映画「グラディエーター」論文編毛並みのいいトラ

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「グラディエーター」に関する論は、実のところ、もう打ち止めにしようと思っていた。
しかし、映画好きという知人の一人が、この映画をビデオで見て、「途中から早送りで見てしまった。アカデミー賞など信用できない」と言っているということを聞き、その理由に「ローマ史劇は残酷だから」と述べていたということを聞いて、少し考えが変わった。
基本的には映画に関する各人の好き嫌いを、どうこう言えるものではない。私も他人に絶対いいとすすめられて、どこがいいのかわからなかった映画はたくさんある。
ただ、この映画が「残酷」ということが、そのような(早送りで見るような)見方をする理由になるのなら、そして、そのような見方で見た人が、この映画をつまらない、よくないと他の人に語ることを認める理由になるのなら、少なくとも、この映画の「残酷」な描写についての私の考えを、やはり述べておく必要はあると判断した。

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結論から先に言うと、この映画の残酷な描写は、きわめて抑制され、配慮されている。話が絵空事になりかねない危険をぎりぎりまで冒して、制御されている。残酷な描写を目的とした映画でないばかりか、この程度ならまあいいかという甘えやゆるみさえないほどに、厳しいチェックがかかっている。
この映画が嫌い、性に合わないという人はむろんいるだろうが、その口実に「残酷」を持ち出すのは慎重であってほしい。これはそういう映画ではない。むしろ、残酷さが足りない、という批判ならまだ、それなりにわかる気がするが。

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計算した上でなのか、偶然なのか、この映画にはいろいろと不思議なところがあって、私はそこに一番ひきつけられるのだが、その一つは公開される前後、この映画の残酷さにつて、正反対の評価がしばしば聞かれたことである。
「非常に残酷な、どぎつい描写のある映画らしい」という情報が、まだ封切られる前には映画雑誌で何度か紹介されていたのを見た記憶がある。封切後には、そのような評価はあまりなかったと記憶する。というか、「残酷」そのものが話題になることがなかった。その中で私が記憶に残っているのは、ある映画関係のサイトの批評で「子ども連れでも見られる(ぐらい残酷さは希薄)」と言われていたことだ。必ずしもほめて言っているのではなく、むしろ家族向きの甘い映画というニュアンスもこめての言い方だった。また、ある映画雑誌の批評でも「殺し合いの場面にそれほど血まみれの残酷さがないのは、監督のセンスのよさだろうが、虎までが弱そうに見える」というような文章もあった。これも、小奇麗で迫力や凄みがなく、主人公も戦士というより家庭人の風貌、という、何というか、女性的でひよわになった現代を反映している、というトーンの中での批評だった。(サイトも雑誌も、名前を失念していて正確に引用できない。書いた方への失礼をお許しいただきたい。)
この、どちらの批評も、私は全面的には賛成ではないのだが、この映画のある本質をいいあててはいると思い、同感もした。それを、ものたりないと思うかどうかは別として、この映画は決して、荒々しい男の生きざまの魅力や、野性への復帰や、暴力への人間の秘めたる欲望をうたいあげる映画ではない。主演俳優や監督がしばしば、主人公の「野獣」的な本質を語り、それはそれなりに正確に表現されているにしてもなお、そのことを語るのが眼目の映画ではないのである。

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実は私自身、これを最初に見た時、ごく自然に「子ども連れでも見られる映画」と判断した。人にすすめる時も、「そんなに残酷じゃない」と太鼓判を押した。そのように私に言われて見に行った友人の一人が、「感動した、よかった」と言いながら、「でも、怖くて見られないところがいっぱいあった」と言うので、驚いて「どこが?」と聞き、「蛇が出るし、傷口のウジとか」と言われて、なるほど、そういうところも、人によっては「残酷」の部類に入るのか、と変に感心したものである。その後もしばしば映画館で、男性が連れの女性に「怖くなかった?」と心配そうに聞いていたり、半ば顔をおおいながら見ている女性がいたりするので、そういうものかとも思っていた。

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だが、私自身は最初見た時、何をかくそう、例の主人公が故郷に帰ったら妻と子の黒こげ死体がつるされているという、最大にショッキングで胸をえぐられるはずの場面で、もう本当にほっとし、安心し、暖かい気持ちになり、のんびりとくつろいでしまった。
また、この、ひねくれ者!という声が四方八方から飛んで来そうな気がするが、私と同じこと感じた人、ほんとにいませんかねえ?いたら、正直に言ってよォ。
何を安心し、ほっとしたかって?
「あ、この映画、そういう映画なんだ」と思った。「こういう風に見せるつもりなんだ。どぎついことはしないつもりなんだ」と、あそこでわかって安心した。
このごろでは、少々のお子さま向き映画だって、ああいう場面ではけっこうリアルな死体を見せる。「スター・ウォーズ」だって、主人公の家族の黒こげ死体をあれよりずっとはっきり見せた。それを、ただ、長さの違う黒こげの足の(それだって決してリアルではない)膝から下を二組見せただけで、妻と子の死体だと教えて、それ以上のものは見せない節度と品位に、私は「そうか、そういう映画だな」と安心し、肩の力を抜いたのである。

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そのかわり、だからあの場面では、おそらく観客は血も凍るほどの衝撃は感じない。私に関して言うならば、同様の設定ではポランスキーの映画「マクベス」で、マクダッフの妻子が夫の留守中、敵の兵士たちに殺される場面の方が(近づいて来る軍隊の俯瞰の構図なども似ていて、あるいは「グラディエーター」は「マクベス」を意識しているかもしれない)、これもそう直接の描写はないのだが、それでも息が止まるほど怖かった。あえて言わせてもらうなら、「マクベス」の、あの鬼気迫る描写に比べると、「グラディエーター」のあの場面の奥さんの演技も子どもの演技もカメラの撮り方も演出も、すべては学芸会なみである。あれで怖がれ、悲しめと言う方が無理だろうとさえ、私は思う。
ひとつ間違えば、白けて上すべりになる、しかし、なってはとても困る、命取りにもなりかねない、あの場面を救うのは、というか、ごまかすのは、主人公の主人公らしからぬほどなりふりかまわぬ「嘆き」の演技でしかない。鼻水を八十センチたらすと言われた演技は冗談まじりで有名になっているが、あそこまでやって皆の度肝を抜いたからこそ、見ている方は「この人がこれだけ嘆くということは、とてもひどいことなのだ」と頭の回路が逆流して作動してしまう。この俳優は新作「プルーフ・オブ・ライフ」でも、さほど魅力的にも見えないヒロインを「この男がこんなに愛するからには、すばらしい女性にちがいない」と錯覚というか翻訳を勝手に観客にさせてしまう演技力があるが、この妻子の死の場面でも確実にそれが働いている。

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この妻子の死の場面に最もよくあらわれる、この映画の姿勢は、冒頭のゲルマニア戦でも、それ以後の剣闘士としての殺し合いの場面でも、きっちりと守られている。この映画の戦闘場面がいずれも無駄なく計算されていて、不必要な、意味のない繰り返しはまったくないことは、すでに「無駄のない戦闘」で私は指摘した。たとえば、冒頭の使者の首が転がる場面は、それを見てもなお、蛮族の立場への理解と共感を失わない主人公の性格の、安定した強さと聡明さを表現する。辺境の競技場での乱戦で、死んだ剣闘士の手首を、つながれた仲間がぶったぎって切り離す場面でも、きわどく処理して、その瞬間は見せない。はげたかにつつかれる死体は主人公が落ちたどん底の地獄の確認に必要だし、それとて詳しくは見せず、不必要には繰り返さない。
それでも、特に冒頭ではリアルさを強調して、ある程度残酷な場面は多い。しかし、後半になってからは、この映画は血がほとんど流れなくなる。黒澤映画とよく比較されるが、ラストの決闘で戦う二人はともに致命傷をうけながら、明らかに不自然なほど血を流していない。黒澤映画どころか、それ以前の古きよき時代の東映時代劇なみの、のどかな清潔さである。
だが、この時点では観客はもう、映画の筋に呑まれているため、その非現実さを気にしない。私自身、最後の決闘では、みっともないほど緊張して、あとで自分で恥じ入った。この映画は、最初、最低限のどぎつい描写で観客に「リアルな映画」と感じさせておいて、観客が内容にのめりこむのと平行して、残酷さを次第に抜き取り、どぎつさを薄め、最後はほとんど、おとぎ話なみのきれいな描写になってしまう。
主演俳優が「ラブシーンは肩から上のみ、裸の尻は映すな」と注文をつけたとの話も、笑い話として伝わるが、私は、この映画がベッドシーンを排し、キスシーンを最低限にとどめ、裸体やエロティックな場面も少なくしているのは、全体として、この「昔の映画風」「おとぎ話風」のトーンを作るためだったのではないかと感じており、主演俳優のその要求も、それと一致した流れの中で出されていると思う。飢えてすさんで荒れているはずのトラたちの毛並みが全然そうでなく、輝くように美しくてうっとりさせられるのと同様に、これはそういう映画にしよう、という判断が監督や俳優やスタッフの間では了解されていたのではないだろうか。

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ただ、その結果、この映画は二つの危険を冒すこととなった。ひとつはビデオを早送りした私の知人のように、導入部で観客になめられないようにするためのリアルさを、「残酷な映画」と解釈して拒否する人たちを生むこと。もうひとつは、その反対に最後まで見た時に、「暴力」「野性」「残酷」を期待して見た人たちに「きれいごと」「甘い」という不満をあたえること。
しかし、映画にしろ、小説にしろ、この種のことでは、結局、作者は自分の一番描きたいことを描いて観客や読者に伝えると同時に、それで生まれる拒否感を払拭する工夫もまたしなければならない。そのバランスをどの程度、どうとるかは、どこかで決断し選択するしかないことである。その結果、とり落とす層が生まれるのもまた覚悟しなければならぬことである。
私があくまでも確認し強調しておきたいのは、「グラディエーター」の場合、製作者たちの最も描きたかった、伝えたかったことは、「暴力」や「残酷」ではないということだ。「暴力」「残酷」の魅力を伝えようとする映画はもちろん、あっていい。それを何かでごまかして、うまく伝えようとする努力も当然、許される。だが、もともと、そういう映画ではない映画を、「暴力」「残酷」の魅力を伝えていないと言って否定するのも、「暴力」「残酷」ゆえに拒否するのも、ともに、もったいないことだとしか、いいようがない。

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最後に、この映画のそういう「おとぎ話風」きれいごとの嘘っぽさを観客に感じさせない工夫としては、主演俳優の扱い方もあることを指摘しておく。
映画を初めて見た直後、私は友人たちと、この俳優について、「彼はもう、怖いものはあるまいよ。最初から最後まで、傷だらけ、血だらけ、泥だらけ、髭だらけの顔で通すし、鼻水は流して見せるし、あれで魅力的と思われたら、もう何したって愛想つかされることはないだろう」と言い合って笑っていた。前作「インサイダー」もそうではあるのだが、「グラディエーター」の場合、それよりはるかに広い層に、必ずしも精神的なものだけでなく、見てくれも「カッコいい」と、あの外見で思わせたのは、やはり画期的ではある。
下品で汚れた花売り娘が、洗練されて高貴な美女に変身する「マイ・フェア・レディ」図式は、男優の場合にも確実にある。手近なところでは、この主演俳優とアカデミー賞をあらそったトム・ハンクスも「キャスト・アウェイ」では、小太りの俗臭紛々たる仕事人間、ひげぼうぼうの漂流時代を経て、帰国後は服装も外見も内面も見違えるほどに美しくなった姿を披露する。私は「ベン・ハー」を映画館で見た世代だが、主役が裸で髭だらけの奴隷時代から一転して、髭をきれいに剃り、髪を整え、りゅうとした青いトーガ姿になって登場すると、館内では吐息とざわめきが起こった。大抵の男優は、汚れ役をしても、どこかで一度は最高にきれいな姿を観客に見せる。これが「グラディエーター」には、本当に一度もない。アカデミー賞受賞の時の、この俳優の年相応の幼げな若い表情を見ると、髭などそったら本来の年が隠せず、たよりなく見えてしまうからかなとも一瞬思ったが、それは演技でカバーできないはずはなく、やはり、映画全体のリアルさを強調するために、終始、薄汚くあり続けたのだろう。と言っても、もちろん、それでなおかつ美しく見える工夫は、俳優も演出もきちんとしているとは言え、やはりこれは相当に常識破りの決断であり、それをした監督も俳優も、ただものではない。そういう点でも、この映画は、かなりという以上の冒険をしている。

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私は何度も強調した。「グラディエーター」という映画の不思議さは、前衛的と言いたいぐらい大胆な試みをしながら古色蒼然の単純な図式に見え、細心の工夫や配慮をこらしていながら大ざっぱで雑な大らかさを感じさせ、冷ややかな鋭い視線があるくせに甘いと判断されがちで、危険なほどに社会的なメッセージを盛り込みながらスケールの小さい家族映画に見られてしまうということだ、と。
この映画の本質は、複雑で鋭く深い。そして、観客はおそらく、その本質を知って(漠然と感じて、も含む)好きな人、知って嫌いな人、知らないで好きな人、知らないで嫌いな人の四種類に分かれるのだろう。そして、最初の三種類の人には、私は何も言う気はないが、最後の人にはやはり、あんまり簡単にこの映画を見限ってしまわない方がいいのではないでしょうか、とだけは、つい言いたくなるのである。(終)

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