映画「グラディエーター」論文編コモドゥス論
目次
はじめに
「グラディエーター」を題材にした小説を描く時、私は常に、マキシマスとコモドゥスを、何らかの暖かさ、優しさがかつては通い合っていた関係として描いてきた。またコモドゥスを、残酷で愚かなだけではなく、孤独や悲しみを抱く魅力ある人間として描こうとしてきた。
だが、その結果、コモドゥスを強く愛した読者の一人が、私の掲示板で「冬空」を連載中に、コモドゥスの愛に応えないマキシマスに怒りをぶつけ、ついにマキシマスへの罵詈雑言を浴びせるという事態が生じた。
このことを予測できず、防止もできなかったのは、この熱心な読者のせいではなく、ひとえに管理人である私の不明が原因であった。そのことのあった後、寄せられたメールや手紙で、私は、私の小説と、その中のマキシマスを深く愛していたたくさんの人たちを、とりかえしのつかぬほど傷つけたことを思い知らされた。私がこのような小説を書かなければ、マキシマスがこのような言葉を浴びせられることもなかったのだという事実を私は痛感しないわけにはいかなかった。
私が、この「コモドゥス論」を書き始めたのは、そのことに対する償いなのではない。このようなことに対して、どのような償いもできるものではない。
ただ、こんなことになってしまったのも、結局は私が自分の作品の中で、コモドゥスを愛すべき人物として描こうとしたことが原因だと思うと、なぜ自分がそのように彼を描こうとしたのかを、整理しておくのが義務のような気がした。
なぜ自分が、これほどまでに「グラディエーター」という映画にはまり、それを題材にした小説を書き続けたのかという大きな理由の一つを、私は語らないままにしていた。語らないままでもいいと思っていた。だが、結局はそれを説明しなければ、この話は終わらない。
この論は、これまで私が小説やその他で描いてきたのとまったく違う、もう一つのコモドゥス像から始まる。この映画には、そのような解釈も実は充分、可能なのだ。それを示した後で、最後に、なぜ私は小説の中では、そのような解釈をとらなかったのかについて述べたい。
この論を書くのは、さまざまな意味で、私にとって苦々しく、不愉快な作業だった。読む方々にとってもそうかもしれない。申し訳ない。
それでも、書いてよかったと、今は思っている。
その一 地獄の釜の蓋を開けよう
(1)「彼は思ったより賢いな」
私がコモドゥスを嫌いなのは、彼がバカだからではない。そう言ってやった方が親切だと思って、今までバカということにしておいてやったけれど、彼は決してバカではなく、むしろ大変、頭がいい。
周囲の人を傷つけたり、自分のことしか考えない人間を、しばしば人は「わかってないのだから、しかたがない」「気が回らないのだから、かわいそう」ひいては「あの人はあなたのように賢くも強くもないのだから、許してやらないと」などと言う。これに対して私は、「バカは罪だ」と言って他人のひんしゅくをかう。しかし、そう言うのが簡単だからそう言っているだけで、本当にバカな人は私は好きだし、第一、私も多分バカだ。「わからないから」「気がつかないから」などという理由で、自分がしたことを黙殺しつづけ、同じことを繰り返す人間は決してバカなどではない。極めて利口な人間である。
コモドゥスは、明確な政治的認識を有している。彼は大衆の欲望を父帝よりはるかに正確に把握しており、彼らの心をとらえる方法も知っている。人に好かれるために何をすればいいか、熟知しており、元老院と対決してそれを実行する決断力もある。民衆の意に逆らえば人気を失うと判断すれば、それに従う自制心もある。
彼は自分の地位を愛し、人を従わせること、人に賞賛されることを何よりも求めている。そのために何をなすべきかを知っている。あくまで自分のためでしかないその行動に「民衆への愛」という口実をつけることも忘れない。グラックスの鋭い指摘によって、その口実が見破られようとすると、ただちに剣で威嚇、脅迫して相手を沈黙させる対応も的確で敏捷だ。支配者として、権力者として、政治家として、彼は非常に優れた素質を持っている。愚かだの、能力がないなどとはまったく片腹痛い。
(2)対アウレリウスの場合
対人関係ではもっとそうだ。
父から皇帝にしないことを聞かされて、彼は恥も外聞もない嘆き方をしてみせる。あれで大概の人間は「愛されなかった不幸な子」と、彼のことを判断し、アウレリウスを責めてしまう。だが、もし本当に愛されていないという実感があれば、あれほど皇帝になりたがっていた、あれほど頭のいい男が、それまで手をこまねいていたはずはない。あそこであれだけショックをうけるということは、それまで彼はアウレリウスにかわいがられていたのだと判断する方が、むしろ理屈にあっている。
彼があそこで、あのように「愛されてなかった」とさめざめと嘆くのは、父の愛がほしいからではない。父がいくら自分を愛してくれていても、自分のほしい皇帝という地位を与えてくれなかったら、彼は満足できず、他の何をしてもらっても、それを愛とは思いはしない。相手が自分の望むものを与えなかったら、彼は相手を憎むのである。
あの場で彼は父を憎んだ。だから、父を傷つけようとした。アウレリウスという人を正確に見抜いて、もっとも強いダメージを与える言葉を選んだのだ。「私を愛してくれなかった」と。
父が自分を愛していようが、どうだろうが、コモドゥスのような人間には全然、問題ではない。だが、アウレリウスには、これほどつらく、悲しい言葉はなかったろう。念を押しておきたいが、そのことをコモドゥスは知っていた。知っていたからこそ言ったのだ。自分のほしいものを与えてくれなかった憎い相手を、最も傷つけ、苦しめる言葉。それを探して、正確にぶつけた。皇帝になれなかったくやしさの涙を、父に愛されなかった悲しみの涙のように見せかけながら。
アウレリウスは、賢い人である。攻撃されて容易に屈服するような人ではない。だが、愛していた子どもから、このように言われると、彼のような人は「そうかもしれない」と、おのれを省み、自分を責める。だから、一言の弁解もせず(そのために、私たち映画の観客から、何といわれない悪罵を彼は投げかけられることになったことか!)、わが子が一番苦しんでいる(と思った)「自分はだめな人間だ」ということを「それは私のせいだから気にしないでいい」とうけとめてやろうとして、ひざまずき、彼を抱いた。コモドゥスはそんなことは全然、気にもしておらず、自分をだめな人間だなどとはまったく思ってもいないことは、アウレリウスの高貴な心は想像さえもできなかった。
君主の徳を説いた手紙の文句にしても、現在、息子の持っている徳を並べ立てても、それは教訓になどなりようがないのだから、「私にない徳」ばかりをあげるのはむしろ当然のことで、愛情の薄さでも何でもない。あんな理屈にあわないことまで、あげ足とりで持ち出すのは、いかに他に理由がなかったかを逆に示し、いかにアウレリウスがコモドゥスを愛していたかを示すものでしかない。
それでも、自分に厳しいアウレリウスは動揺したのだ。息子がこれほど嘆くのだから、私の愛はきっと薄かったのだと反省したのだ。そして、苦しみ、許しを乞うたその父を、コモドゥスは絞め殺した。アウレリウスは絶命の苦しさの中で、自分を殺す相手に怒りさえ感じることを許されなかったろう。息のつまる苦しみも、骨の砕ける痛みもすべて、自分の愛の薄さがこれほど息子を苦しめていたのだ、自分はそれほど悪い父だったのだという絶望と苦悩に比べたら、ものの数でもなかったろう。これほど恐ろしい、これほど悲しい死があろうか。繰り返す、コモドゥスはそれを知っていた。そのような死を彼は父に与えたかったのだ。愛してくれなかったからではない。愛されたことは知っていた。そんなことはどうでもよかったのだ。皇帝にしてくれなかったから、憎かったのだ。自分にそういうことをする人間には、そういう罰をあたえなければ、彼は気がすまなかったのだ。
(3)対ルッシラの場合
彼がルッシラを慕うのは、ルッシラが常に彼を支持し、味方でいてくれる上に、彼女が有能で政治上の相談役として役に立つからだ。たしかに、コモドゥスのような人間にとっては、これは一番、愛に近いかたちではあろう。
しかし、決して、愛ではない。彼が、ルッシラを一見尊敬し、大切に扱おうとしているように見えるのは、ルッシラが自分を愛してくれるという感謝からではなく、賢く手ごわい姉は、決して自分の言いなりにならず、怒らせたり、危険を感じさせたりしたら裏切るだろうという用心であり、冷静な判断である。
彼はルッシラの賢さを「敵に回したら恐い」と正確に見抜いており、だからこそ、味方につけておこうと必死で心を砕く。「淋しい、いっしょにいて、寝よう」などと誘うのも、本当に淋しいという以上に、肉体関係で姉を縛ってしまおうとする意識が充分に働いている。ルシアスをかわいがるのも、そうすれば姉は自分に好意を抱くという判断であり、本当の愛などではない。ルッシラもその点では、弟に一抹の幻想も抱かない。
ルッシラがマキシマスを愛しているかどうかということは、コモドゥスにとっては非常に重要なことだったが、それもまた、愛情が奪われるのが問題なのではなく、それによって皇帝の地位が脅かされるということが重要なのである。
姉を強姦しようとしてできないのは、愛ゆえの迷いではない。誇り高いルッシラが力ずくで征服された後、屈服するかマキシマスのもとに走るか判断がつかないから迷っているのにすぎない。ここでも彼は用心深く、思慮深く、愚かな行動などはとっていない。そして、もうこれ以上猶予ができないと見るや、ルシアスを愛するふりなどはやめて姉を脅迫し、勝利する。ここでも彼は一瞬の迷いもなく、果敢なまでの素早さで行動し、鮮やかに陰謀計画を阻止している。愚かな人間や弱い人間に決してできることではない。
皇帝でありつづければ、彼は姉を自分の愛人にし、あるいは子を生ませたかもしれないが、それも決して、姉へのかなわぬ愛の実現などというロマンティックなものではない。アウレリウスを苦悩のうちに死なせたと同様、これもまた、自分を裏切り、他の男に目を向けるなどという無礼なことをした女への、処罰なのである。
「弟はすべてを憎んでいる」とルッシラはマキシマスに言う。正確な指摘であって、憎悪はコモドゥスの行動のキーワードであるのだが、それを常に、「満たされなかった愛」ゆえのものと、愛に結びつけて示し、自分を「愛されなかった被害者」として残酷な行為の免罪符にするのが、コモドゥスの常にとるテクニックである。なるほど、世の中にはそういうこともあろうが、一人の人間の上にそうそう何度も起こるものではなく、毎回そうだったら、これはこいつのやりくちだなと判断するべきだろう。それを逆に、「いつも、何をしてもうまくいかない、かわいそうなやつ」などと思っては、彼の思うつぼだし、被害者になった人々もうかばれまい。
コモドゥスが愛用しているのは、レイプやストーカーの加害者たちの論理である。彼らは「自分を侮辱した罰に、やってやる」と性交し、「愛しているから、狂ってしまった」と自分の行為を合理化する。本当に人を愛するなら、その時こそ、人は鋭利な判断力と強い意志を持って、聡明に正しく行動するだろう。自分の愚かで好き勝手な行為を正当化するために、「愛」を口実にし、そうさせた相手を口実にするのは、愛を冒涜し、被害者となる相手を加害者にしたてあげて、相手を二重にふみにじる。アウレリウスに対し、ルッシラに対し、マキシマスに対し、コモドゥスは徹底的に「傷ついた被害者は自分」という論理をアピールしまくって、残酷で卑劣な行為を行なっている。それに影響され、彼に同情するならば、「セクハラ事件、レイプ事件で、もっとも被害者を傷つける、『被害者にも責任がある』と考える周囲の人々」という存在に、私たちはなってしまうのではないのか。
ちなみに、こういう局面で、コモドゥスは常に逆上し、半狂乱になってみせる。これも「自分はこれほど傷ついて、我を忘れている」「こうさせたのは、おまえだ」とアピールして、相手や周囲に恐怖感や罪悪感を与えて同情を招き、自分の要求を呑ませるという下劣で幼稚な常套手段で、私など、ほんとに見ていて「またやってるよ」と、あくびしか出ないのだが。(ホアキンの演技は見事で、みとれます。あくびが出るのは、コモドゥスのしていることに対して、ですよ。)
(4)対マキシマスの場合
マキシマスについて言うならば、コモドゥスはマキシマスに対する劣等感など、かけらも持っていはしない。あらゆる点で、自分の方がすぐれていると思っているし、それはそう、まちがっているわけでもない。
いったい、劣等感など持つ必要がどこにあるのだろう。出自?スペイン出の農夫に、皇帝の嫡男が?笑わせる。人気?前線の兵士たちが指揮官を賞賛するのに、支配者の一員が何の不満があるものか。外見?コモドゥスは美しい。マキシマスよりずっと美しいと自分で思っているはずだし、そう思う人は実際多いはずだ。しかも彼はそれに日夜磨きをかけ、美しくあろうと心がけているのが、よく見てとれる。マキシマスなど、彼にはライバルでさえもあるまい。戦闘能力?そんなものは軍人の持つもので、コモドゥスがマキシマスに劣っていても、苦にするようなものではない。家族愛?コモドゥスは父にも姉にも愛されている。スペインのちっぽけな家、そこに住む田舎娘の妻が、ローマ帝国を支配しようかという男にとって、うらやましい存在だろうか?父の愛?姉の愛?民衆の愛?まちがってはいけない。コモドゥスはそんなものをマキシマスが得たことで、彼に劣等感など持ってはいない。
現に、姉がかつてマキシマスを愛したことに対して、彼は何のこだわりもない。父がマキシマスを愛したとしても、自分が皇帝にさえなっていれば、彼はまったく平気だったろう。(戦場で父が自分よりマキシマスと親しそうにするのを見て不快そうなのは、兵士たちの手前、恥をかかされたからで、三人だけのテントの中でマキシマスと父がいくらべたべたしていても、コモドゥスは歯牙にもかけなかったにちがいない。)仮にマキシマスが、別の事情で剣闘士になって、民衆に喝采を浴びたとしても、自分の地位が脅かされなければ、彼は気にもしなかったはずだ。
彼は、父を殺した段階では、マキシマスを憎んでいたとさえ見えない。父がマキシマスを皇帝に指名したことが父の愛のあかしと思って彼を憎むなら、あそこで彼はマキシマスに忠誠の誓いを求めるだろうか?憎いあまりに、父を殺した自分に仕えさせて苦しめようという倒錯した心理?だが、それほどに彼の中でマキシマスの存在が大きかったなら、逆にそんな危険な遊びをするほど事情に余裕がないことも、その場合の彼ならわかるはずだ。コモドゥスはマキシマスを、それほど危険な存在と認識していなかったし、父を殺した以上、父がマキシマスを皇帝に指名したことに、こだわりなどは持ってなかったととる方が自然である。
忠誠を誓わなかった彼を処刑し、家族にも残酷な罰を与えたのは、アウレリウスやルッシラに対すると同様、自分の言うことを聞かず、望みをかなえてくれなかった者に対する怒りであり、処罰である。この時点でもなお彼は(そして最後まで)、マキシマスを偉大とも魅力的ともまったく感じていはしない。むしろ、虫けらが、ごみくずが、自分ともあろう偉大な存在にしたがわなかったから、怒ったのである。
唐突だが、コモドゥスはイメージトレーニングをする人間である。
自分に酔う人間であると言いかえてもよい。
都合の悪いことは見ないふりをし、忘れたふりをする能力がある。
皇帝になって、人々の上に立ち、コロセウムで人気取りをして喝采を浴びている時、彼は自分が、父を殺して、不正な手段で皇帝になったことなど、思い出そうとしなかったはずだ。そして、本当に正々堂々と皇帝になった、よい君主であるかのように、自分でも思い込んでいただろう。それがまた、精神的安定を保つためには最もよい、というか、おそらく唯一のやり方であったのだから、この点でも彼の選択は賢明で正しいのである。
マキシマスが突然現れて、彼が動揺するのは、その幻想が失われ、現実が目の前にさしつけられたからである。ゆめ、マキシマスに対して気がとがめたからではない。その場で彼を殺してしまえば、またひと月も(一日かも)すればそのことは忘れて、暗い過去などない、よい皇帝の幻想にひたれただろうが、あいにく、民衆の人気を失いたくないという判断が先行した。まだこの時点ではマキシマスのことを甘く見ていたふしもあるが、何より彼にとっては「民衆を愛し愛されるよい皇帝」というイメージが、すでにもう、めったなことでは手放せない貴重なものになっていたのだ。
以後、彼は、そのイメージを崩さないまま、マキシマスを葬る方法を模索する。それが成功しないのみか、マキシマスの人気が民衆の間で高まるという、彼の政策の根幹を脅かしかねない事態が起こってくるので、やむを得ず、彼は妻子のことを持ち出してマキシマスを挑発する。ここでもマキシマスに何を言えば彼が最も傷つくか正確に彼は知っており、人の気持ちがわからない男などでは断じてない。やや後ろめたそうに見えるとすれば、それは自分が作り上げた自分のイメージとちがうことを言っているという自覚があるからである。自分で作り上げた快い幻想にひびが入りそうになっているのが不快なだけである。
ファルコの前で彼が懊悩するのも、ひとえにこの、自分が作り上げ、それに酔ってきたイメージの崩壊の恐怖である。この「民衆に愛される」ということは彼の政治的目的というか、支配者としての姿勢の大半を占めていて、だから大抵のことなら彼は民衆に迎合する。だがマキシマスを生かしておけば、彼を見ることで、正当な手段で皇帝になったのではないという事実と向き合わされる上、その彼を民衆が自分以上に愛してしまう危険もあるから、こればかりは民衆に譲れない。しかも、ファルコの指摘によって、彼はマキシマスという存在が過去を引き出す危険さだけではなく、明らかに自分に不満を持つ者たちの結集するシンボルとして作用しはじめているのにも気づく。
ファルコの忠告もあるのだが、彼はここで、敵方を観察し、泳がせる作戦に出る。これもまた、並外れた自制心や冷静さがなければやれることではなく、彼の意志や精神力の強さを示している。ルッシラさえも敵方かもしれないという可能性に、彼はそれほど傷つきも動揺もしない。初めから彼にとってはルッシラは、その程度の存在でしかないからだ。そして、この時も彼はマキシマスのことを、危険な存在と認識こそすれ、決して恐怖してはいない。ましてや尊敬や愛情や興味などは持っていない。
あるいは不思議に思う人もいよう。最後の地下牢の場面で、コモドゥスはマキシマスになぜ、妻子の死について語った時のような嫌味を一つも言わないのかと。鎖に一晩つるされて極限に達した苦痛と疲労。自分に献身してくれた部下をむざむざ目の前で死なせた自責の念。老皇帝から仲間たちまで、自分に期待してくれたすべての人に応えられなかった自己嫌悪。最愛の妻子を生きながら焼き殺した相手を目の前にしながら、何ひとつなすすべもない絶望と屈辱。そのような相手が自分をどうするか見当もつかない恐怖。マキシマスがそれらすべてをまったく押し隠して見せていないからと言って、大した想像力がなくても誰にでも、そのくらいのことは推察がつくのが普通ではないのか。ましてやコモドゥスのように鋭い男に、わからないはずはない。
考えれば、もちろんわかる。だが、コモドゥスは考えようとしない。見ようともしない。気がとがめるからではむろんない。自分に都合が悪いからでもない。マキシマスという人間は徹頭徹尾、彼にはどうでもいい存在で、興味などないのである。彼を挑発しようとか、何か目的がある時だけは正確にその心も弱点も見抜くが、そうでない限り、こんな田舎者の軍人あがりの奴隷は、彼にとって何の意味もある存在ではない。
しかし、自分を愛して、あがめてほしい民衆は、この男が好きである。それを葬って、この男以上の存在として皆に認めてもらわなければ、毎日が快適でない。コモドゥスの目的はそこにしかなく、マキシマスは彼にとって、ただそれだけのオブジェにすぎない。
そして、この戦いで何よりも大切なのは、それが「正々堂々の美しい戦い」であることだ。だから、自分もみっともないことを言ったりしたりしてはならない。白い鎧に身を包み、穏やかに微笑んで、兄弟のような宿命のライバルと対決して、勝利してこそ価値がある。マキシマスを倒したら、コモドゥスは涙を流して、惜しい男を亡くした、と言ったろう。自分も彼が好きだった、と言ったろう。強いということ、人より優れているということは何と悲しいものだろう、とも言ったかもしれない。おそらくは、かなり本気で。
これだけなら、ある意味では、ほんとにバカである。だが、コモドゥスが決してバカではないのは、そこまで自分に酔い、きちんと舞台を演出しながら、なお、どうしようもない決定的な、このシナリオの弱点…正々堂々と戦えば、マキシマスは自分に勝つ、ということを決して忘れていないことだ。
だから彼は、マキシマスを刺す。シナリオ通り、ちゃんと自分に負けられるように、親切に、手助けしてやる。もちろん、それは鎧で隠す。人に見えないためだけではない。自分でも見ないで、そして忘れるために。昇降機の中での、陶然とした表情は、彼がそれに成功し、父を殺したのを忘れて、よい皇帝のつもりでいつづけたように、相手を刺したのを忘れて、何の後ろめたいところもない「宿命の対決」に向かう雄雄しい戦士の心情に、すでにうっとり陶酔していることを示している。
彼がマキシマスを刺したのは、父のことを言われて逆上したからではない。当初からの予定だった。マキシマスの言葉は、父の愛を得られなかったことを思い出させて彼を傷つけたのではない。父を殺して皇帝になったという現実をさしつけて、彼を動揺させたにすぎない。しかも即座に彼は言葉で、その事態をとりつくろった。「私もおまえも父に愛された兄弟」、だから正々堂々と美しい対決をしよう、と。決して怒りにまかせて相手を殺したりはせず、予定通りに自分の相手役を勤めさせ、自分のひきたて役としてその死をまっとうさせるために、必要な処理だけを、的確に施した。
繰り返すが、何と利口で、冷静な男ではないか。彼をバカだなどと言って同情している皆さん、安心するがいい。そんなノーテンキ、ではなかった、のんきなことを言っているあなたなどよりは少なくとも、コモドゥスは、はるかに頭がいいですよ。
その二 あれは、君主の器ではない
(1)欠如
私が彼を嫌いなのは、彼の性格のもうひとつの大きな特徴…他人をどうしたら幸福にできるかということに対して、彼がまったく無関心であることでもない。
これまで私が書いてきたことを読んで、「たしかに映画だけだったら、そういう解釈も可能だけれども、あなたが書いた小説の中のコモドゥスはちがう。自分が愛したのは、あなたが書いた小説の中の彼だ」と言って下さる人もいるだろう。
たしかに私は、特にマキシマスとの関係では、ここまで分析してきたこととはかなりちがうコモドゥス像を、自分の小説の中で描いた。それはどちらも嘘ではなく、映画の中の彼からは、その両方の解釈が可能と思っている。そして、これまで述べたような、ある意味では地獄図絵をあえてそのまま小説にはせず、マキシマスと彼との間に、もっと優しい関係を描こうとした理由は、またあとで述べよう。
だが、今から述べる、コモドゥスの性格のもう一つの特徴は、自分の小説の中でも、私は充分に指摘したつもりだ。これはおそらく、アウレリウスが「君主の器ではない」とコモドゥスを判断した最大の理由でもあろう。
コモドゥスという男は、みごとなまでに徹頭徹尾、他人の痛みや幸福に関心がない。彼がそれに関心を持つのは、人を傷つけようとする時だけで、その時にはきちんと見抜くから、人の心を理解する能力が欠如しているわけではない。それなのに、彼が個人であれ、集団であれ、他者を思いやっているという場面は、映画の中にひとつもない。父に呼ばれて前線へ行く馬車の中で、彼が気にするのは、自分が皇帝になれるかどうかだけで、父の健康や安否を心にかける優しい言葉ひとつ、その口からはもれないのだ。
それはルッシラもそうだが、彼女はマキシマスに会った時、彼の沈んだ表情を、アウレリウスの衰えに衝撃を受けたのかと推測する。彼女自身もその悲しみを感じていなければ、これは思いつけることではない。また、彼女は牢獄でマキシマスを説得する際、老皇帝の愛を持ち出して彼をほとんど泣きそうにさせるという、コモドゥスにはできなかった攻撃に成功している。それはまた、とりもなおさず、彼女自身が人を愛し、その人のために尽くす幸福を知っている人間の心情や心理や弱点を理解していることを示し、彼女自身にそういう感情が存在することをも示すだろう。(やや逆説めくけれど、「あなたは、私の息子も、あなたの息子と同じように死ななければ、私を許してはくれないのか」という、その前の攻撃も、相手の悲しみの深さと、その結果起こる怒りと憎悪を見事に言い当てた言葉であり、結果としてマキシマスは、これで平静にさせられている。相手がいかに深く人を愛し、だからこそ激しく憎み、だからこそ、許しもすることを知り抜いた者どうしの、息づまる対決は、この映画の中の白眉と言ってよい、質の高さと深さを持つ。)
これにひきかえ、マキシマスの妻子の死を語って彼をいたぶったコモドゥスが、おそらくはマキシマスを最も傷つける殺し文句…「妻子が死んだのは、おまえのせいじゃないか」を思いつけなかったのは、彼自身が「自分のせいで愛する者が苦しむ苦しみ」、「愛する者を自分の力で幸福にする喜び」をまったく知らなかったからである。
ルッシラにも、弟と共通する、権力者の娘らしい傲慢さ、鈍感さはある。だが、ルシアスについて語る時や、マキシマスや父と接する時の彼女の優しい幸福そうな表情や、牢獄でマキシマスに「力にならせて」と頼む態度などからは、彼女が他人の幸福や痛みを思いやり、他人のために何かをしようとすることができる人間であることがうかがえる。コモドゥスにはこれがない。民衆を愛するのは彼らに愛されたいからで、民衆を幸福にするためにはどうしたらいいかという視点は完全に欠落する。
疫病の発生を告げられても、そこに住む人々の苦しみに思いをいたすことはまったくなく、自分への優位を誇示しようとする元老院議員の挑戦としか受けとめられないコモドゥスの感覚は、正直、私を慄然とさせる。しかし、実のところ、こんなことであらためて驚くことは何もないのだ。「あなたの愛のためなら、全世界を血祭りにあげたのに」との言葉がみごとに象徴するように、自分の幸福感、満足感のためなら、民衆はおろか世界さえ、いくらでも犠牲にする決意表明を彼はとっくに行なっているのではなかったか。それにしても、アウレリウスがいまわのきわに聞いた言葉がこれだったとは、何と恐ろしい悲劇だろう。父親としての苦しみだけでなく、このような支配者に、おのれの民と、国と、世界をひきわたす予感に絶望しながら、皇帝としての彼は死なねばならなかったのだ。
ルッシラを愛するのは味方でいてほしいから。ルシアスを愛するのはルッシラをつなぎとめたいから。彼の他人に寄せる愛や関心は、すべて自分の利益や快感としか結びつかない。嘘というなら、彼が自分の得失を度外視して、人の幸福のために何かをしている例を、一つでもいいからあげて見てほしい。そんな行動、言動が、一つもないのがこの男である。
人前では弱音を吐かないマキシマスやルッシラにひきかえ、コモドゥスはことあるごとに騒々しく、なりふりかまわず嘆き悲しみ、苦しんで、自分の苦痛、孤独、絶望を強調する。そこが一見、繊細で傷つきやすい人間に見えるのだが、それほど注意深く見なくても、彼が敏感なのは常に自分の痛みや苦しみだけであり、他人のそれを感じて気にしていることは終始一貫、一度もないのがわかるだろう。
普通、人はこうした鈍感さを、異民族や差別されている人、家族以外の他人、異性、動物などといった、自分より遠い異質な存在に対して発揮する。そのかわりまた、大抵の人なら、家族や身内、同国人、といった近しい存在のことは何がしかは思いやる。コモドゥスの特徴は、家族にも誰にでも、いっさい差別なく、自分以外の人間を思いやることがないことで、その、自分以外の人間の感情にも感覚にもまったく価値を認めない自己憐憫と自己陶酔は、唾棄すべきとも戦慄すべきともいいようがないほど、すさまじい。
(2)陰画
私がコモドゥスを、最も好意的に描いた小説「春、爛漫」の中で、彼は「人の気持ちを知りたい、と思ったのはマキシマスと出会った時」と告白している。だが、それはあくまで、マキシマスが彼に快いことを言ったりしたりしてくれたからであり、彼の心をのぞいたら、自分に対する好意とか優しさとか、もっと快いものがたくさん見つかるかもしれない、と期待したからである。この人が優しくしてくれた代わりに、僕もこの人に何かしてあげられることはないかとか、この人の心の中の痛みや苦しみを何とかしてあげられないかとか、そんなことなど彼は、思い浮かべもしていない。彼は、このような子どもだった。「春、爛漫」の中に、彼のそういう無気味さ、異常さを私ははっきり書いたつもりだ。マキシマスを傷つけても、彼は自分の何が彼を悲しませ苦しめたのかさえ知ろうとはしない。心配なのは、ただ、相手がまだ自分を愛してくれるか、もう愛してくれないのではないかということだけだ。彼にとっては常に問題はそれだけで、マキシマスの幸福を気にする描写が一か所も「春、爛漫」の中にないのを読者は気づかれただろうか。コモドゥスが力をこめて語るのは、マキシマスが自分にとって、どれほど快い存在だったかという、後にも先にも、それだけに尽きるのだ。
マキシマスが、コモドゥスの陰画のように、「相手が幸福でありさえすれば、自分も幸福になれる」人だったからこそ、「春、爛漫」の風景は成立し得た。この小説のそのような情景の中の幸福そうなコモドゥスを見て、幸福感を感じる読者の中には、マキシマスと似た人もいよう。いや、多くの人の心の中に多少なりとも存在する「他者が幸福になると、自分もまた幸福になる」という感覚が刺激され、満足させられることもあろう。また一方、コモドゥスと一体化して、彼の幸福感に酔う人もいて、そのような人は、このような幸福感が永遠に続けばいいと彼とともに願い、そうならないことを悲しみ、あるいは怒るのだろう。
だが、コモドゥスもそのような人たちも、多分、気がついていない単純でささやかな事実がある。マキシマスのような人はコモドゥス以外の人の幸福を見ても同じように幸福なのであり、不幸を見れば同じように心を痛めて手を差しのべずにはいられない。相手がコモドゥスである必然性などまったくないのだ。
それどころか、「他者の幸福を、すなわち自分の幸福と感じる」度が極めて高い、「春、爛漫」のマキシマスのような人間をつなぎとめ、独占するのは、コモドゥスでなくても実は至難の技である。何しろ、こちらが彼に尽くし、快くしてやったからといって、幸福を感じて喜んでくれる人ではないのだから。こちらが魅力をふりまいて、有形無形さまざまのものを与えても、それでつられて寄って来たり、ひきとめられたりする人でもないのだから。しかも、誰だって、自分を幸福に快くしてくれる相手はほしいから、このような人間を自分のものにしようという獲得競争は熾烈をきわめる。更にまた、やっかいなことには、それを見て喜ぶどころか、「自分が人を不幸にしている」と苦痛に思う人だから、うっかり獲得競争にうつつを抜かしていると、彼はどこかに消えてしまって、皆が彼を失いかねない。
このような相手に対し、このような状況の中で、何を根拠に、何の必然性があって、コモドゥスが、マキシマスを独占できる人間は自分だと思ったりできるのか、私にはわからない。自分を愛してくれないのなら、いっそ憎んでくれ、と要求できると彼がもし思っているとしたら、その神経もわからない。自分のために、相手が生き方を変えるほどの価値が、自分にあるなどと、どうして、どこから、彼は思いつけるのか。そのあまりもの身のほど知らずに、私はほとんど唖然とする。
(3)時間の節約
とは言え、繰り返すけれど、コモドゥスがこのような人間だからといって、私は決して彼のことを嫌いなのではない。私の中にも、このような部分は確実に存在する。誰の中にも多少はある。マキシマスの中にだって皆無ということはあるまい。特に、子どもには、この傾向は強いし、それは許されることでもある。
コモドゥスにこの傾向が、人並みはずれて強い理由は何かということなのだが、私に言わせればそんなことは考えるだけ無駄である。わかりっこない。
彼がこうなった原因は、決して愛情を注がれなかったからではない。また皇帝の息子として他人にかしづかれて育ったからでもない。愛情を注がれなくてもこうならない子はいくらでもいるし、支配者としての教育を受ければ、民衆の幸福を考える思考はむしろ身につきやすいだろう。誰のせいでも、何のせいでもない。DNAと環境と、その他のいろいろが複合して、たまたまこんな人格が生まれたのだとしか言いようがない。いつか、科学が発達すれば解明できることかも知れぬが、今はもう、それで充分だ。
ただ、現実にはここまで徹底していなくても、このような人間は確実に存在する。自分の痛みや苦しみや不幸には極端に敏感で繊細だが、他人のそれにはまったく無関心で鈍感で、予想さえして見ようとはしない人間だ。自分自身の利益や誇り、権利や立場を守るためには一歩も譲らず戦うし、求めるものをかちとって行くことに何のためらいもなく、何でもふみにじる。大切なのは一にも二にも自分の感情、自分の利益で、相手の立場にいっさい立たない。
このような人間は上に立てば、冷酷な支配者になる。虐げられた立場に立てば、犯罪者か革命家になる。(犯罪者や革命家の中には、このような人ではない人物も、たくさんいることは、言うまでもないが。)
しつこく繰り返すが、私はこのような人間を嫌いではない。こういう存在は必要なこともあるのである。大衆や正義の側と一致した立場に立った時、このような人間の活躍はすさまじく、本当に人々の役に立つことを(自分のためだが)やってのけたりするのである。私自身も、こういう人たちと仕事をし、何度も助けられても来た。このような人々は価値基準も単純明瞭で大変わかりやすいので、つきあいやすいし、扱いやすい。プライドを満足させ、不利益のないようにしてやりさえすれば、何でもしてくれると言っても過言ではない。
コモドゥスが黙殺した、例の疫病対策にしても、生真面目なグラックスが正攻法で迫ったからで、この政策を実施できるのはあなただけだとおだてるなり、これを実施すれば民衆は陛下をたたえますと好みにあうような見通しをつけてやれば、コモドゥスは嬉々として徹夜してでも疫病対策に取り組んだと、私は信じて疑わない。こんな人間に民衆の苦しみや、貧しい人々の幸福など説いても時間の無駄だ。そうすることが、どんなにあなたをカッコよく見せ、あなたに利益を与えるか、と、それさえはっきり示してやれば、この手の人間は文字通り身を粉にして奴隷のように走り回る。気をつけるのは、ただ一つ、つられて自分も同じ価値観に染まらないようにすることだけだ。
個人的にも、このような人間とつきあうのは私は好きだ。私はマキシマスにすら、少しはこのようなところはあるかもしれないと思うので、まだ何とか相手ができる気がするが、「へヴンズ・バーニング」のコリンのような、そういう卑しさや狡さがまったくなさそうな相手は、見ているだけでつらくて悲しく、今日も一日大丈夫だったろうかと考えるだけでもう、こちらが生きた心地がしない。深く愛して大切に思い、存在してくれるだけで幸福と思う気持ちが深ければ深いだけ、その人のことを考えるのがつらくてしかたがないほど、気がかりになる。
これにひきかえ、私は、コモドゥスのような人間のことを何であれ、かわいそうに思ったり心配したりするのは、アホの限りの愚の骨頂と思っているのだが、他ならぬそこがまた大変、魅力なのだ。こんな人間がいようといまいと何をしようと、はたまた私をどう思おうと何を言おうと、まったく心が騒がないから、この手の人間は決して私を苦しめることがない。どんなみっともないことをしようと他人事で、面白がって見ていられる。自分に被害が及ばないかだけチェックしておけばすむのだから、こんなに気楽な相手はいない。
そういう点では、私を苦しめ、悲しませ、やもたてもない気持ちにさせるのは、決してコモドゥスのような人ではなく、マキシマスやコリンのような人なのだ。私を深く傷つけることができるのも、このような人たちなのだ。自分のことしか考えられないコモドゥスなのではない。
その三 剣をおさめよ!
(1)「悪夢を見ているようだ」
人が何かを好きになる理由は様々である。「グラディエーター」という映画を私は、どう考えても映画館ですでに百回以上見た。もともと私は少し好きな映画は五十回ぐらい見てしまうことがよくあるのだが、それにしても、これはいささか尋常ではない。
なぜ、この映画にそこまではまったか。それはかなり個人的な事情である。他人が聞いて面白がることでもなさそうだし、もっと言うなら不愉快でさえあるかもしれない。だがやはり、ここまで書いたら、もう最後まで書くべきだろう。しいて言うなら、それは小説や映画を好きになったり、作ったりする人間の心理の裏側を見せるという点で、そういうことに興味のある人の何かの参考にはなるのかもしれない、と思う。
この映画を見たきっかけは、主演のラッセル・クロウがもともと好きな俳優だったからだ。映画そのものも最初に見た時から好きだった。決して単純な娯楽映画にすぎないとは思わなかった。その理由については、他にいろいろ書いたからここでは省く。だが、最初に二度、三度と繰り返し見るきっかけになったのは、ラッセルをもう一度みたいという理由もあったけれど、それよりもっと切実な衝動にかられてだった。
最初に見た時、特にラストで、私は自分でも驚くほど、主人公のマキシマスに感情移入した。それは明らかに自分でも異様だと、映画館の中で、客席に座っていて既に感じた。この種の映画で、主人公が敵役に最後の決闘で勝たないことなどあるわけがない。そんなことはいやというほどわかっているのに、なお私はまるで半分狂ったように、マキシマスに勝ってくれと願い、コモドゥスを殺してくれと願った。その時、私がこの皇帝に対して感じた憎しみは、とても言葉では言い表せない。その気持ちは今でさえまだ少し残っていて、あの場での皇帝に同情し共感する人間のすべてに対し、私はかすかにではあるが、はっきりとまぎれもない憎しみを抱く。いったん、そういう憎しみを抱いた人間に対しては、もう二度と暖かい気持ちを心の底から本当に持つことはないだろうと感じるほどに、それは確実な感情である。
繰り返すけれど、この感情は異常である。だが、事実である。まして、その、最初に見た時点での怒りと軽蔑は、自分でも当惑し、不安にかられたほどだった。映画を見て、小説を読んで、これほどの激情にかられた覚えは記憶にない。映画が終わった時、私は呆然とし、見知らぬ自分を見たように脅えた。
この憎しみは何だろう。何を私はそれほどまでに拒絶しなければならなかったのか。それを確かめないと不安で、だから私は翌日また見に行き、更に数日連続してこの映画を見つづけた。自分の心に何が起こるのか、確かめたくて、知りたくて。そして次第にそれが明らかになるにつれて、別の重苦しさがのしかかって来た。
それを語ることは気が重い。どう語っても、読む人は私に反感を抱くだろうし、それも無理はないとも思う。それでも、やはり話そうと思う。ここまで来たからには、もうしようがない。
(2)「こんな話を知っていますか?」
ラッセル・クロウの次の作品は、数学の天才の話だそうだ。どんな話かは私はまだ知らない。ところで天才を扱った映画で思い出すのは、モーツァルトを描いた「アマデウス」なのだが、私はこの映画にはこれまたもう見事なまでに感情移入できなかった。最後の最後まで「ふうん」「へええ」「そんなものかなあ」の世界だった。この映画の骨格になっている「天才への嫉妬」という感情が、私には理屈で納得できても、実感としてまったくわからない。そういうものを生まれてこのかた私は感じたことがない。
天才というのは、私にとっては自分に奉仕してくれる者である。すぐれた絵画を描く人は私の目を楽しませる。すぐれた音楽を奏でる人は私の耳を快くする。すぐれた小説を書く人は私の心を幸福にする。すぐれた頭脳を持つ人は役に立つ発明をして、世の中を快適にし、私の生活を豊かに便利にしてくれる。そういうものを享受するのをありがたいと思いこそすれ、自分がそういう人にとってかわりたいなどと、私は思ったことがない。
そういう人たちが浴びている賞賛や、その人たちの得るお金、贅沢な暮らしも、うらやましいとは思わない。それだけのものを生み出す、言ってみれば金の卵を生む鶏には、そのくらいのことはしてあげて当然と思う。それだけのものを生み出すには、膨大なエネルギーが必要であり、彼らは苦しみ消耗しているのも容易に想像がつく。決してとってかわりたいとは思わない。
その人たちは皆、この私を幸福に快適にするために存在しているのだから、全然、嫉妬する理由などない。私を幸福に、快適にしなかったら、その人は天才ではないのだから、これまた嫉妬する理由がない。だから、自分以外に天才がいること、自分が天才ではないことを不幸と思い、不満と感じる心理が、私には想像しようとしても想像できない。どうしていったい、そういうことになるのだろう?
天才に対する嫉妬を表現する時、「あの人にはどうしてもかなわない」と言うことがよく言われる。でも、この「どうしてもかなわない」という表現がまた、私には実感としてわからないのだ。それが意味するような事態が本当に、この世の中には存在するのだろうか?
ある競技、ある試験で勝者と敗者になることはあるだろう。だが、それはそれだけの話で、私には電車に乗り遅れたとか、トイレで並んで待ってたらたまたま早く入れたとかいうことと大して変わらないことのように思えてしまう。どんな場合でも、いろんなことで優劣はつく。順序も決まる。だが、それはそれだけのことでしかない。努力が足りなかったのは、何か他のことが忙しかったからとか、もともと体力がなかったからとか、いろんな要素が左右する。運もある。そういうすべてが作用して勝負は決まる。そういう理由をあげつらって負けた言い訳をするのは、つまらないことだ。そもそも、勝負とはすべてそういうものなのだから。本当に客観的で純粋に雌雄を決することのできる勝負や試験など、この世にはない。だから、人間の決定的な優劣を決める競技も試験も、この世の中には存在しない。たまたま、何かの賞を受賞し、たまたま何かの試験に落第し、たまたま勝負に負けたとしても、私は自分の何かが決定的に判定されたとは思ってもみない。誰かに決定的に負けたとも、勝ったとも実感しない。
そもそも私は昔から、「誰かのようになりたい」と思ったという記憶がない。美しい人を見ると楽しかったが、自分が美しくなって人に見られたいとか楽しませたいとかは、無理だろうと思ったらそれ以上特には願わなかった。それで自分の外見にも関心がなくて、自分の顔を大学生になる頃まで、あまり知らなかったから、通りの向こうから自分と同じ顔の人が歩いて来ても気づかなかったのではないだろうか。友人が鏡をのぞいているのを見ると、自分の顔を変えられるのだろうかと不思議で、でもああやって見ているからには、きっと何とかして変えるのだろうと思って、漠然と尊敬した。
美人でも優等生でも金持ちでも、何かを持っている人はそれだけの苦労があると感じていた。幸福な家庭、素晴らしい恋人、立派な家族を持つ人は、それに見合うだけの努力をきっとしているのだと思っていた。だから、その人たちのようになりたいと願うことは、その人たちのしている苦労や努力もひきうけることだと思ったし、それがどんなものかもわからないのに、そんなことを願う気持ちにはなれなかった。
何よりも、人をうらやむ暇はなかった。それよりも、私には自分の身体があり、頭があり、顔があり、心があり、世界があった。それを整理し、管理し、目を配っておくだけで、私には時間が足らなかった。
高校のある電車の駅で、雨の日には皆がきれいな色とりどりの傘を開く中、真っ黒い大きな傘をばさっと開き、すりきれて、襟や袖口がてかてか光る制服のスーツのポケットに文庫本を押し込み、太った身体でのそのそ坂を上がって行く自分が、私はけっこう気に入っていた。美しかろうと醜かろうと、それが私の顔で身体であるのなら、私が大事にしなければならない。自分の考え、感じることも。自分の家族も、友だちも。それらのすべてに心を配り、大切にしておくだけでも仕事はいつも山ほどあって、手のとどかないものにあこがれている暇などなかった。
いつどうやって、「グラディエーター」やコモドゥスの話にたどりつくのかと思われるだろうが、もう少しお許し願いたい。
そうやって生きてきた間、何度か私はどうしても理解できない接近のされ方を人からされたことがある。こういう人間関係を「グラディエーター」の映画を見るまで私ははっきり意識したことが実はなかった。だが、しいて思い出すなら、「ああ、これは」と妙に切実に感じたのはモンゴメリの小説「赤毛のアン」シリーズの中の「アンの幸福」で、田舎町で学校の先生をしているアンを崇拝し、自分とアンが似ていると言い、熱心に語り明かし、そうやって語る自分の言葉に陶酔し、そのくせ徹底的に実は俗物で、アンの生き方を理解しておらず、結局アンを攻撃して自分を被害者にして去って行く、ヘイゼルという若い娘の話を読んだ時である。(あるいは、読んでいて、ずっと後になって、思い当たる現実が出てきたのだったかもしれない。)奇妙に落ち着かず、見たくない事実を言い当てられたような動揺と快感を同時に感じた。
私には、このヘイゼルのような存在が、高校生の頃まではいなかったような気がする。家族にも友人にも愛してもらっていたと思うけれど、うらやましがられたという記憶はあまりない。「勉強ができると思っていばってる」とか「わがまま」とか攻撃されたことは何度もある。それはそれで私を苦しめなかったわけではないし、私なりの反論も言い分もないわけではないが、基本的にはそれは納得できる攻撃で、嫉妬とはちがうものだった。それらの批判は私を正しく教育したし、成長させてくれたと思う。
周囲は私に、さまざまな要求をした。だが、それは今思えば、「皆のために、あなたはこうあらねばいけない」という性格の要求で、「私個人にこうしてほしい」という要求ではなかった気がする。私に向かって「あなたのようになりたい」と言う者はいなかったし、私を奪い合って対立する人間関係もなかった。
(3)「殺されるやつが必要だろう?」
ヘイゼルタイプの人たちが、周囲に登場しはじめたのは、大学院に入った頃からだった気がする。以後、後輩、教え子、同僚、その他私と関係を持った人たちの中に、このような人たちは途切れることなく存在した。
何が困ると言ったって、私が一番困るのは、こういう人たちについて説明しようとすればするほど、こういう人たちは「自分はそうではない」と信じて疑わず、安心しきった顔をしており、決してこういう人たちではない人たちが「ああ、それは私のことだ」と動揺し、落ち込んでしまうことである。つまり、ヘイゼルタイプとそうでない人との区別はそれほど微妙で、説明しにくい。今、書いているこの文章も、ヘイゼルタイプの人は自分のこととは思わずに「ああ、そういう人いるわよね」と思いながら読み、全然そうではない人が「私のことを言われている」と確信するのではないかと思えてしかたがない。でもまあ、話を続けよう。
このタイプの人は、私にあこがれると言えばあこがれている。私を愛していると言えば愛している。でも、本当にそうなのかどうか、本当のところはよくわからない。その人本人にも、きっとわかっていないのではないかと思う。
いや、この人たちは多分きっと、私のことを愛していると思っているだろう。というか、この人たちにとって、自分が私によせる気持ちは確かに愛だと思えるのだろう。「アンの幸福」のヘイゼルが、アンに対してそう思っていたように。
でも本当にそうなのだろうか。
こういった人々の特徴の一つは、私との関係の深さを周囲に誇示したがることだった。私と長い時間を過ごして、そのことそのものが楽しかろうとどうだろうと、それよりも大切なのは、それだけの長い間、私といっしょにいたということを他人に話せることだった。あるいは私と特別な関係にあることを周囲に強調した。あるいは私を支配して言うことを聞かせられることを皆に証明しようとした。
また、こういった人々は、しばしば私と力試しをしたがった。私と対決することで自分の力を証明しようとしているのか、あるいは私に勝利することで私が持っているものを自分のものにできると考えているのか、いずれにしても私には、その心境がまったく理解できなかった。私と力試しをし、勝ったところで負けたところで、何が証明できるのだろう。勝ったところで私の持っていたものが、その人のものになるわけではあるまいに。そう思って、いつも当惑した。でも、戦いは挑まれて、戦わないわけには行かなかった。
どちらの場合も、相手は私を尊敬し、評価し、愛していると思っていたような気がする。ありがたい何かを与えてやっているのだと、私は言われていたような気がする。
そういう近づき方をしてくる人そのものに対して、私はそんなに不快感や拒絶感を感じたことはない。けれど、微妙なことかもしれぬが、その人自身は嫌いでなくても、そうやって、周囲に見せるための関係を強要され、その人が自分を証明するための戦いの相手にさせられるのは、非常に不快で迷惑だった。とりわけ、それを相手が私への評価であり、愛であると思っているらしいことが、私を深く混乱させた。よくよく自分に価値があると思っていなければ、そんな発想はできないだろうと思う一方、それほど自分を偉大と思っているような人が、なぜ、こんな私ごときと親しくし、あるいは戦って勝つことで自分の価値を確認し、周囲に評価させようと思うのか、そこがどうしてもわからなかった。
外見、肩書、能力、収入、その他の何をとっても、私は、自分が人にうらやまれるほど魅力的とは思えない。私の持っているもの、私の築いている世界が、それほどまでに素晴らしいとも思えない。どうしてそれに注目され、支配しようとされるのか、戦いを挑まれるのか、私は理解できなかった。
腹立たしいが、このような人々にとって、私は「射程距離内」に見えるのかな、と思ったこともある。このような人々は、自分の力を証明するための戦いを挑むにしても、負ける戦いは絶対にしたがらない。本当の意味での挑戦はせず、勝つと自分の実力を誇示できる程度の力はあるが、まずは自分が確実に勝てそうな相手を探しているものだ。見るからに偉大なもの、手のとどかないもの、かなわないものには手を出そうとはしない。私などはその点、何とかなりそうで、征服して名を上げるには手ごろな相手に見えるのかもしれない。
それにもちろん、このことに重なるのだが、その程度のものにしか過ぎない私が、たまたま何かを得ていたりすると、その人には、それが不当な結果であり、とても理不尽なことに映るのだろう。
(4)「やつを見た時、どんな思いが?」
その場合、ヘイゼルタイプの人にとって、私そのものが魅力なのか、私が得ているものが魅力なのか、区別をつけることなどはおそらくできないのだろう。私に対してだけでなく、他人に対しても、自分自身に対してさえも、このような人はそうなのだろう。
このタイプの人は、世の中やものごとをすべて、何かをめざして皆が同じ方向に向かって同じコースを走っているレースのようなものと考えている。自分も他人も、そのレースのどの順位あたりにいるかということでしか判断できない。その順位を上げ、やがてはトップになることでしか、生きる充実感を感じられない。
しかし、私だけでもないと思う少なからぬ人にとって、レースはただの手段であり、複数のレースに参加する人も、途中でコースをそれる人もいる。私には特にその傾向が強く、ともすれば、まったく他人が行ったことのない方向に進んで、人のやったことのないやり方で、人の作ったことのない世界を作る。
わざとそうしているのではない。特に突飛なことをねらっているのでもない。私の目的はレースに勝つことではないから、レースに参加しなくても実現できる場合には、そうしているだけの話だ。たとえば文章を書き、読むこと、それだけをして、だらだらと暮らすこと、それについて他人としゃべること、それができる環境があること、そんなことから始まる、さまざまな願いがかなえば、それでよい。そのために必要なもの、便利なものを得るためにしか、私はレースに参加しない。
だから、レースのトップ集団にいるかどうかでしか、他人や自分を判断できない人にとっては、私の価値も魅力も実力もまったく見当がつかないし、私が何をしているか、しようとしているかもほとんど理解できない。
だが、これもまた私だけではないと思うが、こういう既成の皆と同じ方向に走らず、皆が行かない方向に自分だけの道を切り開いて進んで、自分にとって快い世界を作っている人は、そのこと自体が目的で何も求めていなくても、まさにそういう生き方や世界や、そこで生み出されたものが、人の注目を集めて喜ばれ評価され、たくさんの人に集まられたり、既成の価値観を持った人たちから貴重がられたりすることがある。
ヘイゼルタイプの人にとっては、この瞬間に、私と、私の世界とはレースの中に組み込まれる。あるいは、私と、その世界そのものが新しい一つのレースとなって、その人の前に出現する。
私のしていることそのものには、注目も理解もしていなかったのだから、そうなった時、このような人の見方では、私はいきなりトップ集団に登場したことになり、努力もせずに近道をしてズルをしたように見えるのだろう。
あるいは、この人の頭の中のレースのトップ集団に登場したことによって、私と私の世界はいきなり輝きはじめるのだろう。
(5)「ローマでは、通用しない」
ところで、これも私に限ったことではないと思うが、私のような、レースから外れがちな人間が作る世界は、その世界そのものもレースを中心には構成されていないことが多い。
そもそも試合、試験、レースといったものは、何か理由や目的があって行なわれるか、まったくの遊び、娯楽として行なわれるかだが、前者なら必要もないのにやるのは無駄なことだし、後者なら楽しくないと意味がない。だから、それによって常に順位を決め、上下関係を定めておいたり、ふさわしい資格のない者は追放するというのでは、手間もかかるし面倒だし、ごく一部の者しか楽しめないと思うから、私の世界にレースは少ない。皆無かもしれない。あえて言うならそれが、私の世界の特徴だし、そうやって誰でもが参加でき、皆が力を発揮できるのが、私の世界の強みである。
けれど、ヘイゼルタイプの人には、このような世界は生きにくい。常にランクづけの競争が行なわれ、いつも失格を宣言されて脱落、排除されて行く人がいてこそ、ヘイゼルタイプの人は、自分が今、この世界にいる幸福を味わえるのだ。
だが、とても奇妙なことだが、そういう、選別と排除が常に繰り返される、選ばれた人しか生き残れない世界にはヘイゼルタイプの人は行こうとしない。そういう世界にはそれなりの爽やかさや厳しさもあり、はまったらやめられないのは、私にはわかる。必要な時には、私もそういう世界を作るし、参加もする。
しかし、ヘイゼルタイプの人は、そういう世界には決して行こうとはしない。そこでは勝ち抜く自信がないし、排除されると思っている。その予測が正しいかどうか、私にはわからないが、本人がそう予測していることが、すでに半分以上負けだし、資格を失っているなとは思う。
そこで、こういう人は、レースのない、排除や脱落のない、私の世界のようなところで安心して、対決や選別に励む。自分が、この世界での最高の位置、つまりはその世界を作っている私に最も近い位置にいること、この世界にふさわしくないと思う人を排除して、ある資格がないと入れないものにすることを、この人たちはめざす。皮肉なことだが、自分が安心して、何のチェックも受けないで参加が許され、トップでいられる場所というのが他には存在しないから。私と、私の世界とが、仮にそういうチェックや排除を始めたら、自分が真っ先にその対象になることを予測しないから。そして、自分が私のそばで、私の世界で、そのようにふるまうことが、その世界を変質させ崩壊させる危険を招くということも、決して理解しないから。
このような人にとって、私の世界は居心地がいい。だが、なぜ居心地がいいのかを多分充分理解していない。だから、こういう人たちは、得てしてこの世界を自分のものにしようとする。私や他の参加者を自分に奉仕させ、自分の意見を認めさせ、自分の感情を大切にさせ、自分のわがままを通し、自分がその場に君臨する支配者になろうと試みる。
だが、自分が常に心地よく受け入れられ、多くの人がそこにつどい、他人や目上の評価もあるから、その人にはこの世界がダイアモンドに見えるのかもしれないが、この人の本来の基準で行けば、私も私の世界もたかだか天然石であって、決してダイアモンドではない。私と、私の世界とが、このような人の思うままになり、このような人に奉仕し、支配されるものとなったら、ダイアモンドはたちまち、この人の手の中でただの天然石に戻るか、いっそ石ころとなって、この人はまちがいなく、それを投げ捨てるだろう。私にとっても、その人にとっても、それは不幸なことだから、だから私はそれを奪い取らせるわけには行かなくて、だから戦うことになる。相手が必死であればあるほど、この戦いはとても空しい。
人は誰でも、自分の身体と頭と心を持っている。それは他人のものではなく、基本的にはかなりの部分、自分が好きにできるのだ。また、大抵の人は家族なり友人なり、その他の誰かなり、頼り、すがり、求めてくる存在がある。もし本当にまったくなくても、養老院や孤児院、刑務所に行けば、社会が必要とし、求めている労働力や精神力はいくらでもある。
身体ひとつ、心ひとつをとってみても、それは親だった人たちの血肉や育った環境、触れ合った人々の影響、食った食べ物、見た景色などがすべて総合されて生み出された、他に二つとはない組み合わせの完成品で、作ろうとしてももうまたとは作れない貴重なサンプルである(この点で、私は、仮にクローン人間を作ったって、作ったその日から、もうそれぞれの影響が与えられはじめ、絶対にちがうものになるだろうと、ごくごく自然に感じている。冷蔵庫だって、同じメーカーの同じ機種でも、使い方でちがってくるのに、まして人間においてをや)。
だから、その自分と、それに関わる世界を大事に管理し育てて行けば、どんな人でも必ずその人だけにしか作れない、魅力ある世界は作れる。誰もに好かれることはなくても、皆に評価されることはなくても、その世界を見つけて、選んで、愛して守ってくれる人たちは絶対あらわれる。
だが、ヘイゼルタイプの人たちは、私から見ると奇妙なほど、これまた絶対、それをしない。ただひたすらに、他人の作った、皆と同じレースを走り、万人に認められるトップになろうとし続ける。それができない自分、そんな自分を愛する人を、恐ろしいほど粗末に扱う。
トップになれない人間は、もちろん世界に山ほどいる。そんなことは、この世の中で全然みっともないことでも悲しいことでもありはしない。だが、ヘイゼルタイプの人には、これは絶対みっともないことのようだ。だから、範囲を小さくしても、トップでいられる世界を求める。世間の目から見た時に、それほどみっともなくなくて、自分をうけいれ、評価してくれる場所を。
そのような人にとって、私と私の世界とは、世間の価値基準でどのへんにあるのかが判断しにくく、また、私も含めた構成員の序列や順位がはっきりしにくいため、いろんな意味で、手ごろで便利なのだろう。
(6)「私のことを忘れ、二度と訪ねて来るな」
そのようにして私はしばしば、接近され、賞賛され、評価された。その上で、奉仕を、忠誠を求められ、拒絶すれば攻撃、脅迫、処罰された。こちらはまったく望まないのに、相手の力を示すための戦いに、「強いけれど負ける」ための敵として引き出され続けた。
とりわけて、何よりも、私が耐えられなかったのは、そのような過程の中で、本当に心から私を愛し、私も愛していた人たちが、巻き添えをくって苦しみ、傷つき、時には滅ぼされそうになることだった。私がそれなりに心をこめて築き上げてきた人間関係が、一つの世界が、破壊され、荒廃してゆくことだった。
私は、ある時は戦って勝った。ある時は、そのような戦いを避けるために、築き上げた世界を自らの手で閉ざして消した。さまざまのことをした中で、だが、少なくとも私は、そうやって私に接近し、戦いを挑み、私に関わることで自分の何かを証明しようとした人々を、誰も憎んだことはないつもりだった。
だが、「グラディエーター」の映画の中で、コモドゥスがマキシマスに対して行なうことのひとつひとつが、私は自分の体験として、記憶としてよみがえった。嫉妬と崇拝のまじる愛情。信頼と不安をこめた忠誠の強要。拒絶された怒りと異常な狂気にまかせた復讐。皇帝でありながら奴隷に嫉妬する滑稽なまでの価値観の混乱、いやむしろ価値観の喪失。
何よりもラストのマキシマスの受ける処置は、私の全身を戦慄させた。何度、私はこうやって、自分を見つめることができない、自分が何者かわからないし知ろうとしない、その結果自信を持てない、自分という存在を確認できない人間の価値を確認させられるために、たかが本当にもうそれだけのために、一方的にライバルとして扱われ、望みもしない戦いに引き出されたろう。それも決して、本当に実力を試しあう戦いではなく、あくまでその人の望むやり方で、その人の予想する結果が出るように、そして、その人はそれが正々堂々の戦いだと思い込んで、自分が安心し、納得し、つかの間の生きる力を得るために、ただ、たった、それだけのために。
私はマキシマスのように相手をしのぐ圧倒的な力を持っていたのではないから、ハンディをつけるために傷つけられたわけではない。けれど、相手の声望を高め、相手が自分に自信を持てるだけの強さと、最後には倒される弱さを兼ね備えていなければならないものとして存在しなければならなかった、そういうものと予定されて相手に選ばれたという点では、まったく同じことだった。相手が自分を倒したところで、それは相手のためにさえならないことがわかっていて、相手の錯覚と自己陶酔と狂気をますます推し進めるしかないことがわかっていて、そういう点でもその戦いには、何の救いも慰めもなかった。
だからこそ、そのような戦いを戦った時の空しさと悲しみと怒りとが、あの時に皆よみがえった。そして、あの時こみあげて来たコモドゥスに対する、ことばでは表現できないほどの憎悪の激しさは、現実に私にそのようなことをした人たちすべてに対する、限りない憎しみと軽蔑を、私の中に解き放ったのだ。
その一方で、マキシマスを見ていて、言いようもない切なさで、私はいつも思い続けた。
ああ、この人はただ普通に、せいいっぱいに生きているだけなのに。
ただ、与えられた義務を果して、ただ、寄せられる愛に応えているだけなのに。
手のとどかないものは求めないのに。
手に入るものを大切にしていて、それで幸せなのに。
私より、はるかに優れた能力と、私より、はるかに深い優しさを持った彼なのに、私には何度見ても、完璧に彼の気持ちが、生き方が、苦しみと絶望が理解できた。
そして、私に執着した人々すべてへの、激しい怒りと憎しみに心が食いつくされそうになるたびに、しがみつくようにして自分に言い聞かせていた。
ああ、でも、この人だって耐えている。
この人だって、何の文句も言ってない。
それどころか、ひょっとしたら、この人は、コモドゥスを理解して、許しているんじゃないだろうか。
愛してさえも、いたんじゃないのか。
自分が、自分に関わってきたたくさんの人たちへの文字通りとめどなくわきあがってくる憎しみに身をまかせることが恐ろしいあまり、そんな幻想にすがっているのかもしれないとも思った。
それではいけないと思ったから、何度も何度も、映画館に通って、見直した。
映画の中の、マキシマスとコモドゥスの姿からは、私がこの「コモドゥス論」の第一章で分析した図式も確かに浮かび上がる。救いようのないコモドゥスと、それに蹂躙され、最後に彼を殺したマキシマスという図式も。その場合もマキシマスの表情に激しい憎しみはないけれど、それはむしろ、こんな汚らわしい相手に自分の憎しみさえも与えはしないという、最高に冷たい軽蔑と拒絶である。そういう地獄図絵としても、この映画は明らかに成立し得るし、ラッセルとホアキンの演技にも、それを否定するものはない。
けれど、この二人の名優の演技からは、別の図式もつくり上げることが可能だ。確かにさまざまな欠陥はあるけれど、哀れで愛すべきコモドゥスと、その哀しさを感じとって彼を憎めなかったマキシマスという関係も。
コモドゥスがマキシマスに執着するのは、愛情などとは無縁であるという解釈も二人の演技からは充分に成り立つのだが、その執着は愛であるという解釈も可能なだけの含みが二人の演技にはある。
それにすがって私は自分の小説を書いた。「二人の過去」を、「コモ君の厭味」を、「マルクス君の夏休み日記」を、そして、「春、爛漫」を、「呪文」を。
書くたびに映画を見直しては、この解釈が可能かどうかを確かめつづけ、そうやって、百回をこえる非常識な回数、私は映画館にこの映画を見るために通うことになる。
おそらくは、人によっては甘すぎるという批判も下すにちがいない、これらの小説を、私は、小説として書くことを楽しんだのか、あるいは、私を苦しめるかたちで私に関わってきたさまざまな人たちを、愛して、うけいれることができるかどうかという戦いとしてつくり上げようとしたのだったか、それはもう、私にもわからない。
(7)「戦いは終わったのですか?」
最初に書いたように、「冬空」の連載中、コモドゥスに感情移入した熱心な読者が、コモドゥスの愛に応えないという理由で、マキシマスを攻撃した時、私が感じた思いはさまざまだったが、比較的大きかった一つは「嘘をつくな、偽善者め」と私自身がののしられた、という感覚だった。
本当は、おまえに関わって、おまえを傷つけた人間たちを憎んでいるのに、きれいごとを書くな、無理をするな、と。
結局は、その人たちを愛せないし、うけいれられないのなら、いっそ、思い切り憎んでやれ、と。
愛しても、うけいれてもやらないのに、憎むことさえしないのは、おまえが自分の生き方のモラルだかスタイルだかを相手のために崩したりはしない、ということだ。好きでもなく、関心もなく、何の魅力も感じていない相手のために、憎むなどというみっともないことを、この私が何でしなければならない、という誇りであり、冷たさだ。それは残酷すぎるだろうし、相手を逆上させるだろう、と。
そうさ、その通りさ、それで悪いか、とも思った。
「コモドゥス論」を書きはじめ、こうしてここまで書いて来る間に、私の心に何が起こり、どう変化してきたかについては、いちいちは忘れてしまったこともあり、もうここでは述べない。
だが、コモドゥスに対する愛は、完全に一度は消えた。
もともと偽物かもしれなかったと思った時、どんなに私は悲しかっただろう。
それにともなって、最初に映画を見た時に私を支配した彼への怒りも、なまじ理解し分析してしまっただけに、以前以上に強くまたよみがえって、更にはそれにともなって生まれたたくさんの人々への激しい憎しみの中に、長いこと私はいた。ある意味それは地獄だったが、いっそ、それなりの爽快さもあった。
「呪文」は、その前に書き上げていたからよかったが、もしそうでなかったら、あんな話は絶対に書けなかっただろう。実際、今ももう二度と、あそこまで甘い話を書けるかどうかの自信はない。
ある感情が死んで、よみがえらなくなるということはよくあることだが、あれを書いていた頃の自分には、もう決して戻れないなと思う。
ただ、幼いコモドゥスとともにジュバの村へ旅立った「呪文」のマキシマスほどには今まだ私は甘くも強くもなれずにいるが、さまざまな感情をこめて「あなたを決して嫌いにはなれない」と言わずにはいられなかった「春、爛漫」のマキシマスまでには、戻ってきているような気がする。
私をそこまで連れ戻したのは、マキシマスでもコモドゥスでもない。映画ではなく、現実が私の心をそうさせた。
さまざまなかたちで私に執着し、私を傷つけた人たちの、その人たちが愛と呼んでいるものに応えて、その人たちをうけいれることは、私にはできない。この先もできないだろう。
だからと言って、その人たちを憎む気持ちにはなれない。たとえそれが、その人たちを怒らせて、傷つけることになっても、私はやはりその人たちの気持ちがわかるし、好きであるとしか言いようがないのだ。
それは、冷たさではない。決してそうではない。
たとえ、そのためにどんなに罵倒され、侮辱され、傷つけられようと、自分の気持ちに嘘はつけない。どんなに勘違いされ、曲解され誤解される危険があるとしても、やはり、私は彼らを嫌いにはなれないのだと、本当のことを言うしかない。
現実の人たちの顔や名前を思い浮かべてそう思うようになった時、「春、爛漫」の世界もまた、私の中に再び見えてきた気がする。
この先どうなるかは、まだ予断を許さないが。
コモドゥス論(終)・・・・・・・2001.11.8.