地下室の棚入試について

1 あの子の目が怖い

いきなり、入試の話である。
我ながら、ヤバい話題かもしれない。
でも、この話題からはじめないと、過去の私に、私がとっちめられる。
高校三年の頃(思えばもう四十年も前じゃないか)、私は受験勉強に猛反発していた。それが、どのように間違った制度か、こんなもののためにする勉強がどんなにくだらないかということを、毎日、日記に書きまくり、人にも話してうんざりさせていた。
そんな、どう考えても間違っている受験制度に自分も従って受験するしかない、ということが、最後は相当私を悩ませもしたのだが、それはここではおいとくとして(「闇の中へ」を参照して下さい)、とにかく、そんな日々の中で、私がほんとに歯をくいしばって誓っていたのは、自分が大人になったら絶対に、こんな制度は廃止してやる、そのために全力をつくして戦ってみせる、ということだった。
当時の私は、太って陽気でひねくれた女の子で、特に大人に対しては情け容赦なく、意地悪だった。そんな過去の私が、現在の私に遭遇して、わりとがんばってるじゃないかとか、まあよくやってるじゃないかとか、認めてくれそうなことは実はけっこうあるのだが(何しろ私は、四十年間、いつも彼女の冷やかな目を気にしつつ生きてきたところがあるので)、そんなもの全部チャラにするほど、見限られて失望されて、裏切り者とののしられそうなのが、この、受験制度に関する私の態度である。

2 死んでしまった中西

何しろ、就職した先は大学である。
すでに三十才になる前から、私は自分の勤める大学の入学試験の問題を作り、採点をして、試験制度の歯車の一部にしっかり組み込まれていた。
どうしてか、その頃はまだ、罪の意識を感じなかった。同僚の先生と、良心的な問題を作ろうとして必死に議論していたせいもあるだろう。回答の幅が大きくなりがちな国語の試験だったせいもあって、絶対にこれしかないという回答が書けるような質問を作らなくてはと、私たちは互いの作った問題を厳しく批判しあってチェックした。「その質問だと、こういう答えだって出て来ます。それがまちがいとは言い切れません」「この文章は絶対に、そういう風には読めません」。私たちは、一つの回答をめぐって、そういう激しい議論をした。就職したばかりの私の意見を真剣にうけとめて対応した同僚の先生も今思うと、本当に偉かった。
そう言えば、私が出した問題の文章の冒頭がいきなり「しかし、中西は死んでしまった」と始まっていて、これは、中西という名の受験生がひょっといたら動揺するのではないかと「N」に変えて、でも今度は「N」という人が皆動揺しないかと悩んだことがある。まあ、アルファベットなら印象も薄らぐだろうから、とそのままにしたのだが。

3 いい子が欲しい?

過去の自分ににらまれているかも、と私が感じはじめたのは、今の大学に来て、入試関係の委員になって、試験科目とか試験時間とか、そうしたいろんな入試についての事柄を決める会議に参加するようになってからだ。
自分は何をしているのだろう。試験制度を廃止とまではいかなくても、自分の大学でどんな試験をどんな風に実施するかが、私の発言で左右できる場所にまで来ていながら、実際には、何の意見も出せないし、持てない。いつも、そう思った。
しかし、実際にはそれも、無理からぬことではあった。入試というのは、受ける方もだが、実施する方にとっても、ミスの絶対許されない、神経を使う作業だ。そして、どうしてそうなるのか知らないが、試験時間も受験科目も、わざとやってるんじゃないかと思うほど、まるでパズルのようにややこしい。だから、そういう会議では、とにかくきちんと間違いなく試験を実施することが、緊急かつ最大の目的で、入試の目的や意義なんて、討論している時間はないのだ。
入試の目的や意義を話し合う時間もない中で、何となく基準になっているのは、ちゃんと定員を確保しよう(つまり三十人の定員のところが二十七人とかなったりしないようにしよう)ということが一つ、もう一つはできるだけ良い成績の学生を確保しようということだったと思う。
でも、私は、そのことにも、ずっと疑問を感じ続けた。「このごろ、学生の質が低くなった」とか、「授業で何を聞いても知らない」とかいう、先生方の嘆きを聞くたび、私は一応同調していても、心の中で、それがどうして悪いんだろうと、いつも思った。そんな子にこそ、いろんなことを教えてやればいいんじゃないか。悪い成績の学生の方が教えてやることがいっぱいあるんだから、張り合いもやりがいもあるじゃないか。そういう学生にこそ、優秀な教師と立派な大学が必要なんじゃないか。そう思った。
だいたいが私は、良い成績の真面目な学生を相手にすると、安心して気がゆるみ、やる気が失せるのである。演習でも、完璧な発表をする学生がいると居眠りしそうになり、はちゃめちゃな発表をする学生がいると、あれもこれも言わなきゃと思って生き生き張り切ってしまう。優秀な学生がいれば、それはそれで楽しいが、別にいなくたってちっとも、ものたりなくも淋しくもない。(あは。言っちゃおかなあ。優秀なのは私が一人いれば、それで十分なのよ。)
だから、成績の悪い学生がどっさり入ってきたら、まだ耕してない土地がいっぱい目の前に広がったようで、わくわくすると思う。
でも、そういうことを考えている先生は、ほとんどいないだろう。そして、いないのだったら、やっぱり成績のいい学生をとらないと、先生たちは落ち込んですさむだろう。その結果、大学の雰囲気が悪くなったら、学生たちもかわいそうだ。
だから、さしあたり私も成績のいい学生をとることを基準に、物事を考えていたけれど、どうも気が乗らなかったし、過去の私の目が気になった。

4 試験の効用

せめて、その中で、私にできることと言えば、やっぱり、きちんとした、正解が納得できる問題を作るしかなかった。勤める大学はいろいろ変わっても、その点では私はいつも同僚たちと、ぎりぎりの討論をしてきたつもりである。
ただ、正直言って、これはちょっと不親切かなあとか、無理な要求かなあとか思うような問題も十年に一回ぐらいは出してしまったことがあったと思う。採点をしている時、他のところは皆、抜群の優秀さで正解を出している受験生が、その、ちょっと気にしていた問題のところだけ、まちがっているのを見ると、こちらのミスを指摘されたようで、どきりとさせられる。その受験生に申し訳ないとつくづく思う。
ただ、これは実際にこうして入学試験に長く携わらないと絶対わからなかっただろうという実感がある。そういう、優秀な受験生は仮にそういう、こちらが反省するような問題で間違っても、結局は他のところでちゃんと点数をかせぐので、結果としては合格ラインに必ず入って来る。一方、あまりわかってないなという受験生がたまたまそういう問題を正解したとしても、他のところで点数を取らないから、全体としてはやはり合格が無理な点数になる。
他の科目との総合点のことを思うと、国語の得意な優秀な学生にとって一点でも低くなることはやはり困るだろうけれど、そのことは今少しおくとして、要するに、一つのミスや、不適当な問題で全体の結果が左右され、受験生の運命が狂うということは、ある程度以上と、ある程度以下の実力の受験生については起こらない。つまり、そういう両者を振り分けるには、試験は確実に有効に機能する。
問題は、合格ラインすれすれにいる人たちだ。この人たちが受かるか落ちるかは、本人のミスや私たちのミスに大きく左右される。この部分の人たちの合否を、運命ではなく実力の順に決めることはとても難しく、ぎりぎりを言えば不可能だと思う。しかし、そこを限りなく完全に客観的に公平なものにするための努力は続けなければならないだろう。

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カツジ猫