私のために戦うな(未定稿)中間市講演(2)
ひとりで生きる、みんなと生きる
私たちは皆、一人の人間としてこの世に生まれてきました。ある者は女として、ある者は男として、あるいは白人として、黒人として、あるいは目が一つだったり、耳が三つだったり、また音楽が好きだったり、食べ物の味にうるさかったり。そういう、ひとり一人の、その人にしかない特徴を大切にして有効に使い、自分も他人も幸せにできたら、どんなにいいでしょう。
男と女がどのように力をあわせ、互いを大切にして生きるかも、結局はそういうことの一環だと私は思っています。ひと口にこれがいいとか悪いとかは言えないし、何かをどうかしたらすべてが一気に片がつくという問題ともちがう。私たちひとり一人が、自分について、他人について、ずぼらやぶしょうをしないで、回りの意見やしきたりですませてしまわないで、一生けんめい、ていねいに考えること、いろんな本を読み、話を聞いて、考える時の材料をふやすこと、じれったくてもそれしかないと思います。
私が今日話す話はとても小さなことです。これを聞いて皆さんがどう考え、自分の暮らしにどう生かすかは皆さんの自由です。私はただ、いくつかの、多分皆さんが知らないことで、私が知っていることを、お伝えしようと思います。
「赤毛のアン」というお話は、テレビアニメにも映画にもなった小説で、ご存じの方も多いと思います。カナダの小さい村を舞台に、空想好きの赤い髪の少女アン・シャーリーの成長を描いたこの小説は、日本ではとりわけファンが多いようです。
私も少女の頃から、この話が大好きでしたし、今も好きです。ただ、この話に登場する、かわいい洋服やおいしいお菓子、きれいな部屋などといったものだけでなく、私が好きだったのは、この作品のどこかにいつもただよっている暗さと激しさでした。
そういうことを感じてこの小説を愛した人が、私以外にもどのくらいいるのかはわかりません。その暗さや激しさとはどんなものかということも、今日はお話する時間がありませんから省きます。でも、このお話は、そういうところがあるからこそ、いっそう優しく暖かく感じられるところもあるのです。
「赤毛のアン」のお話は、実はとても長くて、文庫本で十冊あります。成長して大学に行ったアンは、卒業して学校の先生になり、間もなく幼なじみのギルバートと結婚します。彼は海辺の村の医者となり、アンは仕事をやめて、医者の妻として夫を支えながら、たくさんの子どもを生み育て、幸せな妻として母として年をとっていきます。「アン」シリーズの最後の「アンの娘リラ」では、第一次大戦を背景に、アンの息子たちが戦争に行き、一人は戦死し、末娘のリラは母や姉たちと銃後を守りながら、恋人の青年が無事に帰ってくるのを待つのです。この最後の話は他の作品と少し毛色が変わっていて、切ない複雑な思いもさせられますが、それでもやはり、ユーモアと美しさにあふれてとても魅力的です。
このシリーズの中で、アンの家庭生活、近所の人々などとのつきあい、夫や子どもたちの姿は生き生きと描かれ、アンはさまざまな問題にとりくみながらも充実して幸福そうです。私も大変楽しんで読み、アンの家族の一員になったような気がしていました。けれど、もしかしたら、それはまた、そこにただよう、微妙な悲しみのせいで、いっそう魅力的だったのかもしれないと、今になって思います。
「赤毛のアン」の作者モンゴメリは、「アン」シリーズを書きつづけるのをいやがっていたと言われています。こういう作家の「生みの苦しみ」を額面どおりにうけとって信じるのは危険だし、名探偵ホームズを生んだ作家のコナン・ドイルもホームズ人気にうんざりして、一度彼を殺していますから、人気のあるシリーズの作者にはつきものの現象とも言えます。しかし、モンゴメリがかなり深刻に悩んでいたのは事実のようで、そこにまた、どれだけ関係があるかもむずかしい問題ですが、彼女の家庭生活もまた、いろいろな点で彼女には満足のいくようなものではなかったという指摘もあります。
「赤毛のアン」は日本では村岡花子氏の名訳で版を重ねました。村岡氏の翻訳はこのシリーズと一体化しているといっても言いすぎではありません。その村岡氏は文庫本の解説で、モンゴメリが苦しい闘病の果てに亡くなったと、その最期を述べていますが、詳しい病名を書いていません。
最近出版された「『赤毛のアン』の秘密」(小倉千加子 岩波書店)という本は、この点を明確にしています。モンゴメリの死は自殺でした。苦しんだ病名はおそらく鬱病だったということです。
村岡氏がこのことを日本の読者に伏せつづけたのは、おそらく、あの明るく楽しいアンの世界に暗い影が落ち、イメージがこわれるのを恐れたのでしょう。それはそれで、うなずけます。しかし私は小倉氏の本でモンゴメリの最期を知った時、とても救われたし、優しい気持になれました。心のどこかでやっぱりそうかと思ったし、モンゴメリという人が前にもましてしっくりと身近に感じられるようになりました。
小倉氏はモンゴメリがなぜこのような精神状態に追い込まれたかを詳しく分析しています。優しい牧師の夫に対する満たされない思い、忘れられなかった初恋の男性、女性としての生き方についての迷い、などなど。それらの事実や推論のひとつひとつを検討したり分析したりする力は、今の私にはありません。ですが、モンゴメリが結婚とは何か、愛とは何か、夫婦とは、家庭とは、女の生き方とは何かについて、悩みつづけ、戦いつづけたことはよくわかります。そしてついに、力つきた。これはある意味、戦死だったのではないでしょうか。
そこには、満たされない性もあれば、世間体を気にするプライドもあったでしょう。男と女が、そして夫婦がすれちがって行く原因は昔も今もさまざまで簡単にわかるものではありません。昔も今も、それぞれのやり方で、人はそれを解決した、あるいは解決しそこねたのだと思います。
こんなことに模範解答も特効薬もありません。それぞれがとりくむしかないことです。それでも、と思います。女性に、経済力や社会的な活躍の場が保障され、男性にも女性にも多様な人生の選択が許され、家族や夫婦や社会のあり方ももっといろんなかたちが可能だったら、モンゴメリももっとさまざまな打開策を考えられたのではないだろうか、と。
小倉氏もふれていますが、モンゴメリのこのような生涯と最期を聞いて、とっさに連想するのは英国の著名な女流作家バージニア・ウルフです。彼女もまた文学史に残る(モンゴメリよりもはるかに評価されている)すぐれた多くの作品を残し、理解ある夫がいたにもかかわらず、鬱病になり、川に身を投げて自殺しました。
私は彼女の小説よりも先に、彼女がある女子大での講演記録「私だけの部屋」(新潮文庫)という本を大学生の頃読んで、強く印象に残っていました。その中で彼女は男性の大学に比べて、女子大の設備や環境が劣悪なのを鋭く指摘しています。そして、作家をめざす女性たちに必要なものとして、才能でも体験でもなく「自分だけの個室と、年百ポンドの収入」をあげているのです。
モンゴメリやウルフのように、出版する小説を書くということは、最も自分と向き合い、自分を切り刻んで再構築する、全精神を投入する作業です。しかし、それほどでなくても、ちょっとした川柳や俳句をひねるとか、絵を描いたり陶芸をたしなむとか、英語や古典を学ぶとか、何かの集まりの幹事をするとか、就職するとかパートに出るとか…誰かの妻、誰かの母ではない、自分個人の生き方を求める時、それを支える自分の空間と時間、それを保障する収入は今でも多くの女性が求めるでしょう。そして、夫や子どもへの愛や関わり、果たすべき仕事とそれとをどのようにバランスをとればいいのか、それぞれに悩むでしょう。
バージニア・ウルフと彼女の代表作の一つ「ダロウェイ夫人」を題材にした「めぐりあう時間たち」という小説が最近書かれ、映画化もされました。どちらも大変よくできており、映画の方はビデオでごらんになったらいいと思います。ウルフの自殺もその中に描かれています。
この作品はオムニバス形式で、時代も場所もちがった三つの話が同時に交錯しながら展開します。
一つの話は、ウルフの創作の苦悩と自殺です。
もう一つはそのずっと後の時代、第二次大戦後のアメリカで、愛してくれる夫と子どもがいながら、しばしばホテルに一人で泊まって「ダロウェイ夫人」などの小説に読みふけらずにはいられない本好きの主婦の話で、彼女は結局、夫も子どもも捨てて家を出ます。
最後は現代のニューヨークに生きるキャリアウーマンの話で、「ダロウェイ夫人」とあだ名のある彼女はエイズにかかった元恋人の男性のアパートを訪れて世話をしながら、女性の恋人と夫婦として同棲しており、人工授精で生んだ娘とも母娘としていい関係を結んでいます。彼女の日常は社会的にも経済的にも安定し堂々としていて、何の異常さもありません。それでも淋しさもあれば迷いも悩みもあります。人が生きている限り、それは存在しますから。けれども、溌剌と全身でそれらに立ち向かう彼女は、ウルフや、少し前の時代の本好きな主婦のように、息づまる社会や家庭の中で、死と向き合うまでに追いつめられることはありません。
映画としては、私は中でもこの二番目の主婦の話が一番よくできている気がしたのですが、この主婦の日常はまったく何も見たところ、不満も不足も持つような要素はないのです。夫は本当にいい人だし、子どもは彼女をひたすら慕っている。彼女も家を切り盛りし、ケーキを焼き、第二子の出産をひかえている、幸福な主婦です。けれど見ていると、とても不安になってくる。彼女はおそらく、その生活のすべてをとても憎悪しているのではないかと思えてくる。でも憎悪する理由がないから、憎悪することもできなくて、だからいっそう、その憎悪は深くなる。
スウェーデンの映画監督で作家のベルイマンが、もう二十年ほど前に「ある結婚の風景」というテレビドラマを制作し、話題になりました。理想的と自他ともに思っていた夫婦が、夫の浮気が原因で離婚してそれぞれの道を歩み、何度かの再会の中で憎悪をぶつけあいながら、最後に再び新しい関係を築いてゆく話です。私の友人が大変感動し、勧められて私も見たのですが、ドラマでも本でも私はこの夫婦の古臭さにあきれはて、これがウーマンリブの先進国と言われる北欧諸国の実態なら、私が望むような人間関係が男女の間に成立するのなど当面無理だとあきらめたものです。まあ、それほどに結婚や夫婦の関係が変化するのはむずかしいということなのかもしれません。
ところでこの話の中に、こういう場面があります。妻の方が弁護士なのですが、ある初老の女性が離婚の相談に来ます。夫には何の不足もない、でも愛したことは一度もない、と彼女は淡々と語ります。夫は何が不満なのかと聞くけれど、一度も手にしたことのないものが何かと聞かれても答えられない。ただ、このままでは自分の中の何かが死に絶え、自分は感覚的におかしくなって行くだろう。彼女はそう言うのです。(少し長いので、原文にない空行を何か所か入れています。)
「わたくし、離婚したいんです」とヤコビ夫人は言った。
「結婚なさって何年になります?」
「二十年です」
「外で働いていらしたんですか?」
「いいえ。ずっと、いわゆる専業主婦ですわ」
「お子さんは?」
「三人おりますが、みなもう立派な大人です。一番下の息子は現在、兵役に服しています。一番上は女で、これは嫁に行き、二番目の娘は大学に在学中で家にはおりません」
「では、あなたはいまお独りというわけ?」
「もちろん、夫はおりますわ」
マリアンヌは笑みを洩らした。「当然そうですわね。で、ご主人は四六時中、自宅にいらっしゃるのですか?」
「いいえ。宅は学校の教師ですから」
「なぜ離婚なさりたいのです?」
「愛のない結婚生活だからです」
「本当にそれが理由なんですか?」
「はい」
マリアンヌは念を押すように問い質した。「しかし、あなたは結婚生活を非常に長く続けていらっしゃる。初めから一貫して愛のない状態だったのですか、それとも…」
「ええ、結婚当初からずっとそうなんです」
「そしてお子さんたちが、もう家を離れたので、この際あなたも逃げ出したい。そういうわけなんですね?」
「夫は非常に頼りがいがあって、欠点を挙げようとしても見つからないほどの人です。優しくて良識があり、父親としても申し分ありません。これまで夫婦喧嘩など一度もしたことがないんです。住まいは上等なアパートですが、それとは別に、田舎に夫の母が残してくれた昔風の快適な家があります。夫もわたしも音楽が好きで、共に室内楽協会の会員、一緒に演奏もします」
「非の打ちどころがないように思えますわ」
「ええ、確かに。でも二人の間には愛がないんです。結婚してからずっと」
「ぶしつけな質問で申し訳ありませんが、これまでご主人以外の男性とおつき合いなさったことがおありになるのでは?」
「いいえ、ございません」
「では、ご主人の方は?」
「わたくしの知る限り、夫が浮気をしたことはありません」
「離婚なさったら、お寂しくなるのでは?」
「ええ、きっとそうでしょうね。でも、わたくしは愛のない結婚生活を続けるより、孤独のほうを選びます」
「もう一つぶしつけな質問をさせて頂きますが、その愛のない結婚生活とは具体的にはどんな状態を指すのです?」
「別に具体的なものはありません」
「それでは理解しかねるのですが」
「そう言われても、説明のしようがないのです」
「離婚なさりたいことを、ご主人には話されたのですか?」
「もちろんです。十五年前に、二人の間に愛がないのだからこれ以上一緒に暮らしたくない、と告げました。すると、夫は納得してくれましてね。子供たちが成人になるまで、離婚は待ってみたら、とだけ言ったのです。ですから、いま三人の子供は成人になって家を出たので、ようやく離婚できるというわけです」
「で、それに対して、いまご主人はどうおっしゃってるんですか?」
「慎重に考えるようにと。そして、二人の結婚生活のどこに問題があるのか、どうして別れたいのか、と何百回となく訊くのです。わたくしは、愛のない夫婦関係を続けて行くことはできない、と答えました。すると夫は、その愛とやらはどんなものから形造られるのかね、と訊き返して来ます。わたくしは『わかりません』を連発しましたわ。だって、一度も味わったことのないものを言葉にしろと言われたって、できない相談ですもの」
「お子さんとの関係は親密なのですか?精神的なつながりを言っているのですが」
「わたくしは子供たちを愛したことは一度もありません。その点は、自分でもよくわかっています。それでも、一貫して良き母親として振舞って来ました。現実には子供たちはこれっぽっちも愛しいと感じたことはありませんが、母親としてやるべきことはすべてやって来ました」やコビ夫人は笑みを浮かべた。「あなたがいま何を考えていらっしゃるか、察しがつきますわ」
マリアンヌはハッとして問い返した。「えっ、本当ですか?読心術がおできになるんですの?」
「あなたはこう考えていらっしゃる。このヤコビ夫人はどう見ても、甘ったれで鼻もちならない。世間の人々が望み得るものはすべて手にしているのに、自分をかわいそうな女だと思い、本人が愛と呼んでいる曖昧な代物に熱を上げて騒ぎ続けている。ほかにも、連帯感、忠誠心、思いやり、友情、幸福、安定、いろいろあるのにとね」
「実際、そのようなことを考えていたかもしれませんわ」
「でも、それは違います。自分自身については私なりのイメージを持っているのですが、そのイメージと現実の自分とがかけ離れている点が、一箇所あるんです」
「立ち入った質問をしてもよろしいかしら、ヤコビさん?愛についてなんですが、本当に…」マリアンヌは言いかけて、途中で言葉を呑みこんだ。
「何をおっしゃろうとなさったのです?」
「いいえ、別に」
「つまり、わたくしには人を愛する能力が備わっているのに、それは心の奥に封じこめられてしまっている。このままの生活ではわたくしの潜在能力は押し殺される一方、という点が問題なのです。これに対して、最終的になんらかの手を打たなければなりません。その第一歩が離婚なのですわ。夫とわたくしは互いに邪魔し合っていると思います…相手を破滅させかねないやり方で」
「あまり穏やかじゃありませんわね」
「そうですとも。現に、とても奇妙な事態が起こっていますのよ。わたくしの知覚…ものを見たり、聞いたり、触ったりする知覚のことですが…それがおかしくなり始めているのです。例えば、このテーブルですが、これはテーブルであると言い表せるし、眼にも見えるし、手で触れて感じることもできます。けれど、感覚がどこか稀薄で無味乾燥なんですの。わかっていただけるかしら?」
マリアンヌはしばらく考えてから、とってつけたように答えた。「わかるような気がします」
「これは、音楽や香りや人間の表情や声など、すべてのことに言えるのです。あらゆるものが、ますますみすぼらしく、くすんでいるように感じられて」
「今後、新しい男性と巡り合える、とお思いになります?」
ヤコビ夫人は口許をゆるめた。「いいえ。幻想は抱いておりません」
「ご主人にこの別れ話を、納得させることができますかしら?」
「夫は感情を損ねて、こう罵るだけですわ。おまえはロマンティックな気分に溺れた大馬鹿者だ。更年期障害に罹っているのだ、と」
「ご主人が進んで離婚を承諾するように仕向けられれば、申し分ないのですがね」
「夫は、おまえのためを思って認めないのだ、おまえはあとで後悔することになる、とこう申すのです」
「でも、あなたは離婚する決心を既に固められた?」
「ほかに道はありませんから。おわかりいただけるでしょう?」
「ええ、まあ」マリアンヌは曖昧な答え方をした。
このヤコビ夫人は、まるで化学の実験報告のように冷静に語っていますけれど、実際にはこのような場合の悲劇は表現できないほどの苦しさだろうと思えます。「めぐりあう時間たち」に登場する主婦はもっと若い人ですが、この女性と似た状況にあるといってもいいのでしょう。「ある結婚の風景」の文庫本あとがきで樋口恵子氏は、暴力や浮気がないからと満足してはいられない、本当に大変な時代になったと嘆息しておられます。
たしかに一方では、今も暴力をふるう夫は多いし、それはそれで大きな問題ですが、さりとて「めぐりあう時間たち」や「ある結婚の風景」に登場した主婦たちのある意味ぜいたくにも見える悩みをそれと比べて、「そんなことぐらい」と切り捨ててしまってはいけないでしょう。これはこれで、人を死にいたらしめることがあるのです。そして両方の問題はおそらくどこかで、つながってもいるのです。
「赤毛のアン」の話に戻りますと、お話の中の時間の流れとしては「アンの娘リラ」が最後になるのですが、モンゴメリが実際に書いた順序としては「炉辺荘のアン」が最後で、これを書いた三年後に彼女は自殺しています。
「炉辺荘のアン」は、「アンの娘リラ」で出征したり戦死したりする彼女の娘たちがまだ幼い頃の話です。子どもたちが増えたため、アンとギルバートは炉辺荘と名づけた大きな家にひっこして幸福に暮らしており、子どもたちひとり一人にまつわるほほえましいエピソードが次々に描かれます。
しかし、この時期モンゴメリの精神状態はもうかなり悪かったようです。「『赤毛のアン』の秘密」で小倉氏は、この小説の最後で、アンがギルバートへの愛を失いかけており、家庭生活に疲れきっているのは、そのまま当時のモンゴメリの心境の反映と見ておられます。そして夫婦で出かけたパーティーで、大学時代に夫ギルバートと恋仲だったクリスティンと会い、彼女から「何という大家族でしょう!」と言われて、アンは傷つき恥じ入ります。しかし、帰宅後ギルバートから忘れていたと思っていた結婚記念日のプレゼントを渡され、互いの気持を打ちあけあって信頼と愛はよみがえります。眠っている子どもたちを見て回った後、クリスティンの皮肉を思い出して「かわいそうな、子どもなしのクリスティン」とアンが微笑して、「何という大家族だろう!」とつぶやくこのラストを、小倉氏は子どものいない女を攻撃して自分を正当化しようとする、いたましい努力ととっておられるようです。
実は私は、ここの部分も含めて小倉氏の「赤毛のアン」解釈には必ずしも賛成ではありません。これは、「ピーターパン・シンドローム」という本を読んだ時にも思ったことなのですが、心理学的社会学的に分析する時、その文学作品の持っている魅力と、読者の心にそれが与えたものについてはどうも充分に正確に読み取ってもらえてないなと感じます。
私は結婚も出産もしておらず、家族は母と猫です。こうなることを予想してはいませんでしたが、幼い時も娘時代も自分が結婚するとか子どもを育てるとかいうイメージを私は一度も持ったことがありませんでした。それでも「炉辺荘のアン」を心から楽しんだ記憶があります。多分、海賊の話や地底探検の話を楽しむのと同様の、現実とは関係ない話として楽しんだのでしょう。
そのことと関係があるのかないのか、小倉氏の解釈を聞いた後で、あらためてこの部分を読み直しても、やはり私はこの部分に不快感や違和感を感じませんし、痛ましさや攻撃性も読みとれないのです。
このことについては、もう少し考えてみたいと思っています。小倉氏の意見をどこまで肯定し否定するのか、今のところは決められません。ですが、それはともかく、小倉氏の指摘はいろんな意味で面白いものであり、考えさせられるものであることは事実です。
で、このことは宿題としまして、今日は、このことと関連して少し私の個人的なことをお話しておきます。
今日、このような話をいろいろとしたのは、私はやはり結婚している方や夫婦でいらっしゃる方に幸せになっていただきたいと思うからです。
更に言ってしまいますと、こういうことを言うから私は人に嫌われるんでしょうが、なぜそんなことを願うかというと、夫婦であれ独身であれ、幸せな方というのは他人の生き方をとやかく言わないものだからです。
私は友人知人の多くとちがって、電車の中や街中でべたっとくっついてキスなどしている若い人たちを見てもちっとも不快ではありません。ああやって自分の幸せにひたりきって回りが見えない人たちは、他人のことにおせっかいなど絶対にやきませんから一番気持がいいと思っています。
ちなみに私は赤ん坊や子どもも好きです。見てもさわってもかわいいと思います。しかし、若い頃、そうやって見とれたり抱いたりしていると、必ずといっていいほど「かわいいでしょ、あなたも早く結婚しなさいね」というようなことを誰かが言いました。それは私にとっては何だか恐ろしくとんでもない話の展開に思えてついていけなかったのですが、回りは全然そう思ってないようで、実に不思議でした。たとえてみれば、金魚の鉢をのぞいて感心していたら、あなたも早く金魚になりなさいと言われたような、サボテンをつついて見ていたら、いつとげをはやすのと聞かれたような、それほどにおかしな話に思えたのです。そういう驚きを味わうのが無気味で、自然に次第に私は赤ん坊や子どもをかわいいと思ったり言ったりするのを自分の中でセーヴするようになりました。
自分は結婚する気も子どもを生む気もさしあたりない。そんなことしないと決めているわけではないけれど、そうすると決めているわけでもない。でも結婚している人は楽しそうで素敵と思うし、子どもも文句なしにかわいいと思うけれど、かといって、自分が一人でいることを淋しいともみじめとも思ってはいない。こういう私の心のありようは、自分では普通で自然なのですが、なかなか理解されないようです。
私は一人ぐらしで、気楽に仕事をしています。もちろん苦労も腹のたつことも多くありますが、楽しいこともまたあります。老後は孤独に死ぬでしょう。その前にホームレスになるかもしれません。そういう人生にはいいところも悪いところもありますが、現在のところおおむね私はみちたりて満足しています。
だから別に他人に評価してもらいたくはないし、ましてや他人の生き方を批判や攻撃しようとは思いません。
まあ例外もあるかもしれませんが、幸せな人とはだいたいが、そうしたものではないでしょうか。
専業主婦を攻撃するキャリアウーマンも、子どものいない夫婦をあわれむ母親も、私にはその人自身がどこか不幸で自信がないように思えます。
今の自分に満足していない人ほど、自分の今の状態が幸せであることを確認しようとし、自分とちがった生き方を攻撃します。
そして、こういう人は自分がそうですから、同性愛であれ未婚の母であれ、自分とちがった生き方をする人が存在し、増えていくことは、自分の生き方が攻撃され、否定されることにつながると信じて、自分とちがう生き方が存在することを絶対に許さず、激しく牙をむいて攻撃し、滅ぼすまではやめません。
本当に幸福な人は、他人のことなどどうでもいいと思っていますから、基本的に他人の邪魔はしません。私もそうで、私の生き方にとやかく口をはさんで来ない限り、人がどういう生き方をしようとまったく気にはなりません。私のことはそっとしておいてほしいから、私のことなど忘れて、皆がそれぞれかたちのちがった自分の幸せにうっとり酔っていてほしいから、だから私はすべての人に幸せでいてほしいのです。結婚していても、独身でも、その他のどんな状況でも。
人は実にさまざまで、ウルフと同じ英国の女流作家のジェイン・オースティンは、主婦として家事の合間に小説を書くことが苦になってなかったようです。山本周五郎の「日本婦道記」には、自分の欲望や情熱を殺して夫や家の下積みになる女たちの心境が清々しく描かれています。それも一つの選択であり、幸せなのだと思います。このような人たちを、意識が低いなどと言って批判するのは滑稽でしかないでしょう。このような主婦としての暮らしを楽しめ、充分に活用して自分の人生を築ける人は、そうしてちっとも悪くはない。けれども、そういう生き方では自分を生かせないと感じ、やめたい、逃げ出したい、どこかをちょっと変えたい、と思う人には、気軽にそうできるようにしてあげることも重要です。その二つは決して矛盾しません。
男女共同参画社会とは、男にも女にも多様な生き方を保障し、人の数だけ幸せのかたちはあるということを認め合うことです。人の生き方を攻撃したり、自分の幸せを他人に押しつけたりするのではなく。そんなひまがあったら、自分の幸せを楽しむがいいし、自分の幸せをさがして作ればいいのです。
自分の幸せは、結局はそれぞれの人が一人で選んで作るしかありません。そのじゃまをせず、それを支えて行くような世の中を作って行くだけでも充分に難しいし、やりがいがあります。それは男にとっても女にとっても、豊かな未来につながることを私は確信しています。(2004.6.22.)