母と私の戦後

母と私の戦後

私の母は大正七年生まれで、今年八十七歳になります。今も田舎の大きな古い家に一人で暮らしています。
しっかりした人で、田舎の家の管理もまかせていたのですが、数年前から今はやりのリフォーム詐欺にひっかかったり、大した知人でもない人から泣きつかれてお金を貸したりして、私は怒って田舎の家を自分で管理するようになりました。その間、母に「何という間抜けなことをする」みたいな態度をとったので、母も自信をなくしたと思います。よくぼけもせずに耐えてくれたと感謝しますが、そういうことになりかねなかったことを思うと、私はお金を借りた人やリフォーム詐欺の業者が許せません。
こういうことは、母がぼけたから起こったのではなく、そういう業者や借金魔が昔はいなかったのだと思います。母の対応はしっかりしていて、きちんとしていて、おかしいところはありません。ただ、基本的に善意の人で、それが通用しなくなっている世の中なのです。

そうは言っても母も年ですから、私がいろいろ伝えた話を細かいところで時々まちがえます。実はそれで最近私は落ち着かなくなっていています。
母が年とって少しぼけてきているのなら、それでもいいし、そうかもしれないとも思います。ですが、もしかしたら、母は昔からこんな風にいいかげんに自分で話を解釈して私に伝えていたのかしら、とふと思ったりするのです。最近になって正確さが薄れてきたのか、もともとこんなものだったのか、とあらためて考えていると、確かだと思っていたことの数々が音をたててゆらいでいくような不安に襲われます。

幼い時から私は母を通して世界を見ていました。大人になって、母とちがった見方もする部分が出来てきたし、母の知らない世界や知識も得ましたけれど、それでも自分がカバーできない部分はいつも、母のくれる情報に頼っていました。
大学に入って、そのままそこに就職し、都会で暮らしていた私に、田舎の人の日常や対立やさまざまな問題を細かに伝えてくれたのは母でした。だからいつも私は、学問や文化で最先端と言われる人たちの世界にいても、都会にいても、それが日本の大半の部分とはちがうことを知っていました。いくらひとにぎりのエリートが無駄のない最高の洗練されたことをしていても、日本のほとんどは本の一冊も読まない人が大半の田舎で、それをずっしりぶらさげて、この国は歩かなければならないという実感を忘れたことがありませんでした。宗像で家を建てて、地元の方々とつきあうようになっても、それほどとまどいもしなかったのは、田舎のおつきあいについての裏話を母からいつも聞いていたからです。

母と同い年の人たちはもう皆亡くなってしまって、母は今では田舎では長老のような存在になっています。村のいろいろなことの第一線にはもういません。今では毎日テレビを見ています。これもずっと以前から、私はテレビの情報は皆母から得ていました。今でも母はタレントやお笑い芸人に詳しく、政治の動きにも敏感です。すべてテレビを通しての情報しかないのに、流されもせず、自分の価値観を変えません。レーザーラモンは大嫌いで小泉首相も軽薄で無学だと片づけます。後藤田正晴や野中広務は油断がならないと初めから言っていて、最近では見直したとか話しています。
私は自分の職場でもそうですが、ぎりぎりまで対立は避けます。大勢に逆らうのは疲れるので、つい妥協点を探します。しかし母は決して流されません。今でも石原裕次郎、美空ひばり、吉永小百合は大嫌いで、演歌も嫌いで、ビートたけしも渥美清も西田敏行も大嫌いです。日本がこんなになったのはビートたけしのせいだと断言しています。彼の出る番組をいつも見ていてもそう言います。この強靱な神経は何なのか私にはわかりません。彼女の価値観、彼女の観点、それは強固で独自のもので、彼女が死んでいなくなったら、私はいつも「このことについて母はどう考えるだろう」と思って、結局わからないでしょう。重要な羅針盤や潜望鏡のいくつかを、母とともに失うだろうといつも思います。

けれど、そういう母であるだけに、私は今、母の判断や分析のどれだけが正しかったのだろう、私が母を信じて、母を通して見てきた田舎や、マスメディアや、歴史はいったいどれだけ正しかったのだろうと激しく動揺するのです。
そして、あらためて、母とともに歩いてきた、この戦後の中で私たちが互いに共有したもの、しなかったものを、確かめてみたいと思うのです。

母は長崎の活水短大を出ています。キリスト教の学校で、国文学以外の授業は皆アメリカ人の先生で英語だったそうです。母はキリスト教色の強い学校に反抗的で、洗礼を受けず信者になりませんでした。そのくせ、幼い私には近くの教会の日曜学校に行かせ、聖書や賛美歌を教えていました。「すべてを許せ」というイエスの教えは立派だが、悪人とは戦わなければならないこともある、と言っていました。
戦争中は軍国少女で、アメリカ兵がパラシュートで下りてきたら竹槍で突き殺そうと、本気で思っていたそうです。本当にそう思っていたのだから恐ろしい、とよく私に繰り返していました。
戦後はずっと革新政党を支持し、社会党と共産党にしか投票したことはないと思います。私を連れて離婚して帰って祖父母と暮らしていたのですが、その祖父とともに村の政治にも関わって、町長のリコール運動などもやっていました。当時の村の政治は賄賂が横行し、私たちの陣営はいつも負け戦でした。
社会党にせよ共産党にせよ村の政治にせよ、私はいつも負け戦の側に身を置いていました。そのことに慣れていました。

母が私に言ってきかせたことは、いくつかあります。一つは、「世の中が二つに分裂した時は、とにかく弱いものの方につけ」ということです。「そうやってつりあいをとらないと、世界が一方に偏してろくなことにはならない」「もし、皆の意見が一致して誰も反対しなかったら、とりあえず一人でもいいから反対してみておくこと」とも言われました。 また、「どんな場合でも、強い者の方が折れなくてはいけない」と言いました。「あなたが強い立場なら妥協して相手に合わせなさい。しかし、あなたが弱い立場なら、決して負けてはいけない、とことん戦いなさい」と言いました。
「もし、人にいいことをする時はかくれて、知られないようにしなさい」「しかし人を攻撃したり悪口を言ったりする時は、絶対に名乗りなさい。どうしても名乗れない事情があるなら、相手の反論や弁明が必ず届くように連絡先を明確に示しておきなさい」とも言われました。
母が私に教えたことは、ほとんどこれしかありません。あとは、何もうるさく言われませんでした。覚えやすいし守りやすかったから、私は今でもこれはきっちり守っています。 母がこういうことを、どこでどうしていつ誰に学んだのか私はわかりません。祖父母の教えでもなさそうだし、どんな本でもこれだけまとめて書いてあるのは見たことがなく、どういう体験が母にそう言わせているのかは謎です。

私は母のこうした教えも、行動や思想も分析したことはありません。しいて言えば母は社会的地位とか収入とか肩書きとか、そういうものには関係なく、精神的にいつもエリートで知識人だったのかな、と思います。それは祖父母もそうでしたが、能力や資質には関係なく、いつも人の上に立つ者として周囲を見ていました。だから、傍観者にはならなかったし、責任は自分がとると考えていたし、弱音は絶対吐かなかった。実は私は祖父母や母が泣いたのも何かを恐がったのもため息をついたのも、一度も見たことがないのです。

だから、日本が戦争をしている時は戦わねばならないとまじめに思い、負けて反省する時には潔く悔い改めたのかなと思います。革新政党を支持しつづけたのも、戦後のマスメディアや知識人や思想界がすべてそうだったから、新聞を読み雑誌を読みラジオを聞き、勉強したら、自然にそうなったのかなとも思います。だったら、やはりそういう母の姿勢は日本の戦後の風潮が生んで育てたものであり、今となっては過去のもの、見直さなくてはならない部分もあるのかなとも考えます。
その一方で、でも母がそうやって反省し革新的になったのは、やはり、戦争が終わってよかった、平和はいいと思う強い実感に基づくのかなとも思うのです。
あの戦争が続いていたら、本土決戦にでもなったら、母はひるまずアメリカ兵とさしちがえたのかもしれません。けれど、そうならなかった時、殺し合おうと思っていた自分が誤っていたと即座に変化した母の精神とは何だったのでしょう。敗北によるショックが生んだ自虐史観なのでしょうか。天皇制というカルトからの解放なのでしょうか。
母は今でも「天皇の責任じゃなかったって?」と鼻で笑います。「あんたたちは知るまいけれど、あの頃の天皇の力は本当に絶大だった。天皇が一言、『もうやめたらどうか』と言ったら、絶対に戦争はやめられた。どのくらい天皇の権力が強かったと思ってるの、軍部の傀儡だなんて笑わせる」と言います。
こういう母の感覚を、記憶を、発言を、私はどれだけ信じたらいいのか。

私と母が住んでいたのは田舎でした。戦後といっても、私の学校の先生たちは皆、戦争体験をむしろ楽しそうに得意そうに話していました。村の有力者の家でも貧しい家でも男は女をなぐり、親は子どもをなぐっていました。学校では体罰があたりまえでした。
民主主義も平和思想も決して根づいてはいなかったと思います。私はそれを本や新聞やテレビや映画で学んでいました。それは都会の思想であり、進歩的な思想でした。
祖父母も自由な感覚の人たちでしたが、やはり明治の人たちでした。母と私はその村の中で、その家の中で、二人でやたらと急進的な小世界を作っていたのかもしれません。
母は私に本だけは惜しげなく買い与え、すべての本を私といっしょに読みました。私の教育のためだけでなく、母もそうして新しい本を読んでいたのだと思います。そして、毎晩夜中過ぎまで、本の感想を語り合っていました。何かを私に教えると言うより、母は自分も夢中になっていました。私に自分の考えを語ることで、母も成長していたのかも知れません。新しい生き方を築いていたのかもしれません。

私自身について、母について、ひいては戦後の日本について、私が最近特に不思議に思っているのは、反日とか反米とか愛国とかいろいろ言うけれど、いったい、アメリカや中国、朝鮮、ドイツ、イスラエル、ソ連、そして日本に対して、私たちはどういう感覚を持ち、どういう嫌悪と愛情を抱いているのだろうかということです。
たとえば、アメリカについて、母はどう思っているのか。彼女の愛した弟とその家族がいる国、彼女の故郷である長崎に原爆を落とした国、彼女が卒業した学校でその国の言葉と文化を学んだ国。
彼女はベトナム戦争のきっかけとなったトンキン湾事件の時、「そもそも何であんなところにアメリカの潜水艦がいなくちゃならないの。誰もなぜそれをおかしいと言わないの」とあざ笑い、徹底的にアメリカを批判しました。あの9.11.事件の時、「アメリカが今まで他国にしてきたことを思うといい気味。胸がすっとした」と公言し、フセインとビンラディンを支持してはばからず、「だいたいアメリカがあの人たちに武器をやって育てて、飼い犬に手をかまれたんじゃないの」と最近では言っています。
それにもかかわらず、アメリカに対する憎悪を私は母から感じません。原爆を落とされて親戚の多くが死んだ話をする時も、「かわいそうに」「戦争はいけない」と言っても、アメリカを憎む発想はまるでありません。

中国についてはどうでしょう?
母は、中国の南京で生まれました。祖父が中国で大きな病院を経営していたということです。何かの事変にまきこまれて一家で命からがら日本に引き揚げてきました。その時に小学生だった母は、廊下で皆と並ばされて中国の兵士に銃で撃たれたそうです。空砲だったのか誰もけがはしなかったけれど、「あれ以来、何も恐いと思わなくなった。恐いものがなくなった」とよく言います。
そんな体験があるのに、母は中国が好きです。その風景も人々も、とてもなつかしいと言い、「地平線の見えない風景を見て育った人間はスケールが小さくなる」と言います。オリンピックでも政治でも、「いずれは絶対、中国が勝つ」と断言しています。「あれだけ日本が中国にひどいことしたのに、あまり追及もしなかったのは、中国人はスケールが大きいからだ」と言っています。「アメリカなんか歴史がないし、日本の歴史だって中国に比べれば短い。伝統がちがう」などと言います。

そんな母が、朝鮮に対してはずっと劣った者を見る感覚をどこかに持っていました。中国時代、とてもかわいがってもらった朝鮮人の使用人のことをなつかしそうに話していても、やはり日本にいる朝鮮の人々に対しては何かちがう感覚を持っていたようです。それがどこから生まれた感情か、私にはわかりません。現実に誰かを差別することはなかったし、今の韓流ブームにははまってはいませんが「朝鮮の人たちは、きれいになったねえ」と言って感心しています。

ソ連については、社会主義の国ということで肩入れしていました。ドイツに対してはナチスの国と言って軽蔑するよりは、「日本と同じ敗戦国でも、アメリカ兵にチョコレートをもらったりなんか絶対しない、誇り高い国民」と、どこから聞いたかわからない話をもとに、ほめていました。フランスについては、主として私といっしょに読んだ小説からの判断で、「どこかおっちょこちょいで、頼りにならない」と言っていて、ロシア文学の登場人物たちの方を、「なぜか、頼りになる」と評価していました。イスラエルについては、ホロコーストは絶対許さない姿勢でしたが、最近のパレスチナとの抗争を見て反感を抱き、「私はこのごろ思うけど、ヒトラーは正しかったんじゃないの」と言い出して、私をびびらせました。

母のこうした、時には歴史、時には小説、時には個人的な体験から生じる世界の国への様々な評価は、かなりしっちゃかめっちゃかにも見えます。私がそれを今、あえてとりあげて、見つめようとするのは、そこに戦後の世界と日本の歴史がやはり反映していると思うからです。そして、そこには私自身のこれらの国への印象もまた重なります。更にまた、そこには、私たちの国、日本に対する気持ちは何なのかということも重なります。

嫌韓流とか自虐史観とかいう言葉が最近よく聞かれます。私は、こういう言葉を口にする人たちを見ていると、いつも攻撃している相手の国はもちろん、守って愛しているはずの日本に対する愛情も、なぜかあまり感じられないのです。どんな国であれ、さまざまな要素を持ち、欠点もあれば長所もある。自分とうまのあう所もあわない所もある。時代によっても変化する。そういう、複雑な思いをもっと見つめてみませんか。それぞれの国を自分がどう思っているのか、もう一度考えてみませんか。それはそのまま、自分自身が何なのかを知ることにもつながります。

私たちは、多くがもう戦後生まれだと思いますが、では、この戦後の間だけでも、アメリカについて中国についてフランスについてイギリスについてイスラエルについてソ連とロシアについてアラブについて、私たちは何を知っているのでしょう。何を根拠に好き嫌いを決めているのでしょう。そもそも、私たちが、それらの国と比較対照する時のめやすにする日本について、私たちは何をどれだけ知っているのでしょう。どんな国だと思っているのでしょう。

勉強などする必要はありません。私たちは、誰よりも自分の生涯は知っているはずです。それをもう一度思い出して、家族や町や自分の戦後がどうだったかを考えてみるだけでも、マスメディアや政治家が語る戦後の姿よりは確かなものが見えるはずです。

母のことばかり話して、私の戦後を話す時間がなくなってしまったのですが、これはまた次の機会に話します。少しだけ言っておきます。
私は母とちがって、外国に暮らした体験がなく、自由に話せる外国語もありません。本当に限られた世界で生きてきました。ただ、母と触れて育ったためか、外国や異文化に対する抵抗感や拒否感がほとんどありません。それはまた、日本という国への反感も敵意もないということです。
私は日本の悪口を平気でいくらでも言いますが、それが言える日本が好きです。好きだということをあえてやたらに言わなくてもいい日本が好きです。これは私の好みもあって、私は「私たちって仲良しよね」と言い合う関係が好きではありません。
最近私は、自分の出身大学の連中や、自分の職場の仲間とよくけんかしますが、それは「ここは最高」のような言い方で団結を強調、強要することが、すごく趣味が悪いと思うからです。そして、そういうけんかをして四分五裂している状態が私は一番幸福で居心地がいいです。

そして、いよいよ激しいけんかになったら言ってやろうと楽しみにしている言葉があるのですが、それは、「そんなに○○大学とか××講座とかが最高と言うのなら、その悪口を言う私もそこの一員なんだから大切にしないといけないでしょ」ということです。
私はかねがね、「女は男に守られるべき」という言い方が大嫌いですが、もしそういうことにするのなら、どんな強い女も醜い女も悪しきばばあも守る相手を軽蔑する私のような女も、女であるからには断固として皆ひとしく守るのでなくてはいけないと思っています。自分の好きな女とか、きれいな女や弱い女だけを守るのだったら、それは単に自分の持ち物にして所有権を主張しているだけで、女を守るとは言いません。
同じように、もしも日本を愛するなら、日本に所属するあらゆるものを愛するのでなくては意味がない。日本が嫌いと言う者も、日本を破壊しようという者も、敵に日本を売る者も、日本人なら愛するべきです。自分と同じ考えの日本人だけ愛して、その他は非国民として切り捨てるような愛し方は愛国心の名に値しない。それはただ、自分の気に入った者だけを集めて、それに「日本」とか「○○大学」とかいうレッテルを盗んで貼り付けているにすぎない。何で、「自分の好きなグループ」と堂々と名乗らないのでしょうか。いじましいにも程がある。私は私なりに日本を愛しているつもりなので、そういう誰かの好みで集められたグループに「日本」だの「愛国」だのって名前を使ってほしくはない。

まだまだ話はつきませんが、今回はここまでにしておきます。

追記(3月26日)

その後の母のヒット発言(笑)は、テレビで永田議員がメール問題で、大馬鹿者とののしられているのを見て、「それはそうだけど、あのことを、前からずっと言っていて、『大変なネタを握っている』と言っていたのは鳩山さんじゃないの。私は何べんも聞いて、『へえ、何かつかんでいるのかな』と思っていたよ。何で今誰もそのこと言わないの。忘れたんじゃあるまいね」
実は私も忘れていて、母に言われて思い出しました。なるほど、永田議員が一人でやったわけではないよな、そう思うと。どう考えても。
しかし、本当に誰もそのこと思い出さないんだろうか。武部幹事長の「息子だ」発言現場をくりかえし放映したのは、テレビのお手柄だと思うけど、鳩山さんのあの手の発言も放映しろよなって思います。自民党も誰も追及しないのは、何か都合でもあるんですかね。


(以下は、私が出身大学の近世文学関係のメルマガに、連載していたエッセイのいくつかである。
時期的に、母の介護をしていたころなので、それに関するぼやきが多い。ときどきは、ひどいことも書いている。しかし、三年前に九十八歳で亡くなった母を思い出しながら読むと、これはこれで、母の姿が生き生きとよみがえって来て、あらためて腹が立って元気が出て来たりする。

母が老人ホームに入って、毎日会いに行って帰るとき、私はベッドの母を抱きしめてキスをすることにしていた。もともとスキンシップを好まない母だったが、それは別にいやがらず、毎回けらけら笑い転げていた。
私はときどき、母が死んだら、もう多分(多分と言うのが我ながら強気だ)こうやって抱きしめたり口づけたりさせてくれるような相手は、猫はともかく人間ではいなくなるだろうなと考えていたものだ。
だから、母が生きている間は、せいいっぱい、人を抱きしめる楽しさを味あわせてもらおうと決めていた。

おかげで今も、あまり喪失感はない。もらうものは全部もらったという気がしている。)

かわいい学者

小川洋子という作家(このような言い方がくせになっているのをお許しいただきたい。大石内蔵助もウィルヘルム・テルもアンネ・フランクも知らない学生たちに抗議じゃなかった講義をしていると、ついもう「マリー・アントワネットという人が」とか「イエス・キリストという人が」とか言いそうになるのです)の書く小説やエッセイがおおむね私は好きなのだが、世間では多分一番人気のある「博士の愛した数式」だけは、どうも苦手である。

現在実家の母の介護で、さまざまな家政婦さんやヘルパーさんとつきあっている身としては、あの小説のような人がヘルパーとして来てくれた日には家人はたまらんという実感も無心な鑑賞(そんなものがあるのなら)をさまたげる大きな原因だが、潜在的にはそれだけではなく、あの主人公の女性が、偉大な数学者だが記憶力に欠陥のある「博士」をなんかこう、大きなペットのように愛玩している気持ちがひしひしと伝わってきて、こういうのはひょっとしたら作者の密かな夢なんだろうか、さらにこの本を愛読する大勢の読者の夢なんだろうかと考えると、それだけでうんざりする。

もちろん文学を読むのも書くのも大半は、密かな病的な欲望を高め解消するものだろうから別にそれが悪いとは言わない。だがそのことにうんざりするのも、これまた私の気持ちとしてはしかたがない。もうぶっちゃけて言ってしまうと、これは女が裸体になってなまめかしいかっこうをしているポスターやグラビアを見たときや、今はやりの腐女子が書くやおい小説で男性どうしのベッドシーンの濃密な描写を読んだときに、読者がぞわぞわする気分を思いやって、それにぞわぞわする感じとも似ている。(なんだかだって私もまだまだ枯れてない。)

話を欠陥人間の学者への関心興味愛情同情に戻すと、私はもう二十年かそれ以上、市民劇場という演劇鑑賞団体に参加して、比較的安く良質の演劇を見ることができている。それはたいそうありがたいのだが、少し前の一時期、よっぽどもう脱退してやろうかと真剣に考えていたことがあった。運営や人間関係ではない、純粋に演じられる劇の内容が気にくわなかったからで、考えてみれば大変まっとうな種類の不満と怒りであるかもしれない。

何が気にいらなかったかというと、そのころ、たまたまだと思うが政治家や芸術家など歴史上の偉大な人物を主人公にとりあげた作品が多く、それが特に男性の偉人である場合、日常生活や家族関係や恋人の前では無能で子どもっぽくて情けない「かわいい」男性として描く、いいかえれば徹底して卑小化する脚本や演出がやけに目についた。しかも、そういう幼稚さを凌駕して「やはり普通の人ではない」と思わせるすごさや恐さは、せいぜいありきたりのせりふで最後にとってつけたように、「やっぱりすばらしい人だったんですね」とか言われる程度で、時にはそれさえなく、「あんなにえらい有名な人でも、近くで見るとただのバカだ」という印象しか残らないのだった。

市民劇場の観客は圧倒的に女性が多い。それも中高年の人が多い。そういう観客が、そういう有名人物のみっともなさや情けなさを見て、快さそうに会場全体でどっどっどっと笑いころげている図式は、私にはものすごく不気味でならなかった。

まあ私や友人たちも、偉大な先生のとんでもない失敗を語りぐさにしていたから似たようなものかもしれないが、少なくとも、どれだけ笑っていても、その先生の学問的業績や人間としての見事さは見ていたし、忘れてもいなかったと思う。市民劇場の舞台と客席には、それが存在しなかった。

私自身も学生や一般のかたがたとのつきあいの中で、大変偉大な人間としてあがめたてまつられることがある。どう見てもそれは別に私の偉大さを感じたからではなく、たまたま自分のつきあっている人物を偉大にしておきたいだけだろうとしか思えないからどうでもいいが、それ以上に「まあ、おもしろい人!普通とちがう!」風に喜ばれることもよくある。もちろん私は充分に普通じゃないが、そういう反応をしたがる人は大抵、いやあんたも相当普通じゃないぞと言いたくなる人も多いのが、ひとごとながら心配だ。だがまあそれも知ったこっちゃないとして、中には私のふだんの生活をある程度知ってしまうと、私の書いたものはほとんど読んでいなくても私を誰より理解したような気分になっている学生が時々いて、私は「人のパンツを洗濯したら、もうその相手をすべて知ったような気になる人間」という頭の中の引き出しに、こういう人は放り込む。

笑われる、かわいいと思われる、かわいそうで守ってやりたいと思われるのは悪いことばかりでもなく、人はそういう風に扱われるのを喜び望むことも多い。毒舌家のタレントにバカにされて愛されたように喜ぶ人たちもそうだろうし、ずっと昔、私は田舎の母が近所の人たちと団体旅行をしているバスに、ちょっとだけ同乗させてもらったとき、そのバスガイドが「田舎の人をバカにしたネタ」のオンパレードで笑いをとり、(「え、おばあさんが歩いてる?そりゃあ、街にだっておばあさんぐらいいますよ、皆さん!」などなど)しかもそれが名調子で、けっこう実は知識人であるはずの母も含めて、田舎から来た乗客全員が笑いころげて満足し、そのバスガイドをうまいうまいとほめているのに、めまいを感じたことがある。ちょうど学生をつれて団体旅行をすることも多かった時期で、そういう時のバスガイドの「皆さん、大学の先生や学生だから、こんなことはもうご存じでしょうが」風の、やりすぎなほどへりくだった態度や姿勢を見慣れていたから、その落差の大きさにいろんな意味で愕然とした。

田舎の人たちなどは多分江戸時代の昔からそうだが、自分をバカに見せておく方が安全だということを知っている。私自身もそういう保身の術は使う方だ。特に私の勤務する大学の学生は素直で、ことさらバカなふりをしなくても「私はものを知らないので」と謙遜すると、まるごとそっくり信じるから、数年に一度私もぶちきれ、新歓コンパのあいさつで「特技は人になめられることで~す」などと、いやみを言うはめになる。

だから、「博士の愛した数式」が内包する「とても優れた能力を持っているけど幼児のように何もできない天才」を自分の思うままに世話をやき、いたわってやりたいという嗜好とどこか共通する感情を人から向けられるからと言って私がカリカリイライラするのは、自業自得の自分がまいた種の自己責任と言ってもいい。

しかし齢六十をすぎると、かわいい女扱いされるのも、もうそろそろ飽いてきた。どうせもう少ししたら、かわいい年寄り扱いされるに決まっていると思えばなおさらである。

特に退職後のこの数ヶ月、周囲から「公務員はたくさん年金があるからいいですね~」と言われまくり、腹が立つからはっきり額を言ってやると、さすがに少ないのに驚かれたあとで「でもそれで家族を養ってる人もいるんですからね~」と言われ、パートにも出ず食事も作らず掃除もせず洗濯もせず買い物もせず家電の修理もせず各種書類も書かず庭の草木も切らず電話番もせず来客に茶も出さず年金も入らない猫と老母を養うのは家族を養ってるとは言わんのかと思いつつ、「あまりに忙しいから唯一の収入源である(こともたまにある)論文の原稿書きもできないから先が見えない」と言うと、「ささっと書いたらお金になる生活っていいですね~」と言われる。どうでも人は、この世のどこかに苦労知らずで世間知らずでお金に困らぬ万年少女や少年が、にこにこ優雅に暮らしているという夢を描いて生きたいらしい。もしかしたら大女優がトイレに行かないと思われなくてはならないように、学者や研究者たるものもまた、霞を食ってひっそり生きて、世の動きにも日常生活にも無関心でいなくてはならないのかもしれない。

「女性は」とひとまとめに話されるのが困るように、「研究者は」とくくられるのもまた現実的でない。大学をとりまく状況が最近大きく変わっているという考えにも私は懐疑的である。そもそも、大学や研究者をとりまく状況がどんなものかなど、きちんと知ってる人がいるのか。親しい友人たちですら、どんな生活設計のもとに生きているのか、私は聞いたことがない。

ひとまずしばらく、ここ数年の私の生活ぶりと未来への展望について実情を報告してみる。これはもちろん何の基準にも標準にもならない。だが、昔、女性について考え語る時、いつも私の最初で最後の拠り所は、「とにかく、こう考え感じる女性が少なくとも一人はいる」というデータだった。同じように、「このように生きて、暮らしている研究者が少なくとも一人はいる」という資料として、「かわいい学者」が存在しうる可能性を検討するのに、ひょっとしたら役立つのかもしれない。(2010年6月22日)

その窓が大嫌い

亡くなった叔母は、叔父の死後、私が家に遊びに行くと、帰りにかならず駐車場に通ずる建物の裏口まで来て、ドアを開けたまま、そこに立って私が車を出して去ってゆくまで見送っていた。

そこは、叔母のマンションがあったビルの一階で、壁もドアもとことん殺風景などうということもない出入り口だったが、それでも私は毎回車を出しながら、叔母の死後もずっとああやって送ってくれた叔母の姿が目に残って、あの出入り口を見るたびに思い出すだろうなあと漠然と考えていた。それは実際そうなって、叔母の亡くなった後一年近く、家の片づけのためにそこに通っていたが、いつも帰りにその殺風景で何の変哲もない出入り口を見るたびに、そこに立ってこちらを見ていた叔母を思い出し、それは叔母がのこしてくれたいろいろなものの中でも、とりわけて貴重でかけがえのないもののような気がして、ささやかながらも確実な幸福感にいつもつつまれたものだった。

叔母も一人暮らしをよく我慢していたが、実際は大変淋しかったと思う。倒れて入院するまで仕事をやめずに、多分もうかたちだけの医師として老人ホームの病院に出勤していたのも、きっとそのせいだったろう。

四つほど年上の母の方はその点、孤独には強かった。というより、住んでいた村で市民運動や老人クラブの活動を活発にしていて、友人知人が多かったから、私が帰省しなくてもけっこう人づき合いに忙しくしていたようだ。

だが先日、母の葬式の話をしていて、「家族葬にするとして、参加者はやっぱ60人のランクにしとく?それじゃ足りない?」と私が言うと、母は「いや~、私の知り合いと言っても、もうほとんど死んでしまってるから、そんなには来ないよ」と平然とのたまった。たしかにそうで、九十二歳ともなると、友人知人もあらかた死んでるか、生きてても外出できなくなっている人がほとんどである。長生きはめでたいことだが、老後にそなえて友人を作ろうとか言っても、よほど若い人たちとつきあっていないと結局はやはり一人になるものだ。

母はさまざまな団体や活動に積極的に参加して、かなり活躍し、たよりにもされていた。母はそんなことを私には話さなかったから、私はほとんど知らないのだが、知らなくても身にしみて歯ぎしりするほど、そのことがよくわかるのは、当時の母の友人知人で比較的まだ若い六十代前後の元気な人たちが、今でも何かと母や母の住む家の世話をしてくれるにあたって、私が口をすっぱくして「母はもう何もわかっていなくて、この家を今管理しているのは私ですから、何事も一応私を通して下さい」といくら言っても、たとえば何かの会合に母の家を使うとかお金を貸すとか返すとかそういったことのすべてを、私に相談なく母と話して取り決めてしまうからだ。

母もどこまで認知症なのかもともと忘れっぽいのか、はたまた薬の副作用かなんだかよくわからないところがあって、以前に腰をいためて入院した時など、私に「今日、○○さんが借りていたお金を返しに来て四百万円おいていったけど、それがどこかに行ってしまった。でも騒いだら看護婦さんや病院の人にも悪いから、もうあれはなかったものとしてあきらめよう」とか平気で言う。

何度も言うが、我が家は貧しい。なかったものとしていい金などびた一文もない。しかしながら、母がそんなことを言うのは別にぼけているからではなく、正常なときでもこういうことを言いかねない、スケールの大きさというかスケールのなさが、もともとこの人にはある。

私も基本的に母がためこんで人に貸していた金など、どうこう言いたくない点では母に近いが、まあそれほどの度胸はないので、一応金を返しに来たという人に確認すると、「すみません。十万円返しました」との話である。母に再度確認すると、「ああ、そうだったかもしれない」と言って調べると、枕の下の封筒にたしかに十万円入っていた。

私はその金を取り上げて保管し、返しに来た人に電話して事情を話し、「母はそういうまちがいをしますから、必ず私に返して下さい」とたのみ、その人も恐縮して以後はそうすると約束したが、忘れないでいるか保障の限りではない。

まあそもそも病院で意識があやふやな病人に大金を返す方もどうかしているが、その人が特に娘の私を信用していないからそうしたというわけではない。それならまだましで、要するに母の友人知人にとっては、母は長年いっしょに公民館活動や町内会活動や平和運動をしてきた、たのもしい同志であって、ぼけたの老いたのといくら聞いても受け入れられないのである。娘の私の存在なんか、はっきり言って眼中にないのである。

家の改修、ものの購入、その他もろもろ、すべてがこうだ。正直私は、母もぼけたか認知症か知らないが、その事実を断じて認識しようとせず、昔のままの幻想を墨守する、かつての母の崇拝者である周囲の方がよっぽど認知症じゃないかと思うことがよくある。

言いかえれば、昔いくら人のためにつくして名士や親分めいた存在になっていても、老いて衰えてくると、そこまでしっかり見届けて、昔の偶像ががたがたに壊れるのを目の前にして、それでもつきあってくれる人はいない。「ドライビング・ミス・デージー」の運転手のおっさんみたいな人はまず存在しないと言っていい。

ずっと昔、今私の住む宗像市近くのどこかで、外国から来て孤児や恵まれない人のためにつくし、自分が老齢になったら祖国に戻ってしまったという立派な女性がいたそうで、私にその人のことを教えてくれた女性作家は、「そんなに人につくしておいて、自分の晩年はそういう人たちの中にいないで去ってしまったのがすごい」と大いに感動していた。若かった私は、そんなののどこがえらいんだ、あたりまえだろうと、ひそかに思って聞いていたが、今思うとたしかにそれは珍しく潔い身の処し方であったのかもしれない。

母を見ていて痛感するのは、いくら地域で活躍しても人のために生きても、そんなことは豊かな老後のための何の保障にもなりはしないということだ。人は皆、忙しいから役にたたなくなった人のことは忘れる。多分、家族の中でもそれは同じだろう。周囲にいくら尽くしても、それができなくなった段階で人は捨てられ忘れられる。あたりまえのことで、嘆くことでも怒ることでもありはしない。

田舎で村医者をしていた祖父などは、晩年それが淋しかったのか、かなり焦って悪あがきしていた。母はそれほどではないが、やはり昔のような人間関係は本能的に維持しようとする。昔と同じように客を歓待し、人を喜ばせようと思うと、自分が仕事をできなくなった分は娘の私を使うことでカバーしようとする。

おそらく幸福な場合には、奥さんや家族の誰かが、そういう役割を果たして、昔日の栄光を守ってくれるのだろう。あいにく私にはその余裕はないので、できるだけのことをするしかない。と言ってもどこまでができるだけのことか、その見極めはむずかしい。

最近テレビがどうしたわけか、古い洋画をよく放映する。仕事の合間に「風と共に去りぬ」を見て、以前は気づかなかったスカーレットの他人の痛みへの鈍感さ、自分のことしか考えない強烈な個性にあらためて感服した。また海辺に住む老姉妹を描いた「八月の鯨」も久しぶりに見て、盲目で誇り高い姉が優しい妹に世話されて生きている姿に、昔見た時にはなかった新しい感動を覚えた。

「八月の鯨」にはちょっとした思い出がある。何人かの九大関係の先輩後輩と、今井源衛先生のお宅にお邪魔していた時、話題がこの映画のことになった。今井先生はなぜか、この姉のことに憤慨して、「妹がかわいそうだ、姉がわがままだ」と真剣にしきりに言っておられた。そこにいた中の映画を見てない人に姉のことを説明するのに、「とにかく器量自慢なんだね、これが」とまるで、そのへんに実際に生きている人のことを話すように、いまいましげにくりかえされた。

たしかにあの姉は豊かな純白の髪が自慢で、「私の髪は白鳥のようよね?」と何度も妹に念を押すのだが、私は今井先生のようにはっきりそれをとらえていなくて、その時点でもすでに、さすがだなあと感心したのを覚えている。ちなみに先生はその時、映画を見ていた私に「板坂君、どうなの、あれはやっぱり、あの男が鯨ってことでいいのかね?」とそれも鋭い読み?を示されて、私は「そう思います」と同意した。

もっとも口が減らなくて怖いもの知らずの私は、その時、姉を弁護して、でも嫌いだと言い張る先生に「でも先生、全人類をあのお姉さんタイプと妹タイプとで、まっぷたつに分けたら、先生は確実にお姉さんタイプの方にはいりますよ」とまじめに主張した。「そうかね」と先生は苦笑して、しぶしぶひきさがられたが、多分納得はされてなかっただろう。

私は当時、自分もどちらかというと姉の方だと思っていたし、大抵の人はそれに賛成しただろう。しかし、今こういった映画を見ていると、母はもともとそうだったか年をとってそうなったか、確実にスカーレットのように無神経で、「八月の鯨」の姉のように妹ならぬ娘に依存して生きていると思う。

特に今井先生が憤慨されたように傲慢に妹を自分にかしづかせていながら、一方で甘えてすがって、いつも妹をさがしもとめ、孤独な時間を与えないという場面の連続には見ていて母と自分の関係に重なりすぎて、ほとんどもう戦慄した。レット・バトラーが「年をとって疲れた」とスカーレットから去る気持ちも、今はもういやというほど、よくわかる。

叔母と同様、別にしめしあわせたわけでもあるまいに、母もいつからか、私が帰省して福岡に戻るとき、必ず寝室の窓を開けて私の車を見送るようになった。私もそこでひとしきり母と話しては、手を振って車を出すのが習慣になっていた。

しかし、この一年、疲れ果てて帰った私がろくに会話もしないで寝に行った翌朝、「もう帰らないでもいいよ。私が死んだと聞くまでは。猫もその時には殺してやって」と言い渡したり、帰ると言った前日にまちがえて遅くまで待っていて、翌日仕事が忙しくて出発が遅れている私に電話してきて、「もう親子の縁は切るよ。迷惑はかけたくないから」と言ったり、そのくせ私が相手にしないで帰ると何事もなかったようにふるまう母を見ていると、こちらも疲れが限界なので、絶対許す気になれない。

大人げないのは死ぬほど承知で、私は普通に接してはいても、もう二度と寝室の窓から母に見送ってもらうことは、それこそ母が死ぬまでないと自分の中で決めている。

退職後の生活がそれなりに落ち着いてきたため、今、母と私はごく平穏に仲良く暮らしているのだが、母も何かを感じているのか、何とか私が帰るときに窓を開けて見送ろうとする。私はそれを絶対にさせないため、「送らないでいいよ」と家の中で別れを告げて、車をおいたまま、庭や別棟で仕事をして母があきらめて窓を閉めた後に出発したり、別れを告げた直後、母が寝室に行く間も与えず玄関から稲妻のように車にダッシュして急発進して飛び出したり、あらゆる手段を使って、母に見送らせないで姿を消すようにしている。

書いていて、自分であきれる。何とまあ子どもじみたことをしているのやら。

しかし、認知症であれ何であれ、母が私に言ったことやしたことをすべて許して認めて受け入れるほど、私は母をバカにはできない。これはこれなりにたがいの人間としての尊厳を守っているからこそ、やっていることだというしかない。

母がいなくなった後、もう開くことのなくなった窓を見ても、私は決して悲しむことはないだろう。後悔も虚しさもないだろう。その時になってみないとまだよくわからないが、何となく、ある種の充実感がわきおこりそうな予感がしている。(2010.11.27.)

ピンクのお墓

年末に墓の話でもあるまい、と思ったが、考えてみると年頭に墓の話はもっとないような気がするので、一年のしめくくりには一生のしめくくり場所の話をすることにしよう。

思い起こせば今年の三月、めでたく定年退職して最初にした仕事は墓作りだった。

私の実家は大分の田舎だ。築八十年にもなろうかという、古民家ともいうべき母家の横に数年前に建てた母の隠居所と私の仕事場の家がある。ただし、この新築の家の方の土地だけはかれこれ四十年も前に亡くなった祖父の名義で、まだ私のものではない。そんなところになぜ家を建てたかというと、田舎でそうやって土地を放っておくと、いろんな人が畑や駐車場やゲートボール場やその他もろもろに使わせてほしいと言ってきて(もちろん無料で)、断ると角が立つし、実際使ってもらってありがたい場合もあるのだが、どうかするともしかすると将来困ることになるのではないかという場合もあり、そういう判断と対処が大変難しかったからである。

我が家はもともと長崎の大村あたりの出身らしいが、祖父の代から縁もゆかりもない今の実家のある土地に落ち着いた。まるで何かうしろぐらいことでもあったのかと思いたくなるぐらい唐突な定住だが、別にそういう事情があったわけでもない。まったくのよそ者だったが、祖父は村医者として皆に大切にしてもらい一家は快適に暮らしていたようだ。

この土地に我が家の墓はなかった。祖父が亡くなる少し前、村の中の山腹の土地が墓地として売り出され、我が家も一画を購入した。祖父が亡くなった時、二人の息子つまり私の伯父と叔父がそこにアフリカからとりよせたという、黒御影の大きな墓を建てた。

祖父母が亡くなった後は母が墓の手入れをしていたが、その母も年をとってこの十年ほどは何となく私が帰省するたび掃除に行っていた。基本的には無神論者だし墓のことなど何もわからず、細木数子が何と言おうと、水をじゃぶじゃぶかけて洗っては、花と線香を供えていた。ただ、ばかでかい墓の上に、カラスか他の鳥かが、よく糞をするので、墓石の一番てっぺんを洗うには側面によじのぼらねばならず、雨の日や雪の日などすべりそうで危険だった。実際、母は一度転がり落ちたことがあるらしい。けがひとつしなかったのは母の受け身がうまかったのか、祖父母の加護か知らないが、母は前者と思っている。

それでも何十年もたつと苔も生えるし草も生える。墓の敷地はかなり広く、前面に植え込みのような部分があって、ここに雑木がはびこって茂る。だから年に二回、たしか四~五万かけて、私の同級生が経営する葬儀屋に頼んで、墓の掃除をしてもらっていた。

退職する少し前だったか、その葬儀屋から電話があって、墓がかなり傷んでいるので補修が必要だ、新しく作り直した方がいいかもしれないと言う。見積もりをしてくれと言うと、だいたい二百から三百万かかるだろうとのことだった。

そもそも祖父母の子どもは四人しかおらず、墓を建てた伯父と叔父ももうそれぞれ、東京や外国に自分の墓地を持っている。叔母は夫である叔父の婚家の墓地に眠っている。したがって私と母が葬られたら、あとはもう、そこに入る者はおらず墓詣りにくる者も多分いない。そんなものに大金を投ずる気にはさらさらなれなかったから私はちょうど訪れた、母の隠居所を建てた大工の棟梁にもっと安く墓を作ってくれそうな人を知らないかと持ちかけた。棟梁は職人肌で一本気な顔も広い人で、知り合いの人を紹介してくれた。

作ると覚悟したからには、どうせ私の死後は誰も来ないし無縁仏になることを思えば、来世がどんなものかあるかないかもわからないでいるのだから、せいぜい自分が生きている間、行って、ながめて気分いい場所にしようと考えた。そこで死んだ人たちのことを考え、自分の過去と未来を考えるのによさそうな場所にしようと思った。

とにかく、掃除がしやすいようにし、花や線香の始末がしやすいようにしなければならない。となると、私が背伸びすればてっぺんが見える高さの墓石にすることが最大の条件だ。

今の墓は大抵がそうだが、我が家の墓がある墓地でも、すべての墓は高い階段をのぼった欄干付きの高殿の上にさらに高い墓標が何段も重ねられている。私はそういう階段も石垣もすべて省いて、敷地の地面に直接墓標を置きたいと思った。どうせ江戸時代や明治時代の古い墓はそうだったのだから。

ただ、そうなると敷地そのものは相当広いので、かなり異様な風景になる。墓標はそれまでの黒御影をそのまま使うとして、周囲の敷地をどうするかだ。私はどうせ好きにできるなら、風変わりでゴージャスにしてやろうと考えた。それは派手で独創的なことが好きだった祖父や、キリスト教の影響下に育って仏教にはあまり関心がなかった祖母の気にも入るはずと判断した。

ごちゃごちゃ何かを置きたくはなかったから、そうなると後はもう、色で勝負だ。敷地一面に大理石をしきつめ、その真中に黒御影の墓標を置けばいいだろう。その大理石の色だが、芝生のような緑か、海のような青か、叔母が好きだったピンクあたりかと見当をつけたが、そもそもそんな色の墓用の石があるものか、まったく見当がつかなかった。

そんなある日、実家の近くを車で走っていたら道路沿いの石材屋にお墓の展示がされていて、その中にみごとに淡いピンク色の、私がこれぞと夢見ていた理想の色のお墓があった。

思わず車をとめて入ってながめていると、販売員の人がきて、この色は若い人に人気がありますと説明した。それはしゃれた洋風の墓でなるほど私も注文したくなりそうだったが、墓石はさしあたりあるので、「ごめんなさい、もう別の業者に注文しているの」と断って、石の種類だけを聞いた。販売員は親切にカタログをくれて、その石が桜御影という名の石であることを教えてくれた。

私はさっそくインターネットで調べてみた。ピンクの石はその他にもいろいろあって、万成石というのが質も良く人気があるらしい。石原裕次郎の碑にも使われているというのが気に入らなかったが、そんなことを言っていてもきりがないので無視することにした。東京の青山墓地かどっかのセレブの墓では、ものすごくよく使われているというのも、あまり気に入らなかったが、まあそれもあきらめた。

実はその前に何度か大工の棟梁や、石屋さんといっしょに、色のついた墓をいくつか見に行っていた。田舎にはあまりそういう墓はない。中にいくつかあったのは、煉瓦色や黄土色で、それなりにインパクトはあったが私のイメージとは一致しなかった。たまたま見かけた桜御影の墓石は、まるで亡者たちの導きとしか思えなかったほど、ぴったり私の意にかなったのだった。

さっそく石屋にその石を教え、今度は墓の設計にかかった。どうせ私が足腰弱ったら墓の掃除には行けないし、私の死後は放置されるのだから、最後は崩れてなくなるにしてもそれまではなるべく汚れないように、雨が勝手に洗い流すようにしたいから、全体に前の方に傾斜をつけた敷地にして、一面にピンクの石をしきつめてもらう。そして、黒御影の墓石は台座のように周囲だけ四角に敷いて、台座は低く薄めにして墓石全体で一五〇センチぐらいの高さにする。敷地が斜めなので墓石の台座はまっすぐにして、敷地から前半分が浮き出たような感じにする。花活けは掃除がしやすいように、線香立ては火がつけやすいように。あとは灯篭も飾りも何ひとついらない。

それで見積もりをしてもらったら二三〇万か二二〇万か忘れたがそのくらいになった。それでは予算オーバーだと私が言い、せいいっぱい安くしたらどこまでかと聞くと一九〇万にしてくれた。

私はそれで手を打つことにし、叔母の死後のさまざまなことを相談して協力してもらっていた横浜の従姉(伯父の長女)に電話して、墓を改修することを報告した。お金はいっさい出さないでいい代わり、私の趣味のままに作ること、おそらく私の死後は無縁仏になってなくなる墓なので、そのつもりで作ること、もしそちらの方で入りたいという人がいたら、もちろんいつでもそうしてかまわないことも告げた。いろいろもう、常識外れのことばかりしてきた私なので、従姉もわかってくれたのだと思う。笑って快く承知してくれた。これに限らず、「何でも一人でやらなくちゃならないから大変ですね」とよく言われるが、相談相手がいないかわり、何でも自分の責任で好きにやれるというストレスのなさは、確実に私を長生きさせていると、つくづく思う。

それにしても、田舎の家も私が現在住んでいる福岡の家も、建てたあとから年がら年中さんざん金がかかるものだ。墓は建てればそれっきり、ほとんど維持費がいらないのはありがたい。そのかわり、めったに改修ができないから慎重に決めなくてはならなかった。

超単純な墓にしたのだが、それでも迷うことはいくつかあった。ひとつは家紋をつける位置で、墓標を低くするために台座を一段減らしたため、正面に家紋のついていた部分がなくなった。石屋は両側の花活けの前面につけようと言い、私もそれで了承したが何となく淋しい気がして、やはり一段だけにした台座の前面にもつけることにした。最初に石屋はそれではしつこくなるかもしれないと言ったが、私はものすごく迷ったあげく、つけることを決断した。

我が家の家紋は変わっていて、三本の蕨である。「?」マークが三つ並んでいるようでかわいらしい。あっさりしたデザインだから少々あっちこっちにつけても目ざわりではないという自信があった。それにしても心配で、そのころ私は車で走っていて、墓地を見かけると車をとめて飛び降りて、墓石のさまざまを物色してまわるという相当変なおばさんになっていた。

もうひとつは敷地全体にしきつめる石の色だった。広い範囲なので、まちがったらえらいことになる。私が最初に目を付けた桜御影は年月がたつと少し汚れてくることがあるそうで、石屋は同じピンク色の石をいくつか見本に持ってきた。白地に黒と薄紅色の斑点があって、あまりピンクに見えないが、広くしきつめるとピンクになると言う。なるべくピンクっぽくなりそうなものを選んだが、それとは別に、もっと濃い薊のような色の石も大変きれいに見えた。石屋も「これはいい石ですよ」と言う。

でも当初のピンクとはちがってくるし、と私がうんうん考えていると石屋が、「ではこの濃い色のを墓石の前に道のように敷いてはどうでしょう」と提案した。それはいい考えだと私は即座に賛成した。結論から言うとこれは大正解で、レッドカーペットのように墓石につづく濃い赤の道のおかげで敷地全体にめりはりがつき、今でも私は石屋に深く感謝している。

あと、墓石とその道につけるすべりどめのざらざらの部分の模様にも迷った。幾何学模様や花模様などいろいろのデザインがある。しばらくカタログとにらめっこして、結局石屋が最初に持ってきた図面通り、小さな花が一面に散った可愛らしい模様にした。

墓はめでたく完成し、地元のお寺の住職に頼んでとても簡単ながら開眼供養もすませた。参列したのは横浜からちょうど訪れてきていた伯母と母と私と石屋だけだったが、大変うららかないい天気で住職が墓の前で読経している間中、周囲の山ではやかましいほどに鶯が鳴いていて、母は「いいねえ」と喜んだ。

実はそれまでにトラブルが二三あって、ひとつは、石屋がまちがえて、墓を低くしそこね、完成間近に行ってみたら、私がまた側面によじのぼらないとてっぺんが見えない高さになっていたことだ。

まあ、ありがちな錯覚だが、石段を数段上った高殿の上に墓石を安置するのが普通なのに、私は今回その高殿を省いて地表に直接墓石を置いた。それで何だか墓標も低くした気分になって石屋は墓標そのものは短くしなかったわけだ。

「でも、これって最初に私がお願いした一番主なことよね」と私が念を押すと石屋は「そうでしたね、そう言えば」といさぎよく認めてすぐに改修してくれた。

もうひとつは、母と私の行きちがいである。これもまあ無理がないといえばそうだが、私はこの間、石の色から墓のデザインから一応みな、母に意見を聞き相談していた。もちろん母に限らず墓のデザインや石の色など、そう簡単に希望や理想を言える人はいないわけで、結局は母はいつも「それがいいかね」「そうするかね」と私にまかせ、その結果に満足していた。

それでも私があえてそうして相談していたのは、そうやってそういう事業に参加することで母が元気づくだろうと思ったからで、実際そうだったのだが、その度が過ぎた。

くりかえすが、それは無理もないことかもしれないが、そうやって墓を造る相談をしていると母は何となく自分が板坂家の支柱の位置にいる気分になり、そこを中心にまた一族が結集してくるかのような錯覚を次第に持ち始めたようだった。そして、骨やすめに近くの温泉に行った夜の明け方に私をたたき起こして「何度考えてもやっぱり気になるけど、亡くなった伯父や叔父の戒名や命日も墓誌には刻んでおきたい。あの人たちの名がなかったら村の人たちは何と思うかわからない」とか言い出すのだった。

墓誌に名前を入れるくらい別に全然かまわないが、そもそもことの起こりをただせば、伯父や叔父が医者だった祖父の跡を継がず外国で亡くなったり、親族が疎遠になって各自がそれぞれの墓を遠方に作ったりしたのも原因は少なからず母にある。それもまた別に悪くはないし、今さら言ってもしかたがないが、ただ私がかねがねがまんできないのは、母が晩年になればなるほど、板坂家の歴史を勝手に美化して語ることで、仲が悪かった、というより一方的に自分が嫌っていた祖父のことをやたらにほめたり幸福な一生だったと言ったり、けんかしていた親族のことをあの人も悪い人ではなかったと言ったり、私に言わせれば歯の浮くような家族の肖像を語ることだった。生き延びた方が勝ちとはよく言ったものだとも思ったし、せっかくどろどろの血で血を洗う歴史を自分で作ったのなら最後までその血の海の中で死んで行けと思うのは、私もまだ若いせいだろうか。ともかく私はそんな話を聞くのがごめんで、墓をきっかけに母がその、こねあげてねりあげていこうとしている勝手な幻想を実現できる気になるのは愚かで危険なことと思った。

その過程を話していると長くなるからまたにするが、私は母に「私は今回墓を造るけれど、板坂家を再度結集させるつもりなんかさらさらない。私の死後は放置されて廃墟になるものを造るつもりでいる。誰も決してこの墓に来ることなど期待していない。第一私はこの墓には入るつもりはない」と言い渡した。

母はそれに対して「あんたは入らなければいい。でも私は入りたい」と言ったものの、私の言わんとすることは理解したようで、その後は「まあ、遺跡をつくるようなもんね」とおおむね私の意図にかなった正しい表現をするようになった。

そういういろいろな結果として、鶯の合唱に祝福されながら墓の完成を祝ったわけだ。

最初に私の希望を聞いた、大工の棟梁の知り合いは巻き尺で墓を測りながら「低くしてもいいのか。誰でもが、十センチでも回りの墓より高くしてくれというのに」と何度も念を押した。「いいの。掃除がしやすくて、雨が勝手に洗い流してくれるようにしたいから」と私は答えていた。

できあがると実際に我が家の墓は周囲の墓の中でひときわ低く、親ばかならぬ墓主ばかの目で言わせてもらえば、まるで家臣を立たせて玉座に座る王様のようで、その低さが逆に大変カッコよかった。敷地一面の淡いピンクの色も、浮上途中の潜水艦のように前方が浮き上がった墓石もすべてがほれぼれする出来だった。

完成後に家族と見に行った棟梁は「もったいないなあ(わざわざ低くして)」と嘆じていたから、誰もが私のように夢中になる墓ではあるまい。幸い母はいたく気に入って「皆はどう思うだろうね」とわくわくしているようだった。その後遊びに来た横浜の従姉は「公園みたい。東京の有名人の墓にもこんなのはないよ」と面白がっていた。

ただ何しろ前例も見本もない墓だから、私は一年間油断しなかった。何が起こるかわからないと思っていた。雨のあと、ピンクの石のあちこちにしみができるとわかった時は心配して石屋に電話したが、これはお天気になると消えることがわかった。猛暑の時期には、ミミズが夜の間に冷たい石に涼みに来るのか、太陽に焼かれて黒焼きになっているのが一面に散らばっていることがよくあったが、まあ雨で洗い流されるようだった。あとは、酷寒の時期に凍結したらどうなるかだ。そこが無事なら一応大丈夫と言えるだろうが、まだ気は抜けない。

もしも無事に冬を越して、めでたく墓作りが成功したと確信できてから言うことかもしれないが、墓のことなど何も知らない私がここまで確信を持って、まるで迷わず一直線に仕事を進めて行けたのは、帰省するたびほぼ毎回墓に行って掃除をし花を供えて拝んでいたからだろう。そうすることで、自分にとって都合のいい(先祖に気に入ってもらえそうなことも含めて)墓のイメージが次第にできていっていたからだろう。

しかしこの話にはまだつづきがあって、母に「私は入らない」と宣言した私は、返す刀でと言いたいような勢いで、今住んでいる福岡県の家の近くに自分個人のための小さい墓を買ってしまった。それについてはまたいつか、あらためて書くことにする。(2010年12月26日)

ヘルパーさん事情

たしか、退職後の初めての九大国語国文学会の懇親会で、あいさつをするよう言われた私は壇上で酒も飲んでないのにクダをまき、「ヘルパーさんだの介護保険だのを利用しようと思う人は、自分のことでも親のことでもいいから、とにかくまだ自分が元気で、気力体力知力すべてが十分そなわっている内に、利用して、そういう制度や人々との交渉や戦いをする練習をしておかないと、本当に自分のことができなくなって、身体も頭も心も弱ってから、そういう制度や人々のお世話になったら、とても太刀打ちできなくて、すごくひどいことになりかねない」と、若い人に呼びかけた。それが、具体的にたとえばどういうことかを、少し今回はお伝えしよう。

具体的に、ということは言いかえれば実にど~でもいいことで、他人の目から見たらアホのように見えることばかりである。しかし、実際にはこういうことのつみかさねが、とめどないストレスになる。多分、嫁姑の対立や二世代同居のトラブルもこんなことのつみかさねなのだろう。政治や宗教の問題以上に、こういうことはぬきさしならなくなるものである。

なるべくつまらないことから書くと、最近私が疲れ果てたのは、猫のえさの器のことである。

母の飼い猫のえさ入れに、私は古い器のふちが欠けたのを使っていた。古いし欠けているが、思い出もある好きな器だったからだ。ドライフード用とかんづめ用と二種類あるし、汚れたらとりかえて洗うから、そういう器が二三個あった。

ヘルパーさんの規則ではペットの世話はしないことになっている。昔、舛添大臣が「愛犬の散歩も介護保険の対象」と、立派なことを言ってくれたようだが、その後その見解がどうなったか、とにかく今のヘルパーさんは、人間の食べ物や日用品は買い物のサービスに入っているが、猫のえさは買ってくれない。

当然、猫の食器を洗うのも片づけるのも、サービスに入っていない。だからそれは母がやっているか、週に一度帰省する私がするかだったのだが、どこでどう境界線があいまいになるのか、ヘルパーさんがそれをすることもあるらしい。らしいというのは真相がまるでわからないからだが、とにかく何が起こるかというと、猫の食器の欠けた器が、いつも母や私の使う茶碗や湯のみといっしょの棚に入れられていて、時には重ねてあるのである。

私は最初、これは母がやっていると思ったから、やめるよう何度か注意した。しかし母もだんだん弱ってきて、食器の片づけもすべてヘルパーさんにやってもらうようになっても、やっぱり同じことが起こる。

ここが、くせものなのだが、あまりにど~でもいいことなので、ことさら注意するのもばかばかしくて、私はせいぜい、猫の食器を洗ったあと、その猫用の欠けた皿を人間の食器棚ではなく、猫のえさを入れてあるひきだしにしまっておいたり、まちがって食器棚に入れてあったら出しておいたり、「これ、ちがうんだけど」というサインをそれとなく送った。しかし、効果なし。まったく効果なし。どれだけ、いろいろ工夫してくり返しても、毎回、ほとんど断固として、欠けた猫用の皿が、私や母の皿と重ねて食器棚にしまってある。

文学などをやっていると、よせばいいのに、こういう時のヘルパーさんの考えやそうする原因を予想空想推理分析したくなる。この人たち(ヘルパーさんは複数来てもらっていて、誰がしていることなのかもわからないのだが)は、ペットを飼っていないから、猫と人間の器を別にすることを知らないのか。あるいはペットを飼っていて、自分の家では同じ器を使っているのか。欠けてはいるが立派な器だと思って尊敬を払っているのか。おまえの一家は猫と変わらないと軽蔑しているのか。ヘルパーにペットの世話をさせるとこうなるという、無言の抵抗なのか。次々いろいろ思い浮かべているうちに、だんだん疲れて腹立たしくなり、私はステンレスの猫用食器をペットショップで買って、欠けた器はひっこめた。さすがにそのステンレスの食器を人間の食器棚に片づける人はいなかった。そうか、あれは猫には猫用の器を使え、人間の食器の欠けたのは使うなという美学を持った人のメッセージだったのか。(多分ちがうだろう。)

同じぐらいばかばかしいことを、もうひとつ言おう。母が使うティッシュペーパーを私は台所と居間と寝室の机の上においている。昔、まだ金が少しはあったころ(退職して私の年収は勤務していたころの、きっちり四分の一に落ちた)、アフタヌーンティーかどっかの店で、しゃれたティッシュペーパー入れをいくつか買っていたから、それに入れておいてやっている。

ところが、その中のティッシュがまだ残っているのに、新しいティッシュの箱が、ケースにも入れずに裸のままで、そのへんによくおいてある。これも母のせいと思ったから私は最初、「ケースの中にあるのを使ってしまってから、新しいのを出して入れ替えてよ」と何気なく注意していた。しかし何度言っても、新しい箱がケースに入れないまま、時には台所と居間に、それぞれ放り出してある。ケースの中にはまだ十分に残っているのにだ。私は腹を立て、何度か母をどなったが、母も言われていることがよくわからないようだったので、強硬手段で台所のクローゼットの中にあった、予備のティッシュペーパーの箱をすべて私の部屋に移動してしまった。つまり、ケースに入れてある以外には新しく開けようにも、ティッシュの箱がないようにしておいた。

すると、次に帰省したとき母が、「ヘルパーさんがティッシュがないと大騒ぎしていたよ」と言う。「掃除機につめるのに使うらしい」とのことである。

ヘルパーさんにしてみれば、掃除機のフィルターの汚れよけにつめるティッシュは、ケースからとってはいけないと思ったから、新しく箱を開けていたのか。しかし、そういう用途に使うティッシュは台所の壁にすえつけたケースにきちんと入れてあるのだし、なぜ新しく開けるにしても二つも三つも同時に開けて、それを家のあちこちにおくのか、理由はわからない。

読んでいる皆さんもアホらしくてつきあえないと思っているだろうが、現実に対応している私ももちろんそうで、そんな理由を聞くほどのことでもないから、ティッシュの箱をいくつかクローゼットに戻し、サインペンで「掃除機用。クローゼットの外には出さないで下さい」と書いておいたら、それ以後はティッシュの箱はあちこちにあらわれなくなった。

昔、母がまだ今より元気なころ、古い母家から隣に建てた今の新しい家に生活を移させるのに、私はあれこれ工夫し苦労し、「シロクマを新しい檻に移動させる気分」と友人知人にこぼしていた。ヘルパーさんたちの行動や思考の原理をさぐり、それに最小限のエネルギーで対応していくのもそれと似ていて、タスマニアデビルやイリオモテヤマネコの生態を調査研究しているような錯覚に陥りかける。こういうのが、教育や研究にまったく役にたたないかといえばそうとも断言できないが、それよりこんなくだらないことに頭をしぼり感覚をみがいていたら、芸風が荒れるというか、偉大な研究ができなくなるのではないかという不安もこれまたまったくないわけではない。

「何でティッシュペーパーのケースを無視するんだろう」と私が言うと、母は「田舎のヘルパーさんは、しゃれたものは知らないし使い方もわからないのよ。私の食事の準備をしてくれるとき、箸置きを何に使うのかわからなくて、箸を逆にのせているよ」と答えた。

それを注意もしないで黙っている母も人が悪いか遠慮深いかよくわからない。第一母も年を追ってぼけてきてはいるので、言っていることを信用していると痛い目にあうのだが、たしかに母の言うような可能性もないとは言えない。

私はファッションにもインテリアにもさほどこだわりはないつもりだが、まあそれなりに、限られた金の中でささやかな好みみたいなものはある。で、また言うが以前金があったとき、かわいいホーローのなべやキッチン用品、掃除道具をへやの端にカッコよく収納しておくピンクやベージュの四角いケースなどを買いそろえていた。新しい家での母の生活を少しはおしゃれにしてやりたかったので、そういうものを母のへやや台所に皆おいていた。

すると、これまたいつも、掃除をしたあと、ヘルパーさんは、そのカーペットクリーナー入れの四角いケースをななめにしてそのへんの藤のかごにつっこんで行く。藤のかごはそんなことのためにおいてあるのではないし、せっかくのおしゃれなケースをどうして前おいてあったように普通におけないのかわからない。一度でなくて毎回だから、うっかりなのではない。これまた、さりげなく、あるべきかたちに置き直していても、また同じようにかごにつっこんでいる。

そして、ホーロー用品は、どうしてこんな風に傷がつくのだろうというような傷がいつの間にかつけてある。一度「金属のタワシを買って下さい」とメモがあったので、「何をみがかれるのでしょうか。ホーロー製品には使わないでいただきたいのですが」とメモを返したら返事がなかった。それであいかわらずタワシはスポンジにしているのだが、好きななべや皿ばかりだったので、恐くなって、母の台所からそれらをひきあげ、普通のなべや皿に代えてしまった。

まだまだあるのだが、このへんにしておこう。つまり、ヘルパーさんに来てもらうと、好きな食器や家具、雑貨を汚されても壊されてもかまわないとあきらめるか、結局好きなものや大事なものはすべて片づけ、味気ない暮らしをするか、どちらかを選ぶしかなくなるのだ。

何事も先を考え過ぎるとよく人からあきれられる私としては、自分自身が年老いた時、どちらを選んで生きようかと、このごろしばしば考えている。うっとうしいから、この次にまた書くが、汚す壊すだけでなく、盗られたとしか思えないなくなり方をすることさえあるのだ。さしあたりまだボケていない私でさえ、いつなくなったか思い出せないし、はたして盗られたのかなくしたのかも、容易に判断はできない。認知症になりかけていたら、もうどうしようもないだろう。もう、ものが盗られるのはまだいいとしても、そのために「あったはずなのに」「おいたはずなのに」と、自分の記憶を手探りして、自分に自信が持てないまま、幻か現実かわからない日々を生きるしかなくなったら、さぞやいらだたしいにちがいない。

ところで、ここまで読んだかたの中には、「なぜもっと面と向かってヘルパーさんに話をしないのだ」と、いぶかる人も多いだろう。そこが最も問題なところで、今の介護保険制度では、家人がいるとヘルパーはいてはいけないことになっている。だから私はヘルパーさんと顔を合わせて話したり情報交換したりすることができない。母の言っていることがどこまで本当か妄想かの確認さえもできないのだ。というわけで、話は次回につづきます。

ヘルパーさん事情(つづき)

そもそも定年退職した段階で私は、いっさいの勤務をやめ、家にこもってこれまで放りっぱなしにしていた研究の整理をしようと思っていた。母のそばにもいられるし、そうやってまとめた研究の成果を本にして発表できれば、少しは年金のたしにもなるから、自分がぼけるかばてるかするまでは、まあまあ生きていけるだろうとふんでいた。

この計画がほとんど瞬時に頓挫したのは、試しに数日同居しただけで、母が私につきまとってまったくひとりの時間が取れないということがすぐに判明したからだが、それはまだ母との話し合いで何とかなる余地もあったと思う。ほぼ決定的だったのは、今の介護保険では「同居の家族がいたら、ヘルパーは食事や掃除その他の家事の援助には入れない」という規則があることだった。

はじめからこうではなかったらしい。施行されて何度目かの改革の時にこの条項が生まれたようだ。だから少し前の介護体験の本では「ヘルパーさんは母の食事は作ってくれるが、私の分は作れないので、並んでそれぞれの分を作る」などという記述が出てくる。「奇妙な風景」として紹介されているが、奇妙でも何でもまだそれなら私は何の文句もない。だが今では、こういう場合「私」がいるとヘルパーさんは「母」の食事も作りには来れないことになっている。

それもまた、地域によってさまざまな例外や解釈はあり、さらに「同居」というのも、同一の建物でなければいいとか、同一敷地内ならどうだとか、きびしい自治体では同じ町内でもだめだとか、いろいろケースや解釈があるらしい。

調べるひまもないから実態がどうかは調べてもいないが、たとえばこれを読んでいるたいがいの方がそうであるような研究職とか、自宅が職場の画家や彫刻家、小説家、音楽家、八百屋や魚屋といった人たちにとって、この規則はある意味決定的である。三度の食事を親のために準備していて、執筆や創作ができる人はおそらくいまい。(もちろんきっと、子育てにも似たような事情はあるのだろうが、それは私に体験がないので、ここではふれない。)

結局、母との同居は断念するしかなかった。私個人の利害や都合だけではなく、社会や国家のためにも、これはかなりの無駄を生む。自宅が職場の研究者や芸術家は、親の食事だけでもヘルパーさんが確実に世話してくれれば、親と同居でき、余分な世帯を持つ必要もなく、光熱費や交通費も節約できる。「家人がいたらサービスができない」規則は、少なくとも職種によってはまったく合理的でない。

ヘルパーさんに頼り切る生活を選んでも、この規則はさまざまの影響を生む。規則を守って、ヘルパーさんが来ている時はたとえ帰省していても、遅く着いたり早く出たりして、行きあわないように工夫していると、一番肝心の母の状況その他について、私がヘルパーさんと意思疎通、意見交換することができない。特に母がやや認知症めいてきてからは、母の話を真実かどうか怪しいと思っても、それをヘルパーさんに確認するすべがない。前回に書いたばかばかしい瑣末なせめぎあいも、顔を合わせてたのんだら、あっさり解決できただろうこともある。

今後の介護保険がどうなるかは知らないが、研究職に携わる方々は男女を問わず(妻が倒れて夫が介護する場合も多いだろう)、ある程度は研究にいそしめる退職後の生活の確保のために、「自宅で仕事をする」職業の人の場合に「同居家族がいたらサービスは受けられない」というこの規則がいかに非現実的で無駄が多いか、ぜひいろんな機会に関心を持ち発言してほしいと願う。

と、例によって前置きがめちゃくちゃに長くなったので、あとは要点だけになりそうだ。

知り合いの主婦の方で図書館司書の資格も持っておられた方がヘルパーの資格をとられた際、「あの程度の研修でいいのでしょうか」と心配されていたように、看護婦さんと異なってヘルパーさんは、それほど徹底して専門的なことを身につけさせられるわけではない。そんな専門的訓練をしていたら、きっと需要に追いつかないだろう。

だから、さまざまな方がおられるし、それぞれの常識や感覚で仕事をしておられる。

介護保険でもそれ以外に個人で雇ったこともあり、のべ二十人あまりのさまざまなヘルパーさんとつきあった。あくまで私の場合だが、いつも悩まされた問題は、仕事を怠ける、しない、ではなくて、仕事をしすぎる、やりすぎる、ということだった。

私の不満はだいたい似たようなことなので、誰がということでなく、まとめて言うと、熱心なヘルパーさんほど、家をつくりかえて、自分が働きいいようにしてしまう。私ももちろん最低の仕事の指示はする。というか、掃除と母の食事だから、別に特に支持するような細かい内容はない。

ところが、それ以外の部分でヘルパーさんは、どんどん家をつくりかえてゆく。裏口に自分のはきものをおく。廊下に自分の掃除道具をおく。調味料は冷蔵庫ではなく調理台の横にずらりとならべる。夜は危ないからと、勝手口の電灯をつけて行く。きわめつけは、私の仕事部屋のパソコンの下においていた汚いカバンを「床が汚れるから」と物置に運んで放置する。汚いカバンにわざと入れておいたのは、それが重要な機密書類だったからで、知った時には血が凍った。ちなみに私は私の仕事部屋には入らないでいい、掃除もしなくていいと強く言い渡していたのである。私はそれ以後、仕事部屋のドアのすべてに鍵をとりつけたが、自宅の中で施錠に気を使うのもけっこう腹が立つものではある。

最後の例のような場合はともかく、大半は「まあ、それほどでも」というようなことだから何も言わないでしまうし、さりげなくそっと、廊下におかれた掃除道具や勝手口のはきものを物置に運んだりするが、そのたびに気を悪くされないかとひやひやする。

何よりも困るのは、熱心なあまり、決まった日以外の日に来てくれたり、時間が過ぎても働いてくれたり、頼んでいないのに洗濯物をクリーニングに持って行ったりすることだ。こちらも申し訳ないから、お礼も言うし、何かさしあげたりもする。ところが、それが高じると、決まった日に来なかったり、時間に遅れて来たりする。文句を言おうと思っても、「でも今日休んだのは、昨日来る日ではないのに来てくれた分ということなのかしら」と考えている内に何が何だかわからなくなり、結局いつでもその人が好きな時に来て仕事をすることになり、こちらの予定もたてられない。

さらにそうやって、たのんでいない仕事をすることで、我が家にとって「なくてはならない存在」になり、そこで終わっていれば最高だが、結局そうなった上で、自分のペースで仕事をして、こちらがヘルパーさんに合わせねばならない体制を作り上げて行く。ある意味、有能な方が着実にそれを進めて行く様子は、ほとんど感嘆にあたいした。

さらに、ヘルパーに行っている他の家のことをいろいろ話して批判し、我が家のことをほめちぎる。本心で言って下さっているのかもしれないが、私はいつも母に、「私たちのことも、よその家で何と言っているかわからないよ」と笑いながら言ってきかせていたものだ。

とはいえ、それだけ働いてつくされると、母も私よりヘルパーさんの方を信頼したりするようになる。一度、母が私にまじめに「○○さんが、あなたに言いたいことがあるって。いくらお金があるかもしれないけど、ものを買いすぎるって言ってたよ」と話したときは、私も怒髪天をついた。「私がどれだけ倹約し、買いたい本も買わないで、あの人の賃金を払い、先のことを考えて必要最低限な家具や道具を、足が棒になるほど安いのをさがして買っていると思うの。だいたい、あの人は何さまなの」とわめきちらしたものである。

映画にもなった小説「めぐりあう時間たち」の中で、バージニア・ウルフが使用人の女性をうまく使えないで悩む様子が描かれている。幸か不幸か「九条の会」などで平和活動をやっていながら頭の中は常にこれすべて戦闘体制の私としては、ヘルパーさんとの対応においても、ことは食器や洗濯物や庭の草取りなどであっても、国際政治や凶悪犯罪、恋愛模様と同様に、相手の心理や画策が多分本人も気づかない前に、おおよそすべて見えてしまうのが、ありがたいような、つらいような気分だ。だから、うざいとしんそこ思いながら、尖閣列島をどうするかと同程度の力をこめて判断し、対応し、おおよそ自分の願いを最後にはかなうようにしてきた。だがしかし、これはまだ、今私が元気で闘争本能も交渉能力も心の余裕も体力もあるからだ。瞬時に何を捨て何を守るかを選択できるだけの価値観や哲学を、一応保っていられるからだ。

しょうもないことにエネルギーを使っているのかもしれないという危惧もまたある。だから、若い皆さんは、こんなことをまだ気にしなくてもいい。しかし、親や祖父母の愚痴は時には聞いてそれとなく資料を蓄積しておいてほしいし、私よりやや若い方や私と同年齢の方には、介護保険やヘルパーと太刀打ちするのは、もっと弱って動けなくなってからでいいと思っておられるのなら、悪いことは言わないから、もう少し前に、戦ったり許したり妥協したり落とし所を見極めたりする元気が、まだまだ残っている内に、こういう問題とは向き合っておくことをおすすめする。

まあ、こう言っている私自身、今こうして格闘している結果がいよいよの老後に吉と出るか凶と出るかはわからないが。そういう意味では人生は最後までバクチだが。

死刑台の下で

生前葬を計画しているよ、と学会で会った超まじめな元同僚に言ったら、一笑に付すかあきれた顔をするかだろうという、こっちの予想をくつがえして、「生前葬ねえ」と何だか遠い目をしたので、ずっこけた。

ちなみに、この同僚は昔私が、クマのぬいぐるみのかたちをしたバッグを肩にかけて学長室での重要な会議に出たとき、事務局の女性が「かわいいバッグですね」と言ってくれた横から「それバッグだったの」と言い、「いくら私でもこんな場所にただのぬいぐるみを持ってくるわけなかろ」とかみつくと「あんたならやりかねないと思った」と真顔で答えたことがある。

今回のその反応も、私が何をしても驚かなくなっているのか、生前葬に関心があるのか、どっちなのかはわからない。

私自身は数年前まで生前葬はおろか、葬儀にも墓にもまったく興味も関心もなかった。そもそも私は高校生かもっと前の中学生のころから、家族や友人知人にとりかこまれて死ぬのが思っただけでもぞっとするほどいやで、一番の理想はことばも通じない外国のホテルかどっかで野垂れ死にして、映画で見たモーツァルトの死骸のように共同墓地に投げ込まれるというような死に方だった。

知り合いに囲まれて死ぬのがなぜそういやかを考えると、永六輔が『大往生』で紹介していたある老人のことばで「同年代の回りの人たちが次々死んで行くのは、淋しいだけじゃなく、ちょっと勝ったような気もする」というのと共通するのかもしれない。人より先に死ぬのは、たとえ相手が十六でこっちが九十九でも、やっぱりどことなく負けたという気分が私はするので、だから、勝ち残り生き残る連中の顔なんか、胸くそ悪くて見る気にもなれない、というような心理なのだろう、きっと、多分。

だから皆の目の前で死ぬ死刑なんかはもっといやなはずだが、高校のころ、ある死に方を夢見はじめてからは、それはそういやでもなくなった。私はキリスト教とマルクス主義をかじったとも言えない、ちょろっとなめたぐらいの人間だが、そのあんまり共通してなさそうな両者に、しっかり共通しているのは、正しい者は迫害されてひどい目にあうという感覚である。だから私は、金や名声があって皆に愛されている人は本能的に悪人と思い、貧乏で前科があって皆に嫌われている人は無条件に善人と思うという、大変危険な性癖がある。

そういうわけで、高校のころ私にとって、正しい生き方は成功や幸福を保障せず、むしろ牢獄や死刑台へまっすぐに続く道だった。それでも選ばなくてはならないのが当然の生き方だった。なので、かなりの可能性として死刑になる最期は予想していた。

ただ、いつからか、それもまた何となくいやになった。取り越し苦労もいいかげんにしろと言われそうだが、そうやって立派に自分の正しい主義主張をつらぬいて死んだら、死後に絶対あがめたてまつられて、聖人や英雄として賞賛されるのが、何だかかなりうっとうしかった。それで、自分が本当に心から信じたもののために死ぬのはやめとこうと考えたが、まあ、それに近いもののために死ぬことにして、ただ、死刑になる直前に、自分の次に殺される人に「別に後悔はしていないけど、本当はこの思想は信じていなかった」と笑いながら言って死のうかなと思っていた。それを聞いた、そのたった一人の人もすぐ死んで、私の本当の姿は誰も永遠に知らないままになるのがいいなあと夢見ていた。

こんな誇大妄想と自意識過剰とその他もろもろのことを考えている暇がよくあったなと言われそうだが、実際中学高校のころの私は受験勉強や友人との他愛もないおしゃべりの片手間に、こんなことばかり考えていた。今考えると、要するに人を出し抜き予想を裏切りたかったわけで、若気の至りと言ってしまえればいいのだが、基本的には今も私はそのへんは、あまり変わってない気がする。人に理解されると不愉快で、信じられると負担である。第一、自分で自分がわからず信じられないのに、人から先にそんなことをされてなるかという心理もある。

ともあれ、そんな風だったから、いつも自然に思い浮かぶ自分の末路は死刑か野垂れ死にだった。孤独死なんてまるでもう全然悲劇などではなかった。

ひとつには文学作品の主人公たちなんて皆、ろくな死に方をしないから、そういうお手本しかなかったのもある。たまさか歴史の本でも読めばこれまたいつの時代でも人はひとやまいくらの感覚でばっさばっさ死んでいるから、なおさら、あきらめしかつかなかった。

かつて旧ソ連を旅行したとき、レニングラード(と当時は言ってた)の郊外で第二次大戦で戦死した一般市民の墓地があるのを見た。見わたすかぎりの広大な敷地に、芝生でおおわれた小さい建物ぐらいの大きな台形の山が整然とどこまでも並んでいるだけで、どこにも墓らしいものはないからどうしたのだろうと思っていたら、その台形の芝生の小山がそれぞれ一万人だか膨大な数の遺体を葬った墓と気づいて、あっけにとられたことがある。自分もどうせそんな風になるんだろうし、なってもしかたがないと、さわやかな風の吹き渡る緑ゆたかなその墓地で妙に実感してしまった。特に不快でもなく悲壮でもなく。

とはいえ、この年になってくると、そうそうのんきに自分の最期を夢想してもいられなくなる。具体的に考えて異郷のホテルで野垂れ死にしようにも、そもそもそこへ行けるだけの語学力も財力もありそうにない現状だし、幸か不幸かって幸福に決まっているが、さしあたり戦死したり刑死したりする可能性はあまりなくてすみそうだ。となるといやでも、もっと散文的かつ現実的に自分の死について考えておかなくてはならなくなる。

私も自分の子どもがいたら、多分まだそれほど真剣には考えない。そう言うと大抵の人が「子どもがいても同じで、たよりにはならないよ」と言う。しかし私に子どもがいたら、どうせろくな子ではあるまいし、私との関係もいいはずがないから、そういうやつには私の死後には銀行印がどこにあるかわからんとか名義変更がややこしいとか、死ぬほど苦労させてやると思っただけでもうれしくて、あとのことはいっさい何も考えず愉快に死ねると思うのである。

あいにく私にはかなり高齢の老母しかいない。そして、彼女への愛情と憎悪、というのが大げさなら、思いやりと腹いせが、私にあれこれ、ある意味では実に不毛な計画を立てさせる。

思いやりの方から書くとしよう。

今年の四月、小学校の入学式以来の親友が死んだ。学校の帰り道の橋の上で、一人が水筒のふたを川にうっかり落としたら、もう一人もためらわずすぐ自分の水筒のふたを川に投げこんだほど仲のいい友だちだった。底抜けと言っていいほど明るい人で、多分私はいろんな面で相当に彼女の影響を受けている。

そのくせ、この何十年かは近くにいながら会うこともなく、電話も手紙もメールのやりとりもめったになかった。数年前に「会わなくっても、いつでもわかってるから、いつ会っても変わってないってわかってるから」と彼女が電話で楽しそうに陽気に言って、あ、こういう考え方はもともとは私のじゃなくてこの人のものだったっけと、あらためてはっとしたのが最後の会話になって、彼女は持病の心臓の手術の直後に病院で死んでしまった。

葬式の席で、彼女が昔のままに周囲の皆を笑わせ楽しませていたことが、弔辞や皆の様子からびっくりするほどよく伝わった。彼女はちょっと面食いのロマンティストで、ある大学の中に職場があって、そこの学生だった年下のハンサムと結婚した。初めて見るそのご主人は、年を取っても悲しそうにしておられても若々しくて素敵な男性で、病院で彼女が亡くなったいきさつを無念を抑えて話される様子に、今も変わらない深い愛情があふれていた。ご主人の職場を彼女も手伝っていたようだが、多分そこのご主人の部下らしい青年が私の隣の席で、ずっと泣いていた。読経をされたお坊さんもまるで家族のように心をこめて彼女の思い出を語られる。何から何まで、彼女は本当にいつでも最後まで変わらず、私の知っている通りの彼女だったとあらためてわかった。

六十三歳の死は、むろん早すぎる。彼女のお母さんはまだお元気で最前列に座っておられた。それを見て、私が母より先に死んだら母があそこにいることになるのだと、あらためて思った。友人は兄弟姉妹が多く、自分自身も家族がいたので、お母さんもその人たちに囲まれていて悲しい中にもあたたかく守られているのが伝わった。しかし私の場合には、母は一人でそこに座って、皆の視線や挨拶に対応しなくてはならないなと思うと、ちょっと何とかしておいた方がいい気になった。それは友人のしてくれた注意のようにさえ思えた。

もう一方の腹いせの方は、これもこの四月のことだ。

定年退職で気がゆるんだか疲れが出たかで、四月の後半ずっと私は風邪をひきとおして治らなかった。田舎の母の家に週に一度は帰ることにしていたのだが、母は私が体調が悪く、話し相手にも遊び相手にもならないのにイライラして、「あんたはきっともう、治りきらないで、そのまま死ぬよ。あんたのお父さんもその通りで、死ぬまで無理をしたんだから」と口走った。むかついた私が「そういうことしか言われないから、ここには帰る気にもなれないのよね」と言い返すと、母は「いいけど、あんたが死んだら私がどうしたらいいかは、わかるようにしておいて」と応じた。

売り言葉に買い言葉ならまだいいが、母は多分まじめにそう考えていたので、九十一歳になって目も耳もほとんどだめになっている身で、その気概はあっぱれと言ってもいいし、第一そんな年寄りに真剣に腹をたてるのも大人げないどころではないが、私はかっとして、「ああ、わかった、私がいつ死んでも、あんたは困らないようにしといてやるよ」と答えた。

賭けてもいいが、母はもうそのことは忘れているだろう。しかしすべてにおいて、前向きな方向でだが根に持つタイプの私としては、それ以来、絶対に母より先に自分が死んでも大丈夫なようにしておくことに執念深く熱中してしまった。実家の墓を改修し、現在住んでいる近くに自分用の小さい墓を超安値で作り、近くの葬儀社で一括払い22万円の火葬も葬儀もセットになった「あんしんプラン」なるものを予約し、神も仏も信じない唯物論者のはしくれだったはずが、生前戒名をもらって位牌も注文した。ちなみに戒名は「清冽耀泉大姉」というので、わりとかなり、いやとても気に入っているのである。

ちなみにこれは「ようせん」と読む。「ようぜん」と読むと、「封神演義」の特にアニメでは超カッコいい英雄なので、そっちでもいいような気はするが。

この思いやりと腹いせは表裏一体である。たとえそれにしても、こんな理由でこういうことのいろいろをするのは、どこか罰当たりな気も少しする。だがもちろんこれは、簡単にまとめた場合で、まだいろいろと私の心情や事情はあるのである。だから、神や仏やご先祖の魂がもし存在していたとしても、そのへんはきっと理解してくれるのではないだろうかという気分も私の中のどこかにはあるのだ。次回はそのへんを少し詳しく話してみたい。

かわいい学者は存在するのか?

ほぼ一年にわたって、あれこれと身辺の雑事を書きまくり、学者や研究者や公務員や独身女性と言えども、世間の俗事を無視して生きていける世の中ではない実態をお知らせしてきた(つもりである)。

こういうことはもちろん、人それぞれの価値観や好みで取捨選択をして、いろんな対応をされていることだろうから、私の場合がどれだけ特殊か普遍的かはわからない。

たとえば私の好みのひとつは、「生きていた痕跡をなるべく消したい」ということで、学生指導や授業計画においても、常に目的は「教師である私の存在を忘れて、ただ知識や能力だけを彼らが獲得し、それは自分で獲得したように思いこむこと」だった。だから学生による授業アンケートなどで、私の授業のやり方に注目させることなどは、決定的な妨害行為としか映らず、大変な迷惑だった。

そろそろ老境を迎えて死後のことを考えても、家族においても社会においても、私がのこした色んなもので皆が快適に幸福になるのはいいが、私という存在は覚えておいてほしくない。快適に幸福になってほしいと思うのも、人は(動物も)だいたい自分が幸福であればそれを与えてくれたものへの感謝は忘れるもので、それは当然で健全で忘れるべきものであり、ついでに言うと本当に幸福な人間は他人のことなど気にしないで放っておいてくれるものであり、だから私はややこしい、しょうもない人間は片っ端から死ぬほど幸福にしておくのが一番こっちに関わってこなくて面倒がないと思っているのだが、まあそんなのはいいとして、要するに生きていようが死んでいようが、私がそっとしておいてもらうためには、家族も人類もせいぜい幸福にしておくしかないのである。最近何かと議論になる原発にしても、いったいいつの間にこれほど原発がもてはやされるようになっていたのかさえ私は知らなかったぐらい、もう昔から反対、というより問題外の思考の外だったのは、何万年ものちの人類に害をもたらす核燃料の廃棄物を地下に埋めるの宇宙に飛ばすのと、そんな自分が生きた痕跡を地上に残してどうすんじゃ、信じられん、という感覚であった。

だがなぜか、そんなことをめざしている割には、いや、めざせばめざすほど、私のすることは多くなり、関心も仕事も四方八方に拡散する。前回、宇佐に二軒と宗像に一軒の家を持ち、その管理に追われている話をしたが、それを何とか縮小しどこかをたたもうと夜も寝ないで考えている内、なぜかどうしてか、宗像の家の前にあった空き地を買わなくてはならない羽目に陥り、そこにもしかしたら極小の家を建てるかもしれない話が起こってきた。年金とわずかな貯金を食いつぶして生きている身としては、人に言われるまでもなく、これは正気の沙汰ではない。

もっとも私をよく知っている友人知人はいったんは聞いて唖然としたものの、すぐ「まあ、どうせあんたのことだから、あれやこれや考えた結果なんだろうけど」と、あっさり納得したのはさすがである。このような人々を周囲に持っていられるのは、私の生きてきた中での数少ない成果というべきなのかもしれない。多分彼らは、私が若い男や女や猫やトカゲと結婚することに決めたと言っても、同じような反応をするにちがいなく、ありがたい半面恐い気もしないではないが。ひょっとして焼身自殺や自爆テロをやると言っても、「ふうん、まあ、よく考えたんだろうし」・・・とはまさか、いくら何でも言うまいな。

なぜそんな空き地を買い、四軒めの家を建てるかもしれない話になったかは長くなるから省くとして、そこにはそれなりにやむを得ない事情もきちんとありはするのだが、私がこの最後の回で、まとめもかねて、ひょっとしたら次回の連載の予告もかねて、お話しておきたいのは、実はそうなるかもしれない今の段階で、私がつくづく、ああ、悩ましいなあと思っている問題である。まだそんな問題が起こっているわけではないし、起こったからってそんなにすぐにどうこう困った事態になることなどはないだろうけど、それでも、なまじ予測できるだけに気が重い。

大した広さの空き地ではない。だが、今の私の家と土地にそれがくっつくと、変形の崖下の土地ながら、けっこうな広さにはなる。そして今の私の家がものすごいベニヤ板だらけの安普請で、壁も薄くてやたらと寒く、私がいいように改造しまくったので私以外の人間はめったに住めない家ではあるが、一応かなり見た目には大きい。そこにどんなに小さくてもまた一軒が加わると、これは話が穏やかでない。

私はここ宗像の土地で、それなりに自分の生き方を周囲に認めてもらってきた。宗像大社のお札を買うのや、地元選出の市会議員の事務所の炊き出しに呼び出されるのや、そういう住民の義務らしいことを、ちょっとどうしてもそのとか笑顔で断ったりしながら、運動会などの諸行事にもなるべく参加し、もちろん組長やごみ当番の仕事もつとめて近所の方々とも、快い交流と距離を保った良い関係を結んで来た。

宇佐と宗像とどちらで老後を過ごすかという選択の条件にはそれもある。もし宇佐で暮らすのなら、最低、本当によぼよぼの老人になる十年程度前には、そちらに生活の基盤を移し、地域に一定の貢献をし、ルールを理解しておかなければならないだろう。日本の田舎は(それなりの町でさえ)よそものがいきなり住みついて老後を無事に送れるような甘い場所ではない。住民の方々の生活や性格を知り、どなたと相談しながら寄付や奉仕活動や年中行事に対応して行けばいいかを知っていなければ、ひとつまちがったら本当にえらいことになる。

宗像なら、周囲の方々も私のことをある程度は理解して下さっているし、たがいに安心していられるのは、かなり大きな財産だなと考えていた。

だが、この年になって土地を買い、いかに小さくとも家を建て、私も金をはたいて老後をかけてそんなことをするからには、それなりに快適そうな住まいを作るとなると、これはご近所の皆さんのお気持ちはいかがなものであろうか。宝石、貯金などとちがって、家と土地は目に見えるだけにやっかいで、いや、文章でこれを読んでおられる皆さんでさえ、「何だかだって余裕やのう」と思われるかたは、けっこう居られるのではないでしょうか。って何で敬語になるんだもう。

更に、っていうか、むしろここからが重要なのだが、その広めの土地と二軒の家に、独身女の私が一人で住んでいるという事態が、いちだんと話をややこしくすると思う。

お近くのお家の優しい奥さまは、先日会ったとき私に「お母さまをこちらに引き取られるの?」とお尋ねになった。「まだわからないんですけど、ははは」と私はごまかしてしまったのだが、後で気がついたのは、その奥さまがというのではなく、ご近所の方々がというのでもなく、どっちかつうと世間全体が、この状況を容認するのは「お母さまを引き取って二世帯住宅で暮らされるそうですよ」というのが一番納得しやすい理由であり、それならわかる、普通だと、誰もが胸をなでおろして私のことは忘れてくれるのだろうなあということだった。

こんなことは別に初めてではない。

そもそも築三十年に近い、今住んでいる宗像の家を、私はそこから車で三十分ほどの福岡教育大学に赴任して一年足らずで建て売り住宅として買ったのだが、近くの銀行でローンを組もうとした時、国立大学の助教授でまあまあの収入がきちんとあったし、もちろん犯罪歴も禁治産歴もなく、あらゆる点でまったく何の問題もなかったはずが、「女性一人」ということで、ローンは組めないと言われた。もちろん相手も商売だからむげに拒否したわけではなく、いろいろ方法を考えてくれて、「お母さまと同居ということでしたら大丈夫です」と言ってくれた。

まあそんなもんかと思って、当時はそれこそ今の私ぐらいの年で宇佐でぴんぴん元気どころかぶいぶい鳴らしていたような母を、かたちだけ宗像在住にすることにして私も納得し手続きしようとしたのだが、帰宅して数時間もたたない内に、ものすごく腹が立ってきて、翌日かそこらに銀行に行って担当者に、「どう考えても納得ができない。私が独身男性だったら問題ないのでしょう? 私はこれまで、どんなことでも男性と同じように働いて一人前にやってきた。それが、女一人では信用できないというのでは、何のためにそうやってがんばってきたのかわからない」と、まくしたてた。

私は世間を知らなかった。実は多分私よりもっと地位も収入もある人でも、独り者の女性に住宅ローンは組めないというのは、その当時では普通だった。職場ではセクハラという言葉や概念さえなかった時代のことである。

だが、そんな常識を知らなかったから、私は「そっちが非常識だ」という確信にみちていて、私はきっとときどきこれで成功して自分でも気づいていないままのことがあるのだろうと思うが、こっちが確信に満ちて迫力があると、相手の方は「そんなものかも」と思ってしまってくれるのかもしれない。担当者はとてもあっさり折れてくれて、ひょっとしたら苦労して下さったのかもしれないが、すんなり私一人が住む家として住宅ローンを組んでくれた。それがどんなに異例でありがたいことだったのか私が知ったのは、かなり何年もたってからである。

ある意味、時代は変わっていない。一人ぐらしの女が普通の家族と同じかそれ以上の土地と家で、そこそこ快適に暮らしているのは、やはり異様で贅沢なのである。これがいっそ六本木ヒルズや軽井沢か葉山で贅沢にしているのなら、まだ見逃してもらえるだろうが、宗像でそれはちょっと問題がありすぎるのである。最初の回に書いたように、それは「何か知らんが法外な金を持ち、人生の苦労も知らずぬけぬけと生きている学者」という、常識では判断できない存在として、あこがれだけではすまない、いらだたしさの対象になりかねない。

既婚者にも独身男性にも、それなりの苦労はきっとある。だが、独身女性の場合は、たとえばこういったさまざまの事態に遭遇することを、やはり想定しておいた方がいい。どうしてこんな目で見られるのか、こんな扱いをうけるのかとあっけにとられる原因が「家に男のいる様子がないから」という、ばかばかしく単純な根強い理由であることが、世の中にはまだまだあるのだ。

それはともかく、私はここで、この問題を独身女性に限らず、また学者にも限らず、より広範囲に拡散しようと思う。つまり、身分不相応とか、恵まれているとか、そういうことを人が考える基準はいったいどこにあるのか。

自分の女性としての生き方にまつわるあれこれを、私は還暦記念の自費出版「私のために戦うな」でほぼだいたいは整理したつもりだ。しかし、あと残っている私の生き方の課題は「恵まれている、と言われる者の生き方」だ。唐突にあえて結びつけるなら、これは先日の九州大学国語国文学会の講演で、中野三敏先生が最後に述べられた、江戸時代の思想のキーワードのひとつ、「自己犠牲の精神」ともどこかでつながるのかもしれない。(2011.6.6.)

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