映画「トロイ」パトロクロス論

(1)責任はどこまで?

パトロクロスについて考えてみたい。
と言っても、映画「トロイ」に登場するパトロクロスである。

この映画は、かなり意識的に二つのものを対照的に描いている。トロイとギリシャ、アキレスとヘクトル、そしてパリスとパトロクロス。
力のある存在に深く愛され、そのことを自覚しながら、パリスもパトロクロスもその相手を(兄と従兄を)不幸に追いやる。そして同時に、それぞれ、全世界の運命を無造作にその手で変えてしまう。

映画を見た人たちが、ともすれば軽率だわがままだとののしったのはパリスの方だ。パトロクロスにもそんな批判がなかったわけでもないが、ずっと軽かった。パリスは生き残り、彼は死ぬということによる免罪もあるだろう。彼が世界の運命を変える行動が、パリスよりずっとすばやく行われ、その結果もすぐに出るので、印象が薄いこともあるだろう。だが、それだけなのだろうか。映画を見た人々は何となく、彼のしたことに目をつぶって考えないようにしているようだ。どうとらえたらいいか、パリスに対するように怒っていいのか、よくわからなくて。

パトロクロスのしたこととは何か。彼はなぜ、それをする気になったのか。
彼は、戦わないアキレスに代わって戦った。代わっただけではなく、変わって戦った。代理だけでなく変装した。だが、中身までアキレスにはなれなかった。彼は敵将ヘクトルに殺される。そのことによってアキレスを再び戦場に立たせる。ヘクトルを殺させ、そのことによって弱体化したトロイを滅ぼさせ、結果としてはアキレスも殺す。
どこまでが彼の責任だろう?どこまでが彼の目的だったろう?

(2)「先見の明」くらべ

古代のいくさであるにもかかわらず、いや、だからこそ、映画「トロイ」では、さまざまな人たちの「先の見通し」が入り乱れる。王族や軍人といった程度の一個人が国家や半島の運命を、自分の決意や判断で左右できた時代の、これは戦争である。現代では大きな機構や複雑な要素が入り乱れて、ことはそんなにわかりやすく単純ではない。

いったいこの映画で、「先見の明」コンテストをしたら誰が優勝するのだろうか。自分の死後の妻子の運命を予測し、対応策を考えていたヘクトルはもちろん上位に来るだろう。トロイから撤退した場合の半島の情勢を読むネストルもその規模において有力候補だ。パトロクロスの葬儀の場で「あの若者の死が役に立つ」とうそぶくアガメムノンも常に先を見、人を読む。オデュセウスもまた自分のおかれた立場を熟知し、できることとできないことを見きわめる力を持つ。テティスもまた未来を読む。

意外なのはアキレスが、案外上位になりそうなことだ。何しろ彼は千年後の名声を考えて行動できるのだから。その一方で戦場での具体的な予測もできる(「城壁に近すぎる!」)。また自分も含めた人間すべての衰微と死も日常的に感じつづけていて、だからこそ瞬間の美にかけて行動する。その多彩さと規模の大きさ、深さにおいて、彼の「先見の明」は他の追随を許さない。この映画のアキレスは単純、直情径行、幼稚ととらえられやすいが、決してそうではなく、常に聡明で複雑だ(ブラッド・ピットはちゃんとそういう演技をしている)。

とはいえ、以上の人たちは程度と傾向の差こそあれ、皆、自分の運命と向き合い、周囲の世界を正確に分析している。次の人たちは、その能力はあるが不充分あるいはまちがっている。
まずトロイ王プリアモス。彼は神と城壁を絶対視しすぎた。神官アルキピアデス。彼も神を信じすぎた。その背後にあったのは狂信か権力欲か他の何かか映画では明らかでない。将軍グラウコス。彼も城壁と神とヘクトルを信じすぎた。
アンドロマケは危機回避の予見ができる。だが、肝心のところでは徹底的に現実に目をつぶってしまう。ヘレンもまた情勢を分析できるがやはり決定的なところで目をつぶり、中途はんぱで不完全だ。
メネラオスもまた、先を読もうとはしない。エウドロスも、アキレスという強烈な主人に仕えて、たまにアポロンの怒りなどの先を配慮した発言をすると、ますます事態を悪くするという判断もあってか、沈黙を守り、自分の見解を述べない。おそらく彼なりの判断は常にあるのだろうが、彼はそれを示さず、アキレスに従うことを優先する。

(3)若者たち

そして、この手の能力をまったく欠くのが、パリスとパトロクロス。ブリセイスもあるいはそうかもしれない。そういう人物が、思慮深い人々すべての先見の明をふみにじって世界も歴史も動かしてしまうのが、この映画の残酷さであり苦さである。
彼らはいずれも皆若い。パリスの愛、ブリセイスの信仰、パトロクロスの闘争心、いずれも若さゆえの経験不足、先の見えなさから来る理論優先がまつわる。このような「若さ」の持つエネルギーと悲しさ、そして偉大さもこの映画は的確に表現している。そして、たとえばパリスの、たとえばブリセイスの行動や運命に対して、おそらく若い観客たちから激しい敵意と軽蔑の感想が多く寄せられたのをネット上で見て、日本という国の疲弊と衰弱を私は痛感し戦慄した。これはイラクで人質になった若者たちへ「自己責任」を追求した姿勢と同様、未熟でも何かをしようと失敗を恐れない者に対する嫉妬をこめた憎悪でもあり、そのような国と若者を作った私たちの世代の責任を思い知らされる。江戸時代初期の歌舞伎や浄瑠璃が、老人たちの長談義をぶったぎって行動を起こす若者を常に主役にしたがったように、このような大胆で積極的な人々への嫌悪は決して日本の伝統ではない。

もっともこれは、日本の若者のせいだけではなく、この映画にも責任はある。パリスたちが体験が少なく、現実を知らず、したがって知識や論理が優先するのは、本来若さの特権であり、決してマイナスにばかり働くものではない。この映画ではそれがすべて、よい結果にはつながらないことが特徴で、だからこそ若い人たちの反発も招きやすい。私などは「失敗しても、世界を滅ぼしても、それでもいい」という評価をするが、今の人たちは「大胆で勇敢なことをしたら、うまく行く」という保障と安堵がほしいのかもしれない。

パリスはヘレンに向かって「逃げたら二人に安らぎはない。神にも人にも憎まれ追われる。でも愛しあえる。この身が死んで燃えつきるまで」とか言う。実際には死にも燃えつきもしなかったところが人の怒りを招きそうだが、それは彼のせいではなく、一応彼は、こうした決意はしていたのである。最悪の場合の先読みはしていた。

ただ、船上でヘクトルが見せる、映画を見ていた百人中百人がまちがいなく納得し共感しただろう怒り(「俺が兄貴ならエーゲ海に二人まとめて投げ込む!」といった怒りの声をネットの上でも現実でもどれだけ私聞いたことか。笑)…「国がどうなるか考えなかったのか!?」という点については、疑いなくパリスは言われるまでまったく考えていない。つまり、二人の悲惨な運命は予想していても、他人がそれにまきこまれることは彼の計算の内になかった。
彼がそれを考えていたら駆け落ちを思いとどまったかどうか私にはわからない。思いとどまったかもしれないと思うと、あまりにバカバカしくて空しいからそう考えたくはないのだが、案外思いとどまったのかもしれない。

ヘクトルに言われてそこに(「これは国家間の問題なんだ…」ということに)漠然と気づいた彼は、とっさに「ヘレンを返さなくてはならないのなら、自分も残る」「それで殺されても愛のために死ぬのは本望」「いっしょに戦ってくれとは頼まない」と宣言する。彼なりの個人的な次元での責任のとり方ではある。だがヘクトルが「もう遅い」「頼んだも同じだ」と吐き捨てて船をトロイへ進めるように、この彼の解決策は「自分が死んだだけでは問題は解決しないかもしれない(メネラオスを唐突に殺したヘクトルの判断はそういう意味では、弟への愛を別にしても政治的判断として正確である)」「兄はそうやって自分を見殺しにすることができる立場や心境にはない」ということを、またしても見落としている。

「もう遅い」の字幕にしろ「頼んだも同じ」の吹き替え(原語にはこちらが近い)にしろ、そういう点でのヘクトルのせりふは、残酷なまでに正確だ。この映画でのヘクトルという人物への人気の一つは、行動外見などよりも、時に臨んで発する言葉のあまりにも正当で真実なことではあるまいかと思ってしまうぐらい、彼の言葉のすべては人を納得させる。ただ、それをパリスへの深い愛ととるのも可能だが、さほど弟を愛していなかったとしても彼の立場ではこうなるのだ。弟を連れておめおめスパルタに戻っても、逆に弟を捨てて来ても、トロイはどうせ侵略される。兄として軍の最高責任者として、父や民衆の支持も失いかねない。あの短時間にとっさにそれだけの判断ができる人物としてヘクトルは描かれてもいる。

で、帰国後。ヘレンからこの問題は国家的な事件であり、トロイは危機にさらされていると気づかさせてもらった(だんだん私の言い方も意地悪くなってるが)パリスは、「二人で逃げて無名の一般人として生き延びよう」と提案する。
この映画では彼の幼少期は描かれない。だからこれが世間知らずの王子のたわごとか、かつて羊飼いとして暮らした体験に基づくそれなりの根拠のある発言かはわからない。だが、後者の可能性もあるから、いちがいに彼の言っていることが夢見る若者の幻想とも言い切ってはしまえない。
だがそれもヘレンの「私たちが逃げてもトロイは焼かれる」で一蹴されると、彼は行き詰まって具体的な提案はもうできない。

それでも彼は敵に一騎打ちの提案をし(最初のテッサリア征服の場面から考えても、これはそう途方もない提案ではないだろう)、あくまで戦争を避けようとする。しかし一騎打ちが成立せず、ルールを無視した闘いに突入した後、彼は戦闘や政治の舞台から去り、兄の死後は復讐のみを考えてアキレスを殺し、彼とブリセイスの未来を奪う。

書いていて腹の立つことは多いが、それにしてもパリスの模索や考慮の軌跡はそれなりにたどれる。限られた条件下で彼なりの誠実な対応をしようとしているのもわかる。彼が読み間違えるのは、常にいまどきの言い方で言うなら「公人としての意識」に欠け、「社会的影響」への配慮がないことである。それは兄の死後も変わってはいない。「木馬を燃やそう」という判断の正確さはそれなりの成長を示しているとはいえ、兄のような四方八方過去未来を見通す能力はそういきなりはつくものではない。

(4)二人の女性

パリスとのやりとりを見ると、ヘレンの方が先見の明はある。だがそれは出国以前には発揮されず、トロイに来てから示されるから、下手すると知っていたのに来ただけパリスより罪が重いとさえ感じられる。
彼女は戦いが始まった夜、死者の妻たちの嘆きを見るのに耐えられず、メネラオスのもとに帰ろうとして城を出かけてヘクトルに引き止められる。この行動も、「目の前に見るまで予測できなかったのか?」と思ってしまうのだが、彼女の予測はすべてこのように、タイミングが悪くてちぐはぐだ。
とはいえ、それも彼女の若さと、おかれていた立場を思えばやむを得ないことかもしれない。「幽霊のように」生きてきた彼女には、そもそもそのような予測や選択をする必要も機会もこれまでなかったのだから。今までまったく使わなかった器官を初めて動かして何かをしようとしているのだから。

彼女のこのような未熟さは、私たちの大半も覚えがあるし、思い当たるものであるはずだ。そして彼女は、失意のパリスを「英雄がほしかったのではない」と励ますように、根本的な価値観においては揺らいではいないし、その点では選択を誤ってもおらず、後悔してもいない。
ただし、ヘクトルの死後パリスは変貌する。これがヘレンにとって「想定内」であったのかどうか。変貌したようでも、やはりパリスの本質はヘレンが愛したままであるのかどうか。このへんは映画では充分にはわからない。その判断は観客にまかされているのかもしれない。

ブリセイスはどうだろう?
そもそもアキレスを最初に呆然とさせ、彼女に惹きつけさせることになったのは、「恐いか?」と聞かれて「何を?」(恐がるべき?)と答えた彼女の勇気(とアキレスが思ったもの)だった。
敵にとらわれた女性の悲惨で苛酷な運命を、この映画がどの程度のものに設定しているかはわからない。彼女のモデルの一部だと思われるトロイの巫女のカッサンドラは落城の時、神殿で犯された。この映画はその点は、ヘクトルがアンドロマケに告げる「死ぬよりつらい辱め」以外のことばでは明確にしないでいる。そうだとして、そのことをブリセイスがどのくらい知っていたかはわからない。このせりふが、知った上での強がりか、知らないからの落ち着きなのかも。
ただ、知っていたにせよ、確実にそれは知識の上であり、伝聞であって、見聞きしたものではない。だから、犯され殺される覚悟はしていても、それはリアルなものではなく、巫女としての信仰の激しさで充分克服できるものだった。

彼女が一番傷ついて敏感に反応するのは、アキレスが神を冒涜する時である。宗教、思想、何であれ、そういうものを信じ、正義が実現されると信じて、それを力に生きている人間の強さと弱さが彼女にはある。
それが、敵の中で自分を守ってくれる唯一の存在であるアキレスを、「殺すしか能がないの?!」と罵倒し、自分を凌辱しようとする敵でさえも傷つけることは許さないというキリストばりの毅然とした姿勢を生む。この現状無視はものすごいが、理想主義者とは常にそういうものなのでもある。そして、苦い現実と自分の限界を知りながら、どこかで理想を忘れられないでいるアキレスにとって、このような相手は決して見殺しにはできない存在だった。彼女はアキレスの一部分でもあって、だから彼女をからかいながらアキレスはほんとに楽しそうである。滅びてしまったと思っていた自分の中の何かが彼女という姿で生きているのを確かめているように。

ブリセイスはアキレスの人格の深さと重さに勝てないし、そのことを知った時に彼を殺そうとする。それはいわば彼女自身の中での理想と現実の葛藤である。そして彼女が現実を受け入れてアキレスを許し、愛した時、アキレスもまた自らの中の理想をよみがえらせる。それが平和思想で侵略の否定だというのが気に入らない人は、理想でなくて、もう一つの価値観と思えばいい。ともあれ、アキレスは闘いを否定し、彼女とささやかで平凡な暮らし(テティスが予見したような)を育むことを決意する。現実を知り抜いた人間がそういう道を選択する。
このように、ブリセイスの先の見えなさと現実無視は逆に未来を切り開く力を持っている。だがその未来はパトロクロスによって否定され破壊された。
パトロクロスとは何だったのだろう?実は、前の部分で、パリスの愛、ブリセイスの信仰、とまで書いて、パトロクロスの何と書こうか、私はかなり長考した(笑)。結局、闘争心と書いてごまかしたが、いったい彼が背負うもの、体現しているものとは、この映画の中で何なのかは、今もってはっきりしない。 同胞愛?愛国心?誇り?責任感?

(5)先入観の排除

「腐女子」という言葉は女性のオタクというようなニュアンスで、先般毎日新聞のコラムにも紹介されていた。これが成熟すると「貴腐人」になるという、私の知らない知識まで書いてあった。
定義や分析は私もまだよくわからないが、「腐女子」と自称する人たちは、映画や漫画や小説の登場人物を男性同士の愛情という視点から鑑賞しようとする。これは面白いし、案外作品の本質をつくこともある。
「トロイ」の映画の場合、一も二もなく、ヘクトルとパリス、アキレスとパトロクロスはこのような視点で鑑賞分析される。このような感想はジョークとしても本気としても、実に楽しく読めるので、私もネットで愛読するが、時としてその図式があまりにしっくりはまりすぎると、逆にそっちの先入観に縛られて、見逃してしまうものが出てきそうになる。

パリスとヘクトル、パトロクロスとアキレスの場合がまさにそれで、この二つのカップル(とつい書いてしまうが)が国の運命も無視するような深い愛情で結ばれていたと考えるのは楽しいが、そうでない場合のことも考えておく必要はある。
そこで、ここは腐女子的視点をあえてまったく排除して、それぞれの場合の二人の関係を考えてみたい。
パリスとヘクトルについては先に少し書いた。互いが強く愛しあっているのでなくても、この二人の関係は何となく理解できる。第一、二人はかなりしゃべってくれている。ヘクトルがパリスをどう思っていたかも、父への発言で察しはつく。
ヘクトルがパリスを溺愛していた、とするのでなければ、父がパリスを偏愛してヘクトルは淋しい思いをしていた、という図式を代わりに作りたがる人が多いが、私はこれもあまり強調してはつまらないと思う。それはかえって、この兄弟や親子の関係を卑小化してしまうだろう。兄は兄、弟は弟の父との関係があるのであり、この一家のバランスはむしろ、それなりにとれている。
ヘクトルにはおそらく弟への嫉妬と軽蔑と愛とがほどよくいりまじって存在している。彼の偉大さは平凡さにあり、高潔さは現実主義に支えられている。弟のことで政治的判断を誤るほど彼を憎んだり愛したりするような人情家ではないし、理想主義者でもロマンティストでもない。その点では何よりも彼はすぐれた政治家であり、それ以上にすぐれた軍人である。

(6)屈折のなさ

このような関係が、アキレスとパトロクロスでは見えにくい。それだけ二人の、あるいはアキレスの世界は個人的で小さい。
この映画のパトロクロスは、アキレスの領地ピティアの青い海と白い神殿を背景に、アキレスと激しい剣の稽古をしながら登場する。冒頭、異国の戦場で見せていた頽廃や鬱屈の陰はアキレスにはみじんもなく、彼はあくまでも明るく幸福そうだ。その落差は衝撃的なほどで、パトロクロスとはアキレスにとってそういう存在であることが観客には瞬時に伝わる。

だが、それは、どういう存在なのだろう?この二人の輝くような場面を見た時、何かが鮮やかに観客には伝わるのだが、さてそれが何かを言葉で表そうとすると、とたんにそれは何なのか、よくわからなくなってくるのだ。
トロイとの戦いへの参加を勧めにきたオデュセウスは、アキレスを勧誘するため、パトロクロスを誘う。「彼が来なくても君は来るよな?」
「従弟を罠にかけるな」とアキレスは釘を刺す。だが、この言葉は、それほど深刻なものだろうか?
アキレスは戦いに行きたがってはいない。だが、だからと言って、この故郷で従弟と二人で愛の巣をはぐくんでいたいようにも見えない。
アキレスもパトロクロスも戦士だから、男女のカップルに比較しては判断がしにくいのだが、たとえばゲイのカップル、レスビアンのカップルが二人の世界を作って満足しているような閉塞感や他人を拒否する雰囲気が、この二人には皆無といっていいほどない。
「ヘクトルは噂通りの男?」と興味しんしんで口にするパトロクロスは、外の世界に興味を抱き、飛び立ちたがっているのがありありとわかる。だからこそオデュセウスも彼への誘いを口にしたのだ。

それにしても、パトロクロスのせりふはほんとに少ない。そして、彼の表情や行動や発言にはまったくと言っていいほど裏がない。虚勢をはってもいないし、恐怖を押し隠してもいないし、何かを悩んでいるようにも見えない。愚かとか単純とか言うのではないけれど、彼は口にしたこと、顔に出したこと以上の、あるいは以外のことをまったく考えているようには見えない。
この屈折のなさ、かげりのなさはパトロクロスの最大の魅力であり、もしかしたらとてもギリシャ的で古典的、古代的にさえ見える。
それは、この映画の登場人物のすべてにも言える。複雑な屈折した近代人っぽさが、どの人物にもない。この点が私のこの映画を高く評価したくなる一つで、いかにも古代らしい神話らしい線の太さが自然にそなわっているのが、最高最大の魅力である。

だからこそ、たとえばヘクトルが、弟の方が父親により愛されていると思って傷ついていたとか、パトロクロスがブリセイスとアキレスの愛が生まれたことに不安やあせりや嫉妬を感じてあのような行動に出たとか、そういう解釈を私はしたくないのである。そういう近代人っぽい繊細な感情をこの映画の人物の行動の動機として考えることは、この映画をけちくさい、いじましいものにしてしまう気がしてならない。この映画の人物たちはもっと線が太く大らかで壮大な精神を持っていると考えて見た方が、映画の持つスケールや気品が失われないと思う。

(7)出撃の動機は

なので、いささか強引だが、パトロクロスのアキレスへの変身と出撃は、ブリセイスの登場や存在とはあまり関係ないことだったと思いたい。潜在意識下ではそういう理由もあったとしても、彼を動かした最大のエネルギーはそれではない方がいい。
ならばなぜ、彼は出撃を決意したのか。
最初から彼は戦場に行きたがり、戦いたがっていたが、かと言ってそこには、自分はまだ大人ではないというあせりとか、実際に戦えるのだろうかという不安とかがまったく見えない。殺し殺されることに対する恐怖もない。戦えば自分は絶対に相当の戦士以上の功績をあげられると、まったく何の疑いもなく自然に彼は信じている。

どこからいったい、そんな自信が生まれるのだろう。最高の戦士アキレスと互角に戦うことができるという実感からだろうか。
その実感は正しいのだろうか。アキレスは若い従弟に対する時は当然ながら手加減をしていたのではないのだろうか。だからこそ彼は、浜辺での実戦の場でパトロクロスを船に残した。これも、従弟への過度な愛と見るのは楽しく、そんなに大事なら連れて来るなよとあきれるのもまた楽しいが、事実はおそらくそうではなくて、アキレスは従弟が自分で信じているほどには力のないことを知っており、少なくとももっと安全な、自分も彼を見守る余裕のある戦いの場で彼の初陣を飾らせようと、当然で正確な判断をしたのだと見るべきだろう。

パトロクロスには、もちろんそれはわからない。あえて言うなら彼の自信は、「あのアキレスとふだん互角に戦える」ということでさえないように、私には感じられる。
アキレスの偉大さ、強さを、パトロクロスはわかっていたのだろうか。何となく、そう思えない。もっと言うなら、私は彼にそれほどまでにはアキレスへの愛を感じない。この若者は、偉大なアキレスのそばにいても萎縮もしていないし、憧憬さえもさしてないのではないのだろうか。だからこそ、周囲の嫉妬、羨望、憧憬、執着といった感情にさらされつづけだったアキレスにとっては、心やすらぐ存在だったのではないか。偉大なアキレスなどは眼中にもなく、おのれの若さと美しさにしか関心がない傲慢さが、とてもさわやかに見えたのではないのか。
パトロクロス役の俳優は、もともとはモデルで、これが映画デビュー作という。当然、パリスを演じたオーランド・ブルームのような高度な演技は期待できなかったろう。そのことと、モデルという職業におそらく不可欠の自負と自信のあふれる一挙手一投足を監督は十二分に利用している。パトロクロスの精神は嫉妬や焦燥とは無縁なほどに、自己の能力への自信にあふれている。

彼にとってアキレスは、理想ではなくあこがれの対象でもなく、乗り越えるべき目標でもなかったように思えてならない。これはパリスも同じことで、あれほど偉大な兄がいながら嫉妬も屈折もしている風がないのは、腐女子と呼ばれる人々にとって思わずこれは二人は相思相愛としか考えられないと思いたくなるのだろうが、それはまあ別にそれでもいいが、要するにパリスもパトロクロスもなぜかもう、この点ではよく似ていて、自分のそばの偉大な存在に対し、まったく何の劣等感も競争心も持っておらず、実はそれほど尊敬も執着も感謝もしているようには見えないのだ。
そんな彼らがそれほど変だとは思わない。育ちがよくて能力があって苦労を知らない若者には、これはむしろ自然だと思う。彼らは自分を特別な存在と思っており、他人と自分を比べない。彼らは他者に興味がなく、未来を恐れない。それは、今の日本では少し珍しくなっているかもしれないが、常に若者の特権だし、特徴なのだ。

(8)こわれた鏡

パリスの場合にはそれは、兄とちがった世界や生活を生きることで示される。人を殺したこともない、恋多き青年として彼は、兄とは別の独自の世界を開拓している。それは、見ていてわかりやすい。
だが、パトロクロスの生きている、めざしている世界は、アキレスの生きている世界と重なっている。武器をとって、戦う世界。アキレスが問いかけたように、アキレスが目標でも理想でもないのなら、パトロクロスの進もうとする道や生きる道は、それはいったい、どういうものか。「おれがいなくなったら、何のために戦う?」とアキレスは聞くが、アキレスがいようといまいと、パトロクロスはアキレスのために戦っているようには私には見えない。おそらく、もちろん、アキレスもそれを知っている。だから「おれがいなくなったら」と聞く。「おまえは今でも、おれのために戦っているのじゃない。ほんとは何のために戦ってるのか考えてみろ」という意味で、アキレスは言っているようにさえ思えてならない。そしてもちろん、パトロクロスは、この質問に答えられなかった。

そのことは、彼を傷つけたのだろうか?
トロイのヘクトルにとって、戦うことの意味は明白だった。彼には守るものがあった。愛する妻と子が、国が。戦うことが先なのではない。戦わなくても生きる喜びを彼は知っていた。それはパリスも同様で、彼もまた、戦う以前に守るべきものを持つことができていた。
アキレスに、それはなかった。
守るにあたいする、大切な存在となりそうなブリセイスを守ろうとしたとたん、彼女にそれを拒絶された。いや、拒絶されたから、軽い気持ちで守ろうとしたものが更に貴重な存在になったのかもしれない。
何のために戦ってきたのか。何も恐れず前進しつづけてきた生き方の、あとに残るものが何かあるのか。その問いに初めて向き合って過ごした夜の明けた朝、彼はかつての自分のようなパトロクロスに、自分でも答えの出なかった問いを投げかける。何のために戦う?と。それがわかっていなければ、結局は自分より劣った愚かな者たちに利用されてしまうのだと、彼は警告する。自分が現在、そういう存在になってしまっていることを、彼は理解し、それを伝えようとする。
おそらく、彼の若い時の姿はパトロクロスと重なるのだろう。だからこそ彼は誰よりもパトロクロスを理解し、自分に問いかけるように彼に問いかけるのだ。あこがれたり嫉妬したりするものはなく、まっすぐに恐怖を知らずに進みつづけてきた、これまでの自分に。守るべきものを持たぬまま生きてきた、これまでの自分に。

もしかしたらパトロクロスは、この時初めて、自分は何者かということを少しだけ考えたのかもしれない。
私の後輩のある女性が、敵対していた年上の女性について私に「あの人は私があの人の年になった時どうなるかがまだ見えないんですよ。私はもう、あの人の年になった時のあの人を知っている。だから私の方が強い」と言ったことがある。たしかにそうだが、誰でもがそう思えるわけではなく、そのように考えられるということがすでに強さであったろう。そして、パトロクロスの場合は、これが逆だったような気がする。
アキレスは過去の自分とそっくりなパトロクロスを知っている。だがパトロクロスの方は、自分の未来がまだ見えず、それがアキレスと同じかどうかはわからない。それは、アキレスが自分とはちがうかもしれないこと、自分はアキレスにはなれないかもしれないことを、ぼんやりとでも自覚することである。

パトロクロスがアキレスになれると思っていたとは思わない。そんなことは彼は考えていなくて、しいて言うなら、アキレスもふくめた何にでもなれると考えていたような気がする。それを、この朝漠然と彼は、「アキレスにはなれないかもしれない」「自分になれないものもこの世にはあるかもしれない」「自分は何になれるのだろう」「自分とは何なのだろう」というようなことを考えたのではあるまいか。これも私の同僚が、若い人たちへのあいさつでしばしば「君たちには多くの可能性があるとよく言われますが、それは多くの不可能なことがあるということなのです」とシビアなことを言うのだが、それとも共通する実感である。
自分と他人とはちがう。それをはっきり意識することはやはり一つの成長だろう。鏡に映る自分の像のように互いを見ていたアキレスとパトロクロスは、ブリセイスの出現によって二人の異なる人間になった。

(9)部下たちと敵と

二人はそれぞれに、自分を探し始める。アキレスはともかく、パトロクロスの方は、そのような不安定な状況の中で、敵国の王子パリスの決闘とみじめな敗北を見た。
自分とさほど年の違わぬ若い王子の、恥辱の極致の姿を見て、パトロクロスは更に、これまでにない不安を知ったのではないか。自分ももし戦えば、あのような姿になるのかもしれないという危惧を初めて彼は抱いたのではないか。自分の力を確かめたいという欲望に、かつてなく彼はかられたのではなかったか。
そんな時、アキレスは帰国すると言い出す。
もしも、このまま帰国したら、永遠に自分が何者かわからなくなる。パトロクロスは、そんなあせりにかられたのではないのか。

この映画の中で、パトロクロスは終始一貫、アキレスを恐れず遠慮せず、言いたいことを言っている。それは本来なら彼が、アキレスに盲従せず自立しているあかしである。だが実際にはその逆で、パトロクロスがアキレスに平気で何の心配もなく逆らえるのは、アキレスと自分を対立する異質な存在ととらえておらず、なかば自分自身でもある相手と自分の区別がついていないから、緊張も警戒もなく何でも言えるのである。
パトロクロスと真反対のアキレスとのつきあい方をしているのが、エウドロスをはじめとした腹心の部下たちミュルミドンである。彼らはアキレスにまったく逆らわず、異議をとなえることをしない。アキレスも、そうすることを許さない。だが、エウドロスに象徴されるかたちで描かれる彼らの態度は、アキレスへの絶対的な信仰や狂信などとはほど遠い。決断をすべてアキレスにゆだね、徹底的に自分の意見を殺して服従し、自分で考えることを放棄することで、むしろ彼らは内心の自由を守っているかに見える。彼らはそれぞれ、自分とアキレスを同一化して考えることはないだろう。自然に、しかし明確に主人と自分の間に一線を引いている。

そのエウドロスたちが、アキレスの甲冑をまとったパトロクロスをアキレスと思いこんで疑わなかったことは、そんなエウドロスたちとアキレスとの関係もどこかで微妙に変質しはじめていたことを示すのかもしれない。
おそらく、変化しはじめていたアキレスの姿は、エウドロスたちにとってはこれまでのように明確なものではなくなりはじめていたのだ。「これがアキレスだ」と見定めてきていたものが、ゆれてぼやけてきていた。いや、自分とは何者かを必死で求めて戦場に赴いたパトロクロスの姿は、その切迫した不安定さという点では、非常にアキレスと共通していたのだろう。

パトロクロスが、そのようなエウドロスたちとアキレスの関係の変化をつかんで、それにつけこんだとは思わない。彼がアキレスに変装したのは無意識に、失おうとしているアキレスと一体化していて区別がつかなかった世界にとどまりたい、戻りたいという願いがあったからだろう。だが、その一方、彼の心のどこかには、「アキレスとは何か」を考えた時、「ミュルミドンが従い、ヘクトルと戦う」という、さしあたっての外殻だけが、まず浮かんだのかもしれない。
ミュルミドンは、アキレスにしか従わない。だからミュルミドンが従えば、それはアキレスなのである。そして、自分がアキレスになることは、「いつかアキレスになるかもしれない自分」を取り戻すことであり、それはまた「何者にでもなれる自分」を守りつづけることでもあった。

(10)運命の糸

守るべきものを持たなかったアキレスがそれを持ち、そのために過去の自分を切り捨てる。だが、その過去の自分が、現実の別の若者であった場合、彼は動揺し、捨てられまい、忘れられまい、変わるまいとしながら、自分は何者かと彼なりの手探りをやめない。そして、アキレスが放棄した過去のアキレスになることで、自分をたしかに存在することを、生きていることを確認しようとする。
それは、過去のアキレスと同じものでは絶対にない。ずっと劣って非力である。アキレスの本質、と言って悪ければ、ある部分もおそらくは具えていない。だが、新しく生まれようとしているアキレスをまだ見ていない人にとっては、たとえ肝心なところ(と言って悪ければ、ある部分)がちがっていても、それはやはりアキレスに見える。

若者をそこへ追いやったのはアキレスである。アキレスにそうさせたのはトロイである。トロイによって新しい生き方を見いだし、その生き方によってトロイを救おうとしたアキレスが葬った過去に追いやられた若者が、トロイに殺されることによってアキレスを再び過去の生き方へ連れ戻し、トロイを滅ぼす。映画「トロイ」のすべてがそうであるように、それはぬきさしならない一分の隙もない運命の悲劇であり、その壮大さと皮肉さが、この映画を非常に神話的なものにしている。

若者は何を証明したのか。何がアキレスを絶望させ、新しい生き方をあきらめさせたのか。それは味方も敵も結局は、アキレスという存在を誰もきちんと見ていなかったし理解していなかったという痛烈な事実だ。
パトロクロスの死を悼むアキレスの、暗澹とした痛恨の表情は、一般に彼の従弟への愛だと理解されており、たかが従弟の死にそれほどの衝撃や怒りは不自然だとか、原作通り恋人にするか兄弟にしたらもっと理解できたのにとの声もある。いわゆる同人誌文学や腐女子の世界では、二人の愛の深さを示すこの上もない場面として喜ばれる。
しかし私は何度見ても、この表情にアキレスのパトロクロスへの哀惜を感じられない。またエウドロスを殴打し、ヘクトルを罵倒する彼の怒りの深さも、従弟を失ったものとだけは感じられない。
これは腐女子の方々のギャグ漫画でとりあげられる解釈の方が、むしろ正しいと私には思える。つまり、アキレスがヘクトルに怒っているのは、「なぜ、私と従弟を見間違えた!?」である、という解釈である。

アキレスに問いかけられ切り捨てられて、「自分とは何者か?」ともがいたパトロクロス以上の絶望と不安を、今度はアキレスが抱いたのだ。新しい生き方を求めて過去の自分と訣別しようと思っていたのに、その過去の自分はいったい存在したのだろうか?何かを捨てて新しく生きようと思っている自分の、前と変わらない部分とは何なのか、捨てる部分とは何なのか。そのめやすが、いっさい見失われた。
なぜなら、忠実な部下たちも、親友も、自分が生き方を変えるきっかけとなったほどの印象を自分に与えた敵の王子も、自分を他人と見間違え、自分でないことに気がつかなかったのだ。
自分などいったい、どこかにいたのだろうか?
暗黒の中に落ちていくような恐怖が、パトロクロスを葬った夜、アキレスを襲ったのだ。そんな自分を必死で取り戻そうとして、まだ未知の新しい生き方ではなく、慣れ親しんだ戦いの方に彼は走った。これが本当の自分だ、ここにいるこの自分がたしかに本物の自分だと、人にも自らにも証明したいと必死になって。

(11)稀薄な存在

パリスにしろヘクトルにしろ、トロイ方の二人には、圧倒的と言っていいほど豊かな生活と現実がある。彼らはむしろ、そのようなきらびやかな生活と現実のしがらみにからみつかれて生きている。そういう点では彼らは決して「自分は何者か?」という不安におののくことはなかったろう。息子、父、夫、指揮官、町の守護者、王子、兄、などという、名刺でもあったら一枚ではたりないほどの肩書きをかわいそうなほどに背負わされているヘクトルはもちろん、パリスだって、あの幸せなうちくつろいだ表情は、弟で息子でいつも誰かの恋人で、という手応えを常に感じて生きていられる人間の顔だ。
アキレスとパトロクロスには、そういう安定がない。パトロクロスの家族や過去は描かれず、アキレスの母は女神で部下はこの映画では傭兵風である。パトロクロスに愛し合う女性の影はなく、冒頭でアキレスと床をともにする女性は複数だ。あいまいな、不安定な、何も保障されない要素が徹底的にこの二人には加えられ、その分、彼らのイメージは抽象的で透明である。俗っぽいほど地に足が着いて生活の匂いがするトロイの兄弟に比べて、アキレスとパトロクロスは、いつも学生生活のように浮遊している。

もちろん、これは意図的に設定されている。監督はここでもトロイの兄弟とアキレスたちを対照させる。そして、こういう現実感の稀薄な存在の二人は、「自分とは何か」「私は何者か」「私は存在しているのか」といった、不安や苦悩をいつもどこかに抱えるのだ。それはとても哲学的な問題だけれど、決して非現実的なものではない。酒鬼薔薇星斗をはじめとした少年犯罪の加害者たちにしても、バーチャルな世界に没頭する現代の若者たちにしても、「現実とは」「自分とは」という実感がともすれば稀薄になり、どうしてもそれをしっかりつかめないという苦しみやもどかしさは、しばしば血を吹くほどに激しい。

私は再三、この映画のアキレスにブラッド・ピットが適役と言ったが、それはこのようなどこか非現実的な空虚さが、「ファイト・クラブ」にしろ「ジョー・ブラックをよろしく」にしろ、この俳優には隠し味のようにいつもどこかにあって、それがマイナスになる時もあるだろうが、ある種の異様さや透明感を生むには効果的だからである。
ヘクトルとの出会いの場面で、「千年後の名声」をうっとり語るアキレスに、豊かな現実に支えられ、それを守ってみちたりているヘクトルは唖然とする。だが、そのような、「目に見えない遠く」に思いをはせ、そういうものでしか自分の生きている実感をつかむことのできないのが、この英雄アキレスの偉大さであり哀れさなのだ。そして、それはどんな時代でも人々が、特に若者が痛切に感じる不安や空虚さなのだ。

この映画のヘクトルとパリスは完璧なまでに魅力的で、しばしばアキレスとパトロクロスを霞ませる。だが、もし、このトロイの兄弟のきらびやかさや暖かさ、親しみやすさやわかりやすさだけしか、この映画になかったら、スケールも小さく退屈でさえあったかもしれない。一見、単調で味気なく見えながら、この従弟たちの放つ鋭い硬質な輝きと透明感は、映画を哲学的にし、雄大に詩的にしている。時に無神経にも残酷にも見える二人の行動は、この映画にある冷たさを与え、深さを与えている。
人が、それまでの自分を捨てて新しい生き方を選ぶ時の、混乱と孤独と不安と危険。それは、この映画が描こうとした重要なひとつであり、それが、この二人によって表現されている。

(12)悲しい場面

「誰も自分を知っている人、理解していた人はなかった」という事実をかみしめざるを得なかった、アキレスの孤独もすさまじいが、それはまた、そのような絶望に彼を追いやってしまったという、オデュセウス、エウドロス、ヘクトルたちの苦悩でもある。自らが愛するすべてを捨てて戦いに赴くことで、それをつぐなおうとしたヘクトルの姿も悲しいが、それにも増して、と言いたいぐらい私がこの映画を見るたびに悲しいのは、パトロクロスの死んだ朝、陣地に戻ってアキレスのテントの前で彼を呼び、すこやかに幸せそうな彼が出てくるのを見た時のエウドロスの心境である。
アキレスは愛する王女と一夜をすごし、新しい生き方へ着実な一歩を踏み出している。それはアガメムノンの野望を砕き、トロイとギリシャに平和をもたらす未来への一歩でもある。アキレスは勝利と自らの力を確認して、自信にみちている。その充実感と満足感をブラッド・ピットはあの一瞬の表情と立ち姿で完璧に表現する。
死んだのは、過去の彼である。その彼になろうとした不幸な別の若者である。本当のアキレスは、ここに、こうして、こんなにも元気に生きて、皆を幸福にしようとしている。それがわかった歓びと幸福が押し寄せるとともに、もはやもう、それはすぐに失われることを予測し、しかもそうなった原因は自分にもあると知っているエウドロスの気持ちを思うと、この場面はどの場面にも増して、私にはつらくてならない。(2006.2.23.)

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カツジ猫