雑誌「柳かげ」読書感想文・Y村の政治史

(「随筆・Y村の選挙」と同様に、私の故郷の村の話。六十年ほど前の話だが、当時高校生だった私が、母から聞いた実態である。この個人誌「柳かげ」の、怪しげな読書感想文コーナーでは、実際の本と並んで、架空の本も紹介していて、これはその一つ。宮口準太郎も木田町子も、すべて私のペンネームである。
今あらためて読むと、当時の選挙のさまざまな裏面が伝わる。村人と政党の協力と違和感、リコールの実態などなど、よかれあしかれこうやって日本の政治は今日まで育って来たのだという実感が生まれる。

虚構とは言え、自分の書いたことになっている本を、いろいろべたほめしているのをあきれる人もいるかもしれない。けれどまあ、これは実際には書かれなかった本であり、こういう本になればいいなあとめざす理想を語ってもいるということで、お見逃しいただきたい。

おそらくすべて事実なのだろうが、書いてからほぼ六十年、実は私自身が忘れていたこともあった。いくつかの事実は、そんなこともたしかにあったと、読んで初めて思い出した。人生の残り時間があとどれだけかも心もとない年齢になって、しなければならない研究や創作も多いのに、高校生のころに書き残した田舎の歴史のひとこまを、こうやって永遠に消える暗黒の中から救い出し、どんなにわずかでも人々の目にふれさせることに、費やする時間と労力を、私は惜しいともまちがっているとも思わない。)

読書感想文・Y村の政治史(作・宮口準太郎)   木田町子

舞台はY村というごくありふれた小さな村である。この村の村長は坂田善四郎というさる建築会社の社長だ。どこにもありがちなワンマン社長で村のボス達を子分にして村会を牛耳っている。彼に反対する村民達はリコールをしたり対立候補をたてたりして戦うが、いつも敗れる。その反対派の一人、老医者の松本元三の孫息子松本準吉の手記というかたちで、この小説は書かれている。準吉はもちろん作者の変身であり、他の村民達も皆あきらかにモデルがある。非常にノンフィクション的な作品である。

さてこれは政治史ということになっているが、私に言わせればむしろ農民小説であり、そしてさらに言うならひとつの堂々たる人間ドラマである。反対派の農民達一人々々の描写はていねいでかつ鋭い。作者は特に坂田村長に対抗する村会議員「まもるさん」に深い目を注ぐ。

―「まもるさん」はまだ若い。四十五ぐらいだ。がっちりとたくましい身体つきで髪はまっ黒く明かるい考え深い目つきをしている。兵隊に行ったことがある。ちょうど戦争のころ教育を受けているため、英語や音楽のことは何もわからない。だいたいにおいてあまり教養はない。ちょっとむずかしいことばを僕が使うと、太い首をかしげて考えて「そりゃどげなことかえ」と聞く。―

それにもかかわらず青年団の団長で村の若い者からあがめられ愛されている「まもるさん」に作者は驚嘆している。「まもるさん」はねばり強く大胆で、いつも朗らかで決していばったり怒ったりしない。彼は村長が数々の不正な政治をしているのをつきとめ、それを議会でやっつけて皆にかっさいされる。村芝居が来るといたずら心から役者といっしょに扮装して舞台に並んでみる。

「まもるさん」は村長と十年以上戦って来た。その間一しょに戦った仲間は、まさに種種雑多といってよい。主人公の祖父の老医師をはじめ、天皇崇拝の気ちがいじみたじいさん高塚伸太さん、結核の病人でやかましいじいさん泉川源治さん、いささか頭は単純だが一本気な大勢の青年たち―中には裏切って敵方につく者もあった。

―「まもるさん」は裏切った人のことをかくべつ怒るでもなく「ああ、あれはどうも先生、だめじゃあ」と祖父に言って笑うだけだった。「何というばかなやつだ!」と祖父が怒ると「ばかじゃあ」とあいづちをうつだけで、それっきりだった。敵か味方かわからない、あてにならない若者でも平気で事務所に出入りさせるので、「危いぞ、スパイされるぞ」と注意しても「うん、まあ大丈夫じゃろう」と言って、えへらえへら笑っていた。そして結局いつのまにかそういう若者は完全に「まもるさん」の子分になって水火も辞せず仂くようになるのだった。「とうとうまた手なづけてしもうた、大したもんじゃ、仁徳じゃ」と祖父はうなった。そう言われても「まもるさん」はいばるふうもなく「うん、あれもよう助けてくれるようになったあ」ぐらいのことをいっていた。―

一時は村長の方に皆がなびいてしまった時もあった。何度目かのリコールの時はもうほとんど仲間がいなかった。それでも「まもるさん」はくじけない。主人公の祖父に向かい「いやあ、先生、とうとうわし達二人だけになったなあ」と言ってはからから笑う。祖父はある日町に行き、ハンコ屋に行ってできそこないのハンをもらって来、それを使って「まもるさん」はリコールのにせ署名簿を作る。ところが「まもるさん」は途中でぐうぐう寝てしまう。酒をやるからと言ってやとった、のんだくれの津村という男と主人公の母が二人がかりで徹夜してにせ署名を続ける。

読んでいてたしかにあきれないでもない。政治のからくりのでたらめさが、あちこちにはっきりあらわれている。しかし作者はそれらすべてを淡々とした筆致で落ちつきはらって書き流しており、読者もついつられてしまってあまりあわてない。非合法的なことも作者に密着した体験として語られるため、いやみがない。主人公自身八才か九才のときに一人でリコールのビラを村中にくばっている。ある夜は刑事にふいをおそわれ、運動員の持っていた金を主人公は自分のおもちゃ箱にかくしてやったりする。また主人公の祖母は六十すぎのおとなしいおばあさんだが、選挙に負けた次の日の夜、「うちゃ、もう、あんまりはがいかったけんで」坂田村長の会社の工事現場に行き材木をかついで川に放りこんでしまう。それを聞いた主人公と母は次の夜二人でまた工事現場に行き、材木をまた一本二人がかりで家まで運んで来、なたで細かくわってまきにする。「それが選挙というものだろうけれど、やっぱり今考えると妙な気になる。他の人が聞けばいやな感じを抱くかもしれないが、僕は思い出すとただおかしい」作者はそう語る。

選挙にまつわるエピソードはひとつひとつ面白い。村長派の議員の一人坂田登の立候補したとき責任者になった男は選挙の間中どこかに雲がくれして登が落選したあとのこのこ帰って来て「あんなやつが落ちるのは日頃往生ちゅうもんじゃ」とうそぶく。ある時の選挙で敗れたあと運動員の一人は祖父に向かいまじめな顔で「先生、こりゃもうどうでん先生の息のある内にゃ勝てんなあ! そりでん、きっと勝ってみするきクサバのかげで楽しみに待っちょっておくれ」とたのむ。またやはり反対派の旗頭の二人の老人が「まあ、お互いに長生きしましょうや。今は花も咲かんが、いつか我世の春が来んとも限らんですからなあ」と語りながら数年後どちらも死んでしまう。

作者は主人公、つまり自分の母についてもある興味を持っているようだ。彼女はもともと「よそもの」でクリスチャンの大学に学んだ気性の強い美しいインテリ女性である。その性格のある激しさが時々どっとほとばしり出る。たとえば何度目かのリコールの際、途中で裏切った男が相手の使者となって祖父に妥協をすすめに来る。おだやかな性格の老医師がためらっているとき、かたわらで茶をついでいた母はきりりとひざをすすめ「○○さん、あなたいったいリコール賛成なんですか反対なんですか、はっきりおっしゃったらいかがです?」と詰問し男はほうほうのていで逃げ帰る。

それから「まっさん」という百姓にもかなりページがさかれている。小学校の頃、秀才だったが金がないため上級学校にすすめず一時ぐれたりしたという仏教信者の「まっさん」は、やかましい母親の老婆にもしっかり者の嫁にも気の強い息子や娘にも気をつかい遠慮して自分をすりへらしている良心的な、弱い人である。村長の親類であるため「まもるさん」に賛成しながら表だって応援はできない。

―たとえ学校は出ていなくても、たとえしわだらけどろだらけでよれよれのシャツを着て畑で仂いていても「まっさん」は典型的なインテリである。誰の気持も理解するため誰にも強くあたれず、そして誰からもにえきらない人だとじれったがられる。けれどまた「まっさん」は自分の心を人に知られるようなことはしない。選挙でも「まっさん」が誰に入れたかは全然分らない。

更に「まもるさん」とはまたちがった村長反対派がいる。共産党の久留正ら。久留は村の名家に生まれ、明かるいざっくばらんな人柄であるが共産党に入っているため皆に恐がられる。「それがまた愉快でね。だいたい久留家は明治のころはクリスチャンで迫害を受けたし、時代の先端を切るようにできてるんですよ」と笑いとばす久留は党の活動のため飛び回りながらよく主人公の家にたちよってしゃべって行く。一時村会議員になり「まもるさん」と一しょに村長をやっつけた。「まもるさん」とは大いに気があっているのだが「けっきょく村会なんて小さいとこで我々がいくら改革をはかったってだめなんですよ。国のね、根本をなおしちまわないことには」と議員をやめてしまう。「まもるさん」は言う。「くうさんは、まあ党のためになりゃいいんじゃきなあ。道路のことや学校のことで村長とやりあってんが、負けりゃあもうそれでいい、ちゅう気持なんじゃあ。わしたちゃそげなわけにゃ行かん。くうさんは党の宣伝をして党の力をためすだけじゃが、わしたちゃ毎日の生活に関係することじゃから―どうもそこでくいちごうんじゃあ」。作者は二人の言うことを聞き「どちらも本当のことだ。けれど何だか分らない。しかし分らなくてはいけないことなのだ、これは」と思う。

それらのさまざまな人々の姿を作者は静かなおだやかなまなざしで見つめ続ける。村長一派に対しても作者は決して悪意をみせてはいない。その点では井伏文学を思わせるものがある。
 だがこの小説が井伏文学とはっきりしたちがいを見せるのは久留の話や新聞記事のそう入などに見られる日本や世界の政治のありさまだ。とるにたらないゴシップやつまらぬいさかいからいろいろな破綻をおこしながら、この小さなY村の政治がよろめきよろめき進んで行くのにつれて世界も日本もまた動いている。Y村も実は一つの大きな流れの中にある。そういうことがはっきり書いてあるのである。

後半の三章には特にそれが濃くあらわれる。「まもるさん」の勢力は次第に増し、今ではY村の若者は皆「まもるさん」の子分だ。久留はそれを「まもるさん自身はいい人だけど、あれじゃけっきょく村のボスと同じでね、若い者は少しも進歩しないよ」と批判する。作者はそれに軽い反発を感じるがまた「心のどこかでそうかなあとも思った」のである。そして衆議院の選挙で「まもるさん」が右翼のある政治家の運動をしたとき、作者はさらに強いとまどいを感じる。

―「まもるさん」は以前と同じ「まもるさん」だ。しかし「まもるさん」の上には右翼の政治家がいる。その糸をたぐっていけば行きつく先はどこだろう。しかしこの村では「まもるさん」は正しい政治家なのだ。おかしい。―

主人公が選挙権を得た年にまた村会議員の選挙がある。「まもるさん」は主人公の家に着て一々戦況報告をして行く。投票日、主人公は家族といっしょに「まもるさん」の車にのせてもらって投票に行く。投票所に入ったとき、作者は生まれてはじめての投票用紙に十年このかた一しょに戦って来、今も尊敬し親しんでいる「まもるさん」の名を書かず久留が応援している顔もしらない共産党候補の名を書く。

―投票所を出ると陽のひかりがまぶしかった。「まもるさん」が二、三人の青年と話していてこっちを振り向き「やあ、もうすんだかえ。さあ急いで車に乗んない。帰りにうちによらんかい」と言った。まさか僕が入れなかったとは思っていないだろう。僕は笑って車に乗りながら、ちらと「まもるさん」を見た。この人はいい人だ。立派な人だ。それはまちがいない。まちがいないけれどしかし、僕とこの人の歩く道はこれからどんどんどんどん離れて行くだろうという気がした。―

これがこの物語のラストである。のどかなおだやかなこの小説はこの部分でふとさびしくきびしくなる。作者のきっぱりと退かぬ姿勢がここで初めてはっきりあらわれて読者はびっくりするのである。
作者はまだ高校生で当然選挙権はない。他の部分はほとんど事実に即して書かれているのにこの点だけ作者はフィクションにしている。わざわざそうして「まもるさん」に投票しないことを書かなくてはならなかったところに作者のある決意がうかがわれるようだ。(1964.4.4.)

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カツジ猫