映画「マスター&コマンダー」参戦!「マスター&コマンダー」の感想

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一人でも多くの人に見てほしい ― 映画を見た直後の感想二つ ―

「キル・ビル2」はどうか知らんけど、これはまちがいなく「愛」の映画

ところで、映画を見た段階で、もうひとつ、大急ぎでつけ加えます。

この映画は予告編のようなお涙ちょうだいの映画ではまったくないですが、ほんとは「戦う男たちの勇壮な映画」「男の(ちょっと危ないまでの)友情を楽しむ映画」だよ、と言ってしまってはこれまたもったいないです。多分アメリカの宣伝は(※1)海の上のグラディエーター、とかやったらしいから、これでこけたのでしょうね。

※1.この部分について、「『海の上のグラディエーター』はFOXによる宣伝の文句ではありません。多分、どこかのレビューにあったものではないかと。それを宣伝の一部に取り入れたというのはありうるかもしれませんが。それと、この映画はこけてはいません。現在の興行収入は9千2百万ドルで「大ヒット」の基準になる1億ドルにはわずかに届きませんが、こけたとは言えません」とのご指摘あり。私も事実をよく確認しないで書いたので、おわびして訂正します。

もちろん海洋スプラッタ映画と思っても、おじさんのかわいい友情を見ようと思っても楽しめるから別にいいけど、これは、それだけの映画じゃないです。

これは、優しい、優しい映画です。すみずみまで、あたたかい、心のこもったいとしみがあふれています。育って行く未来への。過ぎて行く時間への。何でもない日常への。欠点だらけの人間たちへの。輝きわたる自然への。つかの間の、忘れられてしまう一瞬一瞬への。せつなくて、ひたひたとうるおうものがあって、でもそれは決して涙なんかになってあふれはしない。
この映画全編に、本当の優しさがあります。本当の愛があります。「キル・ビル2」が愛の映画かどうかは知りませんが、「マスター&コマンダー」はまちがいなく「愛」の映画です。

だから、「愛」の映画が好きな人は行って下さい。でないと、ほんとに損をします。「禁じられた遊び」とか「ニューシネマ・パラダイス」に感動した人は絶対にこの映画に感動します。血だの砲弾だの男の友情だのにだまされてはいけません。それも楽しめますが、これはそれだけじゃない。ほんとの意味で「泣ける」映画です。涙はほほには流れません。心の中にあふれます。そして、仕事や人間関係でささくれて疲れている気持ちを静かに静かにいやしてくれます。

私はあの「母さん、さよなら」と甘ったるく呼びかける予告編は、あいかわらず憎むし、この世から消したいと願っています。だから、抗議行動は続けます。でも、この映画を見て初めて、あの予告編をひっこめなかった人の気持が少しだけわかった気がする。この映画にはたしかに何かとても美しいあたたかいなつかしさがある。それを何とか表現しようとしたら、ああいう化け物ができてしまったのでしょう。少しだけ理解しました。同情します。私をここまで優しくしたのはあの映画の魔力です。でももう充分です。あの予告編はひっこめて下さい。何となく、気持はわかりましたから。

というわけで、皆さん。
お涙ちょうだいの予告編はもちろん信じてはいけませんが、「男の映画」というのも信じてはいけません。これは「人間の映画」です。そして、私は愛ということばを使うのはふだんは好きではないけれど、この映画はかけねなしに「愛の映画」です。これも私はあまり使わないのですが「癒し」の映画でもあります。冷たさはありません。暗さも、意地悪さも、空しさもありません。生きて、弱音を吐かないでがんばっているすべての人が、とても力を与えられ、慰められる映画です。(2/28→3/6トップページから転載)

「ロード・オブ・ザ・リング」より完成度が高い。それなのに、なぜこんなにもいとしい映画なのだろう。

今日(28日)、話題の映画「マスター&コマンダー」を見てきました。この映画そのものについてやっと私も語れるようになりました(笑)。

わりと小さい劇場だったせいもありますが、土曜の最終上映で満員でした。もともと男性や年輩の人も多い映画館ですが、客層は多彩で皆熱心に見ていました。問題の冒頭の字幕のせいか(ちゃんと削除されていました)、始まる時は異様に静かで緊張感が走ったようでしたが、きっと私の気のせいでしょう(笑)。前から三列目のまん中だったこともあって、迫力をしっかり楽しめました。

この映画について語ることはとても多くなりそうな気がします。少しづつ話して行くことにします。

暗い、地味、血が流れる場面が多い、リアルすぎて息がつまる、などという感想を聞いていたのですが、どこが?というのがまず感想です。こんなに明るい、華やかな、洒落た、繊細な、あたたかい、緻密な映画、久しぶりに見ました。初めて、と言ってもいいぐらいです。
また、じゅうばこのあまのじゃくがー!と言われそうだから、ついでに言いますと、この映画に私が抱く感情は「かわいい」です。全編がすみずみまでいとしくて、じいっと抱きしめていたくなる、そんな気持にさせる映画です。

それは、この映画が、けなげだからだと思います。甘えてないからだと思います。少しも手抜きをしないで、心をこめて作っている。それも、これみよがしじゃなく、必死でもなく、職人が喜びをこめて愛情をこめて、ていねいにしあげた品物のようです。だから、激しい戦闘はどこまでも激しく、スケールは大きくお金をかけていても、なんだかすごく小さく見えるのです。ふつう、小さく見えるというのは悪口ですが、この場合は最高の賛辞と思って下さい。ものすごい大きい荒々しい世界なのに、それがすっぽり両手の中におさまりそうな、そういう最高級のぜいたくな小さい細工物を渡されたような感じです。

私は「ロード・オブ・ザ・リング」も好きだし、アカデミー賞とっても決して文句は言いませんが、でも、格調も品格も完成度も、「マスター&コマンダー」の方がはるかに高いと思います。「ロード・オブ・ザ・リング」があれだけがんばってるのに賞をとらないのはいけないし、困りますが、しかし、作品の質ということでなら、文句なしに「マスター&コマンダー」が上です。それほどこの作品は芳醇で濃厚で、しかも決してくどくもしつこくもありません。

海に浮かぶ帆船の美しい立ち姿、いっせいに下りる帆、ゆれる帆綱、それが烈しく火を吹いて互いを傷つけあう海戦の荒々しい美しさ。そして、その船を動かす人間の集団、ひとり一人の身体のはかなさ、心のもろさ。絶妙のシンフォニーでそれが語られながらも決してその技術を見ている者に感じさせない。美しい船がひとりでに動いているように見えるのと似て、一見何の技巧も感じさせない最高の技術がそこにはあります。

ラッセル・クロウの艦長をはじめとして、登場する人物は皆、決して過度におのれを語らない。めいめいが自分の職責を果たして、死ぬ者は死に、生き残る者は生き残る。そして彼らは死者を葬ったらまた笑って食事をし、戦いを続ける。
この映画が現代と結びつくテーマがないという指摘もあったのに驚きます。ここには人生そのものがある。生きて行くってこういうことです。こんなにリアルに私たちの日常とつながる映画も珍しい。

ひとつにはそれは、この映画には悪役がいないことです。といって正義の人がいるのでもない。オーブリ―艦長は悪い艦長ではなく、よい指揮官で、部下も彼を慕っています。こういう「あまり問題がない」状況は実はドラマになりにくい。それがみごとになっている。戦争という極限状況でも、これはとても普通の日常です。あるいは極限状況が日常となっている状況です。それをちゃんと面白く見せる。
たとえば艦長が人間としての弱さを見せたり(「プライベート・ライアン」のトム・ハンクスのように)、ラストでこれでもかこれでもかと言いたげにすべてをめでたく解決して観客を安心させないと席を立たせなかったり(スピルバーグの映画みたいに)、そういうことをこの映画は全部徹底して避けている。だから、そういうのに慣れていると、葵の印籠が出て来ないように居心地悪くて不快になる人もいるのかもしれない。でも、そういうお決まりのサービスをわざと何もしないのが、何とみずみずしくて余韻を残すことか。決して観客にこびを売らない、でも冷たさや意地悪さは少しもない、このけなげな優しさが、私にはもう、いとしくていとしくて抱きしめたくてしかたがない。

考証はたしかに細かい。本物しか持てない説得力が全体にある。でもそれだけだったら退屈な映画になるはずです。それをやった上でなお、この映画には緻密な構成、テンポのいい語り口、俳優たちの名演技がある。
オーブリ―とはちがうけど、マチュリンとはちがうけど、それでも彼らは魅力的、と原作ファンが認めた気持がよくわかります。そういう言い方でしか言い表せなかったのだと思うけど、この二人はやはりオーブリ―とマチュリンのある本質をつかんでいる。何より二人の間に流れる深い絆の本質を。
それはまたあらためて話すとして、ラッセルとベタニ―が徐々にまるでヴァイオリンとチェロの合奏のように、この二人の関係を描き出していく、心憎いほど余裕を持った演技の安定感はたまらない。これ以上やったらやりすぎの色っぽさを二人とも絶妙のところでぴたりと抑制してみせて、最後は至福の境地ともいうべきつかの間の世界をみごとに具現してみせる。あれはもう、こたえられません。

その二人をとりまく群像もまたみごとで、これはきっと一度だけ見ても何度見ても、それぞれに楽しめるように監督が一番サービスしているところなのでしょう。もう何回か見てその発見を楽しみたい。(2/28)

いろいろな批判を見るほどに、素晴らしさを再確認してしまう

豪華きわまる遊び心

前にも言ったように、この映画に不満を抱く人が、では何を求めているのか私はほんとにわからないのだけど、中には少し詳しく言ってくださる人たちもいて、「予想通りの展開しかない」とか、「もっと各自の過去とか経歴も知りたい」と書いている意見も見た。

この「予想通りの展開」について、いろんな意味で私は不満はなかった。実は予想通りの展開ではないのに、あまりに自然で説得力があるから、そう見えてしまったということさえあるように思う。それと、ずっと感じたのは、戦争という「非日常」の映画ではなく、これは戦争のよしあしは別にして、戦争が「日常」となっていることを描いた映画なのだということだった。それがうまくできているのがまた、目がさめるほど画期的で興奮した。

つまり、意外なことなんかないのである。手順を踏めば船は回転するし、油断をすれば敵に迫られるのである。能力のないやつはそういう末路をたどるし、戦えば誰かは死ぬし、艦長の判断が正しければ勝つのである。
ずっと昔、学生運動をやっていたころ、私はそれなりのささやかながら私としては充実した戦いの日々から何を実感として学んだかと言えば「奇跡は決して起こらない」ということだった。努力は報われ、誤りはしっぺがえしをくらい、蓄積がなければ息切れして敗北する。それは味気ないぐらい正確で確実な方程式だった。
だから、この話、この映画が描くのは、ある意味とても「退屈」な世界なのである。血が流れ、命が失われ、船がぶつかり、腕がなくなっても、特にそれはドラマにはならない毎日なのである。すごいことばかり起こっているけど、どこか皿洗いや掃除や家事や畑仕事と同じなのである。そういう日常性がきっちり描かれ(緊迫した戦いの中でもキリックは料理や皿を守る)、生死をわける局面がひきつづいても、どこかにずっと倦怠感がただよう。これを観客が不愉快にならない程度にきっちりと再現しているところがものすごい。
緊迫感がない、だるい、退屈、という悪口はある意味とてもあたっている。だがそれは、この映画の欠点ではない。描こうとしたことの一部なのだから。

それでなくても、船の暮らしは退屈で単調だ。それが昂じると一種の非現実感が生じる。迷信が生まれ、幽霊船が見える。この場合、アケロン号がスピルバーグの映画「激突!」の巨大トラックのように、どこかこの世のものならぬ雰囲気をたたえて出没するのも、そのような現実と夢のはざまを行き来する船乗りたちの心を反映して、痛いほどうまい。

これは、壮大なスケールで贅沢に手抜きなく激しい戦いを描きつくすけれど、そして、それだからこそできるのだけれど、それを、まるで、主婦が台所で仕事をする日常を描くように、昔、殿山泰司と乙羽信子がやった新藤兼人監督(だっけ)の映画「裸の島」のつましい夫婦の毎日変わることない農作業の映像のように、「何が面白いんだかわからないような単純な退屈な毎日の記録」をじいいっと見せられているうちに、むしょうに面白くなってくる、そういう映画として作っているのだ。こんなおっそろしい贅沢な、そして大胆な映画があっただろうか。しかも完璧に成功している例が。

だから、どこか箱根駅伝を見ているような(「ただ人が走るのが何でこんなに面白いんだろう?」)、ひよこの一日をずっと定点撮影してるのを見るような味わいがある。見ていてじわじわ心にこみあげてくるのは、そういう快感と興奮である。しかもそれを現実の駅伝じゃなく、ちっこいひよこじゃなく、最高の役者と完璧な時代考証と金にいとめをつけない舞台装置でやってくれる、この遊び心はもうどう表現し感謝したらいいのだろう。
豪華さとは、こういうことを言う。華麗とはこういうことを言うのだ。贅沢とはこういうことを言うのだよ。(3/6)

どうせ「再構築」するんなら ―もう一つの「プラトーン」?―

このコーナーのトップページにリンクしている「勝手に応援しますっっ」のサイトで紹介されている 八日菖蒲さんの批評は、この映画の基本的な図式をとても的確にとらえていると思う。私もまったく賛成だし、大変勉強になった。 そこで、少しその尻馬にのって、思いついたことを書いておく。

あのひどい宣伝をしたブエナ・ビスタはJARO(日本広告審査機構)の調査に対して、「少年の目で見て再構築した」内容とうそぶいているそうな。まったく登場もせず、およそこの少年に似つかわしくもない故郷や母親に関して、みすぼらしい妄想(まったくどうせ妄想なら、せめてもうちょっと独創的に気宇壮大にやれんのか)をひきのばすのは再構築とは言えないだろう。どうせ再構築するのだったら、ここで八日菖蒲さんがきちんと指摘している図式に基づいて「再構築」すれば、ずっと面白かったのに。

その図式とは、つまり前途ある優秀な士官候補生の少年が、勇猛な軍人の艦長と、冷静で自由人の科学者である軍医とに、ともにひかれて、自分の将来の理想を二人の中に見て迷うということだ。 そして、この少年の視点で、そのように二人の魅力ある対照的な大人を比較して見つめることは、「再構築」というまでもなく、明らかに映画が意識している手法と思う。
この少年に注目し、「見られる」存在にまつりあげてしまったことは、実は予告編のもう一つの大失敗で映画を誤解させる大きなわなとなっている。いかにかわいかろうが目をひこうが、この少年の映画の中での位置や役割は「見られる」ものではなく「見る」ものなのだ。ラッセル・クロウ出演作であげるなら「ハマー・アウト」の少年と同じく、この少年は語り手で(語りはしないが、同じ性質の存在で)、観客がこの少年の目を通して見る位置におかれている。特に、主人公二人は常に、この少年に(乗組員全員にだが、その最も深い部分で)「見つめられる」存在なのだ。そこにかわいい少年を持ってくるのが監督のぬけめのなさで、ほんとなら観客と一体化した「主人公二人を見つめる位置」にいることが、本来の魅力とあいまって彼の最高の魅力となるはずだった。そのことによってまた、主人公二人の魅力もひきたつ、大変精密に心憎く計算された相乗効果どころか三乗効果を生むしかけがあったのである。
この絶妙のしかけをあの宣伝は完膚なきまでにぶちこわしてくれた。私が監督なら泣くに泣けまい。センスのない人間のすることによって生まれる被害には、まったくもうとめどがないと言っても言い過ぎではないだろう。

それはともかく、これで思い出すのはベトナム戦争を描いた「プラトーン」の主人公、新兵クリスである。彼はもっと年上の青年だし、はっきりと「語り手」として登場するが、このクリスも戦いの正当性を信じて苛酷な指揮官となる上官のバーンズと、敵にも思いやりを失わない良心的な古参兵エリアスとの双方にいわば、あこがれている。最後に彼はエリアスを選び、バーンズと対決するが、ラストで彼は「僕は今にして思えば、あの二人の間の子どもだったのかもしれない」と考えようではものすごいせりふを吐いている。
ベトナム戦争という救いのない戦場が舞台だったこともあって、この映画でのバーンズは半ば狂気で残酷で、磊落で愛すべきわがオーブリ―艦長と一見似ても似つかない。それでも二人は軍人として指揮官として共通する要素をまちがいなく持っている。エリアスとの対立ほど激しくなくても「無政府主義者」とまで言われるマチュリンと対決せざるを得ない性質をオーブリ―もまた有している。
クリスが二人にひかれたように、幼い士官候補生もまた二人にひかれる。二人は対立してはおらず、むしろ深く心を許しあう親友どうしだが、それでもなお、少年の目から見た時、二人のどちらのように生きる道を選ぶかは大きな課題だろう。彼もまたのちに「自分はあの二人の間の子どもだった」と感じるのかもしれない。これは、そういう青春の悩みをもまた描いているのだ。バカな予告編がその枠組みにぐちゃぐちゃに泥と汚物を塗りたくってわかりにくくしてくれているけれど。(3/5)

よみがえる風景

今日、二回めを観てきたのですが、観なければよかったなあ。一回めにも増して魅力を再確認して、それはいいけど、どうも、この良さがわからないという人と意思疎通ができるんだろうか不安になってきはじめた。これが退屈、内容がない、何言いたいかわからない、という人の気持が到底理解できそうにない。私は自分と意見や好みがちがっても大抵の人の言うことはそれなりに理解できるつもりだったけど。

まあ、あの宣伝で期待して行った人にしてみれば、「予想していた内容がない」ということになり、期待していた話じゃないから退屈、理解できない、となるのかもしれないからそこは割り引かなくてはならないのだろうけど。でも宣伝とは関係なく「わからない」「何も感じない」という人が多いのだったら…ううむ、私がふだんいろいろ言ったりしたりしていることの意味っていったい正確にどれだけの人に理解されてるんだろうか。
たとえば死ぬほど悲しくてもにっこり笑って軽い冗談にするとか、事実だけを述べてあとは何も言わないとか、そういう表現方法ってまったく相手に伝わらないことが、これは相当あるのかもしれないなあ。
そういうことまで気になり始めた。これはきっと私が今していることや言ってることなんて、誰もほとんど理解してないのではないだろうか。

私にはこの映画、内容はありすぎるほどたっぷりだし、耳もとでどなられてるように何が言いたいのかわかるし、めりはりはありすぎるぐらいだし、わかりやすくてサービスしすぎにさえ見えるのだけど。一瞬一瞬どきどきして、目をみはりつづけてしまうけれど。

冒頭、音もなく映し出されるマストになびく旗、船の帆、帆綱、そして光る海にしいんとたたずんでいるサプライズ号。まるで生きもののようなその姿を見ただけで、波を感じ、風を感じ、私はどちらかというと森の方が好きで海には微妙に違和感があるのだけど、それさえもともなって圧倒的にもう、海そのものをいっぱいに感じました。「パイレーツ…」も別に嫌いじゃなかったけど、あれ観たときにこんな感覚はいっさい生まれませんでした。
そして、すっかり忘れていた、幼いころや若いころに読んだ海洋小説を一気に皆思い出しました。「捕鯨少年ピーター」とか「十五少年漂流記」とか「さんご島の三少年」とか、「女王陛下のユリシーズ号」とか「戦艦バウンティ」とか「ケイン号の反乱」とか。コンラッドの「ロード・ジム」とか「青春」とか。もっと何かあったなあ。夢野久作の作品も何かなかったっけか。ああ、私は忘れてたけど、昔ずいぶん(空想の中で、お話の中で)船に乗ってたんだよなあ、ってものすごく心が底からかきまわされました。

そういう話で数多く見てきた、乗組員と艦長の軋轢、船内の生活の凝縮された人間関係、そういうものをあの映画の一場面ごとに思い出しました。皆、どこかで見た風景。文字でしか知らず空想だけで思い描いていたものが、次々に目の前にあきらかになる。
それは決して、あの映画が細かな考証を正確にしていたからだけじゃありません。監督や俳優を初めとしたスタッフは、それに命を吹き込んでいました。血肉をそなえた人間として彼らは呼吸していました。 この映画はむろん、それだけではありません。でも、それを見せてもらっただけでも私はもう満足です。あの時代の人の世界の中に入り込み、彼らと時間をともにできただけで、もう充分に。(3/5)

今週と来週の間 ―これ以上のラストは望めない―

ずっと昔(大昔)、「ナポレオン・ソロ」というテレビドラマにはまった。おちゃらけたスパイもので、主役のソロと相棒のイリヤのコンビが楽しい話だった。かなりはまって見ていて、ある時、事件が一段落してのんびりひきあげて行く二人を見ていて、多分とても彼らを愛していたからだろう、ふっと、そんなにのんびりしていていいのかなあ、ドラマだから来週までは何も起こらないけど、あんたたちの世界じゃそんな保障ないはずじゃん、今すぐ道のそばから敵が飛び出してくるかもしれないよ?と思った。
この感覚、わかってもらえるかなあ?私もその時まではそんなこと感じたことなかったし。

でも、それからはよく考えた。私たちが見ているドラマとして切りとられた部分では事件は始まって終わるけど、実際にはそうじゃなくて重なって起こったり、終わったと思ったら続いたり、そんなことばっかりなんだよなあと。それは何だかおちつかなくて嫌な気持もする反面、そう思うとなお登場人物たちがいとしく、せつなく、そういうところも描いてくれてもいいなあと思ったりした。

そういうドラマやお話の作り方は、たとえばミステリとかではちょいちょい見るし、映画でも「やっぱりこの二人は苦労がたえない」みたいなほほえましい感じで、これからの災難を予感させて終わるようなものもある。でもたしかに最近そういうのは特に大作では少ない。これでもかというぐらい、あらゆる部分に「結末」をつけて、完璧にお話を「終わらせる」。これはこれでいい。余韻がないとか、観客をバカにしてないかとか、観客がだんだんバカにならないかとかいう批判もあるだろうけど、でもこういう映画はこれでいい。
ただ、そうじゃない映画もあるのだ。そうでない作品の方が全体としては多いのじゃないだろうか。

「マスター&コマンダー」のラストに「あれで終わりか!?」と驚いたり、いっそ怒ったりしている人は多いようだ。でも私はそれがむしろふしぎだ。んなこと言うなら「禁じられた遊び」のラストも「嘆きの天使」のラストも「風と共に去りぬ」のラストも「人間の条件」のラストも、何も終わってないし解決してないし、人によってはものすごく欲求不満になるだろう。

たしかにまあ、それにしても、この映画のラストはちょっと大胆すぎるかもしれないが、でも私はすごく好みだし、こんなに自分の好きなもの作ってもらっていいのだろうかと思うぐらい好きだ。 あのラストの状況ってわかりにくいのだけど、要するに急いで敵を追っかけて戦わなくてはいけない危険な状況がまた起こってしまったわけだろう。でも、その戦いが始まる前のつかのま、艦長と軍医とはヴァイオリンとチェロの合奏をしてるわけだろう(いいんだろうねこれで?)。
二人はものすごく楽しそうだ。何も悩みも不安もないかのように。 多分、ほんとにないのだろう。二人にとって危険や苦難は日常化している。それが消え去ることなんかない。喜びや幸福は永遠に保障されるものではない。つかのま、訪れて、その時に充分に味合わないとすぐまた消えてしまう。だから二人は今を楽しむ。こんな時間をわかちあう相手を与えられたことだけでも充分に神に感謝する価値があると多分、どちらも感じている。その二人のつつましさがとても、うらやましいし、せつない。

ここには遠い昔、私が夢みた、「連続ドラマの今週から来週の間の世界」が輝いて存在する。そして人生も六十年近く(とちょっとカッコつけてみる)になると、どんな喜びも満足も、結局はこういうものにすぎないことがわかってくる。栄光は色あせる。業績は古びる。愛は失われ、友情は変質する。肉体は衰え、精神も弱まる。確かなものなど何もない。
それでも、その時々に愛する友や家族がいる。安らげる場所があり、うちこめるものがある。それはいずれは、もしかしたらすぐにでも失われるかもしれないけれど、だからといって楽しまないでいることはない。味わいつくして酔うのがなぜいけない。
私は今、すべての喜びをそのように感じるようになっている。だからこそ、あのラストの場面は私を陶然とさせる。すぐにあわただしく終わらなければならないだろう、それゆえに一層豪奢な、至福のひととき。それに身をまかせる二人がまぶしくて、せつない。(3/4)

戦う貴婦人

今日は時間がないので、少しだけ。
二隻の帆船が戦おうとして画面の両側からじりじり近づき合って行く場面は、優雅な美しい貴婦人二人が剣をかまえてにじりよって行くようで、背筋がざわざわ、目がくらくらするほどきれいで刺激的でした。「キル・ビル」のラストの決闘みたい。いやそれ以上かしらん。

ガラパゴス島が何で出てくるのかわからんという意見もあるようで、私は何で出てくるのかわからなくても出てきただけでうれしいし、まあ、出てくる理由はちゃんといろいろあると思いますが、一つだけ言っておくと、あれってマチュリン先生の弱みなわけじゃないですか。それだけでもなくてはならない存在ですよね。
そして私、この映画を艦長と船医の危ないまでの友情ってことをあまり前面に出して評価したくはないんですが、それでもこの際言ってしまうと、「約束したじゃないか!」と言い張るマチュリンに当惑したり怒ったり、でも最後には思う存分島を楽しませてあげる艦長は、まるで「あなた、お仕事がすんだらいっしょに買い物に行って下さると、あんなにおっしゃったじゃありませんか!?」と涙ぐんで切れてる奥さんに困ってる旦那さんそのものですよね。そういう点でもあのガラパゴスはなくてはならんのですよ(笑)。(2/29)

たとえば、ホラム君

冒頭で彼は望遠鏡で霧の中を見る。敵の船影を見たようで、でも決断ができない。迷っている彼にじれた、紅顔の健全そのものの美少年カラミー君が代わって命令を下してしまう。  それを見ながら何十年かぶりに思い出したのがアリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」で、あれはもっと近代の船だけれど、やはりマストだったか甲板だったかから見ていた若い士官が「波の間に絶対に何かが見える」と言明し、「ほらまた!」と必死で主張するので、艦長は他の機器や何かのすべてに反映してないけど、その十七歳かそこらの士官の目を信じて船の向きを変える、という場面だった。結局それは魚雷か何かで、間一髪船は大破をまぬがれたのだったと思う。
見て、確認するということはそれほど微妙で大事なことだったのだなあ、とあらためて思い出した。

だが、ここでの逡巡も含めて、ホラムという士官候補生は決して悪い人ではない。艦長が言う「能力がある」というのも嘘ではないと思う。
むしろ感受性が豊かで、自分がどう思われているかよくわかるし、自分が決断することの結果や責任の重さを痛感しているから、逆に慎重になってしまうところもあるだろう。

彼は水兵たちにとけこもうとわざとしているだけではなく、ある意味差別意識のない人でもあるのだと思う。水兵たちの歌に合わせて思わず拍子をとり歌ってしまうのもそうだし、ネイグルたちが陰口を言っているのに気づいてふりむく前には山羊を優しくなでていた。
時代や環境がちがったら、彼はその能力をちゃんと発揮したかもしれないと思うし、最初の決断ができなかったり、嵐の中マストの途中で固まってしまったりするところなども含めて、彼は(女性の特質では絶対ないけれど)従来言われてきた「女らしい」性格の人なのだと感じる。命令を下してもらい、決定してもらい、守ってもらうのが似つかわしい人。そういう環境でこそ、ほんとの力を発揮できる人だったのではあるまいか。

彼は落ちこぼれと言っても、人を指導する立場にある。それが二重に問題となる。映画「プラトーン」の場合、大学出の無能な指揮官ウルフがこれにあたるように、たとえ優しくても人柄がよくても、有能でない上官は部下にとっては命とりだから当然うとまれる。
支配される側は、このような無能力者や弱者を残酷なほど見抜く。そして情容赦なく攻撃する。

反戦映画の図式といってもいろいろあるが、このような脱落者をどのような人として設定するかもさまざまだ。
野間宏「真空地帯」の中では、上官にいじめられるだらしない学生出身の安西という二等兵が登場する。彼はなぐられ侮辱されひいひい泣いたりしているが、ずるいところもあり、作者はどこか冷たく見ている。代わりに同じ学生出身で弓山という二等兵がいて、彼は真面目で軍務もよくこなす立派な若者だ。安西のことをかばいながらも恥ずかしがっている。
私が読んだ文庫本の解説で誰だったか忘れたが、「安西はたしかに醜いが、実は弓山の方がもっと醜い」というようなことを書いていて、私は動揺し考えさせられた。こういった観点がその当時はたしかにあったし、今でも否定はできないと思う。つまり、まちがった戦争の非人間的な軍隊という組織の中で、弓山のようにけなげに生きることにどういう意味があり得るのか、という。
これが大西巨人「神聖喜劇」の中では、弓山のようなタイプの(つまりカラミー、ブレイクニ―の線である。いや、雰囲気としてはプリングスか)兵士は藤間という青年で、作者はこれを徹底的に肯定的に描いていた。つまり共同体や組織の目的が何であれ、やはりそこできちんと生きることは貴重であるということなのだろう。

「マスター&コマンダー」という映画のうまい、無駄のないところは、共同体の脱落者である人物を最下層の水兵ではなく、指揮をする上層部に設定したことだ。彼を侮辱した水兵を鞭打ちの刑にすることはできても、艦長をもってしてなお、水兵たちに彼を尊敬させ愛させることはできない。
水兵たちの彼への反感は、迷信や流言蜚語によって助長された面もあり、決して正確でも正当でもなかった。それでもこうして否定されたら、艦長ももう彼を守れない。表向きの服従と恭順の無気味な圧迫は彼をますます追いつめる。
これを現在のいじめに共通する大衆や集団の残酷さととるか、民衆や庶民のたのもしい底力ととるかは人さまざまだろう。だが、ここには、ひとすじなわでいかない人間関係や支配関係の図式が否応いわさぬ実感で方程式のように正確に描かれている。何げなく運営されている日常の歯車が狂えば、それは誰にもとめられず、絶対と見える艦長の権力のひとつまちがえば崩れ去る脆弱さもホロムの運命は示している。船は人が動かすのではない。人の心が動かすのだ。(3/13)

等身大の戦争映画

あまりにもうまくやってのけているので、その大胆さに気づく人は少ないのかもしれないが、この映画は、戦争について人間について組織についての近代的な解釈、現代の感覚を映画の中にまったく持ち込んでいない。こういう映画は、特にマイナーな芸術映画ではこれまでなかったわけではないが、それはまた「当時の感覚はこうで」と強調し、「あんたショックでしょうが、それは当時はこうで」みたいに観客と登場人物の両方を馬鹿にして制作者が鼻高々になっている、みたいな姿勢のものが大半だった。ような気がする。

この映画は、そういう「いいか、覚悟しろよ、その当時はこうだったんだぞ」と目をいからせることを全然しないけれど、こともなげにそれをしてのけている。

他の映画で比べる方が早いだろうから例をあげる。私は「グラディエーター」が大好きで、今もこれからも最愛の映画という位置は変わらないと思うが、しかし、あの映画は(そのことを批判しているサイトもあったが)「ローマを民主制に戻す」という老皇帝の遺言を受けて主人公が元老院と協力することになっており、この点で現代の私たちの感覚を逆なでしない工夫をしている。私はカエサルが元老院と対立し皇帝の権力を強化しようとしたことを「強い指導者が必要」などという文脈で、無責任に強調されるとこれはこれでムカムカするが、しかし、「グラディエーター」が主人公が最底辺の奴隷であり、かつ民主政治を再建しようと努力するという設定になっていると、やはり、うーん、まあいたしかたないかなあとは思いつつ、きわどく逃げたなとも思うわけである。征服された異民族の剣闘士が「あんたはかつてローマの将軍だったのか」と問いかけた時の主人公の微妙にあいまいな応対と表情からも、私はこのような点への配慮や考察が監督や俳優になかったとは思っていない。充分にいろいろ考えた上での選択とは思うが、やはりそこには現代の観客の政治的感覚への配慮と妥協があるのである。(「スパルタカス」が明確に「抑圧された人間」の立場をつらぬけたのに対し、「グラディエーター」は、かつて自分も支配し侵略する側だった人物を主人公にすることによって、より複雑な厚みを増している。どちらが上とは言えないが、こういう点からも私は決して「グラディエーター」が「スパルタカス」と比べて単純とか芸術性や思想性が低いとは考えない。)

「マスター&コマンダー」が、そのような当時の感覚そのままの設定を行ったのは、そりゃ原作があるからだろうと考えるのはあたらない。ハリウッドの大衆路線の前には原作の設定などものの数ではない。たとえ世界の大古典でも。
どうせ何度も映画化されて原作の思想などどっかに行ってる小説ではあるが、そしてそれでも魅力が失われないのは、もともと原作そのものでも思想などどうでもよかったということなのかもしれないが、デュマの「三銃士」だって、たとえば、映画「仮面の男」では民衆の苦悩など考えない残虐な王ルイと思いやり深い双子のかたわれフィリップの対立で、三銃士は民衆のためにルイと戦う。しかし原作では、どっちかというと近代ブルジョワジーの感覚に近いダルタニャンが実利や合理を優先しがちなのに対し、この小説の理想的人物像であるアトスが「貴族の血統はおかしがたいもの、庶民と同一視などできない」という人種差別説教を長々と行い、ダルタニャンは恥じ入って口もきけなくなる、などという場面が熱っぽく描かれている。つまり原作の三銃士たちにとって、民衆などは王や自分たち貴族と比べるとごみに等しい存在なのだ。
私はそれでもいっこうに小説の中のアトスが嫌いにはならないし興ざめもしないが、映画がそういう彼らの思想をねじまげて民衆の代表にするのは二十一世紀の今日、まあやむをえないだろうなとも思って笑ってそれなりに感激することにしている。しかし、やはりそれはほんとは、小説の中の彼らが見たらびっくりしてショックを受けるような描き方ではあるのである。

そんな例は限りがあるまい。「風と共に去りぬ」の原作では、ヒロインの恋するアシュレや二度目の夫のケネディたち、良識ある立派な南部の紳士たちは例の白帽子白衣装で知られるK・K・K(クー・クラックス・クラン。「ミシシッピー・バーニング」「オー!ブラザー!」などでは文句なく悪役の無気味なカルト集団として描かれる。まあ、このことにはさしあたり私は異存がないけれど)に所属というか、その組織を結成しており、黒人のリンチに出かけている(アシュレが負傷し、ケネディが死ぬのはその時だ)。映画ではむろんそんな組織のことは描かない。
古代史劇だってすごいぞ。映画「ベン・ハー」の戦車シーンは有名だが、原作では悪役メッサラは戦車に細工なんかしない。車輪の車軸の高さを工夫して相手の戦車を故意に破砕し、相手を瀕死のけが人にして再起不能にするのはベン・ハーの方です。(ちなみに私はそういう悪辣なことをする彼の方が好きですが。)しかし「正義の味方」はそんなことしてはいけないから、映画はまったく逆の設定にした。

それもこれも、「現代の道徳、倫理、常識」にしばられている観客に目くじらたてられないための作り変えである。私はいつもそれを見たり感づいたりするたびに薄笑いを浮かべはするが、まあしかたがないと思って受け入れて楽しむことにしていた。そもそも、そういう配慮や妥協をしないで作った作品が現代の観客に受け入れられるのはたしかに難しかろうと思ったし、そういう映画が実際にどういうものになるのかの想像もちょっとつかなかったのだ。

「マスター&コマンダー」を見ていて感じた快さはいろいろあるが、その一つがこれだった。途中から、いつも映画を見ている時に心のどこかにのしかかっていた重しがすっととり除かれ、気づかずにいようとしつづけていた縛られていた縄がするりするりと抜け落ちて、海の中を自由に泳いでいるような、誰にもはばからずせいいっぱい呼吸ができるような、ふしぎな自由さと解放感を心の底から感じた。
ここにいるのは、過去の服装、顔つきをしていても、妙に近代的なことを考えたり言ったりする化け物ではない。いつもびくびく現代の私たちに気に入られないかどうか配慮しながら行動しているにせものの臆病な十八世紀人ではない。そのことがつくづくわかった。

もちろん、注意深くとりのぞかれている要素はあるだろう。船員どうしの同性愛、男たちの女性観などなど。それでも、この話の中心になる「戦争」について、この映画はこれまでのどのような戦争映画、冒険映画にも見られなかったほど、作為や妥協を排している。

おそらく、戦争映画を見に行く人たちは、「悲劇」「戦争反対の訴え」を期待するか、スカッと現実を忘れるショーを期待するのだろう。前者なら、少々重くて暗くても最終的に「自分とは関係ないかわいそうな人たち」に涙し、現実の自分は幸福と満足できる。後者なら戦争の実感を味わうことなくハラハラドキドキの爽快感を楽しんで、また退屈な現実に戻れる。
ちがっていたらごめんなさい。だが、少なくともそういう人たちは、この映画にほんとに期待を裏切られて腹を立てただろう。登場人物はいっこうに不幸そうではない。戦争をしているのに!人が死ぬのに!敵を殺すのに!絶望のあげくとかじゃなく、必死の気晴らしでもなく、どうみてもほんとに楽しそうに歌を歌ったり、食事をしたり、ヴァイオリンひいたり、嬉々として生き生き仕事に励んでいて、ひょっとしたら自分たちよりも幸福そうにさえ見える。そんなことがあっていいものか。
そして、ここに描かれる戦争はものすごく退屈である。戦いが始まるまですごく長くかかるし、準備がいるし、討論がある。これならまるで自分たちがふだん職場でしていることと同じではないか。そんなものを見に金を払って映画館に来たわけではない。そう思うのではないだろうか。

幸か不幸か、いや幸に決まっているが私には現実の戦争の体験はない。しかし、本や映画や人の話で想像する限り、私の戦争のイメージは恐怖というより退屈、孤独というより人間関係の緊密さ、煩雑さである。大西巨人の「神聖喜劇」はすぐれた軍隊小説だが、大長編の中の一度も戦闘の場面は登場しない。野間宏「真空地帯」も、阿川弘之「雲の墓標」も、戦闘そのものの場面はとても少ない。ショーロホフ「静かなるドン」も、ジョーゼフ・へラー「キャッチ22」も、五味川純平「人間の条件」も、ノーマン・メイラー「裸者と死者」も、ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」も。「平家物語」や「イーリアス」でさえ、戦闘以外の場面がものすごく多い。
で、これらを読んだ上での私の感覚では、戦争とは「敵があらわれたらいつでも戦えるように、皆でせっせと毎日あてもなく準備しつづけていること」で、だからものすごく無駄だし退屈だし嫌いだという気持がある。
そして、それはまた、決してそんなにいやなことばかりではないだろうとの実感もある。だから戦争を肯定するのではない。しかし何であれ、大勢の人間がともに暮らしてひとつのことをやっていれば、そこには当然楽しさも快さも生まれるものだ。そのような喜びも心の交流も幸せもあって、それでなお、戦争は悲劇であり、この地上からなくさなくてはならないものなのだ。

やや乱暴な言い方をしてしまうと、この映画が描いた戦争に怒っている人たちは、その人たちの全部、あるいはその気持の全部ではないにしても「ひとごととして戦争を見物できなかったから」「娯楽として戦争を楽しめなかったから」怒っているような気がしてならない。あー、こんな言い方をしたらものすごく大勢の人たちに反感かって敵を増やすだろうなと思うが、それでもそういう気がしてならない。
私自身、戦後生まれで、戦争反対を訴えた小説、映画を山ほど見せられた中で、「もっと残酷な描写が見たい」「もっと悲惨な事実を知って戦争反対の決意をあらたにしたい」などということもよく思った。そして、その一方で、どこかなつかしげに戦争を追想する人たちに激しく反発したし、今もする。最近、というかここ十年ほど、戦争にはどこか楽しい面もあった、というような映画がひかえめに登場しはじめていることに微妙な思いも抱いている。
だが、その中で、この映画ははっきりとした姿勢をとり、すっきりと立ってみせてくれている。戦争を異常なものとしてではなく、一つの日常として描くことで、その魅力や楽しさとともに、悲惨さと空しさをもまったく過不足なく描き出すことに成功しているように思えてならない。そういう点でもこれは画期的だし、偉大な映画とさえ言える。こんなにもつつましい面差しをしていながら。

もはや、くりかえすのも、ひきあいに出すのも汚らわしいという気さえするのだが…あの予告編が傷つけ、汚しつくしたものが、どういう映画であったのか、自分たちが何をしたのかを、あの予告編を作った人たちには、ぜひとも知ってほしいと、心から私は願う。(3/13)

これが監督の文体ってやつか? ―「グラディエーター」とのちがい―

私は四年前、ラッセル・クロウにつられて「グラディエーター」を観にいって、はまりにはまってまだ脱け出していない。当時この映画が「単純」「スケールが小さい」「残酷」と悪口を言われるのを、「何でさー!?」と怒りながら、せっせとこの映画の弁明をしていた。

今でもいろんな理由から、私の中であの映画が占める位置はまったくゆらがない。どんな映画より理解できるし、愛している。
しかし、映画としての完成度、質の高さからいうと、「マスター&コマンダー」の方がずっと高い。「グラディエーター」も驚くほどのみごとな構成、表現を随所で示すが、どうもそれはあちこち偶然ではなかったかという気がしてならない。むろん、それで価値が低くなるわけではないのだが、「マスター&コマンダー」の方がその点は偶然の出来ではなく、安定していて、なるべくしてなった成果と思う。

それと、これも人の好みだろうし、私自身甲乙つけがたくて悩むが、「グラディエーター」には、映画そのものにも主人公にも、鋭さや暗さ、意地悪な皮肉さが感じられた。いつもどこかさめた視線を感じたし、そこがまた、いうにいわれぬ魅力であった。熱い映画、男らしく優しい強い主人公という大方の評価とまったくちがった、無気力なぐらいの冷たいよそよそしさをあの映画と主人公とから常に私はうけとめていた。
くりかえすが、だからこそ大好きだった。あの映画の何かが嫌いだという人もきっと多かったと思うのだが、それはきっと、こういうところにも理由があったのだろう。
「マスター&コマンダー」には、そういう意地悪さがまったくない。洗練されていて、優雅で、洒落ているのに、そういうものにつきものの、冷たさや鋭さが皆無なのだ。繊細なのに、脆弱さがない。素朴で骨太な暖かさがすみずみまで流れている。  ふつう、映画でも人でも、これほど優しくあたたかいと「傷つくんじゃないか、ほろびるんじゃないか」と心配になるものだが、そういう不安も感じさせない。鈍感ではないが、どっしりと安定している。この暖かく、聡明なたのもしさはこたえられない。

中身は決して甘いものではない。落ちこぼれの万年士官候補生の描写など、見ていて胸が痛くなるぐらい的確で、残酷なぐらい正確だ。しかし、決してその彼をさえ、つきはなしては描いていない。過度な感情移入はなく、静かに距離をおいて見つめているし、彼が皆にうとまれる原因もきちんとわかるのだが、それでも決して突き放してはいない。
彼の運命は理不尽なものではないと、見ていると納得せざるを得ない。それなのに、彼にいらだちや反感は感じない。ちょっとふしぎな気がするぐらいだ。
私はこの監督の作品をすべて見ているわけではないし、すべてが好きなわけでもない。だが、このような手触りにはやはり明らかに、監督の特質といったようなものを感じないではいられない。(3/10)

閉塞感から解放感へ ― 「大脱走」と共通する優雅な剛毅さ ―

東京では「大脱走」のリバイバル上映が行われているらしい。う、うらやましい。あれは私の青春の映画、何度かリバイバルされたたびにくりかえし見て、きっと50回は越えている。

「マスター&コマンダー」の方がはるかに精緻ではあるけれど、「大脱走」とこの映画の共通点は多い。私が二つの映画を愛するのは同じ理由がいくつもある。

まず、作品全体の魅力が徹底的に「作業」「共同作業」であるということ。その中でひとり一人の個性が輝き、描かなくても各自の過去や人生がひとりでに浮かび上がってくる。
「マスター&コマンダー」の登場人物の過去や経歴をもっと説明してもらわないと、というものたりなさを持つ人たちもいるようだが、これだけの群像劇ではそれはむしろ邪魔だと私は感じる。彼らのひたすら働く姿を見ながら、その家族や故郷や日常に思いをはせる方がいい。
いや、いっそ、そういうものにさえ、はせたくない。彼らの共同して何かしている姿を見ているだけで満足する。ちょうど、あの捕虜収容所でひたすらトンネルを掘っていた男たちの姿を見ているだけで楽しかったように。

「大脱走」は、戦争映画としては不謹慎になるぎりぎりまでゲーム感覚で明るく作られていた。リーダーのR・アッテンボローの渋い演技とラスト直前の悲劇でかろうじて深刻さを保っていたが、そうでなければ「戦争を軽く扱う」という批判も(特に当時なら)まぬがれなかったろう。その危険をおかしてまで強者への抵抗を楽しく描いたこの映画は、今日にいたるまで私の生き方のあるお手本となっている。
「マスター&コマンダー」は、あそこまでドタバタに近くなく、もっとはるかにきめが細かい。しかし、そこに流れる剛毅でクールであたたかい精神は共通している。しめっぽくないし、深刻にならない。戦争というからには、人が死ぬというからには、もっと泣き言を言い、半狂乱になり、大げさに泣きわめいていつまでもうじうじしていてほしい、そうあるべきだと考える人たちにとって、こういう登場人物の態度は、不謹慎、不真面目、鈍感、ものたりない、と映るのだろう。しかし私は悲しみや苦しみは、こういう風にこそやりすごしたいし、うけとめたいと心から思う。

そのアッテンボローのリーダーも「私だって家族に会いたい」と一言口にした以外は、まったく個人的事情の説明がなかった。私が大好きだったその副官級の「インテリジェンス」も、リーダーをかばってけなげな最期をとげるエリックも何一つ個人的なことを語らなかった。ひょうひょうとおのれの道を行くオーストラリア人のセジウィク(J・コバーンは私にはあの映画の印象が一番強い)、閉所恐怖症になった親友ダニー(チャールズ・ブロンソン。この役だけが、わずかに、ほんのわずかに過去をのぞかせたが、それも親友の語りかけによって)をはげますウィリー(私は彼も好きで、これはラッセル・クロウを好きなのと外見のイメージがどこかで重なっているかもしれない)、いずれも自分が何者なのかまったく語ろうとしなかった。
主役?のヒルツ(S・マックィーン)は「バイクが得意で賞金をかせいでいた学生」というだけしかわからない。同じアメリカ人の「調達屋」ヘンドリーとゴフも、偽造係のコリンも、皆過去は語らなかった。途中で自殺にひとしい死を死ぬアイブスも、かつて騎手だったということしかわからない。
…と、今でもこれほどすらすらと思い出せる彼らひとり一人の魅力は、集団の中で果たすべき仕事をして、不要な打ち明け話などしない、清潔さとストイックさにあった(あくまで画面の上でだが。かげでは打ちあけ話をしていたかもしれないが、それを想像するのもまた楽しい)と今あらためて思うのだ。

こうして思い出していると、二つの映画の共通点の多さに驚く。第一、前半の狭い場所に閉じ込められていた閉塞感、息苦しさ(これは「マスター&コマンダー」の方がよりリアルに表現してみせている)から、後半一気に広く明るい大地に躍り出る解放感はまったく同じといっていい。「大脱走」では脱走後の多彩で広い世界をヒルツのバイクが疾走する快感でそれを十二分にあらわすとともに、そこでなお監視の目が光り、検問を突破しなければならない息苦しさを加えて緊張感を高めた。こちらの映画では明るい陽光あふれるガラパゴスに上陸しようとしてはできない軍医にして科学者のマチュリンの、切ない願望が観客をじらせて、楽しませる。
島でサボテン酒を作る場面もそう言えば、「大脱走」の中盤のトーンの変化のきっかけとなる独立記念日のお祭り騒ぎにヒルツたちが密造酒を作る場面と奇妙に重なる。
くりかえす、「大脱走」の方がきめが粗いし、雑な作りだ。だが、あるいはP・ウィアー監督は、「戦争をどう描くか」という基本姿勢を決定するのに、どこか「大脱走」を参考にしたのではないかという楽しい妄想を私は抱く。仕事、作業としての戦争の捉え方、その仕事のプロとしての各自の魅力以外には余分なものをつけ加えない群像の描き方、何より悲惨な状況に毅然と立ち向かいながら、決して深刻ぶらず、悲劇の主人公ぶらない、優雅でしたたかな精神を。(3/10)

戦争をどう描くか

今回の予告編騒動で、何よりうんざりすることのひとつは、「あれは戦争反対という立場にこだわる人が作ったんでしょう」という推測があることだ。
作った人の頭の中に、たしかにそれに近いものがあったかもしれないと思うから、なおのこと救いがない。

私はどんなに忙しくても自衛隊のイラク派兵反対とか戦争反対のデモや集会には、意地も手伝って絶対参加するようにしている、大の戦争ぎらい、軍隊ぎらいである。
しかし私がそうしているのは、いざ戦争が身近になったり兵士になって戦線にひっぱり出されたりしたら、もうそこで抵抗するのはさぞやむずかしかろうし、投獄、拷問、懲役、死刑、村八分、好きな人たちの徴兵、死、などというものの数々を我慢したり味わったりするのはさぞや不愉快だろうと思うから、そのくらいなら今のうちに何かやった方がまし、と思っているからにすぎない。

そういう私にとって、(これはもう超個人的な感覚なので、正しいとも一般に通用するとも決して思ってはいないが)戦争にひっぱり出されてから「何のために戦うか」悩んだり迷ったり、人を殺したり自分や仲間が傷ついたりしてショックうけたり苦しんだりする人間ほど理解できない腹立たしいものはない。そういう人間の姿や心理を描くのが(少なくとも私の考える、私の貫きたい)戦争反対や反戦とつながるなんてまったく思えない。
戦争に行けば人を殺さなくてはならないぐらいわかってるだろうに、本も歴史も映画も博物館も体験者の話もあったろうに、何を今さら前線に来てばたばたおたおたしてるのかとしか思えない。
私は近眼で鈍感で筋力がなくて戦力としてはゼロに近く、兵士としては完全に失格だろうが、そういうことは別として、前線まで行ってしまったら、そこで悩んだりなんかしない。しっかり戦って敵を殺して生きのびるか、味方をうらぎって脱走するか、さぼりまくって卑怯なことして仲間をふみつけにして生き残るか、ひそかに反戦運動するか、戦わないで無抵抗をつらぬいて殺されるか、何にせよ、そこまで行ってしまったらもう悩んだりなんかしない。そんな権利もない。冗談じゃない。

そういう「なぜ戦うのか」前線に来てまで悩む人間を描くのが戦争反対につながるとは、私は絶対(思ったり考えたりする以前にもう)感じられないのだが、さらにさらにいやなのは、そういうのを描く映画や漫画や小説の大半が、要するにそういう悩みはフェイントで、結局は「悩みを克服して一人前の戦士になりました」という展開で歯の浮くような成長物語で戦争肯定することだ。もう、たいがい、この展開はみえみえで、誰がいったいだまされるのか、だまされたがっているのか知らないが、私などには人殺しをするのに「いちおう悩んだんです」といういいわけを作っているとしか思えない。そんなものにつきあわされるこっちこそ、いい面の皮である。人殺しをするのに悩まなかったわけじゃない証人として居合わさせられたようで、気分が悪くなる。

あの少年バージョンの予告編は、本編と関係ないという以前にいろいろ許せないしろもので、ほとんど邪悪とさえ言いたいぐらいなのだが、第一、論理的に意味不明の内容なのが私には不快だった。
嘘八百の「無理やり戦場にひきだされた」という設定が、まあ仮にあり得たとしよう。その場合、ひっぱり出された少年は、そのことにおびえ、悲しみ、「母さん」と故郷に向かって呼びかけているわけである。それはまあ、あるとしていい。ところが、その同じ少年が「ラッキー・ジャックと言われている強い艦長を信じて戦う」と言っているのである。ここでは、幼いなりにけなげに敵にたちむかう雄雄しい少年の姿になっている。
時間的に経過して、そういう情けない少年が毅然とした兵士になる、という展開なら、私は大嫌いだが、まああり得る話とは言えよう。だが、この宣伝は、それを同時にやる少年を描き出そうとする。「無理やり引き出され、母と故郷をなつかしみ、その一方で勇ましい艦長を信頼して戦おうとする」少年を。

こんな子どもがもし実際にいたら、そいつは完全に分裂している。もう、こんな予告編を真剣に分析批判するのも汚らわしいが、歯をくいしばって丁寧に言ってやると、もしも戦線に送り込まれただか大海原にいただかするガキが、「伝説の艦長を信じて」戦う姿勢にでもなっているのであれば、彼は絶対故郷や母のことなんか考えない。そんな余裕はない。そんなこと考えたら気持がくじけて戦えないから、むしろ仮に母親が来ても無視するだろう。そういう優しさや甘さを忘れて狂信的になるか、あるいは映画のブレイクニ―のように思いっきり前向きに元気になるかしかない。ブレイクニ―は望んで来てるからあのように前向きのお祭り男(どこかのサイトでの表現)にもなっておかしくないが、予告編がでっちあげたように無理に徴募されてきた悲劇的な子どもたちなら、「艦長を信じて戦うしかない」という心境になった時、しみじみ故郷のことなんか考えてしんみりできるわけがない。心を凍らせ、気を張り詰めておかないと恐怖や不安に勝てないはずだ。
そこでゆたゆた故郷の追想をしているような戦争前夜のガキがいたら、お目にかかりたい。無気味なんてものではないだろう。どう考えても、そんな子どもを現実に私は想像できない。私がこの予告編に吐き気を催す一つは、このようにまったくあり得ない不自然な心情を、思いつきとしか言いようのないほど適当につぎはぎして、現実には存在するわけがない人間像をきわめて安易にでっちあげていることだ。こういう作り物の人間は、改造を重ねたできそこないの人造人間のように、見れば見るほど醜悪だ。

しかしまあ、かつての特攻隊の青年たちが出撃前に書いた手紙の心情にはこれと共通するものもあるから(私は彼らを美化できないし、そういう悩みも苦しみも見せつけられるのは大嫌いだが)、人間の心情としてこういうことは(子どもにはまずあり得ないにしても)ないわけではないだろう。しかし、それは、どこからどう見ても美しくはない。悲惨で歪んで、奇ッ怪だ。いわばまちがった状況が生み出した、精神の怪物だ。
私は、「引き出された」「無理やりいうことをきかされた」状態を是認し容認することができない。女は力づくでレイプすれば、その男を愛するようになるという神話は昔ほどは信仰されていないが、やはりこういう「強要されたことが快感になる」人は男女を問わず多いようだ。趣味はさまざまだから好きな人はそれでもいいが、私はごめんだ。ましてや、特攻隊の青年のように、抵抗できず拒否もできない状況を何とか自分で納得させて死地に赴く心情など、どこが美しいものか。同情にも値しない。あの少年バージョンの予告編で描かれた心情あるいは人間像を無理にでも首尾一貫した理解できるものにして想像しようとするならば、それはこういう、悲惨でむごたらしい精神風景にしかなりようがない。

そういうものが美しいとか魅力的とか思って作り、そういうものを見たいと思って映画館に行った人たちの精神構造を(ごめんなさい)私はまったく理解できない。泣ける映画が見たいったって、そんな醜い破壊された人間の精神見て流す涙はどういう涙だ。
こんなものを作り、こんなものにひきつけられる人たちは、人間の心理について何を空想するのだろう。私の想像を絶した世界があるようにさえ思えてならない。

あの予告編はそういう点で本編とは関係なしに、完成されたひとつの醜い世界だった。こう感じるのがどれだけ私の個人的な感覚かはわからないが、私個人に関する限り、これは疑う余地がない。
ただ、この、私がおぞけをふるうほど嫌いな予告編にもひきつけられた人はとにかくいたのでもわかるように、戦争と人間を描くのには、さまざまな描き方がある。そして私はこの点で「マスター&コマンダー」は、戦争映画の歴史の中で、ひとつの大きな位置を占めるのではないかと思っている。が、このことについてはまた書く。

実際のところ、私はあの予告編を作った人が、このようなことをいちいち考えて作ったのだとは思っていない。おそらく漠然と「今の日本じゃ、戦争反対にしとかないとまずいよな」という感覚があって、その枠組みで「かわいい子ども」を売り出そうとしたら、このかたちかな、ということになった可能性が高いと思っている。その程度の感覚を戦争反対というのなら、たしかに「戦争反対の人が作った予告編」と言えないこともなかろう。しかし、くりかえすが、それは結局「けなげに戦う」子どもを手放しで礼賛するという安っぽくかつ支離滅裂な戦争肯定にずるずるつながるものでしかない。真剣に戦争に反対する人にはもちろん、何らかの理由で戦争を肯定し支持する人、言ってしまえば、洗脳されたにせよ自由意志でにせよ(ここの区別は大抵の人が考えているよりずっとあいまいでむずかしいと私は思っているが)武器を持って人殺しをしている全世界の少年・少女兵士に対してさえも、これほどの冒涜はなかったのではないかと私は今思っている。(3/12)

アブナイ空想

4回め鑑賞ともなると、「あら、ウォーリーってかわいい子だったのね。これはネイグルの怒りもわかる。この二人もひょっとして」などとつまらないことを考えたりする。
折れたマストが船にからまるロープを切り離す場面、「年とった人(アレン)が斧を持ってきて無言で艦長に決断をせまった」と解釈していた人もいたけど、今回確かめたら、ジャックがその前にアレンと目を見交わして、わずかにはっきり、うなずくのですよ。それでアレンは斧持って来るの。決断してるのはやっぱり艦長です。
その斧を見て呆然としながら、それでも艦長にならって、命令されなくても自分も斧をとって振るうネイグルがいたましい。そして、さすがに最後は手が動かせなくなって波間をただ見つめてるのも。ジャックはそれでも斧を一人でふるって、最後のロープを切り離す。
「ウォーリーが泳いでます!」「マストを切り離さないと沈没します!」の叫びが交錯するなか、風雨の中に一瞬立ち尽くすジャックを見て、とっさに「アラビアのロレンス」の後半、ロレンスが鉄道爆破の時に愛する部下を殺すしかなくなって、何かに救いを求めるようにあたりを見回した映像を思い出しました。
そうでなくても、このへんの展開の雰囲気、「アラビアのロレンス」をずっと思い出してたんですけどね。リーダーの孤独、信頼される重さ、というのも含めて、いろいろ重なるような気がする。中盤から後半、ロレンスが突っ走って味方からも浮いて、落ち込んで、「私はフツーの人間に戻る」と言い出す、あの展開に。ただ、ロレンスは軍に帰ったらサイクス=ピコ条約が結ばれたりしてて、フツーの人に戻りそこねるわけだけど。

あのあたりの重苦しい雰囲気、「マスター&コマンダー」を「退屈」と批判する人たちにはあれもやっぱり耐えられないのかな、と思ったりします。それともあれはちがうんだろうか。ちょっと気になります。

ところで原作のオーブリ―と映画の彼のちがいなのですが、ウォーリーの事件があったあと、マチュリンと言い合う場面(好きなのですが)、「あ、もしかしたら、ここは小説のジャックとちがうかも」と思いました。乗組員が自分のことどう思ってる?なんてジャックは少なくともマチュリンには聞かないような気がする。そんなの聞いたってだめだ、彼はそんなのわかってるわけないと思ってそうな気がする。実際そうのような気がする。
原作のマチュリンて、恋もするし諜報員として凄腕だけど、船にのりこんだらジャックがしゃんとするのと裏腹に、人間関係何も見えなくなるというか見なくなるというか、徹底的な学者バカになってしまってる気がする。これってジャックに甘えてるのだろうか。
そういう雰囲気はベタニ―のマチュリンは完璧に出してるのだが、あそこでいきなりオーブリ―から艦内の空気は?と聞かれて、「言えと言うなら」とちゃんとそれを把握してるがごとき反応するのは、ちょっと彼らしくないのかもな。どうなんだろう。

このへんは自信がないから放っておいて次に行く。
かなり私の妄想、ほとんどファンフィクションに近くなってくるが、あの時のジャックは、マチュリンに「ほんとのこと」なんか言ってほしくも聞きたくもなかったんじゃないだろうか。いやこれは半分以上自分の体験からくる実感で、おまえはジャックじゃなかろうと言われればそれはまったくそれまでだが。
「あれでよかったんだよ」「君は正しいのさ」と言ってもらいたいという気分だったのではないだろうか。
ちがうかな。乗組員全員そう思っているかもしれないのがむしろ重くて、ちがう意見を聞きたかったかな。
わからないから、これもおいといて次に行く。どっちにしろマチュリンは良心的に本音を答えて艦長を批判した。それに対し、「戦闘に犠牲はつきもの、たとえ人命でも」とジャックは強く言い切る。ここは確信があるけど、これは本音じゃない。少なくとも本心じゃない。自分の中にきざした疑念や迷いをマチュリンに消してほしかったのに、むしろそれをつのらせる言い方をされて動揺しそうになり、危機感にかられて硬直して防衛本能で口走ってるのだ。だとしたら、ここも小説のジャックとはちがう気がする。彼はそんなことでは悩まないだろう。
でも映画のオーブリ―はこれはこれでいいと思う。この時のジャックの不機嫌さは、強さではなく、そういう弱さをかくすためのものに私には見える。

次の二人の言い合いはガラパゴス上陸をめぐってだが、ここも私は二人の気持ちがそれぞれにとてもよくわかる。マチュリンがわがままと思う人は多いだろうが、資料が目の前にあって手を出せないのは学者としてどんなにつらいかと思うと、ここの彼が私には滑稽でもかわいらしくもなく(ちょっとはかわいいが)、真剣に共感同情してしまう。
英語はよくわからないが、ここでジャックは一度「鳥の巣とかに見とれるんでは?」と、ちょっと上陸を許可しそうな言い方をする。その一筋の望みにマチュリンは飛びつく。「本当に大切なものしか観察しないよ!」
でもジャックはだめという。多分、思い直して。ここもとてもよく私はわかる。忙しくて大変な仕事にかかっている時、ちょっとでも他に気を散らす要素は持っておきたくない。家族やペットのこととか、友人との約束とか、覚えておかなくてはならない大切なことなど、極力ぎりぎりまで減らしておきたい。余分な思考のエネルギーやパワーを使う余裕はないのだ。

どんどん妄想を続けるから、半分信じないで聞いて下さいね。あの瞬間ジャックはむしろマチュリンが自分にとってどんなに大事か実感したのだと思う。この男が戻って来なかったり遅れたりしたらアケロン号どころじゃなくなる自分が予想できたと思う。(小説でもマチュリンが帰らないとジャックはカリカリし皆をどなりつけたりしてなかったっけか?)あ、だめだ、こいつはこういう大事な時は箱に入れて鍵をかけてしまっておかないと自分は心配でしょうがないととっさに判断したと思う。彼の気持を無視したのは、彼の存在が小さいからじゃなく、大きすぎたからなのだ。

さらに妄想エスカレート。ごめんねジャック。
そういう大切な存在と自覚した折も折、ジャックはマチュリンが自分よりも、自分が愛する船よりも彼の学問とガラパゴスを深く激しく愛してるのをまざまざと見たのだと思う。だって、あんなに目をうるませて、何とか島に上げてもらおうと一生懸命つつましく声をひそめて、あんな彼、見たことない!…とジャックはきっと思ったのだ。
マチュリンが自分とちがった世界の住人であること、彼にとって学問が恋人以上に大切なことはジャックも知ってはいる。でも海上では自分の世界の中に大好きなスティーヴンをいわば飼っているようなものだったし、夜には楽しく合奏して心が一つになってたし、「こいつ、僕とは世界がちがう」を実感する時はそうなかった。
それが「僕は我慢して君の世界につきあってやってたんだよ!だから僕の一番好きな世界に帰してくれ!」と全身全霊、まなざしと声で訴えられたら淋しいやらくやしいやらねたましいやら(←ガラパゴス島が)。
「グラディエーター」のマキシマスの魅力が「いつもそこから離れてどこかに帰りたがっている『かぐや姫』のはかなさ、見ていて感じるもどかしさ」とよく言い合って笑ってたけど、ここではジャックがそれを味あわされる方で、マチュリンがかぐや姫なんですね。ざまみろ(ああ、混乱しているわ)。
それで思わず、「そんなの道楽だろ!」とやってしまう、ジャックは。この時の傷つきまくったマチュリンの顔はみごとだが、それを見て傷ついたジャックの心の痛みに比べたらきっとものの数ではない。

かぐや姫マチュリン先生は、マキシマスがそうだったのと同様に、自分のそういう魅力とか人に与える悲しみについては知らない。
…と思うが、さらに妄想を深めるなら、マチュリンもまた、ジャックが魔のように魅入られてひきずられて行くあの船にアケロン号に、反感や恐怖だけでなく一種の嫉妬を感じていたかもしれない。二人ともそういうことは言うはずもないが、「君は私とアケロン号(ガラパゴス)のどっちが大事なんだ!」と言う気持も時にどこかにあるかもしれない。
少なくとも艦長は明確な答えを出した。アケロン号の追跡をあきらめ、ガラパゴスに(を?)マチュリンを与えることで。恋人をライバルに与えていさぎよく身を引くように。泣ける。
スティーヴンもそのことを(少しは多分)知っている。だからこそ、思いがけずアケロン号を見つけた時に、黙っていれば誰にも知られず、思うさま観察が続けられたのに、彼はジャックに報告した。

それは、軍医としてはあたりまえのことだけれど、でも、これまでのマチュリンの心を知っていれば、せっかく集めた標本を捨ててまで、友人にアケロン号を与えたスティーヴンの行動は、やはりただごとではない。(それがそんなに大したことでないように自然に見えてしまうのが、この監督のうまさかまずさか意見は分かれるだろうけど。私はうまさと思うけど。)
飛べない鳥を見つけて、崖をのぼったら向こうにアケロン号が見える、なんてみえみえの演出だし、あざとい、幼稚、臭い、という人も多いのだろうけれど、私はむしろ、このみえみえさは、あそこでのマチュリンの一瞬の逡巡と決断を「わかる人にしかわからない」ようにカムフラージュしているのかな、とさえ思ってしまう。あの時のベタニ―の複雑な自嘲と許容と愛と諦めをこめたまなざしの意味はとても深いのではないだろうか。
「ジャックが私にガラパゴスをくれたように、私は彼にアケロン号を与えよう」
それは、スティーヴンが批判しつづけた軍隊、階級、古いしきたり、戦うことへの執念といったもろもろのものへの妥協か、屈服か。彼が最後に剣をとって戦うところに何の問題提起もなし得ていないこの映画と、清水節さんは批判されたし、私もそこは、つまり最後の戦闘がどういう性格のものかという問題点はたしかに大きいのだけれど、そこの問題提起や選択は、むしろ、あの崖の上でのスティーヴンの表情ですでに行われているように思えてならない。(3/16)

マチュリン先生という存在

この映画は、徹底的にリアルなようで(そうだったら重苦しいだけだったろう)、どこかとても幻想的だ。ものすごく大胆な試みをしていながら(それだけだったら見ていて疲れたろう)、ぬけぬけとと言いたいぐらい型にはまった予想のつく展開をしてみせている。私にはこれがこたえられないが、逆の感覚の人だったら、リアルが単調、幻想的が嘘っぽく、大胆さが意味がわからず、予想のつく展開が幼稚に見えてしまうのだろう。

その幻想的なところと型どおりなところが、この映画のマチュリンという存在にはある。「ビューティフル・マインド」の幻の友人のような。一方でとてもありふれたパターンの人間関係でもある。少なくともこれが恋人や妻や子どもならとてもわかりやすい関係だったろう。

前に、この映画は近現代の視点を徹底的に排除して等身大の戦争を描いたと言った。でも、それだけだったらさすがにあまりにも接点がないから、監督は私たちの時代や世界の代表として、当時の「早く生まれすぎた」科学的思考の持ち主マチュリンを、軍医という異分子のかたちで登場させて、現代の観客の持つだろう批判や疑問を艦長にぶつけさせる。
この設定は自然だから、見ていて違和感はない。だが、この二人の間に流れる信頼と共感がよく伝わることもあって、しばしばマチュリンは艦長のもう一人の自分、心の中の声なのではあるまいかという「ビューティフル・マインド」的幻想も生まれてくる。そういう幻想さえ生みかねない「もう一人の自分」「心の中の声」のような存在が軍医であったとしたらなおのこと、彼が死んでいなくなることは艦長にとって恐怖と絶望以外の何物でもなかったろうという予想もつく。
この軍医も最後に剣をとって戦う場面があまり盛り上がらないから失敗という意見も見たが、それはちがうような気がする。ここで戦わないと不自然だから一応戦わせているだけで、本来軍医は戦ってはいけないし、艦長と同一化してはならないのだ。理解しあい、愛しあっているがそれでも対立しつづける存在として二人はいる。艦長と軍医が簡単に同一になってはならない。これはそういう感動を描く映画なのではないから。だから戦闘が一段落した時、マチュリンが自分の剣を投げ出すのは当然で、それが彼の本来の姿なのだ(原作のマチュリンはスパイだし、決闘もするし、腕に覚えのある闘士だが、この映画ではその面は出ていない。これもまた計算の上でのことと思う)。

ありふれたパターンの人間関係といったのは、要するにマチュリンの博物学者としての願いをかなえてやるのは、家族を遊園地に連れて行くとか、結婚記念日に妻に花を贈るというような、「企業戦士が人間らしい暮らしと余裕を取り戻す」定番の人間回復話でもあるからだ。これが鼻について平凡でつまらないというならそれまでだが、これを立派で有能な成人男性二人の間の関係として描くところに、楽しさがあり感動もあり、そう言いたければ危険な魅力もある。多分、この二人の俳優どちらかをあまり好きでなかったら、嫉妬に狂って平常心では見ていられないぐらい、この二人の関係を描く監督と俳優たちの視線は心がこもり、きめが細かい。
2チャンネルだったかで、「原作ではオーブリ―の髪をマチュリンが編んでやってる場面もあり、これだけは映像化されなくてよかった」と書いていた人がいた。私はそれは覚えてないが、オーブリ―が「自分の裁縫箱」を持ち出してマチュリンのとれたボタンをぬいつけてやる場面は記憶に残っている。まあそういうことを思うと、少々二人の間を濃密に描いたからって原作からの甚だしい逸脱というわけでもないだろう。

二人の演技を見ていて感じるのは、演じているうまさより、演じていないうまさである。どちらも色っぽいし達者なのに、決してやりすぎない。
ガラパゴス上陸をあせる軍医が艦長を説得しようと必死になる場面では、完璧に両者の気持がわかるだけに見ていてものすごく興奮したが、結局この時艦長が「任務優先!」を強調して相手を切り捨てるのは、業績や職務にかまけた会社人間が、余裕ある生き方を忘れているということとまったく重ねあわされる。そして、瀕死の軍医をベッドに横たえたままアケロン号を追うという選択を艦長はしなかった。黙って空の椅子に立てかけられたチェロを一人で見ている艦長の心に去来するものは、ラッセルの表情以外には何ひとつ、せりふで語られることはないが、ここも私の好きな場面である。
そしてガラパゴスで軍医とともによみがえったのは、艦長の心の中の豊かさやみずみずしさでもあった。そう言う点では、この映画は現代の競争社会や業績主義の中で苦闘し、人間らしさを失いかけている私たちの、ひとつの寓話としても充分に見ることができる。ガラパゴスはこの映画の中で、そういう象徴としても用いられているのだ。

小さいことを言えばきりがないが、たとえば担架で運ばれて行く軍医が「上陸は私のためか?」と聞くのに対し艦長が「散歩したくなっただけ」と返すさりげなさもいいし、激論のあと、一人部屋に残った艦長が、何かを軽く投げ出すかたたくかしても、力まかせにテーブルをたたくようなありがちな演技をしないのもいい。二人の演奏の場面はあえていうなら男女のキスシーンやベッドシーンにあたるような、二人の心の通い合う場面で、その最後の場面の幸福感は先にも述べたが、あと一つ二人の関係で印象に残る場面をあげるなら、自分で手術するマチュリンに立ち会わされたオーブリ―の表情だろう。そもそも「外にいる」と逃げ出したがっていたのだが、手伝いをたのまれ、血などなれっこといって引き受けたものの、そう言っている時からややひるんでおり、終始びびって気絶しそうになっているのが、ひかえた中にも的確なラッセルの演技ではっきりわかる。妻の出産に立ち会う夫とさえ見えないことはない。これも原作では卒倒しかけているから別に映画が悪乗りしているのではなく、むしろ抑えた描写なのだが、ここで自分も息が絶え絶えになりながら、そのオーブリ―を見て笑ってしまっているマチュリンと、マチュリンにそんな余裕があるとは思ってないから、見られているのに気づいていなくて、弱みをさらけだした、目を伏せてびくびくしている顔を見せてしまっているオーブリ―のどちらもが、何とも甲乙つけがたくおかしくて、かわいくて、色っぽい。(3/13)

ふと思い出す恐山

何のことかと思うでしょう?
この映画を見ていると、ほんとにいろんなことが次々に思い出されてしまうのだが、たとえば、人が死んだり深刻なことがいろいろあった後で、艦長たちが陽気に笑ってお食事してますよね。
あれ見て「何か、おいてかれた」「気持が欲求不満で中途半端」って思う人もきっといるのだろうなあ。

私はもうあれがすごく好きだったのです。何度くりかえされてもいいと思うぐらい、見ていて快かった。とても救われる一方、別の意味での粛然とした悲しみも深まる気がして。
こういうの好き、と誰かも前に言ってた気がして考えてみたら、私の母だったんですね。それもまだ私が小学生の頃(多分)。

吉田直哉の制作だったような気がするけど、ちがうかもしれない。まだ民放もそんなにない時代で、だからNHKの番組だったと思う。ドキュメントか何か。実は私は見てないのです。母が「よかったよー、あんた」と言って熱烈に話して聞かせたから印象に残っているのです。
それは家族を戦争や何やらでなくした、田舎のおばさん、おばあさんたちが、団体旅行で恐山に行く話で、母が何に感激していたかというと、昼間はその山でイタコの女性に亡くなった人の霊を呼び出してもらい、会話をし、思い出にふけって、おばさんたちは号泣するのだそうです。ところが、夜になると今度は皆で酒盛りをして猥談をして、わーわー大笑いして騒ぎまくるのだそうです。そして次の日はまたイタコの女性が呼び出した霊と話して、身も世もなく泣き悲しむ。そして夜になるとまた、酒飲んで猥談してどんちゃん騒ぎする。
それが何回くりかえされたのか知りません。けっこう何度もあったのではないでしょうか。母はそれにもうすごく感動して、「よかった、よかった」と言ってました。

私はそれがどうしてそんなによいのか、母もちゃんと説明しないので結局わからないままだったのですけど、あの会食の場面をくりかえし見て、そのたびにうっとりしていて、そのこと(母の話)をもう何十年も忘れていたのに、ふっと思い出しました。
うーん、DNAにはさからえないのかもしれない。(3/13)

そろそろラッセル・クロウをほめようか

たまたま私が読んだ小説がそうだったのかもしれないけれど、海洋小説の艦長というのは、悪者でないまでもエキセントリックな人が多かった気がする。
「戦艦バウンティ」のブライもそうだけど、「ケイン号の反乱」のクイ―グ艦長も無能で変な人だった(これは第二次大戦が舞台だが)。そして、そういう相当に変な艦長でもめったに、いや絶対反乱を起こしてはいけないということになっているのだということも、これらの作品から強烈に学んだ。もちろん、そうでなければ、海上の閉ざされた空間での生活や、まして戦闘はあり得ないだろう。
「女王陛下のユリシーズ号」のヴァレリー艦長も病身を激しい気性でおぎなう、悲壮なカリスマ性を強烈に持っていた。このサイトの「近世紀行文コーナー」の中でキャラママ(板坂)が紹介している「八丈志」という江戸時代の紀行に登場している船長も、絶対の海への知識と指導力、そして「断固として引き返さず、乗員に恨まれてもひるまない」人物で、古今東西を問わず、船を指揮する人たちの強い個性と激しい気性を見ることができる。

前に「原作にそれほどはまってはいない」と書いたが、むろん私は原作が好きで、オーブリ―とマチュリンを愛している。ただ、登場人物をすべて覚えていて名前を聞いただけでなつかしいというような状態とは程遠い。だからこの映画が好きなのは、原作を知らなくても同じだったろうと言うことを言いたいのだ。決して原作を読まないと、あるいは何度も見ないと魅力がわからない映画ではない。

それで、オーブリ―についてもファンと言えるほど詳しいわけではないが、少なくともこの人の魅力はどんな意味でもエキセントリックというところにはない。指導者としての重圧におしひしがれたり、孤高に耐えるタイプでもない。もちろん、艦長や指揮官というものがすべて孤高な存在というならそれはそうだし、彼自身、艦長になってからはもう皆といっしょの存在ではなくなったことを少しさみしく思ったりはしているが、せいぜいがその程度である。

ほんとにあまり知らないから、ファンに怒られそうでおっかなびっくり書いてるのだが、オーブリ―という人は俗臭芬芬のようでいて、それと紙一重で子どものような無垢な無邪気さがある。大ざっぱで鈍感なようでいて、聡明で繊細だ。何より、陸ではへまばかりするが、海上では無敵の才能を持ち、敵も味方も圧倒されるような威厳を発揮する。

演ずる側からいうと、これは大変むずかしい。つまり映画は終始海の上だから「陸の上ではへまをする」オーブリ―のかわいらしさを、そうでない海上の姿を演じながらどこかで感じさせなくてはいけない。
それは原作との関係だから知ったこっちゃないと言っても、映画だけを見ても、この艦長の位置はすごく重要で難しい。サプライズ号とその乗組員があらゆる機能を満載して動く中心に彼はいる。その存在と求心力が感じられなかったら、映画の世界全体がハリボテのニセモノに見えてしまうだろう。(私はいろんな意味でブラッド・ピットは好きなのだが、そして史劇は好きなのでこけてほしくもないのだが、「トロイ」の予告編を見るたびに、予告編だけでもあの壮大なセットやしかけの中心に彼がいるのが何だかひどく落着かず、あーもう大丈夫かいなと思ってしまう。彼のよさは、ある種の「軽さ」にあるのだから、ああいう場所におくとまずいのではないのかなあと、やきもきしてしまう。)
その場合、多くの映画や小説がやってきたように、この艦長が少しでも変だったり異常だったり悪役だったりするなら、演技する方としてはまだとっつきようもある。実際安易な反戦劇として作るなら、この艦長を冷酷で残酷な悪役にしてしまうのが簡単で常道だ。
だがむろん、オーブリ―はそんなキャラクターではない。徹頭徹尾、まっとうで健全で普通の人間だ。ラッセル・クロウという俳優は演じにくい役をひきうけることで、天を恐れぬ俳優だとこの映画を見てあらためて思う。

私がこの俳優を好きなのは、演技がうまいのに、それをひかえて抑えるからだ。それも上手か下手かよくわからない抑え方ではなく、だまされているかもしれないという不安感がなく安心して見ていられる抑制である。今回相手役のポール・ベタニ―もそうらしいとわかったが、これはラッセルがそういう演技を引き出しているということもあると思う。
主役でいながら「受け」に回るというのはディカプリオにも感じるが、彼はもしかしたら実際の性格が淡白すぎるのか、ややものたりない印象を生んでしまう。ラッセルは相手の演技を受けていながら、そのことによって自分の存在も感じさせるという才能を持っている。それがこの映画ではベタニ―だけではなく、あらゆる人の視線の先、命令の出発点にいるという立場で、全員をうけとめている。

プリングスやボンデンの艦長を信じきったまなざしやしぐさについてはいうまでもないが、たとえばネイグルとウォーリーが船の模型を持ってくる場面でも、この二人が艦長の前に出て情報を提供できる喜びと緊張に全身をはずませているのが、もちろん二人もうまいのだがありありと感じられる。これほどの全員の信頼、信仰に近い重圧を悪びれもせず、ひるみもせずに受け止めて、彼は決して弱音を吐かないし、深刻な顔ひとつしない。そこにはゆらがぬ、底知れぬ自信と、ある敬虔さが感じられる。

この映画が退屈だ、迫力がない、と感じる人の理由の中にはもしかしたらこの艦長が、どんな時でも決して声の調子を変えず、ただ明確に、ただ事務的に命令を下すだけということもありはしなかったろうか?徹頭徹尾、終始一貫、彼の声は上ずらない。非常事態になるほどに、冷静になり、低くなる。それに従って動く乗組員全体もそうなのだが、悲鳴をあげたりわめいたりが決してない。叫ぶのは、ただ遠くまで声を届かす必要があるからというだけである。(まあ、だいたいが他の映画に比べたら、腕切られる時も鞭打たれる時も誰もがほとんど声を出さない映画なのだが。)
悲しい時もそうだ。彼はほとんど表情を変えない。まなざしだけが哀しくなる。嵐の船上で部下を見殺しにする時も、決して大げさな感情表現はない。することをする。それに呼応して航海長のアレンも船匠助手のネイグルも動く。この三人の無言の動きの中にこめられた感情の深さと激しさ、三人それぞれの思いが伝えるものは圧倒的だ。
このような彼の声に耳をすましつづけ、そのような彼の一挙手一投足を見守りつづけるだけで、とても充実感があった。「全速力で逃げろ」などとためらわず言う、あの自信!

原作愛読者の多くが「オーブリ―とはちがうけれど、でも満足した」という、考えてみればいともふしぎな反応を示した、「彼の作ったオーブリ―」は「原作のオーブリ―」とどうちがっていたのだろう。最初私は映画のオーブリ―の方がやや上品でまじめなのかな、とも思った。だが(どこまで小説を理解しているか自信はないが)、そう考えるそばから、小説のオーブリ―も実は俗っぽいようでいて、まじめで清潔で上品な人だなということに気づいた。あやしげな歌を歌おうが、いろんな女性に手を出そうが、どこかで彼には決定的に、卑しいところや薄汚いところがない。この、かたちにはあらわれないオーブリ―の高潔さや端正さをある程度ラッセルはかたちとしてあらわして見せているような気がする。外見ではなく内面を、目に見える姿として。

ラッセルが演じた人の中では、私はナッシュは実は嫌いだ。あの人物(実在のではなく映画の中の)にあった卑小さやちっぽけさを彼はみごとに演じていた。そのいじましさが、今回の演技にはもちろん、まったくない。そしてまた「グラディエーター」のマキシマスにあった複雑さ、静かなあきらめや冷たさがオーブリ―にはまったくない。高潔さ、端正さは共通しても、オーブリ―にはマキシマスにただよっていた、よそよそしさやはかなさは皆無である。かわりにあるのは、海を愛し、戦いを愛し、仲間を愛して幸福な男の、とても平凡で、だからこそとても偉大な無邪気さだ。演じる人物をつかむ的確さと、過不足なくそれになりきる彼の才能だか本能だかは今回もまた十二分に発揮されている。(3/13)

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