映画「グラディエーター」論文編合わせ鏡-「戦場のピアニスト」を見て
「戦場のピアニスト」をさっき見て、どうしても書きたくてパソコンの前に深夜に戻って来てしまったけれど、私はいったい何をそんなに書きたかったのだろう?
これは多分、いい映画なのだと思う。アカデミー賞も取るかもしれない。でも、とらなくても別にいい。そういうことはどうでもいい。「これに比べると『シンドラーのリスト』は甘い」などという批評もよく目にしたが、そんなことも問題ではないと思う。「シンドラーのリスト」は、あれはあれでいいので、この映画をそういう比較で評してもしょうがない。
でも、だったら私はいったい何を書きたくているのだろう?私がこの映画から受けたものは感動というよりは、もっとちがう何かだ。感動もあるとして、それは映画を鑑賞した感動としてはちょっとちがうように思う。だからきっと、正確な批評ではない。他の人には通用しない。
ネタばれは避けたいのだが、これが苦しいところである。「いい映画だからとにかく見て」というわけにはいかない。多分いい映画と思うのだが、私にはそれがよくわからない。私が受けた感動というにはあまりにも重い、強い何かは、説明しないときっとわかってもらえない。
ポランスキー監督の出世作というか、彼が世界に注目された「水の中のナイフ」を私は見ていない。最初に見た作品は「吸血鬼」で、大学時代に友人と、妙に豪華な、そのわりにがらがらの映画館で見た。当時としては珍しい吸血鬼がホモセクシュアルで、人間の青年にベッドでせまる場面があり、私たちは度肝をぬかれつつ笑い転げたものだった。
笑ったのは別に失礼ではなかったはずで、その場面はあきらかにコメディーとして作られていた。その、迫られる青年はポランスキー自身が演じていて、中肉中背の金髪の、現代っ子らしい若者だった。ヒロインを演じたシャロン・テイトも金髪のきれいな人で、彼の奥さんになった人である。
その映画はよくできていて楽しめたが、強烈な記憶は残っていない。ハリウッドに来て恋人をヒロインにして楽しい雰囲気で撮ったのかもしれない。
次に見たのは、ビデオの「マクベス」だった。シェイクスピアの映画化されたものをいろいろ見ていて、その一つだった。とてもよくできた映画だった。寒々とした冷たさと若々しさと華やかさが、絶妙にとけあっていた。
それで、こんな感想はよくないのだと思うけれど、だからこれはもう、映画評とは言えないのだが、どうしても、この映画を見ていて考えてしまうのは、彼の妻のシャロン・テイトが、彼の留守中にハリウッドの屋敷で何者かに襲われ、パーティーに招いていた客たちとともに惨殺された事件のあとで、これが作られたということだった。
この事件は、今に比べたらまったく上品でえげつなくなかった、当時のマスコミさえも大騒ぎさせた猟奇的事件だった。シャロン夫人はたしか宙吊りにされ、妊娠中の腹を割かれて殺されていたと記憶する。犯人は結局、有名なカルト集団で、被害者たちとは何の関係もなかったのだが、そのことが明らかになり犯人が逮捕されるまでは、夫人は乱交パーティーを開いていて、それが昂じて殺害されたのではといった、死者を二重に冒涜する報道もまた、あとを絶たなかった。結局、真相が明らかになり、夫人は犯人たちに「お腹の子どもだけは助けて」と懇願しつつ殺されたことが明らかになった。その時、ポランスキー監督は、誤解が解けてほっとした、といったような冷静で短いコメントをしていたと思う。
そのあとで作られた「マクベス」を見て、私がその事件を連想したのは、そのような体験が作品に反映していたからではない。それどころか、まったく全編、乱れを見せない落ち着きと、正確なテンポのよさと、冷静さに私は終始圧倒された。連想は、してしまったからで、それ以上しいて考えることを許さないほど、作品はすきがなく、過度な緊張も動揺も萎縮もいっさい見えなかった。
「マクベス」には、マクダッフという勇将の留守の城を、マクベスの部下が襲って、妻と幼い男子とを殺害する場面がある。再三書いたことだけれど、私は「グラディエーター」という映画をこよなく愛しているけれど、主人公の留守宅で妻子が殺害される場面は(「マクベス」の影響もあるのでは、と思わせる画面だが)、このマクダッフの妻子の殺害の描写に比べると、居眠りしたくなるくらいのどかで、あくびしながら見ていられるぐらい緊迫感がない。それほど、「マクベス」のこの場面は、残酷な場面などはまったくなく、血の一滴も流れないのに、恐怖が見る者の胸にせまる。
みごもった妻が、あれほどに残酷に殺され、しかもその後マスコミと世間から言葉で徹底的に、いわれない侮辱を浴びせられて凌辱された、そんな男が、人間が、これほど冷静に、わずかな混乱も見せないで、こんな場面を、こんな映画を作ったということに、私はポランスキーという人というよりも、むしろ、人間というものの偉大さと強さが限りないことを、息詰まる実感で思い知らされた。そして、この冷静さ、落ち着き、理性と品位の基盤には、どう冷たさに見えようと、静かな愛があると感じた。凍りつくように鋭く冷ややかなタッチで描きつくされる、容赦ない人間の弱さ、みにくさは、この人の、幼い時に家族をナチスに殺され、東欧から自由の国アメリカに来て、そこでもまた愛する人を奪われた、その体験が生む視線が見つめるものだろうが、そこには決して、どすぐろい憎しみや絶望や、どろどろとうずまく恨みといったものはない。どんなに虐げられ、汚されても、決して自分はその相手のようにならない、澄んだ理性と、力強い愛がある。そう思った。
そして今日、「戦場のピアニスト」を見た。(以下、ネタばれです。)
この主人公は、決して人を攻撃しないし、殺さない。それは信念としてよりも結果としてそうなっているのだが、ともかく、ひたすら逃げて、かくれて、生きようとするだけで、たとえ正義のためでも愛する者たちのためでも、一度も戦おうとはせず、人を殺すことをしなかった。
無差別に選別され、殺戮される恐怖。髪の毛一筋の差で運命が別れる瞬間の連続。崩壊していく日常、転回していく歴史の歯車と、その中で翻弄される個人。それらは、これまでにも多くの映画が描いてきた。しかし、これほどまでに無抵抗で、逃げて、保護されるだけの主人公を描いた作品は思い出せない。男女を問わず、何かを守るために殺人を犯す場面は、必ず一度は登場するのが、むしろ普通だ。
彼はたまたま、戦わずにすみ、人を殺さずにすんだだけかもしれない。だが、彼は、どのような局面に立たされても、戦わず、人は殺さず、何も守らずに殺されたのではあるまいかとも思わせる。エイドリアンという俳優の風貌と演技もまた、それを暗示するものであるように思える。
そして彼は、殺人を犯さず、血に汚れることのなかった手で、ピアノをひく。そこから流れ出るメロディーの華麗な美しさは、人を殺さなかった者の指からだけ生み出されるものではあるまいか。彼は何も守らなかったのではない。この旋律を奏でるために、その力を失わないために、彼は人を殺さず戦わなかった。音楽を奏でるものの、芸術を生み出すものの、本能が、その能力を守るために彼にそうさせた。私にはそう思えてならない。
「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公とちがって、彼は愛する者たちも守れなかった。家族も、友人も、同志も、愛する女も見殺しにして、受けた恩も何ひとつ返していない。そのことにわりきれない思いを抱く人も、ぬけぬけと生き残ったこの人の人生は何なのかと思う人も、だからラストの演奏に感情移入がいまひとつできない人も多いかもしれない。
私は、その感覚を否定はしない。それが正しいのかもしれないとも思う。だが、ポランスキーの映画がこれまでいつもそうであったように、監督の姿勢にゆらぎはなく、媚びもない。どう思われようと、理解されようとされまいと、ここには一つの生き方と心のあり方が明確に語られて、見る者を沈黙させる。
くりかえすが、私は感動しているのではない。味わっているものは、感動というには重過ぎる。シュピルマンの指が蝶のようにのびやかに舞う最後の場面に、私は絶望と悲嘆のどん底にあってさえなお、あの緻密さと自然さを失わずに「マクベス」を撮影したポランスキーの心を、老いて今なお、その理性が、意志が、愛が、いささかも衰えていないのを見る。歴史も、運命も、社会も、この人から人間の尊厳を奪うことはできなかったと、はっきりと、このいささかもたゆみの見えない、凛とした映画から、私は知る。どんな苛酷な運命の中でも、人を憎み、呪い、自暴自棄になって滅びる甘えを自らに許すことをしなかった、強靭で美しい精神を。そのような者だけが、作り出せる映画。そのような者だけが奏でられる音楽。シュピルマンとその音楽を描くことで、ポランスキーが描いたのは、どのように傷つけられても、自分も、他人も傷つけることを拒否し、じっと静かに耐えることだけで、愛と理性を失わないでいることだけで、戦いつづけてきた人間が、何を、どのようなものを生み出せるかではなかったか。
涙は出ない。私が今感じている感情に一番近いものは、歓喜と、そして安息だ。
合わせ鏡を見るように、この映画の感動は、実は「グラディエーター」の何に私が感動したのかも、あらためて理解させた。主人公は、時代と環境のしからしめるところ、戦いもするし、人も殺す。だが、彼もまた、どのように絶望しても、自分を傷つけた相手と似たものになることを断固として拒否しつづけた。受けた苦しみを言い訳にして、滅びていくことを自分に許さず、暗い憎悪や冷たい呪いに溺れることをしなかった。
人は、いかに凌辱され、人間扱いされなくても、そのことを理由に人間らしさを失う権利など持っていない。そのあたりまえの、だがつらすぎる課題を果そうとしつづけて、成功した人たちがいる。たとえ、架空でも現実でも、大昔でも現代でも、そのような人たちの存在に、私の心…彼らとは比べ物にならないくらい、弱い、貧しい心もまた、支えられる。
2003/02