地雷を踏む山羊
目次
現在、「改革」が進んでいる大学の現状について、掲示板などに書き散らしたものをまとめてあります。やや、酔っぱらいのくだを巻いてるようなところもありますが、そういう中にも真実はあるものです。なお、題名はアフガニスタンで地雷を撤去するのに、山羊を歩かせてるとか聞いたことがあって、何だか身につまされたからで、こんなことを書きなぐった私の末路を見ていただくのもいいかなと。(本当にやけですね。やけっぱちで書き散らしたことなので、読んであきれたり、不愉快になったりする方も多いと思います。ですが、それでも、特に大学外の方に読んでいただきたいです。私の言い過ぎや思い込みをわりびいても、このような状況がいくらかはたしかにあることを、お察し下さい。)
──(1)評価を気にしてて教育ができるかよ──
どーせ、うちの大学のシト、ここを見ないと思うので、つい書きたいこと書くけど、私ず~~~っと、この大学改革の間中、頭が、世の中の動きとずれてたのよね。だって、政府が、日本の大学を調査して、評価して、ランクをつけるって聞いたとき、もう、ごく素直に、自然に「あ~、そ~か。悪い大学に予算をたくさんやって再生をはかるんだなあ」って、とっさに思ったんだもんね。ところが、話はまったく逆で「評価して点の低い、よくない大学は予算をどんどん減らして切り捨てる」っていう話だったわけ。
実は私は、この時点でもう、「あたしにゃ、ついて行けんわい」と投げてしまった。それで、その後、学内でもどこでも「評価されるためにはどうすればいいか」って感じで、皆が目の色かえて、あ~だこ~だと話し合いとかしてたけど、私はちっとも、のれなかった。
だって私はすごく恐かった。そんな風にものごとを考えるのが。考えるくせが自分につくのが。これでも、教育者ですよ。先生を養成する大学にいるんだよ。学内には「障害児教育」とか「福祉教育」なんて課程もあるんだよ。先生はどんな心がまえで生徒に向き合うかって、そういうことを直接教えるのは私の仕事じゃないけれど、やっぱり、そういう大学にいるのだもの、意識しますよ。学生の前で、どんな生徒でも見捨てないで、大事にして、心をこめて育てていこうってそういう気分に見ていて彼らがなるような、せめてそういう人間でいたいって。
それが、人に評価されなきゃ、落ちこぼれないようにしなきゃ、役にたたないものはどんどん切り捨てなきゃ、生き残るためには何でもしなきゃ、そんな気持ちに自分がなったら、どの面さげて、学生に言うのよ。どんな子でも大切にしましょうなんて。落ちこぼれのない皆で助け合うクラスを作りましょうなんて。いじめをなくしましょうなんて。どんな人にもどこかいいところはあるのだから、そこを見つけましょうなんて。
誰にでも生きる権利はあるのですよなんて。
それを心から言えるために、いや、言わなくたって私を見てるだけで、私と話すだけで、学生がそういう風に感じてくれるためには、私自身が、そういうことを信じてなければだめでしょう。勝ち残ろう、評価されよう、じゃなきゃおしまいだ、そのために都合の悪いものは切り捨ててしまおう、なんて、そういう考えが自分を侵食するのが、自分がそんな感覚に染まるのが、汚れるのが(とまで言うぞ、もう)、私はほんとに恐かった。それは教育者としての私の破滅だと思った。 はっきり言って、私は今、学内で「うちの大学が生き残るためには、世間に評価されるためには」と真剣に考えたり発言されたりする先生方、特に教育関係の先生方は、このことをご自分の中で、どうやって始末つけ、整理されているのか、ほんとにほんとにほんとに聞きたい。
──(2)会議を人まかせにすりゃ暇になるって世迷い言──
もう少し整理して読みやすくして、あるいは過激な表現はつつしんでから書こうと思ってたのだけど、そんなことしてるひまがなさそうだから、危険を承知でこのまんま書くっ!
この前のもひとつ前の全学集会で示された、これからの大学の運営の案では、あらゆることがといってもいいぐらい、ほとんどのことが、私たちの参加する教授会ではなくて、経営の専門家とか、よそから招いた人も入れた少数の委員で決めることになりそうだった。
それで、その理由というのが、「先生方も会議で多忙だから、そういうややこしい決定は専門の委員会にまかせて、研究や教育に専念できるようにしてさしあげたい」ということだったので、笑わせる、とまでは言いませんが、よく言うよ、とは確実に思った。
私は、この方針が、あるいはこの思いやりが、どれだけ文部科学省なり政府なりから命じられた、ぬきさしならない、反抗できないものなのか、それともうちの大学の、まじめで働き者の執行部(皮肉じゃないです)が良心的に先取りしてやろうとしてることなのか、それこそ暇がないから調べてなくて知りません。(本当は一番そういうことを全学集会で教えてもらいたかったのだけど。)
そして、ひょっとしたら学内には、たしかにそれで少しは暇になるのならそれもいいかなあ、と思っている先生方もいるかもしれなくて、もしそうなら、それは想像力の欠如だと私は思う。そんなもん、暇になるはずがないではないか。でも、それはちょっと今おいといて、ともかく、さしあたり、ひとつだけ言わせて。
──(3)ほっとけば空から何かが降ってくる──
会議が嫌いという点では、私は誰にも負けないと思う。だから、自分が主導権とれる会議は一分一秒でも短くすることに命をかけてる。回数も少なくしようと。(でも、そうしたら、時間や回数の多い委員会の委員の方が「仕事してる」と評価されて高い点数つけられて、お給料とか上がったりすることもあり、委員の先生には気の毒なのかもな。でも、評価なんてそんなもんだし、少々給料上がるより、短い時間で終わる方が身体にも心にも頭にもいいと思うんだけど。いや、そう言えば、サービス残業させてたのが処罰された上役が「仕事が遅い人に金出すのか」と開き直って怒ってたのはそこのとこかな。)
ともかく私は会議が大嫌いだし、「授業の方がまだまし」と学生に冗談言ってるように、研究と授業に専念してたいよ。誰に言われるまでもなく。
しかし、できないよね。してちゃいけない。
私は小学校の頃から、「あ~もう、一人でそっとしといてくれないかなあ」と思いつつ、そうしてると結局、クラスが混乱したり、仲間われができたり、あげく、「あんたはどっちにつくの」と責められたり、ややこしいことがいっぱい起こるから、結局、自分がリーダーになった方がよっぽど話は簡単と思ってリーダーになって、皆を幸せにして、そして自分はこそっと雲がくれして一人で本読んだりしてた。「幸せな人間は他人がどう生きようと気にしない。だから私を放っといてくれる。私が一人で好きなことしていられるためには、皆を、回りを、世界を幸せにしとくしかない」ということが、そのころから私、骨身にしみてた。
ついでに言うと私は「あなたもほら、私と同じにしなさいよ」と自分のやり方を人に押しつけたり、他人に何かとかまってくる人は、あれはまったく、いかに幸福そうに見えても、実は満たされてない、不幸な人だと思ってる。それがいいか悪いか、役にたつかたたないかはまた別として。で、私は自分はこの生き方で幸せなんだから人のことなんかどうでもいいのだが、他人も幸せにして、私と同じ気分にさせておかないことには、私のこの幸せをかき乱されるのがいやなので、全人類の幸福を心から願い、そのための努力を惜しまない。
それでなくても回りに関心持たなくて、自分の研究だけしてたら、気づけば世界は核戦争で滅亡してたって、そこまで行かなくたって戦争だ不景気だ言論統制だにまきこまれて研究どころじゃなくなったって話、いくらでもあるじゃない。
などという大きな話はこれもまた、おいといて。
まあ、それにしても、大学の最近の会議の多さ、長さ、ややこしさは異常である。私みたいな年寄りはともかく、若い先生たちは本当に気の毒なんてものではない。
でもね。
ひとつだけ言わせてというのは、ここからなのだが。
今、こんなに、会議が多くなり、長びいて、ややこしいのは、どうしてか。話し合われる内容の多くは、何が原因で話し合われなきゃならなくなったか。
結論。大学に政府が、お金をろくにくれないからですよ。
──(4)カネがないから、会議が増える──
私は、細かいことは苦手だし、詳しいことはわからない。
だからいつでも、ぽーっとしか見てない。それでもわかる。それだからわかるのかな。
今、大学の人事、予算、カリキュラム関係は、ハリー・ポッターの魔法学どころではなく、ややこしく、わかりにくい。もうあなた、ほとんど呪文の世界である。スコラ哲学、原子物理学の世界もかくやと言いたいほどで、説明しようとしてもできない。笑ってしまう。
こんなややこしい話がまかりとおって通用するのは、大学の教師たちが「なまじ」頭がよく、「なまじ」細かい記憶力があって、資料を操作するのが好きということもたしかにある。他の世界だったらこんなこと、誰もやらないだろう。やれないだろう。
彼ら(はっきり言うけど私はちがうもんね)は、考えること、話し合うことを苦にしない。たとえ、とってもくだらないことでも基本的にそういうことが好きである。そして、(これは私もそうだけど)基本的にはバカ正直で、まじめである。
この愛すべき(皮肉ではない)性格が、膨大な規則、申し合わせ、約束事の伏魔殿をこしらえた。(まあ、これって、もしかしたら公務員の性格っていうのも入ってるかもしれないが。)
だから、そういう大学人の性格が拍車をかけたとこはあるけど、基本的にはもうそれは、政府が、くれるべきお金をまったくくれていないから。会議が増えて忙しい原因は、これにつきます。
この十年間、社会の要請(そんなものあったのかどうか、少なくとも、昔からあった以上に今急に出てきたかどうかはすごく疑問と思うけど)もあって、政府は大学にいろんなかたちで変革や改革を要求してきた。
それに対する大学の対応のしかたにも、いろいろやり方はあったわけで、だから、誰が悪かったとか、どっちがバカだったとかは今は言わない。わからないこともあるし。
ともかく、それで大学は、いろいろ、ものすごく変わった。今の社会に迎合、じゃなかった、適応した内容の学部を作り、学科目もカリキュラムもそれにふさわしく、すべて手直しした。
(実を言って、私は、うちの大学だけ見てても、この短期間にこれだけのことやってのけた先生たちのパワーと能力にあきれている。日本の大学の先生たちって、ものすごくアタマいいんではないのだろうか。この対応の速さは政府も社会も予想外だったのではとマジで思っている。過労死、自殺者、精神障害は私の周囲でもふえてるけど、まあ、それにしてもである。)
それで、もうどう考えても、ふつう、これだけ新しい内容の部門を作り、学科目をふやしたら、人もそれだけふやすべきでしょう。
だが政府はふやさなかった。公務員の定数削減ということで、むしろ、減らした。今も毎年、へらしつづけている。
人だけではない。予算もへらしつづけている。新しい分野の学科を作ったら、当然、それにみあって、学生指導のための書籍を図書館に入れ、機械や装置を買わなきゃいけない。私たち教官も勉強しなきゃいけない。
だが、その予算は、びた一文(と言っていいのか?多分、いいと思うぞ)、ふえなかった。
──(5)運転もしろ、たこ焼きも売れ──
国鉄がJRに移行し、国労組合員がいじめられた時、運転士や機関士としてのプロのプライドを持つ国鉄マンを、キヨスクでたこ焼きやういろうを売らせ、レストランでウェイターをさせたとか聞いて、目にも見て、それってひどいと思ってたけど、考えてみたら、私たちも今同じことをやらされていて、ただ、ちがうのは、私たちは、列車の運転も前と同じようにやらされていて、その上のプラスアルファで、たこ焼きやういろう売らされていて、もう一つついでに言うと、たこ焼きの原料の小麦粉も紅しょうがもろくにくれないで、うまいたこ焼きを作れと言われていることだ。
私は自分の専門分野以外では、良心などあまりないから、昨日、本で読んだことを今日学生にしゃべるのなんか、それほどは気がとがめない。けれど私の同僚たちは皆、そういう、専門分野以外のことを人に教えるのをすごく苦にするし、気がとがめ、めいって、苦しんでいる。言っとくが、そっちの方が本当で、当然である。
私はこのHPに、ぬけぬけと「比較言語文化概論」のノートを公開している。けれど、語学のひとつもマスターしていない私が、翻訳で読んだものだけで、こんな授業をするなんて、実は学問としてはめちゃくちゃなのだ。江戸時代の文学を専攻する私は、変体仮名も読めない学者がかりにいて、翻刻だけで読んだ資料をもとに、ちゃらちゃら書いた論文なんか、大っぴらに、けっと言ってハナもひっかけない。それと同じことだ。
学問とは、気も遠くなるような、血のにじむような、単純で、手抜きのない、長い時間をかけた努力の積み重ね。ごまかしは絶対にきかない。今の若い先生たちも含めて私たちは皆、そのことをたたきこまれて育ってきて、今日がある。そのようにしてつちかった知識と確信だけをよりどころに、教壇という聖なる場に立ち、人を教えるというそらおそろしい仕事に耐えてきた先生がたにとって、ろくに調べる時間もない、確実に確かめられもしないことを、人前でしゃべる苦痛と恐怖、屈辱感、それからくるストレスは、のぞみの運転士が材料けちってたこ焼き作れと言われた以上に大きいかもしれなくて、時には死にいたるものでさえもあると思う。
(ちなみに私は「比較言語文化概論」の授業を担当した時、回りの皆に「大濠公園でボートこいでた人間に、ミグ戦闘機を操縦しろと言うようなもん」とぼやき、その内に、「まあ、ジェット機が海に落ちた時、その破片に乗って、ボートこぐ方法を教えていけばいいか」と、わけのわからん開き直りと割り切り方をしたのだったが。)
──(6)実状とやらを知りたいか?──
それで、もうちょっと、具体的に話そう。
人がふえない。金もふえない。でも、学生サービス、社会サービスってことで、仕事はどんどんふえて行く。
現職(つまり、今現在、昼間は小中高校で勤務しておられる)の先生に来ていただくためということで、夜間の大学院の授業が普通になった。朝の8時半からの授業に来て(当然学校に着くのは8時前)、夜の9時に授業が終わるというパターンなんて今や珍しくもない。集中講義もしましょうとのことで、土日も返上、夏休みも削られる。
休みが長くていいと言われるけれど、授業の準備をするのには、いかにいいかげんでも最新の論文を読み、関係資料を集め、論文のひとつもまとめるぐらいの思考や熟考をする時間は必要で、それはひと月ふた月では短すぎるほどなのだ。それが充分とれないまま、自分の考えがまとめきれず、新しい知識も仕入れられないまま、学生の前に新学期になって立つ苦痛は、このいいかげんな私でさえ、身体に悪いほど苦になる。
入試も以前の年一回から、このごろでは二次募集、外国人向け、推薦入試、と6~7回に増えている。普通の授業や何かとちがって、入試関係はミスが絶対許されないから、そのストレスはものすごい。ひとつの問題作るのに、何度も何度も会議をし、使っている教科書や地域差で不公平になることはないか、いくつも正しい答えが出てしまうような可能性はないか、誤解をあたえる問題文の書き方はないか、印刷ミスはないかなどなど、検討に検討を重ね、訂正に訂正を加える。その都度つどに、訂正した原稿が、コピー機に、パソコンにうっかり残って誰かに見られることはないか、いつもいつも気になる。何しろ、これも予算がないから、私たち普通の(つまり大多数の)教官には、来客を接待するへやも、学生と話をするへやも、秘密の資料をつくるへやも何もない。全部、同じ研究室をかたづけ、かたづけ、やるしかないのだ。この多忙さの中で私たちはそれこそ分刻み、秒刻みで学内のあちこちに移動し、会議室から教室へ、教室からまた会議室へ、研究室へ、また会議室へと学内くまなく走り回るが、その間、学生や業者が出入りする研究室にも、立ちながら食事をかっこむ食堂にも、こういう資料は持って行けない。おいて行けない。手元においてチェックしたくても持ち歩けない。帰ってやろうと思っても、帰宅はいつも遅くなり、食事と入浴すませたら、大抵夜中を過ぎている。
どうやって、機密保持しつつ、良心的な問題を作ろうとぎりぎり努力してるかは、それこそ機密だから書けない。人が少ない中で、複数の問題作成や入試作業に一人がどれほど関わらなければならないか、どれほどいくつもの会議が錯綜する中、混乱が起こらないよう配慮し神経使ってるかは、ただもう、お察し願いたいとしか言う他ない。こういうことはすべて機密事項だから、他人には愚痴をこぼせないどころか、自分が担当となってることまで隠さなくてはならないのだ。今から三月までは、私たちには胃がねじきれるような季節、四月になって新学期がスタートすると、ほっとして、こんこんと眠りたくなる。
私は現職の先生に来ていただくのは、はっきり言って、とてもうれしい。現場の声が聞けるのは楽しいし、教えたことがすぐに生かしてもらえるのも、反応が返るのもとても勉強になる。入試の回数を増やして、多様な人に来てもらうのも大歓迎だ。ただ、そのためには人手がいる。金もいる。それがまったく保障されないままなのである。
ついでに言うと、社会への貢献と言うなら、私は十年以前にはそれこそ、「カルチャーセンターなんて…」と白い目で見られてたような気もする中、せっせと市や県の施設の公開講座をひきうけ、一般の方との研究会も行い、外部から頼まれる講演会にも出ていた。(も~、ついでのついでに何でも言ってしまうが、そういうので、ぼろもうけしてるんだろうと言われると困るから言っておくと、十年間に一度か二度、六、七万円もらって腰が抜けたことがあるけど、その他は皆、こういう講演会の講演料って、一万円ぐらいです。研究会は、楽しみでいっしょに勉強してるのですから、講師料はもらいません。一回しゃべって何十万なんてのは、よっぽど有名な方の話。私の同僚たちもだいたい私と同じぐらいでしょう。一回しゃべって一万は高いといえば高いけど、準備のための本買って読んだり、調査に行ったりしていたら、赤字になる方が多いです。それで思い出したけど、この十年間に私、二度ほど講演料をいただきそこねました。もらい忘れたというか。わりと「手作り」という感じで運営してる一般の方の会とか、逆に大きな企業がやってるとことか、講演が終わったあと、いろいろお話かわしたりしてると、夢中になって忘れてしまわれるらしく、帰ってから「あら、いただいてなかった」みたいなことが。その内気づかれるかなあ、何か言って来られるだろうと思ってるうち、こっちも忘れてしまうのよね。一度は熱でふらふらしながらしゃべって、ひきとめられて話し込まれて、やっとかっとで失礼して帰ったら、お金いただいてなかった。あ、一、二回じゃないかも。もっとあるかも。ひょっとして若い先生などは、今でもそうやって言い出せないでいる人いるかもしれないから、主催者の方、よくチェックして、講演料だけはまちがいなく、すっと渡して上げて下さい。何しろ、私なんか弱気だから、「こんなしょーもない話して、お金もらっていいんだろうか」「つまんない話じゃなかったかな」と、いつも忸怩たる思いでいるもんで、講演終わったあとで主催者の方に「報酬下さい」って言うの、けっこう勇気がいるんですよ。一時は、講演の準備より、「その後、お金もらえなかったらどうやって言い出そう」って、毎回そっちが気持ちの負担になっていたカルチャーセンターもあったからね、どことは言いませんが、某有名デパート主催のやつ。売春したあと、金もらう娼婦の心境がわかる気がしたりして。そんなこんなで、まあそれでも一応やってはいたのですよ。)
でも、大学のあまりの多忙さに、このごろは皆、こういう依頼はお断りする。人材バンクみたいなのにもいっさい登録していない。一般の方にお話するのは大好きだし、勉強にもなるけど、身体がもたない。死にたくない。つまり、私に関する限り、「大学の社会サービス」が声高にうたわれ出したころから、社会サービスする時間がなくなった。でもまあ、これは、他の先生たちが、わりとカルチャーセンターとかに行きやすい雰囲気が昔に比べるとずっとできてきてるから、それはそれで、まあいいけど。
──(7)本当は根っからしないでいい努力──
学生サービスについても同様だ。
「専門でないことを授業で教える」、戦闘機パイロットのういろう売りのストレスは、少なくとも私にはない。(これは能力の問題ではない。単に私が生きのびるためには恥など捨てることにしているだけだ。)
だけど、人手も金もなくて学生サービスをふやそうとすれば、会議がどんどん多くなり、これは私にも被害がとても波及する。
なぜそうなるかを説明しよう。
もし、人や金に余裕があれば、いや、まともにもらえていれば、学生に一番いい、わかりやすいかたちで時間割が組めるし、計画もたてられる。しかし、何しろ人がいない。一人がいくつもの講座(教室)の授業をかけもちし、あちこちのちがった分野の学生の指導を担当しなければならない。
その結果、時間割やカリキュラムは、国際空港のジェット機の発着なみの入り乱れ方になる。その調整だけで気が遠くなるような作業が増える。
当然、学生にとってもわかりにくい。だから、こちらが単位のとり方、受講のしかたをことこまかにアドバイス、ガイダンスしなければならない。最近の学生が手取り足取りでないと何もできない、しないという文句を世間でよく聞くが、本当にそうかどうか私は検証したことがない。どんなちゃんとした学生でもしっかりした学生でも、手取り足取りしなかったら、あんな複雑怪奇なカリキュラムや必修単位数がわかるとは思えないから、手取り足取りするしかないもんね。授業の中身にどうこう関心持つ前に、卒業に必要な単位をそろえる形式をつかむのが、税理士なみの能力を要求されているような気がする。私がもし今時の学生だったら、授業の内容以前に、この時間割の作り方できっと留年するだろう。
人事にしてもそうである。学生に必要な授業の確保、分野の確保、そのためにどういう人を新しく採用するか。一人の先生がやめたあとの補充をどのように行うか。これなども、細かいことは機密事項だから言えないけれど、人がどんどん減らされて行く中、どうするのが一番公平で、被害が少ないかということを検討するのに、担当、関連の委員会は膨大な作業とエネルギーをついやする。うちの大学はまだ、きれいごとと、やせがまんが一応何とか残っていて、あまりなりふりかまわぬ見苦しい、対立や人脈や抗争はないので、筋道のある言い分が通っているが、それでもなお、判断の基準は不可能に近いぐらい難しい。各講座の主任は、自分たちの分野が人員が減らされたらどう困るかを説明し訴えるのに、せっせと資料を作らねばならない。そういうことをなるべく避けるように配慮しても、それでもやはり、そういうことに多大のエネルギーが使われてしまっている。
文科省と社会が「やれ」と命じたこと、それに応じて大学が「やろう」とした再生の試み。そんなのする必要があったかどうかはおいとくとして、やったからには、やらせたからには、人と金が新たにあるべきで、それが全くない中で、今いるメンバーだけで新しくふえた仕事までやらねばならない無理をする、その無理なことの工夫のために、本来だったらしなくてもいい複雑怪奇、面妖な仕事が異常なまでに増えているのだ。
私は予算関係にはあまり詳しくないけれど、ここも事情は同じだろう。
──(8)ろくでもない快感──
こんなことになっている理由の一つは、大学教官がややこしいことが好き、苦にならないということももちろんある。また、カリキュラムにしろ人事にしろ、他人にまったくわからない、複雑な表や計算を、自分ひとりがすらすらわかって説明することに快感を感じる傾向、またそのことに尊敬を感じる傾向があることも、たしかにないとは言えなかった。(最近はあまりに多忙になった中、この傾向はどちらもうすらいできている。要するに、あのような「事務的な衒学趣味」ってやつは、現実が厳しくなれば生き残れなかったっていい証明だろう。)
しかし、もう一つ、あえてここまで大学のしくみをややこしくした大きな理由は何だかだ言っても本学の教官が学生たちを愛し、大切に思っていたことが大きい。それはもう、まちがいがない。
──(9)大学教員の悲しいサガ──
私は時々、ジェンダーっぽい話で、女性研究者が家庭での役割分担で、結局子育てを押しつけられてしまうことが多いのを、苦々しい、悲しいことに思いつつ、しかし実はこの問題の最大のネックは、子育てそのものが、基本的にはやはり楽しい、人間として充実を感じる面があるということだなあと痛感する。まあ、どんな仕事もそうだろうが、不当な仕事を押しつけられて断固拒否する時に、一番障害となるのは実はその仕事そのものが持つ魅力だったりするわけで、子育てはその最たるものって気がする。どんなに自分の研究を阻害し、人間としての成長発展にじゃまになるいらだたしいものであっても、ひとつの命がまがいなく自分の力で育っていくということは、やはり喜びだし、別の面での成長発展を自分の中に確実に感じられることでもあるのだ。
どの大学でもそうなのかはわからない。しかし、本学では、教官と学生の結びつきは強く、「学生のため」という感覚が、おそらくはほとんどの教官に実感として存在する。
私はこのところの大学改革の大合唱の中で二言めには「学生のため」という言葉がふりかざされることに、実は吐き気を覚えている。本当にそう思うなら、公共事業や軍事費に回す予算の10分の1、いや100分の1でも政府は教育費に回せ。国民もそういう政治家に投票しろ。それを全くしないでいる人間たちに「学生のため」などという言葉をいけしゃあしゃあと使ってほしくないと、腹の底から考える。そんな人たちが「学生のため」なんて、真剣にこれっぽっちも考えていないことはみえみえであるから、まったくまともに聞く気になれない。
だが、そんな空疎なスローガンとは別に、本学には(多分、他の大学でも)、「学生のためによいことをしたい」という気持ちは、どんな教師の中にもDNAとして刷りこまれ、存在している。そのように教えられてきたからでもあるし、その方が楽しいし、楽でもあることを、長い教師生活の中で学ばせられてきているからでもある。基本的には教師は皆、教えるのが好きで、育てるのが好きなのだ。見ていてそれをつくづく感じる。自分についても、それを思う。もちろん、いろんないきさつから、それが不充分になっている時もあれば、人もいる。学生にとっては迷惑なやり方や、まちがった方法で、それを発揮する教官もいる。だが、それはまた別の問題だ。意見や方針はちがっても、教師は個人としても集団としても、学生のことを愛し、彼らのために行動せずにはいられない、悲しいさがを持っている。
だから、功利的、効率的英断ができない。
大学改革にたずさわる中、私は何度も、もっとうまい、楽をする、手をぬくやり方を考えろよと、いろんな局面で見ていて思った。この予算で、この人員で、できることには限りがある。我々が疲れて、研究も授業もできなくなれば結局はそれは学生のためにもならない。まずは入試もカリキュラムも人事ももっと単純にして、誰にもわかりやすくして、エネルギーとパワーを少しでも温存することだ。そう思ったし、個人的にはそうもした。学内外での研究会の数を減らし、学生と話す時間も減らした。だから今、生きていられる。
ついでに言うと、昨今よく言われる「オフィス・アワー」(教官が研究室にいる時間を決めて学生との応対の時間を保障すること)などというのは、人に言えない深刻な悩みを抱えた学生や、二十人からの大人数の学生を相手にしている現状では、まったく現実に即さない。「オフィス・アワー」を実効させようと思うなら、一週間ずっと「オフィス・アワー」にしなければなるまい。一定時間研究室にいて、対応するだけでいいのなら、ある意味こんなに楽なことはないが、確実にサービス低下につながるだろう。だから私は実施する勇気が持てずにいたのであるが、現在、学生に対する私の愛情はいろんな理由から、最低ランクまで落ちていて、だから四月からは、この、歯医者か有能弁護士のような制度も、実施してやろうかと考えている。
──(10)そんな人材いるわけなかろ──
しかし、全体的に、いや個人的にも多くの先生は、私のような考え方を決してしなかった。「学生のためにはどうすればいいか」を常に優先し、手ぬきも、楽もしようとしなかった。人がへって、金がへって、やることが増えても。その結果が、死ぬほどややこしいカリキュラムであり、人事であり、組織であり、その運営のために費やされる膨大な手間と時間だった。どこにしわよせがくるかというと、教官(多分、事務官もだ)一人一人の身体と頭と心であり、ここはまあ、しぼりあげればどこまでもしぼれるし、無理がきくというのが現状で、しかしまあ、それもそろそろ限界にきているし、どっちみち長続きはしまいと思って私は見ている。
私は自分が思ったけれど実行されなかった方法と、多くの先生が選んで、今そうなっている方法と、どちらがよりよかったのか正しかったのかはわからない。だからこそ強く主張もしなかった。
だが、これを見ていて、実感として確信するのは、「教育は功利的なものさしでは絶対にできない」ということだ。この間の大学改革の中で、本学の先生方は、それを身体で証明してしまっているではないかとさえ思う。目の前に学生がいるのに、効率で切りすてることなど決してできないということ、そういうことのできる人がほとんど(ひょっとしたらまったく?)いないということを、私はこの間見ていて、思い知らされた。
法人化、営利優先、企業の感覚、そういうことで教育は絶対にできない。そういう世界、そういう集団なのだと、本学の先生たちは自ら証明してくれた。
それで、この世界、この集団は、これからどんなになるのだろう?
人間の細胞は三週間もしたらすべて入れ替わるとある院生が私に教えた。昔、先輩からもそんな話を聞いたことがある(だからおれは過去の失敗など気にしない、とその人は言っていた)から、多分本当なんだろう。
それを聞くたび思うことだが、私は政府や世の中が「新しい大学」「社会に開かれた大学」とかいうたびに、きっとそういう新しい大学にふさわしい教官というのを、どっかからわんさか持ってきて、私たちみたような古色蒼然としたのはクビにして、まったく新しい内容の授業をさせたいんだろうなあ、そういうことを言う人たちは、と思った。そういうことが可能なら、私たちなどとっととクビにされるんだろうし、それはそれでもしかたがないよねと思ってた。
だがそうはならなかった。そういう大学を作ろうとして、そういう授業をさせようとして、人をさがしたって、そんな学者や研究者は今んとこ、どこにもほとんど、ひょっとしたらまったくいなかったからだ。
実はこのこと一つをとっても、この間の大学への批判、大学改革がすごく不自然で、奇妙なものだとつくづく感じる。ひとつの社会、組織が変わって行き、古いものが時代にあわなくなり、新しいものが求められている時には、必ず、それにみあった、ふさわしい新しい指導者層や人材が蓄積されて存在しているものだ。そういうものが台頭しているのに、旧態依然とした支配者層がおのれの地位にしがみついてるから、追い落とせ、首すげかえろって話に自然になる。・・・んじゃなかろか。私は歴史は専門じゃないが。それとも、これは人類始まって以来の全く新しいケースなんだろうか。氷河期の到来じゃあるまいし、そうそう自分の時代だけが特別で新しいことが起こるなんてことは思わない方がいいように私は思うのだけどね。
大学改革をやってて、つくづく空しい、とある先生が(学部長クラスの人が)私に言った。何が空しいってそれは、もともとこのことは大学の再生とかの話でも何でもなくて、要するに金がないから予算を削る、人を減らしましょうってことでしょう。そこから出てきた話なんで、学生のためも社会のためも、皆あとからついた理屈じゃないですか。
私もまったくそう思う。
どこの組織もそうであるように、大学の内部に、あり方に、問題がなかったなどと私は思ってはいない。時代にあわせて刻々変化し、対応していく必要も皆無などとは言わない。そのための努力が充分だったかどうかもわからない。(言わせてもらえば私は自分と周囲の先生を見ている限り、この努力を怠ってきたとは決して思わない。しかし、日本の大学全体を見た時はどうかわからない。)
しかし、それは、注意深く、討論や検討を重ねながら手をつけていくべきことだったのであり、今のようにあわただしい流れの中で、金も時間もかけないまま、効率を至上主義に行われるべきものではなかった。(まだつづきます。でも書くひまがあるかどうか。)
これを書いて、もう十年ほどになることもあり、この文章は、ここで終わりにします。
その後に大学について私が書いたものは、「大学入試物語」、「空想の森」の中のパロディ小説「アカデミアにて」などです。
また、「岬のたき火」の「日記」や「きゃらめる通信」にも、大学の現状はときどき出ます。
私もすでに定年退職しており、大学の現状はあまり知りません。しかし、決してよくなっているとは言えないようです。(2019.2.14.)