私のために戦うな(未定稿)夢の子供

1.古いノ-トから

かつて、芥川龍之介「戯作三昧」を授業でとりあげなければならなくなったとき、私はノ-トに、次のようなメモを残している。(なぜ、自分の専門でもない近代文学の作品をとりあげなければならなくなったかの理由は、今、忘れてしまった。)

芥川の短編集八点の内、これ(「戯作三昧」)は、第三番目「傀儡師」の終わりから二番目に収録されていて、最後が「地獄変」である。そこで、この二作品はどちらも芸術至上主義をうたったもので、「戯作三昧」は「地獄変」の先蹤とされることが多い。

 

「(『地獄変』は)ひと足先に『戯作三昧』で描いた世界と重なる。」(学燈社「国文学」昭和五十二年五月号「芥川龍之介」・関口安義氏)

 

「一連の『芸術家小説』」(明治書院「芥川龍之介研究」・海老井英次氏)

 

「『地獄変』とともに最高傑作の一つ」(創元社「芥川龍之介」・和田繁二郎氏)

 

「(『地獄変』の)モチ-フの発端は『戯作三昧』にまでさかのぼることができる」(筑摩書房「芥川龍之介論」三好行雄氏)

 

のように。更に浅野洋氏は学燈社「国文学」昭和五十六年五月号「芥川龍之介追跡」において、

「『戯作三昧』を『地獄変』の先蹤とみなす位置づけは、諸家の見解の中にあって、ほぼ定まったかの観がある。」

 

とされつつ、これに「或日の大石内蔵之助」を重ねて、馬琴は良秀とちがって、まだ何ひとつ喪おうとはしていないから、むしろ大石に近いのだとしている。そして「戯作三昧」をあまり高くかっていない。芥川の作家としての心境をよみとるためでなかったら、むしろ底の浅いひとりよがりの作品ではないかと述べられる。

 

「例えば馬琴がその『感激』にひたる契機-孫太郎の言葉-の不自然な唐突さについては、多くの指摘がなされている。が、問題は、『天啓』のような唐突さよりも、孫に対してひとしお甘い老人という構図の陳腐さにあるのではないか。純粋な幼少の孫と、孫の何でもない言葉に『涙』する老人と、馬琴はどこにでもいるありきたりの老人になりさがっている。芥川は、いわばこの肝心な場面で、いかにも陳腐な観念の構図にもたれかかってしまった」と。

 

かつて私は芥川にさして興味もなくこの作品を読んでみて、作者とまったくかかわりなく、ひきつけられたのを覚えている。文学作品のうけとり方というのは非常に微妙な、息をひそめるような作業になる。今、もう一度虚心にこれを見直してみたい。

 

たとえば、このラストだが、私はこの家族たちによって、馬琴の芸術至上の境地が否定されているという気が少しもしないのだが。あたたかさ、とまでいかずとも、つつましい平凡な生活が静かに馬琴をとりまいている、しんとした落着きを感じて、ほっとする。しらけているとかさめているとかいう気分には少しもなれない。

馬琴は幸せに、夢中で書いている。回りでは、それを理解できない家族が、でも、そっとして、それぞれの仕事に励んでいる。こおろぎが鳴いている。お百のぐちも含めて、馬琴をつつみこんでいるありふれた家族の姿として芥川は書いていると思う。私にはこの三人が馬琴を守っているように見える。こんなかたちでの書き方ってけっこうあるんじゃないのだろうか。芥川の他の作品にも例はありそうに思うし、有名な奥さんへの手紙を例にひいてもいいが、こういう、日常の世界のふつうの人々にとりまかれて至上の境地へ没入していくことを芥川は幸せと思っていたと思う。このラストは、くりかえすけれどお百のせりふも含めて、つつみこむように静かなのである。

 

内蔵之助と馬琴の心境の類似はあるだろう。けれど前者は、仇討という事業をおえて、そこへ落ちこんでゆくのに対し、馬琴は書くことによってそこからぬけ出る。この設定の相違を無視して、類似をいうことはできない。

 

馬琴がその悟りを開くきっかけとなる太郎のことばを浅野氏は唐突というけれど、幼児によって神の声がもたらされ、それによって救われるという設定は、芥川にとってかなり必然なものだったろうと思う。私はそこにオスカ-・ワイルド(ひいては三島由紀夫、上田秋成までいったっていい)などとの共通性を見る。秋成はちょっとちがうかどうかしれないが、要するに、精神でしばりあげた、きわめて虚構性のつよいしかも真実にあふれた作品を書き、ときには自分の生き方も同じ精神でしばりあげ、回りに流されるのでなく、何か目的をもつのではなく、生き方自体を目的として築いてしまう生き方である。こういう場合、現世の人に評価されることは少なく、結局、神や、遠くのものにのみ、彼らの目は向く。幼児は無垢であり、世間に汚されていない。それへの期待もまた芥川はワイルドらと共通する。この設定は芥川のそういう哲学に裏うちされており、それを浅野氏が陳腐ととりちがえるほどリアルな祖父と孫の交情にしてしまっているところに逆に芥川のうまさがある。

 

そうなるとこの作品は何かというとむしろハッピ-・エンドでいいのであって、馬琴と良秀は大きくちがうのだと思う。芥川はそれを意識している。似たものや、発展したものを二つ並べたのではなく、むしろ対照させたのだと思う。同じ芸術至上でもそれが生活の中につつましく息づいている例と、それをふみにじってしまった例と。そして後者には芥川のあこがれと恐れがあるけれど、実際には決して芥川はそれをやれなかった。前者の方がリアルだと私が感じたのもそのせいだろう。芥川は馬琴に近い。馬琴は苦しみつつ人を傷つけてはいない。まがりなりにも芥川は馬琴のように生きている。しかしその一方で良秀の生き方をも夢みて書いた。そして対照させて並べた。「私はこうやってがんばってます」「でもときどきこんな夢も見ます」・・・つつましい現状報告と、ひそかな悪夢。まさに知的な小市民の、二つの顔ではないのかしら。

これは、古いメモにすぎない。「戯作三昧」が現時点でどう評価されているかも知らない。ただ、このメモの五節目に私が記している、神による評価を基準とした生き方について、いささかとりとめのないエッセイ風になりそうだが、今少し詳しく説明しておきたいと思う。

2.ワイルドと「幸福の王子」

私はここで、馬琴あるいは芥川と共通する傾向をもつ作家としてオスカ-・ワイルドをあげている。これもそのとき、別の授業で、とりあげていた作家だったようである。童話「幸福の王子」を読んでいたのだが、最後のレポ-トで一人の学生が次のようなことを書いた。

自分の黄金の表面をはいで、町の貧しい人々に与えつづけていた王子の像が、鉛のかたまりとして処分されてしまうのに、幸福になった町の人々はそれも知らないでいる結末が不満だった。人々が王子の像に感謝する場面があったらいいのにと思った。

見当違いの意見のようで、一理ないわけでもない。王子の像が自らを滅してまでも恩恵を与えつづけた町の人々は、その恩恵がどこから来たのかも考えていないようだ。しかし最後に、天使が「この町で一番価値あるもの」として、すてられた王子の像の、心臓のあたりの鉛のかたまりと、王子に協力しつづけたツバメの死骸を天上に運ぶ。

レポ-トを書いた学生はそれでは満足できなかった。恩恵をうけた、当の本人が、それをくれた相手を知り、感謝しなければ、気持が落ちつかなかったのだ。

ワイルドの別の童話に「ほんとうの友だち」という短編がある。金持の男と貧しい男の友情だが、金持の男の方は「友だちだから」と言いつづけて、いつも一方的に貧しい男とのつきあいの上で、自分が得をしつづける。貧しい男の方も「友だちだから」とそれを少しも不満に思わず、とうとう、そのために死んでしまい、金持の男はその葬式に一番の親友として参加する。

あとあじが悪くなりそうな内容の割には、読んでいてあとあじが悪くならない、変な短編である。何か現実にあったことの諷刺なのかもしれない。ただ私は、ここにもどこか、「幸福の王子」と共通するワイルドの一傾向を見るように思う。愛の定義とは、人によってさまざまであろうが、もし相手を真剣に愛していたら、この貧しい男はどの時点かで、自分が損をしていると感じ、相手に怒りを持ち、それを表明すべきであるとの考え方もあり得るであろう。それがもっと微妙なかたちの「損」であっても。かつて、主婦の方々を中心とした読書会で、山本周五郎「日本婦道記」を読んだとき、冒頭の一編「松の花」について、若い女教師の一人が、夫にはいつも春風のようにのどかな様子を見せながら、苦しい家のきりもりを戦いぬいて死んでいった武家の妻の生き方について、「使用人など他の皆はこの妻の苦労を知って尊敬していたが、私なら、他の人には知られなくても、夫にだけは知っていてほしいと思う」と言ったことなども私は思い出す。

ワイルド自身は、あるいは恋人ダグラスについては、そのような愛も示したといえるかもしれない。彼の「獄中記」がキリストへの敬虔な気持をつづる一方、ダグラスの不実をなじり、日常のささいな金銭問題まで言いたてて一見卑しげにも度を失っているようにも見えるのは、分裂しているようで、そうではあるまい。恋人の自分に対する理不尽な行為を指摘する、なりふりかまわぬ行為は、ワイルドにとって、したくなかったことにちがいなく、あえてそれを行うのは、ダグラス自身のためにそうすべきだという(教育的配慮といったたぐいの思い上がりではなく、愛する人に対して自分自身のすべてを提供するという意味での)献身であり意志であり、冷静に選びとられた信仰的態度として、「獄中記」の他の部分と矛盾するものではあるまい。

だが、ワイルドがダグラスのためのみにはあえて捨てた、相手の非をとがめずにひたすらつくしつづける「幸福の王子」的態度は、彼の中には強く存していたと思う。世間の常識にさからって生きる反逆者だったら、それだけ強い自分自身のモラルを有していなければ自己が崩壊するだろう。他人の評価や相手の反応に影響されず、あるべき自己を保つ生き方は、自由奔放に生きようとする人にとってこそ、必要不可欠なものなのである。

3.モンゴメリにみる一傾向

ワイルドと同様の要素を「赤毛のアン」の作者として有名な、モンゴメリに見ることができる。
「赤毛のアン」及びその続編からなる一連のシリ-ズの中には、印象深い挿話がモンゴメリの巧みな語り口で展開されて、読者をひきつけることが多い。中でも私の印象に残るのは次の三つの話である。

アンが校長として赴任した町で、プリングルという有力者の一族と対立してしまう。辞職寸前まで追いこまれたとき、その一族の先祖に関する古い文書を手に入れる。プリングル家にとっては興味ある資料だろうから、送ってやろうかと思いつつ、アンはこんな目にあわされていながら、そんな親切をする必要は絶対ないとも思う。しかし最終的には「心のせまいまねはすまい」と決意して、文書を送ってやる。ところが、アンは気にとめていなかった、文書の中の小さな記事が、先祖の一人の名誉を傷つけるものであったため、プリングル家では大騒ぎとなり、このことを秘密にしてほしいと和解をアンに申しいれたのをきっかけに、一族はアンの強い支持者となって、その町におけるアンの地位は不動のものとなる。

アンが結婚して間もなく、夫ギルバ-トの親族にあたるメアリ・マライア叔母さんという独身女性がやって来て、居ついてしまう。アンの一家は、お手伝いのス-ザンから子どもたちまで、皆、この女性に悩まされ、家の中では不愉快な毎日がつづき、アンの気持も沈んでしまう。ある日、ふとしたことから叔母さんの誕生日が近いと知ったアンは、お祝いのパ-ティ-をしようとス-ザンに話す。ス-ザンは猛反対するがアンにたのまれて、しぶしぶ承知する。ところが、叔母さんを驚かせようと一家でこっそり準備をすすめ、お客を招いて大々的に開いたパ-ティ-に、叔母さんは「他人に年を知られたくなかったのに、ひどいしうちだ」と激怒し、荷物をまとめて家を出ていってしまう。一家には再び楽しい日々が戻る。

アンの友人で、美しい人妻レスリ-は、かつて横暴な夫に苦しめられて、悲惨な毎日を過ごしていた。夫が旅先の事故で記憶を喪失し、廃人となって戻ってからは、その世話に一生を縛られていたが、それでも前よりは不幸でなかった。だが、医者であるギルバ-トは、レスリ-の夫を診察して、手術をすれば元に戻ると知った。アンは激しく反対するが、ギルバ-トは医者の良心に従って、それをレスリ-に告げ、アンが予想した通り、レスリ-は深い絶望に心を閉ざしつつ、迷わず手術に同意する。アンは心を痛めたが、手術が成功すると、夫と思っていたのは、よく似ていた従兄弟で、夫はすでに旅先で死亡していたことがわかる。レスリ-は自由になり、愛しあっていた青年と結婚して、幸福な家庭を作る。

いずれの話も、こうして要約してみると、けっこう暗く、皮肉っぽく、ある種の悲惨さがある。モンゴメリは、そういった面から決して目をそらさない作家だが、しかし、原作を読んだ人ならよくわかるように、この三話はどれも、あるいはユ-モラスな語り口で、あるいはロマンティックな色どりを添えて、快く美しく語られるので、そういった面は読者には、おそらく、ほとんど感じとれない。

ところで、さしあたり今、私が注目したいのは、この三話すべてに共通する、「望んでもいないし、よい結果もまったく期待できないが、ただ、強い義務感によって、自分がすべきだと考えたことをすると、予想もできなかった展開がおこって、すべては最高の結末となる」という設定である。

しかも、そこには、敵や対立するものとの理解や共存は、必ずしも必要ではない。相手に対する判断の甘さや、度を過ぎた期待、うけいれつくそうとする愛情は、アンやレスリ-にも、モンゴメリにも、まったくないといっていい。アンは自分の行動によって、プリングル一族やメアリ・マライア叔母さんの心がやさしく変わるだろうなどとは、少しも期待していない。レスリ-も夫が改心するだろうなどという希望は何も抱いていない。そして、その判断は正しい。スキャンダルとなるような記事がなければ、アンの行為にかかわらず、プリングル一族はアンを葬り去ったであろうし、メアリ・マライア叔母さんは、自分が出てゆくことは皆に喜ばれることとは知らず、本人は皆を罰しているつもりで、家を出て行ったのである。レスリ-の夫も、死んで消えていたのであり、そのことがわかったあとでもレスリ-は、夫に対しては一言も理解や許しの言葉は吐かない。

アンもレスリ-も、ただ、すべきだと思ったことをしたのである。その彼女たちを救うのは、相手の人間の心の変化や、それによっておこる行動ではない。相手の本質は変わらない。自分との関わり方や理解の程度も変わらない。彼女たちを救い、すべてを思ってもみなかった方向で解決してしまうのは、それとは別の、偶然であり、運命の歯車であり、神の意志としか思えない何かである。

モンゴメリの作品には、もちろん、生まれ変わったように変化してゆく人々も、しばしば登場する。しかし、注意深く見ると、それらの人々も結局は、何かの理由で隠されていた本来の自分をとりもどしたのであって、そういう場合の例も含めて、全体としてモンゴメリの作品には、人の本質は決して変わらないし、理解しあえない相手とは決して理解しあえないだろうという判断が、一貫して強く流れている。それは、他人や周囲への、きびしさとか、冷たさとか、絶望とか言ってしまっては、おそらく正しくないだろう。人が、自分にとって不都合な、不愉快な、理解できない行動をするとき、それをただちに悪ととらえ、いつかは、あるいは何かによって、自分の都合のいいように相手が変わると信ずることこそ、あるいは変えていくことこそ、逆に、拒絶で、無視かも知れない。

他人や、周囲の反応に期待せず、それによって自分の生き方を左右されまいと、これらの人々はするのだが、そうまでして守る独自の生き方は、まったく何も期待しないで守れるものではないだろう。具体的なかたちとして表現することは非常に難しいが、とても口には出せないような何かをやはり、彼らは夢みて行動するのだ。それは、結果を予測することをいっさい拒否し、正しいと思う方法をとりつづけることによってしか、決して実現できない夢だ。現実には、その夢からかぎりなく遠ざかるように見える行為を、すべきときには断固としてすることによってのみ、はじめて実現できる夢だ。

すべては、それがまだ、この世に実現されたことがなくて、あるいは非常に少なくて、達成する方法が確立されず、一般の常識となっていないところに原因がある。多くの人々は、目の前に、たとえ他人のものであれ、現実の具体的なものとして見なければ、栄華も幸福も、どういうものかが理解できない。新しい体制の社会であれ、新しい愛のかたちであれ、新しい家庭のあり方であれ、新しい一人の生き方であれ。何かの事情で、それをかいま見、あるいは味わってしまった人が、押し寄せる現実の中で、それと違った現実を思い描いて、そこに近づく生き方を守り抜こうとしつづける。

アンは、よく知られているように、夢ばかり見ている、空想好きな少女である。それは多分、多くの少女の持つ特徴でもあるだろうし、だから根強い人気も有するのだろう。しかし、モンゴメリの作品全体の中にアンの空想癖をおいて見たとき、それは単に甘い現実逃避というよりも、はるかに危険で強い性質も持っている。アンを愛する多くの少女たちが、どれだけそれに気づいた上でアンに夢中になるのか、私は非常に興味があるが、まったく判断できないでもいる。

4.再びノ-トから

私は、それを問いかける一つのきっかけとして、再び自分自身の書いた昔のノ-トのメモをひきたい。これは前の授業ノ-トより更に昔のものであり、日記めいた私的なものでもあるので、かなり感情的な表現もあって見苦しいが、お許しいただきたい。

大島弓子の漫画に「F(フロイト)式蘭丸」という作品がある。ある少女が空想で作りあげて、いつもいっしょに遊んでいた、まったくプラトニックな愛の対象、やさしくてすべてに有能で、デリケ-トではなやかな美少年蘭丸と別れて(つまり忘れて)現実の少年と恋をし、大人になってゆくというお話で、よくできている。大島弓子論をするつもりではないから、彼女の本心がどこにあるのかはせんさくしない。しかしもし少女のころの私がこの作品を読んだら苦しんだろうと思う。多分、生々しく傷ついたと思う。今でも私は同じように甘く、まぶしい苦しみと痛みを、真剣にこの作品からうける。私が大島弓子を決して好きになれない理由がここにある。この「好きになれない」の中に軽べつはない。むしろ、全力こめて感情的に押しかえしてしまわなければとても押しかえせないから、「好きになれぬ」と我をはるのである。少女のころの私なら、この作品を読んでしばらく、ゆううつで悲しく、何も手につかなかったかもしれない。

 

幼い日に夢み、恋した幻を、人が忘れ、すてて、思い出せなくなり、過去のものとして、ほおえんでふりかえりながら、大人の生活に歩みいってゆく・・・このパタ-ンを大島弓子はいつも美しく描くし、他にも小説に、映画に、質のいいもの悪いものとりまぜて、この手の話は多い。そして私は、この種の話をよむたびに、いつも激しい絶望と、怒りと、悲しみとにひたされる。

 

なぜだろう、私はいつも、「おいていかれるもの」の気持を思いやる。「忘れさられ消えさせられてしまうもの」の心を思う。こっけいを承知で、真剣に私は怒ろう。蘭丸がなぜ、消されなければならないか。幻であれ、夢であれ、一度描いたものならば人はそれを守りつづける義務がある。夢だって、幻だって、そうかんたんに殺されてしまってはならないのだ。そうかんたんに忘れられるものなら、初めから描かぬがよい。描いたことがあるなどとは言わぬがよいのだ。

 

子どもたちが描く幻、抱きつづけていれば成長できず大人になれぬかもしれないさまざまな夢、とりとめもなく、かたちもととのわず、思いつめていけば消えてしまう世界。それをすてさり、忘れさって、大人の世界へふみこむことが、健全な成長であると言うのなら、全力こめて私はたたき返してやる。そういう考え方こそ、最も不健全であると。

 

大人の世界といえばなるほど聞こえはいい!しかしそれは多くの場合、せいぜいがマスコミと、自分の回りの世界から大ざっぱにつくりあげられた、せまい、上すべりなイメ-ジによる、たかが、「これまであった世界」にすぎぬのだ。その「今ある世界」「これまであった世界」が最高に美しく、すばらしく、ゆるぎがないと、なぜ保障できるか。大島弓子の漫画にしても、他の少女漫画にしても、最後に近く、最高の幸せの象徴のようにあらわれてくる、花嫁のベ-ル、新婚家庭、大家族の家、それらは決して、本当は、物語のおわりではなく、永遠に続く天国ではないのだ。そこにはたくさんの、ゆれうごく戦いがあり、破局も荒廃も存在する。大人の世界は何も絶対的なものではなく、そこに完全にとけこめば幸せになれるというものではないのだ。

 

たとえば「ピ-タ-・パン」、たとえば「メリ-・ポピンズ」、たとえば「星の王子さま」にも、そういう、失われた子供時代への郷愁はある。しかし、注意深く読めば「F式蘭丸」のそれとは断固としてちがう姿勢がある。成長して大人になった者たちは、すぎた日の思い出として、なつかしく昔をふりかえったりはしていない。今生きている世界への抗議として、戦いの武器として、ピ-タ-・パンを、星の王子さまをメリ-・ポピンズを彼らはたたきつけている。大人の世界を生きるとき、回りに対する怒りと批判、そしてその解答を、子ども時代の夢の中に彼らはさがしている。それは成長しきらない人間の、時に逆行する弱いたわ言であろうか。ちがう。回りに流されず、世界を見つめ、自分自身の態度を、意見を保ちつづけるということこそが一人前の人間としての資格であるならば、彼らこそが本当の大人であるのだ。

 

本当に大人として、一人前に責任を持って生きようと思うなら、回りのすべてを常にそのままうけいれられるはずがない。一人の人間として怠惰である。ときには回りの無視というかたちをとってでも、自分の生き方をつらぬき、独自の考えをもって、態度に示し、意見をのべ、かくして自分の生きる時代と世界の動きに関与していく、それが生きている上の責任といえば責任である。自分の生き方、自分の考え。それはしょせん、自分の体験(読書、映画、その他も含めて)を常に点検し、かみしめ、見つめ直していくことからしか生まれはしない。だとしたら、子どものころに感じたことの一つ一つは、大人になった今を生きていく上の貴重な資料ではないか。それをさらりと忘れてしまい、今の自分と切りはなして考えられる人間は、大人としても欠陥がある。私は絶対信用できない。

 

なぜ人は、かんたんに、自分の過去を、葬るのだろう。一度見た夢を、すてるのだろう。あきらめて他人に托すのだろう。いったい、一度でも考えてみたことはないのだろうか。自分が今住んでいるのとはちがう別の世界を。それが目の前にあらわれたとき、自分はどうするかを。まったくちがった世界に投げ入れられたとき、今、自分が持っているもののどれだけを、たしかにつかんでいられるかを。

 

「赤毛のアン」は「道の曲がり角」の向こうといういい方で、まだ見ぬ世界を、表現した。似た意味で私はよく、「地平線の向こう」ということばを使った。今いる世界が楽しいときも、つらいときも、私はよく「地平線の向こう」、つまり自分が今いる世界とまったくちがう世界のことを考えた。そして、そこに行っても変わらない自分でありたいと思った。また、そこから人が来たとき、迎えいれてやれる世界にしておきたいと思った・・・こちらの、自分が今いる世界を。また、地平線の向こうに行っても、今いる世界のことは忘れまいと思った。

 

ここでまた「赤毛のアン」に戻ろう。私はこの作品を、二つの点で、徹底的に高くかう。(註1)というよりも、私の生き方をいつもどこかで支えられてきた。私はこの「アン」シリ-ズの作者モンゴメリ-と、「若草物語」のオルコットを、どちらも同じに好きという人間を、あまり信用できない。

(・・・といいつつ、私自身、そのどちらからもある種の快感をうけるし、自分の中に二つの世界があることはたしかに認めるけれど、それにしても!)つまり、モンゴメリ-が描き、主張するのは、一見少女趣味的に見えて、実は、子どもの世界を持ちつづける人の、異常な人の、思想なのだ。ただし「アン」シリ-ズの末尾ではこの傾向はうすらいでゆく。これはしかたがないだろう。

 

私の母が「赤毛のアン」について述べた感想に、「やっぱりあっちの国は感心だ。アンがギルバ-トと結婚するのに、アンが孤児だったことを誰もちっとも問題にしなかった」という一言がある。異様なことを聞いた気がして、今でも胸に残っている。このごろテレビで放映されるのを見てあらためて感じたが、アンの幼年時代は悲惨で、異常なのだ。彼女はアウトロウの出自といえる。その中で空想の世界だけに逃避していた彼女は、今の常識で考えて、決して健全な女の子ではない。彼女もむしろ異常である。それをひきとるマシュウとマリラは、独身の年老いた兄妹で、マシュウは妹に頭が上がらず、女の人と口がきけない。私は頭が下がる。見ようによっては限りなく病的なこの三人のくらしを、そんなかけらもなく、何と明かるく、ほのぼのと美しく力強く、夢いっぱいにモンゴメリ-は描いたのだろう。何という逆説、何という皮肉だろう。

 

そして、アンがマリラのしつけをうけて成長して行く過程。よく見るがいい、よく読むがいい、ここに、アンが屈服し、敗北したケ-スは一つもない!レイチェル・リンド夫人にあやまったとき、アンはそれを楽しんでいることに、マリラは気づいて、あきれる。紫水晶のブロ-チは、アンは盗んでいなかった。しかもとったと白状し、こっけいな行きちがいがおこる。アンは成長していくが、しかし、大人にしつけられてではない。むしろこの少女にあるのは、誇りを傷つけられると、男の子をなぐりつけ、学校も退学する、激情である。一方で彼女の魅力、ナイ-ヴなやさしさ、風がわりな美しさが強調されるから読者は忘れてしまうが、アンは大胆で、強情で、異常な子である。ぐさりと鋭い皮肉を言うし、負けずぎらいで、戦う力を持っている。そののびのびとした力強さが逆に回りをかえてゆくのだ。「若草物語」をはじめとするオルコットの少女たちが、常に大人に反抗しては失敗し、おのれを恥じて、くいあらため、そして「リットル・ウィメン」になっていく、あの過程とは何たるちがいか!

 

ひとりアンに限らない。モンゴメリ-が描く人々の一人々々は激しい感情をもっておのれの夢の世界を守り、そのために迫害される。少年ポ-ルは、女中からあざ笑われて、「先生、僕、あたまがへんなのかしら」と悩む。変わり者と言われるオ-ルド・ミスのラヴェンダ-は、四十になっても若づくりをし、ままごとをし、小さい少年の友だちを空想で作っていつも遊んでいる。「その子はいなくならないし、決して年をとらないの」と言うと、遊びに来ていたポ-ルが応ずる。「僕、わかる。それが夢の人たちの美しいところね」。昔、読んだとき、私はラベンダ-が別にきらいでもなかったが、特に好きということもなかった。しかし今よみかえして、モンゴメリ-は、何という人間を描いてくれたものかと思う!しかもぬけぬけと、まったく、あきれるほどに美しく、ただ美しく。私は感動する。リアリズムなどたたきつぶして、現実以上に現実の、一つの世界を作りあげたモンゴメリ-の、この心意気に。ラベンダ-は、彼女の蘭丸を捨てなかった。そしてついに彼女は真のそれを得る。これはおとぎ話かもしれぬが、それでもよい。ラベンダ-の生き方の大胆さ、モンゴメリ-の書き方の大胆さが、今にして私にはしみじみわかり、もう一度言うが、頭が下がるのである。

 

(ヤボなつけたしだが、言っておく。ラベンダ-の生き方が、彼女の描写がリアルでなく美化されていて面白くないという人へ。よくよく考えてみると、私たちが認めている、リアルそうでリアルでないものは、実はものすごく多いのだ。ほとんどの西部劇で出てくるガンマンは、あまりに強すぎる。時代劇の剣士も同様。スパイものや刑事もののスパイや刑事の死ななさかげんも異常。皆が気にいる夢だったら、少々のリアルのなさは気にされない。そのくせ、これまでの常識にさからうものだと突然にリアリティのなさを気にしはじめる。強いガンマン、死なない刑事がいていいのなら、美しいオ-ルド・ミスぐらいいていいでしょう?それが気にくわないなら、気にくわないといえばいいのだ。リアルじゃないとかえらそうな小理屈はつけず。そうしたら気にいっている者は、ああそうですかといって、勝手に楽しむのだから。少年愛ってもっとみにくいものですよ。(註2)こんな強い女がいるわけはない。動物がこんな人間みたいなことしますかね。こういう批判はよっぽど用心して聞かないと危ない。描き方と、描くことそれ自体とを、わざとごっちゃにして攻撃してくるのだ)。

 

あちこちにまじる挿話にしても、描き方によっては目もおおうばかり悲惨な状況になるだろうものがモンゴメリ-には多い。モンゴメリ-の目は常にそこからそらされない。「アン」シリ-ズのおわりに近い「炉辺荘のアン」においてさえ、たとえば、こんな挿話があった。一人の男が死ぬ。前妻も今の妻もいじめぬいた男だった。教会での葬式のとき、型どおりのくやみことばがのべられるのに対し、前妻の姉がいきなり立って、激しい口調でその男の罪を数えあげ、憎しみをたたきつけて、妹の恨みを述べる。彼女が言うだけ言って泣きながら通路をひきあげていくと、今の妻が立って、静かに「ありがとう」と言う。そこには死んだ男への、更に更に深い憎しみが感じられた。アンは、「この話だけは子どもたちに聞かせまい」と思うのだ。そして、たしか、アンは、村のあるおだやかな男の一人から、前妻の姉が昔は、死んだ男を好きだったのだという話を聞くのだったと思う。「ふしぎなもんですなあ、人間とは」というようなことを、その男は(あれ?女だったかしら?)(註3)のんびりと語って、アンといっしょに夕ぐれの平和な風景の中にたたずんでいる。

 

これがモンゴメリ-の世界だ。人間たちの激情をたたきつけて、いっさい批判は行われない。それらの挿話の一つ一つが今、きざみつけられて私の心には残る。モンゴメリ-は決してこの世を健全で美しいものとは見ていなかった。だからこそ、美しい心をもつ一人々々の人間は、その世の中に、「成長していってあわせる」のではなく、その世の中と対決し、戦い、傷つき、しかもなお、夢を見つづけなければならないのである。アンとダイアナが、改善会の寄付をつのりに村を回り、エリザとキャサリンという二人のオ-ルドミスの家をたずねるくだりがある。悲観主義のエリザは、世の中はわるくなるばかりだといって、むろん募金に応じない。家を出て馬車を走らせるアンとダイアナの後から、キャサリンが、エリザにかくれて走ってきて、自分のお金をわたしてくれる。彼女は息をきらせて言う。「・・・世の中はよくなっています。それはたしかですよ」と。あのことばもなぜかふと、異様な感じで心にのこっていた。回りからういていたからかもしれない。それだけ作者の強い思いがこもっていたからかもしれない。

ノ-トはまだ続いているが、引用は一応ここで終わる。私がここで述べている、モンゴメリと「赤毛のアン」についての見解は、基本的には今も変わっていない。そして、キャサリンのことばについて更につけ加えるなら、モンゴメリにとって、夢は永遠に夢なのではなく、来るべき未来への、強い信頼や期待とつながっている面もあったことが、わかるのではないかと思う。だが、そうなるとき、夢を見つづけ、守ることは、一層の力を要するようになる。単に、現実逃避であり、休息である夢ならば、まだしも現実との対決は少ない。攻撃もかからない。夢が夢で終わらず、理想が理想でなく、実現の可能性が生まれたとき、それを抱きつづけて来た人は、内部からも、外部からも、最も激しい抵抗をうける危険にさらされる。精神的にも、肉体的にも、あらゆる危機が訪れるだろう。夢みているだけならば、ということで、見すごされていたものが、その妥協点を失うのである。

だが、そのことについて語る前に、先のノ-トの中であげた「ピ-タ-・パン」を作中で引用している映画「E・T」について、少しだけ述べる。

5.「E・T」そして「夢の子供」

近来、とみに人気の高い、ル-カスとスピルバ-グの映画に、私はあまりなじめない。内容以前に、大画面をテレビ画面のような感覚で、いっぱいに使うので、見ていて逆に窮屈で息苦しくなってしまうのだ。シネマスコ-プや70ミリが珍しかった時代に、やれ砂漠だの、大海原だの、大群衆だのばかりを遠景で見せられつづけた悲しさだろう。彼らの作品は、どれも見ると面白いのに、二度見ようとは思わないのも、きっと、そのせいだろう。「E・T」も、はじめのころだったせいか、特にその印象が強く、むろん一度しか見なかった。だが、感覚的にはそうやって拒否しながら、全面的に支持するということはあるもので、あの映画を見て抱いた私の感銘や共感は、めったにないほど強かった。

既に、おわかりになっている方もいよう。あの映画の後半、私が前章で記した「子どもが、成長のために切りすてなければならない何かがある」というテ-マは、強く押しだされてくるかに見える。E・Tが色あせ、死んでゆくとき、共に死のうとした子どもは、国家の管理による強大な機構の中で、命をとりとめ、蘇生する。一見、非人間的で無気味に見えた、その機構の、一員である科学者が、よみがえった子どもに向かってしみじみと、「自分もかつてはE・Tを信じた」と語る場面で、私は、これはこんな映画なのだなと、座席で静かにあきらめた。それにしても、アメリカも疲れているなあとか、ベトナム戦争がそんなにこたえたのだろうかとか、ぼんやり考えていた。

たたきのめされたのは、その直後である。アメリカは健在だったと、あれほどに骨身にしみて思い知らされたことはなかった。「君がいなければ、何も感じられない」という絶望だけを告げて、少年が部屋を出ようとしたとたん、三流ドタバタ喜劇なみの、明るさと騒がしさで、E・Tは一挙によみがえる。そして少年は、間髪入れずに敵と味方を峻別する。例の科学者の目からすばやくE・Tを隠し、即刻、仲間の自転車に乗った子どもたちとともに、自分をとりまく、巨大で美しい、国家の手になる科学的設備と、それを守る人々の包囲網を突破して、E・Tを守って郊外の森へとつっ走るのだ。
見ていて、涙は出なかったし、感動するのさえ忘れた。私は座席に呆然と座って、画面いっぱいに突進しては走り抜け、大人たちの追跡を次々ぶっちぎってゆく少年たちの疾走を見ていた。「・・・強い」「強いなあ・・・アメリカって・・・強いなあ」と、小声で何度もくりかえしながら。

子どもたちだけに見守られて、E・Tが宇宙船に乗り込むとき、少年の母親は見送る人の中にいた。大人であったが、ちゃんとそこにいた。映画の前半で、この母親はたしか少年の妹に「ピ-タ-・パン」の一節を読んで聞かせてやっていた。毒を飲んで死にかけた妖精のティンカ-・ベルが、妖精がいると信じる世界中の子どもたちの拍手の音によって助かる場面だった。「そんなものはない」「それは実在しない」と言いきられることそれ自体によって、現実には既に存在していたのに、ほろぼされ、消されていくものがある。あると信じつづけられる、ただそのことによって、現実に発見され、認められ、育ってゆけるものがある。そのことを人に訴える一節が、あの場面で選ばれたのは、偶然などではないだろう。私を一瞬あきらめさせかけたほどの巧みで大きな伏線をしいて、「E・T」が、終始陽気に堂々と訴えかけた思想と、それは一致している。

だが、それでもなお、夢を見つづけ、あるべきと思う生き方を守りつづけ、しかもなお現実の社会の中で周囲の人を傷つけず傷つけられず生きのびつづけてゆくことは、誰にとっても、おそらく至難のわざだろう。虚構と現実の交錯を好んで語った、芥川、三島、ワイルドらの、自殺や投獄にまつわられる人生も、それらのことと無関係とは思えない。周囲からの圧迫や攻撃は、まださほど問題ではない。このような生き方をする人々を何よりも苦しめ、弱らせるのは、自分が抱いているのは妄想ではないか、自分はすでに狂気にとらわれ、理性や判断力と自分が思っているものも、実はそうではないのではないか、という、自己の内部から限りなく自己をむしばむ疑惑である。

だが、それを排除する手段があろうとは、今、私には思えない。現実にまだ存しないものを夢に描き、その実現を信ずることは、常にそのような狂気と紙一重の危険をはらみつづけることだと思う。そうやってしか、よりよい新しい未来の日々は、かちとって来られなかったし、今後もきっと、そうだと思う。

モンゴメリの短編に「夢の子供」(註4)という作品がある。海辺の家に住む若い夫婦が幼い一人息子をなくし、妻はやがて幻の「夢の子供」の呼ぶ声を聞いて、戸外にしばしば走り出てゆくようになる話である。その狂気が次第につのっていった、ある嵐の夜、闇の中を、子供の声を追って走ってゆく妻につきそっていった夫は、突然、闇の中に自分も子供の泣き声を聞く。

結局、浜辺に流れついた小舟の中に捨子が泣いていて、その子を連れ帰ったことをきっかけに妻の狂気はおさまり、二人はその子を養子として大切に育て、やがて他の子供たちも生まれて幸せな人生を送るという、いってみれば他愛のない甘い話であるのだが、幼い頃、これを読んで私はひどく恐かった。今、読みかえしてみると、その恐さはもうよくわからないが、やはり、素朴でささやかな話の中に、ある種の静かでふしぎな無気味さがあるように思う。モンゴメリ自身は、平凡な家庭小説のつもりで書いた作品かもしれない。しかし、見ようによっては、これはそのまま、夢みることをやめない人の、生き方の一つの寓話であろう。現実にはない幻の声を追って走って行ったからこそ、現実にいて、泣いていたのに誰にも見つけてもらえないで、嵐の中でそのまま死ぬかもしれなかった、現実の子供を、彼女は救った。しかしまた、もしもその子がそこにいなければ、彼女は狂気の淵におちるしかなかった。夢の子供の声に耳をかたむけ、それを腕に抱こうと追っていくことは、絶望と破滅に向かって走る危険を常にともなっている。たとえ、この話の夫のように、同じ声を聞くことはなくても、心配し愛して、よりそって走ってきてくれる人がいたとしても、それにかわりはないのである。
(1989.9.21.)

  • 註1 ここで私が言っている「二つの点」のもう一つは、同じ作者の「エミリ-」シリ-ズとも共通する反中央思考、田舎や地方(ひいては過去の)重視である。本論ではそれにはふれない。
  • 註2 このノ-トの別の部分で私は次のように記している。「遠藤周作が竹宮恵子に向かって、あなたの描く少年は美しすぎる、少年というのは臭いのだ、と言ったそうだ。遠藤氏はもちろんご存じのことと思うが、少女だって臭いのですよ」。
  • 註3 あらためて確認すると、やはりステファン・マクドナルドという男性だった。
  • 註4 新潮文庫「アンをめぐる人々(第八 赤毛のアン)」所収。
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カツジ猫