映画「トロイ」旅の終わり ―夜のテント―

「目を閉じて、波の音を聞いてると、まるでピティアにいるようだね」
「あの岬の丘で聞くのと同じ音です」
「荷造りはもう終わったの?」
「あらかたは」
「夜明けには出発か」
「遅くとも昼前には」

∞∞∞

「帰って波の音を聞けば、またここのことを思い出すのかな」
「そうかもしれません」
「ふしぎな国だったね」
「美しくて豊かだと評判の、伝説の国でした」
「うん」
「まのあたりに見たのは私も初めてです」

∞∞∞

「見たっつっても城壁だけだよ」
「そう言えばそうですな」
「それと、人間たちか」
「はあ」
「兵士や王子たち。そしてあの巫女」
「もともとはトロイの王女だったとか」

∞∞∞

「彼女がアキレスの心をとらえたんだね」
「それで、この国とのいくさをやめて帰郷しようと決意されたのです」
「味方の軍勢を見捨ててね。皆は、何と言うのだろう?」
「そんなことはお気にされないでしょう」
「後世の名声を求めるアキレスが、皆の評判は気にしないの?」
「後世の名声を求められるからこそ、今の世の噂は気にもとめられない。いつもそうです」
「ああ」
「もともと、アガメムノン王にかりだされて、あまり気もすすまずに、おいでになっていたし」

∞∞∞

「彼女を見つけたのは君だよね、エウドロス」
「はあ。上陸してすぐに占拠した神殿で」
「それでアキレスのテントに連れてきたのか」
「兵士たちのなぐさみものになるよりはと思って」
「アキレスなら彼女に、ひどいことをしないと思ったの?」
「まあ、あの方なら…ひどいことをしなくても女に言うことを聞かせられるだろうし」
「いつもそうなんだ?」
「これまでは、だいたいは」

∞∞∞

「いつ、彼と会ったの?」
「アキレスさまとですか?」
「ああ」
「たしか、あの方が、あなたぐらいのお年の時に」
「もう戦っていた?彼も、君も」
「戦いの中でお会いしました。それからずっといっしょです」
「君が初めて戦ったのは?」
「十七の秋でしたか」
「僕よりも若い」
「こういうことは人さまざまです」
「女を抱くようなもの?」

∞∞∞

「アキレスは、帰国のことを君に何と告げた?」
「何も。ただ船の用意をするようにと」
「それで君は?」
「言われた通りに」
「いつも、従うだけなのか?」
「何か申し上げても、あまりよい結果にはならない」
「そうか」
「言うと大抵、もっと悪い結果になりますから」

∞∞∞

「そうだよな」
「全力で走っている戦車の車輪に槍をつっこむようなものです。槍は砕ける、戦車もどこへ走ってゆくかわからない」
「まったくだね」
「彼は、たてつかれるのに慣れていない。うまくあしらえないのです」
「僕はどうだったんだろう?」
「はい?」
「彼にたてついたことが、あったっけ?」
「さあ?」
「思い出せるかい?君には」
「いや。お二人はいつも、まるで一人のようでした」
「よくそう言われた。従兄弟だし、似ているって」
「そうですな」
「まるで、昔の彼のようだと」

∞∞∞

「そう思いますな」
「僕は彼に似ている?」
「ときどき、見まちがえます」
「彼もそう言う?」
「いや。ですがきっと、そうお感じになっておられます」
「そうかな」
「気づいたり、口に出したりする以上に」
「僕もそうだ。ここに来るまで、彼と自分が似ているかなんて考えたこともなかったよ。いくら人に言われても、そんなの気にもしなかった」

∞∞∞

「あの娘は、彼にたてつく」
「そのようですな」
「アキレスは、とまどっていた?」
「面白がってもおられたような」
「珍しかったのかな」
「それもありますし、どういうか」
「うん?」
「自分が思っていたことを、彼女が言ってくれるような」
「どんなこと?」

∞∞∞

「神々を辱めるのは許せないとか。武器を持たない者を殺すのは許せないとか。何のためにこの国を攻めるのだとか」
「そんなことをアキレスが、ずっと感じていたのかい?」
「よくはわかりませんが」
「感じていたのかなあ?」
「あの娘が、そんなことを言っても驚かれなかったし、そうかと言って、痛いところをつかれたように激怒する様子もなかった」
「うん」
「攻撃の前に、戦略を相談することが、たまにですがあります。そういう時に、私や誰かが、ご自分が考えていたのと同じ戦法などを提言すると、あの方は少し驚いたような、満足したような顔をなさいます。私どもに満足しているというのとは少しちがうし、ご自分が正しいことを確信されて喜んでおられるのとは、もちろんちがう。ただ、どこかで、ほっとされているような、そんな…」
「ほっとしている?」
「自分は神ではなかったといおうか、人よりそれほどぬきんでているわけではないといおうか、こんなことを考えていたのは自分だけではなかった、自分は人にすぐれているわけではない、それほどひとりぼっちではない、そう思われて、少しひと息つかれるような」
「わからない。そんな気持ちに僕はなったことなどない」

∞∞∞

「あの方のお気持ちがはっきりわかるわけではない。ただ、何となく、そう感じるのです」
「君はそんな気持ちになることがあるかい?あの娘もそんな気持ちになるのかな?」
「私は、部下がそんなにすぐれていたら、喜ぶか警戒するかのどちらかです。あの方のようには感じない」
「あの娘は?」
「多分、感じはしますまい。若すぎます。あなたもきっと、パトロクロスさま」

∞∞∞

「そうじゃない気がするな」
「何がです?」
「若いってことが理由じゃない。僕はどんなに年をとっても、きっとアキレスのようには感じられない。そのことだけじゃないけれど。いろんなことが、きっと」
「そんなことは、まだわかりません」
「そうかなあ?」
「まだ戦ってもおられないのだし」
「そうだね。戦場に来たというのに。アキレスはとうとう最後まで、僕を戦わせてくれなかった」
「たまたま、機会がなかったのです。よくあることです。ずっとこのままということはありません」

∞∞∞

「でもアキレスは、あの巫女の王女と国に帰って、もう二度と戦うことはやめるつもりなんじゃないの」
「それもまだ、わかりませんよ」
「君は落ち着いているんだな」
「あの方のなさることは、いつも予想がつきません」
「でも彼を信頼している」
「巨大な力をお持ちなだけに、いつも激しくゆらいでおられる。けれど、あの方の中にはいつも決してゆらがないものがおありです」
「それが君には見えるのかい?」
「何度も見失ったと思いましたが」

∞∞∞

「今の僕がそうだ。ここに来て、この国の、この浜辺に来て、僕は彼を見失った。今まではたしてちゃんと見ていたのかどうかもわからない。彼といっしょに、自分自身も僕は見失ったようだ。僕の知っていた彼も、僕自身も、この国で死んでしまって、彼も僕も、もうすでに、この世にいないような気がする」
「戦いの場では、人はときどき、そうなります」
「本当に?」
「ええ。それに、この国が」
「トロイが?」
「長く豊かな伝統を持った国には、向かい合う人を不安にさせる何かがあるものです」

∞∞∞

「そうなの?」
「アポロンの神殿で…」
「あの娘を見つけた神殿?」
「はい。娘を見つける前に、最初に攻め込んだ時ですが、私たちが敵を倒してアキレスを探した時、彼は神殿のテラスで、敵の指揮官の王子と向かい合っていました」
「戦っていたのか?」
「いえ。ただ見つめあって。何かことばをかわしていたようでもありましたが」
「だって、何を話すんだろう?」
「わかりません。あれは、ふしぎな空間でした。今まで私も多分誰も、一度も見たことがないような。おそらく王子は、あの巫女と同じように、アキレスが神殿の略奪を許し、武器を持たない神官を殺したこと、この国を攻めてきたことををなじっていたのだと思うのです」
「そんなことがなぜわかる?」
「やはり、どことなくほっとしておられたように見えたからです。どう言おうか、まるで嵐の海を飛んでいた小鳥が、つかのま、波間も小枝に羽根を休めたような、そんなあいまいな安らぎの表情をなさっておられた」

∞∞∞

「君の言うことがわからない」
「そうでしょうな。どうも、うまく言えません」
「あいまいな安らぎって、何なんだよ?」
「まるで、故郷を見つけたような顔をされていた」
「え?」
「よく、そういう様子をなさるのです。見知らぬ土地に行かれた時に。あの方の中にある何かが、どこか一部が、そこに何かを見つけて根を下ろそうとされるのでしょう。あの方は、たとえ故郷であっても、どんなに長く暮らした場所でも、どんなに親しい、ともに戦った間柄でも、決してなじむとか溶け合うとかいうことがおありではない。どこに行っても誰と会われても、何か自分と同じものを、そこに見つけてしまわれる。国や同胞、家族や仲間では、彼をつなぎとめておくことはできない」

∞∞∞

「それで君は、平気なの?」
「平気ではありません。しかし、自分の限界を見ないわけには行きません」
「だから?」
「いつか、彼が私がついて行くことを許さない戦いに、一人で出かける時がくるまでは、お供しつづけるだけです。それがいつかを決めるのは、彼であって私ではありません」
「そんなのは、僕はいやだよ」
「ええ」
「僕は、そんな戦いはしない」
「ええ」
「たとえ、この土地が、僕の知っている彼を失う場所でも、彼を失わないために最後まで僕は戦う」
「お気持ちはわかりますが」
「彼が僕を残して去って行く戦いがいつかってことは、彼じゃなく僕が決める。旅の終わりがいつなのか、どこなのかってことは」

∞∞∞

「もう寝なくてはいけないね。君は明日は早いんだろう?」
「そうですな。だが、海もおだやかなようですし、船出も簡単にすみましょうから」
「それでも、今からでも少しは眠っておいた方がいいんじゃないか」
「きっと、おっしゃるとおりでしょう」
「何を笑っているんだい?」
「私は笑っていましたか?」
「アキレスなら、こんなことは言わないだろうと思ったの?」
「そう言われれば、そうですかな」

∞∞∞

「そうなんだろうなあ」
「あの方はまったく、そういうことにはお気づきではないのですよ。人が疲れているとか、傷つくとか。人だけではなく、ご自分についても」
「そうだよね。疲れていても傷ついていても、それを自分で知らないんだ」
「おやすみになるのなら、この灯りはそのままに。私が消しましょう」

∞∞∞

「いや、僕がもう少しここに残るよ」
「よろしいのですか?」
「最後の夜だし、アキレスといっしょに、ここで波の音を聞いていたい」
「その、アキレスさまのよろいと?」
「そうだね。僕は何を言っているんだろうな。アキレスはもう、ここにはいないんだった」
「戻って来られるかもしれません。あの巫女のところから」
「僕が待っているよ。からっぽで主人を待っている、このよろいと二人でね」
「それでは、お願いいたします」
「まかせてよ。僕が彼を守っているから」

∞∞∞

「彼のよろいを」
「ああ、またまちがった。そうだよ、うっかりして、この海岸におきざりにしてしまわないように」
「はあ」
「どうした?何か気になるのか?」
「そうやって、よろいに腕をまわされて、もたれかかっておいでのご様子が」
「何?何か変?」
「灯りに照らされて、髪が輝いて、そうしておられるご様子が」
「何なの?」
「美しすぎて、何やら不吉な」
「縁起でもない。もう寝てよ」
「そうですな。それでは灯りはこのままで」
「ああ。明日の朝、船で会おう」
「はい。パトロクロスさま。船出の時に」

旅の終わり ―夜のテント―  (終) 2006.4.1.

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