赤毛のアンと若草物語2-私が抱く、まったく反対の二つの危惧

そのように時代が大きく変化し進歩した中で、今、私が抱いている危惧は、大きく言って二つあります。
ひとつは体罰やレイプにつながるような教育を描く文学は、本当に滅びて二度と復活しないと安心していていいのかということです。

もうひとつは、それとはまったく反対に、そんなに完全に滅ぼしてしまって、本当に大丈夫なのかということです。たしかに私は、そういう文学も、そういう教育も嫌いですが、私が嫌いでも、世の中に存在していてはいけないということにはなりません。そもそも、そう簡単に私がそれを嫌っているかどうかということさえも、よく考えると微妙です。

体罰や精神的虐待も含めて、本当に尊敬できる相手に身も心もまかせることは、苦しい一方で快感であり、時にエロティックでさえあるほどの陶酔も生むものです。今の時代、そういう体験をする機会は少なくなっているかもしれませんが、まったく経験がない人は、だまされたと思って、一度心から反省して悔い改めて心を入れ替えることを試しにちょっとして見れば、どんなにものすごい快感を得るかわかると思います。

それは確かに性的なオーガズムにさえ似ています。ちなみに、男女の恋愛小説には昔と比べるとそのように強い相手に征服されて身をまかせる屈辱や苦痛が快感に変わり、最終的には二人は幸せになるという傾向の話は非常に減って来ていますが、いわゆる腐女子の人たちが愛するボーイズラブ文学には、まだそのような設定が多く見られます。それを一概に否定していいものかどうかも、私にはよくわかりません。

映画「アラビアのロレンス」(「午前十時の映画祭」で来年一月に上映されるので、ぜひとも映画館の大画面で見て下さい)で日本でも有名になった英国将校のT・E・ロレンスは、第一次大戦のとき、砂漠のベドウィン族の指導者として活躍し、祖国を勝利に導いた英雄として知られる伝説的な人物です。彼は考古学者で文学者ですぐれた戦士でもありました。列強が中東諸国を分割して現在の紛争の原因を作った政治的状況の中で、苦悩し努力した政治的な手腕もありました。団体生活を嫌い、支配と服従を拒否し、砂漠を愛し、孤独を好み、バイクの事故で夭折しました。
私の最初の分類に従うなら、彼はいわば「赤毛のアン」の世界の人で、「若草物語」のような要素がまったくない人生を送っています。しかも、なみなみならぬ能力と精神力を持ち、何者からも支配されることはありませんでした。

それほどに個性の強い偉大な人物の彼が、その著書の中で、完璧に尊敬できる上司が自分になかったことを嘆いているのは意外です。けれども、そのような彼だからこそわかるように、そのような目上の人の存在は人間として欠かせない幸福でさえあるのです。

ただ命令のままに服従すること、それは思惟(しゆい)の経済であり(中略)吾々をして苦痛なしに活動を忘却させるものである。私を使役すべき上長者を見出さなかつたことが、私の一つの敗北だった。すべての人間が、無能からか、怯懦からか、それとも好んでさうしたのか、私に対して余りにも自由手腕を許してくれた、まるで我から進んで奴隷たることこそ、却って病める魂の誇りであり、身代りに受ける苦痛は却って最大の喜びであることに気づかないかの如くに。
(T・E・ロレンス『知恵の七柱』百三章「自己」-岩波新書『アラビアのロレンス』(中野好夫著)より引用-)

映画監督黒澤明も、また、そのような身も心も捧げる師弟関係を好んで描きました。彼は山本周五郎の小説を何度か映画化していますが、その中には、そういう偉大な人物に反抗しながら、やがて屈服し魅了されて行く若者の姿が描かれています。江戸時代の貧しい市井の人々に献身する変人の医者「赤ひげ」と、エリートの青年医師保本登(やすもとのぼる)との関係も、その一つです。

狂女の出来事のあとでも、登の態度は変らなかった。どうしても見習医になる気持はなかったし、まだその施療所から出るつもりで、父に手紙をやったりした。けれども、心の奥のほうでは変化が起こっていたらしい。彼は赤髯に屈服したのである。狂女おゆみの手から危く救いだしてくれたこと、――それはまったく危い瞬間のことであったし、人に知られたら弁解しようのない、けがらわしく恥かしいことであったが――それを誰にも知れないように始末してくれた点で、彼は大きな負債を赤髯に負ったわけであった。おかしなはなしだが、そのとき登は一種の安らぎを感じた。赤髯に負債を負ったことで、赤髯と自分との垣が除かれ、眼に見えないところで親しくむすびついたようにさえ思えたのだ。(山本周五郎「赤ひげ診療譚」)

映画「七人の侍」のリーダー勘兵衛に心酔する若武者勝四郎のように、このような無私の若者の、すぐれた年長者へのあこがれは、恋愛にも似ています。時にはそれ以上に純粋で美しい魂の憧れです。佐賀市の生んだ作家下村湖人の小説「次郎物語」は少年の成長を描いた長編小説ですが、主人公の次郎が朝倉先生に寄せる思いはまるで少女のように、ひたむきで、いちずです。

朝倉先生には、室崎との事件以来、めったに会ったことがない。言葉を交す機会など、まるでなかった。それでも、彼の心に生きている先生は、いつも新鮮だった。たまたま廊下などですれちがったりすると、彼は処女のように、顔をあからめて敬礼した。先生は、それに対して、ただうなずくだけだったが、その微笑をふくんで澄みきっている眼が、何かとくべつの意味をもって彼を見ているように彼には感じられるのだった。彼が学校にいるかぎり、彼の意識の底には、いつもその眼があり、古ぼけた校舎もそれで光っていたし、彼の教室に出て来る凡庸な先生たちにも、それでいくらか我慢が出来ていたのである。

(下村湖人「次郎物語」)

次の二つは、そのような理想的な師弟関係、上下関係の中での、明らかに体罰と精神的虐待による教育であり、それによる成長を描いています。しかし、それでも、この場面も全体も、感動的だし、すぐれた作品です。

こういう教育が否定されても、このような文学は名作として、やはり残って行くでしょう。「源氏物語」だって、光源氏が若紫を育てて自分の理想の女性にするのなど、現代の基準で言えば、児童虐待以外の何物でもありません。だからと言って、葬り去ったり改竄したりしては、人類は貴重な財産を失うでしょう。そこに描かれた愛や教育のかたちが、今では認められないものになったとしても、その作品を否定する理由にはなりません。それが過去のものになったことを喜ぶことと、それが描かれた作品を残すこととは矛盾しません。

「いや、それはおれにもわかっている。だが、おきてはおきてだ。すべて密林の生活では、なににも厳正に公平にやらなければいけない。かわいいからといって罰をきせないというのは不公平だ。それではおきての正義がたたなくなる。
マウグリは自分のわがままから、とんでもない大事件をひきおこし、ほかのものにたいへんな迷惑をかけたのだから、当然、それに相当した罰をうけて、罪のつぐないをしなければならない。
バアルウ、こんな場合の罰のきまりはどうなんだ」
「力いっぱい・・・六つ・・・ぶんなぐるのだ」
バアルウが小さな声でいった。
「よし、マウグリ、おまえはその罰をうけることについて、なにかいうことがあるのか」
「ありません。ぼく、悪かったんですよ。ぼく、ふたりにけがをさせて、いけなかったんです。だからぶたれるのが正しいと思います」
「そうか」
バギイラが立ちあがった。バアルウが下をむいてしまった。
マウグリはいさぎよく頭を前につきだした。
バギイラが前足をふりあげて六どぶった。けれど、それは、愛のこもった、やさしいぶちかただった。けれど、けっして、なぐるようななまやさしいものではなかった。バギイラはマウグリをかわいがったが、けっして、あまやかすようなことはしなかった。
そのたくましい前足で一つぶたれるたびにマウグリはよろめいた。けれど、彼は男の子らしく、すぐに立ちなおり、ぎゅっと歯をくいしばって次の打撃を待った。彼は、自分が悪かったのだから、もっとひどくぶたれてもしかたがないと思い、みずから火が出るようないたさを勇ましくこらえていた。
けれど、かたくつぶった目から熱い涙がにじみだした。かれはそれをはずかしいと思って、いっしょうけんめい目をつぶっていた。
それを見ると、バアルウが涙をいっぱいためた目をきらきらさせた。
「さあ、これで密林のおきては守られた。われわれの社会の正義はけがされなかった。これでいいのだ」
バギイラは静かにいった。そして、
「マウグリ、おれの背中へとび乗れよ。いそいで帰ろう」
と、背中をむけた。(講談社版世界名作全集21 キプリング『ジャングル・ブック』 なお、バアルウは熊、バギイラは黒豹で、ともに狼に育てられた人間の子マウグリに森の掟を教育する。)

 

「はい、でも、どうか、そんなこと、させないでください。とても、ぼく、がまんできません」

ナットは、両手を後ろにし、扉に背を痛いほど押し付けながら、苦痛の表情いっぱいで叫びました。
トミーは、胸をどきどきさせながら、
(ナットは、なぜ立って、男らしく罰をうけないんだろう。ぼくが代わってやりたいくらいだ)
はげしい気性を燃やして、じりじりするのでした。
「わたしは、約束を守ろう。君は、真実をいわねばならぬということを思い出さなければならないのだ。ナット君。わたしの命令だ。これを持って、しっかり、六回打ってくれたまえ」
トミーは、意外なこの最後のことばを聞くや、眼先がくらくらとなり、よろよろと板塀から転げ落ちようとして、やっと窓の出張りにひっかかって身をささえ、眼は、うつろになったように、大きくみひらかれたままでした。
ナットは、物差を取りあげました。ベイアー氏が、断乎として命ずる場合、何者も、それに従わないということは許されない……かれは、恩師が、突き刺されたかのような恐怖におののきながら大罪を犯さねばならぬ悲しみにみちて、かれの前にさしのべられた大きい手を、力の抜けたようなその手で二度打ちました。
もう、彼の手はしびれ、眼は涙でなかば見えなくなり、ゆるしをこうようにベイアー氏を見上げると、
「つづけなさい! もっと強く!」
どうしても、それはしなくてはならないのだと感じると、この苦しい事を早くおわらせたいというように、ナットは、片方の肱で眼の上を覆いかくし、前よりもなお強く二回打ち、
「もう、これでたくさんではありませんか?」
かれは、息も切れぎれにききました。大きい手を赤くした以上に、打った者のほうが、もっとつよく傷手(いたで)を受けたのでした。
「もう二回です」
それが、答えのすべてでした。もうかれには、それが、どこに当たるかも見えず、二回打つと、物差を部屋を横切って投げすて、ベイアー氏にとりすがり、愛情そのもののような手を、じぶんの両手の中に握りこみ、愛と悔恨と謝罪と羞恥にあふれながら、とうとい師の手の上に顔を伏せ、涙とすすり泣きの声に、つぐのい切れない罪のゆるしをこうのでした。
「わたしは、決して、忘れません。……いつまでも、おぼえています。……」
ベイアー氏は、しずかに、ナットの身体に腕をまわし、それが、かたく食いついてしまったかのように力をこめながら、慈愛深い口調でいうのでした。
「おぼえて、くれることと思う。神さまに、お助けいただくようおねがいしなさ。このようなありさまをふたたび起こさないように努力したまえ」

(オルコット「母への聖歌」←現在は「第3若草物語」として出版されている。「若草物語」の四人姉妹の次女ジョーことジョセフィンが、結婚し夫とともにさまざまな家庭の子どもたちを引き取って、わが子とともに育てる学校を作る話で、音楽の才能のある貧しい少年ナットが、ベイアー先生ことジョーの夫で学校の指導者に、嘘をつく癖を直さなければ、鞭で自分を打たせると警告される。先生を深く敬愛する彼は戦慄するが、やはりまた嘘をついてしまい、罰を受けることになる。指導者を愛し尊敬しているからこそ、効果が生まれる罰である。なお、ここでナットの友人トミーがこの場をのぞき見して動揺している様子は、かつて少年愛を題材とした雑誌「ジュネ」で、栗本薫こと中島梓が、自らのボーイズラブ嗜好を回想し、横山光輝の漫画で少年忍者が拷問を受ける様子を兄たちが苦しみつつのぞき見している設定に「萌えた」と述べているのと同一の効果を読者に対して生むだろう)

 

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