映画「グラディエーター」論文編またしゃべる作者(「大切な友だち」によせて)

(1)

「晩春」ではしゃべりすぎてばてたので、今回は時々だけ(笑)。

お母さんの「仕事着の袖」は最初うっかり「白いブラウス」と書いてて、ちょっとちがうかもと思って書き込んだ後で訂正しました。危ない危ない。

昔(今でもか?)アンサーソングとか言うのがなかったですか?「ジョニーへの伝言」に対して「五番街のマリー」とか。古いなあ。
で、この「大切な友だち」は、前の「晩春」が父親の目から見た子どもの話だったのに対して、同じ関係や状況を子どもの方から見たらこうなるかっていう、アンサーソングみたいなものです。
さすがに赤ちゃんの時の気分は書けないのが残念ですけど(笑)。

(2)

ずっとさぼってた分、思いっきり長いです(笑)。

まず…よそのサイトのBBSに書いたのをまるごと引用するのはルール違反ですが、ここはどうしてもしかたないので、ご勘弁を。
「グラディエーター」で、マキシマスを演じた俳優ラッセル・クロウが今、新婚家庭にひたりきって、来春の出産を(←妻の)ひかえて、仕事も休むとか口ばしっており、どうしちゃったんだか、どうなるんだかと、ファンは心配しています。

それで私も「まあ、そう心配しなくても」と書いたりしてたんですが、その過程でとんでもないことに気づきました。
ともあれ、そちらの掲示板に私が書いたことの引用です。あ、持ってくるから、ちょっとお待ち下さい。

以下、引用です。

前から皆さまが、彼の家庭人ぶり、べたべたぶり、父親ぶりをあきれたり心配したりなさるたび、私、自分はどうしてこんなにさっぱり気にならないんだろう、やっぱり大甘のじゅうばこなのかしらと思っていたのですが。

じっくり考えてみると、私、彼の結婚式で泣いた以来のああいったことのすべてに、「普通の人になった」って感じがまるでしないんですね。
それは世間も何となく感じてる気もします。「やっと暴れん坊がおとなしくなった」って、まとめきれない何かがこの間のラッセルの行動や発言にはあるもの。「筋金入り」とおっしゃった方もいらっしゃったよね?「変だ」と笑ったのはせんべいさまだっけ?まりえるさまの「やりすぎ」という感覚も、もしかしたら、それに近いのかも。
何かラッセルのしてることって、そりゃ、いい父親(まだなってないぞ)、いい夫の典型のようでいて、それからさえもうはみだしてる。見ていて、何だか皆があっぱーんと口をあけてしまいそうなとこがある。
何したって、こいつやっぱり変なんだ、と言ってしまっちゃみもふたもないけど。

もう彼にはさんざん、はらはらさせられてきたから、私も今さらはらはらはしません。でも、彼のああいった発言や行動や表情を見ていて、私はとても、彼は普通になった、落着いた、これで安心、でもものたりない…そんな気持になれないのです。
やっぱり「ええ~?」と少し引いて見ているし、あいまいな微笑を浮かべて面白がっているし、心配だし不安だし、ときどき切なくて泣きたくなる(ちょっとウソ)。

何でなんだろう?と思うと、よくわからない。
見ていていたいたしい、というのとは微妙にちがう。不自然、というとそれも言いすぎ。
でも、どこか、そういう感覚にも近い。

さしあたり、とりあえず、とっさに、今思うのは、「ああ、ラッセルって、自分が夫や父親になれるなんて、絶対思ってなかったんじゃないのかなあ」ってことです。心のどこかで絶対に、そんなこと自分には無理だと感じてたんじゃないのかって。
今でも、どこかで信じてないのじゃないのかって。そして不安でたまらないのじゃないのかって。

いきなり変な話するんですけど、大西巨人という人のだだ長い「神聖喜劇」という小説があって、筋とは何の関係もなく、なが~い文学談義が始まったりするんだけど、その中で石川啄木の「家」という詩が紹介されてました。
自分が夢見る家というのは、鉄道のそばの西洋風のバルコニーがある、こんな風な、あんな風な…みたいな詩で、ふと我にかえると貧しい部屋のすみで妻が赤ん坊に乳をやってる、それを見ながら一人でこっそり微笑んで、自分はその空想の家を細かいとこまで思い描いてる、みたいな詩です。

それで、思い出すのは、主人公だか作者だかが、「この詩のことを社会主義者として生きた啄木らしくない、甘い少女趣味だ、とか批判するのは絶対にまちがっている」と言うんですね。なぜかというと、これは啄木にとっては絶対、決して、かなわない夢で、実現しない家なんで、それを啄木自身知りぬいていて、だからそれだけ、ありありと、何度も思い描くんだ、って。普通の、小さい幸せが絶対手に入らない人生を自分が歩くとわかってる人だからこそ、その手に入らないものの空想は、どんどん鮮やかに細かくなるんだって。

そして明石何とかさんというハンセン病の歌人のこともひいて、そのような病気が、不幸が、すぐれた歌を詠ませて、彼は天才として評価されるのだけれど、彼はそのような「選ばれた人間」にはなりたくなかったという気持もあるだろう、光栄と悲惨は同時に訪れる、みたいなことを言ってたと思います。
トマス・マンの「トニオ・クレエゲル」のラストで、芸術家の主人公が、自分の魂は芸術に捧げるし、そのことに迷いも悔いもないけれど、そんな芸術なんかわからない、健康な俗人たちを自分は愛して激しくあこがれる、自分は決してそうなれないから、と言っているのも引用していた気がします。

そういうことを何だか一気に思い出しました。

それってまあ、都はるみやキャンディーズの「普通の女の子になりたい」宣言やら、南沙織が芸能人をやめて主婦になると決めたとたん、それまでとったトロフィーや何かが皆ゴミに見えた、とか、そういう話みたいなことでもあるんでしょうけど。

私はラッセルは、その根底でどこかものすごくつつましい人という印象がぬぐえません。
彼が自分の役者としての才能に絶対の自信を持ち、それにすべてを賭けなくてはいられないほど、自分の中に噴き上げる本質的な演技への情熱を自覚すればするほど、心のどこかで、「他のものを得ようなんてぜいたくだ」と案外ひっそり実感しているような気がしてならないのです、あのバカは。

演技者として成功した、次は結婚だ、子どもだ、すべてを手に入れる権利と力が自分にあるのだ、というためらいのないふてぶてしい確信を、どうしても私は彼から感じられない。

南沙織も山口百恵も、すぱっと芸能人としての生活を捨てたように、彼もまた、「すべてを手にいれること」などをそう簡単にめざせるほど、ひとつひとつのことを軽く考えられないのではないでしょうか。そういうところはとても無器用な気がします。
沙織や百恵の場合は、日本の芸能界のあり方や女性としての制限などが、逆にいさぎよく彼女たちにあきらめさせたのだと思うけど、ラッセルの場合は「男が仕事をやめることなど考えられない」状況、何より彼自身の演技への情熱が、そんなに問題を簡単にしていないのだと思います。

彼は今とても苦しくて、迷っているのかもしれない。幸福なら幸福なだけに、なお、いっそう。
芸術家として偉大な完成を遂げ、更に高みを求める者が、平凡な人間としての幸福など得てもいいのか、求めていいのか。そんなおっかなびっくりの気持で、おずおずと彼は歩いてきたのではないのでしょうか。今も、多分。
だから、いっしょうけんめいに、その小さな幸福を抱きしめて手放さないようにしようとしているのではないでしょうか。

これはもう妄想めいた冗談だけど、結婚式のあの涙も、そういう不安、最大の幸福である演技の世界と訣別することになるかもしれない道に踏み出したという悲しみだったのかもしれない。

はい。
どうせ大甘のじゅうばこです。
それに、こうやってしゃべりたおして、つい「そうか?」と人を説き伏せてしまう自分の強引さもわかっています。だから皆さま、眉につばをつけて読んで下さいね、くれぐれも。
でも、私は今の彼を見る時、どうしても、こういうようなことをどこかで感じてしまうのです。

以上、引用でした(笑)。「なるほど」と言って下さった方もいらっしゃいましたが、大抵の方は「何かまたもう」と、あきれておいでのことと思います。

それで、あきれられついでに、ぶちまけますと、この書き込みをあちらの掲示板にした後、私ちょっとあわててました。「ん?待てよ?ということは、マキシマスもそうかしらん?じゃ、『晩春』の彼って、あんなに子どもに腰が引けてる白けてとまどってる彼って、ウソかしらん?ラッセルみたいに、切なく夢中で妻子に入れあげるかしら、あの人も?」って。

悶々としたとまでは言いませんけどねー、時々、「あ、見まちがってたかもしれない、彼のこと」「見落としてたかもしれない、そこの心境」とか考えて頭の中がまっしろになることがあって、今まで三回ほど(笑)。今回もそれでしたね。作った世界や人間が皆、煙のように消え、灰のように飛んで行ってしまう恐ろしい幻想にさいなまれる。

でも、基本的には自分のマキシマスのことは知ってると思ってたし、彼ならああなるはず、ああしかないともわかってたんですが。
それで、思いはじめたんです。じゃそこがラッセルとマキシマスはちがうんだ、それは何でなんだろう、って。

う、実は小説の方は今夜もう終わるんですが、こっちの方は…この後が長いのよねえ。

(3)

ええっと、何から書こう。

マキシマスがラッセルのように(これもまあ、私が考えるラッセルなんですけど)、「自分が天才であり、ある意味異常であり、平凡な幸福など得られないと感じており、だからこそ、それをつかむとひたと抱きしめほほずりして手ばなせなくなる」、ということが、あまりないとすれば、(私はないと考えて小説書いてるわけなのですけど、)それはなぜ?その差はどこから生まれるのか?

それはつまり、ラッセルとちがってマキシマスは、自分を天才と思っておらず、そもそもそうかどうかと考えたことさえなく、自分では普通のことして、与えられた仕事をただ片づけ、好きなことをしていたら、いつの間にか皆に愛され評価され、頂点まで上りつめてて、本人はなぜそうなってるのかよくわからないで、めんどうだったりとまどったりしているからだと思います。うすうす自分の能力や魅力を自覚はしていても、そんなにきちんと、そのことを考えたことがない。考えないでもすんでいる。

おお、やばい。こういうこと書いてると、自分の心理も暴露してしまうことになるんだわ。いいもん。暴露してやるもん(笑)。

私は小説書くのでも、仕事するんでも、人間としての魅力でも、マキシマスのようでいたいんだと思うんです。…って、そんなの誰でもそうだと思う。まじめにきちんと仕事して、何の欲望も野心もなく生きていたら、小説書いてたら勉強してたら歩いてたら息してたら、それが皆に評価されて、自分では「ふーん」「あら、そう?」とか思いながらどんどんトップになって行く。そんなんだったらいいよねえ。そして実際そういう人いるし、そういうことあるし、私も部分的にはそういう経験がある。できたらそうでいたいと思う。するべきことして、あとは人が認めてくれなかったらあきらめる、でいたい。自分から売り込んだりアピールしたりなんかしたくない。だから、いつも競争は避けてきました。

私は、傲慢といわれようと、(むしろこれは謙遜と思うのですが)自分のことは自分しかわからない、自分の評価しか信じられないと思う。他人が自分をそれほどていねいに真剣に正確に評価してくれるほど、ひまだと、自分にそれだけの価値があると、とても思えない。他人は自分の都合にあうか役に立つかで私を見るので、それは当然で責められない。だから、ほんとに自分にとって自分がどう役にたつかは、自分が判断するしかないし、その能力と胆力を磨かなくてはいけないと思っているのです。

それはマキシマスもそうだと思います。彼は自分をよく知っている。幻想なんか持ってない。むしろ、自分の能力や魅力については無関心であろう、厳しく評価しようとしてると思います。その方が安全だから。それで認められなくたって、無視されたって、故郷に帰って畑たがやせばいいと思ってる人なんですから。ひらたく言えば、欲がない人です。彼の持つ戦士としての能力は、彼がめざす幸福とは関係がありません。

この、今言ったことの後半がマキシマスは私とちがう。そして多分、ラッセルともちがうんだと思います。

私は小さい時から、ぼうっと空想にふけりたい、本を読んでいたい、お話を考えていたい、それが一番の望みでしたけど、それができるようになるためには、天文学者になって金かせいでも、医者になって金かせいでも、煙草屋のおばちゃんになっても、道路工事の人夫してても、別によかったし、今もそう思ってます。
ただ、現実の問題として、そういう時間を確保し、収入を確保するためには仕事を得なきゃならなかったし、自分の小説を読んでもらいたい人(見知らぬ人)の手に届けるには、やはりたくさんの人に読んでもらう必要があった。

そして、そのためには、やはり何かのかたちで売り込みをし、アピールし、自分の価値を人に訴える必要があった。
「私はその地位がほしい」「自分はそれだけの価値がある」と明言する必要があった。
そのためには、まずは自分で自分の価値を、能力を、魅力をチェックし、確認しておく必要があった。
でも、それをした瞬間に人はマキシマス(あくまで、私の考える、ですよ)ではなくなるんだと思います。

マキシマスは、あれでいいんですが、ほんとにそういう人だから。でも、ほんとは認めてほしいのに、マキシマスのパターンを踏もうとして、ものほしげじゃない顔をしているのって、これはこれで、またいじましい、みっともない。
「有名になりたい」「出世したい」と明確に顔を上げて要求する方がずっとさわやかで、差別用語だけど男らしい。

「三銃士」のダルタニアンは、原作読んだらわかりますけど、銃士隊長になりたくってなりたくってしかたなくっています。ラッセルの次の映画の役のオーブリー艦長も、役職を求め出世を求め、とりもなおさずそれは、海に出たいという彼の最大の願いと一致します。ダルタニアンもオーブリーも、自分の願い、人生の喜びをつかむために、地位を、財産を追い求めて恥じません。それはちっともみっともなくはありません。
黙っていたら評価してもらえる、望みもしないのに与えられる、マキシマスのケースの方がむしろとっても珍しい。

(4)

もう、こうなったらとまんないんだけどさ(笑)。

最初に就職した職場で、って大学ですけど、女性の先生たちが集まって、「男の先生たちは野心があるからいやよねえ。学部長になりたいとか、学長になりたいとか。女はそういうのないから気楽なものよ、さわやかよ」などと言い合ってたとき、一番若かった私は「そうですか?私は学部長にも学長にもなりたいです」と言って大笑いされました。

でも私は、その状況に実はむかついてたんですね。あ、その女性の先生方にじゃなく、そういうこと言わせる状況に。
今でもそうだと思いますけど、いろんな職場で男性は「マキシマスしてても」、つまり与えられた仕事を熱心にまじめにこなしていたら、そして何の欲もないですって顔していても、実際に欲がなくても、認めてもらえるし出世もできるんですよ。そして「えー、私がですか?」とマキシマスみたいな顔しておっとり、きょとんとしててもいいんです。
でも女性は、少なくとも私の頃は、「今の地位は不満です」「私にふさわしい職務じゃないです」「もっと認めていただきたい」と何らかのかたちで言わなきゃ、一生無視された。どんなに働いても、能力があっても。
そのことに、自分が不満だってことを自覚しなくてはならなかった。不満でいるっていう自分と向き合わなくてはならなかった。
それが実は一番やりきれない、つらいことだったりするんです。

マキシマスは向き合わなくてよかったんですよ。あいつは。あいつのせいじゃないですけどね。

もちろん、もちろん、それは女性だけではないわけで、たとえば障害者、たとえば在日の人、たとえば学歴のない人、たとえば…とにかく、黙っていたらいつまでも、どんなに働いてもあたりまえと無視されてしまう可能性のある人は皆そうです。
いろんな場所で「あの人は、自分の利益に敏感」「あの人は、自分のことを宣伝する」などと言われる人がいるたびに、私は「そう自分で言わなきゃ誰も言ってくれないからでしょうが」と言い返してきました。
たしかに、こつこつ働いていれば認めてもらって頭角をあらわすという事実も一方にはありますが、それにかけるか、待ってられないとアピールするかはその当人の選択で、責任もとれない回りがとやかく言うこっちゃありません。

これって、恋愛関係でもそうなんですよね。

前に私は、私より一世代下の女性たちが、「仕事も恋も」両方で勝者になろうとするために、ものすごく混乱した行動とったり女性どうしで対立することがあったように感じると言ったけど、それもそうだったような気がします。
黙って静かにすることしてれば、わりと誰でも手に入る、あるいは静かにあきらめていられた、女の幸福が、ものすごく意識的にえげつなく、つかみとらなくてはいけない(あきらめることも許されない、ような)感じのものになってきて、ルールがなくなったみたいな印象を受けていました。
戦ってかちとる、というのは、特にルールもまだよく決まってない時は、とても人を醜くします。でも、そういう状況におかれたら、誰でもそうなるのだと思います。

(5)

そろそろ疲れてきたので、あとは手短に行きたい。

もう、めちゃくちゃ推測がまじるんですが、私はラッセルはオーストラリアでは、ある意味マキシマスでいられたと思うんですね。つまり、せっせと演技して努力していたら、どんどん認められ、最高までのぼりつめたって意味で。
だけど、女性や障害者やその他のハンディ持つ人と同じように、彼にもそこでハンディが明らかになってきて、それは「ハリウッドじゃない、アメリカじゃないとこに生まれた」ってことだったと思います。

私は昔、「もし自分が目が見えなくなったら、点字ですごい小説書いて、その小説を読むために世界中の人が点字を習うようにしてやる」と豪語していたことがあります。
また(並べるのも変だけど)、モンゴメリの小説「エミリーの求めるもの」で、ヒロインのエミリーは、大都会に来て実力を試せという著名な編集者の勧めを断り、カナダの田舎で小説を書きつづけることを選びます。「私はここでは成功しないかもしれない。でも、ここで成功しなければニューヨークでも成功しないでしょう」と言って。

私自身、「中央に出なければ」とこだわる人や、すすめる人を見るたびに、「私のいるところが中央だ」と思ってきました。
その言い方で言うのなら、ラッセルだって「自分の演技を見るために、世界がオーストラリア映画に注目するようにする」と思って、故郷での活躍を限りなく充実させていくことも選択としてはあったと思います。
でも彼はそうしなかった。ハリウッドに出ることを選んだ。
今、そこへの同化をしたたかに拒む彼を見ていて私が逆に痛感するのは、彼はそうやって故郷を離れてハリウッドに身を投じることによって得るものと失うものを充分に考え抜いて決断したのだろうということです。

また話が飛びますが、小野不由美の「屍鬼」を私はあまり好きではないけど、あそこで作者が書こうとしたテーマの一つは「出て行けない村」だったのではと思います。閉ざされた共同体に息をつまらせ、脱出をはかっても果たせない少年少女。
ラッセルはくしくも、同じテーマの作品をオーストラリアとハリウッドで、時を隔てて演じています。
「クロッシング」と「ミステリー・アラスカ」。
どちらの映画でも彼は、村に残らざるを得なかった、そこで自分の充実をめざそうとした人間を演じています。

「ミステリー・アラスカ」のジョン・ビービイは、すぐれたホッケーの才能を持ちながら、村のチームでアマとしてプレイすることで一生を終わり、その選手としての人生ももはや奪われようとしている。
「クロッシング」の主人公の青年は母のために村に残りますが、都会から帰った友人に恋人が奪われる予感に怯えます。この青年と恋人がどうなるか、映画のラストはどんな暗示も私たちに与えません。
ラッセルが、それぞれの時期、何を思いながらこれらの人物の演技に自分をこめたか知るよしもないけれど、恐らく彼は自分自身のもう一つの人生をそこに見ていたのだと思います。
村を出て、何かを求めて旅をし、挑戦を重ねる少年を描く「アルケミスト」も彼は愛読しているらしいけれど、そこにも、自分のたどった道を彼は読んでいるのだと思う。

ジョン・ビービイはある意味、幸福に老いて行くマキシマスなのかもしれません。

ともあれ、そうやって故郷を捨て、ハリウッドへ出て行くことは、自分に野心があること、現状に満足していないと示すことに他なりません。マキシマスならしないこと、しないですんだこと、自分の力を確かめ、評価し、それが得るにふさわしい地位を求めるということをラッセルはしなくてはならなかった、することを彼は選んだ。ハリウッドから見たら、地球の裏側に住んでいたからこそ、彼にはそう言う決断をすることが必要となったのです。マキシマスならしないですむ決断を。

(6)

でもちょっと待って下さいね。
マキシマスはほんとに、そんな決断をしなくてすんでいたのでしょうか?
「自分を売り込む」必要が一度もなかったのでしょうか?

だから、そこは解釈次第なのですね。
「グラ」小説の中では有名なカナダのスーザンさんという方が書いた「プレクエル」、もう完成しましたけれど、私もとても楽しく読んでいました。これは他の方のもそうなのだけど、楽しみの一つは、自分との解釈のちがいを発見することです。

それで、「プレクエル」では、かなり最初の方で、まだ少年のマキシマスが、かけだしの兵士として、何とか上官の目にとまるように、上官の愛犬を手なずけたり、いろいろ画策するんですね。
利発でかわいいのですけれど、読んだ時私は反射的にマキシマスは絶対こんなことはしないぞと思った。むろん、私のマキシマスです、あくまでも(笑)。

もちろん、そのお話のマキシマスはそれで魅力的だし、映画のイメージと私はずれると思うのだけど、そのずれが厚みになり深さになり魅力的になってる面もあります。実は、ここまで「グラ」小説書いてきて、私のマキシマスはその点あまりに映画のイメージそのままに純化しすぎちゃって、ちょっとものたりないかな、もうちょっとこわそかなと思ったりもしている(笑)。

ではあるんですけれど、それでも最初読んだ時に私が断固これはずれると思ったのは、私があの映画のマキシマス、むしろあの映画そのものから感じたのは、そういう努力や画策を何もしないで、ぼうっとしてても、ひとりでにいろんなものが手の中に転がり込んできてしまう、そういう人間、そういう状況の、こっけいさ、不幸さ、だったからです。
何度か言いましたけれど、マキシマスという人は、この手の映画のヒーローとしては異例なほどに受け身です。やる気がない、無気力とさえ見えかねないほど。
私はそこが一番かわいくて、おかしくて、大好きでした。だから、それを徹底的に強調し拡大する方向で書きました。

…ちょっと、もうこのへんは、また少し重複するんですけれど、数日前の動揺してた時の、私の日記を引用した方がいいかもしれません。

(7)

以下は、日記の引用です。

daifukuさんとこの掲示板で、「ラッセルが家庭人になってしまってつまらない」という書き込みがあり、私は「まあほっといても大丈夫だろう。家庭人なんてなれるわけない」とか返事していて、その後でふと、「神聖喜劇」の「選ばれた者の悲劇」を思い出し、ラッセルは自分がふつうの幸せを得られるなんて思ってなかったんじゃないだろうか、信じられずに今も確認しつづけてるんじゃないだろうかと思った。
そこで突然気になったのは、ではマキシマスはどうなんだろうということである。
彼は自分を選ばれた者と思っていたのだろうか。
だから、ふつうの幸せなんて得られないと思っていて、だからこそ大切に思ったろうか。

あのわがまま者(←マキシマスのことです)にそれはない、と私は思っている。
「グラ」の魅力は天才的な主人公の徹底的な受け身さにある。それを延長させ、強調させるかたちで私は書いてきた。努力しないでも、地位や人気を押しつけられてしまう、それは一つの悲劇でもあった。
だが、いろんな局面で…恋愛で、出世で、彼は努力し、挑戦しなければならなかったことはなかったのだろうか。
私は彼の人生から徹底してそれを消した。彼は幼い時に兄たちに村から連れ出されて軍隊に入ることになっており、妻からはレイプされている。
それはそれで、一つの寓話として、理想として、夢として、まちがいではない。欲望を持たない、何かをかちとろうと努力しない、そういうことで手を汚さないところに、私のマキシマスの透明感も崇高感も逆に生まれている。
しかし、ラッセルを見ていると、たぐいまれな才能を持ちながら、それを生かすためには、自分で自分を売り出さなければならない「恵まれない状況」にある人たちのドラマと魅力もまた思う。村を出る人間、トップに立とうとする人、愛されようとする人。田舎者、貧乏、醜い外見、差別される立場などをはねのけて。
そうするためには、その人たちは、マキシマスのようにのほほんと自分の魅力や能力に無関心ではいられまい。強烈に意識し、評価しなければ、そして、自分の魅力と弱点を自分が知っていることを、人に知られる危険と屈辱をおかさないわけにいかないのだ。

ラッセルを見ていると、「私の」マキシマス(でも、それは多分、本当のマキシマス)が、ちょっと、お嬢さまに見えてくる。

マキシマスはラッセルにとって、「こうなりたかったなあ」「こうであったらなあ」という存在だったのかもしれない。「こうでいられたらなあ」みたいな。その思いをこめて演じているのかもしれない。

だとしたら、これってやっぱり、リドリー監督ではなくて、ラッセルがこさえたキャラなんだろうか。そうかもしれない。どこかで別れてしまった「もう一人の自分」を彼は演じていたのかも。

以上、日記の引用です。いやー、どんどん妄想がふくらんでいますね。
まだいろいろと話題が出そうですが、ひとまずはこれで。

(8)

そう言えば、私が今まで書いたことは「アマデウス」のモーツァルトとサリエリの関係にも少し重なるのかもしれませんね。
私はあの映画にはほとんど感情移入はできなかったのですけど。

あの映画ではサリエリが凡人で才能がないことになってましたけど、むしろ才能があるけど環境や立場が恵まれない場合を考えると、私の考える状況に似てくるのかもしれません。

それはモームの「月と六ペンス」で描かれている問題でもあるし、「ビューティフル・マインド」でも出るし、結局、天才だの野心だのを語る時はどっかでひっかかってくることではあるんだと思います。

で、それは一応おいて、最後にちょっと別のことを二つ。

ひとつは、この「大切な友だち」の種明かしは、アエリウスが登場した時もう大抵の読者は気づくし、珍しい設定でもないと思うんですが、ただ、私にはこういう設定を書くのはほんとはちょっと抵抗があります。

「沼の伝説」でもそうなのだけど、私はこれまで、自分の小説でこういう超自然的なものを書いたことが実はありません。
今だったら誰も何の抵抗もないと思うけど、私の子どもの頃って、ものすごく科学万能で、迷信とか霊とか公式の場ではまったくとりあげられなかったし、認められてませんでした。
十年ほど前でしたか、カーラジオ聞いてて民放で「今日の占い」コーナーができたと知った時は思わず「そこまで来たか」とのけぞりました。今では大新聞でも「今日の運勢」なんて載せてますけど、そんな非合理的なものは認めてはいけないというのが、私の幼い時代のマスコミや社会の常識でした。

私も科学を信じ、不合理なことは嫌いでしたから、自分の小説には絶対にそういう設定はしませんでした。いわゆる童話やファンタジーは別として。

でも「沼の伝説」も「大切な友だち」も、そんなことに悩むいとまもなく、きわめて自然に素直に書けてしまいました。ここでも私の「グラ」小説は私を思いがけない世界に連れていった気がします。

もう一つは、この子どもの父親への愛情、父親との交流を、昔の、子どもの私が見たらどうなのだろうな、とふと思いました。

私は母が大好きでしたが、自分の空想の世界に母を登場させることは絶対に拒んでいました。今でも覚えていますが、メーテルリンクの童話「青い鳥」を読んで夢中になっていた幼い私に母が、「私がチルチル、あんたがミチルになって冒険に出かけようか」と言った時、おぞましさに身ぶるいして返事もできませんでした。

手塚治虫さんの漫画は皆好きな中、「マグマ大使」だけは違和感があり、好きになれませんでした。家族で、悪と戦う冒険をする、という設定がすごく不安で不潔でいやでした。家庭と冒険は別の世界と思っていました。父や母と冒険の旅に出かけ、正義の戦いをするなんて、冗談じゃなかったです。
そんな幼い時期の私が「大切な友だち」を読んだら、父と子どものこのような触れ合い方に激しい嫌悪感を持つような気もしました。
(別にそれでもいいんですけど。)

でも、その時期の幼い私は同時にたしか、ターヒューンの「名犬ラッド」で、自分の息子のウルフをかわいがる父親犬ラッドがとても好きだった記憶もありますから、どうなるかはわかりません。「大切な友だち」の設定を愛し、夢中になったかもしれません。でも、そのことはわからないでしょう、もう、永遠に。

ほんとに子どもの心理ってわかりません。自分の記憶の中の自分自身さえも(笑)。

単調なお話でしたけれど、皆さまにさりげなく愛していただけたら、と願っています。

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