私のために戦うな(未定稿)闇の中へ 

この文章は、書籍「私のために戦うな」に収録しています。

1 組織というもの

ティム・オブライエンの半ば自伝といっていい短編集『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹・訳)の主人公は大学時代「穏健な反戦的立場」をとっており、ベトナム戦争の本質も充分理解していた。徴兵カ-ドが来た時、彼は困惑した。たとえばヒットラ-のような悪と戦うためなら進んで戦場に赴くだろうが、「私は死にたくなかった。それは言うまでもないことだ。でも私としてはよりによって今、あんなところで、誤った戦争の中で死にたくなかった。」と考えた彼は、当時そうする若者も多かったように脱走してカナダに逃げようと、国境の河まで行く。しかし、最後の瞬間にどうしても決意できなくて、ひき返してしまった。その時の心理は次のように記されている。

それは、一種の分裂症だった。心が二つに割れてしまったのだ。決心がつかなかった。戦争は怖い。でも国外に逃げることもやはり怖かった。私は私自身の人生や、私の家族や友人たちや、私の経歴や、そういう私にとって意味のある何もかもを捨てていくということが怖かった。私は両親にがっかりされることを恐れた。私は法律を恐れた。私が生まれたのは大平原の中にある保守的な小さな町だった。そこでは伝統というものが重んじられていた。きっと人々はお馴染みのゴブラ-・カフェのテ-ブルを囲んで、コ-ヒ-カップを手に、口を開けばオブライエンの息子のことを話題にするのだろう。あの腰抜け息子は尻に帆たててカナダに逃げたんだぞ、と。

まさにそのとき、対岸を眼前にして、私は悟ったのだ。そうするべきだとわかっていても、私はそうはしないだろうということを。私は、私の生まれた町から、祖国から私の人生から泳ぎ去ることはしないだろう。私は勇気を奮い起こすことはないだろう。自分を英雄に、良心と勇気に溢れる人間にしつらえていたあの古い夢は、所詮空疎な幻想にすぎなかったのだ。

(略)私には勇気を奮い起こすことができなかった。それはモラリティ-とは何の関係もない。体面、それだけのことだった。
そしてそこで私は屈伏してしまった。
俺は戦争に行くだろう――俺は人を殺し、あるいは殺されるかもしれない――それというのも面目を失いたくないからだ。
私は卑怯者だ。それは悲しいことだった。そして私はボ-トのへさきに坐って泣いていた。

「それから私は兵士としてヴェトナムに行った。そしてまた故郷に戻ってきた。私は生き延びることができた。でもそれはハッピ-・エンディングではなかった。私は卑怯者だった。私は戦争に行ったのだ」

作者はこの章をこう結ぶ。戦争に行くことが勇気の証明ではなく、臆病の証明であることを、これほどわかりやすく、飾りなく、はっきりと書いてのけた小説を他に私は知らない。脱走を断念して敗北感と挫折感をかみしめながら戦場に行き、ティム・オブライエンほど幸運ではなくて、戦死してしまった多くの若者の本心は、たしかにこのとおりだったろう。私にそれがわかる気がするのは、ここに描かれたのとほとんど同一の心理を私も味わったことがあるからだ。生命の危険が関わっていないという点では、比較するのもはばかられるようなことではあるが。

高校三年の時、私は自分に不本意な選択をした。というより何の選択もしないまま、結局流れに流された。私は受験勉強というものが、あらゆる意味で納得できず、こういう制度に従いたくはない、従うべきではないと思った。具体的にはどうしていいかわからなかったが、とにかく最低、普段以上の勉強は決してするべきではなく、それで大学に入れなかったらしかたがないと思うべきである、というところまでは漠然と考えがまとまっていた。いっさい無理をしない自分の実力で受験して合格するのならまあしかたがない。それもずいぶんいやらしいやり方だが、何とかことの本質に直面しないで目をつぶり、やりすごしてしまうことはできた。しかし、あえて人を蹴落とし、押し退けて合格するような努力をすることは、自分が批判し、認めていない受験体制への完全な敗北である。それはもう最低ゆずれない、それ以上はごまかせない私の良心の最終ラインだった。

けれど、当時そんなことを考えている高校生などいなかった。大学のあり方が問われ、学園紛争が火を吹くのは、それからほんの数年後で、まだ大学はまったく平穏でゆるぎなく、そこに行くのは安定と幸福の象徴のように、先生も生徒も考えていた。(時代はめぐって、現代の感覚は再びこれに近くなっているかもしれない。)そして受験がせまるにつれ、誰もが目の色を変えて勉強する中で、私はそれに批判的な態度をとったり、冷静な傍観者であったりする余裕が次第になくなってきた。私が合格するだろうと皆が思っている「程度の」大学に合格しなかったらどうなるか。ただ、たったそれだけのことが本当に恐かった。そうなった時の人生が見えず、そうなった時の自分がどうなるのか見当がつかなかったからである。してはならない、するべきではないと思いつづけながら結局私も、納得できない受験勉強を熱心に、やがて必死にせざるを得なかった。自分が今していることは絶対にまちがっていると一瞬の切れ目もなく自覚し、苦しみつづけながら、受験当日までそれを続けるしかなかった。

私は思うのだけれど、人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと。

ティム・オブライエンは、こうも書いている。私もそれまでは、小説を読んだり歴史を学んだりするたびに、いざという時、自分はきっと正しいと思う行動をきちんととれると何気なく考えていた。そうやって良心を守る方法は、意志や努力や機知を働かせたら絶対に見つかるという自信があった。実際私はその時までは、自分で忘れてしまうような小さな失敗は時にあっても、だいたいのところ自分でまちがっていると思ったことは拒否しつづけて生きて来られた。考えて見れば、そのこと自体がとてもぜいたくであり、私は恵まれていたのだ。けれど、それにしてももう大学に入った時私は、自分は正しいと思ったことを守れない人間であるとわかっていた。これから先いろんな場面で人間としての良心を守るかどうかという立場に直面したとき、自分は何が正しいかわかっていてもそうできないと知っていた。戦争、殺人、差別、その他どんな悪も、そうやって許し、認めて、罪のない人を苦しめたり、平和な世界を破壊したりする行為に手を貸してしまう人間に自分がなると知っていた。

『本当の戦争の話をしよう』に先立つ短編集『僕が戦争で死んだら』の中で、ティム・オブライエンは、当時の自分がソクラテスの気持ちをあれこれと思いやっていたことを書いている。それを読んだとき、私は深い驚きをうけた。私も高校三年のころずっと、自分の良心にかなう生き方を守るために毒杯を飲んで死んだ、千年以上も昔のアテネの町の哲学者を何度も思い出していた。本当に身近な人のように、彼のことを思い、彼の考えをたどり、彼の心も言葉も恐いほどよく理解できるつもりなのに、ただ、彼がさりげなく、きっぱりととった行動に類する行動だけは、どうしてもできない自分のことを思いつづけていた。ソクラテスは命を断ったのであり、それに比べて私が受験勉強を拒否することを並べるのは図々しすぎただろうか。だが、あえて言うなら、それですべてが終わる死よりも長く続く未来がどうなるかの方が恐ろしいことだってある。死ぬ方がまだ楽だと、当時の私は考えはしなかった。だが確実に、そう感じていた。大学に合格し入学したとき、私にはどんな喜びもなく、飲むべき瞬間に飲めなかった毒杯を一生かかってちびちび飲むために、何かをしきりにさがす他、することを何も見つけられなかった。

その時まで私は組織が嫌いだったし、大衆も民衆も嫌いだった。大勢の人間といっしょに同じ行動をするのが耐えられず、そのかわり自分は一人で孤独でも、何が正しいか判断し、それを守れるとひそかに強く自負していた。一人でいてもするべきことはするのだから、一人にしておいてほしいと思っていた。一方で、だからこそ、一人でいても組織や仲間で動いている人以上に、社会的、歴史的、政治的に一人の人間として果たすべき役割と責任は果たさなければと考えていた。

自分にそれができないと知った時、もう組織や仲間を拒否する権利はないと思った。命令や統制や団結で縛られなかったら、私は正しいことができない。自分の良心を一人で守れない人間に、孤独でいる資格などない。そう思ったから私は大学入学後まもなく、自治会活動に参加し、当時その活動を中心的にやっていた民青同盟や共産党にも参加した。馬鹿なたとえとは思うが、修道院に入るのと同じ心境だった。自分が守れなかったものを守っているように見えた組織に自分をゆだねて、消耗品としてでも無駄弾としてでも使いつくして、滅ぼすならば滅ぼしてしまってほしかったのである。

結局ほぼ四年後、卒業する少し前に私はそれらの組織から離れた。私のように変な理屈を考えて、しかもそのことは黙ったまま参加していた人間は、それらの組織の人たちにとって迷惑であり、不可解以外の何物でもなかったろう。私は今でも当時いっしょに活動していた人たちには理屈抜きの嫌悪感がある。名前を聞いただけで吐き気を催す。だが、どう考えてもそれは私の責任であり、その人たちが悪いのではない。そして私は深い苦々しさをこめて断言し証明するが、少なくとも日本の共産党や民青同盟は絶対に人を命令や統制で縛ったり、消耗品や無駄弾として使う組織ではなかった。そうしてもらうことを望んで参加した私には一番よくわかるが、どんなことでも結局は私が自分で判断し、皆と討論し話し合いながら決定してゆくほかはなかった。いやならいつでもどんなことでも拒否できたし、それでひどい目にあうこともなかった。そして私は、放棄してしまったはずの自分の意志こそが組織の中で一番求められるものなのだという皮肉な事実を充分に思い知らされ、滅私奉公をしようと思う人間は組織活動には向かないと痛感して、組織を離れた。そこであれ違う組織であれ、もしもう一度参加するなら、今度こそ自分を捧げるのではなく、ちゃんとした意志を持って参加しようと漠然と思ったまま、それからもう二十年あまりの年月が流れて、今日にいたっている。

長々とこのようなことを書いたのは理由がある。これから私は、いわゆる連合赤軍事件で、政治闘争の中で仲間の男女の多くを殺害し、死刑が確定している永田洋子被告について書こうとするのだが、その中で、彼女の心理が理解できるし私も似たことを考えたりしたりする可能性はあったというようなことを言うこともあると思うが、それが、すなわち連合赤軍や全共闘や日本共産党などの何もかもが結局は似たものであるというようにとらえられては困るのである。日本共産党も、また極左といわれる人たちも含めて新左翼の各派もそれぞれに、連合赤軍や永田洋子については激しい厳しい批判をしている。私は日本共産党系の組織のことしか知らないし、それらにしても前に述べたような状況での参加であるから、決して充分には理解できていない。しかし、次のことだけは言っておきたい。組織やそこに属する人間には、どんな組織でも、いくつかの共通点は必ずある。だからといって、安易に連合赤軍と、他のいろいろな組織とが類似のものだと結びつけるのは正しくない。

むしろ、私が恐れるのは、そうやって安易に結びつけられることを強く警戒するために多くの組織と、そこに属する人たちが、連合赤軍や永田洋子のことを、自分たちにも共通する問題として考えられず、「自分たちとはまったく違う異質の存在」ということを強調して、彼女たちのことを拒否してしまうことである。たしかに彼女たちと自分たちが似ていると認めることは、多くの組織にとっては多分、命とりにもなりかねまい。けれど、そのために彼女たちのしたことが、私たちの多くとはかけはなれた特異で異常な事件として葬り去られてしまうのでは、これもあまりに危険である。

特に彼女や、彼女の仲間の男女がとった行動は、女性の生き方としても見逃せないたくさんの問題を抱えている。フェミニズムの人たちも、この事件の裁判には関わっているようだから、まかせておけばいいことなのかもしれないが、やはり私は私なりに、この事件についての考えをまとめておきたい。

2 事件当時の報道

連合赤軍事件は、私が大学院に入ってしばらくしてから起こった。その少し前、私は自治会活動や政治活動のすべてから手をひき、仲間の人たちに背を向けて受験勉強をし、大学院に入ったのだが、入学直後に、いわゆる学園紛争がおこり、大学もバリケ-ド封鎖されて長いこと休講になったりした。それらも一段落したころの事件だった。革命のためのゲリラ闘争をめざして山中にこもっていた過激派の学生が、あさま山荘という旅館に奥さんを人質にしてたてこもり、警官隊と銃撃戦を行ったのだ。私はアパ-トの台所で、買ってきた新しいカ-テンをつりながら、警官隊が突入するテレビのニュ-スの声だけを聞いていた。

その時逮捕された過激派の学生たちの、山のアジトを捜索する内、彼らがそこにいた間に、行動や考えがまちがっていると指摘し、批判して裁判にかけて死に追いやった仲間の男女の死体が次々発見されて、大騒ぎになった。そしてその死にいたる処分を決定した指導者の一人が永田洋子という女性であったことから、彼女のことはくりかえしマスコミにとりあげられた。

今でも私は、それらの報道のひとつひとつを読むたびに感じた強い不快と恐怖とをはっきりと思い出せる。ある週刊誌は彼女のことを、仲間の男性の批評として「チビで、ブスで、デブで、ヒス」と書き、別の週刊誌は(同じ記事だったかもしれない。私は記憶で書いている。本屋でななめ読みで立ち読みしただけだったのに、これらの言葉にこめられた異様なまでの毒々しさと憎しみを、二十年近く私は忘れることがなかった)彼女の性生活のことをポルノ雑誌以上の卑猥な文句で揶揄していた。いったい何の権利があって、こんなことまで書けるのだろう。私は素朴にそう疑い、ひとつひとつの週刊誌の記事から吹きつける、正義感とか義憤とかとはとても言えない、ある荒々しい怒りに当惑した。漠然と感じていたのは、こういうことが書きなぐられ、それが世間で許されるのは、永田洋子が女性であること、女性でありながら男性を指揮する立場にあって男性を殺したこと、それも美貌や性的魅力という女性らしさを武器としてではなかったことなどと、関係があるのではないかということだった。たとえば、女性を数多く強姦し殺害した犯人に対してさえも、こんなあからさまな憎しみを抑制もなくぶつけたたくさんの記事が書かれたことはなかったし、むしろそういう犯人への共感や支持を語ることさえも許されていたことを思うと落差が大きすぎると感じた。男性の上に立ち、男性を攻撃し、男性を楽しませない女性への世間の憎しみはこんなにも強い。その少し後に中ピ連の指導者である女性に対するマスコミの執拗な揶揄と攻撃を見た時もそうだったが、週刊誌のこういった記事は、社会と男性とに対する徹底的な不信と警戒心を私の中に植えつけた。

女性たちの永田洋子への悪口は、記憶にあるかぎりそれほどではなかった。とは言え、彼女のおこなったことはたしかに弁護の余地のないことだったから、女性からも彼女をかばう発言はなかった。一度、ある記事が、彼女が子供の時、妹に激しい暴力を振るったとか意地悪をしたとか、何かそういうことをとりあげて彼女の残虐さを証明しようとしていた時、私は親友の女性に「そんなことぐらい私だってしそうだわ」と言った。彼女は妙な顔で笑って「あんたはきっと、そう言うと思った」と言った。私の永田洋子への共感と同情を親友は見抜き、不快に感じていたのかもしれない。

3 わかりやすい説明

ひとしきり騒がれた後、事件の被告たちのことは忘れられて報道されなくなった。ハイジャック事件の時に人質と交換されて彼らの何人かが釈放されて海外のゲリラ組織に加わるために出国した時に、一時また話題になったが、やがてそれも消えた。

特に積極的にではなかったが、彼らや事件についての本があれば、私は買っていた。しかし、私が見た数少ない小説や漫画はどれも、事件の外郭をなぞるだけで、煽情的で猟奇的な興味が中心となっていた。それらの漫画では、死んだ女性たちは皆美人であり、永田洋子の顔は不美人というよりは、もうそれを通り越して鬼か悪魔のようだった。そのような描写のしかたのあまりに単純な天真爛漫さに、怒りや脅えを通り越して、私は力の抜けた笑いを何度かもらしたほどである。

事件当時の報道にせよ、少し後で見たそれらの小説や漫画にせよ、彼らの思想や心理を理解しようとする努力はなく、ひたすらに永田洋子がヒステリックで横暴で、美しい仲間の女性に嫉妬したということで、すべてが説明されていた。たしかに、これは誰にでもとてもわかりやすい理由だろう。それ以外の理由というのが、誰にもなかなか思いつけないだろうから、なおさらだろう。

しかし、一人の性格の悪い、能力もない、外見も醜い女が美しい仲間の女性に嫉妬して殺しまくったという話は、わかりやすいだけがとりえで、ちょっと考えると無理だらけである。第一そんな女の言うことを、他の皆が聞いて従うだろうか。残酷な女帝として知られる、中国の呂后や則天武后や西太后がしたいことをできたのは、大きな既成の権力機構に守られてのことである。永田洋子たちは、男女あわせて十数人の集団で、自分たちが建てた山中の仮小屋で、こたつに入って雑魚寝する共同生活をしていた。指導者といっても憲兵隊に護衛されていたのでもなく、武器を独占していたのでもない。そんな中で、週刊誌のいう「ブスでヒス」の女のいうことに皆が逆らえなかったとしたら、よほど彼女に魅力があったか、よほど皆が馬鹿だったということになるだろう。そのように考えるのは、死んでいった男女や、彼女の回りの男性たちに対しても、失礼という他ない。

それが真実であるならば、失礼であってもかまわない。だが私は、死んだ人、生き残った人それぞれに、永田洋子の仲間たちが決してそんなに愚かで無力な人たちだったとは思えなかった。彼らはたしかに、まちがった。どこでどうまちがったかは諸説があるとしてもまちがったことについては、誰も否定はしないだろう。彼らの目的は達成されず、彼らは苦しみ、苦しめ、殺し、殺された。彼らのしたことで幸福になった人は誰もいないし、直接関係のない人にも、酸鼻と戦慄しか感じさせなかった。不毛や無益を通り越して、それは許されない、救いようのない腐敗であり汚染であり破壊である。

しかし、結果はたとえそうでも、彼らがその結果へ向かって歩きはじめた時の動機は、決して欲望でもなければ絶望でもなかった。いや、仲間が次々死んで行き、終末が間近にせまっている時期でさえ、彼らを動かしていたのは、人々のためによりよい世界を作ろうという向上心であり希望であった。

個人的な幸福ということで言うなら彼らのすべてに、山にこもって銃を撃つ練習などする必要はなかった。自分一人が幸福になるための仕事や家庭を望むだけなら、連合赤軍に参加しなくても彼らは皆生きていけた。そのような個人の幸福だけでなく世界や未来のことを考え、そのために今よりもよりよい世の中を作ろうと願い、そのためには革命を起こして新しい日本を作ることが必要と思い、それを実現しようとして彼らは行動しはじめ、しつづけた。永田洋子が首に縄をつけて山にひっぱって来た者など一人もいない。それぞれに自由意志で、ある者は身重の身体で、ある者は妻子をつれて、進んで山小屋にやって来て殺されるまでそこにとどまったのである。苛烈な寒さや不便さに耐え、仲間と対立し指弾し死に追いやることに耐え、逃げようとすれば逃げられたのかもしれないのに、大半の者が去らなかった。そのことこそが、多くの人にとって理解しがたいことだろう。何が彼らをそうさせたのか。何が彼らを支えたのか。永田洋子への恐怖からそうしたなどと考えるのは、おとぎ話にもなりはしない。

私は、それを知りたかった。週刊誌の記事や、小説や漫画からも、事件の一応の経過はたしかに読み取れた。そのような事実経過だけは、どの記事も、どの作品も皆、奇妙に正確で一致していた。いくつも読む内、当時の多くの読者のように私もまた、一人一人の若者たちの死んでいった順序やその時々の状況を、ひとりでに覚えてしまった。革命をおこす戦士として、自分たちのどこが不適格か、自分たちの組織のどこが問題か、それを討論し追求していくうちに、個人のものの考え方や生活態度が問題となり、一人が皆に問い詰められる。その時のその人の答えや態度がまた問題となる。そして、いろいろな理由をつけて、批判をよりよく理解させるために暴力がふるわれ、その結果死ぬ者が出る。やがて本人の成長や教育ではなく、組織全体の成長や教育のために、問題のある人に対しては皆が手をくだして殺す死刑が行われるようになる。そのいきさつは、はっきりわかった。しかし、永田洋子を悪役とし、後に獄中で自殺するもう一人の男性指導者を彼女にふりまわされるやや道化めいた悪役として描き、他の人々は皆、罪のない哀れな犠牲者として描く図式からは、彼らの一人一人がどのように考え行動したかについて、その時の状況や雰囲気をそれ以上詳しく知ることはできなかった。ただ、知ることはできなくても、私にはもうわかっているような気はしていた。

4 死者たちの尊厳

その後一度、井上光晴氏らが発行している「辺境」という雑誌の創刊号で、永田洋子が病気にかかっているという記事を読み、また田舎にいる私の母から、テレビで女性評論家たちの何人かが永田洋子に会い、好意的な印象を持ったと語っていたことを聞いた。それからまた長い時間が過ぎて、最近本屋で彼女自身の事件についての手記『十六の墓標』や瀬戸内寂聴氏との往復書簡集、同じ事件の被告である坂口弘氏の手記など連合赤軍事件に関する書物の数冊を見て、買った。その後、更に事件の被告や被害者である坂東国男氏、大槻節子氏、植垣康博氏の書いた本も買って読んだ。私が知らなかっただけで、これらの本はもう何年も前に出ていたようだが、最高裁で彼女と坂口氏に対する死刑の判決が確定し、またしばらく行われなかった死刑がこのごろ執行されはじめていることなどから、よく売り出されているのだろう。

彼女たちの事件についての記述は当事者であるだけに詳しく、これ以上のことを要求するのは不可能だろうと思うほどに、私が知りたいと感じていたことのすべてが記されていた。それらに目を通して、あらためて私はいくつかの感想を持った。

まず、うかつにも不注意にも、私は彼女に対する最初の判決で、次のようなことが言われていたのを知らなかった。これを知っていたら、もっと早くに私は何かをしていたかもしれない。また、今回このような一文を書かなければならないと決意した理由の一つもこれである。

(永田被告は)自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。

先に述べたように、この事件を扱った小説や漫画が、このようなことのおこった本当の原因を追求せず、醜い女性の嫉妬という吹き出したいくらいわかりやすい理由で話をくみたてても、それは作者の勝手である。力量不足もあるだろうし、読者が納得しやすい理由にした方が喜ばれるだろうという営業手段もあるだろう。小説や漫画は真実を追求した方がいいことも多いが、そうしなければならぬ義務や必要はない。しかし、裁判はちがう。真実を追求するのが仕事の職場に力量不足は通用しないし、皆が納得しやすいわかりやすい理由の方を選ぶ必要もない。その判決がこれでは困る。醜い女性だけでなく、「女性特有」と対象を女性全体にしている点では、週刊誌の記事や卑俗な小説、漫画より徹底しているとさえ言える。

こんな理由しか思いつけない判決で、死刑にされる人たちに私は同情せざるを得ない。更に言うなら、こんな判決による死刑は、この事件で殺された死者たちの尊厳をすら傷つけるものであり、何の償いにもならないだろう。私が被告なら、こんな判決で死刑にはむろんされたくないけれど、もしも私が被害者やその家族なら、永田洋子の死をもって償ってもらうにしても、こういう判決による死刑では償ってほしくない。どうして彼らは死んだのか。永田洋子の罪とは何か。永田洋子の罪でないものとは何か。それを正確に指摘するのでなかったら、死者たちは二重に冒涜される。

さすがに二審の判決では、この「女性特有の」云々といった表現は消えた。しかし、文句そのものは消えても、全体としての視点はさほど変わっていない。

5 憎悪された「女性」-美人といわれたTのこと-

死んで行った女性たちの一人一人と永田洋子との間に、葛藤や対立、嫉妬や敵意がなかったとは言わない。そのような感情のせめぎあいや、小集団の中での互いの勢力争いは、ある方が自然である。それは男性どうしの場合でも、まったく同じことであるし、永田洋子が他の女性の美しさに嫉妬したというだけの単純なことでは説明できない。

『十六の墓標』の記述は、詳細であるとともに冷静である。獄中の闘病記からもうかがわれる永田洋子という人の、きわだった意志の強さがよく示されている。暴行を加える場面や殺す場面もさることながら、私はむしろ、そこにいたる過程の中での一人一人の人物の描き方に、自分の好悪や個人的感情を克服して、客観的に正確であろうとしている彼女の努力を強く感じる。

山小屋で、最初の頃に殺された一人である女性の母親は、永田洋子をはじめとする被告たちを今でも強く憎んでおり、瀬戸内寂聴氏に「彼女たちを許せない」という電話をかけて来ているという。週刊誌の記事などで、特に美人と強調されることの多かったこの女性などは、たしかに永田洋子といろんな意味で対照的な存在であり、連合前はちがう組織にいたこともあって(永田洋子たちの「革命左派」と、この女性が所属していた「赤軍派」が合同してできた組織が「連合赤軍」である)、互いに意識しあうことは多かったにちがいない。母親からもらった指輪をはめていることを批判されて捨てろと要求され、自分の顔を自分で殴ることを命ぜられて、そのようにした彼女のところに永田洋子は鏡を持って行き、見分けもつかないほど腫れ上がった顔をわざわざ見させている。永田洋子の残虐さを強調するのに、この女性との関係は使われやすいし使いやすい。『十六の墓標』の記述を見ても、母親なら、怒りと憎しみで心を固めない限り絶対に耐えられないだろうという痛ましさが、この女性についての話には多い。

しかし永田洋子自身も、自分は当時それが理解できなかったと反省して記しているが、「女性らしさを強調する」と批判され、先に殺された女性の死体を自分から進んで埋めに行き、埋める前にその死体を拳で殴り、後で皆の前であんな死体になりたくないと泣いたという、この女性は、その行動や発言に、たしかに周囲を刺激する「女性特有の」弱さやのどかさがちらちらと覗くのだが、それは、この女性が彼女なりに悩み模索して選んでいた革命家として女性として人間としてのあり方であり、決して永田洋子の暴力と策謀の前になすがままにされた悲しい美女だったのではない。

このようなことを書くのが、遺族の人にとって救いなのか残酷なのかわからないが、週刊誌の記事などで、死んで行った男女の一人一人が、ともすればすべて無力で善良で一方的な被害者であったかのように描かれるのは私には解せない。死んでしまえば生前のすべての罪を忘れてしまって美化するのは、日本社会の特徴なのかも知れないが、彼らの多くは自分が批判や処刑の対象になるまでは、まったく同じ批判や処刑に加害者として参加しているのだ。仲間の一人を縛ったり殴ったり、戸外に放り出して凍死させたりした者の一人が、次の日には同じことをされるという場合が多い。

それを予感して脅えていた者もいたことは、坂口氏や植垣氏の著作を読めばわかるし、永田洋子自身もそのような不安を口にしたことがあると『十六の墓標』に書いているが、それでも彼らは熱心に努力すれば、そうならないですむと自分に言い聞かせて、他人の処刑に参加したようだ。この事件に一方的に蹂躪された被害者というのはいないのである。先の女性にしても、彼女自身がそのような死をともなう処刑を容認していたおり、銃を撃つ練習もしており、革命をめざす銃撃戦になったら人を殺すつもりでいたのである。

決して弱いだけではなく、永田洋子とはタイプが違っても彼女もまた強さをそなえていたし、自分の信じる思想のために戦おうと決めた人だった。縛られて寒さの中で凍傷の痛みを訴えながら「お母さん、立派な革命戦士になるわ」と叫びながら死んで行ったというその最期を読んで、無残さに慄然とする人も滑稽と哀れむ人もいるだろう。しかし、私たちは彼女を憐れんだり笑ったりするほど賢く強いだろうか。少なくとも私は、彼女のことを泣いたり笑ったりする気にはとてもなれないほど、自分についても世界についても同じように理想を持ったし、実らぬ努力をしつづけた。それは今でもそうかもしれない。見当違いでも虚しくても、彼女はけんめいにひたむきに前進しようとしていたことを私は見逃せないし、それを悲惨と思えないのだ。

注目したいのは、永田洋子が『十六の墓標』で引用している、この女性が山に来る前の手紙に「革命運動に参加したはじめの頃は、女性としての自分を放棄したような活動をしていたが、それでは中性的な化け物になってしまうと思って、女性らしさを失わずにいるように心がけようとしてきた」という意味のことが書かれていることである。永田洋子が引用している、その手紙の一部を更に引用する。

(略)女一人でもやっていける生き方や、解放される、する強い人間になりたい為、活動に入ったのである。・・・その過程で、人を愛する、包摂する、憎む等は頭の中にあっても、現実的にはその中から逃げてしまう。自分のいたらなさとして逆規制して総括してしまったのである。これこそ総括とはいえない代物だが。人間らしい生き方を欲しているとは裏はらに人間味のない政治しか提起しえなかったのは事実です。 (略)「秋は死ぬ」このことを前提としたからこそ、いままで切り捨てていた女としての自分を一回でよいから体現してみたかったのです。それがあなたとの結合であり女としての自分を徹底的に追求してみたかった・・・。
(略)「死」を前提とした結合を、生きた事により、更に自分では何が何だかわからない程複雑になったのは事実でした。これを切開せず、またもや、政治にかりたて、だからこそ『中性の怪物』としての答でしかでなかったのです。
人類には、男と女しかいない。人間らしくということは、女らしくということではなく、現実に女であるならば、その女が体現できる可能な限りをついやす事が人間らしくという事につながるのではないかと思います。(略)

山で自分の「女らしさ」を皆に追求された時、彼女はここで述べているような気持をほとんど語ることができていない。語っても理解してもらえたかどうかはわからないが。けれど、どちらにしても、そこには男性に伍して活動するとき、人間として女性としてのあり方をどう周囲に表現していったらいいのかという、今もまだ充分解決できているとは言えない、おなじみの問題が横たわる。特に彼らのような立場では、先例も規範もないと言っていい革命家の女性としての生き方を、彼女たちは、めいめいで作り上げていかなければならなかった。この女性の場合のように、時には、まさに命がけで。

そして、彼女を最終的に縛り上げる時、座っている時に女らしく足を崩して、きちんと座っていなかったとかいう理由で、薪にしていた木を膝の間にはさんで仲間たちは彼女を縛るのだが、その時、男性たちは「男と寝る時のように脚を広げろ」と言って笑い転げたという。だが、女性たちは皆いやな顔をし、永田洋子が「そういうのは矮小よ!」と叫んで男性たちは笑いやめて彼女を縛った。

殴り終わったあと、Tさんを逆えび型に縛り始めたが、その際、M氏が、
「Tの足の間にまきをはさんで縛れ」
と指示した。私はこれを聞いた時ひどいことをすると思ったが、Tさんが両足を崩して坐っていたことをもって、総括しようとせず女を意識していると批判したことから女を意識させずに総括させるためのものだと思い、反対できず何となく悶々とした。M氏の指示でTさんの足にまきをはさもうとした時、T氏が、
「男と寝た時みたいに足を拡げろ」
といった。すると、これに男性たちが笑い出した。お腹をかかえて笑った人もいた。私は思わず、
「そういうのは矮小よ!」
と叫ぶように批判した。笑いはやみ、M氏は早く縛るように指示した。

『十六の墓標』より

それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その時、T氏が、
「男と寝た時みたいに足を広げろ」
といった。これに私たちは笑ったが、女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。私たちはあわてて笑うのをやめたが、N氏、Tさんへの激しい暴行は、私たちの気持をすさませ、より残酷で下劣なものにしてしまっていたのである。

植垣康博氏『兵士たちの連合赤軍』より

この部分の雰囲気はかなりよく私に伝わる。この女性はその少し前、過去の男性関係について皆の前で問いただされ洗いざらい告白させられている。それも思想闘争の上で必要ということになってきていたのだが、しかし、このような告白が聞いていた人たちを刺激し、そして死に瀕している彼女に残酷なふるまいをする時、やりきれない心の混乱のやりばがないままに、男性たちがこんな野卑な冗談を飛ばして、大声で笑いたくなった心境が私には察せられる。それに反発した女性たちの心境も。

連合赤軍は、赤軍派と革命左派という二つの組織が「連合」してできた組織であり、彼らの多くは山に来て初めて相手の組織の人々と顔をあわせている。革命左派には永田洋子をはじめとして大勢の女性がいたのに対し、赤軍の方には少なく、山に来たのは、この女性だけだった。そして永田洋子だけでなく、他の革命左派の女性たちも、「会議中、髪をとかしたり、唇にクリ-ムを塗ったりする」この女性に失望を感じていた。

しかもTさんは、他の人が発言している際中に、ブラシで髪をとかしたり、クリ-ムを唇に塗ったり、ねそべったりしていた。私は、こうした態度を苦々しく思った。とはいえ、私は苦々しく思っただけで、それを批判する意図は毛頭なかった。(略)私たちはシュラフを取り出し小屋のすみにひとかたまりになって寝ることにした。この時、Kさんが、
「赤軍派から女性兵士が一人参加すると聞かされて、楽しみにして来たのに、失望した」
というと皆そうだというようにうなずき合っていた。私も、苦々しく思ったのは私だけではなかったのかと思いながらうなずいた。

『十六の墓標』より

山で合流したとき、水筒を持ってきていなかったことをしつこく赤軍派の人々に非難されるなど、さまざまないらだちも多分あって、革命左派の永田洋子たちは、赤軍派に対する批判としてこの女性への不満をぶつけはじめる。一方で、赤軍派の男性たちは女性の扱いになれておらず、革命左派の女性たちの積極性や行動性にやや押され気味なところがあった。

しかし、たくさんの女性活動家がいたことは、男の兵士ばかりのなかで活動していた私にとっては、うらやましいことだった。おかげで、彼女たちの存在に惑わされてしまった。しかも、女性たちが平気で男性の隣りに寝たりしているので、びっくりしてしまった。

私は、大槻さんを最初に見た時、一体どこのかわい子ちゃんなんだ、来る場所をまちがえたんじゃないのかという印象をうけた。しかし、坂東氏たちでさえあごを出して何度もへばったこの急な坂道を、へばらずに私の後について来るのを見て、その印象を全面的に改めなければならないと思った。

植垣康博氏『兵士たちの連合赤軍』より

二つの組織が合同したはじめ、相手の力の値踏みのように互いが小さい攻撃をかけあった。問題はささいでも、ささやかなやりあいでも、それが今後の関係を決めることもあるから、どちらも真剣だし弱みは見せられない。今まで自分たちは違和感を感じなかった、この女性の「女らしさ」が永田洋子をはじめとした革命左派の女性たちに批判された時、赤軍派の男性たちは自分たちの古さが攻撃されたと感じてあわて、彼女一人に責任を負わせて激しく追求することで、自分たちの優位を失うまいとした。

しかし、そういう組織的な対立という面だけでは説明できないほど、彼女を死にいたるまで追いつめていく過程の中で、男性たちは女性たち以上に残酷で容赦ない。なぜ、誰もが美しいと述べる、女性らしい魅力を持つこの女性を、そういう点では魅力がないとされる永田洋子のいいなりになって、男性たちがそれほどまでに苦しめつづけて殺したのか。週刊誌的図式的解釈では一番説明に困るところであろう。結局、永田洋子の反抗しようもない恐ろしさを強調しつづけるしかない。

事実はむろん、そうではない。男性たちは充分に自主的に、この女性に大して残酷にふるまっている。私がそこに感じるのは、男性たちの心の奥底にある、自分たちとは異質な「女性」そのものへの恐れ、それが魅力ある美しいものとして自分をひきつけることに対する怒りと反発である。この女性の美しさや女らしさは、男性にとって快いものであると同時に、自分たちを混乱させ動揺させる、腹立たしいものでもあった。よほど余裕と優位をもって接しているのでない限り、愛情と憎悪は紙一重である。心を奪われ苦しめる存在を、人は時に憎み排除しようとする。男性にとっての女性の魅力は、まさに武器であり、それにとらえられたものを苦しめ傷つけ、弱くするものでもあるのだから、美しい女性に支配されたり征服されたりすまいとして、男性たちは特に集団の場合、非常に攻撃的になることがある。

この女性の、女としての魅力は、他の女性にとってだけでなく、男性たちにとっても腹立たしくいらだたしいものになる可能性があった。誤解をおそれず、あえて言えば強姦魔などと類似の「女性」そのものに対する恐れと憎しみから、男性たちは彼女を攻撃し殴打した。

男性に媚びて女性を裏切る存在として、同性である女性たちに攻撃されながら、女性そのものの代表として、異性である男性たちからも攻撃された、この女性の立場は何と孤独なものであったろう。「女性らしさ」あるいは「女性そのもの」は、しばしば、このようなかたちで男性女性の両方から、凌辱され挟み打ちにあう。そのようにして美しいもの、
優しいもの、甘やかで華やかなものをどれだけたくさん、男と女は――私たちは滅ぼして来たことだろう。

6 攻撃された母性-妊娠していた女性Kのこと-

最終段階で殺された一人の女性は妊娠しており、出産が近づいていた。そのような女性が、批判され殴られて死にいたらしめられたということは、妊娠や出産を神聖なものとして考える多くの人たちにとってショックであり、永田洋子や連合赤軍の残酷さや異常さを強く印象づけることともなった。

多分、事件当時に人々が更にとまどい、どう解釈していいかわからなかったと思うのは永田洋子ら指導部が、この女性を死なせる可能性があると感じはじめた頃、お腹の子どもだけ無事に取り出す方法はないか検討していたという事実である。それが彼らの、どういう考え方によるのか、ほとんどの人には理解できなかっただろうし、実は私にもよくわかってはいない。猟奇的な漫画などでは、それは彼らのグロテスクな残酷さを示すもののように扱われていた。しかし、母親である女性を厳しく批判しようとしながら、その子どもの命だけは母親から切り離して守ろうとする彼らの態度は、そのような解釈だけでかたづけられる単純なものではないだろう。

だが、この点についての解釈は私自身まだ充分にできている気がしないので、ここでは述べない。わかっているかもしれないこととして述べておきたいのは、母ということとは 別に――いや、あるいは母であるという存在も含めて、この女性と永田洋子との間にたしかに存在するかに見える、強い心のつながりである。

私は永田洋子が鬼か悪魔のように語られていた報道に反発するあまり、彼女を美化してしまってはならぬと気をつけているつもりだし、『十六の墓標』の記事のひとつひとつにしても、彼女によってだけしか語られていない部分については、真実がどうであったのか彼女自身が知らず知らず事実を曲げている面がないか、充分に検討したいと思っている。しかしそれでもなお私がいささか当惑するのは彼女も、また植垣氏も坂口氏も坂東氏も、仲間を殺したという自分の罪には脅えても、その死んでいった仲間たちに対しては、まったくといっていいほど恐怖を感じていないように見えることである。自分たちが殺した人たちであるのに、その人たちの思い出のひとつひとつを語る時、彼らの文章には抑えきれないなつかしさと親しみがにじむ。これは、あるいは読む人によっては非常に腹立たしいことかもしれない。彼らの記述には少しも、恐れ戦いている様子がない。そして私は、当惑したといったものの、読んでいるとそのことを特に不自然には感じない。逆説めくかもしれないが、いいかえればそれだけ彼らの、死んだ仲間についての語り口の暖かさは自然で真実なのではないだろうか。長い年月がそうさせたのか、はじめからそうだったのか、それも私には今わからないが。

永田洋子が嫉妬深い醜女の鬼婆だったという単純な図式を、別の単純な図式におきかえることはいましめなければと思いつつも、この妊娠していた女性と永田洋子の間に私が感じるのは、そのような暖かさのにじむ女性どうしの友情である。永田洋子が指導者で、彼女はそれに従う位置にいるのだが、それも含めて両者の間にはかなり緊密な信頼関係があったように思えてならない。永田洋子から「子どもは山を下りてシンパの人の家で生むことも考えていい」と言われて「そんな・・・私は山で生む」と答える場面、女性との雑魚寝に慣れていない植垣氏が夜中に両側に寝ていた二人の足や顔についさわってしまう「痴漢行為」をしたことを翌朝洗面所で二人で笑い会う場面、男性の指導者から「永田さんに反抗的だ」と言われて彼女が否定し、永田洋子も「そんなことは感じない」と口をはさむ場面など、二人の間にはべたべたしない自然な理解と信頼があるのを感じる。

私は、この時、初めてKさんが共同軍事訓練で実射できなかったことを知った。
「実射できなかったの?」
「知らなかったの。お腹の子供にひびくといけないからといわれて、やらせてもらえなかった」
「お腹でかまえるのはできなくても、肩でかまえるのならできるのにねえ-」
「そうよねえー。だから、実射もさせないでそれではどうして共同軍事訓練に連れて行ったのかといったら、また批判された」
「おかしいわね」
私が転んで出血したことを心配すると、Kさんは、
「すぐ止まったから大丈夫。心配させまいと思っていわなかったのに、それを隠していたといわれて・・・」
「旅先だといって、Sさんにつき添ってもらって婦人科の医師にかかったらどうかしら?」
「そんな必要ない。大丈夫よ」
「シンパの人が出産する時には預ってもよいといっているので、その方がよいと思っているけど、どう?」
「そんな・・・。私は山で産む」
「そういってくれる人がいるので、シンパの人の所で出産することもできることを頭に入れておいて」
「はい」
そのあと、私たちは雑談した。

夜寝る時はいつもの通りめいめいが勝手に寝た。だから、私は植垣氏がどこに寝たのか全く気にしなかった。ところが、翌朝、顔を洗っていると、Kさんが笑いながら「いやになっちゃう。植垣君が夜中に顔を手でさわったり足をさわったりしたのよ」といった。私も夜中に顔を手でさわられ何だろうと思いつつ払いのけたことがあったので、そういうことだったのかとわかり、
「私もよ」
といった。Kさんはそれを聞くとお腹を押えて大笑いするので私も笑ってしまった。それで、
「今度からは男の人の間に寝かせることにしよう」
と話し合った。

大槻さんをかなり長い時間追及したあと、M氏はKさんへの追及に移った。M氏はO氏に決闘させたことを批判したこと、官僚的で表面的な厳しさのみを求めること、指導部の者と被指導部の者に態度を変えること、主婦きどりであること、妊娠中なのに食事に配慮せず任務で外出した時に食事をしそれを隠していたこと、Y氏との離婚を安易にいったりして情愛に欠けること、などを追及した。これにたいし、Kさんは首をかしげ、そうなのかわからないと答えるだけであった。本当にわからない、そういわれては困るといった様子で、M氏の批判を認めようとしなかった。すると、M氏は「総じて永田さんに反発し、男を利用して自分の地位を確立しようとしている」と批判した。これにKさんは、
「違います。永田さんに反発するなどということはないし、男を利用しようなんて思ったこともありません」
と反対した。私も、
「私に反発するということは感じない」
といった。M氏は、
「そんなことはない。そうなのだ」
といったが、それ以上このことはいわなかった。

いずれも『十六の墓標』より

ただ、この女性と永田洋子との関係はほとんど永田洋子自身の記述による以外、資料がない。赤軍派の方の組織にいた坂東氏や植垣氏は、二人の関係をそう詳しくは知っていない。したがって、永田洋子がそのような友情があったように描いてしまっている疑いもある。しかし、これまた、『十六の墓標』のような長い詳細な記録の中では、そのような作為をすれば、どこかに感じられるものだろう。ことさら強調されているのでもない二人の友情を私はひとつひとつの事実の記録のはしばしから、やはり自然に感じとってしまうのである。

7 冷静な判断

あるいは、ここまで読んできて、私が引用した永田洋子の『十六の墓標』の記述が、あまりにも彼女に都合よく書かれており、自己弁護に見えて不愉快と感じる人もいるかもしれない。実は私が引用したのは事件の過程を直接記している部分が多く、これ以外の事件全体を考察したり反省したりしている部分では、彼女はかなり厳しく自分の責任も追求している。それはわかっていただきたい。

しかし、たとえそうでも引用した部分で彼女がかなり自分を弁護するような記述をしていることは事実である。あるいは彼女があとになってふりかえる時、当時の自分の中にあった、ためらいや動揺などを過大にとらえてしまっていることはあるかもしれない。その当時には彼女の中にも、もっと冷酷なものや個人的な憎しみもあったかもしれないし、それを彼女が黙殺しているのかもしれない。

だが、たとえそういうことがあったとしても、彼女が記しているような面はたしかに存在したと思う。その点で彼女は、嘘をついてはいないと思う。

ただ、彼女は『十六の墓標』を自分の中にある醜さや汚さのすべてをさらけだして綴ろうという意図で書いてはいない。一連の事件と自分たちの時代を、正確に分析して記録しようという強い決意と良心はあるが、同時におそらく彼女は、これを彼女たちに対立するさまざまの立場の人も読むということを充分に承知している。
『続十六の墓標』などで彼女は、いろいろな政治的な党派から自分を解放して自由な立場で考えるようになってから、すべてが正しく総括(本来の意味で)できるようになったというようなことを述べている。それは本当であろう。自分自身の体験からも、いくらかそれは理解できる。

しかしそういう具体的な政治的党派によったものの見方や考え方ということではなく、全体の状況の中での影響や効果を把握して行動し発言する態度、自分の敵を力づけ味方を傷つけてしまうようなことは決してしないよう強く努力する態度、などは彼女に残っているだろう。『十六の墓標』全体に、私はそのような強い配慮を感じている。これは決してなりふりかまわない告白ではなく、冷静で用心深く計算された、その上で、あるいはその中で、真実に正確であろうとする報告書である。

悪口で言っているのではない。むしろ私は永田洋子がそうまでして守ろうとしているものに心をうたれる。彼女がもし、読者に好感を持たれたいと思ったら、もっと自分を悪者にし、自分の中のいやしい感情をこれでもかとばかりにあらいざらい書きつけてひたすらに悔い改めればそれでよかった。そうしたら読者は彼女を愛しただろう。けれど彼女は決して自分が愛されることを願ってはいないし、自分が楽になることも願ってはいない。この期に及んで、といおうか、彼女は自分を犠牲にしてでも敵と戦い、味方を守ろうとしている。あの事件と時代を、味方に役に立つかたちで把握し分析しなければならないと望んでおり、自分が好かれようとは思ってもいない。

私は二つのものが似ていると言って、両方から恨まれることがよくある。これはその典型だろうが、『十六の墓標』の永田洋子の記述態度を見て、一番連想したのは日本共産党の論文だった。双方に、敵を利することは決して書かない精密で強固な慎重さがあり、その一方で、相手や周囲に与える印象はまったく考慮せずに、正しいと思えば主張し、弁明の余地があれば弁明せずにはおかない生真面目さがあった。

もう一度くりかえすが、彼女の自己弁護めいた多くの記述は、決して人々に自分を許してもらおうとか好感を持ってもらおうという目的で書かれたものではないし、このように弁解すればかえって反発されるとわからなかったほど彼女が愚かだったのでもない。これ以上に自分の内面をさらけ出すことは、自分にとってはプラスでも、全体の情勢にとってはプラスでないと判断した結果に選択された記述である。『十六の墓標』が真実をゆがめているところがあるとしたら、彼女が自分をかばっているかどうかより、全体の情勢にとってはどう書くのがよいと彼女が判断したかということの方を検討しなくてはなるまい。そして、どちらにしても、そういう自制の中でぎりぎりまで、彼女が求めて綴っているのは、やはり「真実」であろうと思う。

8 不謹慎な嘆息

それにしても、『十六の墓標』その他を読んだ人の心に強く印象づけられるひとつは、この妊娠していた女性の、女や母としてというだけではない、人間としての強さである。決して本来文学作品ではないはずの永田洋子や植垣氏の回想録の記述の中に、この女性の沈着さや剛毅さが、よくできた小説を読む時と同じに目に見えるように浮かび上がってくると感じるのは私だけなのだろうか。

ちなみに私の母や祖父母は、たとえばテレビなどを見ていたり、人の話を聞いたりしている時に、「豪傑じゃ」「豪傑よ」という言い方を、その話の中に登場した女性についての感想として言うことがあった。決して否定的なニュアンスではなく、ある種の賛嘆をこめて。私が『十六の墓標』などで、この妊娠していて殺された女性についての記事を読む時ひとりでにうかびあがるのは、その「あれは、おまえ、豪傑ぞ」という言葉である。おそらく母や祖父母がこれを読んだら、まちがいなくそう言ったろうと思う。

彼女は、最後まで生き残った仲間の男性の一人の恋人であり、その人の子を身ごもっていた。そして、山での闘争の中でその子を生むつもりで参加してきた。とはいえ後に、自分が総括して正しく成長することの妨げになるとの理由から、その恋人とは別れることを表明して永田洋子に「そんなことをする必要はない」ととめられていることから、相手の男性と別れられなくて山に来たというのではないのがうかがわれる。その男性Y氏との恋は、大学でコ-ラス部の部長と会計という「息の合った」(『続十六の墓標』)関係からはじまったものだった。永田洋子は次のように述べている。

私がKさんのことで胸が痛くなる一つは、「共産主義化」の闘いの中で、Kさんに対する総括要求が繰り返されている時、指導部会議でYさんが困惑のあまりか、その性関係において女のKさんが積極的だったと批判的に語り、それに男の指導部は皆、「ホウ-!」という声をあげ、興味ありげな様子をしたことである。ここには、女が性関係において積極的になることを蔑視する傾向さえあった。ところが、女の私はこれに不愉快になりながらも、何も言えなかった。私が女としての意欲や欲求を抑え、そうすることでしか活動をやってこれなかったことが、女性蔑視とも闘えなくさせてしまったのである。

永田洋子『続十六の墓標』より

さまざまな方面で革新的で過激な姿勢をとっている人でも、愛する相手との性的な関係においては、ずいぶん保守的であることが多い。この女性は、そのような最も私的で微妙な面においても、のびやかに自分をときはなっていたようである。その他の日常においても、この女性の行動や発言は常に的確で無駄がない。そういう言い方はいけないかもしれないが、女々しさやインテリめいた神経質さやひよわさもない。訓練の時、妊娠中で危険との理由で銃を撃たせてもらえなかったのに不満を持ったようだが、そのことを騒いだり愚痴ったりするのでもなく、後で永田洋子との会話の中で「知らなかったの?」と言って初めてそのことを教えている。また仲間を殴って反省をうながす方法がとられるようになってまもなく、「あんなことをしても効果はない」と、そのようなやり方に批判的な態度をとるが、その後も皆で殴る時には加わっている。いろいろなことを批判されると、その度にきちんとした対応を見せ、特に「妊娠していることを利用して甘えている」と指摘された後は、周囲が驚いてとめるほどの勢いで重労働に参加する。

まき拾いをしていた時、Kさんが、主婦的だの官僚的だのといった批判をはね返そうと、まき拾いの作業に必死の面持ちで加わってきた。私たちは、Kさんのすさまじい気迫に驚き、
「無理しない方がいい」
「こっちで運んだものを小屋で整理してくれればいい」
といったが、Kさんは外の作業を続けた。

『兵士たちの連合赤軍』より

最後に自分が殴られる時は「何をするのよ!」と抗議し、永田洋子が殴ったときには声もあげない。その後で縛られて放置された時も弱みは見せておらず、一度は近づいた植垣氏たちをどなりつけたり、縄をとくよう命じたりしている。

M氏に続いて坂口氏、坂東氏も殴った。そのあと私が平手うちで思いっきり殴った。しかし、六回程殴ったのが精いっぱいでハアハアしてしまった。
Kさんは、殴られ始めた頃、涙をひとしずく流したが、その後は悲鳴をあげ、
「何をするのよ!」
といった。それは、殴ることにはっきり抗議したものだった。ただ、私が殴った時は悲鳴を上げなかった。私が殴ったあと、再びM氏、坂口氏、坂東氏が殴り、続いてA氏、Yさん、O氏が殴った。

私は、大槻さんとKさんの所に行き、
「総括しろ」
といった。そばにいた人が、
(略)「Kのお腹を圧迫せずに縛るのは大変だった」
といっていた。Kさんは榛名ベ-スと同様に無表情で、暴力的総括要求に同意しないぞという態度であった。私が「総括しろ」といっても無表情だった。

『十六の墓標』より

Kさんは、その頃から床下で作業している私たちに声をかけるようになり、
「植垣君、永田さんが縄をほどいてもいいといったから、縄をほどいて」
といって、私をあわてさせたこともあった。Kさんは、縛られていることにけっして従順ではなく、反対に、それを認めないぞという気迫に満ちた態度でいたのである。

小屋に着いた時は、もう夜中の一二時を過ぎていた。小屋に入ると、Kさんが床に腰かけるようにしていたので、私とA氏は、
「ちゃんと立ってろ。それが総括する態度か」
といいながら、Kさんを立たせようとした。すると、Kさんは、激しい口調で、
「なにするのよう!」
といった。私たちは、あわててKさんから手を離し、
「おっかないなあ」
といい合った。私たちは、Kさんの気迫に圧倒されてしまったのである。

ともに『兵士たちの連合赤軍』より

彼女が植垣氏たちをどなりつけたのは、極寒の中に出産間近な身体で縛られて放置されて、すでに五、六日が経過した後であり、この二日ほど後に彼女は絶命するのである。このころ彼女はまた、手洗いに行こうとする永田洋子を呼びとめて「ミルクをちょうだい」と頼み、永田洋子は「総括しろ」と言ってなぐったものの、ミルクを与えている。指導部に屈服はしていないが、意地をはらずに、生きようとする努力は続ける。すべてが自然で力強い。そして、指導部の「子どもを私物化している」という批判とはまったく反対に、この女性は、妊娠しているということをふだんはもちろん、死に臨んでも一言も口にしておらず、それで命ごいをする姿勢はみじんもなかった。失われて惜しくない命など一つもないとはいうものの、この女性の生き方や死を見ていると、ともすれば「惜しい人をなくした」という陳腐で不謹慎なことばが、ふと唇からもれそうになるのだ。

9 指導者の心理

永田洋子と彼女との関係が悪化していく過程は『十六の墓標』からは読みとれない。永田洋子の記述による限り、彼女を縛って厳しく総括しようとしたのは男性の指導者であり「お腹の子どもを私物化し、子どもがいるから何もされることはないと思って安心している」という態度が罪状だった。『続十六の墓標』の中で永田洋子は、赤軍派の幹部であった塩見孝也氏が、この女性の死について「母体と胎児を分離させるというのは、・・・子供を生めない永田君の強烈な嫉妬心であったことははっきり理解できます。・・・こんな処置は絶対に男の思いつかない発想であり、阻害された男化した女の発想です」(『続十六の墓標』の引用による)と主張したことに怒りと悲しみを感じたと書いており、「子供を取り出すという主張は、女の私でなく男のMさんが行なったものだった」のに、そのような事実の確認もしないで、このような断定をする塩見氏に深く失望している。しかし、先に述べた当時の週刊誌などはもちろん、世間一般にも塩見氏のような見解はかなり普通にあったのではないかと思う。そうなる理由の一つは、永田洋子の場合とちがって、この男性の指導者が、なぜそれほどに、この妊娠していた女性を攻撃して死にいたらしめる必要があったかが、説明しにくいからである。

説明しにくいというのは、「子どもの生めない女性の嫉妬」というような、世間に通用しやすい図式にあてはめようとする限りではわかりにくいということである。事実の経過を見ていると、私にはそれほどわかりにくくもなく、ごく自然に次のような推測が浮かび上がってくるのであるが、不自然だろうか。

永田洋子の事実上の夫であった坂口弘氏が『あさま山荘1972』の中で綿密に記しているように、二つの組織が統合していく過程で一方の赤軍派の指導者だった男性は、もう一方の革命左派の指導者永田洋子をはじめとした中心メンバ-たちにさまざまなかたちで影響を与え、自分のペ-スに引き込んで行く。たとえば次のようなことも、坂口氏は記している。

会談で、私と彼はちょっとした論争をした。ベトナム戦争の戦局をめぐる話の中で私は「米軍は戦術核兵器を使用するに違いない」と確信ありげに述べたのである。これに対しM君は、アメリカが戦略的退却局面にあることや、核兵器を使用した際の国際世論の反発を考慮し、「戦術核は使わないだろう」と反論した。論争は明らかに私の負けだった。私の硬直した思考は、話していて浮き上がっていることが分かるほどであった。
二人の論争を側でジッと聞いていた永田さんは、この時からM君に心を傾けていったようだった。彼女によれば、革命左派と赤軍派の接触は、その初めから革命左派の分析力の不十分性や非論理性を痛感させるものであった(『十六の墓標(上)』)、
という。そうだとすれば、この日の論争で、そうした思いを決定的に強めたことは、十分にあり得たはずである。

坂口弘氏『あさま山荘1972』より

坂口氏のこういった分析が、どの程度正確か私にはまだ充分に判断できない。ただ、この指導者の男性が情勢判断にすぐれ、他人を支配する心理的かけひきをよく知っていたことは、坂口氏の他の部分の記述からも推測できる。そしてこの男性はやがて、革命左派の最高指導者であった川島豪氏(山には来ていない)に対する激しい批判をおこなって、もともと川島氏に不信感を抱いていた永田洋子や、他の革命左派の指導部もこれに賛同するようになる。坂口氏は最後まで、これに抵抗するが結局、同調するしかなかった。

全体会議を終えると、また指導部だけの会議を持った。(略)
この席でM氏は、(略)静かだが、威圧的に、われわれ革新左派メンバ-に川島さんとの訣別を迫った。
永田さんがまず同調した。続いてT君が同意した。二人に引き摺られるようにして三番目にY君が同意した。
今しがたまで同じ側にいた三人が、アッという間にM側に移って行ったため、私はひしひしと孤立を感じることになった。だが、川島さんは私にとって巨大な存在である。そう易々と裏切ることは出来なかった。私は腕を組み、目を瞑って、黙りこくっていた。

『あさま山荘1972』より

週刊誌的分析はつつしみたいが、後にこの男性の指導者と永田洋子が結婚することになって、彼女に「離婚」を申し出られて了承し、さらに逮捕後の獄中や裁判闘争の中でも、彼女と微妙な関係や対立を持ちつづける坂口氏の、永田洋子その人や自分のはたすべきだった役割などについての思いの深さや激しさは、安易な推測をはばかられるほど強いものであろうと予想するしかない。そのような懊悩や動揺をどれだけ克服して、坂口氏が当時を正確に記録しているかは永田洋子の場合と同様に、疑問を抱けば抱ける。しかし、このような、おおよその流れについては、まちがいなく読みとれると思う。永田洋子に説得されて、ついに川島氏との訣別を宣した坂口氏も含めて、相手の組織の指導部をほぼ完全に掌握できたと感じた、この男性の指導者が次に気になったのは、指導部以外のもと革命左派のメンバ-であり、その中でもこの妊娠していた女性だったのではないだろうか。

植垣氏によると、この男性が周囲に指導者として認められたひとつは、情勢分析や総括を長くみごとにやってのけて皆が圧倒されたということである。

M氏は赤軍派の総括をとうとうとよどみなく語り、私たちは圧倒されてしまった。この総括によって、私たちのM氏の信頼は絶対的なものになったのである。私たちがM氏の総括に感嘆していると、M氏は、
「力量の違い」
といって得意そうな顔をした。

『兵士たちの連合赤軍』より

現代の人々なら「その程度のことで」とあるいは驚き、いぶかるかもしれないが、当時こういうところで皆が指導者を尊敬するようになるということは、坂口氏の記述とも一致して、何となくわかる気がする。もっとも『十六の墓標』によると、永田洋子はこの時は聞いている途中こたつで寝てしまって、この総括を聞いておらず、男性の指導者はあとでそのことを残念がっている。実は私自身は、こういうとうとうと分析したりする能力については、自分のも他人のもあまり高く買わない傾向があり、はたして坂口氏の考えたように、永田洋子がこの男性の指導者のそういう能力に強く魅了されたのかどうか、少し疑問に思っている。

もちろん私の知っている女性の中にも、そういう能力を尊敬し崇拝する人はいくらかいるから、永田洋子がそうであった可能性はある。どのみち永田洋子はいろんな人が認めるように無邪気で素直で人に影響されやすい面もあり、指導者の男性にもそのことはすぐにわかったはずである。しかし、この妊娠していた女性は、おそらくあらゆる点で、この指導者の男性が一番影響を与えにくく、圧迫を感じる存在だったのではないか。永田洋子をはじめとした他の者はそのことにそれほど気づいていなくても。

M氏は、
「K君は、土間の近くの板の間にデンと坐り、下部の者に口やかましくあれこれ指導しているではないか」
と説明し、(略)そのあとも、
「K君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」
と批判していたが、そのうち、ハタと気がついたような顔をして、
「今の今まで、K君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがそのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」
といった。

『十六の墓標』より

永田洋子や他の指導部は、あまり積極的ではないが賛成して、結局この時彼女を会計からはずしている。彼らが生活していた小屋では、指導部と「兵士」たちのいる部分は、かたちだけだが区切られていて、互いの様子はだいたいわかるが、一応別々の生活をしていた。その「兵士」たちの中で、この女性が身重の身体で山に来ていること、指導部の一人Y氏の恋人であること(先の美人といわれていた女性の場合、幹部の恋人であることから優遇されていたといわれ、赤軍派にそのような傾向があったとすれば、指導者の男性にはこのことも気になっていたであろう)、永田洋子ともかなり信頼関係があること、何より先に述べたような豊かで強靱な人柄であることから、もと赤軍派も含めた「兵士」たちのメンバ-をひきつけていくことを、この指導者の男性は何より警戒していたのではあるまいか。しかも彼女は、指導部の暴力的な総括に、早い段階ではっきりと批判的な姿勢を示していたのである。

『十六の墓標』によれば、縛られた後の彼女について男性の指導者は、永田さんには見せない反抗的な態度を自分に示すと言って怒っている。永田洋子や坂口氏や恋人のM氏などもと革命左派の指導部が、もと赤軍派の男性指導者の方針にまきこまれていくのに彼女が積極的に抵抗したり画策したりした様子はない。しかし、この時点で彼女は、永田洋子と坂口氏の夫婦や、自分の恋人であるY氏より、はるかに正面から、この男性指導者と対立する位置にいたのではないかと思う。そして弱音を吐かず屈服しない彼女に、指導者の男性は怒りをつのらせ恐怖を感じたはずである。あまり猟奇的なことは言いたくないが、気性の激しい彼が、異常な心理状態が続く中で、そのような怒りと恐怖から彼女に対して徹底的に残酷になろうとしたと考えるのは、永田洋子が子供を生めない嫉妬から胎児を引き出そうとしたと考えるのと同じぐらいかもう少しは、無理のない推論であろうと思う。

10 苦しんだ男性たち-自殺した指導者Mのこと-

『十六の墓標』で見るかぎり、苛酷な総括や処刑を命じているのは常にこの男性の指導者で、永田洋子は疑問を感じながらもそれにひっぱられていっている。(ちなみに裁判の判決では逆に彼の方が永田洋子にひっぱられたのだとしており、それを彼の「器量不足」と表現しているのも、女性をおさえきれなかった男性を低く評価する女性蔑視の姿勢が見える)ここに事実の歪曲はないとしても、やはり彼女が人の(しいて言えば、その時々に信頼していた男性の)意見に影響されやすいことは示されているし、また坂東氏は『永田洋子さんへの手紙』の中で、個人の内心がどうであれ、客観的には総括され処刑される人や、下部のメンバ-の目から見れば永田洋子は残酷な鬼婆としか見えていなかったという事実を直視すべきであるとも述べている。

永田同志の『十六の墓標』の中でも、比較的永田同志の本音の感情が書かれておりいろいろ動揺したことが書かれています。しかし、私や同志達に映っていた永田同志は、そんな人間的感情のひとかけらもない「鬼ババア」でしかありませんでした。私も当時は、恐ろしい人、動揺しない人と考えていたのですから、下部の人が、私たち指導部を「お上=神」と恐れたのも無理はありません。

動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の真の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。

どちらも『永田洋子さんへの手紙』より

いずれにせよ、永田洋子とともにこの事件の中で大きな役割をはたしている、この男性の指導者Mは逮捕された後、獄中で自殺した。

永田洋子が嘆いている通り、彼の死はこの事件の正確な分析や総括を非常に困難にしているにはちがいない。しかし、生き残った人々の回想だけからでも、この指導者の男性、また他の男性たちのことはある程度わかるように思う。
それにしても、この指導者の男性の抱いていたであろう永田洋子へのライバル意識や不安や危惧を、『十六の墓標』を読む限り、永田洋子は今でも気づいていないのではないかと思う。それは他のメンバ-も同様で、坂東氏は『永田洋子さんへの手紙』の中で、この男性を弁護して、

M同志にしても、こんなことをいうとへんに聞こえるかも知れませんが、どこにでもいるやさしい、町の人格者とでもいうべき人で、もし大衆運動の指導者であればきっとすばらしい人であったろうと思うのです。

と述べているし、坂口氏や植垣氏の本を読んでも、皆、この指導者の弱さをそれほど強くは感じとっていないようである。たしかに私の見聞からしても、このような組織の特にリ-ダ-格の男性は言葉も行動も激しい迫力があり、周囲は強い畏怖を抱くことが多かったろう。

しかし、永田洋子が意識していなくても『十六の墓標』に描かれる、そして他の人の本からも裏付けできる、この指導者の男性の姿は痛ましいほど繊細で弱い。それはもちろんあらゆる組織において、男女を問わず指導者というものにつきものの苦悩でもあるだろうし、彼以外の誰か他の男性でも、この立場におかれたら、それぞれの性格によるちがいはあっても結局同じように不安定になり、弱さを見せていったかもしれないが。

連合赤軍という組織のめざしたものや、それに至る手段についての方針が、どこが正しくどこがまちがっていたかは今は考えない。今の私にそれはまだわからない。ここで私が言っておきたいのは、彼らの戦いが女性問題あるいは男女問題と直面するかたちで行われていたことである。この指導者の男性や、他の仲間の男性たちにとって、それはどれだけ重く困難な課題であったか。彼らがになった十字架は、ある意味では女性たちの比ではなかった。

この二十年かそこらの間に男女についての社会の常識は、驚くほどのスピ-ドで変化したし、その変化はまだ続いている。一九九四年の現在から考えると信じられないほど、連合赤軍事件の当時の男女についての考え方や感覚は今とは違っていた。今でも思い出すが当時私は女性のおかれている立場について、多くの怒りを持ちながら、それを決して男性に向かって言えなかった。無視や反発が怖かったのではない。気づかせ、共感させ、味方にさせるのが怖かった。女である私より、男である相手にとって、その戦いはあらゆる意味でずっと危険でつらいことを予想し、そのような戦いをしてくれる人に、そのような戦いをさせることが耐えられなかったからである。

永田洋子をはじめとした連合赤軍の女性たちが、私にできなかったその決意をしたとは思わない。彼女たちは、むしろその点ではただ無心に懸命に生き、結果としてそれが男性たちを女性の問題に直面させたのだろう。むろん、理論を重視する彼らにとって、革命とは女性解放でもあるという理屈も無視できないものであったろうが。

日本共産党も男女平等は強く主張し、実践する。しかし、性に関するモラルではむしろ厳しく禁欲的な傾向が強い。連合赤軍の場合、男女の性的な関係について束縛はなく、そしてその中に新しい秩序を作ろうと彼らは努力していた。

銃撃戦の訓練をすると同じくらいに、あるいはそれ以上に、彼らのこの点での努力や模索の苦しさが私には思いやられる。それまで育ち生活してきた環境の中で、否応なしに培われてきた男女についての感覚を、それぞれがひきずったまま、明確なテキストなど何ひとつない中から彼らはそれに取り組もうとした。その頂点にいた指導者の男性にとって、その困難さはひとしおだったろう。

『十六の墓標』の中で、彼が「これからは女性の問題にも真剣にとりくむことにした」と宣言する場面がある。その時彼はそれまでとりくめなかった理由のひとつとして「だって生理の時の血とか、女って気持ち悪いじゃん」とも言っている。

個人批判の問題がひとまず終わったあと、M氏は、それの延長のようにして、
「今後は女性の問題にも関心をもつことにした。これまで、関心をもたなかったのは自己批判的に考えているが、生理の時の出血なんか気持悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。しかし、もうそれではやっていけないことがわかった」
といい出した。(略)私が黙っていると、M氏は、
「女はなんでブラジャ-やガ-ドルをするんや。あんなもん必要ないじゃないか。(略)」
といった。一体いかなる根拠に基づいて、M氏が女性の下着について批判したのかわからないが、私は、あまりにメチャクチャな発言と思い、
「ブラジャ-やガ-ドルを必要ないとはいいきれない。私も使う時がある」
と反対した。M氏は、
「そうか。何しろ教えてもらわないとわからないのだから、教えてくれ」
といった。(略)続いて、M氏は、
「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
といった。私は、
「出血量は人によるけど、どの人も必要と思う」
と反対した。M氏は、これには黙ったが、今度は、
「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
といってきた。私は、あまりに極端なことをいうと思い、
「女性は生理の時にはチリ紙がいるし、新聞紙では困ることもある」と反対した。

『十六の墓標』より

私は彼のこれらの言葉に反発や怒りは感じない。感じるのは、それほど女性について慣れておらず、また当時としてはそれが当然だった、このような男性が「女性の問題について真剣にとりくむ」と宣言して、妊娠した女性の身体のことなどに積極的にかかわろうとする健気さであり、そうせざるを得なかった状況である。

ともすれば遠ざけられ隠されていた女性の肉体や精神に、積極的にふれて理解しようとしながらも、男性としての誇りや本能を的確に処理できないままに、彼らはとまどい苦しんだ。そして、昔の私もそうだったが、男性と対等に生きることをめざしながらも、永田洋子をはじめとした女性たちは、そのような男性たちの弱さや不安を充分理解しきれていないようである。自分たちにそのような弱さや不安がないからかもしれない。男性は強いものという思い込みのためかもしれない。

先の、妊娠していた女性が、そろそろ厳しく追求されはじめた頃、この男性の指導者についてどう思うかと聞かれて、笑いながら「目がかわいい」と答えたのに対し、この男性は「馬鹿にしている」と言って怒っている。

M氏は、それ以上何もいわなかったが、「K君は僕の方ばかり見ている」といったあとその時のことをもち出し、「そういうK君だから、Y君から僕に乗り移っているのだ。(略)」といった。M氏の発言があまりにもおかしいと思った私は、わけのわからない怒りがわきそれを否定しようとして、Kさんに、
「Mさんをどう思う?」
と聞いた。Kさんは、少しとまどっていたが笑いながら、
「目が可愛いいと思う」
といった。すると、M氏は、
「ほらみろ。目を可愛いいなんていうのは、指導者にたいする言葉でない。まるで子供扱いだ」
と怒り、さらに、
「Y君から僕に乗り移ろうとしているから、K君はそう見るのだ。永田さんはそういう風に考えたことがないからわからないのだ」
といった。他の中央委員はM氏に同意的であった。

『十六の墓標』より

この場の雰囲気や各人の心理は私にはまだ充分予想できないけれど、ただ、男性としての彼の微妙な心の動きはくみとれる。このような危うさを抱えながら、彼らは男女のあり方、同等の人間として共に生き、共に戦うあり方をさぐりつづけていたのだった。

この他にも、ある女性を「総括」して死にいたらしめる際、彼女が強姦された体験を告白したのを、この男性の指導者はあえて軽視し無視しようという姿勢をとっている。それ以前に永田洋子自身も、同志の一人に強姦された体験を告白し、それは一同にさまざまな動揺を与えたようだが、告白した永田洋子自身も含めて、強姦ということの意味を考えつめ、自分たちの生き方や組織のあり方について、何か新しい方向を見出していこうという動きはない。当然かもしれないという気がする。セクシャル・ハラスメントというような考え方さえ夢にも人々の心になかったこの時代、あらゆる恋愛や性行為はいくぶん強姦めくのがあたりまえというのが、むしろ社会の通念だった。それは今でもまだ充分に残る通念でもある。たとえば映画の批評にしても、性交渉にいたる場面の描写において、男性が女性に対して強引でない演出は「不自然」とか「ぎごちない」とか「滑稽」とか批評されやすく、強姦めいたものであるほど、「人間らしい」の「本能の美しさ」の「荒々しい魅力」の「男女の愛の根源」のと、いつも似たようなさまざまな讃辞がよせられる現象に、私は賛成反対や快不快の問題を超えて、ただもう単純に退屈し、うんざりしている。

今でさえそうなのに、ましてこの当時、女性たちから「強姦」という告白がなされたとき、このような活動に参加している男性たちのとまどいは深かったと思う。自分たちのような主義主張をする立場のものならば、女性たちのその訴えを真剣にうけとめ、そのような行為を否定すべきであるということは、漠然とだが確実にわかっただろう。けれども、それを否定したからといって、ではいったいどうすれば、好意をもちあった男女は初めての性交渉をおこなうことができるのだろう、多かれ少なかれ強姦めいたかたちをとるしか他に方法はありえないではないかという疑問は、男性たちの心の底に強くわだかまっていたはずである。その疑問の答えは女性たちにもむろん、わかっておらず、しかも彼女たちはまだどこか、弱い女性としての立場を捨てず、根本的にそういう問題を解決して新しい道を示すのは男性の役目だという態度をそれとなく残していた。男性たち自身にも、弱い被害者である女性たちからの訴えをうけとめて、問題を解決するのは自分たち男性の役目だという意識があった。しかし、もちろん、それはあまりにも巨大な課題であった。指導者の男性がこの時点で、強姦という問題と対決するのをさしあたり避けたのは、指導者としての判断の確かさを示すものでさえあったかもしれない。

これらの課題を彼ら(女性も男性も)が解決できなかったのは、表向きにはさしあたり彼らの悲劇の直接の原因ではない。しかし、彼らがあれだけの仲間を追求して死にいたらしめた背後には確実に、男と女が対等に生きようとした中で起こってきた、たくさんの気持の行き違い、不必要な刺激や興奮が作用し、影響していた。女性がいなくて男性だけの世界だったら、この指導者の男性もここまで悲劇をひきおこす前に何かの判断はできたかもしれない。
先にも言ったように、自分の、女性としての生き方の問題を男性にさしつける勇気は私にはなかった。『十六の墓標』を読んで、そこにあった大半は何となく読む前から予想していたことだったけれど、読んで初めてわかったこともある。その一つは、すでに女性たちからその問題をさしつけられて苦しみ、最悪に近いかたちの結果を招いた男性たちが、もういたのだということだった。

私が恐れたのは、まさにこの事態だったのだ、と、したり顔の発言は口が裂けてもしたくない。といって今さら、自分の用心深さと臆病を自嘲する気にもなれない。勝利感も罪悪感もなく、しいて言えば、ただくやしい。彼らのことも、私のことも。そして、私がのりこえられず、彼らがのみこまれてしまった何ものかは、現代も決して消えてはおらず、たとえば彼らや私のように、それとははっきりわからない犠牲者や敗北者を、今なお生み出しつづけていると、あらためて強く、強く、感じる。

11 最後に

これまで述べたことの背後や周辺には、さまざまな組織間の対立の問題などが微妙にからみあっていて、まだまだ説明しておくべきことも多いのだが、今回はそれにはふれないことにした。また、冒頭で自分の政治的な体験についていろいろ述べたが、そういったことについても、私はまだ考えをまとめきれているわけではないし、連合赤軍の人々と自分とのどこがちがうか同じかについても、今はまだ整理できていない。植垣氏や大槻氏たちの著作を読んで、自分の体験との差などが興味深かったし、ちがった観点から当時をふりかえることができたのは非常にありがたかった。けれど、それらについて何かまとまったことを言うには、まだ長い時間が必要だろう。

それを待っていたらいつのことになるかわからないので、さしあたり急いで言わねばならないことだけを、ここでは書いた。裁判記録をまだきちんと読んでいない私は、弁護側がどのような主張をおこなっているのかさえもよく知らない。だが、この事件が、永田洋子たちひとりひとりの個人的な性格や資質によるものではなく、当時の思想的な闘争や、あるいは時代そのものの問題としてとらえられるべきものであるというような主張なら、それに加えてもうひとつ欠かせないこの事件の側面は、新しい時代の女性または男女の生き方が模索される混乱の過程の中で生じたものであるということだと思う。

いうまでもなく、この事件そのものは悲劇であり、またグロテスクな喜劇でもある。しかし、だからこそ、その中に、非常に鮮やかなかたちで、現在もまだ解決されていないさまざまな女性問題の局面がうかびあがって来ている。永田洋子たちの体験と運命は、同じこの時代に生きる人たち、特に女性の生き方に関心を持つ人なら誰にとっても見逃せないし、避けられない。彼女たちのことを私たちが見つめないまま、ただ残酷で異常な人たちの死刑というかたちでこの問題を終わらせてしまったら、それはこの時代に生きるすべての人々、とりわけ女性皆にとって決して小さくない一つの失敗として、後悔として、後の時代に残ると思う。
(1994年1月14日)

参考資料

(この他にも多くの貴重な資料があるが、ここにあげたものだけでも、私はこの稿の中で充分に使いこなすことはできなかった。読み方の不充分さもあって、いろいろな間違いをして関係者の人たちに迷惑をかけはしないかという心配もある。せめて、少しでも多くの人が直接これらの本を読んで、自分で判断していただくことを願うものである。)

  • 「永田洋子さんへの手紙」 坂東国男 彩流社 一九八四年
  • 「兵士たちの連合赤軍」 植垣康博 彩流社 一九八四年
  • 「愛と命の淵に」 瀬戸内寂聴・永田洋子 福武書店 一九八六年
  • 「私 生きてます」 永田洋子 彩流社 一九八六年
  • 「優しさをください」 大槻節子 彩流社 一九八六年
  • 「続十六の墓標」 永田洋子 彩流社 一九九〇年
  • 「あさま山荘1972」(上・下) 坂口弘 彩流社 一九九三年
  • 「獄中からの手紙」 永田洋子 彩流社 一九九三年
  • 「坂口弘歌稿」 坂口弘 朝日新聞社 一九九三年
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カツジ猫