地下室の棚教師の心理

1 高求(註)の怒り

百八人の英雄豪傑が大活躍する、血わき肉躍る面白さで知られる中国小説「水滸伝」の大悪役高求は、もともと町のごろつきで、蹴鞠が得意なばっかりに徽宗皇帝の寵愛をうけて出世した男である。当然、実力はないし、自分に自信もない。
で、初めて司令官として着任した役所で、部下の指揮官の一人がたまたま風邪で休んでいると「私を馬鹿にしている」と激怒する。心配した同僚から連絡をうけた指揮官は驚きあわてて、病をおして出勤する。高求は彼を皆の前で罵り、身の危険を感じた指揮官は、夜逃げしようと決心し、老母を連れて旅に出た先で、龍の彫物をした若者に会い―― と、転がるように話は発展して行くのであるが、ここでは、それはもういい。
この時の高求の心理は、いかにもけちくさくヒステリックである。こんな上司はたまらんなあという典型である。だが、しかしながら、私はこの心理がわかる。
大学院生の頃、バイトで高校の非常勤をしていた。病気や産休で休まれた先生のクラスを教えるのである。クラスの雰囲気がある程度できているところに入って行くから、緊張するし、どんな生徒がいるのか気になる。
それで、出席簿を見ていて、私が担当する国語の時間の、前の時間まで出席していて、私の時間から休んでいる生徒がいると、明らかに私は動揺した。その生徒の顔も何も、むろんまだ知らないし覚えてないから、だから、なおのこと。
ほんとに一瞬のことなのだが、頭の中にさまざまな思いがうずまく。「私だから休んだのかしら」「嫌われてるのかしら」「なめてるんだろうか」などなど。顔には全然出さないし、自分でも気づかないほどのかすかと言えばかすかな思いだが、それでも確かに思うのである。「不愉快だ」「私をないがしろにしている」と。

2 今ではもう、夢のような心境

言っておくが、今はもうそんなこと、全然感じもしないだろう。「あ、○○さん、お休みね」と名簿にチェックして、おしまいだろう。「お休み多いね、どうかしたのかな?」とか気にしても、それは自分のプライドとは、まったく関係ないだろう。もはや、平気になりすぎていて、本当に私を嫌いな生徒が私への抗議とか、何かを訴えたくて休んだとしてもまるっきり気づかないのではと心配なほど、それほど私は強くなったし、鈍感にもなった。
それでも、「水滸伝」を読むと、思い出す。ああ、そうだ、自信のない指導者というものは、本当に部下の自分に対する態度が気になるんだよなあと。嫌われてないか、無視されてないか、馬鹿にされてないか、びくびくかりかりしてしまうんだよなあと。
若い先生、初めて教壇に立つ先生の心境は、今でも多分そうだと思う。そして、何かいろいろ不幸な偶然が重なって、そういう不安から抜け出せず、ずるずる深みにはまってしまうと、ノイローゼだの登校拒否などという状況になったり、逆に生徒を登校拒否にさせてしまうような先生になってしまったりするのかもしれないとも思う。

3 つい見てしまう

教師に限らず、人間の心理って実に微妙というか、正直である。それは、もう、かなり非常勤も長くやっていて、高校での授業になれた頃のことだったが、いくつかのクラスの国語の授業を私は担当していた。どのクラスも、それなりに好きだったし、生徒たちとも悪い関係ではなかった。苦手なクラスがありますかと聞かれたら、何のためらいもなく、いいえと答えたことだろうし、嫌いな生徒がいますかと言われたら、いませんと心から返事したと思う。
ところが、ある時、私は気づいた。多分、三つぐらいのクラスを担当していたと思うのだが、その内の二つのクラスの教室には、私は何も考えずに、廊下から、さっとまっすぐ入って行くのである。ところが、残りの一つのクラスの教室に入る時にだけは、私は一瞬――もう本当に一瞬だが、引き戸の上をちらっと見てしまうのである。
引き戸の上に黒板消しをはさんでおくとか、バケツをつるしておくなどという古典的ないたずらを、いまどきの生徒たちがするなどと、思っていたわけではない。それでも、心の奥底のどこかで、もしかしたら、と思うのである――というか、思っていたとしか思えないのである。教室に入る前に、そのクラスの時だけはちらっと目を上げて、上に何もないか安全を確認してしまう、その癖を、自分でも私はまったく気づいてなかった。そして、何と、気づいた後でも、やめられなかった。他の二つのクラスのように、何の心配もなく、上など見もせず、信じきってまっすぐ入って行くことが、そのクラスにだけは、どうしてもできないのである。ひとりでに、ちらっと首が上がり、目が上向くのだ。
あ、ほんとに信じてないんだ、私、このクラスのこと。
衝撃と言えば衝撃だったが、それより私は、何だかもう、自分というか人間というかの、隠してもばればれになる情けなさに笑ってしまった。いくらきれいごとを言ってごまかしていても、身体が裏切ってるなあと思うと、嘘はつけないものだなあとしみじみ思い知らされた。
結局、そのクラスの生徒たちは、引き戸の上に何もはさみはしなかったし(そんなことがあるとは、私も思っていたわけではない)、他にも私を困らせるようなことは何もしなかった。他の二クラスと同じように、彼らとも仲良くいい雰囲気で私はその期間のバイトを終わった。しかし、誰の目にも見えなくても、自分でも気づかなくても、やはり私は彼らを差別していたのだなあ、心の中では明らかに、と今あらためて思う。そういう、弱さやもろさを抱えて、教師は人を教えているのだ、とも。

4 「なーんて、かわいいのー!」

それで、ということもないんだけど。
教え方のテクニックをきわめるだけきわめたら、後はしょせんは心境の問題、というような、まるで忍術や超能力めいた怪しげな部分も、教育や授業にはある程度、たしかに存在するのだ。
やはり、高校に非常勤をしていた、特に初めの頃、私は教材研究を死ぬほどやった。と言っても、私は文学部の出身で、今つとめている教育大学で学生たちが習っているような教科教育や教材研究のような授業は、ほとんど受けていなかったが、それでも自分なりに、この教材を生徒に理解させ、楽しませるにはどうしたらいいか、本当にあらゆるシュミレーションをし、頭をしぼって考えた。
結果として、うまくいった時もいかない時もあったけれど、とにかく、授業をはじめる時点では大抵、これでうまく行くと思っていた。
ところが、どうかすると、それがどうしても考えがまとまらない時がある。教材の解釈もきっちりやったし、水ももらさぬ(と自分では思っている)授業計画もたてているのに、なぜか最後の自信が持てない。そういう気分のままで授業に臨むと、これはもう絶対こけるのである。なぜかもう、それは確実なのである。
それで、気持ちが定まらぬまま、のたうちながら電車に乗って学校に向かう途中、何度か私が気づいてとった、最後の手段は、もう何もかも忘れて、目を閉じてひたすら自分に言い聞かせることだった。ああ、あのクラスの生徒たちって、なーんてかわいいんだろう、あー、かわいい、ほんとにかわいい、ほんとに大好き、かわいいわー、かわいいわー、電車を下りて歩きながらもそう言い聞かせ、職員室で教科書をそろえながらもそう言い聞かせ、廊下を歩きながらもそう言い聞かせ、その気になってひとりでに笑顔になった、その顔のまま、「かーわいーいーっ!」と全身で(声は出さずに)叫びながら、がらっと戸を開けて「おっはよーうっ!」と教室に入って行くことだった。
その手段を取らなければならないほど、せっぱつまったことは数回しかない。そのせいか、結果としては、その方法が失敗したことは一度もなかった。
どれも、これも、まだ教師としての経験が浅かった日々のことだ。今の私はもっと落ちついていて冷静に自分をコントロールできる。だが、不安定さをなくした分、あるいは繊細さも失ってきているのかもしれないと、少し不安になることもある。

註 正しい高求の「求」の字は「人偏に求」。(本文へ)

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