映画「ミラーズ・クロッシング」感想「ミラーズ・クロッシング」感想(2,これでおしまい)

私は監督のコーエン兄弟の作風とか、ぜんっぜん知らないのでわかりませんが、少なくともこの映画に関する限り、ものすごくサービスがいいというか、レオとトムの愛の映画だというヒントは与えまくってくれてます。

そもそも、バーニーとミンク、そしてキャスパーの腹心でトムを疑ってる天敵デーン、皆ゲイで三角関係で、その恋のもつれが展開の大きな要素になっている。バーニーはともかくデーンなんか、どこからどう見ても強面の立派なギャングで、この人をゲイにする必然性なんか脚本の上でまったく必要ない。男同士の愛、という隠れテーマを観客にほのめかす以外には。

もちろんトムのレオへの愛情は、精神的なもので、どこまでどういう同性愛なのか、彼自身もわかってないだろうけど、ただ少なくとも彼は自分のそういう傾向を絶対に知られたくないと思っているし、認めてもいないし、もちろん女と寝るし、だからミンクやバーニー、デーンたちへはまったく親近感も同志愛も持ってはいない。むしろその反対で、自分にそういう要素が、少なくともレオへの感情の中にはあることを感じていればなおさらに、反感や嫌悪や敵意や軽蔑しか感じないだろうことは、これまた、人種でも性別でもその他何でも、近親憎悪は差別意識の基本といっていい形式だから、当然すぎるぐらい当然だ。

ヴァーナが誤解してトムが自分を愛していると思いこむのは無理もないが、下手をしたら滑稽だ。それをそう見せないのは、これまたヴァーナを演じる名女優マーシャ・ゲイ・ハーデンの、何をどうしても、少しも愚かに見えない気品と気概だ。この女がバカなことをしたり、考えたり、まちがったりするはずはないと、見ているとなぜか思いこんでしまわせる、この迫力は実にすごい。

トムにとってはヴァーナのこの誤解はもちろんありがたいし、彼女に愛情なんか感じていないにしても、愛するボスの女であり、いわば恋敵でもあり、それと寝るということは、考えて見ればなかなか倒錯した感覚の快感でもあるだろう。この映画の登場人物はトムをはじめとして、皆、真剣で必死でまっすぐだが、その結果清潔の極致の猥雑さの中に身をおいているところがある。これを追体験し感情移入できるかどうかが、この映画をものすごくいやらしい意味でも楽しめるかどうかの分かれ道かも知れない。そういう点では、江戸後期の前期戯作と同様に、意地悪な映画だ。全部あけっぱなしに見せておきながら、わからない人には何一つわからないエロティックさを満載にしているのだから。

マーシャ・ゲイ・ハーデンは最近の「ミスト」の宗教おばさんでもわかるように、徹底的にただもう、うまい。ガブリエル・バーンは最初に言ったように、演技がものすごくうまい人ではないが、この雰囲気のはまりかたはすごくて、彼以外ではこのなまめかしさと悲しみは決して表せないだろうという域に達している。キャスパー役ももちろんうまい。

だが、この映画が決定的に成功するのは、トムがそこまでの愛を捧げずにはいられない、親分レオの魅力だ。彼はもちろん、トムの気持ちは知らない。ちょっとややこしいところもある頭のいい子分として、無邪気に信じて愛している。最初のころに彼がトムのことを「女のように扱いにくい」という場面があるが、これは字幕の訳で、吹き替えでは「インテリは扱いにくい」となっている。英語の字幕を確認すると、ここは「twist」であって、ひねくれ者とでも言うべきなんだろうが、字幕の意訳は何とも的確じゃあるまいか。

どちらにしろ、レオはトムを女のように気まぐれで得体がしれない賢い男ととらえつつ、本能的に信頼し、心を許し、無邪気に愛してもいる。これはもちろんトムにとっては、うれしいと同時につらい。そのへんはいくらでも腐女子的解釈で鑑賞してもらっていい。
そのことも含めて、レオという男の大きさ、強さ、優しさ、暖かさ、恐さ、ヴァーナが何度も口にする、その人間的魅力、それを見ただけでこちらに伝えてくるような、たたずまい、貫禄、立ち居振る舞い、そういうものが演じる俳優になかったら、ヴァーナのせりふもトムの演技も空回りで何の説得力もなく、映画全体は崩壊する。

しかし、レオを演ずるアルバート・フィニーは決して出すぎずやりすぎず、自然に素直に堂々と、完膚なきまでに、この最高に魅力的な男性像をスクリーンに表現して見せる。「そらトムもほれるわ」とため息しか出ないぐらいに、その存在感は圧巻だ。
実は初めに見たときは、トムとヴァーナの魅力に目が行きがちだったが、くり返し見る内に、レオのなめらかに自然な演技の深さとカッコよさに見入ってしまうようになった。夜中にくつろいでいるところを襲撃されて応戦し、相手を皆殺しにする場面なんて、いったい弾丸は何連発なんだという問題はどうでもいいぐらい(笑)、ひたすらに優雅である。

バーンの演技力がいまいちにせよ、トムがレオに対して「ヴァーナは信用できない。そんなにあんたを愛してはいない」と説得して、結婚をやめさせようとし、最後の切り札の「自分と寝た」という告白をする場面のいちかばちかの緊張感は、ギャングの抗争なんかと比べ物にならない、この映画の白眉のぎりぎりの対立場面だ。トムは自分への信頼が失われる危険を冒しても、レオにヴァーナの正体を告げようとする。そしてレオは最後には結局ヴァーナを選ぶ。というより、自ら結婚を申し込んだヴァーナがトムからレオを奪う。

敗北を認めたトムは、何も知らないレオが、以前と同じ関係を求め、二人の過ちは許すと言っても、それを拒絶し別れを告げる。最後に去って行くレオを見送るトムのまなざしは、恋しつづける相手を見送るそれでしかない。
まあもう、ここまで見え見えの露骨な男性同士の愛を描いておいて、それを誰にも気取られることなく「スタリッシュな一風変わったギャング映画」で一定の人気を確保したコーエン兄弟は、やはり凄腕と言うしかないのかもしれない。

ちなみに、Yahooの映画評で「アーサー王物語的三角関係」とコメントしてるのは私です。そして、それまでの評の中では、「登場人物の気持ちがまったくわからない」などなどのコメントも多いので、どうぞあわせて、お楽しみ下さいますよう♪

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カツジ猫