私のために戦うな(未定稿)受身の愛(下)
──(7)──
ところで、このへんでそろそろ触れておいた方がいいと思うのだが、私はこれまで、「不自然」という名のもとに葬られるものについて話してきたが、そういうことの裏側には、「それが自然」という言い方がいつもある。つまり、何てたって、男は攻撃するのが「自然」で、女は受身なのが「自然」だといったたぐいの言い方で、レイプまがいの映画の描写はそれを反映しているにすぎないとかいうことになる。
こんな話には反論はいっくらでもできるわけで、だいたい、そんなに「自然」がいいなら、避妊も中絶もやめりゃいい(と言ったら、やめろという意見もかなり出そうだから、ちょっと危険かな)し、エアコンの使用も、病気の治療も、新幹線も、化粧も、国家も、道徳も、法律も、やめたらどやねんとも言える。人間は快適で幸福に生きるためには、自然をかたっぱしから作り変えたのであり、どんな自然を残すかは、議論し、選択されなきゃならない。
(「経済はすべてに優先する」みたいなことをマルクスが言ったのだったっけ、それをしばしば痛感するのは、えらそうな理屈をあれこれ言っていても、社会のしくみや、金儲けのために、そっちの方が便利だったら、こういう変な「本質」論や「自然」観なんて、あっさりどっかにふっとんで、世の中の都合のいいように理屈は変わるということだ。
中絶や避妊の問題はさっき言ったように、まだ反論も根づよいが、それにしても、もうとても後戻りできないところまで実施され、社会に文化に食い込んでいる。実は、性教育らしきものなどなかった時代、幼い私は、避妊の具体的意味を知り、「それって、子ども作る以外に性を楽しむことを、公然と認めてることじゃん」とあっけにとられ、とっさに「じゃもう、世の中に恐いものなんてない」と、なぜか思った。つまり、性=子づくりという、本来の動物としては大前提の自然なことを人間はもうとっくにやめてるんだから、「本来」も「自然」もとっくにあるもんか、と思った。女は子どもを生むべきだとか、人は孤独では生きられないなんて、よく言うよねーと思い、以後、そういう理屈や発言が私はまったく気にならなくなった。まともに聞くような理屈じゃねーよと、はやばやと見限ったとでもいったらいいのだろうか。
また、大学の頃だったと思うが、つくづく考えていたのは、家を守って敵と戦うとか、家を建てるとか、そういう、かつて家の中で男がしていた仕事は、みな社会や企業が代わりにやってくれるようになっているのに、料理とか掃除とかはまだ個人がやるものとして残されているということだった。家事は女がするべきとか、女は家にいるべきとか言うけど、男の家事は警官や大工が専門職として社会のものになってるのに、不公平だろうがと怒っていた。
それがまた、共稼ぎ家庭が増えるにつれ、あっという間にスーパーやデパートでは弁当類やおかず類が豊富になって、女性の家事から仕事はかなり、専門職として、独立してきた。以前はあんな豊富で安価な食事など、売ったりはしてなかった。それはむしろ、あってはならぬことだったはずだ。妻が作るべきもの、だったから。
職場のお茶くみだって私は相当こだわってたけど、そういう理屈ではなくリストラが進んで、余裕がなくなると、あちこちで、お茶はセルフサービスでという体制が確立された。でも、そういう解決のしかたって、何かとても、腹が立つのだ。
要するに、経済効率の前では、女の本質も、男の本質も無視される。そういう時、私はいつも、真剣な議論をしたり問題提起をしていた自分がアホに見えて、腹が立つ。もうこうなったら何でも言うが、やはり私が幼い頃、世間では処女が非常に大切で、レイプされた時の大きな問題のひとつは処女膜が破られることであった。雑誌の人生相談でレイプされた女性に対し「処女膜が失われても、あなたの処女性には何の影響もない」と、回答者たちはいつも教えていた。
それはそのとおりなのであるが、しかし、そんなこといろいろ言うより、そもそも処女「膜」なるものなんか、存在しないと言えばすむことだったと思う。でも、どの回答者もそれは言わなかった。そして、この私ですらが、そういうものが女性には存在し、性行為の時に男性の性器によって破られるものと、漠然と感じていた。
ところが、生理用のタンポンが売り出されはじめた頃から、そのパッケージに入っている説明書で、図解入りで、明確に説明され始めたのは、「処女膜というのは、膣の入口にあるヒダであって、『膜』ではない。だから、タンポンを入れたからと言って破れるようなものなど、初めから存在しない」ということだった。
しかし、「膜」と言われれば誰だって、「膜」しか連想しないだろう。「膜」と言われて「ふちにある、ひだ」を連想する人なんか、この世にいたら、お目にかかりたい。現に、レイプされた女性のための「処女膜再生手術」なるものまであったのだ、当時は。
タンポンの使用説明書を見ながら、大学院生だった私は、猛烈に腹を立てていた。処女「膜」を失ったと傷ついて深く悩んでいただろうレイプの被害者だけでなく、私自身にもそういう「膜」の存在はどことなく自分の行動を規制するものとなっていた気がする。破れればそれっきりのものを、身体に持っているというのは少しは人を用心深くする。
思えば、女性にそういう用心をさせて、世の中の風紀を乱さないための配慮から、医者やカウンセラーはその事実を隠していたのかもしれない。それも腹が立つが、何より私がくやしかったのは、レイプされて苦しんでいる女性たちの心を救うためには暴かれなかった真実が、タンポンという商品を売るためには、あっさりと公開されたことである。やや大げさに言わせてもらうと、怒りにぶるぶる震えながらその時私は、マルクスはやっぱり正しいと実感した。もうひとつ、腹がたったのは、指でさわればひだだか膜だか即たしかめられる自分の身体でありながら、たしかめようと思わないで、それまで放置していたことだった。
こんな、途方もないことまで書いて、私が言おうとしていることが、おわかりだろうか。常識だの、本質だの、自然だのということは、えらい人やら、社会やら、企業やら、政府やらの都合で、また、さまざまな力関係で、それこそどうにでも変わるのだ。これだけは、長く生きてくると、そして、しつこく以前のことを忘れないでいると、確実にわかる。)
多数と少数、という問題もある。どんなに少数であっても、多数の人とちがって攻撃がいやな男性、受身がいやな女性がいたら(私は少数じゃないと思うが)、その人たちにとっては、それが自然なのだ。幼児期に特殊な体験があったからそうなったと言われやすいが、そんなのは多数派でも同じだ。もっと言うなら、特殊な体験があったって、その結果そうなっているんなら、(他の点で不都合がなければ)その趣味を尊重して何がいけないのか、私にはわからない。
中には、男は身体が大きいから(それも、そうとは限らないだろうが)女を抱くかたちになるし、局部的には「侵略」のかたちを取る、こういう特徴があるからには「攻撃」する性という本質は変わらない、という人もいる。板坂はこれに対し、局部的には女が男を「抱く」かたちになってるし、「侵略」が攻撃する性なら、「搾取」も支配する性なのじゃないかと反論しているが、彼女自身、こういう議論は冗談でしかないと言っている。この反論がバカらしいと思うなら、そもそもこんな理屈をつけて、自分の好みの「レイプまがいの性」の格付けをしようとするのがもっとアホらしいのを知るべきだ、と。
またもや、しつこく繰り返すが、私も板坂も、レイプまがいの性行為を好むのを悪いなどとは全然言ってない。ただ、自分はそれが好きだとはっきり言えばいいと言うのだ。それが「自然」だとか「本質」だとか、言い訳をする必要がどこにあるのだろう。それが好きだ、それで燃える、ということにまさる理由があるものか。同じように、ちがうかたちの愛し方が好きで、燃える人には、それが「自然」で「本質」なのだ。本当に、ただそれだけのことである。
──(8)──
ところで、レイプやセクハラ、「攻撃的愛」が、男の「本質」と関わる、いかんともしがたいもの、とか言うような議論の中で、女性たち、それも、女性のおかれた現状に怒りや不満を持つ女性たちの口からしばしば、「ここを何とかしなければ」といった慨嘆も含めて出て来る発言は、男性の「力」「腕力」と女性のそれとの差だ。「腕力でかなわないから」「ここを何とかしない限りだめかもしれない」「でも、何ともなりようがないから、やっぱりだめかもしれない」といったあきらめに、それはたどりつくこともある。
ちょっとまた、遠回りな話になるけれど…。
私も、キャラママも現在、知的な仕事に従事し、そのことによって、人から多分、過分なまでの尊敬を払っていただく地位というか立場にいる。
しかし、私も彼女も、そのこと(知識の量や分析力、いわゆる知識人としての能力)に、根本的なところでは、あまり自信や誇りを抱いていない。
人間はしょせんは体力だ、と私たちは感じている。あるいは視力であり脚力であり、戦闘能力であり、野性のカンであり、それがなければ、次には他人の笑いをとって楽しませる芸人としての才能や、恥知らずに卑屈に媚びを売ったり、人を裏切っても平気なたくましさだろうと思っている。
かといって、それを磨こうという気もあまりないので、「要するに、いざという時は、とことん、人に迷惑かけて、お荷物になって、みっともない死に方するんだろうなあ」と漠然とひらきなおっている。
これが、パソコンの能力や、ミサイルを飛ばす能力となると、私たちのような文学畑より少しはましかもしれないが、しかし、私は、電気なんて、いつもどこにでもあるわけではなし、絶海の孤島や砂漠の真ん中では、その手の理系知識人も、私たち文系知識人と同様に、役立たずだろうと思っている。人間、最後は体力で、どんなに品性いやしい無知ないやな奴でも、体力のある奴が最後は生き残るだろうと思っている。
それは、若い、というか高校生の頃読んだ戦争小説「裸者と死者」「真空地帯」「静かなるドン」「西部戦線異状なし」などの作品の中の、とことん、たよりない、みじめなインテリたちと、たくましい庶民の、あるいは無知で無学で野蛮で残酷な古参兵たちの姿を繰り返し見たことによる、ある種のあきらめだったろう。それらの作品を書いた作家自身が知識人であることを考えると、この図式にもあるいは誇張や歪みはあったかもしれない。また、最近の映画「勇気ある者」が、おちこぼれ兵士に文学の授業をする教師の姿を描いて、すぐれた士官(戦闘員)となるには、知識や知性が必要と語っているように、知性と体力の関係は、一筋縄で図式化できるものでもあるまい。
それでも、私自身の中には、かつては多くの青年が知っていたあの歌…「若者よ、身体を鍛えておけ、美しい心が、たくましい身体にからくも、支えられる日がいつかは来る、その日のために、身体を鍛えておけ、若者よ」の歌詞が消えないでいる。(この歌の作詞者ぬやま・ひろしは、たしか中国共産党との関係で、日本共産党を脱退か除名されたかして、「文化評論」という共産党の雑誌は、この歌を批判して、「肉体を精神の上位におくもので、一面的な見方だ。たくましい身体を持たず、それにからくも支えられることがなくても、美しい心を守りぬいた人々はいくらでもいた」と批判した。それもまた、それで正しい。だが、この歌が歌う意味も、まだ私の心からは消えない。)
私の、こういった「最後は体力」という考えには、だから、いろんな意味で修正は必要だろう。しかし、近年でもゴールディング「蝿の王」が描く、孤島に漂流した少年たちの中で最後に勝利する(しかける?)のは野蛮であり、「知識」を体現する少年ピギーは、眼鏡をかけて太った神経質な情けない少年で、結局みじめに殺される。知性とは、いかにすぐれていても、腕力や体力の裏打ちがない限り、このように無力で醜いという確信は、私の中に根強く、ほとんど血肉にとけこんでさえいる。
だからこそ、私のその感覚は「女性が腕力がないから無力」とは、一向に結びつかなかった。自分も含めた知識人(多数は男性。私やキャラママが大学院に入り、就職する時代には、まだ、会議や職場では、女性は一人だけという状況が普通だった)たちが、いざという時は、まったくの甲斐性無しで、労働者や農民のお世話になって生きるしかないことが明らかなのに、それでも社会で尊敬され、絶対の権力を行使できているのを見るにつけ、受験戦争という狂乱が恒常化、日常化する中で、知性(とほんとに言えるかどうかはともかく)のみが評価され、体力や腕力のある子などはまったく存在意義を認められてもいないかのような異常事態を見つづけるにつけ、体力や腕力と、社会的な力関係は何の関係もあるなどとは思えなかった。女性が不当に扱われ、一方的に従い、受身にならなければならない事態は、肉体的力とは関係ないところに原因がある。それもまた、私の長い体験からの血肉にしみこむ実感だった。
たとえば、こんな小さな体験にもそれは反映した。
私の大学の後輩に、気のいい文学青年がいた。30年も以前でフェミニズムのかけらもない時代だったから、優しい賢い男性で、私とも仲良しだったが、「女ってのはさあ」などという発言は平気で私の前でもしていた。私を尊敬し、私の話をよく理解してくれていても、それとは別に、そうだった。そういう時代だったし、私も気にしてはいなかった。
ところが、私の職場で新人を採用することになり、私は彼を推薦し、要するに彼が就職できるかどうかのカギをかなり握る立場に私は立った。そして、その手続きのためにやってきた彼と、久々に食事をして、おしゃべりをしていた時、いつものように近所の主婦の人たちの悪口を言って「女ってのはさあ」と話した彼は、そこで一言、つけ加えた。「そりゃ、皆がそうだってわけじゃない、あんたなんかはちがうけどさあ」。
彼はそれを、とても自然につけ加えた。わざとらしいところはちっともなかった。気立てのいい、正直な彼だからこそ、それは本当に自然に心に浮かび、口から出たのだ。それでも、それまで私とつきあっていた数年間、それは絶対に、彼の頭には思い浮かばなかった言葉だった。私が自分の就職を左右できる立場にあり、この人の自分に対する気持ち次第で、自分の運命が変わると思った時、彼は初めて、私が気を悪くしないかどうかを気にし、女の悪口を言うことは私を傷つけることになると気にしたのだ。
そのことで、私は少しも彼に失望はしなかった。軽蔑もしなかった。やる気になればできたんじゃんとは、ちょっとは思ったかもしれない。しかし、彼がどうこうよりも、そのことが以来ずっと長く痛切に私の中に残り、心に刻み込まれたのは、そんなにささやかなものでさえ、「権力」というもののすごさだった。彼はいやしい人間では決してなかったし、どちらかと言えば世事にはうとかった。その彼でさえが、これだけ反応してしまうのだ。権力に弱く、機を見るのに敏な人たちなら、もっと反応は大きく激しく早いだろう。
腕力、体力、戦闘能力は、孤島や戦場(それも孤立した)でならとにかく、日常の場ではそれほどというか、全然、力を持ちはしない。男性の腕力に何か意味があるかのように見えるのは、それが権力と結びついているからなのだ。何の肉体的力のない私でも、立つべき立場に立てば確実に人は従わせられる。女性の指揮官、管理職にそれが困難なのは、それもやはり、その周囲をとりまく権力の枠組みのせいである。腕力や体力とは関係ない。
もうひとつ、「女性の腕力」については、映画や小説、アニメなどの文化の面からの問題もある。これは次回に。
──(9)──
前回、「男性の腕力の強さは、社会的な強さとは関係がない」と書いたのに対し、「男性の腕力の強さということ自体が、幻想ではないのか」といった指摘をいただいた。たとえば荷物を運ぶ際などに、明らかに女性である自分より、力の劣る男性はいる、と。
それはまったく、そのとおりであろう。
私もまた、引越しの時、運送屋の親方から、「あんたは強い」と周囲の男性をさしおいて賞賛された実績(?)がある。
これも、職場での引っ越しの時、アルバイトで体育サークルの学生を雇ったが、その時の女子学生たちの働きぶりは、男子学生に比べて何の遜色もなかった。
女性の腕力と男性のそれとは、一般に、また個別に、平均的に、どうちがうのか、確認するのは難しい。それこそ、女性どうし、男性どうしでも、互いの力の優劣を確認しあう機会などめったにあるものではない。(ちなみに数年前、同年配の女性数人で、腕相撲に興じた時、一番強かったのは私だった。水泳で鍛えて腕力に自信があり、最初に皆に挑戦して腕相撲を始めた女性は、「何で~!?」とひどく怒ったぐらい、私は皆の中で小柄で、腕も一番細かったのにだ。)
特に女性の中には、「力が弱い」ということで、仕事を免除される権利を意識的に、また無意識に失いたくないと思っている人が多く、あえて力を出そうとか見せようとかしないから、なおさらだ。
私自身は、どんな場でも、女性だからと力仕事をさけたことはない。だが、「弱い」という、どの程度の根拠があるか不明な常識によりかかって、男性が働くのを、手をこまねいて見ている女性をいちがいに責める気もしないでいる。明らかにまだ女性には不利なことの多いこの社会で、既存の権利を手放すまいとするのは、それはそれで正しい気もするからだ。ただ、それが、男女の分業とか、ひいては差別につながって行く危険性もたしかにあって、このへんの判断はとても難しい。
二つだけ、ちょっとちがった視点からの話をする。
一つは、男女の体格や体力の差は、人種間のそれ、たとえば大柄な欧米(とも限らないかしら)の人と、小柄なアジアの人との差にもあてはまるということだ。で、かつての日本が一時は戦争で勝ちまくったのや、ベトナム戦争でアメリカが負けたのや(この二つをいっしょにするのも、すでにすごいが)を、快挙などとはさらさら言わぬが、要するに身体が小さく体力がないものを、弱いのかわいいの守るの好きにしていいのと言う話には無理がある。そんなことを言っていた日には、少なくともアジアの男性たちや、欧米の女性たちは、混乱せざるを得ないだろう。いやしかし、日本の男性がしばしば外国の人に見せる変な屈折は、その辺にも原因があるのだろうか?
もう一つは、いかに体力や腕力があろうとも、それを発揮する場がなければ、無用の長物である。日常生活で「腕力」が必要となるのはさしあたり、引っ越しなのだろうが、これはですねえ、たとえば、女性が、というか老人や障害者や力のない男女が、簡単に運べるような、小さな家具や軽い家具、分解できる家具を作ってしまったら、問題は解決してしまうんですよ。私など、もはや老後に自分で引きずれるかどうかを基準に家具を選んでいるけれど、「こういう時は男がいなきゃ」と人が言う状況の大半は、「男(腕力のある人)がいなくても困らない」状況に、いくらでも変えられるものばっかりです。
ついでに、もひとつ。引っ越し以外に、腕力が必要になる状況は、もちろん暴漢に襲われた時でしょう。でも、私は、これだって、たとえばデートしていたカップルの男性に、常に女性を守って戦うことが義務づけられるのはひどいと、かねがね思っている。
日本では、ここ十年来、本当に救いようのない陰惨な事件が多いが、その中で私が、これも最近腹のたつことばかりが多い報道の姿勢の中で、唯一の救いと思えるのは、連れの女性や、一行の中の女子どもを守れなかった、あるいは先に逃げ出した男性に対して、まったくと言っていいほど批判する口調が見えないことだ。例のバスジャック事件、関係者の方には本当に失礼で顰蹙ものの発言だが、最後に残ったのが女性と子どもだったということに対して、誰もいっさい非難も疑問も示さなかったのを、私はほんとにすごいと思った。「いい国になった、と言っていいのだろうか」と、とてもとても複雑な思いがした。友人のキャラママは、ハイジャックにあった時、自分は女だからと言って絶対に先に解放されたくはない、特に、男子学生といっしょだったりしたら、教師としては死んでも先には下りられないが、そのことをゲリラに伝えるだけの英語力がないのが不安だと言って、英会話教室に通いはじめたアホであるが、そういうことも含めて。
私は「守られる」のがとても嫌いで、「守る」映画や小説に、どうしても感動できない。「守られる」ということは、その「守ってくれる人」がいないと、どこにも行けないことでもあり、限りなくその人に縛りつけられることに他ならない。
もしかしたら、その人は私を自分にしばりつけ、その人がいなくてはどこにも行けない私にするために、あえて私の敵を作り、危険な世の中を維持しようとしているのではないかとさえ、ひねくれて考えてしまいたくなる。
思えば、大学一年生の時、「女子学生の会」というところが行ったアンケートで、「女であることを不満に思ったのはどういう時か」という問いに私は「月夜の姪浜(福岡の海岸)を一人で歩きたくてもできないこと」と書いた。
私を本当に愛するなら、私を守るのではなく、あなたが私を守らなくても、安心して私がいつでも、どこでも、自由に一人で行けるような世の中を作って下さい。そのような町を、国を、世界を作って下さい。そのために戦って下さい。私は、自分を愛してくれた人たちにずっと、そう言いつづけて生きてきたような気がする。
それは、私一人を守り抜くことよりも、ずっと難しいことかもしれない。
それでも、それが、そんなに過大な要求だとは、私は決して思わない。
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男女の腕力の差について、実際的な面から少し書いてきたが、もうひとつ重要なのは、小説や映画、マンガや演劇など、文学の中でこのことがどう描かれるかということだ。
これは、前に述べた、男をベッドに押し倒す女が不自然かどうかということとも重なるが、たとえば、敵に襲われた時、女が守られる一方になるか、男に手を貸すか、二人で協力するか、女が男を守るかということについては、セックスシーンやベッドシーンと同様に、多くの人は、「お手本」を、知らず知らずに文学作品の中に求めやすい。
これは、ただまったくの好みの問題なのであるが、私は、好きな人に守られるよりは、好きな人を守って戦う方が、ずっと好きだし、気が楽である。
そして、これはなかば冗談であるが(ということは、なかばは本気なのであるが)、守られるよりは守る方が、はるかに勇気がいらないと思う。
誰かに守られるなんて、私はとても恐くてできない。自分を守って戦う人を、じっと見守っているなんて、そんな勇気がどこから出てくるのだろうと、正直いつも、ふしぎでならない。そういう立場に立つのは、弱い人ということになるわけだが、そんなオソロシイ状況に耐えられる人のどこがいったい弱いのだろうかと、いつもひそかに疑ってしまう。
そもそも、この私のために、人が人を傷つけているのを見るのが不愉快である。
そして、私を守って戦ってくれている人が負けた場合(私は、何であれ、戦争だの生存競争だのという設定の話で、勝ち残り生き残る方に自分をおいて考えることが絶対にできない。公平に考えて5割の確率しかない話で、自分を勝ち残り生き残る方に入れて予想できる人の神経がわからないというか、その楽天性に、皮肉でも何でもなく本当に脱帽する)、私は、その人が負けてたたきのめされ、殺され、滅ぼされるのを見させられるという悲しみを味わった直後に、守ってくれる者のなくなった状況で、愛する者を殺した憎い相手にされるままになるという恐ろしい苦しみを味あわされることになる。
どう考えても、いやだよー、そういうの。
しかし、戦争の時、レイプ事件の時、これはしばしば現実にしょっちゅう起こっている状況ではあるのだろうが。
この悲惨さというか苦痛を幾分か薄める論理は、大島弓子が「綿の国星」の中で描いたように、オス猫どうしの戦いを見ていてメス猫が言う「勝った方のオスとつがって、強い子を産みたいのさ」という論理である。必ずしも、子を産むのとは関係なくても、より強い、勝ち残る男を女が選ぶ、という図式にこれを置き換えて見直してしまうことであり、戦争においても、女はその時々の勝者に身をまかせつつ、強く生き延びつづけて行く、と思い直せば、たしかにそれはそれで、我慢できるかもしれない。
というか、そういう考え方をするしか、この状況の救いはないかもしれない。
そういう生き方、考え方をする女性(男性も)を否定するつもりは、例によって私は毛頭ない。しかし、この私について言うなら、そういう論理でその状況は見直せないし、不幸を薄めることもできない。
私がほしいのは、勝ち残る強い男などではない。勝ち残ろうと負けようと、好きな男が好きなのであり、欲しい男が欲しいのだ。そんな大切な男に、私を守って戦わせるなんてもったいないことできますか、というのが実感であり、そんな大事な男に勝って殺したり滅ぼしたりした相手は、この世で一番許せないし、汚らわしい。そんな男(女でも)にしたいようにされるなど、こんな不幸なことはない。
守られる、ということは、それを覚悟することであり、そんな勇気は生まれてこのかた、いっぺんも私は持ったことがないし、この先、持てるとも思えない。 それよりは守る方が、まだずっとやさしい。相手に負けて殺されてもそれで終わりで、自分が守った愛する者が、ひどい目にあわされるのは見ないで死ねる。まあ、それを予測しつつ死ぬのもいやだし、気息奄々とした中で、愛する者がひどい目にあうのを見せつけられる可能性もあるから、それだっていやだけどさ。(しかしまあ、どうして私は、こういうことに関して、希望的観測というものを持つということをしないのだろうかね。絶対に最悪の場合の予想しかできない。)
とにかく、一方的に守られるということには、そういう風になかなかな勇気が必要で、「愛する者を守って死ぬ」なんて言うのは、ほんとはけっこう、わがままで、臆病で、自分勝手で、いいかげんな甘えん坊の「先に死なせてー」宣言でもあるのだ。と言ってしまっては言い過ぎか。
だから私は、女が男に一方的に守られる話を読んだり見たりしても、ちっとも楽しめない。「あんな男に守ってもらったら、安心だろうなあ」と思うのではなく、「あの男が殺されてしまったらどうするのよ」と思うと、不安で不安でしょうがなくなる。「よく落ち着いていられるなあ」と守られっぱなしの女の度胸にひたすら感服してしまうのがせいぜいだ。そして、心の底で、「この女、どっか鈍いんじゃないかしら」などとひそかに疑っているので、結局、感情移入できない。
だが、この十年間か、もっと前からか、映画や小説が次第に変わりはじめた。ロールプレイングゲームに登場する女戦士などをはじめとした、はっきりとした戦闘員でなくても(「ロードス島戦記」の中では、しとやかな妻が、魔力においてすぐれているため、年上のしっかりした夫に対して「あなた、ここはわたくしが」と言って、先に立って敵の巣窟に突入する)、お姫様でも家庭の主婦でも、この私が見ていてくすぐったい思いがするぐらい、襲いかかる敵に対しては男とともに戦うようになった。
「危険な情事」は、フェミニズムへの逆風をとりあげた大著「バックラッシュ」の中では、女性差別の巻き返しの一環ととらえられている映画だが、そのラストでさえ、最後に敵を倒すのは、夫ではなく妻の拳銃である。映画「ゆりかごをゆらす手」でも同様に、女が幸福な家庭を破壊する怪物として登場するが、ラストの戦いのクライマックスでは、夫は負傷して戦闘不能で、病弱な妻が戦わなくてはならない。
こういう時の設定の特徴として、「ゆりかご…」のように、男はしばしば傷ついて、その気はあっても、愛する者を守る戦闘員としての能力を失っている。考えて見れば、現実の事件でも災害でも、これは充分にあり得ることであり、にも関わらず、絶対にそんな場面を描こうとせず、つねに男がぴんしゃかと元気で、傷ひとつなく女を守れる状態にある話ばかりを描きつづけてきた映画やマンガや小説が、そもそも不自然だったのだが。
もっとも、すべての映画が小説がこうして、「戦えない男」「戦う女」を設定してしまうと、それはそれでまた退屈で、新たなパターンとタブーを生んでしまうにすぎず、ちょっと私はうっとうしい。
──(11)──
以下の話は、友人の板坂耀子から聞いた話である。ところで、恐ろしいことに私はこれが、彼女の実際の体験談なのか、書こうとしていた(そして忙しいや何かで書きそびれた)小説の筋だったのか忘れてしまった。しかし、仮に後者であったにせよ、それは彼女の実際の体験をかなり反映しているはずである、という勝手な決めつけに基づいて、現実に近い話として紹介しよう。
まだ、セクハラという言葉も発想も社会に存在しなかった三十年ほども前のことである。板坂はまだ若い女性大学教官で、男性教官と宴席で飲む時、しばしば身体を触られることがあった。年輩の男性教官から尻をなでられたこともあった。板坂はそんな時、まったく怒りも恥ずかしがりもしなかった。抗議もしなかったし、騒ぎもしなかった。平然と笑って触らせて、酒を飲んでおり、男性教官たちは「こんな人、好きだなあ」と言って喜んでいた。実際、彼女はまるで気にならなかったそうである。
会議の席でお茶をつぐとか、旅館の朝食時に給仕をするといったことを「女性だから」とさせられることについては、彼女は異常なくらい拒絶反応を示していた。表向きはにこにこということを聞いていても、かげで私にそのことを怒る時の陰鬱さと激しさは、本当に、メデューサもどきに髪の毛の一筋ごとが蛇になって突っ立つのではないかと思うほどだった。その彼女が、宴席やその他の場所で異性に身体を触られることについては、まったくといっていいほど平気だった。
もともと彼女は、大学院生の時、道でいきなり見知らぬ高校生に呼び止められて、物陰に連れ込まれ、「キスの体験がなくて淋しいからキスして下さい」と頭を下げて頼まれると「しゃあないな」とキスしてやった(「しかも、それ、私の、男とちゃんとしたファーストキスだった」と彼女は言っていたっけ)というぐらい、この手の接触に抵抗感がない人ではある。そういうこともあるのかな、と思って私は聞いていた。
ところが、彼女はやがて今の大学に来て、卒論指導をするようになり、いわゆる「ルーム」(ゼミ)の学生たちと研究室で親しくつきあうようになる。そうなってまもないある年、たまたま、十人近いルーム生の中に男子学生がたった一人だった。ハンサムで成績も優秀で性格もいい(このへんは小説としての脚色もあったかもしれない)若者だったが、何しろ女性集団の中の一人の男性だから、女子学生たちからおもちゃにされそうになることもある。
ある時、研究会の後、皆でお茶を飲んでいた時、ソファに座っていた彼の髪を女子学生たちがふざけて触って、やわらかいーとか言って喜び、「先生、触ってみて」と板坂に言った。
流れとしては、決してそんなに不自然ではなく、仮にそこで板坂が彼の髪にさわって、「ほんとだー」と言っても誰も全然おかしいとは思わなかっただろうと板坂は言う。事実、彼女は触れようと手をのばしかけた。けれど、触れなかったと言う。
彼女は、その時、思ったと言う。
彼に、軽蔑されたくない。
その男子学生とも彼女は、あらゆる面で強い信頼関係があった。きわどい猥談も平気でやりとりする仲だった。彼女がそこで彼の髪をさわろうと、かき乱そうと、それで彼女にその男子学生が不信感や反感を抱くことはまずなかっただろう。それでも彼女は、ここで、この状況で、彼の髪に触れるような人間と、彼に思われたくなかったと言う。
なぜか。
そうされたからと言って、彼は不快にはならないだろうし、自分に失望もしないだろうし、平気だろうが、でも、彼自身でも気づかぬ心の奥底で、絶対に不快で、失望し、平気ではないだろうということが、なぜ、自分にはわかるのか。
そう自分に問いかけた時、彼女は自分が男性教官たちに、触られた時のことを思い出すからだとわかった。でも、なぜだろう、私はあの時、別に何とも思わなかった。平気だったのに…と思いかけた時、本当に青天の霹靂のように、どしんとある事実が、板坂の上に落ちて来たと言う。
私は、決して、平気ではなかった。
だからこそ、今、絶対に、それを他人にできないのだ。信頼されたい、尊敬されたい、愛されたいと思っている相手に対し、絶対にそれができないのだ。
そうされた時、人がどう感じるか、わかっているから。
まるで、あぶり出されるように、否応なく鮮やかに証明された事実だった。板坂はそう言って笑った。
その数年後、「セクハラ」という聞きなれない言葉が巷に流れはじめ、それまで考えたこともなかった考え方に、人々は混乱し当惑するように見えた。
しかし、板坂は、そして、この話を聞いた私も、この新しい用語と発想の持つ本質を、即座に理解したし、一度も迷わなかった。
板坂がこの小説を書かなかったのは、このテーマが「セクハラ」という用語によって、すでに充分、人々に理解されつつあるという判断もあったのだろう。
だが、この「書かれなかった小説」と、そのもととなった体験は、セクハラ問題を考える時、常に私たち二人を強く支えた。
あの時、男子学生の髪にどうしても触れられなかった板坂の手。
この思いを、人には決して味あわせたくないと思った時に、ようやく、その存在を知った自分の怒りと屈辱感。
加害者になりたくない、と思った時に初めて、自分が被害者であったことを人は気づくこともある。
皮肉なことだが、そのためには、加害者になれるだけの強者の立場に立たなければならない。そうしろ、とか、そうあるべきだ、とかいうのではない。これは、ただの事実である。自分が加害者になれる立場にならなければ、決して見えて来ないものもあるのだ。
この文章を書いている間に、何人もの読者の方々から、勇気と聡明さに満ちた報告を受けた。その中の一つに、「自分は女性で、現実には強く拒否するが、空想の世界では被虐的になる」というものがある。
その要素は私にもある。それが悪いとは思わない。
しかし、ここでもまたやはり、私は疑う。被虐的な空想というそのものに、社会や状況の影響は本当に皆無だろうか。
それを検証することは多分、不可能に近い。
しかし、先の板坂の体験を安易に結びつけるのは危険だとしても、加虐の立場を空想することで初めて、見えて来る風景はないだろうか。
極めて危険な水域に、私は多分、踏み込みつつある。
だが、ここまで来たら、戻れない。
──(12)──
前回の最後で、やや大げさな書き方をしてしまったが、私の言おうとしていることは、そんなに大したことではない。
これも前回の最後に書いたことだが、この文章を読んだ数人の女性の方から、「現実には絶対にいやだが、性的な空想の世界では被虐の立場になることに自分は快感を感じる(あるいは、そういう女性がいる)」との発言をいただいた。
しょうもないことに興味を、と思われそうだが、私が興味を感じたのは、その中のある方が具体的に「強い女性が虐げられる場面で、自分は刺激を受けると感じる」と述べられていたことである。
私自身も性的な空想の中で被虐の立場に自分を置くことはある。しかし、この方の文章を拝見して初めて自覚したが、そういう場合の私が考える設定では、強い女は登場しない。どちらかというと、弱い女かアホな女である。
それを解釈しようと思えば、きっと百ほども解釈はできよう。私自身が強い女だから、それが虐げられる設定は恐くてできないのだ、とか。(私はそうは思わないが。そんなもん、いまさら恐がってどうする。)そういう、何でもありの解釈のひとつとして考えたのだが、私が子どもの頃、つまりそういった性的空想を始める頃には、「強い女が痛めつけられる」という設定はあまり一般の雑誌には登場しなかったのではあるまいか。「強い女」そのものが、あまり登場しなかったし。
十年以上前のことになるが、友人の詩人の女性と、性的空想について話したことがある。その時に私たちは「上半身では加虐、下半身では被虐」状態ということについて、笑いあったものだった。つまり、性的な空想(何をもって性的というかという問題が微妙かもしれないから、はっきり言うなら、下半身や性器が登場する空想である)では、女性が痛めつけられる存在になり、そうでない空想では(精神的にも肉体的にも)男性が痛めつけられる存在になるという傾向が、少なくとも私には明らかにあった。更に言うなら、性的な空想の場合、虐げる男性(時には女性)には、人格らしいものはほとんどなく、時には顔さえ存在しなかった。
「この状況を、もっとバランスのとれた健全な(どこがー!?)ものにするには」と、私は友人に語ったものである。「上半身の空想、つまり性的でない空想では、もっと『女が痛めつけられる』方面を開発しなければならないし、下半身、つまり性的な空想では逆にもっと『男が痛めつけられる』方面を豊かにしなければいけないだろう」と。
で、しかし、それは果たしてできるのかということについて、私たちは語り合った。私の上半身では男が被虐、下半身では女が被虐、という状況こそが、実はとても自然で本来の「女性」の心理ではないのか、と。確かにその可能性もあるから、無理はしない、と私は彼女に言った。しかし、心の中では、他のすべてのことでいつも私が考えてきたと同じことを、その時もまた考えていた。何事も、やって見なければわからないさ、と。
詳しいことは省くけれど(私の恥知らずにも限界はある)、その十年間で私は、現実の体験ともからみあいつつ、状況をほぼバランスのとれたものにした。ただし、上半身の空想で、男性に女性が痛めつけられるものについては、開発をしていない。これは世間にありすぎるからで、見本もやまほどあることだし、あわてて充実させる必要はないと思っているからだ。
当面、はじめに問題にした性的な空想について言うならば、「男性の痛めつけられる」空想も、女性のそれと同じように、あるいは上半身のそれと同じように、いくらでも今ならできる。
私がこのようなことを書いているのには理由が少しはある。この十年間、そのような空想を開発する過程で、しばしば私は「やはり女性だから、性的な空想となると、被虐的にならざるを得ないのか」と自問し、「それが女性の本質なのか」とも自問した。「しかし、上半身の空想では、私は男性を痛めつけるではないか」と思い返し、そしてまた「しかし、それは、私が『痛めつけられる男性』に自分を同一化しているに過ぎず、結局は『被虐の図式』であることに変わりはないのではないか」とも思い返した。
結局は、被虐は女性の本質か。
だが、その中で、まさか誰にも聞けないが、いつも私の中にあった疑問は、「男性の自慰行為も含めて、あらゆる性的空想は、被虐でしかあり得ないのではないか」ということだった。
いかに加虐的、あるいは攻撃的な性的空想、妄想にふけろうとも、相手が実在しないのならば、自分で自分の身体に触れるしかないのだから、被虐の心理を含みこまなければ加虐の妄想は成立しない。被害者の気分を自分がどこかで味あわなければ、加虐の快感は完成しないだろう。男性の自慰行為はしばしば攻撃的な空想を伴うというが、それにしても、膨張するものをもてあまし、それからの解放を願うということ自体、被虐でなくて何だろう。
余談だが、男性の性についてそのように考えられれば、もっと若く幼い頃から、男性に対して私はもっと優しくなれただろう。女だけが「守られなければならない、大切な」性のしくみを抱えて生きているという考え方は、私をいつも絶望的にした。「男だってつらいんだ」「我慢できないんだから、女には理解できない」といった、時々上がるヒステリックな悲鳴ではなく、「だから社会的に強くなければ」とかいうわけのわからない唐突な理屈や保身と結びつけるのではなく、もっと男性たちが、彼らの身体のしくみのつらさを、微妙さを、恥ずかしさを、素直にきちんと伝えてくれていたならば、若い頃の私はきっと、あれほどに男性を憎んだりはしなかったろうに。
ついでに言うと、いろんな女性集会や性教育で、「子どもを生む女性の身体は大切」「男が守ってあげなければ」と言った発言や教育がなされるのは、見ていて私は本当につらい。私自身はいまさら何がどうでも平気である。また、このような考え方が、しばしば「子どもを生まない女」への蔑みや無視とつながりやすい危険性も今はおいておく。私がつらいのは、かつての私のような女の子が、このような話を聞いて、どれだけ苦しみ絶望し、男性を憎むだろうかと予想するからだ。いや、もしかしたら、男性たちも苦しむかもしれない。
子どもを生む身体が大切なら、子どもを生む種をもつ身体も大切なはずだ。その身体を維持し、調節して行くことの微妙さや危険さも、理解し、援助しなければ、両者は愛し合うことなどできない。
性的な空想とはすべて、どこか被虐かもしれない。それなら、私の中に初めからあったように思えた「弱い、バカな女が性的に蹂躙される」という空想も、何かの影響の結果だったかもしれない。そう思い始めたのは、数年前だ。そして、結局、私が幼い頃、性的なものを描いた「お話」と言えば、週刊誌や月刊誌の女性相談室でのレイプされた女性の体験を教訓めかして、実は煽情的に描いたもののみだったことを、私は思い出した。幼い私が、性的な空想をしようと思えば、テキストとなるのはそれしかなかった。もし、男性や少年がレイプされる話が同じ程度にしばしば紹介されていれば、おそらく私の空想もちがったものになっていたはずだ。
昔、テレビの深夜放送で、サディスティックなショーが紹介され、スタジオにいた男性作家が、若い女性タレントに感想を聞いた。女性は「痛そうだった」と答えた。すると作家は「女の人って、ああいうのを見ると必ず、縛られる方に自分を同化して見るのが不思議だね」と言った。しかし、それを見ていた私は、若い女が裸にされて縛られるのを、若い女が見ていたら、そっちに感情移入するのは、これ以上あたりまえのことがあろうかと思って、そんな変な解釈をわざわざ強調する作家の思考の方が、よほど不思議だった。
今、思えば、その作家自身の中に「女は被虐を好む」という図式があって、すべてをそのようにあてはめて見てしまうことになっていたのだろう。
似たようなことは今でも多く存在するのではないだろうか。
「女性である私は、空想の中で被虐を好む」「だから、これは女性の本質かもしれない」と考える女性たちの中に、私は、正直と勇気と良心を見る。「でも、それは空想の世界のこと」「現実には断じて拒否する」と強く訴えながら、そのような内部の嗜好を隠そうとしない、この人たちは、「でも、そんな嗜好があるのなら、現実にだって好きなのじゃないか」と堤を崩される危険を冒しながら、それでも嘘をつこうとはしない。そこに私は敬服し、その良心を信頼する。その上で、問いたい。そこにもやはり、私たちが見逃しているトリックがありはしないかと。
空想が、虚構が、現実と支えあって私たちを縛るのなら、別の空想で、虚構で、それを切り捨てることもまた可能なはずである。もうこうなったら、おまえが男性がレイプされる話を山ほど書け、と言われるかもしれない。さしあたり、そのつもりはないが、しかし、私は空想の中でかなり意識的に、この十年間、それに似たことをしてきたと思う。
女性に比べて、男性にでも女性にでもレイプされることがまだ少ない男性にとって、たまたまそういう被害者になった場合の傷は、ある意味では女性以上に深く、決して冗談で語ってはならないことは承知しているつもりである。だが、女性が男性に凌辱される性的な文学が、硬軟とりまぜ、あまりに多く、公然と生み出されている現状では、男性が女性にレイプされる(そして幸福になる)純愛小説や、美少年が凌辱されるポルノが圧倒的に巷に氾濫しない限り、私たちひとりひとりの空想の世界に何が起こるか、何がめいめいの本質かなど、検証できることなどめったにないとも思うのだ。
とはいえ、最近の映画「スターリングラード」では、女性が男性の寝床に自分から来てもぐりこみ、彼のズボンのベルトをはずして手をさしいれるという、まったく「受身どころではない」ラブシーンを、まさに純愛映画として描き、そのことは話題にもならないほど自然に批評家や観客にうけいれられている。そういう点では、私がここで指摘した文化や現実のひとつひとつが、過去のこととなり、私のこの文章そのものが時代遅れのものとなるのも、それほど先のことではないかもしれない。私はそれを願っている。(終)
追記・2004年5月公開の映画「トロイ」は、「男が女を守る」ことを否定したという点で画期的な戦争映画です。これについてのキャラママ(板坂)の講演(中間市男女参画事業講演 「私のために戦うな ―映画「トロイ」のもう一つの見方― 」)が「授業ノートコーナー」の「その他」に収録されていますので、ぜひごらんになって下さい。また、戦うことの否定と男性が受身で愛される映画の場面については、他サイトに掲載していただいている「『クイック&デッド』の魅力」もあわせてお読み下されば幸いです。
2001.5.21.