!」って、歯をくいしばって涙をぬぐって銃の練習をしている姿って想像できるか、あの脳天気で楽しげな「僕天才!僕銃好き!僕人殺し好き!」はそれじゃカムフラージュで、あの輝くような笑顔の下には、一人になったら暗くひきつって「僕は愛されてない…」とつぶやいているもう一人の彼がいるってか、まさか、どう考えてもあれって地だろ、だいたいそうでなきゃ魅力ないじゃん、とか漠然と感じてもいるのではないだろうか。

そのへんの重要な手がかりとなるのが、例のキッドの店でへロッドがコートに決闘のための銃を買ってやるあの場面だと思うのに、何でなのかどうしてかここでのコートとキッドの感情は今ひとつ見ていて伝わらない。
この場面は、設定だけでいうならばこの映画中の白眉ともいうべきで、エレンに父親を撃たせ、コートに神父を殺させたへロッドの偏執狂的な天才サディストぶりが最高に発揮された場面である。
何しろ銃が好きで自慢で、父に愛されたくて認められたい一心でひりひりしているキッドの店に、へロッドに愛されるのも関心を持たれるのも身の毛がよだつほどいやだと思っていて、銃なんか死んでも撃たないと固く決意しているコートを連れ込んで、こいつの撃つ銃を見つくろってやれと息子に命じ、その悪趣味きわまれりのお買い物の合間には、キッドの手をカウンターの上に広げさせて、この手はしょせん農夫の手で、おれやコートのような拳銃使いの手ではないとご託宣をたまわるのだ。もちろんコートも聞いている。
いろんな意味であらゆる意味で正気の沙汰とは思えない。私がキッドかコートならその場にいたたまれずに逃げ出すか、相手と目配せしてさっさとヘロッドを射殺する。それほどこの場面はやりきれない、究極の趣味の悪さに満ちている。ヘロッドのね。監督のじゃありませんよ。

それなのに、コートとキッドを演じるラッセルとディカプリオが、どちらも手の内を見せないような、はっきりしない演技をしている。パパラッチ嫌いで俳優のゴシップ嫌いの私が思わず、「ギルバート・グレイプ」で若手の名優として注目されてるディカプリオと、オーストラリアの各演技賞を総なめにしてハリウッドに乗り込んだラッセルとが、強烈に互いを意識した結果なのじゃないかと忖度したくなる。若いとはいえ名優どうし、相手の演技のうまさは一目瞭然だっただろうし。
根っからの拳銃おたくのコートはここであっさりヘロッドの誘惑に負け、銃の魅力に目を輝かせてしまうのだが、それに気づかないのか気づいて恥じてるのかやけになってるのかとぼけてるのか判然としない。そこはまあ目をつむるとして、自分がそういう風であることをヘロッドはともかくキッドの目の前にさらしたことを、どう思ったかが感じとれない(って私もつくづく卑猥なことを言っているよなあ神さま)。
それはキッドの方も同じで、コートに銃を出したり見せたりしながら、あの悪魔のような芸達者がその名もレオナルド・ディカプリオがコートに対して何を感じて考えてるのかまるでわからない。
これを思えばなあ、年とったとはいえ、アウレリウスの前でコモドゥスと会う時のマキシマスを演じたラッセルと、その時のコモドゥスのあの若さであの演技はいやもう二人の心の中が、吹き出しのネームで雪の舞う中に浮かび上がっているかのようにはっきりとわかったではないか。

まあきっと、あの店の中は人外魔境だったんだから、コートもキッドも普通じゃなかったんだろうと言ってしまいたいところだが、実はこの二人、店の外でもどこででも、ほんとに互いを意識してない。かと言って、あえて無視してる風でもない。
コートとキッドの関係については前に言ったように、原作ではもっといろいろ、からみがある。コートは悔い改めるように何度もキッドに説教し、キッドは笑って冗談を言って相手にしない。その場合でもキッドはコートに嫉妬や悪意を抱いている風はまったくない。 映画がこんな二人の関わりをすっかり省いてしまったのは、そんな説教をしているコートが間違ってはいないのだがやっぱりあまりカッコよくなく、コートをもっとクールで醒めたカッコよいキャラクターにしたいという意図があったからだろう。あるいは、この映画のフェミニズム的思想的階層性を考えると、へロッドという悪に虐げられた被害者どうしは基本的に対決しない、させないという図式にしたかったのかもしれない。

その図式や意図を尊重するにしても、また原作の精神を尊重するにしても、どっちにしてもキッドはコートを嫌ったりそねんだりうらやんだりはしていない。以前の父の寵愛を失ったことをざまみろと思っているふしもない。
銃器店での二人の演技のそっけなさを正しい演技と信じるならば、コートとキッドは互いにほんとに無関心で、どっちかというと好意を抱いていたとさえ判断するべきなのだろう。キッドは性格がいいというか、そういう嫉妬とか何とかいうややこしい感情とは無縁で、それにコートがいくら父からかわいがられていても、しょせんは自分と身分も立場もちがうと思いこんでいて、のびのび見下してたのかもしれない。

13.認めてほしい

それならば、ラッセルとディカプリオのあの演技も納得がいく。キッドという若者の魅力もその方が自然で損なわれない。
そもそもキッドの全身にただようイメージは「天才肌」だ。モーツァルトだのランボーだのと共通する、努力などとは何の関係もない、生まれながらの素質を持った者の絶対の自信があふれてみなぎってきらきら輝いている。
だから、いじけたりひねくれたりは似合わない。事実彼はへロッドに否定され侮辱されてもまったく、そういう態度は見せてはいない。

では、へロッドがことあるごとに、彼を農夫の血をひくとか農夫の手だとかさげすんで、どんなに努力しても絶対おまえはガンマンにはなれないと宣告するあれはいったい何なのだろう。
第一、もう町であれほど確固とした名声を築いている拳銃使いに対して、「おまえは素質がない」なんていくら言っても、事実がそれを裏切っているではないか。
まあしかし、私の知ってる芸術家でも一流でありながら、尊敬する親だの師だのに決して認めてもらえないと半狂乱になって時には破滅していく人もいるから、やはり父の一言は世の中の評価を皆チャラにするってことはあるんだろうか。
それにしてもへロッドは、何のためにそんなことをするのだろう?結局彼は、息子にどうあってほしいというのか。

自分の地位をおびやかされるという恐れもあるのだろう。だが、競技の途中で「おまえの力はもうわかったから、ここで脱けろ」と彼がキッドに命じるのはどういう心理なのだろう。もしかしたら、彼はキッドをいつまでも生かして、未熟なままにして、自分の支配下におきたいのか。ある意味ではコート以上にとてもキッドが好きでさえあるのか。

もうすでに、この映画については妄想と思われそうなことを山ほど語ってきたから、今さらびびるのも変なのだが、それでもあまりの突飛な連想に口にするのをためらう。
私がへロッドに、才能も努力も認められず、「おまえは本質的におれたちのようにはなれない」と一方的に否定されつづけ、「ただ認めてほしい」と願う一心から彼と対決するキッドを見ていて、思い浮かべてしまうのは、「ボーイズ・ドント・クライ」のヒラリー・スワンクなのである。女の身体を持ちながら男になろうとしつづけて、「おまえはちがう」と否定されて殺された性同一障害の若者。

あまりにも途方もない連想なのに、どうしてもそれが思い出されてしまう。
もともと、この映画の中でディカプリオの演じるキッドは、弱さやはかなさを売り物にはしないエレンというヒロインの、華やかさや愛らしさの少なさを補充するために出されている美少年という、本来は女性が果たす役割もある。それも、そんな連想が働く原因なのだろうか。
そして、ディカプリオは完璧にその役目を果たしている。ほっそりとした少女のような肢体、甘やかな顔立ち。青春そのもののような、はじけるような活気、それと背中合わせのもろさ。あけっぱなしの無防備さ、無邪気さ。
常に死を意識し、他者の死と自分の運命を重ね合わさないではいられないエレンにひきかえ、彼は最後の最後まで自分の死を予測もしていない。そして、それと向かい合ったときにはなすすべもなく、子どものようにただおびえる。

彼は生きることを愛していた。町の人たちが彼をどう評価していたかは微妙だが、たくさんの人々に多分彼は愛されていたし、そんな自分に満足していた。
人を殺し、銀行を襲うことは彼にとって楽しい遊びで冒険だった。父の気に入られるために無理にそのような自分になっていったとは思えない。そんな屈折のない汚れのなさがキッドにはある。
父はそんな生き方が、彼には向いていないと言う。だがそれなら、父が彼に望むこととは何なのか。それはキッドには多分わからなかったろう。へロッドにもわかっていなかったのかもしれない。

へロッドのキッドへの対応はおおむね原作通りだが、それはつきつめればいろいろと矛盾している。彼はキッドが自分と共通するものを多く持っているのを知っている。だがそのことを決して認めようとはしない。また彼はキッドが自分とちがうところがあるのも感じている。だがそのことも彼は決して許さない。
「おまえは農夫の子だ」と言いつづけることで、彼はキッドに何を言おうとしているのだろう。本当にそうであるならば、農夫の子であり農夫の手をしていても、あれだけの拳銃の腕を持つことを驚嘆し賞賛すべきだろうに、へロッドの論理はそうではない。現にすぐれた実績をあげている拳銃使いに向かって、おまえのその力は本物ではないというのは、それが偽りの姿であり、無理をしているというのだろうか?おまえは農夫として畑を耕す方が幸福だとすすめているのだろうか?そうも思えない。それに少なくともその生き方はへロッドがさげすみふみにじる存在になることと等しい。

へロッドは本当のところ、キッドの何にいらだつのだろう?無邪気な気楽さで強盗をし人を殺すキッドを見ていて、そこに自分と同じ醜さを見せつけられる気がするのだろうか?自分と同じ世界に彼が染まっていくことに不快感があるのだろうか?
あるいはまた、キッドの初々しさ、どこか優しい繊細さを見る時、その中に彼は自分が殺した妻の面影を、信じきれなかった愛する者を見るのだろうか。それとも、自分が失ったか、あるいは密かに押し隠している自分の本質を見せられたような気がして動揺し恐れるのだろうか。

こんなにあれこれ分析しなくても、へロッドという人間のキッドに抱く気持ちを、本能的にか直感的にか、いろんな細かいところまでかなりよく理解できる人たちは、かなり多いような気がする。けれど私はそうではない。そして、へロッドのこのような気持ちの不可解さ、意味の通らなさをいらいらしながら考えていると、それがどこかでよく見た風景であることに気がつく。それは私が女性として男性の中で仕事をし、男性しかしなかった仕事や生き方をしようとした時に、しばしば出会う反応の不可解さ、理屈の通らなさによく似ている。
「女には無理だよ」と言われる。すでに仕事をし実績をあげていても、それは存在しないかのように目の前にあってもその事実を無視して、そういう人は発言する。「結局、男と女はちがうから」と突然口にして私には見えない何かを確認する。行き詰まっている時だけでなく、うまく行ってほっとしている時でも「もうそのへんでやめたら」「無理はしない方が」と勧める。

そこには憎しみも嫉妬もある。けれど同時に愛情もある。そして男性である自分への嫌悪もある。「こんな世界に来てほしくない。幸せでいてほしい」というメッセージもある。そのくせ、自分の世界に入れない者は軽蔑し無視し、そしてどこかで嫉妬している。
男女差別や人権の問題に関わるたびに、自分の肌で骨身でそれを認識するたびに、「結局は法律だ、制度だ」と痛感する一方で、「結局は感情だ」とも何度も思い知らされた。それも、整理されていない、屈折した感情の。

ハックマン演じるへロッドの表情はキッドに対する時は、いつもどこか虚勢をはっているようにも見えるし、いつもどこかあいまいだ。「息子と決闘するの?」とエレンに詰め寄られた時も、キッドを殺したあとも、へロッドは苦悩ともとれる重い表情で、どこか弱気にさえみえる。こんなことにまでなるとは予測してなかったようにも見える。

そんな彼に、あの残酷な(コートが彼と決闘せず彼をだますという意味での)計画を決意するのはエレンもコートもひどいな、弱ってる相手を鞭打つようなものじゃん、とちょっとだけ思ったこともある。だが、もしかしたらへロッドのそのどこか途方にくれて行き詰まった表情を見たからこそ、人を殺すことにあれほど逡巡し抵抗したエレンは、彼を殺す決意ができたのかもしれない。この男はもはや自分では事態を収束できなくなっており、後は狂気と破滅しかなく(それも他人をまきこんでの)、彼自身おそらくはもう心のどこかで殺されることを望んでいると実感したからこそ、エレンはその決意ができたのではないか。
私はかつて「グラディエーター」のファンフィクションを書いた時、マキシマスがコモドゥスを殺す覚悟をするのは、その方が彼にとって幸せだからと確信したからで、そうでなければ殺せないだろうと考えた。ただそれは自分の創作においてであって、映画の彼が必ずしもそうだったとは思わない。しかし「クイック&デッド」という映画のエレンという人物の場合には、そうである可能性がかなり高いと思う。かつて私が、男性社会と言われるものが男性たちをさえも決して幸福にはしていないとわかった時、それと戦う勇気がようやく生まれたように。

考えすぎだろうか。ここまでフェミニズム的視点とこの映画を重ねるのは。だが、エレンがそれほど恋していたのでもなかったキッドの死に、あれだけ深い衝撃を受け、へロッドと戦う決意を定めたのは、結局は息子としても一人の男としても自分の存在を認められない若者と、それを認めない者の心の弱さと理不尽さが生む悲劇をまのあたりにし、救いようのない未来を予測したからではなかったか。そういう点では、女も男も性同一障害者も関係ない。性にも出自にも国籍にも関係なく、他人を苦しめる人間はいる。そうさせる心の弱さがあり、それを許す社会のしくみがある。そういう意味では私はフェミニズムが男性社会とか男性優位とか呼ぶものが男性を利するものとさえ思ってはいない。

14.消された場面

エレンがへロッドを殺す決意をするまでの場面の中で、最初にはあったのに、北米公開ではカットされていたのは、彼女がコートと売春宿で激しく愛し合う場面である。
人を殺したショックから町をいったん出たエレンは、父の墓を探しに行った(実際にはへロッドたちが父の死体を川に沈めたため、ここにその墓はなかった)郊外の墓地で、父の友人の老医師に会い、町の人たちのために彼女自身のためにへロッドを倒すよう勧められる。彼女はその後、町にとって返し、売春宿に連れていかれて売春婦と性交させられようとしていたコートを救い出し、そのまま強引にコートに迫って愛し合う。
この場面は原作にある。映画よりもむしろ詳しいし描写が露骨だ。少し長いが、そのまま引用する。

バタン!大きな音を立てて色ガラスのはまった扉が勢いよく開くと、女は中に入った。かつて、その部屋はホテルの玄関ホールとして使われていたこともよくあったが、今では派手な紫の壁紙を貼った壁に四方を囲まれていた。室内にはひどい悪臭が立ちこめていた。こぼれた酒や、猫の糞、強烈な体臭に振りかけられる安物の香水などが、渾然一体となって漂っている。
見回すと、キッドの膝の上でじゃれるマティー・シルクが目に入った。ぶ厚く塗り立てた顔に濃く口紅とマスカラを引いた売春婦たちが、ふくらんだサテンのスカートで貧弱な腰を隠し、フリルとリボンのついたブラウスであばら骨の浮いた胸をごまかしながら、貧相なガンマンに媚びを売っていた。
「彼はどこ?」ほろ酔いかげんでマティーの胸に顔を埋めたキッドに、女が厳しい声をかけた。
「あんた、ここに来ても無駄よ」彼の代わりにマティーが答えた。「新顔は雇わないの」
「そんな用じゃないの。私の男がここに来てるはずだわ」
「あの神父さんだよ」体を起こしたキッドがマティーに言った。「コートとかいうやつさ」
「みんな、上の部屋で騒いでるわよ」マティーが答えた。「見せ物を始めるって言ってたけど」
それを聞くなり、女は階段を駆け上がった。蹴とばして入った部屋では、灰色の髭をはやした全裸の男が、両肩に二本の太った足をかかえていた。女は隣のドアも同じように開けてみたが、同じような見苦しい光景を目にして、三番目の部屋に移った。
ラッツィーとディック・オトゥール、シンプ・ディクソン、そしてほぼ全身に包帯を巻いたドッグ・ケリーが、きしんだ音を立てるベッドの上で手錠をかけたままのコートを押さえつけていた。投げ出された彼の足は左右に開かれ、その中央にぱさついた金髪を逆立てた裸の女がひざまづき、じたばたともがき続ける彼のズボンのボタンをはずそうとしているところであった。
「やめなさい!」女は銃を抜いて叫んだ。一斉に凍りついた男たちを尻目に「出てけ!この男はいただくわ」とうむを言わせない、強い口調で続けた。彼女は前に進むと、銃口をラッツィーの右目に押し当てながら「出て行け」と低い声で繰り返した。
ラッツィーは震え上がった。「わ、わかった。でも、こいつを逃がさないでくれよ」
彼女は返事をせず、ゆっくりと撃鉄を下げて「一、二……」と数え始めた。
黄色い髪の女だけが散乱した自分の衣類をかき集め、飛び出して行った。
「おまえたち!」女は吠えるような大声を上げた。「とっとと出て行くのよ!」今の彼女には、男たちの動きは許せないほど緩慢に見えた。最後尾でもたついていたドッグ・ケリーに近づくと、彼女はいきなり重いコルトの銃身で彼を殴った。「わかった、わかったよ……」ラッツィーは口の中でもぐもぐとつぶやくと、他の男たちとともに気を失ったドッグ・ケリーを引きずって部屋を出て行った。
女はドアを閉めて鍵をかけ、ノブの下に椅子を立てかけた。それから銃をしまい、ベッドに横たわったコートを眺めた。コートも彼女を見つめていた。ふたりはしばらくそうやって見つめあった。
「気は確かか?」コートが先に口を開いた。
「当たりまえよ」女は返事をしながら、シャツを脱ぎ捨ててベッドににじり寄った。
彼女はコートをマットレスに押しつけると、手錠のかかった両手を持ち上げてベッドの端にひっかけ、動けないようにしてからズボンを脱がしにかかった。
「明日は、ふたりとも死ぬかもしれないから」女はそう言ってコートの体の上にのしかかり、あらがう彼を押さえつけて強引に口づけをした。彼女の濡れた髪がコートの額の上をすべり落ちていった。もはや、彼はされるがままになり、顔をこわばらせながら背をまるめて下半身をずらした。
「約束して」女は体を持ち上げながら、言った。「へロッドは私に残しておくって、約束して」
「だめだ!」コートが苦しそうにあえぎながら答えたとき、彼女が勢いよく体を沈めて、ふたりの体が合わさった。それは激情のぶつかり合いであり、汗まみれの二匹の獣の死闘のようでもあった。やがて、獣たちが小さな死を迎えると、その闘いは突然やんだ。
女はすすり泣いていた。「お願い、約束して」彼女はコートの頬に顔を押し当てて、つぶやいた。

この場面がある映画を見た人ならわかるように、映画では、この部分はこれよりずっとあっさりしている。コートがいたぶられている場面もこれほどはっきりしていないし、二人の愛し合うのも壁際のキスシーンが中心のごく短い時間にすぎない。ただ、小説としても当時これほどはっきりと、何か特殊な耽美的な作品でもない、むしろまっとうで平凡な文学がいわば逆レイプを描いているのは珍しいと思うが、基本的にそれをそのまま変えないで映画が描いたのも当時としてはやや決断を要したのではないかと思う。

この場面は日本をはじめ北米以外では残されたまま上映された。そのため、パンフレットでは「日本に生まれてよかった」という感想もある(笑)。だが、日本で発売されたDVDでは北米版が採用されたため、この場面がない。ビデオやテレビ放映では残されている。カットされた場面も付録でつけるのが最近のDVDの流行であることを思えば、その少し早い時期に作られたこのDVDはその点ではサービスが悪いし、欲がない。
DVDしか見られない人も多いことを考えて、この場面をできるだけ客観的に再現しておく。小説ならば二人の感情表現もあるべきところだろうが、そういうものではないので、映像で見る事実だけを述べる。

彼女は荒々しい足どりで、店の中へと行った。店の中は煙草の煙で白く曇り、男たちと派手な衣装の女たちが笑いさざめき、嬌声がひびいいていた。人を押しわけるようにして彼女は長いコートと帽子を身につけたまま、ためらわずまっすぐ正面の階段を上って行った。人々はほとんど彼女に気がつかず、近くにいた数人だけが驚いた、面白がっているようでも不快そうでもあるまなざしを投げた。
彼女の見幕を察してか、階段の途中で恐がるように客の一人が道を空け、また誰かがこんなところに何しにきたんだとからかった。彼女はそれを相手にせず目もくれず、二階に上がって手当たり次第に銃を片手にかまえたまま廊下の両側の小部屋のドアを次々開けていった。
最初の部屋ではベッドのそばに立った裸の男がこちらに尻を向けていた。彼とベッドの女とはけげんなけだるい顔でふりむいた。次の部屋ではベッドの中に男女がいて、女が何か怒って叫んだ。
三つ目の部屋でコートを見つけた。ラスティーたちにかこまれて、手錠をつけたままつながれた縄のはしをつかまれてベッドのそばに立っていた。女が彼の前にいて、男たちはしきりにはやしたてていた。
彼女はへやの中に入り、銃で皆を威嚇しながらコートの縄のはしをつかんで、抗議と怒りの声が上がる中、彼を部屋からひっぱり出した。ドアをしめて廊下を進み、いくつかのドアをあけて空いている部屋を見つけて、そこに彼を押しこんで自分も入ってドアをしめた。
雨はまだやんでおらず、その雨音が激しく耳につきはじめた。コートは廊下にいた時から何か言おうとしていたが、エレンが自分の縄を放して前に立つと、壁を背にして立ったまま、やや前屈みになり手錠のままの両手をあげて、牧師が説教するようにまじめな低い声で熱心に弁解しはじめた。「こんなところにいたからって僕を誤解しないでくれ…」
エレンは聞いていなかった。もぎとるように自分の帽子と上着を脱ぎ捨て、白いシャツのボタンをひきちぎるようにはずしていった。コートの方も弁解に夢中でそれに気づかず、二人はそれぞれ自分のすることに夢中になっていた。
「神の命令次第では鋤を剣に変えることだって…」と言いながら、コートはようやくエレンが胸もあらわにして自分を激しい目で見つめているのに気づき、「剣に…」と口ごもりながら目を伏せ、まだ何かつぶやきかけたが、その言葉は口の中で消えた。エレンが彼のシャツを肩からひきおろし、胸の十字架もろともあらわになった肌に激しく口づけしながら首に手を回すと、彼は「どうして…」とだけ低く聞いた。
「明日は」とエレンは彼を抱きしめて口づけをくりかえしながらあえいだ。「死ぬかもしれないから」
コートの手錠をかけたままの腕が上がってエレンの頭から背中におろされ、彼女を抱いた。その手が彼女の尻を荒々しくつかんで持ち上げた。彼女も彼に胸を押しつけかみつくような口づけを重ねながら「へロッドを」とささやいた。「へロッドを私に殺させて」
コートは答えなかった。エレンの顔と唇が顔から胸へと下がって行くのをうけとめながら、壁に頭をもたせて身体を支えながら、天井を見上げて目を見開いたまま、かすかな吐息をつくように唇を動かしただけで。

ははは。記憶でこれだけ書けました。どれだけ見たんだもう私(笑)。あとでゆっくり修正します。

あらためてこうして書いてみると、この場面は(そもそも小説のせりふもだが)黒澤明「七人の侍」の村娘が若い武士の勝四郎にせまって「明日は皆、死ぬんだべ!?」と叫びながら彼を押し倒して愛を交わすという場面に酷似する。背景に鳴る焚き火の燃えるばりばりというかすかな音が、ここでは雨の音におきかえられており、男女の立ち位置までがそっくりだ。マカロニウェスタンが信奉した黒澤明のいくつもの映画への、これもまた敬意をこめたオマージュなのかと思いたくなるぐらいだ。

それで、なぜこのシーンはカットされてしまったのだろう?
ファンサイトなどで流れていた情報では最初は「牧師がああいう場面をやるのはまずいんじゃないか」というもので、「まさか、じゃ牧師が人殺しをする場面はいいんかい」と言い合ったりもしたものだが、もしかしたらそういう場面だからというだけでなく、あまりにもラッセルが恍惚とした、そしてまた見ているこっちも恍惚とさせる(笑)表情をするからかなとひそかに思ったりもした。まったく三島由紀夫が見ていたら「サン・セバスチャンの殉教」の画像の顔が生で見られたと喜んだにちがいないほど、その表情は清潔かつなまめかしかった。
その後これはシャロン・ストーン自身が、裸を売り物にしたくないからと自分でカットしたという情報も流れ、今さら何を言ってるんかいとこれまた私たちは呆然とした。その反面、まあ自腹を切ってあの映画を作ったとかラッセルに目をかけてスカウトしてくれたとかいう噂のある彼女ならそういうこともしかたがないかともため息まじりに思ったし、何しろひたすら色っぽい場面でもあるので、DVDでこの場面がカットされた北米版が採用された時も、正面切って怒ったり抗議したりするのは何となく気が引けてしまったのか、ファンサイトでもさほど騒ぎにはならなかった。

私はその中では、理由の真偽は結局わからないにしても、この場面のカットには真剣に怒ったひとり(多分ほとんどひとり)だった。と言うのは私はこの場面はフェミニズムの歴史としての資料的観点からも、またラッセルという俳優のすぐれた資質を示す証拠としても重要なものだと考えていたからである。
この映画は、「女が男のすることを皆してみる」という男女の役割逆転の図式を選んでいる時点ですでに充分フェミニズム的実験であるのだが、このような映画や小説の描写でも最後まで古いかたちを脱することのできなかったのが、セックスシーン、ベッドシーンだった。
それについては私のサイト「板坂耀子研究室」に掲載した「受け身の愛」という文章で詳しく書いたからもうここではくり返さない。それにも書いたが、最近の映画では、もうこの点は完全に近いほどに克服されてしまっている。女が男性にせまり、男性は受動的に女性の愛を受けとめるという構図がいとも簡単に登場し、観客もそれに抵抗を示さない。テレビドラマ「電車男」で片思いの相手に「脱ぎな!身体で教えてやる」と命じてベッドに押し倒す女性に、かの2ちゃんねるで反発どころかあこがれが殺到したのはさすがの私も時代はそこまでそうなっているのかと、わけのわからん感慨を抱きつつたまげた。

だが、「クイック&デッド」が公開された当時はまだそんな傾向はかけらもなかったと断言できる。その中で「強い女に凌辱に近いかたちで愛される」男の歓びの表情をわずかな時間でもはっきりきっちり演じたラッセルの俳優としての勇気と誠実さと賢さに、私はほとんど崇拝と信仰に近い愛を抱いた。この人にならどこまでもついて行けるとあの場面を見た時に直感したと言っても過言ではない。くり返す、今の時代ではないのである。今の状況ではないのである。まったくお手本もなく前例もなく、そうすることがどんな結果を呼ぶのかもまったく想像できなかった時代なのである。
まだ存在しないものを創り出す。その勇気と才能と人間としての本当の意味での力を持てる者はこの世に少ない。その時に感じる底知れぬ暗黒の宇宙に飛び出すような不安と恐怖を知っている者は少なく、勝てる者はもっと少ない。
あの場面は私にとってそのような場面だった。ラッセル・クロウという俳優の偉大さはもはやあの場面なしでも充分に今は証明されてしまっているが、それでも私は彼の俳優としての真の意味での力量を証明するのに、あの場面の持つ意義は今でも決して小さいものだとは思えない。

15.残すべきもの

先にあげた、この場面にふれて「日本に生まれてよかった」と言っているのは、パンフレットの秋本鉄次氏の文章で、氏はこの映画の西部劇としての楽しみ方を紹介しながら、この映画は「あくまでシャロン姫のカッコよさを極限までに高めたスーパー・ヒロイン・アクション」として彼女の魅力を謳い上げている。この場面についても大きくとりあげていて、

そして望外の喜びは、シャロン名物のエッチ・サービス。当初、今度はエッチなしという噂が流れていたのであまり期待しなかったのだが、開けてビックリ玉手箱のオマケつきグリコだぜ。ガンマン神父ラッセル・クローに迫るシーンで、一瞬シャロンの胸がはだける。その一瞬はほとんどコンマ何秒。「シェーン」や「エースの錠」の早撃ち記録並みなので目を皿にして見逃すな。このシーン本国ではカットしたそうで日本に生まれて、いやあヨカッタ、ヨカッタ。
このラブ・シーン。決戦前夜に異性の肌を求めるというのは、ヒーローの専売特許だったが、スーパー・ヒロインもまた積極的に異性の温もりを求めるあたりがいかにもシャロンの個性だろう。「明日をも知れない命だもの」とエッチを貪欲にむさぼる姿がとっても似合う。クライマックスの「トゥディ、アイアム!(今日は私の番よ)」の名セリフで締めくくられる壮絶なガンファイトに至るまで、彼女は「男女危険機会均等法」の具現者なのだ、と大袈裟に言ってしまおう。

とノリのいい文章で紹介する。
私はシャロンが、「裸を売り物にしたくない」云々の理由でこの場面をカットさせたという話を全面的に信じているわけでもない。牧師が女にレイプされてあんなにうっとりした顔をするのは好ましくないという奇妙な論理だってあの当時ならあり得たし(今でもあるかも)それにスタッフが予測して神経質になり慎重になった可能性だって、まだ捨てきれない気がしている。だがもしシャロンがほんとにそういうことを言ったのだとしたら、ここで秋本氏が語っているこういう見られ方に(この文章を読むことはないにしても)抵抗を感じたのだろうか、とも思う。それであの場面を省くことは正しい戦法ではないと思うが、その気持ちならわからないでもない。

秋本氏がふざけながらもきちんと指摘してくれている、従来のヒーローがやってきたことを女もまたやっている、という、この場面の男女機会均等精神は私もその通りだと考える。だからこそ、裸を見せて喜ばせても、それはそれでこの場面は残してもいいのにと思ったりする。
だが、そこまでシャロンが考えるとは思えないのだが、でももしかしたら「男がするからと言って女がしてはいけないこと、むしろ男も女もしないようにしなければならないこと」にこれが属すると判断して消したのかな、とも思うと私の気持ちは微妙にゆれる。
普通は女は男に腕力では勝てない。コートは鎖でつながれていたからその関係は逆転する。だが、鎖ではなく権力でもその他のものでもいい、愛以外の力で相手の自由を奪い強引に性の関係を求めるということは、男女に関係なく許されず、フェミニズムの典型、優等生、理想像としてエレンが描かれているのなら、そんな要素を少しでも彼女に与えていてはいけない。そんな判断がもしシャロンにあったのだとしたら、それには私は反論できない気がするのだ。

男がしていることをしたいと女が思うのも、その逆も正当な要求と思う。けれど、その役割分担を乗り越えた時、今まで自分に許されていなかったことのすべてをすることがすべて勝利で正義だろうか。残すべき禁忌はやはりそこにはないのか。
女が男になり、男が女になるのではない。両者が交流し混合することによって、双方以上の豊かさと美しさとを、優しさと厳しさを持つ存在になることが許されるようになるのでなければ、意味がない。

そこまでシャロンが考えて、あの場面をカットしたかどうかはわからない。だが、そうだったらいいと思う。そうだったら、ラッセルにとっても私にとっても貴重なあの場面がカットされたのもあきらめられるし許せるかもしれないと思う。
そして、もしもそうだったら、ラッセルがいつもどこかに感じさせる、ごくごく自然にそなわっている女性(そして男性)への自由でのびやかな感覚は、彼の天性やオーストラリアでの成長のせいもあるだろうが、ひとつにはシャロン・ストーンやジョディ・フォスターなど、先鋭的とも言えるほど明確な女性観を持った人たちとふれあったのも大きいのかな、と思う。「デブラ・ウィンガーを探して」というハリウッド女優たちへのインタビューでつづられたドキュメント映画を見た時、そこで語られる女優たちの考えや信念の深さに感銘を受けた。その中にシャロンをはじめ、ラッセルの相手役をつとめた女優たちが多分他の男優の相手役と比べると比率にしてずっと多く出ていたのではないかと感じた。どちらが原因で結果なのかはわからないけれど、ラッセル・クロウという俳優を作ったのはすぐれた共演者の女優たちの個性と見識であり、それを素直に吸い取る心と魂を彼は持っていたのではないかとも想像する。

多分そんな女優たちの中でシャロン・ストーンの占める役割は決して小さいものではないだろう。「クイック&デッド」は、そういう点でも貴重な作品である。そして映画そのものの出来も、サービス満点でいながらどこかまじめだし、風変わりなようでけっこう正当派だし、薄っぺらなようで手を抜いておらず、荒っぽいようでよく計算されていて、これという内容が何もないようで奥が深く、軽くぽんぽんはねて行くのに中身はみっちりつまっているボールのような活気がある。西部劇のことはよく知らないが、マカロニウェスタンの雑然とした熱っぽさと古い西部劇のまっとうな端正さをよく融合させた上で、両者に共通する従来の図式や世界観を疑い否定しつづけている点でも、この映画は西部劇の史上に見逃すことのできない独自の位置を持つだろう。しばしば言われるどこかふざけた作り方も、その新しさのさりげないアピールか、照れ隠しにも見えることがある。

私がこの映画について語ることは、これでほぼ終わりだ。正直言ってこれほどに長くなるとは思ってなかった。思い過ごしだ思いこみだと思いつつ書いていたのに、書いてしまうと自分自身が真っ先に説得されてしまいそうで恐い。
そして実はこの文章は、「クイック&デッド」の映画をまったく見ないままで書いた。最後に見たのはもうずいぶん前だし、映画館でも見たことはない。それなのに、まったく平気で何もかもを思い出せるのが自分でも意外だった。最後にもう一度映画を見直して最終的な修正はするが、ひどい間違いでなければ文章の雰囲気を変えないためにもそのままにしておきたいのでお許し願いたい。
それにしても書いてよかった。見えていなかったたくさんのものが見えてきて、新しい世界がまた広がって行くような気がしている。(2005.11.14.)

16.追記まで長くて

点検をかねて、あらためてもう一度見た。昔、高いビデオを買ったのだが、その後どこかでレンタル用のを安く買っていたのがあったので、それで見た。これが画質がすごくよくて画面がとてもきれい(といっても悲しいことに映画館で見ていないから比較はできない)で、心ゆくまで楽しめたのは幸いだった。

見直して、あらためて思ったが、最初から私はこの映画が大好きだったのは、構成がしっかりして遊びまくっているようで少しも無駄がないところだったと気づいた。そして全体にどこか楽しい作り物めいた非現実さがある。西部劇をきちんとやっているのに、町の存在もリアルに伝わってくるのに、どこか悪夢のようで、どこか前衛劇のようで、ファンタジーのような異空間が感じられる。登場人物もそれぞれ、やや誇張した型どおりの演技をする。それは儀式のように美しく遊びのように楽しい。
この感じは黒澤明の時代劇にも似ている。滝沢馬琴の小説にも似ている。すべての場面が宗教画のような光と影につつまれて、何かの暗喩のようである。(字幕には当然出ないし、英語がわかっても多分聞きとれないほどにへロッドが唇と息だけでかすかにつぶやいている、コートとの決闘の前夜、それまでずっと一分のすきもない服装で決めていた彼が下着姿で拳銃の手入れをしている時のせりふは、たしか吹き替えでは「たとえ我死の影の谷を歩むとも…」という聖書?の一節になっていたと思うのだが、そういうところもあらためて気になる。)

俳優たち、とりわけ主役の四人、シャロン、ハックマン、ラッセル、ディカプリオは、その中でそれぞれ彼らの履歴の中でも最高に近い演技をしている。手塚治虫が劇画タッチのリアルな描写より、省略や誇張を加えて表現する漫画の方が実は描写は難しいと言ったことを思い出す。彼らの演技はそれぞれ型にはまった大芝居でありながら、生き生きと血が通っていて自然だ。ハックマンをはじめとして皆、どこかにユーモアさえもただよわせている。へロッドがこうもりがさをさしてテラスから「殺せ!」と叫ぶ場面の奇妙な愛らしさと無気味さといったらない。原作にない、コートがエレンに迫られる時、気がつかないで一生懸命弁解し牧師らしい説教をしているのも。原作にあった、ことあるごとに町の人々に正論を訴えては無視嘲笑される愛すべき愚直さは映画のコートには皆無だが、それがここで集約されて表現されているかにも見える。ここのコートはこの映画の中では銃器店で銃に目を輝かせるのを除けば、唯一の弱点をさらしており、信仰者としてのかわいらしさをのぞかせるのはここだけだ。よりによって、こんな場面にそれを持ってきているのが、そしてレイプ同様の場面の空気をほのかな笑いに包んで和らげているのが実に巧みである。もちろん、それを成功させる二人の演技の確かさがあってのことだが。

私がすべて記憶で書いても、ほとんど困らなかったのは私の記憶力ではなく、この映画がそれだけめりはりきいて無駄がないので、肝心なことをすべて覚えていられるからだ。
とはいえ、小さい見落としはいくつかあった。

へロッドにひそかに抵抗を試み、殺し屋を雇って彼を殺そうとするグループのメンバーの一人である若い女性は、しっかりというより可憐な感じで、彼女はへロッド邸のメイドである。エレンが招かれた食事の時には給仕もしていた。へロッドに身近に仕えながら彼を裏切るのはどうしてか、どんな過去が彼女にはあるのか空想がふくらむ。ひとり一人にそのような物語がありありと感じられるのも、この映画の魅力だろう。この女性、魅力的なのにせりふもなく、もっと場面があったのに時間の関係などで削られてしまったのだろうか。ちょっとかわいそう。

へロッドとの決闘の直前、「あなたが一番強いのはわかっているのだから、戦うのはやめなさい」とエレンが懇願するのに対しキッドは「戦わなければ彼に息子と認めさせられない」と言う。「認めさせて何を得られるの?」というエレンの問いかけにキッドは「俺に対する敬意」と答える。胸を衝かれた。愛ではないのだ。対等の人間として認めて一人前に扱ってくれ。力と成果を客観的に公平な目で認めてくれさえすればいい。あんたの愛なんかまるで不要だから。この気持ちもまた何度私が、一人で心の奥底で、井戸の中にどなるように大声で繰り返した言葉だったことか。

「ルールを変えるのか?」とへロッドに呼びかける時、何とコートはへロッドに「ジョン」と呼びかけていた。最後のルール変更の時ももちろん。まあこの後ユージーンもへロッドをジョンと呼んで救いを求めたりしているが(そしてあえなく拒絶されてるが)、へロッドをファーストネームで呼べる人なんて、この町にどれだけいるの?それも、こんな局面に。
コートはインディアンのスポッティド・ホースとの決闘でせっぱつまってへロッドに助けを求めた時も(この時は意地悪されてるが、へロッドはコートは自分で何とかするだろう、できなかったら俺の愛するコートじゃないと信頼と期待をしていたようにさえ見える)相手をジョン呼ばわりしている。まあこんな時にへロッドとも逆に言えないのかも知れないが、もうほんとにまったくあんたらそういう仲なのかいと思わず口を開けたくなる。
昔「アンクル・トムス・ケビン」の小説を読んだ時、主人公のトムが最後に売られた残酷きわまるひどい主人が美しい黒人女性を妻のようにしていて、その妻は誇り高くて、夫とけんかした時、開き直って奴隷たちといっしょに綿花を摘みに出る場面があったのを思い出した。下っぱの男が彼女は捨てられ没落したのだと思い、乱暴な言葉をかけようとすると女はきっとなって「主人に話してあんたを売り払わせるぐらいの力はまだ私にはあるんだからね」と脅し、下男は平蜘蛛のようになって恐れ入る。いつからかコートを見てると、その女性が頭の奥でちらついてしかたなくなった。

もしかしたら、と次々にあらぬことばかり考えてしまうが、コートとへロッドの蜜月時代(こう書くっきゃないだろがもう)でも、コートの方が「いや、ジョン、そりゃまずいよ、この銀行はこっちから襲った方がね」「ふんふん」なんて感じでリードしてたのじゃないのかい、この二人。へロッドは「スター・ウォーズ」のオビワン・ケノビとは似ても似つきませんが、コートは案外若いのに優秀で恐いもの知らずの自信家でアナキン・スカイウォーカーのタイプだったのではないの?誘惑されてがらっと改心するにいたった相手が悪の権化のパルパティーンさんじゃなくて、どっかの立派な優しい神父さんだったのがたまたまよかっただけで。

あのタイプ(アナキン)はそういう風にくらっと一八〇度ひっくりかえるんですよ。あふれる才能で誰も自分を統御してくれないから、自分で自分を管理するしかない不安さを恒常的に抱えてるから不安定だしもろいし。恐いもの知らずだから転向も改心も昨日の敵の陣営に行っちゃうのも、平凡な一般大衆や常人みたいに恐れない。ていうか、自分が属してる支配され指導されてる陣営の反対側に行ってしまう可能性がすごく高いタイプ。自分の所属するものの限界や卑小さを見抜いてしまうから、いつもそれと敵対してるものにあこがれる。このタイプって、日教組の平和教育を受けたら小林よしのりの戦争論にはまり、石原都知事が日の丸に敬礼しろと言ったら日本の戦争犯罪について勉強しはじめる。イラクに生まれたらアメリカかぶれし、アメリカにいたらイスラム教徒になる。そうすることで自分の力を試してみたいというチャレンジャー精神もどこかにあったりする。

そういうところがきっとまた、へロッドには魅力だったのかもなあ。
そういうところがきっとまた、キッドがコートにかなわない、へロッドがものたりないところなのかもなあ。
キッドはコートを見下してたんじゃなく、嫉妬する気にもならないぐらい一目おいてたのかもしれない。「あの父さんが逆らえない」って感じで。
そう言えば、銃器店での二人ですが、いろいろあるけど銃を愛する気持ちではすごく一致し理解して信頼しあえているという解釈かな、と思って見ていました。ここのラッセルは、どの程度リアルな演技にするのかアニメ風に誇張するのかでちょっとまだ迷ってる感じもするのですが、上にあげたような人間関係で考えるなら、へロッドやキッドとの対し方も特に不自然には見えません。

問題のエレンとコートのラブシーンですが、決定的なほどの記憶違いはなかったので、本文はそのままにします。補充訂正しておくと、次の通り。

エレンは店に入ってからコートを探す感じであたりを見回し、数人の男をつきのけ、階段を上がる途中でまた何人かをつきのけて、下着姿の一人は傷ついた顔で何か文句を言っている。

開けて(戸が閉まってないから、のぞいて)まわるへやは三つで、二つめに尻をこちらに向けている裸の男がいる。三つめの部屋では女二人が男一人とベッドインしようとしている。

コートはベッドのそばに立たされ、なぐられてよろめいている。エレンがへやに入る前に「その女を犯してみろ」と言っている声が聞こえる。
エレンはコートをひっぱって後ろにかばい銃をかまえながらすぐにへやを出る。男たちは「そいつを連れて行くな」と抗議をするが何もしない。

エレンは空き部屋か何かにすぐコートを連れこみ、廊下をうろうろはしない。コートはエレンがスカーフをはずしシャツの胸をはだける間、「こんなところにいたけど誤解しないでくれ。悪と戦う時は神の思し召しで鋤を剣に変える」とか言っているが、半裸のエレンにじっと見つめられて何を言っているのかわからなくなったように彼女を見ながら、「私は(俺でも僕でもいいけど)」と言いかけ、目を伏せてまた「私…」と言いかけるがもう明らかに何を言うつもりかわかってない。ここの彼は歴戦のガンマンでも(多分)かつてのプレイボーイでもなく、まるで童貞の牧師で少年です。

エレンはその彼に近づき、首に手を回して優しくキスし、手錠の腕を彼女の頭越しに彼女の背中に下ろしてコートもそれに応える。この映画通してずっとそうなのですが、コートは鎖につながれていても動きがいつもとても自然で、何にかはほんとに(笑)よくわからないのですが(縛られるのにか女扱うのにかいかなる条件下でも何とかするのか、何かそういうことに)「慣れてるなー」と思ってしまうのですが、ここもそう。とても優しくキスしあいながら「どうして」と彼がつぶやき「明日は死ぬかもしれないから」と彼女が答える。次第に愛撫が激しくなり、彼女は自分でシャツをいらだたしげにまくりあげて、はだけて胸をあらわにし(ここが秋本氏が言ったコンマ数秒の一瞬。笑)コートのシャツもつかんで肩からひきおろす。コートの手が彼女を抱きしめ、尻をつかんで持ち上げる。彼女はキスをくりかえしながら「私にへロッドを殺させて」と激しくささやき、そのまま顔と身体を下にすべらせて行く。カメラがとらえるのは、コートの上半身と壁に頭をつけるようにのけぞった顔。彼はあきらめたような、うけいれたような、優しい哀しい澄んだ表情をして、何かに耐えているように見える。そこで画面が消えます。

こんなところかな。あ、おまけに、徳間文庫「レオのまるかじり」に、この場面の描写があるので紹介しておきます。これはレオナルド・ディカプリオのいろんな映画を調査してまとめたもので、いやもうファンでなくちゃできない書けないという、すごく楽しい本です。で、レオ君のラブシーンを出演映画から全部拾い上げて描写しているのですが、なぜかおまけでこれが一つだけ入ってる(笑)。ちなみに私がこの本を買ったのは「仮面の男」に熱上げてたからで、「ラッセルの場面を入れてくれたのは文句ないけど、ならばついでにどうしてダルタニアンとアンナ王妃のキスシーンも入れてくれなかったのー」と思ったりしたのですけど、まあ何かそれだけこの場面インパクトがあったんでしょうね。と勝手に解釈。

たとえば、レオ君の場合は、

ラブシーン2 キス
早撃ち1回戦で勝ったシャロンに駆け寄ったレオに、シャロンからキス。ただし、自分が勝利した安堵感で一番近くにいたレオの首を後ろを掴み、勢いでしたキス。すぐに突き放される。色っぽい雰囲気ゼロ。

とか書かれています。大変きびきび客観的で信用できる資料って感じがするでしょう?それで、この場面の説明は、

恋のライバルと彼女のラブシーン
ライバル / 早撃ち牧師のラッセル・クロウ
激しいキスから、シャロン、自ら上半身裸になり、相手のシャツも脱がせる。無我夢中で抱き合う2人。ラッセル、シャロンのお尻をわしづかみ。シャロン、ズズズと下がって、ラッセルの下半身に何かしている模様。「あああ…」というラッセルの顔。

となっています。
なお、この本でラッセルが登場するのはここだけです。でも熱烈なファン気質なのに品があって余裕も見えて、読み物としてもとても楽しい本なので買って損はないかも。お願い、この本の編者のレオ君ファンの皆様、「あ、そうか、変だよな」とか反省して再版の時にこの部分削ったりなさらないで下さい!この場面に関する貴重な資料ですので(笑。でもまじめ)。

い、いつの間にか、ですます調になってしまったところで、そろそろほんとに終わりにします。長々と読んで下さった皆さま、ありがとうございます。要するにもってまわったのろけなんだと最初に宣言していたのが、最後になって証明された感じかなあ。でもこの映画、もっともっとほめてもらっていいと思いますよ、いやマジで。

あっ、最後に。昨日読んだ「ハリウッド個性派37人」(おかむら良 近代映画社 平成17年4月)の「オージー俳優を率いる重量級リーダー」として紹介されたラッセルの項にこの映画について、彼の神父役は「『カリスマ的演技』と絶賛された」とあり、では当時から評価は高かったのでしょうか?でもテレビ放映の時、淀川さんは彼について何も言わなかったし、この同じ本のディカプリオの項ではこの映画無視されてるし。知れば知るほど気になることがますます増えていく映画です。(2005.11.16.)

17.もうひとつ追記

あとちょっと言っておきたいのは、登場人物の年齢の問題だ。
小説では、父が殺された時エレンは七歳だったと明確に書く。この時コートが少なくとも十七歳だったなら、二人の年は十歳ちがう。
一九六四年生まれのラッセルの実年齢はこの当時三十一歳。コートもその年だとするとエレンは二十一歳になる。だが実際のシャロンは一九五八年生まれでラッセルより六歳年上の三十七歳だ。そんな小娘には見えない。
それに、へロッドがコートを見逃していたのは、長くても数年、下手すれば数ヶ月にさえ見える。これにキッドの年までからむともうむちゃくちゃで、小説の段階からこの話の時系列には相当無理があるのだが、それを映画で熟年のシャロンがエレンを演じたことで、ますますおかしくなっている。

映画ではそれを意識して、彼らの年齢に関する手がかりをすべてなくしている。へロッドと会った時のコートの年齢も、父が死んだ時のエレンの年齢も語られていない。
だからまあ、ぎりぎりエレンを人形持って遊んでいても十二歳ぐらい、コートがその直前に十六歳ぐらいでへロッドと別れたとし、十五年後ぐらいの再会としたら何とかなるのかもしれない。

だがもう、基本的にそういうこともどうでもいいので、理屈をつけたきゃどうつけても、気にならなければ放っておいても、私はこの映画の雰囲気の年齢構成をそのままに認めたい。「ベルサイユのばら」のオスカルも死んだ時はたしか三十代なかばで、こういう話のヒーローやヒロインの合理的な計算上の歳なんかもうどうでもいいのである。
もともとシャロンの映画だから、彼女以外の配役は考えられないが、仮に原作尊重で、エレンをコート=ラッセルより十歳若い女優がやったら、この作品の魅力は私にとって半減どころかもしかしたら全滅したかもしれない。あの年齢の女性がやるから、この役は魅力的だった。

若い娘がエレンをやれば、人を殺せない逡巡などはたしかに自然になるだろう。けれど、そうすることで失うものは多すぎる。作品の性質がまったく変わってしまう。少女が人を殺す「ニキータ」風の痛々しさや異常さが先行して、男に伍して堂々と生きる女のイメージが伝わらない。
コートに迫る場面も妙にロリータ的な風味が加わってしまうだろう。何よりこういう、銃で男と対等に闘い、性も楽しむ生き方が、未成熟な少女だから許されるもので、円熟した大人の女性になったら卒業するものという印象を与えるのが致命的だ。

こういう感覚はほんとに微妙で難しい。フェミニズムと言われる人の間でもきっと随分ちがうだろう。
たとえば私は「羊たちの沈黙」でジョディ・フォスターが演じる女性捜査官の仕事ぶりや、「キング・アーサー」でキーラ・ナイトレイ演ずるグィネヴィアがそれこそ十歳以上も年上だろうアーサーの寝所に押し入ってレイプ同然に関係を持つのなど、「きっと好きでしょう」と職場の上司やネット仲間やあらゆる人から言われるのだが、実はあまりそうでもない。女性捜査官クラリスの場合は、彼女のレクター博士やスコット・グレンの演じる上司への関わり方が繊細すぎて、それがねらいかもしれないけれど、弱々しさを強く感じる。どんな勇敢な行動をしても強い人には見えない。
グィネヴィアの場合は、そもそもあのレイプもどき場面そのものが、昨今の流行を見越してその少し先まで行ってみましたという感じで、私は「クイック&デッド」でラッセルが見せた演技に感動したのと反対に、こういう、世の中がちょっとそういう傾向になるとすかさず風向きを見て、安全なだけ過激になるという姿勢が政治でも道徳でも思想でも芸術でもそうだが、どうもいただけない。あの映画のグィネヴィアは戦う女性として行動も発言も徹底しているが、それもすべて、今の流行にのっている安心感がみえてしかたがなかった。思えばいい時代になったのかもしれないが、それが何だか油断できない。

そういう点では「クイック&デッド」は映画も俳優も、表現したいものと時代とを見定めて、ぎりぎりの危ない橋を渡っている緊張感が伝わってくる。その不安定さが、逆にゆらがない決意と選択を感じさせて、誇張した泥臭さと裏腹に、生真面目なさわやかさを生んでいた。(2005.11.16.)

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