赤毛のアンと若草物語3-困難な状況と向き合えば、未来もきっと見えてくる

「ジャングル・ブック」や「母への聖歌」に描かれたような場面や、これらの作品が生む感動や快感を、私たちはやはり失ってはならないし、新しい時代にふさわしいかたちとして、作り直して行かなければなりません。
しかし、それは決してやさしいことではありません。
毒と薬は紙一重です。人間のこういう「支配され服従する歓び」は、一方でオーウェル「1984年」やザミャーチン「われら」のラストで描かれるような、おぞましい洗脳にも利用される危険があります。

二つの小説はどちらも、ユートピアの反対のディストピアを描いた小説で、近未来の架空の国が舞台です。(「1984年」は、1949年刊行)そこでは独裁者が強固な管理体制を作って、人々を管理し、歴史も情報も支配者に都合よく改竄します。今の日本とどこがちがうんだという冗談はさておくとして、このような独裁政治に抵抗しようとした人たちは、最終的に皆とらえられ、拷問を受けて死刑になります。これだけでもいいかげん滅入りますが、どちらの小説でも一番救いがないのは、彼らが拷問や手術によって改心させられ、自分たちのしたことはまちがいだったと深く反省し、独裁者への愛にみちあふれて、喜びと感謝の中で死刑を受け入れることです。独裁者の国家体制は、そうすることによって、彼らを英雄や殉教者にせず、完全に消滅させるのです。

前にも述べたように、「赤毛のアン」の世界は、このような洗脳を拒否する自由で強靭な精神を持っています。特に、シリーズの中の、「第4赤毛のアン アンの友達」「第8赤毛のアン アンをめぐる人々」に描かれる、アンの周辺の人々を主人公にした、いわば番外編の短編集では本編に登場する以上に激しく、世間の常識や自らの幸福さえも無視して、不幸や孤独を選ぶ誇り高い人たちが登場し、「若草物語」との決定的な差を浮き彫りにします。

しかし、その豊かで荒々しい感情はまた、国家や団体、宗教や思想に対して注がれることもあるのです。アンが結婚し多くの子どもに恵まれた中の、末娘リラを主人公にした「第10赤毛のアン アンの娘リラ」(番号は文庫本によって異なります)では、第一次世界大戦を背景に、アンの一家も村人たちも一丸となって祖国愛に燃え、戦争を賛美し、敵を憎悪し、戦争に反対する人を攻撃します。

アンの一家や村人にとっては敵国の兵士だった、ドイツの若者パウル・ボイメルを描いた「西部戦線異状なし」(レマルク)や、この戦いは国家と資本家を利するもので民衆にとっては何の益もないと訴えて反戦運動を試みたジャックを描いた「チボー家の人々」(マルタン・デュ・ガール)を通して、第一次大戦を知っていた私には、「アンの娘リラ」は、さまざまな意味でつらい小説でした。登場人物は皆、シリーズの他の作品同様に魅力的で少しも変わっていないだけに、現実以上に深く傷つけられました。「アンの娘リラ」を読んだ時以来、戦争に反対し平和を守ることは、私が最も愛する人たちと対立することになるかもしれないという予感は、私から離れなくなりました。

ただ、最近発見された原稿をもとに出版された「第十一赤毛のアン アンの想い出の日々」は、第二次大戦直前に書かれたもので、作品としてはまとまっていない断片的なものですが、「アンの娘リラ」とはちがって、明らかに戦争を嫌悪し拒否する筆致で書かれ、敵への愛と平和への願いが明確に見えます。

モンゴメリは、これを書いてまもなく自殺し、それは個人的な悩みや精神的な疾患によるものというのが定説です。しかし私は、「アンの娘リラ」で、大きな犠牲を払いながら正義が勝利して悪が滅び、よき未来が来ることを確信するアンの一家を描いたモンゴメリが、再び同じような戦争を人類が起こそうとしていて、それをくいとめるすべもないと感じた時の、深い絶望も無関係ではなかったのではないかと思わずにはいられません。

広島での被爆体験を「夏の花」という美しい小説で描いた原民喜は、再び日本が朝鮮戦争に加担しそうになった時、ほとんど何も語らぬままで鉄道自殺をしました。そこには、自分と愛する者たちが味わった、あれほどの悲惨も犠牲も無駄に終わり、同じ歴史がまたくり返されることについての絶望と怒りが、まったくなかったとは思えません。

モンゴメリの自殺にも、同じような要素はなかったかと、私は考えてしまいます。(「いたさかランド」の「空想の森」コーナー「赤毛のアンの子どもたち ―お帰りなさい、ウォルター―」を参照。)

モンゴメリの自殺の真の原因が何であれ、「アンの想い出の日々」に収められた文章の数々を読むと、「赤毛のアン」の作者も世界も、「アンの娘リラ」で描かれたように、洗脳されっぱなしにはならなかったことがわかります。「赤毛のアン」シリーズに一貫する自由で激しい魂は、結局は必ずすべての人々への愛、世界平和への祈りへと戻ってくると知ったことは私にとっての大きな救いで、限りない希望です。

しかし、それでも、たとえ一時的にでも、「赤毛のアン」の精神でさえ、敵国への憎悪や戦争への肯定に流されて、からめとられて行ったことは事実です。

こうした危険を避けながら、また再び体罰やレイプの容認へと逆流することのないように注意しながら、深い信頼関係や師弟関係を築いて行く未来を、教育の場でどうやって作れるのでしょう。

文学作品の多くは、それに対する励ましや希望をあまり語ってくれません。むしろ、その困難さと危険さを多く描いています。でも私は、それをしっかり見つめることが充分にできたら、それから先の道のりは、むしろ簡単ではないかと思っています。

英国のピーター・シェイファー「エクウス」という戯曲では、町の厩舎で馬の世話をするアルバイトをしていた少年が、大好きだった馬たちの目をアイスピックですべてつぶしてしまうという事件を起こし、その原因を探って治療するため、心理学者が少年と対話を重ねます。私が熊本で見た舞台では、まだうら若い市村正親が少年、金属の格子の枠をかぶった無気味で美しい馬を演じたのが滝田栄、心理学者は日下武史でした。

心を閉ざして反抗的な少年の信頼を得、彼の馬に対する愛や恐怖の底に何があったのか知ろうとする心理学者は、医師でも教育者でもあるわけですが、彼は冒頭と終盤に観客席に向かって長い独白をします。最初は、自分が仮面で自らの内面を隠したまま、クライアントである少年たちを生きながら解剖するように分析する罪悪感と恐怖、最後は、ようやく少年の深層心理をつかみ、治療が可能になったとの見通しが生まれたときに、自分が結局そうやって少年を健全な市民にして、社会に送り出すことが、逆に彼から何かを奪い、何かを殺すことになるのではないかという疑問です。

いいとも!取り除いてやろう!この子は、狂気から救われる。でも、それからどうなる?この子は、世間が自分を受け入れてくれる、と感じるようにはなるだろう。でもそれからどうなる?この子のような感情を、しっくいのように簡単につけ直すことができる、と思うのか?われわれが選んだ新しい対象にはりつけることが?ご覧、この子を!・・・この少年を、まじめな夫、実直なる市民、観念的な唯一神の信者にすることが私の望みだったかもしれない。ところがどうだ、結果はぬけがらを作ってしまっただけだ!・・・私が彼にこれからすることを、はっきり話しておきましょう! 私はあの少年の肉体の傷跡をなおしてやります。たなびくたてがみがあの子の精神に刻んだ鞭の跡も、消してやります。それが終ったら、あの子をピカピカのオ-トバイに乗せて、現代の世界に送りこむ。少年は、もう二度と馬の肉体にふれることはありますまい!私は、現代の「正常」という世界を、彼にあたえる。ただ肥らせるためだけに、動物を一生うす暗い所にとじこめて飼うことを良しとする世界を。

(「エクウス」より 精神科医ダイサートの独白)

このような自分の価値観や職業倫理、よりどころにする社会常識への疑問や不安は、昔の文学作品の教育者は持たないですむものでした。心理学者は、何の展望も見いだせないまま、最後は「闇です…」とつぶやいてうなだれ、そのまま照明は消えて劇は終わります。

魔法使いの話ながら学園小説でもある「ハリー・ポッター」シリーズでは、主人公のハリーが尊敬し愛してやまないダンブルドア校長は、終盤に近づくにつれてハリーと距離を置くようになり、そのことでハリーを深く傷つけます。
ただこれは別に教育的な意図があってのことではなく、悪との戦いの中でのやむをえない状況のもとで校長が選択せざるを得なかった行動であり、ハリーも読者もそれを知ったら納得せざるを得ない事情によるものです。言いかえればそれほどに校長の力もまた弱く不安定で限界があります。
ラストに近く校長は自分の過去にもふれつつ、自分は精一杯よい教師であろうと心がけてきたが、本来はそんな資格はない人間だったとハリーに向かって話します。実際に彼の若い日を知れば、それは謙遜や卑下とばかりは言い切れません。ダンブルドア校長は、誰が見ても、あらゆる意味で優れた教育者でありながら、決定的に不完全でもあります。

もしかしたら、教育者は全部そうかもしれません。でも以前の文学ではそのように描かれることはまずありませんでした。

映画「スター・ウォーズ」が映画の中でも外でも、長い時間をかけて作り上げた壮大な世界の基本となっているのは、オビワン・ケノビとアナキン・スカイウォーカーの不幸な師弟関係です。アニメ「カンフー・パンダ」にも、そのような悲劇的な師弟関係が登場しています。優秀な若い弟子、それに期待し愛を注いだ指導者、さまざまな事情から不満を抱き不信をつのらせ、指導者に反抗した弟子と、やむをえず誰よりも愛した弟子を、わが手で葬り去るしかなかった指導者。しかも完璧に滅ぼしてしまうことができなかったため、弟子はそのまま悪の権化となって指導者と対立するようになる。

「スター・ウォーズ」が描く、多くの生き物が住む惑星のいくつもを星ごと滅ぼしてしまうような、とほうもない規模での正義と悪との対決が、ゲームや絵空事ではなく、血が通った悲劇になっているのは、その原因をかたちづくる根本の原因が、あまりにも人間的で生々しい、現実の今の社会でも限りなく存在する、私たちの誰もがどこかで少しは知っている、師弟関係の破綻だからです。

「スター・ウォーズ」には熱烈なファンも多いので、ネットの2ちゃんねるでは、この作品に関する掲示板(スレッド)がたくさんあります。その中でときどき登場するのが、「何でもオビワンのせいにするスレ」というもので、周囲の日常茶飯事のうまく行かなかった数々を、すべて「オビワンが悪いんだ」と書きこむことでストレス解消するお遊びのスレッドです。おそらく若い人が多い、この映画のファンにとって、周囲のさまざまな政治的状況や自分自身の恋愛などによって、尊敬していたオビワンへの信頼がゆらぎ、憎悪をつのらせ、ダークサイドに落ちて行く優れたエリートアナキンの気持ちは、憐れみや共感や笑いや反省もこめて共感できる身近なものなのです。

17 :Order774:2016/02/14(日) 06:14:29.84 ID:4Ff/AGsG0.net
今日こんなに蒸し暑くて寝苦しいのはオビワンのせい

18 :Order774:2016/02/14(日) 06:41:03.04 ID:sFc2z6sG0.net[2/2] 今まで本命チョコを一度も貰った事ないのは全部オビワンのせい

19 :Order774:2016/02/14(日) 17:39:22.80 ID:NdFlyS0LdSt.V.net
>>18
愛していた!

20 :Order774:2016/02/14(日) 17:41:17.18 ID:cPtyHyXp0St.V.net
>>19
あんたが憎い!

21 :Order774:2016/02/15(月) 05:53:49.16 ID:TbQbUzOK0.net[1/2] 今日は冬に逆戻りして寒いのはオビワンのせい

26 :Order774:2016/02/16(火) 04:45:54.94 ID:kleOznHX0.net
近所のツタヤにクローンウォーズシーズン5が置いてないのもオビワンのせい

(2ちゃんねるの映画スレッド「何でもオビワンのせいにするスレ」より。優れた戦士のアナキンは、尊敬していた師であるオビワンに対して次第に「オビワンが悪い」「オビワンのせいだ」と不信感をつのらせ反抗し、「愛していたのに」と嘆くオビワンに殺されるが、最後まで反省も後悔もせず「あんたが憎い」と言って死ぬ。その後、改造されてよみがえり…)

思えば、先に述べた映画監督黒澤明は、晩年の映画のいくつかで、偉大な指導者が弱体化し、存在しなくなった世界を描きました。「デルスー・ウザ―ラ」の主人公もかつてのようなカリスマ性はなく、シェイクスピアの「リア王」を翻案した「乱」では偉大な支配者が老いて狂って行きます。「影武者」では死んでいなくなった武田信玄の代わりに偽物が人々の拠り所にならなくてはならない。

それらの映画はかつての「野良犬」「七人の侍」「赤ひげ」などの持っていた爽快感や迫力はなく、それほどに高い評価も得ていません。しかし、昔の作品のように美しく快い師弟関係や上下関係を描こうにも、そのような偉大な存在がもはや死んだり老いたりして、それに代わる者は生まれないという現代の悲劇を、黒澤明は的確に見抜いてテーマにしています。彼はその状況を魅力あるものとして描き出し、問いかけることはまだしていませんが、この社会の現状は確かにつかんでいたのです。

「スター・ウォーズ」の最新作の最終編はまもなく公開されます。どのような結末になるのか私は知りません。「エクウス」の心理学者ダイサート、「ハリー・ポッター」のダンブルドア校長、「スター・ウォーズ」のオビワン・ケノビ、いずれも現代の師弟関係ひいては人間関係の持つ、さまざまな課題と向き合っている姿を私たちに見せてくれていますが、新しい理想的な姿は、まだ描き出されていないようです。

現実が整理され把握され、文学作品として結晶するまでは一定の時間が必要です。かつて私は第二次大戦までのすぐれた文学の多さに比べて、ベトナム戦争を題材とした小説や映画が作られないのを、不思議にも物足りなくも思っていました。しかしやがて、オリヴァー・ストーンの映画「プラトーン」や、ティム・オブライエンの小説「本当の戦争の話をしよう」などの、現実に戦争に参加した人たちによる等身大のすぐれた文学作品が次々に生まれ、それは第二次大戦までの戦争文学を、なつかしく色あせた過去のものとするほどの力と熱を私たちに伝えました。ソビエトの崩壊も、いずれそうして描かれるでしょう。新しい時代の師弟関係や人間関係も、現実にはすでに生まれて存在しているのかもしれません。
だから最後は、少しだけ現実の話をします。
戦争法反対の闘いのときに活躍した若者たちの団体シールズに対する評価はさまざまです。大嫌いという人もいますし、限界を指摘する人もいます。しかし私は彼らを徹底的に高く評価しています。
国会前の抗議行動が最高に盛り上がって、柵を倒してデモ隊が乱入したとき、リーダーの一人牛田くんをはじめとして彼らは、皆に「座れ!座れ!」と呼びかけて、熱狂する人々をその場に座らせ、警官隊に挑発されず逮捕者や犠牲者を出しませんでした。柵を倒して禁止区域に入ることも辞さない積極性とともに、その最高潮の昂揚の中で、冷静な判断と未来への展望を失わない力は、私も含めた私の世代の若者には決してなかったものでした。
このようなシールズの行動や思考は、現在の野党共闘の中で大きな役割を果たしている共産党の指導者たちに、大きな影響を与えたと私は推測しています。シールズにつどった彼らは、既成政党や団体の言うなりにはならなかったし、何かの勢力に献身することもありませんでした。そうかと言って自分たちを過大評価して、若者としての使命感に燃え、悲劇の英雄気取りで暴走することもありませんでした。

彼らはおそらく指導者を尊敬しますが冷静な評価もします。的確な批判はしても、感情的な反逆や虚しい反抗はしない。計算もかけひきも悪いと思っていないし、自分の利益も守ります。しかし理想は失いません。シールズのように政治的な行動はしなくても、私の周囲の若者や、マスメディアを通して知るさまざまな若者の中にも、同様の精神を私は感じます。

もちろん、そのような柔軟で高い精度を要求される生き方は疲れますし、たたきのめして引っ張って行ってくれる指導者も少なく、これまでのお手本もない中では、行き詰まったりまちがったりする比率も高くなります。その結果、自分や他人を殺したり閉じこもったり心を病む若者も多いでしょう。
しかし、そのような若者すべても含めて、彼らはやはり新しいものを生み出しつつある世代です。
もちろん、それはひとりでに生まれた世代ではありません。体罰やレイプにつながる暴力や精神的虐待を何とか排除しようとしながら、戦後の社会と教育が生み出して、育て上げた若者たちです。

それに携わってきた私たちは、そこに生まれた不十分さの責任はとらなくてはならないけれど、それ以上にそこに存在する希望と未来を決して見失ってはいけません。それを共有し、誇りを共有することを忘れてはなりません。

闇から目をそらしていたり、つぶったりしていては、光は見えて来ません。現実を見るのが耐えられなければ、せめて、文学が描き出す現実にでも目を向ければ、何かが見えて来るものです。

「赤毛のアン」の世界と「若草物語」の世界の、それぞれを愛する人たちはどちらも必要です。できれば、どちらの世界も愛して下さい。だめならそれぞれを愛する両者が協力し力を合わせて下さい。そうすれば、新しい物語を生み出す現実を私たちはきっと築いて行くことができます。

(2019.12.28.)

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